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≪取扱い商品≫
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安部栄四郎

和紙製作家。島根県生。幼少から家業の和紙作りを手伝い、15才で出雲国製紙伝習所に入所。昭和6年、民芸運動の指導者柳宗悦に出会い、民芸運動に参加。雁皮紙の特色を生かした独特の出雲民芸紙を創作する。また、東京・パリ・アメリカ・北京で和紙展を開催。棟方志功・浜田庄司・河井寛次郎・バーナード・リーチらと親交があった。人間国宝。昭和59年(1984)歿、82才。

中国古陶磁の手法に基づいた精巧で雅な作品から実用的・独創的な作品と、様々な作風で多くの作品を残した河井寛次郎。
その芸術性は国内外で高い評価を受け、人間国宝、文化勲章などの栄典の話は多々ありましたが全て辞退し、生涯、無位無冠の一陶工を貫き通しました。

明治23年、河井寛次郎は島根県能義郡安来町(現在の島根県安来市東小路)に生まれました。
幼い頃に母親を亡くし里子に出された寛次郎でしたが、周囲の暖かい愛情に育まれ、この町で元気な明るい子供に育っていきました。
その後、島根県立松江第一中学校(現在の松江北高校)を経て東京高等工業学(現在の東京工業大学)の窯業科を卒業。本格的に陶芸家の道を歩みだします。

大正9年には京都の五条坂に窯を築き、鍾渓窯(しょうけいよう)と名付け独立。
翌年には初個展を開き、中国古陶磁の手法に基づいた精緻な作品で一躍有名になります。その評判は「国法的存在」と言われるほど高いものでした。

しかし次第に自らの作風に疑問を抱くようになった寛次郎は、濱田庄司や柳宗悦との交友の中で民芸理論に深く共感するようになり、それまでの作風を捨て実用を重んじた作品を生み出すようになります。
戦後は民芸的な作風から離れ、自由で独創的な陶器を作り始めます。その卓越した芸術性は世界でも高い評価を受け、昭和32年にはミラノ・トリエンナーレ国際工業展でグランプリを受賞しました。
人間国宝などの推薦を受けますが全て辞退。生涯無位無冠の陶工でありました。

寛次郎の活動の主となったのは京都でしたが、郷里安来が心から離れることは無く、その幼少の頃の思い出や当時の安来の町の様子を、著書「六十年前の今」「火の誓い」の中で生き生きと描いています。
また、寛次郎は折にふれて帰省し、郷里の親しい人たちと親交を深めました。その際には、自分の作った陶器を新聞紙に無造作につつみ、お土産として持帰ったなどのエピソードも残っています。そのため市内には現在も寛次郎の作品が多数残っており、寛次郎は市民の心の中に生き続けています。

安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 – )は、日本の画家、装幀家、絵本作家、元美術教員。島根県鹿足郡津和野町出身。現在は東京都小金井市在住。文化功労者。
子供の頃より、画家への夢を抱き、美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表してきた。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く[要出典]。
主な著書に、『ふしぎなえ』、『繪本平家物語』、『天動説の絵本』、『空想の絵本』、『ABCの本』、『旅の絵本』、『算私語録』、『空想工房』、『空想書房』、『わが友 石頭計算機』(『石頭コンピュータ』としてリメイクされている)など。
森鴎外の翻訳『即興詩人』(アンデルセン原作)の熱心なファンで、舞台となったイタリアの紀行文『繪本即興詩人』を発表している。

略歴
1926年(大正15年)3月20日、島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。1940年(昭和15年)山口県立宇部工業学校(現・山口県立宇部工業高等学校)採鉱科に入学。1944年1月、宇部工業学校を繰り上げ卒業、住友鉱山に就職し忠隈鉱業所(飯塚市)へ。1945年4月応召、香川県王越村(現坂出市)にて上陸用舟艇の秘匿場建設に従事。復員後、1946年、敗戦直後の混乱期に無資格のまま山口県徳山市(現・周南市)で小学校の教員を務める。のち山口師範学校(現・山口大学教育学部)研究科を修了し、1949年(昭和24年)に美術教員として上京。約10年間三鷹市の三鷹市立第五小学校や明星学園や武蔵野市立第四小学校で教師を務めるかたわら、玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。明星学園・国語部、教育科学研究会・国語部会などによる日本語指導(言語の教育)のテキスト『にっぽんご』シリーズの装幀も手がけたのもこの頃である。この小学校教諭時代の教え子に後の筑摩書房取締役の編集者・松田哲夫がおり、そのつながりで同社の多数の本の装丁をしている。二紀会に所属していたが、食べるための仕事のために出品できなくなり、1960年代に退会。
35歳のとき教師を辞して絵描きとして自立。1968年(昭和43年)、42歳の時に刊行された最初の絵本『ふしぎなえ』(福音館書店)で絵本作家としてのデビューを果たす。『ふしぎなえ』は、1961年にフランスを旅したときに目にしたエッシャーの絵に大きな影響を受け不可能図形の不思議な世界を描き、世界中で評判となった代表作である。エッシャーからの影響についてはエッセイ「『ふしぎなえ』について」(「空想工房(平凡社)」)で自ら「エッシャーの作品に魅せられて呪いにかかった」旨を述べている。

