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伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 – 2001年6月5日)は、昭和期の洋画家である。裸婦像の名手として知られる。
兵庫県出石郡出石町下谷(現在の豊岡市)生まれ。日展および白日会を中心に活躍した。元愛知学院大学教授。
略歴
1911年 – 兵庫県出石町下谷に生まれる
1928年 – 岡田三郎助門下生となり本郷研究所入所
1935年 – 東京美術学校油絵科卒業
1936年 – 文部省美術展で「磯人」が選奨(特選)受賞
1947年 – 日展で「I夫人像」が特選受賞
1948年 – 日展で「室内」が特選受賞
1953年 – 伊藤絵画研究所創設
1956年 – 日展審査員
1962年 – 渡欧し、フランスとオランダで制作
1977年 – 「曙光」が日本芸術院恩賜賞[1]および日展内閣総理大臣賞受賞
1984年 – 日本芸術院会員
1989年 – 兵庫県文化賞を受賞し兵庫県公館に作品が展示保存される。出石町立伊藤美術館開館
1996年 – 文化勲章受章
1997年 – 「伊藤清永賞子ども絵画展」創設
2001年 – 長野県軽井沢町の病院で死去
岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) – 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」
略歴
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。
画風
絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿や梁楷風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、しばしば浮世絵の源流といわれる。
代表作としては川越市喜多院の「三十六歌仙」の額絵、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。歌舞伎や文楽の人気演目である「傾城反魂香」の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。
興宗寺にある岩佐又兵衛の墓
墓所は福井県福井市の興宗寺。
代表作(工房作を含む)
京都在住時代[編集]
「洛中洛外図屏風」(舟木本)(重要文化財)六曲一双 紙本金地着色 東京国立博物館 1614-15年
元は滋賀の舟木家に伝来したため、他の洛中洛外図と区別する必要もあって舟木本とも呼ばれる。「又兵衛前派」の作との意見もあったが、今日では左隻は弟子が担当したと見られるものの、又兵衛自身が制作に関与したとの説が有力。
福井在住時代
「豊国祭礼図屏風」(重要文化財) 徳川美術館
豊臣秀吉の七回忌に当たる、慶長9年(1604年)8月12日から18日にかけて盛大に行われた臨時大祭の光景を描いた作品。舟木本と比べ、人体表現に不自然な写し崩れや歪みが見られる事から、舟木本の後に制作されたと考えられる。
右隻六扇目中央左、上半身裸の男が持つ朱鞘には「いきすぎたりや、廿三、八まん、ひけはとるまい」と記されている。これは慶長17年(1612年)江戸で処刑されたかぶき者の頭領大鳥逸兵衛(一兵衛)の鞘の銘「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」を模したと言われ、戦乱が終わろうとしている時代に生まれた当時の若者の気持ちを表す資料としてしばしば言及される。
この屏風の発注者は、装飾の特徴や伝来経緯から松平忠直だと想定できる。徳川一門の忠直が、豊臣氏の祭礼を描かせるのは矛盾しているように思われるが、忠直は幕府に反抗的で後に配流された人物でもある。忠義は、霊廟に祀られた秀吉に幕府の創設者徳川家康を仮託し、秀吉の遺言に背いて豊臣家を根絶やしにし豊国神社の破却を命じておきながら、自分の死後は東照大権現として祀らせるという家康が行った矛盾した二番煎じを、徹底したパロディとして表現するのが主眼だったとする意見がある。
旧金谷屏風 元和末から寛永初年頃
元々、福井の豪商金谷家に伝わっていた紙本・六曲一双の押絵貼屏風(屏風の一扇一扇に一枚ずつ絵を貼ったもの)。「官女観菊図」付属の伝来書によれば、松平直政が金谷家当主に下賜したものだという。現在は一扇ごと軸装され、諸家に分蔵されている。左右の端に龍虎、その間に源氏物語や伊勢物語や、中国の故事人物を隣合わせに描き並べた構成は他に類を見ない。手法を見ても龍虎のような水墨画と、官女観菊図のような土佐派的白描画が、同一筆者による屏風絵の中に、いずれも本格的なものとして共存しているのは異例である。また、その水墨画も、海北派や長谷川派、雲谷派の画法を取り入れたあとが見られる。下に右隻一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「虎図」 墨画 東京国立博物館
「源氏物語・花の宴(朧月夜)図」 着色 所在不明
「源氏物語・野々宮図」(重要美術品) 淡彩 出光美術館
「龐居士図」(重要美術品) 着色 福井県立美術館
「老子出関図」 淡彩 東京国立博物館
「伊勢物語・烏の子図」(重要美術品) 着色 東京国立博物館
「伊勢物語・梓弓図」(重要文化財) 着色 文化庁
「弄玉仙図」(重要文化財) 着色 摘水軒記念文化振興財団寺島文化会館蔵
「羅浮仙図」(重要美術品) 着色 個人蔵
「唐人抓耳図」 着色 所在不明
「官女観菊図」(重要文化財) 淡彩 山種美術館
「雲龍図」 墨画 東京国立博物館
池田屏風(旧樽谷屏風)
旧岡山藩池田公爵家に伝わった着色・八曲一隻の腰屏風押貼絵を分割したもの。旧称「樽谷屏風」の名前の由来は不明。大正8年の売り立てで分割された。下に一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「貴人の雪見」 所在不明
「王昭君」 サンフランシスコ・アジア美術館(ブランデージコレクション)
「寂光院」(重要文化財) MOA美術館
「伊勢物語・花の宴」 所在不明
「伊勢物語・梓弓」 所在不明
「伊勢物語・五十三段」 出光美術館
「僧をたずねる武人」 所在不明
「職人尽・傘張りと虚無僧」(重要美術品) 根津美術館
「三十六歌仙絵」 紙本著色 36面 福岡市美術館
落款・印章は無いが、極端に誇張・変形された身体表現を用いて一人一人の個性が巧みに描き分けられており、福井時代初期の又兵衛作だと推定される。図上に書かれた和歌が全て削り取られているが、その理由は不明。上野精一旧蔵品。
「人麿・貫之像」(重要文化財) MOA美術館
「和漢故事説話図」 福井県立美術館
「武者絵」 (重要美術品) 紙本着色 ニューオータニ美術館
「花見遊楽図屏風」 四曲一隻 個人蔵
古浄瑠璃絵巻群[編集]
「山中常盤物語絵巻」(重要文化財) MOA美術館 12巻
「浄瑠璃物語絵巻」(重要文化財) MOA美術館 12巻
「小栗判官絵巻」 宮内庁三の丸尚蔵館 紙本著色 15巻 総長約324メートル
「堀江物語絵巻」 MOA美術館に12巻で完結。他に香雪美術館3巻、京都国立博物館1巻、長国寺1巻、個人像1巻で、これらは元はMOA本を元に更に長大にした全24巻の絵巻の一部と見られる。
これらの絵巻には、古浄瑠璃、とりわけ室町時代の御伽草子を元とした浄瑠璃を詞書とする共通点があり、「古浄瑠璃絵巻群」と呼ばれる。優れた作品であると同時に、その詞書は物語の古様を伝えるものとして、文学上でも貴重である。特に観る者を圧倒する極彩色の画面や、群像表現に優れる。画風の特徴は一貫しているが、人物の大きさや描法に様々な違いが見られ、複数の画工が関わったことがわかる。しかし、主要な場面を中心に見受けられる巧みな構図や、卓越した画技は、又兵衛自身が指導して仕上げられたことを示している。
江戸在住時代
「三十六歌仙図額」(重要文化財) 仙波東照宮
明治19年(1886年)同社の宮司がこの扁額裏に「寛永十七年六月七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」という銘があるのを発見した。これにより「勝以」と又兵衛が同一人物であるのが確かとなり、それまで謎に包まれていた又兵衛の伝記が明らかになる切っ掛けとなった。
「三十六歌仙図額」 宮若市・若宮八幡宮所蔵 福岡市美術館寄託 紙本著色 36面 宮若市指定文化財
中古三十六歌仙を全て絵画化した珍しい作品。落ち着いて奇を衒うような表現は影を潜めていることから、60歳代の晩年の作品だと推定される。なぜ若宮八幡社宮に伝来したかは不明だが、本作制作時期に近い頃に若美八幡宮を再建する任に当たった福岡藩黒田家家老・黒田美作が関与した可能性がある。
「四季耕作図屏風」 (重要美術品) 六曲一双 紙本墨画淡彩 出光美術館
「伝岩佐又兵衛自画像」 (重要文化財) MOA美術館
大松 伸洋(おおまつ のぶひろ、1979年 – )は、日本の芸術家(画家・現代美術家・原色アーティスト・平和活動家)。原色で抽象画を描く。一般的には「ポップ・アート」のジャンルに入る。淡路美術協会会員。大学美術教育学会会員。全国造形教育連盟加盟。現在、福岡こども短期大学専任講師。
作品は原色のみで描き、その集合体で表現される。原色の中でもカラフルな色を使いインパクトのある作品が目立つ。『芸術と平和、愛、自然、自由』をテーマに制作、研究を行い、自身の原色的表現の追求のため、60年代から現在のヒッピーの動向に注目し、ヒッピーの考えや自然主義の考えを哲学的にそれらを解釈し制作的研究を行い、それと同時に美術を通じた平和活動も行っている。横浜美術大学教育研究紀要論文編(2013年3月発行:学校法人トキワ松学園横浜美術大学)では、「現代の対抗文化の源流 -ヒッピー文化の継承」の論文を執筆し、ヒッピーの考え方やあり方を現代に問う内容になっている。ヒッピーの思想受け継いでいるためか、様々な国や地域を巡り活動している。また、国境の存在意義についても語っており、「宇宙から地球を見たら国境の線など存在しない、国境は人間が勝手に引いた線であり、国境が人間の行動の自由を奪う」と語っている。そのため本人は「私は日本人ではなく国際人であり、地球に住む人間である」と語るなど、完全な自由・平和主義者である。
来歴
日本の兵庫県の出身。1979年生まれ。姫路市の中学(安室中学校)を卒業後にイギリスに渡り美術を学ぶ。Woodhouse Grove School(GCSE)に入学。ケンブリッジにあるCambridge Centre for six-form studies卒業(高校)。イギリスではブラッドフォードに1年、ハローゲート(英語版)に2年、ケンブリッジに2年、計5年滞在している。イギリスの高校卒業後、ロンドンの美大に合格(ロンドン芸術大学)していたが、ギャップホリデーを利用しニュージーランドに渡る。ニュージーランドを半周し、地球の広さに感動し、世界各国を旅する。サンフランシスコ(アメリカ)、ニューヨーク(アメリカ)、モスクワ(ロシア)、ネルソン(ニュージーランド)と各地を転々とする。
その後日本に帰国し、嶋本昭三に師事するため、宝塚造形芸術大学大学院メディア造形研究科基礎造形に進み、修士課程修了。大学院では現代美術の制作、国境の存在意義の制作研究を行う。修士論文のテーマは「ボーダー/リジョン(国境の存在意義)(インスタレーションの考察)」であった。
大学院修了後、淡路島にアトリエを構え、移住し制作活動を行う。
2007年に東京、銀座で開催されたみずほストリートギャラリー(みずほ銀行銀座中央支店)においては、福田繁雄より選出され、ショーウインドーを使った鮮やかな球体と平面から構成されるインスタレーションの作品を発表、続いて大阪、阪急三番街の南館地下2階のウインドーギャラリーで同じくインスタレーションの作品を制作し注目を集める。
2010年から2013年2月まで横浜美術大学で専任助手として勤務。
2010年-2011年のにカナダ、モントリオールで2度、個展を開催し作品は完売。海外での活躍が目立つ。
現在は日本国内、国外を問わず作品の制作、発表を行っている。
兵庫教育大学大学院 博士後期課程研究科に通い博士号取得にむけ準備を始め、専任講師に選出されたため退学。
2013年4月より、福岡こども短期大学の専任講師に就任、幼児美術(実技)を担当しながら、制作を続けている。
2014年10月より国立 九州大学大学院 芸術工学府 博士後期課程に在籍している。
略歴[編集]
年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2016年7月)
安室中学校を卒業
15歳の時イギリスに渡る。
Woodhouse Grove SchoolでGCSEを修学。美術・数学・化学・古典英語(イギリス、ブラッドフォード)
Heritage language schoolで英語を修学。(イギリス、ハローゲート(英語版))
Cambridge Centre for Sixth-form Studiesで美術と写真、日本語でA-levelsを取得。(イギリス、ケンブリッジ)
各国を転々とする。サンフランシスコ(アメリカ)、ニューヨーク(アメリカ)、モスクワ(ロシア)、ネルソン(ニュージーランド)
宝塚造形芸術大学短期大学部(現宝塚大学)を卒業(デザインを専攻)。嶋本昭三に師事
3年次で学部を変更し現代アートを主に作品を制作する。
2008年、宝塚造形芸術大学大学院で修士号を取得。嶋本昭三に師事
兵庫教育大学大学院 博士研究科研究生 退学
大学院修了後、淡路島にアトリエを構え、移住する。
2010年〜2013年2月まで横浜美術大学の専任助手として働き、日本国内外で制作活動を行う。
2013年より、福岡こども短期大学の専任講師に就任、幼児美術を担当。
2014年10月より国立 九州大学大学院 芸術工学府 博士後期課程に在籍。
岡本帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 – 1930年12月29日)は、童画家。
来歴・人物
兵庫県洲本市に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。東京市立第一中学校卒業。白馬会洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。
その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。
1930年12月、腸チフスにより死去。
弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。
加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 – 2012年5月10日)は日本画家。兵庫県豊岡市生まれ。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。中村大三郎に師事。日展に出品を続ける現役最高齢の日本画家として有名。朴土グループメンバー。
略歴
1912年(明治45)―1月25日、兵庫県城崎郡豊岡町(現豊岡市)に生まれる。
1925年(大正13)―京都市立美術工芸学校絵画科入学。
1929年(昭和4)―京都市美術工芸学校絵画科卒業、卒業制作《たそがれ》(風景 山科の農家)学校買上げ(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)。京都市立絵画専門学校へ進む。
1930年(昭和5)―《山村の道》制作。
1931年(昭和6)―第12回帝展《山の池》初入選。
1932年(昭和7)―京都市立絵画専門学校本科卒業、卒業制作《風景》(六方川)学校買上げ(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)。同校研究科へ進む。中村大三郎に師事。野々内保太郎らほかの弟子たちと中村大三郎画塾の創立と塾展開催を相談するが、師より塾展開催には充分な準備期間をとって世に問うべしと諭され、翌年6月に創立第1回展を開催することに決まる。第13回帝展《裏山道》入選。
1933年(昭和8)―中村大三郎画塾創立第1回展《雪霽れ》《丘》。第14回帝展《秋の測候所》入選。《雪の但馬路》制作。
1934年(昭和9)―第15回帝展《鉄橋のある風景》入選。
1935年(昭和10)―第1回京都市美術展《このま》入選、緑賞受賞。
1936年(昭和11)―昭和11年文展鑑査展《高原の五月》入選。
1937年(昭和12)―中村大三郎画塾第1回試作展《構内所見》《松》《九月の霞沢岳》。京都市立絵画専門学校研究科修了。第2回京都市美術展《渓流》(豊岡市蔵)入選、京都市長賞受賞。
1938年(昭和13)―中村大三郎画塾第2回試作展《山A》《山》《道》《薄暮》《鶏頭》。中村大三郎画塾第2回展《静淵》《椿》《店頭》。中村大三郎画塾名古屋小品展《雨》《初秋》《みのり》《秋景A》《秋景B》《秋景C》《秋景D》。
1939年(昭和14)―中村大三郎画塾小品展《早春の山》《早春雨情》。中村大三郎画塾創立7周年記念展(第3回展)《曇る霞沢岳》《南天》《赤杉》《岩陰》《山》《微風》《菜園風景》《風景》《麦秋》《雨後》《早春》《麦》。第3回京都市美術展《温室》入選、受賞(以後、無鑑査となる)。第3回新文展《岩陰》入選。
1940年(昭和15)―紀元2600年奉祝 中村大三郎画塾展(第4回展)《高千穂峰》双幅《阿蘇烏帽子岳》《山二題》《桐のある風景》《秋林》《晴日の六甲山》《比叡赤映》《家》。ほかの塾員とともに各々、神武天皇聖蹟・伝説地を写生、美代三は《日向襲之高千穂峯》《天香山》の2点を描き、二千六百年奉祝会に献納。同会主催で東京 高島屋で展示される。
1941年(昭和16)―前年、奉祝会に献納した作品で描きもらした神武天皇聖蹟・伝説地を、ほかの塾員と写生、美代三は《狭野》を描き、奉祝会に追加献納。
1942年(昭和17)―第5回新文展《立山の残雪》入選(豊岡市蔵)。
1943年(昭和18)―第6回新文展《赤澤山》入選。
1945年(昭和20)―大東亜戦争必勝祈願 神宮・官弊社奉献日本画展《橿原神宮》。写生《橿原神宮》は前年の作か。
