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新潟県燕市買取NO1を目指しています!!高価買取エリア(骨董品・美術品)

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以下は買取エリアです、、、

人間国宝 玉川宣夫 経歴

1942年(昭和17年) 新潟県下田村生まれ。
1955年(昭和30年) 玉川堂五代目・玉川覚平の次男へ移籍
1959年(昭和34年) 秋田市立工芸学校を卒業後、玉川堂に入社。
1963年(昭和38年) 上京、人間国宝・関谷四郎氏に師事し、内弟子として2年間修業。
1969年(昭和44年) 日本伝統工芸展に初入選。
1982年(昭和57年) 日本伝統工芸展「NHK会長賞」受賞。文化庁お買い上げ。
1986年(昭和61年) 日本伝統工芸展「東京都知事賞」受賞。
1991年(平成 3年) 北欧巡回「伝統工芸名品展」に選抜出展
1997年(平成 9年) 初個展を開催。以降、5回開催。
2002年(平成14年) 芸術文化功績により「紫綬褒章」受章
同年、正倉院宝物「銀燻炉」の復元に貢献。
2005年(平成17年) ポーラ伝統文化振興財団主催「第25回伝統工芸ポーラ賞」受賞。
同年、新潟県燕市「芸術特別」表彰。
2006年(平成18年) 第1回新潟県伝統工芸展「大賞」受賞。
2010年(平成22年) 「重要無形文化財保持者(人間国宝)」認定。
同年10月5日、「燕市名誉市民」受称。

玉川堂

玉川堂(ぎょくせんどう)は、日本の金属加工業者の1つである。日本国内の地場産業として有名な新潟県燕市の金属加工業の中でも唯一、1枚の銅板を鎚で叩き起こして銅器を製作する「鎚起銅器」(ついきどうき)の伝統技術を二百年弱に渡って継承している老舗企業。銅に多彩な着色を施す技術は、世界でも玉川堂のみが保有している。世界最高品質の銅器を製造し、世界中に顧客を持つ。商号は「株式会社玉川堂」(GYOKUSENDO Co., Ltd. )。
ルイヴィトングループで、シャンパンの帝王と称されるクリュッグの六代目当主オリヴィエ・クリュッグと玉川堂七代目当主玉川基行が意気投合し、コラボレーションとしてクリュッグオリジナルのボトルクーラーを共同開発。仏日の高級レストランやバーで使用されるなど、日本の伝統工芸老舗企業としては稀な世界的ブランド認知の高さを誇る。

天田 昭次氏

天田昭次 ( あまた・あきつぐ ) 略譜本名 天田誠一現住所 新潟県新発田市月岡昭和2年8月4日 天田貞吉の長男として本田村本田 ( 現・新発田市 ) に出生
昭和15年3月 上京し、日本刀鍛錬伝習所 (所長・栗原彦三郎昭秀) に入門

昭和27年 講和記念刀を製作
伊勢神宮式年遷宮御神宝大刀製作に宮入昭平刀匠の助手として奉仕

昭和29年6月8日 文化財保護委員会より製作承認を受ける

昭和30年 第1回作刀技術発表会に出品、優秀賞を受賞

昭和32年 第3回作刀技術発表会に出品、優秀賞を受賞

昭和33年 第4回作刀技術発表会に出品、優秀賞を受賞

昭和34年 現状の作刀に疑問を感じ、自家製鉄の本格的研究を開始

昭和35年 闘病生活に入る

昭和43年 快復して作刀を再開。現住所に自宅・鍛刀所・製鉄所を移転
自家製鉄による作品を第4回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞

昭和44年 第5回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞

昭和45年 第6回新作名刀展に出品、名誉会長賞を受賞

昭和46年 第7回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞

昭和47年 第8回新作名刀展に出品、奨励賞を受賞。同展無鑑査に認定される
新潟日報文化賞を受賞
小形製鉄炉の研究で財団法人日本美術刀剣保存協会より第1回薫山賞を受賞

昭和48年 伊勢神宮式年遷宮御神宝大刀を製作奉仕
第9回新作名刀展に無鑑査出品。以後現在まで無鑑査出品
地元真木山遺跡の発掘・調査に際して指導と助言に当たる

昭和49年 新横綱北の湖の土俵入りの太刀を製作

昭和50年 新作名刀展審査員に任命される。以後現在まで審査員を務める

昭和51年 長谷川熊彦・芹沢正雄両氏と「自然通風炉による古代製鉄法復元実験」を共同研究、『鉄と鋼』に成果を発表

昭和52年 第13回新作名刀展に無鑑査出品、正宗賞を受賞
全日本刀匠会副理事長に就任

昭和53年3月14日 豊浦町無形文化財に指定される
3月30日 新潟県無形文化財に指定される

昭和60年 第21回新作名刀展に無鑑査出品、正宗賞を受賞

昭和61年11月 新潟大和にて「天田昭次作品展」を開催

昭和62年10月  第1回新作短刀小品展 (小刀の部) に出品、特選となる
〃      日本橋三越本店にて「天田昭次作刀展」個展を開催

昭和63年  文化庁主催美術刀剣刀匠技術保存研修会講師に任命される

平成2年   全日本刀匠会理事長に就任

平成3年  月岡カリオンパーク内 カリオン文化館(刀剣伝承館) 専用展示コーナー開設

平成4年  伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀を製作奉仕

平成7年  全日本刀匠会理事長を退任し、顧問に就任
財団法人日本美術刀剣保存協会理事長を退任

平成8年  新作刀展覧会に無鑑査出品、3度目の正宗賞を受賞

平成9年5月23日  重要無形文化財保持者 (人間国宝) に認定される

平成9年8月24日  豊浦町名誉町民の称号と町民章を授与される

平成11年11月   勲四等旭日小綬章を受章

平成15年7月  新発田市名誉市民の称号を贈られる

平成16年  新発田城復元完成記念太刀製作
新発田総鎮守諏訪神社 御神宝太刀製作

平成17年  伊勢神宮式年遷宮 御神宝太刀製作奉仕
新潟市歴史博物館・新潟日報社共催により、新潟市歴史博物館において
「人間国宝 天田昭次 鉄と日本刀展」開催
新潟県災害復興祈念「剣銘・不動丸」製作、県に贈呈

平成18年  横浜高島屋ギャラリー8階 NHK横浜開局80周年記念・重要無形文化財制度50年記念
「人間国宝展」において、脇差1作品を参考出品
新作刀展覧会 無鑑査出品

秋篠宮悠仁親王殿下 御守刀謹作
平成19年  新作刀展覧会 無鑑査出品, 文化庁主催「重要無形文化財 ・日本の技と美」展へ出品

財団法人 日本美術刀剣保存協会理事を退任

全日本刀匠会主催 第2回 お守り刀展覧会へ参考出品

平成20年  全日本刀匠会主催 第3回 お守り刀展覧会へ参考出品

〃  「千年の技と心 現代日本刀秀作展」へ参考出品

平成21年  〃  「現代日本刀秀作展」へ参考出品

新潟日報社 主催 「新潟が生んだ人間国宝展」(旧 大和新潟デパート特設会場)出品

トキめき 新潟国体 秋篠宮殿下同妃殿下より、カリオン文化館(刀剣伝承館)ご視察

平成22年  民主政権・内閣府認定・公益財団法人 日本刀文化振興協会・理事長を就任(約2年)

平成24年  〃  日本刀文化振興協会理事長を退任

平成25年  第62回 伊勢神宮 式年遷宮御神宝太刀を製作奉仕

平成25年6月26日 肺炎のため逝去

平成25年8月5日 新発田市主催 (教育委員会・式典 秘書広報課 ・観光振興課)

伊藤赤水
伊藤赤水(いとう せきすい)は日本の陶芸家であり、江戸後期から続く無名異焼窯元、赤水窯の代々が襲名する名称。弘化(1844年−1847年)に先祖にあたる伊藤甚兵衛が、佐渡特有の「無名異」と呼ばれる土を作陶に用いたのが無名異焼の創始である。2006年現在、五代伊藤赤水(1941年6月24日 – )が当代であり、2003年に人間国宝に認定されている。

五代略歴
新潟県佐渡郡出身。四代目赤水の長男として生まれた。本名は窯一。1966年に京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科を卒業後、三代である祖父に師事し無名異焼の技術を学ぶ。1972年に日本伝統工芸展に入選。以降、日本陶芸展、伝統工芸新作展等に入選。1976年に五代赤水を襲名。更なる技法の研究と錬磨につとめた。
1981年米国国立スミソニアン博物館、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館で開催された「日本現代陶芸展」に招待出品され、世界的にもその名が知られることとなる。1985年、日本陶芸展で最優秀作品賞である秩父宮賜杯を受賞。
1993年には、皇太子妃の成婚を祝し、新潟県から皇太子妃の実家である小和田家へ「無名異窯変壺」が祝い品として寄贈された。
2003年7月10日、工芸技術としての「無名異焼」が重要無形文化財に指定され、その保持者(いわゆる人間国宝)として伊藤赤水が認定された。色の違う土を重ねて巻きずしのようなものを作り、それを輪切りにした断面を並べて皿や壺の形を作る「練り上げ」という技法を用いる。独特な縞模様や花紋が伊藤赤水の特色である

市川正美 Masami Ichikawa

分野:金工
拠点:新潟県燕市
【略歴】
1948 新潟県分水町に生まれる
1981 彫金作家・鹿島一谷(人間国宝)に師事
1990 伝統工芸新作展「東京都教育委員会賞」受賞
1993 美術工芸振興佐藤基金「淡水翁賞」受賞
1994 日本金工展「東京都教育委員会賞」受賞
1999 伝統工芸新作展「東京都教育委員会賞」受賞
2002 正倉院宝物銀薫炉復元(彫金)
日本伝統工芸展「日本工芸会会長賞」受賞
2007 日本伝統工芸新作展「東日本支部賞」受賞
2008 日本伝統工芸展「日本工芸会奨励賞」受賞

佐々木象堂 ささき しょうどう

1882-1961 明治-昭和時代の鋳金家。
明治15年3月14日生まれ。初代宮田藍堂に蝋型(ろうがた)鋳造をまなび,工芸済々会に入会。帝展で「鋳銀孔雀(くじゃく)香炉」「金銅鳳凰(ほうおう)置物」が特選となる。戦後,日本伝統工芸展に出品。昭和35年人間国宝。昭和36年1月26日死去。78歳。新潟県出身。本名は文蔵

無名異焼
庵地焼
村松焼

無名異焼
無名異焼(むみょういやき)は、新潟県佐渡市で焼かれる陶器。
無名異とは酸化鉄を含有する赤土で、止血のための漢方薬でもあった。また、佐渡金山採掘の際に出土したため、その副産物を陶土に利用して焼かれた。文政2年に伊藤甚平が無名異を使って楽焼を焼いたのが始まりで、安政4年に伊藤富太郎が本格化させた。後に初代三浦常山が脆かった従来品を強くするため、朱紫泥焼の手法を編み出し、今日に至る。高温で焼き締めるために非常に固く、叩くと金属音のような音を出すのが特徴。2003年に重要無形文化財の指定を受け、同時に5代伊藤赤水が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
なお、無名異焼は佐渡以外にも、石見などで焼かれている。