安野光雅美術館
その後次第に世界的評価が高まり、絵本は世界各国で翻訳された。文学にも詳しく、著作は多数あり、画家としても数多くの作品を発表し、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の装画も担当した。大阪府立国際児童文学館(1984年開館)のシンボルマークも担当。
2001年春に、故郷津和野町に多くの作品を、常時展覧する「安野光雅美術館」が開館した。2011年夏に神奈川近代文学館で、展覧会「安野光雅の世界」が開催。2015年夏に東京の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で、展覧会「旅の風景 安野光雅 ヨーロッパ周遊旅行」を開催。
受賞
1974年度芸術選奨新人賞、講談社出版文化賞、小学館絵画賞、ケイト・グリナウェイ賞特別賞(イギリス)、ブルックリン美術館賞、ホーンブック賞、最も美しい50冊の本賞(以上、アメリカ)、1977年BIBゴールデンアップル賞(チェコスロバキア)、1978年、1980年ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞(イタリア)など、内外の数多くの児童書・美術の賞を受賞している。1984年には、全業績に対し国際アンデルセン賞(国際児童図書評議会)を受賞した。1988年紫綬褒章。2008年菊池寛賞受賞。2012年文化功労者。
著作
1960年代
『小学校図画工作科指導細案 3・4年』 米倉正弘共著、明治図書出版、1960年
『小学校の図画工作』 米倉正弘、西光寺亨共著、明治図書出版、1961年
『たのしい木彫』 グラフ社〈手芸文庫〉、1965年
『ふしぎなえ』 福音館書店〈こどものとも〉、1968年
『イタリアのむかしばなし カナリア王子』 カルヴィーノ再話、安藤美紀夫訳、福音館書店、1969年 / 福音館書店〈福音館文庫〉、2008年
『かずくらべ』 西内久典ぶん、福音館書店〈かがくのとも〉、1969年
『さかさま』 福音館書店〈こどものとも〉、1969年
1970年代
『かず』 西内久典ぶん、福音館書店、1970年
『なかまはずれ』 福音館書店〈かがくのとも〉、1970年 / 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
『くらべてみよう』 福音館書店〈かがくのとも〉、1971年
『ふしぎなさーかす』 福音館書店〈こどものとも〉、1971年
『ふしぎなきかい』 福音館書店〈かがくのとも〉、1971年 / 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
『カットのエスプリ』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1972年
『くらべてかんがえる』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
『かずのだんご』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
『みずをかぞえる』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1972年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
『ひっかかった春』 半村良文、フレーベル館〈こどもSF文庫〉、1972年
『さよならティンク』 鈴木妙子作、偕成社、1973年
『昔咄きりがみ桃太郎』 岩崎美術社、1973年 / 『きりがみ昔咄 桃太郎・舌切雀・花咲爺』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1980年
『わが友石頭計算機』 大伏茂之監修、ダイヤモンド社、1973年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1987年 / 『石頭コンピューター』 野崎昭弘監修、日本評論社、2004年
『じゅんばん』 福音館書店〈かがくのとも〉、1973年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
『十のいましめ』 永井明文、女子パウロ会、1974年
『昔咄きりがみ舌切雀』 岩崎美術社、1974年 / 『きりがみ昔咄 桃太郎・舌切雀・花咲爺』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1980年
『昔咄きりがみ花咲爺』 岩崎美術社、1974年 / 『きりがみ昔咄 桃太郎・舌切雀・花咲爺』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1980年
『美しい数学 集合』 野崎昭弘監修、ダイアモンド社、1974年
『アーコのおみまい』 大石真作、小学館、1974年
『ジムのおばけキャベツ』 ディヤングさく、白木茂やく、文研出版、1974年
『まよいみち』 福音館書店〈かがくのとも〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
『ふしぎなのり』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
『もじあそび』 福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年
『まほうのくすり』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
『きれいなさんかく』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
『てんてん……』 遠山啓監修、福音館書店〈はじめてであうすうがくの本〉、1974年 / 『はじめてであうすうがくの絵本2』 福音館書店、1982年
『ABCの本 へそまがりのアルファベット』 福音館書店、1974年
『6月31日6時30分』 寺村輝夫作、童心社、1974年
『海っこの貝がら』 大野允子作、ポプラ社、1974年
『シンデレラ』 世界文化社〈ドレミファランド〉、1974年 / 世界文化社、2011年
『かぞえてみよう』 講談社、1975年
『きつねのざんげ』 千趣会〈千趣会ミニブックス〉、1975年 / 岩崎書店、1979年
『貝になった子ども』 松谷みよ子著、偕成社〈偕成社文庫〉、1975年
『あいうえおの本』 福音館書店、1976年
『手品師の帽子』 童心社、1976年 / 新潮社〈新潮文庫〉、1985年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1992年
『かげぼうし』 冨山房、1976年
『おおきなもののすきなおうさま』 講談社、1976年
『画集 野の花と小人たち』 岩崎書店、1976年 / 『ハンディー版 野の花と小人たち』 岩崎書店、1997年
『ひだりとみぎ』 福音館書店〈かがくのとも〉、1976年 / 『はじめてであうすうがくの絵本3』 福音館書店、1982年
『あけるな』 谷川俊太郎作、銀河社、1976年 / ブッキング、2006年
『きりがみのイラストレーション』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1976年
『がまの油 贋作まっちうりの少女』 岩崎書店、1976年
『旅のイラストレーション』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1977年
『旅の絵本』 福音館書店、1977年
『歌の絵本 日本の唱歌より』 芥川也寸志編、講談社、1977年
『もりのえほん』 福音館書店〈こどものとも〉、1977年
『安野光雅の画集 ANNO 1968-1977』 講談社、1977年
『きりがみ江戸いろは』 新泉社、1980年
『せいくらべ』 福音館書店〈かがくのとも〉、1978年 / 『はじめてであうすうがくの絵本1』 福音館書店、1982年
『子どもの季節』 岩崎書店、1978年
『ヨーロッパ・野の花の旅』 講談社、1978年
『旅の絵本 II』 福音館書店、1978年 / 2006年11月改訂版
『ゆうちゃんとこびと』 野長瀬正夫作、フレーベル館、1979年
『歌の絵本II 世界の唱歌より』 芥川也寸志編、講談社、1979年
『空想工房』 平凡社、1979年6月 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1986年
『天動説の絵本 てんがうごいていたころのはなし』 福音館書店、1979年
『美の幾何学 天のたくらみ、人のたくみ』 伏見康治、中村義作共著、中央公論社〈中公新書〉、1979年 / 早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2010年
『きりがみいろはかるた』 講談社、1979年
1980年代
『津和野』 岩崎書店、1980年 / 『ハンディー版 津和野』 岩崎書店、1997年
『魔法使いのABC』 安野雅一郎共著、童話屋、1980年
『話のイラストレーション』 岩崎美術社、1980年
『算私語録』 朝日新聞社、1980年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年
『狩人日記』 平凡社、1980年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1985年
『イタリアの丘』 朝日新聞社、1980年
『魔法使いのあいうえお』 安野雅一郎共著、童話屋、1980年
『ロマンチック街道』 講談社、1980年
『フランスの道』 朝日新聞社、1980年
『カルチャー・ライフの知恵』 堺屋太一、松本克美共著、新潮社、1980年
『九つの物語』 長谷川四郎著、青土社、1980年
『西洋古都』 岩崎書店、1981年
『安曇野』 文藝春秋、1981年
『ソナチネの木』 岸田衿子著、青土社、1981年
『10人のゆかいなひっこし』 童話屋〈美しい数学〉、1981年
『旅の絵本 III』 福音館書店、1981年
『らんぷと水鉄砲』 三木卓共著、新潮社、1981年 / 新潮社〈新潮文庫〉、1985年
『さよならさんかく』 講談社、1981年
『すうがく博物誌 上』 森毅著、童話屋〈美しい数学〉、1982年 / 『新装版 すうがく博物誌』 童話屋〈美しい数学〉、1995年
『ニュルンベルクの道画師 さし絵「中世の窓から」』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1982年
『対談 数学大明神』 森毅共著、日本評論社、1982年 / 新潮社〈新潮文庫〉、1986年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1992年 / 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2010年
『イギリスの村』 朝日新聞社、1982年
『すうがく博物誌 下』 森毅著、童話屋〈美しい数学〉、1982年 / 『新装版 すうがく博物誌』 童話屋〈美しい数学〉、1995年
『壺の中』 安野雅一郎作、童話屋〈美しい数学〉、1982年
『きりがみのイラストレーション』 岩崎書店〈双書・美術の泉〉、1982年
『安野光雅対談 ロジックの詩人たち』 平凡社、1982年
『起笑転結』 青土社、1983年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1988年
『アメリカの風』 朝日新聞社、1983年
『旅の絵本 IV』 福音館書店、1983年
『八十頁世界一周』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1983年
『街のイラストレーション』 岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1983年
