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高橋 敬典(たかはし けいてん、1920年9月22日 – 2009年6月23日)は、日本の金工家。
人物
山形県山形市出身。鋳物作家として重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。本名は高橋高治(たかじ)。
映画監督の村川透は女婿。
社団法人日本工芸会参与、山形鋳物工業団地協同組合副理事長、山形市輸出入組合理事、山形県物産協会理事等を歴任。
略歴
1950年:長野垤志に師事。
1951年:日展で初入選。
1961年:昭和天皇の山形県行幸で釜を献上。
1963年:日本伝統工芸展奨励賞受賞。
1972年:日本伝統工芸展鑑査委員となる。
1976年:日本伝統工芸展NHK会長賞受賞。
1979年:皇太子明仁親王(現在の今上天皇)の山形県行啓で釜を献上。
1996年5月10日:重要無形文化財「茶の湯釜」保持者に認定される。
2009年6月23日:慢性腎不全により逝去。88歳没。
阿部 豪一(あべ ひでかず、昭和16年(1941年)4月1日 – )は日本の洋画家、現代アート作家。板のパネルに金属質の被膜、銀紙等を張り、エッチングナイフで削って下絵を描いた後、油絵の具で仕上げるオイルエッチング画の発案者。ギャラリーあべ主宰。オイルエッチング画「なかよし」シリーズが有名。
山形県出身、渋谷区立富谷小学校卒業、渋谷区立上原中学校卒業、神奈川県大和市在住。 クラシックを中心としたコンサートと社交の場「成人誕生日会」を月次に開催、好評を得ている。 Mixiでも愛称(あべひで)で活躍していて、才能を更に開花させている。
経歴
1941年:山形県に生まれる。
1966年:東京ヒルトンホテル フランネルギャラリー小品展
1967年:米国シアーズ・ロバック作品買い上げ。ヨーロッパ企画展出品(フランス・ドイツ・ノルウェー・スェーデン・デンマーク 他)六本木梅花亭ギャラリー個展
1979年:米国、ハワイ、House of Art 個展。ハワイKIKU TV 出演。
1980年:米国、ブルックリン大学グループ展
1981年:麹町、日本美術会館個展
1982年:サロン・ドートンヌ、ル・サロン出品。渋谷、ギャラリーL画業20周年記念展
1983年:渋谷、NHK放送センター個展
1984年:渋谷、橋本画廊個展。埼玉近代美術館連展出品
1985年:東京都美術館連展出品
1986年:世田谷、ギャラリーあべ個展
1987年:大和、花の画房個展。大和、つきみ野文化会館個展
1988年:町田、高原書店美術サロン個展
1989年:町田、高原書店美術サロン個展。大和、つきみ野文化会館個展(絵と音楽と朗読)
1990年:松本、IAC美術展、国際美術審議会賞(フランス)受賞。ヨーロッパスケッチ旅行(フランス・スイス・イタリア・スペイン・ポルトガル・モロッコ・シンガポール)
1991年:晴海・東京国際見本市会場、第一回東京インターナショナルアートショー(TIAS)東館にて個展。松本、IAC美術展にて、郵政大臣賞。
1992年:第一回東京ガス リビングアート・コンペテション入賞。晴海、東京国際見本市会場、第二回東京インターナショナルアートショー(TIAS)個展。ペルー美術賞展出品。大和市つきみ野に現代アート ギャラリー開設。
1993年:岐阜、白峰展にて、厚生大臣賞。オイル・エッチング画創案者として「美術年鑑」で紹介される。
1994年:第一回アカデミーオリンピアYAMATO開催
2005年:大和市中央林間に「ギャラリーあべ」を開設。大阪ポテトチップス大賞受賞。ギャラリーあべ内で「成人誕生日会」をスタート。
2006年:山形さくらんぼテレビジョン SAYスーパーニュース「山形元気大図鑑」に出演。
2007年:「連なる」作詞、相模経済新聞にコラム連載開始、国際公募アート未来展(国立新美術館)出品、阿部豪一新作展 、ミク友と・僕の仲間たち展。
2009年:テレビ神奈川「TVKニュースハーバー」に出演、やまと街中お気に入りお店大賞受賞、FMやまとでラジオ番組を開始。
2010年:やまと街中お気に入りお店大賞受賞、JCOM-TVに出演。
2012年:第百回成人誕生日会。
生田宏司(いくた こうじ、1953年 – )は、日本のメゾチント技法による銅版画家。元東北芸術工科大学講師。現在、カリフォルニア州版画家協会員。
1953年、山形県鶴岡市に生まれる。千葉県立佐倉高等学校を経て多摩美術大学絵画科日本画専攻を卒業後、上野泰明、加山又造、堀文子に師事。
1986年国際ミニチュア版画展グランプリ(アメリカ)、1987年カンピナス国際版画ビエンナーレ受賞(ブラジル)、1987年 – 1988年ワークスオンペーパー展買上賞(アメリカ)、1990年インタープリント国際版画美術展大賞(ソ連)など国際的に活動。
主な作品
「微風の香り」
「巣立ち」
「静粛の間」
「芽生え」
「無垢無垢」
「風に触れて」
「クリスマスローズ」
「猫と猫頭鷹」
「ポピー」
「シマフクロウは獅子座流星群を見た」
「Entwinement」
「風に吹かれて」(1997年)
「コタン コル カムイ」(1997年)
「子猫と小梟」(1998年)
福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、1920年11月10日 – 2012年2月21日)は、日本画家、日本芸術院会員。山形県生まれ。本名は福王寺雄一。日本美術院理事。
人物
代表作は、『島灯』『ヒマラヤの花』等。息子の福王寺一彦も日本画家。
略歴
1920年11月10日、米沢市に生まれる。
1927年、6歳のときに左眼を失明する。
1929年、上村廣成に師事し日本画を学ぶ。
1936年、画家を志して上京する。
1941年、召集され、中国に出征する。
1946年、復員し、院展に出展する。
1949年、作品「山村風景」が日本美術院展覧会に初入選する。
1953年、東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組む。
1960年、作品「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞する。
1974年、幼い頃からの夢であったヒマラヤへの取材旅行を始め、これ以降、ヒマラヤを扱った作品が多くなる。
1977年、作品「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞を受賞する。
1984年、作品「ヒマラヤの花」で日本芸術院賞を受賞する。
1994年、日本芸術院会員。
1997年、勲三等瑞宝章受章。
1998年、文化功労者顕彰受賞。
2004年、文化勲章受章。
2004年、米沢市名誉市民顕彰受賞。
2005年、山形県名誉県民顕彰受賞。
2012年2月21日、心不全のため死去。91歳没。叙従三位
今井 繁三郎(いまい しげさぶろう、明治43年(1910年)2月7日-平成14年(2002年)1月9日)は、日本の画家。羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。山形県東田川郡羽黒町(現・鶴岡市)出身。
略歴
1910年、2月7日、山形県東田川郡羽黒町(旧泉村)戸野に生まれる。
1927年、3月、山形県立鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業後、画家を志し上京する。
芝絵画研究所に入所、山本鼎・山崎省三・木村荘八らに指導を受ける。
1930年、尾口勇に油絵の古典技法を学ぶ。
1936年、鷲田新太の誘いにより美之国社に入社。美術雑誌「美之国」の編集に携わる。
1937年、自由美術家協会創立に参加。
1941年、東北生活美術協会を結成。銀座資生堂にて展覧会を開催。
10月、美之国社の客員となり、海軍省の従軍画家として南方に赴く。
1942年5月、帰国する。銀座資生堂にて展覧会を開催。
7月、満州国に赴き当時の奉天・新京・ハルピン熱河を写生旅行し9月に帰国する。
1943年、銀座村松画廊にて「海南島風物画展」開催。
7月、台湾に赴き、台北・高雄にて個展開催。全島を巡る。
10月、沖縄沖にて米艦の襲撃を受けるも、僚船に助けられて帰国。
1945年、敗戦、東京を離れて郷里に帰り、山野を拓いて家族と共に住み、7年間ランプ生活を体験する。
1946年、日動画廊にて旧自由美術家協会の会員展を開催。
1947年、毎日新聞主催美術団体連合展、都美術館で開催。
1956年、山形県美術連盟運営委員長に就任。
1957年、白甕者委員長に就任。
1964年10月、欧州に赴き、パリに滞在する。
1975年、「(株)ブルー」の取締役に就任。
1976年、美術団体「光陽会」の委員となる。
1979年11月、齋藤茂吉文化賞受賞。
1981年、サントリー地域文化賞受賞。
1983年5月、光陽会文部大臣奨励賞受賞。
1989年、美術団体「光陽会」の委員長に就任。
1990年、羽黒町泉野の自宅庭に今井繁三郎美術収蔵館を設立。
1996年11月、鶴岡市特別文化功績賞を受賞。
1998年11月 長崎県立美術博物館にて回顧展開催。
1999年10月、O美術館(東京都)にて90歳展開催。
2000年、山形美術館にて2000年記念展を開催。アート・CON(混)結成、文藝春秋画廊にて開催。
2001年2月9日 羽黒町名誉町民となる。
2002年1月9日 死去。享年91
今野 忠一(こんの ちゅういち、1915年3月26日 – 2006年4月15日)は山形県天童市出身の日本画家。埼玉県在住。故郷の蔵王や月山を始め、多くの山岳や巨木を題材に、前景から背景まで分厚く塗る重厚な作風で知られた。
戦前から戦後にかけて活躍した、児玉希望や鄕倉千靱ら日本画の巨匠たちに師事した。愛知県立芸術大学で教授を務めたほか、東北芸術工科大学の名誉教授も務め、彼の主宰した画塾からは多くの日本画家が輩出された。また、日本美術院で評議員、常務理事も務め、院展で大賞はじめ数多くの賞を受賞してきた日本画界の重鎮であった。
その他、三島由紀夫著『金閣寺』の装丁を務めている。
小松 均(こまつ ひとし、1902年1月19日 – 1989年8月23日)は、日本画家。山形県北村山郡大石田町生まれ。
川端画学校卒業。土田麦僊に師事。新樹社に参加。主に最上川を題材にした作品が多い。1986年文化功労者。
晩年は京都市左京区大原井出町に居を構え、大原の風景を題材にした作品を多数残し「大原の画仙人」と称せられた。没後、1990年に、その旧宅に小松均美術館が開館した。鄙びた門には自筆の「萬霊報恩郷」の額が掲げられている。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 – 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。
略歴
明治24年(1891年)3月24日、米沢藩お抱えの能役者の子として、米沢市越後番匠町に生まれる。
明治43年(1910年)、白馬会展に「北国の茶屋」を出品して注目を集める。
明治45年(1912年)、10月15日~11月3日、ヒュウザン会第1回展覧会に「せんだく」を出品する。
大正初年(1912年)、岡本一平、北澤楽天等と共に東京漫画社をおこし雑誌『漫画』を主宰する。
昭和16年(1941年)、朝鮮半島の風景画を50余点出品した第1回個展を開催。作品集「朝鮮画観」を出版する。
昭和18年(1943年)、満州の風景画を20点出品した第2回個展を開催。
昭和19年(1944年)、作品集「満州画観」を出版する。
昭和48年(1973年)、「水墨日本風物抄」の原画62点を米沢市上杉博物館に寄贈する。
12月30日、東京の自宅で死去する。享年82。
昭和49年(1974年)、政府が紺綬褒章と木杯一組台を贈る。上杉博物館で「本間国生遺作展」が開催される。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 – 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。
略歴
明治24年(1891年)3月24日、米沢藩お抱えの能役者の子として、米沢市越後番匠町に生まれる。
明治43年(1910年)、白馬会展に「北国の茶屋」を出品して注目を集める。