庵地焼
庵地焼(あんちやき)は、新潟県阿賀野市保田、通称庵地(あんち)地区で焼かれている陶器である。
「庵地の黒」といわれるほど、黒色の釉薬に特徴がある。元々は江戸時代から続く“保田焼”(現在の「安田焼」とは異なる)が前身で、同地には昭和の初期、村山、旗野、田村、井上の諸窯があったが、旗野窯を除く各窯は第二次世界大戦を前後に絶えた。旗野窯は、1878年(明治11年)に村松焼(現五泉市)で修業した旗野直太郎が起こした窯で、甕、鉢、皿、碗、徳利、片口などの食器のほか、湯たんぽ、火鉢、植木鉢などの雑器を焼いた。旗野嘉山(嘉一)が継承し、3代目の旗野義山(義夫)が研鑽努力し民芸窯としての地歩を固めた。義山没後は実子の三姉妹が継いだ。
昭和初期には宮之原謙や佐々木象堂らが滞在して秀作を生み、その名が全国に響き渡った経歴を持つ。また、近年では2005年に津村節子が同窯をモデルに小説『土恋』を発表、話題をよんだ。

村松焼

村松焼(むらまつやき)は、天保12年(1841年)から明治25年(1892年)まで新潟県の村松藩の城下町村松(現・新潟県五泉市)で焼かれた陶器。天保13年(1842年)から文久2年(1862年)までの間、三回ほど藩営釜であった。製品はほとんど陶器であるが一部半磁器質も作られている。商品の主体は各種の日用品である。

上に書いてる人間国宝の作品や地元の焼き物など家や蔵に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

あおうづ
粟生津
あきばちょう
秋葉町
いずみしん
泉新
いちのやま
一ノ山
いどまき
井土巻
おいがしま
笈ケ島
おおかわづ
大川津
おおせき
大関
おおた
太田
おおたけしんでん
大武新田
おおふなと
大船渡
おおまがり
大曲

かねづか
庚塚
かみがわら
上河原
かみすわ
上諏訪
かみちごのき
上児木
かんしん
勘新
くがみ
国上
くまのもり
熊森
くらせき
蔵関
げんぱちしんでん
源八新田
こいけ
小池
こいけしんまち
小池新町
こくちょう
穀町
こじま
小島
こせき
小関
こたか
小高
ことぶきちょう
寿町
こなかがわ
小中川
こふるつしん
小古津新
こまき
小牧
ごせんごく
五千石
ごせんごくあらかわ
五千石荒川

さいわいちょう
幸町
さくらまち
桜町
ささまがり
笹曲
さぜん
佐善
さぜんむらしんでん
佐善村新田
さどやま
佐渡山
さわたり
佐渡
さんのうふち
三王渕
しもあおうづ
下粟生津
しもすわ
下諏訪
しもちごのき
下児木
しんえいちょう
新栄町
しんこうや
新興野
しんせいちょう
新生町
しんちょう
新長
しんまち
新町
じぞうどう
地蔵堂
じぞうどうほんちょう
地蔵堂本町
すいどうちょう
水道町
すぎな
杉名
すぎやなぎ
杉柳
すずめもり
雀森
すなごつか
砂子塚
せきさき
関崎
そまぎ
杣木

たかき
高木
たての
舘野
たなかしん
田中新
だいぼ
大保
ちゅうおうどおり
中央通
ちゅうじょうしんでん
中条新田
ちょうしょ
長所
ちょうしん
長辰
つぎしん
次新
つばめ

とのしま
殿島
とみなが
富永
とみながじゅうべえしんでん
富永十兵衛新田
どうきん
道金

なかがわ
中川
なかじま
中島
なかすわ
中諏訪
なかまち
仲町
ながわたり
長渡
にいぼり
新堀
にいぼりむらしんでん
新堀村新田
にかいどう
二階堂
にしまぎ
西槇
のなかさい
野中才
のもと
野本

はいがた
灰方
はくさんちょう
白山町
はちおうじ
八王寺
はなぞのちょう
花園町
はなみ
花見
ひがしおおた
東太田
ひのでちょう
日之出町
ぶつりゅうせんたー
物流センター
ぶんすいあけぼの
分水あけぼの
ぶんすいあさひまち
分水旭町
ぶんすいおおたけ
分水大武
ぶんすいがっこうちょう
分水学校町
ぶんすいこうよう
分水向陽
ぶんすいさかえちょう
分水栄町
ぶんすいさくらまち
分水桜町
ぶんすいしんまち
分水新町
ぶんすいひがしがっこうちょう
分水東学校町
ぶんすいぶんきょうちょう
分水文京町
ぶんすいむこうやま
分水向山
ぶんすいやよいちょう
分水弥生町
ほんちょう
本町

まきがはな
牧ケ花
まきがはなむらしんでん
牧ケ花村新田
まぎやま
真木山
まくじま
幕島
またしん
又新
まつはし
松橋
みぞ

みぞこしん
溝古新
みぞこしんむらしんでん
溝古新村新田
みぞむらしんでん
溝村新田
みなみ

みやちょう
宮町

やなぎやま
柳山
よこた
横田
よしだ
吉田
よしだあけぼのちょう
吉田曙町
よしだあさひちょう
吉田旭町
よしだあづまちょう
吉田東町
よしだかすがちょう
吉田春日町
よしだかんだちょう
吉田神田町
よしだかんまち
吉田上町
よしだがっこうちょう
吉田学校町
よしだこうのす
吉田鴻巣
よしだことぶきちょう
吉田寿町
よしださいわいちょう
吉田幸町
よしださかえちょう
吉田栄町
よしだしもなかの
吉田下中野
よしだしもまち
吉田下町
よしだしんでんまち
吉田新田町
よしだしんまち
吉田新町
よしだしんめいちょう
吉田神明町
よしだすいどうちょう
吉田水道町
よしだだいぼちょう
吉田大保町
よしだつつみちょう
吉田堤町
よしだなかまち
吉田中町
よしだにしおおた
吉田西太田
よしだはまくび
吉田浜首
よしだはまくびちょう
吉田浜首町
よしだひがしさかえちょう
吉田東栄町
よしだひのでちょう
吉田日之出町
よしだぶんきょうちょう
吉田文京町
よしだほっけどう
吉田法花堂
よしだほんじょ
吉田本所
よしだまつおかしんでん
吉田松岡新田
よしだまつおかちょう
吉田松岡町
よしだみやこうじ
吉田宮小路
よしだもとまち
吉田本町
よしだやはぎ
吉田矢作
よしだやよいちょう
吉田弥生町
よしだよしえい
吉田吉栄
よしだわこうちょう
吉田若生町
よつや
四ツ屋
よのうづ
米納津

わたべ
渡部

越後与板打刃物のあゆみ
● 410年くらい前
上杉謙信の四天王の一人、直江大和守実網が上越の春日山より、刀剣師を連れてきた時から刃物作りが始まったと言われています。

● 350年くらい前
徳川時代には城下町として、信濃川を利用する船便の港として栄えました。このころ、与板の大工道具は土肥のみ、兵部のみとして世に知れわたりました。

● 10年くらい前
昭和61年3月12日 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。指定品目は「かんな」「のみ」「まさかり」「ちょうな」です
■ 越後与板打刃物がさかんになったわけ
● 信濃川を利用する船便の港として栄えたとともに、豪商が全国各地に販売しました。

● 戦国時代からの刀かじが「刀剣」を作っていました。その技術が認められ、よくきれることで有名になりました。
■ 越後与板打刃物の原料
● 鉄(地金)

● 鋼

● 接合剤*
■ 越後与板打刃物(かんな)ができるまで
● 鍛造
鉄の地作り→接合剤を塗る→鋼をのせる→炉の中で加熱→スプリングハンマーでたたいて接合→切断→刃先、頭部分の形を整える→わら灰の中に一晩入れる

● 仕上げ
表面をみがく→刻印を打つ→模様をつける→くるいを取る→寸法を決める→鋼部分をみがく→全体にボカシを入れる

● 焼き入れ
800度に熱したかんなを水の中へ入れて冷やす。鋼が刃金になる。

● 焼き戻し
焼き入れの終わったかんなを油(170度位)の中で1時間位煮る。
■ 越後与板打刃物の課題と努力
● 後継者を育てるのに苦労しています。

● 高齢者が多い。平均年齢50才以上です。若い労働力を求めるために、平成9年4月をめどに労働時間を短縮し、週40時間にします。

● 販売を促進するため、各地で製造実演会を開催しています。

● 新製品の開発に力をいれています

燕鎚起銅器のあゆみ
● 220年くらい前
仙台より藤七という渡り職人が鎚起術を伝えました。(1764年~1771年頃)

● 190年くらい前
初代玉川覚兵衛は、やかん類の製造を始め、燕銅器の基礎を築きました。(1804年~1817年)

● 120年くらい前(明治時代)
三代目覚平の頃、京都をはじめ各地との技術交流が進み、日常銅器から美術工芸品として、国内外の博覧会に出品し受賞しました。四代目覚平が彫金や口打ち出し技法を開発し、美術工芸品としてさらに発展しました。

● 60年くらい前(昭和初期)
五代目覚平は昭和5年、横浜に工場を設けて、都内のデパートなどへ製品を販売しました。しかし、第二次世界大戦により一時かいめつ状態となりました。

● 40年くらい前
昭和33年「新潟県無形文化財」の指定を受けました。

● 15年くらい前
昭和55年、文化庁より「記録作成等の措置を構ずべき無形文化財」の指定を受けました。
昭和56年、六代目政男は二百年以上にわたる業を受け継ぎ、「燕・分水銅器協同組合」をつくり、6月に通商産業大臣より「伝統的工芸品 」の指定を受けました。
■ 燕鎚起銅器がさかんになったわけ
● 燕地方は江戸時代初期、和釘の産地として知られ、中期以降、銅器、キセル、ヤスリ、矢立の金工技術が次々に入ってきて、現在では、洋食器など世界的な金属製品の産地となっています。

● 近くに弥彦間瀬銅山(江戸時代末~大正年間)があり、素材となる銅が手に入りやすかったからです。
■ 燕鎚起銅器の原料
● 銅板
■ 燕鎚起銅器のできるまで
● 地金取り
製品の大きさを考え、銅板を目的の寸法に切り取ります。

● 打ち落し
へこんだ木台に材料を置き、回しながら打ち込みます。

● 打ち絞り
完成した形を想像しながら、側面を打ち縮めます。 側面が絞られるとその分高く立体的になります。

● 焼鈍し
650度位に熱して、銅を柔らかくします。

● 荒均し
形が出来上がったら、もう一度全体を打ち、むらやひずみをとります。

● 表面合金
製品の模様によって表面に錫を焼き付けます。

● 均し作業
たたいて銅板の鎚目を美しくならべます。

● 彫金
タガネを使い細かな模様を描き、彫り、打ち出します。

● 着色みがき
赤色系も黒色系も1個1個ていねいにみがきあげます。

つるの取り付けの紹介
■ 燕鎚起銅器の課題と努力
●鎚起を作っている職人さんのお話

鎚起銅器の仕事は特別な技術を必要とするために、最初の2、3年は見習いです。
「一人前になりたいなら、ほかのだれよりもいっぱい仕事をして体でおぼえろ」と言われました。つちを打つ力かげんは口では説明できないものがあるからです。
そそぎ口まで打ち上げる水さしをつくるのに3日から5日くらいかかります。ただ打つだけなら1年目の職人だってできますが、注文どおりの品物を図面もなしにつくりあげるには15年以上はかかります。
今までできなかった所ができるようになったときは言葉ではいいつくせないほどうれしいものです。おおぜいの若い人たちにこの仕事をおぼえてほしいと思っています。