『蚤の市』 童話屋、1983年
『赤いぼうし』 野崎昭弘文、童話屋〈美しい数学〉、1984年
『安野光雅装幀集』 岩崎書店、1984年
『算私語録 そのII』 朝日新聞社、1984年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1986年
『スペインの土』 朝日新聞社、1984年
『空想画房』 平凡社、1984年
『3びきのこぶた』 森毅文、童話屋〈美しい数学〉、1985年
『地球は日時計』 福音館書店〈たくさんのふしぎ〉、1985年
『裏道のスペイン』 文藝春秋、1985年
『中国の市場 北京/大同/洛陽/西安』 朝日新聞社、1986年
『中国の運河 蘇州/杭州/紹興/上海』 朝日新聞社、1986年
『黄金街道』 講談社、1986年 / 講談社〈講談社文庫〉、1994年
『噴版 惡魔の辭典』 なだいなだ、日高敏隆、別役実、横田順彌共著、平凡社、1986年 / 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1998年
『空想茶房 対談安野光雅』 平凡社、1986年
『エブリシング』 青土社、1987年 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1994年
『中国故景』 中村愿文、岩崎美術社〈双書・美術の泉〉、1987年 / 『安野光雅のイラストレーション 中国故景』 岩崎美術社、2000年
『花』 杉本秀太郎文、岩崎美術社、1987年 / 岩崎書店、1995年
『いないいないばあのえほん』 童話屋、1987年
『絲綢の道はるか』 澤地久枝共著、文藝春秋、1987年
『算私語録 そのIII』 朝日新聞社、1987年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1990年
『きつねがひろったイソップものがたり1』 岩波書店、1987年
『きつねがひろったイソップものがたり2』 岩波書店、1987年
『安野光雅の異端審問』 森啓次郎共著、朝日新聞社、1988年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1994年
『にこにこかぼちゃ』 童話屋、1988年
『オランダの花』 朝日新聞社、1988年
『画文集 安野光雅の「ファーブル紀行」』 日本放送出版協会、1988年
『おめんのえほん』 童話屋、1989年
『読書画録』 講談社、1989年 / 講談社〈講談社文庫〉、1995年
『ZEROより愛をこめて』 暮しの手帖社、1989年 / 『君は大丈夫か ZEROより愛をこめて』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年
『三つの鏡 ミヒャエル・エンデとの対話』 ミヒャエル・エンデ、井上ひさし、河合隼雄共著、子安美知子編訳、朝日新聞社、1989年
1990年代
『黄昏のベニス』 文藝春秋、1990年
『スイスの谷』 朝日新聞社、1990年
『きつねがひろったグリム童話1 漁師とおかみさん』 岩波書店、1991年
『きつねがひろったグリム童話2 あっぱれ四人兄弟』 岩波書店、1991年
『空想書房』 平凡社、1991年
『安野光雅のスケッチブック』 日本航空文化事業センター、1991年
『オランダの画帖』 日本放送出版協会、1992年
『カリジェの世界 スイスの村の絵本作家』 日本放送出版協会、1992年
『安野光雅の新異端審問』 森啓次郎共著、朝日新聞社、1992年 / 『安野光雅の異端審問』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1994年
『ふしぎなたね』 童話屋〈美しい数学〉、1992年
『どうぶつたち』 まどみちお詩、美智子選・訳、すえもりブックス、1992年
『ドイツの森』 朝日新聞社、1993年
『文学の絵本 「ちくま日本文学全集」の装画』 筑摩書房、1993年
『マッチうりのクリスマス』 童話屋、1993年 / 安野光雅美術館、2004年改訂版
『ことば・把手・旅 暮しの中のデザイン』 天野祐吉共著、暮しの手帖社、1994年
『みちの辺の花』 杉本秀太郎文、講談社、1994年 / 講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
『ニューイングランド 安野光雅のスケッチブック』 日本航空文化事業センター、1994年
『そこまでの空』 俵万智著、河出書房新社、1994年 / 『俵万智の贈り物 そこまでの空』 河出書房新社、1998年
『台湾小景 『街道をゆく』スケッチ集』 朝日新聞社、1995年
『安野光雅・文集1 蟻と少年』 筑摩書房、1995年
『安野光雅・文集2 わが谷は緑なりき』 筑摩書房、1995年
『安野光雅風景画を描く』 日本放送出版協会〈NHK趣味百科〉、1995年
『安野光雅・文集3 こころのふち』 筑摩書房、1995年
『安野光雅・文集4 ホテル・ヴェリエール』 筑摩書房、1995年
『安野光雅・文集5 空想犯』 筑摩書房、1995年 / 講談社〈講談社+α文庫〉、2001年
『安野光雅・文集6 手品の種』 筑摩書房、1995年
『繪本 平家物語』 講談社、1996年 / 『繪本 平家物語 カジュアル版』 講談社、2006年
『ペペロン村の四季』 毎日コミュニケーションズ、1996年
『ニューヨークの落葉 『街道をゆく』スケッチ集』 朝日新聞社、1996年
『散語拾語』 朝日新聞社、1996年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1999年
『カタロニア カザルスの海へ』 日本放送出版協会、1996年
『イタリアの陽ざし』 朝日新聞社、1997年
『あなたと読む恋の歌百首』 俵万智著、朝日新聞社、1997年
『画家たちの旅 スケッチノート』 平松礼二ほか共著、日本放送出版協会、1997年
『安野光雅きりえ百首 俵万智と読む恋の歌より』 日本放送出版協会、1997年
『スケッチ集 『街道をゆく』』 朝日新聞社、1997年
『生きることはすごいこと』 河合隼雄共著、講談社〈講談社ソフィア・ブックス〉、1998年 / 『人が、ついとらわれる心の錯覚』 講談社〈講談社+α文庫〉、2002年
『ふしぎなポケット』 まどみちお詩、美智子選・訳、すえもりブックス、1998年
『絵のまよい道』 朝日新聞社、1998年 / 朝日新聞社〈朝日文庫〉、2006年
『安野光雅のポスター』 岩崎書店、1998年
『繪本 シェイクスピア劇場』 松岡和子文、講談社、1998年
『めるへんいっぱいデンマーク紀行』 宮沢乃里子文、東京書籍、1999年
『ヨーロッパの街から村へ』 朝日新聞社、1999年
『空想の繪本』 講談社、1999年
2000年代
『日曜喫茶室 頭の特効薬』 はかま満緒共著、講談社、2000年
『おとぎの国の郵便切手』 岩崎書店、2000年
『故郷へ帰る道』 岩波書店、2000年
『安野光雅のイラストレーション 歌とおはなし』 岩崎美術社、2000年
『安野光雅のイラストレーション 旅ときりがみ』 岩崎美術社、2000年
『新編 算私語録』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、2000年
『片想い百人一首』 筑摩書房、2000年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2007年
『物語の街から村へ』 朝日新聞社、2001年
『歌の風景』 講談社、2001年
『ヨーロッパ・絵はがき風味』 岩崎書店、2001年
『ねがいは「普通」』 佐藤忠良共著、文化出版局、2002年 / 『若き芸術家たちへ ねがいは「普通」』 中央公論新社〈中公文庫〉、2011年
『天は人の上に人をつくらず』 童話屋〈小さな学問の書〉、2001年
『職人たちの春』 講談社、2002年
『サヨナラだけが人生だ』 高橋源一郎、高山文彦共著、恒文社21、2002年
『昔の子どもたち』 日本放送出版協会、2002年
『村の広場』 朝日新聞社、2002年
『絵本 即興詩人』 講談社、2002年 / 『「即興詩人」の旅』 講談社〈講談社+α文庫〉、2009年
『旅の絵本 V』 福音館書店、2003年
『絵のある人生 見る楽しみ、描く喜び』 岩波書店〈岩波新書〉、2003年
『青春の文語体』 筑摩書房、2003年
『旅の絵本 VI』 福音館書店、2004年
『絵とイマジネーション』 日本放送出版協会〈NHK人間講座〉、2004年 / 『絵の教室』 中央公論新社〈中公新書〉、2005年
『安野光雅のいかれたカバン』 世界文化社、2005年
『ついきのうのこと 続・昔の子どもたち』 日本放送出版協会、2005年
『大志の歌 童話の学校校歌・寮歌』 童話屋、2005年
『繪本 歌の旅』 講談社、2005年
『雲の歌 風の曲』 森ミドリ曲、岩崎書店、2005年
『世にも美しい日本語入門』 藤原正彦共著、筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2006年
『空想亭の苦労咄』 筑摩書房、2006年
『サンタクロースのふくろのなか』 童話屋、2006年
『安野光雅 風景画を描く』 日本放送出版協会、2006年
『繪本 三國志』 朝日新聞出版、2008年 / 『新編 繪本 三國志』 朝日新聞出版、2010年
『あいうえおみせ』 福音館書店〈こどものとも〉、2008年
『語前語後』 朝日新聞出版、2008年
『木のぼりの詩』 日本放送出版協会、2008年
『風景と出会い』 丸善、2009年
『三国志談義』 半藤一利共著、平凡社、2009年
『旅の絵本 VII』 福音館書店、2009年
『明日香村』 日本放送出版協会、2009年
2010年代
『三國志逍遥』 中村愿著、山川出版社、2010年
『繪本 仮名手本忠臣蔵』 朝日新聞出版、2010年
『日本のふるさと奈良』 産経新聞出版、2010年
『口語訳即興詩人』 森鴎外文語訳、山川出版社、2010年
『『史記』と日本人』 半藤一利、中村愿共著、平凡社、2011年
『絵のある自伝』 文藝春秋、2011年
『会えてよかった』 朝日新聞出版、2013年
編集
『にほんご』 大岡信、谷川俊太郎、松居直共編、福音館書店、1979年
『子どもの美術』全6冊 佐藤忠良共編、現代美術社、1979年 / 上巻・下巻 1983年新訂版
『まるいちきゅうのまるいちにち』 エリック・カール、レイモンド・ブリッグス、ニコライ・ポポフ、林明子、ジャン・カルビ、レオ&ダイアン・ディロン、朱成梁、ロン・ブルックス絵、童話屋、1986年
『ちくま文学の森』 森毅ほか共編、筑摩書房、1988年~1989年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2010年~2011年
『ちくま哲学の森』 鶴見俊輔ほか共編、筑摩書房、1989年~1990年 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2011年~
『日本の名随筆 89 数』 作品社、1990年
『中野好夫エッセイ集 悪人礼賛』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1990年
『燐寸文学全集』 池内紀共編、筑摩書房、1993年
解説
藤原正彦著『心は孤独な数学者』
挿画・表紙
月刊雑誌『数理科学』の表紙(1968-1977)
週刊朝日「街道をゆく」(1991/8-1996/3)
『週刊朝日』の表紙(1997-1999)
装丁
『にっぽんご』シリーズ(明星学園・国語部著、むぎ書房)
ハンセン病文学全集
交友関係者[編集]
村松武司(詩人・編集者)
遠山啓(数学者)
清水達雄(数学者)
野崎昭弘(数学者)
森毅(数学者)
司馬遼太郎(小説家)
佐藤忠良(彫刻家)
澤地久枝(小説家)
河合隼雄(心理学者)
日高敏隆(動物行動学者)
杉本秀太郎(小説家)
吉田直哉(NHK)
吉田信行(産経新聞)

