高価買取NO1・満足度NO1に挑戦中!!
骨董品・美術品などの買取販売は新原美術にお任せください。
どこのお店より高価買取に自信があります!!
まずはお気軽にお電話ください。 新原美術 電話0766−22−7303
東京都 とうきょうと
特別区 とくべつく
千代田区 ちよだく
中央区 ちゅうおうく
港区 みなとく
新宿区 しんじゅくく
文京区 ぶんきょうく
台東区 たいとうく
墨田区 すみだく
江東区 こうとうく
品川区 しながわく
目黒区 めぐろく
大田区 おおたく
世田谷区 せたがやく
渋谷区 しぶやく
中野区 なかのく
杉並区 すぎなみく
豊島区 としまく
北区 きたく
荒川区 あらかわく
板橋区 いたばしく
練馬区 ねりまく
足立区 あだちく
葛飾区 かつしかく
江戸川区 えどがわく
八王子市 はちおうじし
立川市 たちかわし
武蔵野市 むさしのし
三鷹市 みたかし
青梅市 おうめし
府中市 ふちゅうし
昭島市 あきしまし
調布市 ちょうふし
町田市 まちだし
小金井市 こがねいし
小平市 こだいらし
日野市 ひのし
東村山市 ひがしむらやまし
国分寺市 こくぶんじし
国立市 くにたちし
福生市 ふっさし
狛江市 こまえし
東大和市 ひがしやまとし
清瀬市 きよせし
東久留米市 ひがしくるめし
武蔵村山市 むさしむらやまし
多摩市 たまし
稲城市 いなぎし
羽村市 はむらし
あきる野市 あきるのし
西東京市 にしとうきょうし
西多摩郡 にしたまぐん
瑞穂町 みずほまち
日の出町 ひのでまち
檜原村 ひのはらむら
奥多摩町 おくたままち
大島支庁 おおしましちょう
大島町 おおしままち
利島村 としまむら
新島村 にいじまむら
神津島村 こうづしまむら
三宅支庁 みやけしちょう
三宅村 みやけむら
御蔵島村 みくらじまむら
八丈支庁 はちじょうしちょう
八丈町 はちじょうまち
青ヶ島村 あおがしまむら
小笠原支庁 おがさわらしちょう
小笠原村 おがさわらむら
≪取扱い商品≫
日本画/洋画/版画/掛軸/屏風/茶道具/古陶磁器/古伊万里/鉄瓶/銀瓶/象牙/貴金属/金/プラチナ/ガラス/ランプ/古時計/根付/印籠/きせる/蒔絵物/酒器/塗物/古酒(洋酒類)/西洋陶器/高級家具/和箪笥/桐箪笥/水屋/火鉢/刀剣/鍔/小道具/仏教美術/人形/古おもちゃ/アンティーク/着物/贈答品/楽器/美術、新作工芸、美術工芸品、掛け軸、人間国宝作品、日本陶磁器、中国陶磁器、彫刻、蒔絵、屏風、古銭、版画、古書、書画/リサイクル品
即現金買取 秘密厳守 無料査定・無料見積いたします。押入れや物置に眠っている品物を高く売りたい方、お気軽にお電話ください!! どこよりも高く買い取る自信があります!!
東京都全域主張買取致します。
お気軽にお電話ください。
買取販売
新原美術 店主 0766−22−7303
下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!
室瀬 和美(むろせ かずみ、1950年(昭和25年)12月26日 – )は、漆芸家。蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)。東京都出身。父は同じく漆芸家の室瀬春二。
年譜
1970年 東京藝術大学美術学部工芸科入学
1973年 安宅賞受賞
1974年 東京藝術大学美術学部工芸科卒業
1975年 「冬華文蒔絵飾箱」が第22回日本伝統工芸展にて初入選
1976年 東京藝術大学大学院美術研究科漆芸専攻修了(修了制作大学買い上げ)
1984年 池袋西武百貨店本店にて第1回個展開催
1985年 蒔絵飾箱「麦穂」が第32回日本伝統工芸展にて奨励賞受賞
1989年 日本橋三越本店にて第2回個展開催
1991年 目白漆芸文化財研究所開設
1996年 三嶋大社蔵国宝「梅蒔絵手箱」模造制作( – 1998年)
2000年
日本橋三越本店にて第3回個展開催
金刀比羅宮本殿拝殿格天井「桜樹木地蒔絵」制作( – 2004年)
蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」が第47回日本伝統工芸展にて東京都知事賞受賞
2002年 蒔絵螺鈿八稜箱「彩華」が第49回日本伝統工芸展にて奨励賞受賞
2004年 銀座和光本店にて第4回個展
2008年
重要無形文化財「蒔絵」保持者(人間国宝)認定
紫綬褒章受章
本阿弥光洲(ほんあみ こうしゅう、本名:道弘、1939年(昭和14年)4月26日 – )は、日本の刀剣研師。国宝指定刀剣の研磨を数多く手がけ、文化財の保存にも尽力している。
略歴
1939年(昭和14年) – 東京都に生まれる。
1962年(昭和37年) – 國學院大學文学部卒業。同年、父・本阿弥日洲(人間国宝)に師事し、光意系本阿弥家18代を継ぐ。
1971年(昭和46年) – 研磨技術等発表会(刀剣研磨・外装技術発表会 )無鑑査(現在に至る)。
2000年(平成12年) – 美術刀剣研磨技術保存会会長に就任。
2008年(平成20年) – 東京都指定無形文化財(工芸技術)「日本刀研磨技術」保持者に指定される。
2009年(平成21年) – 公益財団法人日本刀文化振興協会理事に就任(22年まで)。
2010年(平成22年) – 日本刀文化振興協会理事長に就任。
2014年(平成26年) – 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
2016年(平成28年) – 春の叙勲で旭日小綬章受章。
海野 清(うんの きよし、1884年11月8日 – 1956年7月10日)は、彫金家、日本芸術院会員、人間国宝。
海野勝眠の三男として東京に生まれる。1911年、東京美術学校金工科卒。父および加納夏雄に師事。1919年、母校助教授、1928年、帝展特選、1929年から帝展、新文展審査員を務める。1932年、教授、フランスへ留学し1934年、帰国。1943年、勲三等瑞宝章受章。
1947年、帝国芸術院(同年、日本芸術院)会員、1949年、東京芸術大学教授、日展運営会常任理事、1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、全日本工芸美術家協会会長、日本彫金家会会長。
AKI(あき、1987年4月1日 – )は、東京都出身の画家・デザイナー。
スペイン国立「バルセロナ海洋博物館」にて「マザーフォレスト」を発表、「金賞」「日本スペイン交流親善名誉作家」受賞、日本・ギリシャ修好110周年記念展覧会にて「歴史」を発表、「特別審査委員賞」受賞。2010年、23歳にして、知的障がい者の大学ゲスト講師として日本で初めて教壇(武蔵野美術大学)にたつ。近年では、NHKハートプロジェクト第18回ハート展作画者として選出されたほか、京都・佛光寺派大善院にて、唐紙師とのコラボレーション作品「唐紙四曲屏風・涅槃図」(京都ホテルオークラにて公開)を発表。また、ヨーロッパ、アメリカにてデザインテキスタイルの「AKI デザインファブリック」並びにそのデザインの元となる原画を発表、2014年春発売「アシストスマホ(ソフトバンク株式会社)に作品が採用。
代表作品
2002年 ジャングル探検(世田谷美術館優秀賞)
2003年 アリとサンマ(毎日新聞社賞・全国図書館賞)
2008年 トラウマ(国立新美術館エイズチャリティー優秀賞)
2008年 マザーフォレスト(スペイン国立バルセロナ海洋博物館」にて「金賞」・「日本・スペイン交流親善名誉作家」受賞)
2009年 虹色の塔(国立新美術館エイズチャリティー優秀賞)
2009年 歴史(日本・ギリシャ修好110周年記念展覧会にて「特別審査委員賞」)
2010年 天空の城(国立新美術館エイズチャリティー優秀賞)
2010年 月
2010年 地球
2011年 アイス・プラネット
2011年 ひまわり 「願い」「希望」「光」「勇気」「命」「元気」
2012年 世界と空
2012年 トトアキヒコ氏とのコラボレーション「天と地」「龍宮の国」「社神皇」「雲竜」「月まつり」「花鳥園」
2013年 夜明け
2013年 動物と人間との共存
2013年 スマ―ミュージアム
2013年 「唐紙四曲屏風・涅槃図」(京都ホテルオークラ一般公開)
2013年 「二孔雀」(佛光寺派大善院 奉納)
2014年 「しあわせ」(ホテルオークラ東京一般公開)
2014年 「みなも 水園」(京都ホテルオークラ一般公開)
2014年 「ナポレオン・フィッシュ」(法然院 奉納)
2015年 「風鳥と雷鳥」(京都新聞 京都タカシマヤ一般公開)
近年の主な個展開催[6][編集]
2012年 絵画展(福岡)
2012年 絵画展 25th Anniversary(京都)
2012年 JT 画家AKI絵画展(神戸)
2012年 絵画展(東京・銀座)
2012年 絵画展(新潟)
2012年 JT 画家AKI絵画展(名古屋)
2012年 絵画展(京都)
2012年 絵画展(東京・銀座)
2013年 絵画展(東京・銀座)
2013年 絵画展 26th AKI Birthday(東京・銀座)
2013年 絵画展 26th AKI Birthday(京都・佛光寺派大善院)
2013年 絵画展(三重)
2013年 絵画展(福岡)
2013年 絵画展(東京・銀座)
2013年 絵画展(名古屋)
2013年 フランス・パリ展示会(フランス)
2013年 JT 画家AKI絵画展(神戸)
2013年 絵画展in京都・護王神社(京都)
2013年 JT 画家AKI絵画展(名古屋)
2013年 絵画展(東京・銀座)
2014年 絵画展 27th AKI Birthday(東京・銀座)
2014年 絵画展 27th AKI Birthday(京都・佛光寺派大善院)
2014年 絵画展(福岡)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展(京都・法然院)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展(京都)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2015年 絵画展 (東京・銀座)
2015年 絵画展 (静岡)
2015年 絵画展 28th AKI Birthday(東京・銀座)
2015年 絵画展 (伊勢丹浦和店)
2015年 絵画展 28th AKI Birthday(京都)
2015年 絵画展(神奈川)
2015年 絵画展(福岡)
2015年 絵画展(東京・銀座)
2015年 絵画展(豊島 (繊維商社) 名古屋)
2015年 絵画展(オンワード樫山 ギャラリー 東京・日本橋)
2015年 絵画展(神奈川)
2015年 絵画展(静岡)
2015年 絵画展(神奈川)
2015年 絵画展(東京・京橋)
浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) – 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
生涯
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
1907年12月16日、リウマチにより入院中の東京大学病院において心臓麻痺のため死去[1]。墓地は京都の金地院。
伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 – 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正・昭和期の浮世絵師、日本画家、版画家。本名、一(はじめ)。実娘は女優・タレント・歌手の朝丘雪路。
歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。
経歴
1898年‐東京府東京市深川区深川西森下町(現在の東京都江東区森下一丁目)に生まれる。
1905年‐深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)に入学。同級生に伊東の友人となった関根正二がいた。
1907年‐小学校3年で中退、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く。
1908年‐職工となり深川区深川東大工町(現在の江東区白河四丁目)の東京印刷株式会社の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う。
1911年‐縁あって鏑木清方へ入門。「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進する、このとき14歳。
1912年‐第12回巽画会展に『のどか』が初入選。
1913年‐巽画会1等褒状。
1914年‐再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する。
1915年‐第9回文展に『十六の女』が初入選。
1916年‐渡辺版画店から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、東京日日新聞などに挿絵を描く。
1919年‐好子と結婚し長男と次男をもうける。
1922年‐平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌。
1927年‐大井町に深水画塾を設立。
1932年‐人物画の再興を目指し「青々会」を設立。
1935年‐料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうけた。
1943年‐召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。
1945年‐長野県小諸市に疎開する。
1948年‐『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞
1949年‐鎌倉に転居
1950年‐白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる。
1958年‐日本芸術院会員に推挙
1972年‐癌により5月8日没、享年74歳。墓所は品川区上大崎の隆崇院にある。法名は画光院一誉明澄深水大居士といった。
代表的な作品
右から4人目、市村羽左衛門の後ろに居るのが伊藤(1930年)
『指』(1911年)
『対鏡』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
『遊女』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
『明石の曙』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
『湯気』(1924年)
『羽子の音』(1927年)
『潮干狩』(6曲1隻1929年)
『秋晴れ』(1929年)
『暮方』(1932年)
『宵』(1933年)
『桜花図』(6曲1隻1939年)
『銀河祭』(1946年)
『吹雪』(1947年)
『信濃路風景』(1948年)
『髪』(2曲1隻1949年)
『聞香』 絹本着色 (1950年) 東京国立近代美術館所蔵
『清方先生像』 絹本着色 (1951年) 東京国立近代美術館所蔵
『春宵(東おどり)』(4曲1隻1954年)
『吉野太夫』(1966年)
『伊達巻の女』
『口紅』
『雪の女』
『丸髷』
『社頭の雪』
『姿見』 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
『大島婦女図』 紙本着色 熊本県立美術館所蔵
『月夜図』 紙本着色 熊本県立美術館所蔵 など
歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) – 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない[1]。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
略歴
東海道五十三次之内 日本橋
歌川豊広の門人。
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月には父も死去。幼い頃からの絵心が勝り文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1776年-1828年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用して武者絵や美人画を描いた。
それから5年後の文政6年(1823年)には、祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って、鉄蔵と改名し後見となった。家業の火消同心を辞め、絵師に専心した。
始め役者絵から出発。やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている[2]。
同年、正式に職を仲次郎に譲ってから浮世絵師として独立した。この年、公用で東海道を上り、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も多く残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん
「西方浄土の名所を見てまわりたい」と詠っている。
ヒロシゲブルー
京都名所之内 淀川
左:広重 右下:北斎 右上:モネの構図の類似例
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。
この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。ただし、その他の浮世絵でも使われるベロ藍自体はヨーロッパから輸入されたものである。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている。
東海道往復旅行
東海道五十三次之内 蒲原
東海道五十三次之内 庄野
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[3]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。(外部リンクに、これに対する否定説を述べた『司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について』あり。)
甲州日記
詳細は「甲州日記」を参照
富士三十六景之内 甲斐御坂越
江戸時代中期には生産力の向上から都市部では学問や遊芸、祭礼・年中行事など町人文化が活性化し、幕府直轄領時代の甲斐国甲府(山梨県甲府市)でも江戸後期には華麗な幕絵を飾った盛大な甲府道祖神祭礼が行われており、甲府商人の経済力を背景に江戸から広重ら著名な絵師が招かれて幕絵製作を行っている。広重は天保12年(1841年)に甲府緑町一丁目(現若松町)の町人から幕絵製作を依頼され、同年4月には江戸を立ち甲州街道を経て甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。この時の記録が『甲州日記』(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際に道中や滞在中の写生や日記を書き付けられており、現在の八王子市から見た高尾山、甲府市内から見た富士山や市内の甲斐善光寺、身延町の富士川など甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれており広重の作品研究に利用されているほか、甲府での芝居見物や接待された料理屋の記録など、近世甲府城下町の実態を知る記録資料としても重視されている。
日記によれば広重は同年4月5日に甲府へ到着し、滞在中は甲府町民から歓迎され句会や芝居見物などを行っている。日記は一時中断して11月からはじまっており、この間には幕絵は完成し、手付金は5両であったという。幕絵は東海道の名所を描いた39枚の作品で、甲府柳町に飾られたという。日記の中断期間中は幕絵制作に専念していた可能性や、制作のためにいったん江戸で戻っていた可能性などが考えられている。広重の製作した幕絵は現存しているものが少ないが、山梨県立博物館には2枚の幕絵が所蔵されており、甲府市の旧家には下絵が現存している。
また、幕絵以外にも甲府町人から依頼された屏風絵や襖絵などを手がけており、甲府商家の大木コレクション(山梨県立博物館所蔵)には作品の一部が残されている。
日記は甲府滞在記録のほか甲斐名所のスケッチも記されており、一部は『不二三十六景』において活かされている。『甲斐志料集成』などに収録され知られていたが、原本は関東大震災で焼失している。発見された写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされ、1925年にイギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。2005年にロンドンのオークションでアメリカ人が落札、栃木県那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。約80年ぶりに発見されたのである(2006年9月5日付朝日新聞)。
肉筆画
左:広重 右:ゴッホの模写
左:広重 右:ゴッホの模写
その後、嘉永(1848年)頃から単に立斎と称している。版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。 有名なのが、俗に「天童広重」とも呼ばれる200点以上の肉筆画で、天童藩から依頼されたものである。当時、藩財政が逼迫したので藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていた。1851年、その返済の代わりとして広重の絵を贈った。 なお、遠近法は印象派画家、特にゴッホ(1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては北斎や、歌川の始祖豊春(1735年-1814年)の浮絵にみられる。
江戸での住居
名所江戸百景 大はしあたけの夕立
文久年間(1861年から1863年)の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の京橋)に広重の住居があり[4]、西隣には狩野永悳の旧居が印刷されている。
その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである。
辞世の句
辞世の句は、
東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む
であるというが、「後の広重の作ではないか」とする見解もある。
明治15年(1882年)4月(広重の死後24年目)、門人たちが、墨江須崎村の秋葉神社に碑を建立したが、第二次世界大戦の東京大空襲により破壊され、現在は残っていない。
墓所
東京都足立区の東岳寺境内の初代安藤広重墓及び記念碑
流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年)9月6日61歳で没。墓所は東京の足立区にある禅宗東岳寺。
おもな作品
東海道五十三次 蒲原
錦絵
『傾城貞かがみ』(1818)、役者絵
『外と内姿八景』(1821)、美人画
『東都名所拾景』(1825〜1831ころ)、横中判で10枚揃物
『風流おさなあそび』(1830〜1834ころ)、横大判の玩具絵で、男子と女子の2バージョンがある
『魚づくし』(1830〜1843ころ)、花鳥画
『忠臣蔵』(1830〜1844ころ)、横大判で16枚揃物の役者絵、
『東都名所』川口正蔵版(1832)、横大判で10枚揃物、俗に「一幽斎がき東都名所」
『本朝名所』(1832)
『東都名所』喜鶴堂版(1832)
『月二拾八景』(1832)、花鳥画
『東海道五十三次』保永堂版(1833〜1834)、横大判で55枚揃物、53の宿場と江戸と京都を描く
『近江八景』山本屋版・保永堂版(1834)
『京都名所』(1834)、横大判で10枚揃物
『浪花名所図絵』(1834)、横大判で10枚揃物
『四季江都名所』(1834)、中短冊判で4枚揃物
『義経一代記』(1834〜1835)、歴史画
『諸国六玉河』蔦重版(1835〜1936)、横大判で6枚揃物
『木曽海道六十九次』(1835〜1842)、「宮ノ越」など、横大判で70枚揃物、渓斎英泉の後を継ぐ
『江戸高名会亭尽』(1835〜1842ころ)、横大判で30枚揃物
『金沢八景』(1836)、横大判で8枚揃物
『曽我物語図絵』(1837〜1848ころ)、竪大判で30枚揃物の物語絵、上部を雲形で仕切り絵詞を入れている
『江戸近郊八景』(1838)、横大判で8枚揃物
『東都名所』藤彦版(1838)
『江都勝景』(1838)
『東都司馬八景』(1839)、横大判で8枚揃物
『即興かげぼしづくし』(1839〜1842)、竪中判の二丁掛で玩具絵
『和漢朗詠集』(1839〜1842ころ)
『諸芸稽古図絵』(1839〜1844ころ)、横大判の四丁掛で4枚揃物の玩具絵、子供の稽古事16種を戯画風に描いた
『東海道五拾三次』佐野喜版(1840)、俗に「狂歌東海道」
『新撰江戸名所』(1840)
『東都名所坂づくし』(1840〜1842ころ)
『東都名所之内隅田川八景』(1840〜1842ころ)
『東海道五十三次』江崎版(1842)、俗に「行書東海道」
『甲陽猿橋之図』『雪中富士川之図』(1842)、竪2枚続の掛物仕立、「甲陽」版元は蔦谷吉蔵「雪中」は佐野屋喜兵衛、縦長の構図にそそり立つ渓谷の絶壁と猿橋の姿を見上げる構図で描き、遠景の集落と満月が描かれている
『東海道五十三対』(1843)、三代豊国・国芳との合作
『教訓人間一生貧福両道中の図』(1843〜1847ころ)、横3枚続の玩具絵
『娘諸芸出世双六』(1844〜1848ころ)、間判4枚貼りの双六で、ふりだしは学芸の基礎である手習いで上りは御殿の奥方になる
『小倉擬百人一首』(1846)、100枚揃物で三代豊国・国芳との合作
『春興手習出精雙六』(1846)、大判2枚貼りの双六で、寺子屋の学習内容と生活風習がテーマ
『東海道』(1847)、俗に「隷書東海道」
『東海道五十三図絵』(1847)、俗に「美人東海道」の美人画
『狂戯芸づくし』(1847〜1848ころ)、竪大判の戯画
『江戸名所五性』(1847〜1852ころ)、竪大判で5枚揃物の美人画
『本朝年歴図絵』(1848〜1854ころ)、物語絵で、日本書紀に材をとり、古代天皇の時代ごとに、説明文を上部に記し下部に絵を描く
『東海道張交図会』(1848〜1854ころ)、張交絵
『東都雪見八景』(1850ころ)、横大判で8枚揃物
『伊勢名所二見ヶ浦の図』(1850ころ)、横3枚続
『五十三次張交』(1852)、張交絵
『箱根七湯図会』(1852)
『源氏物語五十四帖』(1852)、物語絵
『五十三次』(1852)、俗に「人物東海道」
『不二三十六景』(1852)、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれている
『国尽張交図絵』(1852)、張交絵
『六十余州名所図会』(1853〜1856)、竪大判で70枚揃物
『双筆七湯廻』(1854)、団扇絵で7枚揃物、三代豊国との合作
『童戯武者尽』(1854)、戯画
『双筆五十三次』(1854〜1855)、三代豊国との合作
『五十三次名所図絵』(1855)、俗に「竪の東海道」
『名所江戸百景』(1856〜1859)、竪大判で120枚揃物
『諸国六玉川』丸久版(1857)、竪大判で6枚揃物