●若い職人さんのお話

鎚起銅器の仕事は前から知っていました。どちらかと言えば好きで入った仕事です。この仕事はこれでいいというようなものではなくて、自分の技を高めていくためにきりのないところがあります。皿のような平たい物から修行を始め、早くやかんのようなむずかしい物が作られるようになりたいとがんばっています。
最初に基本的な仕事の方法は教えてもらえますが、後は、ほとんど教えてもらえません。むずかしいですがやりがいがあります。
●悩みについてインタビュー

●仕事上でどんな工夫をしていますか?
■ これからの課題
● 昭和初期までは、銅器製品には鍋、釜、やかん、火鉢、金ダライなどいろいろな物があり、銅器は貴重な日常の生活用具(実用品)でした。しかし、今の時代は、そうした物がだんだん使われなくなってきています。このことにより、昔からの燕の鎚起銅器の職人が少なくなってきました。(後継者不足)

● 鎚起銅器は実用品としてだけではなく、美術工芸品としての価値も高めていくことが求められています。
毎日の仕事はすわりっぱなしで大変なところもありますが、早く一人前の職人になりたいと思います。

塩沢紬のあゆみ
● 1200年くらい前
紬の技術のもとになった「越後上布」が作られ始めました。

● 230年くらい前(江戸時代の中頃)
越後上布の技術を絹織物に応用した塩沢紬が誕生しました。(1764~1771年ころ)

● 80年くらい前(大正時代)
この頃から麻織物より生産量が多くなってきました。

● 60年くらい前
戦争によって、ぜいたく品だとして生産が制限されました。(昭和10年代)

● 40年くらい前
昭和24年、塩沢織物工業協同組合がつくられ、商品化が進められるようになりました。

● 20年くらい前
昭和50年2月、通産省から伝統的工芸品に指定されました。
■ 塩沢紬がさかんになったわけ
● 冬のしめった空気が機織りに適していました。(糸が切れにくくなります。)

● 古い時代から越後上布を作り続けてきた織物の技術がありました。

● 雪が多く降る冬の間は、機織りは収入を得るための数少ない仕事でした。

● 昔は養さん が広く行われ、絹糸の原料になるカイコのまゆがかんたんに手に入りました。
■ 塩沢紬の原料
● 紬は、絹織物なので、かいこのまゆから作る絹糸が原料ですが、主に次の2種類の糸が使われます。

「真綿手紡糸」

「生糸 」

● どちらの糸も、現在では地元のものがほとんど手に入らないため、主に群馬県で生産され、六日町の糸専門店が仕入れたものを使っています。
■ 塩沢紬のできるまで
● 図案・設計
かすり模様のデザインなどを決めます。

● 撚糸
地のたて糸と横糸、かすり模様のたて糸と横糸ごとに糸をより合わせます。

● 染色
糸のよごれを落とし、図案の色になるよう染料で煮ながら染めます。

● かすり作り
たて糸と横糸に印を付け、「手くくり」や
「手すり込み」などの技法で、図案通りの模様が出てくるように色を付けたり、調整したりします。

● 機巻き
図案に合わせて、それぞれのたて糸と横糸の位置を正しながら固く巻き上げていきます。

● 機織り
たてのかすりと横のかすり模様をていねいに合わせて織り上げます。「出ばた 」でも行われます。(15日~20日位かかる。)

● 仕上げ
よごれを落としたり、布幅を決められた長さに整えたりしてから巻き上げます。

● 検査
組合の検査員が品質をきびしく調べます。

● 完成
合格したものに証票がはられて塩沢紬の製品となります。
■ 塩沢紬の課題と努力
課題

● 生活様式が変化し、着物を着ることが少なくなったため、注文が減ってきています。

● 製品を買う問屋が塩沢町から遠い東京や関西方面にかたよっています。
● 技術を受けつぐ、若い人が少なくなっています。

努力

● 協同組合を作って、製品を検査したり品質を高めたりするための研究や新製品の開発をしています。また、人材の育成にも取り組んでいます。
● 伝統的な模様や色合いを守りながらも、現代の生活に合った図案やデザインを工夫しています。

● 塩沢紬を使った人形や洋服、ネクタイ、日用小物を開発したり、展示会を行ったりして紬のよさを宣伝しています。

● 織物会館を建設して、織物の紹介を積極的に行っています。

加茂桐箪笥のあゆみ
●  190年くらい前
丸屋小衛門という人が大工のかたわら杉の木で箪笥を造ったのが始まりと言われています。

●  120年くらい前
桐箪笥の生産量年間400棹と加茂町資料に記されています。箪笥産地を作り始めました。

●  100年くらい前
加茂箪笥組合が結成されました。組合員14社。

●  40年くらい前
お年玉年賀はがきの特賞に加茂箪笥が採用されました。(700棹)

●  20年くらい前
昭和51年12月 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。

■ 加茂桐箪笥がさかんになったわけ
●  加茂市は三方を山にかこまれた雨の多い土地で良質の天然桐が豊富にありました。

●  新潟港に近く海運にも恵まれ、製品の輸送に便利でした。また、上越線で東京まで通じていることも忘れることはできません。
■ 加茂桐箪笥の原料
●  木材・・・桐 (新潟、福島、秋田産、中国、北アメリカ産)

●  くぎ・・・ウツギ製の木くぎと竹くぎを使用。

●  金具・・・銅、銅合金、鉄を使用。
■ 加茂桐箪笥のできるまで
●  原木裁断

●  製材

●  板干し

●  板切

●  板組

●  本体の組接ぎ

●  組立

●  仕上げ

●  引出し加工

●  組立仕上げ

●  塗装

●  金具つけ

●  完成

■ 加茂桐箪笥の課題と努力
●  後継者の育成が困難です。仕事ができるようになるまでに、長い年月がかかります。また、若い労働者を求めるのに苦労しています。

●  各会社ごとに、若い労働者を育てるために研修会などを開催しています。

●  国(労働省・通産省)の助成金(3年間)を受けて、働きやすい職場環境を作りだし、求人活動に取り組んでいます。

■ 三条仏壇のあゆみ
● 300年くらい前
東別院の建立のとき、京都からの宮大工、指物師、塗師、金具師の指導のもとに三条の職人が多数参加しました。このころから、仏壇の製造が開始されたと言われています。

● 95年くらい前
1899年の「工業県税納者調」には、「仏壇職」「仏壇商」「金具職」「塗物職」として、多くの人名があげられています。古くから三条の地域で仏壇の製造がさかんに行われていたことを示しています。

● 15年くらい前
昭和55年10月 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。生産地域は三条市、燕市、巻町、分水町、吉田町、岩室村です。
■ 三条仏壇がさかんになったわけ
●東別院を中心とした浄土真宗の広まりとともに、仏壇づくりがさかんになりました。

●信濃川が流れており、交通の便がよく、原材料や製品の輸送につごうがよかったからです。

●金物職人の町であったため、仏壇づくりに必要な道具類が集めやすかったからです。
■ 長岡仏壇の原料を参考にすると
● 木地・・・・・・姫小松、ホオ、ケヤキ、ヒノキ、ヒバなど。

● 金具・・・・・・銅、真ちゅう

● 塗り、まき絵・・天然漆、金箔

● その他・・・・・和紙、胡粉、金銀粉、顔料、にかわなど。
■ 長岡仏壇のできるまでを参考にすると
● 木地づくり

● 彫刻

● 塗装

● まき絵

● 金箔おし

● 金具づくり

● 組み立て

● 完成

■ 三条仏壇の課題と努力
● 後継者を育てるのに苦労しています。

● 働く環境を整備し、また、賃金を安定させるよう努力しています。

十日町絣のあゆみ
●  1500年前ごろ
馬場上遺跡から紡錘車(糸によりをかける道具)が見つかりました。

●  300年前ころ
江戸幕府は、越後縮を武士の式服にさだめました。

●  125年くらい前(明治のはじめ)
農家の内職から、工場で専門に織るようになりました。

●  110年くらい前
明治20年、「羽二重」などをつくりはじめました。このころから、「明石ちぢみ」の研究を始めました。織物機械600台

●  65年くらい前
昭和4年、十日町明石ちぢみの宣伝のため十日町小唄を発表しました。

●  35年くらい前
昭和35年、全国着物競技大会で優勝しました。

●  20年くらい前
昭和52年、第1回きもの祭が開かれました。

●  15年くらい前
昭和57年、「十日町絣」と「十日町明石ちぢみ」が、全国の伝統的工芸品に指定されました。

●  10年くらい前
昭和58年11月 、地場産業振興センター「クロス10」ができました。
■ 十日町絣がさかんになったわけ
●  魚沼一帯は、豪雪地帯ゆえに、空気中の湿度が高く、盆地特有の気候として、年間を通じ強い風が吹きません。このような気候風土が、麻織物の原料となる苧麻(からむしとも言う)の生産に最適で、昔から自生していました。また、麻織物は、途中に乾燥させてはならないため、多湿な気候は安定した製品を生み出すのに絶好の条件でした。

●  雪の上に糸や布を広げて行う「雪ざらし」により漂白された布は、ことのほか上質でした。また、豊かな雪解け水が、地層深く浸透してできる軟水は染物の発色に優れた効果があります。

「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親というべし」と「北越雪譜」にも書かれています。

●  やがて、麻織物の技術と伝統を絹織物に生かし、今日の十日町絣や十日町明石ちぢみが生まれました。
■ 十日町絣の原料
かいこのまゆ から絹糸をつくり、これを使って着物(十日町絣や十日町明石ちぢみ)をつくります。
■ 十日町絣のできるまで
●  設計(絣図案制作)
原図案や見本により、方眼紙に柄の位置を決めて、絣図案と絣定規を作ります。

●  手延べ(整経)
繰返し機で、ボビンや枠に巻取った糸を、たて絣、よこ絣別に、設計に基づいた本数と長さに手で延べます。

●  墨付け
たて絣、よこ絣、それぞれの絣糸を張り台に張り、絣定規に基づいて模様の位置に墨印をつけます。

-1 くびり   たて糸とよこ糸の墨印をつけた部分を、錦糸か平ゴムで硬く括ります。

-2 摺込み  墨付けされた必要なところに、摺込みヘラを使って、染料を摺込みます。

●  染色
括った糸をかせ状にして、地糸とともに繰り返しもみながら染めていきます。

●  糊付け
絣巻、織布の工程が順調に進むように、繰り返し糊を付けます。

●  絣巻
絣織りが順調にできるように、駒及び万力を使って、たて絣模様を合わせながら巻き取ります。

●  機織り
たて絣とよこ絣の模様を丹念に合わせながら、織りあげます。

●  製品検査
織りあがった反物の長さ、巾、織りむら、汚れなどを検査します。

●  十日町絣の完成
■ 十日町絣の課題と努力
●  次の人に受け継がれるようにしています。(後継者不足)

