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三輪壽雪(みわ じゅせつ 1910年(明治43年)2月4日 – 2012年(平成24年)12月11日)は日本の陶芸家。第十一代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。本名は節夫。
略歴
山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。 1927年旧制萩中学校卒業後、兄である十代休雪(隠居後は休和)を助けながら伝統技法を学んだ。1941年に三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込み、召集令が出された1944年以外は作陶の手を休める事はなかった。
1955年に雅号を「休」と称し作家活動を開始。1957年日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選し、1960年には日本工芸会正会員になるなど、十代休雪と並び高い評価を受けた。萩焼の伝統を受け継ぎながらも独特な感覚による作陶を為し、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。長石を原料とした釉薬を用いる伝統的な萩焼に加え、休雪が大成した純白の藁灰釉による「休雪白」の作品を発表しているが、特に後者は豪快かつ大胆な意匠と融合し大きな特色となっている。
1967年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ十一代休雪を襲名。
1976年紫綬褒章、1982年(昭和57年)には勲四等瑞宝章を受章、1983年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙であった。
その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003年(平成15年)に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。2012年(平成24年)12月11日、老衰のため死去。102歳没。叙従五位
三輪休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 – 1981年10月24日)は日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦廣。
略歴
山口県萩市にて、江戸時代初期から萩藩の御用窯として代々萩焼を継承していた三輪窯の次男として生まれる。1910年に旧制中学校を中退し、八代である祖父・雪山、九代である父・雪堂に師事。作陶への道を進む事となる。1927年に雪堂が隠居するにあたって、十代休雪を襲名した。
1942年に川喜田半泥子、金重陶陽、荒川豊蔵らと「からひね会」を結成する。「従来の桃山茶陶に固執するのではなく、時代に心を通わせた作陶を」と、自由な思想の元で互いの交流を深めた。同時に焼成の方法を根本から見直すことに励む。1956年、山口県指定無形文化財保持者に認定される。1959年には萩焼陶芸会会長に就任。
萩焼の原型である高麗茶碗を研究し、高麗茶碗に和風を取り入れた独特の作風を完成させた。特に萩焼の特色である白釉に関しても独特の技法を編み出し、「休雪白」とよばれるようになった。1967年に弟である節夫が十一代休雪を襲名し、自らは休和と名乗る様になる。
1967年に紫綬褒章受章。1970年4月25日、重要無形文化財「萩焼」保持者に認定。陶芸の中では比較的歴史の新しい萩焼を、瀬戸焼や備前焼等に代表される古窯と同等レベルにまで引き上げることに貢献した。1972年に萩市名誉市民となり、翌1973年、勲四等旭日小綬章を受章した。
1981年逝去。
三輪休和
陶芸家。山口県萩市生。本名は三和邦廣。萩藩御用窯である萩焼三輪窯を継ぎ十代休雪を襲名。萩焼の伝統技術を研究し、「休雪白」と称される独自の美しい白釉を完成し、萩焼の近代化に大きな役割を果たした。のち実弟節夫に十一代休雪を譲り、隠居して休和と号する。山口県文化賞受賞。萩市名誉市民。紫綬褒章受章。人間国宝。著に『日本のやきもの・萩』。昭和56年(1981)歿、86才。
山本晃 やまもと-あきら
1944- 昭和後期-平成時代の彫金師。
昭和19年5月27日生まれ。音響メーカーでデザイン担当をつとめたあと,東京の専門学校でデザインをまなぶ。30歳で山口県光市に工房をひらく。「切嵌象嵌(きりばめぞうがん)」と「接合せ(はぎあわせ)」の技法でしられる。昭和60年日本伝統工芸展で初入選し,以後17年連続で入選。62年「接合匣(せつごうばこ)『秋色』」で日本伝統工芸展NHK会長賞,63年「重金箱(かさねがねばこ)『流麗』」で同展奨励賞。平成8年日本工芸会金工部会評議員。26年人間国宝。山口県出身。
