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以下は買取エリアです、、、

山梨県 やまなしけん 835,165 4,465.27 187.04 863,075
甲府市 こうふし 193,123 212.47 908.94 198,992 1889.7.1
富士吉田市 ふじよしだし 49,024 121.74 402.69 50,619 1951.3.20
都留市 つるし 32,014 161.63 198.07 33,588 1954.4.29
山梨市 やまなしし 35,155 289.80 121.31 36,832 1954.7.1
大月市 おおつきし 25,437 280.25 90.77 28,120 1954.8.8
韮崎市 にらさきし 30,672 143.69 213.46 32,477 1954.10.10
南アルプス市 みなみあるぷすし 70,843 264.14 268.20 72,635 2003.4.1
北杜市 ほくとし 45,116 602.48 74.88 46,968 2004.11.1
甲斐市 かいし 74,417 71.95 1,034.29 73,807 2004.9.1
笛吹市 ふえふきし 69,600 201.92 344.69 70,529 2004.10.12
上野原市 うえのはらし 24,812 170.57 145.47 27,114 2005.2.13
甲州市 こうしゅうし 31,714 264.11 120.08 33,927 2005.11.1
中央市 ちゅうおうし 31,139 31.69 982.61 31,322 2006.2.20
西八代郡 にしやつしろぐん 15,663 75.18 208.34 17,111
市川三郷町 いちかわみさとちょう 15,663 75.18 208.34 17,111 2005.10.1
南巨摩郡 みなみこまぐん 37,104 984.82 37.68 41,026
早川町 はやかわちょう 1,070 369.96 2.89 1,246
身延町 みのぶちょう 12,673 301.98 41.97 14,462
南部町 なんぶちょう 8,071 200.87 40.18 9,011
富士川町 ふじかわちょう 15,290 112.00 136.52 16,307 2010.3.8
中巨摩郡 なかこまぐん 19,507 9.08 2,148.35 17,653
昭和町 しょうわちょう 19,507 9.08 2,148.35 17,653
南都留郡 みなみつるぐん 48,534 420.99 115.29 48,854
道志村 どうしむら 1,743 79.68 21.87 1,919
西桂町 にしかつらちょう 4,345 15.22 285.48 4,541
忍野村 おしのむら 8,974 25.05 358.24 8,635
山中湖村 やまなかこむら 5,210 53.05 98.21 5,324
鳴沢村 なるさわむら 2,921 89.58 32.61 2,964
富士河口湖町 ふじかわぐちこまち 25,341 158.40 159.98 25,471 2003.11.15
北都留郡 きたつるぐん 1,291 154.08 8.38 1,501
小菅村 こすげむら 726 52.78 13.76 816
丹波山村 たばやまむら 565 101.30 5.58 685

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
長野県 ながのけん 2,099,759 13,561.56 154.83 2,152,449
長野市 ながのし 377,803 834.81 452.56 381,511 1897.4.1
松本市 まつもとし 243,383 978.47 248.74 243,037 1907.5.1
上田市 うえだし 156,909 552.04 284.23 159,597 1919.5.1
岡谷市 おかやし 50,146 85.10 589.26 52,841 1936.4.1
飯田市 いいだし 101,676 658.66 154.37 105,335 1937.4.1
諏訪市 すわし 50,163 109.17 459.49 51,200 1941.8.10
須坂市 すざかし 50,743 149.67 339.03 52,168 1954.4.1
小諸市 こもろし 42,536 98.55 431.62 43,997 1954.4.1
伊那市 いなし 68,322 667.93 102.29 71,093 1954.4.1
駒ヶ根市 こまがねし 32,768 165.86 197.56 33,693 1954.7.1
中野市 なかのし 43,900 112.18 391.34 45,638 1954.7.1
大町市 おおまちし 28,045 565.15 49.62 29,801 1954.7.1
飯山市 いいやまし 21,444 202.43 105.93 23,545 1954.8.1
茅野市 ちのし 55,951 266.59 209.88 56,391 1958.8.1
塩尻市 しおじりし 67,170 289.98 231.64 67,670 1959.4.1
佐久市 さくし 99,416 423.51 234.74 100,552 1961.4.1
千曲市 ちくまし 60,317 119.79 503.52 62,068 2003.9.1
東御市 とうみし 30,107 112.37 267.93 30,696 2004.4.1
安曇野市 あづみのし 95,297 331.78 287.23 96,479 2005.10.1
南佐久郡 みなみさくぐん 25,700 767.43 33.49 27,712
小海町 こうみまち 4,716 114.20 41.30 5,180
川上村 かわかみむら 4,603 209.61 21.96 4,972
南牧村 みなみまきむら 3,409 133.09 25.61 3,528
南相木村 みなみあいきむら 1,005 66.05 15.22 1,121
北相木村 きたあいきむら 775 56.32 13.76 842
佐久穂町 さくほまち 11,192 188.15 59.48 12,069 2005.3.20
北佐久郡 きたさくぐん 41,473 281.69 147.23 41,463
軽井沢町 かるいざわまち 19,005 156.03 121.80 19,018
御代田町 みよたまち 15,197 58.79 258.50 14,738
立科町 たてしなまち 7,271 66.87 108.73 7,707
小県郡 ちいさがたぐん 10,515 240.96 43.64 11,389
青木村 あおきむら 4,345 57.10 76.09 4,609
長和町 ながわまち 6,170 183.86 33.56 6,780 2005.10.1
諏訪郡 すわぐん 42,300 254.89 165.95 44,443
下諏訪町 しもすわまち 20,236 66.87 302.62 21,532
富士見町 ふじみまち 14,494 144.76 100.12 15,338
原村 はらむら 7,570 43.26 174.99 7,573
上伊那郡 かみいなぐん 83,310 514.61 161.89 85,616
辰野町 たつのまち 19,785 169.20 116.93 20,909
箕輪町 みのわまち 25,237 85.91 293.76 26,214
飯島町 いいじままち 9,546 86.96 109.77 9,902
南箕輪村 みなみみのわむら 15,070 40.99 367.65 14,543
中川村 なかがわむら 4,851 77.05 62.96 5,074
宮田村 みやだむら 8,821 54.50 161.85 8,974
下伊那郡 しもいなぐん 60,649 1,270.23 47.75 64,169
松川町 まつかわまち 13,183 72.79 181.11 13,676
高森町 たかもりまち 13,084 45.36 288.45 13,216
阿南町 あなんちょう 4,963 123.07 40.33 5,455
阿智村 あちむら 6,540 214.43 30.50 7,036 2009.3.31
平谷村 ひらやむら 485 77.37 6.27 563
根羽村 ねばむら 970 89.97 10.78 1,129
下條村 しもじょうむら 3,856 38.12 101.15 4,200
売木村 うるぎむら 575 43.43 13.24 656
天龍村 てんりゅうむら 1,363 109.44 12.45 1,657
泰阜村 やすおかむら 1,702 64.59 26.35 1,910
喬木村 たかぎむら 6,310 66.61 94.73 6,692
豊丘村 とよおかむら 6,594 76.79 85.87 6,819
大鹿村 おおしかむら 1,024 248.28 4.12 1,160
木曽郡 きそぐん 28,421 1,546.15 18.38 31,042
上松町 あげまつまち 4,673 168.42 27.75 5,245
南木曽町 なぎそまち 4,317 215.93 19.99 4,810
木祖村 きそむら 2,926 140.50 20.83 3,134
王滝村 おうたきむら 839 310.82 2.70 965
大桑村 おおくわむら 3,832 234.47 16.34 4,145
木曽町 きそまち 11,834 476.03 24.86 12,743 2005.11.1
東筑摩郡 ひがしちくまぐん 22,238 268.51 82.82 23,261
麻績村 おみむら 2,791 34.38 81.18 2,970
生坂村 いくさかむら 1,844 39.05 47.22 1,953
山形村 やまがたむら 8,403 24.98 336.39 8,425
朝日村 あさひむら 4,467 70.62 63.25 4,741
筑北村 ちくほくむら 4,733 99.47 47.58 5,172 2005.10.11
北安曇郡 きたあづみぐん 31,724 544.50 58.26 32,848
池田町 いけだまち 9,930 40.16 247.26 10,329
松川村 まつかわむら 9,950 47.07 211.39 10,093
白馬村 はくばむら 8,937 189.36 47.20 9,205
小谷村 おたりむら 2,907 267.91 10.85 3,221
埴科郡 はにしなぐん 14,866 53.64 277.14 15,730
坂城町 さかきまち 14,866 53.64 277.14 15,730
上高井郡 かみたかいぐん 17,733 117.68 150.69 18,635
小布施町 おぶせまち 10,704 19.12 559.83 11,072
高山村 たかやまむら 7,029 98.56 71.32 7,563
下高井郡 しもたかいぐん 20,572 423.18 48.61 22,470
山ノ内町 やまのうちまち 12,437 265.90 46.77 13,678
木島平村 きじまだいらむら 4,661 99.32 46.93 4,939
野沢温泉村 のざわおんせんむら 3,474 57.96 59.94 3,853
上水内郡 かみみのちぐん 22,210 282.41 78.64 24,144
信濃町 しなのまち 8,474 149.30 56.76 9,238
小川村 おがわむら 2,671 58.11 45.96 3,041
飯綱町 いいづなまち 11,065 75.00 147.53 11,865 2005.10.1
下水内郡 しもみのちぐん 1,952 271.66 7.19 2,215
栄村 さかえむら 1,952 271.66 7.19 2,215

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
新潟県 にいがたけん 2,305,098 12,584.10 183.18 2,374,450
新潟市 にいがたし 810,514 726.45 1,115.72 811,901 1889.4.1
北区 きたく 76,367 107.72 708.94 77,621 2007.4.1
東区 ひがしく 137,637 38.62 3,563.88 138,096 2007.4.1
中央区 ちゅうおうく 183,836 37.75 4,869.83 180,537 2007.4.1
江南区 こうなんく 68,926 75.42 913.90 69,365 2007.4.1
秋葉区 あきはく 76,880 95.38 806.04 77,329 2007.4.1
南区 みなみく 45,707 100.91 452.95 46,949 2007.4.1
西区 にしく 162,911 94.09 1,731.44 161,264 2007.4.1
西蒲区 にしかんく 58,250 176.55 329.93 60,740 2007.4.1
長岡市 ながおかし 275,246 891.06 308.90 282,674 1906.4.1
三条市 さんじょうし 99,216 431.97 229.68 102,292 1934.1.1
柏崎市 かしわざきし 86,868 442.03 196.52 91,451 1940.7.1
新発田市 しばたし 98,635 533.10 185.02 101,202 1947.1.1
小千谷市 おぢやし 36,510 155.19 235.26 38,600 1954.3.10
加茂市 かもし 27,864 133.72 208.38 29,762 1954.3.10
十日町市 とおかまちし 54,932 590.39 93.04 58,911 1954.3.31
見附市 みつけし 40,620 77.91 521.37 41,862 1954.3.31
村上市 むらかみし 62,463 1,174.26 53.19 66,427 1954.3.31
燕市 つばめし 79,814 110.96 719.30 81,876 1954.3.31
糸魚川市 いといがわし 44,161 746.24 59.18 47,702 1954.6.1
妙高市 みょうこうし 33,222 445.63 74.55 35,457 1954.11.1
五泉市 ごせんし 51,409 351.91 146.09 54,550 1954.11.3
上越市 じょうえつし 197,026 973.81 202.32 203,899 1971.4.29
阿賀野市 あがのし 43,421 192.74 225.28 45,560 2004.4.1
佐渡市 さどし 57,262 855.61 66.93 62,727 2004.3.1
魚沼市 うおぬまし 37,370 946.76 39.47 40,361 2004.11.1
南魚沼市 みなみうおぬまし 58,588 584.55 100.23 61,624 2004.11.1
胎内市 たいないし 30,209 264.89 114.04 31,424 2005.9.1
北蒲原郡 きたかんばらぐん 14,066 37.58 374.29 13,724
聖籠町 せいろうまち 14,066 37.58 374.29 13,724
西蒲原郡 にしかんばらぐん 8,212 25.17 326.26 8,582
弥彦村 やひこむら 8,212 25.17 326.26 8,582
南蒲原郡 みなみかんばらぐん 12,196 31.71 384.61 12,791
田上町 たがみまち 12,196 31.71 384.61 12,791
東蒲原郡 ひがしかんばらぐん 11,683 952.89 12.26 13,303
阿賀町 あがまち 11,683 952.89 12.26 13,303 2005.4.1
三島郡 さんとうぐん 4,529 44.38 102.05 4,907
出雲崎町 いずもざきまち 4,529 44.38 102.05 4,907
南魚沼郡 みなみうおぬまぐん 8,047 357.29 22.52 8,396
湯沢町 ゆざわまち 8,047 357.29 22.52 8,396
中魚沼郡 なかうおぬまぐん 10,034 170.21 58.95 10,881
津南町 つなんまち 10,034 170.21 58.95 10,881
刈羽郡 かりわぐん 4,776 26.27 181.80 4,800
刈羽村 かりわむら 4,776 26.27 181.80 4,800
岩船郡 いわふねぐん 6,205 309.40 20.05 6,804
関川村 せきかわむら 5,835 299.61 19.48 6,438
粟島浦村 あわしまうらむら 370 9.78 37.83 366

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
富山県 とやまけん 1,066,883 4,247.61 251.17 1,093,247
富山市 とやまし 418,900 1,241.77 337.34 421,953 1889.4.1
高岡市 たかおかし 172,256 209.57 821.95 176,061 1889.4.1
魚津市 うおづし 42,958 200.61 214.14 44,959 1952.4.1
氷見市 ひみし 48,012 230.56 208.24 51,726 1952.8.1
滑川市 なめりかわし 32,774 54.63 599.93 33,676 1954.3.1
黒部市 くろべし 41,022 426.31 96.23 41,852 1954.4.1
砺波市 となみし 49,020 127.03 385.89 49,410 1954.4.1
小矢部市 おやべし 30,416 134.07 226.87 32,067 1962.8.1
南砺市 なんとし 51,350 668.64 76.80 54,724 2004.11.1
射水市 いみずし 92,325 109.43 843.69 93,588 2005.11.1
中新川郡 なかにいかわぐん 50,255 547.46 91.80 52,398
舟橋村 ふなはしむら 2,982 3.47 859.37 2,967 1889.4.1
上市町 かみいちまち 20,940 236.71 88.46 21,965 1953.9.10
立山町 たてやままち 26,333 307.29 85.69 27,466 1954.1.10
下新川郡 しもにいかわぐん 37,595 297.55 126.35 40,833
入善町 にゅうぜんまち 25,358 71.25 355.90 27,182 1953.10.1
朝日町 あさひまち 12,237 226.30 54.07 13,651 1954.8.1

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
石川県 いしかわけん 1,154,343 4,186.09 275.76 1,169,788
金沢市 かなざわし 465,810 468.64 993.96 462,361 1889.4.1
七尾市 ななおし 55,348 318.32 173.88 57,900 1939.7.20
小松市 こまつし 106,940 371.05 288.21 108,433 1940.12.1
輪島市 わじまし 27,205 426.32 63.81 29,858 1954.3.31
珠洲市 すずし 14,631 247.20 59.19 16,300 1954.7.15
加賀市 かがし 67,235 305.87 219.82 71,887 1958.1.1
羽咋市 はくいし 21,726 81.85 265.44 23,032 1958.7.1
かほく市 かほくし 34,226 64.44 531.13 34,651 2004.3.1
白山市 はくさんし 109,321 754.93 144.81 110,459 2005.2.1
能美市 のみし 48,899 84.14 581.16 48,680 2005.2.1
野々市市 ののいちし 55,122 13.56 4,065.04 51,885 2011.11.11
能美郡 のみぐん 6,360 14.64 434.43 6,147
川北町 かわきたまち 6,360 14.64 434.43 6,147 1980.4.1
河北郡 かほくぐん 63,964 130.92 488.57 63,867
津幡町 つばたまち 36,982 110.59 334.41 36,940 1954.3.31
内灘町 うちなだまち 26,982 20.33 1,327.20 26,927 1962.1.1
羽咋郡 はくいぐん 33,605 358.28 93.80 36,493
志賀町 しかまち 20,434 246.76 82.81 22,216 1970.11.1
宝達志水町 ほうだつしみずちょう 13,171 111.52 118.10 14,277 2005.3.1
鹿島郡 かしまぐん 17,582 89.45 196.56 18,535
中能登町 なかのとまち 17,582 89.45 196.56 18,535 2005.3.1
鳳珠郡 ほうすぐん 26,369 456.47 57.77 29,300 2005.3.1
穴水町 あなみずまち 8,793 183.21 47.99 9,735 1954.3.31
能登町 のとちょう 17,576 273.27 64.32 19,565 2005.3.1

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
福井県 ふくいけん 787,099 4,190.49 187.83 806,314
福井市 ふくいし 266,002 536.41 495.89 266,796 1889.4.1
敦賀市 つるがし 66,187 251.39 263.28 67,760 1937.4.1
小浜市 おばまし 29,673 233.09 127.30 31,340 1951.3.30
大野市 おおのし 33,128 872.43 37.97 35,291 1954.7.1
勝山市 かつやまし 24,144 253.88 95.10 25,466 1954.9.1
鯖江市 さばえし 68,337 84.59 807.86 67,450 1955.1.15
あわら市 あわらし 28,756 116.98 245.82 29,989 2004.3.1
越前市 えちぜんし 81,613 230.70 353.76 85,614 2005.10.1
坂井市 さかいし 90,300 209.67 430.68 91,900 2006.3.20
吉田郡 よしだぐん 19,890 94.43 210.63 20,647
永平寺町 えいへいじちょう 19,890 94.43 210.63 20,647 2006.2.13
今立郡 いまだてぐん 2,639 194.65 13.56 3,046
池田町 いけだちょう 2,639 194.65 13.56 3,046 1964.9.1
南条郡 なんじょうぐん 10,799 343.69 31.42 11,551
南越前町 みなみえちぜんちょう 10,799 343.69 31.42 11,551 2005.1.1
丹生郡 にゅうぐん 21,527 153.15 140.56 23,160
越前町 えちぜんちょう 21,527 153.15 140.56 23,160 2005.2.1
三方郡 みかたぐん 9,919 152.35 65.11 10,563
美浜町 みはまちょう 9,919 152.35 65.11 10,563 1954.2.11
大飯郡 おおいぐん 18,921 284.59 66.49 19,642
高浜町 たかはまちょう 10,596 72.40 146.35 11,062 1955.2.11
おおい町 おおいちょう 8,325 212.19 39.23 8,580 2006.3.3
三方上中郡 みかたかみなかぐん 15,264 178.49 85.52 16,099 2005.3.31
若狭町 わかさちょう 15,264 178.49 85.52 16,099 2005.3.31

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

武田 信廉(たけだ のぶかど)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の子。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる。

生涯
天文10年(1541年)6月、兄・晴信(信玄)は父・信虎を駿河国の今川義元の元へ追放して家督を相続し当主となる。晴信は信濃侵攻を本格化させ、翌天文11年7月には諏訪氏を攻めこれを滅ぼす。
信廉の初見史料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、天文20年(1551年)7月には晴信の命により、駿河・今川義元の娘を義信の正室に迎える旨を伝えている。
『甲陽軍鑑』によれば信廉は80騎を指揮したという。武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊(武田信繁の次男)の次に記載され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて兄の信繁が戦死したため、親族衆筆頭となったという。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。元亀元年(1570年)には信濃・高遠城主に任じられた。
元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成した。天正3年(1575年)、5月21日の長篠の戦い設楽原合戦では小幡信貞・武田信豊とともに中央隊に布陣していたと考えられており、会田岩下氏・山口氏・依田氏・大戸浦野氏らを相備とした。ただし、このうち西上野衆の大戸浦野氏は、左翼に布陣した箕輪城代・内藤昌秀(昌豊)の相備であることが指摘される。『信長公記』によれば、長篠合戦において信廉は山県昌景に続き「二番」に攻撃を仕掛けたという。
天正10年(1582年)3月の織田・徳川勢による甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もすることなく、大島城を放棄して甲斐へ退却する。戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害された。享年51。墓所は甲府市桜井町の逍遥院にある。

人物・逸話
画家としても知られ、甲府の大泉寺に所蔵される「武田信虎像」(重要文化財)、長禅寺に所蔵される「武田信虎夫人像」(重文)といった肖像画のほか、同じく長禅寺蔵の「渡唐天神像」などの絵画を残している。また、永禄10年(1567年)、信玄が家臣団から起請文を提出させて生島足島神社に奉納しているが、この中には信廉直筆のものが現存している。
『甲陽軍鑑』によれば、骨相が似ている信玄の影武者を務め、側近ですら見分けがつかなかったとされる。元亀4年(1573年)に西上作戦中の信玄が病死すると、死を内外に隠すために信玄に成りすまして軍の甲府への引き揚げを成功させた。また、北条氏政が信玄の死去を確かめるため、使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣したが、そのとき影武者としてこれを欺いたという逸話もある。

幽斎 年章(ゆうさい としあき、元治元年8月20日(1864年9月20日) – 大正10年(1921年))とは、明治時代の浮世絵師。

来歴
月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、芳年の内弟子となった。芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は甲府に何度か訪れており、その縁故からの入門とも考えられる。明治21年(1888年)の「春山練兵所観兵式御幸之図」(大判三枚続)が初作で、明治39年(1906年)まで30点弱の錦絵が確認されている。内訳は、日清戦争関係などの戦争絵が最も多い。他に、大判3枚続の武者絵「義経再興記」のような武者絵や、「日本撰景」などの風俗画が知られている。
明治31年(1898年)頃に山梨に戻り、県内を転々としながら地元の人々のために肉筆画を手がけた。これは、日清戦争後に浮世絵が衰退に向かい浮世絵師を引退したのが理由だと考えられる。年章の肉筆画は錦絵とは違って世相画は見られず、歴史画、人物画、美人画、更に南画風が強い山水画や花鳥画など、地元を中心に百数十点確認されている。大正10年東京で客死したと伝えられるが、異説もある。

近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 – 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。

略歴
出生から美術学校・漫画記者時代
山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。
祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。
美術学校では一年落第し、1910年(明治43年)に卒業する。卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため、1915年(大正4年)に読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し日本画家としても注目される。
日本美術院時代と洋行
大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も1919年(大正8年)に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。1921年(大正10年)には日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される。
1922年(大正11年)には岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレゴの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。
1923年(大正12年)の第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。
1931年(昭和6年)には個展開催のためフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。
美術院脱退から晩年
1936年(昭和11年)には日本美術院を脱退。東京府下久留米村(東久留米市)で「土筆居」と名付けたアトリエで捜索を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエを構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている。晩年は俳句や三味線などの趣味やゴルフ、スキーなどのスポーツも嗜み余生を過しており、脳炎により78歳で死去。墓所は上野寛永寺。
漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている。
作品は東京国立近代美術館、山梨県立美術館、近藤浩一路記念南部町立美術館などに所蔵されている。

望月 春江(もちづき しゅんこう、1893年(明治26年)11月13日 – 1979年(昭和54年)2月13日)は、日本の画家。本名は尚(ひさし)。

略歴
山梨県西山梨郡住吉村増坪(現在の甲府市増坪町)に父「宗正」、母「もと」の二男として生まれる。1908年(明治41年)に山城尋常高等小学校高等科(現在の甲府市立山城小学校)を卒業し、同年に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学、卒業後、1914年(大正3年)に東京美術学校日本画科に入学し1919年(大正8年)に同科を首席で卒業する。卒業後は結城素明に師事するとともに、文部省大臣官房図書課の嘱託となり、1920年(大正9年)には東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の講師(後に同校の教授)となった。1913年(大正2年)には実践女子専門学校(現在の実践女子大学)の講師となり1932年(昭和7年)まで務めている。また、昭和42年(1967年)には東京純心女子短期大学(現在の東京純心女子大学)の教授となっている。 昭和46年(1971年)に勲四等旭日小綬章を受章、昭和50年(1975年)には山梨県特別文化功労者、昭和52年(1977年)11月には山梨県政特別功績者となり、昭和53年(1978年)3月には紺綬褒章を受章。昭和54年(1979年)2月13日、心不全のため東京慈恵会医科大学附属病院青戸分院で永眠。
1921年(大正10年)の第三回帝展で《春に生きんとす》が初入選。1929年(昭和4年)の第十回帝展において《明るきかぐのこの実》が特選となる。1937年(昭和12年)には山梨美術協会の結成に参加し創立会員[2]となり、1938年(昭和13年)には川崎小虎や穴山勝堂らと日本画院を創立。その後、1958年(昭和33年)には第十三回日展に出品した《蓮》により日本芸術院賞を受賞。日展審査員も務めている。
花鳥画を得意とし、後年には墨と金を用いた独特の画風を確立した。代表作には《菖蒲郷》、《香抽暖苑》、《寒月梅花》などがある。
山梨県立美術館が開館する前年の昭和53年(1979年)には、同美術館に代表作20点を寄贈するなど、作品の多くは同美術館に収蔵されている。また、同美術館においては、昭和54年(1979年)4月に「望月春江展」が、平成25年(2013年)には「富士の国やまなし国文祭記念事業 望月春江とその時代展」(開催期間・平成25年(2013年)4月27日-同年6月9日)が開催されている。

親族
長女:鈴木美江(日本画家)
弟:望月定夫(日本画家)

野田修一郎(のだ しゅういちろう、1931年(昭和6年) – 1993年(平成5年)は、日本の画家。日本画家。

略歴
山梨県甲府市鍛冶屋町(甲府市中央)に生まれる。戦後に上京し、私立麻布中学校で日本画家の山田申吾に学ぶ。1951年(昭和26年)に東京藝術大学日本画家へ入学する。同期には日本画家の鈴木美江がいる。1974年(昭和49年)の第六回日展で特選となる。以来出展を続け、1984年(昭和59年)には日展で再び特選を受賞し、日展を中心として活躍する。ほか、日春展日春賞・奨励賞を受賞する。
野田は生涯にわたって馬を得意なモチーフとして描いており、代表作に《雪原》(1982年)がある。作品の一部は山梨県立美術館に収蔵され、1989年(平成元年)には同館で「郷土作家シリーズⅠ 野田修一郎展」が開催された。

のむら清六(のむら せいろく、1916年(大正5年)1月11日 – 1995年(平成7年)10月30日)は、日本の画家。日本画家。
山梨県西八代郡下九一色村(現市川三郷町)に生まれる。旧姓は石原。1933年(昭和8年)に上京して川端画学校夜間部で学ぶ。結婚後に野村姓となる。卒業後の1943年(昭和18年)に徴用され、戦後は1949年(昭和24年)から小説の挿絵などを手がける。1952年(昭和27年)から山梨日日新聞文化欄に挿絵や随筆を発表し、東京の画廊で個展も開催した。1975年(昭和50年)には第一回日仏現代美術展で大賞を受賞している。
同郷で俳人の飯田蛇笏・龍太親子とも親交があり、蛇笏の主催する俳誌『雲母』の表紙も手がけた。作品は山梨県立美術館に収蔵され、2000年には同館で「のむら清六 奔放・異端の日本画家」が開催された。

