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森上仁:世界的竹工芸家

別府竹細工(べっぷたけざいく)は、大分県別府市周辺で伝統的に生産されている竹細工である。

概要
竹材のうちで竹細工に使用されるのは主にマダケである。大分県はマダケの生産量が32%(2007年)のシェアを占めて全国一であり、その豊富な竹材を利用した竹工芸が歴史的に盛んである。中でも別府竹細工は、県内産の良質のマダケを主材料とし、花籠、盛かご等の籠(篭、かご)を中心に、青竹を使った日用品から、ファッション性を追求したバッグや、インテリア照明まで幅広い製品を生産している。
竹細工には、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹といった、弾力性、硬さ、耐久性などが異なる種々の竹材が利用目的によって使い分けられる。
歴史
『日本書紀』に景行天皇が九州行幸の帰途に別府に立ち寄った際、同行した膳伴(かしわごのとも)が良質な篠竹を見つけてメゴ(茶碗籠)を作ったとの記述が残っており、これが別府の竹細工に関して現存する最古の記録とされる。
しかし、別府で竹工芸品が本格的に生産されるようになったのは、室町時代のことであり、行商用の籠が生産され、取引のための市場が整備されたとされる。江戸時代には、別府温泉が全国的に知られるようになり、湯治客が滞在中の自炊のために使用する飯籠、笊(ざる)などの竹製生活用品が販売された。
明治のはじめ別府港が完成すると、別府は瀬戸内航路の物資が集まる中継地となり、さらに大勢の湯治客が訪れる温泉都市へと変化する中で、竹細工への需要も大きく高まっていく。湯治客の滞在生活の中で評判を得た竹製生活用品は、土産品としても利用されるようになって市場が拡大し、別府の地場産業として定着した。
また、泉都別府には財界人や文化人などが集まる別荘が多く建てられ、茶道具などの美術品が求められるようになる。そのような中で編組技法の高度化などの別府竹細工の特徴が見られるようになり、太さの違うひごを駆使した多彩で複雑な網代編み文様などを用いた様々な美術工芸品も産み出されるようになった。
1902年(明治35年)に創立された 別府町・浜脇町学校組合立工業徒弟学校(現在の大分県立大分工業高等学校の前身)では、竹工芸の技術者育成が行われた。
1938年(昭和13年)には、竹工芸の技術者育成、試験研究のために、大分県工業試験場別府工芸指導所(1954年(昭和29年)に大分県別府産業工芸試験所に改称)が大分県によって設立され、その後、大分県立別府高等技術専門校との統合で発足した大分県竹工芸・訓練支援センターは、竹工芸科を持つ日本で唯一の職業能力開発校であり、現在も多くの技術者を育成している。
1967年(昭和42年)には別府市の生野祥雲斎が竹工芸では初めての重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されるなど、別府竹細工はその品質も高く評価されている。1979年(昭和54年)には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されており、伝統工芸士の認定登録者は2011年2月現在で21名にのぼる[6]。
また、1978年(昭和53年)には、業界団体である別府竹製品協同組合が設立され、別府竹細工の発展・振興等を図っている。
別府市竹細工伝統産業会館
1950年(昭和25年)に、竹工芸の試験研究のために別府市によって設立された別府市工芸研究所を前身とする。現在の別府市竹細工伝統産業会館は1994年(平成6年)6月に竣工したものである。
別府竹細工の作品や資料を収集・研究して、常設展示や、企画展示会を開催し、後継者育成教室、体験学習教室なども行っている。また、2011年(平成23年)9月からは竹細工の土産品の販売も開始している。
所在地:大分県別府市東荘園8丁目3組
開館時間:8:30-17:00
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日-1月3日
入館料:高校生以上 300円、小中学生 100円
交通:
JR九州日豊本線別府駅より車で約10分
亀の井バス九大別府病院経由南原線で南原停留所下車、徒歩約2分
亀の井バス鶴見病院経由鉄輪線で竹細工伝産館前停留所下車すぐ

朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年(明治16年)3月1日 – 1964年(昭和39年)4月18日)は明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれた。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。

略歴
1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。初め俳句を志しており正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の9月20日がまさに子規の通夜であった。
結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた朝倉は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目されることとなる。
1907年(明治40年)、卒業制作として「進化」を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた第2回文展に『闇』を出展し、最高賞である2等となり翌年も「山から来た男」で3等を得るが、欧州留学の夢は破れてしまう(当時、連続で2等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた)。
1910年(明治43年)、最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち突如南洋のシンガポール、ボルネオの視察へと旅立つ(後に朝倉が著書『航南瑣話』(東和出版社、1943年(昭和18年))で語ったところによれば、この旅行は井上馨(当時朝倉は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の朝倉に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。
1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。1924年(大正13年)に帝国美術院会員となるが1928年(昭和3年)にこれを辞し、1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の朝倉彫塑館)。1932年(昭和7年)早稲田大学校賓となる。1935年(昭和10年)、再度帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員。1944年(昭和19年)東京美術学校教授を辞し帝室技芸員(7月1日[1])、従三位、勲四等瑞宝章受章。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために400点余の朝倉の作品はほとんど消滅してしまう(原型は300点余が残された)。
戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受章。1949年(昭和24年)、日展運営会常務理事。1952年(昭和27年)に文化功労者に、1954年(昭和29年)、日展理事、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)まで日本芸術院第一部長。1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残した。
1964年(昭和39年)4月18日、急性骨髄性白血病にて死去。81歳没。正三位を追贈される。墓所は谷中霊園にある天王寺の飛地にある。
朝倉文夫と猫[編集]
朝倉は動物、中でも身近に多くいた猫をこよなく愛した。多いときには自宅に15~6匹の猫を飼っていた。身のこなしや飼われながらも野性味を失わない神秘性などに魅力を感じ「吊るされた猫」(1909年(明治42年))、「よく獲たり」(1946年(昭和21年))など自らの作品にも幾度も取り上げた。
1964年東京オリンピックの開催にあわせて猫に関する作品を100種仕上げて「猫百態展」を開催したいと考えていたが、自身の死によってこの願いは叶わなかった。
朝倉文夫と園芸
朝倉は東洋ランの栽培や活け花、盆栽などに造詣が深く『東洋蘭の作り方』(三省堂書店 1940年(昭和15年))という著書を残している他、盆栽家・小林憲雄と共に当時趣味の世界でしかなかった盆栽の芸術的価値を見出し現在も開催されている「国風盆栽展」の開催に尽力した。
また自身の彫塑塾においても「園芸」が必修科目とされ、今も残る朝倉彫塑館の屋上菜園ではトマトや大根を育てるなど自然との触れ合いを芸術の基本概念と考えており、彫塑作品の野外展示も積極的に行った。
代表作品
墓守(1910年(明治43年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館、東京国立近代美術館等。朝倉彫塑館所蔵の石膏原型は重要文化財に指定されている)
時の流れ(1917年(大正6年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館)
大隈重信像(1932年(昭和7年))(早稲田大学、朝倉彫塑館。新宿区指定有形文化財[2])
三相(1950年(昭和25年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館)
太田道灌像(1952年(昭和27年)(東京国際フォーラム内)
翼の像(1953年(昭和28年))(上野駅グランドコンコース内。上野駅開設70周年、特急はつかり運転開始記念として作られた)
尾崎行雄像(1958年(昭和34年))(憲政記念館、東京都千代田区永田町1丁目1番地1号)
五代目 尾上菊五郎胸像 及び 九代目 市川團十郎胸像 (東京 歌舞伎座内)

日名子 実三(ひなご じつぞう[1]、1892年10月24日 – 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。
八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことで知られる。

