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下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

鈴田滋人(すずた しげと 1954年6月20日 – )は日本の染織作家。社団法人日本工芸会理事。2008年9月11日に重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定された。

略歴
佐賀県鹿島市出身。武蔵野美術大学日本画学科卒業。鍋島更紗の復元に取り組んだ父・鈴田照次の跡を継ぎ、1981年から木版と型紙を併用する「木版摺更紗(もくはんずりさらさ)」の研究を重ねた。その作品は、緻密かつ豊かな色構成で、独自の作風を確立している。
「木版摺更紗」は、2008年9月11日に国の重要無形文化財に指定された。
1982年、第29回日本伝統工芸展で初入選を果たす。1996年に第43回日本伝統工芸展日本工芸会奨励賞、1998年には第11回MOA岡田茂吉賞工芸部門優秀賞と、第45回日本伝統工芸展NHK会長賞(優秀賞)を受賞する。さらに、2003年には第23回伝統文化ポーラ賞優秀賞を受賞した。2008年、重要無形文化財「木版摺更紗」保持者、いわゆる人間国宝に認定された。
鹿島市に工房を持ち、創作活動を行っている。

井上 萬二(いのうえ まんじ、1929年3月24日 – )は、日本の陶芸家。1995年に人間国宝に認定された。日本工芸会参与、有田陶芸協会顧問。

略歴
佐賀県西松浦郡有田町出身。生家は窯元であったが軍人を志し、15歳で海軍飛行予科練習生となった。翌1945年に復員し、父親の勧めで酒井田柿右衛門|の元で働き始める。修行7年目の1952年頃に奥川忠右衛門の作品に衝撃を受け、門下生となり白磁や轆轤の技法を学んだ。1958年に酒井田柿右衛門窯を退社し、県立有田窯業試験場の技官として勤務を始める。その傍らで独自の意匠や釉薬の研究に励んだ。
1969年、ペンシルベニア州立大学から有田焼の講師として招かれて渡米し、5ヶ月間担当した。海外での活動はドイツなどでの個展や2002年3月のモナコ国王の在位45年記念の展覧会など、多岐にわたっている。
1968年、第15回日本伝統工芸展で初入選を果たす。1977年に全国伝統的工芸品展通産大臣賞、1987年には第34回日本伝統工芸展で文部大臣賞を受賞した。1995年5月31日に重要無形文化財「白磁」保持者に認定、1997年紫綬褒章を受章。
2007年現在、有田町で息子の井上康徳と共に井上萬二窯と平屋建てのギャラリーを構えている。華やかな絵付けが中心の有田焼の中で、白磁に徹するという独特の制作を続けている。教え子は既に500人、アメリカでも150人を超え、なお後進の育成にも力を注いでいる。

14代目 酒井田 柿右衛門(14だいめ さかいだ かきえもん、1934年8月26日 – 2013年6月15日)は、有田焼を代表する陶芸家で、“酒井田柿右衛門”の14代襲名者。本名:酒井田 柿右衛門、改名前-正(まさし)。

来歴・人物
佐賀県西松浦郡有田町で、13代目の息子として生まれる。
絵付けの基礎となる部分を会得するため多摩美術大学日本画科で日本画を学び、卒業後帰郷して父親に弟子入りする。下積みを重ね父と祖父(先々代)が蘇らせた“濁手”(にごして)の技法なども学んでいく。1971年、改名前の本名の酒井田正(さかいだまさし)名義で日本工芸会会員となり、この後のほぼ10年は本名で公募展や個展に出品した。
1982年、父の死を受け14代目を襲名。翌年アメリカ合衆国で「クローズ・アップ・オブ・ジャパン・イン・サンフラシスコ」にて海外で初出品し、サンフランシスコ市長から名誉市民号を贈られた。「14代目柿右衛門展」は国内だけでなく海外で高い評価を集めた。
2001年に重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定された。また広く後進の育成にも力を入れ、大学で教えるほか、2011年にはJリーグの地元クラブ・サガン鳥栖のデザインアドバイザーにも就任した。
2008年前後に癌が見つかってからは治療しながら活動を続けていたが、2013年5月、体調が急に悪くなり佐賀大学医学部付属病院に入院[2]。それからひと月ほどで死去。死因は直腸癌と転移性肝腫瘍であった。なお、JR九州のクルーズトレイン「ななつ星in九州」の洗面所に使用されている洗面鉢が遺作となった。
受賞
日本伝統工芸展「日本工芸会奨励賞」 (1986年、1992年)
文部大臣表彰 (1999年)
佐賀新聞文化賞 (2001年)
勲三等旭日中綬章 (2001年)
有田町名誉町民 (2006年)
西日本文化賞 (2007年)
著書
『余白の美 酒井田柿右衛門』(集英社新書、2004年11月)。聞き書き
『遺言 愛しき有田へ』(白水社、2015年10月)。遺著
役職
1997年 佐賀県陶芸家協会会長 (2006年から名誉会長)
1999年 九州産業大学大学院芸術研究科特任教授 (2006年から客員教授)
2000年 有田陶芸協会会長 (2008年から名誉会長)
2001年 佐賀県立有田窯業大学校校長 (特別講師を兼任)
2006年 日本工芸会副理事長
2011年 サガン鳥栖デザインアドバイザー
テレビ出演・CM
プレミアム8 柿右衛門 はてしなき旅路~ヨーロッパが愛した日本の美~(NHK-BShi、2003年1月3日)
100年インタビュー(NHKデジタル衛星ハイビジョン、2010年)
佐賀銀行企業CM(2011年)

中島宏 なかしま-ひろし

1941- 昭和後期-平成時代の陶芸家。
昭和16年10月1日生まれ。父の工房で作陶をはじめ,昭和44年佐賀県弓野の古窯跡に登り窯をきずく。同年日本伝統工芸展初入選,平成17年「青瓷線彫文平鉢(せいじせんぼりもんひらばち)」で同工芸展NHK会長賞。18年日本陶磁協会賞金賞。19年青磁で人間国宝。日本工芸会理事。佐賀県出身。

