美 

術 

新着情報

徳島県買取NO1を目指しています!!高価買取エリア(骨董品・美術品)

高価買取NO1・満足度NO1に挑戦中!!

骨董品・美術品などの買取販売は新原美術にお任せください。

どこのお店より高価買取に自信があります!!

まずはお気軽にお電話ください。 新原美術 電話0766−22−7303


徳島県 とくしまけん
徳島市 とくしまし
鳴門市 なるとし
小松島市 こまつしまし
阿南市 あなんし
吉野川市 よしのがわし
阿波市 あわし
美馬市 みまし
三好市 みよしし
勝浦郡 かつうらぐん
勝浦町 かつうらちょう
上勝町 かみかつちょう
名東郡 みょうどうぐん
佐那河内村 さなごうちそん
名西郡 みょうざいぐん
石井町 いしいちょう
神山町 かみやまちょう
那賀郡 なかぐん
那賀町 なかちょう
海部郡 かいふぐん
牟岐町 むぎちょう
美波町 みなみちょう
海陽町 かいようちょう
板野郡 いたのぐん
松茂町 まつしげちょう
北島町 きたじまちょう
藍住町 あいずみちょう
板野町 いたのちょう
上板町 かみいたちょう
美馬郡 みまぐん
つるぎ町 つるぎちょう
三好郡 みよしぐん
東みよし町 ひがしみよしちょう

 

≪取扱い商品≫
日本画/洋画/版画/掛軸/屏風/茶道具/古陶磁器/古伊万里/鉄瓶/銀瓶/象牙/貴金属/金/プラチナ/ガラス/ランプ/古時計/根付/印籠/きせる/蒔絵物/酒器/塗物/古酒(洋酒類)/西洋陶器/高級家具/和箪笥/桐箪笥/水屋/火鉢/刀剣/鍔/小道具/仏教美術/人形/古おもちゃ/アンティーク/着物/贈答品/楽器/美術、新作工芸、美術工芸品、掛け軸、人間国宝作品、日本陶磁器、中国陶磁器、彫刻、蒔絵、屏風、古銭、版画、古書、書画/リサイクル品
即現金買取 秘密厳守 無料査定・無料見積いたします。押入れや物置に眠っている品物を高く売りたい方、お気軽にお電話ください!! どこよりも高く買い取る自信があります!!

徳島県全域主張買取致します。
お気軽にお電話ください。
買取販売
新原美術 店主 0766−22−7303

 

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

守住 貫魚(もりずみ つらな、文化6年7月11日(1809年8月21日) – 明治25年(1892年)2月26日)は、幕末から明治初期の日本画家。姓は清原のち守住、名は徳次郎、字は士済、幼名伸美(のぶよし)、初号輝美(てるよし)、ついで定輝、そして貫魚と改める。号は是姓斎、回春斎、寄生軒など。子に守住勇魚、守住周魚がいる。

