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江里 佐代子(えり さよこ、1945年7月19日 – 2007年10月3日)は日本の截金師。2002年に諸工芸の截金の分野で3人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。夫は仏師の江里康慧、子は同じく截金師の左座朋子。
京都市に生まれ、大学で日本画や染色などを学ぶ。江里康慧と結婚を契機に截金師北村起祥のもとで截金の技法を習得する。
本来仏像の荘厳技法であった截金を飾筥(かざりばこ)、棗(なつめ)、香盒(こうごう)、結界(けっかい)、屏風(びょうぶ)、衝立(ついたて)、額装、壁面装飾へと応用しその可能性を広める。また日本伝統工芸展において日本工芸会総裁賞、日本経済新聞社賞や高松宮記念賞、京都工芸美術展では市長賞など受賞を重ね、夫の江里康慧との二人展「仏像と截金」なども開催し、截金の認知度を高めた。また京都造形芸術大学と龍谷大学で客員教授を、東京芸術大学大学院で非常勤講師を務めるなど截金の普及にも力を注いだ。
2002年7月8日に全国最年少で重要無形文化財保持者に認定され、翌年には江里康慧とともに京都府文化功労賞を受賞。建築や寺院の壁面、空間装飾の仕事も多く、京都迎賓館では晩餐室「藤の間」の舞台扉「響流光韻(こおるこういん)」に截金を施すなど多彩な活躍が続いていた。
後継者の育成や更なる作品の製作の道半ば、 ロンドンの大英博物館で開催中の作品展「現代日本のわざの美」で実演と講演をした後、調査のため向かったフランスのアミアンで、脳出血のため62歳で死去した。
近藤 悠三(こんどう ゆうぞう、1902年2月8日 – 1985年2月25日)は日本の陶芸家。1977年に人間国宝に認定。本名は近藤雄三。染付の悠三で知られる。
陶芸家・近藤豊(1932年 – 1983年)は長男、陶芸家・近藤濶(ひろし)は次男、陶芸家・美術家の近藤高弘は孫にあたる。俳優の近藤正臣は親戚。幕末の尊攘運動家の近藤正慎は祖父。
京都市清水寺下出身。父・正平、母・千鶴の三男として生まれる。祖父である正慎は清水寺の寺侍であった。
1914年、京都市立陶磁器試験場付属伝習所轆轤科に入所。1917年に卒業後、同試験場で助手として勤務する。当時、河井寛次郎と濱田庄司が東京高等工業を卒業して技手として陶磁を研究しており、悠三は濱田から窯業科学などを学んだ。
1921年に陶磁器試験場を辞め、イギリスから帰国して大和に窯を構えた富本憲吉の助手として師事。素地や釉薬などの技法だけでなく、制作に対する心構えについても指導を受けている。
1924年京都に戻った後、関西美術院洋画研究所でデッサンや洋画の研究をする傍ら、清水新道石段下に窯を構え制作を始める。この頃は染付の他に、釉裏紅や象嵌等の技法も用いた作品を発表していた。
1926年、24歳で中島光子と結婚。
1928年の第9回帝展で初入選を果たし、以後13回連続で入選する。他、文展などで多くの作品を発表。1950年には第6回日展で審査員を務めた。1955年に日本工芸会に所属。1956年、「山水染付壺」が第3回日本伝統工芸展で日本伝統工芸会賞を受賞。
1956年には岐阜県多治見市にて志野焼の研究をしている。以降は染付の制作に専念した。つけたてとぼかしを基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとして絵画的な表現をなした。さらに1960年以降、呉須染付に併用して赤絵や金彩の技法を用いるようになり、さらに独特の作風を確立した。
日本工芸会常任理事、陶芸部会長を歴任。1953年、京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)陶磁器科助教授、1956年、同大学教授。1965年10月には学長に就任した。
1970年に紫綬褒章、1973年には勲三等瑞宝章、京都市文化功労者章を受章。1977年4月25日、重要無形文化財「染付」の保持者(人間国宝)に認定された。1980年、紺綬褒章受章。
1985年逝去。「自分は、し残したことがあるので、生まれ変わっても、陶芸家として生まれてくる」と生前語っていた。
齋田梅亭(さいた ばいてい 1900年4月6日 – 1981年6月1日)は日本の截金師。1981年に諸工芸の截金の分野で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
京都・西本願寺御用の截金師の家に生まれ、京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業し、百貨店や呉服専門店で意匠の仕事に従事した後、25歳頃より家業である截金を継いだ。
截金を工芸作品として屏風(びょうぶ)、額(がく)、衝立(ついたて)、茶入れや飾箱に応用し、東京・赤坂の迎賓館へ四曲一双屏風「霞文(かすみもん)」を納入するなど工芸分野としての基盤を築いた。特に屏風や額などの平面な作品に截金を施す際、海の中に生息する魚や海草、薄の穂、牡丹・紫陽花・菊・椿の華を写実的に表現したという点において彼の作風が際立っている。
京焼(きょうやき)は日本の陶磁器の一種。粟田口焼、御室焼など京都で作られる作品の総称となっている。一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴。 また、乾山写し・仁清写しなど、他窯のデザインを本歌取りした写しものを得意とする。
京焼の始まり
近年の研究では、慶長年間初頭の1590年代末には京焼の生産が始まっていたと考えられている。この頃の作品については不明な点が多いが、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されていて、技法やデザインが多様なことが特徴である。
この時期以前の京都は、三条粟田口界隈に陶磁器の窯元が集中し、粟田焼が生産されていた。ただし、天正年間以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していた。緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられている。
色絵陶器の成立
17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになった。具体的には、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られている。また、この頃に黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。