石井精一(いしい せいいち、1937年(昭和12年)-1987年(昭和62年))は、日本の洋画家。

略歴
山梨県南巨摩郡増穂町(現在の富士川町)に生まれる。独学で絵を学ぶ。はじめ現代美術家協会に属して活動していたが、1975年(昭和50年)にシェル美術賞展において一等を受賞すると、以後はフリーとして活動する。
1976年にはスペイン美術賞展において銀賞、翌1977年にはスイス美術賞展において優秀賞を受賞する。同年には日仏スペイン美術賞展でオシセテ・ナショナル・デ・ボザール賞を受賞し、翌1978年にはビブリオティック・デザール賞を受賞する。さらに1979年にはロオイユ賞を受賞する。
石井はスーパーリアリズム的な幻想的絵画を多く手がけ、仮面の人物が登場するシリーズや、代表作には《畳の記憶》(1975年、山梨県立美術館所蔵)がある。

増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 – 1989年(平成元年)4月9日)は、日本の画家。洋画家。

略歴
出生から前半生
山梨県南都留郡谷村町下谷(都留市谷村町下谷)に生まれる。父は理容店を営む清治郎で、誠は次男。母はかね。幼い頃より絵が得意で、中学時代には似顔絵の天才と賞されたという。
1931年(昭和6年)には父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立鶴高等中学校を経て、1938年(昭和13年)には吉田尋常高等小学校の教員となり、上吉田(富士吉田市)の西念寺の離れに下宿する。翌1939年8月には退職し、同年11月には国華工業へ就職する。
1941年(昭和16年)1月には徴兵され陸軍東部12部隊へ入隊し、同年4月には幹部候補生として南支へ派遣される。近衛野砲連隊南支に配属され、同年7月にはプノンペンに駐屯する。同年10月には甲種幹部候補生として千葉県四街道陸軍野戦砲兵学校幹部候補隊に入校する。翌1942年4月には陸軍砲兵見習仕官としてシンガポール駐屯の原隊に復帰し、同年7月には北部軍宗谷要塞に転属する。同年12月には少尉に任官。翌1943年5月には北海道道東地区警備のため釧路に派遣され、同年10月には宗谷要塞地区に復帰する。同年12月には中尉に任官する。翌1944年には横須賀陸軍重砲兵学校に入学する。翌1945年5月には北部軍稔部隊に観測係将校として転出し九州南方警備にあたり、鹿児島で終戦を迎える。
渡仏とフランスでの活動
戦後は同年10月に結婚し、北海道上川郡清水町へ渡り一年ほど農業を営む。1950年(昭和25年)には妻の故郷である釧路市栄町で光工芸社を設立し、看板業を営む傍ら画業を行う。光工芸社近くに宿泊していた一線美術の画家上野山清貢から影響を受ける。
1952年(昭和27年)には第二回一線美術展に出展し、会友となる。1955年(昭和30年)には清貢から世界一周旅行への同行を勧められパリ遊学を企図するが、清貢の病のため断念する。翌1956年(昭和31年)には光工芸社を売却して上京し、西荻窪に下宿して渡仏準備を行う。翌1957年(昭和32年)には渡仏を果たし、パリ国際大学都市日本館に滞在する。
翌1958年(昭和33年)にはサロン・デ・ザンデパンダンに出展する。同年には彫刻家であるザボのアトリエに転居し、その後モンパルナスのホテル・リベリアに滞在する。1963年(昭和38年)にはサロン・ドートンヌの会員となる。『増田誠画集』によれば、同年3月には《新聞売り》がサロン・ナショナル・デ・ボザールに出展されたという。《新聞売り》は横一列に人物が描かれた作品であるが、展覧会のカタログには増田の出展作は《Cirque》で、町並みの風景が描かれた作品の写真が掲載されている。また、1965年2月の『造形 65号』には1963年のサロン・ナショナル・デ・ボザールに出展されたという運河を描いた作品を背景に増田が写った写真が掲載されている。このため、《新聞売り》が同展に出展された点には異議が存在する。1965年(昭和40年)にはル・サロン・デ・ザルティスト・フランセで金賞を受賞し、パリの画壇で認められる存在となる。
西洋的テーマへの挑戦
1970年代にはギリシャ神話や『旧約聖書』など西洋の宗教・神話的なテーマに取り組んだ作品を多く発表している[5]。増田は1980年のインタビューにおいて、西洋的なテーマに取り組むきっかけとなったのは1975年のル・サロンに出展したときであると述懐している。
増田の証言がある一方で、実際に1975年のル・サロンに出展されたのは《キヨスク(キャリテ・ド・ラ・ヴィー》であることが指摘され、なおかつこれに先行する1974年には《トロイの木馬》、1975年2月のサロン・ナショナル・デ・ボザールに《アルゴナウト》が出展されている事実がある。このことから、実際には1980年以前から既に西洋のテーマには取り組んでいたと考えられている。
1979年にはサロン・ドートンヌに《ソルフェリーノのアンリ・デュナン》を発表する。これは増田が東郷青児の《ソルフェリーニの掲示》に触発され、赤十字の創設者であるアンリ・デュナンに取材した作品である。画面左には聖母マリアが十字架から下ろされたキリストを抱く「ピエタ」を描き入れ、前景には兵士が折り重なり倒れる様子を描き、ウジェーヌ・ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》を思わせる描写であることが指摘される。
増田は1967年の《シオの虐殺》においてもドラクロワの《キオス島の虐殺》の前景を取り入れおり、1975年の《ルーブル》では画中画としてドラクロワの《サルダナパールの死》を大きく描いている。双方ともルーブル美術館に所蔵されていることから増田は実見していたと考えられている。
1988年(昭和63年)10月に帰国すると、各地で個展を開催し、テレビ出演や北海道新聞釧路版の連載執筆も手掛ける。1989年(平成元年)正月には大分県由布院を旅行し、2月には北海道の阿寒湖を取材している。3月には横浜赤十字病院に入院し、4月9日に肺炎のため死去。葬儀は同月12日に故郷都留市下谷一丁目の深泉院で行われ、深泉院に埋葬された。
作品[
増田は港や河岸の風景、パリの市井の人々の生活などを多く描いた。渡仏初期には当時の流行を反映してアンフォルメルを意識した作品を手がけている。特にパリの石畳の風景を画題として選び、佐伯祐三や荻須高徳と比較された。1970年代から80年代にかけてはギリシャ神話や旧約聖書を題材とした大作を手がけ、キャンバスを複数枚つないだ大型の作品も手がけている。故郷山梨では富士山を描いた作品も見られる。
多作な画家として知られ、油彩、版画、エッチング、リトグラフ、墨彩画など1600点以上がヨーロッパや日本に所在しており、個人の所蔵家の手元に残っている作品も多く、その全容は未だ明らかにされていない。また、増田の思想や芸術観、フランス画壇における評価など指摘検証も十分になされていない。
日本では1970年(昭和45年)から1988年(昭和63年)の第十五回展まで小田急百貨店で個展を開催する。1991年(平成3年)には故郷の都留市中央に増田誠美術館が開館する。2012年には山梨県立美術館で『増田誠 パリ-人生の哀歓』が開催された。2015年(平成27年)には増田誠美術館が都留市上谷のミュージアム都留に移転統合された。

桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4日 – 1963年(昭和38年)7月18日)は、日本の洋画家。家族や日常風景を題材とした写実的な作品を多く残す。

略歴
山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。
1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。
大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。福保もこの時期に草土社的な画風で「鯖」を手がけている。
1933年(昭和8年)4月には上京し、東京府東京市王子区(東京都北区)の第二岩渕尋常小学校の教員となる。同年には洋画家の熊岡美彦に師事し、夜間は熊岡洋画研究所で学ぶ。1939年(昭和14年)には結婚。1944年(昭和19年)には志願して海軍省嘱託となり、広島県佐伯郡小方村(広島県大竹市)の海軍潜水学校に派遣される。
1936年(昭和11年)には文展で初入選して以来、文展や日展、師の熊岡や斎藤与里が創設した東光展、山梨美術協会展などに出展を重ね、1954年(昭和29年)には第10回日展において「魚市場にて」が岡田賞を受賞する。
昭和戦前期・戦中期には「宇佐美の海岸」(1936年)、「老農夫」(1940年)、「U子像」(1939年)などの作品があり、他の画家の影響を受けた作品が多く、デフォルメにも積極的に取り組んでいる。また、背景には表現主義を取り入れ、都市風俗の描写にも力を入れている。戦中には防空壕を掘る様子を描いた「或る日の家族」(1943年)などの作品もあり、当時の過酷な社会状況を日常風景として描いている。
戦後は山梨に帰郷し、アトリエ付きの自宅で画業を営み、戦後に中央で流行した抽象表現にも取り組んでいる。一方で甲府市愛宕町に桑原絵画研究所を開いて後身の育成も行い、竹田稔、清水美生、石川甚栄、船窪敏夫、早川ニ三郎らを輩出する。1958年(昭和33年)10月から一年半をかけてアメリカからフランス、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペインへ渡り、各地の風景を描いた。1963年(昭和38年)に死去、享年55。
2002年には山梨県立美術館において「桑原福保展-山梨に見る写実の流れ-」が開催された。

辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) – 1980年(昭和55年))は、日本の洋画家。「葦夫」は筆名で、本名は芳雄。

略歴
山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。
1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。戦後には1955年(昭和30年)に中村宗久らと「白壽会」を結成し、葦夫は二代目の会長になる。1978年(昭和53年)には財団法人実財団から文化功労実賞を受賞する。

名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月7日 – 1960年(昭和35年)3月30日)は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師。

来歴
久保田米僊及び久保田金僊の門人。山梨県中巨摩郡櫛形町(現・南アルプス市)の綿問屋に生まれるが、父・市太郎の事業の失敗により、1歳の時、東京に移る。名は芳之助。春僊、春川とも号す。小学校時代には、同窓の川端龍子、岡本一平とともに画才を認められていた。11歳の時、綾岡有真に師事、1900年(明治33年)、14歳で米僊、金僊に学んだ後、1905年(明治38年)、福井江亭に洋画も学び、東京美術学校においてさらに日本画も学んだが、平福百穂に私淑して中退する。
1902年(明治35年)、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。1906年(明治39年)、20歳の時には日本美術院展に「海の竜神」を出品、入選している。翌年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、1909年(明治42年)、同社に入社、1913年(大正2年)に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。他には森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『春』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』、石川啄木『一握の砂』(東雲堂書店、1910年)などの挿絵をしている。
1915年(大正4年)には小雑誌『新似顔』に役者絵を掲載した。翌1916年(大正5年)に京橋の画博堂で開催された第2回「劇画展覧会」に出品していた肉筆画「鴈治郎の椀久」が渡辺庄三郎の眼にとまり、渡辺版画店から役者絵「初代中村鴈治郎の紙屋治兵衛」を版行、これが春仙の最初の新版画作品であった。春仙の役者絵は、写実に基づきながらも、役者の美しさ、芝居の面白さを無視したものではなく、それが多少甘いと評される訳であるが、本作品の持つすっきりとした爽快感が評価され、代表作となった。その後、1917年(大正6年)には「梅幸のお富」を版行している。春仙の作品は後に「創作版画 春仙似顔絵集」にまとめられ、1925年(大正14年)から1929年(昭和4年)まで刊行された。この似顔絵集を見たドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ、徳川頼貞、高見廉吉らは春仙に木版による肖像画を依頼、これらを制作した。春仙はおよそ100種以上の版画を作成、山村耕花とともに新版画の中で、役者大首絵を描いた代表的存在であった。他に肉筆画なども手掛けている。
1930年(昭和5年)にはアメリカの雑誌『アメリカンマガゲンオブアート』に伊東深水、川瀬巴水らとともに春仙の版画における功績を紹介されている。1950年代後半には富士山を「是即ち地球で第一の山」とたたえて、富士山を題材とした風景画を手掛けている。
1958年(昭和33年)2月、長女を肺炎で亡くし、1960年(昭和35年)3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。74歳没。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた。
没後、昭和62年(1987年)春仙の画業を顕彰するため民間有志が惜春会を結成。その4年後地元に櫛形町立春仙美術館が開館し、町の合併に伴い南アルプス市立春仙美術館と改称し現在に至っている。

萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22日 – 2007年〈平成19年〉11月4日)は日本の画家。油彩画、現代木版画などを描く。

略歴
出生から戦前の活動
1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を努め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。
1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には華族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。東京府下野方町上高田(東京都中野区)に住む。このころより油彩画をはじめ、1930年(昭和5年)には耳野卯三郎から指導を受けている。
1932年(昭和8年)3月に旧制中学を卒業し、同年4月には文化学院美術科へ入学する。このころには公募展へも作品を出展し、白日会第9回展に油彩画の作品<雑木林>が入選し、光風会第19回展では油彩画<上り道>、日本水彩画会第19会展に水彩画<アネモネ>(東京藝術大学所蔵)が入選している。
1933年(昭和8年)4月に東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)油絵科へ入学する。東美時代は授業で木版画や銅版画とも接している。在学中は両親の理解や姉夫婦の援助を受け、西洋美術の画集や文献を収集し、セザンヌなど近代美術を好みつつ、16世紀まで遡り西洋美術を研究したという。この年には白日会第10回展に油彩画<風景>、光風会第20回展に油彩画<南天畑>が入選しているが、これ以降は学校の校則により公募展出展が禁止されたため、公募展への出展は行っていない。
1934年(昭和9年)には東京美術学校油画科本科へ進み、南薫造の指導を受ける。本科時代には後の洋画家・長谷川利行とも知り合っている。1938年(昭和13年)3月に東京美術学校油画科本科を卒業する。卒業制作は<自画像>で、多くの初期油彩画が戦災で失われているなか現存しており、同年制作のアカデミックな雰囲気において、鋭い眼差しを向ける詰襟姿の青年として自身を描いている。
この年には父が死去し、同年4月には浮世絵の複製を手がけていた高見沢木版社に入社し、企画部を担当し主に図版の出版や職人のマネージメントに携わった。セザンヌやマティスらの画集刊行に携わり、浮世絵についても理解を深める。同年11月には結婚する。
1943年(昭和18年)6月には召集を受けて高見沢出版社を退社し、陸軍東部第17部隊に入隊する。短期間で除隊となる。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では自宅のアトリエが初期作品や蒐集品とともに焼失する。
療養生活と版画制作の開始
戦後は生活のために勤めることはせず、極貧生活のなかで制作活動に励んだ。この時期の作品は美術学校で学んだアカデミックな雰囲気を持つ写実的な作風で、1951年(昭和26年)には銀座の資生堂で油絵作品の個展を開催し、油彩画の他に銅版画も手がけていた。
1953年(昭和28年)5月には肺結核に倒れて救世軍杉並療養所に入所し、3年間の療養生活を余儀なくされる。療養中には療養所の患者同士で絵を描き、それを回覧する「ピノチオ会」の活動を行った。素描や水彩画を制作しているが、画題は風景や花など身近なものや身近な人物の肖像などが多くなり、色彩も原色傾向に移り抽象傾向に傾いていく。また知人から聖書を送られ、同年制作のパステル画<聖書に関する物語の十二の試>など、キリスト教の影響も受けた作品も多い。
療養初年度には、友人への年賀状に高見沢木版社時代に学んだ木版画の技法で<牛>を制作する。これを機に木版画制作をはじめる。萩原は1956年(昭和31年)1月に退院するまで、約70点も木版画を制作している。療養中に作成した連作<二十世紀>11点は、退院後に銀座の養清堂画廊で開かれた個展において出展された。<二十世紀>に関しては萩原自身の証言は見られないものの、西洋美術の神話・宗教的なモチーフが描かれ、怪物に食べられる人間や骸骨なども描かれており、長坂光彦は1988年に刊行された目録のなかで、「戦争」や「文化」など人間の愚行を告発した作品と評している。なお、早川ニ三郎は<二十世紀>に関して、萩原が退院して療養生活から開放された精神的自由を表現したと評しているが、太田智子は製作年が療養中の1955年(昭和30年)であることから、これを否定している。
退院後の制作活動
萩原は本来平面的な木版画に油絵の持つ色彩の深さを加えることを目標とし、空摺りなど伝統的な技法を守りつつも、板目木板を刀で彫るという基本的な木版画の技法を捨て、版木に建築資材の端材や朽木、ベニヤの木片などを用い、それらを鋸で切断し接着することで木目の方向を克服し、オブジェ的に版を構成し木版凹版を開発した。また高見澤出版社時代に接した浮世絵の技法を応用し、和紙を湿らせることで紙に含まれる滲み止め薬のドーサの働きを弱め、浸透性の高い染料を針金を巻いた独特なバレンで摺るこよによって裏側からも摺る「両面摺り」の技法を開発した。
このため、萩原の作品は偶然性による滲みの具合に左右され、一点一点が微妙に異なるモノグラフ(一点制作)の版画となっている。萩原は「幻想」シリーズや「石の花」シリーズにより抽象版画家としての地位を築き、1960年(昭和35年)には第二回東京国際版画ビエンナーレで「石の花」シリーズが神奈川県近代美術館賞、1962年にはルガノ国際版画ビエンナーレで「白の幻想」がグランプリを受賞した。1979年から1990年まで日本版画協会理事長を務める。1986年には野口賞を受賞。1988年にはノーベル文学賞を受賞した川端康成の記念品を製作する。
<三十六富士>の制作から晩年
1981年(昭和56年)から1986年(昭和61年)には故郷である山梨県から見える富士山を題材とした連作<三十六富士>の制作に取り組む。『美の遍路』に拠れば萩原は療養所を退所して5年前後に着想したと述懐しており、制作に際しては各地を取材している。萩原は高見沢木版社時代に浮世絵に親しんでおり、<三十六富士>は葛飾北斎の<富嶽三十六景>に学んでいる。
北斎が風景のみならず人々の生活や生業を題材としているのに対し、萩原は人間の営みを描かず、純粋に富士の見える風景を題材に、季節や大気の変化を表現している。また、すべての作品に雲母(きら)を使用し、富士の冠雪を「きめこみ(空摺り)」は表現しており、さらに絵具が不均一になるように版木におがくずを固定したり、ニスを塗布するなどの技法を用いている。<三十六富士>は多くが山梨県側から見た富士であるが、一部に静岡県・神奈川県側から見た風景も含まれている。<三十六富士>は富士北麓の富士五湖周辺や朝霧高原から見た富士が多く、北杜市高根町の清里高原や、遠くは東京都新宿区の新宿副都心のビルの谷間から見た富士や、中央自動車道の八王子付近から見た富士なども描いている。
萩原は<三十六富士>以降も富士図に取り組み、1991年(平成3年)から1992年(平成4年)、1998年(平成10年)には<拾遺富士(こぼれふじ)>、1990年から1998年には<大富士>を制作している。1996年(平成8年)9月には著書『美の遍路』を刊行する。
2000年(平成12年)、自らの作品と蒐集品(萩原秀雄コレクション)を山梨県立美術館に寄贈している。2007年に死去、94歳。
木版画以外の作品と評価
油彩や木版画のほか、ガラス絵、パステルやグワッシュ、コラージュなどあらゆる平面の表現媒体に取り組んでおり、墨彩画や書、陶芸も行っている。「ギリシャ神話」「イソップ物語」など木版画のシリーズ作品もある。
近代日本の木版画においては恩地孝四郎や一木会に属する作家が抽象表現を行なっているが、萩原は恩地とは接点をもたない作家として評されている。
萩原秀雄コレクション
萩原は生涯にわたり様々な美術作品や民俗資料を収集している。内容は主に学生時代から親しんでいたパブロ・ピカソ、シャガール、ルオー、レジェなど20世紀の西洋美術や、日本の古美術、中国の古代美術、アフリカやアジア、中南米などの造形物など。
個別資料の入手時期は不明であるが、収集した資料と萩原作品との共通性が見られ、収集資料が創作に結びついていたと考えられており、一例としてルオー作品の黒く太い輪郭線と療養時代に描いたキリストを題材とした作品群との共通性が指摘される。また、シャガール作品ではイソップ物語を題材とした『寓話』や『出エジプト記』が含まれており、萩原作品と題材が共通するほか、シャガールのエッチングとの共通性も指摘される。さらに、日本や中国の古代美術の抽象性や色彩も萩原作品のそれとの共通性が指摘される。
2001年には山梨県立美術館に寄贈された。

深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 – )は、山梨県出身の版画家。多摩美術大学名誉教授。深澤幸雄と表記されることもある。銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における銅版画の第一人者のひとりとされている。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画の創作も行なっている。
初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。東京国際版画ビエンナーレ、ルガノ国際版画ビエンナーレ(スイス)、聖ジェームス協会日本現代版画展(アメリカ)、サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル)などで展覧会が開催された。

経歴

アトリエで制作中の深沢
出生から東京大空襲における負傷
1924年(大正13年)7月1日、山梨県南巨摩郡増穂町平林(現・富士川町平林)に生まれる。幸雄は深沢家の次男。父親が朝鮮総督府の官吏であったため、生後すぐに朝鮮半島に渡った。
1931年(昭和6年)に忠北堤川郡立小学校へ入学、1937年(昭和12年)に忠南大田中学校へ入学し、中学時代までを日本統治下の朝鮮・堤川(現在の大韓民国・忠清北道堤川市)で過ごす。中学時代には友人の家で『世界美術全集』を目にし、美術教師の影響を受け油彩画をはじめる。さらに大田市の鶏竜山窯を見学し、陶芸にも関心を持ったという。
1942年(昭和17年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学するが、父親の条件で油彩画ではなく工芸科彫金部予科を先行する。美術学校時代は葛飾区堀切に下宿し、デッサンに専念する。西洋の画家ではムンクやゴッホ、レンブラント、日本人の画家では中川一政の水墨画に傾倒していたという。1949年(昭和24年)に彫金部を卒業した。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では駒込において被災し、右膝を負傷する。翌年4月6日には山梨県甲府市の第63部隊に入隊し、重機関銃中隊に配属される。同年8月の終戦後は復学し、石井鶴三の指導によりデッサンに専念する。1947年(昭和22年)には詩人の川路柳虹の仲介で学生結婚する。
メキシコ来訪と作風の変化
1951年(昭和26年)から10数年は不自由な生活を強いられ、このことがきっかけで肉体的に負担が大きい油絵からサイズの小さい銅版画の世界に入った。
4歳年上の駒井哲郎や7歳年上の浜田知明の作品に影響を受け、1954年(昭和29年)から銅版画を独学で学ぶと、1957年(昭和32年)には日本版画協会展で協会賞を受賞し、1958年(昭和33年)には版画部春陽会賞を受賞した。1962年(昭和37年)には第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞した。
1963年(昭和38年)には、外務省所属のOPIC機関であるメキシコ国際文化振興会に銅版画技法の指導を依頼され、3ヶ月間の間、メキシコシティへ赴く。メキシコはそれまで木版画が中心であり、深沢はサン・イポリット尼僧附属修道院において銅版画の講義・実演を行い、学生の中にはメキシコ大学サン・カルロス美術学部教授であったルイス・ニシザワも加わっていた。
深沢はメキシコ来訪中にテオティ・ワカンのピラミッドやヴィエルモッサ、サンクリストーバル、オァハカ、モンテ・アルバンなど各地の遺跡を訪れ、メキシコの歴史・風土から受けたイメージをスケッチブックに詩として記録した。作品はそれまでのモノクローム中心であったのに対し、形状が単純化され、文字や記号・紋章などが描かれ、鮮やかな色彩が加わった作風の変化が指摘される。1967年の《闖入者》では朱色でメキシコを現し、その中にコルテスを意味する青色とキリスト教を意味する十字架を描き加え、メキシの歴史解釈をイメージした作品も制作した。
1994年(平成6年)にはメキシコの文化勲章であるアギラ・アステカを受章している。1972年(昭和47年)には第2回フィレンツェ国際版画ビエンナーレでバンコ・デ・ローマ賞を受賞した。
さらなる作風の変化
1980年代には作風が変化し、1982年(昭和57年)に刊行したアルチュール・ランボーの詩集『酔いどれ船』の詩画集においてメゾチントを用いた作品を発表する。メゾチントはベルソーを用いて版全体に傷をつけ、溝にインクを詰めて独特の質感の黒の階調を表現する手法で労力を要するが、深沢は1981年に独自に電動ベルソーを開発し、大型のメゾチント作品の制作を可能にした。また、深沢はメゾチント作品に多版多色刷りによる色彩を加えた作品を制作している。
深沢は銅版画以外にも陶芸や書、書とパステル画を組み合わせた作品やガラス絵なども手がけている。中学時代に朝鮮の陶磁器工房を訪れ、手仕事に関心を持ったという。
1981年(昭和56年)には『深沢幸雄銅版画全作品集』が刊行され、1991年(平成3年)には郷里の山梨県立美術館で回顧展が開催された。1986年(昭和61年)には多摩美術大学の教授に就任し、1995年(平成7年)まで教授職にあった。多摩美術大学のほかには福岡学芸大学(非常勤講師)や武蔵野美術学園(非常勤講師)でも教鞭をとっている。
1987年(昭和62年)には紫綬褒章を受章し、1991年(平成3年)から1994年には日本版画協会の理事長の座にあった。1992年(平成4年)には山梨県文化功労賞を受賞し、1995年(平成7年)には勲四等旭日小綬章を受章し、2002年(平成14年)には日本版画協会名誉会員に推挙される。2013年(平成25年)には、阿部出版の雑誌「版画芸術」での連載を基にした『現代版画の視点―深澤幸雄の版画対談』が刊行された。
1991年には山梨県立美術館で「深沢幸雄展 銅板に刻む魅惑の詩」が開催される。
2006年(平成18年)には版画やガラス絵、書画、パステル画、陶磁器、民族衣装などコレクション含めた約400点の作品を、山梨県南アルプス市の春仙美術館に寄贈する。2007年1月13日から3月25日には、同館で「深沢幸雄の全貌」展が開催された。2007年(平成19年)には市原市水と彫刻の丘でも「深沢幸雄展」が開催された。
同じく、2007年(平成19年)には深沢の銅版画690点を中心に、深沢の収集した他の銅版画家の作品や中南米の民俗資料など1800点が山梨県立美術館に寄贈され、同年10月27日から12月9日には同館において、このうち160点あまりの深沢作品とコレクションを紹介した企画展「深沢幸雄展-いのちの根源を謳う-」が開催された。2014年(平成26年)1月18日から3月2日には千葉県市原市の市原湖畔美術館(旧市原市水と彫刻の丘)において「深沢幸雄-銅版が奏でる詩-」が開催された。

河内 成幸(かわち せいこう(本名は同字でしげゆき)、1948年 – )は、日本の版画家。日本美術家連盟版画部委員。名古屋造形大学客員教授。妻の河内美榮子も版画家。