略歴
5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。
学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斉藤素巌と共に構造社を結成。
1931年(昭和6年)には、漢文学者・内野台嶺らの発案を基に八咫烏を題材に、大日本蹴球協会の「シンボルマーク」を手がける。これは大日本蹴球協会の後身である日本サッカー協会にも受け継がれ、またこのマークを基に作られた「日本代表エンブレム」は、サッカー日本代表のユニフォーム等に使用されている。
金鵄を意匠とする昭和六年乃至九年事変従軍記章(満州事変・第一次上海事変)、八咫烏を意匠とする支那事変従軍記章(日中戦争)といった著名な従軍記章、1940年(昭和15年)に完成した宮崎県宮崎市平和台公園の平和の塔(八紘之基柱、八紘一宇の塔)、日本ニュース(ニュース映画)のテーマタイトル等を手がけている。
1945年(昭和20年)4月25日、脳出血により死去。

略歴
5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。
学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斉藤素巌と共に構造社を結成。
1931年(昭和6年)には、漢文学者・内野台嶺らの発案を基に八咫烏を題材に、大日本蹴球協会の「シンボルマーク」を手がける。これは大日本蹴球協会の後身である日本サッカー協会にも受け継がれ、またこのマークを基に作られた「日本代表エンブレム」は、サッカー日本代表のユニフォーム等に使用されている。
金鵄を意匠とする昭和六年乃至九年事変従軍記章(満州事変・第一次上海事変)、八咫烏を意匠とする支那事変従軍記章(日中戦争)といった著名な従軍記章、1940年(昭和15年)に完成した宮崎県宮崎市平和台公園の平和の塔(八紘之基柱、八紘一宇の塔)、日本ニュース(ニュース映画)のテーマタイトル等を手がけている。
1945年(昭和20年)4月25日、脳出血により死去。

略歴
1874年(明治7年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の長男として生まれる。彫刻家を目指した長男は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、仏像彫刻家の山田鬼斎に師事する。すぐに頭角を現し、イタリアへと留学していた長沼守敬に欧州の彫刻技術を学ぶなど、先駆性を発揮した。
1897年11月に高村光太郎や武石弘三郎、白井雨山、青木外吉ら同窓生と「青年彫塑会」を結成し、木彫家をもまじえて技術上の交流をはかり、新進気鋭の彫刻家として注目されるようになる。この頃に実弟である朝倉文夫が長男を頼って上京。元々俳句を志して正岡子規に師事しようとしていたが、その子規の死もあるものの、文夫が彫刻(彫塑)への道を選択したのは、長男の多大なる影響がある。
長男は人物彫刻を得意とし、明治天皇騎馬像や井上馨像、太田道灌像、広瀬中佐像など、数多く製作した。また、東京日本橋の欄干の麒麟と獅子のブロンズ像は、長男の手によるものである。鋳造は義父である岡崎雪聲が行った。
代表作品
明治天皇騎馬像(1930年)(旧多摩聖蹟記念館)
軍神広瀬中佐像(1910年)(万世橋駅※戦後のGHQによる撤去命令により現存せず)
太田道灌像(1924年)(旧東京府庁内※戦時供出により現存せず。東京国際フォーラムに現存する像は、朝倉文夫によるもの)
徳川家康像(1920年)(旧東京府庁内※戦時供出により現存せず)
日蓮上人像(1924年)(洗足池畔)
菅原道真像(1936年)(八王子市御衣公園内)
他多数

赤木 範陸(あかぎ のりみち、1961年 – )は、現代日本の洋画家、横浜国立大学 大学院 教授。

赤木範陸の作品は地塗りを施していない亜麻布を背景に用いており、そこに現れている色は、通常私たちが知っている絵具に由来する色ではなく、たとえば布が濡れた時に出るような濡れ色とでもいうような色で描かれた不思議な明暗の画肌が特徴である。これは作品に特殊に処理した蜜鑞で対象(モチーフ)の暗部の暗い調子を生の亜麻布に染み込ませたためである。これまでの既存の絵画の観念からすれば、絵画はキャンヴァスなどの支持体の上(表面)に絵具が載せら、重ねられることで成立するが、赤木の場合はこの絵の具層に相当するものが無く、その代わり亜麻布の内部に様々に異なる蜜蝋の濃度を蓄積され、それが結果的には麻布の表面上に鑞の染みとして濡れ色に現れている。赤木はこの方法で「色を使わない現代絵画技法」として古代のエンカウスティーク技法を自らの独自の絵画技法として完成させた。赤木自身もこの絵の具を使わない絵画は古代のエンカウスティーク技法を「色を使わない事で現代に再生させた」と言っている。絵画における重要な要素と言える、形態や色彩の省略ないし単純化を試みるという手法は現代ドイツ美術における抽象表現の中枢をなす概念に由来するものであり、赤木がミュンヘン留学時代に現代ドイツ絵画理論の洗礼を受けている証左でもある。しかしながら赤木が試みたのは自らの作品への現代ドイツ芸術の抽象理論の導入であって、自らの作品自体の抽象化ではないと2001年の大分市美術館の回顧展図録の中で述べている。またその染みの様に現れる絵画の起源あるいは由来について赤木は、十字架の横木を担がされ鞭で打たれながらゴルゴタの丘に向かうイエスの顔をヴェロニカ(後に聖女とされる)が拭った麻布に、十字架にかけられ神となったイエスの顔が染みのように浮かび上がったという「ヴェエロニカの布」「聖顔布」を挙げている。神の似姿(本質)がヴェロニカの布に写し出されたように、赤木自身も自らの絵画に似姿としての対象の本質を持たせたいのだと語っている。
赤木の初期の作品は卵黄テンペラ、鑞テンペラなどの様々なテンペラ技法や15世紀頃にフランドルで発明された混合技法等で描かれ、画風は年代により近年まで極端に変化していることから、これも赤木作品の特徴であると言える。1990年あたり以降からエンカウスティーク(独: Enkaustik、英: エンコスティック、仏: アンコスティック)という世界最古の高等な古代の絵画技法を改良した、絵具を使わない濡れ色の絵画作品を発表している。絵具を使用しないで写実的に描いた画家は古代から現代まで赤木の作品を除いては存在してない(絵画が絵具を用いたものである以上、色を使わない絵画技法は論理上不可能)。この事からも赤木の色を使わない絵画の試みは、古い技法を使った新しい絵画として興味深い。色を使わないということに言及すればそれは還って、赤木の感性は色に対して豊かであると同時にある意味において非常に過敏であるといえるのではないだろうか。逆説的ではあるが、色に敏感であるがゆえに、(色を使う事に対する恐怖のような感覚のゆえに)麻布にしみ込む蝋で微妙な調子の変化を捉えようとしたのではないかと推察する事ができる。近年では、この美しい濡れ色の上に目を惑わすような、入り組んだテンペラのハッチングによる色彩の不可思議な効果が加えられた作品のように、色彩表現に回帰したかに思える作品もある。また蜜蝋の調子にモデリングを強調するようなハッチングによる明部の浮出しによる絵画的密度の付加も見られる。
美術評論家の米倉守、元ザルツブルク大学教授で美術史家のフリードリッヒ・ピール、レンバッハハウス美術館館長で美術史家のヘルムート・フリーデルらによる評論があり、それぞれに非常に高く評価されている。日本国内でのエンカウスティーク技法研究の第一人者であり、画家。横浜国立大学で後進の指導にもあたっている。
学歴
1961年大分県別府市生まれ、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。同大大学院博士前期課程終了。藝術学修士。大学院在学中にドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツ政府給費生としてミュンヘン国立芸術大学(Staatliche Akademie der Bildenden Kuenste, Muenchen)に留学、1995年卒業資格であるディプロム(Diplom)取得、同時にマイスターシューラー(Meisterschüler)の学位(ドイツの芸術系大学で芸術家に付与される最高学位。中世ヨーロッパのギルドの制度に由来している)を授与される。
脚注
^ 大分市美術館「錬金術師の軌跡」展図録087~089
^ 大分市美術館「錬金術師の軌跡」展図録087~089
^ 大分市美術館赤木範陸展図録01’014〜016
^ 赤木範陸作品集91’末尾
^ 大分市美術館赤木範陸展図録01’010〜012、102〜103
参考文献[ソースを編集]
赤木範陸画集1991(銀座東邦アート社刊)
大分市美術館所蔵品選1999, 2004(大分市美術館刊、蔵)
赤木範陸ー錬金術師の軌跡ー展 図録2001(大分市美術館刊、蔵)
赤木範陸講演記録2001(大分市美術館)
赤木範陸ー湯浴み−展 図録2002(朝倉文雄記念美術館)
日韓現代美術展 図録2005(アジア現代美術館、世宗美術館)
自画像の証言展 図録2007(東京芸術大学美術館)
KAOS展 図録2011(日本橋高島屋美術画廊)
赤木範陸展―濡れ色の神秘 Enkausutikー 図録2012(尾道大学付属美術館)
横浜国立大学紀要No.9, No.10, No.11, No12, No13, No15 (国立国会図書館蔵)
アートコレクター2011/5月号
美術の窓(2012/3月号 9月号, 2013/4月号)
月刊美術(2010/10月号, 2011/4月号 8月号, 2012/9月号, 2013/4月号

宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。本名は宇治山哲夫。
略歴
明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。
1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。
没後20年となる2006年(平成18年)には、東京都庭園美術館で宇治山哲平展、大分県立芸術会館で宇治山哲平回顧展が開催された。
宇治山哲平美術館
1994年(平成6年)に、個人美術館である宇治山哲平美術館が、生誕地である日田市豆田町に開設された。しかし、資金不足のため2004年(平成16年)12月31日に休館。2005年(平成17年)6月18日には、日田豆田文化交流館となった。美術館のウェブサイトは現在も存続しており、バーチャル美術館として宇治山哲平の作品を紹介しているが、作品を常設展示する施設の再開の目途は立っていない。

小野 不由美(おの ふゆみ、1960年12月24日 – )は日本の小説家。女性。大分県中津市出身、京都市在住。血液型はO型。夫は推理作家の綾辻行人。代表作はテレビアニメ化された『悪霊シリーズ』、『十二国記シリーズ』、『屍鬼』。

経歴
1960年(昭和35年)12月24日、大分県中津市に生まれる。父親は設計事務所を経営し、幼いころから図面に馴染みがあり、長じて建物に対する興味が湧く。また、出身地には怪奇伝説や伝承が多く、幼少期から両親にせがんで怪奇話を聞く。1976年、大分県立中津南高等学校に入学。アニメーション&漫画研究部を設立、初代会長を務めた。
1979年、大谷大学文学部仏教学科に入学する。在学中に京都大学推理小説研究会に所属する。当時のペンネームは宇野冬美。同時期の部員には、後に小説家となる綾辻行人・法月綸太郎・我孫子武丸がいる。1986年、部員仲間の綾辻行人と学生結婚する。同年、大学を卒業。1988年、『バースデイ・イブは眠れない』で講談社X文庫ティーンズハートからデビューする。1989年、悪霊シリーズ第1作『悪霊がいっぱい!?』を発表。足掛け5年つづく人気シリーズとなり、後にコミック化、テレビアニメ化された。1992年、十二国記シリーズの第1作『月の影 影の海』を発表。著者の代表作となるが2014年現在も未完。
1993年、『東亰異聞』が第5回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作になる。後に新潮社より刊行。1996年、『図南の翼』が「本の雑誌」のベスト10に選出。北上次郎が週刊誌の書評欄で絶賛するなど、少女小説の範疇を越えて注目を集める[4]。1998年、原稿用紙3500枚の大作である『屍鬼』を発表。ベストセラーとなり、世間に広く名が知られるようになる。1999年、『屍鬼』が第12回山本周五郎賞、日本推理作家協会賞の候補作になる。2010年、悪霊シリーズが、メディアファクトリーより『ゴーストハント』として刊行スタートする。全面的に改稿され、題名も変更された。2012年、『十二国記』が、新潮文庫に版元を変えて刊行スタートする。一部テキストにも手が加えられている。2013年6月には、12年ぶりのシリーズ最新作となる短篇集『丕緒の鳥』が出版される。書き下ろしの新作も続刊予定である。講談社版とあわせて約800万部のベストセラーとなる。2013年5月、『残穢』で第26回山本周五郎賞を受賞する[7]。
作風
ホラー的な要素を強めた本格ミステリーや、山海経の伝説や妖怪の世界と併せて、中国古代史に範を取った重厚な世界観を構築するハイ・ファンタジー、十二国記シリーズがある。
十二国記シリーズは、新潮社で『魔性の子』を書いたときに、背景となる想定世界として作られ、地図や年表、図表なども作っていた。それをファンタジーを書くことを提案した講談社編集者に話したところ、小説化するように勧められ、結果として好評でシリーズが生まれた。本編としては、あと長編1冊で完結する。
『残穢』では、ドキュメンタリー・ホラーに踏み込み、ルポルタージュ文体で書き、山本周五郎賞を受賞した。選考会では、「今まで読んだ小説の中で一番怖い」、「手元に本を置いておくことすら怖い」(唯川恵)と高い評価を受けた。
ディーン・R・クーンツとスティーヴン・キングの大きな影響がある。アーサー・ランサム、J・R・R・トールキンにも影響を受けている。作品ではロジャー・ゼラズニイの真世界アンバーシリーズを愛読した。
エピソード
デビュー以来、基本的に人前には出ず顔写真も公開していない。山本周五郎賞を受賞した際も、会見は行わず電話インタビューのみだった。講演も1999年に母校である大谷大学仏教学会の「仏教学部卒業生はいま〜作家になった小野不由美さんの場合〜」のみである。雑誌「ダ・ヴィンチ」の特集インタビューで着物を着た後姿が掲載された。「波」1998年9月号の京極夏彦との対談では、俯いて顔を隠した写真が掲載されている。
竹本健治『ウロボロスの基礎論』で 小野不由美は同作品の登場人物の1人になった(1994年、「メフィスト」8月増刊号)。
テレビゲームにはまった時期があり、関連著書もある。
関連人物
綾辻行人 – 夫で推理作家。デビュー作『十角館の殺人』は、小野の郷里である大分県を舞台としている。
宇山日出臣 – 小野不由美のデビュー時の担当者であり講談社の名編集者として著名である。雑誌「メフィスト」の誌名は小野の著書『メフィストとワルツ!』のタイトルに因む。宇山はこの本の担当編集者で、意欲的に取り組んだが不発に終わり、後に「メフィスト」創刊の時、そのリベンジの意を込めた。『くらのかみ』は、宇山が企画編集担当として2005年定年退職前に最後に手掛けたハードカバーの子供向けミステリー叢書『講談社ミステリーランド』の第1回配本。装丁は第38回造本装幀コンクール展で文部科学大臣賞を受賞した。退職後、2007年に肝硬変で死去、満62歳没。
文学賞受賞歴・候補歴
1993年 – 『東亰異聞』が第5回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補。
1999年 – 『屍鬼』が第12回山本周五郎賞、第52回日本推理作家協会賞(長編部門)候補。
2002年 – 『黒祠の島』が第2回本格ミステリ大賞の最終候補。
2003年 – 『くらのかみ』が第4回本格ミステリ大賞の最終候補。
2013年 – 『残穢』で第26回山本周五郎賞を受賞。
ミステリ・ランキング
1999年 – 『屍鬼』が『このミステリーがすごい!』第4位。
2001年 – 『黒祠の島』が「本格ミステリベスト10 (2002年版)3位。
2003年 – 『くらのかみ』が「本格ミステリベスト10 2004年版」7位。
2004年1月 – 『屍鬼』が「Yahoo!ユーザーが選ぶ2003年ベストミステリー」6位。
著作
小説
バースデイ・イブは眠れない(1988年9月 講談社X文庫ティーンズハート)
メフィストとワルツ!(1988年12月 講談社X文庫ティーンズハート) – 『バースデイ・イブ…』の続編。
悪霊なんかこわくない(1988年12月 講談社X文庫ティーンズハート)
悪霊シリーズ(講談社X文庫ティーンズハート) → ゴーストハント(メディアファクトリー【改作】単行本全7巻)
悪霊がいっぱい!?(1989年7月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント1 旧校舎怪談(2010年11月 メディアファクトリー)
悪霊がホントにいっぱい!(1989年10月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント2 人形の檻(2011年1月 メディアファクトリー)
悪霊がいっぱいで眠れない(1990年2月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント3 乙女ノ祈リ(2011年3月 メディアファクトリー)
悪霊はひとりぼっち(1990年8月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント4 死霊遊戯(2011年5月 メディアファクトリー)
悪霊になりたくない!(1991年2月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント5 鮮血の迷宮(2011年7月 メディアファクトリー)
悪霊とよばないで(1991年9月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント6 海からくるもの(2011年9月 メディアファクトリー)
悪霊だってヘイキ!【上・下】(1992年8月・9月 講談社X文庫ティーンズハート)
【新装版】ゴーストハント7 扉を開けて(2011年11月 メディアファクトリー)
