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以下は買取エリアです、、、
山田焼
山田焼(やまだやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。
渋草焼、小糸焼と共に現存する焼き物だが、前者が藩主や風流人に好まれたのに対し山田焼は農民、町人のために焼かれた生活雑器である。創始者は稲垣藤四郎といわれる。また、材料の粘土は地元の水田の土を用いていたという。
しかしながら、殖産興業のために山田焼は郡代から推奨されたため、飛騨の焼き物の中で最も長い歴史を持つことになり、現在に至るまで窯の火が絶えたことはない。また明治時代には窯業の技術を応用して土管、煉瓦、瓦などを焼き、大いに繁栄した。
2006年現在は小林陶舎の一軒のみが民芸調の陶器を焼いている。決して飾らない、素朴ながら味わいの深い意匠に人気がある。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
小糸焼
小糸焼(こいとやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。名の由来は高山城下西方の地名、小糸坂である。茶陶で知られる。
寛永年間の開窯で、高山城主の金森重頼が京都の陶工、竹屋源十郎を招いたのが始まり。重頼の兄、金森重近(宗和)が高名な茶人でもあったため、彼の指導の下で茶器を焼かせた(第一期小糸焼)。茶陶として名を馳せたが、金森家が出羽国に転封されたために僅か20年に廃窯となった。
その後、天保8年、高山の豪商、細江嘉助ならびに平田忠右衛門により小糸坂の地に復興。しかしながら、この窯もわずか数年で廃窯する(第二期小糸焼)。
現在の小糸焼は戦後に長倉三朗とその息子、靖邦が綿密な発掘調査の下に復活させたものである。小糸焼は独特の作風で知られているが、特に、「伊羅保(イラボ)釉」を発展させた、小糸焼独自の「青伊羅保」と呼ぶ、渋く深みのあるコバルトブルーの釉薬が代表的である。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
渋草焼
渋草焼(しぶくさやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶磁器。天保11年(1840年)に飛騨郡代豊田友直が陶磁器を自給自足すべく、官民共同の窯場を作ったのが始まり。
原料に地元の渋草陶石を用いる。そして瀬戸や九谷といった磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出した。
江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られ衰退。しかし、明治11年(1878年)に三輪源次郎ら4人の率いる芳国舎(設立当初は陶甄社という名前だった)が窯元を復活させ、有田や瀬戸に陶工を派遣して研鑽させた。芳国舎は決して軌道に乗らなかったが、三輪の作品は数々の博覧会に出展しては入賞を遂げている。
今日では芳国舎と柳造窯の2か所が煙を上げている。前者は昔ながらの手書きの絵付磁器を焼く。
平成4年(1992年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
美濃焼
織部扇形蓋物
織部角皿(サンフランシスコ・アジア美術館)
志野水注(シカゴ美術館)
鼠志野秋草文額皿(東京国立博物館)
黄瀬戸水指(メトロポリタン美術館)
美濃焼(みのやき、Mino Yaki – Mino Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を主たる産地とする陶磁器の総称である。
1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
美濃焼が主に生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、日本の陶磁器生産量の約半分を占めている。
歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代以降、瀬戸市周辺の丘陵地帯ほどではないが古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産が開始された。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれる。16世紀に織田信長の経済政策によって瀬戸市周辺の丘陵地帯の陶工たちも美濃地方(土岐川以北)の集落に移り住んで窖窯よりも焼成効率に優れた地上式の単室窯である大窯を多数築いた。桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出された。江戸時代中期に「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 – 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。
加藤孝造名誉顧問、人間国宝に認定
「人間国宝認定」
■この記事は平成22年7月16日に掲載しました。(内容はいずれも当時)
このたび、社団法人美濃陶芸協会の加藤孝造名誉顧問が、瀬戸黒の技法により、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
これは、2010年(平成22年)7月16日に文化庁より発表されました。
瀬戸黒は、それまでの保持者であった人間国宝・荒川豊蔵氏が1985年(昭和60年)に死去したため、重要無形文化財指定が解除されていましたが、今回再指定され、加藤名誉顧問が瀬戸黒では2人目の人間国宝となりました。
加藤名誉顧問は、1963年(昭和38年)の社団法人美濃陶芸協会設立に際し理事となり、1990年(平成2年)から1997年(平成9年)まで第二代会長を務めました。その後、名誉会長を経て、2009年(平成21年)より名誉顧問。
【 瀬戸黒(せとぐろ)】 桃山時代、美濃で焼かれた、引き出しの技法による総黒のやきもの。その名を「美濃」ではなく「瀬戸」とするのは、桃山時代の畿内においては、美濃窯と瀬戸窯とを区別せず、両者併せて「瀬戸」と理解していたことによる。漆黒茶碗が茶人に好まれたため、瀬戸黒はほとんど茶碗しかない。その独特の漆黒は、焼成中に釉薬の溶け具合を見計らい、鉄製の長いはさみで引き出して常温まで急冷させることにより、釉薬中に含まれている鉄分が黒色化して生まれたもの。別名として、その技法から「引き出し黒」、天正年間(1573~1593)より焼かれたことから「天正黒」とも呼ばれる。
主な陶歴
1935 ・3月12日、岐阜県端浪市に生まれる。
1953 ・光風会展(洋画)に初入選、以後8回出品。
・岐阜県陶磁器試験場にて、場長の陶芸家・五代加藤幸兵衛に陶芸の指導を受ける。
1954 ・第10回日展(洋画)に初入選。
1955 ・岐阜県陶磁器試験場工芸科(主任技師)の頃より進路を陶芸に固める。
1957 ・皇太子殿下ご成婚を記念し、岐阜県より献上の染付「浅間山」陶板を制作。
1959 ・朝日新聞社主催 現代日本陶芸展に初入選。
・加藤孝造個展(初個展・ボニエル工芸店/ニューヨーク)。
1962 ・朝日新聞社主催 現代日本陶芸展課題作の部にて三席に入賞。
・日本伝統工芸展に「志野日帯文壷」初出品初入選(以後同展に出品)。
1963 ・社団法人美濃陶芸協会を設立。理事に就任。
・朝日陶芸展入選入賞 以後受賞を重ねる。
1965 ・岐阜県より献上の染付「鵜飼」陶板二面を制作。
・多治見市星ケ台に薪・石炭併用の倒焔式単室窯を築く。
1966 ・日本工芸会正会員に就任。
1967 ・朝日陶芸展で「鉄釉壺」が優秀賞を受賞。同展評議員となる。
1968 ・「鉄釉花器」で第15回日本伝統工芸展朝日賞を受賞。
1969 ・第1回東海伝統工芸展最高賞(第一席)を受賞。
1970 ・岐阜県陶磁器試験場工芸科を退職し、多治見市星ケ丘で制作活動に入る。
・陶房に来訪した陶芸家・荒川豊蔵の助言を得て穴窯を築く。
・多治見市星ケ丘に半地下式単室穴窯を築く。
・日本陶芸展(毎日新聞社主催)に推薦招待出品となる。(以後隔年)
・朝日陶芸展審査員となる。
1972 ・可児市久々利平柴谷に穴窯と登窯2基を築き、桃山の陶芸技術の追求に努める。
1975 ・中日国際陶芸展評議員となる。以後主として個展を作品発表の場とする。
1979 ・名古屋松坂屋本店にて「志野・瀬戸黒・黄瀬戸」による茶碗五十選展を開催。
1981 ・「日華現代陶芸展」(中華民国歴史博物館主催)に招待出品。
1982 ・「現代の茶陶百碗展」(読売新聞社主催)招待出品。
1983 ・全日本伝統工芸選抜展招待出品。
・加藤幸兵衛賞が創設され第一回「加藤幸兵衛賞」を受賞。
・東海伝統工芸展鑑査員となる。
・日本工芸会東海支部幹事となる(陶芸部会長)。
・「伝統工芸30年の歩み展」(東京国立近代美術館主催)出品。
1984 ・中日国際陶芸展審査員となる。
1985 ・日本陶磁協会賞受賞。
・岐阜日々新聞社賞「教育文化賞」を受賞。
1986 ・大阪ツイン21ビル「ナショナルタワー」と「MIDタワー」のメインロビーに志野陶壁「漠煌平」、織部陶壁「海潮音」を制作する。
・東濃信用金庫本店ロピーに志野陶壁「みのり」を制作する。
・中日国際陶芸展審査員となる。
1987 ・名古屋松坂屋本店にて 大自然の賛歌ー太陽と水と緑-陶巌壁展開催。
1990 ・大阪IMPビル・ロビーに陶壁「展」制作。
・今上天皇即位の礼を祝って、岐阜県より献上の志野扁壷を制作。
・社団法人美濃陶芸協会の第二代会長に就任。
・岐阜県文化懇話会会員就任。
1991 ・現代陶芸の美展〔セゾン美術館)招待出品。
・志野・瀬戸黒の技法で、多治見市無形文化財保持者に認定。
1992 ・岐阜市葬祭殿ロビーに陶壁「夢」を制作。
・多治見市産業文化センター5階ホールに陶壁「清輝」を制作。
1994 ・東海テレビ文化賞受賞。
・多治見市役所ロビーに陶壁「濤」を制作。
1995 ・瑞浪市立瑞浪小学校ロビーに陶壁「風魂」を制作。
・志野・瀬戸黒の技法で、岐阜県重要無形文化財保持者に認定。
1996 ・現代日本陶芸の秀作-アジア巡回展出品。
1997 ・社団法人美濃陶芸協会会長を辞し、名誉会長となる。
1998 ・中日文化賞受賞。
・岐阜県芸術文化顕彰受章。
1999 ・可児市の陶房に古民家を移築し「風塾」を創設。
2002 ・日本陶芸展〔毎日新開改組)招待(以後隔年)。
・国際陶磁器フェスティパル・美濃(陶芸部門)審査員。
・東京国立近代美術館「昭和の桃山復興展」荒川豊蔵についてギャラリートーク。
・丸沼芸術の森にて幽玄の世界「瀬戸黒孝造展」開催。
2003 ・第4回織部賞受賞。
・日本伝統工芸展50周年記念「わざの美」展出品。
・岐阜県文化財保護審議会委員。
・岐阜県現代陶芸美術館協議会会長。
2005 ・岐阜県陶磁資料館顧問。
・地域文化功労者文部科学大臣表彰。
2007 ・紺綬褒章受章。
・ロンドン大英博物館主催・日本伝統工芸展50周年記念「わざの美」展出品。
2008 ・日本橋三越本店にて作陶五十年記念「加藤孝造陶展」開催。
2009 ・社団法人美濃陶芸協会名誉顧問となる。
・平成21年度岐阜県各界功労者表彰。
2010 ・第29回「伝統文化ポーラ賞」受賞。
・瀬戸黒の技法で、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
収蔵 国立近代美術館
ニューヨーク・クラフト美術館
岐阜県美術館
宮内庁・赤坂迎賓館
岐阜県現代陶芸美術館
その他
加藤孝造(1935年~)
人間国宝指定
岐阜県陶磁器試験場に勤務しその傍らで自らの作品を制作。
展覧会に出品し入選を続け1966年に日本工芸会正会員に就任。
その後色々な章を受賞し、2010年(平22)年度に瀬戸黒にて人間国宝(国指定重要無形文化財)に指定された。
伝統的な志野、黄瀬戸、瀬戸黒などの作品をよく制作。
志野釉薬は鮮やかな紅色発色が特徴的で代表作ともいわれているが、
近年の瀬戸黒作品においても存在感があり重厚な味わいを表現している。
荒川豊蔵
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 – 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。斗出庵、無田陶人と号す。
生涯
出生から修業時代
1894年(明治27年)(0歳)3月17日 – 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる。豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む 陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれた。
1906年(明治39年)(12歳) – 多治見尋常高等小学校高等科卒業。神戸の貿易商能勢商店で働く。
1907年(明治40年)(13歳) – 多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働く。
1911年(明治44年)(17歳) – 従妹(父の弟の次女)の志づ(14歳)と結婚。
1912年(明治45年)(18歳) – 神戸の親戚のもとで陶器商を手伝う。
1913年(大正2年)(19歳) – 長男武夫生まれる。
1915年(大正4年)(21歳) – 以前多治見で小僧として働いた木塚商店が名古屋で商売を始めたことを聞き、名古屋に移り住んで働く。
宮永東山と東山窯時代[編集]
1919年(大正8年)(25歳) – 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースする。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼した。このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされる。
1922年(大正11年)(28歳) – 上絵磁器の事業に失敗して、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志す。宮永東山を頼って手紙を出すと「すぐこい」との返事をもらって京都に行くと、いきなり東山窯の工場長を任される。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得る。
北大路魯山人と星岡窯時代
1925年(大正14年)(31歳) – 東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と会う。魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深める。
1926年(大正15年)(32歳) – 次男達生まれる。
1927年(昭和2年)(33歳) – 北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。(星岡窯では自分専用の轆轤を持ったが、東山窯、星岡窯時代の豊蔵は陶工というよりはプロデューサー/マネージャーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことである)
古志野との出会い
1930年(昭和5年)(36歳)4月6日~10日 – 魯山人が名古屋の松阪屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。茶わんの高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持つ。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。
大萱窯
1933年(昭和8年)(39歳) – 星岡窯をやめて多治見の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。作陶は豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行った。最初の窯は初窯で豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わる。
1934年(昭和9年)(40歳) – 最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作する。
1935年(昭和10年)(41歳) – ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。
戦中・戦後
1941年(昭和16年)(47歳) – 大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催。
1946年(昭和21年)(52歳) – 多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る。水月窯は大萱窯とは異なる連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活のため日用食器の量産を行った。
1955年(昭和30年)(61歳) – 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催。大成功に終わる。
1960年(昭和35年)(66歳) – 宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する。
1968年(昭和43年)(74歳) – 妻志づ死去。
1971年(昭和46年)(77歳) – 文化勲章受章。
1975年(昭和50年)(81歳) – 唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶・絵付け。
1976年(昭和51年)(82歳) – 萩の三輪休和窯他で作陶。
1977年(昭和52年)(83歳) – 信楽、備前、丹波の各窯で作陶。
1978年(昭和53年)(84歳) – 萩、唐津、備前の各窯で作陶。
1984年(昭和59年)(90歳) – 大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)開館。
1985年(昭和60年)(91歳) – 8月11日 死去。
幸 輔 窯
閑 山 窯
瑞 光 窯
知 山 窯
真 山 窯
荒 神 窯
隆 月 窯
雅 山 窯
不 動 窯
藤 山 窯
南 窯
五 山 窯
緑 山 窯
一 心 窯
武 山 窯
陽 山 窯
上に書いてあるような人間国宝作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却したい方は是非ご連絡ください!!