略歴
山梨県上野原町(現在の同県上野原市)に生まれる。
多摩美術大学在学中の1970年に、第38回日本版画協会展で新人賞を受賞した。1973年同大学油画科卒業。
卒業後も、1976年の第44回日本版画協会展で最優秀賞、1979年の第10回版画グラン・プリ展でグラン・プリ、1982年の第6回ノルウェー国際版画ビエンナーレ展で最優秀賞を受賞するなど活躍し、1985年から文化庁の芸術家在外研修員としてニューヨークに派遣された。コロンビア大学大学院で学んだ後、ヨーロッパを遊学して1986年に帰国した。
2001年から、台湾芸術大学特別講師、台北芸術大学客員教授、中国美術学院特別講師等を歴任。2007年から名古屋造形大学の客員教授を務めている。
2011年6月、紫綬褒章を受章。

進藤 章(しんどうあきら、1900年(明治33年)4月12日 – 1976年(昭和51年)5月18日) は、日本の画家、油彩画、日本画などを描く。

人物
1900年(明治33年)4月12日、父善次郎と母たいの7人兄弟の長男として山梨県北都留郡小淵沢村上久保(現・山梨県北杜市小淵沢町上久保)に生まれる。小淵沢小学校、大泉高等科3年を経て山梨師範学校(現・山梨大学)に学ぶ。
卒業後、日野春、小淵沢、甲府富士川小学校に訓導として勤め、当時文壇を風靡した武者小路実篤らの白樺運動の影響を受け、地方文化の活動、ことに画道に専心した。また山梨師範学校の先輩でもあった土屋義郎氏の紹介により岸田劉生の草土社に属し、木村荘八の指導を受けた。
1919年(大正8年)歌人の喜与子と見合い結婚し、1927年(昭和2年)夫婦で上京して、章は四谷第一小学校に勤務したが、途中で絵の勉強がしたくなって古典美術協会に入所、「根本からはじめたい」といって教師を辞めた。ここで4ヶ年間古典技法の研究をし、大調和展、古典美術協会展に作品の発表をつづけた。
1929年(昭和4年)「岸田劉生画伯遂に徳山に逝く」など当時の美術界の動きを美術日記に残している。また「私の絵には詩があると人はいう。絵に文学的要素が邪道のようにいった時代があったが、造形に詩的なものがあっても邪道とは考えたくない。心のおもむくままに描きたいのである。今の仕事は草土社でも古典協会でもない。けれども劉生画論の中に出てくる『唯心境』、色も形も超えて内から滲み出す精神とか、そういうものがなければ人の心を打つわけにはゆかないだろうし、作風はまるきり変わっても、その意味では草土社精神が終生を貫くだろう。これから私の絵は次第に明るさと鮮明度を増すことだろうし、身についた東洋趣味、日本趣味が油彩の新日本画になることも事実。静物を描いても静物的風景になりつつあることも事実だろう」と。中川紀元氏は「進藤さんの絵は色彩の音楽である」と評している。1933年(昭和8年)東京日動画廊で「山岳個展」を開き、作品45点を発表。以後毎年、銀座三昧堂、菊屋画廊で個展を開催しながら画業への情熱に生きた。
1939年(昭和14年)在京の数人と「菁々会」を結成して会長となり、同年11月に第1回展を銀座三昧堂で開催しその後毎年開催したが、特に第3回展は初日が1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争(大東亜戦争)の翌日であったのにも拘らず、戦況を冷静に見極め熟慮した上で開催を断行したのであった。その時の様子は次ぎの様に記されている。即ち「8日早暁米、英両国に対し戦争状態に入る。6時のニュースに続く号外の飛報。帝都はにわかに緊張の極。やがて大詔渙発、宣戦布告となる。午後より防空実施下令とはいえ夜に入り空は晴れ、月高くかがやけど市民は必要以上に燈火官制を実施し全く暗黒なり。明日より開会の第3回展のどうなる事かと疑いつつも既に腹を決め、暗がりの街に絵を運ぶ。いささか悲壮でもある。明くれば雨、雨ひどく降り続けど相次ぐ勝報に国民の心明るく人皆の心は戦いに共の耳をうばわれたり。皇国三千年の歴史の先端に大きくも勃発した民族の戦い、大東亜戦争と共に吾が菁々会第三回展は記念すべくも開かれたり。12月17日夜、章記す」と。しかし戦争も次第に苛烈になり第6回展を1944年(昭和19年)10月、銀座・菊屋画廊での3日間のみの開催をもって中止のやむなきに至る.しかし1969年(昭和44年)11月、生き残った3人(進藤章・葛西康・川原井正)で第7回菁々会展を銀座・月光荘画廊で開催し、その後場所を変えながら晩年まで継続した。
終戦の年の1945年(昭和20年)故郷の小淵沢村に帰り、翌1946年(昭和21年)山梨美術協会展、県芸術祭展に出品、画道専念を意図したが、1947年(昭和22年)郷里の青年団有志の情熱に押されて公選の初代村長となり、1949年(昭和24年)歌聖若山牧水がこの地を来遊した1923年(大正12年)の秋、諷詠した一作「甲斐の国こぶちさわあたりの高原の秋すゑつかたの雲のよろしさ」は作者自身の真筆であり、これを文化事業の一環として、村当局をはじめ、山脈短歌会のものが、村内有志の方がたのご厚意を得て歌碑を刻み小淵沢西小学校(現・小淵沢町総合スポーツセンター)の校庭につづく丘、雑木林の中に建立したが、その後現在地「生涯学習センターこぶちさわ」に移された。尚、この年(昭和24年)11月13日の除幕式に招かれた喜志子夫人も「数多い碑の中に自筆の歌碑は少なく、中でも優れている方だ」との言葉があり、進藤も「恐らく最高に近いのではなかろうか」と評している。また除幕式に招かれた夫人は駅前の「いとや旅館」の往年牧水が泊まった部屋で一夜を過ごし、次の夜、進藤宅の天井に雨漏りのしみのあるその奥座敷で泊められた時に詠んだ「はに鈴のほろろこほろぎよもすがら枕のあたりにて鳴く」も石碑に刻まれ1990年(平成元年)11月18日に小淵沢町がふるさと創生事業の一環として、牧水の歌碑の左隣に建立した。この除幕式には息子である旅人氏から次のような祝歌が寄せられた。 「甲斐駒を 仰ぎ見せむと 町びとの思ひは凝りて ここに母の碑」。
さて進藤は村長を1期4年間引き受け、北巨摩郡町村会長、県町村会教育委員会副会長等政治界に身をおいた。しかし、人間形成に芸術の尊さを痛感し、1948 年(昭和23年)その地方的なきめ細かい歩みを意図して「峡北美術協会」を設立、以後会長として28年間、後進の指導と激励を続けた。
1951年(昭和26年)甲府中込百貨店で個展を開催した。一方、画業のみならず広く地方文化の進展のために1952年(昭和27年)には県立図書館協議会副会長、また1954年(昭和29年)には小淵沢財産区議会議長、人権擁護委員、行政相談委員等社会奉仕にも献身し、大阪朝日新聞厚生事業団主催の「日本名作家展」にも例年寄贈出品をつづけた。 その間、菁々会長、峡北美術協会長のほか山梨美術協会副会長、同協会相談役をながくつとめ、山梨美術の興隆に意をそそいだ。
1976年(昭和51年)5月18日 永眠 享年76
1976年(昭和51年)6月、甲府県民会館地下画廊で峡北美術協会主催による「進藤章遺作展」が開催され、更に同年10月「追悼進藤章第12回菁々会展」が銀座ゑり円画廊で開催された。
1979年(昭和54年)11月3日、山梨県立美術館の落成開館に当たり「蓮池」ほか2点が同館収蔵作品として展示された。

高森 龍夫(たかもり たつお、1900年9月14日 – 1958年5月12日)は、編集者、挿絵画家。雅号は「猟夫(れお)」「夜江」。漫画原作者の梶原一騎(本名・高森朝樹)は長男、同じく漫画原作者の真樹日佐夫(本名・高森真土)は次男。

経歴
熊本県立中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)で英語の教鞭を執っていた父・高森貞太郎と、藩主細川家に仕えた林氏の長女・寿の間の七人兄弟(六男一女)の長男として兵庫県に生まれる。
青山学院卒業後、山梨県都留町の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事等に従事し、太宰治の担当編集者となる。その後、改造社に入社し『俳句研究』の編集長などを務めた。戦後、青山虎之介が創業した新生社に入社、同社発行の雑誌『花』、『新生』の編集長を歴任し、谷崎潤一郎、吉川英治などの担当をした。
長男の高森朝樹(梶原一騎)によれば、大変な酒好きであり「酒豪なんてものじゃなく酒仙だった」と語っている。その上、酒癖が非常に悪かった酒乱の梶原と違いいくら飲んでも乱れる事がない真の酒飲みであった。しかし、酒の飲み過ぎで祟って胃癌のため死去、享年57。臨終の際に、当時まだ22歳だった梶原に遺した遺言は「若い身空で、大変だろうがよしなに」というものであった。
『巨人の星』の登場人物である星一徹は、梶原一騎夫人の高森篤子も語っているように龍夫がモデルとされるが、実際の龍夫は自己主張が強いわりには控えめで飄々とした性格で、放任主義であまり息子たちの教育に首を突っ込まない故に叱ることがなく、一徹とは正反対の人物だったという。
妹の高森ゆか里(梶原一騎、真樹日佐夫の叔母)は、兄・龍夫の事を「反骨心が旺盛で、上から押さえつけられることが大嫌いな自由人でした」と評している。

高山 良策(たかやま りょうさく、1917年3月11日 – 1982年7月27日)は山梨県西桂町出身の画家、怪獣などのぬいぐるみ(着ぐるみ)、造形物製作者。特に初期のウルトラシリーズでの、成田亨デザインによる怪獣造形は評価されており、「怪獣の父」と呼ばれる。
兄は日本画家の高山無双。

略歴
1917年(大正6年)3月11日、山梨県西桂村の大工の次男に生まれる。のちに日本画家になる兄の影響で、幼少期から絵に親しみ、画家を志す。
1931年(昭和6年)、14歳。家が貧しかったため単身上京。製本工場に勤務しながら、独学で絵を学ぶ。画集を買う余裕もなかったため、丸善などの書店に行き、画集を立ち読みして様々な絵を見たという。
1938年(昭和13年)、21歳。陸軍に徴兵され、中国戦線に渡るが、苛烈な最前線にもかかわらず、紙切れまでも利用して、軍隊での生活を題材に、鉛筆や水彩による多くのスケッチを描いた。
1940年(昭和15年)、23歳。退役して帰国後、田辺製薬図案部に就職。また、本郷にあった福沢一郎の絵画研究所で学ぶ。福沢は当時、シュルレアリスム絵画を描いており、その影響をうける。
1943年(昭和18年)、26歳。太平洋戦争がはじまると、同僚の黒田龍雄(のちに、快獣ブースカをデザインした)とともに田辺製薬を退社し、東宝航空研究資料室に入社。国策映画の特撮用のミニチュアを製作する。多くの美術家が集まっており、山下菊二、難波田龍起らを知る。
1945年(昭和20年)、28歳。戦争末期の3月、貧困だがエネルギーあふれる画家たちが集まっていた「池袋モンパルナス」のアトリエつき住宅に転居。
1946年(昭和21年)、29歳。山下菊二、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。同年利子夫人と結婚。東宝では、スタッフ・俳優のほとんどが参加した一大労働闘争「東宝争議」が始まり、高山も共産党に入党する。争議中には、組合の命令で同僚の鷺巣富雄、山下菊二、山本常一らと街頭で似顔絵描きもさせられた。
1950年(昭和25年)、33歳。共産党を離党。
1951年(昭和26年)、34歳。東宝を退社。以後は、フリーの立場で、特撮・造形関係の様々な仕事をする。
1953年(昭和28年)、36歳。日教組プロが製作した映画『ひろしま』のセットデザインをてがける。
1954年(昭和29年)12月、37歳。子ども向け雑誌『よいこのくに』(1954年12月号、学研)の「おめでとう くりすます」のページでは、人形制作・構成の川本喜八郎のもとで、装置を担当した。
1958年(昭和33年)、41歳、人形劇映画『注文の多い料理店』(学研人形部)で人形操作を担当、
1959年(昭和34年)、42歳。飯沢匡の人形アニメーション映画『ポロンギター』(26分・16mm・カラー、学習研究社)の人形制作を佐々木章、加藤清治とともに担当。また、練馬区に転居し、引越しが5月だったことからそのアトリエを「アトリエ・メイ」と名づける。このアトリエ名は、のちに「怪獣制作工房」名として有名になった。
1961年(昭和36年)、44歳。大映の超大作映画『釈迦』の特撮用セットを作る。のちの『大魔神』にも繋がる、神像崩壊シーンの特撮も手がける。
1962年(昭和37年)、45歳。『鯨神』で、大橋史典と交代し鯨神(セミ鯨)の撮影用ミニチュアを制作。
1963年(昭和38年)、46歳。大映初の怪獣、『大群獣ネズラ』のネズラを作るが不評だった。のち撮影は中断され、企画自体が幻に終わった。
1964年(昭和39年)、47歳。「よみうりランド」の水中ショー用の精巧なウミガメの作り物を製作。
1965年(昭和40年)、48歳。上記のウミガメの作り物に円谷英二が目を留め、彫刻家成田亨の紹介により円谷プロダクション製作の『ウルトラQ』に参加。製作第14話より怪獣・宇宙人の着ぐるみ製作を担当。成田の秀逸なデザインもあり、現在でも、強烈な印象を与える造形となる。
1966年(昭和41年)、49歳。京都に3か月間出向し、大映映画『大魔神』の大魔神造形を担当。等身大、実物大の大魔神も製作。ラストで崩れ落ちる大魔神のミニチュアにおいては、素材選びに苦労しながらも見事な効果を上げた。
この崩壊シーンでは、魔神像がうまく崩れず、かなり悩まされている。利子夫人によると、『ウルトラマン』の制作を始めた円谷プロから、東京の自宅に「早く戻って欲しい」と催促の電話が何度もあったが、「この撮影を見届けるまでは帰れない」として、京都の現場に残っていたという。
これにさきがけ、京都と東京を往復する多忙な日程の中、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』のバルゴンも製作しているが、結局その表面仕上げはエキスプロに任せている。
1967年(昭和42年)、50歳。『ウルトラマン』に続いて『ウルトラセブン』にも参加し、ほとんどの怪獣の造形を担当。「毎週の怪獣造形」という過酷なスケジュールの中、独特の存在感のあふれる怪獣を作り続ける。週1回放送というテレビ番組の厳しいスケジュールから、『ウルトラマン』の怪獣の3分の1は過去の怪獣の改造による使いまわしであったが、成田のデザインと高山の造形はそのハンデを感じさせないものであった。
同年、ピー・プロが特撮を担当した『神州天馬侠』で大ワシのクロを制作、『怪獣王子』の恐竜をデザイン・制作。うち数体は、番組打ち切りのため制作したもののお蔵入りとなってしまう。主役のネッシーは、大橋史典が制作したものが重厚すぎて使えず、開米栄三と協力して手直しを担当。また、これとは別に小ぶりのネッシーを制作している。
ピープロではこのほか、同社のパイロット作品『ゴケミドロ』の、宇宙怪物ゴケミドロ、同じくパイロット作品の『豹マン』のヒーロー「豹マン」を、ゴムマスクタイプと植毛タイプの2種類制作した。この時期、折からの怪獣ブームの中、「怪獣を作る男」としてマスコミに大きくとりあげられ、話題となる。
1968年(昭和43年)、51歳。『ウルトラセブン』の途中で、成田が怪獣デザインを中途降板した後は、池谷仙克とコンビを組み、さらに名怪獣を作りつづける。『マイティジャック』では敵組織Qの「レイブン」などの超兵器、『戦え! マイティジャック』ではゲスト怪獣の造形に参加。
1971年(昭和46年)、54歳。「第二次怪獣ブーム」の火付け役となった『宇宙猿人ゴリ』で、再び盟友うしおそうじのもと、ゴリ博士ら猿人のマスクや、おどろおどろとした「公害怪獣」を製作した。ゴリ博士の紫を基調にしたスーツは、高山のデザインによる。利子夫人によると、『宇宙猿人ゴリ』の番組名について、「悪役が番組の題名になるなんて面白いな」と語っていたそうである。
同作品には、高山の個人作品「かなぶんおやぶん」がゲストの怪獣キャラクター(コンピューター怪獣)として使用されている。また、当作では怪獣「クルマニクラス」のデザインの手直しをしたり、「モグネチュードン」のデザインを手がけてもいる。
同年、『帰ってきたウルトラマン』の怪獣数体を担当。開米プロダクションの開米栄三社長は、同作品で怪獣造型を引き継いだということで、高山の元を挨拶に訪ねたそうである。また、『シルバー仮面』の全宇宙人・怪獣の造形を担当した。
1972年(昭和47年)、55歳。『快傑ライオン丸』を担当。「豹マン」に続いての毛やヒゲの多い「ライオン丸」の造形も見事であり、また、ライバル役「タイガージョー」も人気を集めたことで、以後もピー・プロにおける「猫系ヒーロー」を任されることになった。
また、円谷プロ初の劇場オリジナル映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』の怪獣造形を担当。ほかにも同時期の『アイアンキング』を手がける傍ら、『突撃!ヒューマン』では再び成田亨と組んで怪獣を造型(「ジャイロック」のみ)するなど、第一次ブームにも増して多忙な制作スケジュールをこなす。
1973年(昭和48年)、56歳。1月から放送開始の『ファイヤーマン』における大半の怪獣造形を担当する一方で、『風雲ライオン丸』にも参加。『ファイヤーマン』の終了直後には、『スーパーロボット レッドバロン』へスライド参加し、敵ロボットの半分を手がける。
1974年(昭和49年)、57歳。『鉄人タイガーセブン』や『電人ザボーガー』のほか、寺山修司の前衛映画『田園に死す』の不気味なギミック「空気女」を製作。
1975年(昭和50年)、58歳。『冒険ロックバット』の造形(「ドラダヌギー」のみ)を担当。
1976年(昭和51年)、59歳。『恐竜探検隊ボーンフリー』のティラノサウルス(モデルアニメ用の人形及び手踊りギニョール)のみ造型。
1979年(昭和54年)、62歳。日仏合作として企画されたがパイロット版のみで終わった『シルバージャガー』を最後に怪獣造形の世界から離れ、シュルレアリスムに立脚した土俗的な絵画作品を描く。
1982年7月27日、肝臓癌のため、65歳の若さで死去。入院先の病院では、輸血の提供に、数多くの高山怪獣のファンが名乗りを上げた。
死去の半年前に、雑誌の依頼を受けて30cmサイズの怪獣のミニチュア7体(レッドキング、ガラモン、ペギラ、ラゴン、カネゴン、ケムール人、ギエロン星獣)を製作している。妻がその理由を聞くと「残るものは、同じだから」と答えたという。
2001年(平成13年)、練馬区立美術館で、学芸員の土方明司の企画により「高山良策の世界展」が開催される。
人物
高山の妻・利子は結婚後すぐにカリエスを罹病し、長きに渡り入院生活となるが、高山は献身的に妻を介護し、全快にまで至らしめた。のちの怪獣着ぐるみ製作の際には、怪獣の装飾品、部品の選定調達といった原材料購入を手伝うなど、利子は高山の仕事上でもパートナー的存在となった。夫婦には子供はおらず、うしおそうじは、高山はこれを転機として子供向けの仕事に向かってくれた、と述懐している。戦後間もない頃からの盟友であるうしおとの付き合いは家族ぐるみのもので、第二次怪獣ブーム後も、怪獣造型の依頼があれば必ずピー・プロを通して請けていた。
癌で入院した際には本人告知はされず、「あと二月」と利子夫人に伝えられたうしおは、入院先を見舞った際の高山の、「鷺巣さん(うしおの本名)、とうとう65歳になったから、入院費がタダなんですよ」「トイレはハンガーで点滴ぶら下げていくんですよ」などと、ニコニコと子供のように話す姿が印象的だったと偲んでいる。
高山の工房で怪獣製作を手伝う、美大生のアシスタントたちには「これは、生き物を作っているのだからそのつもりで」と指示していたという。高山は、報酬の大小で手を抜くことはなかった。
アトリエ・メイは二階建て住居で、一階を造形用の工房、二階を絵画用のアトリエにしていた。昼間、階下で怪獣などの造形作業をした後、夜は二階で油絵を描いていた。また、怪獣造形で多忙な中でも、欠かさず絵や彫刻作品の制作を続け、毎日寝る前にデッサンをしていた。また、一階と二階をきちんと分け、一階にデッサンを持ち込むことはしなかった。油絵『飛んでけ!』は、日仏現代美術展で二等入選している。
高山が製作した怪獣たち
高山の作る怪獣は、スピーディーな動きを求められるテレビ番組での撮影を前提に、「動きやすさ、軽さ、安全さ」を第一に考えて作られていた。素材も軟らかく軽いものを選び、演技者が着脱しやすいよう内部取っ手などを内蔵し、また予算を考え、口やマブタの開閉ギミックは、内部演技者が紐を引っ張って行うものを考案し、これらの仕掛けを「ヒモコン」と命名していた。
高山の怪獣は、近年の怪獣造型と違い、内部演技者と怪獣の表皮との間の隙間が大きく、独特の皺やたるみが特徴である。これも軽さと動きやすさを考慮してのことである。『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』や『ウルトラマン』の撮影では、バルゴンやベムラーが水に沈まず、ハサミで表皮を切り裂いて水を中に入れてやっと沈めた、というエピソードが残っている。
また、過密なテレビ制作のスケジュールにもかかわらず、全身を粘土原型から起こして型取りしたものも多く、全て併せてこのやさしく温かみのある高山の怪獣は、まさに「ぬいぐるみ」というべきものであった。(高山自身も造形者としてこれらを「縫いぐるみ」と記述している) この「第一次怪獣ブーム」では、アトラクションショー用の怪獣も多く手がけた。
『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』で高山怪獣の何体かを演じた中島春雄は、高山の怪獣について、「軽すぎて、少し物足りない」と感想を述べている。利子夫人によると、成田亨はこれに対し、「僕らは中の役者を考えて軽く作っているんだからこれでいいんだよ」と高山を慰めたという。
東宝の造形スタッフ安丸信行によれば1967年、高山は東宝から『キングコングの逆襲』のゴロザウルスの造形を依頼されているが、作りの軽さに不満をもった安丸の意見で、中途で破談となったという。だがこれらのエピソードは、重厚さを要求される映画の現場と、先にも述べたように軽快さを求められるテレビの現場との要求の違いを単に示したものに過ぎない。
『怪獣王子』で特撮監督を務めた小嶋伸介は高山について、「ぬいぐるみの納品後は『じゃあよろしく、修繕はやりますけど、後は生かすも殺すも小嶋さん次第ですから』という姿勢で、とても仕事がしやすかった」と振り返り、デザイナーの意思を尊重しながら「動きやすいぬいぐるみ」をと工夫を重ねた高山について、「高山さんの存在は、TV特撮界にとって大変に貴重なものだったのではないか」と述べている。
『宇宙猿人ゴリ』では、ゴキブリの怪獣「ゴキノザウルス」のあまりのリアルさに、別所孝治プロデューサーが大喜びし、撮影所そばの屋台のおでんを買いきってスタッフに振舞った、というエピソードが残っている。
高山は第一次怪獣ブームから第二次怪獣ブームを通し、造形日記を欠かさずつけており、現在では当時の制作内容や時代背景までをも含んだ貴重な資料となっている。マスコミの加熱取材振りや、クライアントの無理な要求に対しての不満も吐露されていて、大変興味深いものとなっている。『大魔神』では実物大の腕の造形に四苦八苦し、大映本社の「いつまでそんなものにかかっているんだ」との無神経な言葉に「新粉細工じゃあるまいし、そんな簡単に作れるか」と造型者として憤る姿が見られる。
高山は、怪獣を作る際には必ず内部演技者の採寸をして、身体にフィットした造型を心がけている。一方で「10日に並行して一体」という過密なペースのテレビ怪獣作りには苦労も多かったようである。ロボット怪獣であっても、演技者の安全性を考えて軟らかいゴム素材を使うことが多かった。
『スーパーロボット レッドバロン』のデザイナー野口竜は雑誌『宇宙船』のインタビューで[要文献特定詳細情報]「せっかくかっこよく描いたロボットデザインが、胴長で足の短いぬいぐるみばかりになってがっかりした」などとコメントしている一方、LD-BOXの解説書では「様々な素材を使ってチャレンジしてくれた」とも述べていて、図らずも軟質・硬質の素材の組み合わせでの高山の苦労がよく偲ばれるコメントとなっている。
『ウルトラセブン』では、成田亨が実相寺昭雄監督のスペル星人のデザイン指示に対し、「ポリシーに反する」としてデザインを拒否。成田の口頭での指示をもとに、高山がデザイン画なしで仕上げている。
高山のウルトラ怪獣に対して、近年まで実相寺は「イメージと違いすぎる」として、「ガマクジラ」を「ドラえもんの水浴び」、メトロン星人を「長靴の化け物」などと揶揄し、辛口の評価を下していたが、実相寺は最晩年に雑誌『フィギュア王』のコラムで「フィギュアによるイメージの補填」を機に、「作り物ならではの良さもあるんだな」と考えを改める発言をしている。

高芙蓉(こう ふよう、享保7年3月15日(1722年4月30日) – 天明4年4月26日(1784年6月13日))は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。
苗字の高は出身地の甲斐国「高梨郡」(後述)に因んで自ら名乗ったもので、本来は大嶋である。名は孟彪(もうひゅう)、字を孺皮(じゅひ)、号は芙蓉、その他に三嶽道者、中嶽画史、氷壑山人、富岻山房など。室名は菡萏居(かんたんきょ)。本姓が源であることから、源孟彪と称することもあった。通称を大嶋逸記(いつき)、近藤斎宮(いつき)と称した。