悪夢の棲む家 ゴースト・ハント【上・下】(1994年3月・4月 講談社X文庫ホワイトハート)
呪われた十七歳(1990年7月 朝日ソノラマ パンプキン文庫 – イラスト:生嶋 美弥)
【改題】過ぎる十七の春(1995年4月 講談社X文庫ホワイトハート – イラスト:波津 彬子)
新装版 過ぎる十七の春(2016年3月 講談社X文庫ホワイトハート – イラスト:樹 なつみ)
グリーンホームの亡霊たち(1990年11月 朝日ソノラマ パンプキン文庫 – イラスト:生嶋 美弥)
【改題】緑の我が家 Home, Green Home(1997年6月 講談社X文庫ホワイトハート – イラスト:山内 直実)
新装版 緑の我が家 Home, Green Home(2015年8月 講談社X文庫ホワイトハート – イラスト:樹 なつみ)
十二国記
魔性の子(1991年9月 新潮文庫 / 2012年7月 新潮文庫【完全版】) – 「十二国記」前日譚という位置づけ
月の影 影の海(1992年6月・7月 講談社X文庫ホワイトハート【上・下】 / 2000年1月 講談社文庫【上・下】 / 2012年7月 新潮文庫【上・下】)
風の海 迷宮の岸(1993年3月・4月 講談社X文庫ホワイトハート【上・下】 / 2000年4月 講談社文庫 / 2012年10月 新潮文庫【上・下】)
東の海神 西の滄海(1994年5月 講談社X文庫ホワイトハート / 2000年7月 講談社文庫 / 2013年1月 新潮文庫)
風の万里 黎明の空(1994年7月・8月 講談社X文庫ホワイトハート【上・下】 / 2000年10月 講談社文庫【上・下】 / 2013年4月 新潮文庫【上・下】)
図南の翼(1996年2月 講談社X文庫ホワイトハート / 2001年1月 講談社文庫 / 2013年10月 新潮文庫)
漂舶(1997年6月 講談社X文庫ホワイトハート – 「ドラマCD 東の海神 西の滄海」付録)
黄昏の岸 暁の天(2001年5月 講談社X文庫ホワイトハート【上・下】 / 2001年4月 講談社文庫 / 2014年4月 新潮文庫)
華胥の幽夢(2001年9月 講談社X文庫ホワイトハート / 2001年7月 講談社文庫 / 2014年1月 新潮文庫)
丕緒の鳥(2013年7月 新潮文庫)
倫敦、1888(1994年3月) – アンソロジー『架空幻想都市【上】』(ログアウト冒険文庫)収録
東亰異聞(1994年4月 新潮社 / 1999年5月 新潮文庫)
屍鬼(1998年9月 新潮社【上・下】 / 2002年2月・3月 新潮文庫【1 – 5】)
黒祠の島(2001年2月 祥伝社 ノン・ノベル / 2004年6月 祥伝社文庫 / 2007年7月 新潮文庫)
くらのかみ(2003年7月 講談社〈ミステリーランド〉)
鬼談百景(2012年7月 メディアファクトリー / 2015年7月 角川文庫)
残穢(2012年7月 新潮社 / 2015年7月 新潮文庫)
営繕かるかや怪異譚(2014年12月 KADOKAWA)
怪談えほん(10) はこ(2015年5月 岩崎書店 – nakaban(絵)、東 雅夫(編))
エッセイ
ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか(1996年3月 ソフトバンククリエイティブ、1992年 – 1996年 「Theスーパーファミコン」)- 単行本の挿絵・イラストエッセイと対談相手は水玉螢之丞。
小野不由美&菅浩江スペシャル・メールエッセイ(1994年、『小説あすか』)
小野家の家訓(1994年、『小説現代』11月号)
陰謀かもしれない(2000年、『IN★POCKET』1月号)
隅っこの人(2002年、角川書店刊、『綾辻行人 ミステリ作家徹底解剖』に収録)
「鮎川哲也」を偲んで(2002年、東京創元社、山前譲編『本格一筋六十年、 思い出の鮎川哲也』に収録)
すべての本を一列に並べよ (2006年、『yom yom』vol.1)
作品解説
シャーロット・マクラウド 下宿人が死んでいく(1989年、創元推理文庫)
ライア・マテラ あらゆる信念(1992年、創元推理文庫)
斎藤肇 魔法物語(上) 黒い風のトーフェ(1993年、講談社文庫)
竹本健治 腐食(1994年、角川ホラー文庫)
楳図かずお 恐怖(1995年、秋田文庫)
菊地秀行 ブルーマン(1995年、講談社文庫)
田中芳樹 創竜伝5(1995年、講談社文庫)
水樹和佳 樹魔・伝説(1996年、創美社コミックス)
津原泰水 妖都(1997年、講談社)(推薦文)
倉知淳 日曜の夜は出たくない(1998年、創元推理文庫)
田中芳樹 銀河英雄伝説9 回天篇(1998年、徳間文庫)
京極夏彦 どすこい(仮)(2000年、集英社)(帯文)-『屍鬼』のパロディ作品が収録されており、帯文を寄せている。
京極夏彦 後巷説百物語(2007年、角川書店)
乙一 夏と花火と私の死体(2000年、集英社文庫)
山田章博 BEAST of EAST 東方眩暈録2(2000年、ソニー・マガジンズ)(帯文)
真木武志 ヴィーナスの命題(2000年、角川書店)(推薦文)
波津彬子 雨柳堂夢咄 其の三(2002年、ソノラマコミック文庫)
その他
装画
綾辻行人『霧越邸殺人事件』(1990年、新潮社)
図面作成
綾辻行人『霧越邸殺人事件』『暗黒館の殺人』
竹本健治『眠れる森の惨劇』
笠井潔『オイディプス症候群』
漫画原作
いなだ詩穂『サイレント・クリスマス』(1999年、「なかよし」12月号、『ゴーストハント』に新エピソードを書き下ろし)
同人誌
小野不由美ファンクラブ
『悪霊になりたくない!』のあとがきでファンクラブができたと記載されたが、初期に問い合わせた読者しか入会できなかった。オフィシャルファンクラブと認定をしない代わりに小野不由美自身もファンクラブに参加。作品やキャラクター作成の裏話等をファンクラブ代表がインタビュー形式や設問形式で会報に掲載していた。1991年1月 – 1992年9月に創設号 – NO.15、解散時に記念として同人誌が1冊、便箋2種、テレホンカードが発行された。
京都私設情報局
小野不由美のファンクラブを創設するも落選者が多数生じてしまったため、代わりに情報ペーパーを発行することになった。1992年 – 1997年、に0号 – 15号が発行された。悪霊シリーズや十二国記シリーズの短編が掲載され、同人誌「中庭同盟」にまとめられている。
「中庭同盟」
国会図書館収蔵が確認されている[11]。
いちばん見えない横顔(悪霊シリーズ)
白いカラスのための告悔(悪霊シリーズ)
GENKI(悪霊シリーズ)
千年の王国(悪霊シリーズ)
彼の現実(悪霊シリーズ)
衛星の軌道(悪霊シリーズ)
The Green Home(悪霊シリーズ)
Eugene(悪霊シリーズ)
書簡(十二国記シリーズ)
函丈(十二国記シリーズ)
麒麟都市
小野不由美オンリーイベントを記念して発行された同人誌に寄稿したもの
帰山(十二国記シリーズ)
メディア・ミックス
漫画
いなだ詩穂 『ゴーストハント』(1998年、「Amie」、1999年 – 、「なかよし」、講談社)
漆原ミチ『鬼談百景』(2015年9月 角川書店 幽COMICS)
岸田あつ子 『緑の我が家』(1999年、角川書店)
梶原にき 『東亰異聞』(2001年、「コミックバーズ」、幻冬舎、2013年7月 漫画文庫)
山本小鉄子 『黒祠の島』(2005年 – 2006年、幻冬舎)
山本小鉄子 『過ぎる十七の春』(2007年 – 2008年、幻冬舎、2013年4月 漫画文庫)
藤崎竜 『屍鬼』(2007年、「ジャンプスクエア」、集英社)
テレビアニメ
十二国記 (2002年、NHK)
ゴーストハント (2006年、テレビ東京系)
屍鬼 (2010年、フジテレビ系「ノイタミナ」)
映画
残穢 -住んではいけない部屋-(2016年1月30日)[12]
舞台
東の海神 西の海神(1997・2000年、劇団てぃんかーべる)
東亰異聞(2004年、劇団てぃんかーべる)
ラジオドラマ[編集]
悪霊狩り〜ゴーストハント(1997年、ラジオ日本「宮村優子の直球で行こう」内で放送)
脚本:會川昇/出演:宮村優子・岡野浩介・松本保典・三木眞一郎・山口勝平・新山志保・かないみか・小杉十郎太
CD
魔性の子(1997年、キティMME)
脚本:相良敦子/演出:斯波重治/出演:伊崎充則・平田康之
東の海神 西の滄海(1997年、講談社)
脚本:渡辺麻実/出演:山口勝平・梁田清之・石田彰・松本保典・子安武人・関智一・三木眞一郎・折笠愛
ゲーム
十二国記 オンライン(2003年、アスミック・エースエンタテインメント、ネットゲーム)
十二国記 -紅蓮の標 黄塵の路-(2003年、コナミ、プレイステーション2)
十二国記 -赫々たる王道 紅緑の羽化-(2004年、コナミ、プレイステーション2)

