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高橋 貞次(たかはし さだつぐ、1902年4月14日 – 1968年8月21日)は、日本の刀匠。重要無形文化財保持者(人間国宝)。愛媛県出身。貞次は号であり、本名は金市。

経歴
1919年東京の中央刀剣会養成工となり、以後大正年間より古刀の作風を研究し、五ヶ伝に精通した。1936年故郷松山に鍛錬場を開く。翌々1938年には第一回刀剣展にて内閣総理大臣賞を受賞し、1940年には鎌倉八幡宮の御宝御神刀を鍛えている。
戦後は刀剣保存運動に尽力。皇室関連の作刀を多数行った。1951年に伊勢神宮式年遷宮の御宝御神刀を鍛える。四年後の1955年、これらの活動と成果が評価され、人間国宝に認定された。刀匠としては初の、愛媛県出身者では今日にいたるまで唯一の人間国宝である。刀匠からの人間国宝にはのちに、悠仁親王の守り刀を製作した天田昭次らが出ている。
受賞後の1959年、皇太子明仁親王(現・今上天皇)成婚に際して皇太子妃美智子(現・皇后)の守り刀を鍛える。ちなみに今上天皇の守り刀を鍛えたのは、二代目師匠月山貞勝である。
その後1965年の礼宮文仁親王(現・秋篠宮)に至るまで、皇太子妃所生の皇男子の守り刀を鍛え続けた。 1968年8月21日、66歳で亡くなった。

畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 – 1999年4月12日)は昭和期に活躍した日本の版画家。 山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。
当初油彩画家を志していたが、船員、石版印刷工などを経て、24歳の時に内閣印刷局に就職し、仕事の空き時間に職場にある材料で鉛版画を試みたことがきっかけで、版画の道へ進んだ。平塚運一、恩地孝四郎、前川千帆らに影響を受けた。
1937年夏に軽井沢へ出かけ浅間山に魅せられ、山を制作の主題に定めて山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。右手親指のけが、大やけどの後は家族をテーマにした作品を多く制作した。

経歴
1902年12月28日 – 愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれる。
1920年 – 愛媛県より上京。
1926年 – 内閣印刷局に入る。
1927年 – 日本創作版画協会第7回展に出品し入選。内閣印刷局辞職、版画家となる決心をする。平塚運一、恩地孝四郎に師事。
1932年 – 日本版画協会会員となる。
1944年 – 国画会会員となる(1971年に退会)。東北アジア文化振興会勤務のため単身赴任した満州国新京(現・長春)を題材とした版画集「満洲」を出版。
1949年 – 日本山岳協会会員となる。
1953年 – 第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として出品。
1956年 – 第4回スイス・ルガノ国際版画ビエンナーレに日本代表として出品。
1971年 – 「頂上の小屋」「涸沢の小屋」など5点が宮内庁買い上げとなる。
1976年 – 日本版画協会名誉会員となる。
1985年 – 愛媛県教育文化賞・愛媛新聞賞受賞。
1986年 – 三間町名誉町民となる。
1996年 – 町田市名誉市民となる。
1999年 – 96歳で逝去。
2003年 – 三間町(当時)に畦地梅太郎記念美術館がオープン。

高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年4月6日 – 1966年7月31日)は愛媛県宇和島市裡町生まれの大正から昭和初期に活躍した、日本の画家である。本名は、高畠幸吉。京都市立美術工芸学校日本画科卒業。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