京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永年間には粟田口で生産を行なっていた。ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られた。同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには存在が確認されている。これに続いて御室焼、御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、修学院焼なども作られた。
このような中、慶安3年(1650年)5月25日に金森重近(宗和)が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。
18世紀以降
野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず製陶から手を引いた。しかし仁清から直接技法を学んだ尾形乾山は優れた作品を多く残した。また、永樂了全より後の永樂家は保全、和全など優れた陶工を輩出し、千家に作品を納めて今日に至る。
技術的にも重要な存在としては奥田頴川が挙げられる。頴川は京焼として初めて磁器を製作し、この後を受けて青木木米や仁阿弥道八らも磁器の作品を多く残した。
明治維新後は体制や文化の変化に伴って茶陶の需要が激減し、廃業した者も多い。また、陶工の一部は日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えた。
清水焼(きよみずやき)は京都府で焼かれる陶磁器。清水寺への参道である五条坂界隈(大和大路以東の五条通沿い)に清水六兵衛・高橋道八を初めとする多くの窯元があったのが由来とされる。京都を代表する焼物である。
五条通の大和大路通から東大路通(東山通)に至る区間の北側に所在する若宮八幡宮社の境内には「清水焼発祥の地」との石碑が建っており、毎年8月8日から10日の「陶器祭」では清水焼で装飾された神輿が出る。
伝統的工芸品産業の振興に関する法律にもとづいて指定された「経済産業大臣指定伝統的工芸品」および、京都府伝統と文化のものづくり産業振興条例にもとづいて認証された「京都府知事指定伝統的工芸品」(京もの指定工芸品)における名称は、「京焼・清水焼」となっている。
楽焼(らくやき)は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤(けろくろ)を使用せず手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、750℃ – 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。また、楽茶碗などとも呼ばれる。 狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。
千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みのある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される
天正年間(16世紀後半)、瓦職人だった長次郎が千利休の指導により、聚楽第を建造する際に土中から掘り出された土(聚楽土)を使って焼いた「聚楽焼」(じゅらくやき)が始まりとされる。
二代目・常慶の父、田中宗慶(一説に利休の子という)が豊臣秀吉より聚楽第からとった樂の印章を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となった、との説が広く知られる。
楽家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯という。
黒楽
初期の製法としては、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから1000℃程度で焼成する。焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。これは美濃焼と共通する手法である。
天正9年(1581年) – 同14年(1586年)頃に長次郎によって黒楽茶碗が焼かれたのが始まりである。
赤楽
赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800℃程度で焼成する。樂家と関わりの深い本阿弥光悦や、樂道入の作品などが有名である。利休のエピソードに秀吉は黒楽を嫌い赤楽を好んだとある(『神屋宗湛日記』)。
朝日焼(あさひやき)は京都府宇治市で焼かれる陶器。宇治茶の栽培が盛んになるにつれ、茶の湯向けの陶器が焼かれるようになった。江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられている。
朝日焼という名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説がある。
歴史
宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていた。室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されている。
今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものである。しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになる。後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなった。同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出している。
三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようになった。それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていった。
朝日焼の特徴
朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。そして、それぞれの特徴によって呼び名が決まっている。
燔師(はんし)
分かりやすく解釈すると、師匠が焼いた物という意味である。赤い粗めの斑点がぽつぽつと表面に浮き出たような器をいう。
鹿背(かせ)
燔師とは対照的に、肌理細かな斑点が見られる器をいう。鹿の背中のような模様から名付けられた。
