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新原美術 店主
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[1900~1968]陶芸家。愛知の生まれ。本名、一(はじめ)。中国・朝鮮の古陶磁器の研究を重ね、色絵磁器・金襴手(きんらんで)などに独創的な作風を示した。
山田常山(3代)(1924~2005)
愛知県出身の日本の陶芸家。本名は山田稔。号は小常山のちに常山。
2代目常山の長男として生まれ、家業を継ぐべく在学中より父や祖父(初代常山)に師事する。

1947年の初代没後は父が常山を襲名、稔は父の号であった小常山を名乗る。
1958年に第5回日本伝統工芸展初入選、同年ブリュッセル万国博覧会にてグランプリ受賞。59年第7回生活工芸展第一席朝日賞などの受賞を経て62年日本工芸会正会員に就任。
また61年より父の死去に伴い3代山田常山を襲名している。
70年代には70年に大阪万博に出品、73年に第3回ビエンナーレ国際陶芸展に出品(名誉最高大賞受賞)など国際的にも評価が高まるきっかけとなった。また伝統の常滑焼を護ろうと地元の陶芸家らと常滑「手造り急須の会」を発足し
会長に就任している。

伝統に甘んじることなく古常滑の穴窯で急須に蓋をしたまま焼成しそのまま自然釉を掛けるといった独自の技法を完成させるなど日々研究続け、94年に愛知県指定無形文化財保持者の認定に続き98年に国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
常滑朱泥急須=山田常山といわれるほど急須(主に煎茶用)制作の技術に優れ古典的なものから現代志向に合わせた斬新な作品まで幅広く制作し原型となるそのデザインは100種類以上あるといわれている。
また、急須作品のほかにも酒器、壺、大鉢など優作を多く残している。

山田常山(3代)年表

1924年 愛知県常滑市に生まれる。
1941年 愛知県立常滑工業学校窯業科卒業。在学中より祖父・初代山田常山に師事。
1946年 父・二大山田常山に師事。
1958年 第5回日本伝統工芸展初入選。ブリュッセル万国博覧会にてグランプリを受賞。
1961年 3代山田常山を襲名。
1963年 財団法人日本工芸会正会員となる。
1970年 日本万国博覧会に出品。
1973年 フランス第3回ビエンナーレ国際陶芸展名誉再興大賞受賞。渡欧する。
1974年 日本陶芸巨匠大展に出品。
1975年 常滑「手作り急須」の会会長。
1990年 「心と技ー伝統工芸名品展」北欧巡回展及び帰国展招待出品。
1993年 平成5年度日本陶磁協会賞受賞。
1994年 愛知県指定無形文化財保持者認定。「陶芸 ロクロによる手造り朱泥急須技法」
1996年 勲五等瑞宝章受章。
1998年 国指定重要無形文化財保持者に認定。「常滑焼(急須)」(通称「人間国宝」)。
日本工芸会参与東海テレビ文化賞受賞。
2004年 旭日小綬章受賞。
2005年 10月19日、死去。

瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。

平安時代、猿投地区(尾張東部から西三河西部)猿投古窯群と呼ばれる一大窯業生産地があった。そこで生産される灰釉が施された須恵器は灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通した。しかし、平安時代末期から製品が粗悪化し、衰退していく。
鎌倉時代、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれる。(ただし、景正の実在を疑う説もある。)この頃、日本陶器の起源となる、灰釉・鉄釉などの本格的陶器生産が始まる。器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られる。鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
室町時代末頃までは古瀬戸とよばれる。室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が美濃に移る。
桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
元和2年(1616年)に徳川家康が死去して駿府城内にあった遺品は将軍家と御三家に分配されるが、そのうち尾張徳川家が受け取った分の目録『駿府御分物之内色々御道具帳』(徳川黎明会蔵)には、すでに「瀬戸」と「古瀬戸」の語の使い分けが見える。こんにちでいう「古瀬戸」とは指し示す範囲が異なるものの小堀政一(遠州)『茶人の次第』(水戸徳川家伝来)にも「古瀬戸」の語がみえ、近世初期には「瀬戸」と「古瀬戸」の使い分けが広がっていることが確認できる。
江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった有田焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。
文化年間(1804年 – 1818年)加藤民吉親子が肥前国有田から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。以降、「染付焼」(瀬戸染付)は「新製焼」、旧来の陶器は「本業焼」と呼ばれた。

赤津焼(あかづやき)は、瀬戸焼のうち瀬戸市街の東方にある赤津地区で焼かれる焼物。

概要
瀬戸窯とともに発展した窯で平安時代の開窯とされ、当地には室町時代の窯跡である小長曽陶器窯跡が残る。戦国時代、瀬戸では「瀬戸山離散」と呼称される窯屋の急激な減少が発生し、多くの窯が美濃地方に移った。
慶長15年(1610年)になって尾張藩初代藩主・徳川義直が当時の赤津村に陶工を集めて瀬戸窯の復興を図った(窯屋呼び戻し)と言われていたが、近年では現存する資料から徳川家康が名古屋開府に合わせて窯屋を呼び戻したものとされている。
また、元和2年(1616年)には名古屋城に赤津から陶工を呼び、御深井丸に窯を築いた。これは明治4年(1871年)の廃藩置県に伴い廃止されたが「尾州御庭焼」として知られている。この御庭焼への出仕を通じてそれまでの赤津焼には無かった安南風の呉須絵の技術が陳元贇より伝えられ、現在では「御深井釉」と呼ばれている。文化4年(1807年)、加藤民吉によって瀬戸に磁器の製法が導入されたが赤津では定着せず、現在に至るまで陶器を主体としている。
現在
7種類の釉薬(灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井釉)と12種類の装飾技法が今に伝わり、1977年(昭和52年)には、国の伝統的工芸品にも指定された。2010年2月現在、赤津焼伝統工芸士14名を数える。
赤津焼会館
1980年(昭和55年)、赤津焼の研究資料・民俗資料保存を目的として建設された。
赤津町の高台にあって織部釉の陶板で建物の外壁を被う特徴的な概観をもつ建物で、館内には会合用の研修室などを備えるとともに、茶道具・花器などから普段使いの焼物まで、赤津の窯元の作品を一堂に集めて展示・販売している。