中島 潔(なかしま きよし、1943年4月26日 – )は日本画家、絵本作家、イラストレーター。郷愁を誘う童画や、儚げな女性画を得意とする。「風の画家」として知られる。

経歴
1943年、旧満州国において父・峰雄、母・ウメ子の間に生まれる。1歳の時両親の故郷の佐賀県へ戻る。
1961年、佐賀県立唐津西高校卒業。母の死後2ヶ月で再婚をした父への反発から[1]家を出て、伊豆下田で温泉掘りの仕事をする。独学で絵を学び、その後印刷所、広告会社などで働く。
1971年、パリへ行き、半年間絵の勉強をする。
1976年、独立しフリーになる。
1982年、みんなのうたの『かんかんからす』のイメージ画を担当し話題になる。同年9月に初の個展を開く。
1987年、『木霊みょうと』で、ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞を受賞。
1990年、中国文化庁の招きで北京で個展を開く。
1999年、港区広尾に「ギャラリーうめ吉」をオープン。(2011年3月現在、整備のため休館中)
2001年、パリ、三越エトワール美術館にて「風の画家中島潔の世界・童画でつづる三十年史」展を開く。
2010年、清水寺成就院に、「かぐや姫」「風の故郷」「大漁」など、46面の襖絵を奉納。
「うめ吉」について
「うめ吉」とは、一つの意味は中島潔の雅号であり、落款や初期の印に使われている。もう一つの意味は、童画中に多く登場する犬の名前である。ぬいぐるみとしても人気を博している。

「うめ吉」について
「うめ吉」とは、一つの意味は中島潔の雅号であり、落款や初期の印に使われている。もう一つの意味は、童画中に多く登場する犬の名前である。ぬいぐるみとしても人気を博している。
作品
童画
農村の風景の中に佇む少年少女を描く。
人気のある画題であり、CMや、NHK「みんなのうた」のイラスト、カレンダー、ジグソーパズル、塗り絵、雑誌表紙など広い分野で見ることができる。
女性画
儚げな女性画を描く。また、源氏物語や万葉集などを題材とした歴史的な女性像の作品もある。
金子みすゞ
2000年から金子みすゞをモチーフにした作品を発表している。特に、みすゞの代表作である『大漁』については、成就院の襖絵を含めて、作品を4作発表している。
関連人物
さだまさしは、中島潔の絵を最初に購入した人物である。その絵は『雨宿り』という題であり、それが『雨やどり』を作曲するヒントとなったと本人が書いている。またその縁で個展の推薦文を書いたとき、「風の画家」というキャッチフレーズを考え出し、これが中島潔を表す言葉になっ。
「うめ吉」のぬいぐるみなどは、阿部進の設立した創造教育センターにおいてライセンス管理がなされている。また、画集や絵本の多くは創造教育センター(KABA書房)から出版されている。
上京後、一時森田拳次のアシスタントとして働く。同時期に働いていたアシスタントに、ジョージ秋山がいた。
水島新司とも交友があり、水島の漫画作品『あぶさん』には中島本人が度々登場している。

池田幸太郎(いけだ こうたろう)
(1895年 – 1976年)佐賀県出身であり、昭和中期に近代画壇で活躍した日本の画家。
(1904年 – 1989年)政治家。北海道名寄市元市長。⇒池田幸太郎 (首長)

岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、1869年1月22日(明治2年1月12日) – 1939年(昭和14年)9月23日)は佐賀県に生まれ、明治~昭和にかけて活躍した洋画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残している。東京美術学校(現・東京藝術大学)教授。第1回文化勲章を受章。 妻・岡田八千代は小説家・劇作家で、小山内薫の妹である。

1869年 肥前佐賀藩の名家であった石尾家に生まれる。幼名は芳三郎。
1887年 岡田家の養子になり洋画家・曽山幸彦の画塾に入門、曽山の逝去後は堀江正章に学んだ。
1892年 洋風絵画専修のため大幸館に入学し、堀江正章の指導を受ける。
1893年 大幸館規定の科目を卒業。卒業制作は『矢調べ』。
1894年 久米桂一郎の紹介で黒田清輝を知る。
1896年 白馬会の創立に参加する。
1897年 第1回の文部省留学生としてフランスに留学し、ラファエル・コランに師事する。
1902年 帰国し、東京美術学校の教授に就任する。
1906年 小山内八千代と結婚。
1907年 東京勧業博覧会出品の『婦人像(某婦人の肖像)』が1等賞を受ける。文展の審査員に選ばれる。
1912年 藤島武二と本郷洋画研究所を設立。
1919年 高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会の結成に加わる。帝国芸術院会員となる。
1926年 妻・八千代と別居。
1930年 文部省より欧州出張を命じられ渡欧。11月帰国。
1933年 桃の花の咲きみだれる北信濃の地を訪れ、その地を「丹霞郷」と名づける。
1934年 12月3日 帝室技芸員[1]
1937年 第1回文化勲章を受章する。帝国芸術院会員となる。
1939年 9月23日自宅で死去。
1940年 岡田三郎助遺作展覧会を東京府美術館、大阪市天王寺美術館で開催。
主な作品[編集]
『矢調べ』1893年(佐賀県立美術館蔵)

『矢調べ』1893年

『あやめの衣』1927年(ポーラ美術館)

