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藤原 雄(ふじわら ゆう 1932年6月10日 – 2001年10月29日)は日本の陶芸家。1996年に人間国宝に認定。
人物
岡山県備前市(当時の和気郡伊里村)穂浪出身。藤原啓、勝代の長男として生まれる。視力が右目は0.03、左目は全く無いというハンディの持ち主であったが、健常者同様に進学する事に父親はこだわり続けたという。青年時代は文学や音楽に熱中していたという。
備前焼の伝統を重んじながらも、新しい感性に溢れた作品作りを追求。「焼き締め陶公募展」を開催し実行委員長を務め、後進の発掘と育成にも力を注いだ。
息子は同じく陶芸家であり陶心会会長・備前陶友会理事を務める藤原和である。
略歴
1951年 明治大学 文学部 日本文学科に進学。
1955年 みすず書房に就職。しかし同年9月に父親の看病の為に休職し帰郷。小山富士夫に備前焼を勧められ父に師事し技法を学びはじめる。
1957年 結婚。
1958年 日本伝統工芸展に初入選。長男・和、誕生。
1961年 日本工芸会より正会員に認定された。
1964年 アメリカ現代陶芸美術館やカナダのポイントクレーヤーでは海外初の個展を開催する。同年以降、アメリカ、カナダ、メキシコ、スペインの大学などで備前焼についての講義をたびたび行う。
1965年 棟方志功と共にアメリカ・ダートマス大学の客員教授を務める。以後国内外で多くの作品を発表しその評価が高まってゆく。後にメトロポリタン美術館や大英博物館にも作品が収蔵された。
1985年 紺綬褒章受章。
1988年 社団法人日本工芸会理事に就任。同年、日本人として初めて韓国国立現代美術館にて「備前一千年、そして今、藤原雄の世界展」を開催。
1991年 「焼き締め陶公募展」開催。実行委員長を務める。
1996年 5月10日、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定。2代に亘っての人間国宝となった。
2001年 多臓器不全のため69歳で逝去。
金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月3日 – 1967年(昭和42年)11月6日)は、岡山県出身の陶芸家。備前焼の陶工として初めて人間国宝となった。本名は金重 勇(かねしげ いさむ)。
江戸時代中期以降伊万里焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れない。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明、三男の金重晃介もそれぞれ陶芸家である。
北大路魯山人やイサム・ノグチらとも親交があり、彼らの芸術性に影響を受けた一方、彼らが備前焼を世に知らしめる役割を果たしている。
略歴
1896年 – 父金重慎三郎(号媒陽)、母竹能の元に長男として生まれる。金重家は備前六姓のひとつ。
1901年(5歳) – 焼物に興味を持ち土いじりを始める。
1907年(11歳) – カメ、カブトを博覧会に出品受賞する。
1909年(13歳) – 弟七郎左衛門(素山)生まれる。
1910年(14歳) – 伊部尋常小学校高等科を卒業。父について作陶をはじめる。
1911年(15歳) – 食塩青の技法で、煎茶器を造る。
1912年(16歳) – 父不在のため、独力で窯焚、製品の販売をする。
1915年(19歳) – 岡山での書画、陶磁器の入札会に欠かさず出かける。
1916年(20歳) – 耐火度の高い棚板を考案し、窯詰めの形式を改良をする。父媒陽死去。
1918年(22歳) – 大本教に入信。彩色備前を作り始める。「陶陽」の号を用いる。
1919年(23歳) – 倉敷市酒津の西山窯にて1年間制作。
1920年(24歳) – 岡山の富豪佐藤喜久治の依頼で、橋本関雪との合作を制作。
1921年(25歳) – ドイツ式マッフル窯を作り、窯変の焼成に工夫を加える。
1922年(26歳) – 備前で初めて宝瓶を制作、伊部中に流行。
1923年(27歳) – 橋本関雪来訪、岡山錦園に遊ぶ。
1924年(28歳) – 名古屋松坂屋にて十五代永楽善五郎と最初の展覧会を開催。
1925年(29歳) – 三村陶景、西村春湖と備前三名工として知られる。
1927年(31歳) – ドイツ式の窯と備前式の窯を折衷し窯を改良、木炭をくべて棧切の焼成に成功。
1928年(32歳) – 母竹能死去。荻野綾子と結婚。大日本博覧会に「彩色備前孔雀置物」出品。「備前飛獅子置物」「彩色備前鬼瓦に鳩置物」を昭和天皇に献上。
1929年(33歳) – 長女常子生まれる。
1930年(34歳) – 古備前の土を研究し、桃山調備前の土味を出すことに成功。
1931年(35歳) – 次女幸恵生まれる。
1932年(36歳) – 官休庵来訪し、手造りの茶器等制作。本格的に轆轤を挽いて茶器を制作。「土」の窯印を用いる。
1934年(38歳) – 長男道明生まれる。
1936年(40歳) – 川喜田半泥子が唐津行きの途中に来訪、これより交流が始まる。半泥子の千歳窯を訪れ作品制作。
1937年(41歳) – 三女美和子生まれる。「備前糸目水指」「備前糸目掛花入」を表千家家元惺斎宗左好みとして制作。
1938年(42歳) – 大阪阪急百貨店にて初個展開催。川喜田半泥子来訪制作。東京資生堂ギャラリーにて個展開催。
1939年(43歳) – 川喜田半泥子と相互に行き来しお互いに制作。
1940年(44歳) – 次男慎一生まれる。大阪阪急にて第二回作品展開催。半泥子を相互来訪。
1941年(45歳) – 素山出征のため、窯の構造をかえ、画期的な成功をおさめる。加藤唐九郎来訪。
1942年(46歳) – 川喜田半泥子、荒川豊蔵、十代休雪と「からひね会」結成。四女達子生まれる。荒川豊蔵来訪制作。備前焼技術保存者に認定。
1943年(47歳) – 表千家家元千宗左即中斎来訪。三男晃介生まれる。
1944年(48歳) – 日本美術および工芸統制協会代議員となる。
1945年(49歳) – 四男元郎生まれる。素山と共に美濃大萓に荒川豊蔵を訪ね、制作をする。
1947年(51歳) – 生活用品芸術陶磁器認定委員となる。
1949年(53歳) – 出口直日(大本教三代教主)来訪し茶碗・水指・徳利などに釘彫りの絵付けをする。川喜田半泥子の廣永窯を訪れる。北大路魯山人来訪し作陶する。藤原啓・山本陶秀・藤田龍峰・金重素山・浦上善次と備前窯芸会を結成。
1951年(55歳) – 京都府亀岡の大本教が花明窯を築窯、指導の為一ヶ月滞在し制作も行う。フランス・イラク・イランで開催された、「現代日本陶芸展」に「備前緋襷輪花花器」を出品。
1952年(56歳) – 備前焼無形文化財記録保持者に認定される。朝日新聞社主催「第1回現代日本陶展」に「備前台鉢」「備前三角花入」を出品。窯印を「ト」と改める。イサム・ノグチ、北大路魯山人と共に来訪制作。北大路魯山人の依頼で北鎌倉山崎に備前窯を築窯、一月半滞在。魯山人窯で釉薬物を多数制作。石黒宗麿・荒川豊蔵・加藤唐九郎・宇野三吾ら在野の有志と共に「日本工芸会」の設立を協議。
1953年(57歳) – 加藤土師萌来訪し制作。伊部に来訪したバーナード・リーチを囲み、石井不老・三村陶景・山本陶秀と共に会談。田山方南来訪。
1954年(58歳) – 伊豆山「桃李郷」において、石黒宗麿・加藤土師萌・小山富士夫・荒川豊蔵・加藤唐九郎・小森小庵・黒田領治・佐藤進三・金重陶陽の九人で「桃李会」結成。岡山県無形文化財保持者に認定。萩の吉賀大眉の窯で制作。唐津、中里無庵の窯で制作。
1955年(59歳) – 日本工芸会結成。日本橋壺中居で「第1回桃李会展」開催。
1956年(60歳) – 備前焼の重要無形文化財保持者に認定。シカゴ美術館主催「日本現代陶芸六人展(富本憲吉・石黒宗麿・加藤土師萌・荒川豊蔵・加藤唐九郎・金重陶陽)」に出品。日本橋三越で「作品展」開催。京都裏千家茶道会館で「新しい陶芸の茶会を開催。
1957年(61歳) – 広島天満屋で個展開催。石黒宗麿来訪。中村研一来訪制作。武者小路千家流家元来訪制作。11月、欧米に旅行に出る、翌年2月帰国。アメリカ合衆国にて作品展開催。
1959年(63歳) – 中国文化賞受賞。東京国立近代美術館開催の「現代日本陶芸展」に「備前水指」出品。上野松坂屋で加藤唐九郎と二人展開催。
1960年(64歳) – 山陽新聞賞受賞。岡山県文化賞受賞。岡山県文化財保護協会理事、備前町文化財保護委員長となる。
1961年(65歳) – 富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ来訪。
1962年(66歳) – 名古屋丸栄にて個展開催。日本工芸会理事となる。
1963年(67歳) – 奥村土牛・酒井三良来訪、釘彫り制作。小山富士夫来訪制作。立花大亀来訪、釘彫り制作。