香月 泰男(かづき やすお、1911年10月25日 – 1974年3月8日)は、山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の画家。
略歴
山口県に開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。
山口県立大津中学校(現・山口県立大津高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
1945年、ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となる。
1947年、シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校へ復職。
1948年、郷里の三隅へ戻り、山口県立深川高等女学校(後に大津中学校と統合、現・大津高等学校)に転任。
1960年、大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念していたが、1966年に九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
1969年、「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞。
1974年、心筋梗塞にて死去。
没後、遺族によりシベリア・シリーズ57点のうち45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されている。
香月泰男美術館
泰男は、創作活動のほとんどを「<私の>地球」と語った三隅町の自宅で行っていた。その泰男の功績をたたえる目的で、1993年10月26日に、生家に近い三隅町湯免に三隅町立香月美術館として開館。2005年に三隅町の合併により香月泰男美術館に改名の上、長門市に運営が移管された。最晩年まで泰男の手元にあった作品や、香月のアトリエ(復元)などが展示されている。
なお、香月泰男美術館ではシベリア・シリーズの一部について常設展示を県に希望しているが、専属の学芸員が館にいないことを理由とし山口県が難色を示しており、完成作の展示が出来ない(原画のみが展示されている)。
また画作の一方で、油絵の作品の他、晩年は海外での風景作品や身の回りの針金、空き缶などを再利用して製作した子どものためのおもちゃが複数あり、これらも同様に展示されている。
定期的に「<私の>○○展」という企画展を開催しているほか、小中学生を対象とした絵画コンクール「香月泰男ジュニア大賞絵画展」を主催している。
住所
山口県長門市三隅中湯免226番地
アクセス
防長交通バス「湯免温泉」バス停より徒歩2分
JR山陰本線・長門三隅駅からタクシーで5分
著書・画集
『画集シベリヤ 1943-1947』求竜堂 1967
『香月泰男のおもちゃ筐』福島慶子編 求竜堂 1970
『私のシベリア』文芸春秋 1970 『私のシベリヤ 香月泰男文集』筑摩叢書
『シベリヤ画集 香月泰男画集』新潮社 1971
『海拉爾通信』新潮社 1971
『香月泰男スケッチ集 1 (ニューヨーク篇 1966年)』求竜堂 1972
『香月泰男スケッチ集 2-3 (パリ篇 1956年)』求竜堂 1972
『香月泰男スケッチ集 4 タヒチ篇 1971年』求竜堂 1972
『モロッコ 香月泰男石版画集』大阪フォルム画廊 1973
『画家のことば』新潮社 1974
『グランカナリア 香月泰男石版画集』大阪フォルム画廊 1974
『画集香月泰男』毎日新聞社 1979
『香月泰男全版画集』阿部出版 1990
『香月泰男画文集 <私の>地球』求龍堂 1998
『香月泰男の絵手紙』小池邦夫編 二玄社 2003
『香月泰男のおもちゃ箱』谷川俊太郎詩と編 大森忠撮影 新潮社 2003
『香月泰男 一瞬一生の画業』香月婦美子監修 小学館 アートセレクション 2004
『香月泰男画集 生命の讃歌』香月婦美子, 香月直樹監修 小学館 2004
『香月泰男シベリア画文集 全作品の自筆解説文と学芸員解説』山口県立美術館監修 中国新聞社 2004
関連書籍
岩田礼『香月泰男』日動出版部 1977
『香月泰男画集 -生命の賛歌』(2004年、小学館) ISBN 4096997137
落合東朗『香月泰男シベリヤ・シリーズを読む』論創社 1985
古川薫文 石井昭影絵『シベリアの豆の木 香月泰男ものがたり』新日本教育図書 影絵ものがたりシリーズ 1996
東義人『わたしの香月泰男ノート』海鳥社 1996
香月婦美子『夫の右手 画家・香月泰男に寄り添って』求龍堂 1999
平松達夫『戦場へ行った絵具箱 香月泰男「シベリア・シリーズ」を読む』海鳥社 2003
立花隆『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』(2004年、文藝春秋)
狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。
伝記
生い立ち
1828年下関長府印内で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信(さつしん)の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。
芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。少年時代の作品は10点近く現存しており、早熟の才能を示している。弘化3年(1846年)19歳で、父も学んだ木挽町狩野家に入門、勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)に学ぶ。嘉永3年(1850年)には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。
芳崖として
その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。安政4年(1857年)近郷の医師の娘よしと結婚。幕末の動乱期には、戦勝祈願の絵馬「武内宿禰投珠図」(忌宮神社蔵)や、「馬関海峡測量図」(下関市立長府図書館蔵)を描くなど、当時の社会と密接した芳崖の活動がうかがえる。この頃、自ら旧套を脱し一頭地を出る意味を持つ雅号を探り、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた伝えられる。
明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。
フェロノサとの出会い
谿間雄飛図 1885年 ボストン美術館蔵
同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた「仁王捉鬼図(におうそうきず)」は鑑画会大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となった。フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。
フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。墓所は東京谷中の長安寺。芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。
弟子に岡倉秋水(岡倉覚三(天心)の甥)、岡不崩など。芳崖死後、明治29年の『太陽』(二巻二号)には、河鍋暁斎、菊池容斎と共に「近世の三大画家」と紹介されているが、芳崖本人は彼らの画に不満だったらしく、「北斎や暁斎は腕が余り達者過ぎて下品なものになったのだ。容斎や是真なども器用が過ぎたのである」と弟子の岡不崩に漏らしている。
代表作
「伏竜羅漢」(福井県立美術館)一幅 紙本著色 1885年
「谿間雄飛図」(ボストン美術館) 紙本墨画淡彩 1885年
「江流百里図」 (ボストン美術館) 紙本墨画 1885年
「仁王捉鬼」(東京国立近代美術館)一幅 紙本著色 1886年
「不動明王」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)1887年 原図はフリーア美術館が所蔵している
「悲母観音」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)一面 絹本著色 1888年
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 – 1974年11月4日)は、日本の洋画家。作品は主に風景画。
経歴
1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。京都市立美術工芸学校卒。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒。同校在学中、弟四回文部省展覧会(文展)に初入選。
1918年(大正7年)、日本画から洋画に転向し、1920年(大正9年)鹿子木孟郎の画塾に通う。翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1924年(大正13年)、第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選。
1927年(昭和2年)、春陽会会員となる。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで渡欧。1934年(昭和9年)春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道市に移り住む。以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。また文化の振興にも意を注ぎ、物心両面から援助した。これらの功績から1952年(昭和27年)中国文化賞、1953年(昭和28年)芸術選奨文部大臣賞、1971年(昭和46年)勲三等旭日中綬章などを受けた。尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。