あいおいちょう
相生町
あさひまち
朝日町
いずみまち
泉町
えがわ
江川
えんじょうじ
円城寺
おおいけちょう
大池町
か
かすがちょう
春日町
かどま
門間
かみじんまち
上新町
かみほんまち
上本町
かみやながわちょう
上柳川町
きさらぎちょう
如月町
きたおよび
北及
きよずみちょう
清住町
けんまち
県町
こめの
米野
さ
さくらまち
桜町
しもじんまち
下新町
しもほんまち
下本町
しもやながわちょう
下柳川町
しょうえいちょう
松栄町
しんまち
新町
た
つかさまち
司町
つきみちょう
月美町
てんのうちょう
天王町
でんだい
田代
とうようちょう
東陽町
ときわちょう
常盤町
な
なかがわちょう
中川町
なかじんまち
中新町
なかの
中野
ながいけ
長池
ならまち
奈良町
にしかないけちょう
西金池町
にしまち
西町
にしみやちょう
西宮町
は
はごろもちょう
羽衣町
はちまんちょう
八幡町
ひがしかないけちょう
東金池町
ひがしみやちょう
東宮町
ひさごちょう
瓢町
ふたみちょう
二見町
ま
みかさどおり
美笠通
みどりまち
緑町
みなとまち
港町
みやがわちょう
宮川町
むどうじ
無動寺
もんぜんちょう
門前町
や
やなぎはらちょう
柳原町
やよいちょう
弥生町
ゆうらくちょう
友楽町
わ
わかばちょう
若葉町
飛騨春慶(ひだしゅんけい)とは、岐阜県高山市で生産される漆器である。
1975年(昭和50年)2月17日、通商産業省の伝統的工芸品に指定されている。
特色
板を立体的に仕上げる曲げの技法が優れている。他の漆器とは違い、透明で天然の木目の美しさをそのまま活かし、色は黄色、紅が多い。また、軽くて丈夫である。板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽き物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがある。
製作過程
材料の木は、栃、檜、椹を使用する。
木目等を吟味し、その木材を木地師と呼ぶ職人が加工する。
塗師と呼ぶ職人により、目止めの後、黄色、紅色の染料が塗られる。その上に豆汁(大豆をつぶした汁)を2~3回塗り、摺り(漆を浸み込ませる事)を数度行い透け漆を塗る。
歴史
1606年(慶長11年)、大工棟梁である高橋喜左衛門が、椹の割れ目の木目の美しさを生かして盆を製作し、高山城城主金森可重の子である金森重近に献上する。御用塗師の成田三右衛門はこの木目の自然美を生かす方法を考え、透け漆 を重ね塗りで盆を仕上げる。
この盆の美しさが、陶工の加藤景正の名陶「飛春慶」の茶壷の黄釉と似ていることから、金森可重により「春慶」と名づけられる。
1692年(元禄5年)、飛騨国が天領となる。歴代の代官、郡代は春慶塗を保護奨励し、将軍家、大名、大商人などを中心に、全国に広まる。
一位一刀彫(いちいいっとうほり、Ichii itto Carvings – Yew Wood Carvings)とは、岐阜県飛騨地方で生産される木工品。主な生産地は高山市。飛騨市、下呂市でも生産されている。飛騨一位一刀彫ともいう。
特色
材料はイチイを使用する。
イチイの木目をそのまま活かし、赤太(イチイの内側、心材、赤みがかっている)と白太(イチイの外側、辺材、白みがかっている)の色合いもそのまま活かす。表面に色は塗らない。
茶道具、置物、面などがある。
仕上げは手彫りで行い、彫り跡を残す。
歴史
江戸時代(19世紀初期)、飛騨国の根付彫刻師である松田亮長が、イチイの木目を活かした根付を製作する。
江戸時代~明治時代、一位一刀彫は、茶道具、置物、面も製造される。
1975年(昭和50年)5月10日:通商産業省により、伝統的工芸品に指定される。
2006年(平成18年)10月27日:飛騨一位一刀彫として地域ブランド(地域団体商標)に指定される。
美濃焼(みのやき、Mino Yaki – Mino Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を主たる産地とする陶磁器の総称である。
1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
美濃焼が主に生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、日本の陶磁器生産量の約半分を占めている。
歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代以降、瀬戸市周辺の丘陵地帯ほどではないが古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産が開始された。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれる。16世紀に織田信長の経済政策によって瀬戸市周辺の丘陵地帯の陶工たちも美濃地方(土岐川以北)の集落に移り住んで窖窯よりも焼成効率に優れた地上式の単室窯である大窯を多数築いた。桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出された。江戸時代中期に「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 – 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。
美濃焼の代表
志野(しの)
絵志野
鼠志野
練込志野
赤志野 など
織部(おりべ)
総織部
青織部
鳴海織部
弥七田織部
黒織部
伊賀織部
唐津織部
志野織部 など
黄瀬戸(きせと、きぜと)
瀬戸黒(せとぐろ)
など
美濃和紙(みのわし)とは岐阜県で製造される和紙である。
1985年(昭和60年)5月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。また、本美濃紙の技法は1969年(昭和44年)4月15日に国の重要無形文化財に指定された。2014年11月26日(日本時間27日)には、「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」として、「石州半紙」(島根県浜田市)「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)とともに、本美濃紙がユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産登録として認定された。なお日本工業規格における紙の規格であるJIS B列は江戸時代の公用紙だった美濃紙を元に定めた美濃判に由来している為に国際標準化機構の定めるISO B列とは異なる寸法である(2014年現在の日本ではJIS B列が標準)。
概要
寺尾(現在の岐阜県関市寺尾)で生産される和紙が特に有名で、『和漢三才図会』では障子用の書院紙、包み紙、灯籠用として使用していたと記し、『新撰紙鑑』では徳川幕府御用の製紙職人として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の名を挙げている。
また、寺尾の他にも牧谷、洞戸、岩佐、谷口で生産される物も良品である。当然ながら、産地毎に製紙に使用する水が異なるため、生産された和紙の風格もそれぞれ異なるほか、得意とする種類も産地によって異なった。
書院紙
『岐阜県史稿』によれば、二折、三折の美濃和紙があり、障子の格子幅に合わせてそれぞれ使用されていた。
絞書院紙
紋書院紙とは、透かし文様入りの書院紙であり、美濃の他、筑後柳川や肥後でも生産され、肥後産のは特に透かしが綺麗であった。
美濃の紋書院紙は、鹿子・紗綾形・菊唐草・七宝 ・亀甲などの紋様を漉き込み、障子以外にも灯籠用に使用された。
21世紀現在、岐阜市で生産される落水紙(美光紙)にも、紋書院紙風の物がある。
紋天具帖
紋天具帖とは、極薄の天具帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉などで木版摺りした物で、後に型染めで捺染するようになったが、やはり光を漉かして紋様を浮かび上がらせる物で、灯籠用として使用された。
歴史
奈良時代・平安時代
美濃国は、奈良時代から製紙が盛んで、良質の紙を生産していた。古くは702年(大宝2年)の正倉院文書に美濃の紙が記録されている。
平安時代には、朝廷から製紙用の役人が派遣されて、宣命紙等の色紙や公用紙を生産した。
鎌倉時代・室町時代[編集]
鎌倉時代初期には美濃和紙は余り使用されていなかったが、南北朝の動乱や応仁の乱によって利用者の懐事情が悪化した結果、安価な美濃和紙が使用されるようになった。
美濃国守護である土岐氏は富国強兵のため、産業開発を促進し、製紙業を後押しした。そうして大量に生産された美濃和紙は文化人の多い土岐氏を慕って来訪した公家、僧侶によって日本各地に伝播され、その後は京都宝滋院を拠点とする近江枝村の商人によって流通した。
江戸時代
江戸時代になると、専売制度の下に特産地として育成され、また、町人層の需要拡大によって大量生産され、特に障子紙として使用されるようになり、美濃判として障子の規格となるに至り、「みの」と言えば障子のことを指すようにまで普及した。因みに、すだれは伊予が、疊は近江が代名詞となった。
養女奴隷
養女奴隷とは、製紙のために少女を幼少時に養子にして、製紙作業をさせる制度である。戦前の製紙は朝の4時から夜の10時まで作業する厳しいものであり、しかも製紙業は家族だけの零細経営が多く、働き手が足りないためにこの制度が生まれたのである。なお、奴隷と言っても、実の娘と区別することはない。もちろん現在はこの制度はなく、そのために後継者難に陥っている。
紙問屋
美濃では和紙の原料を余所から輸入して生産していたため、様々な原料を使用して製紙が行われ、必然的に製紙技術が向上したが、その反面、原料を輸入し、完成した和紙を輸出する紙問屋に強く依存する生産者にとって不利益な経済体制を採らざるを得なかった。製紙業の家庭の養女は養女奴隷と呼ばれていたが、製紙業の家庭も紙問屋の奴隷であった。
現代では、製紙業は巨大な製紙メーカーとして問屋を圧倒し、力関係は逆転したが、伝統的な和紙は現在も零細経営の和紙職人の手によって生産されている。
美濃和紙と岐阜の伝統工芸
江戸時代以降、長良川を利用した運輸により長良橋たもとの地域は長良川の重要な港町となり、奥美濃から美濃和紙などの陸揚げが多く、それを扱う問屋町として栄えた。良質な和紙「美濃和紙」を得た岐阜では、岐阜の工芸品である岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜うちわが生まれた。美濃和紙は岐阜の伝統工芸には欠くことのできない物である。この問屋町は奇跡的に戦中の岐阜空襲を逃れることができたため現在川原町界隈として整備され、鵜飼観光などで訪れた人々で賑わっている。
岐阜提灯(ぎふぢょうちん、Gifu Paper Lanterns)は、岐阜県岐阜市特産の提灯。岐阜の伝統工芸の一つである。
特徴
細骨に美濃和紙等の薄紙を張り、通常は長卵形の吊提灯である。薄紙には美しい模様が施されている。
手作業が多く、技術として「張り」(細骨に薄紙を張る)、「擦り込み」(薄紙に模様を版画の要領で摺る)、「盛り上げ」(提灯の木地の部分に白胡粉で盛り上った模様を施す)がある。
盆灯籠にも使うため盆提灯とも云う。
歴史
岐阜提灯が作られ始めた時期には諸説あり、慶長年間(1596年 – 1615年)と慶安3年(1650年)の説がある。当初は尾張藩への献上品であった。
宝暦年間(1751年 – 1763年):現在の形態の岐阜提灯が登場。
文政年間(1818年 – 1829年):彩色を施した提灯が登場。
1995年(平成7年)4月5日:通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定される。
2006年(平成18年)10月:地域団体商標に登録される。
岐阜地区
岐阜渋うちわ(1992年3月30日指定)
花合羽(1998年10月30日指定)
のぼり鯉(1998年10月30日指定)
岐阜和傘(1992年3月30日指定)
岐阜長良川花火(1992年3月30日指定)
大桑竹細工(1992年3月30日指定)
本巣わら細工(1992年3月30日指定)
菊花石加工品(1992年3月30日指定)
杞柳製品(1992年3月30日指定)
西濃地区
西濃大理石(1992年3月30日指定)
大垣の桝(1992年3月30日指定)
養老ひょうたん(1992年3月30日指定)
南濃天然木工芸(2006年8月10日指定)
養老焼(1992年3月30日指定)
久瀬のまいおどり(1992年3月30日指定)
岐阜長良川花火(1992年3月30日指定)
中濃地区
関の手づくりナイフ(1992年3月30日指定)
関伝日本刀(1992年3月30日指定)
美濃和紙加工品(1992年3月30日指定)
郡上紬(1992年3月30日指定)
郡上本染(1992年3月30日指定)
古今染め(1992年3月30日指定)
ふじ細工(1998年10月30日指定)
郡上びく(1992年3月30日指定)
郡上竿(1992年3月30日指定)
ひな人形・五月人形(1992年3月30日指定)
美濃白川まゆの花(1992年3月30日指定)
東濃檜製神棚(1992年3月30日指定)
平成の円空彫り(2008年4月17日指定)
美濃筒引き本染め・手刷り捺染(2009年6月指定)
東濃地区
精せっ器(2002年11月29日指定)
イ草人形(1992年3月30日指定)
恵那ロクロ製品(1992年3月30日指定)
恵那曲物製品(1992年3月30日指定)
裏木曾夕森紬(1992年3月30日指定)
蛭川みかげ石製品(1992年3月30日指定)
東濃檜製神棚(1992年3月30日指定)
飛騨地区
飛騨さしこ(1992年3月30日指定)
山田焼(やまだやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。
渋草焼、小糸焼と共に現存する焼き物だが、前者が藩主や風流人に好まれたのに対し山田焼は農民、町人のために焼かれた生活雑器である。創始者は稲垣藤四郎といわれる。また、材料の粘土は地元の水田の土を用いていたという。
しかしながら、殖産興業のために山田焼は郡代から推奨されたため、飛騨の焼き物の中で最も長い歴史を持つことになり、現在に至るまで窯の火が絶えたことはない。また明治時代には窯業の技術を応用して土管、煉瓦、瓦などを焼き、大いに繁栄した。
2006年現在は小林陶舎の一軒のみが民芸調の陶器を焼いている。決して飾らない、素朴ながら味わいの深い意匠に人気がある。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
渋草焼(しぶくさやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶磁器。天保11年(1840年)に飛騨郡代豊田友直が陶磁器を自給自足すべく、官民共同の窯場を作ったのが始まり。
原料に地元の渋草陶石を用いる。そして瀬戸や九谷といった磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出した。
江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られ衰退。しかし、明治11年(1878年)に三輪源次郎ら4人の率いる芳国舎(設立当初は陶甄社という名前だった)が窯元を復活させ、有田や瀬戸に陶工を派遣して研鑽させた。芳国舎は決して軌道に乗らなかったが、三輪の作品は数々の博覧会に出展しては入賞を遂げている。
今日では芳国舎と柳造窯の2か所が煙を上げている。前者は昔ながらの手書きの絵付磁器を焼く。
平成4年(1992年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
小糸焼(こいとやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。名の由来は高山城下西方の地名、小糸坂である。茶陶で知られる。
寛永年間の開窯で、高山城主の金森重頼が京都の陶工、竹屋源十郎を招いたのが始まり。重頼の兄、金森重近(宗和)が高名な茶人でもあったため、彼の指導の下で茶器を焼かせた(第一期小糸焼)。茶陶として名を馳せたが、金森家が出羽国に転封されたために僅か20年に廃窯となった。
その後、天保8年、高山の豪商、細江嘉助ならびに平田忠右衛門により小糸坂の地に復興。しかしながら、この窯もわずか数年で廃窯する(第二期小糸焼)。
現在の小糸焼は戦後に長倉三朗とその息子、靖邦が綿密な発掘調査の下に復活させたものである。小糸焼は独特の作風で知られているが、特に、「伊羅保(イラボ)釉」を発展させた、小糸焼独自の「青伊羅保」と呼ぶ、渋く深みのあるコバルトブルーの釉薬が代表的である。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
小糸焼(1992年3月30日指定)
白川郷の挽物(1992年3月30日指定)
円空彫(1992年3月30日指定)
山中和紙(1992年3月30日指定)
飛騨宮村ひのき笠・一位笠(1992年3月30日指定)
小屋名のショウケ(1992年3月30日指定)
和ろうそく(1992年3月30日指定)
飛騨高山の紙絵馬(2006年8月10日指定)
飛騨高山の有道しゃくし(2006年8月10日指定)