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器。日本六古窯の一つ。

歴史
中世の常滑焼
平安時代末期、猿投窯南部の灰釉陶窯の南下に伴い形成された知多半島古窯跡群を母体とするが、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。中世の常滑焼の窯跡は1,000基以上で数千基に及ぶとされるが、その実数は不明。過去の学説では最高10,000基というものがあるが、根拠は不明瞭といわねばならない。
平安時代末期の製品は素朴な中にも王朝文化の名残を感じさせる優美さを持ち、経塚などの仏教遺跡で用いられる事例が少なからずあり、さらに奥州平泉の遺跡群で大量につかわれていたことが判明している。
鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。そして、平安時代末期以来、広く太平洋沿岸を中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大・充実している。瀬戸内地方の広島県福山市に所在する草戸千軒町遺跡は、備前焼の生産地に近い立地ながら、鎌倉時代の常滑焼が数多く出土しており、そこからも、この時期の常滑焼の流通のあり方が窺われる。
その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島の丘陵部傾斜面に掘られた地下窖窯(ちかしきあながま)で、その大半は平安時代末期から南北朝期までの期間におさまっている。なお、中世常滑焼を代表する大型貯蔵具の生産は、常滑地域を中心とする半島中部の窯で行われることが多く、半島の北部や南部では、灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。
室町時代になると半島全域に広く分布していた窯は旧常滑町周辺に集まり、しかも集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになる。この段階では碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。また、室町期のある段階で半地上式の大窯に窯の構造が転換している。そして、その大窯は江戸時代の常滑焼を焼いた窯でもあり、別に鉄砲窯とも呼ばれた。古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない。
禁窯令と常滑焼
戦国時代、織田信長が瀬戸の陶器生産を保護するために天正2年「禁窯令」を出したことで常滑の陶器生産も一旦終焉を迎えたとする説がある。その初出は昭和10年代に刊行の旧『愛知県史』で、昭和49年刊の『常滑窯業誌』でも採用されている。しかし、この説に対して赤羽一郎は1983年の著書『常滑』で「禁窯令」の根拠とされる朱印状の文面は、焼き物生産すべてを禁止したのではなく瀬戸風の焼き物を他所で焼くことを禁じたと解釈すべきであること。常滑の窯の数の急減と市街地への集約は、天正期よりはるか以前に起こった現象であること、そして、天正期に生産された可能性の高い常滑焼は、中世城館跡などから少なからず出土していること、さらには瀬戸と競合関係にあるのは常滑ではなく、生産内容が類似する美濃焼であるべきで、実際15世紀から16世紀にかけて瀬戸の技術が美濃に流入している現象があるなどの理由をあげて、その「禁窯令」の常滑への影響を否定している。その後の日本各地の発掘調査によっても天正初期の極端な生産減少を認めることはできない。
近世の常滑焼
江戸時代、常滑村・瀬木村・北条村の三か村で焼かれる焼き物を常滑焼と総称した。なかでも北条村に最も窯が多く、元禄七年の窯改めで常滑・瀬木が2基ずつであるのに対し、北条は8基である。その後、北条は享保年間に10基、天明年間に8基、そして、江戸末期の天保年間に11基である。常滑村と瀬木村については、その後の記録がないが江戸末期に1から2基の増加があった程度と推測される程度である。
近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼物は甕・壺を中心とするが、江戸後期になると茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。一方、赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺、竈、火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してくる。
尾張藩侯の七・八代のころに北条村の渡辺弥平は、その命を受けて茶器・酒缶・花瓶などを作って上納したところ、いずれも賞玩され、それらが無名であることから元功斎の名を賜り、以後、作品に元功斎と記入することになったとされる。その後、常滑でも伊奈長三郎、上村白鴎、赤井陶然などの名工が出て茶器や酒器などに技を振るった。また、文政年間に稲葉高道(庄左衛門)は遠州秋葉山に参り、そこで伝来の「足利家同朋巽阿弥秘蔵 茶器三百五拾一品之内 茶瓶四拾三品」とある古写本を譲り受けて帰り、常滑で初めて急須を作ったとされる。また、杉江寿門堂(安平)は、安政元年に常滑の医者で急須の収集家でもあった平野忠司の指導を受けつつ、中国の茶壺の素材に近い朱泥を創出することに成功した。
常滑に連房式登窯が導入されるのは天保年間のこととされる。同じ天保年間に二代伊奈長三は板山土と呼ばれる白泥焼の原料を見出し、この土に乾燥させた海草を巻いて焼くことで生まれる火色焼(藻掛け技法)を生み出した。連房式登窯は真焼窯とも呼ばれ窯詰めされたものが、すべて真焼けになるのに対し、従来の大窯では燃焼室寄りに置かれたものは真焼けになるが、奥の煙道よりのものは温度が上がらず赤物になっていた。江戸末期に登り窯が導入された背景には、常滑においても各種の小細工物が量産される状況に至ったことをうかがわせる。この登り窯導入を行ったのは瀬木村の鯉江小三郎(方救)で、その息子の伊三郎(方寿)も協力したといわれる。しかし、年齢を考えると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。また、鯉江家は尾張藩の御用を勤めていたとされるが天保11年には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を伊三郎(方寿)が勤めている。そして、その「御焼物師 鯉江伊三郎」と銘を入れた壺が煙硝壺として伝存している。同形のもので、梅干壺とされるものもあり、その仕様を書いた安政七年の御掃除方役所が出した古文書もあるが、梅干壺は鯉江の窯で焼いた形跡がない。そして、梅干窯を焼いた窯として松本久右衛門の松本窯が知られている。この窯は流通業で富を得た松本家が陶器生産に参入した結果生まれたものながら、その操業にあたって従来の窯業者との間に大きな摩擦が発生したという記録がある。
近代の常滑焼
明治時代になって株仲間のような規制がなくなると新規に陶器生産に参入する家が増えていく。そして、明治の常滑では近代土管という新たな主力製品があり、その生産は従来の窯屋だけでは供給しきれないほど大量の需要があった。土管は英語のEARTHENWARE PIPEの訳語とされる。常滑では江戸末期の赤物に土樋があり、文久年間に鯉江方寿は美濃高須侯の江戸屋敷で上水道用として用いる真焼土樋を作って納めたという記録がある。しかし、近代土管の生産は土樋とは異なる規格化された製品で明治5年、横浜の新埋立地の下水工事に伴う注文が鯉江方寿のもとにもたらされたことに始まる。その設計はお雇い外国人のリチャード・ブラントンであった。はじめ瓦の材質で作られた土管は強度に難があるということで、常滑の真焼甕のように作ることを求められた。この注文は従来の常滑焼の技術だけでは充分に対応できず、鯉江家に出入りしていた大工が発案した木型を用いて作る方法でブラントンの求めた規格通りの製品を納めることができたとされる。その後、鉄道網が整備されると灌漑用水路が線路で分断されるため暗渠の水路を強固な素材で通す必要があり、分厚くて硬く焼き締まった特厚の土管が大量に求められた。また、都市での疫病が大きな問題となるに従い上下水道の分離が求められ、土管の需要湯は増大する一方であった。こうした状況に鯉江家だけでは生産が追いつかず、鯉江家はその技術を解放して常滑をあげて土管生産に対応するようになっていく。
タイルを中心とする建築陶器の生産は明治末年ころから開始されるが、大正期、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルに採用されたスクラッチタイルやテラコッタなどを常滑で生産して以降、急速にその生産量が増加していく。帝国ホテルの開館の祝いが催されていた大正12年9月1日、関東大震災が発生したのであった。それまでの近代建築が多く煉瓦積みであったのに対し、帝国ホテルはコンクリートを用いており、震災の影響が見た目にはそれほど大きくなかった。そして、その後の鉄筋コンクリート建築が普及するとともに建築陶器の需要が急速に増大していくことになる。
幕末から常滑焼業界のリーダー的位置に付いた鯉江方寿は明治期に近代土管の量産を軌道に乗せ、さらに輸出用陶磁器の生産にも取り組んだ。しかし、鯉江窯の試作品は高級品志向が強く、本格的に輸出されるようになったのは朱泥龍巻(しゅでいりゅうまき)と総称される製品群であった。明治10年代に試作され20〜30年代に本格的に輸出された朱泥龍巻は北米を主要な市場としていた。朱泥土を用い壺や投入、花瓶などを作り、その表面に石膏型で成型した龍を中心とした薄板状の文様を貼り付けてレリーフ状の装飾としたものが朱泥龍巻であるが、常滑から神戸に送られ、そこでさらに漆や金箔などを用いた加工が施されていた。明治末になると朱泥龍巻は急速に商品価値を失い、大正期には新たに素焼きの生地に漆を塗り、様々な装飾を加えた陶漆器(とうしっき)が輸出品として生産されるようになる。
鯉江方寿の業績として、明治11年に清朝末期の文人で宜興窯の茶器製法を知っていた金士恒という人物を招聘し、常滑の陶工に、その技法を伝習させたというものがある。明治期の常滑の煎茶器生産は、多くの名工によって担われていたが、産業として量産されるような段階には至っていない。それは、大正・昭和戦前期においても同様で植木鉢や火鉢の方が主要な製品であった。
近代の常滑焼は、初め連房式登窯と大窯で焼かれていたが、明治33年に結成された常滑陶器同業組合が明治34年度の事業として取り組んだ倒焔式の石炭窯の試験に成功したことで、石炭窯が急速に普及し、大正・昭和の主役となる。しかし、町中を黒煙で覆った石炭窯も昭和45年「改正大気汚染防止法」のころから重油へと燃料転換が計られ、さらにガス窯や電気窯の普及、そして、量産品はトンネル窯によって焼成されるようになり、その役割を終えていった。

犬山焼

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片町
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寿町
こめのざちょう
米之座町
こめまち
米町

さるづかちょう
申塚町
しもぎりちょう
下切町
しもぎりちょう(おおや)
下切町(大矢)
しもぎりちょう(かつらもと)
下切町(桂本)
しもぎりちょう(けんねつ)
下切町(見祢ツ)
しもぎりちょう(しもえしろ)
下切町(下江代)
しもぎりちょう(しろやしき)
下切町(城屋敷)
しもぎりちょう(たかはし)
下切町(高橋)
しもぎりちょう(つぼのうち)
下切町(坪之内)
しもぎりちょう(なかわり)
下切町(中割)
しもしんでんちょう
下新田町
しょうわちょう
昭和町
しらはまちょう
白浜町
しらはまちょう(こしんがい)
白浜町(小新開)
しらはまちょう(しもいけ)
白浜町(下池)
しらはまちょう(とばみ)
白浜町(鳥羽見)
しらはまちょう(はっしょかわだ)
白浜町(八升川田)
しらはまちょう(ばんば)
白浜町(番場)
しらはまちょう(ひらつつみ)
白浜町(平堤)
しらはまちょう(ふかつぼ)
白浜町(深坪)
しらはまちょう(べんてん)
白浜町(弁天)
しらはまちょう(みやぐみ)
白浜町(宮組)
しらはまちょう(りんぞう)
白浜町(林造)
しろのこしちょう
城之越町
しろやまちょう
城山町
しんがいちょう
新開町
しんめいちょう
神明町

たいけいじちょう
大慶寺町
たいせいちょう
大政町
たかばたちょう
高畑町
たかやしきちょう
高屋敷町
たからまち
宝町
たちばなちょう
橘町
たてこみちょう
立込町
だいぎちょう
大木町
だいぎちょう(ごうまえ)
大木町(郷前)
だいぎちょう(ごたんだ)
大木町(五反田)
だいぎちょう(しんでん)
大木町(新田)
だいぎちょう(にしきり)
大木町(西切)
だいぎちょう(はったんだ)
大木町(八反田)
だいぎちょう(ひがしきり)
大木町(東切)
だいぎちょう(もとだ)
大木町(元田)
つしま
津島
つしま(きたしんがい)
津島(北新開)
つばいちちょう
椿市町
つばいちちょう(いちのわり)
椿市町(一ノ割)
つばいちちょう(ごのわり)
椿市町(五ノ割)
つばいちちょう(さんのわり)
椿市町(三ノ割)
つばいちちょう(にのわり)
椿市町(二ノ割)
てらのちょう
寺野町
てらのちょう(あおつかまえ)
寺野町(青塚前)
てらのちょう(かわらど)
寺野町(瓦土)
てらのちょう(こうど)
寺野町(好土)
てらのちょう(ごう)
寺野町(郷)
てらのちょう(ごたんだ)
寺野町(五反田)
てらのちょう(しものちょう)
寺野町(下ノ町)
てらのちょう(たかせ)
寺野町(高瀬)
てらのちょう(はさば)
寺野町(廻場)
てらまえちょう
寺前町
てんのうどおり
天王通り
とうようちょう
東洋町
ときわちょう
常盤町