広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。
1974年(昭和49年)、広島での写生旅行中に誤って転倒し、頭を強打して死去。享年86。命日の11月4日には毎年、西國寺で和作忌が開かれている。
「天地豊麗」という言葉を好んで使った。
高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日) – 昭和6年(1931年)1月10日)は、明治~大正期の日本画家。本名は、得三(とくぞう)。なお長女に映画女優の高島愛子がいる。
父親の手ほどきもあり、幼少の頃から絵を描くことが好きであったが後、徳山(現・山口県周南市)出身の大庭学僊(おおば がくせん)に本格的に学ぶ。明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。
1990年代以降には、近代アカデミズム成立以前の先駆的な地形学者、地質学者、地理学者としての再評価が進んでいる。
経歴
長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれ、学んだ明倫館では、9歳(当時)で下郷していた後の陸軍大将・乃木希典との交友もあった。
長じては、明治新政府の工部省に入省し、明治5年(1872年)から4年間(22~26歳)、兵庫県・生野銀山の鉱山学校に赴任、フランス人技師長のジャン・フランソワ・コワニエより仏語と地質学・植物学などを学ぶ。明治7年、地質図としては本邦初の「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著す。内務省地理局・農商務省山林局に勤務を経て、明治17年(1884年)政府の命により万国森林博覧会参加要員として渡英、ヨーロッパ各地の森林視察の後、翌年フランスに行き「ナンシー水利林業学校 」に3年間在学(35~38歳)、専門の植物地誌学を研鑽する。
卒業したナンシーの学校には、タカシマの写った卒業写真とともに、彼が描いた植物の細密画や写生画が保存され、ナンシー派美術館には彼のレリーフ(ビュシェール作)が飾られる。また、1886年のフランス東部美術展に日本画を出品、現地の高い評価を受け、その絶賛は日本にも報道された(*別添記事)。パリ装飾美術館長の依頼でリモージュ美術館に作品を寄贈し、1887年には仏政府より教育功労勲章を授与され、100年の後になって1987年(昭和62年)、日本で開催された「ナンシー派アール・ヌーボー展」では「日本とナンシーを結んだ人物」との市長メッセージが寄せられた。
(*現地の絶賛を伝える報道記事:出自不詳)
「タカシマは花卉枝葉の美麗、即ち植物の真状を写し出すことに卓絶し、想像画家と自然画家とを兼ねるものは、日本人より他にあらざるが如し。而してこれを実行し得る者は、日本人にして森林家たるタカシマ氏、実に其の人なり・・・。」
明治21年(1888年)同校を修了、帰国する。その後、10年あまり専門の林野行政に携わりながら(明治27年山林局林制課長)、公務の合間に山岳を写生し、自修にて山水画の研究を進め、日本美術協会展に出品、明治28年『連峯紅葉』が銀杯を受賞する。47歳で公職を辞して郷里の長府(現・下関市)に隠棲するが、明治35年(1902年)52歳で再び上京、雅号を「北海」として中央画壇での活動を本格的に始める。
明治36年(1903年)にはロッキー山脈写生、翌年はセントルイス万国博覧会のために渡米、明治39年(1906年)には中国を旅行し山水画の本場を取材する。また前後して、画論『写山要訣』(36年)、画集『北海山水百種』(39年)を刊行。第40回日本美術協会展(39年)にて『秋澗暁霽』で二等賞銀杯、東京勧業博覧会(40年)に『水墨山水』で一等賞牌を受賞など、精力的な活動を行いながら、明治40年(1907年)の文展開設では旧派の正派同志会の結成に幹事として参加、翌年の第2回文展から大正6年(1917年)まで審査員を務め、その間『蜀道七盤関真景』『峭壁摩天』『朝鮮金剛山四題』などの大作を出品する。
大正12年(1923年)、関東大震災を機に長府に戻り、図画教師の傍ら、画業を続けながら長門峡など山口県の名勝地の開発や紹介に努めた。昭和5年(1930年)、東京・品川の子息の元に身を寄せ、昭和6年(1931年)没、享年80。
難波 平人(なんば ひらと、1941年- )は、山口県出身の洋画家、教育者。二紀会委員・監事、広島大学名誉教授。中国文化賞を受賞。
主な経歴