石橋和訓(いしばし わくん、明治9年(1876年)6月6日 - 昭和3年(1928年)5月3日)は日本の日本画家、洋画家。本名は倉三郎。師である滝和亭の一字をもらい27歳で改名。画号は耕雲、雅原、中雅。
その作風は英国官学派の堅実な描写を特徴とし多くの名士たちの肖像画を残した。

1876年:島根県飯石郡反辺村(現・出雲市佐田町反辺)の農業石橋熊三郎 マツの長男として生まれる。
1883年:反辺第二尋常小学校入学。幼少から画道を須佐神社神官などから指導された。掛合高等小学校に卒業後は自宅で農耕の傍ら今市町(現・出雲市)の永瀬雲山に南画を習う。
1892年:松江に出て県立師範学校教師の後藤魚州に南画を学ぶ。
1893年:飯石郡長・中村秀年、須佐神社宮司らの勧めにより意を決して上京。千家尊福邸に一時仮住まいし松平直亮、千家尊福らの推薦を得て南画家滝和亭塾に入門、内弟子となり本格的に日本画修行を始める。
1895年:東京美術協会展に漢画を出品、2等賞を受ける。
1901年:広島砲兵第5連隊入隊。
1903年:イギリスに渡りジェー、サーゼント及びゼーらに師事。
ローヤル・アカデミーを卒業し1918年帰国した。
1908年の第二回文展に『ものおもい』を1909年の第三回文展に『美人読書』を出品してともに三等賞を受けた。
1918年:一時帰国。のち再び渡英し帰国後は帝展の審査員となった。