なかいしきちょう
中一色町
なかいしきちょう(いちば)
中一色町(市場)
なかいしきちょう(おちかわた)
中一色町(落川田)
なかいしきちょう(おり)
中一色町(折)
なかいしきちょう(かみやま)
中一色町(上山)
なかいしきちょう(きたやま)
中一色町(北山)
なかいしきちょう(しもやま)
中一色町(下山)
なかいしきちょう(しんめい)
中一色町(神明)
なかいしきちょう(しんめいどう)
中一色町(神明堂)
なかいしきちょう(せいこうぼう)
中一色町(清光坊)
なかいしきちょう(てらまえ)
中一色町(寺前)
なかいしきちょう(とうごう)
中一色町(東郷)
なかいしきちょう(なかやま)
中一色町(中山)
なかいしきちょう(にしわけ)
中一色町(西訳)
なかいしきちょう(やなぎはら)
中一色町(柳原)
なかいしきちょう(やろくやま)
中一色町(弥六山)
なかじちょう
中地町
なかのちょう
中之町
なかのちょう
中野町
にしあたごちょう
西愛宕町
にしきまち
錦町
にしみどうちょう
西御堂町
にしやなぎはらちょう
西柳原町
にっこう
日光
にっこう(かみえしろ)
日光(上江代)
にっこう(かみやま)
日光(上山)
にっこう(にっこう)
日光(日光)
にっこう(ひがしうら)
日光(東浦)
ねぎまち
祢宜町

はがりちょう
葉苅町
はがりちょう(あおつかまえ)
葉苅町(青塚前)
はがりちょう(いなば)
葉苅町(稲葉)
はがりちょう(きたまち)
葉苅町(北町)
はがりちょう(みなみまち)
葉苅町(南町)
はがりちょう(わたかけ)
葉苅町(綿掛)
はしづめちょう
橋詰町
はんがしらちょう
半頭町
はんがしらちょう(にしのわり)
半頭町(西之割)
はんがしらちょう(ひがしのわり)
半頭町(東之割)
ばいばらちょう
莪原町
ばいばらちょう(かもりまえ)
莪原町(神守前)
ばいばらちょう(かわら)
莪原町(河原)
ばいばらちょう(ごうにし)
莪原町(郷西)
ばいばらちょう(ごうひがし)
莪原町(郷東)
ばいばらちょう(しもじょうめん)
莪原町(下条免)
ばいばらちょう(ちょうがしま)
莪原町(長ケ島)
ばいばらちょう(なかふか)
莪原町(中深)
ばいばらちょう(にしやしき)
莪原町(西屋敷)
ばいばらちょう(ひがしやしき)
莪原町(東屋敷)
ばいばらちょう(ひしけ)
莪原町(菱毛)
ばいばらちょう(ふけ)
莪原町(不毛)
ばいばらちょう(みずほ)
莪原町(みずほ)
ばいばらちょう(みやひがし)
莪原町(宮東)
ばいばらちょう(むくのき)
莪原町(椋木)
ばばちょう
馬場町
ひがしあたごちょう
東愛宕町
ひがしなかじちょう
東中地町
ひがしやなぎはらちょう
東柳原町
ひゃくちょう
百町
ひゃくちょう(あさひ)
百町(旭)
ひゃくちょう(かきわり)
百町(柿割)
ひゃくちょう(かみすみよし)
百町(上住吉)
ひゃくちょう(きたこのう)
百町(北古農)
ひゃくちょう(こうぜんじ)
百町(光善地)
ひゃくちょう(こざ)
百町(古座)
ひゃくちょう(さだゆう)
百町(佐多遊)
ひゃくちょう(しばたけ)
百町(柴丈)
ひゃくちょう(しもすみよし)
百町(下住吉)
ひゃくちょう(しんがい)
百町(新開)
ひゃくちょう(しんじょ)
百町(新所)
ひゃくちょう(しんめい)
百町(神明)
ひゃくちょう(どぶ)
百町(土冨)
ひゃくちょう(なかすみよし)
百町(中住吉)
ひゃくちょう(みどりだい)
百町(みどり台)
ひゃくちょう(みなみこのう)
百町(南古農)
ひゃくちょう(みやあと)
百町(宮跡)
ひゃくちょう(やつか)
百町(矢塚)
ひるまちょう
蛭間町
ひるまちょう(きたがみ)
蛭間町(喜多神)
ひるまちょう(くらかけどう)
蛭間町(蔵掛堂)
ひるまちょう(さかがわひがし)
蛭間町(逆川東)
ひるまちょう(しんでん)
蛭間町(新田)
ひるまちょう(たかせ)
蛭間町(高瀬)
ひるまちょう(にしやしき)
蛭間町(西屋敷)
ひるまちょう(べんにち)
蛭間町(弁日)
ひるまちょう(ますだ)
蛭間町(桝田)
ひるまちょう(みやしげ)
蛭間町(宮重)
ふかつぼちょう
深坪町
ふじかわちょう
藤川町
ふじさとちょう
藤里町
ふじなみちょう
藤浪町
ふなとちょう
舟戸町
ふるかわ
古川
ふるかわ(かなまえ)
古川(金前)
ふるかわ(しるえ)
古川(汁江)
ふるかわ(じょうわり)
古川(上割)
ふるかわ(たけごし)
古川(竹腰)
ふるかわちょう
古川町
ほんまち
本町

まきのちょう
牧野町
まきのちょう(いつつじま)
牧野町(五ツ島)
まきのちょう(えきた)
牧野町(江北)
まきのちょう(ごうひがし)
牧野町(郷東)
まきのちょう(しょうわ)
牧野町(昭和)
まきのちょう(たつみ)
牧野町(辰巳)
まきのちょう(なみよせ)
牧野町(浪寄)
まきのちょう(にしで)
牧野町(西出)
またきちちょう
又吉町
まつがしたちょう
松ケ下町
まつばらちょう
松原町
みずほちょう
瑞穂町
みなとちょう
皆戸町
みなみしんがいちょう
南新開町
みなみほんまち
南本町
みなみもんぜんちょう
南門前町
みやがわちょう
宮川町
めいてんちょう
明天町
もとでらちょう
元寺町
ももじまちょう
百島町
ももじまちょう(いやしき)
百島町(居屋敷)
ももじまちょう(うしや)
百島町(牛屋)
ももじまちょう(かんのんぼう)
百島町(観音坊)
ももじまちょう(くろぶつ)
百島町(黒佛)
ももじまちょう(けんじょう)
百島町(献上)
ももじまちょう(げんしょう)
百島町(源正)
ももじまちょう(こがね)
百島町(こがね)
ももじまちょう(さんせろくぶ)
百島町(三正六歩)
ももじまちょう(なかわり)
百島町(中割)
ももじまちょう(ねぎ)
百島町(祢宜)
ももじまちょう(まるた)
百島町(丸田)

やくしちょう
薬師町
やなぎはらちょう
柳原町
やまとちょう
大和町
やよいちょう
弥生町
よこまち
横町

りょうおうちょう
良王町
るりこうじちょう
瑠璃小路町

赤津焼
沿革
日本六古窯の一つであり、その起源は奈良時代の須恵器にまでさかのぼります。鎌倉時代に釉薬(ゆうやく)を用いたのはこの地方のみであったといわれています。その後の安土・桃山時代には、茶道の発展の影響を受け、志野、織部など現在の赤津焼の根幹をなす技法が確立されました。

特徴
赤津焼の特徴は、織部釉(おりべゆう)、志野釉(しのゆう)、黄瀬戸釉(きぜとゆう)、古瀬戸釉(こぜとゆう)、灰釉(かいゆう)、御深井釉(おふけゆう)、鉄釉(てつゆう)の7種類の釉薬と、へら彫り、印花(いんか)、櫛目(くしめ)、三島手(みしまで)など12種類の多彩な装飾技法にあります。これらを駆使し、茶道具、華道具から家庭用品まで幅広く焼かれています。

製造工程
ろくろ成形、たたら成形、または手ひねり成形により成形し、仕上げ、乾燥の後、絵付けや施釉を行い焼成します。基本的に素焼きはしません。織部は焼成後、ドングリの傘からでるシブを使い、表面の幕を除去します(栃しぶ抜き)。

主な製品
茶器、花器、酒器、飲食器など

伝統的工芸品指定
指定年月日 第7次指定 昭和52年3月30日

尾張七宝
沿革
天保年間(1830~1844年)、尾張国の梶常吉が、オランダ船により輸入された七宝の皿を手がかりにその製法を発見し、改良を加えたのが始まりとされています。

特徴
一般に焼物といえば、陶磁器のように土を成形して焼き上げますが、七宝焼は、銅又は銀の金属素地を用い、その表面にガラス質の釉薬(ゆうやく)を施し、花鳥風月、風景などの図柄をあしらったところに特徴があります。特に図柄の輪郭となる部分に銀線を施す有線七宝は尾張七宝の代表的な技術です。

製造工程
銅(銀)板を用いて花瓶、皿などの形の金属素地を作り、その上に墨で下絵を描きます。有線七宝の場合は、下絵にそって銀のリボン線(銀線)を特殊な糊で立てながら植え付け(植線)、ガラス質の紬薬を施して焼成します。焼成は4~8回程度繰り返し行います。その後、研磨を行い、飾り付けを施して完成です。