1946年(昭和21)―第1回日展《洛北の家》入選。
1947年(昭和22)―中村大三郎没。中村大三郎画塾は解散となり、翌48年2月、西山翠嶂画塾青甲社に入塾(木下青葉編『青甲社沿革史』(個人蔵)による)。
1948年(昭和23)―第4回日展《雪解頃》
1949年(昭和24)―第5回日展《残照》。以後、68年まで毎年出品。
1950年(昭和25)―第6回日展《朝霧》《山かげる》(豊岡市立病院蔵)入選。
1951年(昭和26)―第7回日展《翠巒》白寿賞受賞。
1952年(昭和27)―第8回日展《籔の池》(舞鶴市蔵)特選・朝倉賞受賞。翌年第9回日展は無鑑査出品となる。
1953年(昭和28)―第9回日展《山路》無鑑査。
1954年(昭和29)―第10回日展《岩》(豊岡市蔵)入選。
1955年(昭和30)―第1回関西展(現全関西美術展)《城門》第3席。第11回日展《戸隠山》入選。
1956年(昭和31)―第2回関西展《苔寺》第2席。日展出品依嘱となる。第12回日展《新緑の山》依嘱出品。
1957年(昭和32)―第13回日展《暮雪》依嘱出品。
1958年(昭和33)―師 西山翠嶂没、青甲社解散となる。旧青甲社の若手塾員 新井富美郎・有元一雄・大塚明・下保昭・神谷紅子・木村広吉・斉藤清策・西圭子・野々内良樹・樋口辰志・福本達雄・細木成実・松井孝二・三谷青子との15名で朴土社結成。西山英雄の指導を仰ぐ。創立の趣旨は「お互いの個性を尊重し益々自由に伸ばせる様、真剣な研究会を持ち、切磋琢磨し、又機会を得て発表し」「斯道に努力」することを目指す、とする。社団法人日展が発足、日展は社団法人日展の主催となり、第1回日展(新日展、以下同)開催。美代三は新日展でも引き続き出品依嘱となり、《立山》依嘱出品。
1959年(昭和34)―第1回朴土社展(京都府ギャラリー)《池》。第1回朴土社展(東京 銀座松屋)《磐梯高原》・《杉の道》。この第1回展は京都展・東京展は別作品。以後、第3回展から第5回展は東京 文春画廊と京都府ギャラリー、第6回展は東京 西村画廊と京都府ギャラリー、第7回展から第10回展は東京 銀座松屋と京都府ギャラリーで開催、第11回展(’69朴土グループ展)からは京都府ギャラリー(のち京都府立文化芸術会館)のみの開催となる。その間、第7回展は富山展も開催。第2回日展《磐梯高原》依嘱出品、京都府買上げ。京都 菊画廊で個展開催。
1960年(昭和35)―第2回朴土社展《杜》《静潭》。第3回日展《岳明》依嘱出品。
1961年(昭和36)―第3回朴土社展《沼》《庭》(豊岡市蔵)。第4回日展《岩岬》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1962年(昭和37)―京都 土橋画廊・東京 銀座松屋で個展開催。第4回朴土社展《池》《静潭》。第5回日展《層雲峡》依嘱出品。
1963年(昭和38)―第5回朴土社展《春》《山添》。第6回日展《礁》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1964年(昭和39)―第6回朴土社展《山湖》《曠野》(冬の高原)。第7回日展《礁》依嘱出品。
1965年(昭和40)―朴土社を朴土グループと改称、第7回朴土グループ展《林》《寒村》(豊岡市蔵)出品。第8回日展《寒村》依嘱出品。
1966年(昭和41)―京都府ギャラリー・東京 松屋で加藤美代三日本画展を開催。大阪 心斎橋小大丸で個展(スケッチ)開催。第8回朴土グループ展《木々》。第9回日展《杜》依嘱出品。
1967年(昭和42)―第9回朴土グループ展《原野》。第10回日展《丘》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1968年(昭和43)―京都 土橋画廊で個展開催。第10回朴土グループ展《溜》(豊岡市蔵)。第11回日展《望岳》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1969年(昭和44)―’69朴土グループ展《雪稜》(豊岡市蔵)《雨余》、この回から回数で呼ぶのをやめ、西暦で呼ぶことにする。社団法人日展役員改選を機に日展が改組される。美代三は出品委嘱からはずれる。
1970年(昭和45)―’70朴土グループ展《湿》《外輪山》。第2回日展(改組日展、以下同)《杉木立》入選。
1971年(昭和46)―’71朴土グループ展《萌》《活》(豊岡市蔵)。
1972年(昭和47)―第7回日春展《石仏》入選。’72朴土グループ展《石仏群》《北山杉》。第4回日展《叢林》(豊岡市蔵)入選。京都・大阪高島屋で山崎忠明と2人展開催。京都美術懇話会25周年記念展《野の花》。
1973年(昭和48)―第8回日春展《冬湖》入選。’73朴土グループ展《雪解けA》《雪解けB》。第5回日展《入江》入選。
1974年(昭和49)―京都 土橋画廊で個展(スケッチ)開催。『形象』23号に中井慎吾「―珠玉の素描に見る―加藤美代三の心象」掲載される。’74朴土グループ展《裏磐梯スケッチ》8点。
1975年(昭和50)―’75朴土グループ展《光る海》(原題《輝A》《輝B》)。第7回日展《冬原》(豊岡市蔵)入選。京都府主催 京の百景展《北山杉の木立》依嘱出品(京都府買上げ)。
1976年(昭和51)―京都 土橋画廊で個展(スケッチ)開催。『形象』39号に「展覧会紹介―ひかる画境の円熟―加藤美代三個展」掲載される。’76朴土グループ展《滝壺》《野の花》。第8回日展《沼の秋》入選。
1977年(昭和52)―’77朴土グループ展《やどり木》《冬の木》。
1978年(昭和53)―’78朴土グループ展《水ぬるむ》《雪どけ水》。第10回日展《湿原》入選。
1979年(昭和54)―’79朴土グループ展《寒》《暖》。第11回日展《湖畔》(豊岡市蔵)入選。
1980年(昭和55)―’80朴土グループ展《待春》(早春の高原)(豊岡市蔵)《新緑》(豊岡市蔵)。第12回日展《早春》入選。京都府ギャラリーで個展(スケッチ戸隠)開催。
1981年(昭和56)―’81朴土グループ展《靄》(豊岡市蔵)《朽株》。このとし、兵庫城崎の臨済宗大徳寺派の名刹 萬年山極楽寺の西垣宗興住職から同山本堂・庫裡の四季の襖絵制作を依頼される。西山英雄の推薦によるという(『萬年山極楽禅寺 加藤美代三水墨画集』)。
1982年(昭和57)―京都府ギャラリーで個展(スケッチ妙義)開催。’82朴土グループ展《白銀》《凍》(豊岡市蔵)。第14回日展《山の春》入選。
1983年(昭和58)―’83朴土グループ展《雨の日》《火口》(豊岡市蔵)。第15回日展《雨の日》入選。このとし、妻を伴いヨーロッパ遊学。
1984年(昭和59)―’84朴土グループ展《流れる》《やしろの一隅》(豊岡市蔵)。兵庫豊岡 養源寺から依頼を受け、天井画《龍》を描く。第16回日展《雪の日》入選。
1985年(昭和60)―’85朴土グループ展《雪晨B》。第17回日展《雪晨A》入選。第1回京都画壇日本画秀作展に《雪晨B》が招待出品される。
1986年(昭和61)―’86朴土グループ展《風化仏》。京都府主催 京の四季展《嵯峨野の竹林》依嘱出品。
1987年(昭和62)―’87朴土グループ展《初冬の秋元湖畔》。第19回日展《高原の沼》(豊岡市蔵)入選。このとし、城崎 極楽寺から依頼の本堂・庫裡の水墨襖絵《春・嵯峨野の竹林》《夏・香住海岸》《秋・嵯峨野路晩秋》《冬・比良・琵琶湖》《春・天の橋立》《夏・神鍋八反の滝》《秋・朝霧の円山川》《冬・六方川雪景》、及び本堂内陣の淡彩襖絵《蓮華図》が完成し納める。あわせて制作の四曲屏風《早春の嵯峨野路》《清滝川上流》《晩秋の円山河畔》《新雪(北山)》各1双を寄贈する。京都 近鉄で個展(スケッチ)開催。
1988年(昭和63)―’88朴土グループ展《春を待つ》。第20回日展《冬林》入選。京都府ギャラリーで個展 極楽禅寺水墨四季襖画・六曲1双屏風展開催。
1989年(平成元)―’89朴土グループ展《落韻》(豊岡市蔵)。
1990年(平成2)―鳥取 美巧ギャラリーで個展開催。’90朴土グループ展《春を待つ》。第22回日展《林》入選。第5回京都画壇日本画秀作展に《冬林》(1988年日展)を招待出品。
1991年(平成3)―’91朴土グループ展《斑雪》。第23回日展《山霧》(豊岡市蔵)入選。
1992年(平成4)―’92朴土グループ展《冬林》。第24回日展《霧木立》入選。東京 銀座松屋・豊岡市・京都 高島屋で個展 戸隠早春譜開催。
1993年(平成5)―’93朴土グループ展《春光》《幽谷》。第25回日展《春を待つ》入選。
1994年(平成6)―’94朴土グループ展《池畔Ⅰ広沢》《池畔Ⅱ大沢》。第26回日展《旧家》。出雲大社京都分院客殿から依頼の水墨四季襖絵を納める。兵庫 香住町(現豊岡市香住町)主催で個展(スケッチ)開催。
1995年(平成7)―’95京都 高島屋・東京 銀座松屋・豊岡市で個展 嵯峨野を描く(スケッチ)開催。第27回日展《小径》入選。’95朴土グループ展《大沢の家》《広沢の家》。
1996年(平成8)―’96朴土グループ展《嵯峨野Ⅰ》《嵯峨野Ⅱ》。第28回日展《樹林》入選。
1997年(平成9)―’97朴土グループ展《山峡の春》。第29回日展《道ぞい》入選。
1998年(平成10)―’98朴土グループ展《北山の杉》。第30回日展《朝霧》入選。
1999年(平成11)―’99朴土グループ展《汀》《山里の春》。第31回日展《池畔》入選。
2000年(平成12)―京都 高島屋・東京 銀座松屋・豊岡市で個展 嵯峨野散策開催。豊岡市市制50周年記念として回顧展開催される。光村推古書院から『四季光彩 加藤美代三自選集[1]』刊行。第32回日展《残る秋》入選。
2001年(平成13)―’01朴土グループ展《雪林》《薮》《晴れゆく》。第33回日展《冬林》入選。
2002年(平成14)―’02朴土グループ展《秋樹》《薫風》《薮の道》。第34回日展《風薫る》入選。
2003年(平成15)―’03朴土グループ展《スケッチ北嵯峨写生行》1~7。第35回日展《樹映》入選。
2004年(平成16)―’04朴土グループ展《スケッチ嵯峨野写生行》1~10。第36回日展《森の池》入選。
2005年(平成17)―3月、京都市より京都市芸術功労賞を授与される。’05朴土グループ展《スケッチ春の嵯峨野写生行》1~10。第37回日展入選。
2006年(平成18)―’06朴土グループ展《スケッチ春秋の嵯峨野写生行》1~10。第38回日展《春待つ古木》入選。
2007年(平成19)―京都 ギャラリー佐野で長男美之助と二人展「加藤美代三+美之助 嵯峨野春秋写生展」開催。’07朴土グループ展《廣沢池畔》《山の春》《花の庭》《木かげ》《北山杉の林》《樹林》《嵯峨野の水田》。これをもって、グループでの展覧会開催を終わる。奈良県立万葉文化館で「創立50回記念朴土グループ回顧日本画展―西山英雄門下の画家たち―」開催される。第39回日展《春の大沢堤》入選。
2008年(平成20)―島根松江 一畑百貨店・浜松市美術館・京都造形芸術大学・島根 浜田市立石正美術館で石本正選抜による「米寿記念 私を感動させた日本画展」開催され、加藤美代三作品も出品される。奈良県立万葉文化館で「加藤美代三日本画展[2][3]」開催され、代表作72点が展示される。第40回日展に《花の庭》出品。
2009年(平成21年)―第41回日展に《庭の池》出品。
2010年(平成22年)―8月7日~9日、豊岡市のじばさんTAJIMAで「郷土の日本画家 加藤美代三展」が開催される。第42回日展で98才にして、約20年ぶりに落選となる。
2011年(平成23年)―10月14日~16日、豊岡市立総合体育館で「加藤美代三画伯白寿記念展~豊岡市が生んだ美の巨匠の世界~[5][6][7]」が開催される。
2012年(平成24年)5月10日‐老衰のため死去。100歳没
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年 (明治16年) 12月18日 – 1964年 (昭和39年) 7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。
経歴
以下の記載は、『金子コレクションから見た 金山平三の世界』展図録(笠間日動美術館編集・発行、2008年) の巻末に4ページに亘り掲載されている「金山平三年譜」に基づいたものである。さらに当該「金山平三年譜」は、夫人の金山らくに関するものも含めて『金山平三画集』(日動出版部 1976年7月)所収の大塚信雄編による年譜(331 – 362ページ)を参照して作成されたものである。
1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。1905年(明治38年) 9月東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年) 3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。4月には同校西洋画科研究科に進み助手となる。しかし1911年(明治44年) 2月15日付で退学し神戸へ帰る。1912年(明治45年) 1月20日に日本郵船平野丸で神戸港を出発して、パリに3月7日に到着する。28歳から31歳までの4年近くの間は、パリを拠点にヨーロッパ各地へ写生旅行に赴く。そして1915年(大正4年) 9月27日にパリを出発して、10月3日マルセイユ港を出帆して11月に神戸港に到着、帰国して神戸市神戸花隈町(現在の中央区花隈町)の自宅(1898年に転居)に戻る。
1916年(大正5年)10月には、第10回文部省美術展覧会(文展)初出品の小豆島で描いた『夏の内海』が初入選かつ特選第二席になり、文部省買い上げとなる。翌1917年には『氷辷り』が第11回文展の特選第一席になる。同年1月上旬に長野県下諏訪で描いた作品で、以後毎年2月にかけて同地で制作するようになる。1919年(大正8年) 9月に帝国美術院が創設されて、同院主催の帝国美術展覧会(帝展)が開催されることになり、36歳にして帝展審査委員(1924年には帝展委員となり、後に審査員となる)に選ばれる。同年10月の第1回帝展には『雪』『花』を出品する。また11月には牧田らくを入籍し、東京市小石川区大塚坂下町(現在の文京区大塚6丁目)に転居する。1922年(大正11年) 10月の第4回帝展に『下諏訪のリンク』を出品する。関東大震災が起きた1923年(大正12年) 5月に初めて山形県北村山郡大石田を訪れ滞在する。1925年(大正14年) 4月東京府豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井2丁目)にアトリエが完成し転居する。1928年(昭和3年) 10月の第9回帝展には『菊』を出品する。1929年(昭和4年) 10月の第10回帝展には大石田で描いた『東北地方の春』を出品する。1933年(昭和8年) 10月の第14回帝展には房州千倉で制作した『風雨の翌日』を出品する。しかし1935年(昭和10年) 5月の帝国美術院改組を機に中央画壇から去り、翌1936年から官展不出品を1959年(昭和34年)まで24年間貫く。1944年7月1日帝室技芸員となり、1945年には、皇太子(現在の今上天皇陛下)および義宮(現在の常陸宮正仁親王殿下)に作品を献上する。
1945年(昭和20年) 3月17日の神戸大空襲で実家が罹災し、作品が焼失する。5月には最上川をはさんで大石田(現在の山形県北村山郡大石田町)の対岸に位置する北村山郡横山村に疎開する。後にしばしば写生旅行をするようになる刑部人も同宿する。また大石田で斎藤茂吉と親交を結ぶ。1946年(昭和21年) 10月には文部省より日本美術展覧会(日展)の審査員に選ばれるが辞退する。1947年(昭和22年) 2月横山村から大石田に移り、これ以降は大石田が生活の拠点となる。1953年(昭和28年) 2月、前年12月に開館した東京国立近代美術館で開催された「近代洋画の歩み-静養と日本」展に『夏の内海』と『下諏訪のリンク』が出品される。1956年(昭和31年) 5月、日本橋高島屋において金山平三画業五十年展が開催され、多数の未発表作を含む240点が出品される。1957年(昭和32年) 2月には日本藝術院会員に任命される。1959年(昭和34年) 3月には日展顧問を委嘱される。同年11月の第2回新日展には『渓流』を出品する。1961年(昭和36年) 6月には、最晩年の重要な支援者である故郷神戸の川崎重工業株式会社に自選作品100点(翌年38点追加)の永久保管を願い出て、同社によって嘱託として処遇されて、夫妻でのヨーロッパ再訪旅行(9月 – 12月)の機会を得る。1964年(昭和39年) 6月に入院し、7月15日死去(享年81歳)。遺志によって本葬儀は行われず、叙位・叙勲もすべて辞退している。神戸市営追谷墓地に埋葬されている。平三没後、川崎重工業の保管作品から夫人により130点が兵庫県に寄贈され、1970年兵庫県立近代美術館(現在の兵庫県立美術館)の開館にあたって同館所蔵品となる。また兵庫県立美術館には、開室期間が限定の金山平三記念室が設けられている。
2008年9月13日 – 11月30日、笠間日動美術館において『金子コレクションから見た金山平三の世界』展が開催された。 2012年4月7日 – 5月20日、兵庫県立美術館において『開館10周年記念 日本の印象派・金山平三展』が開催された。2012年9月15日 – 11月4日、ひろしま美術館に巡回。
夫人
夫人の金山らく(旧姓:牧田)は、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を経て東北帝国大学理科大学を卒業。女性初の帝国大学卒業生であり、東北帝国大学に在籍して数学研究を続けていた。1917年4月に平三と見合いをした。
川勝 茂弘(かわかつ しげひろ、1941年 – )は、兵庫県出身の洋画家。新槐樹社委員(兵庫県支部長)、日本美術家連盟会員。紺綬褒章受章。
略歴
1941年、兵庫県に生まれる。
1967年、新槐樹社展に初出品。
1970年、新槐樹社展にてクサカベ賞受賞、以降毎年出品している。
1971年、読売新聞社賞受賞。
1973年より大阪を中心に個展を開催している(17回)。