●  同じものばかり作っていては、将来行きづまるので、消費者のニーズに合わせた新しい商品づくりに取り組んでいます。

十日町明石ちぢみのあゆみ
● 1500年くらい前
馬場上遺跡から紡錘車(糸に撚りをかける道具)が見つかりました。

● 300年前ころ
江戸幕府は、越後縮を武士の式服にさだめました。

● 125年くらい前(明治のはじめ)
農家の内職から、工場で専門に織るようになりました。

● 110年くらい前
明治20年、「羽二重」などを作り始めました。このころから、「明石ちぢみ」の研究を始めました。
織物機械600台

● 65年くらい前
昭和4年、明石ちぢみの宣伝のため十日町小唄を発表しました。

● 35年くらい前
昭和35年、全国着物競技大会で優勝しました。

● 20年くらい前
昭和52年、第1回きもの祭が開かれました。

● 15年くらい前
昭和57年11月、「十日町絣」と「十日町明石ちぢみ」が、全国の伝統的工芸品に指定されました。

● 10年くらい前
昭和58年 、地場産業振興センター「クロス10」ができました。s
■ 十日町明石ちぢみがさかんになったわけ
● 魚沼一帯は、豪雪地帯ゆえに、空気中の湿度が高く、盆地特有の気候として、年間を通じ強い風が吹きません。このような気候風土が、麻織物の原料となる苧麻の生産に最適で、昔から自生していました。また、麻織物は、途中で乾燥させてはならないため、多湿な気候は安定した製品を生み出すのに絶好の条件でした。

● 雪の上に糸や布を広げて行う「雪ざらし」により漂白された布は、ことのほか上質でした。また、豊かな雪解け水が、地層深く浸透してできる軟水は染物の発色に優れた効果があります。

「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮みの親というべし」と「北越雪譜」にも書かれています。

● やがて、麻織物の技術と伝統を絹織物に生かし、今日の十日町絣や十日町明石ちぢみが生まれました。
■ 十日町明石ちぢみの原料

● かいこのまゆから絹糸をつくり、これを使って着物(十日町絣や十日町明石ちぢみ)をつくります。
■ 十日町明石ちぢみのできるまで
● 設計(絣図案制作)
原図案や見本により、方眼紙に柄の位置を決めて、絣図案と絣定規を作ります。

● 手延べ(整経)
繰返し機で、ボビンや枠に巻取った糸を、たて絣、よこ絣別に、設計に基づいた本数と長さに手で延べます。

● 墨付け
たて絣、よこ絣、それぞれの絣糸を張り台に張り、絣定規に基づいて模様の位置に墨印 をつけます。

-1 くびり
たて糸とよこ糸の墨印をつけた部分を、錦糸か平ゴムで硬く括ります。
-2 摺込み
墨付けされた必要なところに、摺込みヘラを使って、染料を摺込みます。

● 染色
括った糸をかせ状にして、地糸とともに繰り返しもみながら染めていきます。

● 糊付け
絣巻、織布の工程が順調に進むように、繰り返し糊を付けます。

● 絣巻
絣織りが順調にできるように、駒及び万力を使って、たて絣模様を合わせながら巻き取ります。

● 明石経工程

● 糊付け 明石独特の味わいを出すため、強度の糊付けをします。

● 上撚り 糊付けした糸を八丁撚糸機にかけて明石経を作ります。

● 機織り
たて絣とよこ絣の模様を丹念に合わせながら、織りあげます。

● 製品検査
織りあがった反物の長さ、巾、織りむら、汚れなどを検査します。

● 十日町明石ちぢみの完成

■ 十日町明石ちぢみの課題と努力
● 次の人に受け継がれるようにしています。(後継者不足)

● 同じものばかり作っていては、将来行きづまるので、消費者のニーズに合わせた新しい商品づくりに取り組んでいます。

小千谷縮 のあゆみ
● 1200年くらい前
縮の技術のもとになった「越後上布 」が作られ始めました。

● 340年くらい前(江戸時代の中頃)
より糸を使って布に「しぼ(ちぢみともいう)」という小さなしわを作る方法が考え出され、越後上布にちぢみを付けた「小千谷縮」が誕生しました。
(1661~1672年ころ)

● 100年くらい前(明治~大正時代)
原料を紡績糸に変えた小千谷縮も作られ始めました。

● 60年くらい前(昭和10年代)
戦争によって、ぜいたく品だとして生産が制限されました。

● 45年くらい前
昭和25年、小千谷織物同業協同組合がつくられ、商品化が進められました。
● 40年くらい前
昭和30年、昔ながらの原料と作り方をする越後上布としての小千谷縮は、国の重要無形文化財に指定されました。

● 20年くらい前
昭和50年9月、原料糸に紡績糸を使った小千谷縮が通産省から伝統的工芸品に指定されました。
■ 小千谷縮がさかんになったわけ
● 冬のしめった空気が機織りに適していました。(糸が切れにくくなります。)

● 雪がたくさん降るため、布を雪でさらすことができました。
● 古い時代から越後上布を作り続けてきた織物の技術がありました。

● 江戸時代に、より糸を使ってしぼをだす技法が考案され、小千谷にも伝えられました。

● しぼのある麻織物のさわやかなはだざわりは、武士やお金持ちの夏衣料として人気がありました。

● 雪が多く降る冬の間、機織りは収入を得るための数少ない仕事でした。

● 当時の小千谷は交通の便がよく、原料や製品の輸送が便利でした。
■ 小千谷縮の原料
● 縮は、麻織物なので麻糸が原料ですが、次のような条件があります。
原料の麻は、国産の苧麻(「からむし」とも いう。)の糸であること。紡績糸でもよい。

● 現在は苧麻の生産がとても少ないため、フィリピンなどから輸入したラミー麻の紡績糸を使ってもよいことになっています。
■ 小千谷縮のできるまで
● 図案・設計
かすり模様のデザインなどを決めます。

● 1 撚糸
地のたて糸、かすり模様のたて糸・横糸ごとに糸をより合わせます。(紡績機を使用)

● 2 強撚糸
地の横糸には、しぼ Eを出すための強いよりをかけます。(紡績機を使用)

● 染色
糸のよごれを落とし、図案の色になるよう染料で染めます。

● かすり作り
かすりのたて糸と横糸に印を付け、「手くくり」や「手すり込み」などの技法で図案通りの模様が出てくるように色を付けたり、調整したりします。

● 機巻き
図案に合わせて、それぞれのたて糸と横糸の位置を正しながら固く巻き上げていきます。

● 機織り
たてのかすりと横のかすり模様をていねいに合わせて織り上げます。「出ばた」でも行われます。

● 湯もみ
布にしぼを出すため、お湯の中で手でもみます。

● 雪さらし
布を雪にさらし、オゾンのはたらきで漂白して、白地とかすり模様を美しくします。

● 仕上げ
よごれを落としたり、布巾を決められた長さに整えたりしてから巻き上げます。

● 検査
組合の検査員が品質をきびしく調べます。

● 完成
合格したものに証票がはられて小千谷縮の製品となります。
■ 小千谷縮の課題と努力
● 課題

● 生活様式が変化し、着物を着ることが少なくなったことと、比較的高価なことなどから生産が増えていきません。

● 本来の原料である苧麻糸が手に入りにくくなっているため、輸入した麻糸を使わなければなりません。

● 製品を買う問屋が、産地から遠い東京や関西方面にかたよっています。

● 韓国や中国から、安い輸入品が大量に入ってくるようになりました。

● 技術を受けつぐ若い人が少なくなっています。

● 努力

● 協同組合を作って、製品を検査したり、品質を高めたりするための研究や新製品の開発を行っています。また、人材の育成にも取り組んでいます。

● 伝統的な模様や色合いを守りながらも、現代の生活に合った図案やデザインを工夫しています。

● 縮を使った洋服、ネクタイ、日用小物を開発したり、展示会を行ったりして縮のよさを宣伝しています。

● 総合産業会館「サンプラザ」の中で織物の紹介や製品の販売などを行っています。

新潟・白根仏壇は、江戸時代中期(1688~1704年)に宮大工、初代長井林右ェ門が、京都方面からその技術、技法を取り入れて京型の仏壇をつくり、さらに、自分の手でかんたんな彫刻を行い「白木仏壇」を完成させました。これが、「白根仏壇」の始まりと伝えられています。昭和50年には、「白根仏壇協同組合」をつくり、昭和55年には、「伝統的工芸品」として指定を受けました。

仏壇の作り方などについては、長岡仏壇を参考にしてください。

村上木彫堆朱のあゆみ
● 大昔(縄文時代)のころ
漆を使った道具を使っていました。

● 600年くらい前
お寺がたくさん建てられました。そのために多くの職人が村上にやってきました。

● 300年くらい前
漆の木を育てることにしました。このころから、各町内に漆を使った祭り屋台が作られるようになりました。

● 150年くらい前(江戸時代)
村上藩の武士が江戸で学んだ堆朱堆黒の技術を村上に伝えました。それから、多くの優れた職人が出てきました。

● 100年くらい前(明治時代)
多くの人に使われるようになってきました。

● 40年くらい前
昭和30年、新潟県無形文化財の指定を受けました。

● 20年くらい前
昭和51年2月 伝統的工芸品に指定されました。
■ 村上木彫堆朱がさかんになったわけ
● 江戸時代に武士が江戸から学んできた技術を、殿様が大事にしました。

● まわりを山に囲まれているので木地になる木や漆がたくさんとれました。

● 真夏でも湿度が高く漆を乾かしたりするのに適していました。

● 神社やお寺、お城を造る大工や職人が多く、優れた技術を持っていました。

● 技術や技法(作り方)を大切にしてきました。

● 地域ぐるみで、技術や技法を保存するように協力してきました。
■ 村上木彫堆朱の原料
● 木地・・・主に朴、栃、桂の木

● 漆
■ 村上木彫堆朱のできるまで
● 木地作り
乾かして湿り気をとった材料の木を切ったり、くりぬいたりしてもとの形を作ります。

● 下絵
木地に花や鳥、山水などの下絵をかきます。

● 木彫
下絵にそってウラジロという彫刻刀で彫ります。

● とくさがけ
彫られたものをとくさ(今はサンドペーパー)でみがきます。

●  木がため
漆をハケで全体に塗ります。

● さびつけ
さび(との粉と漆を混ぜたもの)を塗ります。

● さびとぎ
と石を使って表面をとぎます。

● 中塗り
模様が消えないくらいに漆を塗ります。

● 中塗りとぎ
と石でていねいにみがきます。

● 上塗り
朱色の漆を塗ります。

● つや消し
表面のつやを消します。

● 毛彫り
細い彫刻刀で細かい線を彫ります。

● 上すりこみ
漆を全体にすりこんで仕上げます。

● 検査(完成)