主な製品
花瓶、額、酒器、皿、宝石箱等

伝統的工芸品指定
指定年月日 第29次指定 平成7年4月5日

瀬戸染付焼

沿革
19世紀初め、加藤民吉等が磁器の焼成(しょうせい)技術を瀬戸の地で広めたことが起源となっています。その後、絵師から絵付の指導を受け、南宋風の絵画を施す技術などが加わって急速に発展し、今日の瀬戸染付焼の基礎が確立されました。

特徴
白地(しろじ)の素地(きじ)に絵付を行い、施釉(せゆう)後焼成したものが染付です。藍色を基調とした色彩で繊細な自然画や鳥、花などを筆で描く技術と、潤いを持った仕上がりにするため、本焼成時に「ねらし(一定時間窯(かま)の温度を高温のまま維持)」を行い釉薬を熟成させるところに特徴があります。

製造工程
ろくろ成形、手ひねり成形等で成形し、表面をなめらかに仕上げ、乾燥後に素焼をした素地の表面に、直接筆で呉須絵具(ごすえのぐ)等を用いて下絵付を行います。その後紬薬を施し、本焼成して完成となります。

主な製品
茶器、花器、室内装飾品、食卓用品

伝統的工芸品指定
指定年月日 第31次指定 平成9年5月14日

紋章上絵

紋章上絵の起源は平安時代にさかのぼります。京都で修行をした小川棄拾氏が昭和19年から旧尾西市(現在の一宮市開明)に戻り、生産を始めました。
紋章上絵師の仕事は、黒紋付染の工程の中で、ゆのしを施した白生地に紋場と呼ばれる紋章を 描く部分を白く残すために、紋を彫った紋型紙を貼り付ける作業と、生地の染め上げ後、紋洗い をした真っ白な紋場に、コンパス、定規、上絵筆などを使い正確に紋を描き入れる作業に分かれ ます。何年も鍛錬された職人だけができる技術・技法です。

製造工程
黒着物(喪服)の石持(紋を入れる部分)に型(紋の形に彫った紙)を貼って、余分な部分を 染料で消します。その後、墨で線を入れます。

主な製品
呉服、紋入れ

打敷

沿革・特徴
かつて尾張地方は、刺繍の生産の盛んな土地でした。この地方では、主に呉服などを中心に刺 繍が盛んに行われていました。その後、呉服の他に仏具商の下請けとして、打敷や袈裟・山車の 幕等他を請け負うようになりました。

製造工程
製作し、糸と生地を染めます。糸よりをし、刺繍(駒づかい・ぬいきり・さしぬい・たけやまち・さがらぬい)をして仕立てます。

主な製品
打敷、祭物、各種刺繍品

犬山焼

沿革・特徴
江戸元禄年間、今井村(現在の犬山市今井)において、郷士奥村伝三郎が今井窯を築き、焼物を作ったのが始まりです。その後、犬山城主成瀬正寿が文化7年(1810年)丸山に開窯、文政年間(19世紀)には、犬山藩お庭焼として発展し現在に至ります。
作風は、中国明時代の呉州赤絵を手本とする呉州風赤絵・犬山城主成瀬正寿の意匠による光琳風の桜と紅葉を描いた雲錦手が特徴で、素朴で優雅な陶器として愛用されています。

製造工程
採石をして粉砕し、水簸(すいひ)から粘土を生成します。坏土、土練りをして乾燥させ、素焼きの後、下絵付をして釉薬を施します。焼成をし、上絵付・上絵窯・錦窯・金焼等を行います。

主な製品
抹茶椀、花瓶、湯呑み、酒器

指物
沿革・特徴
指物師は、江戸時代になって独立した家具職人です。指物の「指す」というのは、板で箱等を作ることをいいますが、物差し等で測ることも「指す」というので物差し等を使用して細かい物を作る人のことをいいます。一宮市で指物が作られるようになったのは、大正時代からで、キリ、ヒノキ、スギ、クワ等を使って主に茶道用に箱、棚、櫃等を作っています。

製造工程
原材を天日乾燥させ、木取りし再び天日で乾燥させます。加工細工をして屋内で自然乾燥させ、組立加工をします。その後、研き、塗装をし、蒔絵・箔押しをします。

主な製品
棚物、風炉先屏風(ふろさきびょうぶ)具、茶杓(ちゃしゃく)、茶筅(ちゃせん)

曲げ物

沿革・特徴
曲げ物とは、ひのき、すぎなどの薄い板を曲げて作った器をいいます。旧新川町(現在の清須市)では、約200年前の江戸寛政年間頃、外町綿屋三輪彦兵衛、丸の内酒屋山田市右ヱ門、外町広瀬屋、牛田善右ヱ門が曲げ物屋を創業しました。
美濃街道は、昭和30年に旧西枇杷島町(現在の清須市)の青物市場が名古屋へ移るまで、大八車が行き交って賑わっていました。これらの人を当て込み、須ヶ口周辺は曲げ物作りで栄えていました。

製造工程
木地→木地を造り、乾燥させます。木取りをし湯で煮て、ロクロで曲げサクラの皮で縫います。
毛綱→原毛を洗い、長さを区別し毛を織機にかけます。木地の底を入れて、毛綱を付け仕上げます。

主な製品
蒸籠(せいろ)、柄杓(ひしゃく)、篩(ふるい)、こし器

漆器

沿革・特徴
わが国における漆の歴史には諸説あり、中国から伝えられたとも、日本で独自に発達してきたともいわれています。
尾張地方では戦前まで、「尾張漆」として漆・漆器が盛んに生産されていました。しかし時代の移り変わりとともに、廃業や仏壇仏具などの職業に転業する人が多くなり、戦中・戦後を過ぎた今では、一部の人が製作に従事しているだけとなりました。

製造工程
素地・木地に下地を塗る。下地工程が終わった物に下塗り・中塗り・上塗りの工程で漆を塗り、乾燥させます。

主な製品
美術工芸品、食器(盆・椀等)、茶華道具

端折傘

沿革・特徴
骨の端を内側に折り曲げた長柄の傘で、その昔、公家や僧侶、馬上の貴人などに後ろからさしかけたりと、広く利用されてきました。
また、豊臣秀吉が醍醐の花見の際に用いたという記録も残っており、近年では野点(のだて)の席に使われることはもとより、パーティー、室内装飾などの分野にも広く愛用されています。
約400年、14代に渡り端折傘の製作を続ける扶桑町の尾関朱傘製作所では、今なお、伝統の技法が守り継がれています。

製造工程
竹で骨(親骨と傘の内側で親骨を支える押上骨)を作り、墨を柿渋で溶いた液を塗る。親骨と押上骨にそれぞれ轆轤(ろくろ)を作って取り付けます。紙張り、朱塗りをして乾燥させ、折り込みをします。傘の上部の轆轤(ろくろ)に化粧張りをし、飾り糸掛けをして仕上げをします。

仏具

沿革・特徴
木魚位牌等の仏具が名古屋でいつ頃から製造されるようになったかは明らかになっていませんが、おそらく仏壇と並行して発展してきたものと推測されています。
現在でも位牌等の小物から寺院門の山号額のような大きな物までが幅広く製作されています。

製造工程
製材から木取りをし、彫刻・塗装・箔押しを行います。字形を整えて仕上げます。

主な製品
位牌、寺院仏具一式

武者絵幟、鯉幟

製品
沿革・特徴
江戸時代弘化年間(19世紀中頃)に起源があるものと推測されています。明治になって岐阜方面から「春香」「藤吉」という二人の下絵師がやって来て、五月幟(武者絵幟)・野幕(野外で宴会等をするときに周囲に張る幕)等の下絵および江戸絵を書き残しました。これらの絵を原型として色分けし、呉汁、大豆の汁等を用いて雨などにも剥げない幟が染められるようになりました。

製造工程
綿布地に下絵を描き、糊付けします。染色して押さえ、糊を落として乾燥させ、上絵付けをします。

津島祭礼太鼓

沿革・特徴
津島市の太鼓づくりの起源は、約1470年前の津島神社の創建に由来するものと思われます。現存する最古の太鼓は、平安時代末期に作られており、現在唯一の太鼓づくりを行っている堀田新五郎商店も25代以上続いています。津島祭礼太鼓の特徴は、牛皮のなめし方にあります。他の多くの産地が、薬品により皮なめしを行うの対し、堀田新五郎商店では、昔ながらに、室を作り、雑菌発酵により皮なめしを行います。このため、太腹の胴に弾力性のある太鼓皮を貼ることができ、雄大でずしっと響く鳴音が得られます。神社、寺院の儀典用に、また、祭り嚇子用として、多種多様な太鼓が生産されています。

製造工程
胴作り→太鼓の大きさに応じ原木を切断し、胴の中を刳り貫きます。また外側を削ります。乾燥させ、歌口を仕上げて塗装します。
革作り→皮をなめして処理します。仮張り、本張りをして鋲を打ち、縁切りをして仕上げます。

主な製品
胴長太鼓、桶胴太鼓、祭礼用締太鼓、火焔太鼓

津島祭礼太鼓

沿革・特徴
津島市の太鼓づくりの起源は、約1470年前の津島神社の創建に由来するものと思われます。現存する最古の太鼓は、平安時代末期に作られており、現在唯一の太鼓づくりを行っている堀田新五郎商店も25代以上続いています。津島祭礼太鼓の特徴は、牛皮のなめし方にあります。他の多くの産地が、薬品により皮なめしを行うの対し、堀田新五郎商店では、昔ながらに、室を作り、雑菌発酵により皮なめしを行います。このため、太腹の胴に弾力性のある太鼓皮を貼ることができ、雄大でずしっと響く鳴音が得られます。神社、寺院の儀典用に、また、祭り嚇子用として、多種多様な太鼓が生産されています。