生涯
祖父庄左衛門義之は水戸光圀に土蔵番として仕えたが、勤務中に盗難事件に巻き込まれ職を免ぜられてしまい、甲斐国高梨郡に移った。父の尤軒は長田徳本流の医師であった。芙蓉も一旦は医業の道に進み、二十歳の頃幕医武田長春院の塾に通うが、結局は医業よりも文雅の道を志して京都に遊歴した。
京都では坊城菅公に従い有職故実を習らい、この方面に詳しい藤貞幹や伊勢の中川経雅らと親しく交際した。書を愛し、真蹟、法帖、碑帖などを蒐集し、先人の書について研鑽を積んだ。趙孟頫や文徴明の法帖を模刻している。一方で学問にも励み、独学で中国古典を読破。経学・漢学など幅広く吸収した。この頃、近藤齋宮と称しており衣棚下立売や丸太町油小路に住み、売講や個人教授などをして生計を立てていたらしい。
芙蓉は柳沢淇園や木村蒹葭堂、売茶翁、大典顕常、永田観鵞など多くの文人墨客と交流した。80歳の売茶翁に印三顆を贈っている。池大雅、韓天寿とは終生の友であり、三人は連れ立って白山・立山を経て富士山を巡る旅をしている。この旅を記念して三人それぞれが「三嶽道者」を号したという。
書画を能くし、特に富士山を筆写した「百芙蓉図」は有名である。煎茶道にも造詣が深く、「キビシヤウ」(急焼)を案出したとされる。銅器や玉材、銭貨といった器物の鑑賞家でもあった。
このように多芸博学にして風雅を好んだが、特に篆刻にその才能が開花した。当時、篆刻といえば江戸において榊原篁洲、池永道雲、細井広沢らが名を成していたが、いずれも帰化僧の心越の流れを汲んでいた。この流派は明末清初に中国で隆盛した「飛鴻堂」一派に近く「今体派」と呼ばれる。しかし芙蓉はこの一派に飽き足らず、その頃舶載されて辛うじて見られるようになった古銅印の印影に魅せられる。木村蒹葭堂が入手した明代の篆刻家蘇宣の『蘚氏印略』4巻を範として模刻したり、同じく明の甘暘の『印正』に注解して刊行した。こうして中国歴代の印譜や文献を渉猟して秦・漢にまで遡り淵源を窮め、諸流派を探求しついに日本における印章制度を確立した。知友の皆川淇園や柴野栗山らは芙蓉を印章学の大成者と見做して「印聖」と讚えている。なお漢詩で有名な葛子琴は芙蓉の高弟としても知られ「印賢」と評されている。また愛弟子の曽谷学川(曽之唯)は師の作風とそっくりだったと伝えられる。その他、浜村蔵六・前川虚舟・余延年・藪星池・杜俊民・稲毛屋山・二村楳山・源惟良などの門弟がおり、この一派は「古体派」と呼ばれ、明治初期まで全国に広く波及した。
芙蓉は青木木米の師としても知られる。祇園の芙蓉宅付近に住んでいた木米は芙蓉の居宅に遊ぶうちに、書画や篆刻などを学んだようである。この関係は木米の少年期から18歳になるまで続いた。また山本緑陰にも薫陶を授けている。
天明4年、常陸宍戸藩の松平頼救の招聘に応じて、妻子を連れ立って江戸に赴く。常陸宍戸藩はかつて祖父が仕えた水戸藩の分封であり、芙蓉はこれに縁を感じたためであったとされる。しかし、江戸目白台の藩邸に到着するとすぐに病(傷寒)を得て、数日後に歿した。享年63。小石川無量院に葬られる。後に芝天徳寺に移葬される。また、京都の一心院にも墓碑が存在する。
出生地について
出身地は甲斐「高梨郡」とされるが甲斐四郡(巨摩・山梨・八代・都留)のうちに「高梨郡」は存在せず、近世期の郡名においても見られない。信濃国上高井郡日野村(現・長野県須坂市)との説もあるが、甲府市域の高成か高町とする説、あるいは甲斐市(旧中巨摩郡竜王町)域の名取が有力。

星野 敦(ほしの あつし、Atsushi Hoshino、1953年6月7日 -)は日本の彫刻家・芸術家。

経歴
日蓮宗の総本山、山梨県身延山久遠寺御用達仏師 である、五代目池上秀昇(星野忠雄)の三男として、1953年(昭和28年)6月7日、山梨県甲府市に生まれる。幼少時より木彫り・極彩色・漆・金箔などの技術を父より学ぶ。山梨県立甲府南高等学校理数科卒業。
彫刻の素材はブロンズに留まらず、鉄やコールテン鋼、自然木、ガラスなど多様であり、素材に捕らわれない。 30代半ばから、炸裂する情熱やエネルギーを表現した「情熱発電所」(名前の由来は西武百貨店キャッチコピー 1985 糸井重里)シリーズの制作を開始し、ドローイング、他芸術とのコラボレーションによるパフォーミングアート、即興芸術の活動も行い、「エネルギーの塊と炸裂する情熱」と評される作品だけではなく、パブリックコレクションには癒しを表現した「ヒューマン」シリーズの作品も多い。漆や蒔絵を施した彫刻、レリーフ、ドローイング、絵画、版画、モザイク、絵皿なども手がけ、近年、山梨県産の素材にこだわった作品も発表している。
また、創作活動だけでなく「情熱発電所と造形の秘密」「造形のおもしろさ」などをテーマにした講演活動も行っている。
主な活動
1995年
第18回「日・独金属造形作家展」に招待される。(ドイツ文化会館)
「情熱発電所-107」が国際連合に所蔵され国際連合大学に設置される。
1997年 都営地下鉄大江戸線新宿駅に20メートルの壁画レリーフを設置
1998年
制作活動を追ったドキュメンタリー『情熱発電所』(テレビ朝日映像制作・東京都現代美術館所蔵)が一般公開される。
「山梨の現代作家達展」出展(山梨県立美術館)
2000年 第4回「国際野外金属彫刻大会」に招待制作・高さ7メートルの作品を設置(ドイツ、アイゼンヒュッテンシュタット市)
2005年 2005年日本国際博覧会(愛知万博)において、ヴァイオリニスト佐藤陽子とライブパフォーマンス
2007年 第1回アジア・アート・フェスティバルに 「出展」、中国古筝の姜小青とライブパフォーマンス(横浜赤レンガ倉庫)
2009年 アトリエを山梨県富士吉田市に新設、38年ぶりに活動拠点を故郷山梨とする。
個展
TEPCO銀座館プラスマイナスギャラリー(1989年)
ホンダウエルカムプラザ青山(1989年)
電通アドギャラリー(1989年、築地)
アトリエ西宮(1992年、兵庫県)
三越(1993年、新宿)
光と緑の美術館(1997年、神奈川)

浅川伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17)8月4日 – 1964年(昭和39)1月14日)は朝鮮古陶磁研究者。山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現・北杜市)出身。浅川巧は弟。

活動
山梨県師範学校に学び、県内で小学校教諭となったが、甲府キリスト教会での小宮山清三との出会いから朝鮮王朝の美術に憧れ、1913年(大正2)、韓国併合3年目の朝鮮半島に渡る。当初朝鮮陶磁の「青磁」に惹かれていたが、偶然目にした日常の器「白磁」に魅了され、柳宗悦(思想家・民芸運動創始者)に紹介。これが朝鮮王朝時代の白磁が日本で初めて注目されるきっかけとなる。
1924年(大正13)、日本統治下の京城(現ソウル)に、柳宗悦・弟巧と文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設立。また、朝鮮陶磁の研究のため半島700箇所余の窯跡と日本の窯業を調査し、500年間に及ぶ朝鮮陶磁の歴史をまとめあげた。その方法は、「陶片を読む」という伯教独自の手法だった。陶磁器に対する炯眼から「朝鮮古陶磁の神様」と呼ばれるが、調査・研究に対する姿勢はフィールドを重視する地道な努力の積み重ねによるものである。
62歳で日本に引き揚げた後は、砥部(愛媛県)での指導・作陶、執筆・講演、山梨県芸術祭審査員など研究者としての一生を貫いた。1964年(昭和39)、居住地千葉市で逝去。著書『釜山窯と対州窯』『李朝の陶磁』等。
三一独立運動(1919年)が始まった翌月、小学校教員を辞し彫刻家をめざした。翌年、第2回帝国美術院展覧会で、朝鮮人男性像の彫刻≪木履の人≫が入選する。新聞の入選インタビューに応えて次のように述べている。
朝鮮人(ママ)と内地人(ママ)の親善は政治や政略では駄目だ。矢張り彼の藝術我の藝術で有無相通ずるのでなくては駄目だと思ひました

— 「京城日報」1920年10月13日付け

略歴
1906年(明治39)山梨県師範学校卒。
1913年(大正2)三枝たかよと結婚。朝鮮半島に渡る。
1919年(大正8)朝鮮半島で三・一独立運動が起こり教職を捨て日本に戻る。彫刻家新海竹太郎の内弟子となる。
1920年(大正9)第2回帝国美術院展覧会で彫刻「木履の人」入選。
1922年(大正11)平和博覧会記念美術展で彫刻「平和の人」入選。再び朝鮮半島に戻る。
1924年(大正13)朝鮮民族美術館を京城(現ソウル)景福宮内に設立。
1930年(昭和5)朝鮮陶磁器を調査し「釜山窯と対州窯」にまとめ発表。
1946(昭和21)自ら集めた朝鮮古陶の陶片30箱、工芸品3000余点、朝鮮民族美術館収集資料を整理して、朝鮮半島の関連機関に収蔵を申し出て納め、日本に帰国

能穴焼

印章(いんしょう、英語: seal)は、木、竹、石、角、象牙、金属、合成樹脂などを素材として、その一面に文字やシンボルを彫刻し、個人・官職・団体のしるしとして公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すことにより、その責任や権威を証明するもの。印(いん)、判(はん)、印判(いんはん)、印形(いんぎょう)、印顆(いんか)、印信(いんしん)、ハンコ(判子)ともいう。
しばしば世間一般では、正式には印章と呼ばれるもののことをハンコ、印鑑(いんかん)と呼んでいるが、厳密には印章あるいはハンコと同じ意味で「印鑑」という語を用いるのは正確ではない。古くは、印影と印章の所有者(押印した者)を一致させるために、印章を登録させた。この印影の登録簿を指して印鑑と呼んだ。転じて、印鑑登録に用いた印章(実印)を特に印鑑と呼ぶこともあり、更には銀行印などの登録印や、印章全般もそのように呼ぶ場合もある。

概要

稟議書(起案書)に押された印影。稟議書では、承認の印に印章を押す。
印章の材質としては、木、水晶、金属、石のほか、動物の角、牙などが用いられ、近年[いつ?]は合成樹脂も用いられる。これらの素材を印材と呼ぶ。印材の特定の面に、希望する印影の対称となる彫刻を施し、その面に朱肉、印泥またはインクを付け、対象物に押し付けることで、特有の痕跡を示すことができる。この痕跡を印影と呼ぶ。印章を押すことを、押印(おういん)、捺印(なついん)、押捺(おうなつ)という。
現代で用いられる印章の種類を大別すれば、証明のために用いられる生活・実用品としての印章と、篆刻のように印影を趣味や芸術として鑑賞するための印章に分けられる。古代においては印章そのものを宗教的な護符として尊重した時代もあり、現代においても開運商法の商材としての印章では印材の超自然的な効用が重視されることもあるが、宗教的な意味を失った印章では専ら印章そのものよりも、押されたときに印影として現れる内容が重視される。文明の発祥と共に生まれ、世界各地で独自の発展を遂げた印章の歴史の中ではさまざまな形態のものが作られたが、文字に芸術性を見いだす表現性を持った漢字文化圏や古代エジプトでは専ら印影(印面)に文字が用いられ、楔形文字を用いる古代メソポタミアや古代ペルシアなどでは絵画的な図案を用いる版画のような印章が用いられた。現代日本における実用印では、印影(印面)には文字(印字)が使用され、漢字を用いる場合の書体には篆書体、楷書体、隷書体が好まれる。印字は、偽造を難しくしたり、偽造防止のため、既存の書体によらない自作の印を使う者もいる[要ページ番号]。
印章文化圏は、日本、中国、香港、マカオ、台湾、韓国、北朝鮮、ベトナム、インドネシア、ラオス、マレーシア、シンガポールなどに広がっている[要ページ番号]。ただし、以上の地域ではサインも用いられる[要ページ番号]。日本の印章は古くは中国から伝来したものだが、その用法は伝来した当時から中国のそれとは異なっており、江戸時代から現代にかけては中国やその他のアジア諸国とも様相の異なる、「ハンコ社会」や「ハンコ文化」などと形容される日本独自の印章文化が社会に根ざしている。一方の中国では印章の歴史は日本より長いものの、身近な日用品としての印章はほとんど民間に定着しなかったが、書道などの芸術と結びついて独自の印章文化が形成された。ヨーロッパ文化圏ではかつて印章が広く使用された時代もあったが、19世紀頃から廃れて使われなくなり、印章ではなくサインが用いられる。
現代日本で生活・実用品として用いられる印章は、市町村に登録した実印、金融機関に登録された銀行印、届け出を必要としない認印の3種類に大別され、そこから更に細分化することができる。2000年の電子署名法の施行によって、近年では文書の電子化に伴い電子印鑑も登場している。 一部金融業などの業界では上司に申請する際に、「控えめにお辞儀」するように斜めに押すといった独自の習慣も生まれ、「封建の名残で前時代的な悪習」とのネット上の批判もあったが、一方で左に傾けた場合も『右肩が上がる』という縁起の良さを感じるという向きもあるようである。

語源
日本語の「印章」という単語の語原は中国の秦や漢の時代に遡る。それ以前の時代において印章は「鉥」(じ)と呼ばれていたが、秦の始皇帝は、皇帝が持つもののみを「璽」(じ)、臣下の持つものは「印」と呼ぶよう定義し、更に後の漢時代になると丞相や大将軍の持つものは「章」と呼ばれるようになった。これら印と章を総称するものとして「印章」という単語が生まれた。
ハンコの語原は「版行」で、後に当て字で「判子」とも表記されるようになった。
英語におけるsealをはじめ、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語で印章を意味する語は、ラテン語の単語であるsigillumを語原としている。またsigillumは、しるしを意味するラテン語signumから派生した単語である。

山梨県
山梨県指定の伝統工芸品
甲州貴石細工
甲州印伝
甲州雨畑硯
甲州大石紬
甲州手彫印章
甲州武者のぼり・鯉のぼり
西島手漉和紙
親子だるま
甲州鬼瓦
市川大門手漉和紙
山梨貴宝石
富士勝山スズ竹工芸品

高遠焼は長野県高遠町(現伊那市)にて焼かれる陶器。文化9年(1812)年に城内に水を引くための土管を焼かせるために窯を開いたのが始まり。その後は御庭焼として重宝された。明治10年に衰退、昭和初期に一旦廃窯の憂き目に遭うが、昭和50年に陶工、唐木米之助が復興させた。
高遠焼の特徴は釉薬にあり、特に原料の粘土が赤土であるために彩りを出すため釉薬を二重掛けしているのが特徴。使用される釉薬は緑釉に白釉、深い青を出す瑠璃釉、そして高遠名物のコヒガンザクラに因んだ桜色の桜釉も使われる。 現在では登窯も使用し、年に一回焼かれている。

松代焼(まつしろやき)は長野県長野市松代地区で焼かれる陶器である。
松代は真田氏の城下町として名を馳せ、藩の御用窯として栄えた。歴史は寛政の初め頃、唐津で修行を積んだ嘉平次という陶工が開窯し、藍甕を焼いたのが始まりである。後の文化13年には松代藩の藩窯として松代焼を奨励した。その時には嘉平次窯を買収し、京都から陶工を招いて焼かせた寺尾焼、信楽から陶工を招いた天王山焼、また常滑から陶工を招いた荒神町焼、代官町焼などが生まれた。主に生活陶器を焼いていたが、安価で大量生産が行われていた伊万里焼や瀬戸焼に圧され、いずれも大正末期~昭和初期までに全てが廃窯となった。もっとも当時は松代焼という呼び名はなく、廃窯の後に京都の陶工である内島北郎が研究の過程で名付けたものである。
現在の松代焼は1972年(昭和47年)に復興されたものであり、当時から残されていた陶器の欠片と資料を参考に再生している。北信地方を代表する窯場となり、21世紀においても製作を続けている。松代焼の特徴は青味を帯びた器肌と豪快に流された青緑色の釉薬にある。青味を帯びるのは、陶土に鉄分を持っているため。緑色の釉薬は松代焼独特のもので、銅を混ぜることによって陶土と反応させ、独特の光沢が生まれるといわれる。

尾林焼
天竜峡焼

宮入行平(みやいり ゆきひら、1913年(大正2年)3月17日 – 1977年(昭和52年)11月24日)は、長野県坂城町の刀匠。本名は、宮入堅一。息子は俳人の宮入聖と刀匠の宮入小左衛門行平(宮入恵)。弟の宮入清宗、その子の宮入法廣も刀匠である。
祖父の代からの鍛冶屋であった。刀匠を志して、高等小学校卒業後、1937年に上京し、栗原彦三郎昭秀の日本刀鍛錬所に入所し、1940年日本刀匠協会展で文部大臣賞を受賞。刀匠名を昭平とする。第二次世界大戦中、伊勢神宮式年遷宮御太刀を制作。1945年に空襲を避け帰郷、以後は1955年日本美術刀剣保存協会の第一回美術審査会で特賞を受賞すると、以後五回連続で入賞した。1963年重要無形文化財保持者(工芸第45号)(いわゆる人間国宝)に認定される。1973年に刀匠名を行平と改めた。鎌倉時代の志津兼氏や、同郷の山浦清麿の作刀を研究した。
弟子に高橋次平、大隅俊平、河内國平、大久保和平、渡邊繁平、藤安将平、上林恒平らがいる。

宮入法廣氏は、昭和31年(1956年)、刀匠宮入清宗氏の長男として長野県坂城町に生まれました。人間国宝の故宮入行平氏は清宗氏の兄であり、法廣氏にとっては伯父にあたります。
法 廣氏は昭和53年(1978年)、國學院大學文学部を卒業後、石川県松任市(現:白山市)在住の人間国宝隅谷正峯氏に師事し、5年間の修行を経て昭和58 年(1983年)に独立し、平成7年(1995年)まで坂城町において父清宗氏とともに作刀に専念しました。平成8年(1996年)に旧北御牧村八重原に 鍛刀道場を構えて現在に至っています。

昭和58年(1983年)の「新作名刀展」(コンクール)に初出品後、特別賞8回・優秀賞4回・ 「新作小品展」特別賞6回・優秀賞5回をそれぞれ受賞しました。平成7年(1995年)12月には、39歳という最年少で新作名刀無鑑査の認定を受けると ともに、旧北御牧村無形文化財に指定されました。
作風は、師伝の備前伝を得意としています。備前伝とは、備前長船(現:岡山県瀬戸内市)を中心として栄えた刀鍛冶の作風で、優美な刀の形と刃紋の華やかさが大きな特色であります。郷土の名工山浦真雄・清麿兄弟も、最初は備前伝を学んでいます。
また、正倉院に伝わる刀子(とうす)の復元を手がけ、独特の作風を展開しています。刀子とは奈良時代の小刀で、外装にさまざまな意匠をほどこし、貴族の間では御護りとして用いられていたものです。

平成14年(2002年)から16年(2004年)にかけて、高円宮憲仁親王殿下の三女王様の御護短刀を謹作、高円宮憲仁親王妃久子様に刀子を献上しています。
平成15年(2003年)には横綱朝青龍関の土俵入り太刀を製作、平成17年(2004年)には伊勢神宮式年遷宮式御神宝の直刀製作を拝命しています。翌年には、東御市発足に伴い、東御市無形民俗文化財に指定されました。
平成23年(2011年)には、日本刀制作技術として、長野県無形文化財に指定され、その保持者として認定されました。

昭和2年、長野県に生まれた松井康成は、30歳で茨城県笠間市にある月崇寺(げっそうじ)の住職となり、中国や日本の古陶磁研究ののち、練上の技法に絞って試行錯誤を重ね、独自の表現世界を創造しました。種類の異なる土の組み合わせは、収縮率などの違いから破損しやすいため、基本となる土を同じものとし、そこに少量でも鮮やかに発色する呈色剤を混ぜる「同根異色」の方法により、練上による表現の可能性を格段に拡げました。

上のような人間国宝作家の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

曲物(まげもの・わげもの)は、檜・杉などの薄く削り取った材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。曲物を作る職人を曲物師、特に曲げ職人を曲師という。

歴史
曲物は、古代より日用品として使用されていたといわれる。
その例として、例えば平安時代から鎌倉時代の絵画である「扇面古写経」・「鳥獣人物戯画」・「信貴山縁起絵巻」・「男衾三郎絵詞」・「北野天神縁起(弘安本)」・「東北院職人歌合絵巻」などには「桶」が描かれており、絵画の制作年代から類推して、この「桶」は鎌倉時代以降に作られた結桶ではなく曲桶であり、曲物の「桶」が遅くても平安時代以降には日用的に使用されていたとされている。
また古来、曲物はこの「桶」の他に「井筒」としても使用されたといわれる。曲物井筒と呼ばれるもので、井戸の内壁に曲物を施し、側壁が崩れないようにした。井筒は野面積みの石垣などが多く用いられるが、古代は木材を使用しており、曲物井筒もその方法の一つとして古代から用いられたとされる。例として、石川県寺家遺跡や高座遺跡の例(中世期)や秋田県洲崎遺跡(13世紀末)、岩手県落合遺跡(鎌倉時代)などがある。
古代遺跡の発掘調査の結果、曲げ物が出土した例を以下に列挙する。
島根県の出雲国国府の発掘調査:奈良時代の祭祀遺構として、井戸から曲物容器が出土。
鳥取県の青谷上寺地遺跡の発掘調査:曲物の他、幾種の木工品が出土。
青森県八戸市の是川中居遺跡の発掘調査:出土した「漆塗り樹皮製容器」について、同市教育委員会は約3,000年前の縄文時代晩期初めごろの「漆塗りふた付き曲げ物」であると評価。
奈良県奈良市の平城宮遺跡の発掘調査:井戸から曲物容器が出土。
時代の経過とともに、これらの曲物は「桶」における「結桶」や「井筒」における「石垣」などの登場によって廃れていったが、江戸時代以降も弁当箱や膳、盆、菓子器、華器、茶道用器などに利用され、現在も少なからず生産されている。

お六櫛(おろくぐし)とは、長野県木曽郡木祖村薮原で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。梳き櫛。(整髪具の櫛には、髪を梳かす梳き櫛と、髪に飾る挿し櫛などがある。)
その名は、大きさが六寸だったからという説など諸説あるが、最も有名なものは、お六説。

歴史
元禄年間(1688年 – 1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになった。
1982年10月21日 – 長野県知事伝統的工芸品に指定。

秋山木鉢(あきやまきばち)は、長野県下水内郡栄村で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。地元で算出される栃の大径木を用いた木鉢で、50cmを超える物も生産される。
日用品としてそばやうどんを練るときに用いられる。粉が貼り付かないよう内側には前鉋による浅い筋がついている。

江戸時代末期頃から生産されてきた。
1983年10月13日 – 長野県知事伝統的工芸品に指定。

信州紬(しんしゅうつむぎ)は、長野県全域で生産される織物で、1975年2月17日に、経済産業省(当時の通商産業省)から伝統的工芸品として指定された。 生産する地域によって、「松本紬」、「上田紬」、「飯田紬」、「伊那紬」、「山繭紬」などと呼ばれており、これらを総称して「信州紬」と呼んでいる。
産地組合は長野県織物工業組合である。

歴史
江戸時代の初期には、各藩の産業政策として養蚕を奨励していた。信濃(現在の長野県)では各地で養蚕が行われており、屑繭を原料とする紬は原料生産地がそのまま織物生産地となった。1750年(寛延3年)8月に京都に出荷されて以来、明治に至るまで毎年のように出荷されることとなった。特に上田のものが有名で井原西鶴『日本永代蔵』などの文芸作品に登場している。
信濃では、草木染め材が豊富に自生していたことから、養蚕と併せて草木染めの技法も普及した。
その後、昭和の中期までは技術保存の名目で細々と技術伝承がされてきただけであったが、戦後、紬織物の復興により、県を始めとする自治体の振興策により、県下全域に亘り活発な生産が行われ、現在に至っている。
伝統的な技術・技法
かすり織物、しま織物又はこれに類する織物は次の技術、技法により製織すること。
先染めの平織りとすること。
たて糸に使用する糸は生糸(山繭系を含む。)、玉糸又は真綿の手つむぎ糸とし、よこ糸に使用する糸は玉糸又は真綿の手つむぎ糸とすること。
よこ糸の打ち込みには、「手投杼」を用いること。
かすり糸の染色法は、「手くくり」によること。

曲物
蘭檜笠
お六櫛
木曽材木工芸品
長野県農民美術
白樺工芸品
軽井沢彫
秋山木鉢
桐下駄
信州竹細工
信州鋸
あけび蔓細工
信州手描友禅
龍渓硯
信州紬

人間国宝 玉川宣夫 経歴

1942年(昭和17年) 新潟県下田村生まれ。
1955年(昭和30年) 玉川堂五代目・玉川覚平の次男へ移籍
1959年(昭和34年) 秋田市立工芸学校を卒業後、玉川堂に入社。
1963年(昭和38年) 上京、人間国宝・関谷四郎氏に師事し、内弟子として2年間修業。
1969年(昭和44年) 日本伝統工芸展に初入選。
1982年(昭和57年) 日本伝統工芸展「NHK会長賞」受賞。文化庁お買い上げ。
1986年(昭和61年) 日本伝統工芸展「東京都知事賞」受賞。
1991年(平成 3年) 北欧巡回「伝統工芸名品展」に選抜出展
1997年(平成 9年) 初個展を開催。以降、5回開催。
2002年(平成14年) 芸術文化功績により「紫綬褒章」受章
同年、正倉院宝物「銀燻炉」の復元に貢献。
2005年(平成17年) ポーラ伝統文化振興財団主催「第25回伝統工芸ポーラ賞」受賞。
同年、新潟県燕市「芸術特別」表彰。
2006年(平成18年) 第1回新潟県伝統工芸展「大賞」受賞。
2010年(平成22年) 「重要無形文化財保持者(人間国宝)」認定。
同年10月5日、「燕市名誉市民」受称。

玉川堂

玉川堂(ぎょくせんどう)は、日本の金属加工業者の1つである。日本国内の地場産業として有名な新潟県燕市の金属加工業の中でも唯一、1枚の銅板を鎚で叩き起こして銅器を製作する「鎚起銅器」(ついきどうき)の伝統技術を二百年弱に渡って継承している老舗企業。銅に多彩な着色を施す技術は、世界でも玉川堂のみが保有している。世界最高品質の銅器を製造し、世界中に顧客を持つ。商号は「株式会社玉川堂」(GYOKUSENDO Co., Ltd. )。
ルイヴィトングループで、シャンパンの帝王と称されるクリュッグの六代目当主オリヴィエ・クリュッグと玉川堂七代目当主玉川基行が意気投合し、コラボレーションとしてクリュッグオリジナルのボトルクーラーを共同開発。仏日の高級レストランやバーで使用されるなど、日本の伝統工芸老舗企業としては稀な世界的ブランド認知の高さを誇る。

天田 昭次氏

天田昭次 ( あまた・あきつぐ ) 略譜本名 天田誠一現住所 新潟県新発田市月岡昭和2年8月4日 天田貞吉の長男として本田村本田 ( 現・新発田市 ) に出生
昭和15年3月 上京し、日本刀鍛錬伝習所 (所長・栗原彦三郎昭秀) に入門

昭和27年 講和記念刀を製作
伊勢神宮式年遷宮御神宝大刀製作に宮入昭平刀匠の助手として奉仕

昭和29年6月8日 文化財保護委員会より製作承認を受ける

昭和30年 第1回作刀技術発表会に出品、優秀賞を受賞

昭和32年 第3回作刀技術発表会に出品、優秀賞を受賞

昭和33年 第4回作刀技術発表会に出品、優秀賞を受賞

昭和34年 現状の作刀に疑問を感じ、自家製鉄の本格的研究を開始

昭和35年 闘病生活に入る

昭和43年 快復して作刀を再開。現住所に自宅・鍛刀所・製鉄所を移転
自家製鉄による作品を第4回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞

昭和44年 第5回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞

昭和45年 第6回新作名刀展に出品、名誉会長賞を受賞

昭和46年 第7回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞

昭和47年 第8回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞。同展無鑑査に認定される
新潟日報文化賞を受賞
小形製鉄炉の研究で財団法人日本美術刀剣保存協会より第1回薫山賞を受賞

昭和48年 伊勢神宮式年遷宮御神宝大刀を製作奉仕
第9回新作名刀展に無鑑査出品。以後現在まで無鑑査出品
地元真木山遺跡の発掘・調査に際して指導と助言に当たる

昭和49年 新横綱北の湖の土俵入りの太刀を製作

昭和50年 新作名刀展審査員に任命される。以後現在まで審査員を務める

昭和51年 長谷川熊彦・芹沢正雄両氏と「自然通風炉による古代製鉄法復元実験」を共同研究、『鉄と鋼』に成果を発表

昭和52年 第13回新作名刀展に無鑑査出品、正宗賞を受賞
全日本刀匠会副理事長に就任

昭和53年3月14日 豊浦町無形文化財に指定される
3月30日 新潟県無形文化財に指定される

昭和60年 第21回新作名刀展に無鑑査出品、正宗賞を受賞

昭和61年11月 新潟大和にて「天田昭次作品展」を開催

昭和62年10月  第1回新作短刀小品展 (小刀の部) に出品、特選となる
〃      日本橋三越本店にて「天田昭次作刀展」個展を開催

昭和63年  文化庁主催美術刀剣刀匠技術保存研修会講師に任命される

平成2年   全日本刀匠会理事長に就任

平成3年  月岡カリオンパーク内 カリオン文化館(刀剣伝承館) 専用展示コーナー開設

平成4年  伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀を製作奉仕

平成7年  全日本刀匠会理事長を退任し、顧問に就任
財団法人日本美術刀剣保存協会理事長を退任

平成8年  新作刀展覧会に無鑑査出品、3度目の正宗賞を受賞

平成9年5月23日  重要無形文化財保持者 (人間国宝) に認定される

平成9年8月24日  豊浦町名誉町民の称号と町民章を授与される

平成11年11月   勲四等旭日小綬章を受章

平成15年7月  新発田市名誉市民の称号を贈られる

平成16年  新発田城復元完成記念太刀製作
新発田総鎮守諏訪神社 御神宝太刀製作

平成17年  伊勢神宮式年遷宮 御神宝太刀製作奉仕
新潟市歴史博物館・新潟日報社共催により、新潟市歴史博物館において
「人間国宝 天田昭次 鉄と日本刀展」開催
新潟県災害復興祈念「剣銘・不動丸」製作、県に贈呈

平成18年  横浜高島屋ギャラリー8階 NHK横浜開局80周年記念・重要無形文化財制度50年記念
「人間国宝展」において、脇差1作品を参考出品
新作刀展覧会 無鑑査出品

秋篠宮悠仁親王殿下 御守刀謹作
平成19年  新作刀展覧会 無鑑査出品, 文化庁主催「重要無形文化財 ・日本の技と美」展へ出品

財団法人 日本美術刀剣保存協会理事を退任

全日本刀匠会主催 第2回 お守り刀展覧会へ参考出品

平成20年  全日本刀匠会主催 第3回 お守り刀展覧会へ参考出品

〃  「千年の技と心 現代日本刀秀作展」へ参考出品

平成21年  〃  「現代日本刀秀作展」へ参考出品

新潟日報社 主催 「新潟が生んだ人間国宝展」(旧 大和新潟デパート特設会場)出品

トキめき 新潟国体 秋篠宮殿下同妃殿下より、カリオン文化館(刀剣伝承館)ご視察

平成22年  民主政権・内閣府認定・公益財団法人 日本刀文化振興協会・理事長を就任(約2年)

平成24年  〃  日本刀文化振興協会理事長を退任

平成25年  第62回 伊勢神宮 式年遷宮御神宝太刀を製作奉仕

平成25年6月26日 肺炎のため逝去

平成25年8月5日 新発田市主催 (教育委員会・式典 秘書広報課 ・観光振興課)

伊藤赤水
伊藤赤水(いとう せきすい)は日本の陶芸家であり、江戸後期から続く無名異焼窯元、赤水窯の代々が襲名する名称。弘化(1844年−1847年)に先祖にあたる伊藤甚兵衛が、佐渡特有の「無名異」と呼ばれる土を作陶に用いたのが無名異焼の創始である。2006年現在、五代伊藤赤水(1941年6月24日 – )が当代であり、2003年に人間国宝に認定されている。

五代略歴
新潟県佐渡郡出身。四代目赤水の長男として生まれた。本名は窯一。1966年に京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科を卒業後、三代である祖父に師事し無名異焼の技術を学ぶ。1972年に日本伝統工芸展に入選。以降、日本陶芸展、伝統工芸新作展等に入選。1976年に五代赤水を襲名。更なる技法の研究と錬磨につとめた。
1981年米国国立スミソニアン博物館、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館で開催された「日本現代陶芸展」に招待出品され、世界的にもその名が知られることとなる。1985年、日本陶芸展で最優秀作品賞である秩父宮賜杯を受賞。
1993年には、皇太子妃の成婚を祝し、新潟県から皇太子妃の実家である小和田家へ「無名異窯変壺」が祝い品として寄贈された。
2003年7月10日、工芸技術としての「無名異焼」が重要無形文化財に指定され、その保持者(いわゆる人間国宝)として伊藤赤水が認定された。色の違う土を重ねて巻きずしのようなものを作り、それを輪切りにした断面を並べて皿や壺の形を作る「練り上げ」という技法を用いる。独特な縞模様や花紋が伊藤赤水の特色である

市川正美 Masami Ichikawa

分野:金工
拠点:新潟県燕市
【略歴】
1948 新潟県分水町に生まれる
1981 彫金作家・鹿島一谷(人間国宝)に師事
1990 伝統工芸新作展「東京都教育委員会賞」受賞
1993 美術工芸振興佐藤基金「淡水翁賞」受賞
1994 日本金工展「東京都教育委員会賞」受賞
1999 伝統工芸新作展「東京都教育委員会賞」受賞
2002 正倉院宝物銀薫炉復元(彫金)
日本伝統工芸展「日本工芸会会長賞」受賞
2007 日本伝統工芸新作展「東日本支部賞」受賞
2008 日本伝統工芸展「日本工芸会奨励賞」受賞

佐々木象堂 ささき しょうどう

1882-1961 明治-昭和時代の鋳金家。
明治15年3月14日生まれ。初代宮田藍堂に蝋型(ろうがた)鋳造をまなび,工芸済々会に入会。帝展で「鋳銀孔雀(くじゃく)香炉」「金銅鳳凰(ほうおう)置物」が特選となる。戦後,日本伝統工芸展に出品。昭和35年人間国宝。昭和36年1月26日死去。78歳。新潟県出身。本名は文蔵

無名異焼
庵地焼
村松焼

無名異焼
無名異焼(むみょういやき)は、新潟県佐渡市で焼かれる陶器。
無名異とは酸化鉄を含有する赤土で、止血のための漢方薬でもあった。また、佐渡金山採掘の際に出土したため、その副産物を陶土に利用して焼かれた。文政2年に伊藤甚平が無名異を使って楽焼を焼いたのが始まりで、安政4年に伊藤富太郎が本格化させた。後に初代三浦常山が脆かった従来品を強くするため、朱紫泥焼の手法を編み出し、今日に至る。高温で焼き締めるために非常に固く、叩くと金属音のような音を出すのが特徴。2003年に重要無形文化財の指定を受け、同時に5代伊藤赤水が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
なお、無名異焼は佐渡以外にも、石見などで焼かれている。

庵地焼
庵地焼(あんちやき)は、新潟県阿賀野市保田、通称庵地(あんち)地区で焼かれている陶器である。
「庵地の黒」といわれるほど、黒色の釉薬に特徴がある。元々は江戸時代から続く“保田焼”(現在の「安田焼」とは異なる)が前身で、同地には昭和の初期、村山、旗野、田村、井上の諸窯があったが、旗野窯を除く各窯は第二次世界大戦を前後に絶えた。旗野窯は、1878年(明治11年)に村松焼(現五泉市)で修業した旗野直太郎が起こした窯で、甕、鉢、皿、碗、徳利、片口などの食器のほか、湯たんぽ、火鉢、植木鉢などの雑器を焼いた。旗野嘉山(嘉一)が継承し、3代目の旗野義山(義夫)が研鑽努力し民芸窯としての地歩を固めた。義山没後は実子の三姉妹が継いだ。
昭和初期には宮之原謙や佐々木象堂らが滞在して秀作を生み、その名が全国に響き渡った経歴を持つ。また、近年では2005年に津村節子が同窯をモデルに小説『土恋』を発表、話題をよんだ。

村松焼

村松焼(むらまつやき)は、天保12年(1841年)から明治25年(1892年)まで新潟県の村松藩の城下町村松(現・新潟県五泉市)で焼かれた陶器。天保13年(1842年)から文久2年(1862年)までの間、三回ほど藩営釜であった。製品はほとんど陶器であるが一部半磁器質も作られている。商品の主体は各種の日用品である。

越後与板打刃物のあゆみ
● 410年くらい前
上杉謙信の四天王の一人、直江大和守実網が上越の春日山より、刀剣師を連れてきた時から刃物作りが始まったと言われています。

● 350年くらい前
徳川時代には城下町として、信濃川を利用する船便の港として栄えました。このころ、与板の大工道具は土肥のみ、兵部のみとして世に知れわたりました。

● 10年くらい前
昭和61年3月12日 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。指定品目は「かんな」「のみ」「まさかり」「ちょうな」です
■ 越後与板打刃物がさかんになったわけ
● 信濃川を利用する船便の港として栄えたとともに、豪商が全国各地に販売しました。

● 戦国時代からの刀かじが「刀剣」を作っていました。その技術が認められ、よくきれることで有名になりました。
■ 越後与板打刃物の原料
● 鉄(地金)

● 鋼

● 接合剤*
■ 越後与板打刃物(かんな)ができるまで
● 鍛造
鉄の地作り→接合剤を塗る→鋼をのせる→炉の中で加熱→スプリングハンマーでたたいて接合→切断→刃先、頭部分の形を整える→わら灰の中に一晩入れる

● 仕上げ
表面をみがく→刻印を打つ→模様をつける→くるいを取る→寸法を決める→鋼部分をみがく→全体にボカシを入れる

● 焼き入れ
800度に熱したかんなを水の中へ入れて冷やす。鋼が刃金になる。

● 焼き戻し
焼き入れの終わったかんなを油(170度位)の中で1時間位煮る。
■ 越後与板打刃物の課題と努力
● 後継者を育てるのに苦労しています。

● 高齢者が多い。平均年齢50才以上です。若い労働力を求めるために、平成9年4月をめどに労働時間を短縮し、週40時間にします。

● 販売を促進するため、各地で製造実演会を開催しています。

● 新製品の開発に力をいれています

燕鎚起銅器のあゆみ
● 220年くらい前
仙台より藤七という渡り職人が鎚起術を伝えました。(1764年~1771年頃)

● 190年くらい前
初代玉川覚兵衛は、やかん類の製造を始め、燕銅器の基礎を築きました。(1804年~1817年)

● 120年くらい前(明治時代)
三代目覚平の頃、京都をはじめ各地との技術交流が進み、日常銅器から美術工芸品として、国内外の博覧会に出品し受賞しました。四代目覚平が彫金や口打ち出し技法を開発し、美術工芸品としてさらに発展しました。

● 60年くらい前(昭和初期)
五代目覚平は昭和5年、横浜に工場を設けて、都内のデパートなどへ製品を販売しました。しかし、第二次世界大戦により一時かいめつ状態となりました。

● 40年くらい前
昭和33年「新潟県無形文化財」の指定を受けました。

● 15年くらい前
昭和55年、文化庁より「記録作成等の措置を構ずべき無形文化財」の指定を受けました。
昭和56年、六代目政男は二百年以上にわたる業を受け継ぎ、「燕・分水銅器協同組合」をつくり、6月に通商産業大臣より「伝統的工芸品 」の指定を受けました。
■ 燕鎚起銅器がさかんになったわけ
● 燕地方は江戸時代初期、和釘の産地として知られ、中期以降、銅器、キセル、ヤスリ、矢立の金工技術が次々に入ってきて、現在では、洋食器など世界的な金属製品の産地となっています。

● 近くに弥彦間瀬銅山(江戸時代末~大正年間)があり、素材となる銅が手に入りやすかったからです。
■ 燕鎚起銅器の原料
● 銅板
■ 燕鎚起銅器のできるまで
● 地金取り
製品の大きさを考え、銅板を目的の寸法に切り取ります。

● 打ち落し
へこんだ木台に材料を置き、回しながら打ち込みます。

● 打ち絞り
完成した形を想像しながら、側面を打ち縮めます。 側面が絞られるとその分高く立体的になります。

● 焼鈍し
650度位に熱して、銅を柔らかくします。

● 荒均し
形が出来上がったら、もう一度全体を打ち、むらやひずみをとります。

● 表面合金
製品の模様によって表面に錫を焼き付けます。

● 均し作業
たたいて銅板の鎚目を美しくならべます。

● 彫金
タガネを使い細かな模様を描き、彫り、打ち出します。

● 着色みがき
赤色系も黒色系も1個1個ていねいにみがきあげます。

つるの取り付けの紹介
■ 燕鎚起銅器の課題と努力
●鎚起を作っている職人さんのお話

鎚起銅器の仕事は特別な技術を必要とするために、最初の2、3年は見習いです。
「一人前になりたいなら、ほかのだれよりもいっぱい仕事をして体でおぼえろ」と言われました。つちを打つ力かげんは口では説明できないものがあるからです。
そそぎ口まで打ち上げる水さしをつくるのに3日から5日くらいかかります。ただ打つだけなら1年目の職人だってできますが、注文どおりの品物を図面もなしにつくりあげるには15年以上はかかります。
今までできなかった所ができるようになったときは言葉ではいいつくせないほどうれしいものです。おおぜいの若い人たちにこの仕事をおぼえてほしいと思っています。

●若い職人さんのお話

鎚起銅器の仕事は前から知っていました。どちらかと言えば好きで入った仕事です。この仕事はこれでいいというようなものではなくて、自分の技を高めていくためにきりのないところがあります。皿のような平たい物から修行を始め、早くやかんのようなむずかしい物が作られるようになりたいとがんばっています。
最初に基本的な仕事の方法は教えてもらえますが、後は、ほとんど教えてもらえません。むずかしいですがやりがいがあります。
●悩みについてインタビュー

●仕事上でどんな工夫をしていますか?
■ これからの課題
● 昭和初期までは、銅器製品には鍋、釜、やかん、火鉢、金ダライなどいろいろな物があり、銅器は貴重な日常の生活用具(実用品)でした。しかし、今の時代は、そうした物がだんだん使われなくなってきています。このことにより、昔からの燕の鎚起銅器の職人が少なくなってきました。(後継者不足)

● 鎚起銅器は実用品としてだけではなく、美術工芸品としての価値も高めていくことが求められています。
毎日の仕事はすわりっぱなしで大変なところもありますが、早く一人前の職人になりたいと思います。

塩沢紬のあゆみ
● 1200年くらい前
紬の技術のもとになった「越後上布」が作られ始めました。

● 230年くらい前(江戸時代の中頃)
越後上布の技術を絹織物に応用した塩沢紬が誕生しました。(1764~1771年ころ)

● 80年くらい前(大正時代)
この頃から麻織物より生産量が多くなってきました。

● 60年くらい前
戦争によって、ぜいたく品だとして生産が制限されました。(昭和10年代)

● 40年くらい前
昭和24年、塩沢織物工業協同組合がつくられ、商品化が進められるようになりました。

● 20年くらい前
昭和50年2月、通産省から伝統的工芸品に指定されました。
■ 塩沢紬がさかんになったわけ
● 冬のしめった空気が機織りに適していました。(糸が切れにくくなります。)

● 古い時代から越後上布を作り続けてきた織物の技術がありました。

● 雪が多く降る冬の間は、機織りは収入を得るための数少ない仕事でした。

● 昔は養さん が広く行われ、絹糸の原料になるカイコのまゆがかんたんに手に入りました。
■ 塩沢紬の原料
● 紬は、絹織物なので、かいこのまゆから作る絹糸が原料ですが、主に次の2種類の糸が使われます。

「真綿手紡糸」

「生糸 」

● どちらの糸も、現在では地元のものがほとんど手に入らないため、主に群馬県で生産され、六日町の糸専門店が仕入れたものを使っています。
■ 塩沢紬のできるまで
● 図案・設計
かすり模様のデザインなどを決めます。

● 撚糸
地のたて糸と横糸、かすり模様のたて糸と横糸ごとに糸をより合わせます。

● 染色
糸のよごれを落とし、図案の色になるよう染料で煮ながら染めます。

● かすり作り
たて糸と横糸に印を付け、「手くくり」や
「手すり込み」などの技法で、図案通りの模様が出てくるように色を付けたり、調整したりします。

● 機巻き
図案に合わせて、それぞれのたて糸と横糸の位置を正しながら固く巻き上げていきます。

● 機織り
たてのかすりと横のかすり模様をていねいに合わせて織り上げます。「出ばた 」でも行われます。(15日~20日位かかる。)

● 仕上げ
よごれを落としたり、布幅を決められた長さに整えたりしてから巻き上げます。

● 検査
組合の検査員が品質をきびしく調べます。

● 完成
合格したものに証票がはられて塩沢紬の製品となります。
■ 塩沢紬の課題と努力
課題

● 生活様式が変化し、着物を着ることが少なくなったため、注文が減ってきています。

● 製品を買う問屋が塩沢町から遠い東京や関西方面にかたよっています。
● 技術を受けつぐ、若い人が少なくなっています。

努力

● 協同組合を作って、製品を検査したり品質を高めたりするための研究や新製品の開発をしています。また、人材の育成にも取り組んでいます。
● 伝統的な模様や色合いを守りながらも、現代の生活に合った図案やデザインを工夫しています。

● 塩沢紬を使った人形や洋服、ネクタイ、日用小物を開発したり、展示会を行ったりして紬のよさを宣伝しています。

● 織物会館を建設して、織物の紹介を積極的に行っています。

加茂桐箪笥のあゆみ
●  190年くらい前
丸屋小衛門という人が大工のかたわら杉の木で箪笥を造ったのが始まりと言われています。

●  120年くらい前
桐箪笥の生産量年間400棹と加茂町資料に記されています。箪笥産地を作り始めました。

●  100年くらい前
加茂箪笥組合が結成されました。組合員14社。

●  40年くらい前
お年玉年賀はがきの特賞に加茂箪笥が採用されました。(700棹)

●  20年くらい前
昭和51年12月 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

■ 加茂桐箪笥がさかんになったわけ
●  加茂市は三方を山にかこまれた雨の多い土地で良質の天然桐が豊富にありました。

●  新潟港に近く海運にも恵まれ、製品の輸送に便利でした。また、上越線で東京まで通じていることも忘れることはできません。
■ 加茂桐箪笥の原料
●  木材・・・桐 (新潟、福島、秋田産、中国、北アメリカ産)

●  くぎ・・・ウツギ製の木くぎと竹くぎを使用。

●  金具・・・銅、銅合金、鉄を使用。
■ 加茂桐箪笥のできるまで
●  原木裁断

●  製材

●  板干し

●  板切

●  板組

●  本体の組接ぎ

●  組立

●  仕上げ

●  引出し加工

●  組立仕上げ

●  塗装

●  金具つけ

●  完成

■ 加茂桐箪笥の課題と努力
●  後継者の育成が困難です。仕事ができるようになるまでに、長い年月がかかります。また、若い労働者を求めるのに苦労しています。

●  各会社ごとに、若い労働者を育てるために研修会などを開催しています。

●  国(労働省・通産省)の助成金(3年間)を受けて、働きやすい職場環境を作りだし、求人活動に取り組んでいます。

■ 三条仏壇のあゆみ
● 300年くらい前
東別院の建立のとき、京都からの宮大工、指物師、塗師、金具師の指導のもとに三条の職人が多数参加しました。このころから、仏壇の製造が開始されたと言われています。

● 95年くらい前
1899年の「工業県税納者調」には、「仏壇職」「仏壇商」「金具職」「塗物職」として、多くの人名があげられています。古くから三条の地域で仏壇の製造がさかんに行われていたことを示しています。

● 15年くらい前
昭和55年10月 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。生産地域は三条市、燕市、巻町、分水町、吉田町、岩室村です。
■ 三条仏壇がさかんになったわけ
●東別院を中心とした浄土真宗の広まりとともに、仏壇づくりがさかんになりました。

●信濃川が流れており、交通の便がよく、原材料や製品の輸送につごうがよかったからです。

●金物職人の町であったため、仏壇づくりに必要な道具類が集めやすかったからです。
■ 長岡仏壇の原料を参考にすると
● 木地・・・・・・姫小松、ホオ、ケヤキ、ヒノキ、ヒバなど。

● 金具・・・・・・銅、真ちゅう

● 塗り、まき絵・・天然漆、金箔

● その他・・・・・和紙、胡粉、金銀粉、顔料、にかわなど。
■ 長岡仏壇のできるまでを参考にすると
● 木地づくり

● 彫刻

● 塗装

● まき絵

● 金箔おし

● 金具づくり

● 組み立て

● 完成

■ 三条仏壇の課題と努力
● 後継者を育てるのに苦労しています。

● 働く環境を整備し、また、賃金を安定させるよう努力しています。

十日町絣のあゆみ
●  1500年前ごろ
馬場上遺跡から紡錘車(糸によりをかける道具)が見つかりました。

●  300年前ころ
江戸幕府は、越後縮を武士の式服にさだめました。

●  125年くらい前(明治のはじめ)
農家の内職から、工場で専門に織るようになりました。

●  110年くらい前
明治20年、「羽二重」などをつくりはじめました。このころから、「明石ちぢみ」の研究を始めました。織物機械600台

●  65年くらい前
昭和4年、十日町明石ちぢみの宣伝のため十日町小唄を発表しました。

●  35年くらい前
昭和35年、全国着物競技大会で優勝しました。

●  20年くらい前
昭和52年、第1回きもの祭が開かれました。

●  15年くらい前
昭和57年、「十日町絣」と「十日町明石ちぢみ」が、全国の伝統的工芸品に指定されました。

●  10年くらい前
昭和58年11月 、地場産業振興センター「クロス10」ができました。
■ 十日町絣がさかんになったわけ
●  魚沼一帯は、豪雪地帯ゆえに、空気中の湿度が高く、盆地特有の気候として、年間を通じ強い風が吹きません。このような気候風土が、麻織物の原料となる苧麻(からむしとも言う)の生産に最適で、昔から自生していました。また、麻織物は、途中に乾燥させてはならないため、多湿な気候は安定した製品を生み出すのに絶好の条件でした。

●  雪の上に糸や布を広げて行う「雪ざらし」により漂白された布は、ことのほか上質でした。また、豊かな雪解け水が、地層深く浸透してできる軟水は染物の発色に優れた効果があります。

「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親というべし」と「北越雪譜」にも書かれています。

●  やがて、麻織物の技術と伝統を絹織物に生かし、今日の十日町絣や十日町明石ちぢみが生まれました。
■ 十日町絣の原料
かいこのまゆ から絹糸をつくり、これを使って着物(十日町絣や十日町明石ちぢみ)をつくります。
■ 十日町絣のできるまで
●  設計(絣図案制作)
原図案や見本により、方眼紙に柄の位置を決めて、絣図案と絣定規を作ります。

●  手延べ(整経)
繰返し機で、ボビンや枠に巻取った糸を、たて絣、よこ絣別に、設計に基づいた本数と長さに手で延べます。

●  墨付け
たて絣、よこ絣、それぞれの絣糸を張り台に張り、絣定規に基づいて模様の位置に墨印をつけます。

-1 くびり   たて糸とよこ糸の墨印をつけた部分を、錦糸か平ゴムで硬く括ります。

-2 摺込み  墨付けされた必要なところに、摺込みヘラを使って、染料を摺込みます。

●  染色
括った糸をかせ状にして、地糸とともに繰り返しもみながら染めていきます。

●  糊付け
絣巻、織布の工程が順調に進むように、繰り返し糊を付けます。

●  絣巻
絣織りが順調にできるように、駒及び万力を使って、たて絣模様を合わせながら巻き取ります。

●  機織り
たて絣とよこ絣の模様を丹念に合わせながら、織りあげます。

●  製品検査
織りあがった反物の長さ、巾、織りむら、汚れなどを検査します。

●  十日町絣の完成
■ 十日町絣の課題と努力
●  次の人に受け継がれるようにしています。(後継者不足)

●  同じものばかり作っていては、将来行きづまるので、消費者のニーズに合わせた新しい商品づくりに取り組んでいます。

十日町明石ちぢみのあゆみ
● 1500年くらい前
馬場上遺跡から紡錘車(糸に撚りをかける道具)が見つかりました。

● 300年前ころ
江戸幕府は、越後縮を武士の式服にさだめました。

● 125年くらい前(明治のはじめ)
農家の内職から、工場で専門に織るようになりました。

● 110年くらい前
明治20年、「羽二重」などを作り始めました。このころから、「明石ちぢみ」の研究を始めました。
織物機械600台

● 65年くらい前
昭和4年、明石ちぢみの宣伝のため十日町小唄を発表しました。

● 35年くらい前
昭和35年、全国着物競技大会で優勝しました。

● 20年くらい前
昭和52年、第1回きもの祭が開かれました。

● 15年くらい前
昭和57年11月、「十日町絣」と「十日町明石ちぢみ」が、全国の伝統的工芸品に指定されました。

● 10年くらい前
昭和58年 、地場産業振興センター「クロス10」ができました。s
■ 十日町明石ちぢみがさかんになったわけ
● 魚沼一帯は、豪雪地帯ゆえに、空気中の湿度が高く、盆地特有の気候として、年間を通じ強い風が吹きません。このような気候風土が、麻織物の原料となる苧麻の生産に最適で、昔から自生していました。また、麻織物は、途中で乾燥させてはならないため、多湿な気候は安定した製品を生み出すのに絶好の条件でした。

● 雪の上に糸や布を広げて行う「雪ざらし」により漂白された布は、ことのほか上質でした。また、豊かな雪解け水が、地層深く浸透してできる軟水は染物の発色に優れた効果があります。

「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮みの親というべし」と「北越雪譜」にも書かれています。

● やがて、麻織物の技術と伝統を絹織物に生かし、今日の十日町絣や十日町明石ちぢみが生まれました。
■ 十日町明石ちぢみの原料

● かいこのまゆから絹糸をつくり、これを使って着物(十日町絣や十日町明石ちぢみ)をつくります。
■ 十日町明石ちぢみのできるまで
● 設計(絣図案制作)
原図案や見本により、方眼紙に柄の位置を決めて、絣図案と絣定規を作ります。