1964年(68歳) – ハワイ大学夏期講師に招待。滞在中ホノルルにて「金重陶陽・道明二人展」開催。「現代国際陶芸展」に「備前壺」出品。加藤土師萌来訪制作。井伏鱒二来訪。
1965年(69歳) – 磯野風船子・吾妻徳穂・谷川徹三・菊地一雄がそれぞれ来訪。岡山県工業試験所陶磁器指導所の講師になる。
1966年(70歳) – 「人間国宝五人展」出品。紫綬褒章受章。岡山天満屋にて「陶歴五十五年記念・金重陶陽回顧展」開催。
1967年(71歳) – 昭和天皇・香淳皇后備前来訪の際、御前制作。大阪高島屋にて「金重陶陽・素山・道明三人展」開催。国立岡山病院にて死去。勲四等旭日小綬章受章。
伊勢﨑 淳(いせさき じゅん、1936年2月20日 – )は、日本の陶芸家。備前焼の人間国宝。
経歴
1936年、伊勢崎陽山の次男として、岡山県備前市伊部に生まれる。同じく陶芸家の伊勢﨑満は兄。1959年、岡山大学教育学部特設美術科卒業。
1960年、伊勢﨑満とともに、姑耶山古窯跡に中世の半地下式穴窯を復元。1966年、日本工芸会正会員。1978年、岡山大学特設美術科講師に就任。1998年、岡山県重要無形文化財保持者に認定。社団法人日本工芸会理事および日本工芸会中国支部幹事長に就任。2004年9月2日、重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
受賞歴
1981年 金重陶陽賞
1993年 岡山県文化奨励賞
1996年 山陽新聞賞(文化功労賞)
2005年 岡山県文化賞
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 – 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。晩年は「今良寛」と呼ばれた。
経歴
岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に生まれる。高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。翌1909年に退官し、安田銀行に入行。1927年(昭和2年)に古河電気工業会社に勤務。翌1928年に日光精錬所に勤める。処女歌集『夕暮』を「清水匕舟」の名で刊行する。1929年に歌誌『二荒』を創刊、主宰となる。
1930年要請を受け栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の町長となり、日光の観光行政の基礎を作り上げた。1935年に、萩原朔太郎、岡本かの子、中河与一等を中禅寺湖畔に招き「慈悲心鳥を聴く会」を主催し、「歌人町長」と呼ばれた。この年、号を「比庵」に改める。1939年に部下の不祥事により町長を引責辞任し千葉県市川市に移る。歌誌『二荒』が友誌の『下野短歌』に合併、その主宰となる。町長辞職後は和歌、書などの創作活動に専念する。
戦後になると、1958年に日光市名誉市民となる。1966年宮中歌会始の召人となる。この時の御題は「声」であった。1968年に地方の歌誌であった『下野短歌』が全国的規模に発展し『窓日』と改称、その主宰となる。1971年に高梁市名誉市民となる。1975年に東京にて逝去。享年92。墓所は岡山県笠岡市の威徳寺。
雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) – 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。
備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
また、現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高い評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。
生涯
秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)
応永27年(1420年)、備中赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
享徳3年(1454年)頃周防に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたようで、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある[1]。
応仁2年(1468年)に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る。(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った「破墨山水図」にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪や李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した。(彷夏珪山水図・彷李唐牧牛図、何れも重文)大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した。(雪舟の書いた風景画の景観は、現在、中国の各地に今も残っている)文明元年(1469年)に帰国し、周防のほか豊後や石見で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃へ旅行。文亀元年(1501年)頃には天橋立に赴き作品を残している。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国・益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の「牛庵一代御泰公之覚書」で「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)と有る。
雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。
雲谷庵(復元)(2005年5月撮影)
涙で描いた鼠
雪舟についてこんな伝説が残っている。
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
これは雪舟について最もよく知られた話である。但し初出は江戸時代に狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)で、後年の創作という説もある。
神格化
天橋立図(京都国立博物館)
雪舟の神格化は江戸時代から始まった。当時画壇を支配していた狩野派が、雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『信仰祇園祭礼記』(人形浄瑠璃・歌舞伎作品。宝暦7年12月(1758年1月)初演。雪舟の孫娘、雪姫が活躍する「金閣寺」の場が有名)のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。
主要作品
秋冬山水図(冬景図)(東京国立博物館)
慧可断臂図(斉年寺)
国宝
秋冬山水図 2幅(東京国立博物館)
四季山水図巻(山水長巻)1巻(毛利博物館、文明18年(1486年)) 毎年11月頃に公開
山水図(破墨山水図)(東京国立博物館、明応4年(1495年))
慧可断臂図(愛知県・斉年寺、明応5年(1496年)) 戴進(1388-1462)「達磨至慧能六代祖師図」(遼寧省博物館、瀋陽)の構図に倣ったと見られる。
天橋立図(京都国立博物館)
山水図(個人蔵)牧松周省・了庵桂悟賛
重要文化財
雪舟作品
四季山水図 4幅(東京国立博物館)
四季山水図 4幅(石橋美術館)
四季山水図巻(山水小巻) 1巻(京都国立博物館)
倣高克恭 山水図巻 1巻(山口県立美術館)
倣夏珪 夏景山水図(個人蔵)
倣夏珪 冬景山水図(個人蔵)
倣李唐 牧牛図(牧童)(山口県立美術館)
倣李唐 牧牛図(渡河)(山口県立美術館)
倣梁楷 黄初平図(京都国立博物館)
倣玉澗 山水図(岡山県立美術館)
山水図(香雪美術館)
益田兼堯像(益田市立雪舟の郷記念館)文明11年(1479年)
毘沙門天図(相国寺承天閣美術館)
伝雪舟筆花鳥図
花鳥図屏風(前田育徳会)
四季花鳥図屏風(東京国立博物館)
四季花鳥図屏風(京都国立博物館)
「拙宗」印のある作品
山水図(京都国立博物館)
山水図(正木美術館)
雪舟庭
常栄寺庭園(山口県山口市)。雪舟が築いた庭園の一つである
雪舟が築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。
芬陀院 京都府京都市東山区 東福寺
医光寺 島根県益田市染羽町 (国の史跡及び名勝)
萬福寺 島根県益田市東町 (国の史跡及び名勝)
小川家雪舟庭園 島根県江津市和木町
西方院跡 広島県廿日市市宮島 大聖院
常栄寺 山口県山口市宮野下 (国の史跡及び名勝)
普賢寺 山口県光市室積