栄光の日々
上京して生活苦の中、1911年に「華宵」の名で描いた津村順天堂の「中将湯」広告画が一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、そのモダンさは時代の注目を集めた。
その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに挿絵として描いた独特の美少年・美少女の絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶスター画家となった。1926年には華宵便箋・封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行うことによりさらに名声は高まり、「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)中で「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになった。鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到した。極端な例では、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するという事件も起こった。一方高い人気を背景に、画料は華宵の言い値で決まっていたとされ、高騰に歯止めをかけようと1925年に交渉に訪れた『少年倶楽部』の加藤謙一らに対しては、寄稿の取りやめで応じたという。
しかし戦争色が色濃くなってきたこともあり、絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動を停止。一般大衆の間ではその爆発的人気は永続せず、戦後華々しいカムバックとはいかなかった。1960年代に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風に影響を受けていることがよく知られている。
画風
人物画が中心。連載小説の挿絵・雑誌口絵・レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描く。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画はいずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含むありとあらゆる服装・髪型・アクセサリが画題となっていることも注目される。描かれるファッションのレパートリーは幅広く、たとえば和服については生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられるほど衣服デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣や洋服のデザインを行いそれが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載されるなど、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、六曲一双の屏風の中に配された60人以上の女性の姿として描きあげた作品である。暑い季節に寝食を忘れてこの絵を描き挙げた華宵はそのためすっかりやせ衰えてしまったという弟子の証言があるほどの、一世一代の力作であった。
幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また自身はまったく浮いた話がなく、実際生涯独身であった。縁談を勧められたとき「私には絵の中の女たちがいますから」といった切り返しで答えた話は有名である。
失意の戦後と幸せな晩年
戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも経済的・健康的にうまくいかず帰国するなど失意の日々を過ごし、子供向けの怪盗ルパンシリーズや童話などの挿絵仕事を細々と続けながらも全盛期とは比べ物にならないほど注目されない人生を送っていた。晩年はかつて絶縁した実家の兄を頼るほど生活に困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。しかし幼少の頃華宵の絵(とくに「さらば故郷!」)に感動した弁護士・鹿野琢見が華宵の現在を伝える記事を偶然雑誌で読み、本人と文通を開始した(その後華宵は「新・さらば故郷!」と題した水彩画を新たに描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの奮闘やかつて華宵の絵に熱狂した世代の要望により首都圏で回顧展が開催され、人気が爆発的に再燃した。その人気の隆盛を見届けた直後の1966年7月31日に、東京にて鹿野と、かつて画料問題で対立した加藤謙一に見守られて生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた[5]。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園であり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。
展示施設
弥生美術館(東京都文京区)
3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。竹久夢二美術館が併設され、これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。
高畠華宵大正ロマン館(愛媛県東温市)
自筆を含む多くの作品、書簡写真などが展示されている。
宇和島市立歴史資料館(愛媛県宇和島市)
華宵作品の常設展示室「華宵の部屋」が開設され、3ヶ月毎に展示替えが行われている

智内兄助(ちない きょうすけ、1948年 – )は愛媛県今治市(旧越智郡波方町)出身の洋画家である。 愛媛県立今治西高等学校、東京芸術大学大学院油画科修了。6人兄弟の末子。

経歴
1980年代初めから、和紙にアクリル絵具という独特な画法を確立し、日本画と洋画との境界を越えた革新的な表現方法に到達。日本の伝統美である衣装文様や花鳥風月を、「もののあはれ」を基調としたその作風は、独特の技法とあいまって智内独自の幻想世界を創り上げている。古典の伝統から逸脱することなく、日本の美意識を斬新な手法で捉える「絵師」として、安井賞をはじめ、数々の賞を受賞し、現代画壇を代表する画家として揺るぎない地位を築きあげている。1992年毎日新聞・宮尾登美子作の連載小説「蔵」の挿絵を担当して以来、その人気と知名度を不動のものとした。
2002年、2004年には、ギャルリーためながフランスにおいて個展を開催し、ヨーロッパ屈指の大コレクターであるロスチャイルド家に多くの作品を蒐集されるなど、世界の多くのコレクターを魅了している。これを機に活躍の舞台を世界各地へと広め、パリ発表から5年を経た2007年、帰国後初の展覧会をギャルリーためなが東京にて開催し、成功裏に幕を閉じた。 ここ数年は、花や山々という日本人の原風景に迫る自然界の描写に新境地を見出しており、日本内外で高い評価を得ている。
フリージャズトランペッターの近藤等則とは中学高校の同級生で友人。2人で絵本も出版している。
息子の智内威雄はピアニストで、局所性ジストニアに冒され左手のピアニストとして演奏活動を行なっている。
画集
「智内兄助画集 Kyosuke Tchinai 3巻」 Galerie Tamenaga 2007年 仏語版
「智内兄助画集 Kyosuke Tchinai 2巻」 Galerie Tamenaga 2004年 仏語版
「智内兄助画集 Kyosuke Tchinai 1巻」 Galerie Tamenaga 2002年 仏語版
「智内兄助『蔵』挿絵画集」毎日新聞社 1993年
「智内兄助画集」求龍堂グラフィックス社 1987年