石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7月3日 – 2015年9月26日[1])は、日本画家。創画会会員、京都市立芸術大学名誉教授、京都造形芸術大学教授。

経歴
島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町)出身。島根県立浜田中学(現:島根県立浜田高等学校)卒業。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学したが在学中に徴兵され中国に渡る。復員後、人物や風景を描く。1944年(昭和19年)9月、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科卒業。1947年(昭和22年)第3回日展で「三人の少女」が初入選。1950年(昭和25年)より創造美術、新制作展に出品し、1951年(昭和26年)「旅へのいざない」など四度新作家賞を受賞。1956年(昭和31年)新制作協会会員。1970年(昭和45年)京都市立芸術大学教授となる。1971年(昭和46年)日本芸術大賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。1974年(昭和49年)創画会会員。2015年(平成27年)9月26日午前11時58分、不整脈による心停止のため自宅で死去した。95歳。

野々内保太郎(ののうちやすたろう、1902年 – 1985年12月5日)は、島根県八束郡東出雲町(現・松江市)出身の日本画家。

人物
明治35年(1902)島根県東出雲町で生を受け、西山翠嶂に師事し京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業。「祥雲」という号を名乗っていたが、1932年から本名の保太郎へ改め、その翌年の1933年第13回帝展に「みやまの春」が初入選。以来、帝展・文展・日展に28回の入選を重ねる。1959年に皆川千恵子らと共に「牧人社」結成。画風は、細密かつ華麗な花鳥画を得意としていた。息子の、野々内良樹、井上稔、野々内宏の3人も絵の道に進み日本画家として活躍している。
経歴
1902年 島根県八束郡東出雲町出雲郷(現・松江市)に生まれる。
1935年 第13回帝展で「みやまの春」が入選。
1959年 牧人社結成。

橋本 明治(はしもと めいじ、1904年8月5日 – 1991年3月25日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。
島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)生まれ。1929年より帝展に出品、1931年東京美術学校日本画科卒、松岡映丘に師事。1937年新文展で特選。1940-1950年法隆寺金堂壁画模写に従事。戦後、日展に出品。1948年創造美術結成に参加するが、後に脱退して官展に戻る。1951年芸術選奨文部大臣賞受賞。1952年日展審査員。1955年日本芸術院賞受賞。1958年日展評議員。1969年日展理事。1971年日本芸術院会員。1972年日展常務理事。1974年文化勲章受章、文化功労者。
1991年、急性肺炎のため死去。

河瀬 断魚(かわせ だんぎょ、昭和4年(1929年)8月14日 – 平成22年(2010年)10月25日)は、島根県平田市(現:出雲市)出身の日本の書家。本名は、河瀬喜重(かわせきじゅう)で、雅号を断魚としていた。昭和の三筆の一人と称されている手島右卿に師事。実弟には、考古学者で広島大学名誉教授の河瀬正利が存在したが2008年6月に病気の為兄より先に他界している。