生涯
阿波国・徳島城下の富田掃除町(現在の明神町)で、徳島藩の鉄砲方・庄野(または新居見)幸次郎延知の子として生まれる。文政7年(1824年)16歳で江戸に出て、住吉広行の弟子で藩の絵師・渡辺広輝に入門する。その頃、広輝は「光格上皇修学院に幸する儀仗図」の制作にとりかかっていたが、入門した貫魚に助手として手伝いを命じ、貫魚の技が優れているのに驚き、文政12年(1829年)1月、貫魚は広輝から「輝」の一字を与えられ、輝美と号した。天保4年(1833年)幕府御用絵師板谷広当の「日光縁起絵巻」制作を手伝った際、板谷家の本家にあたる住吉広定(のち広貫に改名)にその実力を認められ、翌年その門に入る。さらに天保6年(1835年)、一橋公の命を受けてその寝殿の障壁画を描いた。これが一橋徳川家のお気に入りとなり、将軍徳川家斉の目にもとまり、幕府の絵師に取り立てるべき内命があった。この年の12月、貫魚は広定より「定」の字を授かり、定輝と号することになった。阿波藩主蜂須賀斉昌は、一橋公の要望があったものの貫魚の技を惜しんで断り、天保7年(1836年)に貫魚を帰国させ、弘化元年(1844年)広輝の死後、貫魚は正式に阿波藩の御用絵師となった。以後60歳まで仕え、12代藩主蜂須賀斉昌に随行して、各地の名所旧跡や古物を写した。これらに関しては特に、藩命による「全国名勝絵巻」10巻(徳島県指定文化財)や、アメリカから帰ってきた漂流者初太郎の記録「亜墨漂流新話」の挿絵を、模型を制作して描いたことなどが知られている。安政元年(1854年)、師の住吉広定が弘貫と改号したため自身も貫魚に改名する。「貫」は弘貫の一字を、「魚」の字は藩主に与えられたという。翌年八月、弘貫の依頼により、京都御所紫辰殿の賢聖障子に「朝賀の図」を補写した。
明治に入り廃藩置県後は藩から離れ、明治5年(1872年)から同12年までの間、徳島市富田の大麻彦神社、金毘羅神社、国瑞彦神社等の神官を歴任した。しかし、画家として身を立てるべく一念発起して、明治14年(1881年)に息子・勇魚が住む大阪に移る。翌年の第一回内国絵画共進会に「船上山遷幸図」を出品して銅印を受賞し(他には今尾景年、川端玉章、田能村直入)、更に明治17年(1884年)には「宇治川先登図」(個人蔵)と「登龍図」の二点を出品し、3194点中ただ一人金賞を受賞した。このとき貫魚は76歳であり、まさに遅咲きだが、見事に才能が開花したといえよう。浪華画学校では皇国画教員として後進の指導にあたり、明治21年(1888年)に竣工した皇居明治宮殿の障壁画の制作にも取り組んだ。貫魚はこの時、杉戸に「田舎機織り図」と「棕櫚図」を、小襖に「虫撰び図」を描いた。明治23年(1890年)、日本美術協会第三回展覧会に「紫式部石山に月を観る図」を出品し金牌を受領した。さらに、この年10月2日、宮内省から橋本雅邦、高村光雲らとともに帝室技芸員に選ばれた[1]。
貫魚の作品は徳島に比較的多く残っている。貫魚は花鳥・山水・肖像画などあらゆる画題を描いたが、特に歴史画にその力量が発揮されている。いずれも住吉派の伝統を守った緻密かつ優美な作品であるが、明治以降の出品作には力強さというものが加えられている。有職故実に精通し、その考証の高さを作品だけではなく、残された多くの下絵や模型などからも感じ取ることができる。明治28年の大阪博物場天野皓筆の貫魚の履歴には、その人となりについて、「純正寡黙清廉にして時俗に媚びず、今尚ほ力を絵事に用ゆ、先生歳既に老い手脚顫動、然れども筆を採ればたちまち常人に異ならず」とみえ、貫魚の人柄、作画に対する態度が見て取れる。また「今日新聞」301号付録(明治18年9月25日)の「日本十傑肖像」の記事で、政治家・伊藤博文、軍師・榎本武揚、学術家・中村正直、法律家・鳩山和夫、著述家・福澤諭吉、商法家・渋沢栄一らとともに画家・守住貫魚が見え、当時貫魚は一級の芸術家として高い評価を受けていたことがわかる。
息子に守住勇魚、次女に守住周魚がいる。弟子に関しては、貫魚自身が書き残した「門弟名面」という記録によれば総勢70数名と非常に多く、小沢輝興、林半窓、村瀬魚親、岸魚躍、森魚渕、原鵬雲、小沢魚興、三好賢古、上田魚行、森崎桃春、森崎春潮などが知られている。明治25年(1892年)2月26日、大阪市東区谷町の自宅で老衰のため84歳の生涯を閉じた。墓は徳島市伊賀町の神葬墓地にある。徳島県立博物館には、貫魚の下書きや写しなどの粉本類や収集資料などからなる「守住家資料」数千点が所蔵されている。

伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 – 1976年1月5日)は、日本の美術家。徳島県徳島市出身。国内外で活躍した洋画家。古典主義風の重量感のある裸婦像など,数多くの人物画を制作した。またパブロ・ピカソに傾倒し、著書を著して日本にピカソブームを巻き起こした。

経歴
1894年伊原安蔵・カメの三男として生まれる。1916年東京美術学校西洋科に入学する。1917年光風会第5回展覧会、太平洋会第14回展覧会に入選する。同年この頃から2年半にわたり、月刊誌「家庭料理講義録」に当時有名だった榎本小太郎の料理を表紙、口絵、挿絵に描く。1920年満州旅行で取材した「明装」が第2回帝展に初入選する。1921年美術学校を首席で卒業。卒業制作した「よろこびの曲」は文部省買上げとなるなど早くからその資質を認められる。1924年芥川賞受賞作家の由起しげ子と結婚、三男一女を儲けた。
1925年農商務省の海外実習練習生として渡仏。ピカソら同世代の画家たちに共感をよせる一方、ルーヴル美術館に頻繁に通いながら、ドミニク・アングルの「グランドオダリスク」といった古典絵画を模写する。こうしてモニュメンタルで古典の静かな香気が漂う画風が確立される。1927年第20回サロン・ドートンヌに「毛皮の女」が初入選。翌年第21回サロン・ドートンヌにも「横臥裸婦」「赤いソーファの裸婦(白衣を纏う)」が入選する。
1929年経済的な理由で帰国。一時兵庫県芦屋市に居住するが上京して阿佐ヶ谷に居を定める。同年第10回帝展に滞欧作「椅子に寄れる」を出品し、特選となる。翌年第11回帝展にも「二人」が特選となる。1932年東京美術学校講師となる。同年第13回帝展に「榻上二裸婦」を出品し、三度目の特選となる。1934年帝展審査員となる。戦時中は陸軍嘱託画家として台湾、香港、ビルマ(現・ミャンマー)、中国、タイ等に派遣され「バーモウ・ビルマ国家代表像」、「香港に於ける酒井司令官、ヤング総督、の会見」、「島田戦車部隊スリムの敵陣突破」などの戦争記録画の制作にもあたる。
戦後は、日展の審査員を務める。1949年日本美術家連盟の委員長として、作家の立場を守る努力をする。さらに1953年文芸美術国民健康保険組合を設立しその常務理事を務める。1953年フランス美術館(現・国立西洋美術館)設置準備委員会委員として美術館設置に尽力する一方、国際造形芸術連盟(IAA)日本国内委員会委員長として、美術家の国際交流と提携に努める。1956年ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として渡欧し、イタリア、フランス各地で制作する。1957年帰国。フランス滞在が新鮮な刺激となり、多くの公職を辞して画業に専念する。1960年フランス政府より芸術文化勲章を授与される。この頃正力松太郎、三木武吉、石橋正二郎等のアトリエでの肖像画の制作のほか千葉、浜離宮、軽井沢、日光、京都等の写生旅行にも出かける。1966年勲三等瑞宝章を授与される。1971年紺綬褒章を授与される。1972年頃から体調をくずし、静養につとめながら制作。1979年日本美術家連盟総会で名誉会員に推挙されるが、1976年糖尿病に肺炎を併発し没する。