下村為山
白井雨山

野間仁根

柳瀬 正夢(やなせ まさむ、1900年1月12日 – 1945年5月25日) は、美術家、画家、デザイナー、舞台美術家。本名は正六、別名は夏川八朗。

来歴・人物
愛媛県松山市で生まれる。3歳で母と死別し、家計を助けながら画家を志した。11歳のとき、福岡県門司市(現・北九州市)に移る。1915年、15歳の若さで油彩「河と降る光と」が院展に入選し、早熟の天才画家として有名になった。その後上京し絵画を学び、1920年には読売新聞に入り、時事漫画を描いていた。
折しも米騒動やロシア革命に刺激を受け、大正デモクラシーが高まりを見せた頃で、文芸界でも民衆芸術論が盛んに議論された。柳瀬もそのような芸術運動に傾倒してゆき、普門暁の未来派美術協会に入ったり、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎とともにMAVOを結成したりして、前衛美術に進んだ。1924年には、三科造形美術協会を結成している。
一方でプロレタリア美術にも傾倒し、1921年に種蒔く人、未来派美術協会に参加。1923年に日本漫画会発起人となる。そして1925年、日本プロレタリア文芸同盟の結成に参加、同年創刊の無産者新聞に参加し、多くの挿絵を執筆した。
1931年10月、日本共産党入党。しかし翌1932年に治安維持法違反で検挙され、拷問を受ける。こうした逆境にもめげずに、プロレタリア美術への運動を続け、無産階級の画家として知られたゲオルグ・グロッスを日本に紹介した。他にもカリカチュア、絵画に始まり、デザイン(ポスター)、コラージュ、舞台美術、絵本など、戦前~戦中にかけて幅広く活躍した。
1945年5月25日、山の手空襲により新宿駅西口で戦災死。享年45。諏訪に疎開していた娘を見舞うため、22時発の中央本線の夜行列車に乗ろうとした所、空襲の被害に遭ったと言われている。遺族によって柳瀬の遺体が発見されたのは、死後4日経った5月29日だった。東京都東村山市の「圓龍寺」の柳瀬家の墓に眠っている。

紫舟(ししゅう)は、日本の女性、書道家。

来歴
6歳より書道を始め、小学生の頃には8段になる。大学卒業後は神戸のアパレルメーカーでOLとして働いていたが3年目に退職し書家に転身。京都府・奈良県で書の研鑽を積み、2001年7月に初めての個展を開く。2003年、奈良にアトリエを構えると、2005年には東京、2006年には都内の別の場所へ再移転している。書の作品展の他、テレビ番組や書籍、映画などの題字、新聞・雑誌の連載などでも活躍している。2007年にはショートショートフィルムフェスティバルの審査員も務めた。 2011年には東日本大震災復興支援で行われたロックユニットComplexのライブテーマ「日本一心」の書を手掛ける。
2004年11月から2年半の間、朝日新聞で「いい名」を連載していた。内容は、0歳から109歳まで112人の名前の由来やエピソードを元に、その人の名前を書で書き表すというものであった。同年11月、東大寺にある東大寺整肢園の壁画を手がけた。2009年11月には外務省の文化事業でアルゼンチン、ウルグアイ、チリを訪れた。朝日新聞で「一語一会」、読売新聞で「言葉のアルバム」も連載している。
2010年4月より放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」題字を担当、6月、「吉野・高野・熊野の国」の象徴となる。10月、パシフィコ横浜で開催された「APEC Japan 2010」の会議ロゴを手がけ、メイン会議場ではチームラボと共同制作した映像が放映される[8]。
2012年2月、内閣官房からの依頼でスイスダボス会議「JAPAN」ロゴを担当。8月、伊勢神宮第62回「式年遷宮」(2013年10月2日/5日)にあたり、「祝御遷宮」を揮毫・奉納。10月、経済産業省「Cool JAPAN」ロゴを担当。
2013年1月、東大寺に年始書初め奉納。5月、雑誌「AERA」にて連載「心書」スタート。9月、海上自衛隊から米軍第七艦隊70周年のお祝いとして、紫舟の書画「七鷲炯炯」が贈られる。NHK中央放送番組審議委員(2009年-)。2014年1月、サンフレッチェ広島チームスローガン「全力」を担当。
2014年12月、ルーブル美術館Carrousel Du Louvreで開催されたフランス国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)サロン展、「S.N.B.A金賞」およびオルセー美術館などフランスを代表する美術館や博物館の審査員による最高賞「審査員賞金賞」受賞 2015年ミラノ国際博覧会日本館クリエイターとして、プロローグを担当。「相生(あいおい)」をテーマに、書、大鼓、義太夫といった日本の伝統文化だけで構成された映像、約3mのキャンバス画「雨の一生」8点、ガラスと鉄の書の彫刻で構成された空間をプロデュース。巨大スクリーンに「命」の文字を書いた。
受賞
2005年 – 第31回AU国際芸術選抜展、ディ・マウロ賞。
2007年7月 – 第35回AU現代芸術国際展、嶋本昭三賞。
2010年3月 – 第5回手島右卿賞[9]。
2010年 – DDAデザイン賞2011「優秀賞」受賞。受賞作「龍馬のことば展」東京ミッドタウン
2012年 – フランスLaval Virtual 2012「設計芸術文化賞」受賞
2013年2月 – 第5回G1新世代リーダーアワード【社会・文化の部】受賞
2014年12月 – フランス国民美術協会 (S.N.B.A) サロン展(於ルーブル美術館Carrousel Du Louvre)「S.N.B.A金賞」および最高賞「審査員賞金賞」受賞