■ 村上木彫堆朱の課題と努力
1.後継者の育成

村上職業訓練校には漆器科があり、きそ技術を学んでいます。また、堆朱作りの仕事をしながら技術を覚えていく人も多くいます。

2.技術を守る

村上堆朱事業協同組合では、デザインや技術の研修会を実施し、技術の保存と時代にあった製品作りを考えています。

3.原材料の確保

現在は、漆をほとんど中国からの輸入に頼っています。村上市では漆の植樹に取り組み、国産の漆を使えるよう努力しています。

4.宣伝

村上堆朱を知ってもらうために、全国各地のデパートなどで宣伝会を開いています。

長岡仏壇のあゆみ
● 285年くらい前
現在の長岡市表町で関音四郎という人が仏壇づくりを始めたと言われています。

● 150年くらい前
長岡市を中心にした地域 Eの寺院、神社の建立に全国各地から「宮大工」「仏師」「彫刻師」「塗師」が集まりました。冬期間の内職として仏壇づくりを手がけたのが始まりです。

● 165年くらい前
多くの家に仏壇が置かれるようになり、仏壇づくりがさかんになりました。

● 15年くらい前
昭和55年10月 通産大臣指定の伝統的工芸品に指定されました。
■ 長岡仏壇がさかんになったわけ
● 長岡地方の山地で、原料のケヤキが手に入りました。

● 長岡市は高温多湿の気候で漆の乾燥に適していました。

● 長岡市は昔から交通の便がよく、原料や製品の輸送に適した地域でした。

● ねばり強い越後人の性格で、長い冬の間、家の中でじっくりと技法の向上や研究に取り組むことができました。
■ 長岡仏壇の原料
● 木地・・・・・・・・・・姫小松、ホオ、ケヤキ、ヒノキ、ヒバなど。

● 金具・・・・・・・・・・銅、真ちゅう

● 塗り、まき絵 ・・・天然漆、金箔

● その他・・・・・・・・和紙、胡粉、金銀粉、顔料、にかわなど。
■ 長岡仏壇のできるまで
● 木地づくり

● 彫刻

● 塗装

● まき絵

● 金箔おし

● 金具づくり

● 組み立て

● 完成

■ 長岡仏壇の課題と努力
● 原材料が手に入りにくくなりました。そのため、木材や漆などを外国から輸入しています。

● 後継者が不足しています。そのため、若い人が伝統工芸士の試験を受験できるように、研修会などを開催しています。

本塩沢のあゆみ
● 1200年くらい前
本塩沢や塩沢紬の技術のもとになった「越後上布」が作られ始めました。

● 340年くらい前(江戸時代の中頃)
より糸を使って、布に「しぼ」という小さなしわを作る方法が考え出され、その後、その技術を織物に応用した本塩沢が作られるようになりました。

● 80年くらい前(大正時代)
この頃から麻織物より生産量が多くなってきました。

● 60年くらい前
戦争によって、ぜいたく品だとして生産が制限されました。(昭和10年代)

● 40年くらい前
昭和24年、塩沢織物工業協同組合がつくられ、商品化が進められるようになりました。

● 20年くらい前
昭和50年2月、通産省から伝統的工芸品に指定されました。
■ 本塩沢がさかんになったわけ
● 江戸時代に、より糸を使ってしぼをだす技法が考え出され、塩沢にも伝えられました。

● 冬の湿った空気が機織りに適していました。(糸が切れにくくなります。)

● 古い時代から越後上布を作り続けてきた織物の技術がありました。

● 雪が多く降る冬の間、機織りは収入を得るための数少ない仕事でした。

● 昔は養さん Eが広く行われ、絹糸の原料になるカイコのまゆがかんたんに手に入りました。
■ 本塩沢の原料
● 本塩沢は、絹織物なので、かいこのまゆから作る絹糸が原料ですが、次の2種類の糸が使われます。

「強撚糸 」 「生糸」

● どちらの糸も、地元のものがほとんど手に入らないため、主に群馬県で生産され、六日町の糸専門店が仕入れたものを使っています。
■ 本塩沢のできるまで
● 図案・設計
かすり模様のデザインなどを決めます。

●1撚糸 地のたて糸、かすり模様のたて糸・横糸ごとに糸をより合わせます。

●2強撚糸 地の横糸には、しぼを出すための強いよりをかけます。(下撚り)

● 染色
糸のよごれを落とし、図案の色になるよう染料で煮て染めます。

● かすり作り
かすりのたて糸と横糸に印を付け、「手くくり 」や「手すり込み」などの技法で図案通りの模様が出てくるように色を付けたり、調整したりします。

● 強撚糸
地の横糸にもう1度強いよりをかけます。(上撚り)

● 機巻き
図案に合わせて、それぞれのたて糸と横糸の位置を調整しながら固く巻き上げていきます。

● 機織り
たてのかすりと横のかすり模様をていねいに合わせて織り上げます。「出ばた」でも行われます。(15日~20日位かかる。)

