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中臺瑞真(なかだい ずいしん、1912年8月8日 -2002年4月23日)は日本の木工芸家。重要無形文化財「木工芸」の保持者に認定(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては大野昭和斎とともに3番目の認定者(1984年認定)である。
概要
千葉県出身。祖父が大工だったことが木工芸に進むきっかけとなった。14歳で竹内不山に師事、茶の湯指物を修業するが、作品には刳物が多い。刳物は素材を手彫りで削って窪みを作り、主に容器などに造形する。桐材を好む。
経歴
1912年 千葉県千葉市検見川生まれ
1962年 第9回日本伝統工芸展入選
1980年 日本工芸会木竹工部会長
1983年 勲4等瑞宝章
1984年 重要無形文化財「木工芸」保持者に認定
菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉 – 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)とは、近世日本の画家。江戸初期に活動した浮世絵師の一人。生年は寛永7-8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵を確立した人物であり、すなわち最初の浮世絵師である。
来歴
浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。
それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本「私可多咄」(無款)であるとされ、翌寛文12年(1672年)、墨摺絵本「武家百人一首」(千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、天和3年(1683年)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において100種以上の絵本や50種以上の好色本に筆をとっている。
祖父は藤原七右衛門と云い、京都在住であったが、父の吉左衛門は菱川を称し、安房国平郡保田本郷(現・千葉県鋸南町)に移住、道茂入道光竹と号した。師宣はここで暮らす縫箔師[2]の家に生まれた。俗称を吉兵衛、晩年は友竹と号す。明暦の大火(明暦3年)の後、万治年間に海路によって江戸に出て狩野派、土佐派、長谷川派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、その上に市井[3]の絵師らしい時代感覚に合った独自の新様式を確立した。はじめは古版絵入り本の復刻の挿絵、名所絵などで絵師としての腕を磨いている。江戸に出て初めは縫箔を職として上絵を描いていたが、生来絵が巧みであったので遂に絵画を職としたのであった。江戸では堺町、橘町、人形町などに転住していた。また、京都へ行ったことも考えられる。
寛文後期から延宝前期には、無署名本が殆どであったが仮名草子、浄瑠璃本、吉原本、野郎評判記、俳書などの挿絵を中心に活動し、画技の研鑽に励んだ。やがて延宝中期、後期になると絵入り本、絵本で吉原もの、歌舞伎もの、名所記などや風俗画その他で個性を現し、絵本や枕絵本を刊行、師宣様式の確立という大きな転換期を迎えた。枕絵本は延宝3年(1675年)刊行の無署名『若衆遊伽羅之縁』、同3、4年頃刊行の『伽羅枕』、延宝5年(1677年)刊行の『小むらさき』などが早期の作品である。『伽羅枕』では「絵師 菱河吉兵衛」、『小むらさき』では「大和絵 菱川吉兵衛」と署名する。延宝5年にはほかにも近行遠通撰の地誌絵本『江戸雀』十二巻12冊などの挿絵を描いている。
その後延宝6年(1678年)刊行の役者絵本『古今役者物語』1冊、絵本『吉原恋の道引』や、元禄4年(1691年)刊行の絵本『月次(つきなみ)のあそび 』1冊、師宣没後の元禄8年(1695年)刊行の絵本『和国百女』三巻1冊などを著している。また天和元年(1681年)刊行の半井卜養の狂歌絵本『卜養狂歌集』二巻2冊の挿絵をしたことも知られている。これらを通して上部に文章、中・下部に絵という師宣絵本の基本形式が整ってきており、延宝8年(1680年)正月刊行の『人間不礼考』、同年5月刊行の『大和絵つくし』に至ると、上部3分の1乃至4分の1に文章、下部に絵という形式が確立される。当世絵本、風俗絵本の分野においての師宣の評価は動かし難いものとなったのであった。『大和絵つくし』は古代中世の故事、伝記、説話を大和絵で表現し、「大和絵師 菱川吉兵衛尉」と署名するなど、当世の大和絵師、菱川師宣の立脚点をも示した作品として記念碑的意味を持つものといえる。天和に入るとその活躍は一層目覚しいものとなり、悠揚迫らぬ美女群が画面一杯に闊歩する。この天和を挟んだ約10年間が師宣の最も充実した時期であった。天和2年(1682年)に大坂で井原西鶴の『好色一代男』が著されると、二年後の江戸刊行の際には師宣が挿絵を担当した。また、同じ天和2年刊行の絵本『浮世続』、天和4年(1684年)刊行の絵本『団扇絵づくし』も知られている。
貞享3、4年頃からは円熟味と引換えに様式の固定化が目立つようになった。明暦の大火直後の再建の槌音も高い江戸市民の嗜好に、師宣ののびのびとして翳りのない明快な画風もマッチしていた。『吉原恋の道引』、『岩木絵つくし』、『美人絵つくし』などを見ても線が太く若々しいものであった。その好色的な図柄も開けっ広げで、健康的なのは時代の目出度さと思える。落款に「大和画工」や「大和絵師」という肩書きをつけているのも、その自負、自覚の表れである。また、絵図師の遠近道印(おちこち どういん)と組んで制作した『東海道分間絵図』(神奈川県立歴史博物館所蔵)は江戸時代前期を代表する道中図として知られている。大衆の人気を得た師宣は好色本を主に次々と絵入り本を刊行、やがてその挿絵が観賞用として一枚絵として独立、墨一色による大量印刷により、価格も安く誰でも買えるものになった。「吉原の躰」、「江戸物参躰」、「大江山物語(酒呑童子)」や、無題の春画組物など墨一色で、稀に筆彩された独自の様式の版画芸術が誕生し、ここに浮世絵が庶民の美術となったのであった。
師宣は屏風、絵巻、掛幅と様々な肉筆浮世絵も描いており、それらは江戸の二大悪所といわれた歌舞伎と遊里、隅田川や花見の名所に遊び集う人々や遊女であった。その大らかで優美な作風は浮世絵の基本的様式となっていった。なかでも、「見返り美人図」は師宣による一人立ち美人図であるという点で珍しい作例で、歩みの途中でふと足を止めて振返った印象的な美人画様式は、まさに榎本其角の『虚栗』において「菱川やうの吾妻俤」と俳諧で謳われたそのものであるとみられる。師宣は肉筆浮世絵では「日本繪」と冠していることが多い。
元禄7年(1694年)年6月4日、師宣は江戸の村松町(現・東日本橋)の自宅で死去し、浅草において葬儀が行われた。終生故郷を愛した師宣の遺骨は房州保田の別願院に葬られた。菩提寺は府中市紅葉丘の誓願寺。法名は勝誉即友居士。
門人には、師宣の子、菱川師房、菱川師永、菱川師喜の他に古山師重、菱川友房、菱川師平、菱川師秀ら多数おり、工房を形作っていたといわれる。故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある(外部リンク先を参照のこと)。
作品
『拾弐図』の内「衝立の陰」 菱川師宣 画
菊の花を揺らす秋風を感じ、小川のせせらぎを聞きながら、衝立の陰で若い男女が睦み合おうとしている場面。
1670年代後期から1680年代初頭の頃(延宝年間)に描かれた春画。大判・墨摺絵筆彩(墨摺りの木版画に筆で着彩したものであり、浮世絵・草創期の古態)。春画揃物『拾弐図』の第1図。同じ揃物には他に第2図「低唱の後」などあり。春画揃物では通常、第1図・第2図での露骨な性描写は控えられる。これらの絵はそういった種類のものである。
代表作としては、世界的に有名な肉筆浮世絵である「見返り美人図」があげられる。また春画も数多く描いている。
肉筆浮世絵
「見返り美人図」(みかえりびじん ず)
代表作にして、師宣の代名詞的1図。美人画。肉筆画(絹本[5]著色[6])。東京国立博物館蔵。女性は、17世紀末期当時の流行であった女帯の結び方「吉弥結び(きちやむすび)」と、紅色の地に菊と桜の刺繍を施した着物を身に着けている。それらを美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿で描かれたものと考えられる。
同時代で年下の絵師・英一蝶は本作に刺激を受けてか、対抗するかのように、構図等に類似点の多い1図「立美人図」を描いている。
文化7年(1810年)の山東京伝による箱書があることから、おそらく幕末には好事家の間で知られていた可能性が高い。また博物館に収蔵された時期も早く、60番という若い列品番号がそれを物語っている。
現代日本では昭和23年(1948年)11月29日発行の記念切手(「切手趣味週間」額面5円)の図案に採用され、これが日本の記念切手の代表的かつ高価な一点となったことも本作が大衆に周知されるに少なからず影響した。
「歌舞伎図屏風」 (かぶきず びょうぶ)
風俗画。歌舞伎小屋の様子を描いた、六曲一双(紙本金地著色)の屏風。東京国立博物館蔵。重要文化財。無款であるが師宣の作として扱われる代表作の一つ。向かって右から、芝居小屋の表から始まり、華やかな舞台と賑やかな客席が描かれた右隻と、雑然とした楽屋と隣接する芝居茶屋での遊興の様子を描いた左隻からなる。小屋の櫓に掲げられた銀杏の紋と入り口の役者名の看板から、元禄5年(1692年)以降の中村座の様子を描いたものと判明できる。あらゆる階層・年齢の人物、総勢285名の表情や姿態を臨場感をもって巧みに描かれており、その完成度の高さから最晩年の作品と考えられる。
「北楼及び演劇図巻」 絹本着色 一巻 東京国立博物館所蔵
「浮世人物図巻」 紙本着色 絵巻 東京国立博物館所蔵
「大江山鬼退治絵巻」 紙本着色 三巻 藤田美術館所蔵
「不破名護屋敵討絵巻」 紙本着色 一巻 浮世絵太田記念美術館所蔵
「虫籠美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「見立石山寺紫式部図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「髪梳図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「秋草美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「遊楽人物図貼付屏風」 絹本着色 6曲1双 出光美術館所蔵
「遊里風俗図」 絹本着色 一巻 出光美術館所蔵 寛文12年(1672年)
「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「江戸風俗図巻」 絹本着色 二巻 出光美術館所蔵
「二美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵(伝菱川師宣)
「浄瑠璃芝居看板絵屏風」 紙本着色 6曲1双 出光美術館所蔵(伝菱川師宣)
「長者観桜酒宴の図」 紙本着色 たばこと塩の博物館所蔵
「元禄風俗図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 無款 伝菱川師宣筆
「紅葉狩図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「江戸風俗絵巻」 紙本着色 MOA美術館所蔵
「振袖美人図」 絹本着色 奈良県立美術館所蔵
「立美人図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
「桜下二美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「角田川舞台図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「上野・隅田川遊楽図屏風」 紙本着色 6曲1双 千葉市美術館所蔵 無款
「室内遊楽図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「天人採連図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「秋草美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵
「行楽美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵
「職人尽図巻」 絹本着色 大英博物館所蔵
「地蔵菩薩図」 紙本着色 大英博物館所蔵
「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本着色 6曲1隻 ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 無款
「上野花見・隅田川舟遊図屏風」 紙本着色 6曲1双 フリーア美術館所蔵
「上野花見図押絵貼屏風」 絹本着色金泥 6曲1隻 ボストン美術館所蔵
吉原・「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本金地着色 6曲1双 ボストン美術館所蔵 無款
「変化画巻」 紙本着色 1巻 ボストン美術館所蔵 貞享2年(1685年)作 菱川師宣及び菱川師房ら弟子達よる寄合書
「花鳥・物語図帖」 1帖 絹本着色 心遠館(プライス・コレクション)所蔵 無款
「吉原風俗図巻」 1巻15図 紙本着色 ジョン・C・ウェーバー・コレクション 延宝末年頃[7]
墨摺絵
「よしはらの躰」 横大判 12枚揃 東京国立博物館所蔵 延宝後期頃
「江戸物参躰」 横大判 12枚揃 延宝後期から天和頃
「衝立のかげ」 筆彩 大判 慶應義塾図書館所蔵 無款
「よしはらの躰 揚屋の遊興」 横大判 12枚組物のうち 千葉市美術館所蔵
「延宝三年市村竹之丞役者付」 大判 無款 城西大学水田美術館所蔵
「大江山物語絵図」 横大判 筆彩 12枚揃 天和から貞享頃
丹絵[
蹴鞠 大判 東京国立博物館所蔵 無款
安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年 – 1983年)は、日本の洋画家。
来歴・人物
千葉県生まれ。3歳の時、父が教員として赴任するため茨城県結城郡水海道町(現常総市)に移り住む。茨城県立水海道第一高等学校卒業後一時教職に就くが、退職して洋画を学ぶ。
生前、売り絵を描かなかったため、画商がつかなかった。生前の親交により、遺族から静岡県のK美術館に数十点の作品が寄贈されている。
年表
1897年 – 千葉県に生まれる
1929年 – 帝展初入選
1937年 – 文展特選
1939年 – 文展で無鑑査出品となる
1951年 – 日本水彩画会会員になる
1957年 – 日展審査員に就任。東京教育大学教授に就任、ろう者の美術教育に力を注ぐ
1968年 – 日展評議員に就任
1974年 – 日展参与に就任
1983年 – 死去。享年86(満85歳)
荒木 淳一(あらき じゅんいち、1955年 – )は、日本の洋画家。千葉県千葉市出身。愛知大学文学部フランス文学科卒業。
経歴
13歳で油絵を描き始めるが、中学生の頃より自己表現の手段としての文学を志し、1975年4月に愛知大学文学部フランス文学科に入学する。初めは小説家志望だったが、大学在学中に演劇に魅せられ戯曲作家志望に転向した。
1979年愛知大学卒業後ソルボンヌ大学文化学科に留学。パリではシネマテックやシネ・コンプレックスなどで映画三昧の日々を過ごした。小津安次郎、溝口健二、黒澤明、大島渚など日本の映画監督の作品の多くは当時日本映画プームだったパリで観た。また、フランス国内を始めスペイン、オランダ、ベルギー、西ドイツ、オーストリア、スイス、ギリシャなどを旅しそれらの国々の建築や美術、人々の生き方に多大のインスパイアーを受けた。
1981年帰国後本格的に油絵を描き始め、1986年より公募展に出品を始めた。1989年より成田禎介の描く風景画に惹かれ日展系の美術団体示現会展に出品、大内田茂士(1990年日本芸術院会員)の知遇を得て1991年より師事した。
1991年に示現会の会友に推挙され同人となるが、1994年師 大内田茂士の没後の第47回示現会展出品を最後に同会を退会し無所属となった。
1992年の初個展以来、馴染み深いパリ風景とポルトガルの風景が主なモチーフだったが、1996年1月の浦和伊勢丹での展覧会以降「イタリアの風と光」「イタリア 煌めく光の中で」「イタリアの空と大地」などイタリア風景を中心とした展覧会が開催されるようになった。
1995年ギャラリーGKでの展覧会で柔らかい風合いで表現したオイルオンペーパーの作品が初めて発表された。
1996年~1997年評論家種村季弘のプロデュースにより西武百貨店5会場で展覧会が開催された。
2001年「日本におけるイタリア年2001」に因んで「イタリア2001年の旅」と題された展覧会がイタリア文化会館(イタリア大使館文化部)の後援により、4月の高岡大和を皮切りに2002年7月の大宮そごうまで全国23会場で開催された。
2007年の弘前中三より「黒猫のいる風景」が発表された。その後2009年沖縄リウボウでの展覧会よりオイルオンペーパーで描かれた作品にシリアルナンバーが付された黒猫のいる風景「黒猫百景」シリーズが始まった。
2001年のアート未来展出品以降個展主義を続けていたが、2012年の第44回ローマン派美術協会展に23年振りに出品、奨励賞を受賞し会友に推挙され同人となった。
2013年第45回ローマン派美術協会展にて特選を受賞し会員に推挙されたが2014年の第46回ローマン派美術協会展出品を最後に同会を退会し再び無所属となった。
2015年第38回白亜会展に出品し同人に推挙された。
人物
フランス留学から帰国後、本格的に絵を描き始めたが、30代半ばまではシステムエンジニアの仕事をしていた。
演劇的な要素を大切にし「人がホッとするような絵を描きたい」と語る荒木氏。その作風はイタリア、フランス、ポルトガルを中心とした南欧の明るい風景画に描き出されている。
個展主義である。
ラーメンフリークである。
1960年代の東映フライヤーズ時代からの熱烈な北海道日本ハムファイターズファンである。
猫好きで黒猫、トンキニーズなどを飼っている。
人物
フランス留学から帰国後、本格的に絵を描き始めたが、30代半ばまではシステムエンジニアの仕事をしていた。
演劇的な要素を大切にし「人がホッとするような絵を描きたい」と語る荒木氏。その作風はイタリア、フランス、ポルトガルを中心とした南欧の明るい風景画に描き出されている。
個展主義である。
ラーメンフリークである。
1960年代の東映フライヤーズ時代からの熱烈な北海道日本ハムファイターズファンである。
猫好きで黒猫、トンキニーズなどを飼っている。
活動
主な出品・受賞歴[編集]
1987年 ローマン派美術協会展 出品(~’89年)・会友推挙
1988年 ローマン派美術協会展 「坂のある風景」にて地球人賞 受賞・会員推挙
1989年 示現会展 出品(~’94年)
1991年 示現会展 会友推挙
1999年 一線美術会展 出品 会友推挙
2000年 新作家美術協会展 招待出品
2001年 アート未来展 出品 会員推挙
2012年 ローマン派美術協会展 出品(~’14年) 「二人の尼僧」にて奨励賞 受賞・会友推挙
2013年 ローマン派美術協会展 「アルファマ」にて特選 受賞・会員推挙
2015年 白亜会展 出品 同人推挙
主な展覧会
個展
1992年 京橋・アートギャラリー京ばしにて個展(’93,’94年)
1994年 「碧い額縁の中の繪のように」 表参道・ギャラリー華音留にて個展
1994年 丸の内・ぎゃらりー友美堂にて個展(’95年)
1995年 大分トキハにて個展(’06年)
1995年 銀座・牧神画廊にて個展
1995年 日本橋東急にて個展(’96,’97年)
1995年 「エトランゼ」 銀座・ギャラリーGKにて個展
1995年 「海を見ていた午後」 表参道・ギャラリー華音留にて個展
1996年 銀座・画廊春秋にて個展(’97年)
1996年 浦和伊勢丹にて個展(’97,’14年)
1997年 千葉三越にて個展(’98,’99,’00,’01,’03年)
1997年 フィレンツェ・ガレリアDEAにて個展
1997年 プランタン銀座にて個展
1997年 仙台三越にて個展
1997年 藤沢さいか屋にて個展
1998年 名古屋三越にて個展(’00,’02,’04,’06,’08,’10年)
1998年 「プロヴァンスの風に吹かれて」新宿・ギャラリートーニチにて個展
1998年 香林坊大和にて個展(’00,’05年)
1998年 横浜三越にて個展(’99年)
1998年 京都近鉄百貨店にて個展(’99,’00,’01,’02,’03年)
1998年 福島中合にて個展
1998年 「荒木淳一’S GARDEN」表参道・ギャラリー華音留にて個展
1998年 松戸伊勢丹にて個展
1999年 千葉市花の美術館にて個展
1999年 小倉井筒屋にて個展(’05,’07,’09,’11,’13,’15年)
1999年 藤沢小田急百貨店にて個展(’10年)
1999年 長崎浜屋にて個展(’01,’04,’06年)
1999年 岡山天満屋にて個展
1999年 横須賀さいか屋にて個展(’00年)
1999年 上本町近鉄百貨店にて個展(’02,’10年)
2000年 豊橋丸栄にて個展(’02,’04,’06,’08,’09,’11,’13,’15年)
2000年 仙台藤崎にて個展
2000年 新宿小田急百貨店にて個展
2001年 岐阜高島屋にて個展(’03,’05,’07,’10,’12,’14年)
2001年 高岡大和にて個展(’03,’04,’07,’08,’10,’11,’15年)
2001年 熊本岩田屋にて個展(’02年)
2001年 米子高島屋にて個展(’03,’05,’07,’10,’12,’14年)
2001年 松山三越にて個展(’03,’05年)
2001年 福山天満屋にて個展(’04,’06年)
2001年 町田小田急百貨店にて個展(’03,’05年)
2001年 梅田大丸にて個展
2001年 帯広藤丸にて個展(’08年)
2001年 佐野・ギャラリーファンタジアにて個展
2002年 青山・ピガ画廊にて個展
2002年 下関大丸にて個展(’12年)
2002年 新潟大和にて個展(’04年)
2002年 富山大和にて個展(’04,’06,’08年)
2002年 鹿児島山形屋にて個展(’05,’07年)
2002年 高崎高島屋にて個展(’04,’08,’11,’13年)
2002年 鳥取大丸にて個展(’04,’06,’07,’08,’09,’11,’12,’13,’14,’15年)
2003年 函館棒二森屋にて個展 (’04,’06,’08,’13,’14,’16年)
2003年 神戸大丸にて個展 (’05,’08,’12年)
2003年 池袋三越にて個展
2003年 横浜高島屋にて個展
2003年 博多大丸にて個展(’05,’07,’09,’11,’13,’15年)
2004年 沖縄三越にて個展(’05,’06,’07,’08年)
2004年 広島三越にて個展(’06,’08,’10,’12,’14年)
2005年 大阪高島屋にて個展(’08,’10年)
2006年 松江一畑百貨店にて個展(’08,’10,’11,’13,’15年)
