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靉光(あいみつ、1907年6月24日 – 1946年1月19日)は、昭和前期(戦前・戦中期)の洋画家である。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)といった。
シュールレアリズム風や宋元画風など、特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが、敗戦後に戦地からの復員を待たず38歳で病死。
戦時下の状況から、戦争画を描く事を当局より迫られ『わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい』と泣くようにいったという。
略歴
1907年 広島県山県郡壬生町(現・北広島町)に農家の二男として生まれる。
1913年 伯父の養子となり広島市鉄砲町へ転居。
1922年 高等小学校卒業後、印刷所に奉公し製版技術を習う。
1924年 大阪に出て天彩画塾に学び画家を志す。このころから靉川光郎(あいかわ みつろう)と名乗る。靉光とは、これを略したものであった。
1925年 17歳で上京、谷中へ居住し太平洋画会研究所に学んだ。フランス近代絵画の影響を受け、作風がめまぐるしく変化した。
1926年 二科展に初入選。以降「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で、独自の画風を追求していった。
1930年頃から画風が変化し、次第に前衛的作品が増える。二科展他、中央美術展、独立展などに出品し多くの賞を得た。
1936年 第6回独立美術展に『ライオン』を発表。2年間ライオンの連作を制作した。
1938年 第8回独立美術展へ代表作となる『眼のある風景』を出品し、独立美術協会賞を受賞した。画風が次第にシュールレアリズムに傾く一方、宋元画の影響も現れる。
1939年 福沢一郎ら40名のシュルレアリスム運動家と共に美術文化協会を設立する。
1943年 「新人画会」の結成に参加し主要メンバーとして活躍する。同年から翌年にかけて3作の自画像を製作した(『自画像』、『梢のある自画像』、『白衣の自画像』)。
1944年 『白衣の自画像』完成直後に応召し大陸へ渡った。兄への手紙では「ようやく戦時下の男になれそうです」と靉光は召集時の心境を綴っている。満州では南京、武漢方面へ転戦したとされる。
1945年 8月6日、靉光の故郷である広島に原爆が投下され、故郷へ残してきた作品、資料の多くが焼失してしまう。8月15日に中国で終戦を迎えた。
だが翌年の1946年 1月19日、靉光は中国の上海郊外でマラリアとアメーバ赤痢により病死した。まだ39歳の若さだった。靉光の遺族の元には遺品の飯盒だけが友人から送られた。
靉光は生前、独特な画風から画壇の主流から外れ“異端の画家”とも呼ばれたが、靉光の死後作品が日本人の油彩表現として一つの到達点を示したとして評価を高めた。2007年3月~5月に、靉光の生誕100年を記念する回顧展が東京国立近代美術館で開催された。
奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7日 – 2003年(平成15年)2月15日)は、日本画家、日本芸術院会員。「元宋の赤」といわれる独特な赤色が特徴。本名は奧田 嚴三(おくだ げんぞう)。妻の奥田小由女は人形作家、日本芸術院会員。
年譜
1912年(明治45年)- 広島県双三郡八幡村(現・三次市吉舎町八幡)に生まれる
1931年(昭和6年)- 上京し遠戚の児玉希望に師事、一時期脚本家を目指して児玉門を飛び出し、その後戻るが外弟子に降格される
1936年(昭和11年)- 文展の鑑査展に「三人の女性」が初入選、小由女が大阪で生まれる
1937年(昭和12年)- 児玉希望画塾第1回展に「舞踏場の一隅」で塾賞受賞、号を元宋とする
1938年(昭和13年)- 第2回文展に「盲女と花」が特選になる
1944年(昭和19年)- 戦争の激化に伴い広島に疎開
1949年(昭和24年)- 第5回日展で「待月」が特選と白寿賞に
1962年(昭和37年)- 第5回新日展で「磐梯」が文部大臣賞、文化庁買上げになる
1963年(昭和38年)- 「磐梯」により日本芸術院賞受賞[1]。
1973年(昭和48年)- 日本芸術院会員に推挙
1974年(昭和49年)- 日展常任理事に就任
1981年(昭和56年)- 宮中歌会始に出席、真言宗大聖院の本堂天井画「龍」を制作、文化功労者に選ばれる
1984年(昭和59年)- 文化勲章受章
1989年(平成元年)- 広島県名誉県民に
1995年(平成7年)- 日本芸術院第一部(美術)部長
1996年(平成8年)- 銀閣寺の庫裏、大玄関・弄清亭障壁画が完成
2003年(平成15年)- 死去
2006年(平成18年)- 広島県三次市東酒屋町に奥田元宋・小由女美術館が開館
柿本幸造(かきもと こうぞう、1915年 – 1998年)は広島県出身の童画家。
「どんくまさん」シリーズ(蔵冨千鶴子作)の挿絵画家として知られる。1959年小学館児童文化賞受賞。
金島 桂華(かなしま けいか、1892年6月25日 – 1974年9月14日)は、日本画家、日本芸術院会員。
人物
広島県生まれ、本名は政太。平井直水、竹内栖鳳に師事。私塾の衣笠会を主催し、後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とした。
年譜
1925年帝展で「芥子」が特選、1927年「鳴子九皐」、1928年「牡丹」で特選、1930年から1939年まで京都市立美術工芸学校教諭、1934年帝展審査員、1950年日展運営会参事、1952年芸術選奨文部大臣賞受賞、1954年日本芸術院賞受賞、1959年日本芸術院会員、1960年日展理事、1966年勲三等瑞宝章受章、1969年日展顧問、京都市文化功労賞受賞。
四國五郎 :(画家、詩人)
児玉 希望(こだま きぼう、1898年7月5日 – 1971年5月2日)は、日本画家、日本芸術院会員。
広島県出身、本名・省三。川合玉堂の門に入る。帝展に出品し、1918年同審査員、文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1953年日本芸術院賞受賞、1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。1961年日展常務理事。1970年勲三等旭日中綬章受章。 画塾の門下には佐藤太清、奥田元宋、船水徳雄らが在籍した。
作品
「大楠公」 絹本著色 佐久市立近代美術館蔵 1941年(昭和16年) 第4回新文展
「花下吟詠」 絹本著色 額装1面 東京国立近代美術館蔵 1942年(昭和17年)献納展
「仏蘭西山水絵巻(山・海・河)」 絹本墨画 3巻 東京国立近代美術館 1958年(昭和33年)
ジミー・ツトム・ミリキタニ(Jimmy Tsutomu Mirikitani、日本名:三力谷 勉〈みりきたに つとむ〉、1920年6月15日 -2012年10月21日)は、アメリカの路上画家。日系二世。カリフォルニア州サクラメント生まれ。
経歴
母国日本の教育を受けるため生後3ヶ月で帰国。母の故郷広島県五日市町(現広島市佐伯区)で18歳まで育つ。軍国主義が強まる日本で兵学校に行くことを拒否。1938年、絵描きになる夢を抱いて自由の国・アメリカへ再び戻る。しかし第二次大戦中の1942年には大統領令により、米国籍を持つにも関わらず、ツールレイクの日系人の強制収容所に送られた。そこで勧められるままに米国市民権を放棄、終戦後の1947年まで約5年間、数ヶ所の収容所に拘留され続けた。市民権はその後も回復されず、働き場を得られず各地を放浪。1950年代始めにニューヨークに流れ着いた。ここで仏教会の援助を受け料理人として1980年代後半まで約30年間、東海岸を渡り歩きレストラン等で働く。1959年に市民権は回復したが、引越しを繰り返していたため通知は届かなかった。
1980年代後半、雇用主が亡くなり突然住む場所も職も失う。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのワシントン・スクエア・パークでホームレスのような生活をしながら、路上でボールペンなどで描いた猫の絵を売る。再び芸術家を目指すが路上生活は長きに及んだ。2001年、ミリキタニの絵を買ったことが縁で映画監督のリンダ・ハッテンドーフと知り合い、ミリキタニの半生と二人の交流を描いたドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』が製作された。本作品は世界各国の映画祭で高い評価を受け数多くの賞を受賞している[1][2]。