1941年に山口県熊毛郡上関町白井田に生まれる。1964年には広島大学教育学部美術科を卒業する。翌年には同大学の研究生を修了。後に広島大学大学院教育学研究科造形芸術教育学講座の教授として後身を育成する。2004年、広島大学退官記念の作品展を東京芸術劇場、広島県民文化センターで開催。
現在は、二紀会委員、広島大学名誉教授、日本美術家連盟会員、中国新聞情報文化センター講師、NHK広島文化センター講師を務め、波の会を主催している。
画家歴
1975年に第18回安井賞展に出品し、受賞候補となる。以後6度出品する(1980年、1984年-1986年、1990年、1991年)。1976年には第12回現代日本美術展、西日本美術展に出品する。また、シェル美術賞展で佳作賞を受賞(1979年に再び出品)、日仏現代美術展2等賞を受賞(1977年に佳作賞を受賞)する。
1979年、第14回昭和会展に出品(1981年、1982年にも出品)する。第33回二紀展に初出品、以後毎年出品する。1980年に第13回日本国際美術展に出品する(1982年、1986年)。1981年、第3回明日への具象展へ招待出品。さらに、第1回東京セントラル美術館油絵大賞展へ招待出品。
1983年に第37回二紀展同人賞を受賞(以後、宮永賞・会員優賞・鍋井賞・栗原賞を受賞)。
1986年にはヒロシマアートグラント’86を受賞し、受賞記念個展を広島福屋で開催する。1987年、現代の美術・今日の情況展に出展する(1991年、1995年、1999年、2003年)。
1990年には広島市南区民文化センター胸板壁画を製作、1994年に文化庁の第27回現代美術選抜展へ招待出品。また、同年広島で開催されたアジア大会広島公式記念メダルデザインを製作する。1995年には文化庁芸術家特別派遣のため翌年までトルコへ行く。その際、アンカラ大学、ガジ大学で個展を開催する。
1996年には帰国記念個展を三越広島店で開催。また、文部省在外研修員派遣のためフランス、イタリアへ赴く。1997年には『トルコ83日の旅』出版記念展を三越広島店で開催。1999年、『フランス・イタリア美術紀行』出版記念展を三越広島店で開催する。
2001年、個展「世界の集落・遺跡-光と影」を千代田楠苑で開催する。2002年には防府天満宮「平成手鑑展」作品を奉納。また、向原の願舩寺本堂襖絵の制作を手掛ける。同年には広島文化賞を受賞。2004年、広島大学を退官。退官記念大作展が開かれる。
松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 – 1963年5月22日)は、日本画家。山口県萩市生まれ。元の姓は伊藤、本名は篤。字は子敬。別号に香外、玉江漁人。妻の松林雪貞(せってい)も日本画家。
「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色とする。
経歴
萩市中渡(現・山田)出身。尋常小学校卒業後、地元の素封家・瀧口吉良の援助を受けて上京。1894年野口幽谷に師事。南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われる。官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。1919年帝展審査員、1932年帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1944年7月1日帝室技芸員。戦前の40代後半から60代にかけてが桂月の最盛期で、力作の多くがこの時期に描かれている。桂月作品の特色である、右上から左下に向かう構図法がはっきり現れるのもこの頃である。
1947年日中文化協会理事、1948年日本美術協会理事、1949年日展運営委員会常任理事、1954年同理事。戦後日展に書が加えられたのは、桂月の働きかけが大きいという。ただし桂月自身は、戦後の前衛書道は評価しなかった。1958年文化勲章受章、文化功労者、日展顧問、1961年日本南画院会長。死後従三位勲二等旭日重光章受章。 弟子に白井烟嵓・大平華泉・西野新川などがいる。
代表作
怒涛健鵰 (個人蔵) 絹本墨画淡彩 1897年(明治30年)日本美術協会展で二等褒状受けた桂月の記念碑的作品。当時、桂月は死病だった結核を患い喀血を繰り返しており、医者からも30歳以上生きるのは保証できないと言われていた。そこで桂月は命あるうちに、最も難しい作品を描こうと思い立った。絵のモチーフは、「猛禽」「岩」「波」である。猛禽類は鳥の王者であり、その風格を表すのが難しい。岩はよくあるモチーフではあるが、だからこそ古今の名手たちに負けない作を描くのは困難である。波も、形がなく勢いあるものを、線で書き表すのは技量が要る。同門からは「三つ子の大草鞋」だと冷やかされた。幽谷も、絵絹に描き始めた時、「そのような固い筆意では波が動かない、そこを描いてやろう」と言ったが、桂月は「折角のご親切ではございますが、出品作は自分の手だけで仕上げたい」と涙ながらに固辞し、涙で絵絹が濡れて絵が駄目になるほどだったという。