血縁
父:亀市(かめいち)
母:シエノ(しえの)
長女:キミコ(きみこ)
長男:生後直ぐ他界の為に無名
次男:寿三郎(じゅさぶろう)
三男:喜重(きじゅう)
四男:正利(まさとし)
妻:富代(とみよ)
長女:弘子(ひろこ)
次女:法子(のりこ)
概要
島根県平田市(現:出雲市)に河瀬家の三男として生まれる。長男は生後間も無く亡くなり、次男寿三郎も戦争中に戦死している。三男である喜重も通信兵として戦争に出兵したが幸いにして無事生還し次男寿三郎に代わり河瀬家の跡取となる。
幼少期は生前からは想像も付かない程の活発な腕白少年であった。大変厳しい性格だが、それ以上に情が非常に厚い性格でもあり、その人柄からか幅広い人脈からも多く支持され、意外にもその厳格な喋り口調が愛され、好んで話を聞く者もあった。
自分の行き方として生涯何より大事にしていたのは家族・自分のことよりも弟子を大切に思う気持ちであり、自分の弟子達の活躍を耳にする度に眼を赤くし自分のことの様に大変喜んでいた。
大変頑固だが「賢い者程、頭を下げるもんだ。」と言い弟子のためなら頭を下げることを惜しまなかった。
酒・タバコが兎に角好きで当然のことながら体調を崩し病を患った原因にもなった。
若かりし頃は、師である手島右卿に慕い共に酒を飲み交わし話に華を咲かせ、書道に対して大変大きな恩恵と学びを受け、河瀬断魚の書道に対する影響力を与えた人物であり、晩年に至っては神奈川県鎌倉市に腰を据えた手島右卿に会うが為、定期的に足を運び師弟の関係を大切にした。
開眼の前身でもある、書道誌『八雲』から名前を『開眼』に変える時も看板でも有る書道誌『開眼』表紙の題字は尊敬する手島右卿に書して頂き送られた物で、原書は今でも開眼で大切に保管されている。
現在も書道誌『開眼』の書体は表紙でそのまま看板として使用している。
書家だが非常に手先が器用で工作も非常に上手く、特に絵を描くことに関しては非常に秀でたものがあり描画など大変優れていた。河瀬断魚の芸術性の高い繊細且つ大胆な字はこの様な能力が活かされ数々の素晴らしい作品が完成されたと思われる。また、趣味で写真を撮影することが大変好きで、愛用のカメラで多くの文化財・情緒有る風景などの写真を撮り、感慨深い写真などは書道誌開眼の表紙の写真で採用していた。
家族には、妻の富代、長女に弘子と次女の法子の二人の子がいる。河瀬家は長女弘子が嫁ぎに出た為、次女の法子が跡継ぎとして現在も河瀬断魚の遺志を引継ぎ優秀な開眼スタッフと共に書道誌開眼の出版と島根県書道界の発展に尽力を注ぎ現在に至っている。
子の名の由来は、心酔する空海こと弘法大師より、弘の字と法の字を頂戴し名付ける程でもある。

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 – 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。

学校での研究
当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚する。
華麗な作風からの転換
1921年、「創作陶磁展覧会」を東京と大阪の高島屋で開催した。このとき東京高島屋の宣伝部長であった川勝堅一と知り合い、生涯にわたり親交をもつ。高島屋での陶磁展では、中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新人にして名人と一躍注目を浴びた。しかしやがて世評に反し、自身の制作に悩むようになる。創作陶磁展覧会と同時期に柳宗悦の集めた李朝の陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工が作り出す簡素で美しい作品に感銘を受ける。“自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか”と、自らの作品制作を中断する。1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とした。
民芸運動、日用の美へ

河井寛次郎記念館
1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。
室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成させた。この自宅兼仕事場が現在の河井寛次郎記念館になっている。同じ年、川勝堅一の計らいで「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグランプリを受賞する。
より奔放な作風へ
第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次朗は木彫の制作も開始する。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。
1955年文化勲章を辞退する。人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するも、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没した。

原 清(はら きよし、1936年2月28日 – )は、日本の陶芸家。2005年、人間国宝に認定された。

略歴
島根県斐川町(現在の出雲市)出身。1954年に京都で石黒宗麿の内弟子となった後、清水卯一に師事し陶芸を学ぶ。1965年に東京都世田谷に工房を構え独立、後に窯を埼玉県大里郡寄居町に移す。鉄釉の研究を続け、独自の技法となるまで錬磨に励んだ。1976年日本陶磁協会賞を受賞。日本伝統工芸展では入賞の他、監査委員の経験も持つ。1992年からは社団法人日本工芸会理事を務め、2002年には同会常任理事となった。2005年8月30日、重要無形文化財「鉄釉陶器」保持者に認定。
黒色と褐色の二種類の釉薬を駆使し大柄な色面で文様を描く。細かな技巧に頼ることのない作風は鉄釉陶器の新しい発展性を生んだとして、高く評価されている。2006年現在も陶芸界全般に於いて、後継者の育成に力を注いでいる。

船木 道忠(ふなき みちただ、1900年5月18日 – 1963年1月22日)は、陶芸家。島根県指定重要無形文化財保持者。島根県出身。
柳宗悦の民藝運動に参加し、スリップウェアを復元する。陶芸家船木健児は子。

荒川亀斎(あらかわきさい、文政10年(1827年) – 明治39年(1906年))は島根県松江市横浜町出身の彫刻家である。名は明生。通称、重之輔。木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある。79歳で亡くなった後洞光寺に葬られている。
主な作品
晋門院(観月庵)の松尾芭蕉像
張子虎
櫛稲田姫像(明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会優秀賞)
征韓図(明治33年(1900年)のパリ万国博覧会銅賞)

澄川 喜一(すみかわ きいち、1931年5月2日 – )は、島根県出身の彫刻家。元東京芸術大学学長。新制作協会会員、2006年には同協会委員長を務めた。日本芸術院会員、文化功労者。金沢美術工芸大学客員教授。東京芸術大学名誉教授。
島根県芸術文化センター グラントワセンター長・石見美術館長、財団法人横浜市芸術文化振興財団理事長を務める。