『水辺の裸婦』1935年(ひろしま美術館)
『花を持てる裸婦』1903年
『婦人像(某婦人の肖像)』1907年(石橋財団ブリヂストン美術館蔵)
三越(当時は三越呉服店)のポスターにも使われた。三越重役・高橋義雄夫人をモデルにしたといわれている。
『清楚(少女)』1907年(佐賀県立美術館蔵)
『萩』1908年(兵庫県立美術館蔵)
『水浴の前』1916年(石橋財団石橋美術館蔵)
『花野』1917年(佐賀県立美術館蔵)
『支那絹の前』1920年(高島屋史料館蔵)
『富士山』1920年(佐賀県立美術館蔵)
『少女読書』1924年(佐賀県立美術館蔵)
『あやめの衣』1927年(ポーラ美術館蔵)
切手に使われている。以下に詳しい。
「岡田三郎助「あやめの衣」 」『美と歴史』。
「岡田三郎助-絵画作品と所蔵美術館」『FishEyeArt』。
『楊柳』1930年(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
『フローレンス風景』1930年(佐賀県立美術館蔵)
『薔薇』1931年(佐賀県立美術館蔵)
『丹霞郷』1933年
『裸婦』1935年(佐賀県立美術館蔵)
1945年(昭和20年)以降行方が分からず幻の名画と呼ばれていた。
『婦人半身像』1936年(東京国立近代美術館蔵)
『縫物』1939年(黒川古文化研究所蔵)

百武 兼行(ひゃくたけ かねゆき、1842年7月14日(天保13年6月7日) – 1884年(明治17年)12月21日)は、日本近代の洋画家、外交官。日本で最初に洋画・裸婦像を描いた人物・フランスで初めて洋画を学んだ日本人といわれる。龍造寺氏に仕えた戦国武将の百武賢兼の直系の子孫にあたる。

人物
幕末・明治維新を経て1871年(明治4年)岩倉使節団を皮切りに計3回渡欧し、この滞欧期間中に洋画を学び製作活動を行う。本来は画家ではなく外務書記官であり、また帰国後には農商務省へ出仕した政府役人である。そのため日本美術史において日本人初の洋画家として評価が確立されていない。
また、日本人で最初にオックスフォード大学へ留学した人物の一人でもある。
生立ち
百武兼貞の次男として1842年(天保13年)佐賀城下片田江に生まれる。幼名を安太郎。父兼貞は佐賀藩京都留守居・有田皿山代官などを務め、有田にゴットフリード・ワグネルを招くなどして磁器製法の改良に尽力した佐賀藩士でもある。
百武兼行が8歳のとき、幕末の四賢侯の一人として名高い肥前国佐賀藩10代藩主鍋島直正(鍋島閑叟)から鍋島直大(後に11代藩主)のお相手役に選ばれ、4歳年少の直大からは兄のように慕われ信頼される。
滞欧期間

マンドリンを持つ少女(1879年)鍋島報效会蔵
第一次滞欧
1871年(明治4年) – 1874年(明治7年)。
第一次は、岩倉使節団にて渡欧。アメリカを経てロンドンに赴き、オックスフォード大学で鍋島直大は文学研究、百武兼行は経済学を学ぶが、1874年(明治7年)に発生した佐賀の乱により帰国することになる。
第二次滞欧
1874年(明治7年) – 1879年(明治12年)。
帰国した1874年(明治7年)、同年の内に再び渡英。ロンドンでは主に風景画、パリでは人物画の技法を学ぶ。
1875年(明治8年)から鍋島直大夫人・胤子の油絵稽古のお相手役として英国画家リチャードソンから学ぶ。初めて洋画を学んだのは百武兼行が33歳のときであり、しかも翌年の1876年(明治9年)にはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に作品が入選する。代表的なものに「バーナード城」(宮内庁蔵)がある。
1878年(明治11年)に鍋島直大夫妻が帰国した後、鍋島の命でパリに留まり本格的に洋画技術を習得するために、美術学校教授でアカデミー派の大家のレオン・ボナに師事する。1879年(明治12年)にパリから帰国する。
第三次滞欧
1880年(明治13年) – 1882年(明治15年)。
駐伊公使となった鍋島直大に随行してローマに赴く。
百武兼行は渡欧の際、工部大学校で洋画を指導していた外国人教師アントニオ・フォンタネージの生徒である松岡寿に渡欧の機会を与え、また赴任時には同学校の教師としてサン・ジョバンニを推挙している。
ローマでの百武兼行は外務書記官としての公務のかたわら街中にアトリエを借り、初めレオン・ボナの友人のチューロン、そしてチューロンの紹介を得て王立ローマ美術学校名誉教授チェーザレ・マッカリの指導を受ける。
ちなみに、この赴任時に描いた「臥裸婦」は、日本人が油絵で描いた最初の裸婦といわれる。
晩年
1882年(明治15年)に帰国して農商務省に出仕するが、まもなく病を得て佐賀へ戻り、そのまま1884年(明治17年)に42歳で没した。残された作品も数が少なく約40点ほどといわれている。
主な作品
バーナード城(1878年、宮内庁蔵)
母と子(1878年、佐賀県立有田工業高等学校蔵)
少女習作(1879年頃、高岡市美術館蔵)
ブルガリアの女(1879年、東京芸術大学大学美術館蔵)[1]
マンドリンを持つ少女(1879年、鍋島報效会蔵)
臥裸婦(1881年頃、石橋美術館蔵)
臥裸立像(1881年頃、神奈川県立歴史博物館蔵)
ピエトロ=ミッカ図(1882年、前田育徳会蔵)

中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) – 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹は号である。また剣閣主人ともいった。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。

業績
明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりもむしろ絵画の味わいがある。また、水墨画も数多く残している。
略歴
肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。
18歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。
明治10年(1877年、51歳)、清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。
明治15年(1882年、56歳)、梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
明治17年(1884年、58歳)、帰国し、明治24年(1891年、65歳)のとき、王羲之の十七帖の臨書を明治天皇に献上した。
80代半ばより、自らの書の歩みの集大成となる『梧竹堂書話』の執筆を始めている。
大正2年(1913年、87歳)、生涯を閉じた。