なお、同作品に出演しているジャニス・ミリキタニ(詩人、フェミニスト)は、いとこの娘にあたる[1]。ジャニスは詩作のほかに、貧困救済のためのプロジェクトや、幼いときに義父から受けつづけた性暴力の経験から児童虐待防止を訴える活動などをしている。
2007年、70年ぶりにミリキタニは日本に帰省。8月6日の広島市の広島平和記念式典にハッテンドーフ監督とともに参列した。小学校時代の先生を原爆で亡くしているため献花し、「仰げば尊し」を朗々と歌い上げまわりを驚かせた。
2012年、脳出血に起因する機能不全のためニューヨーク市内の病院で死去。92歳没。
映画『ミリキタニの猫』
映画製作者のリンダ・ハッテンドーフは、2001年に、ソーホーの韓国系スーパーマーケットの横でいつも絵を描いて売っているホームレスのジミーを自宅に連れ帰った。ハッテンドーフはこのことを「その年に起こったアメリカ同時多発テロ事件以降、何か前向きなことをしたいと思うようになったから」、とインタビューで語っている。 彼女はジミーの親戚である詩人や生き別れとなっていた彼の姉を見つけ出し、彼の市民権や社会保障番号を調査しアパートで自活できるようにするなどジミーの社会復帰の手助けをした。
この過程でハッテンドーフはミリキタニのドキュメンタリー映画制作を決め、彼が育った広島や収容所のあったカルフォルニアをともに訪ね、その足跡を追った。タイトルの猫は、ミリキタニが好んで描く題材である。アメリカでもあまり語られない第二次大戦を経験した日系アメリカ人の現実を通し、正義について問いかける作品として反響を呼び、多くの映画賞に輝いた。
楚里 清(そり きよし、1952年 – )は、日本画家。
1952年広島県呉市に生まれる。1978年愛知県立芸術大学を卒業する。1980年愛知県立芸術大学大学院を修了。1982年~1987年愛知県立芸術大学非常勤助手。
日本画の手法を用いながらも、西洋画的な描写による作風。動物を題材にした作品が多い。日本美術院院友。 今は河合塾美術研究所勤務
2015年第70回春の院展入賞
野田 弘志(のだ ひろし、1936年 6月11日- )は、日本の画家。近縁の画風で知られる中山忠彦、森本草介とは同世代で旧知の間柄。
様式
野田は、凡そ10年単位でその個人様式を大きく転換させるという特徴的な変遷を見せる。しかしその核心は一貫しており、モチーフを細密に写真で記録し徹底した描写でカンバスに再現する粘り強いリアリズム表現が際立つ。1992年以降は低彩度の明るい色(ライトグレーや白)を中心としており、安定している。
1970年代から1997年頃まで、藤田吉香にも似た、シンプルな大面積の背景を特徴として画面を構成してきた所があるが、近年では、大面積でシンプルな背景は影を潜めている。
1970年代の黒の絵画
1970年から絵画制作に専念し先ず制作された絵画は、黒い背景によって特徴づけられる絵画である。批評等で頻繁に取り上げられる、『やませみ』 (1971年) や麦を描いた『黒い風景 其の参』 (1973年) はこの時代の作品である。
黒い背景といっても一様に同じ色ではなく、肌理の目立ったもの、雲を描いたもの、素材に変化を持たせて光沢を大胆に変化させ対比させたものなどがあり、多様性に富んでいる。
1980年代の金の絵画
1980年代に特徴的なのは、黄金色の表現である。その萌芽は70年代の作品にも見出せるものの、金箔による黄金背景や、黄赤系統の絵具による一面を覆う黄金色の物体の表現は、この時期の特徴である。
『湿原』、『ヴィーナスの笑くぼ』、『松風の家』
1983年から加賀乙彦作『湿原』の新聞連載の挿絵の原画を鉛筆を用いて制作する。その入念で細密な完成度の高い鉛筆画は、高く評価される。この時期の徹底的に鉛筆に打ち込んだことが、この後の画家の油彩画を更なる高みに押し上げたとも言われる。
その後の『ヴィーナスの笑くぼ』、『松風の家』では、茶道具や人間など、『湿原』とは趣の異なる対象を描いている。
1990年代以降の白の絵画
1990年代以降の代表的な作品群は、白やグレーを基調色とする壮大な連作である。概ね、21世紀に入ってからは明るいグレーの作品が多くなっている。同時期の、小品では暗いグレーも多用されている。絢爛な色彩の薔薇の作品も多数描かれている。
非時
1991年に駝鳥の卵、骨、磁器、ガラス器を組み合わせ描いた『TOKIJIKU(非時)I Egg』を始めとして、画家に時間の集積と生命の形相を意識させる骨を中心とし、広い空間を扱った大画面が特徴的な、一段と意識の高い作品群である。
大半の絵画の基調色はグレーであるが、『TOKIJIKU(非時)II Fossil』、『TOKIJIKU(非時)III Macaca Fuscata』、『TOKIJIKU(非時)IV Sea Lion』、『TOKIJIKU(非時)XI Sphere』は、褐色系統を基調色としており、他の非時とは趣を異にしている。
現在、『TOKIJIKU(非時)XXIV』まで確認されている。第1回巨匠展に出品された『TOKIJIKU(非時)XXIV』は、画集には未だ採録されていない。
THE
1997年、白を基調色として、胎児のような姿勢の裸の女性を描いた『THE – 1』、黒を基調色として、下方を見つめる裸の女性の座像を描いた『THE – 2』、そして1998年、暗色を基調とし着衣の女性を描いた『THE – 3』の正方形の3作によって始まったシリーズである。非時とは打って変わって、動物の骨は影を潜め、生きた人間が描かれる。
当初は、人間を描くシリーズとして姿を現したが、『THE – 6』、『THE – 7』、『THE – 9』では、一転して人間を描かず、ロープや金具、幾何学形体が描かれる。確固たる地位を築いた画家のこの挑戦的な態度に、美術評論家の米倉守は賛辞を呈している。両者の中間に当たる作品としては、人間を描き、鳩を描き加えた『THE – 4』がある。 なお、『THE – 5』、『THE – 8』、『THE – 10』では、外国の女性を描いており、画家の油彩画に対する新たな解釈が伺われる。
聖なるもの
2009年、ダークグレーを基調色として、外国の女性の着衣立像を描いた『聖なるもの THE – I』によって始まったシリーズである。野田は胎児、子供、老人、死体といった人間ばかりを描くとしていたが、『聖なるもの THE-IV』では、2メートル角の支持体に拡大した鳥の巣を描いた。
崇高なるもの
『聖なるもの THE – I』同様のダークグレーを基調色として、詩人の谷川俊太郎やホキ美術館創設者の保木将夫を描いている。
言説
絵画と写真
写真を使用することを認めつつも、絵画と写真の差異を強調し、特に初心者が写真を見て描くことにより、様々な勘違いがうまれること、より重要な内容が身に付かないことに警鐘を鳴らす。
芸術とリアリズム
絵画の本質をリアリズムと捉え、その頂点にイタリア・ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチを据える。その後もレンブラント・ファン・レインやドミニク・アングルなどの巨匠は存在したものの、レオナルド以後の絵画の歴史を衰退の歴史と捉える。その原因として徒弟制度が無くなったこと、時代の進度の加速を挙げる。しかしながら他方では、「本当の新しい仕事」として、ポール・セザンヌ、モンドリアン、ジャスパー・ジョーンズの業績には一定の理解を示している。 同時代の画家では、アントニオ・ロペス・ガルシアを非常に高く評価する。特に、『浴槽の女』(1968)はロペスの作品のなかでも屈指の傑作との評価を下している。
ヨーロッパの絵画と日本の絵画、現代日本の絵画
野田自身は研究しなかったものの、ヨーロッパの古典的な絵画の技法が水性の塗料(水性の絵具)の上に油性の塗料(油絵具)を重ねることによって成立するものであることを認め、近年の日本におけるこの研究に対して一定の関心を示すと共に、大学における研究と実践に携わる者として、田口安男や絹谷幸二、佐藤一郎を挙げる。しかしながら、テンペラによる表現は全て油絵具で出来るとして退ける。
また、野田自身が経験して来たことを認めつつも、食べて行く為の絵画と自己の研究の為の絵画を分けることを、日本に特有のダブルスタンダードであると指摘し、本音と建前の二重構造を許容するこの日本の習慣が甘えを生み、現代日本の絵画が世界的に評価を得られない理由になっているとして批判する。
経歴
年表
1936年、6月11日に韓国全羅南道に生まれる(本籍地は広島県沼隈郡柳津村)。その後、福山、中国・上海と転居。
1945年、日本に帰国し福山市で過ごす。
1951年、静岡県浜名郡に転居。
1952年、愛知県立豊橋時習館高等学校に入学。
1956年、上京し阿佐ヶ谷美術学園洋画研究所に通う傍ら、森清治郎に絵画を学ぶ。