1984年、渡欧。以降、ヨーロッパ各地研修スケッチ旅行。
イタリアをはじめヨーロッパ各地の風景などが、細かく丁寧に描かれており、重厚で落ち着いた雰囲気の作品が多い。
川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、1894年7月9日 – 1965年2月20日) は日本の版画家、画家。本名は川西英雄。
略歴
1894年(明治27年)、兵庫県神戸市兵庫区東出町に回船・穀物問屋の七男として生まれる。1915年(大正4年)、神戸商業学校を卒業後、家業を継ぐ。1922年(大正11年)からは兵庫東出郵便局長を務めた。画家を志した時期についての資料は見つかっていないが、16歳のとき(1910年)に『セシル・アルディン作品の模写』(京都国立近代美術館蔵)を描いている。木版画は山本鼎の作品をみて志したとされ、1920年代より長らく国画会と日本版画協会を主な活動の場とした。1937年(昭和12年)に出版された『神戸百景』はエキゾチックな都市風景と風俗を描いた作品で、彼の代表作である。
版画家の川西祐三郎(1923-)は、川西英の三男である。
岸本 篤子(きしもと あつこ、1952年 – )は日本画家。兵庫県日本画家連盟会員。兵庫県生まれ。1972年、立命館大学中退。1976年、早稲田大学卒業。
主な受賞歴
日春展入選(1977年)
兵庫県展入賞(1984)
神戸市展市長賞(1989年)
小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年7月25日 – 1988年12月16日)は、日本の昭和期に活躍した洋画家である。
肖像画、特に群像を多く手がけたことで知られる。
経歴
1903年(明治36年)、旧三田九鬼藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。首席で卒業後の1928年(昭和3年)、フランスに留学。ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとする。帰国後の1936年(昭和11年)、「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わる。1938年(昭和13年)から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作した。1941年(昭和16年)に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を相次いで発表する。良平自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦後は画集に収録しなかった。戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む、と晩年に語っている。
戦後は東京藝術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献し、同大学名誉教授の号を授与された。1992年(平成4年)に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として知られている。
1933年(昭和8年)に神戸でキリスト教(組合教会系)の洗礼を受けており、1970年(昭和45年)には日本聖書協会の依頼により32点の聖書の挿絵を完成させた。
その他、1941年(昭和16年)出版の『東京八景』(太宰治)の装丁や1947年(昭和22年)に制定された「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけている。
戦争画への想い
かねてより生前に良平が戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことが心が痛むと述べていたことは知られていたが、史料としては残っていなかった。しかし2007年(平成19年)8月15日にそのことを示す文書が発見されたと神戸市立小磯記念美術館が発表した。いずれも洋画家内田巌に宛てた手紙で封書が35通、はがきが3通発見され、そのうちの1つに戦争画に対する言及がされていた。同博物館によれば良平の次女が自宅で発見し、それを同博物館へ8月8日に寄贈したものとしている。これらの手紙は同博物館において同年9月15日から11月18日までの間、開館15周年特別展「藤島武二と小磯良平展―洋画アカデミズムを担った師弟―」で公開された。
李王家コレクション
1935年(昭和10年)作の「日本髪の娘」は同年に東京で開催された展覧会に出品されて以来長い間行方不明となっていた。所有していた大韓民国の韓国国立中央博物館が2005年(平成17年)に公開したが、当時はそれが所在が不明とされていた作品であると認識されず、2008年(平成20年)11月になってようやく幻の作品が発見されたと報じられた。同月18日から2009年10月まで同館で開催される「日本近代西洋画展」にて公開される。同作品は朝鮮王朝の李王家が1937年(昭和12年)に購入していた。
後藤 仁(ごとう じん、1968年 – )は、平成時代の日本画家・絵本画家。日本の伝統技法を活かした描法により、アジアや日本各地に取材した美人画を中心に、風景画、花鳥画等を手がける。また、日本画の技術を用いて高級壁紙の金唐革紙や、絵本の原画等の制作を行う。師系は後藤純男。日本児童出版美術家連盟会員、絵本学会会員、日本中国文化交流協会会員。
概要
兵庫県赤穂市生まれ。小学校1年生の時に大阪府堺市に移る。小中学生の頃は、水彩・アクリル絵具による空想画を多く描く。15歳の時、大阪市立工芸高等学校美術科に入学して、油彩画・彫塑・デザイン・製図・デッサン等とともに日本画を学び、高校2年生で日本画を専攻する。大阪市立工芸高等学校美術科を実技・学科ともに首席にて卒業する。同校の卒業生には、日本画家の稗田一穂らがいる。この子供時代に、岡本太郎が審査委員長をつとめる絵画コンクールで佳作受賞する等、各種絵画公募展での入選・受賞は14回に及ぶ。
高校卒業後は東京に上京し、美術予備校の立川美術学院日本画科で村上隆、菅原健彦らに、デッサン・着彩を2年間学ぶ。21歳で東京藝術大学絵画科日本画専攻に入学。当時の学長は平山郁夫である。大学では教授の加山又造、後藤純男、福井爽人らに日本画を学ぶ。大学3年生より金唐革紙(きんからかわし。手製高級壁紙のこと)の復元製作を始め、以後約12年間に「入船山記念館(呉市)」、「移情閣 ・孫文記念館(神戸市)」、「旧岩崎邸(台東区)」等の重要文化財建造物の復元事業に携わり、この技術も日本画制作に取り入れる。(現在、金唐革紙製作の完全な知識・技術を保持しているのは後藤仁のみとなり、2006年より金唐革紙保存会を主宰する。)東京藝術大学の卒業制作は、インドネシアのボロブドゥール遺跡に取材した「昇殿」(F150号)。
大学卒業後は後藤純男に師事して、日本画家として活動をする。卒業に前後し、後藤純男に同行して沖縄本島、北海道(富良野、知床の流氷)、東北(会津若松、田沢湖、角館)等への写生旅行をする。活動初期は国内外の取材をもとに、プランバナン遺跡等の古代遺跡や阿蘇山・斜里岳等の自然をモチーフにした雄大な風景画や、野に咲く花々を多く描く。1998年頃より「アジアの美人画」をテーマに、アジアや日本の伝統文化・舞踊等に取材した人物画を中心に描く。
現在までに、「ちばぎんアートギャラリー日本橋」等の画廊で多くの日本画個展を開く他、後藤純男門下による「翔の会日本画展(銀座松坂屋)」等のグループ展を全国の美術館・画廊・百貨店で多数開催する。絵画公募展での入選・受賞は、「三渓日本画賞展2000(横浜三渓園)」入選(審査委員 中島千波、平松礼二、草薙奈津子 他)、「新生展(新生堂南青山)」入選(審査委員 千住博、中島千波、大矢英雄、籔内佐斗司 他)、「北の大地展(北海道)」佳作、「F展(大阪市立美術館)」大阪市立美術館館長奨励賞、等がある。また、「紙の博物館(東京都王子)」、「呉市立美術館(広島県呉市)」、「大英博物館(イギリス)」等の金唐革紙展の製品を製作・展示する。
日本画作品の特長としては、作家独自の鋭く繊細な鉄線描(てっせんびょう。法隆寺金堂壁画等に見られる技法)、幻想的・物語的な空間表現、中国の少数民族や各国の民族衣装の華麗な色彩表現、人物の清楚な美しさと人物の心を表出した目の描写の印象強さ等が挙げられる。また、アジア各国や日本各地での単独取材旅行を多く行う。
現在、千葉県松戸市にアトリエをかまえ、「アジアの美人画」を中心画題として描く他、風景画や花鳥画等の小品も描く。また、アジアの民話を元にした絵本の原画制作等、日本画を軸とした様々な絵画表現を探求している。金唐革紙保存会 主宰、日本児童出版美術家連盟 会員、絵本学会 会員、日本中国文化交流協会 会員、この本だいすきの会 会員。
日本画代表作品
「天国の扉─華洛(からく)─」(変形273×182cm)
「天国の扉─日輪─」(S50号)
「曙光さすアンコール・ワット」(P60号)
「剣の舞(朝鮮舞踊)」(変形146×71cm)
「舞姫シータ(インド舞踊)」(変形140×70cm)
「妙なる国の少女(バリ島)」(F50号)
「クマリ─The Living Goddess─(ネパール)」(F50号)
「美粧(浅草芸妓)」(F40号)
「美しき村─Beautiful village─(ベトナム・花モン族)」(F30号)
「彩帯舞(中国ミャオ族)」(F30号)
「幸福の夜明け(スコータイ)」(F25号)
「トン族琵琶歌(中国貴州省)」(P25号)
「涅槃─NEHAN─(阿蘇五岳)」(変形1092×182cm)
「淡墨の桜(岐阜県根尾谷)」(F30号) 等[14]
画歴
年譜
1968年 兵庫県赤穂市生まれ。伯父はからくり人形師の後藤大秀。祖父は指物大工。
1983年 「第1回全国都市緑化フェア図画・ポスターコンクール」大阪府知事賞(最高賞)。
1984年 「太陽の日記念絵画コンクール」(審査委員長は岡本太郎)佳作賞。「旺文社主催全国学芸科学コンクール デザイン部門」旺文社賞(銀賞)。
1986年 「児童生徒美術展」(ビクトリア国立美術館/オーストラリア)。
1988年 大阪市立工芸高等学校美術科を首席で卒業。美術予備校の立川美術学院にて村上隆に学ぶ。
1995年 国重要文化財建造物等「金唐革紙」復元製作。以降、入船山記念館(呉市)、移情閣(神戸市)、旧岩崎邸(台東区)等の復元を手がける。ジャワ島・バリ島写生旅行、中華人民共和国(北京・西安)写生旅行。
1996年 東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男に師事。後藤純男門下による「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)に参加、以後2010年まで毎年開催。
1997年 イタリア・バチカン市国写生旅行。
1998年 NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作。
2000年 千葉銀行2000年度カレンダー作品採用。「三渓日本画賞展2000」入選(横浜三渓園)。
2002年 「新生展」入選(新生堂/東京都南青山)。「北の大地展」佳作(北海道)。
2004年 個展(新樹画廊目白)にインド大使夫妻、バチカン市国大使を招待。インド(北部・東部・西部)写生旅行。
2005年 タイ王国・カンボジア写生旅行。「名士寄贈書画工芸作品展」(毎日新聞主催。心斎橋大丸、のち毎日新聞ビル)以後2011年まで毎年出品。
2006年 ちばテレビ「ニュースC-MASTER」にて個展(ギャラリーアートサロン)取材・特集放映。「金唐革紙保存会」を主宰し、金唐革紙の製作技術保存・展示に努める。
2007年 ベトナム写生旅行。NHK「にっぽん心の仏像」アトリエ取材・放映。「金唐革紙展」(大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス)。
2008年 中華人民共和国(貴州省・広西チワン族自治区)写生旅行。
2009年 ネパール・タイ王国写生旅行。「F展」大阪市立美術館館長奨励賞(大阪市立美術館)。
2010年 NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」取材協力・放映。
2011年 タイ王国・ラオス写生旅行。
2012年 中華人民共和国(チベット・四川省)写生旅行。
2013年 絵本「ながいかみのむすめ チャンファメイ」を福音館書店より出版。絵本「犬になった王子 チベットの民話」を岩波書店より出版。
2014年 ミャンマー(ビルマ)写生旅行。
2016年 挿絵本「おしゃかさま物語」を佼成出版社より出版。
展覧会
日本画個展・グループ展、絵本原画展 開催地
東京都美術館、大阪市立美術館、銀座松坂屋、上野松坂屋、池袋東武、船橋東武、沼津西武、心斎橋大丸、京都高島屋、柏そごう、町田小田急、丸広百貨店川越店、阿倍野区役所、大阪毎日新聞ビル、横浜三渓園、京葉銀行本店、ちばぎんアートギャラリー日本橋、オンワードギャラリー日本橋、同和火災ギャラリー日本橋、銀座田中貴金属ホール、ギャラリーアートサロン、ギャラリートーニチ新宿、ギャラリー銀座、新樹画廊目白、新生堂、ギャラリー昴、ざくろ坂ギャラリー一穂堂、飛騨絵本美術館ポレポレハウス、教文館ナルニア国、丸善丸の内本店、JR藤並駅ちいさな駅美術館、他 個展15回余り・グループ展100回以上開催。
金唐革紙展 開催地
大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館、紙の博物館、呉市立美術館、旧岩崎邸庭園、入船山記念館、フェルケール博物館静岡、江戸東京博物館、姫路市書写の里美術工芸館、箱根ラリック美術館、東京芸術劇場、第7回国際シンポジウムin長野(ホテル国際21)、小津和紙博物舗小津ギャラリー、OZONE新宿ショールーム、銀座一穂堂サロン、上方銀花、他多数。
各種絵画公募展の入選・受賞回数20回余り。
作品収蔵先
日本画作品収蔵先には、東京藝術大学、大阪市立工芸高等学校(大阪市帰属)、八幡山宝蔵院天井画(埼玉県)、普門院(栃木県)、他。
金唐革紙製品収蔵先には、大英博物館、紙の博物館、旧岩崎邸庭園、入船山記念館、移情閣、他。
絵本作品収蔵先には、日本全国の図書館、学校、児童施設 等。東北等の図書館、学校、児童施設等に1000冊以上の筆者サイン入り絵本寄贈[15]。
講師
NHK文化センター(柏教室)の「日本画講座」「鉛筆デッサン講座」や、読売・日本テレビ文化センター(柏・金町)の「美人画講座」「水彩画講座」や、コープカルチャー(春日部教室)の「日本画講座」等の講師を務める。
テレビ放送
日本画関係(個展・グループ展・アトリエの取材、放送)
NHK BSハイビジョン「にっぽん心の仏像」出演(2007年8月13日放送)
NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」制作実演・取材協力(2010年5月2日放送)
ちばテレビ「ニュースC-MASTER」饗宴~後藤仁美人画展特集・出演(2006年11月1日放送)
JCN千葉 個展取材(2008年3月放送)
JCNコアラ葛飾 出演(2010年1月27日放送)
J:COM東関東 出演(2008年9月放送) 他
金唐革紙関係(展覧会・建造物・アトリエの取材、放送)
NHK「首都圏ネットワーク」旧岩崎邸の金唐革紙撮影・製作実演(2003年7月1日、2005年5月26日放送)
NHK「美の壺(壁紙)」旧岩崎邸の金唐革紙撮影(2011年9月11日放送)
テレビ東京「世の中ガブッと!(建物再生)」旧岩崎邸の金唐革紙撮影・製作実演(2003年5月4日放送)
テレビ東京「美の巨人たち(旧岩崎邸庭園)」金唐革紙撮影(2009年4月25日放送)
テレビ東京「世界を変える100人の日本人」旧岩崎邸の金唐革紙撮影(2010年5月21日放送)
TOKYO MXテレビ「日本名建築めぐり(旧岩崎邸)」金唐革紙撮影(2010年4月27日他放送)
関西テレビ・ちばテレビ「走れ!ガリバーくん(呉入船山記念館)」入船山記念館の金唐革紙撮影(2005年6月16日放送) 他
酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) – 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。
伝記
月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文
生い立ち
神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)6月1日17歳で元服して1,000石を与えられるが、同年忠以に長男忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。古河藩主土井利厚などから養子に行く話も多くあったが、抱一は全て断った(理由は不明)。こうした複雑な環境が抱一を風雅な道へと進ませたと言えるかもしれないが、江戸時代に同じ環境にあった大名子弟は多くいたにもかかわらず、今日文化史に名を残した者は増山雪斎や幕臣出身の浮世絵師鳥文斎栄之、水野廬朝などごくわずかしかおらず、抱一の何かを表現したいという情熱は似た境遇の同輩とは一線を画している。
若き日の遊興
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊郭に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信に手解きを受けたようだが、酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵、豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)なども描いている。抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、知人の大田南畝が狂詩を加賛している。抱一の美人画は、初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。画号も新たに持たず、俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている。
俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。後の文化9年(1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した。狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わり、狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。
出家
書画扇面散図 谷文晁、春木南湖、亀田鵬斎、菊池五山との寄合書 ブルックリン美術館所蔵
寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、 兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。また、谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。また、市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
光琳の発見
抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、その作品が残っていたことも幸いしている。また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。
光琳百回忌
文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。
雨華庵の上人 抱一様式の確立
雪月花図 MOA美術館
文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵[5]で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。
門人に鈴木其一、池田孤邨、酒井鶯蒲、田中抱二、山本素堂、野崎抱真らがいる。
笹倉 鉄平(ささくら てっぺい、1954年11月7日 – )は、兵庫県出身の画家。
「光の情景画家」と称され、様々な表情の光があふれる画風は、写実的でありながらも想像性に富み、”心が安らぐ”絵として、老若男女幅広いファン層を持ち、多くの支持を得ている。 また、画家デビュー以来、180作品以上の版画作品をはじめ、画集、詩画集、版画集、DVD作品集等が出版され、ポスターやポストカード、ジグソーパズル、カレンダー等のアートグッズも高い人気を保持し現在に至っている。 また、デビューから27年以上に渡り毎年、全国有名百貨店での個展・展覧会を多数開催、近年では、フランス、中国、イタリア等での展覧会も成功を収め、日本の良さや日本人の優しさ・美意識等を、美しい情景画として表現し海外へ伝えている。
作風
笹倉鉄平は、欧州を中心に旅へと出かけ、日本人の目と美意識を通して得る旅先での抒情を、胸中に湧く感動や想いと共に、郷愁・憧憬を交えて描き出している。絵の鑑賞者が、行ったことも見たことも無い風景であっても、どこか懐かしく切ないような感覚を持ち、癒され、そこに希望の兆しまでも感じられるのは、笹倉の独自の目線あってのことだ。 水面に映える光のきらめき、宵の空で微笑む三日月、暮れる広場で憩う人々の笑顔、緑陰を渡る風、限りなく優しい雨や不思議と温かく感じる雪――― 笹倉鉄平の描く情景は、どこで何を描いた作品であっても、観る人の心に、甘やかな憂愁や優しく心安らぐ温もりを呼び起こす。 そこに在るのは難解な芸術性ではなく、日々の生活にあって、見過ごしてしまいがちな”小さな幸せ”の数々と物語性であり、鑑賞者と作品の間にゆったりとした対話の時間をもたらすのである。
人物
美大卒業直後から、デザイナー/イラストレーターとして10年以上活躍。そして、1987年より2年間続いた、毎日新聞カラー日曜版のドイツ・フランスの風景画の連載で人気を博したことを機に、画家へと転身。 35歳での画家への転向という大きな節目で、笹倉鉄平に大きな勇気と力をもたらしたものが、上記連載中にもらった読者からの沢山のファンレターであったと云う。 広告・出版という世界に身を置いた経歴、上記新聞連載での読者からの直接の応援の声・感想の数々・・・若い時代の、そういったマス(大衆)との関わり方や、常に”観る側へ想いを伝える”ことを意識した経験など、職業上での回り道をしたことが、笹倉鉄平の絵画への姿勢を特徴づけることとなった。その来歴こそが、気負いも気取りも無い独自の画風や、難解さの無いピュアな表現による世界観の構築に、良い形で働いているのかもしれない。 つまり、画家としての自己表現/自己実現よりも・・・絵を観る人に楽しんでもらいたい、絵の中で希望の光を感じ安らいでもらいたい、自身が感じた心温もる感動を伝えたい、といった”鑑賞者に対する想い”だけは絶対に譲れないモチベーションとして、画家の核の部分に常に存在しているらしい。 そんな絵であるからこそ、”心が安らぐ光の絵画”として、老若男女幅広いファンから長い年月に渡り支持を獲得しているのだ。 笹倉鉄平の画家としての信条は、「絵で人を楽しませ続けたい」とのこと。 その為に、どんな”光”がどう表現されてゆくのか・・・画家のチャレンジの毎日から生み出される優しい”光の情景”は、今後も観る人々の心の何処かに、温かい灯を燈し続けてゆくのだろう。
略歴
1973年 武蔵野美術大学商業デザイン科に入学。
1977年 同校卒業後、広告制作会社のグラフィック・デザイナーとなる。
1980年 フリーランスのイラストレーターとなり広告・出版物に多くのイラストを描く。また、森永製菓のパッケージイラストをおよそ10年間担当する。
1987年 毎日新聞カラー別刷り版にドイツのロマンチック街道沿いの風景を描いた「Romantic Gallery」シリーズを月一で連載。
1988年 前年シリーズの好評を以って、同紙面での連載としてフランスの街並みを描いた「ロマン色の街角」シリーズ掲載。
1990年 青山で初の個展。これより、画家としての活動に専念。
1991年 シルクスクリーンによる初の版画作品を発表(以降、現在までに180作以上がリリースされる)。
1992年 花の万博「フロリアード/1992」(オランダ開催)の記念版画が制作される。ニューヨーク・アートエキスポに出品。
1994年 神戸大丸にて個展。
1996年 小田急百貨店、新宿高島屋など各地で個展(以降、現在までに全国有名百貨店に於いて100を超える個展を開催)。
1998年 大丸ミュージアム・東京で初の美術館個展。
2000年 自身の絵画/版画作品、版権等の管理を行う、版元兼事務所(株)アートテラスを設立。
2001年 フィレンツェに架かる”ポンテ・ヴェッキオ”を描いた作品「祝福」が「イタリア.フィレンツェ.日本.文化経済交流協会」公認作品となる。
2004年 イタリア、マルケ州、レカナーティ市庁舎(他2会場)にて個展を開催。
2005年 フィレンツェ・京都姉妹都市締結40周年記念行事として、フィレンツェ市主催による個展を同市パルテ・グエルファ宮にて開催。
2006年 中国北京、国立中国美術館にて、劉長順氏との二人展を開催。
2006年 全版画作品を所蔵し、企画展形式で作品展観する「版画ミュージアム」が神奈川県大和市に開館。
2007年 ニューヨーク・アートエキスポに出品。
2007年 油彩、水彩、スケッチ等の肉筆原画を中心に企画展形式で展観する「ちいさな絵画館」が兵庫県西宮市に開館。
2008年 パリと京都にて「日仏交流150周年」および、「京都市・パリ市姉妹都市盟約締結50周年」を記念した個展が、京都市の後援のもとそれぞれ開催される。
2015年 「京都・フィレンツェ姉妹都市提携50周年記念事業」の一環として、両市後援のもと、京都、フィレンツェそれぞれにおいて個展を開催。
菅井 汲(すがい くみ、1919年3月13日 – 1996年5月14日)は、洋画家、版画家。国際的に最も高く評価されている日本人画家の一人である。男性。
生涯
1919年、神戸市東灘区に生まれる。本名は貞三。大阪美術工芸学校に学んだ後(病気の為に中退)、1937年から阪急電鉄宣伝課で商業デザインの仕事に就く。
1952年渡仏。日本画を学んだこともある菅井の作品は、東洋的なエキゾティシズムをたたえたものとして、パリの美術界で高い評価を与えられた。当初はアンフォルメルの影響を受けた、象形文字のような形態を描いていたが、1962年頃から作風は一変し、幾何学的な形態を明快な色彩で描いた「オートルート」のシリーズを制作するようになる。
菅井は無類のスピード狂であり、愛車のポルシェで高速走行している時に浮かぶビジョンが制作のモチーフになっているという。1967年にはパリ郊外で交通事故を起こし、頸部骨折の重傷を負うが、一命はとりとめた。
1970年代からは、ほとんど円と直線の組み合わせから成る、より単純化され、無駄を省いた作品を描くようになった。モチーフはほとんど機械的に組み合わされ、一つひとつのモチーフは正確に描かれる。それは、高速走行中にもドライバーによって瞬時に把握される必要のある、道路標識にどこか共通したものがある。
彼の「無駄を省く」姿勢は実生活にも及び、朝食、昼食、夕食のメニューはそれぞれ決まっていて(たとえば朝食はコーヒーとチーズ、昼食はスパゲッティ・トマトソースとソフトサラミなど)、同じメニューを1年365日、20年間食べ続けたという。
晩年には「S」字のシリーズを描き続けた、「S」は「スガイ」の「S」であるとともに、高速道路のカーブをも意味している。菅井は「なぜ同じ絵を描き続けてはいけないのか」と問い、同じパターンを描き続けること行為自体に個性があると考えた。リトグラフやシルクスクリーンの作品も多く残した。
経歴
ピッツバーグのカーネギー国際絵画・彫刻展
サロン、デ・レアリテ・ヌーヴェル
サロン・ド・メ
パリ青年ビエンナーレ展
サンパウロ・ビエンナーレ展(1965年最優秀外国作家賞)
カッセルのドクメンタ展
リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展(1959年受賞)
東京国際版画ビエンナーレ展(国立近代美術館賞)
日本国際美術展(優秀賞)
東京国際版画ビエンナーレ(国立近代美術館賞受賞)
グレンヒェン国際版画トリエンナーレ展(大賞)
ヴェネツィア・ビエンナーレ展(1962年デヴィット・ブライト基金賞)
クラコウ国際版画ビエンナーレ展(1966年大賞)
ノルウェー国際版画展(名誉賞)
東京国際美術館壁画担当
アメリカ映画「悲しみよこんにちは(1957年作品)」にスタッフとして参加(画中に作品使用)、タイトルロールにも名前が出る
ウィーン現代フランス絵画展
代表作
侍(1960年、油彩、国立国際美術館)
朝のオートルート(1964年、油彩、東京国立近代美術館)
ハイウェイの朝(1965年、油彩、兵庫県立美術館)
まるい森(1968年、油彩、滋賀県立近代美術館)
フェスティヴァル・ド・バル(1971年、アクリル、国立国際美術館)
12気筒(全体)(1972年、アクリル、京都国立近代美術館)
空間「力学」(1983年、アクリル、国立国際美術館)
高橋 玄輝(たかはし げんき、1910年12月18日 – 1978年6月25日)は、兵庫県出身の日本画家。
師である前田青邨を彷彿とさせる華麗な武者絵や、日本古代の人物たちを題材にした素朴な歴史画を中心に端正で味わいのある独自に境地を切り開き、武者絵の後世に残る画法を確立した。
青邨門下で院展系作家として、その俊才ぶりを遺憾なく発揮し、院展、京都中心の院展系作家尚院会展、現代美術京都秀作展、京都市美術展覧会等々に出品した。
昭和17年第29回院展で「義家と朗等光任」で初入選。その後昭和21年の第31回院展から、亡くなる前年の昭和52年まで32回連続入賞、奨励賞及び白寿賞2回、無審査4回、昭和39年日本美術院より「特待」に推挙、昭和40年第4回現代美術京都秀作展に於いて「四天王」が最優秀作に選ばれた。
髙橋 忠雄(たかはし ただお、男性、1932年3月11日 – 2012年5月23日)は、兵庫県加西市生まれの洋画家、彫刻家、陶芸家である。34歳の若さで二科会彫刻部会員となり、木彫をはじめ、石膏、ブロンズ、金属、陶芸等あらゆる素材を駆使した立体を得意とした作家。1981年49歳に脳梗塞で倒れ、半身不随の車椅子生活ながら絵画制作を行う。大作を続々と国内外に発表し髙橋芸術を確立。立体、平面とも日本国内外に多数作品が収蔵されている作家。
略歴
1932年 兵庫県加西市に産まれる
1960年 二科展彫刻(特選)受賞
1965年 二科展彫刻(金賞)受賞
1966年 二科会彫刻部「会員推挙」
1967年 – 1990年 二科展で審査員を勤める
1968年 米国ワシントン州立博物館に彫刻作品贈呈(地方自治体買上)
1969年 – 1981年 JR姫路駅前「しらさぎの群」他、姫路市内の彫刻モニュメント67点制作
1982年ライオンズクラブの依頼によりJR播州赤穂駅前にモニュメント”大石内蔵助像”制作
1983年 兵庫県立北条高等学校[緞帳]デザイン制作
1984年 加西市美術家協会2代目会長就任
1989年 詩集「加西石仏・石の音」発刊
1990年 二科会彫刻新会を退会、絵画に転向/芸術文化団体半どんの会「文化芸術奨励賞」受賞/大阪府立現代美術センターにて個展「水の指標」を開催/天理美術展「奨励賞」受賞/等迦展の審査委員となる
1991年 大阪府立現代美術センターで個展「幽玄の標」を開催
1992年 第14回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/現代美術白峰展で芸術選賞を受賞、審査員となる/大阪府立現代美術センターで個展を開催
1993年 ブラジルクリチバ市制300周年記念モニュメント制作/第15回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/彫刻作品”破調”が加西市の買い上げとなる/等迦展(瑛九賞)受賞。大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/ABCギャラリーで個展を開催
1994年 春日水彩画展で「大賞」を受賞、作品買上となる
1996年 大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/国際芸術交流展「96審査委員会賞」受賞/国際美術大賞展イタリー96「奨励賞」受賞/現代美術白峰展「文部大臣賞」受賞/氷上町立植野記念美術館に絵画1点が収蔵される/姫路市立美術館に作品が収蔵される
1997年 姫路市美術文化賞「芸術年度賞」受賞
1998年 阪急百貨店美術工芸サロンで個展「ー華ー高橋忠雄絵画展」を開催
1999年 氷上町立植野記念美術館主催「収蔵作家紹介シリーズ・高橋忠雄展~水と森~」が開催される
2000年 ニューアート・ZERO会結成(初代会長就任)
主な作品収蔵先
三洋電気(彫刻1点)/米国ワシントン州立博物館(彫刻2点)/ベルギー国 国王(彫刻2点)/岡山県 藤原啓美術館(彫刻2点)/姫路市(彫刻67点)/姫路市立美術館(絵画1点)/赤穂市(彫刻1点)/兵庫県(彫刻3点)/兵庫県立美術館(絵画1点)/兵庫産業(株)(絵画1点・彫刻3点)/(株)千石(彫刻2点)/芦屋市エンバ美術館(絵画2点)/加西市(絵画1点・彫刻3点)/ブラジル国クリチバ市(彫刻1点)/春日町(絵画1点)/氷上町立植野記念美術館(絵画4点)/姫路信用金庫(絵画1点)/イスラエル国テコテン市日本美術館(絵画1点)/丹波新聞社(絵画1点)/姫路赤十字病院(絵画1点)/(株)ショウワ(絵画1点)
永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 – 2008年6月24日)は、洋画家。兵庫県尼崎市出身。兵庫県三木市にて死去。
来歴・人物
本名・永田龍太郎。同月初日(1916年4月1日)に市制施行したところの同月24日に尼崎市にて生まれ、阪神間(現在の大阪市福島区や現在の西宮市、現在の宝塚市)で育つ。
中等学校在学時に田村孝之介に師事する。旧制甲陽中学校卒業後、信濃橋洋画研究所において絵画制作の研鑽に励む。
その後、日華事変、太平洋戦争の間に二回召集され中国南部、現在のベトナム、シンガポール、マレーシア、タイそしてビルマと転戦したがその際にも軍の許可を受けて制作を続け、1942年予備役のときには大阪市において開催された太平洋戦争美術展に作品を出展した。そして、1945年8月再度の召集地である和歌山県御坊市で終戦を迎えて同年9月に復員。
1946年、現在の三木市に移住する。1947年から1971年3月まで現在の三木市役所に勤務しながら、製作活動をおこなう。
定年退職後はスペインやポルトガル、イタリア各地、スイス、ロンドンそしてパリ等へデッサン旅行に出かけ、その後は台湾にも行き精力的に制作活動に励んでいたが、1992年の秋に自宅にて脳梗塞で倒れて左半身麻痺の後遺症がのこる。リハビリテーションで、歩行訓練を受けつつ利き手の右手で絵画制作に励む。
2008年6月24日(火曜日)の早朝に、運び込まれた三木市内の病院にて死去する。
西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年 – 2002年)は、昭和時代から平成時代にかけて活躍した洋画家。
神戸市に生まれる。1939年~1941年の京城での従軍中に画家になる決意を固め、帰国後1942年に小磯良平の師事を受けた後、日本大学専門部芸術科に入学する。卒業後、小磯良平に誘われて新制作派協会(後の新制作協会)に参加し、その後の主たる活動の場とした。
作風
作品の主題は一貫して建造物で、作風は初期の叙情的風景画から次第に想像上の空間を組み合わせたシュールレアリズム的風景画へと変化し、さらに1953年に発表した「洞」「空間」が高い評価を受けて以降は抽象化した建物の構造体による多次元的広がりをもつ空間の表現へと移行する。
主な作品
『気象台が見える』(1949年)
