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武田 信廉(たけだ のぶかど)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の子。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる。
生涯
天文10年(1541年)6月、兄・晴信(信玄)は父・信虎を駿河国の今川義元の元へ追放して家督を相続し当主となる。晴信は信濃侵攻を本格化させ、翌天文11年7月には諏訪氏を攻めこれを滅ぼす。
信廉の初見史料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、天文20年(1551年)7月には晴信の命により、駿河・今川義元の娘を義信の正室に迎える旨を伝えている。
『甲陽軍鑑』によれば信廉は80騎を指揮したという。武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊(武田信繁の次男)の次に記載され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて兄の信繁が戦死したため、親族衆筆頭となったという。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。元亀元年(1570年)には信濃・高遠城主に任じられた。
元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成した。天正3年(1575年)、5月21日の長篠の戦い設楽原合戦では小幡信貞・武田信豊とともに中央隊に布陣していたと考えられており、会田岩下氏・山口氏・依田氏・大戸浦野氏らを相備とした。ただし、このうち西上野衆の大戸浦野氏は、左翼に布陣した箕輪城代・内藤昌秀(昌豊)の相備であることが指摘される。『信長公記』によれば、長篠合戦において信廉は山県昌景に続き「二番」に攻撃を仕掛けたという。
天正10年(1582年)3月の織田・徳川勢による甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もすることなく、大島城を放棄して甲斐へ退却する。戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害された。享年51。墓所は甲府市桜井町の逍遥院にある。
人物・逸話
画家としても知られ、甲府の大泉寺に所蔵される「武田信虎像」(重要文化財)、長禅寺に所蔵される「武田信虎夫人像」(重文)といった肖像画のほか、同じく長禅寺蔵の「渡唐天神像」などの絵画を残している。また、永禄10年(1567年)、信玄が家臣団から起請文を提出させて生島足島神社に奉納しているが、この中には信廉直筆のものが現存している。
『甲陽軍鑑』によれば、骨相が似ている信玄の影武者を務め、側近ですら見分けがつかなかったとされる。元亀4年(1573年)に西上作戦中の信玄が病死すると、死を内外に隠すために信玄に成りすまして軍の甲府への引き揚げを成功させた。また、北条氏政が信玄の死去を確かめるため、使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣したが、そのとき影武者としてこれを欺いたという逸話もある。
幽斎 年章(ゆうさい としあき、元治元年8月20日(1864年9月20日) – 大正10年(1921年))とは、明治時代の浮世絵師。
来歴
月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、芳年の内弟子となった。芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は甲府に何度か訪れており、その縁故からの入門とも考えられる。明治21年(1888年)の「春山練兵所観兵式御幸之図」(大判三枚続)が初作で、明治39年(1906年)まで30点弱の錦絵が確認されている。内訳は、日清戦争関係などの戦争絵が最も多い。他に、大判3枚続の武者絵「義経再興記」のような武者絵や、「日本撰景」などの風俗画が知られている。
明治31年(1898年)頃に山梨に戻り、県内を転々としながら地元の人々のために肉筆画を手がけた。これは、日清戦争後に浮世絵が衰退に向かい浮世絵師を引退したのが理由だと考えられる。年章の肉筆画は錦絵とは違って世相画は見られず、歴史画、人物画、美人画、更に南画風が強い山水画や花鳥画など、地元を中心に百数十点確認されている。大正10年東京で客死したと伝えられるが、異説もある。
近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 – 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。
略歴
出生から美術学校・漫画記者時代
山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。
祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。
美術学校では一年落第し、1910年(明治43年)に卒業する。卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため、1915年(大正4年)に読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し日本画家としても注目される。
日本美術院時代と洋行
大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も1919年(大正8年)に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。1921年(大正10年)には日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される。
1922年(大正11年)には岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレゴの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。
1923年(大正12年)の第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。
1931年(昭和6年)には個展開催のためフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。
美術院脱退から晩年
1936年(昭和11年)には日本美術院を脱退。東京府下久留米村(東久留米市)で「土筆居」と名付けたアトリエで捜索を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエを構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている。晩年は俳句や三味線などの趣味やゴルフ、スキーなどのスポーツも嗜み余生を過しており、脳炎により78歳で死去。墓所は上野寛永寺。
漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている。
作品は東京国立近代美術館、山梨県立美術館、近藤浩一路記念南部町立美術館などに所蔵されている。
望月 春江(もちづき しゅんこう、1893年(明治26年)11月13日 – 1979年(昭和54年)2月13日)は、日本の画家。本名は尚(ひさし)。
略歴
山梨県西山梨郡住吉村増坪(現在の甲府市増坪町)に父「宗正」、母「もと」の二男として生まれる。1908年(明治41年)に山城尋常高等小学校高等科(現在の甲府市立山城小学校)を卒業し、同年に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学、卒業後、1914年(大正3年)に東京美術学校日本画科に入学し1919年(大正8年)に同科を首席で卒業する。卒業後は結城素明に師事するとともに、文部省大臣官房図書課の嘱託となり、1920年(大正9年)には東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の講師(後に同校の教授)となった。1913年(大正2年)には実践女子専門学校(現在の実践女子大学)の講師となり1932年(昭和7年)まで務めている。また、昭和42年(1967年)には東京純心女子短期大学(現在の東京純心女子大学)の教授となっている。 昭和46年(1971年)に勲四等旭日小綬章を受章、昭和50年(1975年)には山梨県特別文化功労者、昭和52年(1977年)11月には山梨県政特別功績者となり、昭和53年(1978年)3月には紺綬褒章を受章。昭和54年(1979年)2月13日、心不全のため東京慈恵会医科大学附属病院青戸分院で永眠。
1921年(大正10年)の第三回帝展で《春に生きんとす》が初入選。1929年(昭和4年)の第十回帝展において《明るきかぐのこの実》が特選となる。1937年(昭和12年)には山梨美術協会の結成に参加し創立会員[2]となり、1938年(昭和13年)には川崎小虎や穴山勝堂らと日本画院を創立。その後、1958年(昭和33年)には第十三回日展に出品した《蓮》により日本芸術院賞を受賞。日展審査員も務めている。
花鳥画を得意とし、後年には墨と金を用いた独特の画風を確立した。代表作には《菖蒲郷》、《香抽暖苑》、《寒月梅花》などがある。
山梨県立美術館が開館する前年の昭和53年(1979年)には、同美術館に代表作20点を寄贈するなど、作品の多くは同美術館に収蔵されている。また、同美術館においては、昭和54年(1979年)4月に「望月春江展」が、平成25年(2013年)には「富士の国やまなし国文祭記念事業 望月春江とその時代展」(開催期間・平成25年(2013年)4月27日-同年6月9日)が開催されている。
親族
長女:鈴木美江(日本画家)
