龍三は、昭和3年(1928)12月14日、石川県加賀市熊坂町に生まれた。三男であるから龍三であり、これは本名である。石川県立大聖寺中学校(現石川県立大聖寺高等学校)を卒業後、昭和21年(1946)、加賀市内最高の水準を誇る九谷焼窯元北出塔次郎(青泉窯)が主催する「工芸美術石川塾陶芸科」へ入門する。実直な性格と類稀なる才能はすぐに開花し、昭和23年(1948)、同塾卒業後は、昭和42年(1967)に独立するまでの約19年間、塔次郎の片腕として活躍した。昭和32年(1957)の結婚以後は加賀市山代温泉八区に居を移し、昭和48年(1973)には現在の加賀市勅使町に工房を構えた。
龍三の作風といえば、精緻な小紋つなぎを想像するが、これは人柄を反映するものでもある。各種陶芸展へは、昭和23年(1948)の中部日本工芸美術展をはじめ、東陶会展、関西綜合展、日展、石川県現代美術展、朝日陶芸展、加賀市美術展、日本伝統工芸展、日本陶芸展などへの受賞・入賞を重ね、昭和51年(1976)には日本工芸会正会員に認定された。 龍三の素地は、地元山代温泉の美陶園や、壽楽窯(当九谷焼窯跡展示館の前身)のものが多く、一部には同勅使町の東野製陶所や小松市内で製作されたものもある。
作品の裏銘には、龍三の「龍」を抜き出したいわば「龍」銘が用いられているが、この裏銘によって作品を制作した期間は、独立後病魔に襲われるまでの10年未満であったため、この龍銘を伴った伝世品数は、けして多くはない。大平鉢(尺三寸クラス)では、月に一枚を制作したかしないかというから、生涯制作数(世の中に存在する数)の上限では100枚程度ということになる。このように、大平鉢に限らず龍銘を入れた作品は決して多くはないことから、九谷焼愛好家の間では垂涎の的ともなっている。河上龍三は北出塔次郎の弟子で小紋繋ぎが上手く綺麗な作風の作家です。