旧亀石坊庭園 福岡県田川郡添田町 英彦山 (名勝)
魚楽園 福岡県田川郡川崎町 (名勝)
吉峯家雪舟庭 大分県中津市山国町中摩
参考事項
雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人である。昭和31年(1956年)に開かれた世界平和会議で世界平和文化人として日本から選ばれたのが雪舟だった。それを記念してソビエト連邦とルーマニアで切手が発行された。
山口市の雲谷庵跡には庵が復元されている。
島根県益田市の大喜庵には雪舟の墓所がある。
岡山県井原市の重玄寺跡には雪舟のもとの伝えられる墓が残る。
ニューヨーク市内の路上で雪舟の絵が売られていたことがある。
2008年、スミス・カレッジ美術館に個人から『芦葉達磨図』が寄贈された。拙宗筆。
浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう、延享2年(1745年) – 文政3年9月4日(1820年10月10日))は、江戸時代の文人画家。名は孝弼(たかすけ)。字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。父は宗純。
経歴
国宝 凍雲篩雪図
浦上玉堂廟所(本能寺)
1745年(延享2年)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の藩邸に生まれる。玉堂は播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔で、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているようである(「浦上家系図」では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。
若年より、学問、詩文、七絃琴などに親しむ。35歳のとき、中国・明の顧元昭作と伝わる「玉堂清韻」の銘のある名琴を入手したことから「玉堂」を名乗るようになる。鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったが、琴詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなかったらしい。50歳のとき、武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年ほど前に亡くなっていた)。以後は絵画と七絃琴を友に諸国を放浪、晩年は京都に落ち着いて、文人画家として風流三昧の生活を送る。特に60歳以降に佳作が多い。代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として知られる。
代表作
国宝
凍雲篩雪図(とううんしせつず)(川端康成記念会所蔵)
重要文化財
山中結廬図 (東京国立博物館蔵) 絹本淡彩 寛政4年(1792年)
煙霞帖(梅沢記念館蔵)紙本著色 文化8年(1811年)
秋色半分図 (愛知県美術館蔵) 紙本墨画淡彩 文政元年(1818年)
酔雲醒月図 (愛知県美術館蔵) 紙本墨画淡彩 文政元年(1818年)
山水図(深山渡橋図) (愛知県美術館蔵) 紙本墨画淡彩 文政元年(1818年)
五言絶句(愛知県美術館蔵)文政元年(1818年)
「秋色半分図」から「五言絶句」までの4点は別々に表装されているが、本来は1幅に描かれていたもの。
山紅於染図(さんこうおせんず)(愛知県美術館蔵)
双峯挿雲図(出光美術館蔵) 紙本墨画
籠煙惹滋図(ろうえんじゃくじず)(出光美術館蔵) 紙本墨画
一晴一雨図 (個人蔵) 紙本墨画淡彩
山雨染衣図 (個人蔵)
鼓琴余事帖 (個人蔵)
児島虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4月3日 – 1929年(昭和4年)3月8日)は、日本の洋画家。
経歴
児島虎次郎記念館
岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉 雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館、仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)異例の早さで卒業。
1908年(明治41年)ヨーロッパに留学。1909年(明治42年)ベルギーのゲント美術アカデミーに入学。1912年(明治45年)には同校を首席で卒業し、大正元年となった同年11月に帰国。1913年(大正2年)石井十次の長女・友子と結婚。その後、絵画制作の傍ら中国・朝鮮を旅行。また、孫三郎の依頼を受け絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入した。この収集品が後の大原美術館建設の礎となった。
1924年(大正13年)明治神宮奉賛会より明治天皇を讃える壁画の作成を依頼された。しかし病に倒れ、この作品を完成することなく1929年(昭和4年)死去した。享年47。なお、この壁画は友人の吉田苞により1934年(昭和9年)に完成し、明治神宮聖徳記念絵画館に所蔵されている。
1972年、倉敷紡績記念館(現倉敷アイビースクエア)内に、彼を顕彰し大原美術館別館として「児島虎次郎記念館」が開設されている。
主な作品
西洋婦人像(制作年不詳、油彩・カンヴァス、114.5×89.0 額寸133.0×107.7cm、東京芸術大学大学美術館蔵)
支倉常長像(制作年不詳、油彩・カンヴァス、81.8×66.7cm、東京芸術大学大学美術館蔵)
静物(草花)(制作年不詳、油彩・カンヴァス、神奈川県立近代美術館蔵)
漁夫(1905年、油彩・カンヴァス、96.0×129.0cm、東京芸術大学大学美術館蔵)
里の水車(1906年、大原美術館蔵)
登校(1906年、高梁市成羽美術館蔵)
なさけの庭(1907年、宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 石井十次が設立した岡山孤児院に取材。同年の東京府勧業博覧会へ出品され一等賞授賞、宮内庁買上の栄誉を受けた児島の出世作。
宵の灯(1907年、油彩・カンヴァス、53.0×41.0cm、倉敷市立美術館蔵)
裸婦素描(1910年、鉛筆・紙、8.0×30.0cm、岡山県立美術館蔵)
日本服を着たる白耳義の少女(1911年、油彩・カンヴァス、81.8×65.7cm、三重県立美術館蔵)
奈良東大寺(1916年、油彩・カンヴァス、66.2×54.0cm、岡山県立美術館蔵)
ストックホルム(1922年、油彩・カンヴァス、57.7×67.5cm、茨城県立近代美術館蔵)
中山茂子像(1923年、油彩・カンヴァス、65.3×53.2cm、公益財団法人東京富士美術館)
酒津の庭(水連)(1924年–1928年頃、静岡県立美術館蔵)
水仙を持つ少女(1926年、162.0×113.8cm、岡山県立美術館蔵)
対露宣戦布告御前会議(未完、死後の1934年吉田苞により完成、明治神宮聖徳記念絵画館蔵)
正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、明治16年(1883年)8月21日 – 昭和37年(1962年)3月14日)は、日本の洋画家。
経歴
岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。明治35年(1902年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、明治40年(1907年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業。
大正3年から5年(1914年 – 1916年)、大正10年から13年(1921年 – 1924年)にかけてヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。この時アンリ・マティスにも学んだ。大正4年(1915年)前年に創立したばかりの二科会会員となる。第二次世界大戦前は二科会の重鎮として活躍した。東京都中野区東中野にアトリエを構えていたが、昭和20年(1945年)空襲によりアトリエを焼失し作品の多くを失った。
戦後は昭和19年(1944年)に解散した二科会に代わり、昭和22年(1947年)正宗は熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した。晩年は富岡鉄斎の研究を行った。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年(明治17年)9月16日 – 1934年(昭和9年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。
概要
数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。