明治45年(1912年)、10月15日~11月3日、ヒュウザン会第1回展覧会に「せんだく」を出品する。
大正初年(1912年)、岡本一平、北澤楽天等と共に東京漫画社をおこし雑誌『漫画』を主宰する。
昭和16年(1941年)、朝鮮半島の風景画を50余点出品した第1回個展を開催。作品集「朝鮮画観」を出版する。
昭和18年(1943年)、満州の風景画を20点出品した第2回個展を開催。
昭和19年(1944年)、作品集「満州画観」を出版する。
昭和48年(1973年)、「水墨日本風物抄」の原画62点を米沢市上杉博物館に寄贈する。
12月30日、東京の自宅で死去する。享年82。
昭和49年(1974年)、政府が紺綬褒章と木杯一組台を贈る。上杉博物館で「本間国生遺作展」が開催される。
桜井 浜江(さくらい はまえ、1908年(明治41年)- 2007年(平成19年)2月12日)は、山形県山形市出身の洋画家。独立美術協会会員。
人物
1908年(明治41年)山形市宮町に生まれ、山形第一高等女学校を卒業。結婚を勧める親の反対を押し切って上京し、1928年~1930年まで協会洋画研究所で、日本のフォーヴィスム運動の中心人物である里見勝蔵の指導を受ける。里見が率いる独立美術協会と、後に三岸節子らとともに結成した女流画家協会を主な発表の舞台として、1931年(昭和6年)の独立美術協会展では初回から入選するなどし、意欲的な作品を描き続けた。作家志望である夫の秋沢三郎と文学仲間だった太宰治や檀一雄と交流があり、太宰の短編「饗応夫人」でモデルとなったとされる。2007年(平成19年)2月12日、午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。
略歴
1908年(明治41年) 山形市宮町に生まれる。
1927年(昭和2年) 山形第一高等女学校(後の山形西高)を卒業し上京する。
1928年(昭和3年) 1930年まで協会洋画研究所に学ぶ。
1931年(昭和6年) 独立美術協会展に初回から入選する。
1934年(昭和9年) 東京都杉並区阿佐ヶ谷に住む。太宰治、啓一雄、外村繁、高橋幸雄、緑川貢、井伏鱒二ら、中央線沿線に住む文化人の溜まり場となる[1]。
1939年(昭和14年) 東京都三鷹市下連雀に転居する。
1940年(昭和15年) この頃、夫の秋沢三郎と離婚する。
1947年(昭和22年) 三岸節子らと女流画家協会を設立する。
1995年(平成19年) 青梅市立美術館にて「桜井浜江画集-65年の軌跡」開催する。
2007年(平成19年)2月12日 東京都三鷹市の病院で死去する。享年98。
2008年(平成20年)3月29日 (財)山形美術館にて「生誕100年記念・桜井浜江展」が開催される。
2008年(平成20年)10月4日 一宮市三岸節子記念美術館にて「生誕100年記念・桜井浜江展」が開催される。
阿部 豪一(あべ ひでかず、昭和16年(1941年)4月1日 – )は日本の洋画家、現代アート作家。板のパネルに金属質の被膜、銀紙等を張り、エッチングナイフで削って下絵を描いた後、油絵の具で仕上げるオイルエッチング画の発案者。ギャラリーあべ主宰。オイルエッチング画「なかよし」シリーズが有名。
山形県出身、渋谷区立富谷小学校卒業、渋谷区立上原中学校卒業、神奈川県大和市在住。 クラシックを中心としたコンサートと社交の場「成人誕生日会」を月次に開催、好評を得ている。 Mixiでも愛称(あべひで)で活躍していて、才能を更に開花させている。
経歴
1941年:山形県に生まれる。
1966年:東京ヒルトンホテル フランネルギャラリー小品展
1967年:米国シアーズ・ロバック作品買い上げ。ヨーロッパ企画展出品(フランス・ドイツ・ノルウェー・スェーデン・デンマーク 他)六本木梅花亭ギャラリー個展
1979年:米国、ハワイ、House of Art 個展。ハワイKIKU TV 出演。
1980年:米国、ブルックリン大学グループ展
1981年:麹町、日本美術会館個展
1982年:サロン・ドートンヌ、ル・サロン出品。渋谷、ギャラリーL画業20周年記念展
1983年:渋谷、NHK放送センター個展
1984年:渋谷、橋本画廊個展。埼玉近代美術館連展出品
1985年:東京都美術館連展出品
1986年:世田谷、ギャラリーあべ個展
1987年:大和、花の画房個展。大和、つきみ野文化会館個展
1988年:町田、高原書店美術サロン個展
1989年:町田、高原書店美術サロン個展。大和、つきみ野文化会館個展(絵と音楽と朗読)
1990年:松本、IAC美術展、国際美術審議会賞(フランス)受賞。ヨーロッパスケッチ旅行(フランス・スイス・イタリア・スペイン・ポルトガル・モロッコ・シンガポール)
1991年:晴海・東京国際見本市会場、第一回東京インターナショナルアートショー(TIAS)東館にて個展。松本、IAC美術展にて、郵政大臣賞。
1992年:第一回東京ガス リビングアート・コンペテション入賞。晴海、東京国際見本市会場、第二回東京インターナショナルアートショー(TIAS)個展。ペルー美術賞展出品。大和市つきみ野に現代アート ギャラリー開設。
1993年:岐阜、白峰展にて、厚生大臣賞。オイル・エッチング画創案者として「美術年鑑」で紹介される。
1994年:第一回アカデミーオリンピアYAMATO開催
2005年:大和市中央林間に「ギャラリーあべ」を開設。大阪ポテトチップス大賞受賞。ギャラリーあべ内で「成人誕生日会」をスタート。
2006年:山形さくらんぼテレビジョン SAYスーパーニュース「山形元気大図鑑」に出演。
2007年:「連なる」作詞、相模経済新聞にコラム連載開始、国際公募アート未来展(国立新美術館)出品、阿部豪一新作展 、ミク友と・僕の仲間たち展。
2009年:テレビ神奈川「TVKニュースハーバー」に出演、やまと街中お気に入りお店大賞受賞、FMやまとでラジオ番組を開始。
2010年:やまと街中お気に入りお店大賞受賞、JCOM-TVに出演。
2012年:第百回成人誕生日会。
佐藤 真生(さとう まさお、1963年(昭和38年) – )は、山形県酒田市生まれの画家。
人物
山形県立酒田東高等学校を卒業後、東京学芸大学美術科、同大学院修了。
1990年大学院修了の年に目黒区立美術館区民ギャラリーにおいて初個展を開催。同年多摩秀作美術展準大賞(青梅市立美術館)、1991上野の森美術館絵画大賞展佳作(上野の森美術館)、1993年安井賞展賞候補など数々の受賞歴がある。
1997年には本間美術館において個展。「佐藤真生展 ―譚海への招待― (本間美術館 1997年)」継承される「譚(はなし)」をテーマとし故郷から得た心象風景を再構築する独自の作風は、国内のみならず国外からの評価も高い。また平面作品の他に、立体、映像、オブジェ、執筆など幅広く制作活動を行っている。
奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)2月17日 – 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の木版画家。山形県出身。主に商業広告版画・創作版画を手がけた。
来歴
儀八郎が尽力して建てられた野菊の墓文学碑
1907年山形県西村山郡寒河江町(現・寒河江市)に生まれる。子供の頃から木版画に親しみを持ち、1928年に日本創作版画協会展に初入選を果たした。同年その技量を買われて日本毛織宣伝部の広告作家として数々の商業広告を手がけ、後に大高重治とともにニッカウヰスキーのポスター・ウイスキーラベルのデザインも制作した。1936年に浮世絵研究家の石井研堂に師事し、伝統的技法の復興に注力した。また、自らのコーヒー好きが高じて歴史等を研究しコーヒーの多様な呼び方を表した木版画「かうひい異名熟字一覧」を制作した。 金田信武の株式会社金田商店の代表的作家として活躍した後、1949年から1952年、千代田区神田小川町で自ら日本版画研究所を運営し、新版画といわれる浮世絵と同様の彫師、摺師による分業制作の木版画を創り始める。1954年には松戸市下矢切に自宅と工房を開設し、住居周辺を題材にした作品を制作した。 1965年には伊藤左千夫の小説を記念にした野菊の墓文学碑を自宅近くの西蓮寺に建てることの発起人となった。西連寺の一室には彼の版画が10数点展示されている。1981年10月に74歳で死去。1998年遺族がイギリス王室のビクトリア・アンド・アルバート美術館から依頼を受け、ニッケのポスターを出展した。
吉田 苞竹(よしだ ほうちく、明治23年(1890年)12月20日 – 昭和15年(1940年)5月1日)は山形県生まれの書家である。字は子貞、苞竹は号で、別号に無為庵主人・逍遙窟主人・清泉などがある。晩年の作品の落款には「苞竹懋」・「懋」など、懋を使用していることが多い。
業績
大正時代末期から大規模な書道団体の結成が相次ぎ、書道展が開催された。この近代書壇史の始まりという華々しい時期に新鋭として頭角を現わし活躍した書家で、比田井天来が「東の苞竹、西の尚亭」と称したほどである。中国の有名な碑帖などを掲載した『碑帖大観』という今までに例のない出版物を刊行し、また月刊誌『書壇』を創刊するなど書道の普及に力を入れた。『書壇』創刊号はたちまちに売り切れ、再版するほどの盛況ぶりだったという。この『書壇』で育った大勢の大家が活躍し、書道界の発展に大きく貢献した。
略歴
明治23年(1890年) – 山形県西田川郡鶴岡町に生まれる。
明治35年(1902年) – 黒崎研堂の門に入り、書道と漢籍を学ぶ。
大正4年(1915年) – 文部省教員検定試験習字科に合格する。
大正8年(1919年) – 書道研究の大願の志を立て上京する。
大正10年(1921年) – 松本芳翠、相沢春洋とともに『書海』を刊行する。
大正13年(1924年) – 『碑帖大観』第1巻を刊行する。
昭和3年(1928年)
『碑帖大観』全50巻が完結する。
書壇社を設立し、月刊誌『書壇』を創刊する。
同志とともに発起人となって戊辰書道会を結成する。
戊辰書道会第1回展が開催され、審査員となる。
昭和5年(1930年)
泰東書道院第1回展が開催され、審査員となる。
『書の光』を刊行する。
昭和7年(1932年) – 同志とともに東方書道会を結成し、董事・審査員となる。
昭和10年(1935年) – 『書学講話』を刊行する。
昭和13年(1938年) – 『書道教育』を刊行する。
昭和15年(1940年)
永眠。
『書道読本』が刊行される。
昭和16年(1941年) – 『書談』が刊行される。
昭和18年(1943年) – 財団法人書壇院が設立される。
明治23年(1890年)、山形県西田川郡鶴岡町(現在の山形県鶴岡市)に生まれる。小学校1年の時から首席を通し12歳の時、黒崎研堂の門に入り書道と漢籍を学ぶ。山形県師範学校卒業後、小学校訓導となる。黒崎研堂の紹介で日下部鳴鶴に入門し大正4年(1915年)、文検習字科に合格した。
大正8年(1919年)、書道研究の大願の志を立て上京し東京青山南町に住居を構える。大正13年(1924年)、『碑帖大観』第1巻を刊行し以後、毎月発行して4年後、全50巻を完結させた。昭和3年(1928年)、書壇社を設立し月刊誌『書壇』を創刊する。同年、苞竹とその同志たちが発起人となって戊辰書道会を結成し第1回展で審査員となる。また泰東書道院第1回展の審査員、東方書道会の董事・審査員などを歴任した。
書道会の創立に尽力
詳細は「日本の書道史#書道団体の離合集散(戦前)」を参照
戊辰書道会の創立
大正13年(1924年)8月、豊道春海の尽力により当時のほとんどの書家を結集した日本書道作振会が創立した。毎年大規模な書道展を開催していたが第3回展が終わり明けて昭和3年(1928年)1月2日、8人の青年書家によって書道会の創立宣言が発せられ書道界を震撼させた。長谷川流石・川谷尚亭・吉田苞竹・高塚竹堂・田代秋鶴・松本芳翠・佐分移山・鈴木翠軒(いろは順)の8人を発起人とするこの書道会創立宣言書には、「新たなる書道会を創立し、書道の健全なる向上発展を図ると同時に実力本位により新進の大成を期す」(抜粋)とある。こののち書道団体の離合集散が始まる。
この8人が中心となって昭和3年(1928年)7月に結成したのが戊辰書道会であり、日本書道作振会からの分離独立によって書道界は二分された。同年11月、戊辰書道会の第1回展が日本美術協会で開催され苞竹ら発起人の8人は第二審査委員をつとめている。