2006年 札幌丸井今井にて個展
2007年 松山いよてつ高島屋にて個展(’09,’10,’12,’14年)
2007年 高松天満屋にて個展
2007年 酒田マリーン5清水屋にて個展(’08,’09,’10,’12,’13年)
2009年 沖縄リウボウにて個展(’10,’12,’13,’14年)
2010年 長崎大丸にて個展(’11年)
2010年 佐賀玉屋にて個展(’11,’12,’14,’15,’16年)
2010年 京都大丸にて個展(’13年)
2010年 岡山高島屋にて個展(’12,’14年)
2011年 山形大沼にて個展(’13,’14年)
2013年 心斎橋大丸にて個展(’15年)
2013年 和歌山近鉄百貨店にて個展(’15年)
2014年 京阪百貨店にて個展(’16年)
2015年 札幌東急百貨店にて個展(’16年)
2016年 広島福屋にて個展
グループ展
1994年 「’94 さまざまなる歌」(井上公三、小浦昇、望月通陽、山中現 他)赤坂・山の上ギャラリー
1996年 「爽風会展」(蛭田均、大見伸、掛川孝夫、丸山勉、大竹山規、滝沢直次 他)丸の内・ぎゃらりー友美堂
1996年 「彩の国さいたま ゆかりの作家絵画展」(小松崎邦雄、斉藤三郎、智内兄助、石原靖夫、内田晃 他)川口そごう
1997年 「彩の国ゆかりの作家絵画展」(黒沢信男、徳田宏行、滝沢直次、島根清 他)大宮そごう
1999年 「カラリスト展」(赤穴宏、大沢昌助、織田廣喜、神戸文子、草間彌生、田村孝之介 他)京橋・金井画廊
主な作品
欧州風景
1999年 プチカナルの朝(65.2×33.4cm)
2000年 サンジョルジュの丘(F20)
2001年 二人の尼僧(M30)
2002年 ペルージャ(33.4×72.7cm)
2003年 ゴンドリエ(65.2×33.4cm)
2006年 ベネチアの運河(33.4×72.7cm)
2007年 シエナ(27.3×60.6cm)
2008年 フィレンツェ(72.7×145.5cm)
2009年 プロバンスの風に吹かれて(F20)
2010年 サンマルタン運河の朝(33.4×65.2cm)
2010年 西教会の見える風景(P10)
2010年 窓からローマが見える(27.3×60.6cm)
2011年 サンティッシマ アンヌンツィアータ広場(33.4×65.2cm)
ベネチアのサラシリーズ
ベネチアの街角を舞台に、至福の時の象徴としての少女(サラ)と旅人(作者自身)または旅人の視線(作者自身の視線)が描かれている。1997年より制作されているシリーズである。
2000年 ベネチアのサラ(72.7×33.4cm)
2001年 ベネチアのサラ(M8)
2001年 ベネチアのサラ(P12)
2013年 ベネチアのサラ(72.7×33.4cm)
誕生花
一年365日のその日ごとに定められた誕生花を描いた作品を2010年より制作している。
2010年 りんごの花(SM)
2013年 勿忘草(F3)
2014年 デンドロビウム(SM)
オイルオンペーパー
洋紙に油絵の具を用いた自由な形と浮世絵のような風合いを持つ紙油彩を1995年より制作している。
欧州風景
2000年 フィレンツェ(20×80cm)
2002年 SEASIDE WEEKEND(15×50cm)
2003年 ベネチアの夕暮(12×36cm)
2007年 リンツ郊外の雪景色(17×25cm)
2011年 モンサンミッシェルの夕暮(12×36cm)
黒猫のいる風景シリーズ
世界の街角で月「ツキ」を手招く黒猫が描かれたシリーズ。2009年に10作、以後は毎年新作が5作程度発表され2027年頃に100作「黒猫百景」が完結される予定。
作品は1作につき100点づつシリアルナンバーが付されて制作される。
2009年- 1 黒猫のいる風景・フィレンツェ(5×5cm)(8×8cm)
2009年- 2 黒猫のいる風景・大きな月を招く猫(ベネチア)(5×5cm)(8×8cm)(8×10cm)(10×15cm)
2009年- 3 黒猫のいる風景・月についている猫(5×5cm)(8×8cm)(8×10cm)(10×10cm)
2009年- 4 黒猫のいる風景・パリ(10×15cm)
2009年- 5 黒猫のいる風景・コインブラ(5×5cm)(8×8cm)
2009年- 6 黒猫のいる風景・大きな月を招く猫(ベネチア)(5×15cm)
2009年- 7 黒猫のいる風景・ベネチア(15×5cm)
2009年- 8 黒猫のいる風景・ゴンドラの上の猫(15×5cm)(17×6cm)
2009年- 9 黒猫のいる風景・サンチャゴ・デ・コンポステーラ(8×6cm)
2009年- 10黒猫のいる風景・真実の口(5×5cm)
2010年- 11黒猫のいる風景・モンマルトル(8×8cm)
2010年- 12黒猫のいる風景・リスボンの窓辺(10×15cm)
2010年- 13黒猫のいる風景・エボラ(10×10cm)
2010年- 14黒猫のいる風景・アッシジ(8×8cm)
2010年- 15黒猫のいる風景・プロバンス(5×5cm)
2011年- 16黒猫のいる風景・眼鏡橋の桜と尾曲がり猫(5×5cm)(8×8cm)
2011年- 17黒猫のいる風景・満開の桜と月を招く猫(5×5cm)(8×8cm)
2011年- 18黒猫のいる風景・溜息橋 (10×8cm)(15×10cm)
2011年- 19黒猫のいる風景・アルファマ(8×8cm)
2011年- 20黒猫のいる風景・ナザレ(8×8cm)
2012年- 21黒猫のいる風景・グラナダ(8×8cm)
2012年- 22黒猫のいる風景・サントリーニ(8×8cm)
2012年- 23黒猫のいる風景・リスボン(13×20cm)
2012年- 24黒猫のいる風景・ナザレ(8×8cm)
2013年- 25黒猫のいる風景・モンサンミッシェル(10×10cm)
2013年- 26黒猫のいる風景・ムーラン・ド・ラ・ギャレット(10×10cm)
2013年- 27黒猫のいる風景・富士山(13×20cm)
2013年- 28黒猫のいる風景・グラナダの裏通り(10×10cm)
2014年- 29黒猫のいる風景・サントリーニの風車(10×10cm)
2014年- 30黒猫のいる風景・ブルージュ(10×10cm)
2014年- 31黒猫のいる風景・草原の羊と猫(10×10cm)
2015年- 32黒猫のいる風景・ロカ岬(10×10cm)
2015年- 33黒猫のいる風景・ナポリとベスビオ(10×10cm)
2015年- 34黒猫のいる風景・ベルビル(10×10cm)
2015年- 35黒猫のいる風景・猿と猫(13×20cm)
版画
2007年 フィレンツェ(33.4×72.7cm)を200部制作。
その他
カレンダー
2000年 川口信用金庫カレンダー画担当
2001年 川口信用金庫カレンダー画担当
2002年 川口信用金庫カレンダー画担当
2002年 (株)セノンのカレンダー画担当
2003年 川口信用金庫カレンダー画担当
2004年(株)セノンのカレンダー画担当
2008年 川口信用金庫カレンダー画担当
年賀状
2010年以降2027年まで年賀状には『黒猫のいる風景』シリーズを使う予定である。
2010年 黒猫のいる風景・サンチャゴ・デ・コンポステーラ
2011年 黒猫のいる風景・エボラ
2012年 黒猫のいる風景・溜息橋
2013年 黒猫のいる風景・サントリーニ
2014年 黒猫のいる風景・富士山
2015年 黒猫のいる風景・草原の羊と猫
2016年 黒猫のいる風景・猿と猫
浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) – 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
生涯
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
1907年12月16日、リウマチにより入院中の東京大学病院において心臓麻痺のため死去[1]。墓地は京都の金地院。
櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 – )は、日本を代表する洋画家。
経歴
1919年、印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎に生まれる。千葉県立(旧制)佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスヴィシー国際展グランプリ受賞。
1967年の第10回日展(日本美術展覧会)において特選を受賞。1969年の改組第1回日展で再び特選を受賞。その他、岡田賞、ル・サロン銅賞など受賞。国際的にも評価が高い。日展審査員、評議員を経て2001年に日展参与に就任。内閣総理大臣より紺綬褒章を受章。さらに2005年にも日本国天皇より紺綬褒章を受章。 八千代松陰学園に30周年記念のために140点以上を寄贈した。校内に展示されている。
桜田精一(さくらだ せいいち、1910年 – 1999年)は日本の洋画家。日展参与。画家・桜田久美の実父であり、小林武雄や大野みつ子など、優れた門下生を輩出した洋画壇の巨匠である。
略歴
1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる[1]
1933年 日本美術学校洋画科を卒業
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する
1939年 帰国し上京する
1940年 日本美術学校講師に就任
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる
1949年 千葉県美術会を創設に参加
1957年 58年まで約1年間渡欧する
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任
1974年 十柯会同人
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる
1980年 日展評議員となる
1982年 野田市文化功労表彰を受ける
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する
1987年 小山敬三美術賞を受賞する
1987年 日展参与に就任
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける
1992年 勲四等瑞宝章を受章する
1994年 紺綬褒章を受章する
1999年 千葉県野田市で永眠
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催
2009年 千葉県立美術館にて「櫻田精一展 生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催
略歴
1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる[1]
1933年 日本美術学校洋画科を卒業
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する
1939年 帰国し上京する
1940年 日本美術学校講師に就任
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる
1949年 千葉県美術会を創設に参加
1957年 58年まで約1年間渡欧する
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任
1974年 十柯会同人
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる
1980年 日展評議員となる
1982年 野田市文化功労表彰を受ける
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する
1987年 小山敬三美術賞を受賞する
1987年 日展参与に就任
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける
1992年 勲四等瑞宝章を受章する
1994年 紺綬褒章を受章する
1999年 千葉県野田市で永眠
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催
2009年 千葉県立美術館にて「櫻田精一展 生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催
概要
鈴木鵞湖は江戸時代末期に下総国千葉郡豊富村(現:千葉県船橋市金堀町)に生まれた。江戸に出た後は谷文晁、相沢石湖に学んだ。代表作の1つである『十六羅漢像図』は千葉県指定文化財になっている。専門家の間では「近代美術の基礎を築いた」とも評されている。また、鵞湖の後を少したどると息子の石井鼎湖、孫の石井柏亭、石井鶴三と三代にわたってその資質を継ぎ、いずれも画壇で活躍している。なお、石井姓は、鼎湖が養子にいったことによる。2005年に郷土に大きく貢献した鈴木鵞湖を研究する為の「鈴木鵞湖研究会」が金堀町に続く鈴木家を含めた有志で結成され、歴史に埋もれてしまっている郷土出身の画家の足跡を明らかにする為の活動が行われている。
吉橋 秋月(よしはし しゅうげつ、1826年 – 1903年)は、日本の芸術家である。
1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。
石井 鼎湖(いしい ていこ、嘉永元年(1848年)3月‐明治30年(1897年)11月2日)は、明治時代の日本画家、版画家。
来歴
谷文晁の門人であった鈴木鵞湖の次男。江戸の生まれ。後に石井姓を名乗る。幼名は貞次郎、名は重賢。幼時より父に絵を学ぶ。安政6年(1859年)、仙台藩士の造船家三浦乾也の養子となる。文久2年松代藩士村上英俊よりフランス語を学びはじめ、翌3年(1863年)に石井家を継いだ。
明治3年(1870年)大蔵省に出仕し、紙幣や公債証書の下絵図案を作る担当する。明治7年(1874年)に紙幣寮に入って銅版画、石版画を習得、さらに松田緑山の開業にも参加、石版画の指導にあたった。明治28年(1895年)、印刷局を辞した。明治10年(1877年)には中丸精十郎に洋画も学び、明治17年(1884年)からは自ら創立に加わった精研会の展覧会に洋画を毎海出品。明治21年(1888年)日本美術協会第一部委員となる一方、翌22年(1889年)の明治美術会創立にも参加し評議員となる。明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会において「豊太閤醍醐花見」で妙技三等賞を受ける。日本美術協会の展覧会で受賞を重ね、明治29年(1896年)には特別賞を受賞、洋画壇で一定の評価を築いた。
また、川上冬崖、国沢新九郎にも師事していた。明治30年(1897年)には日本南画会の結成にも参加するなど、日本画、洋画双方にわたる幅広い活動を行い、歴史上の人物を取り上げた作品も多く制作した。享年50。墓所は護国寺共同墓地九通。法名は重誓院釈賢道信士。長男は版画家で洋画家の石井柏亭、三男は彫刻家の石井鶴三である。
吉橋 秋月(よしはし しゅうげつ、1826年 – 1903年)は、日本の芸術家である。
1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。
吉橋 秋月(よしはし しゅうげつ、1826年 – 1903年)は、日本の芸術家である。
1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。
略歴
1881年、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、明治31年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学。学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。明治36年同科を卒業、同校研究科(現在の東京芸術大学大学院)に進むがすぐに退学し、同年に旧制福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)図画教師に赴任。翌年同校教師を免じられ、一年志願兵として軍役に服務。明治38年からは京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に標本描画嘱託として解剖教室に勤務、人体解剖図を専門に写実した。一時兵役のため休職ののち、大正2年まで勤務。ついで九州日報社(現在の西日本新聞社)社友となり昭和の初めまで画筆をとる。その後西新町の自宅で画家、俳人、表具師などの文化人グループを結成。昭和26年1月25日、没。享年71。
後藤 純男(ごとう すみお、1930年1月21日 – )は日本画の画家。
昭和5年(1930年)、千葉県東葛飾郡関宿町(現野田市)に生まれる。昭和7年(1932年) に埼玉県北葛飾郡金杉村(現松伏町)へ転居。昭和61年(1986年)に内閣総理大臣賞を受賞、昭和63年(1988年)から平成9年(1997年)まで東京藝術大学美術学部の教授を務めた。平成18年(2006年)に旭日小綬章を受章する。平成28年(2016年)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する。歌人の米川千嘉子は姪。
略歴
1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の真言宗豊山派の住職後藤幸男の子として生まれる。
1932年 埼玉県金杉村(現・松伏町)へ転居。
1942年 金杉小学校を卒業する。同年、父後藤幸男が母校で教師を勤めていた旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)入学
1945年 郷里の旧制埼玉県立粕壁中学校(現春日部高等学校)第4学年へ転入。
1946年 粕壁中学校卒。山本丘人に師事。
1949年 田中青坪に師事。
1952年 再興第37回日本美術院展覧会(院展)に初入選。5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙。
1955年 約8年間の関西、四国における真言宗の寺を巡るスケッチ旅行を始める。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待に推挙。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。
1974年 日本美術院同人に推挙。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院名誉教授に就任。
1986年 再興第71回日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学美術学部教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家の後藤仁がいる。
1993年 真言宗豊山派の総本山長谷寺に襖絵「夏冬山水」を奉納。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2014年5月10日 大分県玖珠郡九重町田野1712-707 九州芸術の杜内に常設で後藤純男リトグラフ館を開館。(原画とリトグラフ)
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
現在 日本美術院同人理事。中国西安美術学院名誉教授。
後藤 仁(ごとう じん、1968年 – )は、平成時代の日本画家・絵本画家。日本の伝統技法を活かした描法により、アジアや日本各地に取材した美人画を中心に、風景画、花鳥画等を手がける。また、日本画の技術を用いて高級壁紙の金唐革紙や、絵本の原画等の制作を行う。師系は後藤純男。日本児童出版美術家連盟会員、絵本学会会員、日本中国文化交流協会会員。
概要
兵庫県赤穂市生まれ。小学校1年生の時に大阪府堺市に移る。小中学生の頃は、水彩・アクリル絵具による空想画を多く描く。15歳の時、大阪市立工芸高等学校美術科に入学して、油彩画・彫塑・デザイン・製図・デッサン等とともに日本画を学び、高校2年生で日本画を専攻する。大阪市立工芸高等学校美術科を実技・学科ともに首席にて卒業する。同校の卒業生には、日本画家の稗田一穂らがいる。この子供時代に、岡本太郎が審査委員長をつとめる絵画コンクールで佳作受賞する等、各種絵画公募展での入選・受賞は14回に及ぶ。
高校卒業後は東京に上京し、美術予備校の立川美術学院日本画科で村上隆、菅原健彦らに、デッサン・着彩を2年間学ぶ。21歳で東京藝術大学絵画科日本画専攻に入学。当時の学長は平山郁夫である。大学では教授の加山又造、後藤純男、福井爽人らに日本画を学ぶ。大学3年生より金唐革紙(きんからかわし。手製高級壁紙のこと)の復元製作を始め、以後約12年間に「入船山記念館(呉市)」、「移情閣 ・孫文記念館(神戸市)」、「旧岩崎邸(台東区)」等の重要文化財建造物の復元事業に携わり、この技術も日本画制作に取り入れる。(現在、金唐革紙製作の完全な知識・技術を保持しているのは後藤仁のみとなり、2006年より金唐革紙保存会を主宰する[3][4][5][6]。)東京藝術大学の卒業制作は、インドネシアのボロブドゥール遺跡に取材した「昇殿」(F150号)。
大学卒業後は後藤純男に師事して、日本画家として活動をする。卒業に前後し、後藤純男に同行して沖縄本島、北海道(富良野、知床の流氷)、東北(会津若松、田沢湖、角館)等への写生旅行をする。活動初期は国内外の取材をもとに、プランバナン遺跡等の古代遺跡や阿蘇山・斜里岳等の自然をモチーフにした雄大な風景画や、野に咲く花々を多く描く。1998年頃より「アジアの美人画」をテーマに、アジアや日本の伝統文化・舞踊等に取材した人物画を中心に描く。
現在までに、「ちばぎんアートギャラリー日本橋」等の画廊で多くの日本画個展を開く他、後藤純男門下による「翔の会日本画展(銀座松坂屋)」等のグループ展を全国の美術館・画廊・百貨店で多数開催する。絵画公募展での入選・受賞は、「三渓日本画賞展2000(横浜三渓園)」入選(審査委員 中島千波、平松礼二、草薙奈津子 他)、「新生展(新生堂南青山)」入選(審査委員 千住博、中島千波、大矢英雄、籔内佐斗司 他)、「北の大地展(北海道)」佳作、「F展(大阪市立美術館)」大阪市立美術館館長奨励賞、等がある。また、「紙の博物館(東京都王子)」、「呉市立美術館(広島県呉市)」、「大英博物館(イギリス)」等の金唐革紙展の製品を製作・展示する。
日本画作品の特長としては、作家独自の鋭く繊細な鉄線描(てっせんびょう。法隆寺金堂壁画等に見られる技法)、幻想的・物語的な空間表現、中国の少数民族や各国の民族衣装の華麗な色彩表現、人物の清楚な美しさと人物の心を表出した目の描写の印象強さ等が挙げられる。また、アジア各国や日本各地での単独取材旅行を多く行う。
現在、千葉県松戸市にアトリエをかまえ、「アジアの美人画」を中心画題として描く他、風景画や花鳥画等の小品も描く。また、アジアの民話を元にした絵本の原画制作等、日本画を軸とした様々な絵画表現を探求している。金唐革紙保存会 主宰、日本児童出版美術家連盟 会員、絵本学会 会員、日本中国文化交流協会 会員、この本だいすきの会 会員。
栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 – 2003年)は、日本の水墨画家。千葉県生まれ。
内閣総理大臣賞、国際文化交流功労特別賞などを受賞。 国画水墨院名誉顧問。水墨画の世界的巨匠である。
栗原克実の次男、栗原志保見もスペインを拠点とし、絵画活動を行っている。
略歴
1922 – 千葉県生まれ
1982 – 千葉県野田市二中校長退官
1982 – 文部大臣奨励賞受賞
1985 – 日中水墨交流協会理事
1989 – 内閣総理大臣賞受賞
1995 – 国画水墨院会長
1997 – 大分県杵築市に栗原克実美術館が開館
1997 – 国画水墨院名誉顧問
1997 – 国際文化交流功労特別賞
2003 – 死去
ロッカクアヤコ Rokkaku Ayako(1982年1月24日 – )日本の現代美術家。千葉県出身、在住。A型。
筆などを一切使わず、手で直接キャンパスや段ボールに描く。その独特のスタイルで行われるライブペインティングや、色彩豊かな作品で知られる。2006年スイスでのアートバーゼル出展時に行ったライブペインティングで100枚以上を描き完売。現在、人気・評価ともに日本よりもヨーロッパで高く海外での活動が中心になっている。2007年12月に国内初となる大規模な個展が開催された。
主な展覧会
2007年
ART SINGAPORE (シンガポール・アートフェア)
GALERIE MODERNE (デンマーク・個展)
ART AMSTERDAM (アムステルダム・アートフェア)
ART COLOGNE (ケルン・アートフェア)
GALLERY DELAIVE (アムステルダム・個展)
ART AGNES (東京・アートフェア)
2006年
NADA ART FAIR (マイアミ・アートフェア)
GARELIE AAA (パリ・個展)
GEISAI #10 (東京・アートフェア)
TOKYO GG NIGHT (東京・イベント)
TOKYO GIRLS COLLECTION (東京・ファッションショー)
VOLTA show02 (バーゼル・アートフェア)
GEISAI #9 (東京・アートフェア)
受賞歴[編集]
GEISAI#4 スカウト賞
第8回エネルギー賞入選
GEISAI#9 後藤明男賞
GEISAI#10 スカウト賞
流浪馬里奥(さすらいまりお、1977年7月6日 – )は、日本の水面画家、旅人。マーブリング技法で書きあげる水面画、ライブ投影した空間美術を手がける。松戸市立松ヶ丘小学校卒業。青蘭学院女子高等学校中退(現/青稜中学校・高等学校)。趣味は旅行、キャンプ。特技は編み物、野宿。
来歴・人物
長女。小学生から書道(水墨画、マーブリング)、剣道を習っている。2012年剣道は在籍中。本名でバラエティー番組の再現VTRなどに出演、「桜木たか子」の芸名でモデル活動をしていた事もある。本人によるブログを通じてバックパッカーとしても知名度が高い。
旅観
[icon] この節の加筆が望まれています。
1996年より東北、関東、関西、沖縄を拠点にバックパック一つで予定を組まない快楽を追求した一人旅を始める。現地に住み込むなどして現地と触れ合いながらながら旅をしていた。2004年から数年間は、気の合う旅人達と日本を含むアジア大陸を車泊、野宿、ヒッチハイク、徒歩などで旅をする。野宿旅を好むため、女性に見られないように短髪で金髪にしていたことがある。旅中に感極まって泣いているが、Thailandに滞在中バックパックに荷物が収まらなくなってしまった時、節約のため現地の鞄屋で下取り交換してもらったが愛着がありすぎて手放す際に大号泣した。2006年タイのワットポー寺院にてタイ古式マッサージ、タイ式フットマッサージのライセンスを取得している。2008年香川県を最後に日本全国制覇した。行った国の現地語(文字と数字)は覚えるようにしている(文字は地図が読める様に、数字は買い物で騙されない様にとの事)東日本大震災後、物資を集め宮城県にボランティアに行っている。
美術・芸術観
[icon] この節の加筆が望まれています。
マーブリング技法を基に絵具を水の上でコントロールし、水の中で生まれた偶然と必然を抜き取った独創的世界の作品や、独自の技法で色の濃淡を創り出した水墨画の様な作品がある。白壁に映し出すマーブリング空間パフォーマンスにて舞踏家、バレエダンサー、ミュージシャンなどと舞台、公演に参加している。
2012年に奈良県で開かれた個展「水楽-Suigaku-」では着物の帯に仕立てた長さ28m40cmのマーブリング作品を展示。
紙作品だけでなく動画でも作品公開をしている。
2012年のGAO(歌手)のLIVEにて旅とアートについてインタビューを受ける。
千葉市文化祭のLIVEにて桂扇生(落語家)よりインタビューを受ける。
2015年1月3日、千葉県松戸市に流浪馬里奥のもみほぐしリラクゼーションサロンがオープンされる。
香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) – 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
略歴
1844年、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市)に生まれる。佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で書学を学び、書風は初め成徳書院書学所の師範の平林庄右ェ門、同岡田耕鶴(長尾流)らの御家流の影響を受けた。のちに日下部鳴鶴に学ぶ。1881年に千葉師範学校習字科の教師となり、翌年、初の小学校の習字教科書『楷書千字文』を刊行。その他、文部省から依頼を受けて国定教科書の習字の手本を執筆し、800冊以上の教科書を出版、全国の書道教育の定着に貢献した。明治44年9月、66歳で没する。墓は千葉県千葉市中央区弁天4丁目の常光山本敬寺(ほんきょうじ)墓地にあり、千葉市中央区千葉寺町の千葉寺に彰徳碑がある。
波の伊八(なみのいはち、宝暦元年(1751年) – 文政7年(1824年))は、安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)生まれの宮彫師、武志伊八郎信由。
人物
江戸時代中期には、建築様式として欄間を飾る彫刻が流行していた。多くの彫刻師が競うなか、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた人物がいた。初代伊八こと、武志伊八郎信由である。
伊八は、下打墨村で代々名主を務めた武志家の5代目として生まれたといわれている。10歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を初めて彫り以来作風を確立し、同世代に活躍した葛飾北斎の「富嶽三十六景」の代表作の1つ、「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたといわれ、文政7年に没するまで意欲的に作品を造り続けた。
その作風は、五代目伊八(高石伊八朗信月:明治23年-昭和29年)まで200年に亘って続き、房総南部を中心に神社や寺院の欄間彫刻などに秀れた作品を残した。
石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5日 – 1973年(昭和48年)3月17日)は、日本の彫刻家、洋画家。
略伝
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、1910年に東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、以降、日本版画協会の会長、理事長を務めている。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られ、1944年東京美術学校教授。1950年日本芸術院会員、1961年日本美術院彫塑部を解散、1963年東京芸術大学名誉教授、1967年勲三等旭日中綬章受章、1969年相撲博物館館長。享年87。墓所は護国寺共同墓地九通の石井氏墓、法号なし。
1925年(大正14年)、平櫛田中の子供が亡くなったとき葬儀も出せずにいた時に、新聞社の挿絵代金を封を切らずに平櫛に渡した。 鶴三の芸術家の一面を示す有名な話。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三美術資料室がある。
藤野 天光(ふじの てんこう、男性、1903年9月27日 – 1974年12月30日 )は日本の彫刻家。本名は藤野隆秋。別号は舜正。
群馬県館林市生まれ。音楽家の村上正治とともに千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめる。
略歴
1903年 館林市に生まれる
1928年 東京美術学校(現東京芸術大学)彫塑部卒業、北村西望に師事
1929年 帝展初入選(以後連続入選、特選3回)
1938年 新文展特選「銃後工場の護り」
1939年 ニューヨーク万博出品
1945年 市川文化会設立。市川市美術会結成、理事長
1947年 日本彫刻家連盟設立に参加
1948年 千葉県美術会結成、常任理事
1949年 日展審査員
1952年 千葉県文化財専門委員を委嘱され議長を務める
1954年 翌年にかけて師・北村西望と共に筆頭助手として長崎の「平和祈念像」を制作
1966年 日本芸術院賞受賞。千葉県美術会理事長
1969年 日展理事
1973年 第28回若潮国体モニュメント8mの大作「輝く太陽」制作(千葉県)
1974年 各団体に呼びかけ市川市芸術文化団体協議会を設立。千葉県美術会会長理事長として千葉県立美術館を建設。12月30日逝去
1975年 1月24日県美術会葬弔演奏会(市川交響楽団、指揮村上正治、千葉県立美術館)。従五位勲三等瑞宝章受章
2003年 遺族が、346作品(ほとんど石膏作品)を館林市に寄贈
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 – 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。
帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。
生涯
千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。1889年、佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)に学ぶ。また和歌を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書『万葉集』を写し作歌を学んだ。この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになる。そこで、秀真は、秀綱に上京したい、と願い出た。秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れた。しかも上京の資金は、代々受け継がれていた土地を売って準備してくれた。秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されている。
1891年、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に首席で合格、鋳金科へ進み1896年に卒業。卒業制作は『上古婦人立像』。その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚。翌年、長男香取正彦が生まれる。
1898年に「日本美術協会展」で『獅子置物』が褒状1等になり、1900年のパリ万国博覧会で銀賞碑を受けるなど国際的に活躍。しかし実際には作品はなかなか売れず、厳しい生活が続いていた。鋳金を行うには、模型や鋳型を作ったり、金属を溶かしたりするので、一人では出来ず、何人かの弟子とともに生活していた。秀真は妻の嫁入り道具を売り、彼らを養った、といわれている。やがて、極度の貧困生活に耐えかねた妻、たまが、故郷に帰ってしまい秀真は途方に暮れる。そんな時、印西市吉高に住む友人、富井惣之助の家を何度か訪れては、実家や養父に言えぬ心の内を明かしていたという。秀真の身の回りの世話をしていた養母の母である、金子うしの協力もあり、秀真は再起の努力を続け、1903年に再婚。1933年には東京美術学校教授となり学問として母校で「鋳金史」「彫金史」などを講義、多くの後進を育てた。秀真はこの後意欲的に作品を制作。その技術を高め、名実とともに鋳金の世界の第一人者として認められるようになる。また、金工史の研究にも取り組み『日本金工史』『金工史談』『日本鋳工史』など学術著書は40冊を超え、同時に多くの研究論文も残す。また帝国美術展覧会(現在の日展)の工芸部設置では同郷の津田信夫と共に尽力し、金工(金属工芸)を美術として社会的に認知させる努力をした。1934年12月3日帝室技芸員となる。1953年、これらの功績を認められ文化勲章を叙勲された。同年に文化功労者として顕彰。
伊藤左千夫、長塚節らと正岡子規門下の根岸短歌会のアララギ派の歌人としても活躍し1954年の宮中新年歌会始の召人として召歌を奏上することが許された。生前に『天之真榊』など数冊の歌集を出版した。小説家の芥川龍之介、高浜虚子とも親交があったとされる。
1954年に急性肺炎のため81歳で没する。墓所は豪徳寺(東京都世田谷区)。
香取 正彦(かとり まさひこ、1899年 1月15日- 1988年11月19日)は、日本の鋳金工芸作家。1977年(昭和52年)に梵鐘の分野で重要無形文化財保持者(「人間国宝」)に認定された。
来歴
1899年(明治32年)、香取秀真と母たまの長男として東京小石川に生まれる。まもなく両親の出身地、現在の千葉県佐倉市へ移り、幼少期を佐倉で過ごす。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)の鋳金科に入学し、主任教授津田信夫の指導を受ける。製作にあたっては、古典研究を基礎とした。1925年(大正14年)に東京美術学校鋳金科を卒業。同年パリ万国装飾美術工芸博覧会(「アールデコ万博」)に「苺唐草文花器」を出品し銅牌を受賞。帝国美術院展覧会の工芸部門においては1930年(昭和5年)から3年続けて特選を受賞し帝展無鑑査となる。
終戦後は戦争中に供出された仏具・仏像などの文化財修理・保護に尽力。1949年(昭和24年)から梵鐘制作を始め、比叡山延暦寺、成田山新勝寺、広島平和の鐘(1967年)を手がける。1953年(昭和28年)、芸術院賞。1954年(昭和29年)より日本伝統工芸展が開かれ,第3回展から審査委員を委嘱される。1977年(昭和52年)4月25日には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。1981年に梵鐘制作100点を達成し『百禄の鐘』を出版。1987年(昭和62年)には日本芸術院会員に推挙された。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 – 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。
経歴
1875年、千葉県の佐倉に佐倉藩医である津田長人の長男として生まれる。佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て1895年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学。鋳金を専攻。卒業後の2年後には東京美術学校の助教授になり、後に教授を務める。東京美術学校が公共事業として注文を受けた日比谷公園噴水やアーク燈、日本橋の装飾など公共施設の鋳造を多く手掛け近代的な都市づくりに貢献する。1923年(大正12年)には金工の研究の為にヨーロッパへ留学し、イタリア、イギリス、ギリシャ、フランス、ドイツ等で、当時ヨーロッパで流行していた装飾様式のアール・デコなどを学ぶ。1925年(大正14)のパリ万国博覧会では日本代表として審査員を務める。この博覧会で日本のデザインの停滞ぶりと各国の新潮流に衝撃を受け、当時のヨーロッパの工芸の状況を日本へ伝え、若手工芸家に大きな影響を与えた。1946年(昭和21)に72歳で没する。
濤川 惣助(なみかわ そうすけ、弘化4年(1847年) – 明治43年(1910年)2月9日)は、日本の七宝家。東京を中心にして活躍、無線七宝による絵画的表現を特色とし、京都で活躍した並河靖之と共に二人のナミカワと並び評された。
略歴
濤川惣助は1847年(弘化4年)に下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれた。その後に陶磁器等を扱う貿易商となったが、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会を観覧して七宝の魅力に目覚め、直ぐに七宝家の道に転進した。同年中に尾張七宝の職人達を擁する東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収し、2年後の1879年(明治12年)には革新的な技法となる無線七宝を発明した[要出典]。
機械工業が未熟であった当時の日本にとって伝統工芸品の輸出は貴重な外貨獲得手段(殖産興業)であり、明治政府は当時の欧米で頻繁に開催されていた万国博覧会を、伝統工芸品を輸出するための恰好のショーケースと位置づけていた。濤川はこの流れに乗って国内外の博覧会に自らの作品を出展して数々の賞を受賞した。極一部を取り上げるにとどめるが、1881年(明治14年)に開かれた第2回内国勧業博覧会では名誉金牌を、1883年(明治16年)のアムステルダム万博と1885年(明治18年)のロンドン万博では金牌を、1889年(明治22年)に開催されたパリ万博では名誉大賞を受賞している[要出典]。
1887年(明治20年)にはアーレンス商会と同じく尾張七宝の職人達を擁していた名古屋の大日本七宝製造会社の東京分工場も買収した[要出典]。
1896年(明治29年)6月30日にはその優れた創意と技術が認められ帝室技芸員に任命された。七宝の分野で帝室技芸員に任命されたのは濤川と並河靖之の2人だけである[要出典]。苗字の読みが同じ2人は国内で「東京の濤川、京都の並河」と称され、その名声は海外の美術愛好家にも知られていた[要出典]。
作品の特徴 ─無線七宝─
濤川惣助の銀製透胎七宝(1900, ウォルターズ美術館)
濤川の作品の特徴は無線七宝という革新的な技法を採用していることである。従来の有線七宝の製作においては釉薬を挿す際の色の間仕切り兼図柄の輪郭線として金線や銀線を利用していて、これが作品の図柄を引き立てる役割も担っていた。一方、無線七宝では最終的に釉薬を焼き付ける前の段階で敢えて植線を取り外している。これにより図柄の輪郭線がなくなり、それぞれの釉薬の境界で釉薬が微妙に混ざり合うことで微妙な色彩のグラデーションが生まれ、写実的で立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能になっている。また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝を使い分けることによって、遠近感や水面に映る影を表現することにも成功している[要出典]。
作品の図柄には日本画的なものが多く、柔らかな無線七宝の表現と調和するためか乳白色等の淡い色彩の地のものが多い。また宮内省から多くの作品の注文を受けており、明治天皇から外国要人へ送られた贈答品の花瓶には十六八重表菊紋がデザインされている[要出典]。
濤川が手がけた代表作には、宮内省から製作を依頼された赤坂迎賓館(当時は東宮御所)の花鳥の間の壁面を飾る『七宝花鳥図三十額』(渡辺省亭原画)がある。なお、依頼にあたっては並河靖之も候補に挙がったが、無線七宝の作品の表現が花鳥の間の雰囲気と合うという理由で濤川が選考されている。2009年には『七宝花鳥図三十額』も含めた赤坂迎賓館が国宝に指定されている。もうひとつの代表作が1893年のシカゴ万博に出展して高い評価を得た『七宝富嶽図額』(東京国立博物館蔵)で、2011年に重要文化財に指定されている。
花瓶や小箱等の濤川の七宝作品の多くは輸出用や海外要人への贈答用に作られたため国内にはあまり残っていなかったが、現在では明治期の工芸品の買い戻しと収蔵に力を入れている清水三年坂美術館等で見ることが出来る[要出典]。
万年自鳴鐘と濤川惣助
万年自鳴鐘
江戸時代の機械式の置時計の傑作として有名な、万年自鳴鐘(万年時計)の七宝台座は濤川惣助の作である[要出典]。
1851年に田中久重が、万年自鳴鐘を完成させた当時は、台座の六面はブリキ製で七宝の装飾は施されてはいなかった。初代久重の没後、1884年に二代目久重の依頼により大修理が行われ、このとき六角形の台座の側面六面に七宝の装飾が施された。修理を終えた万年自鳴鐘は、我国初めての時の記念日にあたる1920年(大正9年)6月10日に、お茶の水の東京教育博物館で開催された「時の博覧会」に出品された。
六面には、それぞれ日本画で、岩礁、波、草木などとともに、亀、鶏、太鼓、兎といった動物が描かれており、現在は東京の国立科学博物館で見ることができる。2004年には、国立科学博物館と東芝の共同で、万年時計の復元・複製プロジェクトが発足し、七宝台座などの装飾を含めた複製品を完成させている。複製品は東芝未来科学館で見ることができる[要出典]。
京友禅(きょうゆうぜん)とは、京都の伝統工芸品の1つで、元禄時代に扇絵師の宮崎友禅斎によって考案された染色。絹織物の白布に絵をかき、染め出したもので、鴨川の流れでさらし、鮮やかな色彩を出していたが、最近は郊外に移転している。
また単に「友禅染」とも呼ばれる。
技法
本格的な手描き友禅の場合、完成までに26もの工程を踏む大変手間のかかるものとなるため、現在は型染めや捺染が主流。
ツユクサの花弁から抽出した「青花」と呼ばれる色素で柄の部分に下絵を描き、輪郭を墨で描く要領で細い筒に入った防染剤を生地に載せていく。かつてはモチ米とヌカで作った糊を使っていたが現在はゴム糊なども使う、又「青花」も化学合成で作られたタイプもある。その後でフノリの煮汁等を使い防染の糊を生地になじませる地入れを行い乾燥させる。その後、引き切り・ボカシなど糊以外の部分の染色を行い、乾燥後に「蒸し」と呼ばれる高温の水蒸気で染料を布地に固着させる作業を行なう。その後、防染の糊を水で洗い流し、乾燥後、柄絵の部分に色を手書きで挿す(手書き友禅)。防染の糊そのものに染料を混ぜて布地に着色する工法もある。 下絵として描いた「青花」であるがツユクサ由来の色素は絹糸と反応せず水で防染の糊を洗い流した時に一緒に流れ落ちてしまう。化学合成の「青花」は「蒸し」の工程で高温の水蒸気と反応して色が消える。
日本刺繍(にほんししゅう)とは絹糸を両手を使って刺していく刺繍のことをいう。
概要
手作業の日本刺繍による家紋
主に着物や帯、相撲の化粧廻し、日本人形に用いられている。古くは甲冑などに施されている。
日本刺繍は生産地によって呼び名が変わり、京都では京繍、江戸(東京)では江戸刺繍、加賀(金沢)では加賀繍と呼ばれる。また、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」では経済産業省が認定する伝統工芸は国から指定によって保護や援助を受けているが、日本刺繍の中では「京繍」と「加賀繍」が指定されている。