山楼鎖夏 (萩博物館) 紙本墨画 1914年(大正3年) 賛文から当時の桂月の心境がよくわかる作品。桂月は文展で入選を重ねていたが、1915年(大正4年)から出品を取り止めている。その理由については、ライバル・小室翠雲との確執や文展の審査方法に嫌気が差した、と後年語っている。賛の大意は「長い年月、南画を描いて生きてきたならば、それは禅の修行を積んできたようなもの。画壇の細やかな事で思い煩ったりしない。漢籍を読んで古人の生き方を追い、胸中の山水を思って俗世間との縁を絶とう。新派と旧派が争うのを気だるく聞き、名声の後先を争うのを密かに笑う。人には人の生き方があり文展を離れても私には私の生き方がある」。桂月は、折々に胸中を吐露した詩を加賛し、鑑賞者と想いを共有しようと試みていたが、本作はその代表的な例と言える。
秋景山雉図 (毛利博物館) 絹本彩色 1925年(大正14年)
長門峡 (東京国立博物館) 紙本墨画 1929年(昭和4年)第十回帝展出品。桂月の水墨山水画スタイルを決定づけた作品と評される。
山居図屏風 (東京国立博物館) 六曲一双 紙本墨画 1935年(昭和10年)
溪山春色(東京国立博物館) 六曲一双 紙本著色 1935年(昭和10年) 大正4年の日本美術協会展で一等金牌を受けた「春渓」が関東大震災で失われてしまったため、後に再制作した作品。
愛吾盧図 (山口県立美術館) 絹本彩色 1936年(昭和11年)
秋園 (宇部市) 絹本裏金着色 1938年(昭和13年)
春宵花影図 (東京国立近代美術館) 絹本墨画 1939年(昭和14年) ニューヨーク万国博覧会に出品。
松泉 (東京都現代美術館) 紙本墨画 1947年(昭和22年)同年の東京都美術館20周年記念展覧会、および第三回日展出品、のち東京都買上。
深林 (東京国立近代美術館) 紙本墨画 1960年(昭和36年)日本南画院第一回展出品
香橙 (萩博物館) 絹本墨画淡彩 1961年(昭和37年)香橙とはいわゆる夏みかんのことで、郷里萩の名産品。萩市役所には本作の複製画が飾られている。
画集・著書
ウィキメディア・コモンズには、松林桂月に関連するメディアがあります。
香外居画譜 郵便堂 1915
田能村竹田 中央美術社 1927
桜雲洞画譜 古今堂 1936
南画の描き方 崇文堂出版部 1936
桂月山人画集 松林篤 1957
松林桂月画集 日本美術新報社 1958
松林桂月遺墨集 天香会 1965
櫻雲洞随録 松林桂月遺稿 松林清風編 二玄社 1997
森 寛斎(もり かんさい、文化11年1月11日(1814年3月2日) – 明治27年(1894年)6月2日)は、日本の幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、日本画家。本姓は石田。幼名は幸吉、のち尚太郎。諱は公粛。字は子容、 または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山、造化室、天開図画楼。
森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。若い頃は攘夷運動に熱中したのとは裏腹に、温和で情趣的な画風で、「明治の応挙」と評された。
略伝
出生から徹山入門まで
長州藩士、石田傳内道政の三男として生まれる。父道政は藩の分限帳などに名が無く、家督を継いだ長兄は『金禄券根帳』に「給禄米壱石八斗」とあることから、微禄の下級藩士だったようだ。出生地は萩の雁島とされ、現在「贈正三位森寛斎誕生地」碑が建てられているが、防府生誕説もある。1825年(文政8年)12歳の時、萩浜崎の万福寺の寺侍で、作風から円山派に影響を受けた太田(田)龍について絵を習う。1831年(天保2年)18歳の時大坂蔵屋敷の検使役となった戸田九郎左衛門に従って上坂、森徹山の門に入る。しかし、一年も経たないうちに戸田が病気にかかってので、寛斎も戸田とともに帰郷する。1838年(天保9年)再び上坂するが、徹山はその頃京都にいたので、上洛し再入門を果たす。1840年(天保11年)師徹山は四条派に押され衰退に向かっていた円山派を再興するため、表向きは徹山の実子として、実際は一鳳の弟として徹山の養子となった。翌年、徹山が亡くなると一時京都を離れ、四国や中国地方を遊歴し、この頃から南画の画風も身につけ始めたという。
国事奔走