喜井 黄羊(きい こうよう、1901年9月12日 – 1997年)は、日本の画家。徳島県海部郡美波町(旧由岐町)出身。
富岡鉄斎の流派を受け継いでいる日本画家で知られている。
経歴
関西芸術院を卒業後、1932年に矢野鉄山に師事。大阪美術協会常任委員監査、吹田市美術家連盟役員、吹田市展審査員、大阪美術家協会委員などを歴任。
文部大臣賞や大阪府芸術文化功労賞、吹田市文化賞、徳島県由岐町名誉町民、紺綬褒章などを受賞している。

橋本 シャーン(はしもと シャーン 、1943年 – )は、日本の挿絵画家。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。

経歴
1973年に新劇俳優から画家、イラストレーターに転向。その後1979年から1989年までサンフランシスコに滞在。黒人の絵を描く。
1985年、作家の森瑤子との出会いがきっかけで、黒人の絵から大人の女性を描いた絵に画風が一変する。1992年には日本橋にある高島屋で「橋本シャーン・アート展」を開催。その後、池袋にある西武百貨店と銀座プランタンでも開催された。
1993年の森瑤子の没後、淡彩スケッチで新境地を開く。旅のスケッチとエッセイの仕事を中心に、高島屋、朝日新聞、紀伊国屋書店、他、挿絵、ポスター、装画などの仕事多数。エッセイの仕事も多く、週刊読売、サンデー毎日、旅行誌などに連載する。
個展は、東京日本橋・高島屋、銀座プランタン、池袋・西武、川崎BEビル、代官山・ヒルサイドテラス、広島・福屋、ギャラリー新宿高野、徳島そごう、など。1998年に「橋本シャーンのスケッチ教室」開設。
2010年には大谷焼の田村栄一郎との合作をおこなった。

広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(明治22年)11月23日 – 1951年(昭和26年)12月16日)は、徳島県徳島市出身の日本画家。香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)卒業。
生涯
徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。
第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。

前田 半田(まえだ はんでん、1817年(文化14年) – 1878年(明治11年)10月25日)は日本の画家。徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身。本名は前田 暢堂。名は碩。字は子果、実甫。別号は暢堂、青牛。
生涯
文化14年(1817年)に医師である前田養拙の子として京都府で生まれた。中島来章から日本画を学ぶ。その後、貫名菘翁、山本梅逸を師として、京都を中心に活躍していく。明治5年(1872年)に前田暢堂から前田半田と改名したとされる。田能村直入に入門した児玉果亭に画法を説いている。
明治11年(1878年)に62歳で去る。

湯浅 桑月(ゆあさ そうげつ、1878年8月28日 – 1929年7月16日)は、日本の画家。名は茂、初号は茂胤。徳島県徳島市幟町出身。
謡曲家・湯浅小太由の次男として、徳島市幟町に生まれる。住吉派の佐香美古に日本画を学び、兄弟子に山本鼎湖、須木一胤がいる。19歳の時大阪へ出て深田直城、中山芦月に師事した。さらに土佐、狩野、円山、南宗の諸大家と交流し、一派を立てる。1904年(明治37年)徳島に帰り、大工町に住み画筆を揮う。画風は新しい写生派の日本画で、人物、花鳥、山水、その他いずれも達筆、徳島県内に多くの作品が残っている。
幸流の小鼓を生駒信近に学び、奥義を伝えられた。大正九年、大島寿太郎を迎え、能の研究団体「喜陽会」を組織し研究を重ね、1927年(昭和2年)教授の免状を得る。
1927年(昭和4年)7月16日没。52歳。

林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903年(明治36年)1月6日 – 1990年(平成2年)9月11日[1])は、徳島県麻植郡鴨島町(現吉野川市)出身の南画家。日本画家。
1984年(昭和59年)に南画に優れた功績を挙げた第一人者として徳島県文化賞を受賞。
四国八十八箇所11番札所である藤井寺本堂の天井絵には雲渓の描いた雲龍が描かれている。30畳ほどの大きさがあり、繊細な線と睨みをきかせた迫力のある顔が薬師如来を守つているかのように見える。
現在、鴨島町の吉野川市立森山小学校に雲渓の記念碑が建てられている。