製造工程
胴作り→太鼓の大きさに応じ原木を切断し、胴の中を刳り貫きます。また外側を削ります。乾燥させ、歌口を仕上げて塗装します。
革作り→皮をなめして処理します。仮張り、本張りをして鋲を打ち、縁切りをして仕上げます。

主な製品
胴長太鼓、桶胴太鼓、祭礼用締太鼓、火焔太鼓

名古屋仏壇

製品
沿革
元禄8年(1695年)、高木仁右ヱ門がこの地に仏壇専門店「ひろや」を創業したのが始まりとされています。東本願寺造営に参加した優れた職人たちが、良材「木曽檜(ひのき)」を用いて仏壇工芸を発展させ、今日の基礎を形成しました。

特徴
宮殿御坊造(くうでんごぼうづく)りを代表とする豪華な構造と、台の部分が高く、「みつまくり」を備えていることが特徴とされています。水害から仏壇を守るとともに、台の中に諸仏具を配置、収納するための生活の知恵の結晶です。

製造工程
八職(はっしょく)と称する専門職(木地(きじ)師、宮殿(くうでん)師、彫刻師、錺金具(かざりかなぐ)師、塗(ぬり)師、蒔絵(まきえ)師、箔押(はくおし)師、組立師)による合作である。図で示すと次のとおりとなる。
製造工程図

主な製品
仏壇

伝統的工芸品指定
指定年月日 第6次指定 昭和51年12月15日

名古屋桐箪笥
沿革
約420年前、名古屋城の築城に携わった職人たちが城下町に定着し、箪笥や長持を製造したのが始まりといわれています。材料となる飛騨桐(岐阜県)の産地に近く、良材が容易に入手できたことも、その発展を大きく促しました。

特徴
他産地のものと比べて幅が広く、くぎはヒバ製あるいはこれと同等の材質のものを用いるところに特徴があります。湿気を防ぎ、熱を通さない、狂いが少ない高級品として有名です。

製造工程
大まかに造材、木取り、狂い直し、加工、加飾、金具付け等に分けられ、130余の工程を一人の職人で作ります。桐無垢板(きりむくいた)を使用し、各部材の接合は伝統的な組み接ぎ法を用い、仕上げにかるかやの根を束ねたうずくりを用いて磨き、やしゃぶし液に砥粉(とのこ)を混ぜた液で着色した後、ろうで磨きます。

主な製品
総桐 中開箪笥・昇箪笥・衣装箪笥・小袖箪笥・帯箪笥・総桐チェスト

伝統的工芸品指定
指定年月日 第15次指定 昭和56年6月22日

名古屋友禅

沿革
尾張藩主徳川宗春(とくがわむねはる)の頃(1730~1739年)に、京都、江戸などから友禅師が往来し、その技法が伝えられたことに始まります。しかし宗春失脚後、質素倹約が励行されるようになり、模様の配色も色数を控えたものへと移行しました。

特徴
当地方の土地柄を反映して、単彩濃淡調の色使いのなかに幽玄さを秘めた”渋(しぶ)”さを特徴としています。

製造工程
手描友禅:白生地を仮絵羽縫(かりえばぬい)し、青花液(あおばなえき)で下絵を描き、色挿しをします。挿した色を定着させるために蒸した後、模様部分に伏糊(ふせのり)をして地色を引染し、再び蒸して水洗し、最後に箔置(はくお)きなど彩色仕上(さいしきしあげ)をします。
型友禅:白生地を友禅板に張り付け、伊勢型紙などを使用して柄付けをします。柄付け後、模様部分に伏糊をし、地染を行い、蒸した後水洗して仕上げます。

主な製品
訪問着、留袖、着尺地他

伝統的工芸品指定
指定年月日 第18次指定 昭和58年4月27日

名古屋黒紋付染

沿革
慶長15年(1610年)、尾張藩士小坂井家が、藩内の旗、幟(のぼり)などの製造にあたったことが始まりといわれています。その後、現在につながる紋型紙板締めの技法が生み出されました。

特徴
染色方法には、浸染(ひたしぞめ)と引染(ひきぞめ)の二種類があります。浸染では、紋型紙を使用し、家紋の形を染め抜きます。染液の温度を高めにし、時間をかけて染めるため、堅牢度(けんろうど)の高い黒色が得られます。引染では、黒の色艶の優れた「トロ引黒染」または「三ッ引黒染」の技法を用いることに特徴があります。

製造工程
浸染では、生地に紋型紙を貼り、それを生地の両面から紋当金網(もんあてかなあみ)で押さえて締付け、下染めをした後、黒の染料液に入れて染め上げます。引染では、紋の部分に伏糊をして、「トロ引黒染」や「三ッ引黒染」技法で、刷毛(はけ)を使用して染め上げます。最後に白く残った部分に紋章を手描きで入れて完成となります。

主な製品
着尺地、羽尺地

伝統的工芸品指定
指定年月日 第18次指定 昭和58年4月27日

木桶

沿革・特徴
桶の発祥は古く、古事記に天の岩戸の前で天鋼女(あまのうずめの)命(みこと)が桶の上で舞ったと記されています。名古屋においても富岳三十六景「尾州不二見原」に描かれているように、江戸時代には、尾張藩所領の木曽椹(さわら)を用いて桶の製造が盛んにおこなわれました。旧桶屋町には、藩御用達の桶職人が多く住んでいたといわれます。
かぐわしい木の香り、木目の美しさ、感触の良さなどが木桶の持ち味です。

製造工程
木取りをして乾燥させる。外鉋・内鉋をかけ、正直突き・糊付し、仮輪をして再び内外鉋かけをし、溝掘りの後に輪入れ・底入れをして小口仕上げをします。

主な製品
寿司飯切、櫃等

木桶

沿革・特徴
桶の発祥は古く、古事記に天の岩戸の前で天鋼女(あまのうずめの)命(みこと)が桶の上で舞ったと記されています。名古屋においても富岳三十六景「尾州不二見原」に描かれているように、江戸時代には、尾張藩所領の木曽椹(さわら)を用いて桶の製造が盛んにおこなわれました。旧桶屋町には、藩御用達の桶職人が多く住んでいたといわれます。
かぐわしい木の香り、木目の美しさ、感触の良さなどが木桶の持ち味です。

製造工程
木取りをして乾燥させる。外鉋・内鉋をかけ、正直突き・糊付し、仮輪をして再び内外鉋かけをし、溝掘りの後に輪入れ・底入れをして小口仕上げをします。

主な製品
寿司飯切、櫃等

名古屋扇子

沿革・特徴
名古屋扇子は、宝暦年間(18世紀中頃)に京都から現在の西区幅下あたりに移住してきた井上勘造父子によって始められたとされています。名古屋は京都と並ぶ産地として知られ、京扇子が高級な婦人物を主としているのに対し、名古屋扇子は、白扇など実用的な男物を主体として発展してきました。

製造工程
竹→胴切りをし、割竹せん引をする。あてつけ(扇骨成型)し、白干しし、磨き・塗りをして要を打ち、末削(紙の間に入る扇骨を薄く削る)をします。
紙→紙合わせをして箔押し・上絵付けをし、折り・中差しを経て中付けをします。

主な製品
男扇、女扇、舞踊扇、飾扇

名古屋提灯

沿革・特徴
提灯の歴史は、古く室町時代にさかのぼるといわれ、江戸時代には盆供養に提灯を使う風習が生まれ、盛んに作られるようになりました。小田原提灯、岐阜提灯などが有名ですが、名古屋提灯も歴史の古い業者が多く、又、和紙を通しての柔らかな光が欧米人にも好まれました。明治初期には貴重な輸出品として全国一の生産を誇った時期もありました。現在では、盆提灯・観光土産提灯などが主に生産されています。

製造工程
提灯の木型に型油をつけて木型を組みます。木型の上、下に中輪(張り輪)をはめます。組んだ木型にヒゴ(提灯の骨)巻きをします。巻いたヒゴに糊(生麩糊)を打ちます。次に提灯用の紙(主に和紙)を貼ります。よく乾燥させてから提灯を木型から外して丁寧に畳み、検品をして各種付属品を付け、仕上げをします。

主な製品
盆提灯、装飾提灯、宣伝提灯、ランプシェード

木魚

沿革・特徴
木魚の始まりは、寺院の中で大衆を集める合図として木製の鳴り物が用いられたことです。それがやがて魚形になり、現在の木魚となりました。魚形となったのは、中国の故事に基づいています。現在、日本国内で木魚を手作りしているのは一宮市とその周辺のみで、明治時代に京都で修行をした職人が始めたものです。

製造工程
原木の丸太から木取り・孔堀りをして室内乾燥させます。彫刻・磨仕上げ・着色をして仕上げ、最後に音付けをします。

主な製品
木魚

名古屋節句人形

沿革・特徴
名古屋節句人形の歴史は古く、天明年間(18世紀)頃の「名府年中行事」によると、玉屋町(現在の名古屋市西区)と諸町に雛人形市が立っていたことが記されており、このことから江戸時代後期には相当数の業者が存在したことが推測されます。
明治に入って、東京から職人を招いたことにより、技術が向上し、全国有数の生産地へと成長しました。さらに戦後には分業制が確立しました。