1957年、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。
1960年、白日会第36回展に初入選し、白日賞受賞。
1961年、第37会展においてプルーヴー賞受賞、白日会準会員となる。東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻(小磯良平教室)を卒業、東急エージェンシー企画調査部制作課にイラストレーターとして入社する。
1962年、白日会会員となる。東急エージェンシーを退社。以後、デザイン会社を設立し、イラストレーターとして活躍。
1966年、『現代日本文学館 三島由紀夫』(文藝春秋)の挿画を製作。
1970年、画業に専念するためにイラストレーターを辞する。安井賞展、国際形象展、新鋭選抜展、明日への具象展、日本秀作美術展などに出品するほか、初の個展(銀座・三越)等、個展を中心に作品を発表。
1974年、東京造形大学非常勤講師となる(勤務は2年間)。
1982年、白日会第58回展で内閣総理大臣賞を受賞。
1983年、朝日新聞の朝刊に連載された加賀乙彦の小説『湿原』の挿画を担当( – 1985年)。
1987年、加賀乙彦「ヴィーナスの笑くぼ」(『婦人公論』連載)および宮尾登美子「松風の家」(『文藝春秋』連載)の挿画を担当。
1988年、野田弘志展〈明晰なる神秘〉(有楽町アートフォーラム、豊橋市美術博物館他)を開催。
1990年、ベルギーで個展(ヘント・ヴェラヌマン美術館)を開催。日本経済新聞に「写実のこころ10選」を連載。
1992年、「現代の視覚」展 (東京・有楽町アートフォーラム)に出品。第14回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。第5回 安田火災東郷青児美術館大賞作家展〈第14回受賞者野田弘志〉(新宿・安田火災東郷青児美術館)および「安田火災東郷青児美術館大賞受賞記念野田弘志展」(ふくやま美術館)を開催。
1992年、「両洋の眼・現代の絵画」、安田火災東郷青児美術館大賞15周年歴代作家展(新宿・安田火災東郷青児美術館)、「美しすぎる嘘〈現代リアリズム絵画展 PART1 スペイン―日本〉」(日本橋・三越)、「大和思考」〈思いがフォルムになる時〉(大阪・近鉄アート館)に出品。
1993年、「豊橋市美術博物館所蔵 野田弘志展」(札幌・三越)を開催。日本ポルトガル友好450周年記念・新妻實・野田弘志展〈隠されている美神 石と骨〉(リスボン・GALERIA VALENTIM OE CARVALHO他)に出品。
1994年 ベルギーで野田弘志展〈油彩・水彩〉(ヘント・ヴェラヌマン美術館)を開催。 第12回宮本三郎記念賞を受賞。「第12回宮本三郎記念賞 野田弘志展」(日本橋・三越本店)を開催。「輝くメチエ 〜油彩画の写実・細密表現」(奈良県立美術館)に出品。
1995年、「洋画の展望 -具象絵画を中心に-」(福井県立美術館)に出品。
2007年、大規模な回顧展を開催。
平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 – 2009年12月2日)は日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。子に古代生物学者の平山廉(早稲田大学教授)。妻は平山美知子(公益財団法人 平山郁夫シルクロード美術館館長)。
人物
薬師寺玄奘塔
旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。
第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する。
東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。
仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。
郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や[1]、ユネスコ親善大使として北朝鮮の高句麗古墳群の世界遺産登録推進に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章受章、「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。
教育者の立場から長年にわたって後進の指導に当たった。
批評
日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動はアジア諸国、特に中国政府から評価が高く、日中友好協会会長も務め、「文化交流貢献賞」が贈られている。またマニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団よりマグサイサイ賞を贈られている。
一方、「文化大革命や都市開発により中国人自身の手によって破壊された中国の歴史的建造物を『戦時中に日本軍が破壊した』として日本人から寄付金を募って中国の文化財の復元事業に当てた」として批判も受けている。「梁思成は日本の古都の大恩人」という根拠薄弱な説に基づいて寄付金を募り、梁思成の銅像建立事業を主導した事も批判の対象となっている。また国立大学(後に国立大学法人)である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展示即売会で多額の利益を上げている点などを批判されることもある。 東京藝術大学学長を辞任した1995年には岩橋英遠の「赤とんぼ」という作品からの盗作疑惑が持ち上がっている。
年譜
1930年 – 広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれる。
1947年 – 東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1952年 – 卒業とともに同校助手となる。
1973年 – 東京藝術大学美術学部教授に就任。
1988年 – ユネスコ親善大使に就任。
1989年 – 東京藝術大学学長に就任。1995年まで務める。
1992年 – 世界平和アピール七人委員会委員に就任。2005年まで務める。
1992年 – 日中友好協会会長に就任。2008年まで務める。
1994年 – 文化財保護振興財団理事長(現・文化財保護・芸術研究助成財団) に就任。
1996年 – 日本育英会会長就任。2001年まで務める。
2001年 – 再び東京藝術大学学長に就任し、2005年まで務める。
2005年 – 日韓友情年日本側実行委員長に就任。
2005年
東京国立博物館特任館長に就任。
平城遷都1300年記念事業特別顧問。
2009年 – 脳梗塞のため東京都内の病院で死去[1]。贈従三位。
栄典・表彰等[編集]
1961年 – 第46回院展で『入涅槃幻想』が日本美術院賞(大観賞)を受賞[1]
1962年 – 第47回院展で『受胎霊夢』『出現』が日本美術院賞(大観賞)を受賞
1964年 – 第49回院展で『仏説長阿含経巻五』『続深海曼陀羅』が文部大臣賞を受賞
1976年 – 日本芸術大賞受賞
1978年 – 第63回院展で『画禅院青邨先生還浄図』が内閣総理大臣賞を受賞
1995年 – モンブラン国際文化賞受賞
1996年 – レジオン・ド・ヌール勲章受章
1998年 – 文化勲章受章
2001年 – マグサイサイ賞受賞
2002年 – 「文化交流貢献賞」受賞(中国政府より)
2004年 – 「修交勲章興仁章」受章(大韓民国政府より)
2004年 – 朝日賞受賞
福原 五岳(ふくはら ごがく、享保15年(1730年) – 寛政11年11月17日(1799年12月13日))は江戸時代中期の文人画家。池大雅の高弟。
名は元素、字は太初・子絢、号は五岳のほかに玉峰・楽聖堂など。通称・大助。備後尾道の人。
略伝
京都に上り、池大雅に入門。大雅門第一位と評される。同門には青木夙夜・池野観了など。大坂に移り、大雅の画風を広め、大坂画壇の隆盛に一役買った。人物図は彭城百川以来の名手と評され、山水図も得意とした。懐徳堂や混沌詩社の名流と交友。三宅春楼・中井竹山・片山北海・頼春水・木村蒹葭堂・葛子琴・細合半斎・慈雲・蔀関月などである。
安永頃に北渡部町に住み、寛政頃から本町に住んだ。寛政11年(1799年)、70歳にて歿し、下寺町源聖寺に埋葬される。
門下に林閬苑・岡熊嶽・浜田杏堂・鼎春嶽・黒田綾山・岡本豊彦・広瀬臺山・平田玉蘊、松本奉時などがいる。
逸話