青木 龍山(あおき りゅうざん、1926年8月18日 – 2008年4月23日)は陶芸家である。 佐賀県西松浦郡有田町生まれ。本名は久重(ひさしげ)。多摩美術大学日本画科卒業。染め付けや色絵の白磁の町・有田で、漆黒の天目釉を中心とした作陶で知られる異色の作家。
略歴
1926年(大正15年)有田町の陶磁器製造販売会社の長男として生まれる。 佐賀県立有田工業学校を経て、1951年(昭和26年)多摩美術大学日本画科を卒業すると同時に、神奈川県の法政大学第二高等学校および法政大学女子高等学校の美術教師となり、以後二年間勤務するが、父に呼び戻されて、祖父の興した会社に入る。
青木家は16世紀後半より、外尾山窯および廟祖谷窯で代々窯元として業を為して来たが、1899年(明治32年)祖父・甚一郎によって、貿易を主とした内外向け陶磁器製造販売を広く手がける青木兄弟商会へと発展する。父の代に有田陶業と改名するも、のちに倒産。そこで龍山は、フリーの陶磁器デザイナーとして生計を立てながら日展入選を目指し、個人作家として生きる道を決意する。1954年(昭和29年)第十回日展に「花紋染付大皿」で初出展初入選を果たし、以降順調に入選を重ねて、いわゆる日展系の作家として頂点に立つ。
染め付けや色絵の町・有田にあって、一貫して広口の磁器の張りのある豊かなフォルムを追求し続け、漆黒の天目釉に鉄砂、銀砂、青、翠などで条線文様を施したモダンなデザインで、花器を中心に新境地を展開し、有田焼の代表的作家となった。 生涯、弟子を取らずに妻。綾子(2007年死去)と共に二人三脚で天目を焼き続け、焼き物の里・佐賀で初めての文化勲章受章者となる。2008年(平成20年)4月23日、肝臓癌により死去。81歳没。従三位に叙せられる。
陶芸家の青木清高は長男。

栄誉
1971年(昭和46年)第三回日展で「豊」が、特選受賞。
1973年(昭和48年)第十二回現代工芸美術展で「豊延」が、会員賞および文部大臣賞受賞。
1981年(昭和56年)社団法人日本現代工芸美術家協会理事に就任。
1982年(昭和57年)社団法人日展会員。
1988年(昭和63年)第二十七回日本現代工芸美術展で「天目韻律」が、理事出品にて文部大臣賞受賞。社団法人日展評議員に就任。
1991年(平成3年)第二十二回日展出品作「胡沙の舞」にて、第四十七回日本芸術院賞受賞。社団法人日展理事に就任。
1992年(平成4年)日本芸術院会員。
1993年(平成5年)第五十二回西日本文化賞受賞。社団法人日本現代工芸美術家協会副会長、および社団法人日展常務理事に就任。
1999年(平成11年)文化功労者。
2000年(平成12年)佐賀大学美術科客員教授に就任。
2005年(平成17年)文化勲章受章。

酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん、初代:1596年11月15日(慶長元年9月25日) – 1666年7月20日(寛文6年6月19日))は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称。
2015年3月現在、第十五代酒井田柿右衛門(1968年 – 、旧名:浩(ひろし)、2014年に襲名)が当代である。

歴史
良質の陶土が発見されたため現在の佐賀県西松浦郡有田町に移住した酒井田円西は、息子である喜三右衛門とともに陶器や白磁、染付などの磁器を製作していたが、やがて17世紀前半に喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功し、柿右衛門を名乗った。
初代は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式(後述)と呼ばれる磁器の作風を確立し、その作品はヨーロッパなどにも輸出されマイセン窯などでは模倣品も作られた。また、磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯にも影響を与え(景徳鎮伊万里)、同様の作品が作られやはりヨーロッパに輸出された。1666年に没した初代、その息子である二代(1620年-1661年)、二代の弟の三代(1622年-1672年)は製作期が重なっており、作風にも大きな差は見られない。また、三者とも極めて技量が高かったと言われる。これに加えて四代(三代の息子、1640年-1679年)までの間が初期柿右衛門とされる。
続く17世紀後半から18世紀前半にかけての約90年間、五代(1660年-1691年)から七代までが中期柿右衛門とされる。五代は技量が芳しくなかったために、1685年を以って鍋島藩からの恒常的な発注が差し止められた。六代(1690年-1735年)は意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ、食器類のほか花器、香炉など様々な磁器製品を高い水準で量産することに成功したため、中興の祖とされる。また1724年には嘆願書を藩に提出し、臨時の発注の一部が酒井田家に用命されることとなった。この一方で、高い技術が要されることなどから七代(1711年-1764年)以降に濁手の作品は中絶してしまう。
18世紀前半から19世紀にかけての八代(1734年-1781年)、九代(1776年-1836年)と十代(1805年-1860年)の期間は後期柿右衛門とされ、主に染付の磁器を製作した。七代から八代にかけては四角の中に福の字が入った「角福」と呼ぶマークを施したものが多い。これは明清の陶磁器に元々あったものである。
近代以降では、十一代(1839年-1916年、1860年に襲名)は「角福」のマークの商標登録の可否などを争う訴訟を起こして経済的に困窮したが、海外にも積極的な出品を行なった。1919年には出資する事業家と共同で十二代が柿右衛門合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与した。しかし美術品の制作を志向する十二代(1878年-1963年)は会社と経営方針が合わず、1928年に関係を解消した。以降それぞれが「柿右衛門」作品を制作したが、1969年に和解し、その後合資会社は名義を使用していない。
十二代と十三代(1906年-1982年)は1947年頃から濁手の復活を目標とし、1953年に初めて濁手の作品を発表した。濁手の製作技術は1955年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択され、1971年には重要無形文化財に指定されている(保持団体として柿右衛門製陶技術保存会を認定)。
柿右衛門様式