紅鹿背(べにかせ)
鹿背の中でも、特に鉄分が多く、よりくっきりと紅色が見えるものを指す。
上のような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却をお考えの時はご連絡ください!!
あけし
明石
あつえ
温江
いくじ
幾地
いしかわ
石川
いわたき
岩滝
いわや
岩屋
うしろの
後野
おとこやま
男山
か
かご
香河
かなや
金屋
かみやまだ
上山田
かや
加悦
かやおく
加悦奥
さ
さんじょ
算所
しもやまだ
下山田
た
たき
滝
ま
みごち
三河内
や
ゆみき
弓木
よざ
与謝
よつつじ
四辻
西陣織 [京都府の伝統的工芸品等]
西陣織は京都がはぐくんできた高級絹織物で、多品種少量生産方式を基盤とした、先染の紋織物です。織り上がるまでには、企画・図案から意匠紋紙、糸染、整経(セイケイ)、綜絖(ソウコウ)、金銀糸、絣加工等多くの工程があり、これらの一つひとつの工程で熟練した技術者が丹念に作業をしていきます。一口に西陣織と言っても、手の爪をノコギリの歯のようにギザギザに削って図柄を見ながら織り上げる爪掻本綴織(ツメカキホンツヅレオリ)をはじめ、経錦(タテニシキ)、緯錦(ヨコニシキ)、緞子(ドンス)、朱珍(シュチン)、紹巴(ショウハ)、風通(フウツウ)、もじり織、本しぼ織、ビロード、絣織、紬などがあり、国に指定されているだけでも12種類の品種があります。織機には、綴機、手機、力織機の3種類があります。
京都はもともと、平安時代以前にもたらされた帰化人の豪族、秦氏の織技術によって、平安時代から絹織物業が盛んであり、宮廷文化を中心に発展してきました。京都で応仁の乱(1467年~1477年)が起こり、西軍の大将、山名宗全が西に陣をはったことが、今の西陣の地名と西陣織の名称の由来となりました。明治時代に、京都府からの派遣により佐倉常七ら3名が欧州に留学し、フランスからジャカードなどの洋式技術を取り入れ、大幅な技術改良を重ねた西陣は、日本の絹織物業の近代化の魁として新しい発展を遂げることとなりました。日本の近代化とともに歩みを進めた西陣織は、能衣装、打掛、几帳、帯、きもの、金襴など伝統的で高級精緻、絢爛豪華な手織技術と意匠を極めた製品に結晶するとともに、ネクタイ、インテリア、緞帳、ショール、バッグなど新しい分野にも幅広い製品を生み出しています
京鹿の子絞 [京都府の伝統的工芸品等]
絞り染めの技術は、世界各地でみられ、その発祥は、インドとされています。7世紀頃には、絞り染めの技術が日本に伝わっており、日本書紀の記載が絞り染めの最古の記録です。万葉集にも絞り染めの衣装を詠んだ歌があります。10世紀には宮廷衣装にも用いられました。室町・桃山期から江戸前期にかけて一世を風靡した「辻が花染」は絞り染めを駆使した作品の代表的なものです。さらに江戸時代には、「かのこ」「鹿の子絞」「京鹿の子」として広がり、総絞り、刺繍入りの絞り、友禅加工した絞友禅などが生産され、17世紀末の元禄期には、全盛を迎えました。その後も括りという染まらない部分で模様を表す独特の技術は、着実に受け継がれています。
鹿の子と言われる疋田(ひった)絞りや一目(ひとめ)絞りなどその括り粒の精緻さと、あざやかな多色を出すための染め分け技法から生まれる立体感のある美しさとともに、このほかのそれぞれの括り技法の組み合わせで模様が表現されています。手仕事ならではの潤いと暖かさが京鹿の子絞りの特徴です。
その工程は、布地に図案(下絵)を描き入れ、1人1種類の括り技法を持つ技術者が、一粒ずつしけ糸(生糸)で括って、絞っていきますが、その作業はすべて手で行います。絞り染めは、糸をもって布地を強く括ることによって、染色されない部分をつくり出す、また強く括ることによって布地の絞り独特の「粒」や「しわ」をつくり立体感がつくられるもので、染色方法は浸染によります。絞り染めは、最初につくられたデザインが絞り括りをはじめとする防染技術の積み重ねによって、正確に表現されることが生命です。
京友禅・京小紋 [京都府の伝統的工芸品等]
京友禅は、多彩で絵画調の模様をきものにあらわす染めの技術です。この技術は、江戸時代までに編み出されていた染色法をもとにしたもので、元禄年間、京都・祇園あたりに住む扇絵師、宮崎友禅斎が美しく華麗な絵を描くことを加え、手描友禅として確立したと伝えられています。友禅という名称は、この友禅斎から名付けられたということです。
明治には、あざやかで色数の多い化学染料が輸入され、手描友禅の名匠であった広瀬治助によって「写し友禅」として型友禅が発明されました。手描友禅に対して、模様を切り抜いた型紙を使って大量に染めることができる型友禅の出現により、友禅が多くの人に広がっていきました。
京小紋は、武士の裃に端を発し、17世紀頃までにほぼ完成された染めの技法です。江戸時代に、小紋を染めた麻裃が武士の正装となったため、やがて町人文化の自由で粋な感覚を受け、庶民の間にもしゃれた衣装として流行しました。最初、単色が主体でしたが、その後、彩色へと変化し、友禅と影響しあいながら、京都では、京小紋として独自に発展してきました。京小紋の起源としては、基本となる型紙が作られた1200年前と伝えられています。
京小紋には、はんなりとした雅やかな雰囲気があります。色使いや柄ゆきにも優しさや気品に溢れているのがその特徴ですが、最近ではモダンな図案も出てきています。
京繍 [京都府の伝統的工芸品等]
日本での刺繍の歴史は、飛鳥時代からと推定され、この時代の特徴は、仏画を刺繍で表現した掛け物である繍仏です。これが平安建都に伴い、繍技の職人をかかえる縫部司が京都に置かれ、衣服の装飾に用いられ始めたのが、京繍の起こりです。以降、京繍は、十二単(平安時代)、武将の胴服(鎌倉時代)、能衣装(室町時代)と用いられ、華麗な文化が咲き誇った安土・桃山時代には小袖に多用され、さらに発達しました。この動きは江戸時代まで続きます。明治時代以降は、ふくさ、壁掛け、「刺繍絵画」などの作品が現われ、新しい需要が開拓されました。今では、和装品から祭礼品、額に至るまで幅広い製品をつくり出しています。
刺繍とは、一本の針と多色の糸を使って布地などに模様を縫い表す装飾技法で、染、織とともに日本の染織史上重要な位置を占めています。染めたきものや織物に刺繍が加わって、一層華やかさが増すのです。絹織物、麻織物に絹糸、金銀糸を用いて、磨き抜かれた意匠と高度な技術によって製作される京繍は、全体の構図、繍糸の配色、繍技・繍法、これらが一体となって刺繍独自の表現が可能になり、情趣あふれた作品となります。
京繍の技法は、現在、約30種類があり、伝統的工芸品として指定されているのは、繍切り、駒使い繍、まつい繍など15種類あります。
京くみひも [京都府の伝統的工芸品等]