五岳は酒をこよなく愛し、楽聖堂の号も、中国故事の飲中八仙歌に因んだという。あるとき京都の五岳の家で大雅と高野山に出立しようと身支度をしていると、偶然、頼春水が訪ねてきたことがあった。そのまま五岳の家で酒盛りが始まり、いつまで経っても酒を飲み続け一向に旅に出ようとしなくなったのでさすがの大雅も閉口し、「楽聖福先生 倒樽日為度 倒樽又倒樽 倒樽終無度」と嘆詠したと言われる。
船田 玉樹(ふなだ ぎょくじゅ、1912年〈大正元年〉10月29日 – 1991年〈平成3年〉2月4日)は、日本画を中心に制作した美術家。本名・信夫。
経歴
広島県賀茂郡広村(現在の呉市広)出身。速水御舟の門に入り、御舟没後は小林古径に師事。1938年(昭和13年)、岩橋英遠らと歴程美術協会を結成、丸木位里らと日本画の前衛表現を推し進める。戦後は郷里にとどまり、孤高の画業を貫く。2012年(平成24年)から2013年(平成25年)にかけて、練馬区立美術館と広島県立美術館で大規模な回顧展が開催され、それにあわせて画文集『独座の宴』が刊行される。
船田の娘でアコーディオン奏者・ゆうこ(副島優子)は、シンガーソングライター・村下孝蔵の元妻。村下の楽曲『ゆうこ』のタイトルになっている。また、息子の船田奇岑は、父の画業を継ぐ日本画家であり電子楽器テルミンの演奏家でもある。
松山 省三(まつやま しょうぞう(せいそう)、1884年9月8日 – 1970年2月4日)は洋画家、カフェー・プランタンの経営者。
来歴・人物
広島県広島市出身。父・渡辺又三郎は広島藩主を務めた浅野氏の荒小姓で伊藤博文の弟子。維新後、代言人から政治家になり市議会議長、第8代広島市長を務めた。省三は三男であった。
日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。
リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。実父は広島市長在職中の1910年7月に病死した。
画業では白馬会の岡田三郎助に師事、院展などに出品した。パリに憧れ留学が夢だったが、義父が小豆相場に失敗して断念。親友の劇作家・小山内薫に勧められ、美術学校時代の教授だった黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェ」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、平岡権八郎とともに1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。プランタンは仏語で春を意味し、親友小山内が命名した。
日本で初めて「カフェー」と名乗り、珈琲や洋酒、サンドイッチ、食事を揃えた。フランスのカフェの給仕は男性であるが、プランタンは女給仕、今でいうウェイトレスを置いて人気を得た。従来にない営業形態のため、当初は会費50銭で維持会員を募り会員制としていた。会員には森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岸田劉生、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、2代目市川左團次ら錚々たるメンバーが名を連ね大いに賑わった。店の壁は彼らの落書きで埋まり、店の名物になったという。
カフェー・プランタンは日本第1号のカフェとされ、松山は日本の「事始め」や「飲食文化史」に名前を残すこととなった(日本における喫茶店の歴史)。
しかし、1923年9月の関東大震災で日吉町のプランタンは焼失。
震災後の一時期、牛込神楽坂に支店を出した。こちらの店は文化人や早大生に特に愛されたという[12]。またかつて大型客船でバーテンをしていたこの店の従業員が、船内用の英文18ページの麻雀の手引書を持っていて、松山がこれに興味を持ち、二代目 市川猿之助に頼んで、市川が上海で買った一組の麻雀牌を店に持ち込んだ。近くに住む広津和郎と佐々木茂索、松井潤子をカフェ2階に呼び、しどろもどろのルールでゲームを始めたのが、麻雀史に於ける日本麻雀の黎明期ープランタン時代の始まり。その後、貿易商で麻雀通の林茂光(鈴木郭郎)が店に出入りするようになり、松山の牌と、この林の指導を受けた菊池寛、濱尾四郎、古川ロッパ、久米正雄らが日本麻雀の基礎を創った。この神楽坂プランタンは日本の「麻雀荘発祥の地」でもある。神楽坂店は震災の翌年から約2年営業。
本店は銀座通りの南金六町に移転したが、1945年3月の建物疎開で取壊された。
第2次世界大戦後は、文春クラブ支配人を務めた。
1970年2月4日、85歳で死去。墓所は調布市明西寺にある。
長男は歌舞伎俳優の5代目河原崎國太郎。孫は俳優の松山英太郎、松山政路、女優の松山梨絵。曾孫は歌舞伎俳優の7代目嵐芳三郎、6代目河原崎國太郎、女優の由夏、俳優の芦田昌太郎、女優の松山愛佳。
丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 – 1995年10月19日)は、日本画家。妻・丸木俊と共作の『原爆の図』が著名である。
生涯
広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で農業および太田川で船宿を営む丸木金助・スマの子として生まれた。臨月の頃、スマは船宿の2階から客の食膳を下げる際に階段から転落した。その事故により、出生した位里の顔の右側には目立つ痣が残ってしまっていた。このことで位里に負い目を感じたスマは、位里の生き方には干渉せず、一切を本人の自由に任せることにした。位里はそのことを終生感謝していたという。長じて上京し田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。
1945年8月広島に原爆が投下されると、広島市西郊の三滝に移住していた父母など実家の家族の安否を気遣った位里は、疎開先の埼玉県浦和市(当時浦和画家など画家が多く居住していた)を離れ、俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した。この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表するとともに絵本『ピカドン』を刊行し、以後、原爆をテーマとする絵画を描き続けた。
1946年に日本共産党に入党。
1956年11月、丸木夫妻がアムステルダム留学中、原爆の絵の展覧会を手伝ったことで知り合った香川睦久が留守宅に上がり込み、留守番をしていた母のスマを撲殺。窃盗目的の殺人と見られている。事件発覚後、香川の遺体が神奈川県横須賀市長者ヶ崎で発見されたが、飛び込み自殺したものとされた。
1964年に部分的核実験停止条約の評価を巡り共産党を除名される。
1966年、埼玉県東松山市に移住し、翌1967年に自宅近くに原爆の図丸木美術館を設立した。
1995年には妻の俊とともにノーベル平和賞にノミネートされたとされ、翌1996年には朝日賞を受賞した。『原爆の図』以外では、『水俣の図』、『南京大虐殺の図』の妻との共作もある。また、位里単独の作品(日本画)では牛をモチーフとした一連の作品が知られている。画家・絵本作家の大道あやは妹にあたる。
吉原 英雄(よしはら ひでお、1931年(昭和6年)1月3日 – 2007年(平成19年)1月13日)は、現代日本を代表する画家、版画家。広島県因島市出身。大阪府立天王寺高等学校卒業。京都市立芸術大学教授の後、同大学名誉教授。2007年に膵臓癌のため死去。
初期はリトグラフの制作を行なうが、後にリトグラフと銅版を併用した。女性や静物などをモチーフとし、臨場感のある虚構空間を描き出すことで知られる。作品は現代人の不安や心理的真空感を反映したものと評される。
略歴
1931年(昭和6年) – 広島県因島市に生まれる。
1950年(昭和25年) – 大阪市立美術研究所・洋画部に学ぶ。
1952年(昭和27年) – 遠縁にあたる吉原治良に師事。
1954年(昭和29年) – ゲンビ展に出展。具体美術協会の創立に参加。
1955年(昭和30年) – 具体美術協会を退会しデモクラート美術家協会に移籍。
1968年(昭和43年) – 第6回国際版画ビエンナーレ招待出品、文部大臣賞受賞。
1969年(昭和44年) – 第9回現代日本美術展ブリヂストン美術館賞受賞。
1970年(昭和45年) – 第20回芸術選奨新人賞受賞。
1978年(昭和53年) – 京都市立芸術大学教授に就任。
1994年(平成6年) – 紫綬褒章受章。
1995年(平成7年) – 京都市文化功労者の顕彰を受ける。
1996年(平成8年) – 京都市立芸術大学を停年退官し名誉教授に就任。
2002年(平成14年) – 勲三等瑞宝章を受勲。
2003年(平成15年) – 大阪市文化功労者の顕彰を受ける。
2007年(平成19年) – 膵臓癌のため死去。享年76。死後、従四位に叙された。