現在、市販されている着物や帯に施されているもののほとんどは機械刺繍であり、手作業による日本刺繍はとても貴重で珍しい。
歴史
日本刺繍の原点は約西暦500年にインドから中国のシルクロードを渡って伝えられた「繍仏」にある。繍仏とは仏像を刺繍によって表現する技法である。日本で特に繍仏が広まったのは寺や仏像が盛んに作られた推古天皇の時代であり、日本でも繍仏の製作が広く行われるようになった。日本で現存している最古の繍仏としては「天寿国曼荼羅繍帳」があげられ、今でも奈良県の中宮寺に保管されている。文献上で最初に登場する繍仏は西暦605年日本書紀に「飛鳥寺に安置する銅・繍の丈六の仏像をそれぞれ造らせる」と記載がある。
平安時代には貴族の衣服の装飾や、雅楽の衣装に活用され、桃山時代には芸能装束に用いられた。江戸時代には小袖や打掛、寺社装飾の打敷に需要が多く、また刺繍の掛袱紗は嫁入り道具に欠かせず、安定した注文があった。明治から昭和初期にかけては、外国向けに非常に質が高い刺繍絵画作品数多く制作され、外貨獲得に貢献した。
用具
糸
日本刺繍で使われる絹糸は釜糸と呼ばれる。これは4〜12本の細い絹糸の束で、撚りがかかっていない。通常は釜糸複数本に撚り(=ねじり)をかけて使うが、デザインによっては釜糸のまま用いることもある。撚りをかけることにより絹糸の本来持つ光沢を生かし、縒りの強弱によって光の反射を加減し繊細な模様を表現していく。また、複数の色を組み合わせることで微細な色合いを表現することが出来る。
針
糸を通す穴の部分が平たく、針先が鋭いのが特徴。近代以降は手打ちと機械打ちのものが存在している。名称は太いものから順に、大太・中太・相中・相細・天細・切付・大太である。
刺繍台
反物を張るための、専用の木製の台を用いる。左右の辺を挟んだ後、上下の辺を糸で縫い止めて、布地を固定する。近年では、小さいものであればフランス刺繍等に用いる木枠をテーブルに固定して行なうこともある。
日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。
刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣のことを指す。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。
概説
著名な日本刀には、日本国国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、豊臣秀吉の愛刀「一期一振」、「天下五剣」と称される5つの名刀(国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」、重要文化財「数珠丸」、御物「鬼丸国綱」)などがある。詳しくは日本刀一覧を参照されたい。
古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多い。しかし失われてしまった刀も多く存在する。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また武家に関するものとして挙げられることもある。 その特徴は、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることが特徴である。
「日本刀」という呼称
「日本刀」は元来、日本国外からみた場合の呼称[注 1]である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。また、木刀・竹刀・模擬刀(ステンレス製で刃落としされているもの)に対置して「真剣」と呼ばれることもある。
「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽脩の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。日本刀の美しさが、平安時代後期 – 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。
「日本刀」という名称は日本国外の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった
概説
著名な日本刀には、日本国国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、豊臣秀吉の愛刀「一期一振」、「天下五剣」と称される5つの名刀(国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」、重要文化財「数珠丸」、御物「鬼丸国綱」)などがある。詳しくは日本刀一覧を参照されたい。
古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多い。しかし失われてしまった刀も多く存在する。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また武家に関するものとして挙げられることもある。 その特徴は、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることが特徴である。
「日本刀」という呼称[編集]
「日本刀」は元来、日本国外からみた場合の呼称[注 1]である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。また、木刀・竹刀・模擬刀(ステンレス製で刃落としされているもの)に対置して「真剣」と呼ばれることもある。
「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽脩の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。日本刀の美しさが、平安時代後期 – 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。
「日本刀」という名称は日本国外の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった
歴史[編集]
日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因により、変貌を続けてきた。
上古から湾刀の出現まで[編集]
大刀(たち)を佩用する聖徳太子。黒漆塗の鞘に山形金物と長金具が付いた大刀を帯取と佩緒で下げている。
日本では独自に青銅製の刀剣類が生産されていたが、古墳時代以前にはすでに鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。例えば、古事記に登場し古代天皇の三種の神器とされ、そのなかの一つ草那芸之大刀がそれであり、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳(現古代出雲王陵の丘の一部)からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。
7 – 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていたが、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。
平安時代初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、鞍馬寺の「黒漆剣(くろうるしのつるぎ)」や清水寺 (加東市)の「騒速(そはや)」が現存している。特に清水寺の大刀は切刃造の1口の他に鋒両刃造の2口があり、いずれも鎬筋がやや中央により浅い反りがあることに特色があり、奈良時代末期から平安時代中期にかけて直刀から弯刀へと変遷する過程のものとして極めて資料的価値が高い。しかし作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていない。おそらくは奥州に住んでいた蝦夷の技術の影響を受け[1]、直刀片刃に角度をつけた蕨手刀(彎曲刀)や、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、毛抜形刀、毛抜形を経て、反りのある日本刀に変化していった[1]。反りがつくことで引き切りに適した武器となり[1]、特に騎馬戦で使いやすくなった[2]。刃金となる硬鉄を炭素含有量のことなる地金で巻き鍛造する製刀法は蕨手刀より見られるようになる。[要出典]
また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。
平安時代[編集]
稲荷山 小鍛冶。刀匠・宗近が稲荷の使いに相づちを打たせ、小狐丸という名刀を作り上げた。
平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。
平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛冶には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派の包平の大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。
鎌倉時代[編集]
鎌倉時代は武士の台頭とともに諸国で争乱が生じ、それに伴い日本刀の需要が急激に高まり[3]、後鳥羽上皇による御番鍛冶制度の創設で刀工に対して積極的に作刀を奨励したこともあり、日本刀の黄金期を迎えた[4]。
伝源頼朝像。毛抜形太刀を佩刀している。
鎌倉時代初期[編集]
鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく[5]。源頼朝の没後、源氏の三代目の源実朝でその政権が途絶え、代わりに北条氏が実権を掌握したが、この変動に乗じて後鳥羽天皇は自らの朝威を回復しようとした[5]。土御門天皇に位を譲った後鳥羽上皇は院政を行い、熱心な愛刀家であったため日本刀の鑑定にも詳しく、自らも焼刃を施したといわれる[5]。『正和銘尽』[注 2]によると後鳥羽上皇は月ごとに山城・備前・備中などから刀工を召して鍛刀させ[5][4]、番鍛冶制度の影響で日本刀を代表する名刀がこの時代に多数生まれた[4]。
鎌倉初期の日本刀は、平安後期にみられる初期日本刀の上品さを思わせる姿から、鎌倉中期に確立された豪壮な造りに移行する過渡期にあった[4][6]。反りに関しては、平安後期のような鎺金(はばきがね)のある部位から勢いがついて曲がるような形状から、鎺元の上あたりに反りの中心がくるような上品な立ち姿へと変化していった[4]。また、切先は小切先に分類されるが、この時期になると一回り大きくなり、それに伴い元身幅と先身幅の間が小さくなっていった[4]。この時期の日本刀を代表する刀工の栗田口久國の地金にみられるように、肌がよくつんで微細な地沸が良く付いたきれいな地金が造られるようになった[7]。刃文も美麗な小丁子乱がみられるようになり[7]、華麗な見栄えに加えた勇渾な作品が目立つようになってきた[6]。
同時代の著名な刀工としては、備前国の末古備前派の正恒・延房・吉包、同国の古一文字派の則宗・助宗・助則、同国の福岡一文字派の延房・宗吉・助包、山城国の粟田口派の國友・久國・國安、大和国の古千手院派の行信・重弘、陸奥国の舞草派、出羽国の月山派、伯耆国の安鋼派、備中国の古青江派の守次・恒次・康次・貞次・助次・家次・正恒、豊後国の定秀派、薩摩国の古波平派の行安などが存在する[7][8][9]。
鎌倉時代中期[編集]
鎌倉幕府は承久の乱で後鳥羽上皇と争い、「御成敗式目」の制定により武士の全国支配を確固たるものにさせ、必然的に鎌倉が武家文化の中心地となっていった[10]。こうした変化に伴い武士が用いる武器の需要がますます高まり、それに応じて山城国の栗田口国網、備前の三郎國宗や福岡一文字助眞はじめとする刀工一族が鎌倉に集まった[10]。承久の乱で敗れた際に隠岐島に流された後鳥羽上皇は、そこでも刀を制作したとされ、後世に菊御作を残した[11]。こういった事実はこの時代の世相をよく物語るものとなっている[11]。また、この時代の寺院の権力化に伴う僧侶の武装化も刀剣界に影響を与えている[11]。大和国では寺院お抱えの刀工群が生じたが、寺院が公家や武家以外の一大勢力へ変化していくのに伴い、刀工の各流派はしだいに各宗派の影響力がある地域へと移住し、そのことによって寺社と刀工流派は双方に影響を及ぼすようになった[11]。寺社権力の強大化を恐れた幕府は六波羅探題を通して、1228年に高野山の僧徒などに武装を禁止する命令を下し、また、1235年に再び禁止令を徹底しようと試みたがいずれも失敗し、この時代の流れに逆らうことはできなかった[11]。
鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる[10][12]。鎌鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている[10][12]。剛健な武家文化の特徴をよく表した強さが刀にも反映され、鎌倉初期に見られた傾向がより顕著になっていき、堅牢な武具を断ち切ることが可能なように造り込みが変化していった[10]。反りに関しては前時代のものと比べると浅くなっており、鎌倉末期から南北朝期の作品に特徴的な中間に反りがくるような姿になる過渡期にあった[10][13]。地鉄は全般的に多様化しており[10]、備前鍛冶の作にみられるように匂出来で映りが雲煙のごとくたなびくものが多くあらわれるようになった[10][13]。また、一文字派の吉用の例では、地景と映りが断続的にあらわれ、第二の刃文が確認できるように地は変化に富む[14]。この時期の刃文は歴史上、最も美しく華やかなものとされ、備前と山城の作にみられるような大房丁子乱れが多く流行した[10]。
この時期の短刀の特徴としては、反りがないか(刺刀:さすが)、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる筍造:たけのこづくり)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある[12]。この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる[15]。
同時期の著名な刀工としては、備前国の福岡一文字派の吉房・吉平・吉用・吉宗・吉家・吉包・助眞・助依・則包、同国片山一文字の則房、同国備前三郎派の國宗・國貞、同国古長船の光忠・長光、山城国の栗田口派の國綱・有國・國清・則國・國吉・吉光、同国の来派の國行・國俊、同国綾小路派の定利、大和国の千手院の力王・金王、備中国の古青江派の守次・助次・俊次・包次、周防国の仁王派の清綱・清久、薩摩国古波平派の家安などが存在する[15][9]。
鎌倉時代末期[編集]
また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近国綱、備前国から福岡一文字派の助真、国宗派の国宗、京伝、大和伝の流れを汲む新藤五国光などと言われている。特に新藤五国光は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には行光、国広がおり、行光の弟子に越中則重、岡崎五郎入道正宗が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。
山城・大和・備前・美濃・相模の5か国の作刀方式を「五箇伝」という。これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。五箇伝は桃山 – 江戸時代にかけて刀剣研磨・鑑定を生業とした本阿弥一族が整理した区分であり、大正 – 昭和初期にかけて本阿弥光遜が体系的に整理した。
鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。
古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道正宗は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、新藤五国光が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにもかかわらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。
南北朝時代[編集]
政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。
室町以降[編集]
室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。
(室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってくる。なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。)
太刀:備前長船祐定(青貝螺鈿拵)。室町時代の太刀。
平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。そして、応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、足軽など農民兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これら「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、氏貞などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われる。
南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。
江戸以降[編集]
刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。
刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。新刀の祖は埋忠明寿と言われており、その弟子に肥前国忠吉がいる。
備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。
江戸時代に入り、風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。
江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、島原の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重・上総介兼重・大和守安定・法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。
交易の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口忠綱一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。また、元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りともに優れている。
刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の反映に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。
幕末動乱期[編集]
江戸期の脇差(東京国立博物館所蔵)
黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。
新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が『新刀弁疑』という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大坂新刀の井上真改、津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛冶と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、たどり着くことはなかった。これは今日でも同様である。勤皇の志士は勤皇刀を使用した。
正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた。
正秀一派が活躍する一方で、信州に鬼才が生まれる。はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。彼こそ、江戸期を代表する刀工となった源清麿である。私生活に問題があり、長州に隠遁したり、鍛刀せずに大酒を飲み、当時の著名刀工固山宗次と飲み比べ合戦を行ったエピソードは有名である。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。
水戸勤皇派による天狗党の乱、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と尊王攘夷派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。
明治から第二次世界大戦[編集]
帝国陸軍の軍旗のもと、将校は軍刀で、下士官兵は銃剣を着剣した小銃で戦う模様を描いた錦絵(日清戦争・平壌の戦い)
明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布され大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、月山貞一、宮本包則の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。
歩兵連隊長を筆頭に、連隊長(将校)は日本刀を仕込んだ両手握りサーベル拵えの明治19年制式刀、左後方の本部附見習士官・下士官は日本刀風拵えの九五式軍刀、他の一般下士官兵は着剣した三八式歩兵銃で軍旗の敬礼を行う姿(日中戦争・南京攻略戦)
創設されてまもない日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告によって将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した(なお、同布告では野戦や常勤時に使用するこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も採用されている(のち廃止)。様式はサーベルではなくエペ)。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと満州事変や第一次上海事変における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式(三十二年式軍刀)であった下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身(九五式軍刀)が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。