飛騨染(2008年10月16日指定)
飛騨のさるぼぼ(2008年10月16日指定)
山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) – 明治39年(1906年)11月15日[1])は、明治時代の日本の洋画家である。
人物・来歴
嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村宇野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。
既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。渡航の世話をしてくれる人はなく困窮していると、初世五姓田芳柳の家の前に飾られていた横浜絵に生きているようだと感心してその門に入り、南画から転向し洋画を学んだ。当時、芳柳の次男・五姓田義松はチャールズ・ワーグマンに絵を習っており、芳翠もこれに同行して西洋画に触れる。明治6年(1873年)末には横浜から東京に移り、明治8年(1875年)頃には津田仙の学農舎に寄留し、肖像画で一家を成すまでになった。
1876年(明治9年)、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。翌年退学し、同年の第1回内国勧業博覧会に『勾当内侍月詠図』を出品、花紋賞を受賞し宮内庁買い上げの栄誉を受ける。1878年(明治11年)、かねてより知遇を得ていた津田仙と岸田吟香の斡旋で、パリ万国博覧会の事務局雇としてフランスに留学する。当地のエコール・デ・ボザールでジェロームに絵画技法を学ぶ。芳翠は多芸で料理も上手く、当時の在仏日本人が日本食を食べたくなると、みな芳翠の下宿に行ってご馳走になったという。黒田清輝もそうした一人だったが、芳翠は黒田に画家になるよう強く勧め、法律家志望の黒田を洋画家へ転向させる。
1887年(明治20年)に帰国。その際当時日本海軍がフランスに注文し、日本に回航する予定だった巡洋艦・畝傍に渡欧中に制作した作品が積載された。しかし同艦は南シナ海で原因不明の消失を遂げ、300点とも400点とも言われる作品のすべてが失われてしまった。本人は無事帰国を果たし、版画家合田清とともに画塾「生巧館」を主宰。教え子に湯浅一郎、藤島武二、白滝幾之助、北蓮蔵、広瀬勝平などがいる。1889年(明治22年)、松岡寿、浅井忠、小山正太郎、原田直次郎らと明治美術会の設立にこぎつけた。芳翠はほぼ毎回、この展覧会に出品している。
しかし、本人にとっては黒田清輝までの繋ぎのつもりだったらしく、「今に黒田が帰ってくる。そうしたら日本の洋画も本物になるでだろう。黒田ならきっとうまく画壇を導いて率いていくよ。この生巧館なんかも黒田にあけ渡して、その塾にしてしまって、俺は万事黒田任せでやって貰うつもりだ。お天道さまが出たら、行燈は要らなくなるよ」と語っていた。明治27年(1894年)に黒田がフランスから帰国すると本当に画塾を黒田に譲り、黒田は画塾を「天真道場」と改めた。生巧館から開放された芳翠は、京都に仏事(仏教)博物館を建て、そこに油彩画による釈迦の生涯を展観して、その入場料で洋画家を志す若者を留学させようと志す。しかし、借金の保証人には死なれ詐欺に遇うなど全くの徒労に終わり、今度は大阪に豊臣秀吉像を建て自らの名を残そうとするが、これも実らなかった。東京に戻った芳翠は、日清戦争に従軍、翌28年(1895年)2月に帰国している。明治29年(1896年)明治美術会を脱退し、黒田が結成した白馬会にも参加している。晩年の明治36年(1903年)には、演劇や歌劇における洋風舞台装置の制作を行なった。この年、日本人による最初のオペラ公演となったグルック作曲「オルフェウス」(オルフェオとエウリディーチェ)の上演(ケーベル博士等の指導による)では背景画の一部を担当した。
1906年(明治39年)11月15日、自宅で脳溢血により死去した[1]。満56歳没。法名は松光院芳仙翠翁居士。泉岳寺に葬られた。サイレント映画時代の剣戟映画、トーキーの現代劇で活動した俳優の山本礼三郎は次男である。
大橋 翠石(おおはし すいせき、1865年(慶応元年) – 1945年(昭和20年)8月31日)は岐阜県大垣市出身の明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。世に「虎の翠石」と言われて名高く、その描くところの虎画は本物の虎がまるで生きているかのような躍動感がある。
翠石の前半生を記した『千里一走』によれば、若き日の彼が完成した虎画を見せられた人は驚嘆して「円山応挙ハ虎皮ヲ写シ、岸駒は虎頭ヲ写ス、翠石ノ斯ノ画ニ於ケル、遥ニ、二者ニ超越シテ、全身ノ活現毫モ間然スル所ナシ、ソノ手法ノ非凡ナル、古人亦遠ク逮ハス」と激賞したという。
緻密な毛書きが施された虎画は1900年(明治33年)にパリ万国博覧会で絶賛されて優勝金牌を受賞し、続いてセントルイス万国博覧会、日英博覧会などの国際博覧会でも連続して優勝金牌を受賞した。また金子堅太郎(子爵)が翠石の後見人となり、彼の作品を先の国際博覧会へ出展や宮中への献納に尽力した。その結果、盛名を得て明治天皇や皇后、朝鮮の李王家などにも絵を献上している。1912年(大正元年)に郷里の岐阜県大垣市から神戸市須磨に移住した。この神戸で従来の日本画とは一線を画した、濃密な背景表現に特色を持つ、独自の「須磨様式」を完成させた。本名は大橋卯三郎であるが、通称として宇一郎を用いた。
概要
生家は岐阜県安八郡大垣北新58番戸(大垣市新町2丁目)祖父は長左衛門、父は大橋亀三郎といい紺屋を業としていた。母・さとは多芸郡船附村(養老町)吉安の出で、この吉安家は後に東京千住に移籍した。これに2男1女があり長男・鎌三郎は紺屋を継いだが、翠石が画家として有名になってからは自身も画家となって「万峰」(まんぽう)と号して虎画を描いた。次男が卯三郎(翠石)で、宇一郎を自称した。妹ゑ津(えつ)は1898年(明治31年)に名古屋市桑名町杉山竹次郎に嫁した。
翠石は幼少の頃から画を描く事を好み、地元大垣の南画家戸田葆堂、その師である京都の天野方壷らに就いて画の手ほどきを受けた。方壷のもとでしばらく学んだ後、一時大垣に帰郷したが。母に諭されて、東京に出て、渡辺小崋に入門した。その後、母と小崋の急死に伴って大垣に帰郷し、明治24年(1891年)濃尾大震災で父を亡くす。震災後に虎の見せ物小屋で虎を実見したことを契機として虎画の制作を精力的に行うようになった。翠石の虎画では毛描きの緻密さが特徴であり、翠石自身も「この毛描き以上の工夫がなければ、翠石の虎画を模しても翠石以上の者はでないであろう」と家人に語ったという。
その後1912年(大正元年)に、神戸市現在の須磨区に移住した。この移住は、当時結核治療の先進地域であった須磨で自身が患った結核の治療を受けるためのものであったと考えられる。神戸移住後、武藤山治や松方幸次郎ら、阪神間の政財界の人々が後援会を結成して支援している。虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまで言われたという。勇猛な虎の画風とは対照的に、翠石ははにかむような静かな人柄だったと言われ、一時の名声に執着することなく恬淡と好きな虎の絵を描き続けた。
翠石の画業の中では、神戸・須磨での活動期間が最も長く、この地で制作された作品には背景に遠近感や立体感のある山林や雲などを描く特色あるものが多い(須磨様式)。 また、虎以外にも獅子、鶴、金魚、狸、鹿、猫、兎などの動物画も多い。動物画以外にも観音像、山水、蛍などの作品もあり、その画域は広い。
1945年(昭和20年)3月17日の神戸空襲後の4月に大垣に疎開したが、安八郡大垣北新58番戸(大垣市新町2丁目)は街中にあるため郊外の家を借りて臥した。8月15日に終戦を迎えた後、新町の実家に戻り、8月31日、老衰のため午前4時に亡くなった。享年81。
弟子に娘婿である大橋翠邦三尾呉石などがいる。
虎の画風の変遷
青年期から初期
南画風の筆法によって、虎の縞で形を作り描いている。毛書きは基本的に白黒で描かれているために全体には薄く白っぽく見える。
中間期
墨で縞を描くのは変わらないが、地肌に黄色と金で毛描きをし腹の部分は胡粉で白い毛書きをしている。全体には黄色っぽく見える。
晩年期
虎の体躯に赤い彩色を施してから金泥や胡粉で毛描きが加えられており、全体に赤っぽく見える。この当時に描かれたものは「樹間之虎」「月下之虎」「山嶽之虎」など濃密な背景があり、樹木や岩山、笹などの描写は重厚で、洋画に影響を受けたと考えられるものも多い。
最晩年
地肌に赤、金で毛描きがなされ、その量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化する。
落款変遷
点石翠石 – 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで
即現 – 神戸時代の翠石の別号。観音等、崇敬の対象となる画題にしばしば用いられる。
鉄拐山民 – 須磨への移住以降に用いられた。
石寿 – 1942年(昭和17年)に、喜寿の記念として翠石自身が「石寿」と号したと言う。
※作品画像で落款確認ができます。
画歴
1895年(明治28年)
4月 – 31歳の時、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に「虎図」初出品、褒状・銀牌
11月 – 京都青年絵画共進会に「月下虎図」出品(2等賞)
1896年(明治29年)5月 – 大阪私立絵画共進会には「月下の虎図」を出品して、望月玉泉・山元春挙らと3等銅賞を獲得
1897年(明治30年)5月 – 京都第1回全国絵画共進会に出品 4等、東京美術協会展に出品 2等
1898年(明治31年) – 日本美術画会出品、東京美術協会展出品
1899年(明治32年) – 大阪南画展覧会 2等、愛知全国絵画共進会に出品
1900年(明治33年) – パリ万国博覧会で「猛虎図」が優勝金牌を受賞
1901年(明治34年) – 宮内庁御用品となる
1903年(明治36年) – 農商務省主催第5回内国勧業博覧会 2等
1904年(明治37年) – アメリカセントルイス万国博覧会 優勝金牌を受賞
1907年(明治40年) – 東京府勧業博覧会に獅子図を出品する
1910年(明治43年) – 日英博覧会 金牌
1913年(大正2年) – 宮中に虎図を納入し350円下賜
1918年(大正7年) – 大垣新町の菅原軕の見送りに最初の虎画を描く(軸とは大垣祭は、岐阜県大垣市にある大垣八幡神社で行われる祭りで使われる山車)
1924年(大正13年) – 大垣新町の菅原ヤマの見送りに極彩色の虎画を描く
1925年(大正14年) – 名古屋美術倶楽部で大橋翠石新作画展を開催
1926年(大正15年) – 名古屋松坂屋で大橋翠石絵画展覧会を開催
1927年(昭和2年) – 東京上野日本美術協会で翠石百幅展が開催される。発起人は東郷平八郎、金子堅太郎、団琢磨ほか
画業の評価
「大日本書画評価一覧」によると1920年(大正9年)では「金弐百円 大橋翠石」という記述がある。当時中央画壇で活躍していた竹内栖鳳が1500円、横山大観、下村観山、川合玉堂、橋本関雪、土田麦僊らが300円、小室翠雲は250円、鏑木清方が200円、村上華岳が800円という評価を受けている。
1929年(昭和4年)では評価額は上村松園、荒木十畝、小室翠雲と同額の500円に達し村上華岳の300円、土田麦僊の250円、川合玉堂、鏑木清方の80円を凌いだ。この時代になると翠石を越えるのは竹内栖鳳1500円、横山大観1000円に限られる。
1930年(昭和5年)、日本絵画協会より発行された「日本古画評価見立便覧」では、翠石の名は枠外へ「特別動物大家」として別記され「神戸市兵庫西須磨 金三千円 大橋翠石」とされる。3000円は東の大観、西の栖鳳と並ぶ画価であり、いかに翠石の画が世の人々に珍重されていたかが知られる。
展覧会開催
大橋翠石遺作展 大垣市文化会館 1981年11月14日~11月23日
「大橋翠石展―日本一の虎の画家」 田原市博物館 2008年10月 4日~11月 9日
「大橋翠石展―日本一の虎の画家」 大垣市スイトピアセンター 2008年11月15日~12月14日
収蔵先
岐阜県美術館、大垣郷土館、スイトピアセンター、田原市博物館、名都美術館、飯田市美術博物館、石川県七尾美術館、二階堂美術館、足立美術館、香川県立ミュージアム、やすらぎ美術館
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 – 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
経歴
1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の熊谷孫六郎(初代岐阜市市長・衆議院議員)の三男として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。
青年時代
上京し、1897年(明治30年)、慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に入学するも1年程で中退し、1898年(明治31年)、共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集、徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をする。1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。
1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。
1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。
1922年(大正11年)、42歳で大江秀子と結婚。5人の子供に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。
1929年(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。
池袋時代
1932年(昭和7年)後々池袋モンパルナスと称される地域(現在の豊島区椎名町千早)の近くに家を建て、残りの生涯をこの家と15坪の小さな庭からほとんど出ずに家族、猫、鳥たちと過ごす。60歳近くになってから始めたのが、書や墨絵であった。線と余白だけで喜びも悲しみも表現できる、その可能性に惹かれたという。
1947年(昭和22年) 二紀会創立に参加。67歳の時、長女の萬を21歳の若さで亡くした。お骨を抱いて焼き場から戻る自分と家族を描いた『ヤキバノカエリ』(1948年(昭和23年) – 1956年(昭和31年))は『陽の死んだ日』とは全く違ったスタイルで描かれ、人物の顔には眼も鼻も口もない。
1951年(昭和26年) 二紀会退会。無所属作家となる。
晩年
1956年(昭和31年)脳卒中で倒れる。以降写生旅行を断念。晩年の30年間は全く外出せず、わずか15坪の庭の自宅で小さな虫や花を描き続けた。
1968年(昭和43年)「これ以上人が来てくれては困る」と言い、文化勲章の内示を辞退した。また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。
1976年(昭和51年) 「アゲ羽蝶」(絶筆)。 1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。
作風
写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。4歳で死んだ息子・陽(よう)の死に顔を描いたもの(「陽の死んだ日」)、戦後すぐに20歳を過ぎて結核を患って死んだ長女・萬(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」個人蔵)なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。
熊谷は自分の画風を「下手も絵のうち」と表現している。「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」と語っている。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年描かれた多くの油絵作品のモチーフは、ほぼすべてが熊谷邸の庭にあったものである。
熊谷様式とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品で、山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃のスケッチブックを広げて油絵にしていた。同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。線と面で区切られた小さな4号サイズの板には 作品を見るものに【昆虫の目】を持たせてくれる。
面と線だけで構成された「赤蟻」(1971年)など、その独特な画風は現在高い評価を得ている。
趣味
自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家。作曲家の信時潔とは30代からの友人で、後に信時の娘と熊谷の息子が結婚するほど親しい間柄だった。一頃は絵を描くことをせず信時の資料を元に音の周波数の計算に熱中していた。