京くみひもは、平安時代より神具・仏具、武士の鎧兜(よろいかぶと)、刀の下げ緒など装身具や調度品に広く使われてきました。現代では、主に帯締、羽織紐など和装用として用いられるほか、アクセサリーなどの新しいものもあります。
古代の縄文時代には、日常生活に簡単なくみひもが使われ、飛鳥・奈良時代に中国や朝鮮から技術がもたらされ、高度で複雑な工芸くみひもが生まれ、当時の遺品は、法隆寺や正倉院に収蔵されています。平安・鎌倉時代になると、唐風から和風へ移り変わり、意匠は優美なものになり、服飾を飾る平緒や袖括(そでくくり)の緒、冠の緒、巻物、箱類、楽器、調度などにもちいられる様々な紐がつくられ、用途範囲が極めて広くなりました。
室町時代になると、茶道の隆盛により、仕覆(しふく)の緒や掛軸の啄木など、わび・さびの思想から意匠も比較的渋くなり、桃山・江戸時代には、庶民にも広がりました。江戸時代には、組み方も多様になり、羽織紐、組帯などさまざまな技巧をこらすようになり、明治、大正、昭和と帯締、和装小物の世界に類のない美しい製品がつくられてきました。
道具は、丸台、角台、綾竹台、高台などがあり、基本的な組み方だけでも、40種類以上あるといわれ、一本一本の糸が綾をなす芸術品です。
京黒紋付染 [京都府の伝統的工芸品等]
京黒紋付染は、婚礼のときに着る黒留袖や、葬儀のときに着る喪服などを黒色に染める伝統技術をいいます。黒染技法には、引染・浸染の2種類があり、黒留袖など模様のある場合は引染で染色し、喪服など無地の場合は浸染で染めます。
黒の技法でもっとも古いと考えられる方法は、墨を生地に付着させる墨染技法で、平安時代ごろから広く行われていた染法とされています。また、大変な労力と手間がかかっていたタンニン質と鉄の媒染による染法は、室町時代から明治時代になり合成染料が一般的に普及するまで黒染の技法として続きました。
明治維新より、国民の礼服が黒紋付羽織袴となってからは、黒紋服は冠婚葬祭の祝儀・不祝儀の儀式用として、また黒地の模様染は婚礼衣装等需要が高まりました。
京仏壇・京仏具 [京都府の伝統的工芸品等]
京都は仏教文化の都でもあり、市内の至る所に大小さまざまな各宗派の寺院が存在しています。こうした多数の寺院と各家庭の需要に応えながら京仏壇・京仏具は発展してきました。
仏具の歴史は、6世紀の仏教伝来とともに始まります。以後、仏教の普及とともに、各宗派それぞれに異なった様式で仏具も分化していき、家の中に一寺院そのまま組み込む形式をとるようになったのが、各家庭における仏壇です。
京都における仏具は、8世紀ごろその製作が始められたと推定され、11世紀初頭に仏師定朝が七条に「仏所」を設け、仏工を集めたのが本格的な仏具の歴史の始まりと考えられます。江戸時代の初めになると、宗門改め制度に伴い、各家庭に仏壇を安置するようになりましたが、これにより各家庭における仏壇の需要が増加し、生産も本格化していきました。
現在に至るまで、京都は仏壇・仏具の一大産地でありましたが、それは単に生産量の面だけではなく、優れた技術及び品質が備わっているということが大きな特徴です。宗派によって仏具の様式もさまざまなことから、大量生産が困難で、また、木工・金工・漆工などあらゆる技術を駆使した総合工芸品であることからも、その生産は、細かい分業にもとづく四十余職種もの専門的な手仕事が中心となっています。これらの条件が重なり、より品質の高いものへと発展していきました。
ところで仏具は、仏教に用いるあらゆるものを意味し、主なものをあげても、仏像、宮殿、厨子、香炉、梵鐘、燭台と何百にも及び、これらの寺院用仏具も、仏壇とともに伝統的な手づくりによって作られています。現在、京都において約70%が寺院用、約30%が家庭用として製作され、また全国の寺院用仏具の多くが京都で作られています。
京漆器 [京都府の伝統的工芸品等]
もともと中国で始まったと伝えられる漆器は、日本でも縄文時代にはすでに使われていたようで、その種類も生活用具だけでなく、仏具、武器、文房具など多岐に及んでいました。
漆地に金粉を散りばめたように見える末金楼(まっきんろ)(蒔絵)が生まれたのは奈良時代のことで、この技法は平安時代へと受け継がれ、発展して、やがて研出蒔絵(とぎだしまきえ)や平蒔絵(ひらまきえ)が完成されたのです。
さらに、鎌倉時代から室町時代になると、高蒔絵、肉合蒔絵(ししあいまきえ)が行われますが、この頃には寺院や貴族などが、特定の蒔絵師をかかえるようになります。この時代に作られた「東山時代物」と呼ばれる数々の作品は、当時の京漆器の精彩ぶりを端的に示していますが、それは「わび」「さび」の境地に徹したまことに味わい深いもので、まさに日本の漆工を代表するものといえます。
安土桃山時代の京漆器は、新しく台頭してきた武士階級の趣味や好みを色濃く反映したものとなり、その様子は大変華麗なものでした。しかし、江戸時代に入ると、こうした豪華さ華麗さの中にも繊細で緻密な趣を持つものが目立つようになります。嵯峨蒔絵や光悦などの作品からもそれがうかがい知れます。
以上のように、室町時代以降、京都は全国漆器産業の中心となり栄えますが、その原動力となったのは、数多くの名工の存在であり、さらには彼らの手と技による品質とデザインの優秀性であることはいうまでもありません。
京指物(京の木工芸) [京都府の伝統的工芸品等]
京の木工芸は、様々な特殊性のある技法や道具を用いてつくる、指物、彫物、挽物(轆轤(ろくろ)細工)、曲物、箍物(たがもの)、刳物(くりもの)を包括しています。それぞれ独自の技法を駆使し、総合的に組み合わせて、調度や茶道具、香道具類ができあがります。
古代、日本は豊かな森林資源に恵まれ、縄文・弥生時代の遺跡からは、加工された木製品が多く出土しています。また、中国や朝鮮から、石や金属の文化とともに渡来した御物や仏像の多くを、木を素材として模倣し、独自の木工芸として昇華させてきました。奈良時代には、その技術は、工芸品の粋といえる正倉院の御物に集約され、都が京に移った平安時代は、公家(作物所)や寺社に守り育てられ、技法、意匠が花開いていきます。そして、鎌倉・室町時代には武家文化、江戸時代には豊かな町人文化や簡素な美を求めた茶道文化が、京の木工芸を育てるに十分な時と場所を与えてきました。
現在でも京都では脈々と受け継がれている文化・歴史的風土、文物の蓄積を糧として、多様な技法を使って表情豊かな作品が制作されています。
京焼・清水焼 [京都府の伝統的工芸品等]
京都におけるやきものの歴史は千二百有余年前に遡ります。奈良時代に、僧行基が清閑寺(東山区清閑寺)に窯を築いて土器を製造しており、その遺跡が茶碗坂といわれています。