小林千古 – 洋画家(旧佐伯郡地御前村(現廿日市市地御前)出身)
桑田 笹舟(くわだ ささふね、明治33年(1900年)6月24日 – 平成元年(1989年)7月31日)は、日本の書道家。福山市名誉市民。本名・桑田 明(くわだ あきら)。
経歴
広島県福山市坪生町出身。1921年教員試験に合格し神戸市立神戸小学校、神戸市立神戸女学校に奉職。同年安東聖空に師事。1924年古筆研究家の田中親美に師事。1924年一楽書芸院を設立、会長に就任。1927年「かなとうた」発刊。1932年関西書道会展、東方書道会展で最高賞受賞。1940年教職を退き、書道に専念。
戦後は日本かな書道界をリード、現代かな書の先駆けとなる。1951年日展特選。1956年朝日新聞社主催「現代書道二十人展」に出品。1965年兵庫県文化賞。1970年日本芸術院賞受賞。1978年勲四等旭日小綬章。1980年東大寺華厳経奉納。1981年紺綬褒章。1982年東宮御所において皇太子妃(現在の皇后美智子)に料紙について御進講。
その他、日展理事・毎日書道展審査会員、一楽書芸院会頭、日本書芸院名誉顧問などを歴任。関西かな上位の基盤を作った一人で、門下から多くの人材を輩出。「大字かな」運動の先駆者として書道隆盛の基礎を築いた。また古筆と料紙の探求に専念し、王朝の料紙を現代に再現する等、料紙研究家としても第一人者であった。
桑田三舟は実子にして弟子である。
宮本 竹逕(みやもと ちくけい、1912年9月25日 – 2002年10月7日)は、日本の書家、かな書家。広島県福山市赤坂町出身。本名は宮本顕一(みやもとけんいち)。
日展参事・読売書法会顧問・日本書芸院名誉顧問・日本かな書道会顧問・寒玉書道会会長・歌会始召人などを歴任。日本芸術院賞・日展文部大臣賞・日展特選・勲四等旭日章・紺綬褒章などを受賞・受章。社団法人日本書芸院・社団法人日本かな書道会・読売書法会・寒玉書道会を創立。
人物
戦後を代表する仮名作家の一人である。
経歴
1933年 – 広島県師範学校卒業
1939年 – 文部省検定試験合格(中等学校習字科)
1942年 – 竹逕(ちくけい)と号す
194年 – 社団法人日本書芸院創立(理事長を経て常任顧問)
1948年 – 日展に第五科新設され入選
毎日書道展運営委員(審議委員を経て理事)
1950年 – 第六回日展特選受賞
1955年 – 第十一回日展委嘱
1957年 – 第十三回日展審査員
1959年 – 朝日新聞社主催 書道二十人展出品(昭和五十年を除き毎年出品)
1961年 – 日本書道代表団員として中国訪問
1962年 – 日展評議員
1963年 – 米国巡回書道展に出品
1965年 – 東南アジア巡回書道展に出品
香港書道展に出品
1967年 – 第十回日展文部大臣賞受賞
1968年 – 個展開催(三越画廊)
1969年 – 関戸本古今集』出版(二玄社)
1971年 – 中京大学文学部教授
個展開催(巻子本を主として)三越画廊
1973年 – 日本芸術院賞受賞[1] 作品は日本芸術院買上
1975年 – 日展理事
1976年 – 社団法人日本かな書道会創立(理事長に就任)
中京大学文学部教授辞任
『大字仮名技法』出版(二玄社)
『宮本竹逕書法』出版(尚学図書)
1977年 – 『毎日書道講座〔かな編Ⅱ〕』編集(毎日新聞社)
1979年 – 『宮本竹逕作品集成』出版(講談社)
個展(民謡を主題に)開催(朝日画廊)
1980年 – 東大寺へ華厳経奉納
『寒玉帖』一・二・三・四・五出版(書道新聞社)
1981年 – 日展常務理事
毎日書道展理事辞退
『宮本竹逕民謡百筆』出版(講談社)
『大字かな帖』出版(書道新聞社)
1982年 – 信州新町美術館に作品寄贈(これにより紺綬褒章受章)
田中美術館に作品寄贈
『帖』の個展開催
1983年 – 最高裁判所長官室に掲げる作品寄贈
成田山大塔建立記念献書
1984年 – 日本書道巨匠展出品アメリカ、イタリア、ドイツを巡回 読売新聞社主催
読売書法会創立 総務に就任
身延山久遠寺に作品二点寄贈
勲四等旭日章受章
宮本竹逕100帖展を朝日新聞社主催で開催
1985年 – 宮本竹逕作品集 宮本竹逕筆一二五帖が東京国立博物館に収蔵される
(内訳)平安時代の勅撰八代歌集全巻 三十六歌集 小倉百人一首
芭蕉全句集 近代俳句集 民謡等(これにより紺綬褒章受章)
佐久市美術館に作品三点寄贈
アメリカ国会議事堂図書館に百人一首六曲屏風一双寄贈
『現代かな書法講座』全六巻監修(角川書店)
『かなを語る』出版(美術公論社)
広島県立美術館に作品六点寄贈
1986年 – 新年歌会始の召人に選ばれる。
1999年 – 米寿記念宮本竹逕平家物語を書く展
宮本竹逕筆『平家物語』厳島神社に奉納される
2002年 – 十月七日 死去
作品リスト[編集]
宮本竹逕書法現代日本書法集成(1977年 尚学図書)
入門毎日書道講座5(共著)(1977年 毎日新聞社)
宮本竹逕書作展 民謡を主題に(図録)(1979年 寒玉書道会)
宮本竹逕民謡百筆(1981年 講談社)
竹逕大字かな帖(1981年 書道新聞社)
宮本竹逕作品集成(1983年 講談社)
大字仮名技法(1984年 二玄社)
寒玉帖 全5巻(1984年 書道新聞社)
かなを語る(1985年 美術公論社)
大慈大悲西国三十三所観音衆成(共著)(1986年 講談社)
かなの風景 線と造形(1991年 芸術新聞社)
卒寿記念(図録)(1992年 贅交社)
現代臨書大系(第8巻)愛蔵版)(1998年 小学館)
書道技法講座4 かな関戸本古今集(二玄社)
栗原 蘆水(くりはら ろすい、1931年6月26日 – 2010年6月30日)は、日本の書家。本名は靖。広島県福山市駅家町出身。
来歴
1950年広島県立府中高校卒業後、4年間天満屋デパートに勤務。1954年、脱サラして村上三島に師事し大阪に住む。1962年第5回日展で特選受賞。1965年蘆交会を主宰し、書道文化の普及や後進の育成に尽力。1969年改選第1回日展審査員就任、以後12回務める。1988年日展文部大臣賞、1994年日本芸術院賞などを受賞。日本を代表する書家として活躍した。翌1995年、日展理事就任。2001年日本書芸院理事長に就任。同年、勲四等旭日小綬章受章。日展常務理事、全国美術振興会常務理事なども務めた。
2003年、郷里に開館した「ふくやま書道美術館」の運営にも尽力。寄贈された書画など美術品は、所蔵品の約9割を占める。
平櫛 田中(ひらくし(又は ひらぐし) でんちゅう、1872年2月23日(明治5年1月15日) – 1979年(昭和54年)12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛倬太郎。旧姓は田中。井原市名誉市民(1958年)、福山市名誉市民(1965年)、小平市名誉市民(1972年)。
経歴
岡山県後月郡(現・井原市)の田中家に生まれる。1882年(明治15年)に広島県沼隈郡今津村(現・福山市今津町)の平櫛家の養子になったが、大阪時代までは旧姓を通称に用いていた。1893年(明治26年)に、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。
1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員となった。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員。同年、東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授に招聘され、第二次世界大戦後も教壇に立つ。明治末期から大正初期にかけて、東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。東京藝大構内の六角堂に田中作になる「岡倉天心像」が安置されており、天心を敬愛していた田中は藝大勤務時代には登校のたびに、この自作の像に最敬礼していた。1958年(昭和33年)畢生の大作「鏡獅子」を戦中のブランクを経て、20年をかけて完成する。モデルの6代目尾上菊五郎はすでに故人となっていた。1962年(昭和37年)、文化勲章受章。1965年(昭和40年)、東京藝大名誉教授となった。
1972年(昭和47年)、田中の出身地である井原市が主催し平櫛田中賞を設けた。100歳を超え長命であったが死の直前まで創作を続けたという。没後、田中のアトリエには30年以上続けて制作できるだけの彫刻用の材木があった。この材木を利用して、井原市の田中美術館に上野桜木町のアトリエが再現された。田中は1979年(昭和54年)、東京都小平市の自宅で108歳の長寿で大往生した(享年は数え年。満年齢だと107歳)。広辞苑に載っている実在の人物の中では最も長命な人物でもある。