美術館
木村定三コレクション
愛知県の資産家・木村定三が熊谷守一の作品に惚れ、買取の個展を開くなどし、熊谷の名は晩年にかけて広く日本の画壇に名を知られるようになった。木村定三が集めた熊谷のコレクションは100点を越え、その全てが現在は愛知県美術館に所蔵されている。
村山コレクション
天童市美術館村山祐太郎記念熊谷守一展示室に所蔵。
熊谷守一記念館 – 生まれ故郷に設立された記念館。
豊島区立熊谷守一美術館- 1985年に自宅を立て替え、次女・熊谷榧が館長を務める。2007年11月6日より豊島区立となる。
代表作
『蝋燭』 1909年(明治42年)60.0×50.5cm、岐阜県美術館
『陽の死んだ日』 1928年(昭和3年)、大原美術館蔵
『裸婦』 1930年(昭和5年)頃、東京藝術大学大学美術館
『裸婦』 1940年(昭和15年)、65.2×53.0cm、徳島県立近代美術館
『ヤキバノカエリ』 1948年(昭和23年) – 1956年(昭和31年)、50.0×60.5cm、岐阜県美術館蔵
『種蒔』 1953年(昭和28年)、40.0×30.0cm、福島県所蔵
『土饅頭』 1954年(昭和29年)、31.6×40.9cm、北九州市立美術館
『化粧』 1956年(昭和31年)、43.0×35.0cm、京都国立近代美術館
『白猫』 1959年(昭和34年)、豊島区立熊谷守一美術館
『猫』 1963年(昭和38年)、41.0×32.0cm、愛知県美術館
『白猫』 1963年(昭和38年)、32.0×39.4cm、個人蔵
『岩殿山』 1965年(昭和40年)、65.5×81.0cm、京都国立近代美術館
『兎』 1965年(昭和40年)、35.3×49.5cm、天童市美術館
『泉』 1969年(昭和44年)、熊谷守一記念館
『芍薬』 1973年(昭和48年)、33.4×24.3cm、和泉市久保惣記念美術館
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 – 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。
略歴
青邨は歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。その中でも、武者絵における鎧兜の精密な描写は、ことに有名である。1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、院展を代表する画家として活躍した。
晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わった。その遺志は、青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。
岐阜県中津川市に青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館がある。青邨の代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年(平成22年)に重要文化財に指定された。
年譜
1885年(明治18年)1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現中津川市)で出生。食料品屋(乾物屋)を営む父常吉、母たかの次男だった。本名、廉造といった。
1898年(明治31年) 上京し京華中学校に入学するが体をこわして中途退学、帰郷。
1901年(明治34年) 再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古に入門
1902年(明治35年) 半古から「青邨」の雅号を貰う。梶田半古の弟子は小林古径をはじめ雅号に「古」の字を貰うことが多かったが、青邨以降は奥村土牛を含め「古」を貰っていない。
1907年(明治40年) 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英とともに研究を続ける。
1911年(明治44年) 下村観山の媒酌で、荻江節の家元 初代荻江露章こと佐橋章子の妹すゑ(荻江露友)と結婚。
1912年(明治45年) 健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。
1914年(大正3年) 再興された日本美術院の同人となる
1915年(大正4年) 朝鮮旅行
1918年(大正7年) 日本美術院評議員に推挙される
1919年(大正8年) 中華民国へ旅行
1922年(大正11年) 事業家・望月軍四郎の援助で小林古径と共に日本美術院留学生として約1年間渡欧。アッシジで観たジョット・ディ・ボンドーネの壁画などイタリア中世の絵画に感銘を受ける。
1923年(大正12年) 大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国(模写は東北大学附属図書館が所蔵)
1930年(昭和5年) 「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞
1935年(昭和10年) 帝国美術院会員となる。御即位記念献上画「唐獅子」を制作
1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員に推挙される
1943年(昭和18年) 満洲・支那旅行
1944年(昭和19年)7月1日 帝室技芸員に推挙される[1]。
1950年(昭和25年) 文化財保護委員会専門審議会委員に就任
1951年(昭和26年) 東京芸術大学日本画科主任教授に就任。翌年より平山郁夫が青邨の助手となり、爾来指導を受けることとなる
1955年(昭和30年) 文化勲章受章、文化功労者。中津川市名誉市民となる
1956年(昭和31年) 日本美術家連盟会長に就任
1957年(昭和32年) 川合玉堂の後を継いで香淳皇后の絵の指導役となる
1958年(昭和33年) 日本美術院常務理事
1959年(昭和34年) 国立近代美術館評議員
1960年(昭和35年) 訪中日本画家代表団団長
1962年(昭和37年) 東京芸大名誉教授
1964年(昭和39年) 日光二荒山神社宝物館の壁画「山霊感応」完成
1967年(昭和42年) 法隆寺金堂壁画再現事業総監修に安田靫彦と共に就任
1970年(昭和45年) 皇居新宮殿石橋の間に1955年(昭和30年)に謹作した壁画「石橋」を加筆。新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作
1973年(昭和48年) 高松塚古墳壁画模写事業総監修者
1974年(昭和49年) ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシア夫人像」を完成
1977年(昭和52年) 10月27日、逝去(92歳)、贈従三位
主な作品[ソースを編集]
「竹取物語絵巻」 1914年(大正3年) 再興1回院展出展
「清水寺(京名所八題)」紙本墨画淡彩・軸 東京国立博物館 1916年(大正5年) 再興3回院展出展
「花売」 紙本着色・額 東京国立博物館 1924年(大正13年) 再興11回院展出展
「羅馬使節」 三曲一隻 絹本着色・屏風 早稲田大学図書館 1927年(昭和2年) 再興14回院展出展
「西遊記」 紙本墨画淡彩・巻子 MOA美術館 1927年(昭和2年) 再興14回院展出展
「洞窟の頼朝」 二曲一隻 絹本着色・屏風 大倉集古館 1929年(昭和4年) 再興16回院展・ローマ日本美術展覧会出展 重要文化財
「唐獅子」 六曲一双 紙本着色・屏風宮内庁三の丸尚蔵館 1935年(昭和10年) 御大典記念献上画
「観画」 絹本着色・額 京都市美術館 1936年(昭和11年) 改組第一回帝展出展
「阿修羅」 紙本着色・軸 東京芸術大学 1940年(昭和15年) 紀元二千六百年奉祝美術展出展
「おぼこ」 紙本墨画・額 東京国立近代美術館 1944年(昭和19年)
「Y氏像」 紙本着色・額 東京国立近代美術館 1951年(昭和26年) 再興36回院展出展 洋画家安井曾太郎を描いた人物画
「出を待つ」 二曲一隻 1955年(昭和30年)
「浴女群像」 紙本着色・額 滋賀県立近代美術館 1956年(昭和31年) 再興41回院展出展
「お水取」 紙本着色・巻子 平木浮世絵美術館 1959年(昭和34年) 再興44回院展出展
「白頭」 紙本墨画淡彩・額 東京芸術大学 1961年(昭和36年) 再興46回院展出展 喜寿の記念に描いた青邨唯一の自画像
「石棺」 紙本着色・額 東京国立近代美術館 1962年(昭和37年) 再興47回院展出展
「赤い壁(天壇)(中国三部作)」 紙本着色・額 1960年(昭和35年)
「山霊感応」 紙本着色・額 日光二荒山神社 1964年(昭和39年)
「蓮台寺の松蔭」 紙本着色・額 山種美術館 1967年(昭和42年) 再興52回院展出展
「異装行列の信長」 紙本着色・額 山種美術館 1969年(昭和44年) 再興54回院展出展
「腑分」 紙本着色・額 山種美術館 1970年(昭和45年) 再興55回院展出展
「知盛幻生」 紙本着色・額 個人蔵 1971年(昭和46年) 再興56回院展出展
「土牛君の像」 紙本着色・額 東京国立近代美術館 1973年(昭和48年) 再興58回院展出展 日本画家奥村土牛を描いた人物画
「天正貴婦人像(細川ガラシア夫人像)」 紙本着色・額 バチカン美術館 1974年(昭和49年)
著書
日本の冑 前田青邨スケッチ集 中央公論美術出版 1957
前田青邨作品集 朝日新聞社 1972
現代日本美術全集 前田青邨 集英社 1973
日本の名画 前田青邨 講談社 1973
日本の名画 前田青邨 中央公論社、1977
作画三昧 青邨文集 新潮社 1979
定本前田青邨作品集 鹿島出版会 1981
新潮日本美術文庫 前田青邨 1998
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 – 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県生まれ。
祖父の川﨑千虎に大和絵を学び、祖父没後は、千虎門下の小堀鞆音に師事した。
初期には大和絵を基調とした叙情的な作品を描いたが、次第に人間的な色合いの濃い作風へと変わり、晩年は身近な自然や動物などの素朴な主題を描く。1944年(昭和19年)から山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に疎開。戦前・戦後を通じ文展・帝展・日展で活躍した。
小虎の長女「すみ」は、日本画家東山魁夷の妻。また、息子川﨑鈴彦・川﨑春彦、孫川﨑麻児も日展などで活躍する日本画家である。
経歴
1910年 東京美術学校日本画科卒業。
1914年 文展「つき草」初入選。
1916年 文展「花合せ」特選。
1943年 東京美術大学教授。
1961年 日本芸術院恩賜賞。
1967年 武蔵野美術大学名誉教授。
関連項目
川崎千春 – 従兄弟。元京成電鉄、オリエンタルランド社長。
加藤栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月20日 – 1972年(昭和47年)5月24日)は日本画家。岐阜県岐阜市出身。弟は日本画家加藤東一。
略歴
1906年(明治39年) 岐阜市に漆器商加藤梅太郎、ための三男として生まれる。
1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科卒に入学。(同学年に東山魁夷、橋本明治、山田申吾、若林景光らがいた)
1929年(昭和4年) 第10回帝展「夏日小景」初入選。
1931年(昭和6年) 東京美術学校卒業。結城素明に師事。
1936年(昭和11年) 文展に出品した「薄暮」で文部大臣賞を受賞。
1945年(昭和20年) 岐阜空襲により生家が全焼。「薄暮」などの代表作やこれまで描きためた写生等ほとんどを焼失。
1959年(昭和34年) 前年の日展出品作「空」で日本芸術院賞受賞。
1969年(昭和44年) 日展理事となる。
1971年(昭和46年) 第3回改組日展「流離の灯」出品。日展出品作としては絶筆となる。
1972年(昭和47年) 自宅にて死去。享年65。
その他
岐阜県岐阜市に加藤栄三・東一記念美術館(岐阜市歴史博物館分館)がある。
関連項目
岡田春生 ― 弟子
守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10日 – 2003年(平成15年)12月22日)は岐阜県大垣市出身の日本画家。本名は正(ただし)。
昭和から平成にかけて日本美術院において活躍し、太平洋戦争従軍時やイタリア留学時を除いて、ほぼ毎年出品していた。
守屋の描いた作品は、歴史と古典への深い教養に根ざし、歴史人物を堅牢な絵画空間の中に描出した「歴史画」が中心である。また、その知識と姿勢が評価され、歴史考証が必要な小説挿絵や舞台美術、衣装デザインなどでも活躍した。
イタリア留学以前は、日本古来の大和絵を意識した構成・筆遣いで描いているが、留学後しばらくは、明らかに洋画を意識した重厚なマチエールで描いており、以後も絵具を厚塗りした作品を多く描いている。昭和40年以降は武者絵を中心に、背景に金泥を使うなど豪壮な作品も見受けられたが、1982年(昭和57年)頃から黒を多用した暗めの作品が多く、直線で画面を区切ったり、独特の遠近感を持たせたりする作品を多く描いている。
経歴
1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。
1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。
1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。同級生には高山辰雄がいる。
1936年(昭和11年)、東京美術学校を卒業。卒業製作「白雨」が川端玉章賞を受賞。
1941年(昭和16年)、再興日本美術院第28回展に「継信忠信」が初入選。
1943年(昭和18年)、第30回院展に「陸奥の宿」が入選、この年から雅号を「多々志」とする。
1954年(昭和29年)、総理府留学生としてイタリアに2年間留学。
1967年(昭和42年)、法隆寺金堂壁画再現模写開始。第十号壁「薬師浄土」を担当。
1972年(昭和47年)、文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱され、東壁の女性群像を担当。
1974年(昭和49年)、日本美術院同人に推挙される。愛知県立芸術大学日本画科の教授となる。
1976年(昭和51年)、飛鳥保存財団より委嘱され、高松塚壁画館に展示するための壁画模写(20面)に総監督として従事。
1977年(昭和52年)、第62回院展出品作品「駒競べ」にて文部大臣賞受賞。
1984年(昭和59年)、ローマ教皇庁より聖シルベストロ教皇騎士団勲章受章。
1985年(昭和60年)、第70回院展出品作品「愛縛清浄」にて内閣総理大臣賞受賞。
2001年(平成13年)11月3日、文化勲章を受章。同年7月28日、大垣市守屋多々志美術館が開館。
2003年(平成15年)12月22日、聖路加国際病院において永眠。享年91。
代表作品
第28回院展(1941年)『継信忠信』
第29回院展(1942年)『殲滅』
第30回院展(1943年)『陸奥の宿』
第32回院展(1947年)『室の泊』
第33回院展(1948年)『生田敦盛』
第34回院展(1949年)『ふるさとの家(朝餉・午睡・残照・宵宮)』大垣市守屋多々志美術館
第35回院展(1950年)『劇場(廊・出・袖)』
第36回院展(1951年)『鎌倉』
第38回院展(1953年)『胡姫』
第43回院展(1958年)『アンジェリコの窓』大垣市守屋多々志美術館
第44回院展(1959年)『慕情』
第45回院展(1960年)『鏡』
第46回院展(1961年)『沈黙』
第47回院展(1962年)『何日再帰楼蘭』
第48回院展(1963年)『ギリシャの壷売』
第49回院展(1964年)『聖母寺』
第50回院展(1965年)『阿蘭陀正月』
第51回院展(1966年)『泊』
第53回院展(1968年)『星と武者』大垣市守屋多々志美術館
第54回院展(1969年)『楊四娘』大垣市守屋多々志美術館
第55回院展(1970年)『砂に還る(楼蘭に想う)』岐阜県美術館
第56回院展(1971年)『牡丹燈記』大垣市守屋多々志美術館
第57回院展(1972年)『花性の淫』
第58回院展(1973年)『水エン』大垣市守屋多々志美術館(「エン」はさんずいに艶)
第59回院展(1974年)『月の宴』大垣市守屋多々志美術館
第60回院展(1975年)『衣香』滋賀県立近代美術館
第61回院展(1976年)『初陣』山種美術館
第62回院展(1977年)『駒競べ』山種美術館
第63回院展(1978年)『平家厳島納経』山種美術館
第64回院展(1979年)『キヨストロの少年使節』国立国際美術館
第65回院展(1980年)『聴花(式子内親王)』
第66回院展(1981年)『慶長使節支倉常長』山種美術館
第67回院展(1982年)『二河白道』大垣市守屋多々志美術館
第68回院展(1983年)『乱世に生きる(信長・日吉・竹千代)』岐阜県ソフトピアジャパン