● 手延べ(整経)
繰返し機で、ボビンや枠に巻取った糸を、たて絣、よこ絣別に、設計に基づいた本数と長さに手で延べます。

● 墨付け
たて絣、よこ絣、それぞれの絣糸を張り台に張り、絣定規に基づいて模様の位置に墨印 をつけます。

-1 くびり
たて糸とよこ糸の墨印をつけた部分を、錦糸か平ゴムで硬く括ります。
-2 摺込み
墨付けされた必要なところに、摺込みヘラを使って、染料を摺込みます。

● 染色
括った糸をかせ状にして、地糸とともに繰り返しもみながら染めていきます。

● 糊付け
絣巻、織布の工程が順調に進むように、繰り返し糊を付けます。

● 絣巻
絣織りが順調にできるように、駒及び万力を使って、たて絣模様を合わせながら巻き取ります。

● 明石経工程

● 糊付け 明石独特の味わいを出すため、強度の糊付けをします。

● 上撚り 糊付けした糸を八丁撚糸機にかけて明石経を作ります。

● 機織り
たて絣とよこ絣の模様を丹念に合わせながら、織りあげます。

● 製品検査
織りあがった反物の長さ、巾、織りむら、汚れなどを検査します。

● 十日町明石ちぢみの完成

■ 十日町明石ちぢみの課題と努力
● 次の人に受け継がれるようにしています。(後継者不足)

● 同じものばかり作っていては、将来行きづまるので、消費者のニーズに合わせた新しい商品づくりに取り組んでいます。

小千谷縮 のあゆみ
● 1200年くらい前
縮の技術のもとになった「越後上布 」が作られ始めました。

● 340年くらい前(江戸時代の中頃)
より糸を使って布に「しぼ(ちぢみともいう)」という小さなしわを作る方法が考え出され、越後上布にちぢみを付けた「小千谷縮」が誕生しました。
(1661~1672年ころ)

● 100年くらい前(明治~大正時代)
原料を紡績糸に変えた小千谷縮も作られ始めました。

● 60年くらい前(昭和10年代)
戦争によって、ぜいたく品だとして生産が制限されました。

● 45年くらい前
昭和25年、小千谷織物同業協同組合がつくられ、商品化が進められました。
● 40年くらい前
昭和30年、昔ながらの原料と作り方をする越後上布としての小千谷縮は、国の重要無形文化財に指定されました。

● 20年くらい前
昭和50年9月、原料糸に紡績糸を使った小千谷縮が通産省から伝統的工芸品に指定されました。
■ 小千谷縮がさかんになったわけ
● 冬のしめった空気が機織りに適していました。(糸が切れにくくなります。)

● 雪がたくさん降るため、布を雪でさらすことができました。
● 古い時代から越後上布を作り続けてきた織物の技術がありました。

● 江戸時代に、より糸を使ってしぼをだす技法が考案され、小千谷にも伝えられました。

● しぼのある麻織物のさわやかなはだざわりは、武士やお金持ちの夏衣料として人気がありました。

● 雪が多く降る冬の間、機織りは収入を得るための数少ない仕事でした。

● 当時の小千谷は交通の便がよく、原料や製品の輸送が便利でした。
■ 小千谷縮の原料
● 縮は、麻織物なので麻糸が原料ですが、次のような条件があります。
原料の麻は、国産の苧麻(「からむし」とも いう。)の糸であること。紡績糸でもよい。

● 現在は苧麻の生産がとても少ないため、フィリピンなどから輸入したラミー麻の紡績糸を使ってもよいことになっています。
■ 小千谷縮のできるまで
● 図案・設計
かすり模様のデザインなどを決めます。

● 1 撚糸
地のたて糸、かすり模様のたて糸・横糸ごとに糸をより合わせます。(紡績機を使用)

● 2 強撚糸
地の横糸には、しぼ Eを出すための強いよりをかけます。(紡績機を使用)

● 染色
糸のよごれを落とし、図案の色になるよう染料で染めます。

● かすり作り
かすりのたて糸と横糸に印を付け、「手くくり」や「手すり込み」などの技法で図案通りの模様が出てくるように色を付けたり、調整したりします。

● 機巻き
図案に合わせて、それぞれのたて糸と横糸の位置を正しながら固く巻き上げていきます。

● 機織り
たてのかすりと横のかすり模様をていねいに合わせて織り上げます。「出ばた」でも行われます。

● 湯もみ
布にしぼを出すため、お湯の中で手でもみます。

● 雪さらし
布を雪にさらし、オゾンのはたらきで漂白して、白地とかすり模様を美しくします。

● 仕上げ
よごれを落としたり、布巾を決められた長さに整えたりしてから巻き上げます。

● 検査
組合の検査員が品質をきびしく調べます。

● 完成
合格したものに証票がはられて小千谷縮の製品となります。
■ 小千谷縮の課題と努力
● 課題

● 生活様式が変化し、着物を着ることが少なくなったことと、比較的高価なことなどから生産が増えていきません。

● 本来の原料である苧麻糸が手に入りにくくなっているため、輸入した麻糸を使わなければなりません。

● 製品を買う問屋が、産地から遠い東京や関西方面にかたよっています。

● 韓国や中国から、安い輸入品が大量に入ってくるようになりました。

● 技術を受けつぐ若い人が少なくなっています。

● 努力

● 協同組合を作って、製品を検査したり、品質を高めたりするための研究や新製品の開発を行っています。また、人材の育成にも取り組んでいます。

● 伝統的な模様や色合いを守りながらも、現代の生活に合った図案やデザインを工夫しています。

● 縮を使った洋服、ネクタイ、日用小物を開発したり、展示会を行ったりして縮のよさを宣伝しています。

● 総合産業会館「サンプラザ」の中で織物の紹介や製品の販売などを行っています。

新潟・白根仏壇は、江戸時代中期(1688~1704年)に宮大工、初代長井林右ェ門が、京都方面からその技術、技法を取り入れて京型の仏壇をつくり、さらに、自分の手でかんたんな彫刻を行い「白木仏壇」を完成させました。これが、「白根仏壇」の始まりと伝えられています。昭和50年には、「白根仏壇協同組合」をつくり、昭和55年には、「伝統的工芸品」として指定を受けました。

仏壇の作り方などについては、長岡仏壇を参考にしてください。

村上木彫堆朱のあゆみ
● 大昔(縄文時代)のころ
漆を使った道具を使っていました。

● 600年くらい前
お寺がたくさん建てられました。そのために多くの職人が村上にやってきました。

● 300年くらい前
漆の木を育てることにしました。このころから、各町内に漆を使った祭り屋台が作られるようになりました。

● 150年くらい前(江戸時代)
村上藩の武士が江戸で学んだ堆朱堆黒の技術を村上に伝えました。それから、多くの優れた職人が出てきました。

● 100年くらい前(明治時代)
多くの人に使われるようになってきました。

● 40年くらい前
昭和30年、新潟県無形文化財の指定を受けました。

● 20年くらい前
昭和51年2月 伝統的工芸品に指定されました。
■ 村上木彫堆朱がさかんになったわけ
● 江戸時代に武士が江戸から学んできた技術を、殿様が大事にしました。

● まわりを山に囲まれているので木地になる木や漆がたくさんとれました。

● 真夏でも湿度が高く漆を乾かしたりするのに適していました。

● 神社やお寺、お城を造る大工や職人が多く、優れた技術を持っていました。

● 技術や技法(作り方)を大切にしてきました。

● 地域ぐるみで、技術や技法を保存するように協力してきました。
■ 村上木彫堆朱の原料
● 木地・・・主に朴、栃、桂の木

● 漆
■ 村上木彫堆朱のできるまで
● 木地作り
乾かして湿り気をとった材料の木を切ったり、くりぬいたりしてもとの形を作ります。

● 下絵
木地に花や鳥、山水などの下絵をかきます。

● 木彫
下絵にそってウラジロという彫刻刀で彫ります。

● とくさがけ
彫られたものをとくさ(今はサンドペーパー)でみがきます。

●  木がため
漆をハケで全体に塗ります。

● さびつけ
さび(との粉と漆を混ぜたもの)を塗ります。

● さびとぎ
と石を使って表面をとぎます。

● 中塗り
模様が消えないくらいに漆を塗ります。

● 中塗りとぎ
と石でていねいにみがきます。

● 上塗り
朱色の漆を塗ります。

● つや消し
表面のつやを消します。

● 毛彫り
細い彫刻刀で細かい線を彫ります。

● 上すりこみ
漆を全体にすりこんで仕上げます。

● 検査(完成)

■ 村上木彫堆朱の課題と努力
1.後継者の育成

村上職業訓練校には漆器科があり、きそ技術を学んでいます。また、堆朱作りの仕事をしながら技術を覚えていく人も多くいます。

2.技術を守る

村上堆朱事業協同組合では、デザインや技術の研修会を実施し、技術の保存と時代にあった製品作りを考えています。

3.原材料の確保

現在は、漆をほとんど中国からの輸入に頼っています。村上市では漆の植樹に取り組み、国産の漆を使えるよう努力しています。

4.宣伝

村上堆朱を知ってもらうために、全国各地のデパートなどで宣伝会を開いています。

長岡仏壇のあゆみ
● 285年くらい前
現在の長岡市表町で関音四郎という人が仏壇づくりを始めたと言われています。

● 150年くらい前
長岡市を中心にした地域 Eの寺院、神社の建立に全国各地から「宮大工」「仏師」「彫刻師」「塗師」が集まりました。冬期間の内職として仏壇づくりを手がけたのが始まりです。

● 165年くらい前
多くの家に仏壇が置かれるようになり、仏壇づくりがさかんになりました。

● 15年くらい前
昭和55年10月 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。
■ 長岡仏壇がさかんになったわけ
● 長岡地方の山地で、原料のケヤキが手に入りました。

● 長岡市は高温多湿の気候で漆の乾燥に適していました。

● 長岡市は昔から交通の便がよく、原料や製品の輸送に適した地域でした。

● ねばり強い越後人の性格で、長い冬の間、家の中でじっくりと技法の向上や研究に取り組むことができました。
■ 長岡仏壇の原料
● 木地・・・・・・・・・・姫小松、ホオ、ケヤキ、ヒノキ、ヒバなど。

● 金具・・・・・・・・・・銅、真ちゅう

● 塗り、まき絵 ・・・天然漆、金箔

● その他・・・・・・・・和紙、胡粉、金銀粉、顔料、にかわなど。
■ 長岡仏壇のできるまで
● 木地づくり

● 彫刻

● 塗装

● まき絵

● 金箔おし

● 金具づくり

● 組み立て

● 完成

■ 長岡仏壇の課題と努力
● 原材料が手に入りにくくなりました。そのため、木材や漆などを外国から輸入しています。

● 後継者が不足しています。そのため、若い人が伝統工芸士の試験を受験できるように、研修会などを開催しています。

本塩沢のあゆみ
● 1200年くらい前
本塩沢や塩沢紬の技術のもとになった「越後上布」が作られ始めました。

● 340年くらい前(江戸時代の中頃)
より糸を使って、布に「しぼ」という小さなしわを作る方法が考え出され、その後、その技術を織物に応用した本塩沢が作られるようになりました。

● 80年くらい前(大正時代)
この頃から麻織物より生産量が多くなってきました。

● 60年くらい前
戦争によって、ぜいたく品だとして生産が制限されました。(昭和10年代)

● 40年くらい前
昭和24年、塩沢織物工業協同組合がつくられ、商品化が進められるようになりました。

● 20年くらい前
昭和50年2月、通産省から伝統的工芸品に指定されました。
■ 本塩沢がさかんになったわけ
● 江戸時代に、より糸を使ってしぼをだす技法が考え出され、塩沢にも伝えられました。

● 冬の湿った空気が機織りに適していました。(糸が切れにくくなります。)

● 古い時代から越後上布を作り続けてきた織物の技術がありました。

● 雪が多く降る冬の間、機織りは収入を得るための数少ない仕事でした。

● 昔は養さん Eが広く行われ、絹糸の原料になるカイコのまゆがかんたんに手に入りました。
■ 本塩沢の原料
● 本塩沢は、絹織物なので、かいこのまゆから作る絹糸が原料ですが、次の2種類の糸が使われます。

「強撚糸 」 「生糸」

● どちらの糸も、地元のものがほとんど手に入らないため、主に群馬県で生産され、六日町の糸専門店が仕入れたものを使っています。
■ 本塩沢のできるまで
● 図案・設計
かすり模様のデザインなどを決めます。

●1撚糸 地のたて糸、かすり模様のたて糸・横糸ごとに糸をより合わせます。

●2強撚糸 地の横糸には、しぼを出すための強いよりをかけます。(下撚り)

● 染色
糸のよごれを落とし、図案の色になるよう染料で煮て染めます。

● かすり作り
かすりのたて糸と横糸に印を付け、「手くくり 」や「手すり込み」などの技法で図案通りの模様が出てくるように色を付けたり、調整したりします。

● 強撚糸
地の横糸にもう1度強いよりをかけます。(上撚り)

● 機巻き
図案に合わせて、それぞれのたて糸と横糸の位置を調整しながら固く巻き上げていきます。

● 機織り
たてのかすりと横のかすり模様をていねいに合わせて織り上げます。「出ばた」でも行われます。(15日~20日位かかる。)

● 湯もみ
布にしぼを出すため、お湯の中で手でもみます。

● 仕上げ
よごれを落としたり、布巾を決められた長さに整えたりしてから巻き上げます。

● 検査
組合の検査員が品質をきびしく調べます。

● 完成
合格したものに証票 がはられて本塩沢の製品となります。
■ 本塩沢の課題と努力
課題

● 生活様式が変化し、着物を着ることが少なくなったため、注文が減ってきています。

● 製品を買う問屋が塩沢町から遠い東京や関西方面にかたよっています。

● 韓国や中国から安い輸入品が大量に入ってくるようになりました。

● 技術や仕事を受けつぐ、若い人が少なくなっています。

努力

● 協同組合を作って、製品を検査したり、品質を高めたりするための研究や新製品の開発を行っています。また、人材の育成にも取り組んでいます。

● 伝統的な模様や色合いを守りながらも、現代の生活に合った図案やデザインを工夫しています。

● 本塩沢を使ったお召し人形や洋服・ネクタイ日用品を開発したり、展示会を行ったりして伝統工芸品としての織物のよさを宣伝 Bしています。

● 織物会館を建設して、織物の紹介を積極的に行っています。

にいがたしっき
● 新潟漆器
うえつしなふ
● 羽越しな布

上に書いてる人間国宝の作品や地元の焼き物など家や蔵に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

石黒宗麿

石黒 宗麿(いしぐろ むねまろ、1893年4月14日 – 1968年6月3日)は、富山県射水市(旧新湊市 )久々湊(くぐみなと)出身の陶芸家。贈従四位。作品の多くは射水市新湊博物館 に収蔵されている。
1893年(明治26年)射水郡二塚村上伏間江、中越汽船社長・筏井甚造の四女めなの子として出生。
1893年(明治26年)名門の富山中学で不穏行動(ストライキを首謀し、止めにきた教師を殴る)で後、退学。
1918年(大正7年)中国宋の時代の陶器である曜変天目に惹かれ陶芸家を志した。
1936年(昭和11年)に京都市左京区八瀬で窯を開き、多くの作品を残した。ここが終の住み家となった。
長い年月をかけ、苦労の末に代表作木の葉天目[1]を完成させる。
1955年(昭和30年)2月15日、初の人間国宝(重要無形文化財「鉄釉陶器」保持者)の一人に認定[2]、新湊市名誉市民に推挙。
1963年(昭和38年)紫綬褒章受章。
1968年(昭和43年)勲三等瑞宝章受章。6月3日、老衰のため死去。

越中三助焼窯元

富山県砺波市の福山丘陵一帯は陶土に恵まれ、古くは奈良・平安時代の須恵器に始まり、生活用具と瓦の製造が行われていました。
この瓦製造の一軒であった谷口三助(嘉永元年~明治38年)とその長男、谷口太七郎(明治7年~昭和8年)が瓦製造の窯で壺、鉢、皿などの生活用具を作り始め、三助焼の基礎を築きました。

小杉焼について

江戸時代後期の文化13(1816)年頃から明治40年頃まで 約90年間、4代に亘って小杉町で焼かれた「小杉焼」を見ることができます。 初代は高畑与右衛門といい、相馬焼(福島県)で陶技を学び帰郷して上野に築窯、さらに黒河箕輪山、そして戸破(竹内源造記念館)付近で主体窯である高畑窯を開いた。、独自の陶法を完成するまで苦労をしたようだが、形の美しさ、独特の釉の色と艶のある焼き物は、当時の人々に愛され、天保元年に加賀藩から「陶器所」の免許を与えれた。天保9年(1838)に53歳で没した。
小杉焼
2代与右衛門は、更に研究を深め、藩からの保護を受け、陶窯を整備し販路を拡張して小杉焼の全盛期を迎えたが、文久2年(1862)に伝染病が流行し二代と三代を継ぐはずだった長男のほか一家全員が亡くなるという不幸が襲った。
このため4代は親族の唐津山三十郎が継ぎ、一時は盛んだったが明治20年代に衰え始め、明治41年に三十郎が亡くなるとともに廃窯となった。 小杉焼(鴨徳利)
窯の様式は相馬焼と同じ京焼系の傾斜砂床の有段式地上窯で高火度焼成のため素地は炻器質で硬い、特色は、地方窯に珍しい優美な形態と滑らかな艶を持つ釉色(銅緑釉・黒飴鉄釉・黄白色灰釉)にある。
器種は酒器・茶器・花器・神仏具など多岐にわたり、特に鴨徳利・瓢徳利や茶壷などが知られている。

各代を通じ大半は無名だが「箕輪山」「小杉焼」の釘彫り銘や印銘のある作品が少数あるほか、2代と4代には年号を書き入れた徳利や、神社寺院等、に奉納した瓶子や香炉が残っている。

◆ 復興小杉焼片口窯 ◆
復興小杉焼 小杉焼の復興運動は片口江東・郷倉千靭など町の文化人によって昭和初期から始まり、築窯は昭和9年の窯跡調査、翌10年の小杉焼研究会の発足後なかなか軌道に乗らず、同18年になって出資による陶窯が戦時経済統制会社富山県陶磁器工業株式会社小杉分工場の工芸部門として始めて実現した。これを片口窯という。
しかし、戦時の経済困難で昭和20年には休業状態となった。 銘印は、「ひょうたん形内に小杉焼」「横長方形内に小杉焼」「縦長方形内に常山」 「円内に小杉」「こすぎ」のほか算用数字を入れたものがある。多い時には年間3~5万個生産したという。

◆ 復興小杉焼横堀窯 ◆
復興小杉焼横堀窯 小杉焼の復興を試みたものに横堀一之がいる。 これを横堀窯という。
彼は京都で陶工をしていたが昭和初年小杉町に帰り小杉焼風の青緑釉や飴黒釉の酒器、久谷風の茶器などを製造したが、昭和16年応召のため廃窯となった。
戦後は、昭和47年に自宅に築窯し高志焼と称したが成功せぬまま53年に没し廃窯となった。

◆ 現在の小杉焼(小杉焼栄一窯) ◆
小杉焼(栄一窯)  昭和45年小杉町手崎に築窯。窯主池上栄一は、金沢美術工芸大学陶磁科を卒業、県立高岡工芸高校で窯業を教授するとともに、中央、地方の著名な陶芸展で入賞を重ね、数多くの美術工芸団体の役員を勤めている。
作風は、小杉焼の伝統に現代感覚を加味し、花器、茶器、置物、壁面装飾など芸域が広い。

金森映井智

1908年(明治41年)2月3日生。本名は榮一。
高岡工芸学校(現・高岡工芸高校)卒業。彫金家の内島市平に師事。
象嵌(ぞうがん)技術は、我が国の最高峰のものです。同時に現代感覚あふれる重厚な作風でも知られています。1989年(平成元年)に、その卓越した技が認められ、国の重要無形文化財(彫金)保持者に認定されました。平成2年には「高岡市名誉市民」の称号が贈られています。2001年(平成13年)11月25日没。

大澤光民

1941年(昭和16年)9月26日生。本名は幸勝(ゆきまさ)。
富山県立職業補導所卒業。1969年(昭和44年)大澤美術鋳造所創立。
焼型鋳造の高い技術を持ち、1980年(昭和55年)独自の技法「鋳ぐるみ法」を生み出し、新しい作風をつくりだしました。日本伝統工芸品展などに出品し、数々の賞を受賞。2005年(平成17年)、重要無形文化財「鋳金」の保持者に認定されました。鋳金の人間国宝は史上3人目です。

越中瀬戸焼
越中瀬戸焼(えっちゅうせとやき)は富山県立山町瀬戸地区にて焼かれる陶器。全国的な磁器産地である瀬戸焼を名乗るが、現在は陶器産地なので注意が必要である(最盛期には磁器、陶器の双方が焼かれていた)。
文禄3年4月に、加賀藩主の前田利長が尾張国瀬戸より陶工、彦右衛門を招いて焼かせたのが始まりといわれる。藩の御用窯として栄え、越中国随一の磁器産地として名を馳せた。最盛期には120近くの窯場を数えたという。そして、尾張の磁器産地「瀬戸」に因み、産地一帯が瀬戸村と名付けられた。
しかし近世に入り幕府の保護がなくなり、衰退した。加えて鉄道の開通によって瀬戸や有田から安価な陶器が流入したことにより、競争力を失い存続の危機を迎え、大正年間に遂に廃絶の憂き目を見た。しかし、昭和18年になって地元の有志らの手によって廃窯となっていた窯場を研究、昭和33年に釈永庄二郎が庄楽窯を開窯し、漸く再興に漕ぎ着けた。2006年現在は庄楽窯、千寿窯など4つの窯場が伝統的な技法を継承している。
越中瀬戸焼の特徴は多彩な釉薬であり、藁灰や木灰を原料とする。大胆な施釉が特徴で、釉薬を掛け流した後、高温で焼成する。

越中丸山焼(江戸~明治期)

富山平野の南端、飛騨山地へと続く丘陵地帯の中腹に遺跡は所在し、現在は跡地に石碑が建てられています。
越中丸山焼は、越中瀬戸焼・小杉焼とならんで越中近世三大窯の一つに挙げられます。九谷風の赤絵の製品が有名ですが、作風は瀬戸・清水・伊万里と多岐に渡り、初期は陶器のみの生産でしたが、後に磁器も作るようになりました。また生活雑器から茶器まで多種多様な製品を作っています。

文政12年(1829)、京都で製陶を学んだ山本甚左衛門が郷里の丸山村で窯を開いたのが始まりで、当初は経営難で苦しみましたが、富山藩からの援助を受け発展しました。
越中丸山焼窯跡
越中丸山焼窯跡
最盛期には前口40間、奥行37間の敷地に工場、13基の窯、50人を数えたといわれる工人の住居など幾棟もの建物が立ち並び、富山湾からも見えたと伝えられます。技術習得に積極的で九谷・瀬戸などから技術指導者や工人を招き、作風・器種ともに多様化していきました。

しかし安政5年(1858)、安政の大地震で窯が大破し、富山藩からの援助はあったものの次第に衰退していきました。廃藩置県そして甚左衛門が明治3年に亡くなったあとは、販路縮小・製品の質の劣化が深刻になり、明治27年に廃窯しました。
昭和36年に市の史跡に指定されています。

(工芸品)

越中瀬戸焼

越中瀬戸焼■伝統工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法の内容
(1)白土の精製(水簸土、叩き土を作る)
(2)蹴りロクロ(足で蹴ってロクロを回転させる)
(3)印花模様(花模様をハンコに彫り、やきものの表面に押す)
(4)施釉(釉を網状に流し掛ける)
(5)登り窯での本焼(松薪で高温焼成する)
(6)釉薬の調合(ワラ灰・木灰と風化岩石を用いて独自の釉を作る)

■伝統工芸品の製造に伝統的に使用されてきた原材料名
(1)白土、黄白土、青土

■製造される地域
立山町

越中福岡の菅笠

越中福岡の菅笠■伝統工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法の内容
(1)菅草植え付け(苗の斜め植え付けを手作業で行う)
(2)刈り取り・菅干し(株を根本から握りこぶし一つ分程残し刈り取る。バラ干しした後、
再び結束し扇状に広げ4~5日天日干しをし、表裏交互にして乾燥・脱色する)
(3)笠縫い(菅1本に2目ずつ右回りに縫う)

■伝統工芸品の製造に伝統的に使用されてきた原材料名
(1)菅草
(2)竹(ニガ竹、カラ竹、モウソウ竹)

高岡鉄器

高岡鉄器■伝統工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法の内容
(1)生型(金属製の下枠に原型と砂を入れ押し固めた後、上枠を乗せて砂を入れ押し固め、
枠を上下に割って原型を取り出し鋳型を作る)

■伝統工芸品の製造に伝統的に使用されてきた原材料名
(1)鉄

■製造される地域
高岡市

高岡仏壇

高岡仏壇■伝統工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法の内容
(1)ほぞ組(木地の要はすべてほぞ組で仕上げる)
(2)三方開飾付(大台の左右に飾台を施工する)
(3)塗彫り・木地彫り(箔押しで仕上げる塗彫り、彫り目を生かす木地彫りの
2つの工法を施す)
(4)錆下地・仏師下地(砥粉と生漆や膠を混ぜ合わせた物をヘラ、刷毛で塗り、
地研ぎする)
(5)組格子塗り(格子を組み立てる前に1本ずつ塗る)
(6)塗り立て仕上げ(刷毛でゴミをつけないように漆の上塗りで仕上げる)

■伝統工芸品の製造に伝統的に使用されてきた原材料名
(1)クサマキ(ヒバ)、銀杏、姫小松
(2)漆
(3)金箔
(4)銅板

■製造される地域
高岡市・射水市

とやま土人形

とやま土人形■伝統工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法の内容
(1)型込め(明治・大正時代から伝承している型を使用)
(2)型合せ(表型と裏型から抜いたものを水で薄めた粘土で貼り合わせる)
(3)彩色

■伝統工芸品の製造に伝統的に使用されてきた原材料名
(1)粘土(針原粘土に性質の近い信楽粘土を使用)
(2)絵具

■製造される地域
富山市

富山木象嵌

富山木象嵌■伝統工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法の内容
(1)木象嵌(色の異なる木を電動糸鋸ミシンで挽き抜き文様をつくる技法)

■伝統工芸品の製造に伝統的に使用されてきた原材料名
(1)色の異なる木材(杉、桐、桜、ミズキ、楠、神代杉、朴の木など)

■製造される地域
富山市

上の富山出身の人間国宝作家、地元の焼き物などがありましたら是非ご連絡ください!!