高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 – 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。脚本家の高山由紀子は長女。

来歴
大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。
高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。1949年(昭和24年)には日展に「少女」を出品し、再び特選となる。この頃から独自の幻想的な画風が定着する。
1960年(昭和35年)に「白翳」で日本芸術院賞、1964年(昭和39年)に「穹」で芸術選奨文部大臣賞、1970年(昭和45年)には日本芸術大賞を受賞。
1972年(昭和47年)日本芸術院会員。1975年から1977年まで(昭和50–52年)日展理事長を務め、任期満了後は日展常務理事、顧問となる。1979年(昭和54年)文化功労者として顕彰。1982年(昭和57年)70歳の時に文化勲章を受章している。1983年(昭和58年)に大分市名誉市民に推挙され、1987年(昭和62年)には世田谷区名誉区民として顕彰される。1985年(昭和60年)には東京はじめ日本の5都市で「日月星辰-高山辰雄展1985」を開催。屏風絵の大作をはじめとする意欲作を出品し、健在ぶりを示した。
2007年(平成19年)9月14日午後4時19分、肺炎のため自宅で死去。95歳没。
出身地の大分県には高山にちなんだ「高山辰雄賞ジュニア県美展」(通称「高山賞」「高山展」)という名称の賞がある。
代表作品
「砂丘」 1936年、東京藝術大学 収蔵
「浴室」 1946年、大分県立芸術会館 収蔵
「食べる」 1973年、大分県立芸術会館 収蔵
「日(六曲屏風)」 1985年
「月(六曲屏風)」 1985年、成川美術館 収蔵
「赤い服の少女」 1997年、康耀堂美術館 収蔵
「二人」 1997年、康耀堂美術館 収蔵
「草原の朝」 2001年、康耀堂美術館 収蔵
画集・著書
『高山辰雄』 三彩社、1974年
『日月星辰 高山辰雄屏風画集』 新潮社、1976年
『聊斎志異』 渓水社 1978年
『現代日本画家素描集 7 日月星辰 高山辰雄』 日本放送出版協会、1978年
『高山辰雄自選画集』 毎日新聞社 1979年
『アッシジへ行く高山辰雄墨画集』 講談社、1979年、のち角川文庫
『大地を行く高山辰雄中国墨画集』 講談社、1987年
『現代の日本画 9 高山辰雄』 学習研究社、1991年
『現代日本素描全集 7 高山辰雄』 ぎょうせい、1992年
『高山辰雄』 日本経済新聞社(日経ポケット・ギャラリー)、1992年
『聖家族1993 高山辰雄画集』 講談社、1993年
『高山辰雄』 日本経済新聞社、1997年
『高山辰雄の世界 素描と本画』 思文閣出版、2000年
『存在追憶 限りなき時の中に』 角川書店、2007年

田能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日(1777年7月14日) – 天保6年8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。
幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・ 藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。更に斎号(居室の名)に竹田荘・補拙廬・雪月書堂・対翠書楼など多数。