『武陽金澤八勝夜景』『阿波鳴門之風景』『木曽路之山川』(1857)、大判横3枚続
『山海見立相撲』(1858)、横大判で20枚揃物
『冨士三十六景』(1859)、竪大判で37枚揃物、版下絵は1858年4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏、結果的に最後の作品となった、版元は蔦谷吉蔵、富士を描いた連作で『名所江戸百景』と同様に風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図の印像
肉筆浮世絵
『琉球人来貢図巻』(1807)、紙本墨画1巻、浮世絵太田記念美術館所蔵、広重10歳の時の作品
『傾城図』(1818〜1822ころ)、紙本着色、日本浮世絵博物館所蔵
『行列図』(1832)、絹本着色、東京国立博物館所蔵
『桜と小禽図』(1835)、杉戸板地着色、泉谷寺所蔵
『煙管をもつ立美人図』、絹本着色、出光美術館所蔵
『鬼念仏と美人図』、紙本墨画淡彩、出光美術館所蔵
『玉川の富士・利根川筑波図』(1848〜1853)、絹本着色双幅、ニューオータニ美術館所蔵
『御殿山花見図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
『利根川図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
『本牧風景図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
『高尾図』、紙本淡彩、ニューオータニ美術館所蔵
『武相名所手鑑・馬入川舟渡』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
『武相名所手鑑・南郷之松原左り不二』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
『高輪の雪図・両国の月図・御殿山の花図』、絹本着色3幅対、鎌倉国宝館所蔵
『不二川の図』、絹本着色短冊、城西大学水田美術館所蔵
『鴻ノ台図屏風』(1841)、絹本着色六曲一隻、山梨県立博物館大木コレクション
『不二望岳図』、絹本着色、熊本県立美術館所蔵
『屋根船の芸妓図』、紙本淡彩、熊本県立美術館所蔵
草双紙・絵本
『狂歌紫の巻』(1818)、絵入り狂歌本
『音曲情糸道』(1820)、合巻挿絵
『寶船桂帆柱』(1827)、合巻挿絵
『狂歌山水奇鑑』(1831)、絵入り狂歌本
『俳諧三十六句撰』(1837)、絵入り俳諧本
『絵本忠臣蔵』(1845)、絵本
『菅原伝授手習鑑』(1846)、絵本
『絵本膝栗毛』(1846〜1849)、合巻挿絵で、国芳・英泉との合作
『立斎草筆画譜』(1848〜1851)、絵本
『絵本江戸土産』(1850〜1857)、全10編の絵本で、1編から7編まで担当し、あとは二代広重が描いた
『略画光琳風立斎百図』(1851)、琳派調の草花・人物・風俗等を軽妙なタッチで描いた絵手本
『岐蘇名所図会』(1851-1852)、絵入り狂歌本
『狂歌四季人物』(1855)、絵入り狂歌本
『狂歌江都名所図会』(1856)、全16編の絵入り狂歌本で、1編から14編まで担当し、あとは二代広重が描いた
『富士見百図』(1859)、富士の姿をリアルに描いた絵本で、作者の死により初編のみで未完に終わった
所蔵美術館
各所で所蔵されるが、光線による劣化があるため常時展示はしていないことが多い。日本国内では、
東京国立博物館(東京都台東区)
那珂川町馬頭広重美術館(栃木県那珂川町)
神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)
中山道広重美術館(岐阜県恵那市)
東海道広重美術館(静岡県静岡市)
広重美術館(山形県天童市)
海の見える杜美術館(広島県廿日市市)
に所蔵されている。
国外では
メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
ボストン美術館(アメリカ合衆国、ボストン)
ブルックリン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
ギメ東洋美術館(フランス共和国、パリ)
に作品がある。
広重の襲名者たち
『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。 『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。
『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。
藤懸静也によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を重宣(1826年-1869年)という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となっている。その後、しばしば横浜に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。また、「喜齋立祥」の画号を用いて制作したがその中で、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。なお、『名所江戸百景』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。
三代目は門人の重政(1842年-1894年)で俗称は後藤寅吉である。離縁後のお辰を妻とした。号は一笑齋。
四代目(菊池貴一郎)は、三代目夫人、八重子と清水晴風らが相談して、四代目広重を襲名させた。菊地家は安藤家と親しかったためである。最初は版画を制作し、武者絵などを多く書いたが、後に書家となった。貴一郎は浮世絵に関する著作を出版している。
五代目(菊池寅三)は、四代目(菊池貴一郎)の息子が継いでいる。
門人
広重の門人には二代目広重、三代目広重のほか、歌川広景、歌川重清、歌川重昌、暁斎重晴、遠浪斎重光、一昇斎重次、歌川重房、歌川重春、重美、重華、重久、重芳、重歳、紫紅、歌川芳延などがいた。重晴は清水氏で暁風とも号し、重春と同一人かともいわれる。重房は本名を吉野勝之助と云い、安政の頃に活躍した。
大竹 伸朗(おおたけ しんろう、1955年10月8日 – )は、日本の現代美術家。
経歴
「はいしゃ」(直島家プロジェクト)
東京都目黒区出身。
小学生の頃は漫画家になりたかったため、アニメのキャラクターを描き溜めては近所にあったアニメスタジオへ見せに行っていた。スタッフの人が褒めてくれ、帰りにセル画を貰えるのが嬉しかったという。中学生時代にはサッカー、ロック、絵に没頭する。兄の持っていたレコードや画集を見聞きし、もの凄く影響を受けたという。
小学校時には大田区六郷に住んでいて巨人の多摩川グラウンドによく通った。広岡達朗のファンだったという。小学校3年の時、練馬区に転居。
1974年、東京芸術大学に落ち、武蔵野美術大学油絵学科に入学するも、一週間で休学。北海道別海町の牧場で働く。翌年から北海道各地を巡り絵を描いたり写真を撮ったりして過ごす。
1977年から1978年、イギリスに留学。同地で様々な情景を撮影、またスケッチなどをし、その作品をまとめて作品集を出版する。
1980年、武蔵野美術大学油絵学科卒業。ノイズバンド「JUKE/19」結成し、自主制作でアルバム発売。
1982年から個展を開始。以後絵本、写真、立体、コラージュやパフォーマンスといった多種多彩な表現をみせる。ガラクタや巨大なゴミを媒介にしての作品を特徴とする。アメリカなどでも個展を開催している。
1988年より愛媛県宇和島市に移住。以降、活動の拠点とする。
1995年、山塚アイとパフォーマンスユニット「パズル・パンクス」を結成する。
2006年、東京都現代美術館で大回顧展「大竹伸朗 全景 1955-2006」を開いた。また、以前働いていた北海道別海町の牧場で個展を開いた。香川県直島の家プロジェクトの「はいしゃ」に作品「舌上夢/ボッコン覗」を発表。
2007年、雑誌「風の旅人」の表紙を制作。第25号から30号まで行う。
2009年、香川県直島で、銭湯「I♥湯(アイラブゆ)」をオープン。
2012年、ドイツのカッセルで5年に一度開催される第13回ドクメンタに参加。
2014年、平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣賞美術部門受賞。
葛飾 北斎(かつしか ほくさい、葛飾 北齋、宝暦10年9月23日(1760年10月31日)? – 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))とは、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
概説
森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。
生涯年表
年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)
『冨嶽三十六景 凱風快晴』
(通称:赤富士)
『冨嶽三十六景 駿州江尻』
北斎改為一筆(葛飾北斎画)
『冨嶽三十六景 尾州不二見原』
北斎改為一筆(葛飾北斎画)
信州小布施、上町祭屋台天井絵(桐板着色肉筆画)のうち、『怒涛図』2図中の1「女浪」、その一部。「#北斎館」も参照。
宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。「#北斎通り」も参照)にて、貧しい百姓の子として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。
明和元年(1764年) 幼くして、幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。
安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。
写真提供 Teioコレクション 安永8年(1779年)の北斎デビュー作とされる。 瀬川菊之丞の図 初め勝川春章の門入で春朗と号した。
安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。
寛政6年(1794年) 勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。
寛政10年(1798年) 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。
享和2年(1802年) 狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。
文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。
文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。
文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
文化11年(1814年) 『北斎漫画』(#)の初編を発刊。
文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』(#)を手がける。
天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。
天保15年(1844年) 信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』(右の絵はその一部)などを描く(#)。
嘉永2年4月18日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった(#)。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。
改号すること30回
彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。
現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などというかたちで使われていたことによる。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説や、北斎の自己韜晦(とうかい)癖が影響しているとする説[7]もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。
転居すること93回
『富士越龍図』
肉筆画(絹本着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。死の3ヶ月ほど前、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。
北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想している。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをした。
最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。
挿絵画家の一面
浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある。
真正の画工と成るを得べし
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。
翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す
これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味である。
辞世の句は、
人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原
その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。
家族
葛飾北斎は生涯に2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女を儲けている(合わせると二男四女)。
父:鏡師中島伊勢。
母:吉良上野介の家臣小林平八郎の孫娘。
長女:お美与 – 北斎の門人の柳川重信と結婚するが離縁。
長男:富之助
次女:お辰(またはお鉄)
次男:多吉朗-崎十郎(元服後)支配勘定-加瀬氏へ養子に出る。
三女:お栄(葛飾応為) – 絵師の南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てる。
四女:お猶
孫娘:白井多知女
曾孫:白井孝義
奇行・その他
食事
料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。
ここまで乱れた生活を送りながらも彼が長命だった理由として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説がある。
斎藤月岑によれば、この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、という。
飲酒・喫煙
北斎は酒を飲まなかった。これを否定する意見として、「通常の名家、文人墨客で飲まないところはない。また大手の画家であり画工料は多い。にもかかわらず乱れた生活、不衛生な部屋、汚れた衣服を着ている、引っ越しが多いというのは往々にして酒飲みの典型である」というものがある。しかし明治に行われた周辺へのインタビューでは下戸であったというものばかりである。河鍋暁斎によれば「酒を飲まないばかりか、お茶でも上等の茶は嗜まないし、煙草も吸わない。殊に煙が嫌いで夏に蚊遣りも使わない」。別の証言では「酒は飲まないが、菓子を嗜む。訪問するとき大福餅7,8を持って行くと、大喜びし舌鼓を打った。」という。交流のあった柳亭種彦は「酒は嗜まないが茶をたしなむ。」という文を残している。
貧しい理由
北斎は金銭に無頓着であった。北斎の画工料は通常の倍(金一分)を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由する。しかし金を貯える気は見られない。画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡した。店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという形であった。このようないいかげんな金銭の扱いが貧しさの一因であろう。
挨拶
北斎は、行儀作法を好まなかった。たいへんそっけない返事をし、態度をとる人物であった。人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけこたえ、一般的な時候・健康について長話をしなかった。
外出の様子
衣服は絹類や流行の服を着たことがない。雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天。六尺の天秤棒を杖にして、わらじか麻裏の草履をはく。だれかから「いなかものだ」と言われるのを、ひそかに喜んでいた。また、歩くときに常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった。
室内の様子
ある日は、北斎が部屋の隅を筆で指し、娘を呼んで「昨日の晩までここに蜘蛛の巣があっただろう。どうして消えたんだ。お前知らないか?」としばらく気にし続けていたことがあった。
また訪問した人の証言では「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という。
晩年の北斎が弟子露木為一に語っている。「9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。布団にはしらみが大発生した。」(下図中の文章とほぼ同内容)
北斎仮宅之図(露木為一 国立国会図書館所蔵) 弟子が北斎仮宅之図に北斎の様子と、室内の状況を描いている。 晩年の北斎が、こたつの布団をかぶりながら畳の上に紙を敷いて絵を描いている。不敵な顔をした娘のお栄が、箱火鉢に添いながらその様子をながめている。 杉戸には「画帳扇面おことわり」と張り紙をしている。柱にはミカン箱を打ち付けて仏壇としている。はきちらかした草履と下駄。火鉢のうしろが炭と食品容器であったかごや竹皮のごみの山である。
火事
「火事は江戸の名物」といわれるほど江戸は火事が多かったが、北斎は何十回と引っ越しを繰り返しながら、転居56回、75歳になるまで奇跡的に火災に遭わなかった。これが自慢で鎮火の御札を描いて人に渡したりしていた。
75歳でとうとう火災に遭い、もともと乏しかった家財も失い乞食のようになってしまった。若い頃から描き貯めた資料も焼失し、大変がっかりしてもう集めなくなった。火災直後は道具が無い間、徳利を割って底を筆洗いに、破片をパレットにして画を描いていたこともあった。
この火災のとき、仕事中の北斎は筆を握ったまま飛び出し、娘阿栄も飛び出して逃げた。後から思うと家財を運び出す余裕はあったが、その時はあわてていて気が回らなかった。
外国人とのトラブル
長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった。(シーボルト事件)
オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である。
歌舞伎役者とのトラブル
幽霊役で人気だった歌舞伎役者の尾上梅幸(尾上菊五郎 (3代目))が北斎に画を依頼したことがあった。ところが招いても北斎がまったく来ないため、有名人らしく輿に乗って北斎宅に訪問した。もともと貧しい家で、掃除もしたことのない荒れ果てた室内は不潔極まりなく、おどろいて毛氈(敷物)を引かせた後入室し着座。一礼しようとすると北斎は「失礼だ」と怒り出し、机に向かって相手もしようとしなくなった。ついに梅幸も怒って帰ってしまった。
後日梅幸が非礼を詫びると二人は親しくなった。普段の北斎は横柄ということはなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物だった。
武士とのトラブル
津軽藩主が屏風絵を依頼し、使者が何度も北斎を招いたがいっこうに赴こうとしなかった。10日ほどしてついに藩士が北斎宅までやってきて、「わずかばかりではありますが」と5両を贈って藩邸への同行をうながし「屏風が殿のお気に召せば若干の褒美もありましょう」と言葉を添えたが、北斎は用事があると応えて行かなかった。数日してまた藩士が訪問し再度同行を促したが、また北斎は断った。とうとう藩士は憤慨し「この場で切り捨てて、私も自害する。」と怒り出してしまうが、集まった人々が藩士をなだめ、北斎に出向くよう勧めるなどと大騒ぎになった。それでも頑として拒否し続ける北斎は「じゃ前にもらった5両返せばいいんだろう。明日金を藩邸に送りつけてやる。」と言い出したので、藩士も人々もあきれはててしまったが、その日はなんとか収まった。
数カ月後、招かれないのに唐突に津軽藩邸に現れ、屏風一双を仕上げて帰った。常に貧しく不作法な北斎であったが、気位の高さは王侯にも負けず、富や権力でも動かないことがあった。
画法の追求
北斎は晩年になっても画法の研究を怠らず続けていた。
北斎は「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」とし、接骨家・名倉弥次兵衛のもとに弟子入りして、接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、やっと人体を描く本当の方法がわかったと語った。
弟子の露木為一の証言では、「先生に入門して長く画を書いているが、まだ自在に描けない・・・」と嘆いていると、娘阿栄が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ。」と言うと、そばで聞いていた北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。
即興制作
ある時、元勘定奉行、久須美祐明が北斎を招き席画を書かせた。最初の2、3枚はふつうの細密な絵を描いた。ちょうどその席に子供がいたので、北斎は半紙をひねって渡し「これに墨をつけて紙の上に垂らしてごらん」と言った。子供が言われたとおりにポタポタと墨を垂らすと、北斎は無作為に垂らされた黒い染みに自在なタッチで筆を加え、たちまちのうちに奇々怪々なお化けの絵に仕上げてしまった。一瞬のうちの妙技に、見物していた人々は驚きの声を上げた。
この日は夕方から深夜まで子供と遊びながら画を描いた。同行者は、先生は誰の言うことも聞かないので、どんな絵を描こうとも意のままに描いてもらうしかない。と述べたという。
11代将軍徳川家斉は北斎の画力を聞きつけ、鷹狩の帰りに滞在した浅草伝法院に北斎他を呼び画を描かせた。1人目谷文晁がまともな絵を書き、2人目に北斎が御前に進み出たが恐れる気色なく、まず普通に山水花鳥を描いた。次に長くつないだ紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠からだした鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に見立て、「竜田川でございます」と言って拝礼して退出した。一同はこの斬新な趣向に驚嘆した。
弟子が語るには、北斎自身は将軍の前に出ることを無上の栄誉に感じ大いに喜んでいたが、礼儀を正し窮屈なことには困ったという。また長屋の大家は将軍にご覧に入れるとの内命があると、トラブル・不祥事の心配な北斎の身柄を預かって拝謁の日まで外出を許さなかった。
作品
風景画や春画、奇想画にいたる多岐の浮世絵を描いている。また、晩年になると肉筆画を多く残している。
主要作品
ここに示すものは揃物(そろいもの)等まとまった作品群であるが、これらは北斎の画業のごく一部に過ぎない。1点のみで著名な作品もある。また、画業と言うことでは、現代に伝えられなかった大量の作品があり、それらは文字による記録の形で「存在した」程度のことではあるが確認できる場合がある。このため北斎が描いた作品総数は分かっていないが、永田生慈著『葛飾北斎年譜』に付けられた「版木・版画作品目録」では1385点[8]で、これは2冊本も1点と数えており、実際には更に摺物と肉筆画が加わる。数え方にもよるが、挿絵なども1図と数えれば3万点を越えるという意見もある。
北斎漫画
『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭と瞽女(ごぜ)
視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた。
詳細は「北斎漫画」を参照
全15編。図数は4,000図とされる版本(彩色摺絵本)。北斎54歳、画号・戴斗の頃(文化11年〈1814年〉)に初版あり。初めは絵手本(画学生のための絵の教本)として発表されたものであったが、評判を呼び、職人の意匠手引書などにも用いられることとなって広く普及した。さまざまな職業の人から道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれている。「#作品画像の10」も参照。
百物語
百物語を画題として妖怪を描いた化物絵。中判錦絵。全5図のうち、四谷怪談と皿屋敷を扱った2図が特に有名。落款は為一筆。天保2 – 3年(1831年 – 1832年)頃。版行当初は100に及ぶ揃物として企画されたと考えられている。しかし、今日確認されるものは以下の5図のみである。
「お岩さん」(#4) 「さらやし記」(#5) 「笑ひはんにや」 「しうねん」 「小はだ小平二」
冨嶽三十六景
詳細は「冨嶽三十六景」を参照
『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」
富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物で、主板の36図、および好評により追加された10図の、計46図。初版は文政6年(1823年)頃に制作が始まり、天保2年(1831年)頃に開版、同4年頃に完結している。落款は北斎改為一筆。版元は西村屋与八(永寿堂)。
北斎の代表作として知られ「凱風快晴」(通称:赤富士)や「神奈川沖浪裏」が特に有名。「神奈川沖浪裏」は、それを見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛したり、そこから発想を得たドビュッシーが交響詩『海』を作曲したりと、その後の西欧の芸術家に多大な影響を与えることとなった。波頭が崩れるさまは常人が見る限り抽象表現としかとれないが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写実的に優れた静止画であることが確かめられる。波の伊八が製作した彫刻との類似性も指摘されている。
千絵の海
『千絵の海』「総州銚子」
各地の漁を画題とした中判錦絵の10図揃物。変幻する水の表情と漁撈にたずさわる人が織りなす景趣が描かれている。天保4年(1833年)年頃、前北斎為一筆。
「絹川はちふせ」 「総州銚子」「宮戸川長縄」 「待チ網」 「総州利根川」 「甲州火振」 「相州浦賀」 「五島鯨突」「下総登戸」 「蚊針流」。