弟:望月定夫(日本画家)
野田修一郎(のだ しゅういちろう、1931年(昭和6年) – 1993年(平成5年)は、日本の画家。日本画家。
略歴
山梨県甲府市鍛冶屋町(甲府市中央)に生まれる。戦後に上京し、私立麻布中学校で日本画家の山田申吾に学ぶ。1951年(昭和26年)に東京藝術大学日本画家へ入学する。同期には日本画家の鈴木美江がいる。1974年(昭和49年)の第六回日展で特選となる。以来出展を続け、1984年(昭和59年)には日展で再び特選を受賞し、日展を中心として活躍する。ほか、日春展日春賞・奨励賞を受賞する。
野田は生涯にわたって馬を得意なモチーフとして描いており、代表作に《雪原》(1982年)がある。作品の一部は山梨県立美術館に収蔵され、1989年(平成元年)には同館で「郷土作家シリーズⅠ 野田修一郎展」が開催された。
のむら清六(のむら せいろく、1916年(大正5年)1月11日 – 1995年(平成7年)10月30日)は、日本の画家。日本画家。
山梨県西八代郡下九一色村(現市川三郷町)に生まれる。旧姓は石原。1933年(昭和8年)に上京して川端画学校夜間部で学ぶ。結婚後に野村姓となる。卒業後の1943年(昭和18年)に徴用され、戦後は1949年(昭和24年)から小説の挿絵などを手がける。1952年(昭和27年)から山梨日日新聞文化欄に挿絵や随筆を発表し、東京の画廊で個展も開催した。1975年(昭和50年)には第一回日仏現代美術展で大賞を受賞している。
同郷で俳人の飯田蛇笏・龍太親子とも親交があり、蛇笏の主催する俳誌『雲母』の表紙も手がけた。作品は山梨県立美術館に収蔵され、2000年には同館で「のむら清六 奔放・異端の日本画家」が開催された。
石井精一(いしい せいいち、1937年(昭和12年)-1987年(昭和62年))は、日本の洋画家。
略歴
山梨県南巨摩郡増穂町(現在の富士川町)に生まれる。独学で絵を学ぶ。はじめ現代美術家協会に属して活動していたが、1975年(昭和50年)にシェル美術賞展において一等を受賞すると、以後はフリーとして活動する。
1976年にはスペイン美術賞展において銀賞、翌1977年にはスイス美術賞展において優秀賞を受賞する。同年には日仏スペイン美術賞展でオシセテ・ナショナル・デ・ボザール賞を受賞し、翌1978年にはビブリオティック・デザール賞を受賞する。さらに1979年にはロオイユ賞を受賞する。
石井はスーパーリアリズム的な幻想的絵画を多く手がけ、仮面の人物が登場するシリーズや、代表作には《畳の記憶》(1975年、山梨県立美術館所蔵)がある。
増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 – 1989年(平成元年)4月9日)は、日本の画家。洋画家。
略歴
出生から前半生
山梨県南都留郡谷村町下谷(都留市谷村町下谷)に生まれる。父は理容店を営む清治郎で、誠は次男。母はかね。幼い頃より絵が得意で、中学時代には似顔絵の天才と賞されたという。
1931年(昭和6年)には父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立鶴高等中学校を経て、1938年(昭和13年)には吉田尋常高等小学校の教員となり、上吉田(富士吉田市)の西念寺の離れに下宿する。翌1939年8月には退職し、同年11月には国華工業へ就職する。
1941年(昭和16年)1月には徴兵され陸軍東部12部隊へ入隊し、同年4月には幹部候補生として南支へ派遣される。近衛野砲連隊南支に配属され、同年7月にはプノンペンに駐屯する。同年10月には甲種幹部候補生として千葉県四街道陸軍野戦砲兵学校幹部候補隊に入校する。翌1942年4月には陸軍砲兵見習仕官としてシンガポール駐屯の原隊に復帰し、同年7月には北部軍宗谷要塞に転属する。同年12月には少尉に任官。翌1943年5月には北海道道東地区警備のため釧路に派遣され、同年10月には宗谷要塞地区に復帰する。同年12月には中尉に任官する。翌1944年には横須賀陸軍重砲兵学校に入学する。翌1945年5月には北部軍稔部隊に観測係将校として転出し九州南方警備にあたり、鹿児島で終戦を迎える。
渡仏とフランスでの活動
戦後は同年10月に結婚し、北海道上川郡清水町へ渡り一年ほど農業を営む。1950年(昭和25年)には妻の故郷である釧路市栄町で光工芸社を設立し、看板業を営む傍ら画業を行う。光工芸社近くに宿泊していた一線美術の画家上野山清貢から影響を受ける。
1952年(昭和27年)には第二回一線美術展に出展し、会友となる。1955年(昭和30年)には清貢から世界一周旅行への同行を勧められパリ遊学を企図するが、清貢の病のため断念する。翌1956年(昭和31年)には光工芸社を売却して上京し、西荻窪に下宿して渡仏準備を行う。翌1957年(昭和32年)には渡仏を果たし、パリ国際大学都市日本館に滞在する。
翌1958年(昭和33年)にはサロン・デ・ザンデパンダンに出展する。同年には彫刻家であるザボのアトリエに転居し、その後モンパルナスのホテル・リベリアに滞在する。1963年(昭和38年)にはサロン・ドートンヌの会員となる。『増田誠画集』によれば、同年3月には《新聞売り》がサロン・ナショナル・デ・ボザールに出展されたという。《新聞売り》は横一列に人物が描かれた作品であるが、展覧会のカタログには増田の出展作は《Cirque》で、町並みの風景が描かれた作品の写真が掲載されている。また、1965年2月の『造形 65号』には1963年のサロン・ナショナル・デ・ボザールに出展されたという運河を描いた作品を背景に増田が写った写真が掲載されている。このため、《新聞売り》が同展に出展された点には異議が存在する。1965年(昭和40年)にはル・サロン・デ・ザルティスト・フランセで金賞を受賞し、パリの画壇で認められる存在となる。
西洋的テーマへの挑戦
1970年代にはギリシャ神話や『旧約聖書』など西洋の宗教・神話的なテーマに取り組んだ作品を多く発表している[5]。増田は1980年のインタビューにおいて、西洋的なテーマに取り組むきっかけとなったのは1975年のル・サロンに出展したときであると述懐している。
増田の証言がある一方で、実際に1975年のル・サロンに出展されたのは《キヨスク(キャリテ・ド・ラ・ヴィー》であることが指摘され、なおかつこれに先行する1974年には《トロイの木馬》、1975年2月のサロン・ナショナル・デ・ボザールに《アルゴナウト》が出展されている事実がある。このことから、実際には1980年以前から既に西洋のテーマには取り組んでいたと考えられている。
1979年にはサロン・ドートンヌに《ソルフェリーノのアンリ・デュナン》を発表する。これは増田が東郷青児の《ソルフェリーニの掲示》に触発され、赤十字の創設者であるアンリ・デュナンに取材した作品である。画面左には聖母マリアが十字架から下ろされたキリストを抱く「ピエタ」を描き入れ、前景には兵士が折り重なり倒れる様子を描き、ウジェーヌ・ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》を思わせる描写であることが指摘される。
増田は1967年の《シオの虐殺》においてもドラクロワの《キオス島の虐殺》の前景を取り入れおり、1975年の《ルーブル》では画中画としてドラクロワの《サルダナパールの死》を大きく描いている。双方ともルーブル美術館に所蔵されていることから増田は実見していたと考えられている。
1988年(昭和63年)10月に帰国すると、各地で個展を開催し、テレビ出演や北海道新聞釧路版の連載執筆も手掛ける。1989年(平成元年)正月には大分県由布院を旅行し、2月には北海道の阿寒湖を取材している。3月には横浜赤十字病院に入院し、4月9日に肺炎のため死去。葬儀は同月12日に故郷都留市下谷一丁目の深泉院で行われ、深泉院に埋葬された。
作品[
増田は港や河岸の風景、パリの市井の人々の生活などを多く描いた。渡仏初期には当時の流行を反映してアンフォルメルを意識した作品を手がけている。特にパリの石畳の風景を画題として選び、佐伯祐三や荻須高徳と比較された。1970年代から80年代にかけてはギリシャ神話や旧約聖書を題材とした大作を手がけ、キャンバスを複数枚つないだ大型の作品も手がけている。故郷山梨では富士山を描いた作品も見られる。
多作な画家として知られ、油彩、版画、エッチング、リトグラフ、墨彩画など1600点以上がヨーロッパや日本に所在しており、個人の所蔵家の手元に残っている作品も多く、その全容は未だ明らかにされていない。また、増田の思想や芸術観、フランス画壇における評価など指摘検証も十分になされていない。
日本では1970年(昭和45年)から1988年(昭和63年)の第十五回展まで小田急百貨店で個展を開催する。1991年(平成3年)には故郷の都留市中央に増田誠美術館が開館する。2012年には山梨県立美術館で『増田誠 パリ-人生の哀歓』が開催された。2015年(平成27年)には増田誠美術館が都留市上谷のミュージアム都留に移転統合された。
桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4日 – 1963年(昭和38年)7月18日)は、日本の洋画家。家族や日常風景を題材とした写実的な作品を多く残す。
略歴
山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。
1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。
大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。福保もこの時期に草土社的な画風で「鯖」を手がけている。
1933年(昭和8年)4月には上京し、東京府東京市王子区(東京都北区)の第二岩渕尋常小学校の教員となる。同年には洋画家の熊岡美彦に師事し、夜間は熊岡洋画研究所で学ぶ。1939年(昭和14年)には結婚。1944年(昭和19年)には志願して海軍省嘱託となり、広島県佐伯郡小方村(広島県大竹市)の海軍潜水学校に派遣される。