三輪田 米山(みわだ べいざん、文政4年1月10日(1821年2月12日)- 明治41年(1908年)11月3日)は江戸末期から明治にかけての書家。本名は常貞、また清門。幼名は秀雄。字は子謙。別号は得正軒主人。僧明月、僧懶翁とともに伊予三筆と並び称される。

人物・来歴
伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。神官宅は鷹子村、神社は南久米村だが両所は村境を挟んで隣接している。出身地に鷹子村、南久米村の二様があるのはこのためである。
嘉永元年(1848年)、父死去、神官を嗣ぐ。
国学、漢学、和歌を国学者大国隆正に学ぶ。また書を日下陶渓(字・伯巌)を手本に学び、僧明月、細井広沢、王羲之の書法を研究。
明治4年(1871年)、旧松山県より日尾八幡神社祠官に任命。
明治13年(1880年)、隠居。愛媛県中予地方を中心に約3万の揮毫を残す。酒が入らぬと良い書は書けぬと二、三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んでおもむろに筆を取るのが常であったという。書風は豪放磊落にして気宇壮大、雄渾にして天衣無縫、何物にも捉われない破格の書体は、近代書の先駆としていまなお独自の輝きを放つ。また明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった。
明治41年(1908年)没。享年88。墓所は神社・自宅に近接する四国霊場第49番札所西林山浄土寺。
大阪の山発商店(現・アングル・ミユキ)創業者で佐伯祐三の発掘でも知られる山本発次郎が、米山の書を高く評価し蒐集を始める。戦前に集めたものは戦災で灰燼に帰したが、昭和26年(1951年)には米山を「我が国近世五百年間不世出の大書家」と激賞。
平成19年(2007年)、三輪田米山顕彰会が発足。
縁戚
足利三代木像梟首事件の首謀者とされる国学者・三輪田元綱は弟。その妻三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。姻戚に白川義則、船田ミサヲ(操、済美高理事長)がいる。

村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年(大正元年)8月25日 – 2005年(平成17年)11月20日)は、日本の書家。勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。

経歴
愛媛県越智郡上浦町(大三島、現在の今治市)出身。大三島で生まれ育った後、大阪府三島郡(後に高槻市となる)に移る。雅号「三島」は大三島と三島郡に由来する。
中学時代から書に親しんでいたが、大阪市立泉尾工業学校在学中に股関節カリエスに罹り足が不自由になったことから、15歳で好きな書道の道に入る。1927年(昭和2年)に片山萬年に、1945年(昭和20年)には辻本史邑に師事。1948年(昭和23年)日展に書道部門が新設されたのを契機に「杜甫九日詩(とほきゅうじつし)」を発表して入選。1949年(昭和24年)と1952年(昭和27年)には日展で特選に選ばれる。また毎日書道展や日本書芸院展などに作品を発表し、1964年(昭和39年)「秋分思子」で日展文部大臣賞、1968年(昭和43年)には「杜甫贈高式顔詩」で日本芸術院賞を受賞した。
日展常務理事、同顧問、日本書芸院理事長、日本書道教育会議副会長などを歴任した他、自ら書道団体の長興会を設立して後進の育成にも努めた。書道の革新にも意を用い、1994年(平成6年)話し言葉を作品化する「読める書」を提唱。1995年(平成7年)には読売書法展に調和体部門を設置した。晩年になっても創作意欲は衰えず、パソコンやワープロの普及に対して、手書き文字の良さを意欲的に追求していた。
日中間の書道の交流にも尽力し、しばしば訪中した。1993年(平成5年)には中国人以外では初となる上海美術館(上海博物館)の特別顧問・特別研究員に就任している。
1985年(昭和60年)日本芸術院会員。1988年(昭和63年)勲三等旭日中綬章を受章。1993年(平成5年)文化功労者顕彰。1998年(平成10年)には文化勲章を受章した。最晩年には故郷の大三島に作品を寄贈、これを受けて同地の旧上浦町は村上三島記念館を建設した。2005年(平成17年)11月20日心不全のため死去。93歳。従三位を贈位された。
書風
日本の書道界においては、唐以前の中国に範を取っていたのに対して、三島は、中国・明末の書家、王鐸の草書連綿体(連綿草)を研究し、篆書、隷書、楷書、行書、草書を駆使して、躍動感に充ち格調高い中に温かさを備えた独自の書風を確立した。
主な門弟
古谷蒼韻
栗原蘆水
杭迫柏樹
真神巍堂
江口幹城