京焼・清水焼の歴史に欠かせぬ人物に、野々村仁清(にんせい)がいます。丹波の陶工でしたが、入洛後、茶器を作り、錦手の秘法を会得します。それは華麗で優雅な色絵陶器であり、京焼・清水焼のひとつの頂点ともいえるものでした。また、仁清から直接手ほどきを受けた尾形乾山は、装飾性に富んだ絵模様で、独自の意匠性を加えました。
江戸の末期になると、大雅(たいが)、玉堂(ぎょくどう)など、中国の文人画の流れをくむ南画家が数多く出たことが影響し、京焼・清水焼は色絵陶器と奥田頴川(えいせん)によって開発された磁器に中国風土を加味した二つの世界が生まれます。その後、青木木米(もくべい)や仁阿弥道八(どうはち)、永楽保全(えいらくほぜん)などの名工が続き、伝統的な京焼・清水焼の全盛をもたらし、そのまま今日の薫り高い作品に受け継がれています。
成形については手工法、ロクロ法、石膏型による型押し法、流し込み法など、製品によってそれぞれの技法があります。焼成は、従来、京式登り窯によっていましたが、最近では電気釜やガス釜に移行しています。現在、東山地区のみならず山科や宇治市の炭山地区にもその技術が広がり、新しい京焼・清水焼の創造に意欲を燃やしています。
京扇子・京うちわ [京都府の伝統的工芸品等]
扇子は、平安時代の初めに木簡から派生、京都において創作されたものと考えられます。平安中期には、冬扇、夏扇(桧扇(ひおうぎ)・蝙蝠(かわほり))があり、さらに藤原時代には蘇芳染(すおうぞめ)(天皇・皇太子の桧扇)、杉横目(宿徳以上の老人の桧扇)、そして女子の桧扇(泥絵の扇)も記録に残っています。
室町時代に入ると、唐扇の影響で扇骨が地紙の表と裏の間に入る紙扇が作られるようになります。また、室町時代以降、香道、茶道、舞踊などの発展に伴い、それぞれに用いられる扇子も作られるようになりました。
政治、文化の中心地であった京都では、産業として隆盛を見、江戸をはじめとする諸国へ卸されるようになる一方、海外への輸出も大変古くから行われました。
また、京うちわですが、日本のうちわには中国月扇、朝鮮団扇、南方系葉扇の3系統がある中で、京うちわは、地紙の内部に多数の竹骨を持つ朝鮮団扇の流れをくんでいると考えられます。京うちわの基本的な特徴は挿柄ですが、この挿柄のうちわは、江戸時代の宮廷御用の土佐派、狩野派の絵師による描画の施された御所うちわが始まりで、以後、一般にまで広がっていったものと考えられます。
京石工芸品 [京都府の伝統的工芸品等]
平安建都の際、大内裏の造営のため石の造作が大きく求められました。このことは軟石を主としたこの時代に、礎石などの一部に花崗石が使用され、造作されたあとがその遺構に見られることからも明らかです。
その後、仏教興隆に伴って、古代から宗教的なイメージを持つ石という素材が重用されたこと、工具の進歩、ことに工具の製作や手入れなどの鍛造技術を得たことによって石工技術が発達し、石仏、石塔、石燈籠など、京石工の手による優れた石工芸品が製作されました。
鎌倉時代、政治の中心は鎌倉に移りましたが、文化の中心はやはり京都にありました。当時の石造遺品からは、京都の高い文化と京石工の卓越した技術、技法、「美」に対する鋭い感覚を知ることができます。
また、京都石工技術の向上に大きな影響を与えたものに茶道文化があります。茶人は古くから遺る石工芸品に「わび」「静寂」をくみとり、優れた遺品を珍重しましたが、遺品は数が限られているため、本歌を写した模作を茶庭に設置しました。特に、石燈籠、水鉢、層塔などは茶道との深いつながりの中で、厳しい「美」への要求に応えるとともに技法の特殊な発達を見たのです。
そして近世、ますます増大する寺社の造営と庶民文化の台頭によって需要が増加し、京石工が確固たる地位を築いていったことが在銘遺品の数々からうかがえます。
京人形 [京都府の伝統的工芸品等]
日本は人形の宝庫といわれていますが、それはまた京都を中心として展開してきたともいえます。
平安時代、貴族の子らの間で、「ひいな人形」を使ってのままごと遊びのようなものが流行しました。これが京人形の始まりともいえるでしょう。
江戸時代になると、すべてが江戸中心、将軍中心に変わっていきますが、人形については、変わらず京都を中心に展開して、江戸時代初期には人形職人も数多く輩出され、節句前になると、これらの人形師たちの店先には、さまざまな人形が並べられました。
江戸時代末期になると、御所人形が生まれますが、これは当時の宮廷から諸大名への贈答用としても重宝されました。
京人形は、頭、髪付、手足、小道具、着付など、その製作工程が細かく分業化されており、それぞれが熟練した職人たちの手仕事によって行われています。この高度に専門化した製作システムにより、京人形ならではの特色と個性が育まれています。そして、年月を経てた京人形が独特の趣を醸し出すことができるのは、この専門家の技術の錬磨と妥協を許さない厳しい製作姿勢によるところが大きいといえます。
現在、京人形と呼ばれるものには、雛人形をはじめ、五月人形、浮世人形、風俗人形、御所人形、市松人形などがあります。
京表具 [京都府の伝統的工芸品等]
表装とも呼ばれる表具は、古くから芸術や宗教が盛んであった京都を中心として発達してきました。表装は、裂地や和紙を材料として、加湿と乾燥の繰り返しのうちに、複雑な何段階もの工程を経て完成されます。
表装の歴史は古く、仏教の伝来とともに中国より伝わり、経巻に施されたのがその始まりでした。掛軸などは、仏教の広まりとともに仏画像の礼拝用として始められたものが原型とされています。
今日、表装と呼ばれるものには、襖、壁装など日常生活に密着した実用的な分野と、掛軸、額装、屏風、画帖、巻物など美術工芸的なもの、さらには高度な技術と豊かな経験が要求される古美術の修復まで含まれます。
表装は、それ自体が独立したものではなく、常に書画を鑑賞するうえでの手だてとして成り立つもので、さらには書画を保存するという役割をも担っています。目立たず、控え目でありながら、書画と一体の品格のある調和を作り出し、なおかつ表装そのものの品位も損なわないよう工夫することが要求されるのです。
千年の都、京都の美的環境と、京都人の洗練された美意識に支えられ、また湿度の高い盆地の風土に適して発展してきた表装は、床の間の発生や、室町末期から桃山、江戸時代にかけての茶道の興隆などと深く関わりあいながら発展し、磨かれていったのです。
京房ひも・撚ひも [京都府の伝統的工芸品等]
京房ひも・撚ひもは、平安時代に貴族たちが室内調度品や身の回りの小物などに華麗な房飾りを施し、雅やかな装身具として、鎌倉時代には、武士たちの武具甲冑(ぶぐかっちゅう)や刀の下げ緒に用いられました。また、茶道具の飾りとして茶道にも取り入れられるようになりました。江戸時代には、各宗本山が集まる京都で、仏具のくみひもや飾り房の専門店が数多く誕生しました。