1936年(昭和11年)には文展で初入選して以来、文展や日展、師の熊岡や斎藤与里が創設した東光展、山梨美術協会展などに出展を重ね、1954年(昭和29年)には第10回日展において「魚市場にて」が岡田賞を受賞する。
昭和戦前期・戦中期には「宇佐美の海岸」(1936年)、「老農夫」(1940年)、「U子像」(1939年)などの作品があり、他の画家の影響を受けた作品が多く、デフォルメにも積極的に取り組んでいる。また、背景には表現主義を取り入れ、都市風俗の描写にも力を入れている。戦中には防空壕を掘る様子を描いた「或る日の家族」(1943年)などの作品もあり、当時の過酷な社会状況を日常風景として描いている。
戦後は山梨に帰郷し、アトリエ付きの自宅で画業を営み、戦後に中央で流行した抽象表現にも取り組んでいる。一方で甲府市愛宕町に桑原絵画研究所を開いて後身の育成も行い、竹田稔、清水美生、石川甚栄、船窪敏夫、早川ニ三郎らを輩出する。1958年(昭和33年)10月から一年半をかけてアメリカからフランス、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペインへ渡り、各地の風景を描いた。1963年(昭和38年)に死去、享年55。
2002年には山梨県立美術館において「桑原福保展-山梨に見る写実の流れ-」が開催された。
辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) – 1980年(昭和55年))は、日本の洋画家。「葦夫」は筆名で、本名は芳雄。
略歴
山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。
1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。戦後には1955年(昭和30年)に中村宗久らと「白壽会」を結成し、葦夫は二代目の会長になる。1978年(昭和53年)には財団法人実財団から文化功労実賞を受賞する。
名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月7日 – 1960年(昭和35年)3月30日)は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師。
来歴
久保田米僊及び久保田金僊の門人。山梨県中巨摩郡櫛形町(現・南アルプス市)の綿問屋に生まれるが、父・市太郎の事業の失敗により、1歳の時、東京に移る。名は芳之助。春僊、春川とも号す。小学校時代には、同窓の川端龍子、岡本一平とともに画才を認められていた。11歳の時、綾岡有真に師事、1900年(明治33年)、14歳で米僊、金僊に学んだ後、1905年(明治38年)、福井江亭に洋画も学び、東京美術学校においてさらに日本画も学んだが、平福百穂に私淑して中退する。
1902年(明治35年)、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。1906年(明治39年)、20歳の時には日本美術院展に「海の竜神」を出品、入選している。翌年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、1909年(明治42年)、同社に入社、1913年(大正2年)に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。他には森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『春』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』、石川啄木『一握の砂』(東雲堂書店、1910年)などの挿絵をしている。
1915年(大正4年)には小雑誌『新似顔』に役者絵を掲載した。翌1916年(大正5年)に京橋の画博堂で開催された第2回「劇画展覧会」に出品していた肉筆画「鴈治郎の椀久」が渡辺庄三郎の眼にとまり、渡辺版画店から役者絵「初代中村鴈治郎の紙屋治兵衛」を版行、これが春仙の最初の新版画作品であった。春仙の役者絵は、写実に基づきながらも、役者の美しさ、芝居の面白さを無視したものではなく、それが多少甘いと評される訳であるが、本作品の持つすっきりとした爽快感が評価され、代表作となった。その後、1917年(大正6年)には「梅幸のお富」を版行している。春仙の作品は後に「創作版画 春仙似顔絵集」にまとめられ、1925年(大正14年)から1929年(昭和4年)まで刊行された。この似顔絵集を見たドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ、徳川頼貞、高見廉吉らは春仙に木版による肖像画を依頼、これらを制作した。春仙はおよそ100種以上の版画を作成、山村耕花とともに新版画の中で、役者大首絵を描いた代表的存在であった。他に肉筆画なども手掛けている。
1930年(昭和5年)にはアメリカの雑誌『アメリカンマガゲンオブアート』に伊東深水、川瀬巴水らとともに春仙の版画における功績を紹介されている。1950年代後半には富士山を「是即ち地球で第一の山」とたたえて、富士山を題材とした風景画を手掛けている。
1958年(昭和33年)2月、長女を肺炎で亡くし、1960年(昭和35年)3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。74歳没。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた。
没後、昭和62年(1987年)春仙の画業を顕彰するため民間有志が惜春会を結成。その4年後地元に櫛形町立春仙美術館が開館し、町の合併に伴い南アルプス市立春仙美術館と改称し現在に至っている。
萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22日 – 2007年〈平成19年〉11月4日)は日本の画家。油彩画、現代木版画などを描く。
略歴
出生から戦前の活動
1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を努め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。
1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には華族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。東京府下野方町上高田(東京都中野区)に住む。このころより油彩画をはじめ、1930年(昭和5年)には耳野卯三郎から指導を受けている。
1932年(昭和8年)3月に旧制中学を卒業し、同年4月には文化学院美術科へ入学する。このころには公募展へも作品を出展し、白日会第9回展に油彩画の作品<雑木林>が入選し、光風会第19回展では油彩画<上り道>、日本水彩画会第19会展に水彩画<アネモネ>(東京藝術大学所蔵)が入選している。
1933年(昭和8年)4月に東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)油絵科へ入学する。東美時代は授業で木版画や銅版画とも接している。在学中は両親の理解や姉夫婦の援助を受け、西洋美術の画集や文献を収集し、セザンヌなど近代美術を好みつつ、16世紀まで遡り西洋美術を研究したという。この年には白日会第10回展に油彩画<風景>、光風会第20回展に油彩画<南天畑>が入選しているが、これ以降は学校の校則により公募展出展が禁止されたため、公募展への出展は行っていない。
1934年(昭和9年)には東京美術学校油画科本科へ進み、南薫造の指導を受ける。本科時代には後の洋画家・長谷川利行とも知り合っている。1938年(昭和13年)3月に東京美術学校油画科本科を卒業する。卒業制作は<自画像>で、多くの初期油彩画が戦災で失われているなか現存しており、同年制作のアカデミックな雰囲気において、鋭い眼差しを向ける詰襟姿の青年として自身を描いている。
この年には父が死去し、同年4月には浮世絵の複製を手がけていた高見沢木版社に入社し、企画部を担当し主に図版の出版や職人のマネージメントに携わった。セザンヌやマティスらの画集刊行に携わり、浮世絵についても理解を深める。同年11月には結婚する。
1943年(昭和18年)6月には召集を受けて高見沢出版社を退社し、陸軍東部第17部隊に入隊する。短期間で除隊となる。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では自宅のアトリエが初期作品や蒐集品とともに焼失する。
療養生活と版画制作の開始
戦後は生活のために勤めることはせず、極貧生活のなかで制作活動に励んだ。この時期の作品は美術学校で学んだアカデミックな雰囲気を持つ写実的な作風で、1951年(昭和26年)には銀座の資生堂で油絵作品の個展を開催し、油彩画の他に銅版画も手がけていた。
1953年(昭和28年)5月には肺結核に倒れて救世軍杉並療養所に入所し、3年間の療養生活を余儀なくされる。療養中には療養所の患者同士で絵を描き、それを回覧する「ピノチオ会」の活動を行った。素描や水彩画を制作しているが、画題は風景や花など身近なものや身近な人物の肖像などが多くなり、色彩も原色傾向に移り抽象傾向に傾いていく。また知人から聖書を送られ、同年制作のパステル画<聖書に関する物語の十二の試>など、キリスト教の影響も受けた作品も多い。
療養初年度には、友人への年賀状に高見沢木版社時代に学んだ木版画の技法で<牛>を制作する。これを機に木版画制作をはじめる。萩原は1956年(昭和31年)1月に退院するまで、約70点も木版画を制作している。療養中に作成した連作<二十世紀>11点は、退院後に銀座の養清堂画廊で開かれた個展において出展された。<二十世紀>に関しては萩原自身の証言は見られないものの、西洋美術の神話・宗教的なモチーフが描かれ、怪物に食べられる人間や骸骨なども描かれており、長坂光彦は1988年に刊行された目録のなかで、「戦争」や「文化」など人間の愚行を告発した作品と評している。なお、早川ニ三郎は<二十世紀>に関して、萩原が退院して療養生活から開放された精神的自由を表現したと評しているが、太田智子は製作年が療養中の1955年(昭和30年)であることから、これを否定している。