『廃墟』(1950年) – 神戸市蔵
『競技場』(1951年) – 兵庫県立美術館蔵
『段を登る人』(1951年) – 神戸市立博物館蔵
『洞』(1951年) – 神戸市立小磯記念美術館蔵
『空間』(1951年) – 神戸市立小磯記念美術館蔵
『階段』(1957年) – 頌栄保育学院蔵
『吊橋』、『造船』 – 岡山大学蔵
略歴
1917年12月25日 – 兵庫県神戸市元町通1丁目、西村蘭更堂薬局に、父・光雄、母・まさの三男として生まれる
1942年 – 小磯良平の師事を受ける。日本大学専門部芸術科に入学。川端画学校洋画科に在籍。
1944年 – 日本大学専門部芸術科卒業
1948年 – 頌栄保育専攻学校(現・頌栄短期大学)の絵画講師に就く
1953年 – 新制作展で「洞」「空間」が新作家賞受賞
1958年 – 新制作協会会員に推挙される
1971年 – 兵庫女子短期大学教授に就く
1980年 – 神戸市文化賞受賞
2002年 – 神戸市灘区の自宅で逝去
橋本 関雪(はしもと かんせつ、1883年(明治16年)11月10日 – 1945年(昭和20年)2月26日)は日本画家。本名は貫一。
生涯
『遅日』(1913年)
橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。父・海関は橋本文水(播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。
父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年(大正2年)と1914年(大正3年)の文展で二等賞。1916年(大正5年)と1917年(大正6年)の文展で特選を受賞。帝展審査員を務め1934年(昭和9年)12月3日、帝室技芸員に選ばれる[1]。1935年(昭和10年)に帝国美術院、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員となる。1940年(昭和20年)、建仁寺襖絵を製作。
1945年(昭和20年)に没し画号の由来となった逢坂の関 のあった滋賀県大津市の別邸・走井居(月心寺)の墓地に眠る。
人物
関雪の号は藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見、その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたという。果たして翌年、兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。
中国古典に精通したことでも知られ、たびたび中国へ渡った。京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。庭を営むことが多く大津に走井居、明石に蟹紅鱸白荘、宝塚に冬花庵という別邸を造営した。また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。
代表作品
『秋圃』(1939年)
琵琶行(1910年) 川村記念美術館蔵
遅日(1913年) 足立美術館蔵
南国(1914年) 姫路市立美術館蔵
猟(1915年) 白沙村荘 橋本関雪記念館蔵
寒山拾得(1917年) 林原美術館蔵
木蘭(1918年) 川村記念美術館蔵
意馬心猿(1928年)京都国立近代美術館蔵
長恨歌(1929年) 京都市美術館蔵
玄猿(1933年) 東京芸術大学大学美術館蔵
暮韻(1934年) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
唐犬図(1936年) 大阪市立美術館蔵
防空壕(1942年) 東京国立近代美術館蔵
香妃戎装(1944年) 衆議院蔵
橋本 信(はしもと まこと、1953年 – )は、日本画家。女子美術大学教授。
来歴
大阪府生まれ。1977年東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。日本画家で伯父(後の父)の橋本明治に師事。1986年に明治の養子となり、本名は信、雅号は弘安(こうあん)で作品を発表している。
1986年女子美術大学日本画専攻講師に就任。1994年日展審査員(現在は評議員)、女子美術大学助教授を経て、1997年に同教授に昇格。2004年女子美術大学日本画専攻主任教授、2007年女子美術大学大学院美術研究科長、2011年女子美術大学芸術学部長。
1990年頃の秋頃から自作天然顔料で制作している。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年 – 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民芸運動を支えた板画家である。
略歴
1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。
そのころに吉田璋也と出会い民芸運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。全国的に活動しながらも終生倉吉を本拠にし、鳥取県の芸術の振興に寄与した。2004年(平成16年)8月19日、敗血症のため死去。
作風
作品は墨一色から裏彩色、多色摺りまで多種多様であるが、いずれも明快かつ力強い表現で、河井寛次郎と棟方志功の影響を見て取れる。
東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日 – 1999年(平成11年)5月6日)は、日本の画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。
来歴・人物
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として横浜市に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進学。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に「山国の秋」を初出品し、初入選を果たす。美術学校を卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。1940年には日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚。1945年応召し、熊本で終戦を迎える。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に一旦落ち着く。11月に母が死去すると千葉県市川市に移り、その後1953年には大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画「黄山暁雲」は畢生の大作となった。千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出した。東山は黄山を「充実した無の世界」と表現した。混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネルギーを感じ取った。この計画を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになった。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。川端康成とも親交が深かった。
ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。また、瀬戸大橋の色を提案したことでも知られる。
生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈。長野県は長野県信濃美術館に「東山魁夷館」(谷口吉生設計)を増設し、寄贈された作品の常設展示にあてている。その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館、父方の出身地である香川県の「香川県立東山魁夷せとうち美術館」にも、版画を中心とする作品が寄贈されている。戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して市川市立「東山魁夷記念館」が開館した。また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄贈された約500点の版画を収蔵する「東山魁夷 心の旅路館」が、岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にある。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年7月9日 – 1938年3月2日)は、大正・昭和初期にかけ活動した日本画家。本名は輝夫。
生涯
播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3名兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5名で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。
幼少時に、長兄鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。その時分より歴史画、特に武者絵を好み、日本画家を目指した。明治28年(1895年)最初は狩野派の橋本雅邦に学んだが、鎧を描くのが大好きだった映丘には合わず半年ほどで通わなくなり、明治30年(1897年)兄の友人田山花袋の紹介で、今度は住吉派(土佐派の分派)の山名貫義に入門する。そこで本格的に大和絵の歴史や技法、有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)を研究するようになる。
明治32年(1899年)に東京美術学校日本画科に入学し、ここでは川端玉章、寺崎広業らの指導を受ける。また在学中に小堀鞆音や梶田半古、吉川霊華らの「歴史風俗画会」に参加している。明治37年(1904年)に首席で卒業し、神奈川県立高等女学校と当時併設されていた神奈川女子師範学校の教諭を務めた。明治41年(1908年)東京美術学校教授の小堀鞆音の抜擢で同校助教授に就任する。1912年の第6回文展において「宇治の宮の姫君たち」が初入選すると、以後官展を舞台に活動した。
1916年には「金鈴社」の結成に参加、更に1921年には自ら「新興大和絵会」を創立し、大正・昭和にかけて大和絵の復興運動を展開した。この会は1931年には解散したが、『絵巻物講話』(中央美術社)や、編著『図録絵巻物小釈』(森江書店、1926年)を著し、1929年には『日本絵巻物集成』(雄山閣)や『日本風俗画大成』(全10巻・中央美術社、復刻国書刊行会)の編纂を行った。
1928年秋に昭和天皇御大典を奉祝した記念絵画を納めている。1929年、第10回帝展に出品した《平治の重盛》で帝国美術院賞を受けた。1930年に帝国美術院会員に選ばれた。
1935年帝展の改組で画壇が大きく揺れ、映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成した。1937年には帝国芸術院会員となるが、1938年に死去。56歳没。墓所は多磨霊園。
山口 啓介(やまぐち けいすけ、1962年1月6日 – )は美術家。兵庫県西宮市出身。武蔵野美術大学を卒業後、大型銅版画作品で数々の賞を受賞し鮮烈なデビューを遂げる。 その作風から「方舟」や「宇宙船」のモチーフ、また宇宙的、生命的イメージが知られることとなる。 以降、立体、絵画、インスタレーションなど、さまざまなメディアによる作品を展開する。 1997年に発案した音楽用カセットケースと花や植物を使った作品「カセットプラント」が注目される。2009年-2013年武蔵野美術大学客員教授。
経歴
1962年西宮市に生まれる。祖父は兵庫の寺(浄土宗)の住職で、祖父亡きあと父が住職をつとめる。当時サラリーマンだった父の転勤で大阪府枚方市、福岡県福岡市、東京都世田谷区と転居をくりかえす。実弟はアートディレクターの山口アツシ。大学時代から東京都福生市の米軍ハウスに居住し制作。大学では油絵を描いていたが授業で銅版画を経験したことがきっかけで制作をはじめる。卒業後、同大学の研究室に入る。この頃に山口自身が恩人と語る池田満寿夫と出会い、満陽工房で銅版画制作の手伝いをしながら自身の作品をつくる機会を得る-《水船のためのsketch-満陽工房で》(1989年)。1989年からの2年間で集中的に大型銅版画にとりくむ。1990年ヒルサイドギャラリー(東京)で初個展。1992年、Asian Cultural Councilの助成によりニューヨーク滞在、同年文化庁芸術家在外研修員としてフィラデルフィア(ペンシルベニア大学)に派遣。このとき大型組み合わせ銅版画の中で最も大きい作品となる《エノラ・ゲイ》の制作にとりかかる。1994年《エノラ・ゲイ》を含む銅製の船の立体作品などと組み合わされたインスタレーション《Calder Hall Ship Project》を発表。1995年に大阪トリエンナーレ1994の関西ドイツ文化センター・デュッセルドルフ市特別賞により渡独。ドイツ、デュッセルドルフ市から提供されたアトリエで《原子力発電所》《象の檻》《世界地図》の3つのシリーズからなるドローイングを制作する。その後、引き続きアトリエ・ヒューアベックの助成を受けデュッセルドルフに滞在。1997年に帰国後、キャンバス絵画《コロニー》シリーズと、カセットプラントを発表。1998年以降、カセットプラントによるワークショップなど活動を広げる。2001年ごろ、ゲーテの原植物の概念や、三木成夫の考えに触発され、植物と人間のアナロジー的絵画作品《花の心臓》シリーズを制作、発表。2005年、イラクの劣化ウラン弾に被曝した子供を描いた《DU Child》を、初めての木版で制作。2011年3月11日以降、《震災後ノート》を付けはじめる。2013年、瀬戸内国際芸術祭2013で男木島に歩く方舟を制作。同年いわき市立美術館でhakobune プロジェクトを開催。2001年から、東京と兵庫に在住、制作。
横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 – )は、兵庫県西脇市生まれの美術家、グラフィックデザイナー。西脇市名誉市民。
幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。死の世界に憧れを抱く。神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。三島由紀夫に出会い三島の「聖俗一体」的言動に触発される。三島の死をきっかけにその後の15年間をオカルティズムや神秘主義まで包括した精神世界に傾斜してゆくが、それらが大いなる錯覚だったと気づき「私」の探求の延長線上で絵画に出会う。精神世界と絵画は全く別の存在だと考えていたが、後にこの両者が自分すら知らない深いところで結びついていると感じるに至る。向田邦子脚本によるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年・TBS)では、倉田という謎の多い人物を演じた。長女の横尾美美も美術家。
経歴
横尾が生まれ育った西脇市中心部と童子山(中央の森)の180°展望(生活文化総合センター 屋上より)
西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)
暗夜光路N市-Ⅴに描かれたY字路
横尾の作品展示と保存を目的する岡之山美術館(西脇市、1984年開館)
2013年7月開館の 豊島横尾館
1936年 – 兵庫県多可郡西脇町(現在の西脇市)に成瀬光政とツヨの次男として生まれる[2]。
1939年 – 2-3歳の頃に、呉服商であった叔父の横尾誠起と輝恵夫妻の養子に入り、かわいがられて育つ。幼いころから絵本の模写をしていた。
1941年 – 5歳にして「講談社の絵本」、石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写。画才を現す[2]。
1943年 – 西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)に入学。漫画を描くようになり『漫画少年』誌に投稿。
1945年 – 9歳。1月より神戸の空襲が開始され3月と6月の空襲は被害が甚大であった。西脇は空襲を免れたものの、西脇から神戸や明石の空が赤く染まるのが見えた。
1946年 – 母とともに大阪の鶴橋の闇市に米や織物を売りに行くが、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。
1948年 – 『漫画少年』に漫画を毎月投稿。
1949年 – 市立新制西脇中学に入学。
1950年 – 南洋一郎、鈴木御水の『バルーバの冒険』、山川惣治の『少年王者』や江戸川乱歩の少年ものなどに熱中。
1952年 – 16歳。兵庫県立西脇高等学校に入学。「郵便友の会」を作る。通信教育で挿絵を学び、油絵やポスター制作を開始する。高校学園祭のために、ポスターを初めてデザイン。エリザベス・テイラーにファンレターを送り返信があったことが地元紙で報じられる。朝鮮特需により西脇の繊維工業が活況[2]。
1954年 – 18歳。武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展などに相次ぎ入賞[2]。
1955年 – 武蔵野美術学校受験のために上京するが、前述の教師の助言もあり断念。西脇市織物祭のポスターが1等入選。郵便局員志望だったが、加古川の成文堂印刷所に入社。
1956年 – 神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社。
1957年 – 灘本唯人らのデザイングループ「NON」に参加。神戸新聞会館勤務だった谷泰江と結婚。