作品
福山駅南口前の五浦釣人像
浅草寺雷門の天龍
田中は写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人である。代表作は国立劇場にある「鏡獅子」や、「烏有先生(うゆうせんせい)」「転生(てんしょう)」「五浦釣人(いづらちょうじん ※地名はいづらであるが、田中自身は音読して、ごほちょうじんと呼んでいた)」など。また、田中語録と呼ばれる名言も多く残している。田中の出身地の井原市に井原市立田中美術館、また、晩年を過ごした小平市には小平市平櫛田中彫刻美術館があり、作品を公開している。またJR福山駅南口にあり待ち合わせなどに使われる「五浦釣人」は同名の木彫像(茨城大学蔵)を制作するための石膏原型より鋳造され、作者本人により寄贈された作品である。明治から昭和戦前期にキャリアをはじめた木彫家の多くが、江戸時代までの直彫りではなく、修正可能な油土で構想を練りながら原型を作り、石膏で型取りして、そこからさらに星取り法(西欧由来で、日本では米原雲海が初めて木彫に応用した技法)で木彫に写すという方法で制作した。そのため、この釣人像はレプリカ(複製)ではなく、作者の選択した制作方法による「作品」である。
東京都台東区の浅草寺の雷門の背面(境内側)には、彫刻家菅原安男による天龍金龍像が設置されている。1978年に松下グループ有志により寄進されたもの。平櫛田中は監修と題額の書を揮毫している。
エピソード
田中は百歳を超えても、30年かかっても使いきれないほどの材木を所有していた。これはいつでも制作に取り掛かれるようにと、金銭に余裕がある時に買いためていた材木がいつの間にかそれだけの分量になっていたためである。
不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから
とは田中がたびたび揮毫していた書。よく揮毫していた言葉
いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる
と同様、座右の銘といえようか。不老の言葉を知った横溝正史は「田中さんには及びもないが、せめてなりたやクリスティ」と詠んだ。
1936年(昭和11年)に鏡獅子の制作を開始したとき、歌舞伎座に25日通いつめ、場所を変えさまざまな角度から観察した。なお昭和11年、12年ともに公演があったため長く昭和12年とされてきたが、近年の研究により昭和11年が正しいとされる。
彫刻刀の切れ味にはこだわっていた。彫刻道具を専門とする彫刻鑿鍛冶にオーダーメイドで製作依頼をしていた。昭和7年頃には名人気質の職人左村重の作る鑿や小刀も使っていたようだ。戦前より親交があり、後に人間国宝となる宮入行平が彫刻刀を製作したこともあった。
90歳で文化勲章を受章、受章者記者会見で田中は「貰うのは棺桶に入ってからだと思っていました」と発言して記者を笑わせ、喜びを表した。
1970年(昭和45年)に初めての作品集『尋牛 平櫛田中作品集』(山崎治雄撮影、平櫛田中顕彰会刊行、1970年)が田中の郷土岡山にて刊行された。
圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年11月30日 – 2003年10月31日)は、広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。
来歴・人物
広島県御調郡河内村(現・尾道市御調町)出身。本名は勝二。河内尋常高等小学校高等科を卒業後、京都の彫刻師・石割秀光の内弟子になる。京都市立商工専修学校、関西美術院で彫塑を学ぶ。
しかし、単なる職人で終わることを嫌い上京し日本美術学校彫刻科へ入学。同校在学中の1930年、第11回帝展に「星陽」を出品し初入選。日本美術学校を卒業後、彫刻家の澤田政廣に師事。1932年、母が娘に紅を差す何気ない日常の一瞬を描写した「初夏」を第3回文展に出品し特選。
戦後、圓鍔の彫刻は高い評価を受ける。1946年、第2回日展で「砂浜」が特選。1947年、第3回日展で「しろうさぎ」が特選。1950年、第6回日展で「土器を持つ女」が特選。
1950年、多摩美術学校(多摩美術短期大学)教授に就任。1951年、日展審査委員に就任。1953年、多摩美術大学彫刻科教授に就任(その後、同大学彫刻科名誉教授の称号を得る)。
1960年、名を勝三に改名。1962年、日展評議員に就任。1965年、第8回日展に出品した「旅情」が文部大臣賞、日本芸術院賞(1966年)を受章。1968年、日本美術家連盟委員、日本彫塑家協会委員長に就任。
1970年、日本芸術院会員。1971年、日展常務理事に就任。同年、紺綬褒章受章。1976年、勲三等瑞宝章受章。
1980年、日本彫刻会理事長に就任。同年、神奈川県文化賞受賞。1981年、日展顧問に就任。同年、御調町名誉町民第1号に登録される。1982年、文化功労者。1988年、文化勲章を受章。1989年、広島県名誉県民に登録される。同年、自伝「わが人生」を出版。
1991年、川崎市名誉市民に登録される。1993年、伊勢神宮に「神馬」を奉納。同年、圓鍔勝三彫刻美術館、圓鍔記念公園が開館。1997年自伝「続・わが人生」を出版。
2003年10月31日、鬱血性心不全のため死去。
圓鍔はときに古典的な彫塑の要素を離れデフォルメを強調した作品や、彩色を施した彫刻、石や金属、ステンレスなど複数の素材を組み合わせた作品を発表した。自らが見た夢を題材に選ぶなど抽象的な表現にも果敢に挑戦した。また、作品には独特なタイトルを付け独自性を強調した。常に新たな表現を模索し、晩年まで作家活動を行い、生涯創作意欲が枯れることはなかった。
略歴
1928年(昭和3年) 日本美術学校入学
1932年(昭和7年) 同校卒業
1950年(昭和25年) 多摩美術短期大学教授
1953年(昭和28年) 多摩美術大学教授
1962年(昭和37年) 日展評議員
1971年(昭和46年) 日展常務理事
1980年(昭和55年) 日本彫刻会理事長
1981年(昭和56年) 日展顧問
主な受章歴[編集]
1971年(昭和46年) 紺綬褒章
1976年(昭和51年) 勲三等瑞宝章
1980年(昭和55年) 神奈川県文化賞
1988年(昭和63年) 文化勲章
杭谷 一東(くえたに いっとう、1942年 – )は、日本の彫刻家である。
広島県世羅郡世羅町出身。圓鍔勝三に師事し、1962年に日展初入選以来、連続8回入選を果たす。1969年にイタリアに渡りペリクレ・ファッツィーニに師事。イタリアカッラーラにアトリエを構え、制作活動を行なっている。彫刻作品と自然景観との融合を目指した「環境彫刻」がライフワークである。
略歴
1942年 – 広島県世羅郡旧甲山町に生まれる
1957年 – 彫刻家 圓鍔勝三に師事
1962年 – 日展初入選 以後連続8回入選
1969年 – イタリア国立アカデミー(ローマ)彫刻科入学
1969年 – 同アカデミーでファッツィーニ教授に師事
1971年 – イタリア国立アカデミー卒業
1971年 – 同アカデミー最優秀ミネルヴァ賞を受賞
1974年 – ファッツィーニ教授の助手としてバチカン宮殿の謁見の間の「キリストの復活」制作に参加
1988年 – 耕三寺博物館 巍々園の「未来心の丘」制作開始
1990年 – バチカン宮殿にてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に謁見
1993年 – 広島ホームテレビより文化賞受賞
2000年 – 耕三寺博物館 巍々園の「未来心の丘」第1期オープン
2004年 – カラーラにてチャンピ・イタリア大統領に謁見
2005年 – MAA(マーブル・アーキテクチュアル・アワード) 大賞受賞
2006年 – 広島文化賞受賞
展覧会
1977年 – 第3回ラヴェンナ国際ビエンナーレ 金賞受賞
1977年 – 第11回クワドリエンナーレ出品
1979年 – 第4回ラヴェンナ国際ビエンナーレ 金賞受賞
1979年 – 第1回ヘンリー・ムーア大賞展(箱根彫刻の森美術館)
1980年 – 国際彫刻ビエンナーレ大賞受賞(イタリア・マリーノ市)
1981年 – 第2回ヘンリー・ムーア大賞展(箱根彫刻の森美術館)
1987年 – 第5回ヘンリー・ムーア大賞展(美ヶ原高原美術館)
1988年 – 国際石彫シンポジウム(西ベルリン)
1989年 – 国際石彫シンポジウム(バルセロナ)
1990年 – 個展形式4人展(日独文化センター ベルリン)
1998年 – 第9回国際ビエンナーレ(イタリア・カッラーラ)
2004年 – 和舒門 奇跡の広場(イタリア・マッサ海岸)
2007年- オープン・ワン 白い息吹 水の神(イタリア・ピエトラサンタ)
2008年 – 第13回国際ビエンナーレ(イタリア・カッラーラ)