退院後の制作活動
萩原は本来平面的な木版画に油絵の持つ色彩の深さを加えることを目標とし、空摺りなど伝統的な技法を守りつつも、板目木板を刀で彫るという基本的な木版画の技法を捨て、版木に建築資材の端材や朽木、ベニヤの木片などを用い、それらを鋸で切断し接着することで木目の方向を克服し、オブジェ的に版を構成し木版凹版を開発した。また高見澤出版社時代に接した浮世絵の技法を応用し、和紙を湿らせることで紙に含まれる滲み止め薬のドーサの働きを弱め、浸透性の高い染料を針金を巻いた独特なバレンで摺るこよによって裏側からも摺る「両面摺り」の技法を開発した。
このため、萩原の作品は偶然性による滲みの具合に左右され、一点一点が微妙に異なるモノグラフ(一点制作)の版画となっている。萩原は「幻想」シリーズや「石の花」シリーズにより抽象版画家としての地位を築き、1960年(昭和35年)には第二回東京国際版画ビエンナーレで「石の花」シリーズが神奈川県近代美術館賞、1962年にはルガノ国際版画ビエンナーレで「白の幻想」がグランプリを受賞した。1979年から1990年まで日本版画協会理事長を務める。1986年には野口賞を受賞。1988年にはノーベル文学賞を受賞した川端康成の記念品を製作する。
<三十六富士>の制作から晩年
1981年(昭和56年)から1986年(昭和61年)には故郷である山梨県から見える富士山を題材とした連作<三十六富士>の制作に取り組む。『美の遍路』に拠れば萩原は療養所を退所して5年前後に着想したと述懐しており、制作に際しては各地を取材している。萩原は高見沢木版社時代に浮世絵に親しんでおり、<三十六富士>は葛飾北斎の<富嶽三十六景>に学んでいる。
北斎が風景のみならず人々の生活や生業を題材としているのに対し、萩原は人間の営みを描かず、純粋に富士の見える風景を題材に、季節や大気の変化を表現している。また、すべての作品に雲母(きら)を使用し、富士の冠雪を「きめこみ(空摺り)」は表現しており、さらに絵具が不均一になるように版木におがくずを固定したり、ニスを塗布するなどの技法を用いている。<三十六富士>は多くが山梨県側から見た富士であるが、一部に静岡県・神奈川県側から見た風景も含まれている。<三十六富士>は富士北麓の富士五湖周辺や朝霧高原から見た富士が多く、北杜市高根町の清里高原や、遠くは東京都新宿区の新宿副都心のビルの谷間から見た富士や、中央自動車道の八王子付近から見た富士なども描いている。
萩原は<三十六富士>以降も富士図に取り組み、1991年(平成3年)から1992年(平成4年)、1998年(平成10年)には<拾遺富士(こぼれふじ)>、1990年から1998年には<大富士>を制作している。1996年(平成8年)9月には著書『美の遍路』を刊行する。
2000年(平成12年)、自らの作品と蒐集品(萩原秀雄コレクション)を山梨県立美術館に寄贈している。2007年に死去、94歳。
木版画以外の作品と評価
油彩や木版画のほか、ガラス絵、パステルやグワッシュ、コラージュなどあらゆる平面の表現媒体に取り組んでおり、墨彩画や書、陶芸も行っている。「ギリシャ神話」「イソップ物語」など木版画のシリーズ作品もある。
近代日本の木版画においては恩地孝四郎や一木会に属する作家が抽象表現を行なっているが、萩原は恩地とは接点をもたない作家として評されている。
萩原秀雄コレクション
萩原は生涯にわたり様々な美術作品や民俗資料を収集している。内容は主に学生時代から親しんでいたパブロ・ピカソ、シャガール、ルオー、レジェなど20世紀の西洋美術や、日本の古美術、中国の古代美術、アフリカやアジア、中南米などの造形物など。
個別資料の入手時期は不明であるが、収集した資料と萩原作品との共通性が見られ、収集資料が創作に結びついていたと考えられており、一例としてルオー作品の黒く太い輪郭線と療養時代に描いたキリストを題材とした作品群との共通性が指摘される。また、シャガール作品ではイソップ物語を題材とした『寓話』や『出エジプト記』が含まれており、萩原作品と題材が共通するほか、シャガールのエッチングとの共通性も指摘される。さらに、日本や中国の古代美術の抽象性や色彩も萩原作品のそれとの共通性が指摘される。
2001年には山梨県立美術館に寄贈された。
深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 – )は、山梨県出身の版画家。多摩美術大学名誉教授。深澤幸雄と表記されることもある。銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における銅版画の第一人者のひとりとされている。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画の創作も行なっている。
初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。東京国際版画ビエンナーレ、ルガノ国際版画ビエンナーレ(スイス)、聖ジェームス協会日本現代版画展(アメリカ)、サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル)などで展覧会が開催された。
経歴
アトリエで制作中の深沢
出生から東京大空襲における負傷
1924年(大正13年)7月1日、山梨県南巨摩郡増穂町平林(現・富士川町平林)に生まれる。幸雄は深沢家の次男。父親が朝鮮総督府の官吏であったため、生後すぐに朝鮮半島に渡った。
1931年(昭和6年)に忠北堤川郡立小学校へ入学、1937年(昭和12年)に忠南大田中学校へ入学し、中学時代までを日本統治下の朝鮮・堤川(現在の大韓民国・忠清北道堤川市)で過ごす。中学時代には友人の家で『世界美術全集』を目にし、美術教師の影響を受け油彩画をはじめる。さらに大田市の鶏竜山窯を見学し、陶芸にも関心を持ったという。
1942年(昭和17年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学するが、父親の条件で油彩画ではなく工芸科彫金部予科を先行する。美術学校時代は葛飾区堀切に下宿し、デッサンに専念する。西洋の画家ではムンクやゴッホ、レンブラント、日本人の画家では中川一政の水墨画に傾倒していたという。1949年(昭和24年)に彫金部を卒業した。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では駒込において被災し、右膝を負傷する。翌年4月6日には山梨県甲府市の第63部隊に入隊し、重機関銃中隊に配属される。同年8月の終戦後は復学し、石井鶴三の指導によりデッサンに専念する。1947年(昭和22年)には詩人の川路柳虹の仲介で学生結婚する。
メキシコ来訪と作風の変化
1951年(昭和26年)から10数年は不自由な生活を強いられ、このことがきっかけで肉体的に負担が大きい油絵からサイズの小さい銅版画の世界に入った。
4歳年上の駒井哲郎や7歳年上の浜田知明の作品に影響を受け、1954年(昭和29年)から銅版画を独学で学ぶと、1957年(昭和32年)には日本版画協会展で協会賞を受賞し、1958年(昭和33年)には版画部春陽会賞を受賞した。1962年(昭和37年)には第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞した。
1963年(昭和38年)には、外務省所属のOPIC機関であるメキシコ国際文化振興会に銅版画技法の指導を依頼され、3ヶ月間の間、メキシコシティへ赴く。メキシコはそれまで木版画が中心であり、深沢はサン・イポリット尼僧附属修道院において銅版画の講義・実演を行い、学生の中にはメキシコ大学サン・カルロス美術学部教授であったルイス・ニシザワも加わっていた。
深沢はメキシコ来訪中にテオティ・ワカンのピラミッドやヴィエルモッサ、サンクリストーバル、オァハカ、モンテ・アルバンなど各地の遺跡を訪れ、メキシコの歴史・風土から受けたイメージをスケッチブックに詩として記録した。作品はそれまでのモノクローム中心であったのに対し、形状が単純化され、文字や記号・紋章などが描かれ、鮮やかな色彩が加わった作風の変化が指摘される。1967年の《闖入者》では朱色でメキシコを現し、その中にコルテスを意味する青色とキリスト教を意味する十字架を描き加え、メキシの歴史解釈をイメージした作品も制作した。
1994年(平成6年)にはメキシコの文化勲章であるアギラ・アステカを受章している。1972年(昭和47年)には第2回フィレンツェ国際版画ビエンナーレでバンコ・デ・ローマ賞を受賞した。
さらなる作風の変化
1980年代には作風が変化し、1982年(昭和57年)に刊行したアルチュール・ランボーの詩集『酔いどれ船』の詩画集においてメゾチントを用いた作品を発表する。メゾチントはベルソーを用いて版全体に傷をつけ、溝にインクを詰めて独特の質感の黒の階調を表現する手法で労力を要するが、深沢は1981年に独自に電動ベルソーを開発し、大型のメゾチント作品の制作を可能にした。また、深沢はメゾチント作品に多版多色刷りによる色彩を加えた作品を制作している。
深沢は銅版画以外にも陶芸や書、書とパステル画を組み合わせた作品やガラス絵なども手がけている。中学時代に朝鮮の陶磁器工房を訪れ、手仕事に関心を持ったという。
1981年(昭和56年)には『深沢幸雄銅版画全作品集』が刊行され、1991年(平成3年)には郷里の山梨県立美術館で回顧展が開催された。1986年(昭和61年)には多摩美術大学の教授に就任し、1995年(平成7年)まで教授職にあった。多摩美術大学のほかには福岡学芸大学(非常勤講師)や武蔵野美術学園(非常勤講師)でも教鞭をとっている。
1987年(昭和62年)には紫綬褒章を受章し、1991年(平成3年)から1994年には日本版画協会の理事長の座にあった。1992年(平成4年)には山梨県文化功労賞を受賞し、1995年(平成7年)には勲四等旭日小綬章を受章し、2002年(平成14年)には日本版画協会名誉会員に推挙される。2013年(平成25年)には、阿部出版の雑誌「版画芸術」での連載を基にした『現代版画の視点―深澤幸雄の版画対談』が刊行された。