製造工程
着付→藁の芯に紙を巻き、綿で肉付け胴・腕を針金で通します。着物を仕立てて着せ、手足を付け、腕を折ります。
顔 →石膏で原型を作り桐塑で色を塗り、嵌めたガラスの目を彫刻刀で掘り出し眉・口を描きます。
髪結→顔の縁に溝を彫り髪を貼り付け、束ねて結っていきます。
手足→手の平を木で作る。指を針金で作り、胡紛を塗って乾かした後に彫刻等で彫ります。

主な製品
雛人形、五月人形、市松人形、尾山人形

戸部の蛙

沿革・特徴
今から約400年前、戸部城主・戸部新左衛門という乱暴な殿様がいました。外出の折、面前を横切るものは、なんでも無礼打ちにしていました。ある日、新左衛門の面前を一匹のトノサマガエルがさっと横切りました。お供衆は息を飲んだが乱暴な新左衛門も、その蛙の飛ぶ速さに心を奪われ、蛙は命拾いしました。それから誰ともなく、“山崎(現在の名古屋市南区)越えたらとべ、とべ”と洒落るようになったとのことです。こうした言い伝えから、“命拾いをして無事にカエル”といった願いを込めて、瓦職人が粘土で蛙を作って焼き、それを笠寺観音の参道に並べて売った土産物が、戸部の蛙の始まりだとされています。

製造工程
人形の形をした原型に土を張り付け、乾燥したら二つに割って枠を作ります。枠の中に土を詰めて原型と同じかたちの人形を作ります。乾燥させて素焼きをし、塗料で色をつけて仕上げます。

和凧

沿革・特徴
凧は中国から伝えられたといわれ、承平年間(10世紀)の「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に初めて凧が紙老鵬の名で紹介されていますが、名古屋には江戸中期に参勤交代や行商人の手によって江戸から普及したと推察されています。正徳2年(1712年)柿の木金助が大凧に乗って、名古屋城の金の鯱ウロコを盗んだ有名な事件以来、名古屋城下では大凧上げが禁止され、そのせいか昭和の現代でも愛知県下では大凧が作られていません

製造工程
和紙を乾燥させ染色し、竹をはりつける。また乾燥させ、ふちどりをして糸目を付けます。

主な製品
角凧、奴凧、蝉凧、六角凧

神棚・神具

沿革・特徴
名古屋市港区は熱田神宮、伊勢神宮に近いという地理的条件に加え、古くから城下町名古屋には堀川が木曽木材の集積地であったことから、周辺には、木材問屋、桶、セイロなどの木製品製造業者が数多くあり、神棚・神具も製作されていました。内祭用(家の中)神棚の製造業者が多く、昭和30年代までは箱型、神明づくり、奥屋違い三社などの昔ながらのものに人気がありました。現在ではインテリア化したものがよく売れるとのことです。

製造工程
荒木取・木取小割をして部品を作ります。塗装、組立、金具の取り付けをします。屋根・胴・台をそれぞれ仕上げ、組み立てます。

主な製品
神棚、社殿、神具、みこし

名古屋和蝋燭

沿革・特徴
和蝋燭は、仏教の伝来とともに中国からその製法が伝えられたといわれています。名古屋へは、17世紀後半に福島県会津地方より伝授されたとされています。
和蝋燭は、櫨(ハゼ)の実を搾った木蝋と草の芯、和紙を原料としています。植物性のため、洋蝋燭と比べ油煙が極めて少ない、風が吹いても炎が消えにくいなどの特徴があります。
また、灯芯のまわりに何回も塗り重ね太くしていくため、蝋燭の断面は、ちょうど木の年輪のようになっています。

製造工程
い草の芯(灯芯)に和紙で芯巻きをし、芯に棒を差し込みます。蝋つけをして下地ぬり・上地ぬりの後、頭部切り・下部切りをして完成させます。

主な製品
白蝋燭、朱蝋燭、金蝋燭、銀蝋燭

錺工芸品

沿革・特徴
金銀細工を行う錺(かざり)職は、名古屋ではかなり古くから行われていたようです。名古屋は昔から仏壇の産地として知られてきました。仏壇づくりは仏壇八職といわれるように、木地、宮殿、彫刻、塗り、内金物、外金物、蒔絵、箔押しの八種類の部分が組み合わさって作られ、それぞれに専門の職人がいます。そのうちの内金物、外金物を総称して錺金物と呼んでいます。ただし、錺金物としては、仏壇のほかにも仏具、神具、寺物、祭の御輿や山車などの装飾用金具・金物などを作っている人もいます。

製造工程
下絵を基に銅板に墨入れをします。彫り(柄)入れをし、魚々子打ちをします。形の沿って切断し、本金・鍍金(めっき)等の処理をして仕上げます。

主な製品
神仏具、祭車・山車、建築金具などの装飾用の錺金具

常滑焼

沿革
日本六古窯の一つに数えられ、その起源は平安末期にまでさかのぼります。古来より大瓶・大壼などの日用雑 器が有名です。桃山時代には茶道具、江戸時代には、この地で産出する鉄分の多い陶土の性質を巧みに生か した朱泥焼(しゅでいやき)や白泥焼(はくでいやき)、火色焼(ほいろやき)を作り、今日の基礎が築かれました。

特徴
歴史が物語るように、豊富で良質な陶土(とうど)の性質を生かして、多種多様な製品が生産されています。なかでも、粘土に含まれている鉄分を赤く発色させることにより生まれる朱泥は、常滑焼の代表作として有名です。

製造工程
ろくろ成形、押型成形または手ひねり成形により成形した後、常滑焼独自の素地磨き削りを行い、加飾(かしょく)、施釉(せゆう)を経て焼成します。無釉製品の場合は焼成後、羽毛で磨きをかけ、艶を出して完成します。

主な製品
茶器、花器、酒器、置物、植木鉢

伝統的工芸品指定
指定年月日 第5次指定 昭和51年6月2日

知多木綿

沿革・特徴
知多木綿の歴史は江戸初期に始まったと伝えられています。初期には生白(きじろ)木綿として生産され、伊勢から江戸に送られていました。その後、江戸中期の天明年間(18世紀)に旧岡田村(現在の知多市)の中嶋七右衛門らが晒(さらし)技術を導入して以来、『知多晒』としての名声が高まりました。

製造工程
白木綿糸を草木染で染め(紺色は業者より)、手作業にてタテ糸を機にセットし、手織りで布とします。布もしくは手作りで製品を加工します。

主な製品
手織り知多木綿(手作り製品)

乙川人形

沿革・特徴
江戸・天保15年頃、飛脚屋をしていた杉浦伊佐衛門が京都伏見から、人形製作技術を学んできてこの地で始めました。材料の粘土が採出できたことや、販売路の便により盛えました。しかしながら、次第に雛人形など豪華なものが好まれるようになり、現在では土人形はほとんど製作されなくなりました。また、昭和29年頃に、元来の手作りから鋳込式へと製作方法が変化しました。

製造工程
キブシ(粘土)を鋳込み、型抜きをします。接合面の調整をして、天日で乾燥させ、釜入れをし塗装します。

主な製品
招きネコ、ダルマ、天神牛

三河仏壇

沿革
文献によると元禄17年(1704年)、矢作川(やはぎがわ)から運ばれる松、杉、檜(ひのき)などの良材と、三河北部の漆(うるし)を材料として、仏壇師庄八家(しょうはちけ)が製造したのが始まりといわれています。

特徴
三河地方では仏壇を押入れに安置する習慣だったため、押入れに合わせた高さ、奥行、幅と、その条件の下でいかに豪華に見せ、かつ拝みやすくするかに工夫が凝らされてきました。そのため台は低く、なげしは「うねり長押(なげし)」となっています。

製造工程
八職(はっしょく)と称する専門職(木地(きじ)師、宮殿(くうでん)師、彫刻師、錺金具(かざりかなぐ)師、塗(ぬり)師、蒔絵(まきえ)師、箔押(はくおし)師、組立師)による合作である。図で示すと次のとおりとなる。
製造工程図

主な製品
仏壇

伝統的工芸品指定
指定年月日 第6次指定 昭和51年12月15日

岡崎石工品

沿革
天正18年(1590年)、岡崎城主田中吉政が、城下町の整備のために河内・和泉の石工を招いたのが始まりといわれています。近くの山から良質の花崗岩がとれたこと、矢作川(やはぎがわ)を利用して重い石燈籠(いしとうろう)を江戸・大阪まで運ぶことができた、などの好条件によって繁栄しました。

特徴
神社仏閣の燈明(とうみょう)用として生まれた石燈籠が庶民の暮らしの中に取り入れられ、夜道を照らす常夜燈(じょうやとう)や庭園装飾用へと用途を広げていきました。現在、「立燈籠型」「雪見型」「鉢物」などの庭燈籠が盛んに作られています。

製造工程
代表的製品である立燈籠は、岡崎花崗岩を原料として、さしがね等を用いて墨出しをし、コヤスケ、ノミ、タタキ、ビシャン、小ベラ等の道具を使って仕上げ、下から地輪、柱、受、火袋、笠、玉と乗せ上げて据え付けます。

主な製品
燈籠、多重塔、鉢物

伝統的工芸品指定
指定年月日 第12次指定 昭和54年8月3日

草木染

沿革・特徴
日本には古来から化学(合成)染料を一切使わず 植物などの天然染料のみで染色した「草木染」がありました。岡崎市の「草木染工房 しかり」では草木染の普及活動のため、製作や市民講座に取組んできました。

製造工程
染料を煮出し、布に糊を置きます。刷毛で染液や天然発色・定着液を塗ります。その工程を染めるものに応じて何度も繰り返します。

主な製品
天然染料で染めたもの(繊維・紙・木等)