版行されなかった版下絵2図と、版行された絵より複雑で詳細な墨書きがなされた初稿と考えられる版下絵が3図伝わることから、本来浮世絵で通例の全12図の版行予定だったと想像される。しかしこれでは手間がかかり採算に合わないと版元に拒否され、北斎はしぶしぶ修正したが、残り2図は結局折り合いがつかないままお蔵入りとなったと考えられる。
諸国滝廻り
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた大判錦絵による名所絵揃物全8図で、版元は『富嶽三十六景』と同じ西村屋与八(永寿堂)。天保4年(1833年)頃、前北斎為一筆。
「下野黒髪山 きりふりの滝」 「相州 大山ろうべんの瀧」 「東都葵ケ岡の滝」 「東海道坂ノ下 清流くわんおん」 「美濃ノ国 養老の滝」 「木曽路ノ奥 阿彌陀ヶ瀧」(#3) 「木曾海道 小野ノ瀑布」 「和州吉野義経 馬洗滝」
諸国名橋奇覧
『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』
飛騨と越中の国境に架かる吊り橋を樵(きこり)の夫婦が渡っていく。橋には手すりとて無く、たわむ様子が緊張を誘う。雲海に沈んだ谷は底が知れない。行く手の山には2頭の鹿が草を食み、鳥は高い空を悠然と舞う。
全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵。天保4 – 5年(1833年 – 1834年)、前北斎為一筆。描かれた橋の多くは実在するが、伝説上の橋も含まれている。
「摂州安治川口天保山」 「かめゐど天神たいこばし」 「足利行道山くものかけはし」 「すほうの国きんたいはし」「山城あらし山吐月橋」 「ゑちぜんふくゐの橋」 「摂州天満橋」 「飛越の堺つりはし」「かうつけ佐野ふなはしの古づ」 「東海道岡崎矢はぎのはし」 「三河の八ツ橋の古図」
肉筆画帖
『肉筆画帖 鷹』 全10図中の第2図。(長野県小布施町、北斎館所蔵)
にくひつ がじょう。全10図一帖からなる晩年の傑作。肉筆画(紙本着色)でありながら版元の西村屋与八から売り出された。天保5 – 10年(1834年 – 1839年)、前北斎為一改画狂老人卍筆。正式な作品名称は、木版刷りの原題簽より「前北斎卍翁 肉筆画帖」。天保の大飢饉(1833年 – 1839年)の最中、版元たちとともに休業状態に追い込まれた北斎は一計を案じ、肉筆画帖をいくつも描いて店先で売らせることで餓死を免れたと伝えられる。ただし、大飢饉の前に出された肉筆画帖発売の広告も知られている。現存全図が揃った完全な状態で残っているのは3帖のみであるが、肉筆画帖は当時、もう少し多く発売されていたらしい。
「福寿草と扇面」「鷹」「はさみと雀」 「桜花と包み」 「蛇と小鳥」 「不如帰と虹」 「鰈と撫子」(#16) 「蛙とゆきのした」(#15) 「鮎と紅葉」(#14) 「塩鮭と鼠」(#13)。北斎館、香雪美術館、葛飾北斎美術館所蔵で、香雪本が最も原装に近い。3冊の収録順もそれぞれ入れ違いが見られるが、現在当初の並び順を知るのは不可能である(上記は北斎館の順番)が、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる。
富嶽百景
『富嶽百景』 二編9丁より「海上の不二」
砕け散る波頭は千鳥の群れと一体となり遠方の富士の峰へと降りかかる。
3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(北斎改為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。
しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した跋文(後書き)である。
己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
百人一首乳母が絵説
天保6年(1835年)から天保9年(1838年)、北斎卍筆。百人一首の歌意を乳母が判りやすく絵で説くとの企画のもと製作された、北斎最後の大判錦絵揃物。全100点の予定だったが、版元の西村与兵衛が版行途中で没落したため、「猿丸太夫」など27枚で中断(内1枚は校合摺のみ)。また当初の企画に反して、実際の絵ではかえって解釈し難い図も多く含まれており、当時は不評だったことも中断の理由と考えられる。北斎自身はこの企画に強い意欲があったらしく、全100図の版下絵を描いていたと見られる。現在、版行作品と校合摺、版下絵など合計91点確認されており、版下絵は遺存する数の多さや繊細な表現から晩年期における北斎肉筆画の基準作として重要。フリーア美術館や大英博物館などに分蔵。
信州小布施の肉筆画
信州小布施 東町祭屋台天井絵 『龍図』(桐板着色肉筆画)
信州小布施を生地とし造酒業を主とした豪農商にして陽明学等学問にも通じた高井鴻山(文化3年 – 明治16年〈1806年 – 1883年〉)は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、旅の道すがらとでもいった様子で齢83の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、アトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を建てて厚遇。以来、北斎の当地への訪問は4度にわたり、逗留中は鴻山の全面的援助のもとで肉筆画を手がけ、独自の画境に没入していった。このとき描かれたものが、小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、岩松院の天井絵である。
祭屋台天井絵
上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『鳳凰図』(#8)および『龍図』の2図がある。
『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものであるが、当時は禁制下にあったにもかかわらずキリシタンのものを髣髴(ほうふつ)とさせる1体の有翼天使像が含まれている。
八方睨み鳳凰図
岩松院 『八方睨み鳳凰図』下絵
はっぽうにらみ ほうおうず。長野県小布施町にある曹洞宗寺院・岩松院の本堂、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年(1848年)、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品である。肉筆画(桧板着色)。
由良哲次説によると、北斎は83歳のときを初めとして4度、小布施を訪れているが、本作は、4度目の滞在時のおよそ1年を費やして描き込まれ、渾身の一作を仕上げた翌年、江戸に戻った北斎は齢90で亡くなったと考証された。しかし現在では、本図が描かれたとされる嘉年元年6月に、北斎は江戸浅草で門人・本間北曜と面談し、北曜に「鬼図」(現佐野美術館蔵)を与えていた事実が確認され、北斎が89歳の老体をもって小布施を訪れ、直接描いたとする説には否定的な見解が強くなっている。(娘の葛飾応為が手伝って描いたものではないかと推測されている)。
21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものである。植物油性岩絵具による画法で、中国・清から輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150両と記録される。加えて金箔4,400枚を用いて表現された極彩色の瑞獣は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられている。
なお、平成2年(1990年)には、画面中央下にあって逆さまの三角形を形作る白い空間(右に示した下絵では黒い空間)が富士山の隠し絵であることが、当時の住職によって発見されている。また、製作手段については、下で描いて完成させたものを天井に吊り上げたと推定されている。[要出典]
喜能會之故眞通
『喜能會之故眞通 蛸と海女』
詳細は「喜能會之故眞通」を参照
きのえのこのまつ。春画の揃物(色摺半紙本)で、その中の1図「蛸と海女」が有名である。文政3年(1820年)頃。
肉筆浮世絵
『潮干狩図』(大阪市立美術館蔵、重要文化財)
『二美人図』(MOA美術館蔵、重要文化財)
「鐘馗図」 絹本着色 葛飾北斎美術館所蔵 「叢春朗画」の落款、花押あり
「化粧美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「鯉と亀図」 紙本着色 埼玉県立博物館所蔵
「漢武人一人立図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
「獅子図屏風」 紙本着色 2曲1双 東京国立博物館所蔵
「七面大明神応現図」 紙本着色 茨城・妙光寺所蔵 東京国立博物館寄託
「西瓜図」 絹本着色 三の丸尚蔵館所蔵 天保10年(1839年)
「月下歩行美人図」 紙本着色 出光美術館所蔵 山東京伝賛
「春秋美人図」 絹本着色 双幅 出光美術館所蔵
「風俗三美人図」 紙本着色 3幅対 浮世絵太田記念美術館所蔵
「源氏物語図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「茶摘み図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「見立三番叟図」 紙本着色 3幅対 浮世絵太田記念美術館所蔵
「雨中の虎図」 紙本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「ほととぎす虹図」 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「蚊帳美人図」 落款判読不能 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
「弁慶図」 無款 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆) 扇子に「北□」の書込みあり
「鬼は外図」 無款 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
「十六羅漢図」 無款 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
「酔余美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「若衆文案図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「雪中張飛図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「見立児島高徳図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「寿布袋図」 紙本淡彩 鎌倉国宝館所蔵
「阿耨観音図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
「三番叟図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
「桜に鷲図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「鶴図屏風」 絹本着色 2曲1雙 鎌倉国宝館所蔵
「春日山鹿図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「蛸図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
「波に燕図」 紙本着色 扇面 鎌倉国宝館所蔵
「小雀を狙う山かがし図額」 絹本着色 1面 鎌倉国宝館所蔵
「一枚物各種(いもの葉に虫図など)」 紙本着色 11枚 鎌倉国宝館所蔵
「画帖(若竹と雀図他)」 紙本着色 1冊(4枚) 鎌倉国宝館所蔵
「井手玉川図」 紙本着色 千葉市美術館所蔵
「日・龍・月図)」 紙本着色 3幅対 光記念館所蔵
「浅妻舟図」 紙本着色 光記念館所蔵
「日蓮図」 紙本着色 光記念館所蔵
「黄石公張良図」 紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「馬上農夫図」 紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「養老の孝子図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「二美人図」 絹本着色 MOA美術館所蔵 重要文化財
「汐干狩図」 絹本着色 大阪市立美術館所蔵 重要文化財
「柳下傘持美人図」 絹本着色 北斎館所蔵
「八朔太夫図」 紙本着色 北斎館所蔵
「夜鷹図」 紙本淡彩 細見美術館所蔵
「東方朔と美人図」 紙本着色 葛飾北斎美術館所蔵
「来燕帰雁図」 絹本着色 吉野石膏所蔵
「狐狸図」 紙本着色 双幅 個人所蔵
「花魁図」 紙本着色 ミネアポリス美術館所蔵
「遊女図」 紙本着色 フリーア美術館所蔵
「雷神図」 フリーア美術館所蔵
「雑画巻」 紙本着色 1巻 フリーア美術館所蔵
「五美人図」 絹本着色 シアトル美術館所蔵
「鳳凰図屏風」 紙本着色 八曲一隻 ボストン美術館所蔵
「鎮西八郎為朝図」 絹本着色 大英博物館所蔵 文化8年(1811年) 滝沢馬琴賛 『椿説弓張月』5編28巻が完結したのを記念して、版元の平林庄五郎の依頼で描かれた作品。
狩野 永悳(かのう えいとく、文化11年12月15日(1815年1月24日) – 明治24年(1891年)1月29日)は幕末から明治期の狩野派の絵師、日本画家。安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳と同じ読みであるが、無論別人である。狩野栄信の六男。兄に木挽町を継いだ長兄狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次兄朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五兄狩野董川中信がいる。
略伝
江戸木挽町に生まれる。本名は立信、幼名は熊五郎、晴雲斎とも号した。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。嘉永元年(1848年)幕府御用絵師となり、安政4年(1857年)法橋、翌年法眼に除す。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、弘化年間の江戸城本丸御殿再建における障壁画制作など、幕府御用を多く手がけた。
明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多くの作品を描く。明治11年(1878年)に来日し日本美術の研究を始めたアーネスト・フェノロサに、古画の研究と鑑定法を教授する。甥の狩野友信と連書で、フェノロサに一代狩野姓を許し「狩野永探理信」の名を与えるなど、日本における美術史学の形成にも間接的に寄与した。明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会には審査員として「虎渓三笑図」を出品、銀賞を受ける。鑑画会には古画の鑑定委員として設立当初から参加しているが、フェノロサの関心が新画工の育成に移ると次第に離れていく。明治20年(1887年)明治宮殿杉戸絵を揮毫し、同22年(1889年)臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛となる。明治23年(1890年)10月2日帝室技芸員となり、「狩野家鑑定法ニ就テ」(『国華』12号)を著したが、翌年77歳で亡くなった。戒名は永悳院殿晴雪斎立信日善大居士。墓所は池上本門寺。
弟子に、一時は養子となった武内桂舟、同じく養子となり中橋狩野家16代当主を継いだ狩野忠信、鑑画会の中心画家として活躍した小林永濯、田中(狩野)永雲。また、川辺御楯も最初永悳に学び、河鍋暁斎は晩年狩野派を継承するため、永悳に入門し直している。
狩野 養信(かのう おさのぶ、寛政8年7月26日(1796年8月18日) – 弘化3年5月19日(1846年6月12日))は、近世日本に生きた画家の一人。江戸時代後期の木挽町家狩野派9代目の絵師である。文化10年(1813年)まで、その名「養信」は「たけのぶ」と読む。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。父は狩野栄信、子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる。号は晴川院、会心斎、玉川。多作で狩野派最後の名手と言われる。
略歴
「Three Cranes Flying in a Misty Landscape」 ウォルターズ美術館蔵
伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来、松尾多宮直常の娘。15歳で初めて江戸城に出仕し、しばしば父親から観能会などの公務を押しつけられたようである。出仕する前日から、没する前日までの36年間にもわたる『公用日記』(52冊は東京国立博物館蔵、4冊は諸家分蔵)は奥絵師の日常や仕事の詳細を伝えるものとして貴重である。
もともと、彼の名「養信」の読みは「たけのぶ」であったが、文化10年(1813年)、将軍・徳川家慶に長男・竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。さらに、この竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号・玉川を音通を避けて「晴川」とした。
文政2年(1819年)に法眼になり、文政11年(1828年)には父の死を受けて家督を相続し、天保5年(1834年)、法印に叙せられた。天保9年から10年(1838年から1839年)には江戸城西の丸御殿、天保15年から弘化3年(1844年から1846年)には本丸御殿の障壁画再建の総指揮を執った。養信がその後亡くなったのは、生来病弱な上に、相次ぐ激務による疲れであったと推測されている。
なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けている。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事してもいる。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられている。他の弟子に、阿波藩御用絵師の中山養福、松代藩絵師の三村晴山、弘前藩の御用絵師の新井晴峰、糺晴岱、狩野養長、岩崎信盈、林伊教など。
昭和61年(1986年)春、東京国立博物館が、明治時代から所蔵されてはいたが殆ど調査されていなかった、264巻にも及ぶ江戸城本丸御殿障壁画の下絵を研究するプロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトは館外の研究者も参加する大規模なもので、養信の「公用日記」の重要性が改めて確認されると共に、養信の画業が見直される契機となった。この時の成果は、『江戸城障壁画の下絵』にまとめられている。
模写にかける情熱
狩野養信・狩野雅信 模写 『七十一番職人歌合』二十四番、僧形の「一服一銭(室町時代の茶屋)」が抹茶を勧めている。東京国立博物館本三巻の内、中巻(部分)。養信最晩年の弘化3年(1846年)作。息子雅信と共署名。
養信は模写に尋常ならざる情熱を注いだ。東京国立博物館にあるものだけでも、絵巻150巻、名画500点以上にも及ぶ。原本から直接写したものは非常に丁寧で、殆ど省略がなく、詞書の書風や絵具の剥落、虫損まで忠実に写し取っている。模本からの又写しは色も簡略で、詞書も省略したものが多い。また、既に模本から模写済みの作品でも、原本やより良い模本に巡り会えば再度写し直しおり、少しでも原本に近い模本を作ろうとした姿勢が窺える。関心も多岐にわたり、高野山学侶宝蔵の調度、舞楽面、装束を写した6巻や、掛け軸の表装の紙や裂まで描いてあるものもあり、養信の旺盛な学習意欲が窺われる。
150巻という数字に表れているように、特に古絵巻の模写に心血を注ぎ、多くの逸話が残る。徳川将軍家の倉からはもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家の狩野祐清邦信や住吉家の住吉弘定らを始めとする諸家から原本や模本を借りては写した。京都の寺の出開帳があれば写しに出向き、さらに公務で江戸を離れられない自分の代わりに、京都・奈良に弟子を派遣して写させた。他にも、当時まだ若年だった冷泉為恭に「年中行事絵巻」の模写を依頼している。ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるように、寺社奉行から許可まで取り付けた。その情熱は、死の12日前まで当時細川家にあった蒙古襲来絵詞を写していたほどで、生涯衰えることはなかった。最も早い時期の模写は数え年11歳の時であり、父である栄信の指導、発想があったのではと疑われる。江戸中期以降、画譜や粉本が出版され、狩野派が独占していた図様・描法・彩色などの絵画技法や方法論が外部に漏れていった。養信が模写に懸命になったのは、こうした動きに対抗し、質の高い粉本を手に入れ狩野派を守ろうとしたためであろう。
そうした模写の中には、江戸城西の丸御殿や本丸御殿の障壁画など、現存しない物や原本の所在が不明な物も含まれており、研究者にとっては貴重な資料である。狩野典信以来、木挽町家に引き継がれてきた古画の学習を、養信は一段と推し進め、大和絵を完全に自らの画風に採り入れた。これは、江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。養信の公用を離れた古絵巻の模写は、大きな楽しみだった反面、一種の逃避とも取れる[2]。
平成15年(2003年)、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出されて頭部が復元された。その面長で端整な顔立ちは、几帳面で消化器系が弱かったという養信の人物像を彷彿とさせる。この復元模型は、池上本門寺で保管されている。
狩野 栄信(かのう ながのぶ、安永4年8月30日(1775年9月24日) – 文政11年7月4日(1828年8月14日)は江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。
略伝
狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。
こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。
狩野 典信(かのう みちのぶ、享保15年11月11日(1730年12月20日) – 寛政2年8月16日(1790年9月24日))は江戸時代中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。父は狩野古信で、子に狩野惟信がいる。
伝記
幼名庄三郎、号は栄川、栄川院、白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。僅か2歳で父・古信と浜町狩野家から養子入りし養父となっていた受川玄信(はるのぶ)を相次いで亡くし、以後母に育てられる。母妙性尼は水戸藩家臣・岡部忠平以直の娘で、この母が幼少の典信の代わりに公務を勤めたようだ。寛保元年(1741年)12歳の時、同朋格奥詰の岡本善悦を介して将軍徳川吉宗にお目見えし、画巻を献上する。吉宗は「栄川幼しといえども、はや衆人を越たり」と賞した上で、自身が名手と慕う狩野探幽を超えたければ探幽が学んだ古画に学べ、と指示した。宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。
典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたという。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すれば旧来の家屋敷は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。ただその一方で、『よしの冊子』では松平定信とも「御懇意にて」と記されている。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5、60人を下らなかったという。
安永9年(1780年)に法印となり栄川院を名乗る。同年11月、翌年の日蓮五百遠忌と母への報恩のため「日蓮聖人縁起絵巻」を、木挽町狩野家の菩提寺である池上本門寺に奉納した(戦災で消失)。寛政2年(1790年)新造御所の障壁画制作を主導するさなか、賢聖障子の下絵を完成させた直後亡くなった。この賢聖障子絵は典信と住吉廣行の共同制作として記録された(『禁裏寛政御造営記』)。法名は法壽院殿典信日妙大居士。池上本門寺に残る顕彰筆塚には、寡黙、真面目、清廉な人柄だったと記されている。
門人に鈴木鄰松や、津山藩御用絵師の狩野如水由信、後に浮世絵師になった鳥文斎栄之などがいる。また、弟子に狩野白珪斎という絵師がおり、この白珪斎の弟子が渓斎英泉だったという。
狩野派の変革
18世紀半ば、南蘋派の流入が契機に本格的な民間画壇が育ち始めると、形骸化が進んでいた狩野派は飽きられ顧客が奪われ始めた。これに危機感をもった典信は、漢画の力強い描線を復活させることにより弱体化した狩野派の再建を目指した。こうした試みが将軍の好みと合致したのが、典信が寵愛を受けた理由であろう。絵画表現においてはやや戯画にはしり、典信の意図は完全に成功したとは言い難い面があるけれども、その意欲や地歩は後の木挽町家の絵師に引き継がれ、木挽町家が幕末まで奥絵師4家の中で最も繁栄することとなる。
塚本やすし(つかもと やすし、YASUSHI TSUKAMOTO、1965年 – )は、絵本作家、イラストレーター、装丁家、エッセイスト、アートディレクター、漫画家。
人物
1965年東京都墨田区東駒形出身東京都墨田区に生まれ、光の園保育学校を卒園。墨田区立横川小学校卒業。墨田区立本所中学校卒業。私立本郷高校デザイン科卒業。 幼少の頃より独学で絵を学び路上でもチラシの裏でもなんでも絵を描きまくる。コンペで長新太や吉田カツの審査で入選。 主な仕事に『小説新潮』の表紙絵。重松清『とんび』(東京新聞連載)挿絵、沢田俊子『うめぼしばあばのおべんとう』(毎日新聞連載)挿絵、河合隼雄『ココロの止まり木』(週刊朝日、連載)挿絵『くちぶえ番長』(新潮社)、『どんまい』(講談社『小説現代』連載)、オグ・マンディーノ『ジュニア版十二番目の天使』(求龍堂)赤川次郎『三毛猫ホームズシリーズ』(光文社『小説宝石』連載)、エッセイ書き下ろし「猫とスカイツリー 下町ぶらぶら散歩道』(亜紀書房)『小説宝石』(光文社)連載文藝水彩漫画・「文士文豪妄想日記」など。 装丁家、挿画家として千冊以上の本も手がける。デザイン会社・広告代理店勤務。その後、絵本作家となる。絵本「やきざかなののろい」(ポプラ社)第6回リブロ絵本大賞・大賞を受賞。絵本「戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」」(朝日新聞出版)第7回ようちえん絵本大賞・大賞を受賞。 絵本「しんでくれた」詩・谷川俊太郎(佼成出版社)第25回けんぶち絵本の里大賞びばからす賞を受賞。「戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」(2015年/朝日新聞出版 /「自由と平和のための京大有志の会」/作)第7回ようちえん絵本大賞・大賞を受賞。