略歴

涼月談心図 絹本墨画淡彩

歳寒三友双鶴図

暗香疎影図

稲川舟遊図(部分)
豊後国直入郡竹田村(今の竹田市)の岡藩儒医田能村碩庵の次男として生まれる。母は水島氏。禄高12人扶持であったがこれは武士の中ではかなり低く、更に藩の財政難で実際はこの6割程度しか俸禄を得られなかった。この為竹田は生涯にわたり生活資金の工面に苦労させられることになる。6歳で素読を始め、11歳で藩校由学館で入学。成績は極めて優秀だった。その詩才を見抜いた師の唐橋君山は詩文結社竹田社・米船社の同人に迎えた。翌年、宿痾となった耳病と眼疾を発病する。
寛政6年(1794年)、18歳のときに母と兄を亡くし、翌年田能村家の嫡男となり藩主にまみえた。20歳頃より淵上旭江門の地元画家に画を学び、君山の紹介で江戸の谷文晁に現在でいう通信教育まで受けている。22歳のとき由学館に儒員として出仕し最終的には頭取に出立している。医業を辞めて学問に専心することとなり、幕命により『豊後国志』の編纂に携わった。
享和元年(1801年)、編纂事業準備のため江戸に下向。その途次大坂の木村蒹葭堂を訪ね、江戸ではかねてより文通のあった谷文晁を訪問。文化2年(1805年)眼病の治療と儒学を学ぶため、途中博多、長崎、熊本、小倉、下関に立ち寄り京都へ約2年間遊学。その間村瀬栲亭に入門。大坂では浦上玉堂や岡田米山人・上田秋成らと知遇を得る。文化8年(1811年)、生玉の持明院で頼山陽と邂逅、以来親交を深める。またこの年秋には紀州にて野呂介石にも画法を指南されている。
文化8年は専売制度に反対して藩内に農民一揆が発生。竹田は農民救済・学問振興を含めた藩政改革を要求する建言書を藩に2度提出したが受け入れられず、病気療養の必要もあり文化9年(1812年)辞表を提出。翌年致仕は認められ、37歳の若さで隠居となるが、休息料として名目上2人扶持の俸給を与えられており、周囲の竹田への信頼を物語る。それ以後豊後と京阪との間を行き来しながら、頼山陽をはじめ岡田半江・浦上春琴・菅茶山・青木木米などの文人たちと交流を持つ。文政9年(1825年)、50歳で長崎に遊歴。来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学ぶ。天保6年夏、大坂の藩邸で亡くなった。享年59。画の弟子に高橋草坪や帆足杏雨・田能村直入(養継子)などがいる。
竹田は筆まめで多くの著作を著している。とりわけ『山中人饒舌』は日本の文人画史・画論として当時から広く読まれ、『屠赤瑣瑣録』では文事や文人趣味などを知る上での資料価値が高い。また『竹田荘師友画録』は師友となった104名の人物評伝を掲載している。
竹田は元末四大家や宋代の米友仁を敬慕。多くの人物との交流から様々な画風を学んだことで山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、写実を通して文人画のエッセンスともいうべき写意を表現した。晩年は繊細で味わい深い画境に到達し旺盛に創作をした。
現在、竹田の作品は、出光美術館に約200点、大分市美術館に45点、竹田市歴史資料館に10点をはじめ、日本各地の24カ所の美術館・博物館に所蔵されている。
代表作
重要文化財指定作品
梅花図(花卉図)(大分市美術館)1幅 紙本墨画淡彩 1808年
四季花鳥図(大分市美術館)4幅対 絹本著色 1809年
雁来紅群雀図(大分市美術館)1幅 絹本著色 1813年
芙蓉残雪図(富士図)(大分市美術館)1幅 絹本著色 1819年
白鶴図(大分市美術館)2幅 絹本著色1822年
月下芦雁図(大分市美術館)六曲一隻 紙本墨画 1823年
梅花書屋図及題詩(大分市美術館)双幅 紙本墨画淡彩 1824年
秋景山水図(大分市美術館)4面(旧違棚地袋小襖)紙本墨画淡彩 1828年
渓荘趁約図(大分市美術館)1幅 絹本墨画 1828年
柳陰捕魚図(大分市美術館)1幅 絹本著色 1828年頃
船窓小戯帖(個人蔵)1帖 紙本淡彩 1829年
稲川舟遊図(大分県立美術館)1幅 紙本淡彩 1829年
冬籠図(大分市美術館)1幅 紙本淡彩 1826~30年
君子延年図(大分市美術館)1幅 紙本淡彩 文政末年頃
松鶴図(白鶴図)(大分市美術館)4面(旧違棚地袋小襖)絹本著色 天保期
騎馬武者図(大分市美術館)1幅 天保期
亦復一楽帖(寧楽美術館)1帖全13図 紙本淡彩 1830年
歳寒三友双鶴図(個人蔵、大分県立美術館寄託)1幅 絹本著色 1831年
暗香疎影図(大分市美術館)1幅 紙本淡彩 1831年
桃花流水図(大分市美術館)1幅 紙本淡彩 1832年
曲渓複嶺図及題詩(大分市美術館)双幅 紙本淡彩・墨書 1832年
秋渓間適図(大分市美術館)1幅 紙本淡彩 1832年
松巒古寺図(東京国立博物館)紙本淡彩 1833年
梅花書屋図(出光美術館)1幅 紙本著色 1832年
盆卉図(大分市美術館)紙本淡彩 1833年
澗道石門図(大分市美術館)1幅 絹本著色 1834年
浄土寺図(大分市美術館)1幅 紙本淡彩 1834年
漁樵問答図(大分市美術館)1幅 絹本淡彩 1834年
秋渓趁約図(大分市美術館)1幅 紙本墨画淡彩 1834年
※ 上記のうち大分市美術館所蔵分は、「田能村竹田関係資料(帆足家伝来)」の名称で絵画23件、書跡3件が一括して重要文化財に指定されている[注釈 1]。
その他
煙霞帖(京都国立博物館)重要美術品 絖本著色 1811年
金箋春秋山水図屏風(白鶴美術館)六曲一双 紙本金箋淡彩 1823年
軽舟読画図(個人蔵)重要美術品
松溪載鶴図(出光美術館)重要美術品 紙本墨画淡彩 1832年
松溪聴泉図(出光美術館)重要美術品 1834年
著作
『山中人饒舌』
『竹田荘師友画録』
『屠赤瑣瑣録』
『陪駕日記』
『暫遊日記』
『花竹幽牕の記』
『葉のうらの記』
『黄築紀行』
『竹田荘詩話』
『百活矣』
『瓶花論』
『填詞圖譜』

福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 – 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家。
号は素僊(そせん)、九州。印に「馬安」を用いるが、父・母の名前にちなむ。
鋭い観察眼を基にした、対象がもつ雰囲気、美しさを抽出した表現が特徴とされる。生涯「水」の動き、感覚を追究していたとされ、「漣」は昭和天皇と一緒に魚釣りに行ったときの[要出典]、池面に映る水面の模様を描写した作品である。

略歴
1892年(明治25年) – 大分市に文具店を営む父・馬太郎と母・安(アン)の長男として生まれる
1898年(明治31年) – 大分県師範学校付属小学校に入学
1910年(明治43年) – 県立中学校に上がるが数学が苦手で「数学のことを考えるだけで世の中が暗くなる気がして」、中学校3年の進級に失敗、京都市立絵画専門学校別科に入学する
1911年(明治44年) – 隣接する京都市立美術工芸学校に入学。卒業制作は同校の買い上げとなる
1918年(大正7年) – 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業
1919年(大正8年) – 第一回帝展に「雪」が入選
1921年(大正10年) – 第三回帝展に出品した「鯉」が特選となり、宮内省(現・宮内庁)が買い上げる。
1922年(大正11年) – 谷口テイと結婚
1924年(大正13年) – 帝展の審査員になり、京都市立絵画専門学校助教授に就任
1928年(昭和3年) – 中国旅行
1930年(昭和5年) – 中村岳陵、山口蓬春らと六潮会に参加
1932年(昭和7年) – 「漣」を発表。
1936年(昭和11年) – 京都市立絵画専門学校教授となる。
1947年(昭和22年) – 帝国芸術院(同年末日本芸術院)会員。
1948年(昭和23年) – 毎日美術賞受賞。
1949年(昭和24年) – 日展運営会理事。
1958年(昭和33年) – 日展常務理事。
1961年(昭和36年) – 文化勲章受章、文化功労者。
1969年(昭和44年) – 日展顧問。
1974年(昭和49年) – 没、従三位追贈。墓所は京都市左京区の法然院で、隣には谷崎潤一郎夫妻が眠っている。
主な作品
漣(さざなみ) 大阪市立近代美術館建設準備室所蔵
雨 東京国立近代美術館所蔵
筍(たけのこ)山種美術館所蔵
新雪
鸚哥(いんこ)
花の習作 京都国立近代美術館所蔵
牡丹 山種美術館所蔵
画集
福田平八郎 造形芸術研究所出版部 1958
平八郎自選展図録 三彩社 1959
現代日本美術全集 6 福田平八郎 座右宝刊行会編 集英社 1973
日本の名画27 福田平八郎 講談社 1974
福田平八郎 日本経済新聞社 1976
日本の名画 22 福田平八郎 中央公論社 1976
福田平八郎作品と素描 河北倫明、岩崎吉一編 光村図書出版 1982
現代の日本画3 福田平八郎 学習研究社 1991
現代日本素描全集3 福田平八郎 ぎょうせい 1992
福田平八郎 光村推古書院 2001
主な作品収蔵先
東京国立近代美術館
京都国立近代美術館
京都市美術館
山種美術館
大分県立芸術会館
大分市美術館
名都美術館
補足事項
出身地の大分市には福田にちなんだ「福田平八郎賞大分市小中学校図画展(通称「福田賞」「福田展」)」という名称の賞がある。同様のものとして「朝倉文夫賞大分市小中学校彫塑展」「高山辰雄賞ジュニア美術展」という賞も存在する。
第三回帝展で特選を獲得した「鯉」を展示する時に、この絵が鯉を見おろした角度で描かれていたために壁面に展示すると縦にしても横にしても違和感があるため、床面に置いて展示された。