吹田 文明(ふきた ふみあき、1926年11月28日 – )は、徳島県出身の版画家。東京都世田谷区在住。
徳島師範学校(現徳島大学)卒業。日本美術家連盟理事、多摩美術大学名誉教授。

来歴
1947年(昭和22年)に徳島師範学校卒業。その後、数々の賞を受賞。
1969年(昭和44年)に多摩美術大学教授に就任。1994年(平成6年)に日本版画協会理事長に就任。ニューヨーク近代美術館、ポーランド国立美術館、シアトル美術館、オレゴン大学美術館スイス国立美術館、メキシコ近代美術館、シカゴ美術館、東京国立近代美術館などの美術館に作品が所蔵されている。
受賞歴
日本版画協会 恩地賞 1957年
モダンアート協会 奨励賞 1957年
日本版画協会 竹芳洞賞・会員推挙 1958年
第1回スイス・グレンツェン・トリエンナーレ受賞 1958年
ノースウェスト国際版画展大賞 1965年
サンパウロ・ビエンナーレ版画部門最高賞 1967年
リュブリアナ国際版画ビエンナーレ買上賞 1969年
第1回マイアミ・グラフィック・ビエンナーレ買上賞 1975年
モダンアート’86作家大賞 1986年
徳島県文化賞 1987年
紫綬褒章 1989年
勲四等旭日小綬章 1998年

閑々子(かんかんし、宝暦2年(1752年) – 文政10年6月15日(1827年7月8日))は、阿波国の僧侶。書家。
三好郡箸蔵村(現徳島県三好市池田町)で生まれる。禎左衛門の次男。幼名は八重八、諱を天如、字を峻山・良夢、号は閑々子・換水和尚・松林老人など。阿波閑々子(あわのかんかんし)とも呼ばれる。

生涯
幼い時より神童と呼ばれ仏門に入り、徳島富田の観音寺の僧快観に師事する。のち京都に出て学んだが、師快観が老衰したので呼び帰される。その後、備中井山の宝福寺の大雲禅師を訪ねて学んだ。さらに南都奈良に出て諸寺を歴訪して修行し、河州葛城山の慈雲律師に師事して真言密教の奥義を伝授され、1811年阿波に帰って勢見の金毘羅にて灌頂壇を開いた。ついで海部郡[要曖昧さ回避]玉厨子山(日和佐町の薬王寺[要曖昧さ回避]の奥院)に隠れて方丈の小壇に籠って数年修業したあと、小松島中田の小庵に閑居して閑々子と称し修業を怠らなかった。
博学で詩・書に優れ、画では海老、蟹、亀、蛙などを特に好んで独自の世界観をもって描いており、超俗の風格を漂わせている。また、書に関しては、河洲葛城山の慈雲律師の下で修行した際に、「慈雲ばり」と呼ばれるほどの多大な影響を受けた。
小松島では豪農多田家の庇護をうけ、庶民の間にもその徳行を慕う者が多かった為、残存する遺作は多い。
奇人として有名で、門前に「祈念応ぜず、加持験無し」と書いてあった。また、「換水和尚」と呼ばれる由縁は、彼が常に手水鉢の水を換えることを好んだことによる。「私の書画を求める者は一瓶の水を汲むべし」と書かれた紙を門前に貼り付け、客が来るたびに揮号の謝礼として水を換えることを手伝わせたという。
文政10年(1827年)、小松島から国府町に赴く途中で中風を発病し、徳島二軒屋の観音寺において78歳で没する。小松島市中田の成願寺に葬られた。

小坂 奇石(こさか きせき、1901年1月13日 – 1991年10月6日)は、日本の書家。徳島県海部郡美波町(旧由岐町)出身。本名は小坂 光太郎(みつたろう)。関西大学中退。書道研究璞社(ぼくしゃ)初代会長。
娘の小坂淳子は徳島県立文学書道館名誉館長。「奇石体」と呼ばれる独自の書風を確立し、書家としては初めて日本芸術院恩賜賞を受賞した。