「小説宝石」にて「細川貂々&塚本やすしの、あのとき私はこうだった!壮絶な日々を振り返る、ドタバタうつ病回顧録」連載中。
絵本
とうめいにんげんのしょくじ(2015年/ポプラ社)
歌(2015年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/谷川俊太郎郎]]/詩)
戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」(2015年/朝日新聞出版 /「自由と平和のための京大有志の会」/作)第7回ようちえん絵本大賞・大賞を受賞。
公園戦隊ダレダーマン(2015年/文芸社/山田はるか/作)
うんこ(2015年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/谷川俊太郎/詩)
いのりの石―ヒロシマ・平和へのいのり(2015年/フレーベル館)
いきものとこや(2014年/アリス館)
やきざかなののろい(2014年/ポプラ社)第6回リブロ絵本大賞・大賞を受賞。
まねっこたいそう うさぎちゃん(2014年/そうえん社)
しんでくれた(2014年/佼成出版社/谷川俊太郎/詩)第25回けんぶち絵本の里大賞のびばからす賞を受賞。
アイススケートペンギン(2014年/ディスカヴァー・トゥエンティワン)・町田樹選手より応援メッセージが来る。
せんそう・1945年3月10日 東京大空襲のこと(2014/年東京書籍/塚本千恵子/文)東京新聞・朝日新聞・共同通信より取材を受ける。
おでんしゃ(2013年/集英社)
むらをすくったかえる(2013年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/サトシン/作)
あいうえおのき (知育絵本「えほんのき」シリーズ) (2012年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/ことはてんこ/文)
えいごのき (知育絵本「えほんのき」シリーズ) (2012年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/ことはてんこ/文)
すうじのき (知育絵本「えほんのき」シリーズ) (2012年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/ことはてんこ/文)
介護のえほん だいじょうぶだよ、おばあちゃん(2012年/講談社の創作絵本/福島利行/文) 訪問介護員取得。
はやくおおきくなりたいな(2012年/佼成出版社/サトシン/作)
みずぼうそうウイルスのみず丸(2012年/ポプラ社/岡田晴恵/作)
あいうえおたくはいびん(2011年/くもん出版/ことはてんこ/文)
そのこ(2011年/晶文社/谷川俊太郎/文)・青少年読書感想文全国コンクール・全国学校図書館協議会長賞。
このおっぱいだあれ(2011年/サンマーク出版)
はしれ!やきにくん(2011年/ポプラ社)
このすしなあに(2010年/ポプラ社)
ふたり★おなじ星のうえで(2007年/東京書籍/谷川俊太郎/文 谷本美加 /写真)
レタスの絵本 (そだててあそぼう)(2005年/農山漁村文化協会/つかだ もとひさ/つかもとやすし)
パクパクいろいろごはん (おくむらあやお ふるさとの伝承料理)(2006年/農山漁村文化協会/奥村 彪生)
エッセイ
プチタンファン(子育てエッセイ漫画連載)
東京人(都市出版(株) 東京人編集室)
猫とスカイツリー 下町ぶらぶら散歩道(2012年/亜紀書房)・東京新聞より取材を受ける
小説宝石 (光文社)にて「細川貂々&塚本やすしの、あのとき私はこうだった!壮絶な日々を振り返る、ドタバタうつ病回顧録」連載中。
鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 – 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治~昭和期の浮世絵師、日本画家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。
近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。
経歴
(1951年)
清方は1878年、東京・神田に生まれた。本名は健一。父は条野採菊といい、山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。14歳の1891年(明治24年)、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した。翌年には日本中学をやめ、画業に専心している。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も21歳、明治31年(1898年)の第5回日本絵画協会展に初めて大作を出品した。以降、美人、風俗画家として活動を始めるが、青年期に泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。
1901年(明治34年)には仲間の画家らと烏合会(うごうかい)を結成。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となる。初期の代表作として『一葉女史の墓』(1902年)がある。少年期から樋口一葉を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残している。その後1916年(大正5年)には吉川霊華(きっかわれいか)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)らと金鈴会を結成するが、清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ。1927年(昭和2年)、第2回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続け、泉鏡花の作品の挿絵も描いている。清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残している。
第二次大戦の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後の晩年は鎌倉に住んだ。関東大震災と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続けた。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員となる。1954年(昭和29年)、文化勲章を受章。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は1972年(昭和47年)、93歳で没した。晩年を過ごした鎌倉市雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられている。墓所は台東区の谷中墓地にある。
挿絵画家出身で、浮世絵の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、代表作の一つに数えられている。清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に、林緑水、石井滴水、西田青坡、松田青風、伊東深水、山川秀峰、寺島紫明、笠松紫浪、柿内青葉、大久保青園、川瀬巴水、小早川清、鳥居言人、古屋台軒、北川一雄、桜井霞洞、大林千萬樹、増原宗一、山田喜作、天沼青蒲、千島華洋、林杏華、津村青芽、野口青華、岡本更園らがいた。また、1899年(明治32年)頃、尾上多賀之丞 (3代目) も清方に入門していた。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 – 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
来歴・人物
1891年(明治24年)、明治の先覚者、岸田吟香の四男として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選している。
1911年(明治44年)『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになった。劉生自身生前は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)、『演劇美論』(刀江書院)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年~1980年)にまとめられた。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる。(なお、ヒュウザン会展は2回で終了し、1913年(大正2年)の第2回展ではフュウザン会と改称していた)。劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。
1915年(大正4年)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢らであった。草土社は1922年(大正11年)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。大正4年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。
1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる。庭に土俵を設け、来客と相撲に興じた)。1918年(大正7年)頃から娘の岸田麗子(1914年~1962年)の肖像を描くようになる。
1920年(大正9年)、30歳になったことを期に日記をつけはじめ、『全集』の一部や『劉生日記』(全5巻、岩波書店、1984年)にまとめられている。没するまでの幅広い交友関係が窺われる。劉生を慕って草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり、中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた。1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散の形になったが、劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。
1929年(昭和4年)、南満州鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。帰国直後、滞在先の山口県徳山(現・周南市)で胃潰瘍と尿毒症のため死去する。38歳の若さであった。墓所は多磨霊園にある。
当時から潔癖症で知られており、汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたことがある。病的な神経質でもあり、くしゃみをすればアスピリンを服用し、寒い時には布団を五・六枚掛けたり、トイレでは紙を一丈使っていたという。また、癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らすなど、社交的とはいい難い人物であった。
晩年までパリに行くことが願望であったが、「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語していた。
代表作
道路と土手と塀(切通之写生)
童女図/麗子立像(1923年,神奈川県立近代美術館)
「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年、東京国立近代美術館)(重要文化財)
「壺の上に林檎が載って在る」(1916年、東京国立近代美術館)
「麗子肖像(麗子五歳之像)」(1918年、東京国立近代美術館)
「麗子微笑」(1921年、東京国立博物館)(重要文化財)
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年(明治26年)8月21日[1] – 1958年(昭和33年)11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。
生涯
牛肉店帳場
木村の生家を基に描かれた。奥の帳場に座っているのは木村自身である。
新宿駅
牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年(明治43年)に同校を卒業した。
旧制中学卒業後の翌1911年(明治44年)、長兄の許可を得て白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差すこととなる。翌1912年(明治45年)、岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会の結成に参加した。1913年(昭和2年)にいろは牛肉店から独立し、美術に関する著作・翻訳を行う傍ら洋画を描き注目された。1915年(大正4年)、劉生たちと共に草土社を結成、1922年(大正11年)まで毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね、1918年(大正7年)に院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞した。
1922年、春陽会創設に客員として参加し、1924年(大正13年)に同正会員となりそこで作品の発表を続けた。1928年(昭和3年)に油絵『パンの会』を発表する。1936年(昭和11年)からは春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わった。
1924年以降は挿絵の仕事が増し、1937年(昭和12年)には永井荷風の代表作『濹東綺譚』(朝日新聞連載)においても挿絵を担当し大衆から人気を博した。他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』に加え、『激流 渋沢栄一の若き日』、『鞍馬天狗敗れず』がある。
新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた。また、1945年(昭和20年)頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している。
晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作(『東京の風俗』、『現代風俗帖』など)を多数出版、数度再刊された。多忙のため病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し1958年11月18日に東大病院において病没した。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞した。
異母姉・木村曙や同母兄・木村荘太、異母弟・木村荘十はいずれも作家となった。異母弟・木村荘十二は映画監督である。
酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) – 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。
伝記
月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文
生い立ち
神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)6月1日17歳で元服して1,000石を与えられるが、同年忠以に長男忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。古河藩主土井利厚などから養子に行く話も多くあったが、抱一は全て断った(理由は不明)。こうした複雑な環境が抱一を風雅な道へと進ませたと言えるかもしれないが、江戸時代に同じ環境にあった大名子弟は多くいたにもかかわらず、今日文化史に名を残した者は増山雪斎や幕臣出身の浮世絵師鳥文斎栄之、水野廬朝などごくわずかしかおらず、抱一の何かを表現したいという情熱は似た境遇の同輩とは一線を画している。
若き日の遊興
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊郭に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信に手解きを受けたようだが、酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵、豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)なども描いている。抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、知人の大田南畝が狂詩を加賛している。抱一の美人画は、初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。画号も新たに持たず、俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている。
俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。後の文化9年(1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した。狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わり、狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。
出家
書画扇面散図 谷文晁、春木南湖、亀田鵬斎、菊池五山との寄合書 ブルックリン美術館所蔵
寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、 兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。また、谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。また、市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
光琳の発見
抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、その作品が残っていたことも幸いしている。また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。
光琳百回忌
文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。
雨華庵の上人 抱一様式の確立
雪月花図 MOA美術館
文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵[5]で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。
門人に鈴木其一、池田孤邨、酒井鶯蒲、田中抱二、山本素堂、野崎抱真らがいる。
高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) – 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。
略歴
鮭
生い立ち
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。
洋画家を目指して
ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。
谷文晁(たに ぶんちょう、宝暦13年9月9日(1763年10月15日) – 天保11年12月14日(1841年1月6日))は、江戸時代後期の日本の画家。
名は正安。はじめ号は文朝・師陵、後に文晁とし字も兼ねた。通称は文五郎または直右衛門。別号には写山楼・画学斎・無二・一恕。薙髪して法眼位に叙されてからは文阿弥と号した。江戸下谷根岸の生まれ。
生涯
出自
石山寺縁起絵巻 第6巻(部分)
石山寺縁起絵巻 第6巻(部分)
石山寺縁起絵巻 第7巻(部分)
石山寺縁起絵巻 第7巻(部分)
祖父の本教ははじめ下役人であったが経済的手腕に優れていたため立身し民政家として聞こえ、田安家に抜擢され治績を残した。父麓谷も田安家家臣となり漢詩人として名を知られた。このような文雅の家系に育った文晁は文才を持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などもよくした。菊池五山の『五山堂詩話』巻3に文晁の漢詩が掲載されている。
画業
木村蒹葭堂像
12歳の頃 父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃 中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事した。20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌 につき北宋画を修めた。鈴木芙蓉にも学んだとされるが確かではない。その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学んだ。26歳の時長崎旅行を企て、 大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉より正式な南画の指南を受けた。木村蒹葭堂の死後、その死を悼み遺族に肖像画を贈っている。長崎に着いてからは張秋谷に画法を習い一月余り滞在した。 古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指した。その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び画様の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に 関東南画壇の泰斗となった。
仕官
26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき 田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った。また「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。 小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。
旅と山
文晁は自他共に認める旅好きで30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は四、五か国に過ぎなかったという。旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図譜』として刊行した。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。
画塾写山楼
画塾写山楼には多くの弟子が入門。渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。なお、この写山楼は二階建て・二十畳であった。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われた。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だった。弟子思いの師として有名であるが、権威主義的であるとの批判も残される。
定信の隠居後、文晁は長年の功績により恩給を受け格式は奥詰のまま写山楼にて画業に専念。妻の谷幹々(林氏)、妹 秋香、紅藍らも女流画家として知られる。実弟の島田元旦も画を得意としており、養子谷文一、実子谷文二も画技に優れ、谷一門は隆盛した。しかし、後継者と目された文一、文二がともに夭折したため写山楼はその後、零落した。
晩年
亀田鵬斎、酒井抱一とは「下谷の三幅対」と評され、享楽に耽り遊びに興じたが最期まで矍鑠として筆をふるった。文政12年(1829年)この年定信が歿し、67歳になった文晁は御絵師の待遇を得て剃髪した。75歳の時に法眼位に叙され文阿弥と号する。
天保11年(1841年)歿。享年79。墓所は浅草源空寺、法名「本立院生誉一如法眼文阿文晁居士」。
辞世の句 ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月
作品
(左)寛政文晁 落款
(中)烏文晁 落款
(右)公余探勝図 下田
熊野舟行図 上巻(部分)
熊野舟行図 上巻(部分)
熊野舟行図 下巻(部分)
熊野舟行図 下巻(部分)
作風
寛政文晁 寛政年間(1789年 -1801年 27歳-38歳)の作品。特に評価が高い。
烏文晁(落款が烏の足跡に似ていることから。蝶々文晁ともいう) 文化中期 – 天保期(1811年 – 1840年)の作品。濫作期ともいわれるが優品も多い。
代表作
公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館
青山園荘図稿 寛政9年(1797年)重要文化財・出光美術館
戸山山荘図稿 寛政10年(1798年)重要文化財・出光美術館
木村蒹葭堂像 享和2年(1802年)重要文化財・大阪府教育委員会蔵(大阪市立美術館保管)
八仙人図 享和2年(1802年)静嘉堂文庫美術館
彦山真景図 文化12年(1815年)東京国立博物館
鑑定
文晁は鷹揚な性格であり、弟子などに求められると自分の作品でなくとも落款を認めた。また画塾 写山楼では講義中、本物の文晁印を誰もが利用できる状況にあり、自作を文晁作品だと偽って売り、糊口をしのぐ弟子が相当数いた。購入した者から苦情を受けても「自分の落款があるのだから本物でしょう」と、意に介さなかったという。これらのことから当時から夥しい数の偽物が市中に出回っていたと推察できる。従って鑑定に当たっては落款・印章の真偽だけでは充分ではない。
刊行物
『日本名山図譜』
『歴代名公画譜』 明代の『顧氏画譜』の模写
『本朝画纂』
『画学大全』
『写山楼画本』
『文晁画談』
『近世名家肖像図巻』監修
『漂客奇賞図』翻刻
『歴朝名公款譜』鑑定
交友
(左)八仙人図 (右)青緑山水図
松平楽翁
木村蒹葭堂
亀田鵬斎
酒井抱一
市河寛斎
市河米庵
菅茶山
立原翠軒
古賀精里
香川景樹
加藤千蔭
梁川星巌
賀茂季鷹
一柳千古
広瀬蒙斎
太田錦城
山東京伝
曲亭馬琴
十返舎一九
狂歌堂真顔
大田南畝
林述斎
柴野栗山
尾藤二洲
頼春水
頼山陽
頼杏坪
屋代弘賢
熊阪台州
熊阪盤谷
川村寿庵
鷹見泉石
蹄斎北馬
土方稲嶺
沖一峨
池田定常
葛飾北斎
広瀬台山
浜田杏堂
門弟
文晁門四哲
渡辺崋山
立原杏所
椿椿山
高久靄厓
谷家一門
島田元旦
谷文一
谷文二
谷幹々
谷秋香
谷紅藍
田崎草雲
金子金陵
鈴木鵞湖
亜欧堂田善
春木南湖
林十江
大岡雲峰
星野文良
岡本茲奘
蒲生羅漢
遠坂文雍
高川文筌
大西椿年
大西圭斎
目賀田介庵
依田竹谷
岡田閑林
喜多武清
金井烏洲
鍬形蕙斎
枚田水石
