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1907-1973 大正-昭和時代の型紙彫刻師。
明治40年2月15日生まれ。父と兄に伊勢型紙錐彫(きりぼり)の技術をまなぶ。昭和14年独立。鮫(さめ)小紋,通し小紋など,細密な紋様を得意とした。17年小宮康助のすすめで,さらに細密な極(ごく)鮫小紋を研究した。30年人間国宝。昭和48年4月26日死去。66歳。三重県出身。本名は紀久男。
中村勇二郎
没年月日:1985/10/20
分野:工芸, 工芸家 (工,染型)
伊勢型紙彫刻師の人間国宝中村勇二郎は、10月20日午後0時10分老衰のため、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年83。明治35(1902)年9月20日三重県に生まれる。父兼松は、型紙業を営む中村家の3代目、小学校6年頃より父の手伝いを始め、高等科卒業後、大正4年頃から他の弟子とともに父に伊勢型紙の道具彫り技術を本格的に学ぶ。伊勢型紙の起源は明確でないが、中世末には既に国内の紺屋でかなりの型紙が使用され、江戸期には型売株仲間が紀州藩の庇護を受けて隆盛した。維新後、暫時不振の状態が続いたが、紙業組合や工業徒弟学校の創立、糸入れにかわる紗張り法などの技法が創案され、再び活況を呈するようになる。型紙の文様には小紋と中形があり、また彫りの技法には突彫、錐彫、道具彫、縞彫などがある、道具彫は刃物自体の形がひとつの小さな文様単位となっているもので、小紋用に最も用いられる彫法である。昭和27年伊勢型紙は、文化財保護委員会より「江戸小紋伊勢型紙」技術保存の指定を受け、30年中村勇二郎は他の5名とともに、重要無形文化財伊勢型紙技術保持者として認定された。この間、同28年伊勢型紙彫刻組合組合長となっている。38年伊勢型紙伝承者養成事業の道具彫り講師となり、39年より60年まで人間国宝新作展に出品した。58年三重県の県民功労者として表彰を受け、59年大阪市北浜の三越アートギャラリーで個展を開催。精緻で優美な型紙を制作し、主な作品に「古代菊の図」(55年、)「瑞雲祥鶴の図」「四君子の図」「壮龍の図」などがある。
萬古焼(ばんこやき、万古焼)は、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。
三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われている。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。四日市市指定無形文化財。
桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(1830年〜1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った。
明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている。2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用された。
市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。
伊賀焼(いがやき)は三重県伊賀市(旧阿山町)にて焼かれている陶器。中世から始まったといわれる日本有数の古陶である。
始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じ古琵琶湖層由来だったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。だが桃山時代の天正年間後期に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた(筒井伊賀)。これらにはビードロ釉(ゆう)と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、質朴でありながら風流な焼き物となったのである。その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。その後は藤堂高次による「藤堂伊賀」も発生したが、これはすぐに衰退している。その後興廃を繰り返すが、江戸中期には京都や瀬戸の陶工を招き、施釉陶の技術がもたらされた。これらの時期を「再興伊賀」と呼ぶ。そして「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、土鍋や行平、土瓶などの日用食器が中心となっている。1982年11月には国から伝統的工芸品の指定を受けている。
阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。
阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。
御浜焼
上に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!