日本軍において下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の建軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」であった(軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達であるため、官製のものを購入していても「私物」であった)(「軍服 (大日本帝国陸軍)」および「軍服 (大日本帝国海軍)」参照)。
九五式軍刀(官給軍刀)。鞘を除く拵え自体は日本古来の太刀をイメージしながらも実戦に特化した全金属製となる。刀身も実戦に特化した陸軍造兵廠製の日本刀
従来の日本刀は北方の極寒の中では簡単に折れるため強度に対して、また海軍からは錆に対する不満が高まっていたため満州事変以後、陸海軍の工廠、帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によってはとして従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあった。軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(試行錯誤の初期や、余裕の無くなる第二次世界大戦末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における戦場という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要がある。鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外である。これらは陸海軍の将校に、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀の刀身として支給・実戦投入され、第二次大戦終戦まで大量に使用された。
将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用された。広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する(「軍刀#刀身」参照)。
本来の「戦う日本刀」「戦いの武器としての日本刀」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は「完成された日本刀」となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く(特殊軍刀々身においても、関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた刀身も開発されている)、今日では製造方法の上からも狭義の日本刀の範疇には含まれないことにはなっている。しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっている。
第二次世界大戦後[編集]
居合道
太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀(こがたな)としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。
一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。日本刀自体には登録が義務付けられており、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要がある。所持(携帯、持ち歩き)に関しては銃刀法による制限を受けるが、所有(自宅に保管し眺めて楽しむこと)については許可などは必要なく、誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している所はある)。なお、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要である。
今日では日本刀は武器ではなく、居合道・抜刀道といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝、重要文化財、重要美術品に指定されたものもある。日本刀は独自の鍛錬による、さまざまな刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品であり、その価値を知るには、特色をよく理解しなくてならない。日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として使われず、千年以上の時を経ても健全な形で残っていることも多い。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。
日本刀の製法[編集]
「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるため、日本刀の原材料となる鋼の製法、選定、刀剣の鍛錬には、古来より多くの刀工が工夫している。今日においては、古くから伝わる卸鉄(おろしがね。鉄材を再還元して刀剣用に供する鋼を造ること)や自家製鉄した鋼を用いる刀工もおり、日本固有の伝統技術として継承されている。
なお、中世以前の日本刀の製作方法や使用原料については史料がなく不明であり、現在の伝統的な日本刀の製作方法は江戸時代以降の記録に基づくものである[16]。人間国宝(重要無形文化財保持者)の刀工であり、長年自家製鉄に取り組んでいた天田昭次は、古刀と新刀の地鉄には決定的な違いがあると言い、古刀期の作刀の原料や鍛法は判然としないとする[17]。鎌倉時代の名刀の材料や製作法については、いまだ研究途上にある[18]。江戸時代末期以来、刀工やさまざまな分野の専門家が研究を続けているが、古刀の実物から試料を取って分析することが不可能なこともあり、鎌倉期の名刀を再現するまでには至っていないといわれていた[19]。しかし2014年に河内國平が、日本美術刀剣保存協会主催の「新作名刀展」に出展した「國平河内守國助(くにひらかわちのかみくにすけ)」で、現在の原料では不可能といわれていた古刀の特徴である地紋の「乱れ映り」の再現に完全に成功し、刀剣界の最高賞と言われる「正宗賞」(太刀・刀の部門)を受賞した[20]。太刀・刀の部門は長らく「該当なし」であり、18年ぶりの受賞であった。これにより乱れ映りのメカニズムが解明されほぼ100%再現できるようになった。河内によると、受賞刀は一般的な作刀法で作られた刀と比べて地鉄が柔らかく、刃紋を美しく見せる芸術品ではなく武器としての強靭さを重視して焼入れの仕方を変えたことが成功に繋がったという[21][22][23]。
古刀期以降の刀工が主たる原材料としてきたものは、砂鉄を原料としたたたら吹きによって製造される「玉鋼」と呼ばれる鋼である。玉鋼の名称は古来のものではなく、明治時代半ば以降に命名されたもので、もとは島根県の安来製鋼所で製造し、陸軍、海軍に坩堝の材料として納入していた鋼の商品名であった[24][25]。分析から、鋼の質については鎌倉時代を頂点にそれ以降低下し始めるという現象が起こっており、一因としてどこかで鋼を作る製法に変化があった可能性について述べられることもある[26]。 上古刀に関しては、鉱石系箱形炉という鉄鉱石を原材料にした小型の炉が用いられていたことが判明している。 以下の説明は、現代刀工によって行われている一般的な製作方法である[27]。
質の高い鋼の作成[編集]
たたら吹き
日本刀の材料となる鋼を和鋼(わこう)もしくは玉鋼(たまはがね)と呼ぶ。玉鋼は日本独自の製鋼法である「たたら吹き」で造られる。諸外国の鉄鉱石を原料とする製鋼法とは異なり、原料に砂鉄を用いることで低温で高速還元を実現し、さらには近代的な製鋼法に比べて不純物の少ない砂鉄を原料として使うため、良質の鋼を得ることができる[28]。
水減し
熱した玉鋼を鎚(つち)で叩き、薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷すると、余分な炭素が入っている部分が剥落ちる。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。
積沸かし
この焼きを入れて硬くした塊はへし金(へしがね)と呼ばれ、鎚で叩いて小さな鉄片に砕く。その破片の中から炭素分の多い硬い鉄と少ない軟らかい鉄に分け、これらの鉄片を別々に「てこ」と呼ばれる鍛錬用の道具の先に積み上げて和紙でくるむ。周囲に藁灰を付けさらに粘土汁をかけて火床(ほど)に入れ表面の粘土が溶けるくらい加熱する。藁灰(プラント・オパール由来の珪酸分)と粘土の珪酸分が加熱によってガラス様に熔解して鋼の接着面の表面を覆い、鉄の酸化皮膜(酸化鉄(II)および酸化鉄(II,III))形成を阻害することで鋼の焼減りすることを防ぐ(※溶けた珪酸による酸化皮膜防止は同様の現象を利用して後述の鍛接の際に鋼の圧着にも用いられる。またいずれの鍛接の際にも融けたガラス状になった珪酸分は叩き出されて鋼の外に飛び散り、鋼間の結晶同士は圧着される)。小槌で叩いて6×9cmくらいに固める。鉄片が足りなければ、さらに積み上げ加熱して小槌で叩いて成形し所要の1.8-2.0kg程度の量にする。以上が「積沸かし」の工程である。玉鋼以外に炭素量の多い銑鉄と包丁鉄と呼ばれる純鉄も積沸かしと次の下鍛えの作業を行なう。
鍛錬(下鍛え)
赤熱したブロックを鎚(つち)で叩き伸ばしては中央に折り目を入れて折り重ねる「折り返し鍛練」を縦横方向で繰り返し行う。ちなみに刀匠(横座)と弟子(先手)が交互に刀身を鎚で叩いていく「向こう槌」が「相槌を打つ」という言葉の語源となった。この段階では5-6回程度の折り返しが行なわれる。
鋼の組合せ[編集]
積沸かし
玉鋼、銑鉄、包丁鉄の3種類の下鍛えが済めば再び小槌で叩いて鉄片にし、それぞれの鋼の配合が適切になるように選んで、1回目の積沸かしと同じく積み上げて溶かし固める。この段階で含有炭素量が異なる心金(しんがね)、棟金(むねがね)、刃金(はのかね)、側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられる。
鍛錬(上鍛え)
心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。叩き延ばした鋼を折り返しながら鍛錬を重ねることで、硫黄などの不純物や余分な炭素、非金属介在物を追い出し、数千層にも及ぶ均質で強靭な鋼へと仕上がっていく。
鍛接と沸延べ
日本刀の鋼の構成と各部名称(四方詰鍛えの断面)
造込みには他にも、本三枚鍛え、捲り鍛え、甲伏せ鍛え、無垢鍛えがある。(参考画像(英語))
下鍛えと2回目の積沸かし、上鍛えによって心金、棟金、刃金、側金の4種類の鋼が得られた後、棟金、心金、刃金の3層を鍛接して厚さ20mm、幅40mm、長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて、芯金と同じ長さの側金が2本作られる。
(四方詰鍛えの造込みでは、)側金、芯金、側金の順で重ねられ、沸かして鍛接されて、厚さ15mm、幅30mm、長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて、刀の握り部分になる「茎(なかご)」が沸かされ鍛接される。
素延べ
刀の形に打ち延ばす「素延べ(すのべ)」を行い、先端を3角に切り落とすがそのままでは刃先側に棟金や心金が現れるため、とがった先を背の側に打ち曲げて硬い刃金だけが刃の側に来るようにする[29]。ここでの姿が最終的な日本刀の完成形を決めるため、慎重に小槌で叩き形を整えていく。
火造り
刀身の棟は三角になるように叩いて、刃の側(平地)は薄くなるように叩き延ばす。茎の棟を叩いて丸みを付け、最後に「鎬地(しのぎち)」を叩いて姿を整える。刀身全体をあずき色まで低く加熱し除冷する。
空締め
冷えてから表面の黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、平地と鎬地を小槌で叩いて冷間加工を行なう。棟と刃の直線を修正して、銛(せん:銑とも)と呼ばれる鉄を削る押切りの刃のような大振りの手押しかんなで凹凸を削る。この段階で「刃渡り」と「区(まち)」が定まる。
生砥ぎ
かんなの削り跡を砥石で砥ぎ落とす「生砥ぎ(なまとぎ)」を行なう。その後、水を含む藁灰で油脂分を落とし乾燥させる。
温度管理[編集]
土置き
加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼入れ」の準備として、平地用、刃紋用(刃文用)、鎬地用の3種類の焼場土(やきばつち)を刀身に盛る「土置き」を行なう。一般的には平地に平地用の焼場土を均一に薄く塗り、刃紋に筆で刃紋用焼場土を描く。最後に刃紋から棟までを鎬地用焼場土を厚く盛る。鎬地の焼場土を厚くすることで、焼入れでの急冷時に刃側はすばやく冷やされ十分に焼きが入り、棟の側は比較的緩慢に冷えるために焼きはそれほど入らなくなる。逆に波紋の部分だけに土を置き、土を置いた部分の気泡の発生を抑えて刃先だけを急冷し、しのぎの部分は自然発生する気泡で緩慢に冷却する方法や、全く土を置かずに刃の薄くなった部分が先に冷えること利用した焼き入れの仕方なども存在する。焼きによって容積が膨張しながら硬くなり、日本刀独特の刃側が出っ張った湾曲を生む。棟の側は膨張が少なく硬度より靭性に富んだ鋼となり硬いが脆い刃側の鋼を支える機能を担う。
焼入れ
通常、刀匠は焼入れの時には作業場の照明を暗くして、鋼の温度をその光加減で判断する。土置きした刀身を火床に深く入れ、先から元まで全体をむらなく800℃程度にまで加熱する。加熱の温度は最も重要であり、細心の注意を払って最適の加熱状態を見極め、一気に刀身を水槽に沈め急冷する。刀身は前述の通り水の中で反りを生じ、十分な冷却の後に引き上げられ、荒砥石で研がれ焼刃が確認される。
焼入れにより、刀の表面にはマルテンサイトと呼ばれる非常に固い組織が現れる。マルテンサイトの入り方によって、肉眼で地鉄の表面に刃文が丸い粒子状に見えるものを錵(にえ)または沸(にえ)と呼び、1つ1つの粒子が見分けられず細かい白い線状に見えるものを匂(におい)と区別する。
ちなみに冷却水の温度は10度から30度程度、油の場合は60度から80度程度である。
他の刃物類では、水以外にも油などで焼きを入れることあり、日本刀の場合では戦中の軍刀などで行われたが、現在では油で日本刀に焼きを入れることは少ないと思われる。油で焼きを入れると急冷しないため刃切れなどの失敗は少ないが、水焼きよりも柔軟性のある鋼組織となる場合が多い。また、匂い出来となることが殆どである。ただしこれは焼き入れの技術に大きく左右される問題で、冷却剤の撹拌度合いによっては、油焼きで水焼きよりも硬く焼く事は可能である。斬れ味は別(居合道を別とすれば現代社会で刃物として使う機会は無いに等しい)としても、刃文に冴えを出せず美術工芸品を志向する現代刀には不向きだからである[30]。なお、文部科学省の定める現代日本刀の定義は水焼きであるので、油焼きは銃刀法違法となる。
合い取り
これは焼戻しの工程で、炉の火の上で時間をかけて刀身を150度程度に熱する。これにより焼入れにより組成変化した鋼を安定化させ、靭性などが強化され刃こぼれなどの防止に役立つ。 反りは横方向にも少し生じるので木の台で小槌を使い修正する。なかごも焼きなまして形を整える。
場合によってはこの後、熱した銅の塊で刀身をはさみ、棟焼きを取るなどの作業をする場合もある。
仕上げ[編集]
鍛冶押し(かじおし)
焼き入れを終了させた刀の反り具合を修正し、刀工が荒削りをする。この時に細かな疵や、肉の付き具合、地刃の姿を確かめながら最終的な調整を行う。
茎仕立て
茎(なかご)は銑ややすりで形を整え、柄(つか)をはめる時に使用する目釘穴を普通は1つ、居合用の刀の場合2つ以上開ける。この後に刀工独自の鑢目(やすりめ、滑り止め目的)を加える。
樋掻き
樋(ひ)をいれる物はここで入れる。
下地研(したじとぎ)
地金と刃紋を主に砥石で研ぐ。
銘切り
刀工は最後に鑿(たがね)を使い、自らの名前や居住地、制作年などを茎に銘を切る。一般的に表(太刀や刀を身に付けた際、外側になる面)に刀工名や居住地を切り、裏に制作年や所持者名などを切ることが多いが、裏銘や無銘など例外もある。
仕上研(しあげとぎ)
地金と刃紋を研ぎ、磨き棒で鏡面加工する。帽子を「なるめ」加工する。
刀工が行う一通りの作業が終わり、これからは研師により最終的な研ぎを行うが、室町時代以前は刀工自ら研磨も行っていたといわれる。日本刀研磨で、他の刃物砥ぎと大きく相異する点としては、刃物としての切れ味を前提としつつ、工芸品としての日本刀の美的要素を引き出すことを主眼としている点、刃部のみで無く、刀身全体に砥ぎを施すことなどがあげられる。鞘師によりその刀に見合った鞘を作成することになる。日本刀は刀工だけが造るものではなく、研師や鞘師、塗師、蒔絵師、金工師、白銀師などの職人によって初めて完成するものである[31]。それぞれの職人は、大きく以下の部分を担当する。
刀工(とうこう):刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。
研師(とぎし):刀身の研ぎを行う。
鞘師(さやし):鞘の作成を行う。
白銀師(しろがねし):はばきや鍔などの金属部分を作成する。
柄巻師(つかまきし):柄部分に紐を巻く。
塗師(ぬりし)、蒔絵師(まきえし)、金工師(きんこうし):鞘や鍔などに装飾を施す。
日本刀の研磨[編集]
日本刀の研磨に関しては、日本刀研磨 を参照。
各部名称[編集]
各部の名称
日本刀は、まず本体である刀身とその外装品である拵え(こしらえ)に分けられ、拵えは鞘(さや)、柄(つか)、鍔(鐔、つば)の各部に分けられる。部位および形状は右図を参照。
柄頭(つかがしら)/頭(かしら)
鮫肌(さめはだ)
柄糸(つかいと)/柄巻(つかまき)
目釘(めくぎ)
茎(なかご)
柄(つか)
目貫(めぬき)
縁(ふち)
鍔(鐔、つば)
切羽(せっぱ)
ハバキ
棟(むね)/峰(みね)/背(せ)
刃紋(はもん)
樋(ひ)/棒樋(ぼうひ)
長さ(ながさ)
反り(そり)
鎬(しのぎ)
鎬地(しのぎじ)
地(じ)/平地(ひらじ)
刃(は)
横手(よこて)
切先/鋒(きっさき)
頭金(かしらがね)
巻止(まきどめ)
鯉口(こいぐち)
栗形(くりがた)
鵐目(しとどめ)
下緒(さげお)
鞘(さや)
小尻/鐺(こじり)
ものうち
刃先(はさき)
帽子(ぼうし)
刀身[編集]
日本刀の多くは片刃であり、刃のない側は棟(むね)または峰(みね)、また刃と棟の間の膨らんだ部分を鎬(しのぎ)と呼ぶ。鎬地と棟の間には樋(ひ)と呼ばれる溝が両面にそれぞれ1本または2本掘られるものがある。重量軽減しながら強度を保つ工夫であるが、実際は鎬地の傷隠しのために後世になってから彫るものが圧倒的に多い。また、鎬を高く棟を卸した作り込みが大和伝の特徴(棟を盗むという)で、これも樋と同じ目的となっている。大和伝以外では、戦国期に長船與三左衛門祐定と和泉守兼定が棟を盗む造りの名人であり、実用刀として珍重された。
刀身のうち柄(つか)に収まる部分を茎(なかご)、茎を柄に固定する棒状のものを目釘、それを通す孔を目釘孔(めくぎあな)と呼ぶ。茎には鋼の平鑢(ひらやすり)を丁寧にかけ(鑢目の種類は後述)、刃区(はまち)、棟区(むねまち)を整える。茎棟には流儀によって丸棟(まるむね)、角棟(かくむね)がある。さらに茎の尻を鑢で仕上げ、最後に目釘孔を設け銘を切る。古来、茎の鑢がけは柄から抜けにくくするためとされたが、江戸時代においては美観と贋物防止が目的となる。
一般的に日本刀を鑑賞するときには、刃文と地鉄に注目することが多い。刃文を構成する匂い口の様子や刃中の働き、鍛錬して鍛えた地鉄中の働き、鉄色の冴えを見る。さらに深く鑑賞、もしくは鑑定する場合は、茎を手に持ち垂直に立て、まず姿を見、作刀時代の検討をつける。続いて、各々の時代特色が刀身に現れているか鉄色、匂口の雰囲気、そして特に切先である帽子の出来から観察し、鑑賞する。最後に茎の具合を手のひらの感触、錆の具合、目釘孔の状態、鑢目、茎尻、茎棟の仕上げ状態、そして銘があれば銘を鏨切りの方向からも観察し、文字通り撫で回すように鑑賞する[32]。
鞘[編集]
鞘(さや)は、刀身に擦り傷が付かないように軟質な朴(ほお)の木を、加工後の反りを防ぐために10年以上寝かして使う。刀身を差し入れる方を「鯉口」(こいくち)、逆の側を「小尻」または「鐺」(こじり)と呼ぶ。鐺の端には鐺金具と呼ばれる保護具が付くことがある。腰に刀を差したとき、鞘の体に接する側を「差裏」(さしうら)、外に面した側を「差表」(さしおもて)と呼ぶ[33]。差表の腰にくるあたりには角や金属製の「栗形」(くりがた)と呼ばれる装置があり、ここに下緒(さげお)を通して帯からの脱落を防止する。また栗形の鐺よりには「返り角」(かえりづの)、「逆角」(さかづの)、「折金」(おりがね)と呼ばれる突起部品が付けられる場合もあり、刀身を抜く時に鞘ごと抜けないようにこの部分を帯に引っ掛ける。さらに「笄」(こうがい)という、整髪などに使う小さなへら状の装身具を収納するために、主に鞘の鯉口近くの指表に「笄櫃」(こうがいびつ)と呼ばれる溝が設けられることもある[31]。
鞘は塗り加工などが行なわれて完成すると、内部の汚れは容易に除けなくなる。これを避けるために鞘の内部に別の小さな鞘を入れた「入子鞘」(いりこざや)と呼ばれるものがあり、2枚に分割可能な構造をしている。
親指を鍔にかけて鞘から少し押し出す所作を「鯉口を切る」という。
柄[編集]
柄
柄(つか)は茎(なかご)を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。多くは木製で、その上に鮫皮を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐を巻く。
柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘孔と呼ぶ。目釘には主に煤竹という燻上した肉厚の竹が用いられる。目釘には真竹が最適であり、100年以上寝かせたものが最適であると言われている。また、目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。さらに、柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。
鍔(鐔)[編集]
刀の鍔
日本刀は刀身と拵え(こしらえ=外装品)を別々に分けることができるが、ハバキや切羽(せっぱ=鍔に添える金具)などで鍔は刀身に固定されている。
日本刀の種類[編集]
時代による分類[編集]
上古刀
通常日本刀の分類に入らない、古刀以前の刀をさす。直刀が主であるが、大刀などにはそりが見られるものがある。
古刀
狭義の日本刀が制作されてから、慶長(1596-1615年)以前の日本刀をさす。室町中期以前は、太刀が主である。
末古刀
室町時代末期、応永以降の概ね戦国時代頃の古刀を、「末古刀」と呼び、区別することがある。「数打ち」の粗製濫造品が多い。
新古境
安土桃山時代 – 江戸最初期頃の、古刀から新刀への過渡期をこう呼んで区別することがある。慶長 – 元和の頭文字を取り、「慶元新刀」とも呼ばれる。
新刀
慶長以降の刀をさす。この時期の日本刀は、さらに「慶長新刀」「寛文新刀」「元禄新刀」に分類される。
新々刀
「水心子正秀が提唱した古刀の鍛錬法」を用い制作された刀などの諸説あるが、新刀の内でも明和年間(1764-1772年)以降の日本刀をさす。
幕末刀