● 湯もみ
布にしぼを出すため、お湯の中で手でもみます。

● 仕上げ
よごれを落としたり、布巾を決められた長さに整えたりしてから巻き上げます。

● 検査
組合の検査員が品質をきびしく調べます。

● 完成
合格したものに証票 がはられて本塩沢の製品となります。
■ 本塩沢の課題と努力
課題

● 生活様式が変化し、着物を着ることが少なくなったため、注文が減ってきています。

● 製品を買う問屋が塩沢町から遠い東京や関西方面にかたよっています。

● 韓国や中国から安い輸入品が大量に入ってくるようになりました。

● 技術や仕事を受けつぐ、若い人が少なくなっています。

努力

● 協同組合を作って、製品を検査したり、品質を高めたりするための研究や新製品の開発を行っています。また、人材の育成にも取り組んでいます。

● 伝統的な模様や色合いを守りながらも、現代の生活に合った図案やデザインを工夫しています。

● 本塩沢を使ったお召し人形や洋服・ネクタイ日用品を開発したり、展示会を行ったりして伝統工芸品としての織物のよさを宣伝 Bしています。

● 織物会館を建設して、織物の紹介を積極的に行っています。

にいがたしっき
● 新潟漆器
うえつしなふ
● 羽越しな布

会田 誠(あいだ まこと、1965年10月4日 – )は、日本の現代美術家である。奈良美智や村上隆らとともに『新ジャポニズム』の代表的な作家とされる。

人物・作風
「取扱注意の作家」とも呼ばれ、美少女、エログロ、ロリコン、戦争、暴力、酒の賛美など、社会通念や道徳心に対するアンチテーゼを含む、センセーショナルな作品で知られる。ただし、40歳代も半ばを迎えた2010年ごろからは、センセーショナルな作風を好まなくなってきたと語っている。
葛飾北斎「蛸と海女」のパロディである[要出典]『巨大フジ隊員VSキングギドラ』(1993年)で注目され、『あぜ道』『切腹女子高生』『美しい旗(戦争画RETURNS)』などが代表作。ミヅマアートギャラリーでの個展を中心に国内外で活動。『横浜トリエンナーレ2001』『六本木クロッシング2004』 (森美術館) などに出品。
アーティストグループ『昭和40年会』に参加したり、若手の芸術家や学生をまとめ、自宅で『西荻ビエンナーレ』を開催するなど、幅広い活動をしている。平面作品に限らず、映像作品の監督・出演、またフィギュアなどの制作もしている。
来歴
1965年、新潟県新潟市に生まれる。父は社会学者で新潟大学教授の会田彰。小さい頃は授業中に走り回るなど落ち着きがなく「いまでいう典型的なADHD(注意欠陥・多動性障害)」だったという。「基本的に飽きっぽくて同じ絵を繰り返し描くことができない」と本人が語っている。
新潟県立新潟南高等学校卒業後、代々木ゼミナール造形学校を経て、1989年東京芸術大学油画専攻卒業、1991年東京芸術大学大学院修了(油画技法材料第一研究室:佐藤一郎)。在学中に小沢剛、加藤豪らと同人誌『白黒』(1 – 3号)を発行。レントゲン藝術研究所で開催された「フォーチューンズ」で本格的な活動を始めた。
2003年には、会田自身の制作を追ったドキュメンタリー映画『≒会田誠』(ビー・ビー・ビー株式会社)が公開。
2005年、写真「Girls Don’t Cry」2003の一つが香港クリスティーズにおいて9253ドル(約110万円)で落札された。
私生活では、現代美術家岡田裕子と2001年に谷中墓地で式を挙げ結婚した。会田は、岡田裕子の半生を描いたドキュメンタリー風ドラマ『ふたつの女』(監督・ダーティ工藤、2007年)にも出演した。
2012年11月10日には渡辺正悟監督によるドキュメンタリー映画『駄作の中にだけ俺がいる』が公開。
2013年、第8回安吾賞受賞。
展示に関するトラブル
2012年12月に森美術館で開催された個展「会田誠展: 天才でごめんなさい」の際に、性暴力に反対する市民団体が、児童ポルノで性的虐待を肯定する表現として、公共空間である美術館で展示することを問題視した。「食用人造少女・美味ちゃん」、「犬」シリーズ、等身大のゴキブリの像と女性が性行為をしている様子の写真は性的虐待を肯定しており、女性の尊厳を傷つけていることなどを取り上げた。また、美術評論家の松岡久美子氏は「欧米の美術館では決して許されない、女性は弱い立場であってこそエロとして感じる男性の見方が背景にあるのではないか」と疑問を呈した。それに対し、美術館側は「われわれが作者の業績をたたるためにも網羅するために展示する必要があった」と説明した。それに対し、米国の法務研究者であるダグラス・マクレーンは、「欧米ではこのような女性やこどもへの暴力を賛美するような絵が美術館で公開されることはほぼ無く、国によって法律は異なるが、仮に違法でなくとも展示が避けられるのは、このような絵の展示は性暴力を正当化するという市民の共通の認識があるからだ」と森美術館の展示を厳しく批判した。一方、一部の欧米のメディアからは、会田の作品は日本における “bad boy” 目線の象徴的芸術として受け取られている。
作品
絵画
河口湖曼荼羅(1987年)
犬(1989年)
無題(通称:電信柱)(1990年)
火炎縁蜚蠊図(かえんぜつごきぶりず)(1991年)
火炎縁雑草図(1991年)
あぜ道(1991年) (豊田市美術館蔵)
デザイン(1992年)
巨大フジ隊員VSキングギドラ(1993年)
ポスター(1994年)
無題(通称:駄作の中にだけ俺がいる)(1995年)
美しい旗(戦争画RETURNS)(1995年)
戦争画RETURNS(1996年)(高橋コレクション (高橋龍太郎_(精神科医)蔵)
紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)(戦争画RETURNS)(1996年)(高橋コレクション 蔵)
題知らず(戦争画RETURNS)(1996年)
大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)(戦争画RETURNS)(1996年)
ミュータント花子(1997年)
スペース・ウンコ(1998年)
スペース・ナイフ(1998年)
犬(雪月花のうち“雪”)(1998年)
たまゆら(戦争画RETURNS)(1999年)
無題(2001年)
ジューサーミキサー(2001年)
食用人造少女・美味ちゃん(2001年)
新宿御苑大改造計画(2001年)
切腹女子高生(2002年)
人プロジェクト(2002年)
大山椒魚(2003年)
じょうもんしきかいじゅうのうんこ(2003年)
?鬼(2003年)
無題(通称:考えてませ~ん)(2004年)
ヴィトン(2007年)
727(2007年)
滝の絵(2007-10年)
万札地肥瘠相見図(原画)(2007年)
灰色の山(2009-11年)
1+1=2(2010年)
ニトログリセリンのシチュー(2012年)
Jumble of 100 Flowers(2012年)
考えない人(2012年)
電信柱、カラス、その他(2012年)
MONUMENT FOR NOTHING Ⅳ(2012年)
フィギュア
愛ちゃん盆栽(2005年)
立体作品
自殺未遂マシーン(2001年)
新宿城(2002年)
書籍
青春と変態(小説、ABC出版、1996年)
ミュータント花子(漫画、ABC出版、1997年)
Lonely Planet(画集、DANぼ出版、1998年)
三十路(画集、ABC出版、2001年)
MONUMENT FOR NOTHING(画集、グラフィック社、2007年)
カリコリせんとや生まれけむ(エッセイ集、幻冬舎、2010年)
少女ポーズ大全(会田誠監修・モデルほしのあすか、コスミック出版、2011年)
美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか(幻冬舎、2012年)
映像
上野バンタロン日記(1990年)
たいらっぴょう(1995年)
日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ(2008年)
美術と哲学#2 フランス語、ドイツ語、英語(2011年)
関連作品
映画「≒会田誠 無気力大陸」 (2003年) – 玉利祐助監督によるドキュメンタリー作品
DVD「アートアイドル声ちゃんの変躰ランド」(2004年)
映画「駄作の中にだけ俺がいる」(2012年)- 渡辺正悟監督によるドキュメンタリー作品
展覧会
個展
「絵は四角くなくなくてもよい」(谷中フルフル、1992年)
「ポスター」(同和火災ギャラリー、1994年)
「さりん」(なすび画廊、1994年)
「戦争画RETURNS」(ギャラリーなつか、1996年)
「NO FUTURE」(ミヅマアートギャラリー、1996年)
「パリ・津田沼」(ミヅマアートギャラリー、1998年)
「道程」(三菱地所アルティアム、1999年)
「男の酒」(ミヅマアートギャラリー、2000年)
「会田誠・岡田(会田)裕子・会田寅次郎 三人展」(ミヅマアートギャラリー、2001年)
「会田誠展-食用人造少女・美味ちゃん-」(ナディッフ、2001年)
「Drink,SAKE alone.」(Lisa Dent Gallery サンフランシスコ、2005年)
「Donki-Hote」(Man in the Holocene at IBID Projects ロンドン、2005年)
「Picuture of Mountain Stream and others」(Andrew Roth Inc ニューヨーク、2006年)
「アートで候 会田誠・山口晃展」(上野の森美術館、2007年)
「会田誠展: 天才でごめんなさい」(森美術館、2012年-2013年)
グループ展
「フォーチューンズ」(レントゲン藝術研究所、1993年)
「Happy Violence」(名古屋市政資料館(愛知)、1994年)
「絵でしか言えない」(同和火災ギャラリー、1994年)
「Smooth Surface」(レントゲン藝術研究所、1994年)
「PAP OPENING EXHIBITION」(PAP FACTORY、1995年)
「Collection/Selection」(レントゲン藝術研究所、1995年)
「ダンボールとブルーシート」(東京、1995年)
「モルフェ’95 亀裂A地点展」(ミヅマアートギャラリー、1995年)
「写真で語る」(東京芸術大学陳列館、1995年)
「TOKYO POP」(平塚市美術館、1996年)
「昭和40年会」(シナプス画廊、1996年)
「on camp/off base」(東京ビッグサイト、1996年)
「アートシーン90-96」(水戸芸術館、1996年)
「HOLY GIFT vol.1」(ミヅマアートギャラリー、1996年)
「こたつ派」(ミヅマアートギャラリー、1997年)
「Document&Art」(アートミュージアムギンザ、1997年)
「美人画」(ミヅマアートギャラリー、1997年)
「昭和40年会」(ギャラリーメトロポリタン(バルセロナ)、1997年)
「HOLY GIFT vol.2」(ミヅマアートギャラリー、1998年)
「TAKEOコミュニケーションデザイン1998」(スパイラル、1998年)
「TOKYO ELEGANCE」(リーセントギャラリー(北海道)、1998年)
「SO WHAT?-Donai ya nen」(エコール・デ・ボザール(パリ)、1998年)
「昭和40年世代-東京からの声」(エスパース・フロン ローザンヌ(ドイツ)、1998年)
「昭和40年世代-東京からの声」(ACC ワイマール(ドイツ)、1998年)
「VOCA’99」(上野の森美術館、1999年)
「昭和40年世代-東京からの声」(現代美術製作所、1999年)
「日本現代絵画の展望展」(東京ステーションギャラリー、1999年)
「日本ゼロ年」 『戦争画RETURNS』シリーズを新旧作交えて出展(水戸芸術館、1999年)

安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年4月23日 – 1960年9月1日)は、日本の洋画家。 東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々勤める。洋画だけでなく日本画も描く。

経歴
明治16年(1883年) 新潟市東堀通に四男として生まれる。
東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科入学。藤島武二に師事。在学中に文展に「靴屋」出品、文部省買上げ。
明治43年(1910年) 東京美術学校卒業
大正8年(1919年) 第一回帝展「白蓮樹」特選
大正9年(1920年) 第二回帝展「砂丘に立つ子供」特選
大正10年(1921年) 相馬其一と渡欧
大正11年(1922年) 第4回帝展特選
大正13年(1924年) 推薦
大正15年(1925年)帝展委員任命
昭和2年(1927年) 帝展審査員任命
明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に「教育勅語下賜」
昭和4年(1929年)・6年(1931年)・7年(1932年) 帝展審査員任命
昭和6年(1931年) 「浜の娘」政府買上
昭和11年(1936年) 文展審査員任命
昭和12年(1937年) 大阪毎日新聞主催総合展に銀賞受賞
以後官展の審査員任命
昭和17年(1942年) 第5回文展に「秋草」出品文部省買上
昭和32年(1957年) 中国に文化使節として招待を受け訪問
昭和35年(1960年) 9月1日没77歳
親族
善平:父
フヂ:母
福美:妻。日本画家尾竹越堂の次女。姉の尾竹紅吉(富本一枝)は富本憲吉の妻で、平塚らいてうとの同性愛を噂された。
善郎:長男
美穂:長女。自由学園高等部卒。森鴎外の三男森類と結婚
洋二郎:次男
良:次女
侃三郎:三男。東京美校卒業後、21歳で武者小路実篤の次女妙子の婿養子となり、武者小路姓を名乗る。中央演劇学校を経て新東宝の美術部や北星映画の宣伝部に勤務。友人勅使河原宏と共に「青年プロ」「シネマ57」を設立し映画産業に関わったが、のち東京日本橋で喫茶店「薔薇瞳」の経営に転じる。この時期に巨額の借金を作り撤退を余儀なくされたが、やがて銀座に同名の喫茶店「薔薇瞳」と割烹店「もめんや」を出店。再び経営に失敗し、有楽町で画廊の経営を始める。1972年から絵画ブローカーに転身し、井の頭公園の脇で「生活社ギャラルリー」を経営。
慶四郎:四男

黒井 健(くろい けん、1949年 – )は、日本の絵本作家、イラストレーター。新潟県新潟市生まれ。神奈川県川崎市在住。新潟大学教育学部中等美術科卒業。日本児童出版美術家連盟会員。 学習研究社幼児絵本編集部を経て、フリーに。2003年5月、「黒井健絵本ハウス」開館。2010年9月、新潟市立中央図書館こどもとしょかん名誉館長に就任。

作風と評価
色鉛筆を用いた独特の繊細な絵柄で知られる。 1983年、第9回サンリオ美術賞受賞 2006年、『またたびトラベル』(茂市久美子)で、第20回赤い鳥さし絵賞受賞
画集・著書
著書は200冊を超える。
「手袋を買いに」 (日本の童話名作選) 新美南吉/黒井健
「ごんぎつね」 新美南吉/黒井健 偕成社 ISBN 4039632702
「12の贈り物 – 世界でたったひとりの大切なあなたへ」シャーリーン・コスタンゾ/黒井健 ポプラ社 ISBN 4591079295
「かさじぞう」 (松谷みよ子むかしむかし)松谷みよ子黒井健 童心社 (2006/12) ISBN 4494002461
「猫の事務所」(日本の童話名作選)宮沢賢治黒井健 偕成社 (1994/10) ISBN 4039634209
「Dream^3(夢の3乗)」(1994年、妖精村) 文:黒井健・永田萠・葉祥明
「ふる里へ」 星野知子/黒井健/小学館 2006年10月出版
「ころわんちょろわん」 作:間所ひさこ 絵:黒井健 /ひさかたチャイルド (2007-02出版)
「あしたまほうになあれ」作:小野寺悦子 絵:黒井健 /学研マーケティング(1989)
「招福堂のまねきねこ またたびトラベル物語」作:茂市久美子 絵:黒井健 /学研マーケティング(2009)
「最高のおくりもの」作:茂市久美子 絵:黒井健 /全国学校図書館協議会(2006)
「リリアン」作:山田太一 絵:黒井健/小学館(2006)

小林 古径(旧字:古徑、こばやし こけい、1883年(明治16年)2月11日 – 1957年(昭和32年)4月3日)は、大正~昭和期の日本画家。 本名は茂(しげる)。
1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし[* 1]、16歳の1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。「蚕の吐く糸のような」と評される線描が特色のこの中国古典を研究することによって、古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。代表作「髪」は、このような古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作である。簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩で、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。「髪」は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。1935年(昭和10年)、帝国美術院会員。1944年(昭和19年)、東京美術学校教授に就任。同年7月1日帝室技芸員となる。1950年(昭和25年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日、死去、贈従三位、贈勲二等旭日重光章(没時叙位叙勲)。
古径の住居として東京都大田区南馬込に建築された小林古径邸は新潟県上越市の高田公園内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されている。古径は、「私が好きになるような家を建ててください。」と言っただけで一切注文を出さなかった、古径邸ができあがってもすぐには移り住まずに通ってきては眺めて楽しんだというエピソードが残っている。 また、古径は絵画における写生の重要性を認識しており、庭の植物や庭で飼育した鳥などを写生したという。

代表作
『鶴と七面鳥』 1928年(昭和3年)紙本彩色 財団法人永青文庫蔵 『鶴と七面鳥』 1928年(昭和3年)紙本彩色 財団法人永青文庫蔵
『鶴と七面鳥』 1928年(昭和3年)紙本彩色 財団法人永青文庫蔵