世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。
画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。
経歴
年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)
(年代の後は満年齢を示す)
夢二生家
夢二の絵葉書(1910年)
夢二の絵葉書(1912年)
竹久夢二寓居跡、京都市東山区二寧坂
1884年(明治17年)0歳
9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。
1899年(明治32年)15歳
神戸の叔父宅に寄宿、兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退。
1900年(明治33年)16歳
父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎もしばらく製鉄所で働く。
1901年(明治34年)17歳
家出して単身上京。
1902年(明治35年)18歳
早稲田実業学校専攻科入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書。
1903年(明治36年)19歳
1904年(明治37年)20歳
1905年(明治38年)21歳
友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退。
1906年(明治39年)22歳
童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描く。
1907年(明治40年)23歳
岸たまきと結婚。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当。
1908年(明治41年)24歳
長男・虹之助誕生。
1909年(明治42年)25歳
たまきと協議離婚。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
1910年(明治43年)26歳
たまきと再び同棲し、その後、二児をもうける。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行『宵待草』を発想。
1911年(明治44年)27歳
次男・不二彦誕生、たまきと別居。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
1912年(明治45年)28歳
雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。、京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
1913年(大正2年)29歳
11月 絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表。
1914年(大正3年)30歳
日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会う。
1915年(大正4年)31歳
婦人之友社より雑誌『子供之友』、『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別。
1916年(大正5年)32歳
2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画する。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、よそへやられる。
1917年(大正6年)33歳
高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧会」を開く。
『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。
1918年(大正7年)34歳
『宵待草』セノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなる。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻る。
1919年(大正8年)35歳
寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」
1920年(大正9年)36歳
彦乃25歳で病没。『長崎十二景』、『女十題』のシリーズ制作。
1921年(大正10年)37歳
お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つ(6年後には離別)。福島・会津を旅行、各地で展覧会。
1922年(大正11年)38歳
春、山形方面へ旅行、滞在。夏、不二彦と富士登山。
1923年(大正12年)39歳
恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を「都新聞」に『東京災難画信』として寄稿連載。
1924年(大正13年)40歳
アトリエ兼自宅・少年山荘(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。この年に発刊された雑誌『婦人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画といわれる木版画「秋のしらべ」などを発表。
1925年(大正14年)41歳
作家・山田順子と交渉を持ち、お葉は去る。後、順子とも別れる。
1926年(大正15年)42歳
このころから、海外旅行を希求する。
1927年(昭和2年)43歳
『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。
1928年(昭和3年)44歳
母・也須能、没(享年72)
1929年(昭和4年)45歳
1930年(昭和5年)46歳
4月、群馬・伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究所」の構想を練る。
1931年(昭和6年)47歳
父・菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米。
1932年(昭和7年)48歳
前年より米国に1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。
9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧。約1年の滞欧中、ドイツ・チェコ・オーストリア・フランス・スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。
1933年(昭和8年)49歳
ベルリンに滞在の後、8月19日ナポリを発ち、9月18日、神戸に帰国する。10月26日、台湾を訪れ講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月11日、帰国、結核を患って病床につく。
1934年年(昭和9年)50歳。実際には満49歳11ヶ月で逝去。
1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長の手配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)に入院。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。49歳没。有島生馬らにより9月19日東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬される。戒名「竹久亭夢生楽園居士」。墓碑には有島生馬に依る揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれている。
東京・雑司ヶ谷霊園にある竹久夢二の墓
関わった女性達
恋愛遍歴についても数々の評伝があり、自身の日記や手紙などで語られる愛の言葉は、後世の多くの創作の題材ともなっている。とくに、下記3人が「夢二をめぐる3人の女性」として、しばしば取り沙汰される。
たまき
たまき(1912年頃の撮影)
1882年7月28日 – 1945年7月9日、石川県金沢市出身、本名は岸他万喜。
戸籍上唯一妻となった女性である。兄を頼って上京後、結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヵ月後には結婚にいたった。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。
夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁にいたる。しかし、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、また夢二亡き後も終生彼を慕い続けたという。
彦乃
彦乃(1918年頃の撮影)
1896年3月29日 – 1920年1月16日、山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ、本名は笠井ヒコノ。別名に山路しの。
日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。 たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父の手によって東京に連れ戻され、夢二は本郷菊富士ホテルに移るが、面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。
夢二は彦乃を最も愛していたようであり、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。「彦乃日記」をのこす。
お葉
お葉(1919年頃の撮影)
1904年3月11日 – 1980年10月24日、秋田県出身、本名は永井カ子ヨ。
上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった。藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に所帯をもつ。大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ。一児をもうけるが夭折。翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。
『黒船屋』のモデル
黒船屋
夢二の代表的な絵画作品である『黒船屋』のモデルは、彦乃説、お葉説がある。ただし、構図はヴァン・ドンゲンの「黒猫を抱ける女」を参考にしたといわれる。同じモチーフによる木版画や本の装幀もある。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 – 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。
岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。
2005年9月30日、心不全のため死去した。101歳没。
経歴
遊魚(南画院入選)
雨逆風饕(帝国美術展入選)
南禅寺管長柴山全慶老師に師事
社団法人日本南画院創立に参加
勲四等旭日章を受ける。
現代南画協会設立、理事長となる。
日本南画院理事長に就任。
大阪府守口市名誉市民の称号を受ける。
勲三等瑞宝章を受ける。
兵庫県文化賞を受け、兵庫県公館に作品が展示保存される。
滝川記念美術館玉青館が開館(南あわじ市)。
現代南画美術館完成(守口市)
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 – 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田昇一。
経歴
岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。
1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。この頃はエドヴァルド・ムンクに傾倒し1923年(大正12年)関東大震災の惨状を描いた洋画風の「災禍の跡」を帝展に出展するが落選。一旦は倉敷に帰郷し、しばらく寺に隠って画作の研究を行う。1926年(大正15年)京都市立絵画専門学校研究科(現・京都市立芸術大学)を卒業。1928年(昭和3年)第9回帝展にて「雪の大阪」が、1930年(昭和5年)第11回帝展で「烏城」が、それぞれ特選となる。
1936年(昭和11年)より1949年(昭和24年)まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)助教授をつとめる。1953年(昭和28年)に画塾・青塔社を主宰する。1960年(昭和35年)「波」で日本芸術院賞を受賞。1976年(昭和51年)日本芸術院会員に選任される。
1984年(昭和59年)文化功労者として表彰される。1986年(昭和61年)倉敷市名誉市民となる。1987年(昭和62年)文化勲章を受章する。翌1988年(昭和63年)急性心不全のため京都市にて死去、享年92。
若年より歌川広重に傾倒した。法被姿で広重の足跡を辿り、東海道五十三次を3度も旅した。生涯、自然と旅を愛し全国を旅して回った。晩年は種田山頭火に傾倒し、山頭火の俳句をモチーフに画作を行い、山頭火の姿で旅をした。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 – 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
略歴
1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。
等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作
「郷土風景」(1917年) – 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) – 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) – 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) – 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) – 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) – 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) – 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) – 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) – 京都国立近代美術館
国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 – 1953年5月14日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市中出石町(現・岡山市北区出石町一丁目)出身。 20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。
経歴
誕生・および幼少期
国吉は1889年、岡山市内に人力車夫・国吉宇吉と以登の一人息子として誕生。弘西小学校、内山高等小学校を経て1904年に岡山県立工業学校の染料科に入学したが、1906年に退学し、カナダ経由でアメリカに渡った。国吉自身は渡米の理由について「父の助言」と後に述べたが、英語の習得を目的とした一少年の冒険とも評され、また当時は日本人のアメリカ移民が流行していた事も背景にあるといわれる。しかし同年はアメリカが帰化法を改正して、日本人移民1世のアメリカ国籍取得を事実上不可能にした年でもあった。
アメリカへの移住、画学生時代
国吉のアメリカ生活はシアトルから始まり、鉄道工夫、農業労働者、ホテルの雑役夫により糊口を凌いだ。次いでロサンゼルスに移動して肉体労働に従事する傍らに公立学校に通い、その後スクール・オブ・アート・アンド・デザインに入学して画学生となった。1910年に国吉はニューヨークに移動し、ナショナル・アカデミーに入学するが3カ月で退学し、その後1914年にインディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学した。この前年にはヨーロッパのモダニズム芸術を紹介してアメリカの保守的な美術界に衝撃を与えたアーモリー・ショーが開催されたが、国吉自身は仕事のためこれを直には見ていない。しかしアーモリー・ショーがもたらした熱気に国吉も人づてながら触れていた。
国吉は更にヘンリー・スクールを経て、1916年にアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、ケネス・ヘイズ・ミラー(英語版)の指導を受けた。アート・ステューデンツ・リーグの在学中に、国吉はジュール・パスキンやロイド・グッドリッチなど後に国吉を支える多くの人物と出会った。最初の妻となる画家キャサリン・シュミットとの出会いもここである。