東京国立博物館
柿右衛門様式は、主に大和絵的な花鳥図などを題材として暖色系の色彩で描かれ、非対称で乳白色の余白が豊かな構図が特徴である。上絵の色には赤・黄・緑、そして青・紫・金などが用いられる。また、器の口縁に「口銹」と言われる銹釉が施されている例も多い。同じ有田焼でも、緻密な作風の鍋島様式や寒色系で余白の少ない古九谷様式と異なり、柔らかく暖かな雰囲気を感じさせる。
濁手と呼ばれる独特の乳白色の地色は、赤色の釉薬との組み合わせによって非常に映えると言われる。しかし、原料となる土の耐火性が強いなど調合が困難である。さらに焼成時・乾燥時の体積変化が非常に大きいため、作製が困難であり歩留まりが良くない。
図柄には「岩梅に鳥」「もみじに鹿」「竹に虎」「粟に鶉」など典型的なパターンがいくつかある。絵柄は時代とともに変化しており、初期は明赤絵の影響があったが、やがて狩野派、土佐派、四条派、琳派などの影響が入っていった。近年は写生を基にした現代的な画風が多い。
製作の分担
作品は「酒井田柿右衛門」名義となるが、特に江戸時代における陶磁器の製作は成形、焼成、絵付けなど各プロセスをそれぞれ熟練した職人が分担しており、一人で製作していたわけではない。例えば明治時代以降では数十人の職人を雇用しており(それ以前も同様と思われる)、個人のクリエーターというより製作チームの統括者かつデザイナーとして考えた方がより実像に近い。このためなどもあり、初代が柿右衛門様式を考案した単独の個人であるかを疑う学説もある。(加藤唐九郎らの提唱。)
歴代の酒井田柿右衛門
初代酒井田柿右衛門
二代目酒井田柿右衛門
三代目酒井田柿右衛門
四代目酒井田柿右衛門
五代目酒井田柿右衛門
六代目酒井田柿右衛門
七代目酒井田柿右衛門
八代目酒井田柿右衛門
九代目酒井田柿右衛門
十代目酒井田柿右衛門
十一代目酒井田柿右衛門
十二代目酒井田柿右衛門
十三代目酒井田柿右衛門
十四代目酒井田柿右衛門
十五代目酒井田柿右衛門
柿右衛門を題材にした物語
1912年(大正元年)に「名工柿右衛門」という歌舞伎が榎本虎彦により制作され、第十一代片岡仁左衛門が主演した。十一代柿右衛門と親交のあった仁左衛門のはまり役だったとされ上演回数が多く、その後も他の俳優達によって演じられた。なお、内容は史実に基づいておらずフィクションである。
また、夕日に映える柿の実を見て初代が赤絵磁器を作ったとする逸話が「陶工柿右衛門」や「柿の色」の題で作者・友納友次郎により大正時代の小学校の教科書に掲載され、広く知られていたが、これはオランダにおける陶工の琺瑯彩に関するエピソードを柿右衛門に当てはめたもので「名工柿右衛門」と同様に創作である。
落語には「猫の皿」という噺がある。

有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。
九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景が見られる。

「有田焼」と「伊万里焼」
近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。また英語での呼称も “Imari” が一般的である。寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。
明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになった。有田を含む肥前磁器全般を指す名称としては「伊万里焼」が使用されている。
歴史

径22cmの染付中皿。18世紀中後期の量産品
磁器生産の開始
肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は、1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。
近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森窯、小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色1色で図柄を表した磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮ではもっぱら白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている。
1637年(寛永14年)に鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。
色絵磁器の登場・発展
その後1640年代に中国人陶工によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行う色絵磁器が生産されるようになった。伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、かつては加賀国(石川県)九谷の産とされていたが、20世紀後半以降の窯跡の調査により、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占めることが分かっている。ただし従来言われていた加賀国(石川県南部)での生産も、1650年代から20年間程ごく小規模に行われていた(この産地問題については、別項「九谷焼」を参照)。なお、ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていた。

色絵蓋付大壷(江戸中期)
17世紀後半、1660年代から生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、研究の進展により、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっており、様式の差は窯の違いではなく、製造時期および顧客層の違いであることが分かっている(日本国内向けの古九谷様式に対し、柿右衛門様式は輸出に主眼が置かれていた)。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。
17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになった。有田の金襴手は中国明代後期の嘉靖・萬暦期の金襴手をモデルにしている関係から、皿底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多いが、これは当時の陶器先進国中国製のイミテーションのためにデザインの一部として取り入れたものであると考えられている。
また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産した。安価で流通したこれらの碗は、当時出現して人気を得た屋台でも食器として使用された。当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶ。
一方、「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。(詳細は「鍋島焼」の項を参照。)
当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部に出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。
海外への輸出
磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。
こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい競争に晒されることとなる。また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行った事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。19世紀は明治新政府の殖産興業の推進役として各国で開催された万国博覧会に出品され、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まった。この輸出明治伊万里は第四の伊万里様式美として研究され、確立されつつある。万国博覧会の伊万里と称される。
酒井田柿右衛門
酒井田柿右衛門家は、鍋島焼における今泉今右衛門とともに、21世紀までその家系と家業を伝えている。
1982年に襲名した14代目は重要無形文化財「色絵磁器」の保持者として各個認定されている(いわゆる人間国宝)。また、柿右衛門製陶技術保存会が、重要無形文化財「柿右衛門」の保持団体に認定されている。「柿右衛門」を襲名して、戸籍名の変更まで行うが、酒井田姓は本名であり、嫡子相伝の伝統は変わっていない。14代目が2013年に没した後、2014年2月4日に長男が15代目となる柿右衛門となった。
「手描き」と「転写」
有田焼には酒井田柿右衛門が創始した伝統的な技術である「手書き」と、大量生産とコスト削減を目的とした「転写」の技術が存在する。 手描き作品は相対的に手間がかかり、作家の技量や個性が反映されるため美術品や陶芸作品として販売される場合が多い、転写作品は品そのものに対する価値は低いものの価格が安い場合がある。また、一部を手書きで行い、他の部分を転写とする方法も行われている。すべての行程を手書きで行った作品は総手書きと呼び、プリント印刷である転写と比較し完成まで時間が非常にかかる。(転写の技術はデカールを参照。)しかし、一概に転写作品は値段が低いという事もない。手描きと転写は手に持った手触りから簡単に見分けることができる。特に手描き作品では絵具が隆起しており、作陶家の心髄を感じることができる。一方、転写作品は全体的にのっぺりとしており、滑らかな感触を味わう事で判断することが可能。
染付
染付は、8時間から9時間、約900度の素焼窯での焼成行程の後、呉須で絵紋様を描くものである。細筆での輪郭描きと、紋様を塗り込める濃(だみ)の行程とに分かれ、ダミは太いダミ筆を用いて、細筆で描いた輪郭の内側の部分に染付の濃淡を付ける職人技法である。染付の原料となる呉須は江戸時代までは明(中国の王朝)から、また明治時代以降は西洋からのコバルトを使う技術が用いられている。
作品
重要文化財(国指定)
(初期伊万里)
染付花卉文徳利(箱根美術館)
染付山水図大鉢(大和文華館)
(古九谷様式)
色絵牡丹獅子文銚子(文化庁)
色絵亀甲牡丹蝶文大皿(梅沢記念館)
色絵竹叭々鳥文大皿(東京国立博物館)
色絵牡丹文八角大皿(サンリツ服部美術館)
色絵牡丹鳥文大皿(サンリツ服部美術館)
(柿右衛門様式)
色絵花鳥文八角大壺(出光美術館)
色絵花鳥文八角大壺(サントリー美術館)
色絵五艘船図大平鉢(サントリー美術館)
色絵花卉(かき)文輪花鉢(広島県立美術館)
(染付)
染付山水図輪花大鉢(佐賀県立九州陶磁文化館)
その他
色絵狛犬(佐賀県重要文化財)17世紀後半
染付有田皿山職人尽し絵図大皿(佐賀県重要文化財)19世紀
日本国外との関わり
佐賀県有田町とドイツ連邦共和国のマイセン市は、17世紀に日本から輸出された古伊万里や古い有田焼がドレスデン博物館に多数保管されていた事が縁となり、1979年より姉妹都市となっている。
また、ロックバンド・クイーンのフレディ・マーキュリーは伊万里焼を愛好していた。

伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。有田の製品のほか、三川内焼、波佐見焼なども含む。

概要
中国では紀元前から原初的な磁器が製造され、後漢時代(西暦25年 – 220年)には本格的な磁器が焼かれていたが、日本では中世までのやきものは陶器であり、磁器は輸入品に頼っていた。日本で初めて国産磁器の製造が開始されたのは17世紀、有田(佐賀県有田町)においてであった。
伊万里焼の文献上の初出は寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)である。同書に「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。有田、波佐見などの肥前の磁器は、近世には主な積み出し港の名から「伊万里焼」と呼ばれた(近世には「今利」「今里」とも書かれることが多かった)。有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになったのは、近代以降、船に変わって鉄道が輸送の主力となってからのことである。研究者はいわゆる「伊万里焼」を「肥前磁器」と呼ぶことも多い。
歴史
佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂が豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年 – 1598年)に参加したことをきっかけに、朝鮮から多くの陶工が拉致・亡命などにより佐賀へ渡った。これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。通説では朝鮮出身の李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされている。金ヶ江三兵衛が実在の人物であることは古文書等から確認されているが、元和2年(1616年)に初めて磁器を焼造したということは史料からは確認できない。九州陶磁文化館の大橋康二らの窯跡調査によると、磁器が最初に焼造されたのは有田東部の天狗谷窯ではなく、有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯などの窯であり、消費地での発掘調査などから、磁器製造の創始は1610年代であるというのが定説になっている。1637年に焼き物産業推進方針を決めた鍋島藩により窯場は13箇所に整理され、渡来人陶工を中心とした本格的な有田焼産業が発達した。
1610年代から1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称する。この時期の製品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色である。初期の磁器は、砂目積みという技法が使われている。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国製の磁器にはみられない朝鮮独特の技法である。このことから、朝鮮から渡来の陶工が生産に携わったことが明らかである。一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、呉須(コバルトを主原料とする絵具)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来(中国出身の陶工作)のものであると考えられる。この初期伊万里は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、次第に九谷焼や柿右衛門などに押され市場から姿を消してしまった。しかし初期伊万里は後に1960年頃より素朴な美しさや叙情美が再評価され、早々に市場から淘汰されたことによる流通量の少なさから以後は希少性が高く高値で珍重されるようになった。
1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が創始され、国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産された。これらは、加賀(石川県)の九谷が産地であると長年考えられていたことから「古九谷」と称され、現代の陶磁史では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」と称されている。
1640年頃からは鍋島藩が将軍家・諸大名などへの贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始。この藩窯製品を今日、「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいる。
中国では1644年に明王朝が滅亡。1656年には清により遷界令が発せられて、商船の航行が禁止され、中国陶磁の輸出が一時途絶えた。このため、オランダ商館長ツァハリアス・ヴァグナーは中国製陶磁器を見本としてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼し、伊万里焼の海外への輸出が始まった。中国製磁器の輸出が再開されてからは、東南アジア方面の市場は中国製磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続した。
1670年代には、素地や釉薬が改良され、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られるようになった。この濁手の素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称している。
1690年代には染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった。これを「古伊万里金襴手」と称し、この種の様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となった。

金襴手様式
金襴手とは陶磁用語で(きんらんで)と読む。絵付した後,金を焼き付けて文様を表したもので,赤絵,色絵に施す金彩との配色が織物の金襴(金糸で文様を織り出した織物)と似ているところからこの名が出た。16世紀中ごろ中国江西省景徳鎮民窯で作られ発達、江戸時代中期に日本に持ち込まれ白磁をベースに赤地に金彩で文様を表す金襴手が流行した。福右衛門窯では現代的な転写技術に頼らず、脈々と受け継がれてきた伝統的な手法による作陶が行われており献上手古伊万里焼最後の担い手と言われている。
伊万里焼と古伊万里
伊万里焼と古伊万里の大きな違いは、作品そのものの持つ骨董的価値の有無である。江戸時代に有田(佐賀県有田町)で焼成された歴史的、骨董的価値のある作品を古伊万里と呼び、明治以降に現在の佐賀県伊万里市で焼成された陶磁器のことを伊万里焼と呼ぶ。明治初期に焼き物を産地名で呼ぶようになり、現在の伊万里焼と呼ばれる陶磁器が誕生することとなった。古伊万里は中国の王朝である明から清への時代変革時に発生した、欧州での中国磁器の断絶に代わる最良の品として欧州へと輸出されることとなった。古伊万里はヨーロッパの王侯貴族達に愛され、今でもオールドイマリ(Old Imari)として世界中に熱烈なコレクターが存在する。