東方書道会の創立
戊辰書道会の創立から僅か2年後の昭和5年(1930年)6月、日本書道作振会と戊申書道会が統合して新団体泰東書道院が結成され、苞竹は第1回展の審査員になった。
昭和7年(1932年)1月1日、書家7人が伊勢神宮に参拝し神前に泰東書道院を分断して新しい書道会の創立の誓いを立てた。東京から吉田苞竹・松本芳翠・高塚竹堂、中部から佐分移山・長谷川流石、関西から辻本史邑・黒木拝石の7人である。のちに川村驥山・服部畊石・柳田泰雲・篠原泰嶺が加わり昭和7年(1932年)4月、東方書道会を結成し苞竹は役員(董事)・審査員をつとめた。
鄭道昭に傾倒
苞竹は鳴鶴門下として忠実に鳴鶴の書を学び、以後隷書は『張遷碑』、楷書は鄭道昭の『鄭文公碑』、草書は孫過庭の『書譜』をよく学んだ。特に鄭道昭に傾倒し、『書壇』誌上で鄭道昭について次のように述べている。
「王羲之が支那の南方を代表する書聖とすれば、鄭道昭は支那の北方を代表する書仙人である。」(昭和4年(1929年)4月発行『書壇』第4号)
「王羲之の行草は大に習ふべきものがあるが、その楷書に至っては、皆小字で、其の翻刻は後世愈々眞を失ってゐる。然るに鄭道昭の摩崖の楷書三十餘種、千載の下なほ神采の燦たるものがある。その用筆の變化、其の気象の博大、以て臨池家の範と為すべきものである。」(昭和10年(1935年)『書壇』)
「鄭道昭の字は極めて懐の廣い字である。運筆は頗る變化に富んで、いくら習っても厭きない字である。六朝時代の書といへば、皆奇抜な字と思ってゐる人もあるようだが、此の鄭道昭の書は最も正しく書いてゐる。之を至上の藝術書と称しても、決して過言ではないと思ふ。」
浅賀 正治(あさか まさじ、本名:浅賀正二、1953年 – )は、日本の彫刻家(石彫家)、社団法人太平洋美術会会員、羽黒石材商工業協同組合会員、株式会社綜合美術工房代表取締役社長。山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)出身で、茨城県桜川市在住。
経歴
1953年、山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)に生まれる。
1975年、太平洋美術学校彫刻科に学ぶ。
1976年、彫刻家・小金丸幾久に師事する。
1985年、第7回「ブルガリア・ガブロヴォ国際ビエンナーレ」に出展し、金賞を受賞する。
1986年、東京都品川区「非核平和都市品川宣言」1周年記念モニュメント「平和の誓い」を制作する。
1987年、第8回「ブルガリア・ガブロヴォ国際ビエンナーレ」に出展し、入選する。
1992年、岩瀬石彫展覧館「ROCK MUSEUM」(県博物館協会加盟)を主宰開館する。
「市民のための石彫講座」を開始する。
1994年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感I」ジャティン・ヌリエフと2人展を開催する。
1996年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感II」シバトコ・シロマシキと2人展を開催する。
ジョラム・マリガ講演会 国際交流基金文化人招聘プログラムを開催する。
1997年、茨城県より「茨城県国際交流奨励賞」を授与される。
1998年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感III」ミラン・アンドレエフと2人展を開催する。
2000年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感IV」イワン・ルセフと2人展を開催する。
2001年、山形県鶴岡市渡前地区文教施設計画実現記念モニュメント「千年の船」を制作する。
国立オリンピック記念青少年総合センター支援事業”親子で石彫刻”講座。
「TVチャンピオン ― 千年のアート・全国石職人選手権 ―」(テレビ東京放送日:6月14日)に出場する。
同番組の決勝ラウンドにて、巨大オブジェ「新島の夏の門」を制作する。
2002年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感V」スネジャナ・シメオノヴァと2人展を開催する。
2003年、神奈川県大和市立大和小学校創立100周年記念モニュメント「きずな」を制作する。
2004年、ブルガリア共和国を初訪問し、ブルガリアの石の街・イリデンツィ石彫制作する。
ブルガリア共和国・文化大臣と「石の街に石の学校構想」について会談する。
ブルガリア共和国・文化大臣より「ブルガリア共和国名誉証」を授与される。
2005年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感VI」ステファンルタコフと2人展を開催する。
大洗ライオンズクラブ創立40周年記念事業にて、モニュメント「磯遊び」を制作する。
独立行政法人国際交流基金より、第21回「国際交流基金地球市民賞」を授与される。
新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) – 昭和2年(1927年)3月12日)は、現在の山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。
概要
仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、19歳で上京後近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官の薦めもあり彫刻家志望に転じた。初め後藤貞行に師事、次いで浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学び1896年に軍の依頼により北白川宮能久親王騎馬銅像を製作。彫刻家としての第一歩を示す。1900年に渡欧、パリを経てベルリンに移りベルリン美術学校彫刻部主任教授ヘルテルに師事、当時のドイツのアカデミックな彫刻技法を身につけた。1902年に帰国。同年中村不折らによって創設された太平洋画会の会員となり、以後同会の中心的な存在として活躍する。また1904年に同会研究所が創設されると彫刻部の主任となり、朝倉文夫・中原悌二郎・堀進二など多くの後進を育てた。甥の新海竹蔵も竹太郎に師事し彫刻家として活躍している。
竹太郎は騎兵科の出身である経験から馬の像を得意とし、前述の北白川宮能久親王騎馬像のほか有栖川宮威仁親王、大山元帥、南部伯爵などの著名な軍人の騎馬像を手がけている。アカデミックで質実な作風で知られるがアール・ヌーボーの要素を取り入れたり、日本的・東洋的な題材を扱った異色作も数多く残している。1907年の第1回文展以来審査員を務め1917年6月11日に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員となった。
1927年、心臓病のため死去。
峯田 義郎(みねた よしろう、1937年 – )は日本の現代具象彫刻家。山形県生まれ。新座市在住。東北芸術工科大学芸術学部美術科教授。
主な作品
明日の空へ – 1981年、 文教大学越谷図書館正面エントランス上
地平線の午後 – 1980年、姫路市立美術館
風私考-通り風- – 1980年、石神の丘美術館
やまなみ – 1981年、倉吉博物館
二人の空 – 1986年、札幌芸術の森野外美術館
THE HORIZON’88 – 1988年、神戸旧居留地海岸通
少年少女と子犬のブロンズ群像と銘板 – 兵庫県立甲山森林公園
涌井 賀代子(わくい かよこ、1956年(昭和31年)- )は、日本の陶芸家。得意:鉄釉 灰釉 色絵
経歴
1956年(昭和31年)、新庄東山焼五代涌井弥瓶の長女として山形県新庄市に生まれる。
二代加藤春鼎に師事。
第22回、第23回日本伝統工芸展入選
1977年(昭和52年)、山形に帰郷し、五代弥瓶の後継者として作陶。
1980年(昭和55年)、正和(現・六代弥瓶)と結婚。
平清水焼(ひらしみずやき)は山形県山形市平清水で焼かれる陶磁器。江戸後期の文化年間に地主の丹羽治左衛門が茨城からの陶工、小野藤次平を招いて、地元千歳山の土を使って焼かせたのが始まり。伝承の上では円仁(慈覚大師)が千歳山の土を使って、焼き物を教えたとされている。
現在、6つの窯元があるが一般に知られているのは青龍窯の「梨青瓷」「残雪」である。梨青瓷は、地元の土に含有されている硫化鉄が、還元炎焼成によって気化、釉薬の中に溶解すると梨の肌のような青白色の斑点が生じ、独特の風合いを醸し出す。ブリュッセル万国博覧会の出展で受賞し、一気に平清水の名は上がったといわれる。「残雪」は純白の白釉を掛けることによって、黒色の斑点が浮き上がることで名付けられた。他にも撫青瓷の平吉窯、「白衣」といわれる化粧掛けや「白砂」を得意とする天沢窯など6つの個性的な窯場がある。
成島焼(なるしまやき)は、山形県米沢市で焼かれる陶器である。米沢藩主の上杉鷹山が家来の相良清左衛門に相馬焼の技法を学ばせて開天明元年(1891年)窯した。絢爛豪華な絵付は用いられず、海鼠釉、黒釉と窯の焼成によって生じる窯変だけで作品を仕上げるのが特徴。成島焼は藩の御用窯として栄え、藩政を支えるほど潤いを見せたが、近代に入り衰微し、大正年間には廃窯した。
現在は長井市で成島焼という名称で和久井富二が復興させ、米沢市で鳴洲窯の名称で水野哲が復興させている。
新庄東山焼
上の畑焼
深山焼
碁点焼
笹野一刀彫(ささのいっとうぼり)は、山形県米沢市に伝わる木彫工芸品である。
概要
米沢市笹野地区の農民によって製作されてきたためこの名がある。コシアブラの丸木を、サルキリと呼ばれる刃物で削り、簡単な彩色を施す。代表的な題材は「お鷹ポッポ」と呼ばれる鷹で、この他に「鶏」(1969年年賀切手図案)「もちつきウサギ」「蘇民将来」「恵比寿・大黒」「笠かむり農婦」「カメ」「せきれい」等の題材がある。
歴史
地元の伝承では、806年(大同元年)開基とされる笹野観音堂の創建当時から伝わる、火伏せのお守り・縁起物とし、1000年以上の伝統があると主張している。
近世後期には、上杉鷹山の産業振興策の一環で、農民の冬季の副業として笹野彫を奨励し、その伝統が現在まで続いた結果、少数の工人と共に農家の副業として製作されている。
製作者
1971年、笹野地区の他、簗沢、高畠町の工人約130名によって、笹野彫協同組合が結成された。以降、製作者は減少傾向にあり、2005年頃には35名にまで減っている。同組合は「笹野彫」(登録番号4488182)、「笹野一刀彫」(登録番号4488183)の団体商標権利者となっている。
著名な工人として、1895年生まれの情野辰蔵があり、1973年には県から齋藤茂吉文化賞(第19回)を受けている。これに次ぐ世代としては、1924年生まれの加藤孝吉が、伝統工芸の職人としてしばしば取り上げられる。
笹野民芸館
笹野一刀彫を中心とした、米沢の伝統工芸振興のために開設された。笹野彫協同組合が運営[9]している。
民芸品・木工品等の陳列販売の他、土日には笹野一刀彫の作業風景を見学することもできる。また、お鷹ぽっぽの絵付け体験教室もある(要予約)。
経済産業省東北経済産業局の広域観光圏整備計画においては、笹野一刀彫と笹野民芸館は「米沢地区(山形県)を中心とする産業観光のテーマ例 – 上杉米沢藩の伝統を受け継ぐ伝統と歴史的工芸等の産業資源」と位置づけられている。
山形県
県指定伝統工芸品リスト 山形県
磯草塗
酒田船箪笥
絵ろうそく
酒田光丘彫
鶴岡竹漆器
黒柿細工
庄内御殿まり
いづめこ人形
関川のしな織
深山和紙成島焼
笹野一刀彫
米沢相良人形
新庄亀綾織
新庄東山焼
上の畑焼
平清水陶磁器
山形打刃物
山形漆器
桶・樽
山形竹細工
山形桐紙
山形和傘
山形伝統こけし
歴史ストーリー
山形の豊かな風土が生み育てた
「山形鋳物」950年の歴史
全国でいちはやく国の伝統的工芸品指定を受けた山形鋳物。
その起源はおよそ950年前の平安時代に遡ります。
戦に従った職人が発見した山形の砂