2008年 – Arte Senza Confini(イタリア・ミラノ)
2009年 – ローマ古代遺跡・アッピア街道展(イタリア・ローマ)
モニュメント
1981年 – 家族(胡椒石)ヴィラ・デジデーリ イタリア・マリーノ市
1982年 – 家族(カッラーラ産大理石、花崗岩)府中市文化センター 広島県府中市
1982年 – かたらい(花崗岩)広島県立府中東高等学校 広島県府中市
1983年 – 平和アピール碑(カッラーラ産大理石)広島平和記念資料館 広島市
1983年 – 経験(花崗岩)広島全日空ホテル 広島市
1983年 – かたらい(カッラーラ産大理石)正田歯科医院 広島県甲山町
1984年 – かたらい(カッラーラ産大理石)三原リージョンプラザ 広島県三原市
1984年 – 水のデゥエット(花崗岩[赤、灰色])甲山町役場 広島県甲山町
1985年 – 道程(花崗岩)宇津戸公民館 広島県甲山町
1986年 – 太陽の滴(カッラーラ産大理石、花崗岩)春日池公園 広島県福山市
1987年 – 敬意(カッラーラ産大理石)美ヶ原高原美術館 長野県武石村
「敬意(RISPETTO)」(ふくやま美術館前庭)
1988年 – 敬意(アフリカ黒花崗岩)ふくやま美術館 広島県福山市
1988年 – 家族(ブロンズ)株式会社ナカタ・マックコーポレーション 尾道市
1989年 – 大地の鼓動(カッラーラ産大理石)新尾道駅 広島県尾道市
1989年 – 大地の鼓動(カッラーラ産大理石)カタラン広場 バルセロナ
1990年 – 大地の鼓動(カッラーラ産大理石)藤原眼科 広島県世羅町世羅学園通り
1990年 – 敬意(カッラーラ産大理石、アフリカ黒花崗岩)日独文化センター ベルリン
1991年 – 大地の鼓動(カッラーラ産大理石)ミノーリ市 イタリア
1991年 – 家族(カッラーラ産大理石)久井カントリークラブ 広島県久井町
1991年 – 共有(カッラーラ産大理石)株式会社北川鉄工所 広島県府中市
1992年 – 敬意(カッラーラ産大理石)広建コンサルタンツ株式会社 広島県福山市
1992年 – 水の城(花崗岩)福山城公園 広島県福山市
1993年 – 大地の鼓動(カッラーラ産大理石)通町公園 千葉市
1993年 – 太陽への道(カッラーラ産大理石)広島県立びんご運動公園 広島県尾道市
1994年 – 共生(カッラーラ産大理石)府中市体育館ウッドアリーナ 広島県府中市
1994年 – 共生(カッラーラ産大理石)新市中央緑地公園 広島県新市町
1995年 – 未来心(カッラーラ産大理石)広島県立世羅高等学校 広島県世羅町世羅学園通り
1995年 – 共生(カッラーラ産大理石)千代田区いきいきプラザ一番町 東京都千代田区
1996年 – 共生(花崗岩)北部市民センター 広島県福山市
1997年 – 共生(カッラーラ産大理石)八田原ダム 広島県甲山町
1997年 – 卵の城(カッラーラ産大理石)かごしま健康の森公園 鹿児島市
2000年 – 未来心の丘(カッラーラ産大理石ほか)耕三寺博物館 広島県瀬戸田町
2004年 – 和舒門(カッラーラ産大理石)三原市水道局 広島県三原市
2004年 – 家族(カッラーラ産大理石)ポケットパーク6 広島県御調町
2004年 – 館祖 奥 愛次郎 胸像(ブロンズ)広島県立日彰館高等学校 広島県三次市
2004年 – 天地花(カッラーラ産大理石)天地花公園 広島県世羅町世羅学園通り
2004年 – 未来心(カッラーラ産大理石)甲山中学校 広島県世羅町
2004年 – 敬意(カッラーラ産大理石)本郷生涯学習センター 広島県本郷町
2005年 – 敬意(連作)なかた美術館 尾道市・長崎市
2008年 – 太陽の門 まなびの館ローズコム 広島県福山市
2009年 – 敬意(アフリカ黒花崗岩)藤原眼科 広島県世羅町世羅学園通り
内藤 礼(ないとう れい、1961年 – )は彫刻家。ひそやかで繊細な造形作品と、それを配置し鑑賞する緊張感のある空間からなるインスタレーション作品などを作成。
1961年‐広島県広島市出身、広島女学院中学校・高等学校卒業
1985年‐武蔵野美術大学卒業
1995年- 国立国際美術館で個展。『みごとに晴れて訪れるを待て』を出品。
1997年‐ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。『地上にひとつの場所を』を出品。鑑賞者を一人ずつ数分間だけ招き入れる方法をとったため、長蛇の列となった。
2001年- ベネッセアートサイト直島の家プロジェクトで古民家「きんざ」に作品設置。『地上にひとつの場所を』の直島ヴァージョン『このことを』を設置。
2002年‐香川県の直島で個展。
2003年‐アサヒビール芸術文化財団芸術賞受賞。
2008年‐横浜トリエンナーレ2008に参加。
2010年‐豊島美術館に作品設置
ほか、東京のギャラリー小柳などで個展多数。
今井 政之(いまい まさゆき、1930年12月25日 – )は大阪府出身の陶芸家。
略歴
1943年、父の郷里広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)に移り住む。
広島県立竹原工業学校(現・広島県立竹原高校)卒業後、岡山県備前市に赴き備前焼の修行を始める。
1952年京都に移り、初代勝尾青龍洞の門に入り楠部彌弌に師事。
1953年発足した青陶会創立メンバーとなる。
同年、第9回日展に初入選。
1959年、第2回新日展、1963年、第6回新日展にて特選・北斗賞を受賞。
1965年、異例の早さで日展審査員を務める。
1976年に評議員、1998年に理事に就任し以降、日展重鎮作家としての地位を築く。
1993年京都府文化功労賞、紺綬褒章。
1995年毎日芸術賞。
1998年「赫窯双蟹」で日本芸術院賞。
2003年日本芸術院会員、常務理事。
2008年京都府文化賞特別功労賞。
2009年旭日中綬章受章。
国際陶芸アカデミー会員、京都文化財団理事などを務める。
2011年文化功労者。
苔泥彩とよばれる独特の技法を生みだし現代陶芸界に独自の領域を開拓。花や魚の模様を象嵌する技法の第一人者として知られ海外でも高い評価受けている。
河面 冬山(こうも とうざん、1882年1月20日 – 1955年10月26日)は、漆工芸家。広島県広島市草津(現西区)生まれ。本名・冬一。
経歴
東京美術学校漆工科卒。六角紫水について漆工蒔絵を学び、文展の特選となり文展無鑑査となる。しかし専ら宮内省御用品製作に専念し、大正天皇御即位式用御料車内賢所、大正天皇銀婚式奉祝献上品絵巻物箱、秩父宮御成婚奉祝宮内官献上御書棚等多くの名作を完成させた。一方、蒔絵が制作に長時間かかり、極めて高価なことから、冬山式蒔絵法を創案。短時間でしかも安い価格のものが制作出来るようにした。これに対して1952年、文部省保護委員会より無形文化財保護の選定を受けた。1953年文化功労者。宮内省以外のものとしては、冬山が生涯をかけて制作した青森県盛美園霊廟御宝殿の蒔絵があり、そのうち「桜に孔雀」の蒔絵は6尺に7尺という日本最大、漆芸の最高峰のものといわれている。
六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) – 1950年(昭和25年)4月15日)は、日本の漆工芸家。日本の漆工芸界の草分け。旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 広島県能美島、大柿町(現江田島市)生まれ。
略歴
1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現広島大学教育学部)卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京、東京美術学校(現東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授就任。岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際にも行動をともにし日本美術院の創立に参加。1904年(明治37年)、岡倉に随行して横山大観らとともに渡米。ボストン美術館東洋部、メトロポリタン美術館に勤務し東洋美術品の整理に従事した。その後欧米の日本美術を視察し1908年(明治41年)帰国。母校で後進の指導に当たりながら、正倉院宝物や楽浪漆器など幅広い古典技法の研究と応用作品を発表。1924年(大正13年)教授。1925年(大正14年)パリ万国博覧会受賞。1927年(昭和2年)帝展に工芸部が新設されると審査員、無鑑査として作品を発表、1930年(昭和5年)第11回帝展に出品した「暁天吼号之図漆器」が帝国美術院賞を受賞した。