経歴
1901年(明治34年)1月13日 – 徳島県海部郡三岐田町(由岐町から現・美波町)に生まれる。
1914年(大正3年) – 阿部捉龍に師事。
1917年(大正6年) – 黒木拝石に師事(1945年(昭和20年)まで)。
1921年(大正10年) – 関西大学専門部入学(1923年病気中途退学)。
1924年(大正13年) – 徳島三岐田町に臨濤書会をつくり主宰。
1927年(昭和2年) – 関西書道会で入賞。
1929年(昭和4年) – 漢学者梅見有香、土田江南、増田半劍、長岡参寥、土屋竹雨師事。
1935年(昭和10年) – 東方書道会展特選入賞 以後4年連続特選入賞。
1937年(昭和12年) – 関西書道会理事審査員。
1941年(昭和16年) – 東方書道会理事。
1947年(昭和22年) – (社)日本書芸院創立・理事・審査員。
1948年(昭和23年) – 第4回日展(書道参加第1回)「牀屏山水図歌」入選。
1949年(昭和24年) – 大阪市主催関西展審査員。
1950年(昭和25年) – 第6回日展「白楽天詩」特選 師黒木拝石没。
1956年(昭和31年) – 日展審査員。
1957年(昭和32年) – 現代書道二十人展(朝日新聞主催)第一回展より出品。没年まで(例外が一回?)出品。
1960年(昭和35年) – 奈良学芸大学(現・奈良教育大学)助教授、日展評議員。
1961年(昭和36年) – 還暦記念個展(大阪高島屋画廊))日本書芸院顧問・審査員。
1962年(昭和37年) – 奈良教育大学教授(昭和41年まで)。
1966年(昭和41年) – 徳島大学講師(昭和54年まで)。
1967年(昭和42年) – 書道研究誌『書源』創刊。大阪(府・市)芸術賞。
1970年(昭和45年) – 高野山大学教授。「寒山詩」で日展文部大臣賞。万国博迎賓館並自治体館に作品陳列。
1971年(昭和46年) – 古稀記念個展(東京日本橋三越画廊)。
1972年(昭和47年) – 四国女子大学講師。
1976年(昭和51年) – 日展参与。讀賣書展審査員、由岐町名誉町民。
1978年(昭和53年) – (社)日本書芸院名誉顧問* 1980年(昭和55年) – 徳島県文化賞受賞。
1981年(昭和56年) – 奈良教育大学名誉教授。第25回現代書道二十人展開催。「寒山詩二首」で日本芸術院賞・恩賜賞を受賞[1]、受賞作品を日本藝術院が買上。(社)日展参事、(社)日本書芸院顧問。紺綬褒章受章。小松島市に史跡、旧跡、名勝顕彰の石碑を書く。
1982年(昭和57年) – 勲三等瑞宝章。
1984年(昭和59年) – 読売書法会名誉会員。
1991年(平成3年) – 10月6日死去。戒名は常照院光寿奇石居士。従五位。
1997年(平成9年) – 遺作寄贈(徳島県立文学書道館、リーヴスギャラリー小坂奇石記念館(大阪市法楽寺)財)、驥山館(長野県篠ノ井))。
故郷徳島の徳島県立文学書道館には、書作品三百余点とコレクション・蔵書などが小坂淳子から寄贈され、奈良市自宅の書斎を再現した「奇石窟」が設置されている。

主な門弟
江口大象(日展会員・璞社会長)
阿部醒石(日展会員・合気道家)
松永暘石(日展会員)
川村龍洲(日展会友)
東南光(徳島大学名誉教授)
佐和靖石(靖和会主宰・書家)

貫名菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) – 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。江戸後期の文人画家の巨匠で、とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。
姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。名は直知・直友・苞(しげる)。字は君茂(くんも)・子善。通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。海屋・菘翁が一般に知られている。

生涯
徳島藩士で小笠原流礼式家の吉井直好の二男として徳島城下御弓庁(現・弓町)に生まれる。母は藩の御用絵師矢野常博の娘である。 86歳で死去、京都東山高台寺に葬られる。
学問
幼少の頃は弓町の儒医を業とした木村蘭皐に、後に13~14歳の頃は阿波国那賀郡黒津地村の光明寺に寓居して高橋赤水に就いて儒学を学んだ。17歳の頃、母方の叔父霊瑞を頼って高野山に登り学問に励み、山内の図書を貪り読んだと伝えられる。 その後22歳で、大坂の懐徳堂に入門し、中井竹山の下で経学や史学を学び、やがて塾頭となった。 文化8年頃、京都に移ると私塾須静堂を開き朱子学を中心に教えた。
菘翁は晩年になるにつれて書家としての名声が高まったが、「自分は儒家を以って自ら居るので書や画を以って称せられることは好まない」(江湖会心録)と述べており、事実、儒者として生計を立てていた。 馮李華、陸浩が編纂した『左繍』、清の趙翼『二十二史箚記』などを翻刻している。 晩年は聖護院付近に移り住み、名産の野菜・菘(スズナ、蕪の古名)に因んで菘翁と号した。最晩年になって下賀茂に隠居した。下賀茂神社に自らの蔵書を奉納したときの目録である「蓼倉文庫蔵書目録」には経学・史学を中心に3,386部(11,252巻)が記され、菘翁が学問を重視していた姿勢が窺われる。

老松図 1841年 紙本墨画淡彩 滋賀県立琵琶湖文化館
菘翁は矢上快雨に詩文を学んでいる。45歳の頃に発刊されている文政5年版の「平安人物志」には「貫名 苞 字君茂号海屋 富小路四条北 貫名省吾」とあり、儒者・詩人として紹介されている。唐詩を好み、頼山陽と声律を論じたことは有名である。
詩人としての菘翁は、特に『須静堂詩集』が知られており、そのうち花弁を詠じた15首が最も佳とされる。また、加藤玉香編『文政十七家絶句』では菅茶山・市河寛斎・頼杏坪・柏木如亭・大窪詩仏らと供に詩34首が収録されている。さらに三上恒編『天保三十六家絶句』に24首、北尾墨香編『嘉永二十五家絶句』に54首が収められている。また、「増註聯珠詩格」や徐文弼の「詩法簒要」を校刊し門弟の参考書とした。