唐津焼(からつやき)は、近世初期以来、現在の佐賀県東部・長崎県北部で焼造された陶器の総称。日常雑器から茶器までさまざまな器種があり、作風・技法も多岐にわたる。茶碗は古くから「一楽二萩三唐津」と称されて名高い。分派の武雄古唐津焼と共に、日本の伝統的工芸品に指定されている。

歴史
唐津焼は、近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、2005年の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。
伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。
天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。
文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった。
古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である。
文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる。
草創期は食器や甕(大型の甕が多く肥前の大甕と呼ばれる)など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。
だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。
唐津焼の特徴
唐津焼の特徴は李氏朝鮮(一説に、華南)から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。窯は連房式登窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締める。意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。
唐津焼の種類

絵唐津・鉄絵萩文壺、1590-1610年代。

二彩手・型紙摺唐花唐草文大皿、1610-1640年代。佐賀県の重要文化財に指定されている。
唐津焼は時代によって様々な焼き物が焼かれた。大きく分けて次のようなものがある。
絵唐津
器に鬼板と呼ばれる鉄溶液を使って花鳥、草木といった意匠を描き込んで、灰色釉など透明な釉薬を流し込み、焼成したもの。土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す。
朝鮮唐津
李氏朝鮮の陶工から伝わった伝統的なスタイル。黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉を下から掛けたもので、二つを交わらせて風景を表すもの。上下逆の物もある。
斑唐津
長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったもの。独特のざんぐりとした風合いは茶器に好まれる。
三島唐津
朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。
粉引(こびき)唐津
褐色の粘土を使用、生乾きのうちに化粧土を全面に掛け、乾燥させた後に釉薬を掛けたもの。
奥高麗(おくごうらい)
高麗茶碗の井戸、呉器、熊川風の造形の茶碗で、通常、無地である。和物茶碗として極めて評価が高い。
瀬戸唐津
青唐津
黄唐津
彫唐津
刷毛目唐津
櫛目唐津
蛇蝎(じゃかつ)唐津
二彩唐津
緑色銅釉と茶褐色の鉄飴釉で松文などが描かれた。産地としては武雄系唐津古窯などが知られている。現在はあまり作られていない。

白石焼(しらいしやき)は佐賀県みやき町北茂安で焼かれる陶器。古くは磁器が中心で、有田、唐津と共に肥前の代表的な磁器産地として名を馳せ、有田の西目の皿山に対し、東目の皿山と呼ばれた歴史を持つ。

歴史
古くからみやき町のある三養基郡一帯は須恵器、瓦などが焼かれていたが、白石焼としては宝暦年間に枡谷金右衛門が深掘丹作の奨めで根を下ろし、この地で作陶を始めたのが始まりである。金右衛門が焼く陶器は隣国の久留米藩などで評判を生んだ。その後、寛政12年、鍋島藩お抱えの陶工、藤崎百十が天草の陶石を使った磁器を焼き始めた。更にその数年後、文化3年には佐賀鍋島藩の分家である白石鍋島家が御用窯として知られていた伊万里の大川内山から陶工を招き、本格的な磁器産地とした。特にこの頃に京から招かれた臼井走波の染付磁器は高い評価を浴び、走波焼とも呼ばれた。その後、野田吉次郎、中村吉兵衛といった名工を輩出、白石は有田に比肩しうる名産地として名を馳せた。
しかし明治維新によって藩政が崩壊し、後ろ盾を失った白石焼は急速に衰えを見せた。中国風の作品を作ってみたり、有田焼(伊万里焼)のように輸出を睨んだ大量生産を試みたりしたが、いずれも空回りした。そして1902年(明治35年)には磁器産業は廃絶した。その後は陶器だけを焼き続け、土鍋、火鉢、水甕、植木鉢などの生活雑器を焼くことで凌いでいったといわれる。また、駅弁と一緒に売られていた茶器(汽車瓶)もほぼ独占的なシェアを持っていたという。最盛期には60軒あった窯元も年月と共に減少していき、2011年現在では4軒の窯場が残る。窯場は閑散とした竹林沿いにあり普段はひっそりしているが、毎年9月に行われる陶器市の頃は多くの観光客で賑わいを見せる。
特徴
白石焼の特徴は原料の土にある。天草の陶石に加え、「五穀さん」と呼ばれる地元産の粘土を混ぜて用いる。民芸調の作品が主流で、伝統的な飛び鉋、焼き締め、掻落(かきおとし)などの技法に加え、現代的な感覚の絵付けを行っており、白を基調とした端整な気品を持ちながらも、季節の花などをモチーフとした意匠も相俟って、どこか懐かしさを感じる独特の風合いが特徴。

肥前吉田焼(ひぜんよしだやき)は佐賀県嬉野市にて焼かれる磁器である。歴史は非常に古く、天正5年頃に作られた陶磁器の破片が発掘されている。後に佐賀藩主、鍋島直茂が朝鮮陶工を吉田山に招き、磁器を焼かせたことから吉田焼が生まれた。享和年間から食器などの生活雑器を中心に焼き、繁栄した。だが天保年間に入り、生産過剰により単価が下落、窮地に立たされた。
明治に入り、磁器生産の「精成社」が吉田山に創業された。主に輸出用の食器を生産した。有田から学んだ技術の向上もあり中国・朝鮮などに市場を広げ、大正年間には朝鮮半島向けの市場を独占するほど好景気に沸いた。しかし後の朝鮮の情勢悪化や他生産地の台頭などもあり、次第に衰えていった。しかし、窯場を集めて共同出資した吉田製陶株式会社の設立などで合理化を図り、廃絶は免れ今日に至っている。現在は11軒の窯元があり、嬉野温泉の発展に伴い観光客向けの食器を多数焼いている。
特徴
肥前吉田焼は古くから生活向けの食器類を焼いてきており、確立されたスタイルは存在しない。主に染付磁器・色絵などを焼いているが、窯元によって伝統的な青磁から現代的なデザイン、伝承や物語をあしらった意匠のものなど様々である。また作品も湯呑み、茶碗、酒器からコーヒーカップ、花瓶まで幅広い。非常にリベラルな作風を持った陶磁器といえる。