中尊寺金色堂や厳島神社社殿の修復、古社寺文化財の調査、白漆の発明など、日本の漆工芸界の草分けとして大きな功績を残した。
宮島焼(みやじまやき)とは、広島県廿日市市で焼かれる陶器。廿日市市は対岸に宮島を望み、その厳島神社参拝の際の縁起物として焼かれた。別名を神砂焼(しんしゃやき)、御砂焼(おすなやき)とも呼び、宮島の砂を粘土に混ぜて焼いている。
これは元々、近郷の賀茂郡の村人らが旅行に出かける際に、宮島の砂を「お砂守」として拝受し、無事に帰郷した際には、その砂で土器(お砂焼)を作り、宮島の神前に供えたという慣習に因んでいる。
歴史
宮島焼の走りとなる「お砂焼」が焼かれ始めたのは天明、寛政の頃と伝えられる。後に浅野藩の奨励品として宮島焼が奨められ、全国に名を馳せたが、藩政の弱体化もあって長続きしなかった。
1892年(明治25年)に再興、そして1910年(明治43年)には京都で修行を積んだ川原陶斎が本格的に窯を開いた。その後初代山根興哉(-こうさい)が京焼、萩焼の手法を採り入れた宮島焼を焼き始め、厳島神社の祭祀品も担当することになった。現在もこの川原、山根の2つの窯が伝統を継承している。
特徴
宮島焼は決して派手ではないが、素朴で独特の温かみがある。意匠は宮島のシンボルでもある紅葉や拝殿が多い。用途は土産物向けに、茶碗、小皿、土鈴などを焼いている。なお、いわゆる「お砂」は、粘土の中にごく微量を混ぜ込んでいるだけであり、見て判別できる物ではない。だが、その神域の「お砂」を頂戴することによって、縁起物、有り難き代物である価値を見いだせるのである。
姫谷焼(ひめたにやき/ひめややき)は、備後国広瀬村姫谷(現・広島県福山市加茂町百谷)で江戸時代(17世紀)に制作されていた色絵陶磁器。当時の備後福山藩主であった水野勝種の指示によって生産が始められたといわれている。肥前有田(伊万里焼)、加賀(九谷焼)とともに17世紀の日本国内で磁器の生産に成功した三つの産地の一つであった。ごく短期間操業した後に廃絶したため、現在では幻の焼き物とされている。
概要
姫谷焼窯元跡遺跡の現状(2008年)
歴史
姫谷焼について、地元では、いつ、だれが、何のための製作したのか、どのような作品が製作されたのかなど、その実体は明らかでない点が多かった。そのため江戸時代後期の文化年間に備後福山で編纂された郷土史「西備名区」では、初代福山藩主である水野勝成が放浪時代に姫谷の陶工の家に身を寄せ、作陶していたこと。そして藩主になった折にその陶工に経済的援助をしたため、窯を閉じたという記述がある。しかし実際の陶器の時代的特徴と矛盾するため誤伝といわれている。このように江戸時代後期の時点で既に姫谷焼の伝承は相当曖昧になっていたといえる。 他にも「京の陶工が姫君と駆け落ちして皿を焼いた」という地名伝説や「キリシタンの陶工が九州からのがれてきて焼いた」といった伝説が残されている。
昭和時代に桑田勝三によって、当時の深安郡広瀬村大字姫谷で1936年の窯元遺跡発掘が行われ、この発掘調査が公表されたことで姫谷焼が全国的に認知されるようになった。また発掘調査直後に広島県の史跡に指定された。1969年から1978年まで大規模な調査が行われた結果、窯は大きくなく内壁の焼け具合などからも生産の規模は小さく期間も長くなかったと見られている。
製品の特徴
姫谷焼の生産が行われた期間は短かった。陶器が1660年代(寛文)から1685年(貞享2年)前後まで、磁器は1670年(寛文10年)頃からやはり1685年前後まで、およそ20年間生産されていた。主な陶工として市右衛門(? – 1670年没)が挙げられている。
当時の日本の色絵磁器(伊万里焼など)は中国風の作風が強く見られるが、姫谷焼はかなり和様化されている。これは伊万里焼の磁器製造技術を基に京焼の作風を取り入れたためと考えられている。
政治主導で開窯した経緯からか、日用品はほとんど焼かれず、陶器としては茶碗、茶入など逸品主義の茶道用具が、磁器としては染付の中皿など高級食器が焼かれたといわれている。ただし、備後福山藩と姫谷焼との関わりを示す文献が伝世していない。なお当地は水野氏廃絶後に福山藩から切り離され江戸時代後期には豊後中津藩の支配領域になっていた。そのため姫谷焼に関して、窯跡と作品以外に経緯を物語る物証は存在しない。
なお、姫谷焼はおよそ100点が現存しており、広島県重要文化財に指定されている作品もあるが、個人蔵のものが多く、一般人が鑑賞する機会は少ない。そのため、地元でも知名度は高くない。2008年に広島県立歴史博物館の企画展で現存作品の約半数が展示されたことがある。
窯跡遺跡
福山市北部の姫谷地区の国道182号線沿いの松林に囲まれた斜面に窯跡遺跡がある。また遺跡のそばには市右衛門の墓標もある。
参考文献・関連文献
野村泰三 『色絵染付』 保育社、1980年
『姫谷焼 – 姫谷焼窯跡発掘調査報告』 福山市教育委員会、1980年
関口広次 「広島県姫谷窯の生産技術について-肥前地域の窯業との対比を中心として-」『青山史学』第13号、1992年
関口広次 「広島県姫谷窯の作品とその製作者について」『東洋陶磁』第20・21号、1993年
『姫谷 – 十七世紀後半の色絵磁器の系譜』 福山市立福山城博物館、1993年
「目の眼」1994年5月号
和田正巳・福永伸哉 『姫谷焼の陶片資料』 真陽社、2013年
銅蟲(どうちゅう)とは銅板を槌(つち)で叩いて整形し、表面に「ツチ目」模様を施し、稲の藁で燻して磨き上げた広島県の伝統工芸品。焦げ茶色の玉虫のような色合いを帯びる。江戸時代の初め広島藩主浅野公に仕えた銅細工師の佐々木伝兵衛が仕事熱心なあまり、「銅の蟲(むし)」と呼ばれたことに由来する。主に花瓶、飾皿、茶道具、文具が製作されており、時代を経るほどに一層深い色としぶい光沢を帯びてくる。
三次人形(みよしにんぎょう)は、広島県三次市の伝統的工芸品で、粘土を原料とした土人形である。
概要
広島県県北部では、三月の初節句には子どもの誕生の喜びと成長への願いを託して、男の子・女の子ともに三次人形を贈る風習がある。
製造方法は、まず粘土を型にはめて成形し素焼きで焼き上げ、最後に彩色と膠(ニカワ)の塗布を行う。この表面に塗った膠が出す独特の光沢から別名「光人形」とも呼ばれている。
三次人形の製作技術は、2006年(平成18年)4月17日に広島県の無形文化財として指定された。
歴史
起源
三次人形は寛永年間に、三次藩主浅野長治が江戸浅草の人形師、森喜三郎を連れ帰り歴史上の勇者や伝説上の人物の土人形を作らせたことが起源とされているが、裏付ける資料は残されていない。長治は、家臣が一子をもうけるたびに、祝いとしてこの土人形を贈ったと伝わっている。
近世
1854年(安政元年)5月に石見国から瓦職人の大崎忠右衛門が妻と子供を連れて三次に来た。忠右衛門は三次市山家町に良い土をみつけ、宮ノ峡(現、三次町)を窯を築き人形を作りはじめる。初期の人形は京都の伏見土人形や島根の長浜土人形の影響が見られるが、次第に独自の人形が作り出された。二代目は忠右衛門の娘キサ、三代目はキサの長男弥三郎、四代目は弥三郎の姉ノブと引き継がれた。
しかし、ノブの夫、丸本儀十郎は離婚し、1884年(明治17年)、原村(現、十日市町)に別の窯を築いた。儀十郎は宮ノ峡窯元の伝統を継ぐとともに、各地の人形を収集して研究改良を加えている。
このため人形は2ヶ所で製造されることになり、宮ノ峡でできた人形を「宮ノ峡人形(みやのかいつちにんぎょう)」と呼ばれ、十日市でできた人形は「十日市人形」と呼ばれていた。宮ノ峡人形には「三次宮ノ海人形本元」という刻印を入れて本元であることを主張していた。しかし、宮ノ峡窯元は1916年(大正5年)、ノブの長男儀一の時に60年間続いた窯元は廃絶している。
二代目熊市は日本画の技法を生かし優れた人形を作たが、三代目藤一の代に第二次世界大戦により1942年(昭和17年)にやむなく製造を中断した。
再興
1956年(昭和31年)、4代目丸本十九瓶が、周囲の知識人や文化人から応援を受けて再興し、名称を三次人形に改める。新聞記者を職業としながら伝統の三次人形を作り続けるが1965年(昭和40年)に急死。その後は、十九瓶の妻昌子、そして現在丸本垚(たかし)に引き継がれている。
種類
天神(菅原道真)
座像・立像・牛乗り・松負・梅持など数種類ある。
「寝牛乗り天神」「立ち牛乗り天神」は、2009年用年賀切手の図案として採用されている。
女物(特定の名前はない)
菊・牡丹・瓢箪・桜・扇など日本らしいものを抱いている。
武者物
男児の雄々しい成長を成長を願うもの。加藤清正、源義経、関羽などがある。
このほか、同様の願いを込めた人形として金太郎も数種類作られている。
広島県指定伝統的工芸品
一国斎高盛絵
銅蟲
矢野かもじ
三次人形
大竹手打刃物
宮島焼
戸河内刳物
戸河内挽物
備後絣