1917年、国吉は1917年、新独立美術協会展に作品を出展した後、当時のアメリカの前衛画家が集っていたペンギン・クラブに誘われて展示会に出品し、画家活動の第一歩を踏み出した。同時期に国吉は資産家のハミルトン・イースター・フィールドから生活の援助を受け、彼の影響もあり国吉の画風はアメリカ的モダニズムへと進んでいく。このころの作品は印象派のルノワールの作風、セザンヌの色調の影響を受けている。代表作に『自画像』(1918)、『テーブル前の女』(1917)などがある。
1919年には国吉はキャサリンと結婚するが、アメリカ国籍を持たない国吉と結婚したため、当時のアメリカ法によりキャサリンもアメリカ国籍を剥奪されてしまった。
アメリカモダニズム画家へ・幻想的表現主義の展開(1920年代)
1922年、国吉がダニエル画廊で開いた個展がアメリカメディアに大きく注目され、彼の作品の素朴さや独自性、モダニズムの中にある繊細性などが評価された。その後ダニエル画廊での個展は毎年続き、国吉は独特な素朴派画家として売り出していった。当時の国吉について、ヨーロッパとも日本とも違うアメリカのモダニズムを生み出したという評価もあり、国吉はヨーロッパの模倣ではないアメリカ画家としてアメリカに受け入れられていった。
ロイド・グッドリッチは当時の国吉の画風を「東洋趣味とモダニズムのユニークな混合」と評し、ミルトン・ブラウンは「20年代の国吉の作品はマルク・シャガールなどの表現主義に近い」と評した。村木明は当時の国吉の画風について、国吉独自の作風を示すもので、それなりの意図と工夫があり、国吉の日本時代の生活記憶と空想・ユーモアから生まれた幻想的表現主義であると述べた。。当時の代表作に『野馬』(1920)、『海辺』(1920)、『海岸の家』(1922)、『釣りをする少年』(1922)、『フルーツを盗む少年』(1923)、『暁を告げる雄鶏』(1923)などがある。
また同1922年にはモダニズム画家が集っていたサロンズ・オブ・アメリカの会長職を、死去したフィールドから引き継ぎ、1936年まで務めた。
1925年、国吉はジュール・パスキンの誘いを受けてパリに渡る。エコール・ド・パリの初期に当たるこの時、国吉は特にサーカスの少女を好んで描き、サーカスの少女は後々まで希望の象徴として国吉の絵に登場する事になる。1928年に国吉は再びパリを訪れ、エロティックな性質の作品を手掛けた。またこの時にモーリス・ユトリロ、シャイム・スーティン、ピカソらと交流し、彼らの写実的な手法に影響を受けた。
1929年、国吉はニューヨーク近代美術館により現代アメリカ絵画を代表する1人として、「19人の現代アメリカ画家展」に選出された。この時期の国吉は絵画「横たわる裸婦」などで流動的なリアリズムを表現した。当時のアメリカ美術界では、アメリカ独自のものをどう表現するかという課題を持っており、日常のリアリズムを表現するアメリカン・シーン(英語版)が流行した。国吉はここでも活躍した。
1930年代の動向・時代性の素描
1931年10月、国吉は故郷で重病となった父を見舞うため日本に一時帰国した。その際に日本の美術界による帰国歓迎会が催され、二科会の会員に推薦されたり、東京・大阪・岡山で個展も開かれた。国吉の帰国は日本で一時的な話題にはなったが、絵は2点しか売れないなど、国吉の芸術が日本側に理解されたわけではなかった。また日本滞在中に警官に対して敬礼しなかったために、警官から激しく罵倒されるといったアクシデントもあり(国吉はこの件を劇画に残した)、以降の国吉は日本社会と馴染む事を断念する。アメリカに戻った後に妻キャサリンと離婚する。1935年に女優・ダンサー・モデルのサラ・メゾと再婚した。
1933年、国吉は母校のアート・ステューデンツ・リーグの教授に就任。またリベラル的な芸術家の集団であるアン・アメリカン・グループの委員長となる。
1930年代には世界的なファシズムの波が覆う一方で、ファシズムに反対する運動も活発化していた。国吉も自らを育んだ民主主義を守るべく、1936年にアメリカ美術家会議(英語版)に参加して全米執行委員・展覧会委員長に就任し、反ファシズム運動に身を投じた。国吉はアメリカ美術会議にて反戦・反ファシズムや文化振興といったテーマの展覧会を開催した。しかし後にソ連がドイツと接近した事、特にソ連のフィンランド侵攻に対する評価をめぐってアメリカ美術家会議内では対立が顕在化し、国吉は1940年にアメリカ美術家会議を脱退した。
当時の国吉の画風は、写実性と時代性が複合したものといわれ、女性をモチーフとした各絵画に表れている。
太平洋戦争と国吉
1941年の日米開戦の際、国吉はニューヨークに住んでいたためにアメリカ西海岸の日系人強制収容の対象にはならなかったが、敵性外国人として当局によって取り調べやカメラ双眼鏡の没収、またニューヨーク市外に出る際には許可が必要といった措置を受けた。法律上はアメリカ国籍を取得できなくとも、既に「アメリカ人画家」としてのアイデンティティを持っていた国吉は傷ついたプライドを回復し、また自身がアメリカに敵対しない事を証明する必要に迫られた。一方で国吉は自らを育んだアメリカの民主主義を守る必要を感じ、満州事変以降の日本の中国侵略に対しては日米開戦前から疑問を抱いていた。
1941年12月12日、国吉はまずニューヨーク在住日本人美術家委員会の名で声明を出し、日米戦争に際してアメリカを明確に支持すると表明した。これには保忠蔵やトーマス永井、鈴木盛、ロイ門脇といった在米日本人・日系美術家が加わった。この他にも国吉は同様の声明をルーズベルト大統領やニューヨーク州知事、更に多くの知人宛てに送った。
やがて国吉はアメリカの戦時情報局(OWI)から対日プロパガンダの仕事を受ける。1942年にハワイからの対日ラジオ放送に参加し、アメリカ民主主義の正当性を日本に向けて主張した。
一方で当時の国吉には在米日本人・日系人社会(特に西海岸)との意識のずれがあったという指摘がある。国吉は在米日本人・日系人社会について、閉鎖的である、本国政府に従順すぎるといった批判を行っているが、日米戦争に際してアメリカ政府側に無批判に立ち、他の在米日系人に対して優位な感情を持つ傾向は、国吉のみならず東海岸に居住していた日本人・日系人に共通して見られた事でもあった。
また国吉の対米戦争協力の個々の行動についても批判がある。OWIから「日本側の残忍な拷問や虐殺」のシーンをポスターに書くよう要請された際、国吉はこれに応じて日本兵が乳児や女性を殺害しているなどのシーンのポスターを描いたが、こうしたものは批判精神を欠いた、ただ残虐なだけのものであった(このような残虐なポスターは結局採用されなかった)。また、インタビューの中で国吉は(日本兵の士気を削ぐためとはいえ)、日本の民間に対する爆撃を肯定しかねない発言を残している。これは日本の支配者側として戦争を遂行している日本の軍国主義者と、被支配者側である日本の一般国民を区別している国吉の基本姿勢とも矛盾していた。
一方で、国吉はOWIでプロパガンダポスターを描いていた際、ポスター内の人物から人種的な特徴を排除し、人種に関係なく戦争で傷つく人間を描こうとしていたという指摘もある。また国吉はOWIに参加した当初、徳川時代の将軍・鎧武者をモチーフにしたポスターを描いたが、これはOWIに「芸術的だが大衆へのインパクトに欠ける」という理由で却下されていた。「残虐なポスター」は、OWI側から「最近の日本の残虐行為」を描くように促された結果でもあったという。国吉は当時のアメリカではびこっていた、「日系人は日本の天皇のみに忠誠を誓い、アメリカには忠誠心を持たない」という偏見と闘わなければならなかった。国吉が従事した対日放送はアメリカ国内でも評価され、アメリカにおける反日系主義を和らげる効果もあったが、一方で日本人を悪魔同然に描く風潮は当時のアメリカでは強かった。そしてOWIが商業主義的な手法も使ってプロパガンダを進めた結果、純美術主義で先進的な考えを持ち、国吉と考えが近かったベン・シャーンなどがOWIから離脱した。国吉自身はOWIに残留したが、保守派からの批判を受けることになる。そして国吉が描いたOWI不採用ポスターは、「日本に詳しい日本人」(国吉自身は何十年も日本から離れており、実際には詳しくないにも拘らず)が描いたものとして、実際のシーンを描いたものではないプロパガンダポスターであることを読者側に隠されたまま、対日批判報道に援用された。
この時期の国吉は不安と孤独感に苛まれ、戦争の悲惨さと虚無感が彼の作品に影響を与える。国吉の代表作の一つである「誰かが私のポスターを破った」(1943年)は、アメリカの好戦的なナショナリズムや、国吉らのリベラル派画家への反感が背景にある。一方で国吉は静物画での比喩的心理表現や造形的な楽しみを見出し、「110号室」(1944年)はカーネギー・インスティチュート全米絵画展で1等賞となった。終戦前後になると国吉は貧民層を描いた「一日の終わり」(1945年)など、現実に回帰した作品を手掛けた。また「飛び上がろうとする頭のない馬」(1945年)や、「祭りは終わった」(1947年)では、排外的になるアメリカの世相への失望を表したとも言われる。