人物
島根県六日市町(現・吉賀町)生まれ。山口県立岩国工業高等学校機械科卒業。東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。大学卒業後に助手として採用され、同大学専任講師、助教授を経て教授。 東京芸術大学学長を歴任。
「そりのあるかたち」シリーズで知られる作家。新制作協会会員。1998年に紫綬褒章、その他紺綬褒章、日本芸術院賞、日本芸術院恩賜賞などを受賞。
安藤忠雄と共に、東京スカイツリーのデザイン監修を務める。
主な彫刻作品の設置場所
「そりとそぎのあるかたち」1981年 神戸市中央区楠町4、神戸市立中央体育館北側
大蛇の彫刻 島根県
リチャード・ブラントン胸像 1991年、横浜市横浜公園
主な受賞歴
第23回新制作展新作家賞(1960年)
第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展・宇部市野外彫刻美術館賞(1968年)
第1回現代国際彫刻展コンクール賞(1969年)
第8回平櫛田中賞、第7回長野市野外彫刻賞、第8回現代日本彫刻展・宇部市野外彫刻美術館賞(1979年)
第7回神戸須磨離宮公園芸術彫刻展・神戸須磨離宮公園彫刻賞、中原悌二郎優秀賞(1980年)
第1回東京野外現代彫刻展優秀賞(1983年)
栃木県小山彫刻展大賞(1984年)
第13回吉田五十八賞、第1回倉吉市緑の彫刻賞(1988年)
紫綬褒章(1998年)
紺綬褒章(1999年)
第10回本郷新賞(2001年)
日本芸術院賞、恩賜賞(2003年)
文化功労者(2008年)

内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 – 1967年8月21日)は、彫刻家・日本芸術院会員。

略歴
1882年、島根県吉田村に生まれる。上京して高村光雲に師事、1904年、東京美術学校選科卒。文展出品ののち、1914年、日本美術院同人、1915年、再興院展に出品、1919年、脱退。1921年、帝展審査委員、1927年、帝国美術院会員、1929年、日本木彫会を設立し主宰する。戦後は日展に出品し日本芸術院会員。1952年、日本木彫会再興、1958年、日展顧問、1965年、勲三等瑞宝章受章。1967年8月21日、贈従四位。

山根八春(やまね やつはる、1886年 – 1973年)は、日本の彫刻家。島根県松江市出身。八春は「はっしゅん」とも読む。
帝国美術院展覧会(帝展)審査員。生長の家の徽章、一畑薬師寺の内陣の欄間・木彫十三面花鳥額を制作。故郷にある松江市立古江小学校の校庭に建つ忠魂碑にも八春作のレリーフが刻まれている。

石見焼(いわみやき)は島根県江津市を中心に旧石見国一帯で焼かれる陶器。飯銅(はんどう)と呼ばれる大甕で知られるが、今日では多様なニーズに伴って、小振りの日用品が多く焼かれる。
歴史
元々石見では窯業が盛んで、特に水瓶は北前船を使って全国津々浦々に出荷された。18世紀の中頃には周防国や備前国から本格的に技術を学び、陶器製作に磨きを掛けた。
そして、明治になって多くの窯元が藩からの庇護を失って衰退する中で、石見焼は最盛期を迎えた。その頃の窯元は100を優に数えたといわれる。その躍進を支えたのが大甕である。石見焼の甕は耐水性に優れ、貯水には最適であったため全国から需要があった。
しかし昭和30年代に入ると、上水道の整備に伴って水を貯蓄する必要性が減り、またプラスチック製の容器普及が追い打ちを掛けて衰退した。窯元は一気に激減したが、その後は時代に合った容器を作ることで対応していった。代表的なものが漬物や梅干し、味噌貯蔵用の小口の瓶で、石見焼の特長である塩分、酸、アルカリによる腐蝕への強さが功を奏し、これらのヒットもあって苦しい時代を耐え抜いた。現在は傘立てやマグカップなども製作し、伝統的な意匠、技術を継承しながらも、時代の変化に対応した商品を焼き続けている。平成6年に国の伝統的工芸品に指定された。

布志名焼(ふじなやき)は、島根県松江市玉湯町にて焼かれる陶器。
概要
江戸時代に松江藩の御用窯として開かれた窯場(雲善窯)で、大名茶人でもあった松平不昧公の好みを反映した茶器が焼かれた。後に民窯の船木窯も開窯し、黄釉や出雲青地と呼ばれる青釉の日用雑器を焼き、一時は海外への輸出も盛んに行われるほど隆盛を極めた。
その後衰退するが、昭和になってバーナード・リーチや河井寛次郎、浜田庄司らの指導、交流の元に民陶として復活、再興を遂げた。リーチの影響を強く受けているため、英国のガレナ釉(鉛の硫化物)に似た黄釉、飴釉などが用いられ(英国でガレナ釉を再現する際、布志名焼が参考にされた)、英国式のスリップウェアという手法を用いて焼かれる。

県内の他の陶磁器
島根県出雲地方には規模は決して大きくないが、個性的な窯場が至る所に点在する(県のふるさと伝統工芸品に指定)。これらを総称して雲州焼と呼ぶことがある。
八幡焼(はちまんやき) – 安来市広瀬地区
御代焼(みじろやき) – 雲南市加茂町
錦山焼(きんざんやき) – 安来市
萬祥山焼(ばんしょうざんやき) – 出雲市
楽山焼(らくざんやき) – 松江市
袖師焼(そでしやき) – 松江市
母里焼(もりやき) – 安来市伯太地区
出西窯(しゅっさいやき) – 出雲市斐川地域
島根県西部の石見地方にも魅力的な窯場が存在する。
温泉津焼(ゆのつやき) – 大田市温泉津町: 島根県ふるさと伝統工芸品
石見焼(いわみやき) – 浜田市、江津市、大田市: 経済産業省指定伝統工芸品、島根県ふるさと伝統工芸品
石州亀山焼(せきしゅうかめやまやき) – 浜田市上府町: 島根県ふるさと伝統工芸品