1958年 – 22歳。第8回宣美展で奨励賞を受賞。会員に推挙される。
1959年 – 23歳。神戸新聞社を退社。大阪のナショナル宣伝研究社に入社。
1960年 – ナショナル宣伝研究社の東京の移転とともに上京。日本デザインセンターに入社。安保反対のデモの後でタクシーのドアで指をはさみ骨折。
1961年 – 25歳。京都労音のポスターを制作する。
1962年 – 26歳。大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。
1963年 – 27歳。東京ADC賞銅賞を受賞。
1964年 – 長女誕生。ハイレッド・センターのシェルター計画に参加。宇野亜喜良、原田維夫と「スタジオ・イルフィル」結成(翌年、解散)。和田誠、篠山紀信らと東京オリンピック期間中にヨーロッパ旅行。
1965年 – 吉田画廊の個展にて三島由紀夫と出会う。後に共に仕事をする。
1967年 – 寺山修司の「天井棧敷」に参加。 ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。
1969年 – 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。
1970年 – 写真をはじめる。大阪万博でせんい館のパビリオンの建築デザインを担当。ロンドンを旅行。足の動脈血栓で入院、左足切断の危機を東洋医学で免れる。これを機に1-2年間の休業宣言。11月25日、三島由紀夫が自決。その3日前に横尾は三島に電話をしたが、その日は盾の会のメンバーと5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話では様々な話をしたが最後に三島は、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる。
1972年 – ニューヨーク近代美術館で個展を開催。
1974年 – 篠山紀信とインド旅行。この後何度もインドを訪れるようになり精神世界に興味を深める。
1981年 – 渋谷西武で大規模な個展。
1982年 – 南天子画廊でペインティングの近作をまとめた個展。横尾忠則の「画家宣言」ととらえられた。画家としての活動が活発になっていく。
1987年 – 兵庫県文化賞を受賞し、兵庫県公館に作品が展示保存される。
1995年 – 毎日芸術賞受賞。
2001年 – 紫綬褒章受章。
2002年 – これまでで最大規模の個展「横尾忠則森羅万象」開催。多摩美術大学大学院教授に就任(2004年まで)。
2004年 – 故郷のそばを走るJR加古川線電化開業、それにあわせ、ラッピング電車のデザインをし、同線で運行開始される。
2004年 – この年から、多摩美術大学大学院客員教授(博士課程)に就任。
2008年 – 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。
2010年 – 神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。
2011年 – 旭日小綬章受章。
2012年 – 常に時代と共振する斬新なグラフィックデザイン・絵画の制作により2011年度朝日賞受賞。
2012年 – 11月3日 神戸市灘区に横尾忠則現代美術館開館。
2013年 – 6月27日 西脇市名誉市民称号受章。
2013年 – 7月 豊島横尾館開館。
2014年 – 1937年(昭和12年)建造で昭和初期の面影を色濃く残し、2008年には兵庫県の景観形成重要建造物になった西脇市立西脇小学校の校舎が取り壊されるかも知れないという危機を知り、建替えに反対、保存改修による使用を強力に提案。ノスタルジーからではなく、市民の文化の高さを誇る象徴としての建造物が存在するということを自慢できる。市民一人ひとりが誇りを持っていただきたいと発言。教育の場の経済至上主義、物質主義に警鐘を鳴らした。同校舎は映画「火垂るの墓」「人間失格」のロケにも使われている。その結果、校舎3棟の保存が決まった。
2015年 – 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。6月、西脇市商業連合会が、西脇市内在住者を対象とし、市内の主要な店舗で使用できる横尾のデザインによる「西脇Y字路お買い物券」を、3億円分発行。
幼少期
2-3歳ころに、成瀬家から呉服商をしていた横尾家へ養子に行く。父(養父)は店を構えていたわけではなく、自転車の荷台に着物や反物を積み、料亭などに売り歩いていた。小学校に上がる前まで横尾は父のこの営業によく同行した。『想い出と現実の一致』は、この際の記憶を作品にしたものである。横尾が幼少期を過ごした西脇は綿織物(播州織)を特産としていたため、織物や反物は身近な存在であった。横尾のデザインや絵画の原典のひとつには、播州織の影響が指摘される。
母の背で意識した死
2歳のある日、多可郡西脇町(現・西脇市)のはずれにあった実家の近くの橋が台風による氾濫で流され仮設の橋が架けられた。小さな板が打ち付けられているばかりの浮き橋で、父が自転車を押しながら安全を確認しながら進む後を母に背負われた横尾は河原から不安な気持ちで見つめていた。母の背中の温もりを通し、両親の心がそのまま大きな愛になって伝わるのを感じる。しかし、同時に死の観念に襲われる。この親子の関係がいつまでも続くはずがないという感覚だった。横尾は両親が50代になってもらわれてきた養子であったため、横尾の眼には2人ともひどく年寄りに見えた。このため、両親と自分の関係が長く続かないのではという漠然とした恐れがあった。また、川の氾濫によって田畑が流され滅びるという自然のもたらしたカタストロフィー(この場合、大災害の意)の匂いの中で破滅的な終末の兆しを感じとった。これが記憶に残るこの世で最初に見た光景である。
3、4歳の頃、「自分はどこから来た人間なのだろう」としきりに考えるようになる。年老いた両親は果たして本当の親なのだろうか、と考えるが怖くて聞けなかった。母は、この横尾の不安に感づいたのかある日、試すような言い方で「ターちゃんは、橋の下でひろってきたんやで」と横尾の耳元でささやいた。横尾の耳の中でその言葉は何度も繰り返され、やがて棲みつくようになる。時空を超えたはるか遠い昔の出来事のように思えたが、誰かに捨てられたことに対しての悲しさはなく、甘酸っぱいロマンティックな物語の主人公になったような感覚があった。横尾には捨てられた場所は分かっていた。洪水で流され橋のずっと上流の橋の下だった。その橋は洪水で流され、原型をとどめていなくても間違いなくそこだという感覚があった。その後、横尾は両親と渡った橋と捨てられた橋の夢を何度も見るが、橋はいつも途中で途切れており、そこから先は細くて薄い板が1枚延びているだけだった。ただ、その先は別の世界につながっているという感覚だけがあった。それが後々まで映像として横尾の脳裏に残った。
死は終わりではない
自分の故郷はもう一つ別のところにあって、懐かしい故郷からやってきて今ここにいるが、いつの日にか再びその故郷に戻るのではないかという漠然とした予感を抱くようになる。物思いにふけることが好きで、外に飛び出し流れ星を待つと、いつもそれはすぐにやってきた。流れ星は懐かしい故郷の記憶を運んでくるように思え、この予感は毎日のように繰り返され、記憶の中で強まっていく。母に家の近くの坂上の地蔵堂によく連れていかれたが、母は涎掛けを縫っては地蔵に掛けるのだった。横尾の記憶の中でその地蔵は自分自身になっていた。石になって動かない僕の遺骸に母は弔いの気持ちを込めて涎掛けを賭け続けるのだ。あるいは、僕は赤子で生命力にはあふれているが無力なので、ひたすら母は愛情を授けているのかもしれない、と横尾は感じていた。地蔵は生と死を兼ね備えると同時にはるか遠くの昔の世界につながっていく。
ガタロウと白昼夢
子供の頃、大阪の河内に住んでいた父は、横尾に沼でガタロウ(河童)に引き込まれて死にそうになった話をよくした。泳ぎがさして上手でない父はその沼を犬掻きで泳いでいたところ、いきなり強烈な勢いで足を引っ張られ水中に没した。もがきながら暗い水中で目を開けると緑色のガタロウがいた。横尾はその話しを何度も思い出すのだが、その沼がなぜか横尾自身が通っていた小学校の裏にある鬱蒼たる樹木に囲まれた小さな池になってしまう。父の話を思い出しながら変だなとふと顔を起こすと、父は横尾が捨てられた橋の下のごつごつした岩の上に座り、ガタロウの話をしている。そのうちに、父がいつの間にか実父に変っており、実父が釣りをしている風景が見える。横尾は、これは白昼夢なのだと気付いた。
賽の河原と閻魔大王
子供の頃、怖かった話に賽の河原の物語と閻魔大王がある。横尾はこれらの話を聞いて死後の世界の存在を信じるようになる。閻魔大王を本気で怖れ、そのためか20歳で結婚するまで童貞であった。ただし成人後は閻魔大王と眼も合わせられないようなことを多くしたため、ある程度の覚悟をし、その時の恐れを少しでも緩和するために、ときどき人生を振り返りつつ反省することとなる。
休養宣言
ピラミッドパワーを体感できる岡之山美術館・瞑想室。
1970年1月、タクシー乗車中の交通事故で生まれて初めての入院生活を経験。これを機に1-2年間の休業宣言を行う。この間も全作品展の開催やエッセイの連載、写真や小説などの新分野への進出を行っており、仕事をやめていたわけではない。横尾の休業宣言は、大阪万博のこの年、「人類の進歩と調和」のスローガンに浮かれていた世間に対する尖鋭的な表現でありえたし、1960年代以降の横尾の反体制的指向を象徴する出来事として受けとめられた。しかし9月には原因不明の足の痛みによって2度目の入院を余儀なくされ、ほとんど歩行不可となってしまう。深刻な病状に高倉健や浅丘ルリ子らも見舞いに訪れる。そんな中にあって、三島由紀夫だけが横尾に対し仕事をするように激しく叱咤激励した。三島が横尾に何としても仕上げさせたかったのが、細江英公の三島の写真集『新輯薔薇刑』の装幀(90頁)であり、篠山紀信撮影による写真集『男の死』の撮影であった。三島は自分の撮影を終えており、しきりに横尾に催促した。同年の後の三島の自決によって、横尾は大きな衝撃を受けその後も横尾の心を捉え続けることになる。三島の姿やイメージはのちの横尾の作品中にいく度となく登場する。写真集『男の死』は、その後封印されたままとなった。
画家宣言
ニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」は横尾をグラフィックデザイナーから画家へと大きく転身させる。
転身のきっかけはニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」であった。横尾自身、旅行前までまったく考えなかったことだが、美術館の入り口をくぐる際にはグラフィックデザイナーであった横尾は2時間後の出口に立った時には、「まるで豚がハムの加工商品になって工場の出口から出てくるように僕は『画家』になっていた」(横尾自身の言葉)のである。画家宣言がいつどこで行われたかは不明だが、1981年の個展を記事にしたマスコミによって「死亡宣言」や「休業宣言」に続く事件として扱われたようだ。身動きも取れないほどの混雑したピカソ展で遅々として進みながら横尾の中では、ピカソの芸術と人生に吸収されるように意識の統合が起こり始め、自己の想いや感情に忠実に従う無垢さと正直さに自分自身の欺瞞性。あるいは心のガードの固さをいやというほど見せつけられるとともに言いようのない解放感に恍惚としたという。難波英夫は、横尾はあの日の「ピカソ展」にインスパイアされ、自分の本能に目覚めたと述べている。
作家論・業績
横尾忠則デザインの加古川線のラッピングカー
住吉屋(西脇銘菓へそ最中) – 包装紙が横尾忠則デザインによる。1999年12月6日横尾が来店し、「包装紙48年間使っていただいて感謝」の色紙を残す。その後も何度か訪問している。
横尾の個人美術館である横尾忠則現代美術館(神戸市、2012年開館)
幅広い作風でジャンルを超えて活動。油絵、オフセット印刷、テクナメーションや立体など技法は多様である。また先行する作品を引用や模写の形で作品に取り入れることも多い。絵を描くことを愛だと表現し、理論や状況分析によって制作する立場はとらない。また、興味をもった対象は膨大な量をコレクションする。それは作品のモチーフになり、時に引用される。1980年代後半から滝を描き続けたときは膨大な滝のポストカードを収集し、コレクション自体も作品化した。2000年からの「暗夜光路」シリーズでは、故郷・西脇市で幼少時によく通った模型店付近にあるY字路を集中して描いた。
何度もインドを訪れている。宇宙人や霊的な存在についての言及もあり作品の評価の際にも関連が指摘される。本人も霊感が強く、心霊と会話することが出来ると言う。きっかけは1970年代に宇宙人に、首のところへ送受信装置を埋め込まれ、それにより霊界との交信が可能になったという(『大霊界~丹波哲郎の世界』の対談より)。それらに関するいくつかの著書も出している。
メディア型美術家と評されるほど、各種メディアへの登場頻度が高い。自身の公式サイトにて発表している、ひと言風の日記「YOKOO’S VISION(横尾忠則 昨夜・今日・明日)」は更新頻度も高く、訪問数も高い。
『週刊少年マガジン』の表紙や、マイルス・デイビスのアルバム『アガルタ』、サンタナのアルバム『ロータスの伝説』『アミーゴ』などのジャケット、1979年貴乃花・1981年千代の富士貢の化粧廻し、宝塚歌劇団のポスター、マツダ・コスモスポーツの海外向けカタログなどもデザインしている。
また、多くの異なるジャンルの作家と交流を持ち、共同で仕事をしている。岡本太郎、谷内六郎、高倉健、三島由紀夫らを敬愛している。
2005年、資生堂が3月に発売した発毛促進剤「薬用アデノゲン」のテレビコマーシャルに対し、「アイデアやコンセプトが私の作品と類似している。広告の作り手の主体性とモラルを問いたい」と抗議。直後に資生堂はCMの放映をやめた。類似していると指摘した横尾自身の作品とは、鏡面床の空間に大量の滝のポストカードをビニールに差込み、壁面3面に展示するものであった。この件に関して、
アンディ・ウォーホル、荒木経惟など、数多くの芸術家が実践してきた手法であり、インスタレーションの手法としては一般的である。
1990年の「GOKAN」というエキジビションで、テレビCMを手がけたタナカノリユキは、底を鏡面にした作品をすでに発表している。
横尾は滝のポストカードだったのに対して、CMは商品対象になる人物たちのモノクロ顔写真である。
などのことから、模倣という指摘に疑問をもつ声も挙がっている。また、タナカノリユキは模倣を否定している。
三宅一生との関係
三宅一生との出会いは1975年の篠山紀信の写真展「家」の会場だった。パリ・コレクションの出品作に横尾のポスターをプリントするという着想を得た三宅が「家」のオープニング会場で横尾を待ち伏せし、使用許可を申し出、横尾はこれを受け入れた。横尾は特にイタリアのコモで行われる布帛の抜染というプリントの技法に興味を示した。後に横尾は「生地って歪むんだね」と真顔でつぶやき服飾関係者の爆笑を買う。が、後に三宅にとってこの言葉は次第に重みを増してくる。歪むことで美の可能性を美術の制度的規範で束縛された美の空間的概念とは異なる創造的ヒントを横尾は直感した。一方、三宅は横尾作品のプリント生地を制作したものの、その布地を裁断できなくなってしまう。ここから三宅は新たなるファッションのコンセプトを開拓してゆく。さらに、横尾が描いたポスターがをプリントした1枚の布を三宅が仕立てた服をモデルが着こなすという重層的な段階を経て絵(服)は一瞬たりとも同じであることはできない歪みの源泉となった。ここに歪みの美しさと創造性が新たに示されることとなる。
ラッピング電車
2004年12月から2012年11月まで、加古川から丹波市谷川に至り途中西脇を通過するJR加古川線では、横尾の絵で車体を包み込むラッピング電車が公開された。主題は5種類あり、複数のバリエーションも存在した。「ターザン」と「三島由紀夫」をモチーフにしたものもあったが、車体化は実現しなかった。
第1の主題 – 「見る見る速い」
鮮やかな色彩の正方形の組み合わせの下地に無数の眼が浮かび上がる図柄。電車の模様は見る人の目を楽しませるものだという常識に反抗し、人間が電車から見られる。妖怪「百目」や「目目蓮」にも似たものであった。
第2の主題 – 「銀河の旅」
円形に輝く多くの星の光がモチーフになっており、輝きの内部にさらに無数の輝きがあり多元的宇宙構造を描き出している。
第3の主題 – 「滝の音、電車の音」
5つの主題の中では最も自由で大胆なデザイン。横尾が偏愛する滝の風景と電車の音の照応が斬新な効果を生む。
第4の主題 – 「走れ!Y字路」
暗い色調のY字路の絵柄は、田園地帯の明るい直線の多い加古川線では激しいコントラストを生み、遠くから眺めると蒸気機関車の疾走にも見える。
第5の主題 – 「ターザン」
横尾が得意とするポップアート的作風で、咆哮する野生児的な美青年が、サイズや色を変え反復される。バリエーションに散水用のホースを咥えた『薔薇刑』の三島由紀夫の図柄もある。「ターザン」は実際に車両として走ることはなかった。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 – 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
経歴
旧朽木藩の御典医であり、その後生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。兄・宗英が大牟田市の鉱山業に従事したため、1896年(明治29年)、13歳の時に一家をあげて福岡市に転居する。大名尋常小学校を経て、翌1897年(明治30年)、福岡県立尋常中学修猷館に進学するが、1899年(明治32年)、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、長尾建吉の斡旋で黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事する。