雲室
白雲
菅井梅関
松本交山
佐竹永海
根本愚洲
江川坦庵
鏑木雲潭
大野文泉
浅野西湖
村松以弘
滝沢琴嶺
稲田文笠
平井顕斎
遠藤田一
安田田騏
歌川芳輝
感和亭鬼武
谷口藹山
増田九木
清水曲河
森東溟
横田汝圭
佐藤正持
金井毛山
加藤文琢
山形素真
川地柯亭
石丸石泉
野村文紹
大原文林
船津文淵
村松弘道
渡辺雲岳
後藤文林
赤萩丹崖
竹山南圭
相沢石湖
飯塚竹斎
田能村竹田
月岡 芳年(つきおか よしとし、1839年4月30日(天保10年3月17日) – 1892年(明治25年)6月9日)は、日本の画家。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師である。姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英、そして最後に大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた。
河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている(後述)。
概説
歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師である。多数の作品があるなかで決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。
生涯
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。同年4月(4月)は旧暦4月(新暦4月)、同年4月(4月か5月)は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。
『奥州安達がはらひとつ家の図』
黒塚の鬼婆伝説を題材にした一図。気狂いして食人鬼と化した老女が今宵もまた捕らえてきた身重の女を吊るして今まさに解体しようとしている場面である。1885年(明治18年)に刊行されたが、明治政府は風紀を乱すとしてこれを発禁処分にした。
『月百姿』の内「達磨図」
1887年(明治20年)刊。
『英名二十八衆句』の内「稲田九蔵新助」図
無惨絵、いわゆる「血まみれ芳年」の一点
天保10年3月17日(1839年4月30日)、江戸新橋南大阪町(武蔵国豊島郡新橋南大阪町[現・東京都港区新橋地区内]。他説では、武蔵国豊島郡大久保[現・東京都新宿区大久保])の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎の養子となる(自称の説有り、他に父の従兄弟であった薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四条派の絵師についていたが、これでは売れないと見限って歌川国芳に入門したという話もある)。
嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)。武者絵や役者絵などを手掛ける。
嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』を一魁斎芳年の号で発表。
慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。
慶応2年(1866年)12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。明治元年(1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。続いて、明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。
明治3年(1870年)頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
1872年(明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。翌1873年(明治6年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努めた。
1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
1878年(明治11年)には天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
1879年(明治12年)に宮永町へ転居しているが、この時期、手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。
1882年(明治15年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、1884年(明治17年)に自由燈に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また、読売新聞にも挿絵を描く。
1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが、別れ、翌1884年(明治17年)、坂巻泰と正式に結婚する。
1885年(明治18年)、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』(当時の東京府における人気番付)明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾・小林永濯・豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。
晩年にあたる1891年(明治24年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
1892年(明治25年)、新富座の絵看板を右田年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。6月9日、東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)の仮寓(仮の住まい)で脳充血のために死亡した(享年54、満53歳没)。しかし、やまと新聞では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。
芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑が建てられた。
画風・画題
『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」
源義経(奥)とその家来である武蔵坊弁慶(手前)。1885年(明治18年)刊。
『大日本名将鑑』の内「神武天皇」
『日本書紀』における神武東征の一場面。神武天皇が携える弓の先にまばゆく輝く金鵄が留まり、それを目の当たりにした敵兵ども(右下)は怖れおののいている。1876- 1882年(明治9- 15年)間に刊行。
江戸川乱歩や三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。
もともと四条派の画家に弟子入りしたためか、本人の曰く「四条派の影響を強く受けた」肉筆画も手がけている。彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。
芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし、師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、昭和期以降に発展してきた漫画や劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。
歴史絵・武者絵
『大日本史略図会』中の日本武尊や、1883年(明治16年)の『藤原保昌月下弄笛図』など、芳年には歴史絵の傑作がある。明治という時代のせいか、彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせるものとなっている。
美人画・風俗画
美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性たちを描いた。
無惨絵
初期の作品『英名二十八衆句』(落合芳幾との競作)では、血を表現するにあたって、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は歌川国芳(一勇斎国芳)の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。当時はこのような見世物が流行っていた。
芳年は写生を大切にしており、幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年(1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、想像力を駆使して描くこともあり、1885年(明治18年)に刊行された代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』など、その一例と言える。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨は、この絵を見た後、芳年が多くの作品で実践するのと同じく実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験したという。そうして撮った写真を分析したところ、おかしな点があったため、モデルを仕立てての写生ではなく想像によって描かれたという結論に達した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は「師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろう」と答えたという。
その他の画題
月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで月の出てくる作品が多く、『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。幽霊画も『幽霊之図』『宿場女郎図』などを描いており、芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。
鳥居 清長(とりい きよなが、 宝暦2年〈1752年〉 – 文化12年5月21日〈1815年6月28日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。鳥居派四代目当主。鳥居派の代表的な絵師。
鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍し、それらや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人。特に堂々たる八頭身の美人画で、今日世界的に高く評価されている。
来歴
「美南見十二候 六月 品川の夏(座敷の遊興)」 天明4年(1784年頃)
鳥居清満の門人。江戸本材木町(現在の日本橋)の書肆白子屋関口市兵衛の子。関氏。俗称は市兵衛(一説に新助)。屋号は白子屋。住んでいた場所から「新場の清長」とも呼ばれた。
明和4年(1767年)に細判紅摺絵でデビュー。19歳より清長を名乗り(初めの号は長兵衛とされる)、安永(1772年‐1781年)年間に110点程の細判役者絵を残している。安永7‐8年(1778年‐1779年)頃から次第に鳥居派風を脱し、当時流行していた勝川春章らの似顔絵的な役者絵の影響を受けて紅摺絵から細判の錦絵に変わるが、役者絵の制作はすくない。代わって中判の美人画と黄表紙挿絵の制作が増えてくる。黄表紙は安永4年(1775年)から描き始め、天明2年(1782年)まで120点余りの作に挿絵しており。この時期の作画の中心であった。
「江戸のヴィーナス」
鳥居派は役者絵を専門とする画派だが、むしろ清長の本領は一世を風靡した「美南見十二候」、「風俗東之錦」、「当世遊里美人合」などの美人画にある。初期は初め細身で繊細な鈴木春信や北尾重政・礒田湖龍斎の作風を学んでいるが、天明(1781年‐1789年)期になると次第に諸家の影響を離れ、堅実な素描をもとに八頭身でどっしりとした体つきの健康的な美人画様式を創り上げた。大判二枚続、三枚続の大画面を使いこなし、現実的な背景に美人を群像的に配する清長の作風は美人風俗画と称され、後の大判続物発展の基礎を築いた。続物でありながら単体でも、全体を繋げて鑑賞しても破綻なくまとめられており、清長の高い手腕が窺える。また美人画の背景に、実際の江戸風景を写実的に描いたのは清長が最初であるとされる。
その他天明期の画業に、所作事の場面の背景に必ず長唄や常磐津連中などを書き込んだ「出語り図」を30点以上残し、舞台面をそのまま取入れた大判役者絵も描くなど、一段とリアルな作品を残した。また肉筆浮世絵も数は多くないが悉く優品で、彼の資質、力量を伝えている。特に「真崎の月見図」は代表作として知られている。隅田川の上流の真崎の渡し辺りの茶店で床机に腰を掛け、満月の清光を浴びる女性たちを描いており、月の光は水に良くたとえられるが、その光が水量豊かな川面に広がっている背景の爽やかさが印象的な作品である。
天明5年(1785年)、師である清満が没すると孫の庄之助が成長するまでの中継ぎとして、二年後の天明7年(1787年)鳥居家四代目を襲名する。その後は美人画からは遠ざり、鳥居派の家業である看板絵や番付などの仕事に専念し、晩年になると黄表紙、芝居本、絵本などに力を注いだ。享年64。墓所は墨田区両国の回向院。法名は長林英樹居士。墓石は地震や戦災など度重なる災禍で失われ、長らく過去帳のみ残っている状態だったが、平成25年(2013年)4月回向院境内にその画業を顕彰するため「清長碑」が建立された。
清長の門人として、鳥居清峰、鳥居清政、鳥居清元 (2代目) がいる。
代表作
「濱屋 川岸の涼み」 平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO蔵
「女湯」 ボストン美術館蔵(エドガー・ドガ旧蔵)川崎・砂子の里資料館蔵品と比べると、右から2番めの女性の陰部を赤い腰巻きで隠しており、これは日本からの輸出時に上手く修正したものと想定される。
錦絵
「大川端の夕涼」 大判3枚続 太田記念美術館所蔵、シカゴ美術館蔵 平木浮世絵美術館蔵品は重要文化財
「当世遊里美人合 たち花」 大判 東京国立博物館蔵など
「当世遊里美人合 辰巳艶」 大判 江戸東京博物館蔵
「当世遊里美人合 橘妓」 大判 ボストン美術館蔵
「当世遊里美人合 芸妓と若衆」 大判 山種美術館所蔵
「風俗東之錦 町家の袴着」 大判 江戸東京博物館蔵
「風俗東之錦 髪置」 大判 ボストン美術館蔵
「風俗東之錦 凧の糸」 大判 城西大学水田美術館蔵
「風俗東之錦 若君と侍女三人」 大判 山種美術館所蔵
「風流三ツの駒」 城西大学水田美術館蔵
「駿河町越後屋前」 三越資料館蔵
「美南見十二候 三月 御殿山の花見」 シカゴ美術館蔵
「美南見十二候 七月 夜の送り」 ホノルル美術館・ボストン美術館蔵
「美南見十二候 九月 漁火(いざよう月)」 千葉市美術館など蔵
「飛鳥山の花見」 東京国立博物館蔵
「亀戸の藤見」 シカゴ美術館蔵
「洗濯と張り物」 シカゴ美術館蔵
「隅田川船遊び」 メトロポリタン美術館
「吾妻橋下の涼船」 ホノルル美術館蔵
「地紙売」
「座敷八景 塗桶暮雪」 江戸東京博物館蔵
「中村里好の丹波屋おつまと三代目市川八百蔵の古手屋八郎兵衛」 千葉市美術館蔵
「女湯図」 大判二枚続 天明後期 ボストン美術館と川崎・砂子の里資料館の2点しか確認されていない貴重な作品。幕末期には数点の「女湯図」が知られるが、銭湯をこれだけ詳細に描いた浮世絵としては最も早い時期の作例であり、風俗資料としても貴重。
「出語り図 三代目瀬川菊之丞と四代目岩井半四郎」 大判
肉筆浮世絵
「真崎の月見図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「詠歌弾琴図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「駿河町越後屋正月風景図」 絹本着色 三井記念美術館蔵、東洋文庫蔵
「待乳山納涼図」 絹本着色 フリーア美術館所蔵
「柳下美人図」 絹本着色 ボストン美術館所蔵
「女三人上戸図」 紙本着色 ホノルル美術館所蔵
「曽我の対面図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「暫図」 紙本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵 5世市川団十郎賛
「潤色八百屋お七図」(無款) 紙本四曲一双 早稲田大学演劇博物館所蔵 寛政5年
「五郎と朝比奈図」 紙本扇面 東京国立博物館所蔵
「草摺引図」 紙本扇面 東京国立博物館所蔵
「夜討曽我図」 紙本扇面 浮世絵太田記念美術館所蔵
「桜下の太夫と禿図」 紙本扇面 浮世絵太田記念美術館所蔵
「矢の根五郎図」 板地着色 額絵馬 目黒区・成就院所蔵 文化7年(1810年) 重要美術品
「草摺曳朝比奈と曾我五郎」 板地着色 額絵馬 悳俊彦コレクション 文化8年(1811年)
「双蝶々曲輪日記図」 板地着色 額絵馬 練馬区・長命寺所蔵 文化11年(1814年) 東京都指定有形文化財
春画
「袖の巻」 十二枚組 天明5年(1785年)
清長の春画作品の中で最も知られた作。序文末尾に「自惚」という珍しい印が押されていることから、清長自身も本作に自信を持っていたことが窺える。縦12cm、横約67cm(最大73cm)という非常に横長の珍しい形式で描かれているが、トリミングの妙で窮屈さや違和感のない画面に仕上げている。大首絵を思わせる豊かな表情と抑えた色使いで、性の悦びと充足感を描ききった春画史上に残る名品。
「色道十二番」(しきどうじゅうにつがい) 大判錦絵折本十二枚組 天明5年(1785年)
「時籹十二鑑」(いまようじゅうにかがみ) 中判十二枚組
黄表紙
『名代干菓子山殿』画
鳥山 石燕(とりやま せきえん、正徳2年(1712年) – 天明8年8月23日(1788年9月22日))は、江戸時代後期の画家、浮世絵師。妖怪画を多く描いた。
生涯
正徳2年(1712年)頃に誕生。姓は佐野(さの)、諱は豊房(とよふさ)。字は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
狩野派門人として狩野周信(かのう ちかのぶ。cf.)及び玉燕に付いて絵を学び、また、俳諧師・東流斎燕志に師事した。
安永5年(1776年)に著した『画図百鬼夜行』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵や、『石燕画譜』のような版本が著名であるが、錦絵や一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。また、弟子も多く喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜といった絵師や黄表紙作者を育てた。
天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
石燕の描く妖怪画は、恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家水木しげるの画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年(明治26年)2月14日 – 1991年(平成3年)2月5日)は、東京府生まれの洋画家、美術家、歌人、随筆家である。
経歴
1893年 東京市本郷に生まれる。
1914年 巽画会展に出品した作品が岸田劉生に見出されて画家を志す。
1915年 草土社を結成。
1920年 初の個展(油彩)を開く。
1922年 小杉放庵らと「春陽会(しゅんようかい)」設立に参加。
1931年 水墨画の個展を開く。
1949年 神奈川県真鶴町にアトリエを構える。
1975年 文化勲章を受章。文化功労者表彰。
1986年 母の故郷である石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現 白山市立松任中川一政記念美術館)が開館。
1989年3月 真鶴町に真鶴町立中川一政美術館(設計 柳澤孝彦/第15回吉田五十八賞受賞、第33回BCS賞受賞)が開館した。
作品
洋画、水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。全てが独学であり自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
絵画作品 「漁村凱風」「薔薇」「箱根駒ケ岳」等。
和歌 1961年に歌会始の召人となり詠進した。
挿絵 都新聞に連載された尾崎士郎「人生劇場」
随筆 文集全5巻、全文集全10巻がある。
評伝・その他
97歳と長命であったが、晩年まで創作活動を続けた。視力が衰えたため、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたという。絶筆はかねてから好んで描いていたバラであった。バラを題材にした作品は判明しているだけで800点を超える。
遺した美術品コレクションが競売にかけられた際、それまで判明していなかったがゴッホの油彩画であることが判明した絵画があった。当初は落札予想価格が1万円とされていたものが、6600万円でウッドワン美術館に落札された。中川一政自身がゴッホ作であったことを知っていたかどうかは不明。
戦時中、伊豆に疎開し、その途中、真鶴に魅了された。
中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) – 1943年(昭和18年)6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家である。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られている。
経歴
不折の書
『裸体』(明治36年-明治38年)
『海岸の三人娘』(昭和14年)東京国立近代美術館
父・源蔵、母・りゅうの子供として江戸の京橋八丁堀(現中央区湊)に生まれ幼名を鈼太郎といった。1870年には明治維新の混乱を避け、一家をあげ父の郷里の長野県高遠に帰る。幼少より絵を好み、物の形を写すことを楽しみとした。19歳の時、北原安定に漢籍、真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。西高遠学校授業生(代用教員)となる。21歳の時、西伊那部学校の助教となる。22歳の時、飯田小学校で図画・数学の教師となる。夏期休暇を利用して河野次郎に洋画の初歩を学ぶ。
1887年4月に上京し、高橋是清の館に住み込みながら,画塾『不同舎』に入門。小山正太郎に師事し絵を学んだ。25歳の時、第2回明治美術会展覧会に水彩画3点を出品。1891年油彩画を始め、現存する最初の作例「自画像」を制作。28歳の時、第5回明治美術展覧会に「憐れむべし自宅の写生」ほかを出品した。
1894年には正岡子規に出会い、新聞「日本」の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。新聞『小日本』126号に俳句が掲載され、初めて「不折」の名を使用。30歳の時正岡子規とともに日清戦争に従軍し中国に渡り書に興味を持った。31歳の時、堀場イトと結婚。「日本新聞社」に入社、引き続き挿絵を担当。32歳と33歳の時に島崎藤村『若菜集』『一葉舟』刊行。その挿絵を担当。34歳の時、第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」出品。「紅葉村」は翌年にパリ万国博で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室新築し転居した。
1901年6月には渡仏して、ラファエル・コランに師事。島崎藤村『落梅集』刊行。その挿絵を担当。37歳の時にアカデミー・ジュリアンに転じジャン=ポール・ローランスらから絵の指導を受け39歳でジュリアン画塾のコンクールに入賞。また、沼田一雅、岡精一と共にムードンにオーギュスト・ロダンを訪問、署名入りのデッサンを貰う。同郷の荻原碌山がパリに留学するとその面倒を見た。
1905年の帰国後は明治美術会の後身である「太平洋画会」に所属し主に歴史画の分野で活躍した。また森鷗外や夏目漱石等の作家とも親しく、『吾輩は猫である』『若菜集』『野菊の墓』などの挿絵や題字を書いた[註 1]。日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時、『龍眠帖』刊行。前田黙鳳らと健筆会を結成。47歳の時、河東碧梧桐らと『龍眠会』を結成。『蘭亭序』刊行。49歳、東京大正博覧会に「廓然無聖」他出品。、「永寿二年三月瓶」入手。50歳の時、下谷区上根岸125番地(現・根岸2丁目)に転居。『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。51歳、『不折山人丙辰潑墨』第1集・第2集刊行。第10回文展に「黎明」「たそがれ」出品。55歳の時、森鴎外没。遺言により不折が墓碑銘を書く。64歳の時、太平洋美術学校が開校その初代校長に就任。67歳の時、書道博物館の建設に着手。翌年完成。70歳の時、帝国美術院改組、帝国美術院会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳、11月3日、書道博物館開館式。72歳帝国芸術院入会。1943年(昭和18)6月6日夕刻、脳溢血の為急死。6月10日中根岸永称寺にて告別式。多磨霊園に埋葬。
中国の書の収集家としても知られ顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「自書告身帖」などを収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現在は区立)を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、宮坂醸造の清酒「真澄」や新宿中村屋の商品表記に用いられている。
不折と歴史画
フランス留学から帰国した不折は東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。この時期の作品である「建国剏業」(1907年)は東京府主催の勧業博覧会に出品され第1等を獲得したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちをすべて裸で描いたため、当時の文部大臣・九鬼隆一は「不敬である」と激怒。なおこの作品は関東大震災で焼失してしまった。
橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日) – 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。
生涯
雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。
慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。この時同日に狩野芳崖も入門しており、7歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。