多度の弾き猿
多度の弾き猿
多度の弾き猿(たどのはじきざる)は、三重県桑名市多度町の郷土玩具で、三重県指定伝統工芸品。
概要
明治時代中頃から、多度大社門前町の土産物として売られている。「はじきざる」の名称が「(災難を)弾き去る」という言葉と語呂が合うことから縁起物として親しまれている。
くくり猿部分の拡大画像
竹製の棒に、紅布で覆われた「くくり猿」と竹製のバネが通してあり、棒の先端には紙張りの小型の太鼓が取り付けられている。バネをはじいて猿を昇り降りさせて遊ぶ。猿が先端まで昇りきれば、太鼓と衝突して音が鳴る。太鼓を、多度大社で行われる流鏑馬の矢の的になぞらえて、中央に黒丸が墨書きされている。
2011年現在、門前町の宮川屋で製作販売されている。また、宮川屋は、小規模の「博物館」(まちかど博物館)である「はじき猿博物館」として一部、公開されており、様々な弾き猿が展示されている。
和太鼓(わだいこ)は、打楽器のひとつ。日本の太鼓の総称。大きく分けて長胴太鼓(宮太鼓)、桶胴太鼓、附締太鼓の3種類がある。祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に用いられ、木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出すものである。桴(ばち)で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ)と呼ばれる。
特徴
和太鼓は、一般的に残響が非常に良く響き、余韻が残る音を特徴とする。和太鼓の構造は、胴の中間が膨らんだ円筒形で、両面もしくは片面に皮が張られている。ドラムなどの他の打楽器と比べて強度は高い。
歴史
和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器も出土している。
中世に入ると、田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛した。戦国時代になると、戦国大名達が自軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓が興る。人間の心臓の鼓動に太鼓の鼓動が「シンクロ」することによって自らを鼓舞する性質があるという説もあり、戦における太鼓の使用はこの説に従えば有効な活用法であったと言える。近年までは、時刻を知らせる為にも太鼓が使用されていた。
今日では、盆踊りの主役として演奏されたり、神と意思を伝達する手段、呪具として神社や寺院に置かれるなどしている。太鼓という場合広狭二つの理解がある。何らかの仕方で張った皮を打って音を出すという広義の理解ではアジアの先住民に認められる団扇太鼓(例:日蓮宗の打つ太鼓)から能楽に使用する鼓類までを含んでしまう。しかし通常和太鼓と呼ばれる場合は、筒あるいは椀型のものに皮を張った狭義の理解をする。どちらも楽器としては膜鳴楽器と分類される。以下では狭義の太鼓としての和太鼓に限定して述べる。
芸能、音楽としての太鼓
文化交流の一環として、外国軍の前で和太鼓の演奏を披露する陸上自衛官
舞楽「抜頭」の演奏。左奥に楽太鼓が見られる
雅楽
雅楽では管弦に用いる楽太鼓と、舞楽で用いる大太鼓(だだいこ)とがある。舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。外側を朱色の火炎が取り巻いていることから、火焔太鼓とも呼ばれる。
宗教音楽
神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。
このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。
歌舞伎
江戸時代、歌舞伎が隆盛すると、下座音楽に使われ、効果音として取り入れられた。下座音楽における太鼓の使用方法は、打ち方によって表現する情景が高度に体系化されている。例えば細めの桴で細かく叩くと雨の音、布を巻いた桴で弱く柔らかい音を低く響かせると雪の音、それらの合間に別の桴を水平に宛て、鼓面の震えを拾ってビリビリという音をたてると雷や雪崩の音を表現するといった具合である。また幽霊の出現など、本来ありえない音響を抽象的に表現する場合にも用いられる。
組太鼓
戦後になってから、長野県の御諏訪太鼓がジャズドラムを参考にして、大小の太鼓をドラムセットのように組み合わせた「組太鼓」形式を開発した。音程がある楽器を基本的に使わない複式複打法の組太鼓が誕生した。
新しい和太鼓時代の到来(祭り太鼓から舞台演奏へ)
創作和太鼓隆盛の時代へ
詳細は「創作和太鼓」を参照
舞台興行太鼓の誕生