肥前尾崎焼(ひぜんおざきやき)は佐賀県神埼市で焼かれている陶器である。
九州でも有数の古窯で、伝承によると弘安の役の際に捕虜とした渡来人に製陶の技法を学び、焼いたのが尾崎焼のルーツであると言われるが他にも諸説がある。安土桃山時代には長右衛門右京という陶工が作った茶器を豊臣秀吉に献上したところ、大変激賞し右京に御朱印を賜ったと伝えられる。江戸末期には生活雑器を焼いており、規模は小さいながらもそれなりに繁栄した。だがその頃の尾崎焼は非常に脆いものであったため、現存する物は極めて少ない。
昭和初期には火鉢や七輪、植木鉢、焙烙などを焼いていたが、その頃には既に5軒しか残っていなかった。戦後にはほとんどの火が絶え、平成17年現在では日の隈窯一軒のみが残っているが、当時の尾崎焼とは全く異なる焼き物である。現在の尾崎焼は地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品である。
尾崎人形
尾崎焼のもう一つの特徴として伝統的な土人形制作がある。この人形の歴史は古く、弘安の役で捕虜となったモンゴル兵が地元の人に病気を手厚く看護してもらったお礼に教えたものであると伝えられている。その後表に出ることなく脈々と技法が受け継がれてきたが、人形師であった伊東征隆が福岡の柳川に転居したため、地元佐賀県では廃絶した。だが平成2年に八谷至大が「尾崎焼保存会」を結成し、技術の継承に努めている。この尾崎焼は福岡の赤坂人形の流れを汲む。また、赤坂人形と同様に鳩笛が有名で、鳴き声から「テテップー」という愛称がある。他には軍配持ち、堂内天神、饅頭割小僧などのユニークなモチーフがある。

武雄古唐津焼(黒牟田焼/多々良焼/小田志焼)

佐賀錦(さがにしき)は、肥前国鹿島藩(現在の佐賀県鹿島市周辺)の御殿女中に受け継がれた織物。箔糸(金銀箔を漆で和紙に貼り、細く切ったもの)を経糸とし、絹糸を緯糸にするのが特徴である。鹿島錦とも。
織機ではなく、織り台という縦46センチ・横32センチ程度(帯用の一回り大きなものもある)の小さな台に経紙と呼ばれる経糸を掛け、「網針(あばり)」という杼を簡略化したような針と竹べらで絹糸を織りこんでいく。
網代型や卍繋ぎ、菱型などの幾何学模様を綾織りと平織りで端正に織り出し、気品のある華やかさと和紙を使った独特の風合をもつ。
帯地などに使われることもあるが、現在は鞄や財布といった小物の生産が主である。

概要
1931年(昭和6年)に出版された、勝屋弘義(鍋島氏の旧臣)著『藤津郡人物小志』によると、佐賀錦は以下のように発生したといわれている。
文政年間に、鹿島鍋島家の9代目藩主夫人であった柏岡の方が病に伏せるが、その間、部屋の網代組みの天井を見るうちに、その美しさに大変心を惹かれた。柏岡の方が近習の者達に網代組みの天井の美しさを何か身近なものに写したいと打ち明けたところ、夫人を慰めるために、とある近習が紙縒りを使って小物を作り、喜ばれたという。
この網代組みの小物が佐賀錦の祖であったと伝えられる。佐賀錦が本格的に生まれ出たのは、11代目藩主夫人である柳岡の方と、13代目藩主夫人葛子が、経糸に紙、緯糸に綿糸を使って手遊びで織り上げたことに始まる。藩主の鍋島直彬に勧められて、柳岡の方と御殿女中たちは紙糸を金箔糸に、綿糸を絹糸に代えてより美しい織物を作り上げた。これは御殿女中たちの間で受け継がれ、参勤交代の際にも幕府へ献上された。
明治の初め、廃藩によって中奥が解体され、佐賀錦は存続の危機となったが、佐賀錦の消滅を惜しんだ大隈重信の肝煎りで、1910年(明治43年)、ロンドンの日英大博覧会に出品されたところ、大好評を博した。これを機に、「おくみもの」「組錦」「鹿島錦」と呼ばれていたものが、産地を明確にするため「佐賀錦」という名称に統一されるようになった。
工程
経糸を調節する「起こし板」がついた織り台を台に置き、裏にある2本の巻軸に糊を付けてカメラのフィルムを巻く要領で和紙を巻き込む。
経糸となる紙を一寸幅あたり数十本の切り目を入れる。デザインにより、太いもので三十割(一寸あたり三十本)から六十割(一寸あたり六十本)まであるが、四十割か三十五割がよく用いられる。織り台に巻き込んである和紙の中心に合わせて止める。経糸に使う紙は必ず手漉き和紙で、繊維が長いために粘り強く引っ張りに強い。
経糸の下部に糊をつけ、数十本ずつ間隔を開けながら和紙に貼りつける。
経糸を整えながら、巻き棒を回して織り台に巻き込んでいく。
オベリスク型をした柄の長い竹ヘラで経糸を1本おきに掬い上げ、反対側で同じ作業を繰り返す。上下に開いた経糸の間に紙縒りを通す。
「あばり」と呼ばれる杼の代用となる針に絹糸を巻きつけ、経糸を五・三(綾織り)・一(平織り)ずつ拾って色鮮やかな絹糸を織り込んでいく。熟練者でも1cmあたり2・3時間を費やすことも少なくない。

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