安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。
白雲紅樹(1890年)
転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、『琴棋書画図』(MOA美術館蔵)が銀印主席を取り、同じく出品した『竹に鳩』(三の丸尚蔵館蔵)が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった。
明治19年(1886年)には海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになった。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年(1889年)に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。このため明治23年(1890年)の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると10月2日に第一次のメンバーに選ばれ[2]、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では下村観山や横山大観、菱田春草、西郷孤月、川合玉堂、寺崎広業、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。しかし明治31年(1898年)には天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
以後、雅邦は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。
明治41年(1908年)に胃癌のため死去した。法名は謙徳院勝園雅邦操居士。墓所は江東区平野にある、元浄心寺の塔頭・玉泉院(江東区登録文化財)。
画業
雅邦は同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家で、芳崖と共に狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。雅邦の代表作の一つである『白雲紅樹』では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。
長谷川 雪旦(はせがわ せったん、安永7年(1778年) – 天保14年1月28日(1843年2月26日))は江戸時代後期の絵師。姓は金沢、名は宗秀。通称は茂右衛門、または長之助とも称した。別号に一陽庵、嚴岳斎、岩岳斎、岳斎。息子の長谷川雪堤も絵師。江戸名所図会の挿絵画家、或いは唐津藩・尾張藩の御用絵師として知られる。
略歴
江戸出身。唐津藩士の子。住居は下谷三枚橋(現在の台東区)。国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」という大量の下絵や模写が一括して保存されており、それらの研究により、雪舟13代を名乗る絵師長谷川雪嶺を師としたことが確認されている。その模写には師雪嶺や雪舟の作品が複数存在しているが、それに留まらず琳派風・円山四条派風の図や、伝統的な仏画等も含まれており、雪旦が早い段階から様々な流派の絵をこだわりなく学んでいたことがわかる。中年には英派の高嵩谷に師事し、狩野派も学んだという。『増補浮世絵類考』の記述を元にはじめ彫物大工で後藤茂右衛門と名乗った言われるが、数え15歳にして既に画技はかなりの習熟を見せ彫物大工の片手間にできる業ではなく、その可能性は低い。
現在確認できる雪旦最初の仕事は、寛政10年(1798年)出版の『三陀羅かすみ』(墨田区蔵、ピーター・モースコレクション)で、北尾重政や葛飾北斎と分担し漢画を担当している。以後も、特定の流派に属することなく、漢画系の町絵師として狂歌本の挿絵や肖像画を描いて生計を立てる。また、俳諧を好み、五楽という俳号を名乗って文人たちと盛んに交流した。
転機が訪れたのは40代に入った頃である。文政元年(1818年)唐津藩主小笠原長昌に従い唐津に赴いていることから、この少し前に唐津藩の御用絵師になったものと推測され、今も唐津には雪旦の作品が相当数残っている。この他にも雪旦はしばしば各地を旅し、その土地の名所や風俗のスケッチを多く残しており、こうした態度が『江戸名所図会』を生み出す土壌になったと言える。天保5年から7年に刊行された『江戸名所図会』では、650景にも及ぶ挿絵を描き名声を得る。その甲斐あってか、文政12年(1831年)に法橋、天保11年(1839年)頃には法眼に叙せられる。
天保14年(1843年)66歳で没す。浅草の幸龍寺(関東大震災後に世田谷区北烏山に移転)に葬られる。弟子に息子の長谷川雪堤、朝岡且嶠(たんきょう)など。
速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日 – 1935年(昭和10年)3月20日)は、大正期~昭和初期の日本画家である。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち、後に速水に改姓)。
1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝した。40歳没。
生涯
1894年(明治27年)、蒔田良三郎の次男として東京府東京市浅草区浅草茅町二丁目16番地(現在の東京都台東区浅草橋一丁目)に生まれる。
1905年(明治35年)、東京市立育英小学校高等科へ入学。少年期から画に興味を持ち、1908年(明治41年)に卒業すると、筋向かいに住んでいた容斎派の画家松本楓湖の安雅堂画塾に入門した。画塾に入った理由は御舟が自宅の襖に描いた群鶏を楓湖の執事・神谷穀が見て感心し、画家にしたらどうかと入塾を勧めたからである。 宋元古画、大和絵、俵屋宗達、尾形光琳などの粉本を模写する一方、同門の仲間で団栗会を結成。近郊を写生散歩して回った。
1909年(明治42年)、師の楓湖から禾湖(かこ)の号を授かる。楓湖は自称“なげやり教育”というユニークな教育方法で数百人と言われる門人を輩出した卓越した教育者だったが、御舟の才をいち早く見抜き、門人に写させる粉本も御舟には特別に良いものを与えるよう指示していたという。同年、母方の祖母である速水キクの養子となる。1910年(明治43年)、巽画会展に「小春」、烏合会展に「楽人」を蒔田禾湖の名で出品。これが初めての展覧会出品となる。
1911年(明治44年)、巽画会展に「室寿の讌」(むろほぎのえん)を出品。一等褒状となり宮内省買い上げの栄誉を受ける。同年、同門の今村紫紅に従い紅児会に入会。その後、御舟は紫紅から多大な影響を受けた。
1912年(明治45年)、号を自ら浩然(こうねん)と改める。この頃より、実業家で、美術家のパトロンとしても知られる原富太郎(三渓)の援助を受ける。
1913年(大正2年)、紅児会が解散する。その後、再興日本美術院展(院展)に活躍の場を移す。
1914年(大正3年)、号を御舟と改め、この頃から養子先の姓である速水姓を名乗る。同年、今村紫紅を中心とした美術団体・赤曜会を結成。その後、1916年(大正5年)に今村が死去するまで活動を続ける。1917年(大正6年)第4回院展に「洛外六題」を出品。横山大観、下村観山らに激賞され、川端龍子と共に日本美術院の同人に推挙された。
1919年(大正8年)、浅草駒形で市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われる。しかし御舟の画に対する熱意には全く影響せず、その後も精力的に活動を続けた。
1921年(大正10年)、年長の友人で援助者でもあった吉田幸三郎の妹と結婚する。この頃、洋画家の岸田劉生の影響を受け、写実的な様式の静物画を描いた。陶磁器や果物などを材質感を備えた迫真の写実で描いた作品は、従来の日本画にはみられないものであった。
1925年(大正14年)、軽井沢に滞在中、代表作の1つである「炎舞」を完成させる。
1929年(昭和4年)、第16回院展に「名樹散椿」を出品。翌年にはイタリア政府主催・大倉喜七郎男爵後援のローマ日本美術展覧会の美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に渡欧。ヨーロッパ各地及びエジプトを巡る。渡欧中、ジョットやエル・グレコに魅せられた。
日本に帰国後も日本画の新しい表現方法を模索し続け、数々の名作を発表する。御舟の画業は、初期には「新南画」と言われた今村紫紅の影響を受け、琳派の装飾的画面構成や西洋画の写実技法を取り入れつつも、1つの様式にとどまることなく、生涯を通じて画風を変え、写実に装飾性と象徴性を加味した独自の画境を切り拓いた。そのため多くの美術家から日本画の将来の担い手として嘱望されたが1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスで急逝した。40歳没。
補足
号の由来
「御舟」の号の由来は俵屋宗達の「源氏物語澪標関屋図屏風」(六曲一双、国宝)の見事さに感心し、その屏風に描かれた金銀の波上に浮かぶ「御舟」(貴人の乗る舟)からとったもの。また、速い水に舟を御すともとれる。
その他
1918年(大正7年)頃の作品には、青を基調とした作品が多い。御舟はこの頃の自分を「群青中毒にかかった」という言葉で表現している。
関東大震災では多くの美術品も犠牲になったが、御舟の作品も例外ではない。横山大観らに激賞された「洛外六題」をはじめ、初期の傑作の多くが地震によって遺失した。
御舟の早世は多くの美術家に惜しまれ、横山大観は「速水君の死は、日本の為に大きな損失である」と述べている。
御舟は画商から金を積まれても自分にモチベーションが出ない限り、絵を描かなかった。そんな御舟に画商は「蟻一匹でもいいから描いてくれ」と必死に頼み込み、やむなく御舟は大きなキャンバスに小さい蟻の絵を描いた。
御舟の落款は中国北宋の皇帝徽宗の痩金体に倣ったとされる。北大路魯山人は御舟に「君は絵はうまいが字は下手だ」と言った。
代表作
『名樹散椿図』
御舟は40歳の若さで没したことに加え、もともと寡作な作家であった。さらに関東大震災で多くの作品が焼失したこと、御舟が自分の気に入らない画稿や下絵を焼き捨てたことなどにより、現存作品は600点ほどといわれる。うち約120点を山種美術館が所蔵する。同美術館の御舟作品の大半は旧安宅コレクションに由来するものである。
「京の舞妓」(1920年(大正9年)、東京国立博物館蔵)
絹本著色、軸装、152.3×101.8センチ。第7回院展に出品。舞妓の衣装の細かい文様から畳の目の一つひとつまで克明に描写した写実性が特色の作品である。発表時はその細密すぎる描写が話題となり賛否両論を招いた。横山大観はこの作品を日本画の伝統からはずれた「悪写実」と酷評し、御舟を院展から除名すべしとまで主張した。そのためか御舟はこの作品以降、人物画から長年にわたり遠ざかる。
「炎舞」(1925年(大正14年)、山種美術館蔵、重要文化財)
絹本著色、額装(もと軸装)、120.4×53.7センチ。蛾が炎に魅せられているかのように舞う、緻密な写実と幻想が融合した作品。背景の闇は黒に朱を混ぜ、礬水(どうさ)を引かずに絵具が絹面ににじむようにして描いたもので、単なる黒ではない深い闇を表現している。御舟はこの背景について「もう一度描けと言われても二度とは出せない色」だと、義兄の吉田幸三郎に語った。描かれている蛾は滞在先の軽井沢で写生したもので、いずれの蛾も真正面向きに描かれているにもかかわらず、生きて飛んでいる感じを表現している。炎の描写には、日本の伝統的な絵巻物や仏画の炎の描写の影響が指摘されている。生物に造詣の深い昭和天皇は、この画を見て「蛾の眼が生きているね」と言ったという。他に御舟が蛾を描いた作品として、「粧蛾舞戯」という作品がある(「昆虫二題」と題する双幅の作品の左幅。右幅は「葉蔭魔手」という題の蜘蛛を描いた作品)。三島由紀夫の小説『金閣寺』の新潮文庫版のカバーのデザインに起用されている。
「翠苔緑芝」(1928年(昭和3年)、山種美術館蔵)
紙本金地著色、四曲屏風一双、各172.6×362.4センチ。左隻はアジサイと白兎、右隻は琵琶と青桐に黒猫を描く。装飾的構成と単純化されたモチーフの形態には琳派や西洋画の影響が指摘される。
「名樹散椿」(1929年(昭和4年)、山種美術館蔵、重要文化財)
紙本金地著色、二曲屏風一双、各167.9×169.6センチ。京都市北区にある地蔵院の椿の老木を描いた作品。日本画の写実的な部分に、大胆にもキュビズムにも似た表現を取り入れた意欲作。背景の金地は金箔でも金泥でもなく、「撒きつぶし」という技法によるもので、金砂子(金の細粉)を一面に撒き散らしたものである。これによって光沢を抑えたフラットな金地が実現している[10]。1977年(昭和52年)に「炎舞」と共に重要文化財に指定され、昭和の美術作品として初めての指定となった。
切手
速水御舟に関連した記念切手として発行された。
1979年(昭和54年)「近代美術シリーズ」:「炎舞」(額面50)
1994年(平成6年)「文化人切手」:「速水御舟」(額面80)
がある。
藤城 清治(ふじしろ せいじ、1924年4月17日 – )は日本の影絵作家。キャラクター「ケロヨン」の原作者としても知られる。東京府(東京都)出身・目黒区在住。ホリプロ(同社も目黒区に所在)とマネジメント契約を結んでいる。
年譜
1924年(大正13年)、東京に生まれる。幼少時より、画才を認められる。
1936年(昭和11年)、12歳で慶應普通部入学。仙波均平に水彩画、エッチング、油絵の指導を受ける。この頃、先輩の縁で、猪熊弦一郎のアトリエに出入りし、モダニズム絵画に影響を受ける。また、慶應の児童文化研究会にて人形劇と出会う。
1944年(昭和19年)、海軍予備学生となり、翌年に20歳で少尉任官、九十九里浜沿岸防備に就くも、赴任地で指人形を使い少年兵らと共に慰問演芸会を行う。
1946年(昭和21年)、慶應復学(大学2年)。講師の小澤愛圀(よしくに)により、人形劇・影絵を知る。人形劇と影絵の劇場「ジュヌ・パントル」を結成(「ジュヌ・パントル」は後年、「木馬座」と名称変更)。
1947年(昭和22年)、慶應義塾大学経済学部卒業。東京興行(現:東京テアトル)入社、宣伝部勤務。テアトル銀座、銀座全線座のパンフレットを編集、淀川長治、双葉十三郎の影響を受ける。
1948年(昭和23年)、花森安治の雑誌「暮しの手帖」にて、影絵連載開始(影絵の連載は1996年(平成8年)まで続いた)。慶應三田演説館にて影絵劇上演。
1950年(昭和25年)、初の影絵絵本『ぶどう酒びんのふしぎな旅』出版(暮しの手帖社)。滝山千代と結婚、1女を儲ける。
1951年(昭和26年)、芥川也寸志音楽による人形音楽劇『雪の女王』制作(銀座交詢社ホール、生演奏による上演)。テアトル東京を辞職、フリーとなる。
1952年(昭和27年)、アサヒビール系ビヤホールに影絵ガラス壁画を制作(銀座ピルゼン他)。NHK、テレビの試験放送開始。NHKの専属となる。
1953年(昭和28年)、朝日新聞日曜版紙面にて、影絵連載。伊福部昭音楽による影絵劇『せむしの子馬』を制作(銀座交詢社ホールにて伊福部指揮の生演奏による上演)。
1954年(昭和29年)、児童文化誌「絵本木馬」を創刊(14号まで発行)。影絵劇『泣いた赤鬼』にて東京都児童演劇コンクール奨励賞。
1956年(昭和31年)、影絵劇『銀河鉄道の夜」にて、1956年度国際演劇参加読売児童演劇祭奨励賞、日本ユネスコ協会連盟賞受賞。
1958年(昭和33年)、「中央公論」連載の『西遊記』(邱永漢作)の挿絵を担当(1962年まで)。
1960年(昭和35年)、影絵劇『海に落ちたピアノ』初演(大阪毎日ホール)。影絵画集「影絵」出版(東京創元社)。
1961年(昭和36年)、木馬座による等身大ぬいぐるみ人形劇を創案。
1962年(昭和37年)、木馬座と共同でみんなのうたで、雪とこどものアニメーションを制作。
1966年(昭和41年)、『木馬座アワー』のキャラクターとして、「ケロヨン」を創作。日本テレビ『木馬座アワー』を自主提供。12月、日本武道館にて、第1回ケロヨンショーを開催[3]。
1971年(昭和46年)、東京12チャンネルにて『ベーバック』放映。この年の木馬座武道館公演が混乱し、問題となる。
1972年(昭和47年)、公演の混乱等の諸問題によって「木馬座」を離れる。影絵・人形劇公演自体は「ジュヌ・パントル」として、活動を継続。
1974年(昭和49年)、「暮しの手帖」にカラー影絵の連載開始。1996年まで継続。
1977年(昭和52年)、『藤城清治影絵画集』出版(講談社)。
1978年(昭和53年)、花森安治死去。後を継ぎ「暮しの手帖」の表紙を描く。
1980年(昭和55年)、影絵劇『シャクンタラー姫』が厚生省児童福祉文化奨励賞受賞。
1981年(昭和56年)、影絵画集『イエス』出版(日本基督教団出版局、制作期間3年)。
1982年(昭和57年)、国際交流基金の派遣による文化親善使節に任命され、パキスタン、ヨルダン、エジプト、アラブ首長国連邦等で影絵劇上演。影絵劇『銀河鉄道の夜』が第37回文化庁芸術祭で優秀賞受賞。
1983年(昭和58年)、絵本『銀河鉄道の夜』がチェコスロバキアのブラチスラヴァ国際絵本原画展で金のリンゴ賞受賞。『藤城清治影絵の世界・シルエットアートその作品と技法』出版(東京書籍)。
1986年(昭和61年)、『藤城清治影絵劇の世界・シルエットプレイその歴史と創造」出版(東京書籍)。
1989年(平成元年)春、紫綬褒章受章。「鐘崎笹かまメルヘン館大壁画」制作(仙台市)。
1990年(平成2年)、影絵劇『幻想列車』制作上演(長崎「旅・博覧会」)。
1991年(平成3年)、影絵画集『天地創造』出版(日本基督教団出版局、制作期間11年)。影絵劇『森のメヌエット』制作上演(北九州博覧会)。
1992年(平成4年)、「藤城清治影絵美術館」開設(山梨県昇仙峡)。
1993年(平成5年)、影絵劇『夢ふたたび月へ』制作上演(信州博覧会)。このライブ上演にて、’93エキスポ大賞受賞。
1995年(平成7年)春、勲四等旭日小綬章受章。
1996年(平成8年)、「藤城清治影絵美術館」開設(長野県白樺湖湖畔)。
1997年(平成9年)、影絵画集『ウィー・アー・ザ・ワールド/歌が世界を動かした』出版(星の環会)。影絵劇『夢きらめく海へ』制作上演(鳥取夢みなと博覧会)。また’97エキスポ地球振興賞受賞。
1998年(平成10年)、「コロボックル影絵美術館」開設(北海道遠軽町生田原、木のおもちゃワールド館ちゃちゃワールド内)。
1999年(平成11年)、日本児童文芸家協会より児童文化特別功労賞受賞。
2001年(平成13年)、北九州博覧祭2001にて4ヶ月ライブ上演。ジャパンエキスポ大賞受賞。
2006年(平成18年)、妻千代死去。享年82歳。
2008年(平成20年)、画業60周年記念として、影絵・ぬいぐるみ人形劇等映像作品のDVD発売。
2011年(平成23年)、太田光(爆笑問題)原作の絵本「マボロシの鳥」を制作(講談社)。自宅スタジオ展開催。
2013年(平成25年)、栃木県那須町に「藤城清治美術館」が開館。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
生涯
家柄
1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親(当時父が中村の部下であった))が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。
パリに至るまで
藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごし(小学校は熊本大学教育学部附属小学校)、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。
森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
1911(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描いた(現存)。
なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
パリでの出会い
藤田の肖像(イスマエル・ネリ、1930年代)
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。
第一次世界大戦
1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。
パリの寵児
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
日本への帰国
陸軍美術協会理事長時代の藤田
南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、宮本三郎、小磯良平(1942年)。藤田は黒いシャツを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年 – 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年に戦争協力に対する批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。
晩年
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死亡した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人は、没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館に向け尽力、晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開された。藤田自身から40年余りを経て2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂(フランス語版)に埋葬された。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収蔵されている。
2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。
戦争画
戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。
占領下に、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ばスケープゴートに近いかたちで戦争協力の罪を非難され藤田は、渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残しパリへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」、と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったがゆえに、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。
パリでの成功後も戦後も、存命中には日本社会から認められることはついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになった。
乳白色の肌の秘密
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表された。タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上する。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助が以前から報告している[9][10]。
作品
藤田の作品は東京のブリヂストン美術館、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、赤坂迎賓館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。
関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵…」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。
晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。
藤田は挿絵作家としても独自の地位を得ている。ピエール・ロティ、ラビンドラナート・タゴール、ギヨーム・アポリネール、ポール・クローデル、ピエール・ルイス、ジャン・ジロドゥ、キク・ヤマタ、ジャン・コクトー等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せている。なかでも、フォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。
また藤田は多くのエッセイを書き残し没後出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに、「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」がある。
村上 隆(むらかみ たかし、1962年(昭和37年)2月1日 – )は、日本の現代美術家、ポップアーティスト、映画監督。有限会社カイカイキキ代表取締役、元カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授。学位は博士(美術)(東京芸術大学) 1993年(平成5年)。
人物
1962年(昭和37年)生まれ。東京都板橋区出身。本郷高等学校経て、2浪ののち、1986年(昭和61年)東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年(昭和63年)同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)、1993年(平成5年)同博士後期課程修了、博士 (美術)。日本美術院同人で日本画家の村上裕二は弟。
自らの作品制作を行うかたわら、芸術イベント『GEISAI』プロジェクトのチェアマンを務め、アーティスト集団『カイカイ・キキ(Kaikai Kiki)』を主宰し、若手アーティストのプロデュースを行うなど、活発な活動を展開している。同集団は、アメリカのニューヨークにも版権を管理するエージェントオフィスをもつ。
日本アニメポップ的な作風の裏には、日本画の浮世絵や琳派の構成に影響されている部分も強く、日本画のフラット感、オタクの文脈とのリンクなど現代文化のキーワードが含まれている。中でもアニメ、フィギュアなどいわゆるサブカルチャーであるオタク系の題材を用いた作品が有名。アニメ風の美少女キャラクターをモチーフとした作品は中原浩大の「ナディア」に影響を受けたと本人も認めている。アニメーター・金田伊功の影響を強く受けており、自分の作品は金田の功績を作例として表現しているだけと話したこともある[要出典]。
漫画原作者である大塚英志は、教授として就任した大学のトークショーにおいて「現代美術のパチモノの村上隆は尊敬はしないし、潰していく。我々の言うむらかみたかしは4コマまんがの村上たかしのことだ」と強く非難し、また、現代美術家がサブカルを安易に取り上げることや、後述のリトルボーイ展の戦後日本人のメンタリティを無視した展示内容に強い不快感を示している[要出典]。