第69回院展(1984年)『無明』大垣市守屋多々志美術館
第70回院展(1985年)『愛縛清浄』横浜美術館
第71回院展(1986年)『信長夢幻』高崎市タワー美術館
第72回院展(1987年)『悔過(持統天皇)』大垣市守屋多々志美術館
第73回院展(1988年)『ある日の武蔵』大垣市守屋多々志美術館
第74回院展(1989年)『遊行柳(芭蕉)』高崎市タワー美術館
第75回院展(1990年)『アメリカ留学(津田梅子)』津田塾大学
第76回院展(1991年)『ポトマック河畔の福沢諭吉』大垣市守屋多々志美術館
第77回院展(1992年)『ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)』大垣市守屋多々志美術館
第78回院展(1993年)『萩の宿(奥の細道より)』大垣市守屋多々志美術館
第79回院展(1994年)『繭の傳説』大垣市守屋多々志美術館
第80回院展(1995年)『巴里の若き岡倉天心』大垣市守屋多々志美術館
第81回院展(1996年)『赤穂の日(浅野内匠頭の妻)』大垣市守屋多々志美術館
第82回院展(1997年)『更科』大垣市守屋多々志美術館
第83回院展(1998年)『願わくば(西行法師)』大垣市守屋多々志美術館
第84回院展(1999年)『歌姫越え(近江遷都)』
第85回院展(2000年)『誕生(聖徳太子)』大垣市守屋多々志美術館
第86回院展(2001年)『みだれ髪(与謝野晶子)』大垣市守屋多々志美術館
第2回小品展(1947年)『いこひ』
第3回小品展(1948年)『かすみをとこ』
第4回小品展(1949年)『思ひ草』
第5回小品展(1950年)『子供たち』
第6回小品展(1951年)『円覚寺門前』
第8回小品展(1953年)『法起寺辺り』
第13回小品展(1958年)『屋根』
第15回春季展(1960年)『聖水』
第16回春季展(1961年)『壷と女』
第20回春季展(1965年)『万戸の砧声』
第21回春季展(1966年)『飛鳥』
第24回春季展(1969年)『樹下双研』
第25回春の院展(1970年)『町角の聖母』
第26回春の院展(1971年)『狼の妻になった女』
第27回春の院展(1972年)『信太の森』
第28回春の院展(1973年)『花精』
第30回春の院展(1975年)『伝説の道』
第31回春の院展(1976年)『春炎』
第32回春の院展(1977年)『昔話 桃太郎』山種美術館
第33回春の院展(1978年)『竹千代出陣』
第34回春の院展(1979年)『金太郎』高崎市タワー美術館
第35回春の院展(1980年)『聴聞(北条政子)』愛知県美術館
第36回春の院展(1981年)『女優 須磨子』佐久市立近代美術館
第37回春の院展(1982年)『大原寂光』愛知県美術館
第38回春の院展(1983年)『葛の葉』
第39回春の院展(1984年)『行人』
第40回春の院展(1985年)『橋』
第41回春の院展(1986年)『孤帆遠影(鑑真のふるさと)』横浜美術館
第42回春の院展(1987年)『年々歳々(鎌倉山)』
第43回春の院展(1988年)『歌人(与謝野晶子)』高崎市タワー美術館
第44回春の院展(1989年)『深淵(和泉式部)』高崎市タワー美術館
第45回春の院展(1990年)『白晨(利休の娘)』
第46回春の院展(1991年)『湖畔の灯(小泉八雲の妻)』高崎市タワー美術館
第47回春の院展(1992年)『人魚の愛』大垣市守屋多々志美術館
第48回春の院展(1993年)『智恵子と光太郎』大垣市守屋多々志美術館
第49回春の院展(1994年)『思い出の五色酒』
第50回春の院展(1995年)『加賀の千代女』
第51回春の院展(1996年)『鎌倉右大臣実朝』鶴岡八幡宮
第52回春の院展(1997年)『晩歌』
『白雨』1936年、東京藝術大学
『噴水』1936年、岐阜県美術館
『ジェロニモ天草四郎』1981年、バチカン博物館
『平成御大礼絵巻』1992年、神社本庁
加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日 – 1996年(平成8年)12月31日 )は、日本画家、日展理事長。岐阜県岐阜市出身。
略歴
1916年(大正5年) 漆器商加藤梅太郎・ため夫妻の五男として、岐阜市美殿町で生まれる。兄は日本画家の加藤栄三。
1947年(昭和22年) 東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。第3回日展「白暮」初出品、初入選。
1948年(昭和23年) 山口蓬春に師事する。
1952年(昭和27年) 第8回日展「草原」特選受賞。
1955年(昭和30年) 第11回日展「砂丘」特選および白寿賞受賞。
1969年(昭和44年) 藤沢市鵠沼に居住。
1970年(昭和45年) 改組第2回日展「残照の浜」内閣総理大臣賞受賞。
1977年(昭和52年) 前年の日展出品作「女人」で日本芸術院賞受賞[1]。
1984年(昭和59年) 日本芸術院会員となる。
1989年(平成元年) 日展理事長となる。
1991年(平成3年) 第1回岐阜市民栄誉賞受賞。
1993年(平成5年) 鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画完成。
1995年(平成7年) 文化功労者。
1996年(平成8年) 岐阜市名誉市民となる。
1996年(平成8年) 肺炎のため没。享年80。勲二等瑞宝章を受ける。
1997年(平成9年) 藤沢市名誉市民となる。
その他
岐阜市岐阜公園内に加藤栄三・東一記念美術館(岐阜市歴史博物館分館)がある。
加賀 孝一郎(かが こういちろう、1899年(明治32年) – 1988年(昭和63年)2月3日)は、日本の洋画家。
年譜
1899年 – 岐阜県海津郡海津町(現・海津市)に生まれる。
1902年 – 名古屋市中川区に転居。同地にアトリエを構える。
1918年 – 岸田劉生に師事する。
笠木 茂(かさぎ しげる、1934年2月 – )は、岐阜県出身の洋画家。ル・サロン会員、日本美術連盟会員。
人物・来歴
岐阜県中津川市で出生。東京芸術大学卒業。特許庁を経て、東京芸術大 大学院修了。伊藤廉、中根寛、フランス国立高等装飾美校・デピェール教授に師事。安宅賞受賞。ル・サロン、サロン・ドートンヌなどに出品。資生堂ギャラリー、梅田画廊などで個展を開く。
地元「恵那山」など、古里の中津川市を描いた作品を多く手掛ける。かつてはカラフルな、柔らかいタッチの油彩画や、シルクスクリーンを使用した花を描いたものが多かった。近年では油彩でありながら水彩画のような風合いのものを、海洋を主題として描くことが多い。
2012年、岐阜県各界功労者表彰(文化・芸術)を受けた。
代表作
あなたの哲学(改訂増補)山崎正一・成川武生・中田光雄(学生社)(挿絵)
連作 恵那山
埠頭午天(第28共勝丸 母島)
など
土屋 礼一(つちや れいいち、1946年2月28日 – )は、日本画家。本名:土屋禮一(つちや れいいち)。
来歴
岐阜県養老郡養老町高田生まれ。岐阜県立大垣南高等学校、武蔵野美術大学卒業後、加藤東一に師事。日展の常連受賞者となる。
日展理事、武蔵野美術大学客員教授、金沢美術工芸大学教授。代表作『赤い沼』は文化庁に買い取りを受けている。
2007年に「軍鶏」で日本芸術院賞受賞。2009年、日本芸術院会員。
2011年、隅田川花火大会花火コンクールの審査委員長を歴任。
家族
父は、日本画家の土屋輝雄(1909年 – 1962年)。
妻は、絵本作家のつちやゆみ(土屋侑美)。
息子は、ミュージシャンのRAG FAIRおよびズボンドズボンの土屋礼央。
野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) – 1933年(昭和8年)2月28日)は明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。野原桜州とも表記される。
歴史画、花鳥画。特に薔薇の絵を得意とし、生前は「薔薇の櫻州」と評されていた。
概要
岐阜県大野郡三輪村(現・揖斐郡揖斐川町)生まれ。本名は野原安司。大垣中学校卒業後、東京美術学校で久保田米僊・小林呉橋・寺崎広業に師事する。
1909年(明治42年)に東京美術学校卒業。1911年(明治44年)に岐阜市に転居し、1919年(大正8年)に京都市に転居し、橋本関雪に師事。社交的な性格であり、政治家、財界人、名僧とも交流があった。
京都転居後も度々岐阜に帰郷。岐阜鵜飼を見物にきたイギリス皇太子(後のエドワード8世)に贈る岐阜提灯に絵を描いている他、揖斐祭り(三輪神社の春の例大祭。)の山車の装飾を手がけている。
1929年(昭和4年)頃から体調を崩し、1933年(昭和8年)2月28日胃がんのため死去。享年47。
画歴
1916年(大正5年) – 第20回文部省美術展覧会(文展)で「醍醐の花見」で初入選。
1922年(大正11年) – 第4回帝国美術展覧会(帝展)で「鵜図」で入選。
収蔵先
岐阜県美術館
揖斐川町歴史民俗資料館
森 有一(もり ゆういち、1898年4月13日 – 1984年10月30日)は、岐阜県出身の日本画家・俳人。新しき村会員。
1898年(明治31年)4月13日、岐阜県武儀郡南武芸村(現在の関市)に生まれた。南武芸村博愛小学校を卒業後、岐阜商業へ入学。在学中、罹病して県立病院に入院。大正11年、山口卯三郎の長女嘉名江と結婚した後、1926年(大正15年)、名古屋市に移り、靴下製造業を営む。第二次世界大戦で被災し、1945年(昭和20年)に岐阜県武儀郡美濃町(現在の美濃市)に戻った。
若い頃から日本画に親しんでおり、1947年(昭和22年)から武者小路実篤に弟子入り。若くして武者小路実篤の新しき村会員となり、戦後、50歳にして実篤に師事して画筆を執り、異色日本画家としてその名を世に知られた。1958年(昭和33年)には名古屋市で最初の個展を開いた。
また俳人としては種田山頭火と親交があり、自由律俳句をよくした。山頭火は何度も有一宅を訪問。その際、有一宅で詠んだ山頭火の作句
いちぢく若葉となりふたゝび逢へたよろこび 家内むつまじくばらの蕾に傘さしかけてある
1975年(昭和50年)12月には句集『山川句集』(樹下文庫)を発表した。
1984年(昭和59年)10月30日没。美濃市に於いて。享年86。
代表作
俳句
『リンゴ』1932年(昭和7年)9月
『いも』1950年(昭和25年)1月
『山川』1971年(昭和46年)6月
随筆
『いもごころ』1949年(昭和24年)12月
『衣』1950年(昭和25年)1月
『線』1950年(昭和25年)2月
『坦々とした道路』1950年(昭和25年)8月
『雑感』1950年(昭和25年)9月
『雑木紅葉』1951年(昭和26年)12月
『蓑虫』1952年(昭和27年)6月
『妙』1952年(昭和27年)7月
『蛙』1952年(昭和27年)10月
『古城山』1953年(昭和28年)2月
『いも堀』1953年(昭和28年)12月
『里芋』1953年(昭和28年)12月
『青山』1954年(昭和29年)3月
など。
森有一遺句文集『行雲流水』1988年(昭和63年)8月13日発行
吉本 作次(よしもと さくじ、1959年10月23日 – )は、岐阜県岐阜市出身の画家・アーティスト。大学卒業後すぐにその才能を評価され、1980年代、作家の最前線で活躍。80年代は新表現主義ブームの影響を受けた巨大絵画で活動を続けていたが、90年代に一度製作活動を中断。その後は作風を変えつつ、制作発表を続けている。
経歴
1984年に名古屋芸術大学美術学部絵画科洋画専攻を卒業。大学時代、1983年に三重県立美術館県民ギャラリーで行われた「五つの発熱’83」で作家活動を開始。東京、名古屋、大阪、ニューヨーク等で個展・グループ展に広く出展する。 また、名古屋市芸術奨励賞を1997年に受賞。1999年にはるひ町美術賞展奨励賞を受賞。2005年に名古屋芸術大学美術学部絵画科洋画コース教授に就任。
主な展覧会
1983年グループ展 「五つの発熱’83」
1984年個展 セキ・ギャラリー(名古屋)
1985年個展 アキライケダギャラリー(名古屋)
1985年グループ展 「五つの発熱’85 in横浜」神奈川県民ホールギャラリー(横浜)
1986年グループ展 「アート・イン・フロント’86」スパイラルガーデン(東京)
1986年グループ展 「第6回ハラ・アニュアル」原美術館(東京)
1987年グループ展 「絵画1977-1987」国立国際美術館(大阪)
1988年個展 アキライケダギャラリー(名古屋)
1989年個展 Judson Art Warehouse Viewing Gallery(ニューヨーク)
1989年グループ展 「第19回現代日本美術展『祝福された絵画』」東京都美術館(東京)
1995年個展 コオジオグラギャラリー(名古屋)
1996年グループ展 「VOCA展’96」上野の森美術館(東京)
1996年グループ展 「子どもの情景-かわいいbutとらえがたき」三重県立美術館(津)
1996年グループ展 「topica.日本の現代美術が1100年のハンガリーに挨拶する」エステルゴム王宮美術館(ハンガリー)
1997年グループ展 「眼差しのゆくえ-現代美術のポジション1997」名古屋市美術館(名古屋)
2000年個展 ギャラリーOH+織部亭(一宮)
2000年個展 コオジオグラギャラリー(名古屋)
2001年個展 コオジオグラギャラリー(名古屋)
2002年個展 ギャラリーセラー(名古屋)
2004年個展 ギャラリーセラー(名古屋)
2005年個展 三重県立美術館県民ギャラリー(津)
2006年グループ展 「next station 次の美術駅へ」名古屋市民ギャラリー矢田(名古屋)
2007年グループ展 「City-Net Asia,Seoul Museum of Art」(韓国)
2008年個展 ケンジタキギャラリー(名古屋)
2008年グループ展 「Masked Portrait,Marianne Boersky Gallery」(ニューヨーク)
2009年個展 ケンジタキギャラリー(東京)
2009年グループ展 「クロスアート2」岐阜県美術館(岐阜)
2010年個展 ケンジタキギャラリー(東京)
2010年グループ展 「あいちアートの森 堀川プロジェクト」(名古屋)
2011年グループ展 「桃源万歳!東アジア理想郷の系譜」岡崎美術館(岡崎)
2011年個展 ケンジタキギャラリー(名古屋)
2012年グループ展 「魔術/美術 幻視の技術と内なる境界」愛知県美術館(名古屋)
2012年個展 ケンジタキギャラリー(東京)
2014年個展 ケンジタキギャラリー(名古屋)
粟田 哲夫(あわた てつお、1937年 – )は、日本の画家。岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身。
岐阜県大垣市のシューニャ美術館を運営し、自らの作品を展示している。
来歴
1937年 – 岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)に生まれる。
1959年 – 岐阜大学学芸学部美術工芸科を卒業。
1962年-1981年 – 毎年銀座の櫟画廊で個展を開く。
2001年3月1日 – シューニャ美術館をオープン。
松岡 吉一(まつおか よしかず、1914年 – 1994年)は、日本の洋画家。
来歴
岐阜県出身。美術文化協会展入選。四季、風景、花を題材にした作品を数多く残す。東京を中心に個展を多数開催。版画、リトグラフ、凧の絵付けにも造詣が深い。
蒼樹展創立に参加し創立委員となる。杉並美術研究所主宰、蒼樹展常任委員、青翔展代表を歴任。
1982年に文部大臣奨励賞を受賞。
村井 正誠(むらい まさなり、1905年3月29日 – 1999年2月5日)は、昭和 – 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。
人物
文化学院の美術科に一期生として入学。昭和9年(1934年)に長谷川三郎らと新時代美術展を結成。自由美術家協会やモダンアート協会などの創立に加わる。
昭和29年(1954年)、武蔵野美術大学教授に就任。昭和37年(1962年)現代日本美術展で「黒い線」などが最優秀賞を受賞。
抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。
喜田 華堂(きだ かどう、1802年(享和2年) – 1879年(明治12年)2月7日)は、江戸時代後期から明治時代初期の日本画家。名古屋における岸派の祖。名を景静。字は伯寿。号に竹石居、半舟翁など。美濃国不破郡今須(現在の岐阜県関ケ原町)出身。
略歴
上洛して岸駒、岸岱に師事し日本画を学ぶ。嘉永元年(1848年)頃、広井水車町(名古屋市)で開業し評判となり、尾張藩に招かれて藩御用絵師となった。
代表作
「富貴祝寿之図」一宮市博物館
「青坂山妙應寺縁起」
篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年(大正2年)3月28日 – )は、日本の美術家。映画監督の篠田正浩は従弟にあたる。
来歴
日本の租借地だった関東州大連に生まれる。5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれる。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。以後は日本で制作し各国で作品を発表している。