山形鋳物の起源は、東北地方で前九年の役が起きた平安後期、源頼義軍と一緒に山形にきた鋳物職人が、馬見ヶ崎(まみがさき)川の砂や付近の土が鋳物の「型」に適することを発見し、この地に留まって鋳物づくりを始めたことによります。その後、斯波兼頼(しばかねより)が山形城を築いた南北朝時代に、金具を鋳物師に作らせた記録が残されており、当時から小さいながらも産地が形成されていたことがうかがえます。
最上義光による職人優遇策
江戸時代に入ると、山形城主の最上義光(よしあき)は、商工業の発達を目的に城下町を大きく再編。馬見ヶ崎川の北側に、火を扱う鍛治町と銅町を置き、他の職人町と同様に人足役を免除して優遇しました。銅町の鋳物職人は、こうした土壌のもと、日用品や仏像を生産。出羽三山参りが全国的に流行すると、参拝者のお土産品として人気を博すようになり、産地の規模が拡大していきます。
馬見ヶ崎川の写真
山形市内を流れる馬見ヶ崎川。鋳物の型はここの砂と現千歳公園付近の粘土を混ぜ合わせて作られました。ガスがたまらず、膨張度が少ないなどの性質があったといいます。
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山形鋳物
鋳造技術の発展
鍋釜などの日用品や仏像を生産する一方で、江戸中期には仏像・梵鐘・燈篭などの大きな鋳物を造る技術も確立しました。明治期に入ると、鉄瓶や茶の湯釜などの美術工芸品も作られるようになります。また、大正期以降は全国的に機械化が進んだことで、鋳造機械の分野が飛躍的に発展。銅町は、機械分野と工芸分野が同居する産地と変化しました。
銅町が産んだ鋳物の名工
こうした長い歴史の中で、山形鋳物のメッカ・銅町は多くの名工を輩出してきました。江戸中期における梵鐘の庄司清吉と佐藤金十郎、明治期における灯籠の名工・小野田才助、人間国宝となった茶の湯釜の高橋敬典(けいてん)など、各時代の職人たちは伝統に裏づけされた技術でそれぞれに山形鋳物の名声を高めてきました。なかでも茶釜や鉄瓶、花瓶、鉄鍋といった生活工芸品は、昭和50(1975)年に国の伝統的工芸品指定を受けています。
山寺奥の院「金灯籠」の写真
立石寺の金灯籠。明治28(1895)年に名工・小野田才助が鋳造しました。香川県の「金刀比羅宮」、宮城県金華山の「黄金山神社」にも小野田による名灯籠が残されています。
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現在の産地の様子
工芸品、美術品、建築部材、機械部品
多様化した鋳物の世界
工芸品が中心の銅町と、機械製品が中心の新しい鋳物町。
山形鋳物はふたつの生産地に拡大して、多様な鋳物を創造しています。
新しい鋳物町(西部工業団地)の誕生
機械分野と工芸分野が共存していた銅町ですが、機械鋳造が発展した昭和40(1965)年代に入ると、工場敷地の拡大や公害問題の発生などで、銅町に再編成が迫られます。そこで昭和48(1973)年、主に機械鋳造を行う工場が、新しくできた西部工業団地に移転。山形鋳物は銅町と西部工業団地、別名「鋳物町」で生産されるようになりました。
多ジャンル製品の生産地
こうして現在は、工芸品や美術品、建築部材、機械部品などの多ジャンル製品がふたつの地域で生産されています。なかでも機械鋳造の生産高は、山形鋳物全体の8割強を占め、全国的なシェアも順調に拡大。茶の湯釜や鉄瓶などの工芸品は「薄手で繊細な肌合い」と称され、茶道の世界や趣味人たちから高く評価されています。その一方で、江戸中期から続いてきた梵鐘づくりは、天童市に工場を構える「渡邊梵鐘」だけとなりました。
鋳物モニュメント、山形市産業歴史資料館、鐘の写真
平成21年、銅町に山形鋳物を象徴する「鉄瓶」のモニュメントが設置されました。また、鋳物町には山形鋳物の歴史や技術を展示している山形市産業歴史資料館があります。
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特集No.1「山形鋳物」鋳物の可能性。
製造工程
60~70ある工程のすべてを正確かつ迅速に
行うことが、良い鋳物を作るコツです
鋳造方法は製品によってさまざまですが、ここでは山形鋳物の
工芸品や美術品によく使われる「砂型鋳造法」を紹介します。
①デザインを作り、原型(木型)を作る
どのような工芸品を作るか紙にデザインしたら、それに沿って完成品と同じ形の原型である「木型」を、木材や樹脂、石膏などで作ります。
②木型から鋳型を作る
木型の周りに珪酸ソーダ入りの鋳造砂を敷き詰め、CO2ガスを注入。鋳造砂が固まったら木型を取り出します。この固まった砂が金属を流し入れる「鋳型」となります。
※伝統的な技法の場合
この「CO2ガス型」という方法は比較的近年に生まれたもので、茶の湯窯や鉄瓶など、山形鋳物ならではの伝統的な工芸品の場合は、ここまでの工程が現代の技術と大きく異なります。「挽き型」という古くからの鋳造方法を用い、鋳物の表面に文様付けなどの意匠を行うのです。山形鋳物の「薄手で繊細な肌合い」は、この技術によって生み出されています。
③中子(なかご)を作り、外枠と組み合わせる
鉄瓶や花瓶など、内部が空洞になっているものの場合は、その空洞を作るための「中子」を作り、外枠の鋳型と組み合わせます。
④溶かした金属を流し入れ、型を割る
1200度以上に熱して真っ赤に溶けた金属を、鋳型に流し入れます。この工程はどんな熟練鋳物師でも、息を飲む一瞬です。流し入れた金属の熱が冷めやまぬうちに、カナヅチで鋳型をくだき、製品を取り出します。また、製品によってはさらに素焼きして錆を防ぐ「金気止め」をするものもあります。
⑤着色から完成へ
やすりで形を整え、肌を磨いたら、製品に合わせて本漆を塗ったり、薬品を使って金属の錆を丹念に引き出したりして、さまざまな製品を仕上げていきます。
CO2ガス型の鋳型の写真
CO2ガス型の鋳型。
鋳型に溶かした銅を流し込む作業の写真
上下を合わせた鋳型の間に溶かした銅を流し込みます。
鋳型を割る作業の写真
鋳型を割って茶たくを取り出します。
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作品ギャラリー
950年の歳月で培われてきた
山形鋳物の深くて新しい和の風情
茶の湯釜、鉄瓶、花器、美術作品、オブジェ、アクセサリー、
人々の暮らしに潤いを与える、研ぎ澄まされた鋳物の数々。
山形鋳物を代表する茶の湯釜や鉄瓶は鉄製が主ですが、花器や壷など、他の生活工芸品には銅や朧(おぼろ)銀も使われています。また、ステンレス&鉄など異なる金属類の組み合わせもあり、ひとくちに金属の鋳造品といっても、素材や技法、作り手の感性によってさまざまな表情がかもし出されます。
山形鋳物作品の写真
山形鋳物「茶の湯釜」の写真
山形鋳物に伝わる昔ながらの技術は、「型挽き」や「紋様押し」、「肌打技法」など、非常に手間がかかるもの。でも、それが山形鋳物の「薄手で繊細、美しい肌」という最大の魅力を引き出し、茶道の世界や趣味人たちから愛され続ける理由となっています。
歴史ストーリー
山形の豊富な漆と木材を材料に
山形の職人技が集結した仏壇づくり
国の伝統的工芸品指定を受ける日本最北の仏壇が
山形で作られ、この地に定着した経緯を探ります。
日本における仏壇の発祥
わが国で仏壇を家庭にまつる風習が発祥した由来には諸説ありますが、その中の一説に、江戸時代以前に浄土真宗の門徒の間で始まったというものがあり、日本の伝統的な「金仏壇」も、浄土真宗の本山や寺院を模して作ったといわれています。その後、仏壇が一般庶民に広まったのは、すべての人が寺院檀家に入る「檀家制度」が始まった江戸時代に入ってから。社会が安定すると、日々仏壇に向かって拝み、先祖の命日には僧侶を招いて供養するといった現代につながる日本の風習が生まれました。
山形仏壇の誕生
仏壇が庶民に広がると、仏壇産地も全国各地に形成されます。山形では、享保年間(1724~1777)に江戸の彫工・後藤茂右衛門下に弟子入りした星野吉兵衛が、山形に戻り、欄間や仏具製作を始めたことに端を発します。その後、次男の2代目吉兵衛広高が、同じ後藤門下で彫刻技術を習得。地元山形の漆塗師、蒔絵(まきえ)師、金工錺(かざり)職人などを集めて、仏壇づくりと販売を開始しました。
二代目星野吉兵衛広高が製造した山形仏壇の写真
2代目星野吉兵衛広高が文化14(1817)年に製造した山形仏壇。沈金模様を施した「黒金具」や「木目出」という漆塗方法などの特色が見事に残されています。
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山形仏壇
仏壇製作を発展させた山形の土壌
もともと山形は、良質な漆液が周囲の山岳から豊富に採取できるため、早くから漆工業が栄えました。また江戸初頭には、山形藩主・最上義光によって漆師を始めとする諸職人が優遇され、また、最上川舟運の発達により京・大阪から優れた職人技や文化が伝わったため、山形の職人技術が高まりました。出羽三山信仰など、信仰に篤い地域性も加わり、仏壇製作はますます盛んになっていきます。
7分業による量産体制の確立
同業者が増え、仏壇製作が地域の重要産業に発展した明治28(1895)年頃、山形仏壇は「木地、宮殿(くうでん)、彫刻、金具、塗、蒔絵、箔押し・仕組」の7分業に分かれた量産体制に変わります。その16年後には、同業者が集まって組合を創設。明治期以後、全国各地で金箔を使わずに木目を活かした「唐木仏壇」が作られ始めるなか、山形仏壇は日本伝統の金仏壇製造を守り続け、昭和55(1985)年に国の伝統的工芸品指定を受けました。
記録帳「職人渡方帳」の写真
彫り師など諸職人へ発注した記録帳「職人渡方帳」と、注文を請けた時の明細帳「細工請取帳」。
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現在の産地の様子
伝統と特色を活かした
新しい山形仏壇の創造に向けて
海外産などの仏壇に押され、日本の仏壇製造業が
低迷するなか、山形仏壇の組合は新たな取り組みを始めています。
仏壇製造における日本の現状
現在、日本の仏壇には、江戸初頭以来の伝統「金仏壇」と、明治期に生まれた「唐木仏壇」、そして昭和後半に登場した「家具調仏壇」の3タイプがあり、国の伝統的工芸品指定を受けた15産地を筆頭に、全国各地で製造が行われています。その一方で、中国やベトナムからの安価な輸入仏壇が大量に国内を出回るようになり、伝統的な仏壇製作を行う職人は、大きな痛手を受けています。
「新・山形仏壇」研修スタート
こうした背景を受け、山形県仏壇商工業協同組合では現在、新たな事業を開始しています。そのひとつが研修事業です。組合では以前から、製造工程ごとに分かれて研修会を行ってきましたが、平成21年度からは、現代の居住空間を考慮した「新・山形仏壇」の研究会を開始。初年度は木地部が研修を行い、順番で年度ごとにすべての部会が開催する予定です。また、需要開拓事業も全国に向けて行うなど、組合をあげて産地の発展に励んでいます。
職人さんたちの写真
山形県仏壇商工業協同組合の加盟数は現在57人。木地部、宮殿部、彫刻部、金具部、塗部、仕組部、商部で構成されています。(平成22年3月末現在)
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特集No.2「山形仏壇」日本最北の仏壇。
製造工程
およそ250年の伝統に裏づけされた
誇り高き山形職人による7つの工程
明治中頃以来、7工程に分かれた産業体制で一貫して
製造を続けている山形仏壇。伝統的な金仏壇の作り方を紹介します。
①「木地」 仏壇本体を作る
十分に乾燥させたケヤキやセンなどの原木を木取りし、サイズに合わせて部材を切りそろえたら、釘を使わず、木の凹凸を合わせる「ほぞ組み」によって本体を組み立てます。
②「宮殿(くうでん)」 内陣に置く宮殿を作る
仏壇の内陣に置く宮殿は、細かなパーツごとに木材で作り、仮組みします。この段階での宮殿は、金箔を貼ってから正式に組み立てる⑦の工程が控えているため、金箔の厚みを考慮して作ります。
③「彫刻」 欄間や柱を飾る彫刻を作る
柔らかいシナの木に、欄間や柱につける飾りを彫ります。宮殿と同様に、パーツごとに彫ってから組み立てるため、山形仏壇ならではの細やかで奥行きのある彫刻ができます。
④「金具」 錺(かざり)金具を作る
真鍮板(しんちゅうばん)に図柄を写し取り、何百種類ものたがねを使い分けながら、模様を浮かせたり抜いたりして、錺金具を作ります。最後に平らな部分に鑢(やすり)をかけ、山形独自の「黒金具」「沈金金具」と呼ばれる意匠を施します。