少年期、西宣行に米元章の書風を学んだ。 高野山では空海の真蹟に強く啓発される。その後も空海の書を敬慕し続けており、58歳のとき四国に渡り萩原寺(現香川県観音寺市大野原町萩原)に滞在して秘蔵される伝空海「急就章」(重要文化財)を臨模している。後に墨拓としてこれを刊行しその跋を書いている。この跋には、空海の書は東寺にある有名な「風信帖」とこの「急就章」がもっともよいとし、その源流を奈良時代の魚養に求め、さらに魚養は唐写経に由来すると述べている。
当時の墨帖は粗末なものが多く、到底手習いの元とすることはできなかった。菘翁は二王(王羲之・王献之)の正しい伝統を確実に把握することに努めた。このため古典や真蹟を重んじ、それが適わなければ法帖や碑版を蒐集し臨模をして学びとった。唐代の鄭審則の書についても、わざわざ比叡山に登ってこれを臨模している。
書風は当時流行の明清風の唐様に対して唐晋風とされ、楷書は欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿に、行書は王羲之、褚遂良、草書は孫過庭に影響されたとされている。日下部鳴鶴は菘翁が晩年なるほど筆力が強くなっていると驚嘆している。 書画で盛名をほしいままにしたが、特に書は市河米庵・巻菱湖と並んで幕末の三筆に数えられ「近世第一の能書家」と称えられた。
最晩年 85歳の時に中風で倒れ、会話執筆ともに困難になるが挫けず、筆を握り続け書画の制作に打ち込む。このときの作品を「中風様」と呼び、傑作とされる。

画は母方の祖父矢野典博に狩野派の画法を学んだが、菘翁の母にも絵筆に心得があり、菘翁は絵を描くたびに母に示して母はこれを喜んだという。のちに徳島城下二軒屋町の観潮院において明の銭穀の「真景山水図十五幅」を観て以来、文人画に傾倒する。長じた後に大坂では鼎春岳、濱田杏堂、京都では浦上春琴、中林竹洞、山本梅逸、青木木米ら、当時一流の文人画家と親しく交流するうちに文人画の技法を修得したものと推察される。また、頼山陽、梁川星厳、猪飼敬所、摩島松南ら多くの儒者・文人とも親交を深めている。こうした書画家や儒者・文人たちとの交流によって、書画は表面に芸術的成果として現れ、儒学は内面に精神的基盤として蓄えられることで、菘翁をして大家の地位に到達せしめたものと考えられる。
一方で菘翁は、中国の明清画を学習しており、明清画を臨摸した作品も多数残されている。これは、文人画誕生に大きな影響を与えた中国明代末の画法書『八種画譜』などに学んだと推測される。さらにそれだけではなく、菘翁はさまざまな明清の画家の作品にも倣っている。とりわけ董其昌の作品に深く学んでいる。また、米法山水図や江稼圃の画法も自らのものとしている。
還暦を目前に長崎では祖門鉄翁から南画の画法を受けた。鉄翁によれば、菘翁は広く各家の画論や画譜を閲覧していたが自分(鉄翁)の門下となり江稼圃などを学び画道をすぐに会得した、逆に自分は菘翁から書法の道理だけでなく画理をも学ぶところがあったとし、「故に翁は我が門に入ると雖も、我れ之を師友と称す」と述べている。また、けっして俗気を帯びること無く、深く雅致を損なうことを恐れて、下賀茂に転居して隠遁の志を全うしようとした、と評している。
田能村竹田はその著『竹田荘師友画録』において「菘翁の『送行図鑑』を見た。京から伏見に至る路上の真景を描いたもので、木立や水面、村家や畑、舟車や橋、そこを往来する人びと、酒旗の影、馬影が見え隠れするなど景観の幽趣が余すところ無く描かれ、濃淡のある筆致は清趣にして秀潤である。このような絵は読書をよくし、しかも画をよくする者でないと描けない。近年の真景山水では一は野呂介石の熊野瀞八丁、一は頼山陽の耶馬渓、一は本図で自分の及ぶところでは無い」と賞讃している。
菘翁の画の全体的な特徴は保守的とも評されてきたが、南宗画の基本である柔らかい描線、墨の穏やかな感じ、そして安定感のある構図、さらには温和で気持ちを穏やかにする清雅な作品が多いことなどが特筆される。画題としては、余白を巧みに使って雲や水を表現した精緻な山水画が多く、その他にも竹・梅・蘭・菊などの四君子を題材として好み、それらを清新に画いている。さらに松や鶴も見られる。門弟には多くの優れた文人画家が育った。
また、菘翁は画論にも長けており56歳の頃、よ伊勢の浜地庸山の著した中国画論『山水高趣』に題言を寄せ、紀春琴の『論画詩』にも評を加えている。
碑文作品
京都石峰寺の伊藤若冲碑書は、菘翁の傑作として評価が高い。天保4年銘のある「若冲居士之碑」は、画家伊藤若冲の墓の傍らに建てられた筆の形をした石柱で、そこに刻まれた墓誌を菘翁が手がけている。これは、文政13年7月2日の京都の地震により破損したものを、天保4年にその孫が修理して復旧し、菘翁がその由来を墓表に記したものである。また、天保10年8月には、絵師紀広成の墓誌を撰文し、書している。