和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けている。
2014年5月、沼津市役所特別応接室に1966年に納入した壁画「泉」が、30年以上存在が忘れられた状態から再発見されたことが報じられた。2015年、『一〇三歳になってわかったこと』が45万部を超えるベストセラーになる。
年譜
1913年 – 3月28日 関東州大連に生まれる(本籍は岐阜県)
1914年 – 父の転勤で東京に移る
1929年 – この頃から女学校の師である下野雪堂に書の指導を受け、卒業後も2年ほど指導を受ける
1935年 – 書を教え始める
1936年 – 東京鳩居堂で最初の個展、「根なし草」と評される
1947年 – 書の枠を出た抽象的な作品を制作し始める
1951年 – 書道芸術院に所属(1956年まで)
1954年 – 日本現代書「展」(ニューヨーク近代美術館)/「サンパウロ市400年祭り」日本政府館のために壁書を制作 / 個展(銀座松坂屋、東京)
1955年 – 「ワシントン州国際見本市」日本モデルルームに壁書「炎・水」を制作 /「ヘルシンボール生活文化展」日本館に壁書「詩」を制作(スウェーデン)
1956年 – 渡米(1958年までニューヨークで制作)
1956年 – 個展(スエゾフ・ギャラリー、ボストン)
1957年 – 個展(バーサ・シェイファーズ・ギャラリー、ニューヨーク)
1958年 – 米国より帰国。一躍「時の人」となり、新聞・雑誌などの取材対応に追われる
1960年 – フィラデルフィア美術館から来日した刷師アーサー・フローリーの勧めでリトグラフ制作を始める
1964年 – 国立代々木競技場のために壁画を制作(東京)
1965年 – 個展(ベティ・パーソンズ・ギャラリー、ニューヨーク)
1968年 – この頃より時折、富士山麓のアトリエで制作するようになる
1970年 – 京王プラザホテル貴賓室、次特別室、ロビー、客室に屏風とリトグラフを制作(東京)
1974年 – 増上寺大本堂ロビーのために壁画、道場のために襖絵を制作(東京)
1976年 – 個展(トールマン・コレクション、東京)
1977年 – ワシントン駐米日本大使公邸のために壁画を制作
1979年 – 随筆集『墨いろ』で第27回日本エッセイスト・クラブ賞受賞 / トールマン・コレクションによるポートフォリオ「70年代終焉の日本版画の発展」のために版画を制作
1980年 – 個展「創造と伝統:絵画と版画」(トールマン・コレクション主催、芝増上寺大本堂、東京)
1981年 – トールマン・コレクションによる5周年記念ポートフォリオに版画を制作
1982年 – メリー、ノーマン・トールマン共著『国際舞台に立つ日本の版画家』(叢文社)の表紙のために版画を制作
1990年 – トールマン・コレクション作品による回顧展 [絵画・版画](東京 / シンガポール / 香港 / ハワイ)
1992年 – 個展「篠田桃紅 時のかたち」(岐阜県美術館)
1993年 – トールマン・コレクションによる回顧展 : 版画集「篠田桃紅A New Appreciation」(メリー、ノーマン・トールマン編、タトル出版)刊行記念(銀座三越、東京)
1994年 – 「新作抽象画展」(トールマン・コレクション主催、草月会館、草月プラザ、東京)
1996年 – 「TOKO SHINODA – VISUAL POETRY」(トールマン・コレクション主催、シンガポール国立近代美術館)、初の日本人作家による個展
2001年 – 回顧展 25年間のトールマン・コレクション発行版画(草月会館、東京)
2003年 – 90歳記念展「篠田桃紅 朱よ」宮内庁収蔵作品一点貸出展示 [トールマン・コレクション協賛](原美術館、東京)皇后陛下行啓
2005年 – 個展「墨いろに心を託した作家のあゆみ」(トールマン・コレクション主催、新生銀行本店20階ホール、東京)/ 京都迎賓館の貴賓室に絵画を制作 / コンラッド東京のロビーに絵画を制作 / 雑誌『News Week』誌で「世界が尊敬する日本人100」に選出される
2007年 – 皇室専用の新型車両の内装壁画を制作
2009年 – 個展(トールマン・コレクション主催、蘭クラブ、北京)/ ローマで個展(ローマ日本文化会館)
2010年 – ザ・キャピタルホテル東急、ロビーの作品を制作(開業時に描いた作品と新作を対にして展示)
2011年 – 個展 「リヒテンシュタイン・グローバル・トラスト(LGTリヒテンシュタイン銀行)香港開業25周年記念展」(トールマン・コレクション主催、エクスチェンジ・スクエア内ロタンダ、香港)
2012年 – 個展「Guided by the Brush」(トールマン・コレクション、ニューヨーク)
2013年 – 回顧展「篠田桃紅 百の譜 1950 – 1960’s」(岐阜県美術館、岐阜現代美術館、桃紅美術空間、光芳堂画廊、岐阜)
2013年 – 篠田桃紅 生誕100年を記念するトールマン・コレクション主催・監修の展覧会を開催(菊池寛実記念智美術館)
2013年 – 個展「ポートランド日本庭園開園50周年記念特別展」(米国、オレゴン州)
2013年 – 個展「Trailblazer」(ロックフェラー財団協賛、日本協会、ニューヨーク)
2013年 – 「百の記念 篠田桃紅の墨象」(菊池寛実記念 智美術館、東京)
2013年 – 個展 日本研究センターの50周年記念展(スタンフォード大学)
2013年 – 個展 メルボルン、シドニーを巡回
2013年 – 個展(Club21、シンガポール)
2013年 – 個展 トールマン・コレクション、ロンドン開設記念
2013年 – エッセイ集「桃紅百歳」刊行(世界文化社)
2015年 – コンラッド東京10周年を記念するザ・トールマンコレクション主催・企画の篠田桃紅百三景展 (コンラッド東京)
著書
『いろは四十八文字』矢来書院、1976年11月
『墨いろ』PHP研究所、1978年5月
『朱泥抄』PHP研究所、1979年11月
『その日の墨』冬樹社、1983年4月
『おもいのほかの』冬樹社、1985年12月
『きのうのゆくへ』講談社、1990年4月
『墨を読む』小学館、1998年6月
『桃紅 私というひとり』世界文化社、2000年12月
『桃紅えほん』世界文化社、2002年4月
『桃紅百年』世界文化社、2013年4月
『百歳の力』集英社、2014年6月
『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』幻冬舎、2015年4月
『一〇三歳、ひとりで生きる作法』幻冬舎、2015年12月
主な作品展示先
ザ・トールマンコレクション東京(東京都港区芝大門)
岐阜現代美術館(岐阜県関市・鍋屋バイテック関工園内)
関市立篠田桃紅美術空間(岐阜県関市・関市役所庁舎内)
篠田桃紅作品館(新潟県新潟市中央区学校町通)
吉島家住宅(岐阜県高山市)
小栗 美二(おぐり よしじ、1903年4月27日) – 1969年1月29日)は、日本の画家、映画・演劇の美術装置家、タイポグラフィ作家である。日活京都撮影所美術部長、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)教授を歴任した。サイレント映画時代の字幕に独特のタイポグラフィを残し、溝口健二の映画に多くクレジットされ、のちに溝口の『折鶴お千』等では美術装置をデザインし美術家として参加している。
人物・来歴
小栗の仕事、『浪華悲歌』(1936年)のタイトルロゴ。
小栗の仕事、『虞美人草』(1935年)のタイトルロゴ。
小栗の仕事、『折鶴お千』(1935年)の台詞カットタイトル。
小栗の仕事、『土曜日』(1936年)の表紙ロゴ。
1903年(明治36年)岐阜に生まれる。少年時代は飯野吉三郎のもとで育てられている。後、東京に移り、中学時代、黒田清輝のアトリエに入る。 やがて、東京美校の岡田三郎助の教室で学ぶようになってから、絵画の道へ入ることになる。
1923年(大正12年)、東美校を中退、小山内薫の演戯映画研究所美術部員となる。 1924年(同13年)、日活京都スタジオに入り、現代劇に参画、美術部長となる。 1925年(同14年)には、日活京都撮影所(日活大将軍撮影所)の現代劇部門である第二部(のち新劇部)に在籍、サイレント映画に台詞やト書きを表示するカットタイトルの文字を書いていた。1927年(昭和2年)、同撮影所の移転にともない日活太秦撮影所に異動した。1934年(昭和9年)までには同撮影所美術部長を務めており、同年1月9日、大阪府三島郡吹田町(現在の同府吹田市)の三島無産者診療所(現在の相川病院)の初代所長が満29歳で夭折した折りに、その墓石をデザインしている。同年9月、同撮影所の企画部長・永田雅一が独立し、第一映画を設立、小栗もこれに参加、翌1935年(昭和10年)1月20日に松竹キネマが配給して公開された溝口健二が監督した映画『折鶴お千』のセットをデザインした。
1936年(昭和11年)7月、斎藤雷太郎が編集・発行していた『京都スタヂオ通信』が発展的に改題、中井正一が編集長となって週刊の新聞『土曜日』として再出発する際に、表紙の「土曜日」の題字をデザインする。
1937年(昭和12年)、永田雅一が新興キネマに引き抜かれ京都太秦撮影所長就任するとともに第一映画は解散、小栗も新興キネマの同撮影所に参加する。1938年(昭和13年)、新興キネマに新劇の小劇団「新興小劇場」が結成され、5月19日 – 同20日に弥栄会館で第1回公演が行われたが、その美術装置のデザインを行う。1942年(昭和17年)、戦時統制による合併で新興キネマ京都撮影所は大映第二撮影所となり、同年、同撮影所が製作した野淵昶監督の『お市の方』で美術デザインを務めた。
1944年(昭和19年)ころに満洲国(現在の中国東北部)に渡り、満洲映画協会に関わり、娘の曾根崎明子は同協会の編集技師として、加藤泰通(のちの加藤泰)が監督した『虱は怖い』(1944年)等のフィルムの編集に携わってい。
第二次世界大戦終了後は、1950年(昭和25年)に設立された新制大学の京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)の教授に就任した。歴史家の奈良本辰也、小説家の円地文子らとの交遊が彼らの文章に記されている。
1952年(昭和27年)頃から、”働く人々のアトリエ・ラ・クウル(中庭の研究所)”を主宰。
1969年(昭和44年)1月29日、京都 太秦にて死去した。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月 – 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。
略伝
岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と会田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。更に蓮蔵は白滝幾之助、和田英作、和田三造、岡田三郎助といった同時代の画家とも交流を重ねた。
芳翠が画塾を帰朝した黒田清輝に託すると、蓮蔵も後身の天真道場で学び、1987年(明治30年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)選科に入学、翌年卒業。白馬会展には、大画面に旧派的な色彩で描いた構想画を出品するが、良い評価はなかなか得られず次第に出品数も減っていった。この時期、博文館から出版された『少年世界』などの挿絵を手掛け初めており、蓮蔵は以後昭和初期まで多くの挿絵を描いている。
明治30年半ばになると、芳翠の助手として舞台背景画の制作に携わり、同じく芳翠が企画したと思われる日露戦争を描いた戦争画の展覧会にも参加した。当時こうした戦争画の展覧会は人気を博したらしく、1905年(明治38年)には芳翠の従軍に従って大陸にわたっている。戦争後は再び舞台背景の仕事に携わり、1911年(明治44年)には帝国劇場に入社、背景主任として多くの舞台背景を手掛けるようになる。1914年(大正3年)には薄拙太郎に背景主任を譲り帝劇を退社するが、大正期には背景制作のみならず、舞台全体の指導も行ったようだ。他にも1907年(明治40年)の東京勧業博覧会や1914年の大正博覧会で建てられたパビリオンの設営・装飾にも参加している。
帝劇退社後は、同時代の画家に比べて遅まきながらも文展・帝展に出品・入選し、画家としてのキャリアを重ねていく。1927年(昭和2年)7月、師・芳翠に倣ってかフランスに渡る。フランスでは、美大の後輩で帝劇では部下でもあった香田勝太の世話になる。2年後の1929年(昭和4年)9月頃帰国。帰国後も官展へ出品を続けるが、一方で皇国三千年の歴史を絵画によって知らしめようとする国史絵画館関連の制作に関わり、海軍とも関係を深めていく。代表作の一つ「提督の最後」も「海軍報道班員」の資格で、1943年(昭和18年)第二回大東亜戦争美術展に海軍作戦記録画として出品した作品であり、同展では審査員も務めている。戦後間もない1949年(昭和24年)恵比寿の自宅で食道癌により逝去。享年74。蓮蔵のアトリエは、姪の北八代が引き継いだ。八代は叔父の影響で日本画から洋画へ転向し、光風会会員、女流画家協会委員として活躍している。
代表作
「岩倉邸行幸」 聖徳記念絵画館蔵 1927年(昭和2年)11月奉納
「コンセルジュ」 キャンバス・油彩 岐阜県美術館蔵 1929年(昭和4年) 第10回帝展出品
「椅子によりて」キャンバス・油彩 東京国立博物館蔵 1933年(昭和8年)
「鍾馗図」 キャンバス・油彩 神奈川県立近代美術館蔵 1926-35年(昭和元年-10年)
「気清」 キャンバス・油彩 東京国立近代美術館蔵 1936年(昭和11年)文展招待展
「石橋正二郎とその家族」 キャンバス・油彩 個人蔵 1938-39年(昭和13-14年) 1938年(昭和13年〉夏に避暑地の軽井沢で石橋幹一郎が撮影した写真を元に制作。
『奉天入城』 キャンバス・油彩 額装 150x180cm 神宮徴古館蔵 1833-42年
『明治天皇』 キャンバス・油彩 額装 150x180cm 神宮徴古館蔵 1833-42年
新井 清泉(あらい せいせん、本名:新井 昌奎(あらい しょうけい)、1929年11月19日 – 2009年9月7日)は、岐阜県土岐市出身の書道家、美術作家。
来歴
1929年(昭和4年)11月19日生まれ。
書道研究書芸会会長、憲墨会会長、大書心会理事長、土岐市美術作家連盟会員など、多くの役員を務め、書家として多くの賞を受賞した。
2009年9月7日死去。享年80。
杉浦 誠司(すぎうら せいじ、1976年9月10日 – )は、文字職人である。岐阜県多治見市出身。岐阜県多治見市観光大使。
略歴
1994年、中京高等学校卒業
1998年、中京大学法学部法律学科卒業
2010年、岐阜県多治見市観光大使就任
2012年、岐阜県多治見市本町3丁目に、ギャラリー兼事務所を開設
丹羽 海鶴(にわ かいかく、文久3年11月25日(1864年1月4日) – 昭和6年(1931年)7月5日)は、岐阜県生まれの書家。本名は正長、幼名は金吾、字は寿郷、海鶴は号。晩年には落款に海寉とも書いた。日下部鳴鶴に師事。
業績
明治から大正にかけて活躍した書家で、鄭道昭や初唐の楷書を基調とした海鶴の書風は海鶴流と称され、一世を風靡した。また、書道教育界に影響力を持ち、習字教科書の書風を改革して近代書道教育の発展に貢献した。
略歴
文久3年(1863年)岐阜県恵那郡田瀬村(現中津川市田瀬)に庄屋丹羽五兵衛の4男として生まれる。幼少の頃より書に親しみ、飛騨の高山小学校で教鞭を執りながら書道の研究を続けた。明治21年(1888年)8月、26歳のとき日下部鳴鶴の遊歴に会い、その筆跡と見識の高さに敬服し入門を願い出た。以後、通信教育で指導を受けたが、のち上京し、内弟子として7年、朝夕その座右に侍して薫陶を受け、鳴鶴に書の才能を認められた。はじめ六朝風を慕ったが、のち晋唐風を研究し、特に褚遂良をよく習い、『孟法師碑』を髣髴させる作品を残している。海鶴の書風は書道教育界に受け入れられ、学習院教官、東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験委員(習字科)などを歴任し、教育界への影響力は絶大であった。
昭和初期までの習字教科書の書風は顔法(顔真卿の筆法)であったが、海鶴は書道教育の基準を初唐の楷書におくことを提唱し、その門下である鈴木翠軒が国定四期(1933年 – 1940年)の習字教科書を執筆するに至った。翠軒は海鶴よりの伝承を忠実に墨守した。他に田代秋鶴、田中海庵、水島望鶴、井上桂園、藤原鶴来など数多くの門弟を輩出し、昭和6年(1931年)67歳で没した。
日比野 五鳳(ひびの ごほう、1901年2月20日 – 1985年1月27日)は、日本の書家。昭和の三筆の一人。息子の日比野光鳳も書家。
略歴
1901年2月20日 愛知県勝川町(現・春日井市)に生まれる。
1901年9月 母の死去に伴い、祖父母のいる岐阜県安八郡神戸町中沢に移り育つ。
大垣中学校(現在:大垣北高校)に入学後、大野百錬から指導を受ける。
1912年 京都市に移住。
1927年 文検(文部省教員検定試験)に合格
1928年 京都精華高等女学校教諭就任。
1948年3月 教職を退き、書に専念し始める。
1951年 日展で特選に入選。(『浦島』)
1962年 文部大臣賞を受賞。(『梅』)