こうしてその技術とデザインが発展し、やがて町人文化の隆盛とともに、一般庶民たちの日用品としても愛用されるようになって、現在に至ります。現代でも神具、仏具、茶道、伝統芸能をはじめ日常生活における服飾や装飾などの際に、より華やかに、また潤いあるものにするために幅広く利用され親しまれています。
丹後藤布 [京都府の伝統的工芸品等]
藤布とは、山に自生する藤蔓の皮をはいで糸を作り織り上げた布の事を指します。藤布の歴史は長く、万葉集の中にも「大君の塩焼く海人の藤衣」と藤布が使われたことが詠まれています。また、元弘2年(1332年)幕府によって隠岐の島に流された後醍醐天皇が藤の苗木を隠岐に持参されたという逸話もあり、藤を愛された天皇が藤布を身にまとい都に思いをはせられたとも語られています。日本古代の織物である藤布は日本三景の一つとして知られる天橋立を擁する丹後でその技術を伝えています。
京陶人形 [京都府の伝統的工芸品等]
京陶人形は京都で作られている素焼人形です。素焼人形は、粘土で形をこしらえ、乾燥させ、摂氏850度くらいの低火度で焼成し、顔料で彩色して仕上げたもので、全体が土という素材でありながら、やわらかなぬくもりを感じさせる深い味わいがあります。
太古の昔から、人は木や石や土など身近な材料で自分たちの似姿を作ってきました。古墳時代には土で見事な土偶や埴輪などを生み出しています。
やがて、型を使って多量に作られる時代になると、安価で気どりのない庶民の愛玩用の人形として人々に親しまれてきました。京陶人形はこのような伝統と技術を受け継ぎながら、その時々の時代の流れ、風俗や好みを反映した形を追求して今日に至ったものです。
かつては他の素材の人形とともに、京人形という総称の中に含まれていましたが、昭和32年に「京陶人形」と命名され、以後、独自の道を歩んでいます。
多品種、少量生産が主体なので、子供たちのすこやかな成長を願う雛人形や五月の節句もの、歴史をたどる時代風俗、特に王朝文化を題材にした優雅な時代もの、御所人形をはじめ幼児の愛らしさで表現する童子もの、歳守の干支などの動物もの、素材そのものを活かした素朴なもの、抽象的でモダンなものなど、作られている形は多様です。また独自の技法で作られている土鈴は、音色・形・彩色ともに豊かで人気を集めています。
京都の金属工芸品 [京都府の伝統的工芸品等]
金属製品は、弥生時代前期にはすでに使われていました。奈良時代には、仏教の隆盛とともに寺院や仏像が相次いで造られますが、それに伴って金工技術も著しく発達、さらに平安時代になると、金工師たちも奈良から京都に移り住み、数多くの金属製品がここで作られるようになりました。次いで室町時代になると、それまでの鋳銅とは異質の色合いをもつ花瓶、香炉や燭台などが中国から伝わり、わが国の金工に影響を及ぼすこととなりました。桃山時代、京都の釜座には鋳物師数十家が軒を連ね、宮中の用度品をはじめ鍋や釜など日常用品も作っていました。また、この時代には武器や甲冑、刀剣などの装飾がめざましく発達し、その技術は江戸時代へと伝承されていきました。
ところで、金属工芸といってもその範囲はずいぶん広く種類も多いのですが、技法的には、大きく鋳金、鍛金(たんきん)、彫金(ちょうきん)、錺金、布目象嵌(ぬのめぞうがん)、七宝(しっぽう)に分けられます。
鋳金はいものともよばれ、溶解した金属を鋳型に流し込んで造形する技法で、主として仏像や梵鐘、茶道具、美術工芸品などに用いられます。うちものとも呼ばれる鍛金は、金属を自在に延ばし、しぼり、立体的に造形します。鋳金に比べて軽く仕上がり、主として器などを製作します。彫金は別名ほりものといわれ、金属板に模様を彫ったり、浮彫りしたりする技法です。布目象嵌は、鉄等の堅い金属に金や銀、赤銅などを打ち込んで模様を表現する技法です。さらに七宝は、金属の素地にガラス質の釉薬を焼きつけて装飾する技法で、釉薬の種類によりさまざまな発色をするのが特徴です。
このような金属工芸の用途は、花器、食器、装身具、家具、装飾品、建築金具、茶道具、文房具などと幅広く、また素材も、金、銀、銅、鉄、赤銅、錫などと多岐にわたっています。
京象嵌 [京都府の伝統的工芸品等]
金属の生地に色の異なった金属をはめ込み、それぞれの色彩や隆起などで模様を表現するのが象嵌です。
象嵌は世界のあちこちで古くから行われ、主として武器や宗教的なものに用いられていました。わが国には奈良時代に大陸から伝わり、正倉院にも刀身に金で象嵌したものが遺され、同じく奈良の薬師寺本尊の掌や仏足にも輪宝文などが象嵌されています。鎌倉時代には、刀の鍔(つば)などに象嵌が施されるようになりました。
江戸時代の初めには、西陣に住む埋忠(うめただ)と正阿弥(しょうあみ)の二家の仕事ぶりが目立ち、両家の弟子たちが各地の大名に仕えるようになり、それにつれて京都の技術は全国に広まっていくようになりました。
このように武士階級や貴族など、一部の階層を中心として行われてきた象嵌は、やがて江戸時代末期までには、火鉢やキセルなど一般にも広く用いられるようになりますが、明治の廃刀令で一時途絶えかけました。しかし、その発展を海外に求めた四方安之助や並河靖之らの努力が実を結び、欧米で日本の象嵌技術が高く評価され、以後輸出品として脚光を浴びるようになりました。
現在、京都で製作される象嵌製品には、ペンダント、ネクタイピンなどの装身具、額などを中心とする室内装飾品があります。
京刃物 [京都府の伝統的工芸品等]
日本に刃物らしきものが伝わったのは4世紀といわれていますが、それは刃物というよりも刀剣といった方が適しているでしょう。
やがて平安時代になると、刃物の世界においても三条宗近を筆頭に、吉家、五条兼永、国永、そして鎌倉時代には千代鶴国安など、優れた刀工が出て、その技術を全国に伝えました。
時代の推移とともに、人々の日常生活に欠くことのできない刃物類も数多く造られるようになり、やがて、刀鍛冶、農鍛冶、刃物鍛冶と大きく三分され、さらに需要に応じて細かく専門化されていきます。
京都はもともと都であったという地の利と、出雲地方の砂鉄や玉鋼、伏見稲荷周辺の土、鳴滝の砥石、丹波地方の松炭、さらには良質の水などが容易に入手できるという刃物造りに適した条件を備えていました。それゆえに、室町時代中期頃より鍛冶の町として栄え、以後明治の初め頃まで、刃物の一大産地として全国に知られました。
今日、全国の刃物産地の技術は、その大半が京都より伝わったといわれています。また、京都の伝統産業である西陣織、扇子、竹工芸、木工芸、造園、建築、料理、畳、瓦そして華道などあらゆる分野において、刃物はかげの力としてその発展を支え、今日に至っています。
現在京刃物は、包丁、鋏、鋸、ナタ、鎌、竹ノ子堀り、彫刻刀など、日常で使われるものから専門職の道具まで、多種多様に製作されており、その質の高さと使い易さには定評があります。