大樋陶冶斎 おおひとうやさい
(十代 長左衛門・年朗)

文化勲章受章者
文化功労者/日本芸術院会員

1927年
九代大樋長左衞門の長男として金沢に生まれる
1949年
東京美術学校工芸科卒業(現東京藝術大学)
1987年
十代 大樋長左衛門襲名
2011年
文化勲章受章

石川県名誉県民/金沢市名誉市民
日展顧問/現代工芸美術家協会理事長
石川県美術文化協会理事長
石川県陶芸協会会長/金沢卯辰山工芸工房工房長
金沢学院大学前副学長/ロチェスター工科大学名誉博士
台湾•台南藝術大學名誉博士

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かわぎた りょうぞう
川北 良造

重要無形文化財「木工芸」保持者

1934年
石川県加賀市に生まれる
1962年
第9回日本伝統工芸展 初出品入選
1974年
現代美術展最高賞・技術賞受賞
1993年
「兼六園欅杢目沈金食籠」石川県より皇太子殿下に献上
1994年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
1999年
紫綬褒章受章
2004年
秋の叙勲 旭日中綬章受章
重要無形文化財保持者選賞 受賞2回

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まえ ふみお
前 史雄

重要無形文化財「沈金」保持者

1940年
石川県輪島市に生まれる
1963年
金沢美術工芸大学日本画科卒業後、父・大峰に師事
1973年
第20回日本伝統工芸展 文部大臣賞受賞
1992年
第39回日本伝統工芸展 日本工芸会総裁賞受賞
1997年
第44回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞
1999年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2001年
紫綬褒章受章
2010年
旭日小綬章受章

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よした みのり
吉田 美統

重要無形文化財「釉裏金彩」保持者

1932年
石川県小松市に生まれる
1992年
第39回日本伝統工芸展 髙松宮記念賞受賞
石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会技術保持者に認定される
1995年
平成6年度の日本陶磁協会賞受賞
2000年
第47回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞
2001年
紫綬褒章受章
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2007年
「わざの美」大英博物館に選抜出品
2012年
文化庁主催海外展「日本のわざと美・近代工芸の精華」展
(イタリア・フィレンツェ市)に選抜出品

香炉美統

さんだい うおずみ いらく
三代 魚住 為楽

重要無形文化財「銅鑼」保持者

1937年
石川県金沢市に生まれる
1962年
第9回日本伝統工芸展 最高賞受賞
1998年
第45回日本伝統工芸展 文部大臣賞受賞(文化庁所蔵)
2000年
紫綬褒章受章
2002年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2008年
旭日小綬章受章

なかがわ まもる
中川 衛

重要無形文化財「彫金」保持者

1947年
石川県金沢市に生まれる
2001年
第48回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞(2003年にも同賞受賞)
2002年
MOA美術館第13回岡田茂吉工芸部門大賞受賞
2004年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
伝統文化ポーラ賞優秀賞受賞
2008年
メトロポリタン美術館に作品所蔵される(ニューヨーク)
2009年
紫綬褒章受章
2010年
大英博物館に作品所蔵される(ロンドン)

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こもり くにえ
小森 邦衞

重要無形文化財「髹漆」保持者

1945年
石川県輪島市に生まれる
1986年
第33回日本伝統工芸展 NHK会長賞受賞
1989年
第36回日本伝統工芸展 NHK会長賞受賞(文化庁買上)
2002年
第49回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞(文化庁買上)
2004年
MOA岡田茂吉大賞受賞
2006年
紫綬褒章受章
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2012年
文化庁主催海外展「日本のわざと美・近代工芸の精華」展
(イタリア・フィレンツェ市)に選抜出品

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ふたつか おさお
二塚 長生

重要無形文化財「友禅」保持者

1946年
富山県高岡市に生まれる
1965年
洋画を吉田冨士夫に師事。その後日本画を斎藤清策に学び、加賀友禅を押田正義の工房で修業し、1974年独立
1991年
第28回日本伝統工芸染織展 文化庁長官賞受賞
(1995年にも同賞)
1997年
第44回日本伝統工芸展 朝日新聞社賞受賞(文化庁買上)
2000年
第47回日本伝統工芸展 文部大臣賞受賞(文化庁買上)
2005年
金沢市文化活動賞受賞
2006年
紫綬褒章受章、北國文化賞受賞
2010年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
金沢市文化賞受賞

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なかの こういち
中野 孝一

重要無形文化財「蒔絵」保持者

1947年
石川県加賀市に生まれる
1969年
人間国宝 大場松魚に師事
1971年
日本伝統工芸展初出品で日本工芸会会長賞受賞
1972年
伊勢神宮御神宝制作奉仕(1992年 同じく制作)
1986年
東大寺昭和納経経箱蒔絵制作
1989年
北國文化賞、第2回MOA美術館岡田茂吉優秀賞受賞
2005年
紫綬褒章受章
2010年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定

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三代 徳田八十吉
日本伝統工芸展、審・監査員・特待
国指定重要無形文化財彩釉磁器保持者
日本工芸会常任理事 , 一水会陶芸部運営委員
昭和8年 石川県に生まれる
金沢美術工芸大学中退後、初代祖父・父二代に師事
昭和46年 第18回日本伝統工芸展初出品作「彩釉鉢」優秀賞 NHK会長賞受賞
昭和52年 第24回全日本伝統工芸展初出展作品「耀彩鉢」最優秀賞日本工芸会総裁賞受賞
昭和53年 日本伝統工芸展特待・鑑査員に推挙
昭和61年 エジプト・カイロにて個展、以降海外展18回
昭和63年 三代八十吉を襲名
平成2年 ’90国際陶芸展グランプリ受賞
平成3年 第11回日本陶芸展推薦出品作「創生」グランプリ秩父宮賜杯受賞 外務大臣表彰
平成5年 紫綬褒章授章
平成9年 第10回MOA岡田茂吉賞大賞受賞
重要無形文化財
採釉磁器保持者(人間国宝)に認定
小松市に於ける5人目の名誉市民に推挙
平成10年 「耀彩線文壷」メトロポリタン美術館所蔵
平成12年 ローマ・日本文化会館にて個展開催
平成14年 7回にわたる「石川・文化の翼」韓国展にて終了
平成15年 東京・小松にて古希記念耀彩展開催
平成15年 九谷満月主催「徳田八十吉古希展」開催
「徳田八十吉古希展 感謝の集い」にて記念講演
平成17年 大英博物館ジャパンギャラリー入口に「耀彩壷・恒河」が展示される
九谷焼技術保存会(県無形文化財)会長に推薦される
平成19年 文化庁主催「日本のやきもの展」
国立博物館、ソアーレス・ドス・レイス国立美術館(ポルトガル)で開催
現役作家としてただ1人選ばれる「耀彩華文鉢」が展示される
大英博物館主催 日本「わざの美展」於ロンドンにて「私の歩んだ道」と題し記念講演
平成21年 各地で喜寿記念個展開催
8月26日逝去
従五位に叙位される
※文化庁、国立近代美術館、大英博物館、スミソニアン・サックラー美術館等所蔵

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古九谷
明暦~宝暦年間(1650頃~1700頃) 後藤才次郎
明川初期の戦国世相の名残を反映し、豪快で力強い骨描きと、彩色が重厚で男性的。
明の技法が導入され、幕府から密貿易の疑惑がもたれた加賀藩では、焼窯を取壊し、その後100年程、中断された。
上絵、青黄紫を用いた大胆な図柄は、大部分が、草花山水。

木米
文化年間(1805~1817) 青木木米
徳川の成熟期に、当時、名工とされた青木木米を招き、再び窯が始められた。
素地に赤色を塗り、人物を多く描き込んだ呉須赤絵写しのものが多く、いかにも和やかな感が出ている。
木米は、仁清、乾山と並び、全国三銘陶の一人。

吉田屋
文政年間(1818~1829) 豊田伝右エ門
大聖寺藩の豪商 豊田家(屋号 吉田屋)が開いた窯。
徳川泰平の文化文政時代を反映し、柔い画風が特徴。
古九谷風を最も受け継ぐ作風と言われ、青黄紫の三角を用い、花鳥・山水・小紋・草花などが、描かれている。

飯田屋
天保年間(1830~1845) 飯田八郎右エ門
漢学の影響を受け、 「 竹林の七賢人 」 等、支那の風俗模様等が、いきいきと描き出されている。
細い赤色の線が描き出す緻密画に、随所に金彩を施し、優美さを醸し出している。

永楽

慶応年間(1865~1868) 永楽和全
京都の永楽和全の影響を受けた手法。
金の上に、赤の色を器全体に塗りこめ、その上に、金で模様を描き、絢爛豪華な雰囲気。
金襴風とも呼ばれる。花鳥獣虫を、一筆書するのが特徴。

庄三

明治初年(1860~1880) 九谷庄三
西洋文化が入り、和洋折衷となった作風。
「彩色金襴手」は、その雰囲気を映し、繊細かつ絢爛豪華な花鳥人物山水が特徴。
古九谷から再興九谷までの、全ての技法を取り入れており、明治以降に、一世を風靡した。

彩釉

赤・緑・黄・紫・紺青の五彩の釉薬を、うわぐすりのように用い、器全体を塗り埋める手法。
二種類以上の釉薬を、重ねて塗ることにより、段階的に色彩の変化を楽しむことができる。優美で鮮やかな絵柄が特徴。

釉裏金彩(ゆうりきんさい)

普通の金彩が、釉薬の上に金を貼り付けるのに対して、 金粉や金箔を貼り、その上に透明な釉薬を掛けて焼き付けた絵柄。釉薬を通して金が浮き出てくるため、絵の調子が柔らかく、しっとりとした質感と、品の良い輝きがある。
金が剥がれないことも特徴。

青粒(あおちぶ)

大正時代に広まった、彩色の技法。
青粒(あおちぶ)と称する 細かい緑色の点の盛り上げを並べる、鮫皮の ような手法。
粒の大きさ、色、間隔の均一さで、緻密な技術が要求される。青粒のほかに、白粒、金粒もある。

銀彩(ぎんさい)
銀箔を貼り付けた上に、透明釉や五彩の釉彩を塗り、焼き上げた技法。
銀箔が剥がれないうえ、錆びないのが特徴。釉裏金彩と同様、絵の調子が柔らかく、抑えた質感で、上品さが漂う

染付け(そめつけ)
白地にコバルト(呉須)で絵付けをし、透明な釉薬を掛けて還元焼成した磁器の総称。
透明釉をかけて焼成します。鮮やかな藍色の映える器です。

虚空蔵窯(こくぞうがま)
土の風合いが特徴。上絵もモダンなものが多い。
由緒ある虚空蔵山の麓に開窯、虚空(大地)のように広大無辺な智徳を持つ菩薩の名前にちなんで名づけられています。ゆったりして美しい焼き物です。

大樋焼
大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯である。
江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀百万石、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶堂として仙叟(裏千家4代千宗室)を招いた際に、楽家4代一入に師事し、最高弟であった陶工・土師長左衛門が同道した。それを契機に、稀有な茶の湯の道具として発展し、綱紀公の強い意向もあり、加賀藩から手厚い保護を受け、現在に至る。
仙叟が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現、金沢市大樋町)に居を構え、窯を建てて藩の焼物御用を務め、加賀藩より地名から大樋姓を許された。
大樋焼の制作活動は明治維新後、藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、明治期動乱の茶道の衰退と重なって苦難の時期を迎えることになるが、後継の門人達、またその門人の子孫の制作活動の結果、飴色釉の特色ある稀有な焼物として全国的に知られるようになる。
金沢市橋場町に十代大樋長左衛門窯、大樋美術館がある。

大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯である。

江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀百万石、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶堂として仙叟(裏千家4代千宗室)を招いた際に、楽家4代一入に師事し、最高弟であった陶工・土師長左衛門が同道した。それを契機に、稀有な茶の湯の道具として発展し、綱紀公の強い意向もあり、加賀藩から手厚い保護を受け、現在に至る。
仙叟が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現、金沢市大樋町)に居を構え、窯を建てて藩の焼物御用を務め、加賀藩より地名から大樋姓を許された。
大樋焼の制作活動は明治維新後、藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、明治期動乱の茶道の衰退と重なって苦難の時期を迎えることになるが、後継の門人達、またその門人の子孫の制作活動の結果、飴色釉の特色ある稀有な焼物として全国的に知られるようになる。
金沢市橋場町に十代大樋長左衛門窯、大樋美術館がある。珠洲焼

珠洲大壺
(東京国立博物館蔵、新潟県妙高市関山神社貝塚出土)
珠洲焼(すずやき)は、12世紀後半頃から15世紀末頃に石川県珠洲市付近で生産された、中世の日本を代表する陶器のひとつ。古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいた。

珠洲焼(すずやき)は、12世紀後半頃から15世紀末頃に石川県珠洲市付近で生産された、中世の日本を代表する陶器のひとつ。古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいた。

加賀友禅

加賀友禅の特徴は、「加賀五彩」といわれる燕脂、藍、黄土、草、古代紫などの色を基調にして描かれる花や植物、風景など自然をモチーフにした写実的なデザインにあり、武家風の落ち着いた気品があるといわれています。

加賀友禅(かがゆうぜん)は、国指定伝統的工芸品で、江戸時代中期に加賀藩にて栄えた加賀御国染を基に京友禅の創始者といわれる絵師宮崎友禅斎が、晩年金沢の加賀藩御用紺屋棟取であった太郎田屋に身を寄せ、加賀御国染に大胆な意匠を持ち込み、確立した染色技法と、その作品をいう。加賀五彩(藍、臙脂、草、黄土、古代紫)と呼ばれる艶麗な色彩で知られ、特に紅色、紫、緑系統の色を多用する。
柄は、図案調の京友禅に対して草、花、鳥等の絵画調の物が多く、自然描写を重んじる中から「虫喰い」等独自の装飾が生まれた。「ぼかし」も京友禅以上に多用される傾向にある。金沢市内を流れる浅野川では、工程の最後の方に、余分な糊や染料を洗い流す友禅流しが見られることがある
牛首紬 牛首紬

牛首紬(うしくびつむぎ)は、主に石川県白山市白峰地区(旧白峰村)において生産される紬織物。釘を抜けるほど丈夫なことから釘抜紬(くぎぬきつむぎ)とも称される。牛首紬の特徴は、釘に引っ掛けても反対に釘が抜けてしまうといわれるほどの丈夫さにあり、別名「釘抜紬」とも呼ばれています。2匹の蚕が入っている「玉繭」から直接糸を引き出して製糸しているため、絹糸は太くて節があり、素朴な美しさをもっています。

その生産地の石川県白山市白峰(旧白峰村)が明治初期まで牛首村と称されていたことに由来する。
絹糸の原料であるカイコの繭は、通常一頭のカイコが作るものだが、まれに二頭のカイコが入っているものがあり、これを『玉繭(たままゆ)』という。玉繭は二頭の糸が内部で複雑に絡み合っているため製糸は難しく、普通はいったん真綿にしてから糸にするが、白峰の人々は先祖伝来の技でこの繭から直接糸をつむぎよこ糸とし、通常の絹糸をたて糸として織り上げる。これが牛首紬である。
玉繭の糸は何本もの繊維がからみつくため所々に節ができてしまう。この節は織物にしても残り、牛首紬の特徴となっている。
カイコのえさとなるクワの木は、天然では高木になるが、雪深い白峰では雪に押し倒されて根元から曲がって育つため、高く育たず葉を収穫しやすかったため、白峰では古くから養蚕業が盛んであった。上等な繭は生糸や羽二重にするため出荷し、残った玉繭を利用するために織り始められたものが牛首紬の始まりである。
染色は、糸の段階で草木染めする場合と、白無地のまま出荷し染められる場合がある。加賀繍 加賀繍(ぬい)

加賀繍の特徴は、模様が生地の表裏とも同じであるため糸切れなどの補修が容易であることや、肉入れ刺繍やポカシなど立体感のある技法から生まれる豪華で繊細な表現にあります。一針一針丹精する加賀繍は、金糸・銀糸などを多用しながらも気品にあふれています。
能登上布 能登上布

崇神天皇の皇女がこの土地に上布の作り方を伝えたことが起源といわれています。織幅に十文字絣を120個から140個織り出す絣合わせの正確さに定評があり、上布の最高級品とされています。
金沢和傘 金沢和傘

金沢和傘は、傘の中心部に和紙を4重に張るとともに周辺部に糸を二重・三重に張り、破損しやすい部分を補強するなど、丈夫なことが特徴です。戦後、丈夫で安価な洋傘に押されて需要は減りましたが、丈夫な金沢和傘は今も根強い人気があります。
手捺染型彫刻 手捺染型彫刻(てなっせんかたちょうこく)

友禅や小紋の柄や紋様を染めるための型紙彫刻です。薄い楮和紙を縦横に柿渋で張り合わせた紙を切り抜いてゆくのですが、その技法は半円形の小錐を使う錐彫や、正方形や星型などの文様に合わせた道具を使う道具彫りなどがあり、精級な文様を彫り上げてゆきます。
九谷焼 九谷焼

九谷焼の特徴は、さまざまな色絵装飾(上絵付)にあります。素朴で豪快な「古九谷風」、全面に赤塗りで人物などを描く「木米風」、花鳥山水等を描いた彩色金欄手で有名な「庄三風」などがあります。
輪島塗 輪島塗

輪島塗の特徴は、輪島特産の「地の粉(珪藻土の一種)」を漆に混ぜて繰り返し塗る本堅地技法や、木地のいたみやすい上縁に生漆を塗る「地縁引き」などの丁寧な手作業から生まれる堅牢さにあります。使いこむごとに美しさを増す輪島塗は、用と美を兼ね備えた漆器です。

輪島塗(わじまぬり)とは石川県輪島市で生産される漆器である。

特色
輪島塗は厚手の木地に生漆と米糊を混ぜたもので布を貼って補強し、生漆と米糊、そして焼成珪藻土を混ぜた下地を何層にも厚く施した「丈夫さ」に重きをおいて作られている漆器である。
伝統的工芸品に指定された際の通商産業省(当時)による輪島塗の要件は次のとおり(昭和50年5月10日通商産業省告示第172号)。
伝統的な技術または技法
下地塗りは、次の技術または技法によること
木地に生漆を塗付した後「着せもの漆」を塗付した麻または寒冷紗を用いて「布着せ」をすること。
生漆に米のり及び「輪島地の粉」を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返すこと。
上塗りは、精製漆を用いて「花塗」または「ろいろ塗」をすること。
加飾をする場合は、沈金または蒔絵によること。
木地造りは、次のいずれかによること。
挽き物にあっては、ろくろ台及びろくろかんなを用いて形成すること。
板物または曲げ物にあっては、「こくそ漆」を用いて成形すること。
伝統的に使用されてきた原材料
漆は天然漆とすること。
木地は、ヒバ ケヤキ カツラ もしくはホオノキ、またはこれらと同等の材質を有する用材とすること。
これらはあくまで伝統産業の振興を目的とする法令「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づく伝統的工芸品としての輪島塗の要件である。これらを満たすことで類似品と区別するための「伝統証紙」が使用できたりするが、これら要件をすべて満たしたものだけが輪島産の漆器であるわけではない。
「布着せ」は、木地に布を貼ることで、椀の縁や高台、箱ものの角など傷つきやすい所を補強するために施すものである。漆工芸における基本的な工程であるが、現在広く流通している漆器では省略されることが多く、輪島塗や越前塗、京漆器等の一部の漆器産地でつくられるものにしか見受けられない。
また、漆にフィラーを配合して作ったペースト状の下地材を何層にもわたってヘラ木で塗装していく工程を「本堅地(ほんかたじ)」といい、これも漆工芸における基本的な工程である。輪島塗ではこのフィラーに「輪島地の粉」と呼ばれる焼成珪藻土を用いるのが特徴である。 本堅地の工程では、最初は漆に数百μmの粒径のフィラーを添加し、工程を進めるごとに何段階かにわたってフィラーのサイズを細かくしていき、最終的には数十μmの粒径のものを使って仕上げる。 表面に見える赤や黒の漆はこの後に刷毛で塗装されている。
なお、通常漆工芸では檜のヘラを使って下地作業を行うが輪島のある能登地方には桧が分布していないため、代用材として同じヒノキ科のヒバ(ヒノキアスナロ)をヘラ木として用い、特に能登地方ではヒバを「アテ」と呼称していた。 能登アテは青森ヒバから分根したものであるが、現在では材木としてブランド力のある青森ヒバにならって「能登ヒバ」として市場に出ることが多くなった。 ヒバ材は桧よりも許容応力度が劣るものの、ほぼ同様の性質を持ち輪島地の粉を使った下地作業には最適とされている。
歴史
輪島での漆器の生産は古くまで遡ると考えられる。同じ能登半島の三引遺跡(七尾市)からは6800年前の漆製品が発見されている。輪島では平安時代の遺構である屋谷B遺跡で漆製品が発掘されている。
輪島塗の特色を備えたものとしては、山地を挟んで反対側にある穴水町の西川島遺跡群御館遺跡(室町時代前期)で珪藻土を下地に用いた椀が発掘されている。現存する最古の輪島塗は、室町時代の大永4年(1524年)作と伝わる輪島市河井町にある重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)旧本殿の朱塗扉といわれている。
現在のような輪島塗の技術が確立したのは江戸時代寛文年間と伝えられている。この時期にはすでに海運の利を生かして販路を拡大していた。また陸路での行商もおこなわれており、堅牢さが評判の輪島塗は日本各地で使われていた。沈金の始まりも江戸時代享保期、蒔絵は江戸時代文政期にはいってからである。
日清日露戦争で輸出が減衰したが国外の博覧会には毎回出品し、主要生産地の漆器のなかで突出した値段で取引されていたという。
関係年表
元和2年 (1616年)加賀藩は、能登に七木保護の制を布告。自由な伐採を禁じた。
寛永年間 (1624年 – 1643年) 加賀藩は、漆の木の植林を奨励。
享保年間 (1716年 – 1735年) 塗物に彫刻を施す技巧が開発。輪島沈金の始まりとなる。
文政年間 (1818年 – 1829年) 会津塗の蒔絵師安吉から蒔絵の技法を習得。
明治25年 (1892年) 目つぶしカンナが、発明される。
明治36年 (1903年) 蒸気機関を動力とした轆轤(ろくろ)が導入される。
明治45年 (1912年) ロクロの動力が電力になる。
昭和30年 (1955年) 前大峰が重要無形文化財「沈金」の保持者(いわゆる人間国宝)に認定される。
昭和42年(1967年) 石川県立輪島漆芸技術研修所完成
昭和50年(1975年) 旧通産省指定伝統的工芸品指定を受ける。
平成3年(1991年)石川県輪島漆芸美術館開館
平成19年(2007年)3月能登半島地震 震度6強の地震により大きな被害を受ける。
平成20年(2008年)7月7日北海道洞爺湖サミットのG8社交ディナーで乾杯に使用される。山中漆器 山中漆器

山中漆器の特徴は、漉櫨を使った挽物技術にあります。木地の肌に極細の筋を入れる加飾挽きは、山中漆器が最も得意とするものです。また、豪華な高蒔絵を施した茶道具、特に、棄の制作には定評があります。

二俣和紙(ふたまたわし)とは、石川県金沢市二俣町で製造される和紙のこと。養老年間(717年 – 724年)に僧の泰澄が医王山に寺坊を建立し、この時代に紙漉きが始められたのが起源といわれ1300年の歴史を持つ。文禄年間(1592年 – 1596年)金沢二俣が献上紙漉き場として、加賀藩の庇護を受けることになり発展した。主に美術工芸紙・箔打紙・加賀奉書として使用される。

金沢漆器 金沢漆器

金沢漆器は量産よりもむしろ一品物の美術工芸品といった趣が強く、調度品や茶道具が主に作られています。堅牢な塗りと高蒔絵、肉合研出蒔絵などの高度で繊細な加飾の「加賀蒔絵」として知られています。

金沢漆器(かなざわしっき)とは、石川県金沢市で生産される漆器である。

江戸時代に加賀藩は美術工芸を振興し、前田利常の時代には細工所が設立された。藩は京都から五十嵐道甫、江戸からは清水九兵衛いった名工を招聘し、多くの職人が育成された。1899年(明治32年)には金沢漆器同業組合が設立し、中国、インド、欧州への輸出が盛んとなる[2][3]。1980年(昭和55年)には、経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。
金沢漆器は、武家好みの造形に豪華な加賀蒔絵の装飾が施されているのが特長である。

珠洲焼 珠洲(すず)焼

現在の珠洲焼は、長らく途絶えていた珠洲焼を昭和51年に復活させたもので、須恵器の系統を継ぎ、粕薬を使わずに穴窯で焼き締める技法を用いています。珠洲の土は鉄分が多く、1200度で焼くと薪の灰が溶け、それが自然の粕薬となって渋い黒灰色となります。
大樋焼
大樋(おおひ)焼

大樋焼は、茶道と深く関わりながら発展してきた焼き物で、現在では茶碗、水指、花入のほか食器なども作られています。土作りから本焼きまで一貫して手作業で行われ、特徴である飴色の紬薬には雪国にふさわしい素朴で暖かい味があります。

茶の湯釜 茶の湯釜

昔のナベや釜などをつぶした「和鉄」を熔かして、外型と中型の間に流し込んで成型した後、酸化鉄で色を付けて仕上げます。30~50もの種類がありますが、その形は時代とともに変化してきています。茶道の盛んな金沢で脈々と受け継がれてきた工芸品です。
金沢箔 金沢箔

金沢箔の特徴は、金の輝きを失わせることなく1万分の4ミリ以下の厚さ、10円硬貨大のものを墨1枚の広さにまで均一に広げる職人の技術にあります。さらに気候風土や水質が製箔に適していたことで、金沢は金箔の国内生産の98%以上を占めるといわれています。
和紙 和紙

金沢市の二俣は献上紙漉き場として加賀藩の庇護を受け、加賀奉書、杉原紙、高壇紙など高級な公用紙が漉かれていました。このほか県内には金沢市の「西ノ内紙」、川北町の「雁皮紙」、輪島市の「画仙紙」などがあります。
桐工芸 桐工芸

金沢の桐工芸の特長は、蒔絵加飾にあります。木目の美しさに華麗な蒔絵を施している工芸品は全国でも数少ないものです。耐湿、耐火性に優れている桐の特性を生かした桐火鉢や花器、灰皿、菓子器などが生産されています。
檜細工 檜細工

軽くて通気性も良く丈夫な檜細工は、山仕事や農作業用の笠として発展しました。現在は、檜笠のほか網代天井やかご、花器なども作られており、素朴な民芸品として親しまれています。
加賀象嵌 加賀象嵌(ぞうがん)

象嵌とは、鉄や銅合金などの地金の表面を彫り、色彩の異なる金や銀、四分一(銀と銅の合金)などを埋め込んでいくものです。加賀象嵌の特徴は、この埋め込んだ金属が抜け落ちないように表面より奥が台形型に広くなっている「平象嵌」という技法にあります。
金沢表具 金沢表具

金沢表具は、京表具の流れをくみ、百万石文化を反映してどっしりとした渋い仕上がりが多く、寸法は金沢の町家に合わせ、京寸法より短めです。現在は金沢市を中心に古い掛け軸などの文化財の修復にも携わるなど、高度な技術を誇っています。
竹細工 竹細工

茶道や華道の隆盛と共に発展してきました。以来、生活用品も多く作られてきましたが、工業製品の台頭でそれらは減少し、現在では、網代編を主体とした高度な模様編で茶道具や花器などが作られて
います。
鶴来打刃物 鶴来打刃物