『髪』
1931年(昭和6年) 絹本彩色

『白華小禽』[* 2]
1935年(昭和10年) 絹本彩色
「闘草」(1907) 山種美術館蔵
「加賀鳶」(1909) 東京国立近代美術館蔵
「極楽井」(1912) 東京国立近代美術館蔵
「極楽之井」(1912) 宮城県美術館蔵
「異端」(1914) 東京国立博物館蔵
「阿弥陀堂」(1915) 東京国立博物館蔵
「河風」(1915) 山種美術館蔵
「竹取物語」(1917) 京都国立近代美術館蔵
「いでゆ」(1918) 東京国立博物館蔵
「伊都岐島」(1920) 山種美術館蔵
「上宮太子」(1920) ニューオータニ美術館蔵
「罌粟」(1921) 東京国立博物館蔵
「機織」(1926) 東京国立近代美術館蔵
「琴」(1927) 京都国立近代美術館蔵
「木菟図」(1929) 大倉集古館蔵
「清姫(その6)日高川」(1930) 山種美術館蔵
「飛鴨」(1930) 新潟県立近代美術館蔵
「髪」(1931) 永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)、重要文化財
「蓮」(1932) 山種美術館蔵
「秋采」(1934) 山種美術館蔵
「孔雀」(1934) 永青文庫蔵
「双鳩」(1937) 東京国立近代美術館蔵
「唐蜀黍」(1939) 東京国立近代美術館蔵
「牡丹」(1939) メナード美術館蔵
「不動」(1940) 東京藝術大学大学美術館蔵
「馬郎婦」(1943) 東京国立近代美術館蔵
「紅梅」(1943) 東京国立近代美術館蔵
「牛」(1943) 山種美術館蔵
「富士」(1944) 東京国立近代美術館蔵
「楊貴妃」(1951) 足立美術館蔵
「菖蒲」(1952) 山種美術館蔵

佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 – 1954年6月25日)は、日本の洋画家。新潟県長岡市生まれ。同県新発田市で生涯を過ごす。蒲原平野や農民などをモチーフに、郷土に根ざした作品を制作し続けた。1954年、白血病で死去。

経歴
1910年(明治43年) 1月26日、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に新発田藩士の末裔である父、佐藤英雄、母、菊乃との間に五人兄弟姉妹の三男として生まれる。父英雄は哲三の出生後まもなく中国へ渡る。
1911年(明治44年) 母や兄姉とともに新発田市に移転。
1914年(大正3年) 脊椎カリエスを患い、背骨に障害を負う。
1916年(大正5年) 父が帰国。新発田上町に移転し、書画骨董店『十万堂』を開業。
1919年(大正8年) 新発田尋常高等小学校(現:新発田市立外ヶ輪小学校)に入学(病気のために3年遅れての入学)。
1923年(大正12年) 最初の油彩画、『妹(クニ子)の肖像』を制作。
1924年(大正13年) 皇太子裕仁親王の高田陸軍十六師団ご来幸記念展覧会に『ダリア』を出品。
1926年(昭和元年) 長谷川武雄、大滝直平、富樫寅平らとともに「野人会」を結成。展覧会を開催。
1927年(昭和2年) 木版画の制作を始める。10月、東京都上野で開かれた第1回大調和美術展に『真理の雲行』、『光る牛』など7点を応募するがすべて落選。その際に梅原龍三郎の助言を受ける。
1928年(昭和3年) 4月、第3回国展に初入選。
1929年(昭和4年) 『瓦焼場風景』を制作。
1930年(昭和5年) 村上駅の赤帽をモデルにした『赤帽平山氏』を制作。父英雄が死去、『十万堂』を玩具店として再開。
1931年(昭和6年) 『郵便脚夫宮下君』を制作。
1932年(昭和7年) 『大道商人』、『ひるめし時』を制作。6月、足尾銅山を訪れる。
1933年(昭和8年) 長与善郎と出会う。6月、梅原龍三郎が武者小路実篤らとともに『佐藤哲三作品頌布会』を結成。
1934年(昭和9年) 『柿を持つ女』、『農村託児所』を制作。澤田貞雄が東京日日新聞に連載した小説『競争』の挿絵を描く。6月、上野で開かれた「第4回新版画集団展」を訪れ、藤牧義夫の作品に感銘を受ける。
1935年(昭和10年) ドイツの女流版画家ケーテ・コルヴィッツの作品『母子』に影響を受け、同じ構図の『苦悩』を制作。9月13日、新発田大火のため『十万堂』が焼失するが、多くの作品は難を逃れた。
1939年(昭和14年) 石川豊子と結婚。年の暮れに加治村の豊子の実家に移転。営んでいた自転車店を手伝い始める。
1940年(昭和15年) 『農婦』を制作。同作品は羽仁五郎が買い上げた。羽仁はこの後もたびたび佐藤の作品を購入する。8月に長男、現が生まれる。
1941年(昭和16年) 『稲』を制作。久保貞次郎の知遇を得る。11月に次男、集が生まれる。
1942年(昭和17年) 『クンセイ』を制作。この頃から加治村で児童画の指導を始める。
1943年(昭和18年) 『田園の柿』を制作。8月に長女、響子が生まれる。この後、1949年まで、児童画の指導をはじめ、紙芝居なども制作するが、実家の自転車店の経営や農民運動を中心に活動し、素描などのほかは絵画の制作をほぼ休止する。
1946年(昭和21年) 三男、創が生まれる。
1948年(昭和23年) 四男、連が生まれる。
1949年(昭和24年) 新発田泉町に移転。絵画の制作を再開する。『ダリア』を制作。11月、佐藤の知人で画廊経営者の田部直枝が『佐藤哲三頌布会』を組織する。
1950年(昭和25年) 『寒い日』を制作。検査を受けるため、宮城県仙台市の病院に向かう途次の車窓から、後の作品『原野』の下絵となる山形の風景を写生。6月、腎臓結核の診断を受け、新発田二の丸病院に入院。11月に退院。
1951年(昭和26年) 『原野』完成。3月、新発田二の丸病院に再度短期入院。
1952年(昭和27年) 『残雪』を制作。11月から『みぞれ』の制作に取りかかる。
1953年(昭和28年) 3月、『みぞれ』が完成する。8月、佐藤にとって初めてとなる裸体画『裸婦』を制作。12月に体調を崩すが、病をおして『帰路』の制作に取りかかる。
1954年(昭和29年) 3月、再入院。6月25日、新発田二の丸病院で骨髄芽球無白血病のため死去。享年44。『帰路』は未完のまま絶筆となる。同月27日、新発田市託明寺で告別式が行なわれた。
作風[ソースを編集]
佐藤は生涯新潟県を離れることなく、タモの木が立ち並ぶ蒲原平野や農民を題材にした作品を描き続けた。絵を描き始めた頃の佐藤は関根正二風の幻想的な雰囲気の作品を描いていたが、梅原龍三郎の指導を受けたのを機に、佐藤の作風は劇的な変化を遂げ、『赤帽平山氏』や、『郵便脚夫宮下君』などに見られるような、ゴッホやスーティン風に原色を多用した、明るくたくましい筆致の作品を制作し、高い評価を得た。戦時中は制作を休止したが、戦後に制作を再開したのちは作風がさらに変化し、暗い色調で精神性を重視した表現を試みるようになる。なかでも、みぞれでぬかるみ、夕陽に照らされた蒲原平野の中を人々が家路につく姿を、激しい筆致で描いた死の前年の作品『みぞれ』は日本の絵画史に残る傑作として高い評価を受けている。
受賞歴
1930年(昭和5年) 第5回国展 国画奨学賞 (『赤帽平山氏』)
1931年(昭和6年) 第6回国展 国画奨学賞 (『郵便脚夫宮下君』)
1932年(昭和7年) 第7回国展 O氏賞 (『大道商人』)
代表的な絵画作品[ソースを編集]
『ダリア』 (1924年) 新発田市立外ヶ輪小学校
『瓦焼場風景』 (1928年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
『椿』 (1930年) 新発田市立図書館
『赤帽平山氏』 (1930年) 宮城県美術館
『郵便脚夫宮下君』 (1931年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
『大道商人』 (1932年) 個人蔵
『苦悩』 (1935年) 新潟市美術館
『農婦』 (1940年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
『稲』 (1941年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
『田園の柿』 (1943年) 個人蔵
『寒い日』 (1950年) 個人蔵
『原野』 (1951年) 新潟市美術館
『残雪』 (1952年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
『みぞれ』 (1953年) 個人蔵
『裸婦』 (1953年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
『帰路』 (1954年) 新潟県立近代美術館/万代島美術館
画集
『佐藤哲三作品集』 美術出版社 1956年 絶版
参考文献
(特記あるもの以外は絶版)
『絵のなかの散歩』 洲之内徹著 新潮社 1981年
『さらば気まぐれ美術館』 洲之内徹著 新潮社 1988年
『没後40年 佐藤哲三展図録』 新潟県立近代美術館編 1995年
『藤牧義夫』 小野忠重版画館編 求龍堂 1999年
『名画再読美術館』 芥川喜好著 小学館 2001年 刊行中
『東京ノイズ』 大倉宏著 アートヴィレッジ 2004年 刊行中
『没後50年 佐藤哲三展図録』 神奈川県立近代美術館/東京ステーションギャラリー編 2004年
『佐藤哲三の時代』 「佐藤哲三の時代」展実行委員会編 2008年

土田 麦僊(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 – 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。

経歴

『舞妓林泉』(1924年)東京国立近代美術館
明治20年(1887年)、新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)の農家の三男として生まれる。本名は金二。哲学者の土田杏村は弟(茂)である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
大正7年(1918年)、麦僊は同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花とともに国画創作協会を旗揚げした。同会は、伝統的な文展の審査のありかたに不満をもった若手日本画家たちが西洋美術と東洋美術の融合と新しい日本画の創造を目指して結成したもので、近代における日本画革新運動の代表的なものとして日本美術史上重視されている。同会は大正7年(1918年)の第1回展を皮切りに、昭和3年(1928年)までに東京および京都で計7回の展覧会を開催したが麦僊は第1回展に出品した『湯女図』(ゆなず)をはじめとして毎回意欲作を出品し、国画創作協会の中心的存在であった。
麦僊はルノワールやゴーギャンに傾倒し、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り入れた新たな絵画の創造を目指していた。大正10年(1921年)、麦僊は竹喬、晩花とともに渡欧。約1年半に亘り、西洋絵画の研究と制作を行っている。
麦僊にはコレクターとしての一面もあり、この渡欧中にルノワール、セザンヌなどの西洋絵画を収集している。現在、大原美術館にあるセザンヌの『水浴』は麦僊旧蔵品であり、彼が自らへの刺激とするため常に画室の壁に掛けていたものであるという。
山南塾を主催し、小松均・福田豊四郎・北沢映月らが育った。

蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年(明治31年)12月2日 – 1979年(昭和54年)5月6日)は、挿絵画家、詩人。