武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 – 1982年9月28日)は、大分の版画家。川端画学校で藤島武二に師事。大分師範学校教諭、大分大学教授として大分県の美術の発展に尽力すると共に、日本版画協会展、文展、日展、新日展に出品。1960(昭和35)年には棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと「日版会」を創立した。1964年、光風会会員となる。

小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市の山あい、皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれる陶器である。その陶芸技法が1995年(平成7年)に国の重要無形文化財に指定され、2008年3月には地区全体(約14ヘクタール)が「小鹿田焼の里」の名称で重要文化的景観として選定されている。

概要
小鹿田焼は、江戸時代中期の1705年(宝永2年)若しくは、1737年(元文2年)に、幕府直轄領(天領)であった日田の代官により領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもので、福岡県の小石原から招かれた陶工の柳瀬三右衛門と、彼を招いた日田郡大鶴村の黒木十兵衛によって始められた。元は、享和年間に小石原焼の分流の窯として開かれていたものであるという。このため、小鹿田焼の技法には小石原焼と共通するものがある。
朝鮮系登り窯で、飛び鉋、刷毛目、櫛描きなどの道具を用いて刻まれた幾何学的紋様を特徴とする。トビカンナ(飛鉋)は、宋時代の修式窯飛白文壺との類似が見られる。また、釉薬の使い方には打ち掛け、流し掛けなどといった技法が用いられ、原料によってセイジ(緑)、アメ(飴)、クロ(黒)が主である。
陶土を搗くための臼は「唐臼(からうす)」と呼ばれるもので、ししおどしのように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽いている。その音は「日本の音風景100選」の一つにも選ばれている。
民芸運動を提唱した柳宗悦が1931年(昭和6年)にこの地を訪れ、「日田の皿山」と題して評価する内容の一文を発表したこと、さらに、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のため、1954年(昭和29年)、1964年(昭和39年)に滞在して作陶を行ったことにより、小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになった。
窯元
現在10軒の窯元があり、小石原村から呼び寄せられた陶工の柳瀬が2軒、陶工を呼ぶための資金を出した黒木が3軒、土地を提供した坂本が4軒、黒木から分家した小袋である。集落の中心にある登り窯は近くの5軒が共同で使っている。
文化財
小鹿田焼の窯元は代々長子相続で技術を伝え、弟子を取らなかったため、開窯以来の伝統的な技法がよく保存されており、これが重要無形文化財に指定された大きな理由となった。現在は10軒の窯元があるが、全てが開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の子孫にあたる。窯元は、共同で土採りを行ったり、作品に個人銘を入れることを慎むなど、小鹿田焼の品質やイメージを守る取り組みを行っており、窯元によって構成される小鹿田焼技術保存会は重要無形文化財の保持団体に認定されている。
また、窯元がある皿山地区と棚田が広がる池ノ鶴地区が重要文化的景観として選定されている。
知的財産
小鹿田焼は、2011年7月22日に大分県で8例目の地域団体商標に登録されている。

真珠(しんじゅ)あるいはパール(Pearl)とは貝から採れる宝石の一種である。6月の誕生石である。石言葉は「健康・富・長寿・清潔・素直」など。

概要
真珠は貝の体内で生成される宝石である。生体鉱物(バイオミネラル)と呼ばれる。
貝殻成分を分泌する外套膜が、貝の体内に偶然に入りこむことで天然真珠が生成される。つまり成分は貝殻と等しい。貝殻を作る軟体動物であれば真珠を生成する可能性がある。
小石や寄生虫などの異物が貝の体内に侵入したときに、外套膜が一緒にはいり、結果、真珠が生成される。そのため、異物の侵入が真珠の成因だとする説が一般的であったがこれは誤りである。
外套膜は細胞分裂して袋状になり、真珠を生成する真珠袋をつくる。その中でカルシウムの結晶(アラレ石)と有機質(主にタンパク質コンキオリン)が交互に積層した結果真珠層が形成されて、真珠ができる。この有機質とアラレ石の薄層構造が干渉色を生み出し、真珠特有の虹色(オリエント効果)が生じる。真珠層の構造や色素の含有量などによって真珠の色・照りが決まる。
日本の養殖真珠の発明とは、球体に削った核を、アコヤガイの体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる、というものである。
巻き貝から生成されるコンク真珠やメロ真珠は真珠層を持っていない。従って、上記の真珠と区別されることがある。
真珠の重量の計量単位には、養殖真珠の産業化に成功したのが日本であったことから日本の尺貫法の単位である匁(3.75グラム)や貫(3.75キログラム)が用いられるが、グラム、カラット(200ミリグラム)やグレーン(通常は正確に64.798 91ミリグラムだが、真珠の計量については50ミリグラム)も用いられる。真珠の大きさの単位はミリメートルであるが、真珠のネックレスの長さは業者間の取引では主にインチが使われている。
冠婚葬祭のいずれの場面でも使える便利な装飾品であるが、炭酸カルシウムが成分であるため、汗が付いたまま放置すると真珠特有の光沢が失われるので、使用後に柔らかい布で拭くなどの手入れが大切である。
歴史