1950年(昭和25年)、日本で初めて舞台興行を目的とした「福井豊年太鼓みどり会」(福井県福井市勝見地区)が生まれた。和太鼓のみならず、芸能的要素を多分に兼ね備え、2009年7月現在、発足時のメンバーが福井市内に2名(斉藤茂雄、岡口一二)健在で、今も現役の太鼓奏者である。(関連人物:高山正行)
プロ和太鼓集団の誕生
諸説あるが、活動期間が9ヶ月間という短期間で解散してしまった「王将太鼓」が日本初と言われている。「王将太鼓」は、1966年(昭和41年)2月22日、大阪市浪速区の新世界で、日本初のプロ和太鼓集団として誕生した。和太鼓界で初めて大手芸能プロダクションが運営に携わった。しかし、同年11月に解散、9ヶ月間の活動という幻の太鼓チームで終わった。
1971年に「鬼太鼓座」(おんでこざ)が発足した。長距離走をトレーニングに取り入れることを特色としたこの団体は、ボストンマラソンを完走してそのまま舞台に上がり演奏するというデビューを飾り、注目を集めた。折からの日本の現代音楽における邦楽器ブーム(1960年代後半〜1970年代前半)もあり、鬼太鼓座のために書かれた石井眞木作曲の『モノクローム』『モノプリズム』を始め現代音楽と積極的に関わる。しかし座長の田耕と団員との分裂により、鬼太鼓座と袂を分けた新団体「鼓童」が1981年に発足した。両団体は2015年現在も並立して現存している。
太鼓の種類
両面を打つタイプと片面を打つタイプがある。前者は宮太鼓、桶胴太鼓などで、音量が大きく低音がよく響くのが特徴である。和太鼓としてはこの種類が大多数をしめる。後者は、団扇太鼓等が該当し、日蓮宗等で用いることがある。高音、響きは少ない。
胴材
締太鼓の胴
ケヤキが主であったが国産は近年不足しているためシオジ・センが主流、また海外からはカリン・ナラなどの堅い木材をくり抜いたふくらみのある円筒形の胴、もしくは板を寄せて円筒を作り桶のようにしたものを用いる。
皮面
牛の皮(メスは絹、オスまたはホルスタインは木綿に例える)を鋲や紐、ターンバックルや金具等で張りとめてつくられ、桴(ばち)と呼ばれる木の棒で皮を叩いて演奏される。皮には基本的に数回の出産を経た雌牛が最良とされるが、大きなものでは、雄牛の皮が利用されることもある。
太鼓の例
長胴太鼓(宮太鼓)
胴は一本の木をくりぬいたものが利用される。皮は胴に鋲を用いて留められている(鋲打太鼓)ことが多い。社寺、公共施設等によくあり、多くの太鼓の団体がこれを演奏する。一般的によく目にするものである。江戸を中心とした関東では、より小型なお囃子太鼓が多く用いられた[3]。
桶胴太鼓
縦に割られた板を寄せて円形にして胴をつくったもの。低音、音響も大。檜やサワラなどで胴が作られ、比較的軽いのが特徴である。紐締めのものが主流である(ページ上部の写真の奥の鼓面が見えている太鼓の右側がこれにあたる)。
附締太鼓
紐やボルトナット、ターンバックルで皮と胴を接着させ、張っているもの。締め付け具合によって音質の調節が可能である。歌舞伎、民謡、三味線等に用いられたり、リズムを取るために利用されることが多い。
団扇太鼓
円形の枠に1枚の膜を張った太鼓である。法華宗・日蓮宗で唱題するときに用いる。
平釣太鼓
主に演芸場などで下座の鳴り物として用いられてきた、全長の短い扁平な太鼓。木枠に吊って打つのが普通だが、床に置いて打つ場合もあり「座鼓」とも呼ばれる。もともとは皮面の直径が35から75センチメートル程度の大きさだったが、近年は大型に作られる傾向がある。
大太鼓(長胴太鼓)
桶胴太鼓
締太鼓
桴
締太鼓の桴(右)と長胴太鼓の桴
下座音楽では撥と表記する。桴の材質は、硬い桴には樫や欅が使われ、柔らかい桴には檜、杉、樅が使われる。太鼓踊りのような民俗芸能では、竹や柳の長桴を使うこともある。一般に締太鼓には直径2.5-3センチメートルの桴が使われる。強打することの多い太鼓には、より太い桴を使うことが理想的とされる。 ラワン、松、白樺等、脆いもの、ささくれるもの、脂がでて皮を痛めるものは、桴には適さない。
桴は単に太鼓の皮を叩くための太鼓の付属品ではなく、太鼓の縁や桴同士を叩き合わせて音を出す、一種の打楽器である。
演奏形態
置き方による分類
据置形(すえおきがた)
地上に据え置いたまま演奏する形。単式複打法についていえば、主に北陸地方に分布。
抱持形(かかえもちがた)
体に背負ったり、手で持って演奏する形。
舁山形(かつぎやまがた)
山・御輿として担ぐ形。単式複打法についていえば、瀬戸内海沿岸地方に主に分布。
曳山形(ひきやまがた)
山車のように曳行する形。単式複打法についていえば東北地方の日本海側に主に分布。
舁山形や曳山形には太鼓台などがある。
阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。
歴史[編集]
阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。
阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。