幕末の政情不安が起こると、長州人の寛斎も火中へ飛び込んでいく。絵師としての身分や表向き徹山の実子だったのを隠れ蓑に、自宅を勤王志士たちの密会の場にしたという。その中には山縣有朋や品川弥二郎などもおり、特に品川との交流はその後も長く続き、品川から寛斎へ宛てた手紙が多く残っている。また、北垣国道は生野の変後に長州に潜伏中、間諜と間違えられ首を刎ねられそうになるも、たまたま通りがかった寛斎の取り成しによって生き延びた。北垣はこれを深く感謝し、後年になっても任地先からしばしば酒を贈っている[1]。寛斎自身も京都の様子を伝えるため、何度も長州と京都を往復し、一時は新撰組の関三十郎[2]からも命を狙われたという。とはいえ、完全に絵筆を捨てたわけでは無かった。1855年(安政2年)の御所造営でに一鳳と共に参加し、寛斎は常御殿の杉戸絵に「帰去来」「赤壁」を描き、各地でこの頃の作品が確認されている。例えば徹山が出入り絵師を務めていた金毘羅神社との関係を引き継いでしばしば訪れ、応挙の障壁画などを補修しつつ、その画技を学ぶ。また数度に渡って倉敷の素封家萩野家を訪ねており、同じ倉敷にある野崎家塩業歴史館に寛斎の作品が数十点所蔵されている。こうした活躍からか、1865年(慶応元年)萩藩には25俵で召し抱えられ藩の御用絵師となるが、1870年(明治3年)絵に専念するため賞典返上帰商願を藩に提出。藩はこれを認めて恩典に金100両を贈り、寛斎はお抱え絵師の身分を離れて上洛する。
明治の「応挙」
明治以降は京都に永住し、幕末期に志士とともに国事に奔走した面影はなく、悠々と絵三昧の生活をおくる。塩川文麟らと如雲社に参加、文麟没後、同社および京都画壇の中心的存在となる。内国勧業博覧会など各種博覧会にも数多く出品し、しばしば高い賞を受けた。1880年(明治13年)京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)設立に伴って出仕となり、2年後には実際に画学講座を担当している。1890年(明治23年)10月2日には帝室技芸員を拝命[3]。1894年(明治27年)前年に患った肺炎が再発し、室町二条の自宅で没する。享年81。墓所は清閑寺霊山町神葬墓地。死にともない『京都美術協会雑誌』は、「今此の明治の応挙を失ひたるを悼む」と、その死をおくった。
応挙以後の円山派は、対象の形を写し取ることにとらわれ、次第に形骸化していった。そこで寛斎は、南画を手本に滲みや掠れといった墨の多彩な表現を取り入れた雅趣に富む筆法を追求し、単なる写生に留まらない臨場感ある表現を追求した。
子は無く、弟子の森雄山、森直愛、森松雨(西川貞吉)を養子にした。門下に野村文挙、山元春挙、巌島虹石、奥谷秋石らがいる。
横山沙季(よこやま さき)は、日本の水彩画画家である。山口県宇部市出身、現在は山口県宇部市で活動中
銀の鈴社から出版されている2014子どものための少年誌集に参加し作品を掲載している
この少年誌集は全国の図書館、市町村の副教材冊子などへ配布されている。
来歴
幼年-高校時代
小さい頃から変わり者で友達も少なかったが、中学から高校までの青春時代を卓球部に費やす。
高校では宇部市で個人戦で3位になったことが2回ある。
大学時代
山口芸術短期大学に進学(ビジュアル情報デザインコース)
社会人
山口井筒屋に勤務。距離の関係で宇部井筒屋へ。
現在は、書店員として働きながら宇部市で創作活動中。
あさくらシン
國重 友美(くにしげ ともみ、1978年12月11日 – )は、日本の書家、芸術家、元タレント。本名、西村 友美(にしむら ともみ)。山口県出身。神戸松蔭女子学院大学文学部卒。
アルファベットと漢字を組み合わせた「英漢字(ええかんじ)」の命名者である。夫は俳優の西村和彦。二児の母親でもある。
人物・略歴
教員を目指していたが、願書提出締切日に痴漢に会い断念。その後就職し、英漢字書家になるためにはどうしたらいいのかを模索している最中、天王寺にてイベントの裏方のアルバイトをしていたところに偶然ホリプロ大阪の関係者が来ており、面白そうな子だからとお笑いのオーディションを勧められた。また同じ時期、書の師匠からタレントになった方が芸術をできると薦められ、当時芸能人の絵画や書が注目されていたのを見てオーディションホリプロタレントスカウトキャラバンを受け、最終選考まで残ったことをきっかけに芸能界入り。そのオーディションがお笑いタレントを発掘するものだったためホリプロ大阪に所属し、タレントとして1年間だけお笑い番組『ゲンキ王国』に出演。お笑いは好きだがあくまでも書家となるためのステップだと本人は考えていた。この番組ではWEST SIDEと共演している。
6歳のときより習字をはじめ書道を愛好し、高校の時に書家を目指したという。大学進学も国立大学の教育学部の書道科を選考していたが、受験直前にスランプになり書が書けなくなり、当時の恩師から日本語教育専攻で書道の教員免許も取得できる大学を勧められる。センター利用で受験したため、入学式でお嬢様大学であることに驚いたと雑誌の取材に答えている。大学卒業後お笑い番組でコントなどをしていたため、大学名は伏せるように大学側から注意を受けたという。大学時代の講義中、たまたま書いた筆記体の「truth」が「真実」という漢字に見えたことから、アルファベットを組み合わせた漢字「英漢字」を発案したという[1]。サッカーの四級審判の資格を持っている。
2003年:大阪で開催した初の個展を機に書道に専念。作品「英漢字(ええかんじ)」は国内外より評価を得ている。同年商標登録をする。この時期まで、タレント活動をしながら、北新地、兵庫県三田市で「みく」という源氏名でホステスとして働く。