1991年には山梨県立美術館で「深沢幸雄展 銅板に刻む魅惑の詩」が開催される。
2006年(平成18年)には版画やガラス絵、書画、パステル画、陶磁器、民族衣装などコレクション含めた約400点の作品を、山梨県南アルプス市の春仙美術館に寄贈する。2007年1月13日から3月25日には、同館で「深沢幸雄の全貌」展が開催された。2007年(平成19年)には市原市水と彫刻の丘でも「深沢幸雄展」が開催された。
同じく、2007年(平成19年)には深沢の銅版画690点を中心に、深沢の収集した他の銅版画家の作品や中南米の民俗資料など1800点が山梨県立美術館に寄贈され、同年10月27日から12月9日には同館において、このうち160点あまりの深沢作品とコレクションを紹介した企画展「深沢幸雄展-いのちの根源を謳う-」が開催された。2014年(平成26年)1月18日から3月2日には千葉県市原市の市原湖畔美術館(旧市原市水と彫刻の丘)において「深沢幸雄-銅版が奏でる詩-」が開催された。
河内 成幸(かわち せいこう(本名は同字でしげゆき)、1948年 – )は、日本の版画家。日本美術家連盟版画部委員。名古屋造形大学客員教授。妻の河内美榮子も版画家。
略歴
山梨県上野原町(現在の同県上野原市)に生まれる。
多摩美術大学在学中の1970年に、第38回日本版画協会展で新人賞を受賞した。1973年同大学油画科卒業。
卒業後も、1976年の第44回日本版画協会展で最優秀賞、1979年の第10回版画グラン・プリ展でグラン・プリ、1982年の第6回ノルウェー国際版画ビエンナーレ展で最優秀賞を受賞するなど活躍し、1985年から文化庁の芸術家在外研修員としてニューヨークに派遣された。コロンビア大学大学院で学んだ後、ヨーロッパを遊学して1986年に帰国した。
2001年から、台湾芸術大学特別講師、台北芸術大学客員教授、中国美術学院特別講師等を歴任。2007年から名古屋造形大学の客員教授を務めている。
2011年6月、紫綬褒章を受章。
進藤 章(しんどうあきら、1900年(明治33年)4月12日 – 1976年(昭和51年)5月18日) は、日本の画家、油彩画、日本画などを描く。
人物
1900年(明治33年)4月12日、父善次郎と母たいの7人兄弟の長男として山梨県北都留郡小淵沢村上久保(現・山梨県北杜市小淵沢町上久保)に生まれる。小淵沢小学校、大泉高等科3年を経て山梨師範学校(現・山梨大学)に学ぶ。
卒業後、日野春、小淵沢、甲府富士川小学校に訓導として勤め、当時文壇を風靡した武者小路実篤らの白樺運動の影響を受け、地方文化の活動、ことに画道に専心した。また山梨師範学校の先輩でもあった土屋義郎氏の紹介により岸田劉生の草土社に属し、木村荘八の指導を受けた。
1919年(大正8年)歌人の喜与子と見合い結婚し、1927年(昭和2年)夫婦で上京して、章は四谷第一小学校に勤務したが、途中で絵の勉強がしたくなって古典美術協会に入所、「根本からはじめたい」といって教師を辞めた。ここで4ヶ年間古典技法の研究をし、大調和展、古典美術協会展に作品の発表をつづけた。
1929年(昭和4年)「岸田劉生画伯遂に徳山に逝く」など当時の美術界の動きを美術日記に残している。また「私の絵には詩があると人はいう。絵に文学的要素が邪道のようにいった時代があったが、造形に詩的なものがあっても邪道とは考えたくない。心のおもむくままに描きたいのである。今の仕事は草土社でも古典協会でもない。けれども劉生画論の中に出てくる『唯心境』、色も形も超えて内から滲み出す精神とか、そういうものがなければ人の心を打つわけにはゆかないだろうし、作風はまるきり変わっても、その意味では草土社精神が終生を貫くだろう。これから私の絵は次第に明るさと鮮明度を増すことだろうし、身についた東洋趣味、日本趣味が油彩の新日本画になることも事実。静物を描いても静物的風景になりつつあることも事実だろう」と。中川紀元氏は「進藤さんの絵は色彩の音楽である」と評している。1933年(昭和8年)東京日動画廊で「山岳個展」を開き、作品45点を発表。以後毎年、銀座三昧堂、菊屋画廊で個展を開催しながら画業への情熱に生きた。
1939年(昭和14年)在京の数人と「菁々会」を結成して会長となり、同年11月に第1回展を銀座三昧堂で開催しその後毎年開催したが、特に第3回展は初日が1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争(大東亜戦争)の翌日であったのにも拘らず、戦況を冷静に見極め熟慮した上で開催を断行したのであった。その時の様子は次ぎの様に記されている。即ち「8日早暁米、英両国に対し戦争状態に入る。6時のニュースに続く号外の飛報。帝都はにわかに緊張の極。やがて大詔渙発、宣戦布告となる。午後より防空実施下令とはいえ夜に入り空は晴れ、月高くかがやけど市民は必要以上に燈火官制を実施し全く暗黒なり。明日より開会の第3回展のどうなる事かと疑いつつも既に腹を決め、暗がりの街に絵を運ぶ。いささか悲壮でもある。明くれば雨、雨ひどく降り続けど相次ぐ勝報に国民の心明るく人皆の心は戦いに共の耳をうばわれたり。皇国三千年の歴史の先端に大きくも勃発した民族の戦い、大東亜戦争と共に吾が菁々会第三回展は記念すべくも開かれたり。12月17日夜、章記す」と。しかし戦争も次第に苛烈になり第6回展を1944年(昭和19年)10月、銀座・菊屋画廊での3日間のみの開催をもって中止のやむなきに至る.しかし1969年(昭和44年)11月、生き残った3人(進藤章・葛西康・川原井正)で第7回菁々会展を銀座・月光荘画廊で開催し、その後場所を変えながら晩年まで継続した。
終戦の年の1945年(昭和20年)故郷の小淵沢村に帰り、翌1946年(昭和21年)山梨美術協会展、県芸術祭展に出品、画道専念を意図したが、1947年(昭和22年)郷里の青年団有志の情熱に押されて公選の初代村長となり、1949年(昭和24年)歌聖若山牧水がこの地を来遊した1923年(大正12年)の秋、諷詠した一作「甲斐の国こぶちさわあたりの高原の秋すゑつかたの雲のよろしさ」は作者自身の真筆であり、これを文化事業の一環として、村当局をはじめ、山脈短歌会のものが、村内有志の方がたのご厚意を得て歌碑を刻み小淵沢西小学校(現・小淵沢町総合スポーツセンター)の校庭につづく丘、雑木林の中に建立したが、その後現在地「生涯学習センターこぶちさわ」に移された。尚、この年(昭和24年)11月13日の除幕式に招かれた喜志子夫人も「数多い碑の中に自筆の歌碑は少なく、中でも優れている方だ」との言葉があり、進藤も「恐らく最高に近いのではなかろうか」と評している。また除幕式に招かれた夫人は駅前の「いとや旅館」の往年牧水が泊まった部屋で一夜を過ごし、次の夜、進藤宅の天井に雨漏りのしみのあるその奥座敷で泊められた時に詠んだ「はに鈴のほろろこほろぎよもすがら枕のあたりにて鳴く」も石碑に刻まれ1990年(平成元年)11月18日に小淵沢町がふるさと創生事業の一環として、牧水の歌碑の左隣に建立した。この除幕式には息子である旅人氏から次のような祝歌が寄せられた。 「甲斐駒を 仰ぎ見せむと 町びとの思ひは凝りて ここに母の碑」。
さて進藤は村長を1期4年間引き受け、北巨摩郡町村会長、県町村会教育委員会副会長等政治界に身をおいた。しかし、人間形成に芸術の尊さを痛感し、1948 年(昭和23年)その地方的なきめ細かい歩みを意図して「峡北美術協会」を設立、以後会長として28年間、後進の指導と激励を続けた。
1951年(昭和26年)甲府中込百貨店で個展を開催した。一方、画業のみならず広く地方文化の進展のために1952年(昭和27年)には県立図書館協議会副会長、また1954年(昭和29年)には小淵沢財産区議会議長、人権擁護委員、行政相談委員等社会奉仕にも献身し、大阪朝日新聞厚生事業団主催の「日本名作家展」にも例年寄贈出品をつづけた。 その間、菁々会長、峡北美術協会長のほか山梨美術協会副会長、同協会相談役をながくつとめ、山梨美術の興隆に意をそそいだ。
1976年(昭和51年)5月18日 永眠 享年76
1976年(昭和51年)6月、甲府県民会館地下画廊で峡北美術協会主催による「進藤章遺作展」が開催され、更に同年10月「追悼進藤章第12回菁々会展」が銀座ゑり円画廊で開催された。
1979年(昭和54年)11月3日、山梨県立美術館の落成開館に当たり「蓮池」ほか2点が同館収蔵作品として展示された。
高森 龍夫(たかもり たつお、1900年9月14日 – 1958年5月12日)は、編集者、挿絵画家。雅号は「猟夫(れお)」「夜江」。漫画原作者の梶原一騎(本名・高森朝樹)は長男、同じく漫画原作者の真樹日佐夫(本名・高森真土)は次男。
経歴
熊本県立中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)で英語の教鞭を執っていた父・高森貞太郎と、藩主細川家に仕えた林氏の長女・寿の間の七人兄弟(六男一女)の長男として兵庫県に生まれる。
青山学院卒業後、山梨県都留町の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事等に従事し、太宰治の担当編集者となる。その後、改造社に入社し『俳句研究』の編集長などを務めた。戦後、青山虎之介が創業した新生社に入社、同社発行の雑誌『花』、『新生』の編集長を歴任し、谷崎潤一郎、吉川英治などの担当をした。
長男の高森朝樹(梶原一騎)によれば、大変な酒好きであり「酒豪なんてものじゃなく酒仙だった」と語っている。その上、酒癖が非常に悪かった酒乱の梶原と違いいくら飲んでも乱れる事がない真の酒飲みであった。しかし、酒の飲み過ぎで祟って胃癌のため死去、享年57。臨終の際に、当時まだ22歳だった梶原に遺した遺言は「若い身空で、大変だろうがよしなに」というものであった。
『巨人の星』の登場人物である星一徹は、梶原一騎夫人の高森篤子も語っているように龍夫がモデルとされるが、実際の龍夫は自己主張が強いわりには控えめで飄々とした性格で、放任主義であまり息子たちの教育に首を突っ込まない故に叱ることがなく、一徹とは正反対の人物だったという。