出西窯(しゅっさいがま)は島根県出雲市斐川町出西にある窯元。また、そこで焼かれる陶器。
概要
袖師や丹波、益子、唐津などで修行を積んだ地元出身の5人の青年によって開かれた。1947年の開陶と歴史は浅いが、柳宗悦やバーナード・リーチ、河井寛次郎といった面々の指導を受け、モダンな作風で独特の世界を切り開いた。出西とは出雲の西という意味である。窯元は出西窯一軒だけであるが、窯主を持たない共同作業場となっており、土捏ね、轆轤回し、焼きなどの工程一つ一つが共同作業となっているのが特徴。安価で飽きの来ない、丈夫な焼き物が共通理念であり、大衆向けの民陶として知られるが、粘土から釉薬、薪に至るまで原料は全て島根県産で通すなど、こだわりも見られる

温泉津焼(ゆのつやき)は、島根県大田市温泉津町で焼かれる陶磁器。

歴史
宝永年間(18世紀初)頃に始まる。
主に「半斗(水瓶)」を造り、日本各地に出荷していた。
第二次世界大戦後、プラスチックなどの化学製品の発達で需要がおされ、一時衰える。
現在、窯は再興されている。
特徴
耐用年数の長い、日用的な食器に適する。
耐火性の高い石見粘土を使用する。
1300度以上の高温で焼成され、硬く割れにくいとされる。

島根県
石見焼
布志名焼
出西焼
袖師焼
母里焼
楽山焼
錦山焼
八幡焼
萬祥山焼
御代焼
温泉津焼 ただし、石見焼に含めることもある。
江津焼

八雲塗(やくもぬり)とは島根県松江市で生産される漆器である。

特色
下地の工程の後、中塗りを行わずに、色漆、青貝・金銀粉、乾漆などで文様を描き、その上から透漆をかけて仕上げる。時間が経つにつれ漆が透明になり、描かれた鮮やかな文様が浮き上がってくるのが特徴である。
歴史
寛永16年に京都の烏丸の堅地屋清兵衛というものが時の藩主に招聘されたのが始まりとされる。
明治19年、松江藩お抱えの駕籠(かご)塗職人の家に生まれた坂田平一らによって考案された。 平一は家を継ぐが、明治となり職を失ってしまい、人力車の塗装や修理などでをして暮らしていた。ある日、古道具屋から見せられた中国の存星塗(ぞんせいぬり)の盆をまねて盆を作った。その後も手法に工夫を加えながら、出来の良い盆や膳を作り、唐物として売られた。その作品が時の島根県知事籠手田安定の目にとまり、出雲古歌「八雲立つ」にちなんで「八雲塗」と命名された。
明治35年には漆器組合を組織、翌年には内国勧業博覧会に出品、44年には八雲漆器伝習所を設立した。。。この間に他県の技師を招いて技術向上に腐心した。
昭和57年(1982年)3月、島根県ふるさと伝統工芸品に指定されている。

楽山焼(らくざんやき)
楽山焼 (愛媛県) – 愛媛県松山市で焼かれる陶器
楽山焼 (島根県) – 島根県松江市で焼かれる陶器

石州亀山焼(せきしゅうかめやまやき)は、佐々木硯城が福岡県の上野焼十時窯(あがのやきとときがま)で修行後、1971年に島根県浜田市に開窯した窯元。明治維新の際長州の反撃にあい、落城した浜田城(亀山城)にちなんで石州亀山焼と命名されたもので、長崎や丹波の亀山焼とは別の窯元である。辰砂、焼き締め、赤流し、青流し、黒釉、白釉、イラボ釉など多彩な釉薬を使い、独自の技法での作陶をなす。

石州和紙(せきしゅうわし)は、島根県の西部、石見地方で製造される和紙である。重要無形文化財、伝統的工芸品、無形文化遺産の指定を受けている。

概要
紙質は強靱でありながら肌触りは柔らかく、その紙質から障子紙として多く用いられていた。しかし近年は家屋建築の構造の変化により障子紙が用いられることが少なくなったため、文化財修理、書道用紙、賞状の用紙をはじめ様々な用途に用いられるようになっている。
現在は島根県浜田市三隅町を中心に製造されている。
現在、事業所は4件あり、石州和紙協同組合にて管理・運営している。

石州和紙(せきしゅうわし)は、島根県の西部、石見地方で製造される和紙である。重要無形文化財、伝統的工芸品、無形文化遺産の指定を受けている。

概要
紙質は強靱でありながら肌触りは柔らかく、その紙質から障子紙として多く用いられていた。しかし近年は家屋建築の構造の変化により障子紙が用いられることが少なくなったため、文化財修理、書道用紙、賞状の用紙をはじめ様々な用途に用いられるようになっている。
現在は島根県浜田市三隅町を中心に製造されている。
現在、事業所は4件あり、石州和紙協同組合にて管理・運営している。

島根県ふるさと伝統工芸品
出雲石灯
八雲塗
石見焼
八幡焼
布志名焼
御代焼
錦山焼
萬祥山焼
楽山焼
袖師焼
母里焼
出西焼
出雲広瀬方円窯
温泉津焼
雪舟焼窯元
石州亀山焼
焼火窯
奥出雲玉鋼工芸品
加茂刃物
出雲鍛造工芸品
雲州幸光刃物
石見岡光刃物
雲州忠善刃物
隠岐沖光刃物
高橋鍛冶製品
雲州そろばん
奥出雲銘木製品
福こづち
布施の木工品
石州川本木工品
ケヤキ挽物細工
組子細工
出雲一刀彫
木地人形
松江藩籐細工
仏像彫刻
ケヤキ指物木工
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筒描藍染
広瀬絣
武者絵五月幟
安来織
出雲織
出西織
石見神楽衣裳
出雲民芸紙
勝地半紙
石州半紙
石州和紙
斐伊川和紙
広瀬和紙
スサノオ和紙
貴石細工
出雲めのう細工
隠岐黒耀石細工
石見神楽面
福神面
魔除飾面
じょうき・鯛車
大社の祝凧
長浜人形
松江姉様
松江和紙てまり
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石見神楽蛇胴
石見根付

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