2004年:飛び込み営業による百貨店での個展の機会を得て阪急百貨店梅田本店にて個展開催。初個展にして作品は完売し、その売上金を元手にアメリカに渡り、日本と同様に飛び込み営業でギャラリーでの個展開催へとこぎつける。個展でのパフォーマンスは話題となり地元の北米毎日新聞に掲載される。
2005年:大阪阪急梅田にて個展開催。
2006年:俳優西村和彦と入籍。きっかけは京都のギャラリーでの個展。結婚後の本名は、同郷(同じ山口県出身)でタレントの西村知美と同音異字である。神戸大丸にて個展。
2007年:新宿伊勢丹にて個展、大阪大丸にて個展。
2008年:長男を出産。博多大丸にて個展。
2009年:長女を出産。育児休暇を終えてコマーシャルをきっかけに仕事に復帰。個展開催をきっかけにメディアの出演が増える。現在は事務所に所属しておらずフリーで活動。
2010年:山口県出身ということもあって美祢市の観光アドバイザーとして就任。ポスターやパンフレットのデザイン書を手がける。
2007年9月10日放送の『めざましテレビ』では、書道がなかなか理解されなかったため、自分が有名になれば理解者も増えると、1年間タレント活動をした。タレント活動後、自分の足で営業活動をしたことで今がある。と説明されている。
萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器。一部長門市・山口市にも窯元がある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。
古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、模様は地味だが根強いファンが多く、市内界隈には新規を含め、多数の窯元が存在する。
歴史
萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、李勺光(山村家、後に断絶)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出した。一方で、明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立するなどして萩焼を中興している。また、十二代坂倉新兵衛は萩焼を全国に広め不振衰退から救ったことにより、中興の祖と呼ばれている。
萩焼の技術は、1957年に文化財保護法に基づく記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択された(保持者は十二代坂倉新兵衛)。1970年には三輪休和(十代三輪休雪)、1983年には三輪壽雪(十一代三輪休雪)がそれぞれ人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された。2002年1月には経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けた。
主な作家
坂高麗左衛門
坂倉新兵衛
三輪休雪
三輪休和(十代三輪休雪・人間国宝)
三輪壽雪(十一代三輪休雪・人間国宝)
田原陶兵衛
吉賀大眉
坂田泥華
堀越焼
末田焼
星里焼
大内塗(おおうちぬり)は、山口県山口市に伝えられる伝統工芸品である。
平成元年(1989年)経済産業大臣指定伝統的工芸品に選ばれた。
歴史
大内氏全盛の頃、大内盆といわれる漆器が流通したという[1]。
毛利氏の時代に一時期、途絶したことがあったが、文久年間に岩本梅之進が再興を試み明治初期には地方の物産として名を馳せた。
昭和10年には山口大内塗漆器業組合を結成、大内漆器の高級化さらに輸出化を図った。 膳、椀、硯箱、煙草入箱などが主要生産品であった。
現在
現在の大内塗は、明治になって再興されたもので、平成元年(1989年)に伝統 的工芸品として指定を受けた。朱色の漆を施し、雲形の中に大内菱を金箔で配し、秋の草花を添えて描く点を特徴としている。
柳井縞(やないじま)とは、日本の伝統織物。山口県柳井市を中心に発達した。
概要
柳井縞は江戸時代に木綿商人が職人へ原料となる素材を渡して織る料金を支払い、その後に製品を引き取る「綿替」という方法で、現在の山口県柳井市を中心に発達した。その後1760年に岩国藩が織物の検印制度を開始、その品質を認められ、江戸時代中期ごろには柳井木綿として日本全国にその名が知れ渡るようになった。
明治時代後半には織物業が衰退し、柳井縞は大正時代初期より入手が困難となった。しかし、最近になって「新生柳井縞」として復興の気風があり、「柳井縞の会」も発足。柳井市が市制50周年を迎えた年に行われた記念イベント「スローライフ月間in柳井」では、柳井縞の会が主催となり、名称を一般公募で募集した20種類の柳井縞を展示する「全国縞めぐり」を開催した。
山口県
萩焼
大内塗
赤間硯
堀越焼
徳地和紙
見島鬼揚子
柳井縞