槇 江山(まき こうざん、安政7年(1860年) – 昭和11年(1936年))は、伊予国浮穴郡上灘(現在の愛媛県伊予市)出身で明治中期から昭和初期にかけて活躍した陶芸家。本名は鹿蔵(しかぞう)、「江山」は号である。

年譜
伊予国上灘に生まれ、幼少の頃から手先が器用であった。当時、山口県萩から来ていた陶工が、天賦の才能を惜しみ弟子とし、12歳から18歳まで萩で焼物の修業を重ねた。一人前の陶工として帰郷した後、21歳から27歳まで、土佐の政治家林有造に請われて、有造の妻の里で焼物指導をする。有造の薦めで、号を「江山」と名乗るようになった。その後、砥部で陶工として働いた。明治28年(1895年)、郡中町(現在の伊予市)に住み、江山焼に取り組む。
伊藤博文、元帥海軍大将東郷平八郎、陸軍大将秋山好古、旧伊予松山藩主久松勝成、高浜虚子、下村為山、河東碧梧桐等、文人、軍人、政治家との交流が多く、名士が江山を招いて邸内に窯を築き、陶磁器を焼かせる「お庭焼き」も行われた。明治42年(1909年)春、伊藤博文を郡中彩濱館に迎えもてなした時、江山が庭に用意した窯で、伊藤は茶碗に「水光山色沙白松青影裏之人家 春畝山人」、徳利に「一片之氷心」と揮毫して楽焼を楽しんだ。その年の秋、伊藤は満州で安重根の狙撃に遭い亡くなったので、死の数ヶ月前に、江山と交遊があったことになる。
また、明治36年(1903年)に大正天皇、大正11年(1922年)には昭和天皇に、江山焼お買い上げの光栄を賜る。
大正11年(1922年)、松山城の城山の麓に、旧松山藩主久松家の別邸として萬翠荘が建設された。その際、松山市の会社団体からは砥部焼の鶴が贈られた。銀行団体からは亀を贈ることになり、江山がその制作を行った。萬翠荘の庭園に鶴と亀が置かれて、大いに瑞相を添えていたという(戦災等の為、現在は亀は残っていない)。
人柄は温厚で三味線をたしなみ、浄瑠璃を研究したり、ひょうたんを愛玩して常に携帯し鑑賞していた。酒は飲めず、甘党であった。無欲恬淡で「芸術家は金で動くようではだめだ」という信念を持ち、収入があると貧しい人に施しをしたり、餅をたくさんついて砥部橋から撒いたりした。陶芸作品が高く評価され有名であるだけでなく、誰からも好かれた人物だった。

砥部焼(とべやき)は、愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器である。一般には、食器、花器等が多い。愛媛県指定無形文化財。別名喧嘩器とも呼ばれる。
後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げた。
やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。 他窯の磁器と比較して頑丈で重量感があり、ひびや欠けが入りにくいため道具としての評価が高い。 砥部焼の多くは手作り成形のため、全国的に見ても決して大産地や有名産地ではないが、独特の風合いが愛好家に評価されている。
なお、近年ブームの讃岐うどんの器としても砥部焼はよく用いられる。
また、映画『瀬戸内海賊物語』(砥部町出身:大森研一監督)においては、重要なシーンのアイテムとして砥部焼が用いられた。