1901年(明治34年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。1902年(明治35年)、八丈島への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち伊豆大島へ漂着しており、これが後の『南風』制作の契機となった。
1904年(明治37年)、東京美術学校を卒業し、1905年(明治38年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞[1]。『南風』は、明治浪漫主義の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年(明治41年)の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。
1909年(明治42年)、文部省美術留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。その帰途、1914年(大正3年)、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年(大正4年)に帰国。1917年(大正6年)、文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年(大正9年)、染色芸術研究所、1925年(大正14年)、日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。
この頃、1923年(大正12年)からは、本格的に日本画の制作に取り組んでいる。翌1924年(大正13年)、日本と朝鮮の双方の羽衣伝説を題材とした、朝鮮総督府庁舎の大壁画『羽衣』を制作している。
1927年(昭和2年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。その後、1938年(昭和13年)には西宮にあった品川清臣による京都版画院という版元から『昭和職業絵尽』シリーズの第1作として「洋楽師」と「巡礼」という木版画を発表。この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956年(昭和31年)、続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている。
1932年(昭和7年)には東京美術学校図案科教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務めている。1945年(昭和20年)、日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し、理事長に就任。1951年(昭和26年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。なお、『地獄門』は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれている。
1967年(昭和42年)8月22日、誤嚥性肺炎のため東京逓信病院で死去。享年84。
娘は1939年6月23日に有馬大五郎と結婚した。
植松 奎二(うえまつ けいじ、1947年-)は兵庫県神戸市生まれの芸術家。
兵庫県立御影高等学校、神戸大学教育学部美術科卒業。1969年京都での最初の個展を皮切りに、日本では大阪、ドイツではデュッセルドルフに居住しながら、1988年にはベニスビエンナーレ日本代表に選出されるなど国際的な活躍を続けている。70年代の観念的な作品群から、近年とみに増えた国内外における野外彫刻の設置にいたるまで旺盛な創作活動に一貫するものは、木、石、布、金属といった素材を時として、多彩に配置し、空間の異化を生み出すことで人間の知覚の背後に潜む普遍的な力-重力や磁場-を作品を通して確認させようとする試みである。2013年、『截接―軸・経度・緯度』で第38回中原悌二郎賞受賞。
パブリックコレクション
アート・カイト・ミュージアム(ドイツ)
リューネン市裁判所(ドイツ)
ミュンヘン空港
カルティエ現代美術財団(パリ)
旭川市彫刻美術館
国際芸術センター(青森)
ファーレ立川(東京)
愛知県図書館(「浮くかたち/傾」)
兵庫県立美術館
西宮市大谷記念美術館
北九州市立美術館
霧島アートの森(鹿児島)
JR山陰本線和田山駅前(兵庫)
牛尾 啓三 (うしお けいぞう、1951年10月20日 – ) は日本の彫刻家。兵庫県神崎郡福崎町出身。兵庫県立姫路西高等学校、京都教育大学を経て、京都市立芸術大学に学ぶ。
菊川 晋久(きくかわ のぶひさ、1932年 – )は、兵庫県出身の彫刻家。女性を中心とした人物像などを発表、その多くが神戸市内に野外彫刻として設置されている。
経歴
1932年、現在の兵庫県南あわじ市に生まれる。
1955年、日彫会展に出品、会友に推挙される。
1956年、現京都教育大学特修美術科(彫塑専攻)卒業。
2001年、神戸市文化活動功労賞を受賞。
新谷 琇紀(しんたに ゆうき、1937年7月26日 – 2006年8月31日)は、日本の具象彫刻家。
人物・来歴
「愛」をテーマに精緻で柔らかな作風を持つ。女性を中心とした人物像などを発表、その多くが神戸市内に野外彫刻として設置されている。
1937年7月、新谷英夫の長男として、兵庫県神戸市に生まれる。父を師として彫刻を始めた。 兵庫県立御影高等学校、金沢美術工芸大学を卒業後、イタリアのローマへ留学し、エミリオ・グレコらに師事する。神戸女子大学で教授職の傍ら、彫刻家として作品を発表してきた。 1971年12月28日、イタリア人モナイ・パトリツィアとイタリアにて結婚。ほとんどの女性の彫刻はパトリツィアがモデルになっている。 1973年に長女、1975年二女が生まれ、二人が新谷彫刻研究所を引き継いでいる。
2006年8月31日、肝不全のため69歳で死去。
髙橋 忠雄(たかはし ただお、男性、1932年3月11日 – 2012年5月23日)は、兵庫県加西市生まれの洋画家、彫刻家、陶芸家である。34歳の若さで二科会彫刻部会員となり、木彫をはじめ、石膏、ブロンズ、金属、陶芸等あらゆる素材を駆使した立体を得意とした作家。1981年49歳に脳梗塞で倒れ、半身不随の車椅子生活ながら絵画制作を行う。大作を続々と国内外に発表し髙橋芸術を確立。立体、平面とも日本国内外に多数作品が収蔵されている作家。
略歴
1932年 兵庫県加西市に産まれる
1960年 二科展彫刻(特選)受賞
1965年 二科展彫刻(金賞)受賞
1966年 二科会彫刻部「会員推挙」
1967年 – 1990年 二科展で審査員を勤める
1968年 米国ワシントン州立博物館に彫刻作品贈呈(地方自治体買上)
1969年 – 1981年 JR姫路駅前「しらさぎの群」他、姫路市内の彫刻モニュメント67点制作
1982年ライオンズクラブの依頼によりJR播州赤穂駅前にモニュメント”大石内蔵助像”制作
1983年 兵庫県立北条高等学校[緞帳]デザイン制作
1984年 加西市美術家協会2代目会長就任
1989年 詩集「加西石仏・石の音」発刊
1990年 二科会彫刻新会を退会、絵画に転向/芸術文化団体半どんの会「文化芸術奨励賞」受賞/大阪府立現代美術センターにて個展「水の指標」を開催/天理美術展「奨励賞」受賞/等迦展の審査委員となる
1991年 大阪府立現代美術センターで個展「幽玄の標」を開催
1992年 第14回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/現代美術白峰展で芸術選賞を受賞、審査員となる/大阪府立現代美術センターで個展を開催
1993年 ブラジルクリチバ市制300周年記念モニュメント制作/第15回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/彫刻作品”破調”が加西市の買い上げとなる/等迦展(瑛九賞)受賞。大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/ABCギャラリーで個展を開催
1994年 春日水彩画展で「大賞」を受賞、作品買上となる
1996年 大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/国際芸術交流展「96審査委員会賞」受賞/国際美術大賞展イタリー96「奨励賞」受賞/現代美術白峰展「文部大臣賞」受賞/氷上町立植野記念美術館に絵画1点が収蔵される/姫路市立美術館に作品が収蔵される
1997年 姫路市美術文化賞「芸術年度賞」受賞
1998年 阪急百貨店美術工芸サロンで個展「ー華ー高橋忠雄絵画展」を開催
1999年 氷上町立植野記念美術館主催「収蔵作家紹介シリーズ・高橋忠雄展~水と森~」が開催される
2000年 ニューアート・ZERO会結成(初代会長就任)
棚田 康司(たなだ こうじ、1968年 – )は、兵庫県明石市出身の彫刻家。
東京造形大学美術学部彫刻科卒業。東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。文化庁芸術家在外研究員としてベルリンへ留学。
2001年ベルリン滞在後からは「一木造り」という日本古来の木彫技法による華奢な少年少女の像を制作する現代彫刻家である。
主な個展
ギャラリー美遊(1994年)
ゆっくりと、肯定へ ギャラリーαM(1997年)
Domination & Submission – ミヅマアートギャラリー -(1999年)
「棚田康司」展 – ミヅマアートギャラリー -(2000年、2004年、2006年、2009年)
「棚田康司」展 – void+ -(2006年)
「棚田康司」展 – ヴァンジ彫刻庭園美術館 -(2008年)
津野 充聡(つの みつとし、1952年 -)は、兵庫県神戸市出身の彫刻家。女性を中心とした人物像などを発表している。
生涯
1952年(昭和27年) – 兵庫県神戸市に生まれる
1976年(昭和51年) – 東京造形大学彫刻科を卒業
1978年(昭和53年) – 愛知県立芸術大学大学院を修了
1979年(昭和54年) – 愛知県立芸術大学大学院研修科を修了
2010~兵庫県彫刻家連盟 代表
柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 – 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家の一人である。
略歴
兵庫県神戸市生まれ。1936年東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会受賞、1937年国画会同人。1939年新制作派協会彫刻部創立に参加する。戦後、1952年から5年間ヨーロッパに滞在する。1956年高村光太郎賞、1974年中原悌二郎賞大賞など受賞、1970年日本大学芸術学部主任教授。1996年文化功労者。
淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 – 2005年2月14日)は兵庫県朝来市生まれの彫刻家、文化勲章受章者。
削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。
大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。
略歴
1911年 – 兵庫県朝来郡朝来町佐中に生まれる
1948年 – 「老人胸像」で、二科展特別賞受賞
1965年 – 東京芸術大学教授就任
1972年 – 第1回平櫛田中賞受賞
1973年 – 「砂とロバと少年」で、内閣総理大臣賞受賞
1977年 – 「ローマの公園」で、日本芸術院賞受賞
1978年 – 長野市野外彫刻賞受賞
1982年 – 日本芸術院会員
1994年 – 文化功労者。朝来町名誉町民
1998年 – 二科会理事長
1999年 – あさご芸術の森美術館に「淀井敏夫記念館」開館
2001年 – 文化勲章受章
日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 – 2006年(平成18年)2月28日)は、日本の彫刻家。1933年(昭和8年)の日展初入選を皮切りに日彫賞など数多くの賞を受賞。日本美術家連盟会員、日本彫刻倶楽部会員、日本彫刻会会員として文展4回、日展22回の入選を重ね、日展無鑑査彫刻家として多くの作品を残した。
経歴
1917年(大正6年)3月26日 – 兵庫県養父郡糸井村(現・朝来市和田山町林垣)に父・峰蔵、母・志奈の長男として生まれる。
1922年(大正11年) – 寺内小学校に入学、5年の頃から彫刻に興味を持つようになる。
1923年(大正12年)9月23日 – 母・志奈が65歳にて死去。
1931年(昭和6年) – 島根県在住の彫刻家内藤伸(日本木彫会を主宰)の門を叩く。
1933年(昭和8年) – 上京し、講義録で名を知った三国慶一(日本木彫会会員)の指導を仰ぎ内弟子となる。初入選するまで文展(文部省美術展覧会)に続けて出品をする。
1936年(昭和11年) – 三国邸を出て豊島区千早町1丁目翠松園に仮寓する。
1937年(昭和12年) – 日本彫刻倶楽部会員となる。
1938年(昭和13年)10月 – 第2回文展(文部省美術展覧会)に「みのる秋」を出品、初入選となる。初入選が地元新聞に大きく取り上げられる。
1940年(昭和15年)
4月2日 – 父・峰蔵75歳にて死去。
10月 – 増田市太郎の長女・忠枝と結婚する。
1941年(昭和16年)
9月 – 長男・哲生まれる。
10月 – 第4回文展に「夕映」を出品する。
1942年(昭和17年)10月 – 第5回文展に「五月の朝」を出品する。豊岡市正福寺に「大石理玖夫人」を制作する。
1943年(昭和18年)10月 – 第6回新文展に「清新」を出品する。この作品は麹町にて後に戦火で焼失する。
1944年(昭和19年)9月 – 戦争に召集、姫路39連隊に配属されフィリピン・ミンダナオ島各地を転戦、翌年11月復員する。
1947年(昭和22年)
– 日本彫刻会会員となる。
2月 – 次男・治生まれる。アトリエ新築する。
10月 – 第3回日展に「秋晴」を出品する。
1948年(昭和23年)
– 日彫展に「裸婦」を出品する。
10月 – 第4回日展に「野良のひととき」を出品する。
1949年(昭和24年)
– 日彫展に「裸婦」を出品する。
10月 – 第5回日展に「ざくろ」を出品する。
1950年(昭和25年)
7月 – 郷土後援会が発足する。
10月 – 第6回日展に「少女」を出品する。
12月 – 豊岡市主催「日下寛治彫刻展」が開かれ自選70点を出品する。佐藤(朝山)玄々京都妙心寺内アトリエにて三越「天女像」制作に参加する。
1951年(昭和26年)10月 – 第7回日展(文部省主催日本美術展覧会)に「庭」を出品する。
1952年(昭和27年)
6月 – 日本木彫会展に出品する。
10月 – 第8回日展に「坐女」を出品する。
1953年(昭和28年)
4月 – 日本木彫会展(高島屋)に「男」を出品する。
10月 – 第9回日展に「二人の女性」を出品する。赤穂義士没後250周年の追慕大祭を記念して著名彫刻家により四十七士の木像を制作、この内神崎与五郎を献彫する。
11月 – 高岡美術館にて開催の日本木彫会展に出品する。
1954年(昭和29年)
– この年より昭和31年春まで日本橋三越創立50周年記念事業「天女像」制作に参加する。
4月 – 日本木彫会展(高島屋)に出品する。
11月 – 第2回彫塑展に「裸婦」を出品する。
1955年(昭和30年)
3月 – 東京杉並区上高井戸に転居、アトリエを移築する。
4月 – 日本木彫会展(高島屋)に出品する。
10月 – 第11回日展に「腰掛けた女性像」を出品する。
1956年(昭和31年)
6月 – 創立二十五周年記念日本木彫会展に出品する。
10月 – 第12回日展に「裸婦」を出品する。
1957年(昭和32年)10月 – 第13回日展に「裸婦」を出品する。
1958年(昭和33年)
6月 – 第18回日本木彫会展(高島屋)に出品する。
11月 – 第1回新日展に「裸婦」を出品する。
1959年(昭和34年)
4月 – 第19回日本木彫会展に出品す。
6月 – 第7回日彫展にて日彫賞受賞する。
1960年(昭和35年)
6月 – 第8回日彫展にて奨励賞受賞する。
11月 – 第3回新日展に「裸婦」を出品する。
1961年(昭和36年)
4月 – 日本木彫会に「座婦」「裸婦」「想」「裸女」を出品する。この回を最後に日本木彫会は解散、日展作家13名によりグループ展向彫会を結成。
6月 – 第9回日彫展に「裸婦」を出品、日彫賞受賞する。
11月 – 第4回新日展に「静思」を出品する。
1962年(昭和37年)
4月 – 第1回向彫会展を高島屋にて開催、「家族」他を出品する。この会の幹事を務める。以後松坂屋、中央公論画廊等でも開催し8回まで続く。
6月 – 第10回日彫展に「「裸婦」を出品する。
11月 – 第5回新日展に「女」を出品する。
1963年(昭和38年)
4月 – 第2回向彫会彫刻展に「トルソー」を出品する。第11回日彫展審査員となる。
8月 – 秋田県能代市に「小野喬像」を制作する。
11月 – 第6回新日展に「若い女」を出品する。
1964年(昭和39年)
6月 – 第12回日彫展に「母子」「裸婦」を出品、日彫展審査員となる。向彫会展に「家族」を出品する。
11月 – 第7回新日展に「裸婦」を出品する。
1965年(昭和40年)
6月 – 向彫会展に「牛」「馬」を出品する。豊岡市塩津公園に治水砂防の権威「赤木正雄博士像」制作する。
11月 – 第8回新日展に「裸婦」を出品、無鑑査となる。
1966年(昭和41年)
6月 – 向彫会展に「鯉」を出品する。
11月 – 第9回新日展に「想」を出品する。兵庫県立但馬文教府にて「日下寛治作品展」開催、59点が出品される。
1967年(昭和42年)11月 – 第10回新日展に「歩く女」を出品する。
1968年(昭和43年)11月 – 第11回新日展に「静立」を出品する。
1969年(昭和44年)
– 向彫会解散する。