鶴来町はその名にもあらわれているように、刃物鍛治が盛んな土地柄で、農耕用から山林用、家庭用まで、生活の中に息づく刃物を作り続けてきました。現在も注文に応じて、非常に珍しくなった「野鍛治」により、クワ、カマ、ナタなどを作っています。
金沢仏壇 金沢仏壇

金沢仏壇の特徴は、上品な蒔絵の美しさにありま丸耐久性を重視した木地、木肌を生かした彫刻、加賀彫りの金具、障子の紗生地に金糸の刺繍、蒔絵に施された象牙や青貝の象嵌、金箔を多用した加飾から「蒔絵仏壇」ともいわれています。
七尾仏壇 七尾仏壇

七尾仏壇の特徴は、堅牢な作りにあります。主に能登の農家向けに受注生産されてきたので、扉は何層式にも折られる大型のものが作られ、運搬に便利な解体できる「柄組み」という技法も開発されました。

七尾仏壇(ななおぶつだん)は、石川県七尾市で生産される仏壇。

手作りによる作業が中心で、堅牢で漆塗りや金箔加工を使用した装飾が特徴

美川仏壇 美川仏壇

美川仏壇の特徴は、漆を何層にも塗り固めたものに型を用いて立体的な紋様を施す「堆黒」の技術にあります。秋田ヒバやイチョウを使った太くて丈夫な木割や錆地による堅牢な下地塗をもとに・内扉に研出などが多用されています。
七尾和ろうそく 七尾和ろうそく

安定した美しい炎が好まれる和ろうそくは、芯作りが重要です。イグサの髄を下地の和紙に巻きつけ、特殊なのりをつけた真綿で仕上げた芯はしっかりとした太さを持ち、安定した炎を作り出します。
加賀毛針 加賀毛針

加賀毛針は、原材料に野鳥の羽毛を使い、その接合部分に漆や金箔を施すなど、美しさと気品にあふれています。また、高度な技術により丈夫で機能性にも優れ、大切に使えば100尾以上の鮎があがるといわれています。
加賀竿 加賀竿

加賀竿は、全天候に対して耐久性があり、かつ軽く扱いやすくするため、若竹を高熱加工して強靭さをもたせ、さらに漆塗で補強と装飾性を加えています。このようにして長期使用にも耐えられる堅牢さをもった実用的な美術工芸品ともいえる加賀竿が出来あがります。
郷土玩具 郷土玩具

城下町金沢の郷土玩具としては、獅子舞や加賀鳶の姿の「加賀人形」、姫だるまの「加賀八幡起上り」、「米喰いねずみ」、「もちつき兎」などがあります。もともと子どもたちの玩具ですが、縁起をかついだり、誕生祝いや病気見舞いにも使われているものもあります。
琴 琴

江戸時代には武家の女性の教養の一つとして数えられていた琴は、明治以降も女性のたしなみとして城下町金沢の生活に根づいていました。金沢の琴の特徴は、蒔絵や螺鈿をふんだんに使った雅なものが多く、楽器の域を超えて芸術品や装飾品といった趣があります。
三弦 三弦

三弦は通称「三味線」と呼ばれ、邦楽や民謡、長唄には欠かせない民俗楽器として、芸能遊芸の非常に盛んな金沢にいまでも受け継がれています。今も常磐津や長唄を習う人の多い金沢では、三弦の生産が行われています。
太鼓 太鼓

石川の太鼓は音が良いことで全国に知られています。原木のケヤキやセンなどの乾燥から始める一貫作業によって作られており、特に皮は江戸時代初期から伝わる技法と霊峰白山を源とする手取川の清流によって鍛えられ、優れた耐久性と独特な音色が生み出されます。
銅鑼 銅鑼

材料は錫と銅の合金である砂張と呼ばれる合金が使われています。
鋳型に流し込んで形成し、表面をまんべんなくたたいて金属を締めた後、焼き入れ、色付けを経て完成した銅鑼は、深い余韻を残した柔らかな音色で茶事席を静めてくれます。
加賀獅子頭 加賀獅子頭

前田家藩主・利家の入城祝いの獅子舞から発展した加賀獅子頭は、八方睨みの眼光も鋭く他産地のものより大きなのが特徴で、原木には白山麓の桐が使われています。かつては、町の守護として各町内に1基、それぞれに名工の手による作品が所蔵されていました。
加賀提灯 加賀提灯

加賀提灯は、竹ヒゴを1本1本切断して骨にすることで、螺旋状に巻いたものとは異なり、伸びが多く、1本が切れても全部がはずれることがない丈夫なものになりました。現在では祭礼用や装飾用として製作されています。
加賀水引細工 加賀水引細工

水引は、元来贈り物の飾りとして主に祝事に用いられました。語源は、麻などを水に浸して皮を剥ぎ、紐としたことにあるといわれ・紙の発達と同時に美しい水引ができたものと伝えられます。松竹梅や鶴亀、宝船飾りなどに加え、近年では人形も作られています。
能登花火 能登花火

割り物と呼ばれる打ち上げ花火は、星・割薬、玉皮・導火線の4つの部分から構成されています。この中で「星」と呼ばれる火薬の塊が、光や音となって空中を飛ぶ、花火の命にあたる部分です。1つの花火にはこの星が、百個から数百個組み込まれています。

加賀七宝(かがしっぽう)

江戸時代中期、加賀藩では釘隠や引手等の金具類に盛んに七宝が施された。 その技法は、鎚起しで全体の形を作り葉脈や鳥の羽の筋を彫り窪め、そこに七宝を施すなど、 高度な金工技術を駆使した象嵌七宝が主流であった。 五代藩主前田綱紀が、将軍徳川綱吉を迎えるに当たり建立した御成御殿にて使用された釘隠し(七宝花籠釘隠、七宝鳥籠釘隠など)は、代表的な作品である。 一連の七宝作品は前田綱紀が収集分類した工芸品のコレクション百工比照の中にまとめられており、重要文化財に指定されている。 その籠に施された各種文様の毛彫り・魚子地・墨指しなどは極めて精巧なもので、 使用された釉薬は濁ったもので、透明感もほとんど無く、洗練されたものではなかったが、 全体的にはそれを補って余りある華やかな意匠を示している。 なお、天保から安政の間には、桃山時代から明治時代まで続いた平田派の七宝師春寛が加賀大聖寺に住み活躍した。

加賀人形(かがにんぎょう)とは、石川県に伝わる郷土玩具のこと。

概要
桐塑製の人形で、男児が獅子頭や纏等を持ち武芸に励む姿を模している。男児の誕生を祝い健やかな成長を願って床の間や玄関などに飾られるほか、縁起物として退職などの際の記念品とされることがある。同じ郷土玩具である加賀獅子頭、加賀八幡起き上がりなどとともに、石川県の稀少伝統的工芸品とされている。産地は、石川県金沢市である。
歴史
加賀藩の第五代藩主前田綱紀の時代に、京都から招かれた人形職人が制作した御所人形の流れを汲んでいる。加賀人形の特徴である獅子頭や纏等を持つ姿が確立されたのは大正時代という。その後、昭和に入り、大橋治三郎(初代晃山)が加賀人形を広めたとされる。初代晃山は加賀人形を工芸作品として世に広めたが、商品として本格的に販売されるようになったのは子の大橋一永(二代目晃山)の時代という。最盛期は昭和30年から40年代で、加賀人形を制作する職人は多いときには約50人いたが、2009年5月時点で6人まで減少している。
制作工程
桐の大鋸屑に麩糊を混ぜ、練って粘土を作る。粘土を木型に詰め、取り出した成型物を乾燥させる。白色の顔料である胡粉をにかわに溶かし、これを乾燥した成型物に何度も塗り重ねて素地を作る。できあがった素地を磨き、人形の表情を決める切り込みを入れ、絵の具で顔を描く。髷や頭髪を付け、加賀友禅などの着物を着せ、獅子頭や纏を持たせて仕上げる。
郵太郎
JR西日本の金沢駅のコンコースに、郵太郎と呼ばれる加賀人形の乗った郵便ポストが設置されている。獅子頭を持った男児の人形で加賀人形の特徴を持つが、陶器製である。

加賀水引
【希少伝統工芸 加賀水引細工】
加賀水引(かがみずひき)は、石川県金沢市(加賀)の希少伝統工芸。 津田水引折型が手がける立体的な折型、立体的な水引細工、美しい書など 加賀百万石らしい美しく豪華絢爛な贈答品の梱包技術を総称したものが加賀水引である。

歴史[編集]
明治時代まで結納や金封にかけられる水引結びや折型は、ほとんど平面的なものだった。 1915年(大正4年)頃、石川県金沢市の津田左右吉(加賀水引初代)が、立体的な和紙の包み方(折型)と、鶴亀や松竹梅などの立体的な水引の結び方(水引細工)を考案し、結納や金封に飾るようになった。
その後、津田左右吉の娘である津田梅(津田水引折型二代目)の代で、加賀水引として全国に知れ渡り、石川県金沢市の伝統工芸 加賀水引細工として定着した。
現在は津田左右吉の4代目である津田宏・さゆみ 5代目 津田六佑が加賀水引を継承している。

加賀水引の創生
明治後期から民間に広まり始めた小笠原流の水引折型。大正4年(1915年)頃、津田左右吉(加賀水引の創始者)はそれを勉強し、結納業を始めた。 しかし、用途別の複雑な決まり通りに折型をきっちりと端正に折り畳むのは、なかなか難しかった。 少しでも折り目が崩れたり、歪んだりすればすぐに品のないものになってしまう。 水引折型は、その清しく端正な容姿にこそ価値がある。左右吉は、熱心に折型を研究し、繰り返すうちに一つのアイディアを思いつく。
・・・平たく折り畳んでしまわず、ふっくらとしたまま折り目を付けず、それを胴のあたりでぐっと水引で引き結ぶ。 そうすることで、技術的なアラが目立たず、楽に、しかもボリュームのある華やかなフォルムが出来上がる。・・・
今でも受け継がれ使われる、いかにも加賀百万石の雰囲気を漂わせた綺麗な結納品の水引折型は、 こうした苦心の末の、いわば逆転の発想によって生まれ完成したものだった。 また、こうした立体的な折型には、必然的に、立体的な水引の結び(水引細工)の創始が伴う事となった。 今日、全国的に見る水引折型のルーツは、この時期、彼による創案の影響が色濃いのである。

金箔(きんぱく)は、金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く伸ばし、箔状態にしたもの。紀元前1200年頃にエジプトで製造が始まったと考えられている。
現在は真鍮からなる「洋金箔」も普及しており、本来の意味での金箔は「純金箔」として区別される。 以下、特に断りがない限り、純金箔について述べる。

金箔のうち、もっとも利用される四号色という規格では、金94.43%、銀4.9%、銅0.66%を、厚さ約0.0001ミリメートルに伸ばしたものである。したがって、1立方センチメートルの金から、約10平方メートルの金箔をつくることができる。こうした大きな展性により、わずかの純金を用いて広い面積にわたって上質な輝きと光沢が得られることから、表面装飾に用いられることが多く、箪笥・屏風などの家具類、襖などの建具類、漆器などの工芸品、仏像、仏壇などの美術品、金閣寺に代表される建築物の外装・内装など、多くのものに対して利用されている。また工芸技術として、金箔を漆器などに用いるための沈金・蒔絵、仏像を荘厳するための截金などが発達した。
歯学分野においては、金箔を直接歯の中に詰める直接金修復法といった治療法も存在する。
金箔製造の副産物として有名なのが、あぶらとり紙である。金地金を叩き広げる際、地金を挟むために用いられる箔打ち紙が、皮脂もよく吸収することから転用されるようになった。金箔製造に10年以上用いられた箔打紙は、「ふるや紙」とも呼ばれ、高級品としてもあつかわれる 。

九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。

歴史
古九谷

九谷焼始祖「後藤才次郎紀功碑」(左)と「古九谷窯址」(右)、加賀市山中温泉九谷町

古九谷の皿
大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている。
「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。
これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった。
東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された。
以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 – 1650年代の肥前産と考えられている。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある。
再興期
古九谷の廃窯から、約一世紀後の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。
再興期の主な窯元
括弧内は開窯時期
春日山窯(文化4年-1807年)
若杉窯(文化8年-1811年)
小野窯(文政2年-1819年)
民山窯(文政5年-1822年)
吉田屋窯(文政7年-1824年)
木崎窯(天保2年-1831年)
宮本屋窯(天保3年-1832年)
蓮代寺窯(弘化4年-1847年)
松山窯(嘉永元年-1848年)
春日山窯は京風、若杉窯は有田風、吉田屋窯は古九谷風を得意とした。春日山窯開窯以前の天明年間に、ほぼ同じ場所で越中国城端の焼物師、殿村屋和助という人物が窯を開いていた記録があるが、どのような焼物であったのかは、判っていない。
中興の祖
九谷庄三(くたにしょうざ、文化13年(1816年)-明治16年(1883年)は、寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現在の志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。
新九谷
明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子を始めとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。
また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

合鹿椀(ごうろくわん)は、石川県能登町(旧柳田村)の合鹿地方でつくられる漆器椀のこと。

特徴
床に置いた状態で、食事が出来るように、通常より高台が高い特有の形で知られる。
漆の技法は平安時代末期に出現した渋下地漆器という技法を受け継いでおり、輪島塗の特徴の一つである布着せを行っている。
歴史
成立は不明だが、文献で最も古いものは元禄7年(1694年)、現存する合鹿椀も元禄年間のものと分析されている。漆の技法は柿渋を下地として使う平安時代末期の技法を継承しているが、成立を中世までとする証拠は発見されていない。
合鹿椀は明治時代まで作られていたが、他の漆器や陶磁器に押されて、一旦は生産が途絶えていた。その後、昭和63年(1988年)より旧柳田村文化財保護審議会委員の呼び掛けによって本格的な調査が始まり、平成5年(1993年)に調査結果の報告書『合鹿椀』(発行/柳田村)がまとめられ、合鹿椀類として村の文化財に指定された。
平成21年(2009年)、珠洲市生まれの木彫作家であった大宮静時により復元された。その後、輪島塗の作家である角偉三郎も合鹿椀を創作している。

花嫁のれん(はなよめのれん)とは、日本の石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。
幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀・能登・越中の地域で行われた。平成時代に入っては石川県能登地方の観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている(第5353935号)。
これに使用されるのれんは、多くは加賀友禅で仕立てられ、上部には新婦実家の家紋が染め抜かれている。代表的な図柄に「鶴亀」が用いられる。のれんは婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り(婚家系譜に入るこを先祖へ報告)」をした後、結婚式に臨む。式から1週間、仏間の入口にそのまま掛けられ(或いは仏間内に移さたうえで衣桁に飾られ)、仏間に在するとされる婚家先祖の霊(及び現代では祝賀に訪れた近隣住民)に対し新婦実家の系譜をその家紋に依って明示し、同時に、婚家当主の立場から祖先へ婚礼事実の報告を行う。花嫁のれんは、婚礼当日(および、僅か1週間の披露期間)のためだけに個別制作すなわち新婦実家によって発注され、新婦実家から婚家へ嫁入り道具の一環として贈られる。使用期間が短いにも関わらず高価かつ非実用品であるため、現代においては(西洋のウェディングドレス同様に)母親が嫁ぐ娘へ自身の花嫁のれんを譲る例がある。

二俣和紙(ふたまたわし)とは、石川県金沢市二俣町で製造される和紙のこと。養老年間(717年 – 724年)に僧の泰澄が医王山に寺坊を建立し、この時代に紙漉きが始められたのが起源といわれ1300年の歴史を持つ。文禄年間(1592年 – 1596年)金沢二俣が献上紙漉き場として、加賀藩の庇護を受けることになり発展した。主に美術工芸紙・箔打紙・加賀奉書として使用される。

上にあるような人間国宝の作品や地元の焼き物が家や蔵に眠っている場合は是非ご連絡ください!!

九代 岩野 市兵衛(人間国宝)

重要無形文化財 平成12年指定
代表和紙:越前生漉奉書
人間国宝であった先代岩野市兵衛氏より手漉き和紙古来の技法を受け継ぎ、木材パルプなどを使用しない100%楮だけを使用した生漉き奉書一筋に専念してきた。
1978年に九代目岩野市兵衛を襲名。2000年6月に、国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定される。
精選された国内産の楮を原料とし、越前和紙に伝わる古来の技法にしたがい作られた強靭な和紙は、版画紙として多くの美術作家に提供されている。

主な作品

「越前和紙で魅せるエバレット・ブラウンの世界展

三代 岩野 平三郎

県無形文化財 昭和50年指定
代表和紙工芸:打雲 飛雲 水玉
初代岩野平三郎の技法を受け継ぎ、雲肌麻紙などの画紙抄造につとめ、現代日本画の作家たちとの交流を深めている。
越前和紙古来の紙漉き模様「打雲・飛雲・水玉」の技法を継承し、県無形文化財に指定される。
「打雲」は地紙を漉いて、水が切れた頃、藍と紫の紙料を上下に雲のように漉き込む。「飛雲」も同様にして、ちぎれた雲のように漉き込む。「水玉」は地紙の上に水を含ませたわら束で水滴を落して作る技法である。

福田 忠雄

県無形文化財 平成12年指定
代表和紙工芸:墨流し
無地の紙に模様をつける技法の一つで、平安時代から伝えられている。
一子相伝、門外不出の技法として、特定の家に限りという形で継承されてきた。
墨流しは、水をはった水槽に墨、紅、藍などの染料と松脂を含んだ筆を水面に交互におとし、模様をつくる。これを和紙に吸い取らせる技法。
氏は地域的特有を有し、工芸史的に価値の高い墨流しの伝統的技術の保持者である。

越前和紙の歴代の紙匠たち一覧

越前和紙の歴代の紙匠たち
日本画紙の創始者 初代 岩野平三郎
紙漉きの神様といわれた日本画紙の創始者
国無形文化財
(人間国宝) 八代 岩野市兵衛(故人)
九代 岩野市兵衛
県無形文化財 三代 岩野平三郎
福田 忠雄

越前焼

越前焼のカップ

越前陶芸村・文化交流会館

越前陶芸村・福井県陶芸館
越前焼(えちぜんやき)は、福井県丹生郡越前町の主に宮崎地区(旧宮崎村)・織田地区(旧織田町)で焼かれる陶磁器(炻器)。釉薬を用いずに高温で焼成されるときに薪の灰が器に流れ出し、溶け込む自然釉の風合いで知られる。
歴史は非常に古く、平安時代から始まったといわれるが、長く無名であったが第二次世界大戦後小山富士夫等により日本六古窯の一つにあげられた際に越前焼と名付けられた。それまでは「織田焼」と呼ばれていた。当初から壺や甕、擂り鉢などの台所用品が作られていき、他の古窯が江戸時代に茶器などを焼いていった中で、越前焼だけは決して趣向を変えることなく、雑器を焼き続けていった。そのため江戸末期から明治には衰退の一途を辿り、一時は廃絶の危機に追い込まれた。  復興の契機は1970年(昭和45年)に作られた越前陶芸村で、これを境に窯元が急増、観光客が多く訪れるようになった。今日では若い感覚の作品も多く見受けられるが、基本は古くからの焼き締めが中心となっている。1986年(昭和61年)に通商産業省(現在の経済産業省)から伝統工芸品の指定を受けている。
越前焼の興隆と時を同じくして衰退し消滅した能登半島の珠洲焼とは流通範囲がほぼ重なる点と自然釉等の共通点から、越前焼による珠洲焼の駆逐、或いは珠洲焼の技術者達の集団移動等が研究されている。

越前漆器(福井・鯖江)

福井県で古くから馴染みの深い、漆を使った伝統工芸品です。
漆が生活のすみずみに息づく越前。優しく温かい漆器をはぐくむ越前。越前は、そんな潤いに満ちた麗しき漆の国なのです。
遊び心をかたちにして暮らしに彩りを添えたいとき、特別な日をもっと輝かせたいとき、集まったみんなの気持ちをいっそう引き立たせたいとき・・・。越前漆器産地では、暮らしの中のいろいろな場面で漆器が活躍しています。
古くは約1500年前に、福井県鯖江市にある片山集落から始まった越前漆器は、その技術や歴史、産地から、伝統工芸品として認定されています。
日常的に使う食器やインテリア小物、重箱や茶道具まで、身近な製品が数多く生産されており、福井県の外せないお土産のひとつとしても、大変人気があります。
「うるしの里会館」では、絵付けや沈金、拭き漆の体験ができるので、ぜひ訪れて、伝統の技にふれてみてはいかがでしょうか。

越前和紙(福井・越前)

「紙の王様」とも称される、日本の紙文化の中心的存在です。
千年以上もの長い歴史と伝統に育まれた「越前和紙」
紙漉きに用いる簾の細かい模様が美しい紙です

越前和紙の製造工程は実に多く、基本となる8つの工程、それに和紙の種類・職人の一手間から来る追加工程からなっております。これらの工程は古くから伝わるもので、越前和紙産地の特色により創意工夫されたものであります。

高級手すき和紙の産地として、日本一のシェアを誇る、福井県・越前市。
職人の高い技術ももって作られた伝統工芸品、歴史ある美しい和紙は、古くから現代まで、多くの人々に愛されています。
越前和紙の里には、和紙に関する資料が展示されている「紙の博物館」や、便せんや名刺、短冊や壁紙などの商品販売や、紙すきの体験ができる「パピルス館」があり、たくさんの観光客や見学客が訪れます。

若狭めのう細工(福井・小浜)

鮮やかな朱色が美しく輝きます。
赤く透き通るような輝きと驚くほどの細工。『若狭めのう細工』は、置物やアクセサリーとして根強い人気があります。

江戸時代から手作業のめのう細工。天然石の光沢は職人技で輝きを増し、繊細な細工で最高級品となります。

古くから「七宝」のひとつに数えられる天然石のめのうを、原石に熱を加えて赤くし、天然石の傷に配慮しながら注意深く研磨して作り上げる、福井の伝統工芸品、若狭めのう細工。
職人技で磨き上げられた最高級品の輝きは素晴らしく、人の心を魅了します。
若狭工房では、めのう磨き体験を行うことができ、自分だけのオリジナルアクセサリーを作ることができます。

若狭塗り(福井・小浜)

漆を何度も塗り重ねては研ぐ、福井の伝統工芸品です。
極上(ごくじょう)の漆を十数回塗り、貝殻(かいがら)・卵殻(らんかく)・金銀箔(きんぎんぱく)で模様を付け、石や墨(すみ)で研ぎ出し、数ヶ月から1年の月日をかけて作られる

模様を先に入れ、その上に極上漆を数回塗り、石で研ぎ出し、さらに木炭で肌を細かくする「研ぎ出し技法」の特徴から、その製品は熱気、水気にも変化しにくく、美術品としてだけでなく丈夫な実用品としても高く評価されています。

若狭塗箸は、福井県・若狭小浜市での生産が全国80%のシェアを占めており、米大統領にも贈呈された、伝統工芸品です。
箸のふるさと館WAKASAでは、約3000種類の箸が展示・販売されているほか、若狭塗箸の研ぎ出し体験ができます。親しい人やお世話になった方へのお土産にもぴったりですね!

越前打刃物(福井・越前)

700年の歴史を持つ、福井の伝統工芸品です。
日本古来の火づくり鍛造技術、手仕上げという工程を守り続けているのが越前打刃物です。約700年の歴史を持ち、刃物産地として、全国で初めて国の伝統的工芸品の指定(昭和54年)を受けました。

越前打刃物独特の「二枚広げ」や「廻し鋼着け」という技法を使い、切れ味鋭い包丁や刈込はさみ、鎌を作っています。

越前打刃物は、南北朝時代に、現在の福井県越前市で、農民のために鎌を作ったことが始まりとされています。
その歴史と技術は高く評価されており、昭和54年に、全国の刃物産地として初めて、伝統工芸品の指定を受けました。
越前刃物会館では、たくさんの種類の包丁や鎌の展示・販売の他、事前予約で製造工程の見学や体験コーナーがあります。

越前焼(福井・越前)

素朴ながらも頑丈で風情のある焼物です。
越前焼は、壺・甕・すり鉢の3器種を中心とした生活雑器や、経筒・骨壺などの宗教的用途としても使用されていました。

越前焼に使われる土には鉄分が多く含まれ、耐火性も強いため、表面が赤黒・赤褐色の焼き上がりとなり、土が焼き締められました。

もともとは、須恵器を焼いていた越前で、平安時代後期に、常滑技術を取り入れて焼き締め陶を作り始めたのがはじまりとされる福井の伝統工芸品、越前焼は、陶芸ファンだけでなく、目にして、触れる人たちに、なんとも言えずほっとする温かみと、しっかりとした手ごたえを感じさせてくれます。
陶芸館や越前焼の館では、たくさんの種類の食器や雑貨、壺などの展示や販売ができるほか、越前焼陶芸体験などができます。ぜひ一度、足を運んでみては!

越前箪笥(福井・越前)

江戸時代後期から作られている、シンプルかつ力強い箪笥です。
越前箪笥が製作されるようになったのは、江戸末期から明治初期にかけて旦那衆の家に出入りしていた『指物師』が始りといわれている。

伝統的工芸品『越前箪笥』は、その箪笥が越前で製作されたかどうか?判断する特徴的な金具にあります。その中でも鉄の金具にたくさんのハートの形がくり抜かれている事が特徴的なのです

福井県越前市を中心に、江戸後期から作り続けられてきた箪笥などの家具を「指物」と呼びます。越前指物のうち、2013年に伝統工芸品に認定された越前箪笥は、職人の匠の技と、いつまでも色あせない本物だけが醸し出す重厚感と、時代に合わせて工夫されたデザインなどにより、多くの人々に愛され、使い続けられています。

手打ちそば作り用具
越前美化木
よもぎ草染
春江木芸
越前和蝋燭
銀杏材木工品
越前岳人形
三国箪笥
名田庄木工品
武生桐箪笥
越前水引工芸
若狭パール
若狭和紙
うるしダルマ
三国仏壇
越前指物
武生唐木指物
越前鬼瓦
丸岡神具
鯖江木彫
油団

越前漆器

上に書いてあるような人間国宝作家や地元の焼き物が家や蔵の中に眠っていて売却などしたい方は是非ご連絡ください!!

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店舗案内

新原美術 しんはらびじゅつ

OPEN/CLOSE 9:00~18:00(年中無休)
TEL 0766-22-7303 / FAX 0766-30-8048
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販売店舗紹介

新原美術 富山高岡本店

大正12年創業
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富山県高岡市鴨島町40−1

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定休日 不定休

電話番号 0766-22-7303

新原美術 展示場(antique shop 樹)

新原美術本店近くにあった旧松本建具の物件を買取改装して2019年にopen致しました。

伊万里焼や大聖寺伊万里を中心に1000点以上を展示しています。

買取も行なっています。

富山県高岡市鴨島町52

営業時間 12:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-73-2171

新原美術 東京店

2022年1月にopen致しました。

都内では珍しい大聖寺伊万里を中心に北陸の器を取り揃えています。

東京都台東区台東3-33-5 宝誠ビル1階

営業時間 10:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 03-6284-4649