⑤「塗装」 本体に漆を塗る
本体に漆を塗ります。通常、金仏壇は黒漆で仕上げますが、山形仏壇の場合は「木目出し」という木目がみえる塗り方をするため、塗っては研ぐ、といった工程を何度も繰り返し、最後に上塗りします。
⑥「蒔絵」 扉や台の引き出しなどに図柄を書く
塗り工程が終わった上に、漆で図柄を描き、その上に金銀粉を蒔きます。山形仏壇の場合は、蒔絵としては最高級の「盛り上げ蒔絵」を取り入れています。
⑦「箔押し・仕組み」金箔を貼り、組み立てる
木地、宮殿、彫刻など、それぞれの部材に金箔を静かに押し付けて貼ります。そして、細かなパーツを組み立てて宮殿や彫刻を仕上げ、最後に全体を組み立てて完成です。
①木地の写真
①「木地」仏壇本体を作る
②宮殿の写真
②「宮殿(くうでん)」内陣に置く宮殿を作る
③彫刻の写真
③「彫刻」欄間や柱を飾る彫刻を作る
④かざり金具の写真
④「金具」錺(かざり)金具を作る
写真左から⑤「塗装」本体に漆を塗る作業。⑥「蒔絵」扉や台の引き出しなどに図柄を描く作業。⑦「箔押し・仕組み」金箔を貼り、組み立てる作業。
写真提供/山形県仏壇商工業協同組合
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作品ギャラリー
250年の伝統と現代性を兼ね備えた
さまざまな山形仏壇の姿
優れた職人技の結晶ともいえる伝統的工芸品から、購入しやすい仏壇まで、
山形仏壇はさまざまな種類にて、日本人の心のよりどころを提案しています。
山形仏壇の特徴は、伝統的な金仏壇の様式と堅牢な造りが第一に挙げられますが、住宅事情の変化や価値観の多様性に合わせた家具調仏壇も揃えています。また、製造工程の検査基準ごとに価格レベルも三段階用意され、こだわりの職人技が結集した最高級の仏壇から、山形の職人が製造しつつも購入しやすい低価格の仏壇まで、さまざまあります。宗派による形の違いもあるため、購入の際にはお店の人に相談してください。
様々な仏壇の写真
100代三方開き仏壇の写真
ケヤキ材を使ったほぞ組による頑丈な本体の造り、奥行きのある精密な宮殿と彫刻、山形独自の黒金具の落ち着いた輝き、温かな木目調の漆塗り。300年の歴史で形づくられた山形仏壇ならではの特徴は、これからも職人たちによって大切に継承されていきます。
歴史ストーリー
全国の生産量の大部分を占める
天童の将棋駒づくりは、藩士の内職が起源
山形市の北側に隣接する人口6万3000人の天童市が、
日本一の将棋駒産地となった歩みをふり返ります。
将棋のルーツは古代インドから
そもそも将棋は古代インドを発祥とし、奈良時代に日本へ伝わりました。城跡や各地の遺跡で発見された古い駒から、かつては貴族や武士が自分で駒を作り、将棋を指していたとがわかります。本格的な駒づくりが始まったのは安土桃山時代末。能書家・水無瀬兼成(みなせかねなり)が黒漆と筆で書く「書き駒」を確立しました。江戸時代に入ると家元制度が成立。その後、将棋は庶民の間にも広がっていきます。
天童織田藩の駒づくり
天童で将棋駒づくりが始まったのは、将棋が庶民に定着した江戸後期。当時、天童織田藩の財政は大変な窮乏に苦しんでいました。そこで、織田藩はかつて米沢藩から技を学んだ駒づくりで財政を立て直そうと、藩士たちに奨励。幕末には、天童伝統の草書体による書き駒の基礎が築かれたといいます。
駒に手書き文字を入れている写真
天童で書き駒づくりが盛んになった江戸後期から明治期にかけて、全国には名駒師が次々と登場しました。「彫り駒」「彫り埋め駒」「盛り上げ駒」といった中高級駒もこの時代に生まれます。
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天童将棋駒
大衆駒の大量生産地へ拡大
駒づくりが本格的な産業となったのは明治期に入ってから。旧藩士が木地師と書き師に分かれて分業生産を始めたことで、天童は大阪などと並ぶ大量生産地となっていきました。さらに大正期に入ると、いち早く駒木地の機械化を開発。駒の書き手は、大人だけでなく子どもたちも担うなど、天童は町をあげての分業体制に入りました。「押し(スタンプ)駒」も導入した昭和初期には、大阪を退けて、全国一に成長します。
将棋駒づくり日本一
しかし昭和30(1955)年代のピークを境に、押し駒と書き駒は急速に衰退。大正期に東京から取り入れた「彫り駒」が主流となり、40~50年代には「彫り埋め駒」や「盛り上げ駒」といった高級駒の技術研究も始まりました。現在は、機械による彫り駒を中心に、押し駒・書き駒・彫り埋め駒・盛り上げ駒の5種類を製作。大衆駒から中高級駒まで、あらゆる駒を作る生産地となっています。
「書き駒」完成品の写真
天童将棋駒の伝統は、駒木地に漆で直接文字を書く草書体の書き駒ですが、戦後は楷書体が主流となり、草書体は一時まったく書かれなくなったといいます。
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現在の産地の様子
市と組合が一体となって進める
伝統的手工芸が息づく街づくり
将棋駒づくり日本一の天童市は、
将棋文化の伝承と普及に励んでいます。
「将棋駒のまち天童」
天童の将棋駒は、160年に及ぶその歴史の中で、生産規模をただ拡大させただけでなく、地域全体の発展そのものとなってきました。現在、市では「子ども将棋大会」や「全国中学生選抜将棋選手権大会」などを毎年開催し、将棋文化を次世代に普及させています。また、桜まつりの時期に舞鶴山で開催する「人間将棋」では、「将棋駒のまち天童」を県内外に広く発信。毎年、多くの観光客が天童を訪れ、その歴史文化に触れています。
国の「伝統的工芸品」指定を受けて
天童には現在、量産型の駒づくりをしている業者が3軒、「木地師」「書き師」「彫り師」「盛上げ師」といった職人が約20人、高級品駒を作っている工房が2軒あります。そのうち、名工と呼ばれる職人たちによる手技の駒は、平成8年に国の伝統的工芸品指定を受けました。これを受け、天童市は後継者育成講座を開始。山形県将棋駒協同組合と協力しながら、伝統的な職人技の継承と将棋による地域発展に力を注いでいます。
写真上から左「市内モニュメント」右「天童市将棋資料館」。下「資料館館内:製造道具、歴代銘駒など」の写真
いたるところに将棋駒のモニュメントがある天童市内。JR天童駅に併設された「天童市将棋資料館」には、昔の製造道具や歴代の銘駒などが展示されています。
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特集No.3「天童将棋駒」駒にまつわる物語。
製造工程
駒木地の木目の揃えから、漆の調合、盛り上げまで
すべてが気の抜けない仕事です
国の伝統的工芸品指定を受けている駒には、
書き駒・彫り駒・彫り埋め駒・盛り上げ駒の4種類がありますが、
ここでは伝統工芸士・桜井和男さんによる盛り上げ駒の作り方を紹介します。
① 木地の準備
駒木地の原料となるツゲの板材を御蔵(みくら)島から取り寄せ、何年か乾燥させたら、駒のサイズに合わせて四角形に木取りをします。その中から同じような木目模様の四角形を40枚選んだら、五角形の駒形に切りそろえます。
② 40駒分の字母紙(じぼし)を作る
薄紙に40駒分の字を書き写します。「今はゴム印や印刷が一般的ですが、私はひと駒ずつ書き写していくんです。これが『字母紙』作りという、とても大事な作業です」と桜井さん。
③ 字を彫る
字母紙ができたら一枚ずつ切って、駒木地に貼りつけます。そして駒を駒彫り台に固定し、印刀を使って一枚一枚文字を掘り込みます。
④「彫り埋め」作業をする
40駒をすべて彫ったら、砥の粉(とのこ)と生漆(きうるし)で錆漆(さびうるし)を調合し、彫った部分を錆漆で埋めます。漆は乾燥すると沈着するため、錆漆で彫りを埋めて乾かすという工程を、表面が平らになるまでくり返します。
⑤「研出し」と「瀬戸引き」
彫りが埋まり、完全に漆が乾いたら、4~6段階の研磨紙で研出(とぎだ)します。また、目の細い研磨紙で研出した後に、瀬戸物で表面を磨くことを「瀬戸引き」といいます。この段階で工程を終了するのが「彫り埋め駒」です。
⑥「盛り上げ」と「磨き」
蒔絵筆を使って、漆で字を浮き出るように盛り上げていきます。漆を立体的に、かつ均一に乗せるには、盛り上げ師の高度な技が必要となります。こうしてできる盛り上げ駒は、プロ棋士が対局で使う最高級品となります。
行程②
工程② 鉛筆で字を写し、字母紙をつくります
行程③
工程③ 駒に字母紙を貼り、字を彫ります
行程④
工程④ 錆漆による彫埋め作業には1ヶ月を要します
行程⑥
工程⑥ 漆で字を浮き出るように盛り上げます
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作り手に聞く
天童将棋駒の伝統を未来へつなげる
3人の伝統工芸士たち
書き駒・彫り駒・盛り上げ駒の各分野において、
特に秀でたスペシャリストを紹介します。
書き師・伊藤太郎さん(太郎・仁寿)
大正14(1925)年生まれの伊藤太郎さんは、書き駒を専門とする唯一の書き師です。伊藤さんが、初めて書き駒づくりをしたのは小学4年生。当時、子どもたちは小遣い稼ぎで下級駒を書いていました。戦後、本格的に書き師に弟子入りしてからは、一日1200枚ほどの駒の裏表に字を書いていたといいます。その後、時代の変遷から彫り駒が主流となり、書き師の数が減少しても、伊藤さんは書き駒の道一筋に進んできました。「天童の伝統は書き駒ですから誇りを持って書いています。でも、本来の伝統である草書体を書く人は数名しかいなくなりました。それが残念ですね」。そう語る伊藤さんは、一時ほとんど書かれなくなった草書体を昭和50(1975)年代に復活させた名工で、平成9年には伝統工芸士の認定を受けています。
伊藤太郎さんの写真
「書き駒は、下書きをせずに黒漆の筆で一気に書きますから、書き手の個性がはっきり出ます」と語る伊藤太郎さん。号は、草書に「太郎」、楷書に「仁寿」を使い分けています。
彫り師・国井孝さん(天竜)
機械彫りが主流の天童の「彫り駒」生産において、一貫して手彫りをしているのが国井孝さんです。しかも国井さんは、下書きをしないで直接彫る「すかし彫り」ができる稀少な職人。そんな国井さんの彫り歴は、中学生の時に始まります。「近所にいた彫り師の刃物で勝手に彫っていたんです。みつかると逃げたりして(笑)。それで慣れてしまったんですね」。中学を卒業すると同時に彫り師として独立。その後、技を高めるため、山形の高級駒の父といわれる名匠・国井香月の元で技術を習得しました。手作業による彫り仕事が減り始めてからは、機械彫りとの差別化を計るため、木地からこだわって駒を彫る高級駒づくりに転換。全国屈指の彫り師のひとりとして活躍しています。
国井孝さんの写真
彫り師としての類まれな技を持つ国井孝さんは、とても明るいお人柄で、平成14年には自叙伝『おれは天に昇る龍になる』を発行しました。平成9年伝統工芸士認定。
盛り上げ師・桜井和男さん(掬水)
分業体制による大衆駒が全盛だった天童において、「盛り上げ駒」に着眼し、研究を始めた職人がいました。そのひとりが桜井和男さんです。桜井さんが初めて盛り上げ駒を手がけたのは、社会人になって「書き駒」職人として駒づくりをしていた昭和48(1973)年でした。「天童でも、東京駒に負けない駒を作ろうと、兄弟子の村川秀峰さんと研究を始めたんです。でも、盛り上げ技術を教える人が天童にはいないわけですから、漆との格闘が何年も続きましたね」。昭和60(1985)年、数人の職人仲間と展示会を開催し、天童の高級駒を世に示しました。同年、桜井さんの駒はタイトル戦に初めて使用され、以後、全国に名を馳せる盛り上げ師として銘駒を作り続けています。
桜井さんの写真
現在、桜井和男さんのご長男・亮さんも「淘水(とうすい)」という号で盛り上げ駒を製作。平成16年には女流棋士の公式タイトル戦に使用されました。平成9年伝統工芸士認定(桜井和男氏)。
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作品ギャラリー
木と漆と文字による
およそ3cm四方の芸術世界
表情豊かな木目の模様と、黒く輝く漆の艶、
そして美しい文字の形が融合する、小さな日本の芸術品。