妹の高森ゆか里(梶原一騎、真樹日佐夫の叔母)は、兄・龍夫の事を「反骨心が旺盛で、上から押さえつけられることが大嫌いな自由人でした」と評している。
高山 良策(たかやま りょうさく、1917年3月11日 – 1982年7月27日)は山梨県西桂町出身の画家、怪獣などのぬいぐるみ(着ぐるみ)、造形物製作者。特に初期のウルトラシリーズでの、成田亨デザインによる怪獣造形は評価されており、「怪獣の父」と呼ばれる。
兄は日本画家の高山無双。
略歴
1917年(大正6年)3月11日、山梨県西桂村の大工の次男に生まれる。のちに日本画家になる兄の影響で、幼少期から絵に親しみ、画家を志す。
1931年(昭和6年)、14歳。家が貧しかったため単身上京。製本工場に勤務しながら、独学で絵を学ぶ。画集を買う余裕もなかったため、丸善などの書店に行き、画集を立ち読みして様々な絵を見たという。
1938年(昭和13年)、21歳。陸軍に徴兵され、中国戦線に渡るが、苛烈な最前線にもかかわらず、紙切れまでも利用して、軍隊での生活を題材に、鉛筆や水彩による多くのスケッチを描いた。
1940年(昭和15年)、23歳。退役して帰国後、田辺製薬図案部に就職。また、本郷にあった福沢一郎の絵画研究所で学ぶ。福沢は当時、シュルレアリスム絵画を描いており、その影響をうける。
1943年(昭和18年)、26歳。太平洋戦争がはじまると、同僚の黒田龍雄(のちに、快獣ブースカをデザインした)とともに田辺製薬を退社し、東宝航空研究資料室に入社。国策映画の特撮用のミニチュアを製作する。多くの美術家が集まっており、山下菊二、難波田龍起らを知る。
1945年(昭和20年)、28歳。戦争末期の3月、貧困だがエネルギーあふれる画家たちが集まっていた「池袋モンパルナス」のアトリエつき住宅に転居。
1946年(昭和21年)、29歳。山下菊二、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。同年利子夫人と結婚。東宝では、スタッフ・俳優のほとんどが参加した一大労働闘争「東宝争議」が始まり、高山も共産党に入党する。争議中には、組合の命令で同僚の鷺巣富雄、山下菊二、山本常一らと街頭で似顔絵描きもさせられた。
1950年(昭和25年)、33歳。共産党を離党。
1951年(昭和26年)、34歳。東宝を退社。以後は、フリーの立場で、特撮・造形関係の様々な仕事をする。
1953年(昭和28年)、36歳。日教組プロが製作した映画『ひろしま』のセットデザインをてがける。
1954年(昭和29年)12月、37歳。子ども向け雑誌『よいこのくに』(1954年12月号、学研)の「おめでとう くりすます」のページでは、人形制作・構成の川本喜八郎のもとで、装置を担当した。
1958年(昭和33年)、41歳、人形劇映画『注文の多い料理店』(学研人形部)で人形操作を担当、
1959年(昭和34年)、42歳。飯沢匡の人形アニメーション映画『ポロンギター』(26分・16mm・カラー、学習研究社)の人形制作を佐々木章、加藤清治とともに担当。また、練馬区に転居し、引越しが5月だったことからそのアトリエを「アトリエ・メイ」と名づける。このアトリエ名は、のちに「怪獣制作工房」名として有名になった。
1961年(昭和36年)、44歳。大映の超大作映画『釈迦』の特撮用セットを作る。のちの『大魔神』にも繋がる、神像崩壊シーンの特撮も手がける。
1962年(昭和37年)、45歳。『鯨神』で、大橋史典と交代し鯨神(セミ鯨)の撮影用ミニチュアを制作。
1963年(昭和38年)、46歳。大映初の怪獣、『大群獣ネズラ』のネズラを作るが不評だった。のち撮影は中断され、企画自体が幻に終わった。
1964年(昭和39年)、47歳。「よみうりランド」の水中ショー用の精巧なウミガメの作り物を製作。
1965年(昭和40年)、48歳。上記のウミガメの作り物に円谷英二が目を留め、彫刻家成田亨の紹介により円谷プロダクション製作の『ウルトラQ』に参加。製作第14話より怪獣・宇宙人の着ぐるみ製作を担当。成田の秀逸なデザインもあり、現在でも、強烈な印象を与える造形となる。
1966年(昭和41年)、49歳。京都に3か月間出向し、大映映画『大魔神』の大魔神造形を担当。等身大、実物大の大魔神も製作。ラストで崩れ落ちる大魔神のミニチュアにおいては、素材選びに苦労しながらも見事な効果を上げた。
この崩壊シーンでは、魔神像がうまく崩れず、かなり悩まされている。利子夫人によると、『ウルトラマン』の制作を始めた円谷プロから、東京の自宅に「早く戻って欲しい」と催促の電話が何度もあったが、「この撮影を見届けるまでは帰れない」として、京都の現場に残っていたという。
これにさきがけ、京都と東京を往復する多忙な日程の中、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』のバルゴンも製作しているが、結局その表面仕上げはエキスプロに任せている。
1967年(昭和42年)、50歳。『ウルトラマン』に続いて『ウルトラセブン』にも参加し、ほとんどの怪獣の造形を担当。「毎週の怪獣造形」という過酷なスケジュールの中、独特の存在感のあふれる怪獣を作り続ける。週1回放送というテレビ番組の厳しいスケジュールから、『ウルトラマン』の怪獣の3分の1は過去の怪獣の改造による使いまわしであったが、成田のデザインと高山の造形はそのハンデを感じさせないものであった。
同年、ピー・プロが特撮を担当した『神州天馬侠』で大ワシのクロを制作、『怪獣王子』の恐竜をデザイン・制作。うち数体は、番組打ち切りのため制作したもののお蔵入りとなってしまう。主役のネッシーは、大橋史典が制作したものが重厚すぎて使えず、開米栄三と協力して手直しを担当。また、これとは別に小ぶりのネッシーを制作している。
ピープロではこのほか、同社のパイロット作品『ゴケミドロ』の、宇宙怪物ゴケミドロ、同じくパイロット作品の『豹マン』のヒーロー「豹マン」を、ゴムマスクタイプと植毛タイプの2種類制作した。この時期、折からの怪獣ブームの中、「怪獣を作る男」としてマスコミに大きくとりあげられ、話題となる。
1968年(昭和43年)、51歳。『ウルトラセブン』の途中で、成田が怪獣デザインを中途降板した後は、池谷仙克とコンビを組み、さらに名怪獣を作りつづける。『マイティジャック』では敵組織Qの「レイブン」などの超兵器、『戦え! マイティジャック』ではゲスト怪獣の造形に参加。
1971年(昭和46年)、54歳。「第二次怪獣ブーム」の火付け役となった『宇宙猿人ゴリ』で、再び盟友うしおそうじのもと、ゴリ博士ら猿人のマスクや、おどろおどろとした「公害怪獣」を製作した。ゴリ博士の紫を基調にしたスーツは、高山のデザインによる。利子夫人によると、『宇宙猿人ゴリ』の番組名について、「悪役が番組の題名になるなんて面白いな」と語っていたそうである。
同作品には、高山の個人作品「かなぶんおやぶん」がゲストの怪獣キャラクター(コンピューター怪獣)として使用されている。また、当作では怪獣「クルマニクラス」のデザインの手直しをしたり、「モグネチュードン」のデザインを手がけてもいる。
同年、『帰ってきたウルトラマン』の怪獣数体を担当。開米プロダクションの開米栄三社長は、同作品で怪獣造型を引き継いだということで、高山の元を挨拶に訪ねたそうである。また、『シルバー仮面』の全宇宙人・怪獣の造形を担当した。
1972年(昭和47年)、55歳。『快傑ライオン丸』を担当。「豹マン」に続いての毛やヒゲの多い「ライオン丸」の造形も見事であり、また、ライバル役「タイガージョー」も人気を集めたことで、以後もピー・プロにおける「猫系ヒーロー」を任されることになった。
また、円谷プロ初の劇場オリジナル映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』の怪獣造形を担当。ほかにも同時期の『アイアンキング』を手がける傍ら、『突撃!ヒューマン』では再び成田亨と組んで怪獣を造型(「ジャイロック」のみ)するなど、第一次ブームにも増して多忙な制作スケジュールをこなす。
1973年(昭和48年)、56歳。1月から放送開始の『ファイヤーマン』における大半の怪獣造形を担当する一方で、『風雲ライオン丸』にも参加。『ファイヤーマン』の終了直後には、『スーパーロボット レッドバロン』へスライド参加し、敵ロボットの半分を手がける。
1974年(昭和49年)、57歳。『鉄人タイガーセブン』や『電人ザボーガー』のほか、寺山修司の前衛映画『田園に死す』の不気味なギミック「空気女」を製作。
1975年(昭和50年)、58歳。『冒険ロックバット』の造形(「ドラダヌギー」のみ)を担当。
1976年(昭和51年)、59歳。『恐竜探検隊ボーンフリー』のティラノサウルス(モデルアニメ用の人形及び手踊りギニョール)のみ造型。
1979年(昭和54年)、62歳。日仏合作として企画されたがパイロット版のみで終わった『シルバージャガー』を最後に怪獣造形の世界から離れ、シュルレアリスムに立脚した土俗的な絵画作品を描く。
1982年7月27日、肝臓癌のため、65歳の若さで死去。入院先の病院では、輸血の提供に、数多くの高山怪獣のファンが名乗りを上げた。
死去の半年前に、雑誌の依頼を受けて30cmサイズの怪獣のミニチュア7体(レッドキング、ガラモン、ペギラ、ラゴン、カネゴン、ケムール人、ギエロン星獣)を製作している。妻がその理由を聞くと「残るものは、同じだから」と答えたという。
2001年(平成13年)、練馬区立美術館で、学芸員の土方明司の企画により「高山良策の世界展」が開催される。
人物
高山の妻・利子は結婚後すぐにカリエスを罹病し、長きに渡り入院生活となるが、高山は献身的に妻を介護し、全快にまで至らしめた。のちの怪獣着ぐるみ製作の際には、怪獣の装飾品、部品の選定調達といった原材料購入を手伝うなど、利子は高山の仕事上でもパートナー的存在となった。夫婦には子供はおらず、うしおそうじは、高山はこれを転機として子供向けの仕事に向かってくれた、と述懐している。戦後間もない頃からの盟友であるうしおとの付き合いは家族ぐるみのもので、第二次怪獣ブーム後も、怪獣造型の依頼があれば必ずピー・プロを通して請けていた。