旅を好み、長崎には三度赴いた。また飛騨高山の川上淇堂を訪ね、61歳の時から3年間も滞在した。
門人

菘翁筆 山水詩画双幅 天保12年(64歳)
貫名海雲 娘婿
浅井柳塘
池内陶所
吉田公均
村田香谷
日根對山
谷口藹山
上竹潭
畑柳平
越智仙心
内村鱸香
山田石叟
円山大迂
小林卓斎
山本梅荘
松田雪柯
高見照陽
富田万厚
鈴木崇倹
忍頂寺梅谷

田中 双鶴(たなか そうかく、本名:田中 繁夫、1912年(明治45年) – 2000年(平成12年))は日本の書家。徳島大学名誉教授。徳島県出身。貫名菘翁研究の第一人者としても知られている。

来歴
徳島大学の名誉教授を勤め、渭水会の会長であった。徳島大学に碑文揮毫「徳不孤」が建てられている。
1992年に出版された柴秋邨について書かれている「柴秋邨精説」では第17回徳島県文化賞を受賞した。その他にも1982年に貫名菘翁について書かれている「貫名菘翁書畫集」や閑々子について書かれている「閑々子の世界」等の本も出版している。

柴 秋邨(しば しゅんそん、天保元年(1830年) – 明治4年3月18日(1871年5月7日))は、江戸時代幕末の儒学者、書家。
阿波国徳島城下紀伊国町(現徳島県徳島市元町)出身。幼名は卯吉、字は緑野、初号は繭山、後に秋邨。別号に東野・帰樸・秋孫、堂号に吹万洞・風香草堂等。通称は新蔵・六郎、名は惟卯・萃。
父は太物商・阿賀屋清左額門。幼少時に父を失い、家が困窮し、母は糸を紡いで生計を立てた。8歳の時、菓子屋の丁稚となったが、読書好きで医師・河野弘に見出され門弟となった。後に医学に飽き足らず新居水竹に入門して儒学を学ぶ。16歳のときに江戸に出て大沼枕山、羽倉簡堂に師事したが、母の病気で帰郷する。母の病気全快を待ち、簡堂の紹介で大坂の広瀬旭荘に入門し、1850年には旭荘から秋邨の号を授かった。ここで秋邨は重用され、塾長となった。
この頃、内外多事となり、外洋学を学び、また播州林田藩の河野鉄兜と親交を結ぶ。のち、九州に入り豊後日田の広瀬淡窓の養子青邨と親交し、咸宜園で生徒を教え、3年間の滞在中に僧五岳・長三洲と交わった。その後、大阪に帰り堀江で開塾したが、母の老衰により1861年故郷に帰り、思済塾を開いて教授した。この年12月、藩主・蜂須賀斉裕に起用され、儒官と洋学校の正務局を兼ねた。秋邨は経史よりも詩に長じ、書に優れ、画も優れていた。
しかし、1867年、庚午事変が起き、秋邨は檄文を作成する。これに対し藩は「文学教授勤め居り候身分として、今般脱帰輩の激論に同意せしめ、いわれなき檄文等したため候始末、職掌柄不届き」として禁固3年の刑を下した。この時、旧師・新居水竹以下十士の死を惜しみ、悲嘆痛飲して病気にかかり、1871年3月18日に没した。享年42歳。

田村 栄一郎(たむら えいいちろう、1979年 – )は日本の徳島県鳴門市出身の陶芸家。徳島で230年以上続く大谷焼元山窯の10代目当主。大谷焼を代表する若手作家の一人である。徳島県立鳴門高等学校、大阪芸術大学、京都府立陶工高等技術専門校を卒業後、京都にて修行。日展参与 山崎昭に師事する[1]。帰郷後、最初に制作出品した県美術展で最高賞を受賞。翌年の日本新工芸展でも初出品で日本新工芸奨励賞受賞、同年秋の日展にて初入選を果たす。その後も全国の陶芸公募展に多数出品入選入賞を重ねる。また個展、グループ展も全国各地で開催。2010年より田村の父親と親交の深かった、画家橋本シャーンと陶器、絵画による二人展を定期的に開催。また母校徳島県立鳴門高等学校で2012年から講師も務めている。
地元徳島ラーメンの有名店数社とのコラボ企画でも多様なメディアに取り上げられた。
近年では東京ビックサイトにて開催されたAnimeJapan 2015にて人気アニメFate/stay night×大谷焼でコラボ作品制作。開場わずか一時間で販売予定個数が完売した。また同年暮れにも幕張メッセで開催された人気アニメアイドルマスター シンデレラガールズの2ndSEAsonキービジュアルをイメージに大谷焼for346PRODUCTIONのコラボ作品を制作。ANIPLEXより期間限定完全受注生産にて発売された。
2015年 第70回記念徳島県美術展 美術工芸部門 特選第一席大賞受賞(三回目)