将棋駒の魅力のひとつは、駒木地に現れる木目の表情にあります。その最たるものは、木の宝石と称される御蔵島産のツゲの木目で、最高級品の盛り上げ駒などに使用されています。また、もうひとつの魅力は、日本の伝統美といえる洗練された書体の数々で、その数は150ほどあるといわれています。そして、それらの文字を象る漆の艶と躍動感。3cm四方といえども、小さな駒には無限の芸術性が広がっています。
写真上から「盛り上げ駒/書体:水無瀬」「盛り上げ駒/書体:源兵衛清安」中「盛り上げ駒/書体:錦旗」「盛り上げ駒/書体:巻菱湖」下「書き駒」の写真
「第五十期王座戦第三局駒」の写真
現在、天童では、量産型の駒づくりをしている業者が3軒、「木地師」「書き師」「彫り師」「盛上げ師」といった職人が約20人、高級品駒を作っている工房が2軒で、問屋を通さず、全国の小売業者や顧客に販売しています。
歴史ストーリー
米沢、長井、白鷹の各地で生まれた
高度な染めと織りの技術「置賜紬」
国の伝統的工芸品に指定されている「置賜(おいたま)紬」は、米沢・長井・白鷹に伝わる紬の総称です。
それぞれの地で別々に発展した紬を、ひとつの名称に統合した経緯をふり返ります。
青苧から絹織物産地へ転換した米沢藩
置賜地方の米沢・長井・白鷹近郊は、江戸時代初頭から、織物の原料となる青苧(あおそ)を栽培して越後方面に出荷する原料生産地でした。江戸後期の米沢藩第9代藩主上杉鷹山の時代になると、自給自足の織物産地を目指して、青苧を使った織物づくりを開始。肌になじむ麻織物を作るため、越後から職人を招き、縮織(ちぢれおり)の研究を行いました。凶作によって青苧織を中断した後は、領内に桑を植え、養蚕を奨励し、「絹織物生産」へと方向転換します。
米沢、長井、白鷹で生まれた高度な絣の技術
米沢藩の絹織物は、本場・京都から織物師を招いて研究開発したために飛躍的に発展。紅花や藍、紫根(しこん)などの植物染料で糸を染めて織る先染めの技術を確立します。その一方で、養蚕地だった長井・白鷹でも織りをするようになり、明治期に入ると新潟などの先進地から技術者を招き、高度な絣(かすり)技術を開発。大正期から昭和はじめにかけて、長井紬の「米琉(よねりゅう)絣」や白鷹紬の「板締小絣(いたじめこがすり)」が全国に知れ渡るようになりました。
作業の様子を表した人形の写真(撮影施設:米沢織歴史資料館)
養蚕を行い、糸を紡ぎ、染め、織りへ。鷹山公が織物政策を始めて40年後、米沢藩は全国有数の織物産地に成長しました。
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米沢織
長井紬
白鷹紬
時代の中で変わりゆく産地の姿
全国有数の絹織物産地に成長した置賜地域も、戦中・戦後を経て、大きく変化しました。素材は化学繊維や輸入品へ、織り技術も機械化へ。その一方で、昔ながらの草木染を手織りで行う染織家が米沢・長井・白鷹、各地に存在していました。昭和49(1974)年、国が伝統的工芸品を保護する「伝産法」を交付したことをきっかけに、そうした紬を「置賜紬」と名付け、保護、発展させようという動きが起こります。
国の伝統的工芸品「置賜紬」へ
米沢、長井、白鷹の各織物組合は、具体的にどの紬を置賜紬に指定するか検討しました。そして選ばれたのが、米沢織の「草木染」、長井紬の「緯総(よこそう)絣・経緯併用(たてよこへいよう)絣」、白鷹紬の「板締小絣」です。同時に、その技術を持つ12社が集まり、新たに置賜紬伝統織物協同組合を発足。昭和51(1976)年、それぞれの地で発展した伝統紬は「置賜紬」として、国の伝統的工芸品指定を受けるに至りました。
紅花摘みを表した人形の写真(撮影施設:米沢織歴史資料館)
江戸時代、山形は日本有数の紅花産地として知られていました。多くは高級品として京へ出荷されましたが、米沢では草木染にも使われていたといいます。
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現在の産地の様子
置賜紬を未来へつなげていくために
「山形紅花染」プロジェクト始動
置賜紬伝統織物協同組合の有志が近年発足した
山形紅花染織同人協議会について紹介します。
途絶えていた紅花染に着目
置賜紬組合は発足以後、さまざまな取り組みを行ってきました。そのひとつが有志による「古代米琉紬」の復元です。さらに近年は、江戸時代に全国有数の産地として知られ、草木染に使われていたにも関わらず、長い間途絶えていた紅花染に着目した山形紅花染織同人協議会(以下、同人会)を発足。化学染料を多く含んだ紅花染が出回るなか、“本物にこだわった紅花染”を手がけています。
「山形紅花染」ブランド化に向けて
メンバーは、発足前から独自に紅花染を開発してきた織屋も含め、計6社。「紅花のことを理解しないと本物はできない」と、栽培から染色、織りまでを自分たちで行っています。また、紅花染の最大の難点と言われてきた色持ちの悪さも、県工業技術センター置賜試験場と実験を重ねながら克服。厳しい染色基準を設け、メンバー内の織り基準も統一し、ようやく「山形紅花染」ブランドを確立。平成19年から販売をスタートしました。
紅花の種まき、開花、花摘み、生花の写真
紅花は山形の県花。同人会が栽培するのは最高品種の「最上紅」です。同人会は、一緒に栽培する農家の人も含め、紅花仲間を「紅人(くれないびと)」と呼んでいます。
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製造工程
栽培から完成まで、1年3ヵ月の歳月には
自然の恵みを通したものづくりの原点があります
種蒔きから染織まで、すべてを自分たちの手で行う「山形紅花染」
その工程を簡単に紹介します。
①畑づくりから種巻き、栽培まで
畑を耕し、4月上旬から中旬にかけて種を蒔きます。芽が出て成長してきたら、何度か葉を間引きし、高さが20~30cmになったら土寄せし、支柱を立てます。
②紅花摘み
7月上旬から中旬、アザミに似た鮮黄色の花が咲き、赤みを帯びてきたら、朝露で刺が湿って柔らかいうちに、花摘みをします。
③水揉み
摘み取った花びらを水に浸してもむと、花の色が黄色からオレンジ色に変わります。これは、もともと紅花にある、水に溶けやすい黄の色素が分離し、溶けにくい紅の色素が多く残るためです。
④発酵と杵つき
乾燥後、発酵させると、残った紅の色素が増えます。さらに紅色を増やすため、臼に入れて杵でつきます。
⑤紅餅づくり
ついた紅花を丸め、「紅餅(べにもち)」を作ったら、乾燥させます。これは、運搬しやすくすることと、染料の量を調整しやすくすることが目的です。
⑥色素の抽出と染色
紅餅を灰汁(あく)に浸すと、紅色素が溶け出すため、それに糸を浸けて染めます。その段階ではオレンジ色に染まるため、さらに酸を加えて赤味を引き出します。この工程を、目標の紅色になるまで何度かくり返します。
⑦織る
染め上がった糸を使い、さまざまな置賜紬を織ります。
紅花「すり花」の写真
工程④ 水揉みした花びらを臼に入れてついているところ。かなり紅色になってきました。
紅花「紅餅」
工程⑤ 手のひらで丸めた紅餅。紅花を京に出荷していた時代と変わらぬ姿です。
紅花「染色」
工程⑥ 紅餅を入れて色素が溶け出した灰汁に、糸を漬けて染めます。
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作品ギャラリー
やわらかな淡い色から鮮やかな紅の色まで
置賜の織り師たちによる紅花染の七変化
同人会によって染められた絹糸は、
織り師たちによって、表情豊かに織られていきます。
置賜紬の製品写真
仕立てられた着物の写真
山形県産の最高級「最上紅」を自分たちで栽培し、糸を染め、織る、「山形紅花染」の置賜紬。古くから伝わる草木染技術や織り技術と合わさって、多彩な表情を見せてくれます。
高水準な検査を経て認定されるブランド「山形紅花染」は、すべての製品に品質ラベルが表示されています。ラベルは品質別に、赤が「紅花100%」、ピンクが「紅花染と天然染料」、黄色が「紅花染と化学染料」の3タイプ。価格もラベルに合わせて分かれています。また、日本中で着物に使われている絹糸の9割強が海外産となっている現在、同人会による「山形紅花コレクション」は、100%が国産の絹糸によるもの。日本の絹糸と山形の紅花を使ったこだわりの置賜紬が、今後どのように花ひらくのか、注目が集まります。
歴史ストーリー
木の皮の繊維による日本最古の織物は
山里で守られてきた自然との共存文化です
日本海から16kmほどの山間にある戸数50に満たない小集落、
鶴岡市関川に伝えられてきた、しな織りの歴史を探ります。
しな織りの起源について
山野にする草木の繊維を使った織物は、縄文や弥生時代から日本各地で作られてきましたが、関川のしな織りの発祥ははっきりしていません。ただ、沖縄の芭蕉布、静岡の葛布とともに、しな織りが「三大古代織」に数えられていること、そして村の家々に残された織機が中国から伝来した時代のはたおり機と変わらないことなどから、相当古い起源であることが推測されています。
原料は、周辺に生育するシナノキ
集落の周辺には良質のシナノキが多く植生します。シナノキは伐採しても15~20年ほどで成木となるため、また伐採し、しな織りの原料にします。こうしたサイクルで長年自家生産が行われてきました。
シナノキの写真
シナノキの樹皮は繊維が強く、アイヌの織物の主要な原料の一つだったともいわれています。
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羽越しな布
雪深い山里の暮らしの中で
かつて関川ではどの家庭でも、春から初秋の農作業の合間にシナノキの皮を採って準備し、雪が降ると女性たちがしな織りをしました。翌春に仕上がった「しな布」は、家庭用に利用したり、買い付け業者(荒物屋)に販売して副収入源にしていました。
時代の変化が訪れた時
昭和40(1965)年代に入ると、化学繊維製品の流通とともに「しな布」の需要も減ります。危機感を感じた村人と業者は、連携してしな布を民芸品に加工して販売することを始めました。従来どおり原料の採取から織りまでを各家で行い、加工と販売を業者がするという方法です。こうして関川のしな織りは、転換期を乗り越えることができました。
しな織りの歴史展示品
「しな織センター」には、藁布団や酒漉袋、米袋など、戦前に暮らしの中で使われていた、しな布用品が展示されています。
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現在の産地の様子
しな織りを通して結ばれている
関川集落の地域コミュニティ
昔ながらの山里生活が今なお残る関川で、
各家庭と「しな織センター」が連携しながら、しな布の生産を続けています。
「しな織センター」の発足
昭和60(1985)年、時代の移り代わりを経ても変わらず営まれてきたしな織りを、村おこしの鍵にしようと考えた村人たちは、「しな織センター」を集落内に建立。運営主体の「関川しな織協同組合」には、集落の全家庭が加盟し、原料採取から糸づくりまでを各家で、その後の織りと商品加工をセンターでという、集落あげての分業スタイルを開始しました。
全国から訪れる「ぬくもり館」
さらに平成12年には、加工した商品を販売する「ぬくもり館」をセンターに併設して建立。年間およそ10,000人が全国各地から訪れるようになりました。公民館機能も合わせもつ「しな織センター」は、地域の中心機関として集落の絆をつないでいます。
関川集落の写真
現在は全戸数が43という関川集落。
一番近い越沢集落でも4kmの距離があるという全くの山間地帯です。
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特集No.5「羽越しな布」山里あげて。
製造工程
関川のしな布は、四季の移り変わりとともに
時間と手間をかけて丁寧に作られます
仕上がりまでの時間と手間の多さから、生産数が限られる
しな布は、古代からの方法をそのまま受け継いだ作り方です。
原料の採取から糸づくりまで(各家庭での作業)
①シナノキの皮が剥がれる6月中旬から7月上旬の梅雨時期に、伐採して皮を剥ぎ、さらに内側の皮のみを取り出して十分に日光で乾燥させ、屋根裏部屋などにしまっておきます。この作業は力仕事のため、男性が主に行います。