戦後~晩年
戦後の国吉はアメリカの美術家に対する公私の援助拡大を志向し、美術家組合(artist equity association)を1947年に設立して自ら会長となった。国吉のもとで美術家組合は急成長し、ニューヨークが世界の美術界の中心になっていく事に貢献する。一方で戦後アメリカの激しい反共主義を背景に、国吉や組合も政治的な攻撃を受けたが、国吉はこれを冷静にかわした。1948年にホイットニー美術館で国吉の回顧展が開かれた事は、アメリカ美術界で国吉が確固たる地位を得ていた証であった。
国吉は1950年ごろから体調を悪化させていく。1952年6月にはアメリカは移民帰化法を裁可し、国吉らアジア人移民一世にもアメリカ国籍取得の道が開けたが、国吉は国籍取得手続きの終了を待つことなく、1953年に胃癌で死去した。国吉は晩年、もう一度日本に帰って回顧展を開き、自身の作品を日本に問おうと希望していたが、叶わなかった。
私生活
私生活においては二人の米国人女性(キャサリン・シュミット(Katherine Schmidt、婚姻期間13年)、サラ・メゾ(18年間))と結婚している。
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、(1874年(明治7年)11月10日 – 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。十五老とも称した。
略歴
『戦の話』 1906年 倉敷市立美術館
『緋毛氈』 1932年 大原美術館
幼少期
1874年11月10日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年明治24年、ついに中学を三年で退学。徳永仁臣をたよって上京するとき、吉富朝次郎から「総社は東洋画の大家雪舟を出した地である。君も大いに頑張って西洋画の第一人者となり給え」と励まされた。
青年期
東京で五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾「不同舎」で苦学力行して、1898年(明治31年)油絵「林大尉の死」を発表した。明治美術館明治美術館創立十周年記念展の会場に明治天皇がたまたま見に来られ、その絵の前にしばらく立ち止まられて感激され、たいへんほめたたえられたといわれている。その作品が宮内省の買上げという光栄に浴し、明治32年には「妙義山」が外務省に、1900年(明治33年)の「尾道港」は再び宮内省に買上げとなり、彼の名声が一挙にたかまった。1900年(明治33年)には、水彩画「蓮池」をフランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり銅メダルを獲得した。
第二期客観時代
鹿子木孟郎らとアメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン・ポール・ローランスの門に学んだ。1902年(明治35年)帰国するや、吉田博・丸山晩霞等と語らって「太平洋画会」を創立し、その理事となった。第二回太平洋画展に「楽しきたそがれ」、1907年(明治40年)東京勧業博覧会には「戦の話」「かりそめのなやみ」を発表し、1等受賞。翌年の文展に「車夫の家族」などを次々に発表。国四郎は三十四歳という若さで文展審査員のひとりに挙げられた。この頃は、社会風物を鋭く描いた時期である。1911年(明治44年)、大原孫三郎の援助で再度渡欧し、パリで初歩からデッサンに取り組み勉強した。新しい研究成果を身につけて1912年(大正元年)に帰朝、後期印象派などの影響により、幾分象徴主義的な画風へと転じた。そのころの作に「椅子による裸婦」「長崎の人」などがある。
その後、画面は次第に醇化され、独自の画境が切り開かれていった。
晩年期
四度にわたる中国旅行で、明治リアリズムからの蝉脱を模索していた国四郎は、大陸の自然や風物に接し、「十五老」(国四郎のもじりで、九・二・四老)と称して、油絵具を使いながら、彼の絵には東洋画の落ち着きと、気品が加わった。また筆やすみを使って、山水を描く南画風の絵も描くようになり、いっそう独特の画境を示すようになった。1925年(大正14年)には帝国美術院会員となり、太平洋画会の一員として多くの後進を指導し、岡山県人では吉田苞・柚木久太・片岡銀蔵・三宅円平・石原義武らを育てた。
晩年の作品は、的確なフォルム、温か味のある色彩により、平明で装飾的な画面を作りあげている。「女ふたり」「緋毛氈」などの彼の代表作がこの頃の作品である。また明治神宮壁画には、「慈恵病院行幸図」を製作している。
その他の逸話
中村不折は国四郎を評して「幸か不幸か満谷君には文章が書けぬ。しゃべるのも下手だ。それで自分というものの吹聴や説明がうまくできぬのだ。そこで君は黙って仕事をしていくより他はない。なんらのかけひきもなく、ただ作品そのもの、言いかえれば芸術の力のみによって、ひた押しに押して行こうとするのが満谷君である。」と言っている。
総社市立総社小学校校長室に掲げられている「フランス・ブルターニュ半島の風景」は、国四郎の遺志によって、1937年(昭和12年)5月、遺族によって贈られたものである。その当時の校長重政良一は、「満谷国四郎略伝」の中で、「我等ニハ是ノ如キ大先輩アリキ 出デヨ 第二ノ満谷国四郎、第三ノ雪舟禅師 今此ノ文ヲ草シテ未来ノ画聖ヲ待望シ必ズ出ズベキコトヲ確信ス。諺ニ『二度アルコトハ三度アル』ト」と記している。
雪舟が幼少時代に修行した宝福寺(岡山県総社市井尻野)三重塔西側に、満谷国四郎の顕彰碑が建てられている。
略年表
1892年 上京小山正太郎の不同舎で学ぶ。
1898年 明治美術会創立10年記念展へ「林大尉の戦死」「妙義山」出品。
1900年 パリ万国博覧会へ「蓮池」出品銅牌受賞。鹿子木孟郎らと渡米。
1901年 渡欧。
1907年 東京勧業博覧会へ「戦の話」「かりそめの悩み」を出品1等受賞。第1回文展審査員となる。
1911年 柚木久太らと再渡欧、
1912年 パリでジャン=ポール・ローランスに学ぶ。
1925年 帝国美術院会員。
堀 和平(ほり わへい、1841年2月16日(天保12年1月25日) – 1892年(明治25年)5月16日)は、日本の洋画家・実業家である。岡山県洋画界の先駆者である。
略歴
氏は堀、名を和平安郷(やすさと)、杏邨(きょうそん)と称した。備中国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)西宮本町の豪商堀和助安忠の四男に生まれる。生家は備中国総社宮の神主のほか酒店、質屋、廻船問屋などを営み、屋号を「志保屋」(塩屋)と称し、備中松山藩の御用商人を務めた。二兄、三兄が早世し、長兄堀安道が病弱で学問の道に進んだため家業を継ぐ。1876年(明治9年)に玉島の西山武治や柚木金蔵ら有力者と共同で、浅口郡柏島村(現倉敷市玉島)の海面干潟に灰貝(モ貝)の養殖についての願書を県に提出したり、児島味野の足袋を作る材料でもある備中小倉織を売買するなど、実業家としての片鱗を見せている。また、1879年(明治12年)より1880年(明治13年)まで賀陽郡選出の県会議員となって活動している。明治のはじめ頃の「志保屋」はたくさんの使用人がいたらしく、雨の日には、「志保屋」と筆太に書かれた番傘をさした使用人が町内にあふれたという。
原料の洋反や呉服を仕入れるため、しばしば神戸へ出向き、そこで外人から油絵の技法を学んだ。現存作品からみると、油絵具の特質をまだ充分には把握しておらず、暗中模索の域を出ないが、伝統的な図様に写実性を加味した「天神像」(総社市立総社小学校蔵)や温かい眼差しの感じられる「母子像」などは、岡山県洋画史の巻頭を飾る重要な資料といえる。この「母子像」は1977年(昭和52年)、明治前期の代表作として、東京近代美術館にも展示されている。
彼のアトリエには、従兄の息子であった満谷国四郎や、吉富朝次郎などがたびたび通い、大きな影響を受けたと思われる。二人は後に、日本における洋画の歴史の上で、大切な役割を果たすことになる。1891年(明治24年)九州の石炭を外国へ輸出する貿易商の仕事を始め、神戸へ移住したが、1892年(明治25年)病気のため急逝した。
和平は、兄堀安道と共に、岡山県立総社高等学校西側の墓地に眠り、墓石には「香屋安郷夫婦の墓」と刻まれている。
吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶応4年2月17日) – 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の洋画家である。岡山県における美術教育に尽力した。
略歴
良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。また、下道郡新本村(現総社市新本)出身の稲葉春生も教え子である。