1965年 日本芸術院賞を受賞。(第7回新日展出品作「清水」)
1971年 神戸町名誉町民となる。
1983年 文化功労者となる。
田中 東雨(たなか とうう、1931年10月20日 – )は、岐阜県岐阜市出身の書家。木村東道に師事。本名は喜久、東雨は号。
役職
毎日書道展会員
新興書道展
運営委員
一部審査会員
清風会総務
社団法人 日本書作家協会理事
清風書道教室 東雨支部長
神山鳳陽(ごうやま ほうよう、文政8年(1824年) – 明治22年(1889年))は、明治時代に活躍した書家・漢詩人である。
名は述、字を為徳・古翁、号は鳳陽のほかに、三野々史・三野老人・至明。通称四郎。美濃の人。
略伝
美濃に生まれ京都に移り、私塾を開き文人墨客と盛んに交流した。経学に詳しく詩・書に巧みだった。明治2年(1869年)、西園寺公望が開いた私塾立命館に招かれ、江馬天江、谷口藹山、広瀬青邨、松本古堂、富岡鉄斎らとともに講師となった。その後、鳩居堂の熊谷直孝の肝いりで創立された上京第30組小学校(現在の京都市立柳池中学校)の教官となっている。
『明治三十八家絶句』(明治4年)・『皇朝百家絶句』(明治18年)にその詩が収録されている。また古法帖展観会には「曹全碑」・「集王聖教序」を出品している。
著書
『鳳陽遺稿』
『鳳陽遺印譜二巻』
岩田 実(いわた みのる、1948年 – )は、日本の彫刻家。
人物
1948年に生まれる。岐阜県多治見市出身。岐阜県立多治見北高等学校を経て、東京藝術大学美術学部彫刻科に入学、卒業。同大学院美術研究科彫刻専攻に進み、修士課程を修了後、ヨーロッパへ美術研修旅行をする。その後、新しい芸術運動を志すグループ新具象彫刻展に参加、志を同じくする仲間と共に東京都美術館で、同グループが解散する第10回展まで、秋季特別展も含め、毎年立体の作品発表を続ける。一方で、創作メダル彫刻展にて日本芸術メダル協会賞(大賞)を2回受賞するなど、レリーフ(浮彫)作品も得意で、数多く手がけている。近年は、屋外彫刻、モニュメントを制作している。
ブロンズ、石彫、木彫と素材を自由に使いこなし、人間像を主に、彫刻の古典性を生かし、豊かにして繊細、素朴にして優美、力強く温かく、健康的で、ロマンを感じさせる作風が持ち味である。近年は、独自の芸術観や思想を造型に結び付けようとする試みも多く見られる。
個展を各地で積極的に開催。新潟県十日町市や岐阜県蛭川村での石彫シンポジウムにも参加している。また、鎌倉市の行政センターや福祉センター、鎌倉駅、鎌倉宮などの地元をはじめ、東京や横浜、岐阜などの各地にメッセージ性の高いモニュメントを設置し、それぞれの地域社会の発展や平和に大いなる貢献をしている。
主な作品(モニュメント)
『なかよし』(石彫子供四人の騎馬戦の像/神奈川県鎌倉市・玉縄行政センター1987)
『無限」』(石彫横臥婦人像/岐阜県多治見市・岐阜県立多治見北高等学校 1988)
『ひとつ』(石彫の少女とクマ/鎌倉市山ノ内公会堂 1990)
『早春』(石彫少女立像/岐阜県長良川上流沿岸 1993)
『西洋歯科医学勉学の地』(石とブロンズによる二人の肖像レリーフ/横浜市・神奈川県歯科医師会館 1995)
『子守大橋モニュメント』(石彫家族像4点/岐阜県可児市 1995)
『希望』(石彫少女座像/新潟県十日町市 2000)
『友情』(石彫少年二人像/鎌倉市・鎌倉駅 2003)
『村上義光公像(身代わり様)』(木彫の武士座像/鎌倉市・鎌倉宮 2004)
『救援』(ブロンズ婦人立像/東京都港区・日本赤十字社本社 2007)
『救援のために水を運ぶ婦人の像』(等身大のブロンズ婦人立像/東京都渋谷区・日本赤十字看護大学広尾キャンパス 2011)
『あやとり』(大理石レリーフによる三姉妹の像/鎌倉市・鎌倉福祉センター 2015)
肩書
日本美術家連盟会員
日仏美術学会会員
日本ユネスコ協会会員
鎌倉ペンクラブ会員
東京藝術大学美術学部杜の会幹事
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年12月19日 – 1966年11月11日)は北海道旭川市の彫刻家。岐阜県で生まれ、上川中学(現在の旭川東高等学校)を卒業し、その後上京した。
略歴
1894年 岐阜県に生まれる。
1920年 東京美術学校彫刻科卒業。
1922年 同研究科卒業。
1928年 同油絵科再入学。
1933年 同講師。
1936年 日本彫刻家協会を結成。
1946年 日本彫刻家連盟委員長。
1950年 日展運営会参事。
1952年 日本芸術院賞受賞。
1962年 日本芸術院会員、日展理事。
1965年 日展常務理事。
1966年 日本彫塑会長。同年、没。正五位勲三等瑞宝章受章。
作品
「コタンのアイヌ」(1948年) 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館
「人間」(1951年) 日本芸術院賞
「馬」(1953年)
「トルソ・女」(1955年)
「ペステム」(1957年)
「黒田岩吉像」(1959年)
「トルソ・女」(1960年)
「盲目のアコーディオン奏き」(1960年)
「人間像・青年」(1960年) 旭川市7条緑道
「女の首」(1962年)
「コタンのメノコ(愛情)」(1962年)
「真崎健夫先生像」(1963年)
「母子像」(1963年)
「イレネー」(1963年) 帯広競馬場前庭
「裸婦座像」(1964年)
「弁財天と世界女性群像」(1964年) 江の島東京オリンピックヨット競技会場記念
「黒沢酉蔵像」(1965年)
「篠田弘作像」(1965年)
「ロシア人の首」
「望郷のタロー」 一番町セントラルビルディング(東京都千代田区一番町22番地1)
「クラーク博士像(胸像)」 北海道大学構内(1948年再建)
「クラーク先生の原像」 北海道大学事務局大会議室
「青年像」 NHK放送センター入り口花壇
「佐藤昌介像」 北海道大学農学部3階(農業経済学科)・中央ローン東側
大塚亨 (おおつか とおる、1980年 – )は、日本の彫刻家。木彫をメインにさまざまな素材を用いて制作。現代の生活空間で日常に手にする品々を木彫で緻密に再現する。古典技術を基に仏像制作や文化財の修復も行う。
経歴
1980年-岐阜県生まれ
2003年-多摩美術大学美術学部彫刻学科 卒業
2005年-東京芸術大学大学院美術研究科 文化財保存学専攻 保存修復彫刻 修了
浅野 祥雲(あさの しょううん、1891年 – 1978年)は、日本のコンクリート像作家。本名は、浅野高次郎。
略歴
1891年、岐阜県恵那郡坂本村(現中津川市)に生まれる。父親は農業の傍ら、土人形を製作する職人であった。父の仕事を継いで土人形製作を始めるが、土では大きな作品がつくれないことから、コンクリートでの作成を思いついたという。1924年、33歳のとき名古屋に移住し、映画館の看板を描くなどして生計を立てる。作品は中部地方を中心に800体近くが現存しており、ほとんどが身長2メートル以上の人物像(仏像)で、コンクリートの表面にペンキで着色され、一箇所に集中して林立することが特徴である。リアルさ・稚拙さ・ユーモラスさをあわせ持った作風で、一度見たら忘れられない強烈さから一部で人気を博している。
作品の現存する主な施設
関ヶ原ウォーランド(岐阜県関ケ原町)
五色園(愛知県日進市)
岩崎御嶽社(愛知県日進市)
桃太郎神社(愛知県犬山市)
中之院 軍人墓地(愛知県南知多町)
厄除弘法大師(愛知県尾張旭市)
春日井駅前・弘法大師像(愛知県春日井市)
熱海城・シャチホコ(静岡県熱海市)
圓通寺・毘沙門天像(愛知県名古屋市)
久国寺・護国観音像(愛知県名古屋市)
天野 裕夫(あまの ひろお、1954年3月1日 – )は、日本の彫刻家。巨大な陶作品なども制作する。
略歴
1954年 – 岐阜県瑞浪市に生まれる。
1969年 – 岐阜県立多治見北高等学校卒業。
1972年 – 多摩美術大学彫刻科入学。
1976年 – 最初のシンポジウム (岐阜県白鳥町)。
1978年 – 最初の個展 (東京都、日本画廊)。
1995年 – 天野裕夫彫刻作品集 —《曼陀羅鯨》(まんだらげい)を出版。
2005年 – 多摩美術大学客員教授に就任。
作品
《アーチ構造》土岐市屋外 (岐阜県)
《大力(マウンティン・エネジー)》 «高浜工業株式会社» の正面玄関(土岐市)
《背美鯨》仙台市わかば公園
《心臓の人間》仙台市もみじが丘公園
《ラピュタ》名取市屋外(宮城県).
《脳内世界》東京都東京国際フォーラム、ホール内
《護鬼佛理天》吉野林泉寺(奈良県)
映画«海のオーロラ» のコンピューターグラフィックモデル原型作成[2]
個展
日本画廊 (1978年、東京都)
竹川画廊 (1982年、東京都)
千葉県立美術館(1985年)
東京セントラルアネックスLA TAMA ’90 (1990年、東京都)
半田市野外彫刻展「ときめき・シンフォニー都市・はんだを彩る彫刻の世界展」)(1992年)
瑞浪市市之瀬廣太記念美術館(1995年)
椿近代画廊 (1997年、東京都)
「TUES-現代彫刻の展望―、TUES1998-空想世界の造形―、彫刻三人展 天野裕夫展 安藤泉展 藤原吉志子展」美ヶ原高原美術館 (1998年、長野県).
NICAF 2001 Tokyo – 第7回国際コンテンポラリーアートフェスティバル (2001年、東京都)
受賞歴
1984年 – 第3回高村光太郎大賞展 彫刻の森美術館賞
1986年 – 第1回ロダン大賞展美ヶ原高原美術館賞
1996年 – 第6回現代日本陶彫展金賞(《重厚円大カエル》)
2002年 – 円空大賞知事賞
後藤 大秀(ごとう だいしゅう、1929年 - 、後藤 秀美でも活動 )は昭和・平成時代のからくり人形師。
概要
現在、日本で本格的な「からくり人形師」として活動しているのは、九代目玉屋庄兵衛ほか数名しかおらず、後藤大秀はその一人である。 全国的に知られた大垣祭、大津祭といった祭りの、「山車からくり(だしからくり)」の完全復元や修復を多く手がける。(この場合の復元とは、昔の人形を基に全く同じ姿形の人形を新しく制作する事。修復とは、昔の人形の破損した箇所だけを作り直す事。)なかでも、大垣祭の相生山「神主友成」復元制作では、昔の人形はすでに紛失しており、古い写真一枚と古老の証言のみを基に制作をした。
からくり人形は頭・首・手・足・胴・胴串等から出来ており、頭・首・手・足には木曽檜、胴には桜、軸は樫、ピンは竹、滑車類はツゲといった木材を、バネには鯨のヒゲを使用する。昔と変わらぬ道具や材料を使用して、人形一体を制作するのに一年はかかる[2]。 後藤大秀の作品は、「能面打ち」でつちかった髪や目の線描きと、深い色合いの彩色や、「宮大工」でつちかった木工技術による、複雑なからくり仕掛けが特長である。
略歴
1929年 愛知県一宮市に生まれる〔本名、秀美(ひでみ)。父は指物大工である。甥は日本画家の後藤仁〕。その後、岐阜県大垣市に移る。
1948年 工匠の小寺浅之助に堂宮建築(宮大工)を学び、のち数寄屋建築(茶室)を手がける。
1980年 能面打ちの東安春に師事し、能面打ち修行をする。
1984年より、からくり人形復元制作を始める。名古屋市戸田まつりの四之割「宙吊り小唐子」「肩車大唐子」「采振り童子(ざいふりどうじ)」復元制作。
1988年 大垣市市展賞受賞。
1991年より、名古屋市筒井町天王祭の神皇車(じんこうしゃ)「神功皇后(じんぐうこうごう)」「武内宿禰(たけのうちのすくね)」「面かぶり巫女」「采振り童子」復元制作。
1992年 大垣市東地区センター能面の会 講師。
1994年より、大垣祭の相生山「神主友成」「住吉明神」「尉」「姥」復元制作。
1998年 大垣市教育功労賞受賞。
1999年 大垣市美術家協会理事。第14回国民文化祭(岐阜県高山市)で、からくり人形の制作実演。
2000年 大垣市市展審査員。
2001年 大津祭の竜門滝山「鯉」復元制作。
2003年より、名古屋市広井神明社祭の二福神車(にふくじんしゃ)「恵比寿人形」「大黒人形」「采振り童子」復元制作。
2005年 岐阜県神戸町町展 審査員。
2007年 大垣祭り出軕運営委員会 功労賞受賞。「後藤大秀 からくり人形・能面展」(名古屋市博物館)。
その他
後藤大秀が修復した人形のある山車。
大垣祭の菅原山、榊山、愛宕山。大津祭の郭巨山。名古屋市戸田まつりの一之割、三之割、五之割。羽島市竹鼻まつりの福江町・上町の山車。大垣市綾野祭の猩々山。半田市亀崎潮干祭の東組宮本車。津島市津島秋祭の麩屋町車、池町車 等。
名古屋まつりには、筒井町天王祭の神皇車と広井神明社祭の二福神車が登場する。
後藤大秀のからくり人形作品は、名古屋市博物館、神皇車保存会、産業技術記念館(名古屋市)等に収蔵されている。
中島 俊市郎(なかしま しゅんいちろう、1972年 – )は、日本の工芸作家。金沢美術工芸大学講師。
岐阜県大野郡宮村生まれ。1992年近畿大学文芸学部芸術学科卒業(学部長賞受賞)、1997年近畿大学文芸学部染織研究室研究生修了、1999年東京芸術大学大学院美術研究科工芸専攻修了、タペストリー制作をはじめ、織の技法を中心に多様な手法を用いた繊維素材による造形作品の制作を行う。2004年金沢美術工芸大学工芸学科講師。
shunichiro@nakashima.link
受賞歴
「アクセス/アクセサリー」展、特選(2003年)、高岡市美術館
「2005 伊丹国際クラフト展」、伊丹賞受賞(2005年)、伊丹市立工芸センター
「第24回公募2006日本ジュエリーアート展」、奨励賞(2006年)
「第20回高岡クラフトコンペ」、優秀賞(2006年)、高岡大和店
「デビット・マックファーデン:NY Art and Desigen Museum「第47回日本クラフト展」、招待審査員賞(2008年)、丸ビルホール
佐治 賢使(さじ ただし、1914年(大正3年)1月1日 – 1999年(平成11年)6月14日)は、漆芸家。岐阜県多治見市出身。本名は正。市川市の名誉市民。
略歴
1936年(昭和11年):文部省美術展覧会(文展)に初入選。
1938年(昭和13年):東京美術学校工芸科漆工部を卒業。
1961年(昭和36年):漆工屏風「都会」により日本芸術院賞受賞。現代工芸美術家協会設立に参加。
1981年(昭和56年):日本芸術院会員。
1984年(昭和59年):中日文化賞受賞。
1989年(平成元年):文化功労者。
1994年(平成6年):市川市名誉市民。
1995年(平成7年):文化勲章受章。
丹羽 修二(にわ しゅうじ、1903年4月5日 – 没年不明)は、刀工。岐阜県重要無形文化財。 加治田上町の刀鍛冶丹羽兼松の長男。
14才から60年間、戦前から戦中、戦後に至るまで刀作り一筋で生き抜いた。
1973年11月8日「刀剣制作と刀匠彫」の技術保持者として岐阜県重要無形文化財の指定を受けた。関刀鍛冶流派中善定派の正統として当代随一としての高い評価を受けた。
刀匠彫技術は国内で月山(奈良)と修二の二人だけという存在。昇竜・剣巻竜の彫刻を得意とし、信仰から生まれた七福神の中えびす・ほていの彫りものは、繊細を極め、勝れた技術と言われる。
逸話
1971年、熱田神宮の要請により、同神宮の宝物である国宝康継の脇差の写しを制作献納した。
1973年、日本美術刀剣博物館に刃渡二尺三寸四分という大業物を寄贈。
1976年開館の岐阜県博物館へ刀長一尺三寸五分の刀を寄贈。表に竹、裏に梅の彫刻をほどこした刀匠彫りの妙技を披露した。刀匠銘は丹波修司兼延。
早川 謙之輔(はやかわ けんのすけ、1938年 – 2005年8月27日)は日本の木工家。
やや遅い23歳になってから家具作りを始め、父が営む木工所から独立して「杣(そま)工房」を創設、家具等木製品の制作を行った。
略歴
1938年 岐阜県恵那郡(現中津川市)付知町に生まれる。
1962年 黒田辰秋の知遇を得る。
1969年 杣工房設立。
1974年 東京青山・ギャラリーアメリアにて個展「盆」開催。
1980年 白井晟一設計石水館(静岡市立芹沢銈介美術館)の天井張り等の内装を行う。
1984年 東京青山・ギャラリーアメリアにて個展「チェスト・椅子」開催。
2005年8月27日 脳梗塞のため死去。享年67。
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 – 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。斗出庵、無田陶人と号す。
生涯
出生から修業時代
1894年(明治27年)(0歳)3月17日 – 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる。豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む 陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれた。
1906年(明治39年)(12歳) – 多治見尋常高等小学校高等科卒業。神戸の貿易商能勢商店で働く。
1907年(明治40年)(13歳) – 多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働く。
1911年(明治44年)(17歳) – 従妹(父の弟の次女)の志づ(14歳)と結婚。
1912年(明治45年)(18歳) – 神戸の親戚のもとで陶器商を手伝う。
1913年(大正2年)(19歳) – 長男武夫生まれる。
1915年(大正4年)(21歳) – 以前多治見で小僧として働いた木塚商店が名古屋で商売を始めたことを聞き、名古屋に移り住んで働く。