一方、精神科医の斎藤環は、批判者の言説は「村上隆は日本のオタク文化のいいとこどりをしただけ」との単純な論理に依ると捉え、そのような論理は根本的に誤解であり不当な批判を行っているとして、厳しく非難している。また、村上の作品はオタク文化から影響を受けているだけでなく、それを昇華させてオタク文化に影響を与えてもいると述べている。
村上曰く、「マティスのような天才にはなれないがピカソやウォーホール程度の芸術家の見た風景ならわかる。彼らの行ったマネージメントやイメージ作りなどを研究し自分のイメージ作りにも参考にしている」。
自身に批判的なツイートを公式リツイートすることで、炎上商法・炎上マーケティングを行っていると、ツイッター上で公言している。
2013年11月18日に、自身のサイトできゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」(2011)のプロモーションビデオに登場する目玉と村上隆作品には一切関係ないことを公表した。
経歴
生来のアニメ好きが高じて、高校卒業後にはアニメーターを志した。尊敬しているアニメ監督は宮崎駿で、『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』を観て、アニメーションの仕事に就きたいと思っていた。しかしながら挫折し、同じく以前から興味のあった日本画を習い、2浪の後に東京芸術大学に入学した。同大学では美術学部日本画科に学び、1986年(昭和61年)の卒業時には『横を向いた自画像』(東京芸大美術館所蔵)を製作・提出。
1988年(昭和63年)に東京芸術大学大学院修士課程の修了制作が、首席とならず次席であったために、日本画家への道を断念する。
1991年(平成3年)には、個展 『TAKASHI, TAMIYA』を開催、現代美術家としてデビューした。同年、ワシントン条約で取引規制された動物の皮革で作ったランドセルを展示する「ランドセル・プロジェクト」を展開する。
1993年(平成5年)、東京芸術大学大学院の美術研究科博士後期課程を修了。「美術における『意味の無意味の意味』をめぐって」と題した博士論文をもって、同大学日本画科で初めての博士号取得者となった。
1994年(平成6年)にはロックフェラー財団のACCグラントを得て、「PS1.ART PROJECT」の招待を受けニューヨークに滞在した。
1998年(平成10年)にカリフォルニア大学ロサンゼルス校美術建築学部客員教授。2001年(平成13年)にアメリカロサンゼルスで、展覧会『SUPER FLAT』展が開催され全米で話題となる。2005年(平成17年)4月、ニューヨークで個展 『リトルボーイ展』を開催。自身の作品の他、ジャパニーズ・オタクカルチャーや日本人アーティストの作品が展示され、またリトルボーイ展では「父親たる戦勝国アメリカに去勢され温室でぬくぬくと肥えつづけた怠慢な子供としての日本と、そうした環境ゆえに派生した奇形文化としてのオタク・カルチャー」、「それがゆえにオタク・カルチャーのきっかけはアメリカにもあるのだ」との考えが提示された。翌年2006年(平成18年)にリトルボーイ展はキュレーターに送られる世界で唯一の賞であるニューヨークの美術館開催の最優秀テーマ展覧会賞を受賞した。
2005年(平成17年)1月末よりPHS会社・ウィルコムのCMに出演。近年は六本木ヒルズのトータルプロデュースの一員やイメージキャラクター『ロクロク星人』のデザイン、フロアガイド冊子のデザインを手がけている。また『ルイ・ヴィトン ミーツ ネオ・ジャポニズム』と題し、高級ファッションブランド、ルイ・ヴィトンをクライアントとするコラボレーション製品などを発表。
2006年(平成18年)に「リトルボーイ展」の成果として芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。
2008年(平成20年)、米Time誌の”The World’s Most Influential People – The 2008 TIME 100″(世界で最も影響力のある100人-2008年度版)に選ばれた。
2008年(平成20年)、GQ MEN OF THE YEAR 2008を受賞。
2010年(平成22年)に開催されたシンポジウム『クール・ジャパノロジーの可能性』では、「アート界における”クール・ジャパン”の戦略的プロデュース法――Mr.の場合」と題した講演を行った。講演では、日本のマンガやアニメ、および、それらを生み出した日本自体を肯定的に解釈し、それらの前提のもと、今日ではクール・ジャパンと呼ばれている観点を日本人作家作品によっていかに西洋アート界に体現させていけるか、とのテーマについて初期から漸進的に取り組んできた軌跡を発表した。
2010年(平成22年)10月に雑誌『SUPERFLAT』を創刊し、創刊号ではジェフ・クーンズとの特別対談や、村上隆、東浩紀、椹木野衣、黒瀬陽平、梅沢和木、藤城嘘、福嶋亮大、濱野智史らの記事が掲載される予定であった(未刊行)。
2016年(平成28年)3月に「村上隆の五百羅漢図展」の成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。
発表作品に係わるエピソード
デビュー作にて、タミヤ社長の弟にタミヤマークを使用した作品制作の許可は得ていたが、「TAMIYA」の表記を無断で「TAKASHI」に変更し、注意を受けている。
1993年(平成5年)以前の活動としては『加瀬大周宇Zプロジェクト』では芸能界の騒動に乗じた悪乗りとの不評を買い、当時進行していた複数の展覧会の企画が流れてしまった。古賀学のフリーペーパー『ペッパー・ショップ(Pepper Shop)』で『マンガ道場』を連載。白人の『ダッコちゃん』でタカラより非難される[要出典]。
1994年(平成6年)、大学院卒業後の作品である『HIROPON』の評価を岡田斗司夫に尋ねると「発想が古臭い、とにかく顔がブサイクすぎる」と酷評される[要出典]。その後、ニューヨークにロックフェラー財団の奨学金で留学。制作活動に専念。ニューヨークで現地フリーペーパーの表紙で作品を次々と発表。
2003年(平成15年)2月25日、村上がルイ・ヴィトンの依頼でデザインした鞄が3月1日に発売されるのに合わせて東映アニメーションが制作したアニメ『SUPERFLAT MONOGRAM』が公開される。同年12月8日、海洋堂とのコラボレーションにより、自らのフィギュア作品をわずか350円の小さなフィギュアにしてナンバリングされた証明書を添付したアート食玩『村上隆のSUPER FLAT MUSEUM~コンビニ エディション~』を発売したことで話題を呼ぶ。食玩は本来菓子が商品でありフィギュアは「おまけ」であることから、村上は「5,800万円の作品が無料で大量に複製生産されることの面白さ」がこの商品の意義であると述べている[要出典]。
『My Lonesome CowBoy』を製作した理由は、『HIROPON』が女性だったので、次は男性を作ろうと思っただけだと話す。男女を作ることで、フェミニズム的な違反を避ける意図もある。男性をモチーフにすることには関心が持てないので、逆に一度はやってみたかったとも語る。
2003年(平成15年)春、ニューヨークのオークション会社・サザビーズにて等身大フィギュア『Miss Ko2』が50万ドル(約5,800万円)で落札、話題となった。これは当時の日本現代美術作品の最高額である。本人は自らの作品がこのような高額で買い取られた理由について「女性の美意識に革命をもたらしたからだ」と分析する一方、「単に金持ちが作品の性的な要素に惹かれて落札しただけなのでは」と話している。落札したのは、会社を売って隠居したアメリカの80歳近い老夫婦である。
2004年(平成16年)7月、ナルミヤ・インターナショナルによるキャラクター、『マウスくん』が、村上のキャラクター、『DOB君』に酷似しているとして、同社を著作権侵害で提訴。2006年(平成18年)4月に和解が成立し、4,000万円の和解金を受け取る(これについてはそもそもDOB君がミッキーマウスをモチーフとしている(近似している)のに何故著作権を侵害されているなどと言えるのかといった東浩紀[16]、町山智浩[17]等からの批判がある)。本人は、元々『DB君』は自分の作品の世界観を再構築して作ったもので、『マウスくん』がその世界観そのものを盗用しているように感じ、企業との幾度かの話し合いの末、示談になったと話している[18]。現在のマウスくんは村上の著作権を侵害していないとされる。
アメリカの歌手カニエ・ウェストの2007年(平成19年)9月11日発売の『グラジュエイション』のジャケットのデザインを担当。同年10月以降、アメリカ・ロサンゼルス現代美術館(MOCA)で大規模な展覧会「村上隆回顧展(C)MURAKAMI」が催し、自身の作品を巨額の資金が動くビジネスへと牽引する貪欲さを見せている。
2010年(平成22年)9月14日にフランス・ベルサイユ宮殿で村上の作品展『Murakami Versailles』が開催されたが、宮殿に彼の作品は合わないとして、フランス国内の団体が抗議デモをおこなった[19][20]。10月22日には、フランス王ルイ14世の子孫の1人シクスト・アンリ・ド・ブルボン=パルムが、「世界遺産にポルノ作品を飾っており、祖先に対する冒涜に当たる」として作品展の中止を要求し、主催者である宮殿当局に対する法的措置を取ることを表明した。
若手アーティストへの教育・支援
GEISAI
詳細は「GEISAI」を参照
GEISAI(ゲイサイ)とは、村上隆主催の若手アーティスト向けのアートイベント。2002年(平成14年)より継続的に開催している。これまでにAKB48[22]、ももいろクローバー、平野綾ら、アイドルや声優がパフォーマンスで出演した。
KaikaiKiki
有限会社カイカイキキとは、2001年(平成13年)に設立された村上隆が代表取締役を務める企業。1996年(平成8年)に設立されたヒロポンファクトリーが前身である。アーティストやサポートスタッフを、正社員やアルバイトとして雇用し、カイカイキキ三芳スタジオ(三芳工場)などにて創作活動に従事させている。
若手アーティストの育成スタジオ「ちゃんば」では、「密教的」と村上が語る程に危険な修行が行われている。具体的には、アーティスト自身の内面の深部を掘り下げる目的の村上との問答が、安全面に関する一定の配慮を払いつつ毎日繰り返されている。一方、アーティストに一般社会における礼儀作法も求めており、村上は、日本のアーティストは礼儀作法が分かっていない結果、すぐに恨んだり、切れたりすると批判している。また、東日本大震災発生後に村上は毎日、カイカイキキスタッフに対して、労働基準法を盾にして主張する若者とは芸術の意念闘争を闘えないとの趣旨で「通常モードの会社員として雇用されたい人は辞めてほしい」と発破をかけた。
また、村上が監督を務める映画『めめめのくらげ』の制作や、カイカイキキ札幌 STUDIO PONCOTANにてアニメ作品『シックスハートプリンセス』をアニメーターを雇用して制作している。
他にも、GEISAI審査員を務めた黒瀬陽平の後述の「カオス*ラウンジ」への加入や、カオス*ラウンジ参加作家(JNTHED、ob、(現在はアーティストとして今後一切の活動を行わない事を宣言している)森次慶子)のカイカイキキアーティストとしての採用、カオス*ラウンジ参加作家のカイカイキキ開催の展示会(「HERBEST展」、「アートどすえ 京都芸術物産展」、「HEISEIBU祭」)への出展など、外部団体との人材交流も生じている。
ちなみに、カイカイキキは2015年(平成27年)9月30日現在、まんだらけの発行済株式総数の1.69%を保有する、第9位の大株主である。
カオス*ラウンジへの支援
「カオス*ラウンジ」は元々、イラスト投稿サイトpixivのユーザーによる、オフ会としてのグループ展「ポストポッパーズ」が前身であったが、「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」より「GEISAI CRITICAL MEDIA」審査員であった黒瀬陽平が「カオス*ラウンジ」に加入し現代アートとしての理論補強が行われた結果、従来「カオス*ラウンジ」が持っていたpixivユーザーオフ会の性質が発展的に解体され、現代アートの文脈に接続されることとなった。
「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷では、村上隆自身の作品も展示され、また、美術専門誌『美術手帖』2010年5月号への綴じ込み付録のカオス*ラウンジ特集広告の出稿、カイカイキキが運営しているギャラリーにおける「CHAOS*LOUNGE フェス」や、「pixiv画面端フェスタ」の開催、「カオス*ラウンジ2010 in 台湾」のプロデュース、展示作品「破滅*ラウンジ」の購入などの支援が行われている。
ギャラリー
有限会社カイカイキキが運営しているギャラリー
日本国内
Kaikai Kiki Gallery、GEISAI Galleryを除き、いずれのギャラリーも中野ブロードウェイ内に所在している
Kaikai Kiki Gallery
Hidari Zingaro(左 甚蛾狼――ヒダリ ジンガロ)
pixiv Zingaro[出典無効] – イラスト投稿サイトpixivとのコラボレーション。pixiv#村上隆・カイカイキキとの企画も参照。
Oz Zingaro
Kaikai Zingaro
GEISAI Gallery
日本国外
Kaikai Kiki Gallery Taipei
Hidari Zingaro Taipei
Hidari Zingaro Berlin
主な展覧会
『スーパーフラット展』、渋谷パルコギャラリー、村上隆キュレーション、2000年4月28日-5月29日
『Superflat』ロサンゼルス現代美術館(MOCA)、村上隆キュレーション、2001年1月14日-5月27日
『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』、東京都現代美術館、2001年8月25日-11月4日
『ぬりえ展』、パリ、カルティエ現代美術財団、2002年6月27日-10月27日
『逆転二重螺旋』、ニューヨーク、ロックフェラー・センター、2003年9月9日-10月12日
『リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー・アート展』、ニューヨーク、ジャパン・ソサエティー・ギャラリー他、村上隆キュレーション、2005年4月8日-7月24日
『村上隆回顧展(C)MURAKAMI』
カリフォルニア、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)、2007年10月29日-2008年2月11日
ニューヨーク、ブルックリン美術館、2008年4月5日-7月13日
フランクフルト、フランクフルト近代美術館、2008年9月27日-2009年1月4日
ビルバオ、ビルバオ・グッゲンハイム美術館、2009年2月17日-5月31日
『Murakami Versailles』、フランス・ヴェルサイユ宮殿、2010年9月14日-12月12日。
『Murakami Ego』、Al-Riwaq Doha exhibition space、カタール・ドーハ、2012年2月8日-6月24日
『村上隆の五百羅漢図展』、 森美術館、2015年10月31日-2016年3月6日
『村上隆のスーパーフラットコレクション-蕭白、魯山人からキーファーまで-』、横浜美術館、2016年1月30日-4月3日
代表作[編集]
『Miss Ko2(KoKo)』
ウェイトレスの格好の等身大サイズの美少女フィギュア。海洋堂や美術業者との共同制作オークション会社のサザビーズにて約5,800万円で落札。佐藤江梨子をモデルとした「サトエリMiss Ko2ちゃん」、西E田(キャラクターデザイナー)によるナースバージョンなども存在する。
『HIROPON』
自分の母乳で縄跳びをしている等身大の美少女フィギュア。オークション会社のクリスティーズにて約4,890万円で落札。その際、フィギュア原型師を紹介してくれた岡田斗司夫に感謝状をしたためている。
『My Lonesome CowBoy』
白い液体を放出する裸の青年の等身大のフィギュア。競売会社サザビーズがニューヨークで行ったオークションにて、1516万ドル(約16億円)で落札された。
『Mr.DOB』
代表的キャラクター。「DOB君」ともいう。ネズミのぬいぐるみのような形をした生物。様々な派生作品が生み出されており、その場の空間にあわせ奇妙な形態をする。変化する村上の自画像とも言われている。岡田斗司夫の処女作『ぼくたちの洗脳社会』の表紙にも登場している。
『お花』
代表的キャラクター。花の中央にスマイルのついた大小の異なる花。ルイ・ヴィトンとのコラボレーション作品に取り入れられている。歌手・ゆずのアルバムジャケットなどにも使用されている。
『ゆめらいおん』
TOKYO MXのシンボルキャラクター。
『シックスハートプリンセス』
ベルサイユ宮殿の個展にて初公開されたアニメーション作品。従来のアート系アニメ作品とは趣を異にする作風であり、女児をメインターゲットとした商業アニメ作品(プリキュア)のフォーマットを踏襲した作りとなっている。監修した佐藤順一は、まさにその日曜朝アニメ枠を務めた、れっきとしたアニメ監督である。
『五百羅漢図』
全長100メートルの狩野一信の作品のリメイク作品。東日本大震災への芸術家としての解答と表現している(ただし、製作開始時は震災は発生していない)。
『めめめのくらげ』
村上隆が監督を担当した映画作品。一般の商業映画作品として2013年4月26日に公開。カイカイキキ製作、ギャガ配給。
出版・DVD
出版
『ふしぎの森のDOB君 村上隆1st作品集』美術出版社、1999年。ISBN 4568103258
『Summon Monsters? Open The Door? Heal? Or Die? – 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』カイカイキキ、2001年。ISBN 4939148033
『ツーアート』ぴあ、2003年。ビートたけしと共著。
『The★ Geisai―アートを発見する場所』カイカイキキ、2005年。ISBN 4939148173
『SUPER FLAT』マドラ出版、2005年。ISBN 4944079346
『リトルボーイ―爆発する日本のサブカルチャー・アート』ジャパン・ソサエティー/イェール大学出版、2005年。ISBN 493914819X
『芸術起業論』 幻冬舎、2006年。ISBN 978-4344011786
『芸術闘争論』 幻冬舎、2010年。ISBN 9784344019126
『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012』美術出版社、2012年。ISBN 978-4568104509
『創造力なき日本――アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』角川書店、2012年。ISBN 978-4-04-110330-2
『熱闘! 日本美術史』新潮社、2014年。辻惟雄と共著。
DVD
『NHK新日曜美術館奈良美智×村上隆ニューポップ宣言』(2001年放送『新日曜美術館』編集DVD)、NHKエンタープライズ、2006年。
メディア出演[編集]
テレビ番組
たけしの誰でもピカソ(テレビ東京) – オープニングタイトル・キャラクターを担当。アートバトル審査員も務めた
ラジオ番組
村上隆のエフエム芸術道場(TOKYO FM 毎週土曜27:00-28:00)
渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) – 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。
生涯
誕生と苦難の幼少時代
江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。のちに谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んでいる。
池ノ原公園崋山幽居跡。1955年に復元したもの。詳しくは池ノ原公園を参照(2004年9月19日撮影)
田原藩士として
藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となる。
ところが、翌10年に藩主康明が28歳の若さで病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。
天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった。
こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な気候の渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。
天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。また、崋山は藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用した。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑で、崋山自身は開国論を持っており鎖国・海防に反対だった。
「蘭学にて大施主」
また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問会は天保8年(1837年)のモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての呼び名である。
これに対して田中弘之は、幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加しておらず、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけだったと指摘している。崋山や長英・三英は内心では鎖国の撤廃を望んでいたが、崋山は幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていた。江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていた。開国を望む崋山と頑迷な海防論者の江川は同床異夢の関係であったとする説を提示している。
蛮社の獄とその最期
愛知県田原市城宝寺の墓所
翌天保9年(1838年)にモリソン号事件を知った崋山や長英は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する『慎機論』を書いた。しかしこの書は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、『戊戌夢物語』を書いた長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。
かつて、蛮社の獄は、幕府の保守派、目付鳥居耀蔵が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の藤田茂吉がこれを自由民権運動との連想で書いたためである。だが実際には、鳥居と江川英龍との確執が原因であり、天保10年(1839年)5月、鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。
以上の通説に対して田中弘之は、江戸湾巡視の際に鳥居と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと鳥居と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、鳥居が失脚する弘化元年(1844年)まで続いていることを指摘している。鳥居は江戸湾巡視や蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めており、蛮社の獄の原因を鳥居と江川の確執に求めるのは誤りで、蛮社の獄は鳥居が『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるという説を提示している。
天保12年(1841年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。
著書に『初稿西洋事情書』『再稿西洋事情書』『外国事情書』『鴃舌或問』『鴃舌小記』など。
崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年3月15日(1868年4月7日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。
画家・文人としての崋山
月下鳴機図 天保12年(1841年)の作。静嘉堂文庫美術館蔵、重要美術品
鷹見泉石像 天保8年(1837年)の作。東京国立博物館蔵。国宝
佐藤一斎像 文政4年(1821年)の作。東京国立博物館蔵、重要文化財
華山は年少の頃より生計を支えるために画業を志した。最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事したが付届けができないことを理由に破門された。これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って金子金陵に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた(文化6年=崋山17歳)。金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中の素描などに大きく役立ったであろうことがうかがえる。
さらに、金陵の師である谷文晁にも教えを受けた。文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず文人画家としての手本となった。師の文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。文人画は清の惲寿平(惲南田)に強く影響されている。また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られる。
滝沢琴嶺像 天保6年(1835年)の作。個人蔵、天理大学付属天理図書館寄託
市河米庵像(部分) 天保8年(1837年)の作。京都国立博物館蔵、重要文化財
五言絶句 東京国立博物館蔵(倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満沅湘)
こうした崋山の写実性へのこだわりを示す逸話がある。1835年(天保6年)、画家友達であった滝沢琴嶺が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴にその肖像画の作成を依頼された。当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れたという(馬琴『後の為の記』)。これらは当時の価値観や風習から大きく外れた行動であった。