1885年(明治18年)に京都府画学校洋画家へ入学し、1890年(明治23年)京都市画学校専門画科(府から市へ移管)を卒業した。大垣中学校・岐阜県師範学校で教鞭をとった後、1907年(明治40年)に、帰県して岡山県男子師範学校へ務め、美術教育に力を尽くした。当時、山本鼎が自由画を提唱したのに対して、朝次郎は写生画による指導を主張した。
1925年(大正14年)8月25日、岡山市番町へ分家、1931年(昭和6年)に師範学校を退職したが、中年からは「観石」と号し、南画や仏画にも取り組んだ。しかし遺作の大半を岡山空襲で焼失した。1908年(明治41年)作の「牛のいる川原の風景」(総社市立図書館蔵)や横長の板に描いた「読書」等はいずれも写生を主体とした詩情あふれる作品で、構図・賦彩などに時代の好尚がよくあらわれている。1941年(昭和16年)8月4日没。享年74。
兄・六橋
吉富 六橋(よしとみ ろっきょう、1863年9月27日(文久3年8月15日) – 1931年(昭和6年)6月2日)は、良吉・飛佐の長男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。本名七郎。吉富朝次郎の兄である。池上蔵六(達治)に彫刻・漆芸を学び、1929年(昭和4年)の御大典の際、その作品を宮中へ献上するほどの才を示した。中島嘉一(三橋)と親交し、「佳友会」の一員として文化の振興につくした。
備前焼(びぜんやき)は、岡山県備前市周辺を産地とする炻器。日本六古窯の一つに数えられる。備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。同地区で数多く見られる煉瓦造りの四角い煙突は備前焼の窯のものである。
歴史
産地である備前市伊部町
備前市南部から瀬戸内市内には古墳時代から平安時代にかけての須恵器窯跡が点在し「邑久古窯跡群」と呼ばれている。この須恵器が現在の備前焼に発展したといわれている。「邑久古窯跡群」で最初に築かれた窯は瀬戸内市長船町の木鍋山窯跡(六世紀中頃)で、七世紀後半~八世紀初頭になると瀬戸内市牛窓町の寒風古窯跡群周辺から瀬戸内市邑久町尻海周辺に窯が築かれる。 八世紀になると備前市佐山に窯が築かれ始め十二世紀になると伊部地区に窯が本格的に築かれ始め独自の発展へと進んでいった。
鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。
室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。
明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。陶陽は重要無形文化財「備前焼」の保持者(いわゆる人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。
第二次大戦時には、金属不足のため、備前焼による手榴弾が試作されたこともあるが、実戦投入はされなかった。
特徴
登り窯
釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出される一つとして同じものがない模様が特徴。現在は茶器・酒器・皿などが多く生産されている。「使い込むほどに味が出る」と言われ、派手さはないが飽きがこないのが特色である。
備前焼の魅力である茶褐色の地肌は「田土(ひよせ)」と呼ばれる、たんぼの底(5m以上掘る場合もある)から掘り起こした土と、山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を含む土で焼かれるからである。土の配合にもある程度比率が存在するが、各々の土を寝かす期間も存在し、出土する場所によっても成分が違ってくる。よって、作るには熟練の技が問われてくる。なお、金重陶陽は10年寝かせた土を使っていたとされる。
窯変の種類
胡麻(ごま) – 窯焚の最中に、薪の灰が融けて生地にくっ付く事によりできる模様。
桟切り(さんぎり) – 金・青・灰色などのさまざまな模様。
緋襷(ひだすき) – 藁を巻き鞘などに詰め直接火の当たらない場所で焼くことによって、生地全体は白く、藁のあった部分は赤い模様になる。赤と白のコントラストが端麗で人気も高い。
牡丹餅(ぼたもち) – 焼成時に作品の上にぐい呑みなどを置くことで、該当部分が白くなる。そのカタチが牡丹餅のようになることからこの名がつけられた。
青備前(あおびぜん) – 通常備前焼き締めは酸化焔であるが、還元焔になることで青くなる。青備前は窯中で空気があたらない箇所で焼成されると出来る。また、初代藤原楽山が考案した塩青焼という塩を用いた手法でも、独特の青備前がつくりだされる。
黒備前(くろびぜん) – 古備前の時代に焼かれた備前焼の一つ。残っている当時の作品は少ない。近年、再現する技法が研究され、備前焼窯元の六姓の一つ森家の大窯や、著名な備前陶芸家の間でも焼かれている。黒っぽいだけで黒備前と名付けられたものもあるが、本来の姿ではない。
伏せ焼(ふせやき)
虫明焼(むしあけやき)は、岡山県瀬戸内市(旧邑久町)虫明にて焼かれている陶器。清水焼の流れを汲む。天然の松灰を主原料とした灰釉(なみ釉といわれる)により、若草色や枇杷(びわ)色に発色したものが代表的な色合いである。中でも、1本の釉薬で若草色と枇杷(びわ)色が混じり合って発色した窯変(ようへん)が最大の魅力とされる。他にも京系統の流れを汲む焼物であるため、古くから鉄釉や銅釉など、多様な釉薬を作家が研究し、作品に使用して制作している。
概要
岡山藩の家老、伊木家によって始められ、6代目忠興の頃には現在の形が出来上がった。その後茶人の清風与平や宮川香山らを招き、尾形乾山や古田織部らの手法を採り入れつつも、筒描き、流し釉など独自の技法を編み出し、地位を確立させた。
昭和63年(1988年)には県指定の伝統的工芸品に指定されている。
酒津焼(さかづやき)は岡山県倉敷市で焼かれる陶器。
概要
明治2年に倉敷の豪商であった岡本末吉が地元の良質の陶土に目を付け、窯場を開いたのが始まり。当初は食器など日用雑器を焼いていた。明治後半〜大正年間には隆盛を極め、県土全体のみならず、香川県まで市場を拡大した。だが好景気も長く続かず、後に有田や瀬戸に押され衰退する。ところが、民芸運動の柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチらが来訪、民窯としての方向性を示し、指導に当たった。それにより酒津焼は一変、大量生産、大量消費型の日用雑器作りから花器や茶器など趣のある民芸陶器が主流となった。
酒津焼の特徴
酒津焼の特徴は、何と言っても器が分厚く、堅牢である。また飾りの少ない意匠で、灰釉を中心とした色であるために地味であるが、その独特の味わいは時に自然派と形容される。
羽島焼(はしまやき)は、岡山県倉敷市郊外で焼かれる陶磁器。
歴史
小河原虎吉(1902年-1972年)が、開窯。
特徴
日用品を意識して製作されたものが多く、無駄な飾りや技巧を省いた作柄で知られる。
津山箔合紙(つやまはくあいし)とは岡山県津山市横野地区(上横野・下横野)で作られている三椏(みつまた)を原料とした手漉き和紙。岡山県の伝統工芸品である。
沿革
欽明天皇16年(555)に吉備五郡(岡山県北津山地方)に白猪屯倉(しらいのみやけ)が置かれ、住民の戸籍や田籍をつくるのに紙がつくられ始めたといわれている。
特徴
薄くかさばらず、表面がなめらかで、金箔を傷つけることがないやや赤みを帯びて光沢があり、金箔や銀箔の保存保護のために使われる。古文書の修復にも使われ、銅版画用に海外へ輸出される。
製造方法
三椏のみを原料として、繊維を柔らかくするため石灰で煮込み灰炊きにて処理し、ねり剤に「トロロアオイ」を使用する。自然色(未晒)にて漉きあげ、1枚1枚板干しにて仕上げる。
備中和紙(びっちゅうわし)は岡山県倉敷市で作られている和紙。1982年に岡山県郷土伝統的工芸品に指定される。2004年には製作者の丹下哲夫が岡山県重要無形文化財保持者に認定される。
郷原漆器(ごうばらしっき)とは、岡山県真庭市の、蒜山高原で生産される漆器である。
郷原漆器の始まりは明徳年間(1390年~1394年)とも言われ、江戸時代の記録によれば年間に40万点を生産していたとされる。作られた漆器は主に山陰地方に出荷され、美しく丈夫で安価なことから「郷原輪島」と呼ばれていた。昭和20年の終戦を境に一時生産が途絶えたが、関係者の熱心な研究と協力で平成元年に復活した。
特徴
拭き漆の技法で見せる木目の美しさが最大の特徴であるといわれる。生地にはヤマグリの芯部を使っている。これは加工のしやすさと乾燥時の割れを防ぐためといわれる。[1]蒔絵などの柄を施さないシンプルなデザインで、普段使いの漆器として用いられている。「岡山県郷土伝統的工芸品(平成4年)」「岡山県指定重要無形民俗文化財(平成18年)」に指定されており、平成21年には真庭市の地域ブランド「真庭ブランド」に認定された。
岡山県知事指定郷土伝統的工芸品
手織作州絣
津山箔合紙
倉敷はりこ
撫川うちわ
備中和紙
高田硯
がま細工
烏城紬
虫明焼
津山練り天神
郷原漆器