新々刀の内でも幕末頃に作成されたもの。
復古刀
江戸時代後期に鎌倉時代などの古名刀を手本として製作されたもの[31]。
現代刀
これも諸説あるが明治9年(1876年)の廃刀令以降に作刀された刀剣をさすことが多い。
昭和刀
主に軍刀向けとして作られた刀をさす。美術刀剣としての日本刀の分類から除外されることが多いが、昭和に製作された刀の全てを指すわけではない。製法は様々であるが、本鍛錬刀でないものは原則的に教育委員会の登録審査に通らず、公安委員会の所持許可が必要となる。しかしながら、必ずしも厳密なものではなく明らかに鍛錬刀とは見られない特殊刀身であっても登録が通っているものや、特例として戦後間もなくは遺品などとして登録証の交付を受けているものも数多くある。
形状による分類[編集]
形状による分類
剣(けん、つるぎ)
外国からの影響を受けず日本古来の型もこれ。刀身に反りがなく、切っ先から刃区および棟区まで完全に両刃となっている造りのもの。実用とされていたのは古墳時代の頃までであるが、装飾用もしくは儀礼用、仏教法具としてその後の時代でも作刀されている(数は少ないが現代物も存在する)。
なお、現行の銃刀法では「剣」として登録できるものは、日本の刀剣として古来よりの伝来が確かなもの、もしくは日本で玉鋼を用いて古式に則り作刀されたものに限られており、国外で製作された剣(例えば、中世ヨーロッパ製のブロードソード)は「剣」として登録できず、それらを日本国内で個人が合法的に所持することは基本的に不可能である。
直刀(ちょくとう)
「大刀(たち)」とも呼ばれる反りのない刀身の作りで、奈良時代頃までの「刀」とはこれを指す。平造りもしくは切刃造りが一般的だが、刀身の先端もしくは刀身の半ばまで両刃となっているものも多くある。前述のように刀身には反りがつかないが僅かに内反りとなっているものも存在する。
直刀に対し平安時代より一般的となった刀身に反りのある刀を「彎刀・弯刀・湾刀(わんとう、まがりがたな)」と呼ぶ。
小烏丸太刀(こがらすまる たち)
鋒両刃造(きっさきもろはづくり、ほうりょうじんづくり)と呼ばれる刀身の造りで、皇室に伝来した際の逸話から特に「小烏丸作り」と呼ばれる。刃区から物打辺りまで鎬造り(しのぎづくり)であるが、切先から刀身の半ばほどまでが両刃となっている。反りは緩やかで浅い。直刀から湾刀への過渡期の存在と見られ、日本刀の変遷を示す例とされる。
毛抜形太刀(けぬきがた たち)
茎(なかご)が柄(つか)の役割を兼ねている太刀。柄に茎を差し込んで目釘で固定する一般的な日本刀とは違い、茎部分に装飾を施して直接「柄」として用いる。名の由来は、柄に毛抜型の透かしが施されていることによる。直刀から湾刀への過渡期に存在したもので、蝦夷の用いていた蕨手刀の影響を受けていると考えられている。
太刀(たち)
戦国時代頃までの一般的な刀。「打刀」は刃を上にし帯に差して携行するのに対し、太刀は刃を下にして吊るして携行する(これを「佩く(はく)」と呼ぶ)、それに伴い拵(外装)も異なる。また、打刀と比べると刀身の反りが深いものが多い。また、打刀はあまり刀身の幅に変化がないのに対して、太刀は鍔元は太く切先は細いという形状が多く見られる。なお、現代の分類では刃長60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「太刀」として造られたものでも「脇差」と呼ぶ。
大太刀(おおだち、おおたち)
長大な刀身を持つ刀。野太刀とも呼ばれる。現代の分類では、刃長が90cm以上のものを指す。腰に差す(佩く)には長すぎるため、背負うか担ぐかして携帯された。通常のように立ち会いで使うものではなく、合戦の際に馬上から下にいる足軽などを叩き斬るために使われ、刃の半ほどまで紐や布を巻いて薙刀のように使う例もあったと伝わる。また、神社仏閣への奉納用としても用いられた。
小太刀(こだち)
刀身の短い太刀。現代の分類では「脇差」との区別は特にされておらず、刃長30cm以上60cm未満のもので刃を下にして佩く刀剣を指すが、古来は2尺(60.06cm)前後の全長の短い太刀のことをこう呼んだ。「小太刀」という呼称、定義については諸説あり、現在でもはっきりとは定まっていない。
刺刀
鎌倉時代、徒歩の兵士たちの主要武器が薙刀であった頃に、薙刀が使えなくなった時に用いられた刀。役割的には脇差と同じであるが脇差しより反りが少ないか内反りのものである。刺突に重点をおいた小武器で、やがて長くなり打刀へと発展する。また刺殺武器としての刺刀は、反りがなく重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)鎧通しに発展した。
打刀(うちがたな、うちかたな)
室町時代頃より登場した、反りのある刀身を持ち、刃を上にし帯に差して携行する刀。江戸時代以降一般的な「刀」となる。現代の日本では、単純に「刀」や「日本刀」と言った場合、打刀を指すことが多い。現代の分類では、切っ先から棟区までの直線で測った長さ(「刃長」)が60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「脇差」と呼ぶ[34]。
脇差(わきざし)
刀身の短い打刀、または太刀。現代の分類では、脇差は刃長30cm以上60cm未満のものを指す。江戸時代には長さに応じて大脇差(1尺7寸前後)、中脇差(1尺4寸前後)、小脇差、もしくは喰出し(はみだし)(1尺2寸未満)の言葉があてられた。
短刀(たんとう)
元々は全長1尺‐1尺2寸(約30-36cm)以下の刀で、現代の分類では、刃長30cm未満のものをいう[35]。「合口」や「匕首(あいくち)」も短刀の別名である。刃長が1尺(約30cm)以上あるが、反りがほとんどなく、鎬のない平造りの刀身形状を持ものは「寸延短刀(すんのびたんとう)」と呼ばれ、現代の分類でも「短刀」に分類されることが多い。
鎧通し(よろいどおし)
身幅が狭く重ねが極端に厚く、寸の短い刃長7寸(約21cm)前後で身幅7分(約2.1cm)前後の短刀で、組討ち時にとっさに抜き鎧の隙間を狙うためのもの。合戦では右腰に指すことから「馬手指し(めてざし)」とも呼ばれる。古来より有名なのが粟田口藤四郎吉光の名物「厚(あつし)藤四郎」(東京国立博物館蔵、国宝)で、重ねは約1.1cm。尾張徳川家伝来徳川美術館収蔵の室町期の平安城長吉の作は重ねが約1.7cm。両者とも刃長は7寸前後だが、茎が長く、4寸前後あり、柄なしでも握りやすい肉置きとなっているのが特徴である。新々刀期に入ると時代情勢を反映してか重ねの厚い短刀が再出現するが、古作の如く、全体の姿が手馴れていないが、源清麿が鍛えた左文字写しの作は同時代を代表する鎧通し造りと言われている。鎧通しは広く知られている割に、重ねの定義も様々で、重ねが3分以上ある短刀ですら遺作が少ない。時代の姿およびその刀工の一般的な作風から逸脱する傾向があるため、刀工鑑定が困難である。また、入念作であるが元来無銘の鎧通しの名品もあり、基本的に一騎打ちを行う侍大将クラスの特注品だったと考えられる。
長巻(ながまき)
ほぼ刀身と同じ長さの柄を持つ大太刀。大太刀の柄を延長して取り回し易くした「中巻き」から発展したもの。長巻と中巻きの違いは、最初から茎を長く作ってあるか、通常の茎の長さの大太刀の柄を延長して長くしたものか、の違い。正倉院の収蔵品に原型らしき長柄武器が残されている。
長巻直し
長巻を基にして刀に造り変えたもの。基となったものをどう造り変えたかにより刃渡り3尺(約90cm)の「大太刀」から2尺(約60cm)以下の「脇差」まで様々なものがあるが、基となった長巻の刀身形状から、先反りから中反りで「鵜の首造り」もしくは「冠落造り」の刀身形状になっているものが多い。また、鎬造りの刀の如く、横手を引き、切先をナルメて帽子を作ってあるのが特徴である。
薙刀(なぎなた)
切ることを主たる攻撃方法とする刀に対して、薙刀は薙ぎ払うことを目的とした武器である[35]。打刀や太刀の様に湾曲した刀身を持つ、長柄の武器。「長刀(ながなた)」とも表記される。
薙刀直し
薙刀を基にして刀に造り変えたもの。薙刀の刀身形状から、先反りで「鵜の首造り」もしくは「菖蒲造り」の刀身形状になっているものが多い。薙刀は刀や太刀に比べると刃渡りが比較的短いため、茎を切り詰めて脇差や短刀に仕立てたものが多い。横手は引かず、帽子は作らない。
長巻や薙刀を造り変えて「刀」としたものではなく、作刀時から長巻直しもしくは薙刀直しであるかのような形状として造られた刀もあり、それらは「長巻直し造り(ながまきなおしつくり)」「薙刀直し造り(なぎなたなおしつくり)」と呼ばれる。これらは新々刀期に見られる。
仕込み刀(しこみがたな)
様々なものに刀身を仕込み、刀であることを偽装した隠し武器。主に杖・煙管・扇子といった日用品などに偽装したものと、他の武器に小さな刀身を仕込み二段構えの武器としたものの2種類がある。
外装を杖に模したものは特に「仕込杖」と呼ばれる。
槍(やり)
短い刃と長柄を持つ代表的な長柄武器。突きに特化するために両刃の刀身を持ち[35]、折れにくいように分厚く造られ、中には刃の断面がほぼ正三角形のものも存在する。刀と違い中世の合戦まで頻繁に使用された。刀身の形状により、剣形(両鎬(りょうしのぎ)、平三角(ひらさんかく)、笹穂(ささほ)、十文字(じゅうもんじ)、片鎌(かたかま)、短刀形の菊地槍などがあり、直槍(ちょくそう)系と十文字槍(じゅうもんじやり)系に大別される。刀身長が1尺(約30cm)を超えるものは、「大身槍(おおみやり)」と呼ばれる。本多忠勝の愛槍蜻蛉切は。姿端正な大身の笹穂槍である。また、2尺(約60cm)以上の刀身長のものも現存しており、日本号は黒田節に謳われている。
厳密には「刀」とは分類されないが、槍の茎を短く切り詰めて短刀や脇差の拵えとされたものも存在する。特に幕末の勤皇の志士は、南北朝時代の南朝の忠勤の士であった九州の菊池一族にあやかろうと、菊地槍を磨り上げ、その指料とした。
斬れ味による分類[編集]
刀剣の大業物(おおわざもの)や業物(わざもの)という表現は、切れ味による分類である。文化12年(1815年)、公儀介錯人の山田浅右衛門が多数の刀を集めて試し斬りを行い、切れ味により刀工ごとに刀を最上大業物、大業物、良業物、業物に分類し、結果を『懐宝剣尺』という書物にまとめて公表した。詳細は刀剣の業物一覧を参照。
造り込みの分類[編集]
造り込みによる分類
鎬造り(本造り)
ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られている。上記の写真もこの造り込みである。切刃造りが進化してできたと思われる。
片鎬造り
片面が鎬造り、片面が平造りでできている。南北朝期の濃州鍛冶、兼氏の重要文化財指定の刀が遺作として著名である。
平造り
短刀や小脇差によくある造り込み[36]。鎬がないもの[36]。古墳時代や奈良時代に作られた反りがない直刀は平造りになっており上古刀と呼ばれる[36]。鎌倉中期の刀工、粟田口国吉の「鳴狐」と号のある打刀が著名である。国宝に指定されている、春日大社の菱作腰刀の刀身は、焼き直しであるが、鎌倉時代をくだらない古作の打刀として知られる。平造りの打刀も室町時代中期から末期の間にごく少数見られる。
切刃造り
鎬線がより刃先の方にある造り込み[36]。上古刀期から見られる[36]。南北朝期においては、貞宗の作と伝えられている名物の「切刃貞宗」が有名で、同時代前後の刀工に見られる造り(主に短刀)である。以来、慶長年間においては新刀の祖と言われる埋忠明寿を始めとし、特に越前康継の切刃貞宗写しは多数作られている。また、幕末において、各国の刀工に写し物が見られる。
切先双刃造り・鋒両刃造り・切先両刃造り・鋒双刃造り(きっさきもろはづくり)、小烏造り(こからすづくり)
切先に近い部分のみが、剣のように両刃になっているもの[37]。特に、小烏造りは刀身の2分の1以上が両刃になった擬似刀と呼ばれる剣の造りを指す。現存する刀では小烏丸がこの造り込みでできている。新々刀期の刀工、明治期の刀工が写しを作刀している。
菖蒲造り
鎬造りに横手を取り除いた形の造り込み[37]。形状が菖蒲の葉に酷似しているのが、この名前の由来である。この造り込みは鎌倉時代中期から始まり、主に脇指や短刀に見られるが[37]、室町時代中期から末期の間に備前鍛冶や美濃鍛冶にたまに2尺を越えた打刀が見られる。
鵜の首造り
鋒から少し下だったところから途中まで、棟の側肉が落とされているもの。鵜の首のように細くなっていることが、この名前の由来である。
冠落造り
鋒に向かって棟の側肉が落とされているもの。一般的に薙刀樋を付けたものが多く、短刀によく見られる。
両刃造り(もろはづくり)
鎬を境にして双方に刃が付いており、鋒が上に向いているもの[37]。室町時代中期以後の短刀に見られる[37]。7寸前後の懐刀が多く、まれに両刃造りの長刀も存在するが、両者とも直ぐに廃れた。古刀期では末備前の勝光・宗光兄弟の作が比較的多く現存し、新々刀期においては各地で見られる。
おそらく造り
横手の位置が通常の鎬造りと違い大きく茎の方によっており、鋒が刀身の半分から3分の2を占めているもの[37]。短刀や脇差に見られる[37]。この名称の発端については諸説あり、室町末期の刀工、 島田助宗の短刀にこの造りがあり[37]、その刀身に「おそらく」(恐ろしきものという意味)と彫ってあったのでこの名がついたと言う説が主流だが[37]、「恐らく他に存在するまい」という意味である、という説もある。
鋸刃造り(のこばづくり、のこぎりばづくり)
峰の部分が鋸になっているもの。船上で刀として使う他にもやい綱などの船具を切るための道具として用いられたもので、阿波水軍で多く用いられた。阿波国の郷土刀である「海部刀」にはこの鋸刃造りの刀身を持つ脇差や短刀が多くあり、現在でも幾振りが現存している。
反りの種類[編集]
一般的に時代が降るにつれ、腰から先へ反りの中心が移動していく傾向になっている[38]。
腰反り(こしぞり)
反りの中心が鋒と棟区の中心より下の方に位置するもの[38]。焼き入れの関係上、鎬造りの刀には必ず腰反りがつく。棟側にあたかも倒れるような腰反りは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての太刀に見られる。
中反り(なかぞり)、華表反り(とりいぞり)
反りの中心が鋒と棟区のほぼ中心に位置するもので、鳥居の笠木から由来する[38]。鎌倉時代中期頃の山城伝、大和伝に見られる。
先反り(さきぞり)
物打ち付近から切先にかけて反りのついた姿を「先反りがつく」と表現する[38]。室町時代以降の片手打ちの刀[38]、また、五箇伝から外れた刀工の刀に見られる。
内反り(うちぞり)
一般的に棟に向かって反るものだが、その逆で刃に向かって反っているものをいう[38]。鎌倉時代の短刀・正倉院宝物の「刀子(とうす)」に見られる。然しながら短刀の場合、度々の日本刀研磨によって重ねの薄い切先部分のほうから研ぎ減り、内反りになることは知られており、むしろ内反りがつかない短刀程健全と言い得る。
踏ん張り(ふんばり)
厳密には反りではないが、反りを語る上で同時に用いられる表現なので記す。刃区(はまち)、棟区(むねまち)から2寸ほどの間で、刃、棟とも末広がりのような形状をしているもので(鎬地が緩やかに広くなる)、あたかも人が両足で踏ん張って立っている様子に似ていることから「踏ん張り」がある、と表現する。特に棟側の踏ん張りは重要で、研磨の際、損ないやすい。「踏ん張り」は、区送り(まちおくり)、磨上、度重なる研磨で失われるため、「踏ん張り」のある刀は見た目的にも安定感があるだけでなく保存状態が良い。生ぶ茎にのみ見られる。ハバキの収まりも良い。
鑢目の種類[編集]
鑢目と茎の形状の種類
鑢目(やすりめ)は柄から刀身を抜けにくくするために施される。 国、時代、流派により使われる鑢目が違うため、日本刀の鑑定でよく見られる。
切り(横、一文字)
勝手下り
勝手上り
左利きの刀鍛冶に特徴的な鑢目であるため、鑑定では大きなポイントになる。
筋違
大筋違
逆大筋違
鷹の羽(羊歯)
檜垣
化粧鑢
上記各鑢目に組み合わされる装飾である。新刀期の後半以降に見られるため、時代判別の際のポイントになる。
ならし(鏟)鑢
鋩子の種類[編集]
鋩子の種類
小丸(こまる)
小丸上がり
小丸下がり
一文字返り
横手上刃細し
大丸(おおまる)
焼き詰め
掃きかけ
乱れ込み
丁字乱れ込み
地蔵
火炎
一枚
沸崩れ
湾れ込み
突き上げ
切先の種類[編集]
切っ先による分類
かます切先
小切先
猪首切先
中切先
大切先
地肌による種類[編集]
杢目肌
大杢目肌
中杢目肌
小杢目肌
柾目肌
板目肌
大板目肌
小板目肌
綾杉肌(月山肌)
松皮肌
則重肌
ひじき肌
梨子地肌
小糠肌
縮緬肌
無地肌
地刃の働きの種類[編集]
日本刀の地刃の働きは主に鋼を焼き入れした時に生じるマルテンサイトによって構成される。
沸(にえ)
マルテンサイトの粒子が大きいもの
匂い(におい)
マルテンサイトの粒子が小さいもの
沸と匂いの組み合わせによって以下の様々な働きが現象する。
映り(うつり)
地景(ちけい)
金筋(きんすじ)・金線(きんせん)
砂流し(すながし)
湯走り(ゆばしり)
足(あし)
葉(よう)
日本刀の多様な側面[編集]
日本刀の性能と力学的性質[編集]
日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」の材料工学においての強度と靭性の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。
日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。有名な逸話として、榊原鍵吉の同田貫一門の刀による「天覧兜割り」がある。ただし、この切れ味も最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす場合はともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業とされる。
日本刀のうち、江戸時代の打刀は、江戸幕府の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は大小を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなり、試し斬りが多々行われた[39]。刀剣は一般通念よりも軽く作られている。
以下は各地域発祥の刀剣との比較。なお、重量は全て抜き身の状態のもの。
打刀(日本):刃渡り70-80cmの場合 850-1400g程度(柄、鍔などを含める、抜き身の状態。刃渡り100cm程のものは、2,000g前後)
サーベル(世界各地):刃渡り70-100cmの場合 600-2,400g程度
シャスク(東ヨーロッパ):刃渡り80cm 900-1,100g程度
中国剣(中国):刃渡り70-100cmの場合 900-1,000g程度 (両手用、刃渡り100cmほどのものは3,000g程度以上)
以上は近代まで使われていた物である。日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではない。しかし、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。日本刀は、「断ち切る」ことに適した刀剣である。しかし、刀自体重量が軽いので切断する際手前にスライドさせて力の向きを切断物に対し直角からそらして加える必要がある。同じ理由により、「斬る」ために刀を砥ぐ際は、包丁のように、スライドさせる方向に砥ぎをかける(剣の扱いに似ている)。
日本刀の性能に言及されている史料[編集]
支那事変(日中戦争)中、日本軍将校2人が百人斬り競争を行ったという。将校の一方は自らの関の孫六について、56人の時点で刃こぼれが1つ、86人の時点で「まだ百人や二百人斬れるぞ」と言ったという(東京日日新聞1937年11月30日・同12月4日)。これについて「名誉毀損」として訴訟が起きており、「全くの虚偽であると認めることはできない」とされた高裁判決が確定している。ただし、この裁判自体は戦時報道の虚偽性に関するものであり、日本刀の性能に関しては判断されていない。判決自体も結局のところ「総合的には真実とも虚偽ともどちらとも言えない」というような曖昧なものである。[要出典]
刀工の成瀬関次は『戦ふ日本刀』(1940)で日本刀での47人斬り他複数の逸話や伝聞の信憑性を肯定的に述べている。秦によると、鵜野晋太郎という少尉が『ペンの陰謀』に、捕虜10人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を寄稿したという[注 3]。
戦史上の日本刀[編集]
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日本刀は元来、「断ち切る」ことに適した刀剣である。起源をさかのぼれば、古墳 – 奈良時代に、儀式用と実戦用とが区別され始めた時、「圭頭大刀(けいとうたち)」や「黒作大刀(くろづくりのたち)」は「断ち切る」専用だった。平安時代に「小烏」などが「切っ先諸刃作り」を採用して「突き刺す」ことにも適性を持っていたが、その後、太刀や打刀では、切っ先諸刃作りは排され、手首を利かせて「切る」ことに適するよう、湾曲している。一部の武芸者は、切先三寸が両刃となった刀を使用したが、これは例外である。
近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争[編集]
日本刀が日本史上の戦場でそれほど活躍しなかったと主張する書籍がある[40](山本七平、鈴木眞哉)。鈴木眞哉は、日本刀が普及していた理由は、首を切り落として首級をとるために必要不可欠な道具であったからだと結論づけている。しかし、そのような用途では脇差・短刀の類で十分であり、太刀・打刀のような大型の日本刀が普及した事の説明にならない。山本七平のものは、彼自身が戦時中に軍刀で死体を切ってみた感想に基づいた意見である。
日本刀不要物論において彼らが挙げた根拠は以下のもの。
南北朝~戦国時代における合戦における負傷理由のうち、刀傷は弓矢による傷より圧倒的に割合が低い。とする[41]。
刀剣は接近戦向きで、統制の維持されている集団が広い空間で戦う場合は長柄武器(槍・薙刀など)に対して不利だったこと[注 4]。
鎧や鎖帷子を着用した部位に対する斬撃は威力を減じる。
刀身と柄が一体でなく、その接合方法上強い打撃に耐えられない構造上の問題があること。それに比べて、長柄物は柄が木製である特性上刀よりも容易に毀損する。刃の薄いものは力を加える方向によっては容易に変形や毀損を来たし、日本刀の利点である切れ味が失われる。
高品質の銘刀や大型の野太刀は拵えるのに手間が掛かるため、量産化や兵士への支給ができなかったこと。
日本刀の草創期からすでに武士の主戦術は騎射だったこと。
日本人の間で広く剣術が盛んになったのは、平和な江戸時代に竹刀稽古が隆盛してからであったこと。
これに対して、以下の根拠から反論がなされている。
戦闘が経過し隊伍の乱れた状況での闘い、および夜襲や悪天候下など、長柄武器や飛び道具が有効でない状況において特に有効な武器であり、必要不可欠であった。
数打ちと呼ばれる量産品が生産されるようになり、足軽へ支給していたこと。
足軽は手足の露出した簡素な鎧だったり雑兵などは鎧なしの者もいるなど、鎧は全身を覆っていない。また、金属部分であっても最適な条件で斬りつけた場合は鎖帷子などでは切断されるし、鎧であっても多少なり斬り込まれる。