 

歩み
砥部焼は、江戸時代中期に陶器を焼く窯として始まったが、大洲藩・九代藩主、加藤泰候(かとう やすとき)の時代に、藩の財政を立て直すため、砥石くずを使った磁器づくりを命じたことに起源を発するといわれている。命じられた杉野丈助(すぎの じょうすけ)が砥部の五本松という所に登り窯を据え、苦労の末に1777年(安政6年)にようやく白地に藍色の焼き物作りに成功したといわれる。焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられた。
嘉永元年(1848年)、トンバリと呼ばれるレンガ造の窯が導入される。
明治期に入ると、廃藩置県により、工芸技術者の行き来が盛んになり、それまで各藩が抱え込み、門外不出とされた陶磁器作りの技術が流出し、瀬戸や唐津、あるいは京都などの当時の先進地の情報が砥部にもたらされるようになり、砥部焼も量産が可能となった。明治5年頃からは松前(現在の伊予郡松前町)の唐津船で、販路を全国へと広げていった。もともと、松前は海に面しており、小船を生かし沿岸の街を行き来する商人が居た。ただ、松前は松山藩、砥部は大洲藩であり、住民の交流は乏しかったが、松前の商人が砥部焼の商品性に着目し、商品として扱うよう求めたものであり、これも廃藩置県の一つの副次効果といえる。
その後、輸出商品として、郡中港(現在の伊予港(伊予市))から出荷された時期もあった。
1976年(昭和51年)12月15日に通商産業省(現・経済産業省)の伝統的工芸品に指定された[2]。焼き物は6番目に指定されている。
今日では、独立して窯を開く職人もみられ、また女性作家も増えているなど、日用工芸品としての道を歩んでいる。2005年(平成17年)12月27日愛媛県指定無形文化財。技術保持者として、酒井芳美(雅号・芳人、砥部町五本松)が認定される。

楽山焼(らくざんやき)は愛媛県松山市で焼かれる陶器である。そして三代目藩主であった松平定長が「あな寒しかくれ家いそげ霜の蟹」と興じたことに甚く感銘を受け、それに因んで蟹の紋様を入れるようになったといわれる。今日でもこの蟹の紋様が楽山焼最大の特徴であり、激流に棲む蟹の勇壮さが引き立つ。
なお、松江藩の御用窯であった楽山焼とは全く関係ない。

水月焼

桜井漆器(さくらいしっき)は、愛媛県今治市の桜井地域で作られる漆器である。
歴史
1828年(文政11年)に製造されたという記録があり、最初は春慶塗の技法で行ったが、天保年間になってから重箱の角を櫛歯形に組み合わせた技法が完成され、全国的に名を知られた。愛媛県指定伝統工芸品に指定されている。
昔は桜井漆器を九州などへ売りに行った。その時月賦販売(現在の分割払い)による販売方法を生み出し売上を伸ばし、桜井地域は繁栄した。さまざまな器が製造されたり、流通の仕組みが変化したことで衰退していった。
2015年(平成27年)に同県の伝統工芸品菊間瓦とコラボレーションが話題になった。

菊間瓦(きくまがわら)は、伊予(愛媛県)で伝統的に生産されてきた瓦である。 また鬼瓦の生産も行われてきた。

歴史
菊間瓦は数百年の歴史を持った当地が伊予と呼ばれた時代からの伝統工芸品であり、廃藩置県によって当地が愛媛と呼ばれるようになった明治時代に最盛期を迎えた。その後衰退するも菊間瓦が主要な展示品の博物館「かわら館」(今治市内に立地)が開設された。この他にも瓦のふるさと公園(今治市内に立地)では菊間瓦を装飾に使用されていたり、遍照院(今治市内に立地)では菊間瓦を使用した鬼瓦御輿が見られるなど、今日でも今治市では菊間瓦を使用した様々な物が見られる。このように今治市では菊間瓦が町おこしに活用されている。

愛媛県伝統的特産品
西条だんじり彫刻
周桑手すき和紙
桜井漆器
菊間瓦
伊予竹工芸品
伊予絣
姫だるま
姫てまり
和釘
和ろうそく
和傘
棕櫚細工
高張提灯
桐下駄
節句鯉幟
宇和島牛鬼張り子
水引・水引製品
伊予手すき和紙
太鼓台刺繍飾り幕
二六焼き
伊予簀

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