歴史[編集]
阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。
竹細工(たけざいく)は、竹を加工したり、竹ひごを編み込んで細工物を作ったりすること。または、日用品・農具・漁労具などの荒物、茶道具などの工芸品、竹とんぼや水鉄砲といった玩具の中で、竹を素材とした細工物のことを指す。
編組
竹ひごの編み込み方・編組(籠目)の種類には、基本となる六つ目編み、四つ目編み、ござ目編み、網代編み、さらには、異なる太さのひごを駆使した波網代や、麻の葉編み、松葉編み、やたら編みといった装飾的な特徴を高めたものなど、用途に応じて様々なパターンがある。
素材
素材となる竹にはマダケが最も多く利用されており、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が流通する。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工する事でその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である。
マダケについでモウソウチクも多く用いられる。モウソウチクは、もっぱら青竹のままで利用される。
別府竹細工や日田の竹箸などの竹工芸の盛んな大分県は、マダケの面積、生産量とも全国一のシェアを占めるとともに、竹材業者も多いため、加工された素材も入手が容易である。
伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている竹工品には以下のものがある[1]。
江戸和竿(東京都)
駿河竹千筋細工(静岡県)
大阪金剛簾(大阪府)
高山茶筌(奈良県)
勝山竹細工(岡山県)
別府竹細工(大分県)
都城大弓(宮崎県)
伊勢春慶(いせしゅんけい)は、三重県伊勢市で製造される春慶塗の漆器。現在では茶箱膳、弁当箱、切溜文箱、筆箱などが生産されている。2011年(平成23年)5月現在、伊勢春慶の塗師(ぬし)は2人である。
沿革
起源は室町時代に遡り、伊勢神宮の工匠が御造営の御残材の払い下げを受け、内職として始めたと伝えられている(『宇治山田市史』(昭和4年発行)より)。明治時代、伊勢春慶は内国勧業博覧会など日本国内外の博覧会に数多く出品され、入賞するなど知名度を上げたが、昭和時代に戦争の影響を受け、職人の徴兵や材料確保の困難などにより次第に衰え、一度断絶する。戦後復活したものの、高度経済成長期以降の生活様式の変化やプラスチック製品の登場などで衰退し、再び生産は中断に追い込まれた。
2004年(平成16年)に伊勢春慶の会が発足し、生産が再開される。復活にあたり、伊勢文化舎が雑誌『伊勢人』で取り上げるなどして貢献した。2011年(平成23年)5月現在、若者を中心とした12人が伊勢春慶の技術習得を目指して本業の傍ら修業を積んでいる。同年6月からは修業に専念できる定年退職者を対象とした体験会を実施し、塗師の早期育成を進めている。
2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、伊勢春慶の二重弁当箱が首脳陣の食事の器として使用された。
特徴
木地は檜を使用する。
木地固めの際、四隅に組子を施す。
箱物の底の隅には“こくそ”と呼ばれる 黒い目留めを施す。
食紅や弁柄などで赤く着色する。
下塗りに柿渋を多く用いる。
春慶漆または朱合漆を施して仕上げる。
伊勢和紙(いせわし)とは、三重県伊勢市で漉かれた和紙のこと。
神宮御用紙を製造し、伊勢神宮の神宮大麻用途をはじめとし、多くの寺社に和紙を提供している。1994年、三重県指定伝統工芸品に認定(伊勢紙として)。
概要
江戸時代まで伊勢市周辺では、家内工業としてわずかに紙漉きが行われている程度であったが、次第に伊勢信仰の神札や伊勢暦用として盛んに使用されるようになった。現在でもこうした伝統を重んじた清浄な和紙は、伊勢神宮をはじめとした各神社の御用紙等に用いられている。また、全国の神社で頒布されている神宮大麻は、すべてこの伊勢和紙を用いたものである。
今日では、神宮御用紙の製造は言うまでもなく、インクジェットプリンターに対応した和紙を開発・製造するなど、伝統文化を重んじながらも、近代的な文化との融和を図る新しいスタイルの取り組みが積極的になされている。
導火線(どうかせん)とは、黒色火薬を芯薬とし、紙などでひも状に被覆した線のこと。雷管などにつなげ、端に火をつけると、一定の速度で燃え進み、一定時間後に他の端から火を吹き、雷管に点火する。
芯薬にペンスリットなど爆薬を用いたものは導爆線といい、導火線とは違い、爆轟を伝達するために用いられる。