②8~9月、乾燥したしな皮を一昼夜池や川につけ、やわらかくします。大釜を赤土で作った大きなかまどにのせ、釜に入るサイズに巻いた皮を入れ、木灰(あく)、水で約10~12時間煮ます。
③十分にやわらかくなった「しな」をさっと水洗いして、皮の層を一枚ずつはがしていきます(へぐれたて)。さらに糸となる繊維部分を取り出すため、川に浸けながら石や竹棒で「こいて」いきます。
④繊維状になったしなを大きな桶に入れ、こぬかと水で2昼夜浸け込んだ後、川できれいにぬかをとったら、軒先などにつるして乾燥させておきます。
⑤雪が降り始める12月頃になったら、しなに湿り気をあたえながら、指先で細く裂き、糸の状態にします(しなさき)。
⑥裂いた糸状のしなを織り糸にするために、太さを調整しながら長くつなぎ(しなうみ)、次の作業がしやすいように玉状にまとめます(へそかき)。
織り、商品加工まで(しな織センターでの作業)
⑦「へそかき」をさらに状態のよい強い糸にするために、しな織センターで糸車を使って撚りをかけます(しなより)。ここまでが糸づくりです。
⑧できた糸を機にかける準備をします。まず「へば」という台を使って縦糸を準備し、「くだ」という道具で横糸を準備します。
⑨縦糸と横糸をセットし、昔からの「いざり機」や改良された「高はた」でしな布を織ります。反物として販売するものはこの段階で作業終了。クラフト商品として販売するものは、この後、センターで商品加工をします。
しな皮の写真
工程① 伐採し、乾燥させた内側のしな皮
しなうみ作業の写真
工程⑥「しなうみ」は熟練技がいる一番の難所
織り作業の写真
工程⑨ 昔ながらの機で織る
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作品ギャラリー
ナチュラルな色合いと、凛とした風合いは
工芸品としても高い評価を受けています
名刺入れやバックから、帽子や帯、のれんまで、
しな布はさまざまに加工され、商品として販売されています。
しな織り作品の写真
現在、しな布の商品は「しな織センター」で加工販売されるものと、布の状態で個人や業者がセンターから購入し、それぞれに商品加工して販売するものの2タイプがあり、センター併設の「ぬくもり館」でほとんどの商品を展示販売しています。工芸品としての高い評価から、平成17年には新潟県山北町で生産されるしな布と共に「羽越しな布」として国の伝統的工芸品指定を受けました。
竹工品「庄内竿」庄内地域鶴岡市
庄内竿の写真歴史と概要
庄内藩での磯釣り奨励とともに
発展した、庄内浜の和竿
庄内浜での磯釣りは、200年以上前、心身を鍛える武芸として庄内藩主の酒井公が奨励したことから盛んになりました。藩士たちは、庄内地方に自生する苦竹を使った一本竿を自分で作り、クロダイ釣りを競い合ったといいます。時代を経るうちに、竿づくりに秀でた職人が現れ、名竿が誕生。 車社会となった現代は、昭和の名人・山内善作(やまのうちぜんさく)が完成した、運びやすさを考慮した「螺旋継ぎ竿(らせんつぎざお)」が主流となりました。
店主、常磐さんの写真技法と特色
一本の自然の竹を、数年かけて
真っ直ぐに“のして”仕上げる芸術品
現在、庄内地方で唯一、製造と販売を続けているトキワ釣具店では、遊佐方面で採取する厳選した苦竹を4~5年間陰干しし、さらに竹の曲がり癖を矯正する“のし”作業を3~4年かけ、「螺旋継ぎ竿」を作っています。竹そのものを竿とし、蝋で仕上げる和竿は全国的にもめずらしく、そのしなり具合や釣った時の独特な感触が、愛好家を魅了しています。
金工品「山形鋳物」村山地域山形市
立石寺の金灯籠の写真歴史と概要
950年もの歴史の中で育まれた
山形の鋳物づくり
平安後期、戦を治める軍に同行して山形にきた鋳物職人が、近くを流れる馬見ヶ崎(まみがさき)川の砂が鋳物づくりに適することを発見し、留まったことが始まりと伝えられています。江戸初頭には、山形城主の最上義光(よしあき)が銅町を整備して職人を優遇。出羽三山参りが流行すると、神仏具や日用品がお土産として全国に出回るようになりました。その後、技術の発達に伴い、梵鐘(ぼんしょう)や鉄瓶、茶の湯窯なども作られるようになり、幅広い鋳物産地へと成長していきます。
山形鋳物製品の写真
「薄手で繊細、美しい肌」と全国で
いちはやく指定を受けた国の伝統的工芸品
山形鋳物の伝統的な技術は、砂鋳型(すないがた)の作り方「型挽き」や、砂鋳型にヘラで紋様を作る「紋様押し」、細やかな肌をつける「肌打(はだうち)」など。非常に古くからの技法のため手間と高度な技術が必要とされますが、これが山形鋳物の「薄手で繊細、美しい肌」という最大の魅力を創りあげています。また近年は、伝統を受け継ぐ現代の鋳造家たちによって、デザイン性に富む工芸品も数多く展開されています。
漆器「山形漆器」村山地域
山形漆器お盆の写真歴史と概要
山形の特産品を使った漆器づくり
その歴史は300年以上前から
300年以上前から漆器が作られてきたという山形。漆器づくりの作業は、板物木地職、塗職、加飾、販売と分業で行われ、大正期には職人町に数十人の漆工がいたといいます。技法的には、刷毛ムラを残さず、漆の光沢をみせる「花塗り」が発展しましたが、現在、山形で漆器づくりを続ける唯一の老舗「本家長門(ながと)屋」では、独自の「権之助(ごんのすけ)塗」を行っています。
山形漆器「権之助塗」の写真
昔ながらの塗りの技術と
現代的な性能を合わせもつ「権之助塗」
権之助塗は、山形漆器の再興を願った先代と現13代の山口権之助氏が試作をくり返しながら考案した技法で、木地に紅花模様の手彫りを施し、本漆で下地塗りから上塗りまでを行い、さらにベンガラの顔料を蒔く「朱蒔(しゅまき)法」を重ねて仕上げます。この独自の技法によって権之助塗は、丈夫で扱いやすい民芸調漆器として親しまれています。
漆器「真室川漆器」最上地域真室川市
うるしセンター内の写真歴史と概要
町内に残る地名から始まった
真室川町の「漆の主産地」づくり
真室川町には、「漆坊(うるしぼう)」という地名が残ることから、古い時代には漆栽培の歴史があったと推測されます。これを受け、昭和56(1981)年、町は「漆の主産地」づくりを目指して、漆による産業振興に着手しました。平成2年には、植栽から漆製品の販売までを一貫して行う産業拠点「真室川町うるしセンター」を開設。現在も漆器の開発や後継者育成に力を注いでいます。
真室川漆器えっぺ椀の写真技法と特色
地域の食文化を支える器づくり
具だくさんの汁もの用「えっぺ椀」
真室川町うるしセンターでは、お椀や盆・箸などの日常雑器を定番商品としながら、真室川の食文化を支える独自の漆器を製作しています。地元の主婦や東北芸術工科大学の学生も開発に参加した「えっぺ椀」は、2009年山形エクセレントデザイン奨励賞を受賞しました。天然木の素地に漆のみを何度も塗り重ねて仕上げるため、使いこむほど自然の光沢が出てきます。
漆器「江口漆器工芸」置賜地域長井市
江口漆器工芸「茶器」の写真歴史と概要
自然に負荷をかけない漆に学んだ
こだわりの漆器づくり
江口漆器工芸5代目の江口忠博氏は、
昭和57年(1982)年に家業を継ぎ、漆の世界へ。里山・伊佐沢(いさざわ)に工房を移し、独学独習で自らの呼吸リズムに合った手仕事にこだわり、環境にやさしい漆器づくりに取り組んでいます。創作漆器をはじめ、漆器・調度品の修理から建物の漆塗装まで、漆技全般を手がけ、国内はもちろんドイツでも個展を開くなど、多彩な活動も注目されています。
夫婦茶碗の写真技法と特色
生活工芸の基本は使いやすさ
細部にこだわり、ていねいさを追求
先代からの教えもあり、石油化学製品はもとより、化学系の材料を一切排除して天然の素材を使って製作しています。漆は昔から高級品で、今も化学塗料よりはるかに高価ですが、江口氏は美術品ではなく、生活工芸のスタンスで製作。箸や椀ひとつにも、人のサイズや男女の手のひらに添う形を追求しています。素材の主張を尊重した、シンプルで使いやすい漆器です。
漆器「竹塗漆器」庄内地域鶴岡市
竹塗漆器の置物の写真歴史と概要
城下町鶴岡で生まれた
静かで堅牢な美しさをもつ漆器工芸
竹塗りは、漆を塗り重ねて竹の風情を表現する、全国でもめずらしい漆器工芸です。庄内藩の武具塗装職人だった阿部竹翁(ちくおう)が、江戸の師匠である橋本市蔵の技をもとに研究を重ね、明治期に生み出しました。華美を嫌い、ものごとの深みを美徳とする城下町鶴岡の中で、質素でありつつも静かで堅牢な美しさをもつ竹塗りは大きく発展し、弟子たちが大切に継承。現在は、鶴岡市内で塗装業を営む鈴木勇氏が受け継いでいます。
竹塗漆器の茶筒の写真技法と特色
漆を盛り上げて「竹の節」を作り
色漆を何度もぼかして「枯れ竹」を表現
最大の魅力は、日本独特の美意識「わび・さび」を表す枯淡な趣で、この風情は30~40日に及ぶ全36工程を経て作られます。ポイントは、「竹節」を漆で丹念に盛り上げて作ること、そして「枯れ竹」をイメージさせる色合いを何度もぼかしながら仕上げることです。またこれらの工程には、竹翁時代から変わらない「鼠の髭」や「鯨髭(くじらひげ)べら」など、今では稀少な道具が用いられています。
漆器「磯草塗」庄内地域酒田市
磯草塗のお盆、花器、茶筒の写真歴史と概要
新潟から温海、鶴岡、そして酒田へ
伝承されてきた磯草塗りの技術
新潟県で考案された磯草塗が山形にも伝えられ、温海の横堀家から鶴岡の土佐内(とさうち)家へと伝承されました。昭和26(1951)年頃から作られ始めましたが、鶴岡は竹塗りに人気があり、磯草塗はなかなか定着しなかったようです。その後、土佐内佐吉(さきち)から技術を伝えられた息子の3代目八惣八(やそはち)は酒田市の斎藤家の婿養子となり、現在は4代目八惣八氏に受け継がれています。
磯草塗りの作業写真技法と特色
全工程で3~4ヶ月かかるという
緻密さと根気のいる作業の末に浮かび上がる磯草文様
縁などの消耗する部分を、米の粉で作ったのりを合わせた漆で綿布貼り付ける「布着せ」の後、輪島産の石を焼いて作った粉と生漆(きうるし)を混ぜて塗る「地の粉(じのこ)塗り」、砥の粉(とのこ)と漆を混ぜて塗る「サビ付け」をします。その後生漆に唐の土(とのつち)を混ぜた漆で「ヒボたて」を施して、磯草塗の特徴である文様の下地を作り、紅・黄・黒に緑と黄を混ぜた彩漆を塗り重ね、乾燥させてから丹念に研いで完成させます。
木工品「山形さしもの」村山地域山形市
山形指物「衣装箪笥」の写真歴史と概要
指物師を中心に、漆塗師や金具師の
技が融合した、山形の伝統家具
指物(さしもの)とは釘を使わずに木を組み合わせて作る家具のことで、木に穴や切りこみを入れ、さし合わせることが名前の由来となっています。江戸時代初頭、山形藩主の最上義光が山形城下に職人町を設け、職人を優遇したことが、後世、さまざまな特色ある職人技を発達させることになりました。山形指物は、山形の指物師を中心に、漆塗師、金具師の技が融合した伝統的な木工家具です。
山形指物「和茶箪笥」の写真技法と特色
職人たちの切磋琢磨によって育まれた
箪笥づくりを未来へつなげていくために
山形の指物師たちによる優れた技術は、主に民芸箪笥や茶箪笥などに継承され、今に引き継がれています。一方で、箪笥の装飾性や堅牢さ、特色などが顕著に現れる「箪笥金具」を作る職人は、全国的に稀少となり、県内には山形市宮町在住の金具師のみとなりました。地域の伝統的な和箪笥づくりの存続は、今後の緊急課題といえます。
木工品「山形建具」村山地域山形市
山形建具「障子」の写真歴史と概要
日本特有の気候風土に調和した建具
山形には多くの職人が携わってきた
山形建具の歴史は古く、明治から昭和にかけて、山形建具業組合をはじめ、県内各地にさまざまな組合が設立されてきました。襖、障子、引き戸、欄間など、機能的で美しい意匠を凝らした木製建具は、山形の気候風土や生活様式によく合い、日本家屋を優美に引き立てるものとして発展。伝統的な建具の産地として今日に至っています。
山形建具「インテリア照明」の写真技法と特色
住宅の洋風化で需要が減少するなか
新しいデザインや、匠の技が注目されている
昨今の住宅環境の変化は、建具の世界にも大きな影響を与えています。近代建築に調和するデザインが工夫され、多様化する生活スタイルに合わせた作品も数多く作られるようになりました。機械化が進み、輸入木材も増えましたが、杉やヒノキ、ほうの木などを使い、カンナによる手技で仕上げていくという伝統的手法は今も変わらず受け継がれています。国産の木、それも東北産のものは木肌の締りがよく、上質の素材であるといわれています。