京の神祇装束調度品 [京都府の伝統的工芸品等]
古来より、神具は祭具や祭器具とも呼ばれ、神殿や三方などの木具類、鏡類、御簾、几帳、旗、幕、雅楽器などがあり、装束として、衣冠、狩衣、あるいは、その付属品として、冠、烏帽子などがあります。また、祭祀や祭礼に用いる祭具には、多くの種類があり、何れもが少量生産、大部分が手作りです。伊勢大神宮の御遷宮調度師として名高い坂本家が世に出るのは江戸中期のことですが、もちろんそれ以前から、京都の神具は全国に先んじて発達していました。現代においても、式年遷宮の神宝装束の多くは京都の業界で製作されています。
京都は明治維新まで皇室の所在地であり、各種の式典、行事も多く、古くから神社の神事も盛んであったために、それらの調度や衣装(装束)などを作る専門家を多数必要としました。
装束については、神職(神主)は狩衣、浄衣を通常着用しますが、祭祀や祭礼では束帯、衣冠を着けるのがならわしです。これらは、室町時代以前より西陣で織り続けられてきましたが、このうち、山科家は宮中の装束を、そして高倉家は将軍家や諸大名の装束を、それぞれ西陣の御寮織物司に命じて作らせていました。
また、これは神具においても同様で、祭礼に用いる神輿、鉾、錦旗などの飾り物は、そのほとんどが西陣の錦綾や金襴などが使われています。
京銘竹 [京都府の伝統的工芸品等]
竹は原始時代にはすでに用いられていましたが、滑沢(かったく)で強く、その上弾力性にもすぐれて、また乾湿にも歪みがこない特徴を思えば当然のことではあります。
正倉院には、竹を用いた楽器をはじめ、箱や華龍その他多数の遺品が保存されていますが、平安時代になると、建材としても随所に使われるようになります。また同時に、矢や鞭などの武器、農耕・漁猟の道具など、日常生活の細かな部分まで広がりました。
鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて、茶道具を製作するために欠かせぬ素材として、竹はますます重宝されるようになりました。
江戸時代初期には、竹細工、柄杓師が活躍し、将軍家の御用をつとめるほどになっています。中期になると、大竹を輪切りにした花器や柄杓などの道具を作る職人が京極の二条や四条周辺に多く住みました。
京都は竹の生産地としての風土条件に大変恵まれています。山に囲まれた盆地は寒暖の差が激しく、土壌も肥沃です。このような風土と文化都市としての恵まれた環境のもと、京都はまた竹の都としても知られてきました。
京都の竹工芸品の特色は、竹そのものの持ち味をそのまま生かしているところにあります。これは、それだけ京都の竹が素材としてすぐれているということでしょう。中でも、嵯峨野の竹は殊に名高いものです。
京の色紙短冊和本帖 [京都府の伝統的工芸品等]
色紙とは、もともと染紙のことを指します。この名は、屏風や障子などに詩歌その他を書き入れる場所(余地)を取ることを色紙型と呼んだことに由来します。 平安時代、歌集や詩書の中には染紙を用いて装飾性をもたせたものが数多くありました。このなかには、金銀の泥絵(かきえ)や切箔(きりはく)さらには野毛(のげ)などを蒔(ま)いた華麗なものも多くありましたが、これが現在のような色紙や短冊として完成するのは鎌倉時代からであると考えられています。それまでは懐紙が用いられていたようで、平安中期の作として有名な藤原佐理の「詩懐紙(しかいし)」はその好例です。
短冊は、短籍、短策、短尺とも書き表され、懐紙や色紙よりは小さく、略式化されたものが短冊とされていました。この短冊の寸法は頓阿や二条為世が定めたとされています。短冊の遺品が多くみられるようになるのは南北朝の頃からですが、室町時代の初期にはかなり盛んになっていたようで、それは後小松天皇御製料紙や豊公醍醐の花見の短冊などでもわかるとおり、狩野派や土佐派の流れを汲むすばらしい金銀泥絵でした。
色紙および短冊は、一般に経師により作られていましたが、それには朝廷用の一切の紙に関する仕事に携わっていたもの、もっぱら寺院を得意先にしたものなどがあり、さらには絵草紙屋でも一般向けに色紙や短冊類を販売していました。
元来、宮廷や寺院などで多用された色紙・短冊ですので、京都にその発展の中心があったのは当然といえますが、なかでも金泥(きんでい)や金銀箔により加工する職人は、ほとんどが京都から世に出ました。
和本帖は俳句や和歌、語録や大切な記録、または絵画や旅日記等を留めるために生まれたもので、その形状は糸綴り本、平紐綴り本、芳名録、折りたたみ式画帖や集印帖、折手本、巻物等に分かれています。
北山丸太[京都府の伝統的工芸品等]
一般に北山丸太といわれるものには、北山タルキ、北山磨丸太、面皮丸太、人造絞丸太、天然出絞丸太などがあり、その特色は数多く、とりわけ材質が緻密で木肌が滑らかで光沢があります。
また、木肌の色が美しく、変色もなく、亀裂が入らないとされています。
この白い木肌を作るには、伐採した後すぐに皮をはぎ、真夏の太陽に一週間ほど晒し、その後水につけ、砂で丁寧に磨きます。
また、北山丸太の高度な「枝うち」という技法により均一な太さに仕上げられています。
これは、植林後10年を経過した北山杉の枝を3~4年に一度、下の枝から順次切り落とすことにより、幹の成長を止め、切り口と末口の太さの差を少なくする技術で、一本一本心を込めて生産される北山丸太の特徴となっています。
このような優れた特色は、床柱やタルキなど、それぞれの用途に応じてさし木苗の養成時から、15~40年後の伐採に至るまで、一貫した育林技術が確立されていることによるところが大きいのです。
今日の北山林業の繁栄は、こうした先覚者のたゆまぬ情熱や品種改良への努力、また、耕地が少ないという立地条件から生まれた生活の知恵の結実です。
京版画 [京都府の伝統的工芸品等]
木版印刷は、飛鳥時代に百済(朝鮮)から仏教が伝えられた時(6世紀半ば)、一緒に伝来した経文印刷用の文字木版に端を発します。その時、添えられていた仏像の簡単な輪郭摺り用の版木がヒントになって、基礎となる木版画が生まれました。京版画は、その時代より受け継がれた、京都での木版画です。木版画には宗教・実用・美術等、様々な種類があり、多くの場所に使用されてきました。そして、後世欧米人を仰天させ、「世界芸術の殿堂」入りを果たした浮世絵木版画へと発展していきました。
出版物の中では、高名な本阿弥光悦の「嵯峨本」等が有り、デザイン本としても京版画は素晴らしい作品を残してきました。京版画の得意とする胡粉摺・雲母摺等の技術は、京版画以外の伝統工芸・芸術とともに、京都の風土に合わせ発展してきた技術です。その技術を持って最近では、岩絵具を使った木版画も作成されています。