導火線(どうかせん)とは、黒色火薬を芯薬とし、紙などでひも状に被覆した線のこと。雷管などにつなげ、端に火をつけると、一定の速度で燃え進み、一定時間後に他の端から火を吹き、雷管に点火する。
芯薬にペンスリットなど爆薬を用いたものは導爆線といい、導火線とは違い、爆轟を伝達するために用いられる。
概要
黒色で硬質の粘板岩で、新第三紀中新世の熊野層群から採取される。
江戸時代には、七里御浜で採取された那智黒石が庭園用の玉石として用いられており、貞享3年(1686年)刊の井原西鶴の『好色一代女』巻五には「盆山に、那智石を蒔きて」との文が見られる。「那智黒」という呼称の初出は、天保10年(1839年)に完成した『紀伊続風土記』とされる。
用途
碁石の黒石、硯、床置石、装飾品、那智黒成型品などに加工される。
平安時代にはすでに硯の材料として使用されていたとされる。一方、黒碁石として広く用いられるようになったのは明治20年頃以降と考えられている。
那智黒成型品とは、那智黒石を粉末状にして、樹脂を混ぜ合わせ、型に流し込んで成型したものをいう。一般に、「那智黒手磨き工芸品」又は「ニュー那智黒(登録商標)」と呼ばれる。
黒色で緻密であり、金属の条痕色が判別しやすいため試金石として用いられる。
産出地
那智黒石は、名称に「那智」を含んでおり、また、主に和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の熊野那智大社周辺で販売されているが、産出地は那智勝浦町ではなく、三重県熊野市神川町周辺である。
このような名称のために産出地が混同されることが多く、熊野市による1997年頃の調査では184の辞書・辞典類のうち38に那智地方産などとする誤記があった。そこで熊野市が訂正を申し入れたところ、大半の出版社が誤りを認め、次の機会に訂正する旨を回答する等していた。
しかし、岩波書店の『広辞苑』については、1955年の初版から産出地が「和歌山県那智地方」と誤って記載されており、熊野市からの申し入れ後の第五版・第六版でもそのままになっていた、と2013年に広く報道された。これに対して、岩波書店は、1997年頃に熊野市から指摘を受けて検討した結果、『紀伊続風土記』等の江戸時代の史料に那智地方で産出する旨の記述があることから、1998年刊行の『広辞苑 第五版』で解説文を「那智地方に産した」という過去形に変更しており、現在の採石地が那智地方であるとは説明していないと主張するとともに、これらの報道は「事実経過を歪曲し、また『広辞苑』の記述を誤りと決めつけた不当な内容となってい」るとウェブサイト上で反論している。
桑名盆(かぶら盆)
桑名鋳物
桑名箪笥
桑名刃物
桑名萬古焼
多度の弾き猿
和太鼓
地張り提灯
日永うちわ
四日市の提灯
関の桶
高田仏壇
阿漕焼
伊勢木綿
深野紙
松阪の猿はじき
松阪萬古焼
松阪木綿
なすび団扇
竹細工
浅沓
伊勢一刀彫
伊勢春慶
伊勢の神殿
伊勢の提灯
伊勢玩具
伊勢の根付
伊勢紙
火縄
尾鷲わっぱ
那智黒石
市木木綿
熊野花火
伊勢神宮宝物(式年遷宮毎に製作)太刀など17種類
四日市萬古焼
四日市萬古焼伝
四日市萬古焼(よっかいちばんこやき)の紹介
18世紀の中頃、桑名の陶工によって始められました。初期には赤絵の陶器を焼いていましたが、一時中断され、その後薄手で茶褐色の陶器が作られるようになりました。現在では特に急須が有名です。花器や食器なども作られています。
主な製品名
茶器、花器、酒器、茶道具、室内置物
主な製造地
四日市市、三重郡菰野町、朝日町、川越町、 他
鈴鹿墨(すずかすみ)の紹介
延暦年間(782~805年)、鈴鹿の山々で産した松脂(松やに)を燃やして煤をとり、墨を作ったと伝えられています。現在も植物性油煙を原材料に、昔ながらの製法で作られています。墨のよい匂いは、ジャコウなどの香料によるものです。
主な製品名
和墨
主な製造地
鈴鹿市
伊賀くみひもの紹介
起源は奈良時代以前にさかのぼるといわれています。江戸時代には、伊賀はすでに有名な組紐の産地となっていました。組紐とは生糸、絹糸を主に、金銀糸を組糸に使い、伝統的な組台を使って繊細な美しさをもつ紐に編み上げられたものです。
主な製品名
帯締め、羽織ひも等
主な製造地
伊賀市、名張市
伊賀焼(いがやき)の紹介
約1200年前の天平年間、良質の陶土に恵まれた丸柱の農民が窯場をつくり、日用雑器を焼き始めたのが発祥といわれています。明治時代以降は耐火、耐熱度の高い特質を生かした土鍋などを量産するようになりました。
主な製品名
茶器、花器、食器
主な製造地
伊賀市、他
伊勢形紙(いせかたがみ)の紹介
伊勢形紙は、着物の柄や紋様の染色に用いる型紙で、起源は平安初期にさかのぼるといわれ、その精巧で緻密な技は、江戸時代に紀州藩の保護を受け、飛躍的に広まりました。和紙を柿渋によって貼り合わせ、彫刻刀で細かい紋様を切り抜いたものです。
主な製品名
染用型紙、工芸型紙
主な製造地
鈴鹿市