鬼瓦

沿革・特徴
高浜市・碧南市は矢作川の下流域にあり、鉄分が多く粒が粗いという瓦に適した良質な粘土が 採掘されたこと、船便による搬送ができたことから「三州瓦」の産地として発展してきました。 鬼瓦は奈良時代に建物の安穏を祈って飾られるようになったものですが、なぜ三州地域で生産さ れるようになったのか確かな記録は残っていません。また東三河地域においても古くから良質の 粘土が産出し、鬼瓦が作られています。

製造工程
型紙を粘土の上にのせ、輪郭に合わせて粘土を切り取り鬼瓦の原型を作ります。表面に側面を 張り付け、雲などの模様を付け土をします。乾燥させ、約1130度前後の高温で焼成します。

主な製品
鬼瓦

鶴城焼

沿革・特徴
地元の土をおりまぜ、あな窯で焼かれた自然釉の焼き物です。「鶴城」とも呼ばれた西尾城の名 にちなみ、鶴城焼と呼ばれています。時を経て使い込まれながら、次第に深みが増してきます。 他にも生活の場にあって食を演出し暮らしに潤いを与える斬新な器や、つや消しの皿、陶壁など、 多彩な作風があります。

製造工程
粘土を杯土し、乾燥させます。下絵付けの後、釉薬を施し焼成します。

主な製品
抹茶茶碗、花器、水差し

三河の一刀彫

沿革・特徴
三河の一刀彫は、寺院彫刻などを行っていた初代の神谷重春氏が昭和20年ごろに始め、現在は、2代目の健司氏が中心となって製作しています。
三河の一刀彫は、三河地方に伝わる文化や伝統芸能である三河万歳を題材にした物が多く、奴さん、吉良の仁吉、郷土三英傑、翁、高砂など作品は多彩です。
紅松や五葉松を用い、木の肌を最大限生かし、大胆かつ粗削りな手法で形をとらえていく鋭いノミ味が強調されています。

製造工程
製材を荒彫りし、仕上て彩色します。彩色の無い場合も有ります。

主な製品
一刀彫三河万歳など

木地製品

沿革・特徴
文徳(もんとく)天皇(827~858年)の第1皇子惟喬(これたか)親王(844~897年)が、近江国小椋庄に住んで、轆轤(ろくろ)の使用を教えたのが木地師の始まりと伝えられています。
木地師は良木を求めて諸国の山中を歩いては、木地製品の製作にあたりました。愛知県では、段戸山系に木地師が多くいましたが足助でも東部地区を中心に幾多の木地師が活躍していました。

製造工程
丸太を製材し、木地にまるめて乾燥させる。中挽きして再び乾燥させ、仕上げ挽きをします。

主な製品
盆、菓子器、なつめ、銘々皿

奥三河木地

沿革・特徴
文献では天保5年(1834年)に古橋源二郎が美濃屋木地店を創業していることが明らかとなって おり、それ以前から多くの木地師が在住していたと思われます。
カシ、トチ、桜、松等の素材を使い、伝統的な荒挽き、中挽き、仕上挽き等の技法により茶器・ 花器等を生産していましたが、大正以降は次第に衰退していきました。現在はわずかな生産者た ちが昔ながらの製法で食器・盆等を作っています。

製造工程
材料の木取りをして乾燥させ、荒掘りをして仕上げます。

主な製品
盆、菓子器等

釣竿・弓矢

沿革・特徴
釣竿は、三河地方にすぐれた竹材があったため、従来から足助では盛んに作られていました。
弓矢は、徳川家康が出身地の三河の農民に武芸奨励をしたことから弓道が盛んになったこと、また、材料の竹材もすぐれていたことから盛んに作られるようになりました。足助では、各お宮や寺に矢場がたくさんあったとのことです。
現在のいろは竹工所は、初代の鈴木庄五郎氏が明治年代に釣竿や弓矢を趣味で製作していたことが始まりで、氏が従来の長継竿から小継竿に改良しました。

製造工程
竹を火でのばし、削り、糸巻をして、うるしを塗り仕上げます。

主な製品
釣竿、矢

やはぎの矢

製品
沿革・特徴
明治3年、静岡県三ケ日にて矢師となった初代小山嘉六に始まり、伝統的な手法により代々竹矢の製造に取組んできました。70もの製造工程を持つため、完成までに2年の歳月を要すると言われています。現在は、流鏑馬神事を始めとした各神事で使用されています。

製造工程
竹を切り出し、熱して柔らかくして竹の曲がなくなるまでしごきます。小刀で削り、再び焼いて真直ぐにします。砂で擦って小刀の削りめを取り、焼き色をつけて砂と水で磨きます。仕上げ砥ぎをして、最後に銃身が揃うように鉄粉を混ぜた松脂を焼け火箸で矢竹の端に入れ込みます。

主な製品
竹矢

和紙

沿革・特徴
足助の和紙は「三河森下紙」と呼ばれる純生漉和紙です。農家の冬場の仕事として、女性ではなく男性が漉いていたのが足助の特徴と言われています。丈夫な紙で2枚漉きに特徴があり、主に障子や番傘の紙に用いられました。現在では番傘や、足助名物の行灯たんころりんにも使われています。

製造工程
コウゾの黒皮を除き、繊維をほぐす。繊維を流水で冷やしながらアク抜きをして塵やごみを取り除きます。コウゾを細かい繊維に分解し、トロロアオイを加えて漉舟に溶かし、繊維を漉きながら厚みを加えていきます。紙漉きを終えたものを圧搾工程で水分を取り除き、乾燥させます。

主な製品
和紙

一閑張

沿革・特徴
旧小原村(現豊田市)は、古くから三河漆の産地でした。三河漆は日光東照宮にも使われたといわれる良質なものでした。それに着目したのが工芸家藤井達吉で、昭和9年に名古屋の安藤政太郎とともに、小原和紙の紙漉き職人に一閑張りの技術を伝えました。その後、昭和20年から藤井氏が本格的な指導を開始し、弟子の安藤則義氏から様々な工夫が加わり今日に至ります。

製造工程
和紙を漉き紙に加工する。曲ものや木地の型を作り、紙貼りをして紙を漆器に加工します。

主な製品
茶器、重箱、皿、盆

土人形

沿革・特徴
以前、愛知県の三河地方の農家では冬の間に土人形を作って生計の足しにしていました。人形作りは江戸時代から始まり、明治時代の初めから村歌舞伎が庶民の娯楽として人気があった碧南地区では、歌舞伎人形もよく作られたといいます。その土人形はおぼこと呼ばれ、武者や飾り雛など素朴なつくりに色鮮やかな彩色を特徴とした人形が作られました。また豊橋でも、乙川土人形の杉浦家親戚にあたる杉浦幸次郎氏により赤天神などがつくられました。

製造工程
原型をつくり、土の調製をします。型ぬきをし、乾燥させます。焼成して彩色仕上げをします。

主な製品
おぼこ、赤天神

三将馬

沿革・特徴
昭和53年、安城の人形師野村嘉雄氏は、愛知県ゆかりの民芸品を作ってほしいという依頼を受けて歴史を研究し、郷土にゆかりの深い三英傑の愛馬を「三将馬」として製作しました。素材には、三英傑にゆかりの深い土地である美濃の和紙、小原村の手漉き和紙を用い、丹精込めて作り上げられています。

製造工程
生地をぬき、胡粉を塗ります。和紙を貼り、飾付をして仕上げます。

三将馬

沿革・特徴
昭和53年、安城の人形師野村嘉雄氏は、愛知県ゆかりの民芸品を作ってほしいという依頼を受けて歴史を研究し、郷土にゆかりの深い三英傑の愛馬を「三将馬」として製作しました。素材には、三英傑にゆかりの深い土地である美濃の和紙、小原村の手漉き和紙を用い、丹精込めて作り上げられています。

製造工程
生地をぬき、胡粉を塗ります。和紙を貼り、飾付をして仕上げます。

きらら鈴

沿革・特徴
西尾市内の八ツ面山では良質な雲母(うんも)が奈良時代から産出していました。明治初期、雲母発掘人夫が山で生き埋めになり、誰ともなく木の枝に鈴を下げ、その霊をなぐさめました。このことから、当時、雑器を製造していた陶芸家加藤熊蔵氏が「きらら鈴」を作りました。三河瓦土の雲母をちりばめたきめ細かい地肌の鈴で、ころころと人懐こい音色がします。

製造工程
山土から陶土を調合し、手ひねりで成型して仕上げます。乾燥させ、素焼きし絵付けをします。

五月武者絵幟

沿革・特徴
かなめ染め武者絵幟は、江戸時代中期に職人の町・三河国土呂(現在の岡崎市福岡町)の地で誕生しました。かなめ本染めは、今なお熟練の職人により全て手づくりされ、下絵も含め、変わらず受け継がれています

製造工程
綿布地に下絵を描き、糊付けします。染色して押さえ、糊を落として乾燥させ、上絵付けをします。

主な製品
鯉のぼり、武者絵幟

ちゃらぼこ太鼓

沿革・特徴
「ちゃらぼこ」とは太鼓のリズムを口で言い表したものです。ちゃらぼこ太鼓はこの地方独特の祭り囃子で演奏される太鼓です。「ちゃらぼこ」の歴史については、いろいろな説があります。蒲郡などの海沿いの地域では南の海から伝わったと言われ、安城市辺りでは東海道から京都のものが伝えられたとされています。小〆太鼓・コンコロ太鼓があり、この太鼓を作る技術があるのは地域性の強い楽器なだけに、この地方の太鼓屋にしかありません。