癌で入院した際には本人告知はされず、「あと二月」と利子夫人に伝えられたうしおは、入院先を見舞った際の高山の、「鷺巣さん(うしおの本名)、とうとう65歳になったから、入院費がタダなんですよ」「トイレはハンガーで点滴ぶら下げていくんですよ」などと、ニコニコと子供のように話す姿が印象的だったと偲んでいる。
高山の工房で怪獣製作を手伝う、美大生のアシスタントたちには「これは、生き物を作っているのだからそのつもりで」と指示していたという。高山は、報酬の大小で手を抜くことはなかった。
アトリエ・メイは二階建て住居で、一階を造形用の工房、二階を絵画用のアトリエにしていた。昼間、階下で怪獣などの造形作業をした後、夜は二階で油絵を描いていた。また、怪獣造形で多忙な中でも、欠かさず絵や彫刻作品の制作を続け、毎日寝る前にデッサンをしていた。また、一階と二階をきちんと分け、一階にデッサンを持ち込むことはしなかった。油絵『飛んでけ!』は、日仏現代美術展で二等入選している。
高山が製作した怪獣たち
高山の作る怪獣は、スピーディーな動きを求められるテレビ番組での撮影を前提に、「動きやすさ、軽さ、安全さ」を第一に考えて作られていた。素材も軟らかく軽いものを選び、演技者が着脱しやすいよう内部取っ手などを内蔵し、また予算を考え、口やマブタの開閉ギミックは、内部演技者が紐を引っ張って行うものを考案し、これらの仕掛けを「ヒモコン」と命名していた。
高山の怪獣は、近年の怪獣造型と違い、内部演技者と怪獣の表皮との間の隙間が大きく、独特の皺やたるみが特徴である。これも軽さと動きやすさを考慮してのことである。『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』や『ウルトラマン』の撮影では、バルゴンやベムラーが水に沈まず、ハサミで表皮を切り裂いて水を中に入れてやっと沈めた、というエピソードが残っている。
また、過密なテレビ制作のスケジュールにもかかわらず、全身を粘土原型から起こして型取りしたものも多く、全て併せてこのやさしく温かみのある高山の怪獣は、まさに「ぬいぐるみ」というべきものであった。(高山自身も造形者としてこれらを「縫いぐるみ」と記述している) この「第一次怪獣ブーム」では、アトラクションショー用の怪獣も多く手がけた。
『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』で高山怪獣の何体かを演じた中島春雄は、高山の怪獣について、「軽すぎて、少し物足りない」と感想を述べている。利子夫人によると、成田亨はこれに対し、「僕らは中の役者を考えて軽く作っているんだからこれでいいんだよ」と高山を慰めたという。
東宝の造形スタッフ安丸信行によれば1967年、高山は東宝から『キングコングの逆襲』のゴロザウルスの造形を依頼されているが、作りの軽さに不満をもった安丸の意見で、中途で破談となったという。だがこれらのエピソードは、重厚さを要求される映画の現場と、先にも述べたように軽快さを求められるテレビの現場との要求の違いを単に示したものに過ぎない。
『怪獣王子』で特撮監督を務めた小嶋伸介は高山について、「ぬいぐるみの納品後は『じゃあよろしく、修繕はやりますけど、後は生かすも殺すも小嶋さん次第ですから』という姿勢で、とても仕事がしやすかった」と振り返り、デザイナーの意思を尊重しながら「動きやすいぬいぐるみ」をと工夫を重ねた高山について、「高山さんの存在は、TV特撮界にとって大変に貴重なものだったのではないか」と述べている。
『宇宙猿人ゴリ』では、ゴキブリの怪獣「ゴキノザウルス」のあまりのリアルさに、別所孝治プロデューサーが大喜びし、撮影所そばの屋台のおでんを買いきってスタッフに振舞った、というエピソードが残っている。
高山は第一次怪獣ブームから第二次怪獣ブームを通し、造形日記を欠かさずつけており、現在では当時の制作内容や時代背景までをも含んだ貴重な資料となっている。マスコミの加熱取材振りや、クライアントの無理な要求に対しての不満も吐露されていて、大変興味深いものとなっている。『大魔神』では実物大の腕の造形に四苦八苦し、大映本社の「いつまでそんなものにかかっているんだ」との無神経な言葉に「新粉細工じゃあるまいし、そんな簡単に作れるか」と造型者として憤る姿が見られる。
高山は、怪獣を作る際には必ず内部演技者の採寸をして、身体にフィットした造型を心がけている。一方で「10日に並行して一体」という過密なペースのテレビ怪獣作りには苦労も多かったようである。ロボット怪獣であっても、演技者の安全性を考えて軟らかいゴム素材を使うことが多かった。
『スーパーロボット レッドバロン』のデザイナー野口竜は雑誌『宇宙船』のインタビューで[要文献特定詳細情報]「せっかくかっこよく描いたロボットデザインが、胴長で足の短いぬいぐるみばかりになってがっかりした」などとコメントしている一方、LD-BOXの解説書では「様々な素材を使ってチャレンジしてくれた」とも述べていて、図らずも軟質・硬質の素材の組み合わせでの高山の苦労がよく偲ばれるコメントとなっている。
『ウルトラセブン』では、成田亨が実相寺昭雄監督のスペル星人のデザイン指示に対し、「ポリシーに反する」としてデザインを拒否。成田の口頭での指示をもとに、高山がデザイン画なしで仕上げている。
高山のウルトラ怪獣に対して、近年まで実相寺は「イメージと違いすぎる」として、「ガマクジラ」を「ドラえもんの水浴び」、メトロン星人を「長靴の化け物」などと揶揄し、辛口の評価を下していたが、実相寺は最晩年に雑誌『フィギュア王』のコラムで「フィギュアによるイメージの補填」を機に、「作り物ならではの良さもあるんだな」と考えを改める発言をしている。
高芙蓉(こう ふよう、享保7年3月15日(1722年4月30日) – 天明4年4月26日(1784年6月13日))は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。
苗字の高は出身地の甲斐国「高梨郡」(後述)に因んで自ら名乗ったもので、本来は大嶋である。名は孟彪(もうひゅう)、字を孺皮(じゅひ)、号は芙蓉、その他に三嶽道者、中嶽画史、氷壑山人、富岻山房など。室名は菡萏居(かんたんきょ)。本姓が源であることから、源孟彪と称することもあった。通称を大嶋逸記(いつき)、近藤斎宮(いつき)と称した。
生涯
祖父庄左衛門義之は水戸光圀に土蔵番として仕えたが、勤務中に盗難事件に巻き込まれ職を免ぜられてしまい、甲斐国高梨郡に移った。父の尤軒は長田徳本流の医師であった。芙蓉も一旦は医業の道に進み、二十歳の頃幕医武田長春院の塾に通うが、結局は医業よりも文雅の道を志して京都に遊歴した。
京都では坊城菅公に従い有職故実を習らい、この方面に詳しい藤貞幹や伊勢の中川経雅らと親しく交際した。書を愛し、真蹟、法帖、碑帖などを蒐集し、先人の書について研鑽を積んだ。趙孟頫や文徴明の法帖を模刻している。一方で学問にも励み、独学で中国古典を読破。経学・漢学など幅広く吸収した。この頃、近藤齋宮と称しており衣棚下立売や丸太町油小路に住み、売講や個人教授などをして生計を立てていたらしい。
芙蓉は柳沢淇園や木村蒹葭堂、売茶翁、大典顕常、永田観鵞など多くの文人墨客と交流した。80歳の売茶翁に印三顆を贈っている。池大雅、韓天寿とは終生の友であり、三人は連れ立って白山・立山を経て富士山を巡る旅をしている。この旅を記念して三人それぞれが「三嶽道者」を号したという。
書画を能くし、特に富士山を筆写した「百芙蓉図」は有名である。煎茶道にも造詣が深く、「キビシヤウ」(急焼)を案出したとされる。銅器や玉材、銭貨といった器物の鑑賞家でもあった。
このように多芸博学にして風雅を好んだが、特に篆刻にその才能が開花した。当時、篆刻といえば江戸において榊原篁洲、池永道雲、細井広沢らが名を成していたが、いずれも帰化僧の心越の流れを汲んでいた。この流派は明末清初に中国で隆盛した「飛鴻堂」一派に近く「今体派」と呼ばれる。しかし芙蓉はこの一派に飽き足らず、その頃舶載されて辛うじて見られるようになった古銅印の印影に魅せられる。木村蒹葭堂が入手した明代の篆刻家蘇宣の『蘚氏印略』4巻を範として模刻したり、同じく明の甘暘の『印正』に注解して刊行した。こうして中国歴代の印譜や文献を渉猟して秦・漢にまで遡り淵源を窮め、諸流派を探求しついに日本における印章制度を確立した。知友の皆川淇園や柴野栗山らは芙蓉を印章学の大成者と見做して「印聖」と讚えている。なお漢詩で有名な葛子琴は芙蓉の高弟としても知られ「印賢」と評されている。また愛弟子の曽谷学川(曽之唯)は師の作風とそっくりだったと伝えられる。その他、浜村蔵六・前川虚舟・余延年・藪星池・杜俊民・稲毛屋山・二村楳山・源惟良などの門弟がおり、この一派は「古体派」と呼ばれ、明治初期まで全国に広く波及した。
芙蓉は青木木米の師としても知られる。祇園の芙蓉宅付近に住んでいた木米は芙蓉の居宅に遊ぶうちに、書画や篆刻などを学んだようである。この関係は木米の少年期から18歳になるまで続いた。また山本緑陰にも薫陶を授けている。
天明4年、常陸宍戸藩の松平頼救の招聘に応じて、妻子を連れ立って江戸に赴く。常陸宍戸藩はかつて祖父が仕えた水戸藩の分封であり、芙蓉はこれに縁を感じたためであったとされる。しかし、江戸目白台の藩邸に到着するとすぐに病(傷寒)を得て、数日後に歿した。享年63。小石川無量院に葬られる。後に芝天徳寺に移葬される。また、京都の一心院にも墓碑が存在する。
出生地について
出身地は甲斐「高梨郡」とされるが甲斐四郡(巨摩・山梨・八代・都留)のうちに「高梨郡」は存在せず、近世期の郡名においても見られない。信濃国上高井郡日野村(現・長野県須坂市)との説もあるが、甲府市域の高成か高町とする説、あるいは甲斐市(旧中巨摩郡竜王町)域の名取が有力。
星野 敦(ほしの あつし、Atsushi Hoshino、1953年6月7日 -)は日本の彫刻家・芸術家。
経歴
日蓮宗の総本山、山梨県身延山久遠寺御用達仏師 である、五代目池上秀昇(星野忠雄)の三男として、1953年(昭和28年)6月7日、山梨県甲府市に生まれる。幼少時より木彫り・極彩色・漆・金箔などの技術を父より学ぶ。山梨県立甲府南高等学校理数科卒業。