伝統木版画では、絵師・彫師・摺師の共同作業によって制作されています。一つの道を一人が極め、三つの道が結ばれる事によって、素晴らしい作品が出来上がります。
丹後ちりめん [京都府の伝統的工芸品等]
日本三景のひとつとして知られる「天橋立」を擁する京都府の丹後半島一帯は、丹後ちりめんを中心に先染織物や丹後藤布など様々な織物の一大産地です。
丹後地方は大和文化と出雲文化の交流地点で早くから独自の文化が開けていました。約1200年前の天平年間には聖武天皇へ「あしぎぬ」という絹織物が献上され、現在も奈良正倉院に保存されています。
以来、その気候や風土が生産に適していたために、絹織物は長い歴史の中でこの地方の特産品として培われ、江戸時代中期以降の「丹後ちりめん」の開発へとつながっていくのです。
丹後ちりめんが今のように独特のシボをもち、絹の風合いと感触を最高に発揮する織物になったのは280年ほど前の享保5年(1720年)のことです。丹後峰山町に住む絹屋佐平治(後に森田治郎兵衛と改名)が京都西陣の機屋に奉公人として入り、織物技法・糸口の仕掛け・シボの出し方などを研究し、この秘法を丹後に持ち帰り、ちりめんの製織を始め、今日の丹後ちりめんのいしずえを築きました。
絹織物の産地であった丹後だけに、ちりめん技法の普及は早く、峰山藩の積極的な保護政策などもあって、多様なちりめんが丹後地方一帯で生産され、一大産地を形成し今日に至っています。
近年では、絹の風合いを損ねることなく水に濡れても縮みにくく、しかも摩擦に強い「ハイパーシルク」加工技術が開発され、洋装服地など新しい商品づくりも進められています。
また、今までは着物の素材として白生地のまま売られることの多かった丹後ちりめんですが、最近では染めたうえで、小物や、インテリア用品を作るなど、デザイン力の高まりと共に色々な完成品が作られるようになりました。
黒谷和紙 [京都府の伝統的工芸品等]
紙は仏教とともに日本に伝わり、その技術は全国に広まりました。都が奈良から京都へ移るとともに、京都には官制の紙漉き場が設けられました。
黒谷は、現在京都に残る数少ない紙郷ですが、平家の落武者が子孫へ残す仕事として細々と始めたものと伝えられています。それが江戸時代には数々の奨励策もとられて大きく発展していきました。京都の中心地が近いということもあって、京呉服に関連した値札、渋紙、襖紙などで知られるようになり、他にも傘紙や障子紙なども数多く生産していました。その後、土佐の紙漉きの技術も加え、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの大判紙や厚紙などもこなせるようになり多様化しました。
明治以後、とりわけ第二次大戦後、洋紙の影響により和紙の需要は少なくなり、さらには技術者不足もあって、各産地では手漉きから機械漉きへの転換が進みましたが、黒谷では伝統的な手漉きの技法を守り続け、今では全国でも数少ない純粋手漉き和紙産地のひとつとして、貴重な存在となっています。その用途も、産地と研究者の努力により、一段とバラエティー豊かなものとなり、さらには紙衣や紙布の伝統を生かして座布団や絨毯まで製作されています。
丹波・丹後地方は、古くから良質の楮を産することで知られましたが、それは黒谷川の清流とも相まって、紙作りには大変適していました。自然を生かし、自然のままに作られ始めた黒谷の和紙は、機械化が進む世の中で、変わらず昔の姿を残しています。
京たたみ[京都府の伝統工芸品等]
畳の歴史は古く、奈良時代の古事記にしばしば登場しており、1300年の歴史を有しています。中国から伝来した技術が多い中、畳の製造は日本固有の伝統文化であるといえます。
平安時代には貴族等が権力を象徴するものとして使用し、京都御所内の紫宸殿や清涼殿、御常御殿ではその面影が今に伝えられています。
やがて茶道の発展に伴い、幾多の変遷を経て、今日の「京たたみ」が作られ、一般の民衆にも広まっていきました。
特に政治・文化の中心地であった京都には、数多くの神社仏閣が存在していたことから、畳製作の技術・技能は古くから全国有数の技術をもっています。
現在製造されている畳は、家庭用と茶室用の「一般畳」と神社仏閣で使用される「有職畳」の2種類に大別され、高度な技術を必要とする「厚畳」、「拝敷」といった有職畳のほとんどは京都で生産されています。
全国的に機械による製造が進む中で、京都では、今も伝統的な技術が受け継がれ、手縫いによる高級畳の生産が多く行われています。
こうして、職人の手縫いにより、わらの1本1本に真心をこめて形作られた藁床は、常々十分な手入れをすれば、100年以上は持つともいわれています。
京印章[京都府の伝統的工芸品等]
中国で発達した印章がわが国に入ってきたのは聖徳太子の時代といわれています。国の制度となったのは大宝元年(701)の大宝律令制定からで、平安京が開かれて都となった京都では天皇御璽(ぎょじ)や当時の役所の官印などが作られていました。また現在も保存されている社寺印のなかにも、当時作られたものがみられます。
やがて江戸時代になると庶民にまで印章が普及し、需要が急増して印判師が誕生しました。そして、わが国最初の印判師ともいえる人物が三条室町あたりに住んでいたことから、京都は印章の中心地として発展してきました。
京都の印章の特色は、中国の漢時代の印章最盛期の漢印といわれる銅印の作風を受け継いでおり、いわゆる漢印篆(かんいんてん)を主体とした重厚で雅味豊かな印章が多く作られています。現在、宮内庁侍従職に保管され、国家の文書に使用されている天皇御璽と大日本御璽は、明治7年に京都中京区の住人、安部井櫟堂(あべいれきどう)が印司に任ぜられて、1年がかりで制作したものです。漢印篆の堂々とした文字が彫刻され、純金製で重量は4.5キログラムにも及びます。また、御璽、国璽の前の制作者も京都の中村水竹です。
印章の彫刻は現在、厚生労働省の技能検定に合格した技能士がこれにたずさわり、京都においては60余名の技能士が活躍しています。そして柘植(つげ)、水牛、象牙などを素材に伝統的な京印章を制作していますが、一方ではさらに自由な発想にたち、しかも文字の持つ意味をこわさない現代感覚の印章も数多く生み出されています。
京七宝 京七宝協同組合
京竹工芸 京都竹工芸品協同組合
丹後ちりめん工芸品[京都府の伝統的工芸品等]
京もの技術活用品である「丹後ちりめん工芸品」とは、京もの指定工芸品である「丹後ちりめん」を素材として、染色・縫製等の加工を行い、新たに生み出された製品のことです。
「丹後ちりめん工芸品」は和装用小物、洋装用小物、衣料品、寝装品、インテリア用品、生活用雑貨と多数の用途のものが制作されています。主なものとして、風呂敷、帯揚げ、スカーフなどがあります。