11月 – 改組第1回日本美術展に「婦女像」を出品する。
1972年(昭和47年) – 平和の塔制作。
1976年(昭和51年) – 和田山町文化功労者として顕彰される。
1991年(平成3年) – 兵庫県朝来市和田山町寺谷橋畔にモニュメント「友愛」像を制作する。7月6日除幕式。
1993年(平成5年) – この年より阿弥陀仏を数多く制作する。
1995年(平成7年)
– この年より小仏像を数多く制作する。
8月 – 日彫会を退会する。杉並区展等に出品する。
2005年(平成17年)3月 – 和田山町名誉町民並びに朝来市名誉市民となる。
2006年(平成18年)2月28日 – 肺炎にて死去する。
市野 重義(いちの しげよし、1941年 – )は、陶芸家。兵庫県篠山市今田町立杭出身。
略歴
関西大学卒
1969年 – 1973年、リーチ陶房に在籍。
フランスのビエノーで、アトリエ・デ・セップの築窯を監督、グループ展にも参加する。
1990年、兵庫工芸家展覧会で神戸新聞賞を受賞する。
1997年、JR篠山口駅前の記念碑をデザインする。
丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は兵庫県篠山市今田地区付近で焼かれる陶器、炻器。主に生活雑器を焼いてきた。丹波焼、または立杭焼ともいう。起源は平安時代にまで遡るといわれ、六古窯の一つに数えられる。
中世の丹波焼の特徴は赤っぽい土肌にかかる、焼き締めによる自然釉に特徴がある。備前焼、信楽焼に比べ、若緑色のおとなしめで爽やかな作品が多い。江戸時代以後は釉薬や技法が多様になったが、現代の丹波焼でもその風合いを引き継いだ民芸調の作品が多く見られる。
概要
丹波立杭焼の産地「上立杭」
上立杭にある登り窯
平安時代末期から鎌倉時代が発祥といわれ、登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すのが丹波立杭焼の最大の特徴である。 中世には轆轤を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られた。初期には壺や甕、すり鉢などを主に作っていた。
江戸時代に入ると登り窯が用いられるようになり、大量生産品としてのすり鉢が堅牢であったため、17世紀には、中部、関東以北に急速に普及し、堺産のすり鉢が18世紀中盤以降に普及するまでは東日本で瀬戸と二分するシェアを誇った。一方で、小堀政一(遠州)等の影響により、茶碗、茶入、水指といった茶器の分野においても数多くの銘器を生み、京都や美濃焼に影響され、釉薬を用いた陶器が誕生した。江戸時代後期には篠山藩の保護育成などもあり、直作、一房、花遊、一此、市作など世に名を轟かせる陶芸家を輩出した。
窖窯時代には小野原焼と呼ばれていたが、登り窯時代に至って、現在の呼び名である丹波焼あるいは立杭焼の呼称が確立し、1978年(昭和53年)には丹波立杭焼の名称で国の伝統的工芸品指定を受けた。現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区の窯元は約60軒あり、今田以外にも丹波立杭焼を名乗る窯元が多数ある。
陶器まつり
毎年10月の第3土曜、日曜日には「陶器まつり」が開催され、普段は人通りもまばらな窯元の立ち並ぶ小路まで多くの人々が繰り出し終日賑わう。
出石焼(いずしやき)は兵庫県豊岡市出石町一帯で焼かれる磁器。出石白磁とも。
概要
国内でも珍しい、白磁を中心とした焼き物である。透き通るように白い磁肌に、浮き彫りや透かし彫りによる精緻な紋様が際だつ。
出石藩において、江戸時代中期に大量の白磁の鉱脈が発見された。そこで白磁を特産物とするため伊万里焼の陶工を招聘し、伊万里焼に倣った染付、赤絵などの色物磁器の生産したことが始まりとされる。やがて生産が盛んになって窯元が増え、産地を形成するようになった。これは現在の出石焼に対して古出石焼と呼ばれているもので、最盛期は天保年間とされる。しかし盛衰を繰り返しつつ明治初期に完全に衰退する。その後、明治9年(1876年)に桜井勉らが設立した盈進社が伊万里焼の陶匠柴田善平や友田九渓を指導者として招き、出石焼の品質改良に成功する。この出石白磁を各地の博覧会に出品することで出石焼の名声は高まり、明治37年(1904年)開催のセントルイス万国博覧会では金賞を受賞する。
昭和55年(1980年)3月に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。
主な作家
四代目 永澤永信
明石焼(あかしやき)は、兵庫県明石市を中心に焼かれる陶磁器である。明石焼の焼造は江戸時代中頃からはじまった明石藩の民窯、三島や古清水風・京焼風の色絵陶器の影響を大きく受け色絵の皿や碗などが多く焼かれた。江戸時代後半ごろが最盛期でそのころになると古京焼風の色絵の土瓶や土鍋などの高級なものが増えていった。明石・明石浦・明浦山・明石湊などの印がある。
江戸時代初頭、明石は播磨国を支配する池田氏の所領であった。しかし元和3年(1617年)姫路藩主・池田光政が鳥取藩に転封されることとなり、播磨の所領は中小の藩に分割された。光政が転封されると、明石の地には信濃国松本藩より小笠原忠真が10万石で入封し明石藩を立藩した。忠真は明石城の建設や明石の町の整備に努め、産業の発展として陶器にも尽力した。
一説によると初め忠真は京都から京焼色絵陶器の大家野々村仁清(名は清右衛門)を招いて、御庭焼と呼ばれる陶器を焼かせたという話がある。ただ詳細は不明である。ときに「明石仁清」とよばれたりするのはこのためである。元和年間になって御用窯が築かれ、鳥羽集落・赤浦にて戸田織部之助が陶器を焼き始める。これが古明石焼である。備前写しや三島写しの茶陶が焼かれ、茶人から愛されることとなる。その後、天明の一時期明石焼の製作は中断されることとなるが、明石町奉行で群奉行の手塚孫一郎が野々村仁清の流れを受け継ぐ摂津吉向焼を迎えて山田菊太郎に焼かせた。これは朝霧焼きと呼ばれ「朝霧」と印がある。文化の頃になると三国久八が大蔵口狩口谷で陶器を生産し大阪方面に売り出していた。
このようにして約300年の間生産され続けた明石焼きだが、明治末期から大正初期にかけて欧米や東南アジアへの輸出陶器が盛んとなったのち、大正年間に至っては衰微してしまった。主に日常品が多く焼かれ他、地域向けに大量に焼かれることが少なかったため明治期には交趾風の陶器も焼かれたが以降衰退していき現存する窯は少ない。日常雑器で焼かれていたものとしては焙烙(素焼きの平たい土鍋)やすり鉢などがあり、前者は藤江、後者は西島、中尾で作られていた。また瓦は江戸時代天明の頃に始まり、大久保町の海岸地帯・西八木、東江井方面で生産されている。
赤穂雲火焼(あこううんかやき)は、大嶋黄谷(おおしまこうこく)の雲火焼を復元し、兵庫県伝統的工芸品に指定されている陶器。江戸時代後期から明治時代初期にかけて、赤穂の地において大嶋黄谷が生み出した独特の焼き物。無釉でありながら、炎と煙によって窯の中で描かれたその色彩と文様は、燃える夕焼空を連想させ、精巧な技術で磨かれた陶膚は、鈍い光沢を呈し、当時の人々に賞賛を得ていた。しかし、その陶法を伝える人もなく、文献もなく、幻の雲火焼と称せられ珍重されてきた。
雲火焼作家の桃井香子と長棟州彦の手により、1987年(昭和62年)、第1回雲火焼研究発表会において、その復元に成功。さらに1993年(平成5年)には、兵庫県伝統的工芸品に指定された。赤穂雲火焼の窯元、赤穂瀬戸内窯(あこうせとうちがま)では、歴史を踏襲しつつ、現代に生きる陶工として、新たな美的・技術的革新を重ねている。
王地山焼
八鹿焼
珉平焼
姫路白なめし革細工(ひめじしろなめしかわざいく)は、兵庫県の県指定伝統工芸品。同県姫路市で生産される植物油によるなめし革の加工品。牛皮を材料とし、なめした革は薄乳白色(薄いベージュ)を呈す。略称は「姫路革(ひめかわ)」。 非常にしばしば「姫革細工」「姫路白革」と称される製品と混同されるが、それらは化学処理により白色に加工されたものであり、別物であることに注意が必要である(2010年3月時点で、複数の販売店に問い合わせた際、白色の製品をもって県指定の伝統工芸品と称するところがほとんどだった。)。
由来
「白靼」、「越靼」、「古志靼」の異名をもって知られた。越、古志は、出雲国古志村(今の出雲市古志町)に因んだと推測されている。
『花田史志』に「神功皇后三韓征伐の際、連れ戻した者の中に熟皮術に長けるものあり。始め但馬の円山川にて試製せしも水質適さず。依って南下し播磨に入り市川にて試みたるに良好なる成績を顕したり、故に之れを師として其の技術を伝習したる高木村民にして姫路革の名を以って世に著はれたるなり」の記述がある。「市川」とは姫路市東部を流れる市川のことを指すと思われる。
これらより朝鮮半島由来の技術が姫路で発展、独自の製法と製品を確立するに至ったと推測される。
植物タンニンなめしやクロムなめしの手法がなかった江戸時代以前には、全国各地で各方面に広く使用されたが、明治以降に欧米から導入された両手法に押され、現在では土産物として姫路市内で扱われる程度となっている。その土産物も、前述のように本来の油なめし革ではなく色も異なる別物が幅をきかせている。
有馬筆(ありまふで)は、兵庫県神戸市の有馬地区で作られてきた書画用筆である。伝統的な技法により手作りされており、その製造技術は兵庫県から重要無形文化財として指定されている。また、穂先を下に向けると軸の上端から人形が飛び出してくるからくり細工が施された人形筆(有馬人形筆)が有馬筆と呼ばれる場合もある。
籠(かご)とは、短冊状ないし細いひも状の素材をくみ合わせたり編んだりして作成した運搬を目的とした容器の総称である。
解説
籠は、ざると同様液体を運ぶことを目的としないという特徴があり、材料には、軽さ、加工の容易さ、強度と耐水性を重視して竹や葦などの植物製の素材が好んで用いられる。現在では植物製素材のほかに、金属線(針金)や熱可塑性樹脂を使用する場合も多い。金属製のものは鋼線をビニールで被覆したものや真鍮製(被覆無し)から、ステンレスや銅製へ移行している。
乗り物の「かご」も同一語源で、駕籠の文字が宛てられている。
明珍火箸(みょうちんひばし)とは、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)において、19世紀頃、姫路藩主である酒井家などに仕えていた明珍家(甲冑師の一族として名高い)がその技術を活かして作り始めた火箸。兵庫県指定伝統工芸品に指定されている。
火箸の型は、20種類程あり、現在代表的なものはツクシ型、ツヅミ型、ワラビ型、カワクギ型の4種類である。火箸の需要が落ちた現在では、火箸を利用して風鈴が作られている。
火箸の音に魅了された作曲家に、冨田勲とスティーヴィー・ワンダーがいる。二人とも、この音を楽曲に取り入れようとしていたが、アナログ録音ではそれが不可能であったため、一旦は使用をあきらめていたという。その後、デジタル録音が可能になったことで、冨田はこの音を再度楽曲に取り入れることにしたということで、その結果出来上がったのがNHKスペシャル『街道をゆく』のテーマ音楽である(スタジオパークからこんにちは内での冨田のコメント)。
杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ、椙原紙)は、和紙の一種である。
杉原紙、椙原紙、のほか、歴史的には単に「杉原」とするほか、「すいば」「すいはらがみ」「すいはら」「すい」や「水原」「水原紙」の表記もみられる。
九州から東北の各地で生産され、中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。近世には庶民にまで普及したが、明治に入ると急速に需給が失われ、姿を消した。
その後「幻の紙」とされていたが、近年になって、原産地が兵庫県であると考えられるようになり、現地で和紙の生産が再開された。再興後は「杉原紙」の名称で兵庫県の伝統工芸品とされている。
丹波布(たんばふ / たんばぬの)とは、丹波国佐治村(現在の兵庫県丹波市青垣地域)で織られていた手紡ぎの絹と木綿を交織にした平織の手織り布。
本来の呼び名は縞貫(しまぬき)もしくは佐治木綿(さじもめん)だったが、柳宗悦が『日本工芸』で丹波布の名で紹介して以来、丹波布の名で通るようになった。丹波篠山に伝わる「丹波木綿」とは名前が似るが、別のもの。
ざっくりとした風合と素朴な美しさから、柳宗悦に「静かな渋い布」と称されて愛された。
概要
文政年間に播州木綿の影響を受けて、野良着などとして制作が始まったと考えられている。
幕末から明治の初めに盛んに制作され、京都周辺で布団や小袖に仕立てられて愛好されるようになる。
しかし、大正時代に入って衰退し、忘れ去られることとなった。
昭和の初めに至り、柳宗悦が京都の朝市で偶然に魅力的な縞木綿を見出し、工芸研究家の上村六郎に産地の特定を依頼した。上村は昭和6年(1931年)に、縞木綿が佐治村で織られていた佐治木綿であることを特定。
昭和28年(1954年)に上村の指導により、丹波布の再現が行われる。昭和29年(1955年)には、上村と柳の後援の下、地元保存会が発足する。
特徴
木綿平織の縞織物だが、緯糸に木綿だけでなく屑繭から紡ぎ出した「つまみ糸」を織り込むことに特徴がある。
藍と茶を基本色とし、藍と茶と黄、藍と黄を合わせた緑で縞柄や格子柄を織り上げる。
染料は村の周辺で手に入る植物に由来する。藍に加えて、茶色の染料として里山に自生する栗の皮、ヤマモモの樹皮、ハンノキの樹皮などを用いる。黄色は田畑の畔道に生えるコブナグサを中心に、キクイモ、ビワの樹皮を使う。
これら自然の染料を媒染剤を変えたり、浸染の回数を加減することで、微妙な色調を表現する。
和蝋燭(わろうそく)は灯具である蝋燭の一種。
材料
櫨の実から搾り取った木蝋を加熱して熔かしたものを、和紙およびイグサの髄から作った芯(灯心)の周りに手でかけ、乾燥させてを繰り返して作る。完成した蝋燭は、断面が年輪状になる。 ハゼの蝋のみで作った蝋燭が最も高級とされる。
特徴
洋蝋燭に比べ光が強く、長時間もつと言われている。ろうそくプレイに使われるのは、基本的に和蝋燭である。また、芯の状態によって炎の揺らぎ方が異なり、その燃え方の表情の変化を好む人もいる。マイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』では、和蝋燭の芯の換気構造をファラデーが驚きを持って聴衆に語るエピソードがある。
洋蝋燭より作成に手間がかかるため高価であり、一般には仏具専門店にて販売されるが、西日本ではスーパーマーケット等でも販売されている。西日本では金箔仏壇を使用する例が多いが、和蝋燭の煙に含まれるカーボンが洋蝋燭に比べ少ないので、金箔を汚しにくいためである。
歴史
和ろうそくは、1375年頃の太平記の記述に出てくる。その頃に作り始められたと思われる。 産地としては、愛知県、京都府、滋賀県、福井県、石川県などが上げられるが、軒数が最も多いのは愛知県といわれている。
種類
近江和蝋燭(滋賀県伝統的工芸品)
越前和蝋燭(福井県指定郷土工芸品)
七尾和蝋燭
三州岡崎和蝋燭
会津絵蝋燭 (福島県伝統的工芸品)
越後和蝋燭
庄内絵蝋燭
播州そろばん(ばんしゅうそろばん)とは、兵庫県小野市を中心に製造されている兵庫県の伝統工芸品で、1976年に通商産業省(現・経済産業省)伝統的工芸品に指定された。地域団体商標に登録している。
概要
天正年間に豊臣秀吉が三木城を攻略した際、大津地方に逃れた住民が大津そろばんの製造法を習得し、彼らが小野周辺に帰郷してそろばんの製造を始めたことが播州そろばんの起源となった。樺・柘植・黒檀などの木材が使用される。国内のそろばん市場では70 %の市場占有率を占めている。1960年代には350万丁の播州そろばんが生産されていたが、現在の生産量は15万丁程度である。
海外においてそろばん教育を取り組んでいる国の貧しい子供たちのために高品質な播州そろばんを寄付する活動が行われている。2010年9月から11月までの2か月間で約1,200丁の播州そろばんが集まり、その大半が個人からの寄付であった。この約1,200丁の播州そろばんは2010年11月中頃にトンガに送られ、今後チュニジアにも送られる予定である。
淡路瓦(あわじがわら)は、兵庫県の淡路地方(淡路島)で生産される粘土瓦。三州瓦、石州瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ。
概要
南あわじ市を中心に、美しい銀色のサエが特徴のいぶし瓦を主体に、釉薬瓦(陶器瓦)、無釉瓦、形状では和形やF形のほか多種類の形状のものが生産されている。淡路瓦の焼成温度は1000℃前後と三大瓦のなかでは最も低いが、「なめ土」と呼ばれる粒子の細かい粘土がいぶし瓦に適しており、いぶし瓦の生産量は全国一を誇る。
歴史
淡路瓦
淡路瓦が使われていることを紹介している。
日本への瓦製造技術の伝来(西暦588年)から10年程後に淡路島でも瓦が製造されたと思われる瓦窯跡が発見されている。 文献等に見られる淡路瓦の起源は、1613年(慶長18年)に池田忠雄が淡路国津名郡由良浦(現在の洲本市由良)の成ヶ島に由良成山城(ゆら、なるやまじょう)を普請した際、播磨国から播州瓦の名工清水理兵衛を招いて瓦を作らせたのが最初と言われている。その後、その弟子により、松帆・尾崎・阿万・釜口などで瓦の製造が始められ、10年程後の寛永年間に法華宗の援助で南あわじ市津井地区に伝わったと言われている。
赤穂緞通(あこうだんつう)
【赤穂緞通とは】中国緞通を参考に考案された、独自の手法で織られた手織りの綿製絨毯。
【歴史】江戸末期から、明治にかけて開発された。
【発案者】児島なか
【生産地域】兵庫県赤穂地域(赤穂市)。
【技術継承保存団体】「赤穂緞通を伝承する会」「赤穂緞通生産者の会」
【日本三大緞通】赤穂緞通。佐賀鍋島緞通。大阪堺緞通。
兵庫県
兵庫県伝統的工芸品
姫路白なめし革細工
有馬の人形筆
有馬籠
明珍火箸
杉原紙
城崎麦わら細工
丹波布
名塩紙
美吉籠
赤穂雲火焼
しらさぎ染
兵庫仏壇
姫路仏壇
和ろうそく
姫路独楽
姫路張子玩具
王地山焼
丹波木綿
三田鈴鹿竹器
播州鎌
播州そろばん
播州山崎藍染織
淡路鬼瓦
赤穂段通
稲畑人形