彫刻の素材はブロンズに留まらず、鉄やコールテン鋼、自然木、ガラスなど多様であり、素材に捕らわれない。 30代半ばから、炸裂する情熱やエネルギーを表現した「情熱発電所」(名前の由来は西武百貨店キャッチコピー 1985 糸井重里)シリーズの制作を開始し、ドローイング、他芸術とのコラボレーションによるパフォーミングアート、即興芸術の活動も行い、「エネルギーの塊と炸裂する情熱」と評される作品だけではなく、パブリックコレクションには癒しを表現した「ヒューマン」シリーズの作品も多い。漆や蒔絵を施した彫刻、レリーフ、ドローイング、絵画、版画、モザイク、絵皿なども手がけ、近年、山梨県産の素材にこだわった作品も発表している。
また、創作活動だけでなく「情熱発電所と造形の秘密」「造形のおもしろさ」などをテーマにした講演活動も行っている。
主な活動
1995年
第18回「日・独金属造形作家展」に招待される。(ドイツ文化会館)
「情熱発電所-107」が国際連合に所蔵され国際連合大学に設置される。
1997年 都営地下鉄大江戸線新宿駅に20メートルの壁画レリーフを設置
1998年
制作活動を追ったドキュメンタリー『情熱発電所』(テレビ朝日映像制作・東京都現代美術館所蔵)が一般公開される。
「山梨の現代作家達展」出展(山梨県立美術館)
2000年 第4回「国際野外金属彫刻大会」に招待制作・高さ7メートルの作品を設置(ドイツ、アイゼンヒュッテンシュタット市)
2005年 2005年日本国際博覧会(愛知万博)において、ヴァイオリニスト佐藤陽子とライブパフォーマンス
2007年 第1回アジア・アート・フェスティバルに 「出展」、中国古筝の姜小青とライブパフォーマンス(横浜赤レンガ倉庫)
2009年 アトリエを山梨県富士吉田市に新設、38年ぶりに活動拠点を故郷山梨とする。
個展
TEPCO銀座館プラスマイナスギャラリー(1989年)
ホンダウエルカムプラザ青山(1989年)
電通アドギャラリー(1989年、築地)
アトリエ西宮(1992年、兵庫県)
三越(1993年、新宿)
光と緑の美術館(1997年、神奈川)
浅川伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17)8月4日 – 1964年(昭和39)1月14日)は朝鮮古陶磁研究者。山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現・北杜市)出身。浅川巧は弟。
活動
山梨県師範学校に学び、県内で小学校教諭となったが、甲府キリスト教会での小宮山清三との出会いから朝鮮王朝の美術に憧れ、1913年(大正2)、韓国併合3年目の朝鮮半島に渡る。当初朝鮮陶磁の「青磁」に惹かれていたが、偶然目にした日常の器「白磁」に魅了され、柳宗悦(思想家・民芸運動創始者)に紹介。これが朝鮮王朝時代の白磁が日本で初めて注目されるきっかけとなる。
1924年(大正13)、日本統治下の京城(現ソウル)に、柳宗悦・弟巧と文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設立。また、朝鮮陶磁の研究のため半島700箇所余の窯跡と日本の窯業を調査し、500年間に及ぶ朝鮮陶磁の歴史をまとめあげた。その方法は、「陶片を読む」という伯教独自の手法だった。陶磁器に対する炯眼から「朝鮮古陶磁の神様」と呼ばれるが、調査・研究に対する姿勢はフィールドを重視する地道な努力の積み重ねによるものである。
62歳で日本に引き揚げた後は、砥部(愛媛県)での指導・作陶、執筆・講演、山梨県芸術祭審査員など研究者としての一生を貫いた。1964年(昭和39)、居住地千葉市で逝去。著書『釜山窯と対州窯』『李朝の陶磁』等。
三一独立運動(1919年)が始まった翌月、小学校教員を辞し彫刻家をめざした。翌年、第2回帝国美術院展覧会で、朝鮮人男性像の彫刻≪木履の人≫が入選する。新聞の入選インタビューに応えて次のように述べている。
朝鮮人(ママ)と内地人(ママ)の親善は政治や政略では駄目だ。矢張り彼の藝術我の藝術で有無相通ずるのでなくては駄目だと思ひました
— 「京城日報」1920年10月13日付け
略歴
1906年(明治39)山梨県師範学校卒。
1913年(大正2)三枝たかよと結婚。朝鮮半島に渡る。
1919年(大正8)朝鮮半島で三・一独立運動が起こり教職を捨て日本に戻る。彫刻家新海竹太郎の内弟子となる。
1920年(大正9)第2回帝国美術院展覧会で彫刻「木履の人」入選。
1922年(大正11)平和博覧会記念美術展で彫刻「平和の人」入選。再び朝鮮半島に戻る。
1924年(大正13)朝鮮民族美術館を京城(現ソウル)景福宮内に設立。
1930年(昭和5)朝鮮陶磁器を調査し「釜山窯と対州窯」にまとめ発表。
1946(昭和21)自ら集めた朝鮮古陶の陶片30箱、工芸品3000余点、朝鮮民族美術館収集資料を整理して、朝鮮半島の関連機関に収蔵を申し出て納め、日本に帰国
能穴焼
印章(いんしょう、英語: seal)は、木、竹、石、角、象牙、金属、合成樹脂などを素材として、その一面に文字やシンボルを彫刻し、個人・官職・団体のしるしとして公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すことにより、その責任や権威を証明するもの。印(いん)、判(はん)、印判(いんはん)、印形(いんぎょう)、印顆(いんか)、印信(いんしん)、ハンコ(判子)ともいう。
しばしば世間一般では、正式には印章と呼ばれるもののことをハンコ、印鑑(いんかん)と呼んでいるが、厳密には印章あるいはハンコと同じ意味で「印鑑」という語を用いるのは正確ではない。古くは、印影と印章の所有者(押印した者)を一致させるために、印章を登録させた。この印影の登録簿を指して印鑑と呼んだ。転じて、印鑑登録に用いた印章(実印)を特に印鑑と呼ぶこともあり、更には銀行印などの登録印や、印章全般もそのように呼ぶ場合もある。
概要
稟議書(起案書)に押された印影。稟議書では、承認の印に印章を押す。
印章の材質としては、木、水晶、金属、石のほか、動物の角、牙などが用いられ、近年[いつ?]は合成樹脂も用いられる。これらの素材を印材と呼ぶ。印材の特定の面に、希望する印影の対称となる彫刻を施し、その面に朱肉、印泥またはインクを付け、対象物に押し付けることで、特有の痕跡を示すことができる。この痕跡を印影と呼ぶ。印章を押すことを、押印(おういん)、捺印(なついん)、押捺(おうなつ)という。
現代で用いられる印章の種類を大別すれば、証明のために用いられる生活・実用品としての印章と、篆刻のように印影を趣味や芸術として鑑賞するための印章に分けられる。古代においては印章そのものを宗教的な護符として尊重した時代もあり、現代においても開運商法の商材としての印章では印材の超自然的な効用が重視されることもあるが、宗教的な意味を失った印章では専ら印章そのものよりも、押されたときに印影として現れる内容が重視される。文明の発祥と共に生まれ、世界各地で独自の発展を遂げた印章の歴史の中ではさまざまな形態のものが作られたが、文字に芸術性を見いだす表現性を持った漢字文化圏や古代エジプトでは専ら印影(印面)に文字が用いられ、楔形文字を用いる古代メソポタミアや古代ペルシアなどでは絵画的な図案を用いる版画のような印章が用いられた。現代日本における実用印では、印影(印面)には文字(印字)が使用され、漢字を用いる場合の書体には篆書体、楷書体、隷書体が好まれる。印字は、偽造を難しくしたり、偽造防止のため、既存の書体によらない自作の印を使う者もいる[要ページ番号]。
印章文化圏は、日本、中国、香港、マカオ、台湾、韓国、北朝鮮、ベトナム、インドネシア、ラオス、マレーシア、シンガポールなどに広がっている[要ページ番号]。ただし、以上の地域ではサインも用いられる[要ページ番号]。日本の印章は古くは中国から伝来したものだが、その用法は伝来した当時から中国のそれとは異なっており、江戸時代から現代にかけては中国やその他のアジア諸国とも様相の異なる、「ハンコ社会」や「ハンコ文化」などと形容される日本独自の印章文化が社会に根ざしている。一方の中国では印章の歴史は日本より長いものの、身近な日用品としての印章はほとんど民間に定着しなかったが、書道などの芸術と結びついて独自の印章文化が形成された。ヨーロッパ文化圏ではかつて印章が広く使用された時代もあったが、19世紀頃から廃れて使われなくなり、印章ではなくサインが用いられる。
現代日本で生活・実用品として用いられる印章は、市町村に登録した実印、金融機関に登録された銀行印、届け出を必要としない認印の3種類に大別され、そこから更に細分化することができる。2000年の電子署名法の施行によって、近年では文書の電子化に伴い電子印鑑も登場している。 一部金融業などの業界では上司に申請する際に、「控えめにお辞儀」するように斜めに押すといった独自の習慣も生まれ、「封建の名残で前時代的な悪習」とのネット上の批判もあったが、一方で左に傾けた場合も『右肩が上がる』という縁起の良さを感じるという向きもあるようである。
語源
日本語の「印章」という単語の語原は中国の秦や漢の時代に遡る。それ以前の時代において印章は「鉥」(じ)と呼ばれていたが、秦の始皇帝は、皇帝が持つもののみを「璽」(じ)、臣下の持つものは「印」と呼ぶよう定義し、更に後の漢時代になると丞相や大将軍の持つものは「章」と呼ばれるようになった。これら印と章を総称するものとして「印章」という単語が生まれた。
ハンコの語原は「版行」で、後に当て字で「判子」とも表記されるようになった。
英語におけるsealをはじめ、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語で印章を意味する語は、ラテン語の単語であるsigillumを語原としている。またsigillumは、しるしを意味するラテン語signumから派生した単語である。
山梨県
山梨県指定の伝統工芸品
甲州貴石細工
甲州印伝
甲州雨畑硯
甲州大石紬
甲州手彫印章
甲州武者のぼり・鯉のぼり
西島手漉和紙
親子だるま
甲州鬼瓦
市川大門手漉和紙
山梨貴宝石
富士勝山スズ竹工芸品