製造工程
胴作りをし、皮作りをして皮張りをします。

主な製品
各種和太鼓

しめ縄

沿革・特徴
しめ縄には、御霊を宿す神聖な境・領域を他と区別するために奉り、周囲の汚れを清め、災いなどの侵入を防ぐと言う意味があります。わらをなった縄に、縁起が良いとされる飾り物を付けます。岡崎におけるしめ縄の生産は、明治20年代前半、伊勢神宮へ参拝した石川米吉氏が神宮のしめ縄を参考に開発したことに始まります。生活様式の変化により、従来に比べ生産量の減少は否めませんが、一方で手づくり、本物志向が注目されています。

製造工程
稲わらを作り、縄にないます。飾り付けをして仕上げます。

主な製品
しめ縄

三州岡崎和蝋燭

沿革・特徴
天文~永禄年間(16世紀中頃)、ハゼの木の実からとれる「木ロウ」を原料として和蝋燭(木蝋燭)が製造されるようになりました。江戸時代に入り、和蝋燭の需要は急伸し、各藩において重要な産業となり、各地にロウソク問屋ができました。
岡崎においても、仏壇、石工品とともに主要な産業となっておりましたが、明治になり西洋ロウソクの普及に伴って問屋数も減少し今日に至りました。しかし現在でも、「あかり」として仏事を始め寺院・茶道・記念行事等幅広い用途に用いられ、根強い需要があります。

製造工程
灯芯に木蝋を付けて乾燥させます。削り、下掛け塗りをしてカンナで削り乾燥させます。再び上掛塗りをして、上部切り・下部切りをして完成させます。

主な製品
和蝋燭

三州灯篭

沿革・特徴
文献によれば、鎌倉時代中期・正応2年(1289年)に、河内国丹南郷から安藤三郎九郎親重が、長子国近及び従弟を率いて冗了恵上人とともに岡崎管生の郷に移住し、由緒ある鋳物師として梵鐘や仏具などを鋳造したのが始まりです。大正年代まで、安藤氏の子孫が携わっており、昭和初期には、8軒の事業者に数百名の従事者がいたとのことです。
蜜ろうを使用し、細かい彫刻が可能なことが特徴で、現代でも、昔ながらの技法で製作しています。

製造工程
原型を制作し、次に鋳物を制作します。鋳造して、表面を削って仕上げ着色します。

主な製品
灯篭、庭置物

豊橋筆

沿革
文化元年(1804年)、京都の鈴木甚左衛門が、吉田藩(豊橋)から招かれ製造したのが始まりといわれています。下級武士の副業として取り入れられたことと、穂首の原材料となる狸(たぬき)、いたちなどの獣毛が容易に入手できたことなどから、産地として発展しました。

特徴
原材料の混毛に、水を用いて交ぜあわせる「練(ね)りまぜ」の工程を用いることに、豊橋筆最大の特徴があります。この工程により生み出される、”墨含みが良く、墨はけが遅く”使いやすい筆は、高級品として有名です。

製造工程
約36の筆作りの工程は、全部手作りで行われています。工程を大別すると、選別→毛もみ→寸切り→練りまぜ→上毛(うわげ)かけ→仕上げ→刻銘(こくめい)となります。一人の職人が一日に作る筆の数は細筆で50本、太筆で30本といわれています。

主な製品

伝統的工芸品指定
指定年月日 第6次指定 昭和51年12月15日

三河木綿・三河縞

沿革・特徴
織物の歴史は古く、縄文時代には、原始的な機織りの存在が想定されています。(石錘(せきすい)等の出土)江戸時代以前の文献には、藤づるを使用した機織りの記録がありますが、木綿織りがいつごろから三河地方で行われるようになったか定かではありません。現在は蒲郡市ルネッサンス事業として「手織場(てばたば)」が立ち上げられ、三河木綿・三河縞の復元と生産を行っています。

製造工程
綿打ちをし、糸をつむぎます。白糸を染色し機械で織ります。

主な製品
木綿反物

藍染

沿革・特徴
蒲郡で藍染めが始められたのは、約1600年前とのことです。当地が三河木綿の産地であったところから、全盛期には、一村に1軒の紺屋があったと言われています。
現在では、遠山順二氏(初代)が大正14年に開業した遠山正藍染織工場一軒となっており、二代目・守氏、三代目・二一氏とともに親子3代にわたって、伝統技術を守りつつ、時代にあった新しい商品の製作に力をいれています。
藍に染められた糸は丈夫で織られた着物は変色しにくく、着こなせば着こなすほど味が出ます。

製造工程
絹糸を藍染し、製品に加工します。

主な製品
藍染(糸染・布染)加工、藍染の糸
藍染の作務衣・のれん・テーブルクロス等

曲輪せいろ

沿革・特徴
ヒノキの薄板を丸く曲げ、底を付けたものは一般に“曲げもの”と呼ばれていますが、鎌倉時代には、すでにセイロなどに使われていました。
現在の豊川市内(旧音羽町)で製作されている曲輪セイロは、昭和初期に加藤金次氏が豊橋で技術を修得し、暖簾分けにより開業したのが始まりです。

製造工程
ヒノキの薄板を熱湯で曲げ、桜皮等で縫い合わせ、丸い底板を付けます。

主な製品
蒸器、とうし(ふるい)、ウラゴシ

天神様

沿革・特徴
三河地方では昔から、男の子が生まれると、知恵が膨らみますようにと、知恵の神様である天神様の人形を飾る風習があります。天神屋人形店の初代秦玉造氏が、土や泥を使って天神様の人形を作ったのが当地の人形作りの始まりです。
その後、時代の流れに沿って人形の作り方も変わり、いろいろな種類の人形が作られるようになりました。現在は4代目の孝司氏が、藁を使った胴と西陣織りの着物を使って人形作りを行っています。

製造工程
胴柄は金襴の裏打ちをし、裁断をして着物を仕上げます。胴に手足・着物を付け、振り付けをし、最後に顔を付けます。

主な製品
羽子板、破魔弓、お雛さま、天神様

三河張子(鐘鬼の面・おころりん)

沿革・特徴
「鐘鬼の面」は、江戸・文化年間(18世紀前半)に、初代の内藤助十氏が冬の農閑期に収入を得るために作り始めたもので、「鬼より恐ろしい鐘鬼さん」と呼ばれ、魔除けや、神様に病気の平癒を願う時に使われました。
3代目の滝三郎氏が始めた「おころりん」は、高さ7cmぐらいの赤い布で子供を包んだ小さな女だるまで、子どもが誕生すると丈夫に育つようにと買われていきました。これが三河目無しだるまの元祖といわれています。

製造工程
木彫原型に和紙を糊付けし、天日で乾燥させて型から外します。胡紛を塗り、面書きをして仕上げます。

小坂井の風車

沿革・特徴
宝飯郡小坂井町にある菟足(うたり)神社は、風に対する民間信仰をもとにした神社として祀られています。江戸時代から伝わる風車は、神社の例祭「風祭り」に由来しています。最初は菟足神社で売られていましたが、近郊の神社の祭礼でも売られるようになり、「三河の風車」とも呼ばれるようになりました。

製造工程
経木で羽根となる板を作成し俵の形にそろえます。型に組み、羽根中心部を留め、穴をあけます。羽根を黄色に塗り俵の絵を描きます。
幣手に穴をあけ、軸受けの女竹を打ち込みます。
最後に女竹にガラガラを差し込み、組み立てます。

張り子

沿革・特徴
豊橋市の安久美神戸神明社で、毎年2月10、11日には、鬼祭り」が行われます。神明社に伝わる神事で祭では荒ぶる神が「赤鬼」となり、武神が「天狗」となります。そして荒ぶる神と武神の、闘いが鬼祭りのメインイベント、「赤鬼と天狗のからかい」になります。祭礼に因んだ「天狗」の持つ薙刀(なぎなた)と「鬼」の持つ撞木(しゅもく)は玩具として鬼の面などとともに売られています。

製造工程
糊で和紙を数枚張り合わせ、木型に貼ります。乾燥させて木型を外し、着色して仕上げます。

主な製品
黒鬼面、薙刀、撞木

宮太鼓・締太鼓・平太鼓

沿革・特徴
江戸時代、幕府の政策により、東海道の街道筋の約十里毎に太鼓店が配置されたという言い伝えがあり、東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのことです。
小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治年代に始めたもので、現在でも6代目の正孝氏が昔どおり、すべて手作業で製作しています。現在でも浜松地区の様々な祭りに使われています。

製造工程
胴→材木を粗削りし、カンナで仕上げ、つや出しをします。
革→牛皮を水に濡らします。乾燥させ、締め置きをします。胴に革を張って完成させます。

鳳来寺石硯

沿革・特徴
鳳来時の硯は、鳳来寺山開山当時の約1300年前から作られていたと伝えられています。金鳳石、煙巌石、鳳鳴石の三種類があり、金鳳石がもっとも良質なもので当時の寺林から産出したことから、別名寺林石とも呼ばれていました。石は漆黒ですが、無数の金銀星(黄銅鋼、黄鉄鋼、褐鉄鋼、白鉄鋼などの結晶体)を有するため、仕上がったとき、美しく光り輝きます。

製造工程
地元の山で原石を採石し、ノミで手彫りします。砥石でみがき、うるし系塗料でつやを出し仕上げます。

主な製品
鳳来寺硯

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