血糊や多少の刃毀れにより切れ味が失われても、殺傷力に大きな影響は生じない。鎧は打撃に若干弱い面があり、戦国期には刀を刃物付き鈍器として扱う戦い方もあったこと(戦国期の刀には蛤刃といって刀身を分厚くこしらえたものが存在する)。
精神性を重視されるようになるのは江戸時代以降であり、当時の様々な記録に残っている通り刀は実用品であった。
美術的価値のみが重視されたのは近代以降であり、当時において美術的価値を持ったのは極限られた銘刀でしかなかった。
必ずしも相手の首を刎ねたり胴を真っ二つにする必要はないということ。両手から繰り出す斬撃や刺突は、常に十分な殺傷力を有する。これを防げる鎧というものはかなりの重さになってしまうため、全身くまなく覆うのは非現実的であり、部分的にしか日本刀の斬撃を防げなかった。
騎射を行う騎馬武者にこそ、未使用時に腰に差しておける副武装としての日本刀が重要であった。そもそも日本刀はもともと騎馬武者用の太刀として発展した。そして騎射を行わない打物武者も、槍などの主武装が失われた時に備えて副武装の刀を携帯していた。
合戦手負注文や軍忠状といった古文書では矢傷が多いが、”生存者の負傷原因”はわかっても、おおむね”戦死者の死因”が不明である。[42][43]
合戦に刀が使用された理由[編集]
騎馬武者の武器として
反りのある日本刀は下から切り上げる事の多い馬上斬撃に適していた[要検証 – ノート]。平安時代から鎌倉時代等の戦では遠距離では和弓を放ち、近距離では持ち替えて戦うことがあったとされる。
予備の武器としての価値
武器は武人の蛮用により破損してしまうことが日常的にあり、予備の武器が必要である。古今東西、人は丸腰になることを恐れる。
自衛用の武器としての価値
白兵戦を専門し、長柄武器を持つ兵は一部である。それ以外の兵も自衛用の武器が必要とされ、主に刀を身につけていた。たとえば弓・鉄砲・石つぶてといった投射兵種、荷駄や黒鍬といった支援兵種など。
長柄武器を使用しづらい状況での使用
室内や山林など、長柄の武器の取り回しが悪い環境では刀に持ち替えて戦った。
槍の補助として乱戦での使用
日本の合戦は中世の弓や近世の鉄砲などといった遠距離兵器が主体であり、統制の取れている段階で槍などで闘い、乱戦になると日本刀が使われることが多かった。
合戦で使用された刀の中には、峯などに相手の刀などによる切り込み傷のあるものが多い。たとえば、名物石田正宗には、大きな切り込み傷が多数存在し、実戦で使用されたことを窺わせている。
敵将の首級を挙げる
槍などの刀以外の武器では、戦場の真っ只中で迅速に首を切り落とすのは、非常に困難であり、合戦では自らの功績を示すものが敵将の首級であったため、重要であった。
戦場外での日本刀[編集]
戦場外でも本差と脇差は携帯され、これは比較的扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)すぐれた護身用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。特にその優れた切れ味は、戦場用よりも護身用の武器としてより役立った。切り傷を負わせる事で相手の戦意を喪失させたり、出血多量で戦闘能力を失わせる事に効果があったと考えられる。ただし江戸時代等では緊急時以外は殆ど用いられることがなくなった為、使用機会は少なくなった。また苗字帯刀が許されることは名誉なことであることとされた。またあだ討ちなどにも日本刀は使われ、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。
日本刀の文化・宗教的側面[編集]
合戦、人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況には相応の覚悟が必要となる。それに際してに日本刀や神器としての精神的的要素、宗教的価値や美術的価値がある意味現実的な力として求められたとしても不思議ではない。戦乱の時代に作られた刀に所有者が信じる神仏の名や真言が彫り付けてある遺例が数多く存在することも当時の武士達の赤裸々な心情を窺わせて興味深い。
工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどのメタ情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知を実現しているためと思われる。
桶(おけ)とは、容器の一種である。 木製の桶とプラスチック製の桶が最も一般的である。
樽と桶の区別について
日本の樽と桶は良く似た形であるが、樽は胴体の材料として板目材の板を使用する。フタ付きの物を「樽」、フタ無しの物を「桶」と呼ぶと言う説もある。例外も多いが、酒樽などは保存のためフタが閉じられた状態が常であり、風呂桶はフタが開けられた状態で使用することが普通である。
桶の歴史
桶の製造風景を捉えた浮世絵(『冨嶽三十六景 尾州不二見原』葛飾北斎)
Kusakabe Kimbei – 302 Cooper.jpg
木で作る円筒形容器の最古の形態は、木の幹をくりぬいた「刳桶」で、古くは弥生時代の遺跡からも出土する。続いて「曲桶」が発明され、平安時代には一般に広まった。これは、「曲物」(まげもの)とも呼ばれ、薄い板を円状に曲げ接着されたものであった。当初は麻糸をしまうための笥として用いられたとも言われ、「麻笥」・「麻の笥」と書く古い表記も存在する。しかしこれらは強度的に弱く、またあまり大きなものは作れなかった。
中国から輸入された桶に影響を受け誕生したものが「結桶」(ゆいおけ)と呼ばれる、現在[いつ?]の木製の桶である。直径に合わせて湾曲した刃を持つ特殊な道具で割ったヒノキ・スギなどの細長い板を円状に並べ、竹などをらせん状に束ねた「箍」(たが)で結う結物構造となっており、接着剤等は使用しない。江戸時代には各家庭に必ずあるものになった。この桶は江戸時代の食料などの保存・運搬に多大な影響を与えた。
もともと「棺桶」は、このような製法による棺(座棺)をイメージした言葉であった。
現在[いつ?]日本では運搬や保存の用途で木製の桶が用いられる機会は減り、プラスチック容器にとって代わられた。現在日常的に用いられるのは風呂桶(バスタブ)や湯桶(ゆおけ。用途によっては洗面器とも)などである。広告媒体を兼ねて銭湯に置かれるケロリン桶が有名である。
また、楽器としてもパーカションの一種として使われ、檜製の湯桶を裏底を表にして棒等の支えを裏に取り付けて、パーカッションセットに組み込んでいる。裏底をドラムの様にドラムスティックで叩いて音を出す。たま (バンド)の石川浩司が演奏していた事で知られている。
蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金(ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿(らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。
日本国内に現存する最古の蒔絵資料は正倉院宝物の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)」の鞘に施された「末金鏤作(まっきんるさく)」であり、これは2009~2010年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学的な調査研究によって、研出蒔絵であることが確認されている。
蒔絵の起源
蒔絵の起源は、常に国内最古の資料である「金銀鈿荘唐大刀」と合わせて論じられてきた。
1878年、黒川真頼は「金銀鈿荘唐大刀」は渡来のものであるが、その技法「末金鏤」は「平塵」であって蒔絵ではないとし、蒔絵の起源を平安時代の日本の資料に求めた。
1932年、六角紫水は「末金鏤」を金属粉と漆をあらかじめ練り合わせたもので絵を描いた「練描」であって蒔絵ではないとし、黒川と同じく平安時代の日本の資料にその起源を求め、吉野富雄、松田権六らもこの説を支持した。
同じく1932年、吉野富雄はこれまで一般に「末金鏤」と技法名のように称されて使われていた、正倉院の献物帳「国家珍宝帳」に記載してある「鞘上末金鏤作」の表記を紐解いて、これは完成品を観察して「末金(金粉)を以って鏤して(散りばめて)作られたもの」という意味で記載したものであって、その製作技法を規定したものではないとし、「末金鏤」という技法はそもそも存在せず、渡来した「金銀鈿荘唐大刀」の装飾を実態のまま文字に起こした記号的な意味合いのものであるとした。また、正倉院の献物帳以外には「末金鏤」という現物も他の文献記述もないことから、勝手に「末金鏤」と略さず、原文のまま「末金鏤作」と用いるが正しいとしている。
このように明治から戦後頃までの論考では、「末金鏤作」が渡来品であることを認めつつも、「末金鏤作」が「蒔絵」ではないことを論拠として蒔絵の日本起源説が唱えられてきた。
1953~1955年の正倉院事務所の調査によって、吉野らとともに「金銀鈿荘唐大刀」の実物を目にした松田権六は1964年、「末金鏤はまさしく後のいわゆる蒔絵の技法になるもの」と判定し、これまで支持してきた六角の「末金鏤=練描」説を否定した。 その一方で、交流があり松田自身「蒔絵界の先覚」と尊敬していた吉野の「末金鏤という技法名は存在せず、末金鏤作とするが正しい」という説をも否定し、「末金鏤」を初期蒔絵の技法名とした。さらに、「末金鏤と中国ふうによばれているのは奈良時代には蒔絵という言葉が、まだ、できていなかった一証拠としてよい」として、「金銀鈿荘唐大刀」が日本で作られたものであることを示唆した。 その上で「この末金鏤すなわち蒔絵の技法は中国には今までのところみられないので、わが国でこのころ創始されて発達した」とし、日本起源説を維持した。
この松田による発表は、著書「うるしの話」が漆工芸界のベストセラーであったことも相まって、その後「末金鏤という初期の技法で作られた金銀鈿荘唐大刀が蒔絵の最初のもの」という説が広く浸透していくこととなる。
2002年、田川真千子は東大寺献物帳に記載されている単語やその類例を広く比較検証し、「金銀鈿荘唐大刀」の「末金鏤作」について、「末金鏤という技法名は存在せず、現物から観察的に記述したもの」として、吉野富雄と同様の結論に達している。
主な技法
研出蒔絵(とぎだしまきえ)
金粉や銀粉を蒔いた後に、器面全体に漆を塗りかぶせ、乾燥後に木炭で漆を研磨して下の蒔絵層を出す技法。研磨した後には、器の表面は平滑になる。正倉院宝物の金銀鈿荘唐大刀に見られる「末金鏤作」も研出蒔絵である。金銀粉の精製技術が未発達で、粉の粒子が荒かった平安時代までは、この技法が蒔絵の主流であった。
平蒔絵(ひらまきえ)
漆で文様を描き、金銀粉を蒔いた後に、文様の部分だけに摺り漆をして研磨したもの。器面全体を漆で塗り込めない点が研出蒔絵と異なる。この技法は平安時代後期から現われ、桃山時代の高台寺蒔絵などは平蒔絵が主たる技法となっている。
高蒔絵(たかまきえ)
文様部分の漆を盛り上げて浮き彫り状に表現したもの。
肉合蒔絵(ししあいまきえ)
高蒔絵と研出蒔絵を合わせた技法。文様の一部を浮き彫り状に盛り上げた上で、器面全体に漆を塗りかぶせ、木炭で研ぎ出す。研出蒔絵と異なり、研磨後、器の表面は平滑にならない。
卵殻蒔絵(らんかくまきえ)
色漆の中でも白色の漆は、蒔絵 中でも研出蒔絵等で使う場合、乾燥硬度が伴う白さが出せる色漆が現在でも困難で、白色の蒔絵の表現には、代わりとして卵殻の白色を用いる。卵殻(卵のカラ)を割り螺鈿の様に漆面に貼り、金銀粉と共に蒔絵に使う。模様に主として卵殻を多く使う蒔絵を卵殻蒔絵という。卵には、薄く繊細な表現に向いているためウズラの卵の殻をよく使用する。
スクリーン蒔絵(すくりーんまきえ)
大量生産が行われるようになり、従来の手書き蒔絵にかわる近代技法として登場した。シルクスクリーン技術を用いることにより、同じ柄を大量に短時間で描くことが可能となったが、金属粉を「蒔く」工程は今でも職人の手作業で行われる。漆の代わりにウレタン塗料などが用いられることも多く、使用する金属粉も伝統蒔絵で用いられるものとは異なる場合がある。
文化
文化財
片輪車蒔絵螺鈿手箱(かたわぐるままきえらでんてばこ) - 牛車車輪の乾燥防止として水に漬けた平安時代の風習を文様化して描いたものであり、平安時代を代表する漆工芸の名作工芸品である[8]。
蓬莱山蒔絵袈裟箱(ほうらいさんまきえけさばこ) - 平安後期(12世紀)の作品で、蓬莱山を背負う大亀と波上の鶴を配し、粉の蒔き方で構図に変化をつける意匠が特徴である。
俳諧
元禄元年(1688年)、松尾芭蕉の俳諧紀行記のひとつ更科紀行の本文と俳句に、蒔絵がみえる。
「いでや、月のあるじに酒ふるまはん」といへば、杯持ち出でたり。よの常に一めぐりも大きに見えて、ふつつかなる蒔絵をしたり。都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、思ひもかけぬ興に入りて、碧碗玉卮の心地せらるも所がらなり。
あの中に蒔絵書きたし宿の月 - 松尾芭蕉
流派
幸阿弥派
五十嵐派
古満派
羊遊斎派
石切可岸派
薬研堀派
川之辺派
植松派
赤塚派
和弓(わきゅう)は、日本の弓道・弓術およびそこで使用される長弓の弓のこと。全長は七尺三寸(約221cm)が標準とされている。「和弓」とは洋弓(アーチェリー)に対する語。古来は大弓(だいきゅう、おおゆみ)と呼ばれており、全長およそ2m以上のものを大弓、それ以外に半弓(六尺三寸)半弓より短いものも存在する。なお、和弓において、弓を製作する人のことを弓師(ちなみに矢を作る人は矢師、ゆがけを作る人はかけ師)、弓を射る人のことを弓士と呼び、音(おん)が同一のためか、しばしば混同されている。
特徴
大弓ともいう世界最大の弓、和弓
洋弓が全長160cm前後、弓の中心を把持しハンドル、リム等にパーツが別れている構造なのに対し、和弓は全長が標準で七尺三寸(約221cm)、下から3分の1、弓の中心から見て下部寄りを把持し(上長下短)下から上まで全長に渡ってひと繋がりの構造となっており、全長だけ見れば和弓は世界最大の弓である。
上長下短の構造は一見バランスが悪いように見えるが、握りの位置が丁度弓の震動の節にあたり、持ち手に来る振動が少ないという利点がある。また高度な技術ではあるが、上下の長さの差から来る弓の上下の反発力の違いを利用し、矢の飛び方に変化(飛距離を出す、鋭く飛ばす等)を付けることができる。
また一説では、弦を張った状態の弓を矢を番える位置で上下に分けると長さの比率が黄金比になると言われており、そのことも美しさの所以とされている。
弓は原則として左手に持ち、矢は弓の右側に番え(洋弓は左側)、右手に弽(ゆがけ)を挿して(はめて)引く。取り掛けは右手親指根辺りで弦を保持し、筈を人差し指根で抱え込むように保持する蒙古式を取る(洋弓は人差し指〜薬指で弦を保持する地中海式)。上から大きく引き下ろし、最終的に右手が右肩辺り、弦が耳の後ろに来るまで大きく引く。
なお弓本体の右側に矢をつがえて放つと言う構造上、そのまま矢を放てば矢は弓本体に阻まれ、狙いは右に逸れてしまう。このため発射時に左手の中で弓を反時計回りに素早く回転させることでそれを防ぐ[* 1]。これを「弓返り」(ゆがえり)と言う。また弓返りを行うことで弦が矢に接触している時間が長くなり、矢はより加速されるという。
特徴
大弓ともいう世界最大の弓、和弓
洋弓が全長160cm前後、弓の中心を把持しハンドル、リム等にパーツが別れている構造なのに対し、和弓は全長が標準で七尺三寸(約221cm)、下から3分の1、弓の中心から見て下部寄りを把持し(上長下短)下から上まで全長に渡ってひと繋がりの構造となっており、全長だけ見れば和弓は世界最大の弓である。
上長下短の構造は一見バランスが悪いように見えるが、握りの位置が丁度弓の震動の節にあたり、持ち手に来る振動が少ないという利点がある。また高度な技術ではあるが、上下の長さの差から来る弓の上下の反発力の違いを利用し、矢の飛び方に変化(飛距離を出す、鋭く飛ばす等)を付けることができる。
また一説では、弦を張った状態の弓を矢を番える位置で上下に分けると長さの比率が黄金比になると言われており、そのことも美しさの所以とされている。
弓は原則として左手に持ち、矢は弓の右側に番え(洋弓は左側)、右手に弽(ゆがけ)を挿して(はめて)引く。取り掛けは右手親指根辺りで弦を保持し、筈を人差し指根で抱え込むように保持する蒙古式を取る(洋弓は人差し指〜薬指で弦を保持する地中海式)。上から大きく引き下ろし、最終的に右手が右肩辺り、弦が耳の後ろに来るまで大きく引く。
なお弓本体の右側に矢をつがえて放つと言う構造上、そのまま矢を放てば矢は弓本体に阻まれ、狙いは右に逸れてしまう。このため発射時に左手の中で弓を反時計回りに素早く回転させることでそれを防ぐ[* 1]。これを「弓返り」(ゆがえり)と言う。また弓返りを行うことで弦が矢に接触している時間が長くなり、矢はより加速されるという。
定義
弓の全長は直線距離ではなく、弓の曲線に沿った長さを測る。すなわち、素材そのものが持つ長さである。標準とされている七尺三寸は「並寸(なみすん)」と言い、七尺五寸(約227cm)を「伸び寸(のびすん)」或は「二寸伸び(にすんのび)」、七尺七寸(約233cm)を「四寸伸び(よんすんのび)」、七尺(約212cm)を「三寸詰め(さんすんづめ)」あるいは「寸詰め(すんづめ)」としている。それぞれ射手の体格や身長から来る矢束の長さに適した長さの弓を選ぶ必要があり、一般的には矢束85cm程度までは並寸、90cm程度までは伸び寸、95cm程度までは四寸伸び、80cm以下で七尺とされている。
全日本弓道連盟では、「弓の長さは221cm(7尺3寸)を基準とし、射手の身長または競技の種類により若干の長短を認められる。…握りの位置は弓の上部から約3分の2のところにあることを要す。矢摺籐の長さは6cm以上。弓には照準のための装置や目印をしたり、類似のことをしてはならない。」としている。競技性を考慮した規定をある程度定めてはいるが、同時に「弓道の用具はまだ完全に均一化されていないため…また、用具の充分な性能発揮のためにも各個の工夫、愛着も必要である。それは伝統的な弓道理解のための一助ともなる…」として、先人が培って来た一律に定義付けできない和弓の多様性を一部で認めている。
実際の所、“握りの位置は弓の上部から約3分の2”とはあるが、実際の握りの位置は厳密に3分の2の位置にはなく、おおむね5分の3あたりにある。
威力
和弓は世界的に見ても大型の弓で、矢が長くて重いぶん射程などの面では不利になるが、武器としての威力は相当ある。「ナショナルジオグラフィックチャンネル」の番組「武士道と弓矢」の中で、ドロ-・ウェイト23kgの和弓と、同23kgのイギリスの長弓(ロングボウ)の威力を科学的に比較する実験を行い、高速度カメラで撮影して検証したところ、矢の速度は両者とも秒速34mで全く同じだが、和弓のほうが矢が長くて重いこと、和弓独特の射法のおかげで和弓から放たれた矢は安定して直進すること(イギリスの長弓から発射された矢は、飛行中、わずかに斜めに曲がる)などの理由により、威力は和弓が勝る、という結果になった。具体的には、人体の密度を再現した銃弾のテスト用のジェルのブロックを的として、矢が人間の体にどの深さまで刺さるか、矢の貫通力を比較したところ、イギリスの長弓の矢が25cmの深さまで刺さったのに対して、和弓の矢は30cm刺さった。
また筑波大学教授であり日本武道学会弓道専門分科会会長他を務める森俊男が2005年頃に行った実験では、全日本弓道連盟五段の人物の放った矢は15メートル先の水の入ったブリキのバケツ、厚さ9mmの木材3枚を貫通するなどし、空中に吊した厚さ1mmの鉄板を火花を散らせつつ数センチメートル射貫き、また厚さ1.6mmのフライパンをも2cm程度射貫く威力を見せた。この文献には弓および矢の性能諸元は明記されていないが、2005年現在の平均的な射手の場合、矢の初速は毎秒60メートル(時速216キロメートル)程度であると述べられている。
構造
弓を抱える武士たち。身の丈を超える弓の長大さが分かる。
弓で鹿を仕留める源経基を描いた『貞観殿月』(月岡芳年「月百姿」)
大山祇神社所蔵の中世和弓(鎌倉 – 南北朝時代、重要文化財)右より、赤漆塗重籐弓、黒漆塗二引重籐弓(正中二十一年針書銘)、塗籠所糸巻弓(貞治二年墨書銘)、吹寄籐弓、黒漆塗二引重糸巻弓、塗籠二引樺巻弓、塗籠重糸巻弓、塗籠匂糸巻弓(2張)
反り
和弓は全体的に滑らかな曲線を描くが、その独特の曲線で構成された弓の姿を成りと言う。弓に弦を張った状態での姿を張り顔・成り、充分に引いた時の弓の姿を引き成り、弦を外した状態では裏反りと呼び、それぞれ弓の性格や手入れする際に見る重要な要素である。
和弓は基本的に5つの成り場で構成される。下から小反り、大腰、胴、鳥打ち、姫反りと呼ばれ、5カ所それぞれの反発力の強弱バランスによって張り顔は成り立ち、また弓の性能を引き出している。弓の張り顔には江戸成り、尾州成り、紀州成り、京成り、薩摩成り等と呼ばれる産地毎の特徴や、それを作る弓師によってもそれぞれ特徴がある。また射手の好みや癖、材料の個体差から来る要因から弓の成りは一定ではなく、一張り毎に少しずつ張り顔は違う。
和弓は弦を手前に弓幹を向う手に見た時に上下真っ直ぐな直線ではなく、矢を番える辺りで弦が弓幹の右端辺りに位置するよう僅かに右に反らされている。この弦が弓の右端に位置する状態を入木(いりき)と呼び、矢を真っ直ぐ飛ばすために必要な反りとなっている。逆に弦が弓の左に来るような状態は出木(でき)と呼ばれ、これは故障の部類に入り調整が必要となる。
造り
伝統的な竹弓は基本的に三層構造をしており、弦側から内竹(うちだけ:前竹〔まえだけ〕ともいう)・中打ち(なかうち)・外竹(とだけ)と呼ばれ、中打ちを芯材に、内竹、外竹で前後から挟み合わせた形となっている。中打ちはさらにヒゴと呼ばれる黒く焦がした短冊状の竹を数本横並びに重ね合わせ、さらにその両脇を木で挟み込んでいる。完成品の弓の横脇には前竹、外竹に挟まれた形で木が見える形になり、この木を側木(そばき)と呼んでいる。 竹弓を製作する際、和弓独特の反りを出すために、接着剤を塗布した内竹、中打ち、外竹をそれぞれ重ね、全体を「藤蔓」で等間隔で巻いていき、そして紐と竹の間に竹製の楔を100〜200本前後打ち込みながら材料を圧着しつつ撓らせていくことで弓の反りを付ける(このため和弓を製作することを「弓を打つ」と表現される。弓を引いて矢を射ることは「弓を引く」または「引く」と言う)。
竹弓は引くことにより、中打ちを芯として外竹が引き延ばされ、内竹が圧縮され内外竹がスプリングのような働きをすることで弓としての反発力を得ており、側木や竹の性質、中打ちのヒゴの焦がし様やヒゴの数によって弓の性格が大きく変わってくる。このことから外竹は白色のまま、内竹は白〜色が付くほど、ヒゴは黒く焦げるほどに火を入れ、それぞれの部位に合わせた素材の性質を引き出しているのが一般的な竹弓である。弓力(弓の強さ)は、弓の厚みを薄く、または厚くすることで概ね調節される。
素材
竹弓の素材には一般的に真竹、黄櫨(ハゼノキ)がよく使われる。真竹は三年竹と呼ばれる芽が出てから2年〜3年目の竹を選び、さらにその中から節間、節の高さ、直径、曲がり等条件に合うものだけが選ばれる。竹の刈取りは秋〜冬に掛けて竹が一番乾燥している時期に行われる。刈り取った竹は、1年以上寝かされた後、火に掛け油脂分を拭き取り、弓の材料となる。中には真竹以外の竹をヒゴに使用したり、前竹に煤竹を使用したもの、紋竹、胡麻竹等の紋竹を主に鑑賞目的で使用したものもある。