人物
1898年(明治31年)12月2日、新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)に生まれる。戸籍上出身地は新潟県新発田町(現・新発田市)となっている。本名は一男といった。
蕗谷虹児の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・蕗谷傳松(伝松 でんまつ)は新潟市(現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三伝小路に土蔵と屋敷を構えた廻船問屋「三傳(三伝) さんでん」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。
傳松と職人達は印刷汚れを落とすため、近所の湯屋、広小路の「有馬の湯」に毎晩通う。番台に座っていた京人形のような美貌の看板娘・新保エツと傳松が恋仲になり、水原町へ駆け落ちする。
1898年12月2日(明治31年) 傳松19歳、エツ15歳の時に虹児を出産、傳松は活版印刷所を水原町で開業するが失敗。
1899年3月(明治32年) 貧困の末、新発田町の母親の実家である「有馬の湯」に虹児を預け、父母は 新潟市東堀通(現・新潟市中央区東堀通)の堀に面した二間きりの借家に引越する。父は新聞記者(新潟中央新聞、現・新潟日報)へ転身。
1902年(明治35年) 3月2日、弟(次男)虎男が新発田町の実家で生まれる。3月末、父親が実家まで迎えに来て、一家で新潟市東堀通に引っ越す。
家族4人となり生活に無理が生じ、父が柏崎の新聞社の植字工(印刷工)に転身。一家で柏崎の裏通りの二軒長屋に一年暮らす。病弱な母親がこの頃から寝たり起きたりの生活となり、虹児が使いをするようになる。父親の酒癖の為に暮らしは楽にならず、父親の才能を惜しむ先輩の口添えで再び新潟市営所通(現・新潟市中央区営所通)の新潟中央新聞に入社。
一家は堀端近くにあった新潟中央新聞社の物置きの中二階に引越(営所通)。父親がアルコール中毒の禁断症状で苦しむようになるが、この頃の虹児は貧しい生活でも父親の酒癖さえなければ天国だったという。
1905年(明治38年) 4月、虹児は西堀小学校(現・新潟市立新潟小学校)に入学。
1907年(明治40年) 2月19日、弟(三男)春男が生まれる。営所通時代に父の素人ばなれした絵と、母が描く「たこ入道」の絵を見る。母から促されて虹児は絵を描きはじめる。
1908年(明治41年)9月4日、営所通の家に居た一家は 新潟大火で焼け出される。 新発田町の「有馬の湯」からほど遠からぬ掛倉町(現・新発田市中央町) 裏路地の七軒長屋に引っ越し、父は新発田町の新聞社に就職。虹児は新発田町の新発田本村尋常高等小学校(三ノ丸小学校)に転校する。 この頃から竹久夢二の絵を透写する。 母親は「有馬の湯」の横にある兄嫁の髪結いの店を手伝ったが胃病で大量吐血し、三ヶ月間床につく。
1911年(明治44年) 新発田本村尋常小学校を卒業する。父親が新津の「岩越新報」の主筆として迎えられる事になり、母親を新発田町に残し、虹児も新津で暮らす。新津尋常高等小学校に入学する。
仕事がうまくいかず、再び父親は新潟中央新聞の後身に迎えられ、一家は大伯父の家があった新潟市白山浦(現・新潟市中央区白山浦)に引っ越す。病弱な母親を支えながら近くの白山公園(白山神社)を散歩することが、虹児にとって何よりも幸せな時間であった。
1911年8月17日、母エツは虹児12歳の時に28歳の若さで死去。虹児の記憶に残った若く美しい母への追慕の情が、後の作風に大きな影響を与えた。
母親の死により家族は離散。新潟市の印刷会社「公友社」に丁稚奉公、絵の勉強をしながら夜学に通う。1912年(大正元年)貧しいながらも恵まれた絵の才能が新潟市長の目にとまり、日本画家の尾竹竹坡(おたけちくは)の弟子になるよう勧められ、14歳で上京(この尾竹竹坡の姪が『青鞜』の尾竹紅吉である)。内弟子として竹坡のもとで日本画を約5年学ぶが、父親の仕事の関係で樺太へ渡る事になり、それを機に放浪画家の生活を送ることになる。
1919年(大正8年)竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。1920年(大正9年)竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、「蕗谷紅児」の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす(翌1921年に虹児に改名)。これをきっかけに、翌年朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判となるや時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになった。
1924年(大正13年)2月、『令女界』に発表した詩画「花嫁人形」は、後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなり、蕗谷の代表作となった。他にも9冊の詩画集を出版した。挿絵に感傷的な余韻を残し、見る者に描き手の想いを伝える絵を手掛けたいと、自らの絵を「抒情画」と名付けるようになった。
1925年(大正14年)挿絵画家としての生活に飽き足らず、渡仏しパリへ留学。苦学の末、フランス国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)のサロン、サロン・ドートンヌ等への連続入選を果たし、またフランス画壇で活躍する日本人画家の藤田嗣治や東郷青児等と親交を深める。ようやく画家としての地歩を固めつつあったが、1929年(昭和4年)東京の留守宅の経済的破綻により急遽帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。蕗谷を世に送り出した夢二の柔らかい画風とは対照的に、このころの蕗谷の挿絵はシャープかつ洗練された線で描かれ、都会的な香りに満ちていた。
1935年(昭和10年)詩画集『花嫁人形』出版。しかし、やがて戦争に突入し戦時色が強くなると蕗谷の絵は時勢に合わず、制作を休止。ただし、1943年(昭和18年)「航空報国」を掲げる大日本航空美術協会主催の第3回航空美術展に招待作品として戦争画「天兵神助」(個人蔵)を出品している。
終戦後は、復興された各誌に執筆を再開。1953年(昭和28年)の小学館の絵本や、1956年(昭和31年)の講談社の絵本など、20冊を越える絵本の挿絵で子供に親しまれた。また、1954年(昭和29年)には「東映動画スタジオ」の設立に参加し、アニメーション映画『夢見童子』の原画・構成を担当した。
1968年(昭和43年)三島由紀夫の若き日の小説作品『岬にての物語』(牧羊社、署名入り豪華限定本)に、彩色画が挿絵装丁に用いられ、三島も蕗谷へのオマージュを記した。1979年(昭和54年)に中伊豆温泉病院で急性心不全により没した。
「蕗谷虹児記念館」が蕗谷の故郷である新発田市に建てられている。また、蕗谷の「花嫁人形」を歌い継ごうと、1998年から毎年同市にて、「全国『花嫁人形』合唱コンクール」が行われている。
主な作品
「混血児とその父母」(1926年)(蕗谷虹児記念館) ※サロン・ドートンヌ出品作
関連書籍
『別冊太陽 蕗谷虹児 愛の抒情画集』平凡社、1985年
『抒情の旅人 蕗谷虹児展』図録 朝日新聞社、1991年
蕗谷龍生編 『蕗谷虹児の世界 ベトエイユの風景』 彌生書房、1992年、ISBN 484150656X
『蕗谷虹児』河出書房新社、2007年、ISBN 9784309727561
阿刀田高『夢の宴 私の蕗谷虹児伝』中央公論社、1990年、ISBN 4120019896

横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月25日 – 1973年(昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家。多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。[要出典]
横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。[要出典]

年譜
1920年 ‐ 新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)に町医者の私生児として生まれる。その後、横山家に養子に出される。名前の“操”とは出生と関係があるとする説もある。
1934年 ‐ 洋画家を志し上京し、洋画家の弟子となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら洋画を学ぶ
1938年 ‐ 第25回光風会展に油彩画の『街裏』が入選するもその後、師の勧めにより日本画に転向する
1939年 ‐ 川端画学校日本画部の夜間部に入学する
1940年 ‐ 当時もっとも新表現に先取的存在であったとされる青龍社(川端龍子が中心的人物の会)の主催する第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。しかし、その後徴兵・召集される。
1945年 ‐ シベリア抑留に遭う。カザフスタン辺りで石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響されたとされており、『カザフスタンの女』等に当時の印象を色濃く残している
1950年 ‐ 復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開する
1951年 ‐ 杉田基子と結婚する
1956年 ‐ 初の個展を銀座で開催する。『炎炎桜島』で青龍賞を受賞
1957年 ‐ 東京都台東区谷中の五重塔が無理心中の男女によって放火、炎上。消失後のその様子を描く(『塔』)
1960年 ‐ 自らの作品を焼却する。またこの頃から『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる
1962年 ‐ 日本画の新たな表現を目指し、青龍社を脱退する
1963年 ‐ これまでとは違う新生横山としての第一回個展・越後風景展を開催する
1966年 ‐ 多摩美術大学日本画科の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。そのときに「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせるような言葉で指導し、また、生徒達に人望があった[要出典]
1971年 ‐ 酒の飲みすぎにより(大変な酒豪でもあった)脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた
1973年4月1日 ‐ 新作の制作途中に没(享年53)。

宮田 亮平(みやた りょうへい、1945年6月8日 – )は、日本の金属工芸家、第22代文化庁長官、第9代東京藝術大学学長。

経歴
1964年(昭和39年)3月 – 新潟県立佐渡高等学校卒業
1970年(昭和45年)3月 – 東京藝術大学美術学部工芸科卒業
1972年(昭和47年)3月 – 東京藝術大学大学院美術研究科(工芸・鍛金専攻)修士課程修了
1973年(昭和48年)
3月 – 東京藝術大学美術学部研究生卒業
4月 – 東京藝術大学美術学部非常勤講師
1984年(昭和59年)4月 – 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室助手
1988年(昭和63年)4月 – 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室講師
1990年(平成2年)4月 – 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室助教授
1990年(平成2年)〜1991年(平成3年) – 文部省在外研究員としてドイツに約1年派遣
ハンブルク美術工芸博物館(英語版)にて研修
1997年(平成9年)4月 – 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室教授
2001年(平成13年)4月 – 東京藝術大学美術学部長
2004年(平成16年)4月 – 東京藝術大学理事(教育担当)・副学長(教育担当)
2005年(平成17年)12月 – 東京藝術大学学長就任
2010年(平成22年)4月 – 東京藝術大学学長に再任(二期目)(任期は2010年(平成22年)4月1日から2016年(平成28年)3月31日)。
2015年(平成27年)12月 – 東京藝術大学学長に再任内定(三期目)(任期は2016年(平成28年)4月1日から2022年(平成34年)3月31日)→後に辞退。
2016年(平成28年)2月 – 第22代文化庁長官に内定(任期は2016年(平成28年)4月1日から2018年(平成30年)3月31日)。
受賞歴
1970年
第24回「二紀展」彫刻部奨励賞
東京藝術大学安宅賞
1971年
第25回「二紀展」彫刻部奨励賞
「二紀展選抜展」佳作賞
1972年 – 第11回「日本現代工芸美術展」大賞 および 読売新聞社賞、日本TV賞
1979年 – 第18回「日本現代工芸美術展」文部大臣賞
1981年 – 第13回「日展」特選
1985年 – 「西武工芸大賞」奨励賞
1996年 – 「国際ジュダイカ・デザイン・コンペティション」銅賞
1997年 – 第29回「日展」特選
1999年 – 朝日「海とのふれあい賞」(朝日新聞社)
2004年 – 「日本銅センター賞」(社団法人日本銅センター)
2005年 – 第7回「瀬戸山賞」(法務省)
2007年 – 第46回「日本現代工芸美術展」内閣総理大臣賞
2012年 – 日本芸術院賞
主な作品所蔵

銀の鈴
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東京藝術大学大学美術館
東京都美術館
新潟県立現代美術館
富山県立山博物館
東京駅「銀の鈴」(4代目)
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神田明神
根津神社
日枝神社
大邱大学校(韓国)
中央学院大学

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