養殖貝による真珠生産

旅順口区の真珠貝養殖
天然では産出が稀であり加工が容易で「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれているほどの美しい光沢に富むため、世界各地で古くから宝石として珍重されてきた。またその希少性から薬としての効能を期待し、服用される例がしばしば見られる。日本でも解熱剤として使用され、現在[いつ?]も風邪薬として販売されている。
エジプトでは紀元前3200年頃から既に知られていたと言われるが、宝飾品としてあるいは薬として珍重されるようになったのは後の時代である。クレオパトラが酢に溶かして飲んでいたと伝えられる[1]。世界の他の地域でも中国では紀元前2300年頃、ペルシャで紀元前7世紀頃、ローマでは紀元前3世紀頃から真珠が用いられていたという記録がある。
日本は古くから、真珠の産地として有名であった。日本書紀や古事記、万葉集には、すでに真珠の記述が見られる。『魏志倭人伝』にも邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)5000を送ったことが記されている。万葉集には真珠を詠み込んだ歌が56首含まれる。当時は三重県の英虞湾や愛媛県の宇和海でアコヤガイから採取されていたが、日本以外で採れる真珠に比べ小粒だった。日本の真珠の美しさはヨーロッパまで伝えられ、コロンブスも憧れたという。
養殖貝による真珠生産
養殖貝による真珠生産の歴史も古く、11世紀の中国などで既に行われているが量産することは難しかった。スペイン人たちは、アメリカ大陸を侵略していた時、ベネズエラという真珠の一大産地を見つけたが、その採取のために現地の先住民を酷使し、絶滅させた。20世紀初頭には、ヨーロッパ資本が真珠の価格をコントロールしたため、真珠はダイヤモンドより高価な宝石となった。
そんな最中、1893年に日本の東大三崎臨海実験所箕作佳吉の指導をうけた御木本幸吉が英虞湾神明浦で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功し、1905年、英虞湾の多徳島で真円真珠の生産に成功している。
養殖貝による真珠生産の発明者は、日本では西川藤吉・見瀬辰平の2人があげられる。1907年見瀬辰平が、はじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得した。続けて西川藤吉が真円真珠生産に関し真珠形成法の特許を出願する。この一部が前述の見瀬辰平の特許権に抵触するとして紛争が起こる。調停の結果、西川籐吉の名義で登録し特許は共有とすることとなった。この養殖貝による真珠生産の特許技術は日本国外ではMise-Nishikawa Methodとして知られている。 また1916年および1917年に西川藤吉の特許が4件登録された。西川藤吉は既に物故していたため、息子の西川真吉が権利を受け継いだ。現在の養殖貝による真珠生産の技術は西川藤吉のこれらの技術に負うところが多い(西川藤吉は御木本幸吉の次女の夫である)。
その後、様々な技術の改良を経て養殖貝による真珠生産は広まり、英虞湾、宇和海、長崎県対馬などで生産が行われた。
後にイギリスで養殖貝による真珠が偽物だという吹聴がありパリで真珠裁判が行われたが、1924年5月24日、天然と養殖貝による真珠には全く違いが無かったので全面勝訴した。養殖真珠が市場に出回るようになって、真珠価格は暴落した。
1930年代にクウェートやバーレーンなど真珠を重要な産業としていた国は、養殖貝による真珠の出現と、それに伴う真珠価格の暴落によって真珠産業が成り立たなくなり、世界恐慌の時期と重なったこともあり経済に大打撃を受けた。特に食料自給率が低く輸入に依存する割合が高いクウェートでは多数の餓死者を出すほどの惨事となった。その後、油田の開発によりクウェート経済は発展し、真珠産業は実質的に文化保存事業のレベルにまで縮小してしまったが、現在でも真珠広場など真珠に由来する場所や真珠を採取する文化などが数多く残っている。
一方、真珠の養殖技術と、それを売り込むビジネスモデルを確立した日本は、それまでヨーロッパ資本によって牛耳られていた真珠市場に進出、ヨーロッパ勢に取って代わり、世界の9割のシェアを誇るようになり、御木本の「真珠のネックレスで世界中の女性の首をしめる」という言葉を現実のものとした。しかし、1967年を境に、ミニスカートが流行するなど、従来のファッションの流行が変わり、世界の真珠の需要が激減したため、日本の真珠業者は国内市場を主戦場とするようになった。
養殖貝による真珠生産が始まってからほぼ100年が経過したが、1996年頃から始まったウイルス感染症によるアコヤガイの大量斃死現象や真珠摘出後の廃棄貝、および諸々の排水による湾の富栄養化などの要因から日本のアコヤ真珠の生産量は低下している。
真珠の種類

さまざまな真珠

ピンク貝 Strombus gigas
本真珠
本来は鮑玉(あわびだま、アワビの内部に形成される天然真珠)のことを指すが、現在はアコヤガイ(Pinctada fucata martensii)の真珠や淡水真珠までをも含めている。その際には貝パールなどのイミテーションではないという意味。
南洋真珠
シロチョウガイ(白蝶貝、Pinctada maxima)から産する真珠。主にオーストラリア、インドネシア、フィリピン、ミャンマーで養殖されている。オーストラリア産の南洋真珠は青みがかった色を呈することが多い。一方、フィリピン産は黄色・金色の珠が多い。近年ではあまり見られなくなったが、真円真珠の養殖が終わった老貝で半円真珠を生産することもある。
黒蝶真珠(黒真珠)
クロチョウガイ(黒蝶貝、Pinctada margaritifera)から産する真珠。主にタヒチ(仏領ポリネシア)で養殖され、ごく僅かであるが沖縄県でも養殖されている。タヒチで生産されるものは南洋真珠に分類されることもある。また他の真珠を染色処理し、黒真珠と呼んでいるものもある。
マベ真珠
マベガイ(マベ貝、Pteria penguin)から産する真珠。主に香港、台湾、インドネシア、奄美大島で養殖されている。主に半球形であるが近年では養殖技術の向上で、球形も少量であるが産出される。真円の核を挿核して真円の真珠を作ることが難しいため、半円の核を貝殻の内側に貼り付けて半円形の真珠を作る。
淡水パール
イケチョウガイやカラス貝といった、淡水生の貝の中に出来る真珠は淡水パール(淡水真珠)と呼ばれる。現在流通している淡水パールのほとんどは養殖によって生産されている。養殖の際に母貝内に外套膜片のみを挿入し、核を挿入しないことから真珠が真円には育たずライス型やドロップ型といったさまざまな形状の真珠が得られる。その色も、オレンジや紫など多岐にわたる。淡水パールのうち、粒が小さく安価なものはビーズとして使用される。近年では核を挿入して10mmを超える大玉も産出されるようになった。アコヤガイや他の真珠と同様の核を使う場合と小玉の淡水真珠を使う場合とがある。
コンクパール
西インド諸島のカリブ海に生息する巻貝であるピンク貝(Strombus gigas)から産する真珠。珊瑚のようなピンク色(他に白、黄、茶などもある)をしており、火焔模様が見られるのが特徴である。ピンク貝は巻貝であり人工的に核を挿入することが不可能であるため、コンクパールのほとんどが天然の真珠である(2009年11月、GIAのG&G eBriefにより養殖コンクパールの成功が報告された)。またピンク貝そのものが現地では貴重なタンパク源として食用とされており、積極的にパールが採られているわけではないことから希少とされている。なおコンクパールは真珠層真珠ではなく、交差板構造から成る真珠である。
メロパール
南シナ海沿岸に生息するハルカゼヤシガイ(Melo melo shell)から稀に産出する真珠。オレンジ系の色調が特徴。
その他の貝の真珠
基本的に真珠層を持つほとんどの貝は真珠を産することが可能である。非常に稀であるが、例えばハマグリやアサリ、シジミなどでも真珠を産する。
模造真珠 (en)
プラスチックパール
真珠を模したプラスチック球。軽く、表面は真の真珠層ではないために汗などに強い。
貝パール
養殖真珠の核に人工的に真珠色の塗装を施したもの。
世界一長い真珠のネックレス

世界一長い真珠のネックレス(イオン阿児店で展示された時のもの)
「世界一長い真珠のネックレス」の記録は、日本各地で競われている。1987年(昭和62年)に兵庫県神戸市の「パールシティー神戸協議会」が真珠養殖技術開発から80周年の記念に80mのものを製作し、当時話題となった。その後、1995年(平成7年)に旧三重県志摩郡阿児町の阿児町観光協会などが108mのものを作製、ギネスに認定されたが、2006年(平成18年)に愛媛県宇和島市で187.25mのものが作られ、記録が更新された。
2010年現在の世界一は、2010年7月から10月にかけて三重県志摩市の志摩市観光協会が主催して作ったもので、222mに及ぶ。同年10月22日、正式にギネス認定を受けた。
脚注
^ 但しシェフの村上信夫はこれに「真珠が酢に溶けるものなのか。誰か試してくれませんか」と否定的。『おそうざいフランス料理』より
^ a b c “視点・論点 「知られざる真珠王国 日本」”. NHK. (2014年1月7日) 2014年1月11日閲覧。
^ パールシティー神戸協議会”パールシティー神戸協議会/イベントニュース”(2011年5月8日閲覧。)
^ 朝日新聞社”asahi.com : みんなでつなぐ真珠 目指すは222メートル 志摩 – マイタウン三重”(2011年5月8日閲覧。)
^ a b 志摩市観光協会”『世界一長い真珠のネックレス』”(2011年5月8日閲覧。)
^ a b 伊勢志摩経済新聞”パールクイーンは誰に? – 「ミズノクラシック伊勢志摩」いよいよ明日から”2010年11月4日付(2011年5月8日閲覧。)
参考文献[編集]
バイオミネラリゼーション 生物が鉱物を作ることの不思議 渡部哲光 著 東海大学出版会(1997年) ISBN 4-486-01391-3
真珠の事典 松井佳一著 北隆館(1965年) ASIN: B000JADINC

真珠
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