黄櫨は堅く弾性に優れていることから側木に適した素材とされ、古くから使用されている。黄櫨以外にも 紫檀、黒檀等唐木を使用したものも数は少ないが存在する。黄櫨には稀に木肌に杢が出ることがあり、縄目杢、縮み杢、鳥眼杢、鶉杢等、基本的に華美な装飾を嫌う和弓の中で自然が魅せる美として映り、紋竹と合わせて珍重されている。しかし近年、国産の黄櫨は減少し既に入手が困難になりつつあり、将来的な資源の枯渇が懸念されている。
竹弓の素材には竹を張り合わせる接着剤も弓の性格を決める重要なファクターである。現在の主流は合成接着剤であるが、伝統的には弓独自に使われる膠(ニカワ)と呼ばれる鹿皮原料の膠が使われており、合成接着剤を使用した弓よりも手入れは難しいが引き味が柔らかい・寿命が長い、冴えが良い等とされる。また鰾膠を使用した弓はニベ弓と呼ばれ、上級者の間で珍重されている。
由来
和弓の全長は江戸期より七尺三寸(約221cm)が標準と定められているが、これは世界の弓の中でも最長の部類である。和弓がなぜこのように長大になり、また中間より下を把持するという独特の握り方をするようになったかは未だはっきりと解っていない。 推察されている理由を以下に挙げる。
日本で手に入れやすい素材が植物性のものであったこと。木や竹は撓らせ過ぎるとやがて破綻を生じ、また撓り癖も付くが、弓の全長を長く取ることで全体的なひずみ量を少なくし、より多くの矢数に耐えられるようにした。その結果耐久性と威力を求めて、現在の形になった。
上記理由に合わせ、古来の弓は木から削り出した単一素材であり、根元が下に、梢側が上に来るように弓を持つが、木素材の弾性率が梢側より根元の方が高いため、上下の撓りのバランスを取るために中間より下側を握るようになった。
戦時、歩兵は身を屈めながら、身分ある武士は騎乗で弓を引くため、下が長いと地面、或は馬に弓が当るため邪魔になる。そのため真ん中より下部を握るようになった。
日本では古来弓は神器として考えられており、畏敬の念や信仰により長大になっていったというものである。現在でも弓を使った神事は多く見られる。
和弓は何故長大になったか、とされるが、それでも長い歴史を見れば短くなっている。古墳時代には3mを超す弓も存在し、正倉院には2.4mに及ぶ弓も保存されている。また、鎌倉時代から江戸期までは七尺五寸が標準であった。
日本には古来より大弓と呼ばれる2mを超す長尺の弓から半弓に分類される短い弓等、長さ、武芸用途、遊戯用途、植物素材、動物素材、様々な弓があった。その中で最も威力があり武士に好まれたのが大弓で、大弓を用いた射術も発展し現在に至り、弓道として残った。つまり時代毎の用途や好みによる選択的な歴史淘汰の結果である。
弓の種類
原始の弓[縄文時代初期:紀元前1万3000年頃〜 ]
弓は人類史上、石鏃が発掘されていることから石器時代から存在することがわかっているが、日本では縄文時代からである。当時の弓は主に狩猟用途で使われており、狩猟生活するには欠かせない生活道具であった。弓は木(イヌガヤ)から削り出した単一素材で、補強のために樹皮や麻を巻き締め漆で固めた弓もしばしば見られる(考古学的にはこの時代の弓も「丸木弓」と呼称している)。漆塗りの弓には装飾が施されたものもあり、祭祀目的で使われていた形跡も見られる。ただしこの頃にはまだ長くても160cm程度のものが多く、また材質が木材であることから完全な形で発掘されることは極めて難しく、当時の弓の全体像はわかっていない。
丸木弓(まるきゆみ)[弥生時代:紀元前5世紀頃〜 ]
弥生時代に入ると人々の間で貧富の差が生まれ、やがて戦いが盛んになる。弓は狩猟目的の生活道具から殺傷目的の対人武器へと用いられるようになり、弓に対してより高い威力、飛距離を求めた改良が行わる。結果として全長2m以上の長尺、上長下短、下部寄りを把持するようになったと思われる。遺跡から発掘される土器に描かれている絵からも当時の弓の形が見て取れる。また、弦を掛ける弓の両端が弦を縛り付ける形から現代に通じるシンプルな凸型形状になり、弦の掛け外しが容易になっている。
魏志倭人伝の倭人に関する記述に「兵器は……木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている。」という一節がある。
兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
— 『三國志』魏書東夷傳倭人条
平安時代までは単一素材の丸木弓のままだが、時代が下るに従い形状が現代に通じる和弓の形に近づく。また、枕詞として和歌にも詠まれた「梓弓」のように、神事や儀式の鳴弦(弓の弦を打ち鳴らして穢れを祓うまじない。ゆみづるうち、鳴弦の儀)に弓が用いられるなど、単なる武器を超える精神的な意味を持つ道具となる。
(光源氏が供人を)召せば、御答へして起きたれば、(光源氏が)「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、(供人は)「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。
— 『源氏物語』 夕顔
伏竹弓(ふせたけゆみ)[平安中期:10世紀頃〜 ]
木と竹を張り合わせた合成弓が初めて登場する。より高い威力を求めて木を主材にした弓の外側に竹を張り合わせたシンプルな型である。また「武士」の誕生もこの頃。
三枚打弓(さんまいうちゆみ)[平安後期:12世紀頃〜 ]
木芯の前後に竹を張り合わせたもの。丸木、伏竹からくる発展的な作り。源平時代前後辺りか。
四方竹弓(しほうちくゆみ)[室町中期:15世紀 – 16世紀頃〜 ]
木芯に四方を竹で囲んだ作り。時代的には戦国時代に入る前後あたりか。
弓胎弓(ひごゆみ)[戦国時代後期 ]
これまで弓胎弓の完成を江戸初期とする説が有力だったが、小田原城跡から15~16世紀の漆塗り弓胎弓が出土したことから、戦国時代後期までに完成していたことが判明した。(詳細は構造欄参照)。江戸初期は通し矢競技が盛んに行われた。藩の威信を掛けた競技のため、弓、矢、弽(ゆがけ)の改良、開発が盛んに行われた。当時培われた技術が現代の弓具制作の礎となっていると言っても過言ではない。現在使われている弽(ゆがけ)の原型の発祥もこの頃のことかと思われる。
グラス弓(通称)[昭和46年〜 ]
江戸の老舗、小山弓具が木芯材にグラスファイバーを前後に挟んだ新素材の弓を発表。グラス弓の最大の特徴は量産が可能で耐久性が高く、手入れが非常に楽なことである。以降、カーボンファイバー製、ケプラー製等現代的な素材を使用した弓が次々と開発、工業的に生産するメーカーが現れる。これらは保守的な弓道家の間へも次第に浸透し、比較的安価で手入れが容易なことから現在では学生や初心者をはじめ、広く一般に使われるようになった。弓の素材で大別する為にグラスファイバー製の弓を「グラス弓」、カーボンファイバー製の弓を「カーボン弓」、伝統的な竹製の弓を「竹弓」等と呼称するようになる。
各部名称
各部名称
弭(はず)
弓の両端にある凸形状の弦をかける部分で、上に来る方を末弭(うらはず)、下に来る方を本弭(もとはず:「元弭」とも書く)と呼ぶ。由来は弓の下を竹の根元側、上を梢側に向けるため、上が末、下が本(元)となる事から。矢の筈(はず)と区別するため、弓弭(ゆはず)とも呼ばれる。
関板(せきいた)
弓の内側の上下端に10数cm〜20数cm程度、内竹を上下から塞き止め挟む形である。末弭側を上関板(うわせきいた)或は額木(ひたいぎ)、本弭側を下関板(しもせきいた)と呼ぶ。材質は側木にも使われる黄櫨が一般的だが、弓の性能に最も影響が少ない部分であるためか木材の選択範囲は比較的広く、鑑賞や好みで唐木、鉄刀木、黒柿等稀少な銘木が一部で好まれている。
切詰(きりつめ)
関板と内竹の境目を切詰と呼ぶ。補強の為切詰の上から数センチ程、幅2〜3mm程の細い籐を巻く。この籐を「切詰籐(きりつめどう)」あるいは「鏑籐(かぶらどう)」と呼び、上関板の方を「上切詰籐(かみきりつめどう)」、下関板の方を「下切詰籐(したきりつめどう)」と呼ぶ。
矢摺籐(やずりどう)
握りのすぐ上、握り革と接する形で巻かれる籐。一文字、面取籐、平籐、奴籐、杉成り、等籐の形状から数種類ある。矢が弓を擦らないよう保護のために巻かれるが、狙いの目安を付ける部分でもある。矢摺籐の最下段、矢が接する部分を「籐頭(とがしら)」と言い、また矢摺籐を巻く際はここから巻き始める。現在、試合等では弓道連盟の規定により6cm以上の高さが必要だが、かつては流派により巻き様式があった。
握り(にぎり)
「弣*弓へんに付(ゆづか)」「弓束(ゆづか)」とも。その名の通り、弓を握る部分。矢摺籐と接する形で握り革を巻く。手の内の当る重要な部分で、柔らかく吸湿性のある鹿革を巻く。
弦(つる)
弓の間に張った丈夫な紐或は糸状のもの。伝統的な麻弦は 麻・苧麻(カラムシ)等を原料に、繊維をこより薬練(くすね:「天鼠」とも書く)を塗る、若しくは染み込ませ補強したもの。弦の両端は弓に掛けるため弦環を作るが、環は独特な縛り方をする。現在はケプラー、ザイロン、アラミド繊維等の合成繊維製の弦が主流。近年アーチェリー用のストリングを和弓用に改良した弦も現れた。
節句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(「暦」も参照)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。日本の文化・風習。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)とも。
概要
この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。
「御節供」と呼ばれた節句料理はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていたが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。そして、今日では「おせち」として、正月三が日もしくは七日にかけての松の内の期間において食べるものを指すようになっている。ただ、今日でも人日の節句の七草粥など「節句料理」として残っているものがある。
節句に飾られる人形(雛人形、五月人形など)は、節句人形(せっくにんぎょう)とも称される。
房州うちわ(ぼうしゅううちわ)は、千葉県南房総市、館山市特産のうちわ。千葉県の伝統工芸の一つ。京うちわ(京都府京都市)、丸亀うちわ(香川県丸亀市とその周辺地域)と並ぶ日本三大うちわの一つである。
特徴
地域に自生する女竹(細い篠竹)を原料に用い、細く割いた骨と一体となった丸柄を特徴[1]とする。
全ての製作行程が手作業による。行程数が21と多いため、行程ごとに分業して製作する。
千葉県指定伝統的工芸品である。
経済産業大臣指定伝統的工芸品(千葉県では唯一の指定)である。
歴史
江戸時代、関東でうちわを生産するようになる。房州はうちわの材料の女竹の産地で那古港から江戸へ向けて女竹を出荷していた。
1877年(明治10年)ごろから那古港周辺(現在の館山市那古)でうちわの骨づくりがはじまる。
1923年(大正12年) – 関東大震災で被災した東京のうちわ問屋が那古港に近い船形地区(現在の館山市船形)へ移住し、房州でのうちわ生産が本格化する。
1984年(昭和59年) – 千葉県指定伝統的工芸品に認定される。
2003年(平成15年) – 経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定される。
琴(きん、こと)とは、日本の伝統楽器。日本で「こと」と呼ばれる楽器は、(1)琴(きん)、(2)箏(そう)、(3)和琴 (わごん)、(4) 一絃琴 (須磨琴)、(5) 二絃琴 (八雲琴) がある。
(1)琴(きん)と(2)箏(そう)は混同されることがあるが、両者の違いは、(1)琴は弦を押さえる場所で音程を決める(和琴は柱を使う)。(2)箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節する。いずれも、指にはめた爪(ピック)または指(あるいは手の爪)で弦を弾いて音を出す。
種類
七絃琴(古琴)
詳細は「古琴」を参照
一絃琴
モノコード系のシンプルな楽器であり、板琴、須磨琴などの別名がある。日本には江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧覚峰律師により世に広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流行し、土佐一絃琴と呼ばれた。
芦管(ろかん)という管をはめた左手の指で弦の勘所を抑え、右手の指にはめた爪で弾いて演奏する。初期の一絃琴は一枚板に弦を張った構造だったが、最近のものは箱状になっている。一絃琴のために作曲された曲を「本曲」といい、全体に緩やかな音楽が特徴である。
二絃琴
1820年に中山琴主が出雲大社への献納用楽器として考案したことから当初は出雲琴と呼ばれたが、代表曲「八雲曲」にちなんで八雲琴と呼称するようになった。初期は竹で作られたが、のちに杉や桐製となった。2本の弦は同律に調弦されることから、一絃琴から進化させたものと考えられる[2]。出雲、伊予、京阪地方で盛んになったが、現在は衰微している。
明治初期に二絃琴を発展改良させた東流二絃琴(あずまりゅうにげんきん)が開発され、東京で流行した端唄や俗謡の伴奏楽器として、明治中期まで盛んに用いられた[2]。
大正琴
大正時代に二絃琴をもとに開発された。
詳細は「大正琴」を参照
「こと」の由来
『古事記』などに「こと」を弾く場面がしばしば登場するように、本来「こと」は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。登呂遺跡など、各地の弥生時代の遺跡からすでに「こと」と思われる残片が見つかっており、また古墳時代の埴輪にも「こと」や「こと」を弾く人物をかたどったものがある。つまり、「こと」は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その「こと」は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に「こと」と呼ばれる箏が中国から渡来したのは、奈良時代のことである。
和琴とは別に、奈良時代に渡来した「琴」(きんのこと)は中国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器(古代日本では、人間が息を吹き込まねば演奏できない管楽器よりも高尚なものとされた。当時弦楽器はすべて「○○のこと」と呼び習わされる)の中でも重要視されていたらしい。平安時代の『うつほ物語』では琴の伝授が物語の主軸の一つであり、また『源氏物語』にも登場するが、醍醐天皇~村上天皇の治世がモデルと推測される作中世界においても「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに源氏物語に登場する奏者は、主人公で臣籍降下した皇子光源氏やその弟の蛍兵部卿宮・宇治八の宮、また源氏の妻の内親王女三宮とその子薫、常陸宮の娘末摘花、明石の御方(母が中務宮の孫)など、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
縄文琴
倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の2種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。出土例として、北海道小樽市忍路土場(おしょろどば)遺跡、滋賀県彦根市松原内湖遺跡、青森県八戸市是川遺跡などから、縄文時代後期から晩期にかけての縄文琴が出土している。ただし、弦の張り方や琴頭の形が弥生時代後期の琴と異なることから、縄文琴の伝統は途切れ、弥生時代から倭琴の新たな伝統は始まったものと考えられる。似たような楽器として、アイヌのトンコリがある。 3000年前の青森是川中居遺跡から出土した木製品は世界最古の弦楽器の可能性があり、 弥生時代の登呂遺跡などから出土した原始的な琴と似ていることから、日本の琴の原型ではないかと推測されている。
中世神話上における起源[
伊勢神道の書物『御鎮座本紀』には、「アメノウズメが天香具弓(あまのかぐゆみ)を並べて叩いたのが琴の始まり」と記述されており、中世神話上では、その起源を「女神が並べた弓から始まったもの」と解釈された(神道行事の寄絃の方も参照)。
琴という言葉
このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じ、「箏」の字が常用漢字で無いことから「箏のこと」で用いる柱を琴柱(ことじ)と言ったり、箏の台のことを琴台(きんだい)と言ったり、箏曲を教える人が広告などに「琴曲教授」と書いていたり、「福山琴」の商標登録に見られるように言葉の使われ方に多少の混乱がある。
例えば、『源氏物語』などの古文では、「琴」は、この項で説明している琴(きん)のほかに、箏、琵琶などすべての撥弦楽器を指している。このことは、明治時代に日本に新しい楽器が入ってきた際に、洋琴(ピアノ)、風琴(オルガン)、手風琴(アコーディオン)、自鳴琴(オルゴール)、提琴(ヴァイオリン)などと呼ばれていたことからも伺い知ることができる。
琴に関連する伝説
常陸国住人に琴御館宇志丸(ことのみたち うしまる)というものがおり、ひとりでに鳴る琴を所有しており、敵対勢力が来ると音を鳴らし、宇志丸に教えたため、事前に兵を集められ、徹底して防戦ができ、戦に負けることがなかった。このため、敵側は偽りの和睦を結び、宇志丸の娘を嫁とするが、その嫁を用いて、秘密裏に琴の弦を切らせた。これにより宇志丸は敵兵が進軍しても気づかず、琴の弦が切られたことに気づいた時には、敗戦し、常勝を重ねることはなくなり、敗戦を重ねた結果、近江国滋賀郡に流浪して着き、日吉神人(神主)の祖先となった。
この説話は『続群書類従』所収「耀天記」に記述されたもので、ベトナムに伝わる伝説と類型が指摘されているが、「霊的な琴」といったように、日本風に(神道観で)アレンジされており、日本文化における琴の信仰観(中世以降も重要だったこと)がわかる伝説である。
三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱらはじいて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。
概説
三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。
三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。
概説
三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。
三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。
篠笛(しのぶえ)は日本の木管楽器の一つ。篠竹(雌竹)に歌口と指孔(手孔)を開け、漆ないしは合成樹脂を管の内面に塗った簡素な構造の横笛である。伝統芸能では略して「笛」や「竹笛」と呼ばれることも多い。尺八やフルートと同じく「エアリード楽器」に分類される。
なお本稿で西洋音楽での音名に言及する場合は英米式(ドイツのHをB、ドイツのBをBb)で表記する。音名・階名表記を参照のこと。
概要
「篠笛」は、竹の割れ止めに藤を巻いて漆を塗る以外ほとんど装飾することなく、竹そのものといった簡素な姿をしている。これは「篠笛」が庶民階級の間で愛好されてきたことが大きな理由であろう。貴族や武家など上流階級が用いた「龍笛」「能管」では、巻き・塗りなど手間のかかる装飾が施されていることが「篠笛」との大きな違いである。
「篠笛」は庶民の楽器であるため、外見(巻きの有無・多少・素材、塗りの程度・色)、指孔の数(「六孔」「七孔」)、長さ、調律の種類(バリエーション)が数多く、日本各地に多種多様な「笛」が存在する。
他の管楽器との比較
楽器として見た「篠笛」は横笛の一種であり、洋楽器のフルート属とよく似ている。音階や運指などに違いはあるが、原理的には「フルート」の管を竹にして「キー装置」を取り去り、音孔の数を人間の指の数に合わせ、押さえやすい長さにしたものと考えてよい。(写真2)
写真2:篠笛(中央)と、他の管楽器の比較
【写真2】上からコンサートフルート(C)、尺八(一尺八寸、D、木管7孔)、七孔・唄用篠笛(上から三本調子G、六本調子Bb、八本調子C)、六孔・囃子用篠笛(六本調子)、ソプラノリコーダー(C)、ピッコロ(D)。カッコ内は最低音または基準音。唄用篠笛の基準音は最低音(筒音)ではなく、第一孔を開けた音である。
元来、西洋のフルートも篠笛のような素朴な姿をしていたが、近代的改良を経て現在のような金属製の管にキー装置を備えたものとなっている。 篠笛は、最も素朴な原形を残している横笛の一つであり、現代の楽器としても大変興味深い。
写真のとおり、篠笛はコンサートフルートとピッコロの中間の長さであり、音域もコンサートフルートとピッコロの間に位置するものが大半である。
Cを基準音とする八本調子唄用篠笛の歌口から第一孔までの長さと、C管リコーダーの発音部エッジから管端までの長さがほぼ等しい(28-29cm)。(「共鳴管の長さ」が等しいので、同じ高さの音が鳴る。)コンサートフルート(オクターブ下のCが基本音)の歌口から脚部管先端までの長さ(60cm前後)の約半分なので、コンサートフルートの1オクターブ上の音が鳴るのである。(共鳴管の長さが半分になると、1オクターブ上の音が鳴る。)
参考までに、ピッコロ(D)の共鳴管の長さは約26.5cmであり、尺八(一尺八寸、D)の共鳴管の長さ(約54cm)の半分に近い。この関係も興味深いところである。なお、尺八は縦笛であるから、共鳴管の長さは管の上端(正確には歌口の鋭いエッジ)から下端(管尻)までと考える。
歴史
「篠笛」は日本で独自に考案されたものではなく、雅楽の横笛として中国大陸から伝わった「龍笛」が庶民の間にも広まって簡素化したものであろうと考えられている。さらに歴史をさかのぼると、世界中の横笛の元祖は古代インドであると言われている。
現在多く用いられている篠笛の指孔の数は「六孔」「七孔」の2種類で、先祖といわれる「龍笛」は「七孔」であるが、「7穴の篠笛」と「龍笛」の基本音階・内部構造は異なっており、龍笛の装飾を省いたものがそのまま七孔篠笛に変化したとは考えにくい。
歴史学資料としては奈良・正倉院に伝わっている横笛や、宮城県名取市「清水遺跡」(9世紀ごろ、平安時代)、福島県玉川村「江平遺跡」(8世紀ごろ、奈良時代)から発掘された横笛についても研究されているが、音階・構造はそれぞれ少しずつ異なっており、日本の横笛の歴史について統一した見解は得られていない。
後述する唄用篠笛は五代目及び六代目の福原百之助が大正から昭和の初期にかけて開発したもので、「篠笛」という名もその頃五代目福原百之助がつけたものである。
刷毛(はけ)とは、木やプラスチックなどでできた柄の先端に多数の毛を取り付けた道具。漢字では「刷子」とも書かれる(ただし、「刷子」は「ブラシ」とも読まれる)。毛を二枚の木片で挟んだ形状のものが多いが、筆と類似した形状のものもある。材料の毛は、豚や山羊、人の毛、アクリル樹脂などが用いられている。なお、竹製の竹刷毛もある。
概要
刷毛は主に以下のような用途で用いられる。
塗装用具 – 広範囲の塗装
清掃用具
調理器具 – タレなどを塗るための道具
その他の刷毛として、陶芸に用いられる釉はがし刷毛、表装や製本の際に糊を塗るための糊刷毛、紙製品の貼り付けの際に空気を取り除く撫で刷毛などがある。