木工品「桐箱」村山地域山形市
紅花が描かれた桐箱の写真
湿度の変化が激しい日本の暮らしの中で
重宝されてきた伝統的な収納箱
とても軽量で燃えにくく、かつ防湿・防虫効果に優れた桐箱は、年間湿度が非常に大きく変化する日本の暮らしの中で大変重宝されてきました。特に山形周辺は、良質な桐材が昔から豊富に採れたため、桐材を使った下駄や切紙などが盛んに作られ、なかでも桐箱は鋳物製品などを入れる箱として製造されてきました。昭和30(1955)年代以後は大量生産できる箱製品に押されたものの、現在も5軒が製造しています。
さくらんぼが描かれた桐長盆の写真技法と特色
ぬくもりを感じさせる、白く美しい桐箱は
ギフト用ボックスにも最適
箱のサイズに合わせて木取りし、カンナで素材を削ったら、裁断し、木くぎで打ちながら組み立て、底ふたをつけます。桐箱は、その機能面から美術品など貴重品の保存に適しますが、白く美しい木目がかもし出す高級感、そして軽量のため持ち運びに適していることなどから、大切な方へのギフト用パッケージとしてもおすすめです。
木工品「籐工芸」村山地域山形市
籐椅子の写真歴史と概要
東南アジアの籐と日本の職人技が
結びついて生まれた、近代の家具工芸
日本における最古の籐工芸は千年以上前といわれますが、生活用品として私たちの暮らしに普及したのは明治期に入ってから。東南アジア産の籐が手に入りやすくなったこと、中国から籐家具の製造技術がもたらされたこと、西洋椅子の文化が広まったことで、籐椅子づくりなどが盛んに行われるようになりました。山形での籐工芸は、明治40(1907)年創業のツルヤ商店が伝統的なつる細工技術を活かした籐工芸を作っています。
籐工芸品「籐源郷(とうげんきょう)」シリーズの写真技法と特色
曲げ、編み、巻き
昔ながらの技法で作る「籐源郷」シリーズ
籐は東南アジアに生息するヤシ科の植物で、軽く、堅牢で、弾力に富むという特徴を持ちます。ツルヤ商店では、千葉の職人による上質な手挽き皮籐を使用し、曲げ、編み、巻きなど、山形に伝わる昔ながらのつる細工技術を取り入れつつ、現代の暮らしに合わせて改良した籐工芸品「籐源郷(とうげんきょう)」シリーズなどを展開しています。
木工品「切畑の木工品(臼)」村山地域山形市
切畑の木工品「杵と臼」の写真歴史と概要
地形や地理的な条件が
重なって生まれた臼づくり産地
山形市から宮城県仙台へ通じる街道沿いの切畑地区では、約150年前に臼づくりが始まりました。山間地のため木工業が盛んだったこと、周辺に臼づくりに適した木が多くあること、販路が伝統的な山形の初市と仙台で確保されていたことなどが重なり、最盛期の昭和30(1955)年頃には40~50人の臼職人がいたといいます。現在は同地区に住む4名が伝統的な臼づくりを続けています。
臼をくり抜く作業の写真
木を選び、じっくり乾燥させて削る
この工程が100年もつ臼の秘訣
厳選したケヤキやアズサの原木を1年半ほど乾燥させ、臼の大きさに切ってまた1年半以上乾かしたら、丁寧に内側をくり抜いて成型します。臼の種類は善光寺型と寸胴型の2タイプ。電化製品の影響で一時注文が途絶えたものの、近年は保育園などでの餅つきイベントの人気や、製品の質のよさ、ついた餅の美味しさなどから再び注目が集まっています。
木工品「つる細工」村山地域西川町
つる細工の手提げカゴの写真歴史と概要
生活のために作っていたつる細工が
東京からも買いにくるほどの人気商品に
西川町では古くから、弁当籠など地域に密着した生活用具として作られていた「つる細工」。製作する際に使う道具も少なく、作りやすくて長持ちするため、重宝されてきました。この地元では、ごくあたりまえの道具だったつる細工が近年ブームとなり、大井沢で工芸品として製作・販売されるようになりました。現在はグループを作り、14人ほどで製作しています。
つる細工「ショルダーバッグ」の写真技法と特色
定番の籠からポシェットまで
オーダーメイドでも製作
つる細工の技術は先人から受け継いできたもので、地域の人々の間で主に冬の仕事として行われていました。編み方は何種類もあり、数えたことはないといいます。大井沢で使用する主な材料は、アケビとブドウのつる。特にブドウのつるで編んだ篭は弾力性に富み、色合いと感触が良く、使えば使うほど艶と味が出てきます。
木工品「笹野彫」置賜地域米沢市
笹野彫の作品写真歴史と概要
千数百年前から続く
農民たちによる刃物一本の技
千数百年前から笹野地区に伝わる郷土玩具。起源は、木製の削り花「笹野花」と、疫病よけの八角形の護符「蘇民将来(そみんしょうらい)」のふたつで、地区内にある笹野観音信仰と深い関わりがあると伝えられています。また、江戸後期に米沢藩第9代藩主上杉鷹山が、農民の冬の副業として奨励したことで盛んになったともいわれています。技術的にはアイヌ民族の木製祭具「イナウ」との共通性が認められます。
一刀で彫る、工人(笹野彫実演写真)技法と特色
大胆にして繊細で素朴な笹野彫は
日本を代表する手づくりの木彫り文化
材料は付近で採れるコシアブラ。主にサルキリという刀を使い、頭部や翼部、尾部を成型し、ポスターカラーで彩色します。代表的な作品は、鷹山の一文字をとり、商売繁盛の守り神を意味する「お鷹ぽっぽ」。組合員によって運営される笹野民芸館では、展示や販売を常時行っているほか、要予約制で工人による笹野彫実演や絵付け体験教室を行っています。
木工品「米沢箪笥」置賜地域米沢市
米沢箪笥「米沢唐戸」の写真歴史と概要
織物の一大産地で生まれた
衣裳箪笥、階段箪笥、米沢唐戸
江戸後期に日本各地に広まった箪笥は、明治以降、各地で盛んに作られるようになり、地方色ある箪笥も誕生しました。米沢箪笥もそのひとつ。一番多い形は上下に分かれる「衣裳箪笥」で、米沢が織物の一大産地であることが背景にあると思われます。他にも“幸せを呼ぶ箪笥”と重宝されてきた朱漆塗の「階段箪笥」や、「米沢唐戸(からと)」と呼ばれる珍しい車輪付き箪笥もあります。
米沢箪笥「階段箪笥、和茶箪笥」の写真
写真提供/永井家具店
技法と特色
原木選びから製造、仕上げまで
伝統的な技術にこだわった職人仕事
現在、米沢箪笥の製造元は大正元年創業の永井家具店のみです。厳選したケヤキや桐などを原木で購入し、十分に乾燥させた製材で製造。漆を塗り、金具を取り付けて仕上げます。また、同店では米沢箪笥の他にも、黒柿の無垢材を使った和茶箪笥など、さまざまな家具を製造。一貫して無垢材と手づくりにこだわっています。
木工品「黒獅子頭」置賜地域長井市
總宮神社黒獅子頭の写真歴史と概要
歴史ある黒獅子頭「おしっさま」は
41の神社が執り行う神事のシンボル
長井の黒獅子頭は、宮地区にある總宮(そうみや)神社で黒獅子舞が始まった室町時代末から作られるようになったと伝えられています。神社から要請があった時に、地域の彫師と漆師が作ってきました。その後、獅子舞は近郊に広がり、現在は41の神社が例祭日などに開催するようになりました。黒獅子頭は、厄払いのシンボルとして家庭に飾られるなど、長井の人々から「おしっさま」と呼ばれ、親しまれています。
黒獅子頭の置物の写真技法と特色
真っ黒な顔を覆う長いたてがみと
鼻からのびたヒゲが、独自の存在感を主張
長井の黒獅子頭は、顔を覆う長いたてがみと鼻から伸びるヒゲ、前方につき出た面長の表情が最大の特徴で、飛び出た目やめくれた唇もいかめしさを強調しています。現在、獅子頭を彫っているのは、「獅子宿」を営む渋谷正斗氏や、ほか若干名。渋谷氏は地元のヤナギの原木とネパール産のヤクの毛を材料に、獅子舞用と飾り用を製作し、獅子舞用の漆塗りは長井市在住の漆師・江口忠博氏が手がけています。
木工品「つる細工」置賜地域小国町
つる細工「手さげカゴ、小物」の写真歴史と概要
白い森・小国で静かに営まれてきた
暮らしに欠かせない生活用具
朝日連峰と飯豊連峰の山並みに包まれた小国町は、町の9割が森林に覆われた森の町です。自然と共存する生活文化も古くから営まれ、野生のアケビのつるや山ブドウの樹皮で編むつる細工は、生活に欠かせない冬の仕事として継承されてきました。近年は町の代表的な民芸品のひとつとして大切に継承しようと、町と作り手が一体となって技術力研鑽と伝承に力を注いでいます。
つる細工カバンの写真技法と特色
町内外の人が集う「つる細工講習会」は
昭和58(1983)年から続く町の伝統行事
材料は、近隣に自生するアケビのつるや、マタタビ、ブドウ・クルミの樹皮などで、適切な時期に材料を採取したら、乾燥、水に浸すなどの作業を経て編みます。町では毎年1月、観光協会と「つる工芸の会」が主催となり「つる細工講習会」を開催。町内外の参加者がつる細工を学ぶと同時に、冬の小国町での2泊3日の親睦を深めています。
木工品「酒田船箪笥」庄内地域酒田市
酒田船箪笥「はんがい」の写真歴史と概要
佐渡小木、福井県三国とともに
船箪笥の三大産地に数えられた湊町・酒田
船箪笥は江戸~大正時代に廻船の船乗りが携えていた貴重品入れのこと。太平洋側に比べて日本海側の産地には豪華な船箪笥が多く、その理由は海の“商い方”の違いといわれています。当時の海運業は、運賃で利益を得る「運賃積(うんちんづみ)」と、北前船のように船が商品を仕入れて販売する「買積(かいづみ)」とがありました。買積船は利潤が大きく、その寄港地で製造がさかんになったと考えられています。酒田では明治以降、地元の船乗りによる受注生産を中心に多く作られました。
酒田船箪笥「かけすずり」の写真技法と特色
海運隆盛の時代に
あらゆる事態を想定して施された細工の妙
船箪笥は船内を携行できるぐらいの小型で、材料は外側が欅材に鉄金具を装飾して堅牢に、内部は高湿度によって膨張する特性のある桐材を使い漏水を防ぎました。その様式は用途別に、現金や重要書類を入れる金庫としての「懸硯(かけすずり)」と「帳箱(ちょうばこ)」、衣裳を入れる「半櫃(はんがい)」があります。秀でた特色は、浸水しにくく簡単に人目に触れない内部構造。まさに用の美といえるその作りは、当時の職人の粋を集めたものです。
木工品「酒田こうきゅうぼり」庄内地域酒田市
光丘彫木箱の写真歴史と概要
内浜砂防林の伐採材を活かした
酒田のクロマツ工芸品
私財を投じて庄内砂丘にクロマツの砂防林を築いた、酒田市の本間家3代当主・本間光丘。その名を冠した光丘彫は、倒れたり伐採されたクロマツをお盆や茶托などに加工し、板の表面に文様を彫刻したものです。江戸時代から続いてきた光丘彫は、昭和の初期を境に近代化が進んだことで衰退を余儀なくされましたが、平成になって酒田木工同好会の会長を務めた今野正治(しょうじ)氏と、指物(さしもの)師の菊地秀雄氏によって復興が行われました。
光丘彫お盆と茶托の写真技法と特色
昔ながらの野趣あふれた
光丘彫の彫り文様をめざして
光丘彫の一番の特徴は、荒削りにもみえる野趣あふれた彫り文様です。菊地氏はそれを再現するため、旧家に残るお盆や茶托を元に研究を行い、市松文様と竹網文様による「酒田光丘彫」を発表しました。それからさらに試行錯誤を重ね、彫刻道具をすべて手づくりするなどしてようやく平成19年、昔ながらの彫り文様(本彫り)を実現。大切な地域の伝統を二度と絶やしてはいけないと製作の継続に努めています。
石工品貴石細工「月山めのう」村山地域西川町
ヒスイ原石の写真歴史と概要
メノウ、ジャスパー、水晶、トルマリン…
すばらしい貴石の宝庫、朝日連峰
ブナの原生林を抱く朝日山麓で、昭和45(1970)年頃に発見されたメノウは、土地の人たちから飾り石として珍重されてきました。水晶や赤褐色化した質のよいジャスパー系の原石が採れる大井沢では、製品化できる国産メノウは全国的にもめずらしいと、地域の特産品として開発することを決定。平成元年に開設した「自然と匠の伝承館」内に、全国唯一となる天然石のメノウ体験工房を設置しました。
めのう各種の写真技法と特色
国内唯一の体験工房で加工・製作する
貴重な国産メノウの輝き
国内唯一のメノウ体験工房ですが、初期のメノウ職人が辞めてしまったために一旦閉鎖。その後、工房を復活させたのは、東京都出身の上野勝氏でした。趣味の釣りを楽しむために大井沢に訪れて、メノウの存在を知った上野氏は、退職後、西川町に移住し、工房を継ぐことを決意。国産メノウの貴重さを知ってからは、山梨県で工場見学などをしながら独学で技術を習得しました。現在は、アクセサリーなどをすべて手づくりで加工・製作しています。