宮永東山と東山窯時代
1919年(大正8年)(25歳) – 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースする。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼した。このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされる。
1922年(大正11年)(28歳) – 上絵磁器の事業に失敗して、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志す。宮永東山を頼って手紙を出すと「すぐこい」との返事をもらって京都に行くと、いきなり東山窯の工場長を任される。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得る。
北大路魯山人と星岡窯時代
1925年(大正14年)(31歳) – 東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と会う。魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深める。
1926年(大正15年)(32歳) – 次男達生まれる。
1927年(昭和2年)(33歳) – 北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。(星岡窯では自分専用の轆轤を持ったが、東山窯、星岡窯時代の豊蔵は陶工というよりはプロデューサー/マネージャーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことである)
古志野との出会い
1930年(昭和5年)(36歳)4月6日~10日 – 魯山人が名古屋の松阪屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。茶わんの高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持つ。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。
大萱窯
1933年(昭和8年)(39歳) – 星岡窯をやめて多治見の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。作陶は豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行った。最初の窯は初窯で豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わる。
1934年(昭和9年)(40歳) – 最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作する。
1935年(昭和10年)(41歳) – ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。
戦中・戦後
1941年(昭和16年)(47歳) – 大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催。
1946年(昭和21年)(52歳) – 多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る。水月窯は大萱窯とは異なる連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活のため日用食器の量産を行った。
1955年(昭和30年)(61歳) – 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催。大成功に終わる。
1960年(昭和35年)(66歳) – 宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する。
1968年(昭和43年)(74歳) – 妻志づ死去。
1971年(昭和46年)(77歳) – 文化勲章受章。
1975年(昭和50年)(81歳) – 唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶・絵付け。
1976年(昭和51年)(82歳) – 萩の三輪休和窯他で作陶。
1977年(昭和52年)(83歳) – 信楽、備前、丹波の各窯で作陶。
1978年(昭和53年)(84歳) – 萩、唐津、備前の各窯で作陶。
1984年(昭和59年)(90歳) – 大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)開館。
1985年(昭和60年)(91歳) – 8月11日 死去。
編・著書
1967年(昭和42年)(73歳) – 『志野』(朝日新聞社)
1972年(昭和47年)(78歳) – 陶磁大系『志野・黄瀬戸・瀬戸黒』(平凡社)
1976年(昭和51年)(82歳) – 『荒川豊蔵自選作品集』(朝日新聞社)
1977年(昭和52年)(83歳) – 『縁に随う』(日本経済新聞社)
映画
1956年(昭和31年) – 記録映画『志野』(日本映画新社)
1980年(昭和55年) – 『志野-荒川豊蔵』(日本経済新聞社)
1980年(昭和55年) – 『荒川豊蔵』(金山プロダクション)
人脈
陶芸家
加藤土師萌
豊蔵が古志野筍絵陶片を発見した当時多治見陶磁試験場に勤務していた土師萌は、豊蔵が古志野の破片を発掘した話を聞いて、豊蔵の投宿先に破片を見に来る。また、1924年(大正13年)、豊蔵と共に久尻清安寺境内の古窯跡を発掘。
小山冨士夫
豊蔵が東山窯にいたころ、京都の真清水蔵六のもとで陶芸を学ぶ。京都の愛陶家が集まって開催した古陶研究会に参加し豊蔵と知り合う。後年豊蔵が大萱に築窯した後は頻繁に大萱を訪れ、1972年(昭和47年)には近くの五斗蒔に自分の窯(花ノ木窯)を築いた。
川喜田半泥子
1940年(昭和15年)、豊蔵と共に京都鳴滝の尾形乾山窯跡を調査した。
画家
川合玉堂
少年期を岐阜で過ごす。東山窯時代、豊蔵は宮永東山の命により玉堂に絵付けを依頼する。1951年(昭和26年)再会し、その後茶わんの絵付けを何回か依頼した。
前田青邨
豊蔵と同じ岐阜県、中津川の出身。青邨が手なぐさみに作った手びねりの香合を百点近く豊蔵が焼いた。また、1961年(昭和36年)大萱を訪れ、瀬戸黒茶碗に梅の絵の絵付けをする。1962年(昭和37年)には再度大萱を訪れ、陶画を制作。鶴図下絵三十六歌仙和歌巻の写真を見せた際、「荒川さん、あんた、こんなもの持っとったら、一生仕事せんでええことになるなあ」と冗談を言って笑い合った。 1962年(昭和37年) 日本橋三越にて香合60点と茶碗の絵付け数点、豊蔵の志野焼、瀬戸黒20余点を賛助出品として展示した「荒川豊蔵先生賛助 前田青邨先生喜寿記念陶展」が開催された。
熊谷守一
豊蔵と同じ岐阜県、恵那郡付知村(現在の中津川市付知地区)出身。豊蔵は守一の絵、人柄、生活態度に引かれ、守一の東京の自宅を訪問したことがある。1967年(昭和42年)には志野茶碗に絵付けをする。
奥村土牛
1935年(昭和10年)頃豊蔵と知り合う(わかもと社長:長尾欽弥宅?)。その後もしばしば顔を合わせ、昭和41年には豊蔵と共に岐阜県根尾村(現在の本巣市根尾地区)の淡墨桜を写生した。
彫刻家
平櫛田中
1964年(昭和39年)に東京日本橋の三越百貨店で開かれた豊蔵の大萱築窯三十年記念展に展示された黄瀬戸花入を、茨城県五浦の岡倉天心像の前に備える花入にしたいと懇望したところ、豊蔵はこれを茨城大学五浦美術研究所に寄贈した。
その他
細川護立
肥後熊本藩細川家第16代当主で旧侯爵、美術コレクションは「永青文庫」で著名。豊蔵が京都東山の南禅寺を訪れた際に知遇を得る。南禅寺は、豊蔵の家の菩提寺である虎渓山永保寺の本山で、また細川家の祖先細川幽斎の墓がある寺でもあり、近くに細川別邸がある。1964年(昭和39年)に東京日本橋の三越百貨店で豊蔵の大萱築窯三十年記念展が開かれた際、その案内に「初期魯山人の作品は豊蔵に負うところが多大である。魯山人は豊蔵から技術を学び、豊蔵は魯山人の不覇奔放の気概を自分の物にした」と書いている。
加藤 卓男(かとう たくお、1917年(大正6年)9月12日 – 2005年(平成17年)1月11日)は、陶芸家。ラスター彩、青釉、奈良三彩、ペルシア色絵、正倉院三彩などを再現。
略歴
1917年(大正6年)岐阜県多治見市に生まれる。父加藤幸兵衛に師事。
1935年(昭和10年)岐阜県多治見工業学校(岐阜県立多治見工業高等学校)卒業。
1938年(昭和13年)陸軍に入隊。
1945年(昭和20年)徴兵された広島市で被爆。白血病を発症し約10年間、闘病生活を送る。
1965年(昭和40年)フィンランド工芸美術学校に留学。そこからイランの窯址を訪ねペルシャ陶器の研究に尽力した。
1988年(昭和63年)紫綬褒章を受章。
1995年(平成7年)5月31日、重要無形文化財「三彩」保持者(人間国宝)認定。
2005年(平成17年)1月11日、87歳没。故人として織部賞の特別賞を受賞。
大野 鈍阿(おおの どんな、1885年(明治18年)- 1951年(昭和26年))は岐阜県出身の陶芸家である。本名は大野 準一(おおの じゅんいち)。
略歴
1885年(明治18年)、美濃焼の産地、岐阜県の土岐郡(現、土岐市)に生まれる。子どもの頃からやきもの作りの見習いをし、20歳頃までには轆轤を挽き、窯を焚く職人となる。
1909年(明治42年)、上京して品川の大横町に移り住み、水焜炉(みずこんろ)、行平(ゆきひら)などの雑器を造る。
1913年(大正2年)、大横町から数百メートル離れた御殿山に邸宅を構えていた益田鈍翁(益田孝)により、その働きぶりを見出され、益田家のお抱え職人として迎え入れられる。邸宅内に住居を与えられて、陶磁器窯(鈍阿焼)を築窯する。稀代の茶人として名高い益田の所有する楽焼の茶碗や鉢などのコレクションを預けられ、その指導のもと写しをつくるように命じられる。なかでも益田が号した「鈍翁」の由来となった、表千家6世家元、原叟宗左 覚々斎(かくかくさい)による茶碗「鈍太郎」の写しを繰り返し造った。「鈍阿」はこのころ益田鈍翁から号の一字「鈍」をとって、名付けられたものである。
1914年(大正3年)鈍翁により、鈍阿焼の器だけを用いた茶会が催される。この時供された茶碗は絶賛を受け、五千円(現在の価値で5,000万円程度)で譲って欲しいという客まで現れた。
1917年(大正6年)、鈍翁が実質的に小田原に居を移したのをきっかけに、益田邸を去り、上目黒の根津嘉一郎所有の土地に本焼の本窯を築き、自主的に陶技を磨き始める。一方で、その後も鈍翁との関係は切れることはなく、鈍翁は上目黒の鈍阿の元にやってきては、上出来の作を持っていったという。
1929年(昭和5年)、鈍翁に命名を仰いで茶席「鈍庵」をつくる。
1934年(昭和9年)、等々力に移窯。
加藤 幸兵衛(かとう こうべえ、1893年(明治26年)12月27日 – 1982年(昭和57年)4月11日)は日本の陶芸家。本名は加藤福寿。
岐阜県出身。美濃における戦後の陶芸家。幕末から明治時代に美濃の染付磁器を焼く窯元の一つ、家業の幸兵衛窯を1911年(明治44年)に引き継いで5代目幸兵衛を名乗り、現在の幸兵衛窯の礎を築く。代々続く幸兵衛(幸兵衛窯)ではあるが、現在の近代幸兵衛窯の元(加藤幸兵衛窯または幸兵衛窯とも言われる)を築きあげたことでは初代であり、幸兵衛継承者。加藤卓男の父。
1950年から23年間の長きに渡り岐阜県陶磁器試験場長に就任。美濃窯業界の指導者としての重鎮人物で、美濃窯業界の近代化をはかり美濃焼の発展につくした。作家としての作風は青磁、天目、李朝写、金襴手、染付、赤絵、色絵磁器など中国陶磁器再現や乾山写など幅広い技法を習得し再現、その作域は広い。戦後に新設された日本伝統工芸展などに出品。1960年代から1970年代には自らの個展を中心に作品を発表し、晩年に手掛けた明時代の金襴手をベースにした作品が知られている。1973年(昭和48年)岐阜県の無形文化財保持者の認定。1982年(昭和57年)4月11日、88歳で死去。
略歴
1893年12月27日、四代加藤幸兵衛の長男として生まれる。
1911年に家業の幸兵衛窯を継承。近代幸兵衛窯の元を築く
1931年 第11回帝展に初入選。
1950年 岐阜県陶磁器試験場長に就任(在期23年間)。
1956年 日本工芸会正会員。
1973年 岐阜県の無形文化財保持者に認定。幸兵衛80才
1974年 日本工芸会理事。
1982年4月11日没。88歳没。
加藤 十右衛門(かとう じゅうえもん、1894年(明治27年)12月21日 – 1974年(昭和49年)10月15日)は日本の陶芸家。岐阜県土岐郡笠原町(現・多治見市)生まれ。八坂窯開窯。
美濃大平の陶祖加藤景豊(加藤五郎衛門景豊)の流れをくむ。1927年には笠原町の町長を務める。1958年に岐阜県の無形文化財保持者に認定。美濃桃山陶芸に魅力され伝統技法をベースに、志野、黄瀬戸、織部、美濃伊賀などを手掛けた匠。戦後の美濃陶芸再興復元に尽力。1974年、79歳で死去。
系譜
加藤十右衛門(八坂窯開窯者。元笠原町町長。1958年に岐阜県の無形文化財保持者に認定。1894年 – 1974年)
加藤芳右衛門(十右衛門の長男。号を十鳳・かとうじゅっぽうの名で製作した時期がある。八坂窯継承者 1932年 – 2009年)※1974年(昭和49年)加藤芳右衛門を名乗る
加藤光右衛門(十右衛門の二男。八坂窯継承を経て、1982年昭和57年に加藤十右衛門家の出生地, 岐阜県土岐郡笠原町・現多治見市の地に窯を開き 陶磁器問屋時代の屋号”山十窯”と名付ける。1937年 – )
加藤弥右衛門(十右衛門の三男。小谷陶磁器研究所修了。十右衛門没後に八坂窯に帰郷。1942年 – )
以上加藤十右衛門の子息
林英仁(はやしえいじ・祖父の加藤十右衛門に師事。十右衛門の甥。玉川大学卒業後助手として同大学で陶芸を指導後に1968年桃山窯開窯。1997年に喫茶店・桃山茶寮を多治見市にオープン。1931年生まれ。)
鈴木 藏(すずき おさむ、1934年12月1日 – )は日本の陶芸家。重要無形文化財保持者。
経歴
岐阜県土岐市出身。この地方は美濃焼の産地であり、父・鈴木通雄は釉薬の研究者。陶土や釉薬について学び、基礎的な知識を身につけた後、荒川豊蔵や加藤土師萌などに師事。桃山時代から継承されてきた陶芸技法である志野の研究に励み、その技法を体得。
1953年、岐阜県立多治見工業高等学校窯業科を卒業後、丸幸陶苑試験室に入社。父親の手伝いをする傍ら制作を続け、1959年に初出品した現代日本陶芸展、日本伝統工芸展で入選。その後の受賞も数多く、1982年には日本陶磁協会金賞、1987年には芸術選奨文部大臣賞を獲得。
若い頃から志野への技法を追求し、古来の半地下式穴窯を改良した独自の焼成方法を考案するなどの姿勢も評価され、1994年6月27日に重要無形文化財「志野」保持者に認定された。2006年現在も志野独特の白色の釉薬の原料である長石に対しても研究を重ねており、陶磁への制作意欲を見せている。
塚本快示(つかもと かいじ、1912年12月14日 – 1990年6月10日)は日本の陶芸家。本名は塚本快兒。
戦後、美濃窯の発展に貢献した陶芸デザイナー・日根野作三に師事しクラフト風な磁器の制作と平行しながら中国陶磁の研究に励んだ。主に模範としたのは中国・北宋時代の白磁や青白磁、また同じく北宋時代の「影青(いんちん)」である。素地となる土には各地の長石や陶土を配合し、釉薬も長石・陶石・カオリン・柞灰・石灰などで調整したものを用いるようになる。
1948年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫が著した『影青記』に感銘を受け自らの技術を更に磨き精度を高めていった。特に白磁胎がまだ乾ききらないうちに鋼や竹のヘラで刻まれる片切り模様の精緻さは他の追随を許さず、その技術は日本だけでなく中国の陶磁界でも高い評価を得ている。
略歴
1912年12月14日 – 岐阜県土岐市に産まれる。生家は累代製陶を営んでいた。
1927年 – 父を助けながら作陶を始める。
1961年 – 通商産業省のGマークに初入選。
1963年 – 第10回日本伝統工芸展に初入選を果たす。
1964年 – カリフォルニア博覧会で金賞を受賞。
1965年 – 第12回日本伝統工芸展日本工芸会会長賞。
1967年 – モントリオール万博に出品しており、海外での活動も行っている。
1973年 – 岐阜県重要無形文化財「青白磁」保持者に認定。
1977年 – 紫綬褒章受章
1979年 – 日本陶磁協会賞。
1980年 – 中日文化賞を受賞。
1983年 – 人間国宝に認定。
4月13日 – 重要無形文化財「白磁」「青白磁」保持者に認定。
6月17日 – 土岐市名誉市民に推挙される。
1984年 – 勲四等旭日章受章。
1990年6月10日 – 逝去。快示の開いた快山窯は2007年現在、長男である塚本満が引き継いでいる。
西部功(にしぶ いさお、1948年 – )は日本の陶芸家。岐阜県関市(旧武儀町)出身。
上に書いてあるような人間国宝作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!