公募展、個展、グループ展会場
2003年より大丸心斎橋美術画廊、徳島そごう美術画廊、高松三越美術画廊、日本橋三越、池袋東武、上野松坂屋、全国伝統産業会館、京都市立美術館、国立新美術館、上野の森美術館、田部美術館、札幌芸術の森美術館、愛知県陶磁美術館、佐賀県立九州陶磁文化館、徳島県郷土文化会館、高松モリシゲ、ギャラリーM&M、ギャラリーとまや、あわぎんホール、茨城010ギャラリー。
公募展
2003年より放美展、徳島県美術展、国民文化祭、近畿中国四国伝統産業品展、金沢わんONE大賞、全国伝統的工芸品展、田部美術館大賞、茶の湯の造形展、長三賞常滑陶芸展、有田国際陶磁展、日本新工芸展、日展等の全国公募展で入選入賞。
日本新工芸家連盟 会員 徳島県美術家協会 工芸部委員

野田雄一(のだ ゆういち、1955年 – )は日本のガラス工芸作家。 徳島県出身。富山市在住。徳島大学中退。 富山ガラス造形研究所教授。 (財)富山ガラス工房 館長

略歴
1981年に瀬戸内寂聴の私塾「寂聴塾」第1期を卒業。 1982年に徳島大学中退。
1984年に第1回日本パートドヴェール展で銅賞
1988年の国際ガラス工芸展で銀賞
2002年北日本新聞芸術選奨受賞
2003年の第4回北日本美術大賞展で奨励賞
2004年第5回北日本美術大賞展大賞受賞
2005年の第5回北日本美術大賞展で大賞
2007年第4回円空大賞展・円空賞受賞など、数々の賞を受賞した。
2006年 スーパーエクスタシー至福への旅路(神奈川県民ホールギャラリー/横浜)     ウラジオストック国際映画祭グランプリー・トロフィー製作 2007年 第4回円空大賞展・円空賞受賞(岐阜県美術館/岐阜)     ウラジオストック国際映画祭グランプリー・トロフィー製作
2008年 「変貌するガラス-野田雄一の世界」刊行記念展 師斎藤真一とともに。(不忍画廊/東京) 現在は富山県富山市に在住しており、富山ガラス造形研究所で教授。
2006年から、富山ガラス工房で、館長を務めている。
展覧会出展 受賞歴
1988 88空間造形富山 大賞    国際ガラス工芸展88 大賞(金沢)
1997 富山現代作家シリーズ招待出品(富山県立近代美術館)
2003 第4回北日本美術大賞展・奨励賞受賞
2004 第5回北日本美術大賞展・大賞受賞
2005 ウラジオストック国際映画祭グランプリ受賞トロフィー制作
2006 日本のガラス展「第10回記念黄金崎観客賞」(東京・西伊豆)
2007 第4回円空大賞展 円空賞受賞(岐阜美術館)
2008 「変幻するガラス─野田雄一の世界(宇宙)展」(日本文化センター/パリ)      「ローマ賞典祭」ローマ市民賞受賞(ローマ日本文化会館/ローマ)

大谷焼(おおたにやき)は、徳島県鳴門市大麻町大谷で作られる炻器である。2003年(平成15年)9月に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。
寝轆轤と呼ばれる独特の轆轤を用いて制作される大甕で知られる。寝轆轤は相手が寝ながら足を用いて回す仕掛けで基本的に大甕作りは二人の呼吸が合っていないと作れない。なお、この大甕は阿波地方の特産である藍染めに欠かせない道具であり、藍甕と呼ばれる。
大谷焼は元々、染付磁器が焼かれていた。だが、経営悪化で廃窯となり、これを藍商人であった賀屋文五郎らの手によって再興、信楽の陶工の協力もあって藍染の需要に見合った大甕を焼くことになったのである。
明治に入ると化学染料の開発、生活様式の変化に伴い、藍甕の需要は激減、不振に陥った。それでも脈々と大甕作りは続けられ、今日に至っている。また、現在は壺、皿、徳利、片口、茶器などといった小物を焼いている窯も見られる。

徳島県伝統的特産品指定事業
大谷焼
阿波粘土瓦
阿波奴凧
阿波首でこ
美馬の和傘

新着記事

店舗案内

新原美術 しんはらびじゅつ

OPEN/CLOSE 9:00~18:00(年中無休)
TEL 0766-22-7303 / FAX 0766-30-8048
〒933-0932 富山県高岡市鴨島町40番地1
富山県公安委員会 501230008404号

──

──

富山・石川・福井全域で無料鑑定を承ります。

画像による簡易鑑定で、

すぐにおおよその額を知っていただくことも可能です。

出張鑑定、持ち込み鑑定、宅配鑑定をご利用の際は、

事前にお問い合わせフォームまたは、お電話より

鑑定予約のお申し込みを行って下さい。

販売店舗紹介

新原美術 富山高岡本店

大正12年創業
安心と信頼の実績 買取と販売 両方に力を入れています。

富山県高岡市鴨島町40−1

営業時間 9:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-22-7303

新原美術 展示場(antique shop 樹)

新原美術本店近くにあった旧松本建具の物件を買取改装して2019年にopen致しました。

伊万里焼や大聖寺伊万里を中心に1000点以上を展示しています。

買取も行なっています。

富山県高岡市鴨島町52

営業時間 12:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-73-2171

新原美術 東京店

2022年1月にopen致しました。

都内では珍しい大聖寺伊万里を中心に北陸の器を取り揃えています。

東京都台東区台東3-33-5 宝誠ビル1階

営業時間 10:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 03-6284-4649