元々崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするために得がたいものとなった。代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるとともに、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。
弟子に椿椿山・福田半香などが育った。末弟の如山を椿山の画塾に入門させ将来を嘱望される画家としたが、僅か22歳で夭折した。
弟子の一覧
崋山十哲
椿椿山
福田半香
平井顕斎
永村茜山
井上竹逸
山本栞谷
小田甫川
立原春沙 立原杏所の長女
斎藤香玉
岡本秋暉 師友
金子豊水
鈴木三岳
高木悟庵
桜間青涯
高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日(嘉永5年2月18日) – 1934年(昭和9年)10月10日)は、日本の仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎、高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。
経歴
江戸下谷(現・台東区)に町人・兼吉の子として生まれる。1863年(文久3年)から仏師の高村東雲の元に徒弟となる。後に東雲の姉・エツの養子となり、高村姓となる。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
1889年(明治22年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、同年10月2日、帝室技芸員に任ぜられる。1893年(明治26年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。1900年(明治33年)には『山霊訶護』をパリ万博に出品。1926年(大正15年)に東京美術学校を退職し、名誉教授。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいた。
栄典
1903年(明治36年)12月11日 – 従五位
代表作
老猿(東京国立博物館蔵) – 1893年(明治26年)シカゴ万博出品作。木彫。国の重要文化財に指定。
西郷隆盛像(上野恩賜公園)
1897年(明治30年)に完成し、翌年除幕式が行われた。傍らの犬は後藤貞行の作。
楠公像(皇居前広場)
住友家が別子銅山(愛媛県)の開坑200年を記念して東京美術学校に製作を依頼し、宮内省に献納したもの。光雲が製作主任となり、主に楠公(楠木正成)の頭部を担当。体部は山田鬼斎と石川光明、馬は後藤貞行、鋳造は岡崎雪聲が担当した。銅像の台座の銘板には「明治30年」とあるが、原型(木造)は1893年(明治26年)に完成している。
山霊訶護(宮内庁蔵) – パリ万博出品作。
家系
祖先は鳥取藩士、中島重左衛門とされる。重左衛門の孫の富五郎が生まれる前に江戸で町人になっていたという。富五郎の息子が光雲の父・兼吉。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・彫刻家。東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。
日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もある。能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周。甥は写真家の高村規で、父である高村光雲等の作品鑑定も多くしている。
生涯
1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。
1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年(明治35年)に彫刻科を卒業し、研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。1906年(明治39年)より留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年(明治42年)に帰国。旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。
1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年(大正3年)に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年(大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「鯰(なまず)」制作。1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後、1941年(昭和16年)に詩集『智恵子抄』を出版した。
智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」[1]など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞[2]。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。
1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。
1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。
著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に、人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。
今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼の陶磁器。
日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。
浮世絵
江戸時代、今戸焼きが製造されている風景は何人かの画家の手によって浮世絵にも描かれている。歌川広重が『名所江戸百景』(画像参照)において今戸焼を製造している窯(かま)の様子を画面に描き込んでいるほか、歌川国芳も『東都名所』に「浅草今戸」と題した一枚で同様の風景を題材としてとっている。
刺繡(ししゅう、英: Embroidery)とは、布地あるいはその他の素材に針とより糸で装飾を施す技術、もしくは手芸のことである。刺繍には金属片や真珠、ビーズ、羽柄、スパンコールなどが用いられる場合もある。
刺繍の特徴は、チェーン・ステッチ(en)、ボタンホール・ステッチ(en)、ランニング・ステッチ(en)、サテン・ステッチ(en)、クロス・ステッチ(en)など、ステッチ(en)の最古の技法に基づいていることで、それらは現代の刺繍の基本的な技術として残っている。
機械刺繍(en)は産業革命の初期に登場し、手刺繍、とりわけチェーン・ステッチを模倣するために使われた。しかし機械によるサテン・ステッチやヘム・ステッチは、複数の糸によって施されるため、見た目は手刺繍と似ているが構造は異なる。
概要
大まかにわけて、人の手で行う手刺繍(てししゅう)と、機械を使用する機械刺繍、剣山状の針を使って布に糸を埋め込むパンチニードルとがある。
刺繍には、さまざまな色に染められた六本取りロウ引きなしの専用の糸(刺繍糸)と針穴を大きく取った専用の針(刺繍針)が使われる。材料が糸であるという性質上、使っている糸の色や材質を刺繍の最中に変更したり出来ないので、使用する色や材質の数だけ糸を用意する必要がある。そのため、文化刺繍など数十色の色を使用する刺繍を行う場合は、専用の針山が使われる。
歴史
中国の刺繍は3000年近い歴史を持つと見られ、周の『礼記』に養蚕や刺繍に関する記載があり、毛織物に簡単な刺繍を施したものも出土している。湖北省からは戦国時代中期の、湖南省からは前漢の細かな刺繍を施した布の実物が多数出土しており、現在の湘繍のルーツと見られる。宋の都であった汴州(べんしゅう)では刺繍が盛んに行われるようになり、現在まで1700年の歴史がある。
日本では、縫い目に呪力が宿るとされていた。そのため、大人の着物に比べ、縫い目の少ない子供の着物には悪いモノが寄り付きやすいと考えられ、子供を守るために着物の背中に「背守り」と呼ばれる刺繍を施す風習があった。
中世ヨーロッパでは刺繍は上流階級の女性の教養として広まった。
種類
フランス刺繍 – フランス刺繍独特の技巧をこらしたステッチが多種ある。一般的な「刺繍」
リボン刺繍 – リボン状のヤーン(糸)を刺す。刺繍糸よりも立体感をだす事ができる。
祭礼の山車の幕に施された刺繍
中国刺繍 – 中国には、少数民族のものと漢族のものがある。漢族の四大刺繍と呼ばれるものに江蘇省蘇州の蘇繍(そしゅう)、湖南省の湘繍(しょうしゅう)、四川省の蜀繍(しょくしゅう)、広東省の粤繍(えつしゅう)がある。この他、河南省開封の汴繍(べんしゅう)、北京の京繍(きょうしゅう)、江蘇省南通の沈繍(しんしゅう)、上海の顧繍(こしゅう)、浙江省温州の甌繍(おうしゅう)などが有名である。各地で糸の種類や技法などに特徴があるが、蘇州のシルクを用いた両面刺繍が特に名高い。少数民族では、ミャオ族の苗繍(びょうしゅう)が最も有名であるが、ヤオ族、チワン族、リー族、ペー族、ウイグル族など、各民族が独特の図案や風合いの刺繍を行っている。
スーザニ刺繍 – ウズベキスタンを中心にタジキスタン、カザフスタンなど中央アジア諸国で制作されている。
日本刺繍 – 京都で作られる日本刺繍を京繍、江戸(東京)で作られる日本刺繍を江戸刺繍、金沢で作られる日本刺繍を加賀刺繍と言い、その中で京繍は日本伝統工芸として認定されている。
絽刺し – 専用に作られた「絽」地の布の織り目の孔に一針ずつ糸を縫い込んでいくもの。図案には伝統的幾何学文様のものと絵画的なものとがある。まるでアップリケのように図案の部分の布地を全て繍糸で埋めてしまうのが特徴。天平時代には中国より伝来していたと見られる。主に皇室、公家、将軍家、大名家の女性達によって受け継がれてきたが、現在その技術を持つ者は少数である。
東京文化刺繍 – 表面一方からのみ針を刺し、糸を表にたわます手法。ジャガード織の風合いに仕上がる。
刺し子 – 木綿地の補強を目的としたステッチ。機能以上に伝統的な美しさもある。
キルティング
クロスステッチ
プチポワン
ミシン刺繍 – 機械刺繍の一種。
表具(ひょうぐ)とは、布や紙などを張ることによって仕立てられた巻物、掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖など。または、それらを仕立てること。仕立てることを表装(ひょうそう)とも称する。
表装を職業としている人を、表具師(ひょうぐし)または経師(きょうじ)という。表具師の主な仕事内容には、掛軸、屏風、衝立、額、画帖、巻物などの修理をはじめ、襖の新調、張替、障子貼りなども含まれる。古くは表補絵師(ひょうほうえし)と呼ばれた。
略歴・概要
平安時代ごろ、遅くとも鎌倉時代に中国から伝来した技術と伝えられる。経巻、仏画などを保護・装飾することから始まったのが表具の歴史である。当時は経巻制作の実作業者のことを「装潢手」(そうこうしゅ)と称しており、「経師」は写経生を指す語であった。
室町時代、1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、はり殿(張殿)とともに「へうほうゑ師」(表補絵師)として紹介され、1500年(明応9年)に成立したとされる『七十一番職人歌合』の二十六番には、仏師と共に「経師」として紹介されている。後者での経師は僧侶の姿をしている。後に「ひょうほうえ師」と呼ばれる専門職として独立するようになったと考えられている。「ひょうほうえ師」は、表補絵師、裱褙絵師(衤に表、衤に背)、あるいは表補衣師といった表記がなされた。
室町時代には寺院の床の間を民間がまねて設けるようになり、桃山時代に鑑賞用の表具がめざましい発展を遂げる。また茶の湯の流行も表具の発展に影響している。茶の湯の世界で珍重された牧谿ら中国画人の作品であっても、表装が貧弱では売れず(『蔭凉軒日録』)、高価な絵ほどそれに見合った表装が必要という意識が読み取れる。
第二次世界大戦以降では、1946年(昭和21年)5月1日、「東京表具組合」(のちの東京表具経師文化協会、現在の東京表具経師内装文化協会)が発足、表具・経師・内装インテリアの3部門をもつ組織として活動している。全国組織は、全国表具経師内装組合連合会である。
三大表具
京表具
江戸表具
金沢表具
漆工(しっこう)は、ウルシの樹液から精製される漆(うるし)を器物の表面に塗り重ね、様々な加飾を施す、東洋独特の伝統的技法。漆工芸(うるしこうげい)ともいう。日本、中国、朝鮮半島で盛行し、東南アジアなどでも用いられた。器物に漆を塗る髹漆(きゅうしつ)が基本に挙げられる。これに加え、最近ではスクリーン印刷なども用いられる。
素地による分類
木胎(もくたい)
木材。
乾漆(かんしつ)
木や粘土などで原型を作り、麻布などを漆で固め、後で原型を取り去ったもの。
乾漆は脱活乾漆と木心乾漆に分かれる。原型を土で作ったものは脱活乾漆(脱乾漆)と呼ばれ、原型を木で作ったものは木心乾漆と呼ばれる。
「乾漆造」も参照
籃胎(らんたい)
竹を編んだもの。
漆皮(しっぴ)
動物(牛や鹿等)の皮を叩き締めて整形したもの。
紙胎(したい)
和紙、近代では新聞紙も使われた。
貼り抜きとも言う。和紙肌を見せている場合は一閑張りまたは、一閑塗りと呼ばれる場合もある。
金胎(きんたい)
鉄の鋳物等。
著名な金胎漆器の例では、金胎蒔絵唐花文鉢(東京国立近代美術館蔵)などが存在する。
陶胎(とうたい)
焼き物。
NHK・連続テレビ小説「まれ」において、陶胎漆器が登場するエピソードがある。
巻胎(けんたい)
細く薄い木を巻いて使う。
加飾による分類
蒔絵(まきえ)
漆で文様を描き、金粉などを降り掛け、文様部分に固着させる技法。
彫漆(ちょうしつ)
厚く塗り重ねた漆に文様を彫る技法。表面の色の違いにより堆朱、(ついしゅ)堆黒(ついこく)がある。中国の漆工、紅花緑葉は応用した技法である。
蒟醤(きんま)
塗り重ねた漆に文様を彫り、色漆を塗り込んでから研ぎ、平面的な文様を描き出す技法。東南アジアで盛んに用いられている。
沈金(ちんきん)
漆を塗った器物の表面に文様を彫り、金箔や金粉を塗りこむ技法。中国の技法、戧金(そうきん)に同じ。
螺鈿(らでん)
文様の形に切った夜光貝等の貝殻を貼り付け、さらに漆を塗り研ぎ出す技法。
平文(ひょうもん)
金属(金、銀、錫等)の薄い板を文様の形に切って貼り付け、さらに漆を塗り平坦に研ぎ出す技法。金貝(かながい)ともいう。漆と金属の高低差があると平脱(へいだつ)となる。ただし近年は平文、平脱は同じ意味で取られている。
堆錦(ついきん)
琉球漆器を代表する漆工。漆に多量の顔料を添加し堆錦餅を作り、それを加工し用いる。
スクリーン印刷
シルクスクリーン、単にスクリーンともいう。孔版画の技法(版画#孔版画、参照)を応用した現代の技法。
銀器(ぎんき)は、銀でできた器などの製品である。
食器がより多く見かける製品であるが、装飾品、神具、記念品なども銀器に含まれている。銀器は他の材料でできた製品よりも突出して高価である。
1970年から1980年にかけてハント兄弟が銀を買い占めた事により銀相場が高騰した際には(銀の木曜日(英語版))銀器が大量に鋳つぶされ、市場に放出された。
銀器の手入れ方法
銀食器は空気中の硫黄分によって黒く変色する。それらは磨き粉などで磨くと除去できるが、その際、減量してしまう。そこで、金属以外の容器にアルミ箔を入れてその上に銀食器を置いて熱湯と塩または重曹を入れてしばらく放置するともとの輝きを取り戻す事が出来る。
和裁(わさい)は、和服を制作することやその技術のこと。和裁は和服裁縫の略語。大正時代の頃までは、裁縫といえば和裁のことであったが、洋裁と区別するために、和服の裁縫のことを和服裁縫、または和裁と呼ぶようになった。現在「裁縫」という言葉は和裁・洋裁のどちらも含む総称である。裁縫のことを「仕立て」ともいう。
和裁の特徴
洋服の場合は、既製品であっても、着る人のそれぞれの体型に合わせてサイズの異なる服が作られる。一方、和服の既製品の場合は、袴と足袋を除けば、子供用・大人の男性用・大人の女性用の3つの標準寸法があるだけである。ただし、袴と足袋の既製品は種々のサイズが作られる。特別な体型で標準寸法の和服では合わない場合は、採寸して作られる。しかし袴・足袋を除けば、和服を個人の体型に合わせるのは着付けの段階である。女性用の和服では、裾の長さは腰の位置で折り畳むことにより調節される。このように折り畳んだ部分をおはしょりと呼ぶ。男性用の和服の着付けではおはしょりは作らない。洋服にはないこの和服の特徴により、和服を新たに取得するときに、洋服よりもサイズを確かめる必要性が低い。また、親と子の体型がよほど大きく違わないかぎり、娘の結婚式などで母の高価な和服を娘が着るようなことが可能となる。ただし、女性用の和服であっても、欧米の白人女性が着る場合、彼女たちは一般的に日本人女性と比べて背が高く、サイズが合わないことがある。男性用・女性用を問わず、正装の和服は格調高く作られ、非常に高価であり、伝統工芸品・芸術作品としての価値が生まれることもある。普段着の和服は、工場で大量生産されることがある。
長さの単位として、メートル法ではなく尺貫法の丈・尺・寸が使われることがある。鯨尺(1尺≒37.9cm)が用いられるのが普通だが、東北地方の山形県・秋田県などでは曲尺(1尺≒30.3cm)が用いられることがある。1丈=10尺、1尺=10寸は鯨尺も曲尺も共通である。
反物
反物とは、和服の材料となる織物の総称である。幅が36cmから72cm、長さが4mから26mある、細くて長い布である。大人の女性用の長着によく使われるのは、幅が36cmの並巾と呼ばれる反物で、女性用の長着を一つ作るには、体の大きさにもよるが、おおむね12mほどの長さの並巾が必要とされる。
和裁道具
針
和裁の針には、「紬えりしめ」「絹えりしめ」「木綿えりしめ」「大ちゃぼ」「中ちゃぼ」「小ちゃぼ」「絹くけ」「大くけ」「小くけ」「木綿縫い」「三の三」「四の三」「四の四」などで使われる。
糸
和裁の糸には、絹手縫い糸、躾(しつけ)糸などが使われる。
はさみ
はさみには、裁ちばさみと糸きりばさみが使われる。
ものさし
尺で計測できるものさしや、鯨尺で計測できるものさしがある。
その他
指貫
へら
チャコ
霧吹き
袖丸型
くけ台
針箱
衣紋掛け
こて
洗張、または洗い張り(あらいはり)は、和服(呉服)専門の洗濯方法の一つである。着物等、縫い合わせて衣服の形状をなしているものから抜糸をして、解き離しての洗浄を行う。この手法から、解洗・解洗い(ときあらい)ともいい、対義語は丸洗(まるあらい)。
「解洗」を行った後、「張」(はり)の作業で仕上げ・乾燥を行うが、この作業およびこの手法で乾燥させる布地を張物、または張り物(はりもの)という。板張りに使用する板を張板(はりいた)、張物板(はりものいた)といい、この作業を生業とする者を張物屋(はりものや)、張屋(はりや)、張物師(はりものし)、あるいは張殿(はりどの)という。
「洗張」を行う手工業者・職人を洗張屋(あらいはりや)と呼ぶ。現在では染物屋、とくに関西では悉皆屋(しっかいや)に発注する。
略歴・概要
岩瀬京伝(山東京伝)『洗張浮世模様』(1786年)のとあるページ。
「洗張」がいつごろ始められたかはわからないが、10世紀末の970年ころに成立したとされる『宇津保物語』には、「張物」を行う人物がすでに登場している。
「洗張」は、室町時代(14世紀 – 16世紀)にはすでに存在し、染物屋が兼業で手がけていたとされる。「解洗」のうち、「張物」の工程を専門に行う職人「張殿」(はりどの)が、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』に紹介されており、遅くともこの時期には「張物」の専門職が存在していたといえる。同歌合には「いやしき身なる者」として、「へうほうゑ師」(表補絵師)とともに対になっており、小袖を着た女性が無数の籡(しんし)で布を張っている姿が描かれている。この歌合に載せられた歌は、
きぬ共を 春の日しめし おきもあへず 花見の出立 急がるるころ
雨の日を もらすは惜しき 商ひに うちばり広き 殿作りせん
というもので、「張殿」の仕事が春になると花見を目前に繁忙期になること、野外で行う作業であるため雨天は休まざるをえず、室内で「張物」ができるような豪邸をつくりたいものだという歌に「張殿」の職能の特徴を描いている。
近世の17世紀末、1690年(元禄3年)に刊行された風俗事典『人倫訓蒙図彙』には、
練物・張物師 – 絹を練る家、張物をなす。一切の染物又は洗沢物これをはるなり。
と紹介されている。洗沢物とは洗濯物の意で、生絹の膠質を除去する「練物」の作業をする家では、「張物」を行うのだということである。江戸時代(17世紀 – 19世紀)には、「洗張」を専業で行う「洗張屋」が登場した。この時代になると、大坂(現在の大阪府大阪市)に「悉皆屋」が登場し、大坂で衣服の染め・洗張の注文を受け、京都の専門店に出す、という仲介業で、のちには染め・洗張を行う業者・職人を指すようになり、現在に至る。1786年(天明3年)、岩瀬京伝(のちの山東京伝)が上梓した『洗張浮世模様』は、「洗張」の姿の華やかさになぞらえて、当時流行した模様を紹介したイラスト集である。
近代以降、家庭で「洗張」をすることができたが、第二次世界大戦(1940年代)以降、染物屋・悉皆屋に外注するケースが増えている。1949年(昭和24年)に設定された日本標準産業分類では、細分類「洗張・染物業」(8291)として「洗張業」は「染物業」とともに1カテゴリを形成していたが、2007年(平成19年)の改正で「その他の洗濯・理容・浴場業」と統合され、小分類「その他の洗濯・理容・美容・浴場業」を形成した。
現在の日本での費用相場は、「洗張」が12,000円、ガード加工に12,000円、さらに仕立てる必要があるので、仕立て代が38,000円といったところだという。
江戸切子(えどきりこ)とは江戸末期に江戸(現在の東京)で始まったカットグラス工法のガラス工芸・ガラス細工である。伝統工芸に認定されているガラス工芸品・地域ブランドの一つ。
江戸切子の特徴
江戸末期に生産された江戸切子は透明な鉛ガラス(透きガラス)に鑢や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による手摺り工程による細工によって制作されたものと考えられている。
当時の薩摩切子が厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラスも用いていたこと、ホイールを用いた深いカットと大胆な形であることとは大きな違いがある。
明治期以後は薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や海外からの技術導入により、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになる。色ガラスの層は薄く鮮やかなのが特徴。加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行していく。
江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴である。
現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス等の透きガラスよりも色被せガラスを素材に用いたものが切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されている。
歴史
1834年(天保5年)に江戸大伝馬町のビードロ屋、加賀屋久兵衛(通称:加賀久)が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で模様を施したのが始まりと言われる。加賀久は日本橋通油町の硝子・眼鏡問屋・加賀屋(通称:加賀吉)から暖簾分けし、切子も始めたとされる。
1873年(明治6年)、明治政府の殖産興業政策の一環として品川興業社硝子製造所が開設され日本での近代的な硝子生産の試みが始まった。
1881年(明治14年)には当時最先端の技術を持ったイギリスから御雇い外国人としてカットグラス技師・エマヌエル・ホープトマンを招聘し技術導入が行われ数名の日本人が師事、近代的な技法が確立され以後発展した。
このように江戸切子のルーツは長崎を窓口として広まった蘭学による江戸の硝子技術・職人、また薩摩切子廃絶に伴う技術の移転そしてイギリス・アイルランドのカットグラス技術等が融合していったのと考えられる。
大正期から昭和初期(開戦前)にかけての大正文化・モダニズムの時代にカットグラスは人気となり、食器からランプにいたる多様な形で普及する(現在、和ガラスと言われるもの等)。第一次世界大戦に伴う産業構造の変化や素材の研究(安価なソーダガラスの素材等)やクリスタルガラスの研磨の技法の開発もあって、高級品の代名詞的存在となった。
当時のメーカーには佐々木硝子(後の佐々木クリスタル。現在の東洋佐々木ガラス)、岩城硝子、岡本硝子などがありドイツ留学から帰国した各務鑛三の各務クリスタル硝子製作所(現・カガミクリスタル)の創業も昭和初期。その他多くの問屋が存在した。
太平洋戦争中は平和産業のため制限下に置かれ、多くの職人も出征。残った職人たちは転業や疎開、またその加工技術から戦闘機向けガラス加工など軍需生産にも動員された。
戦後、主な生産地であった江東一体の下町は灰燼に帰し戦中の制限もあって業界は壊滅的打撃を受けていた。その荒廃の中から各メーカーや問屋に加え、新たに旧軍向け光学レンズからガラス食器に参入・技術転用し後に世界的なクリスタルガラスブランドへと発展した保谷硝子(現・HOYAクリスタル)などのカットグラス生産に切子職人たちが関わり復興していく。
その背景にはGHQの進駐によるガラス食器の発注や海外向け高級シャンデリア等の輸出など「外貨獲得の戦士」と称された時代、さらに高度経済成長期など生活の洋風化に伴うグラス・花器・洋食器の普及・需要増があった。
復興・成長期を経た後は発達してきたロボット・マシンメイドによるカットグラス加工の機械化・量産化がメーカーで進むほか、格安な輸入品の増加によって職人の下請け加工は仕事量と質が大きな影響を受け始める。
昭和50年代に入り行政の伝統工芸や地場産業振興の政策をうけ、組合が江戸切子として東京都伝統工芸品指定を受ける等、伝統工芸の看板として掲げた活動も進みはじめる。しかし円高不況による輸出の減少やバブル崩壊からの長期不況を受けメーカー・問屋・吹きガラス工場の廃業・撤退等も見られるようになり、クリスタルガラス素材を始めとする素材入手困難化や取引先・販路の縮小・変化が顕在化する。仕事量の減少は職人育成の余裕も減らす事となり、後継者の不足と高齢化の課題を抱えるなど複合的要因から廃業も多くなっている。
現在
多くの課題に対して、様々な試みをとりながら和の特色と個性を反映した日本のカットグラス・ガラス工芸として普及・生き残りを図っている。
組合(東京カットグラス工業協同組合)では伝統工芸江戸切子や地域ブランドの認定を受け活動。
個々の職人や加工場では職人仕事・下請け加工からの転換・多角化としてイベント会社の行うデパート催事への参加、自社製品の卸販売化や店舗・ホームページを構えての直販、異業種・デザイナーとのコラボレーション、また若手の育成も試みられている。
また、切子作家・カットグラス作家という活動も見られる。これは職人やその師弟が、下請け加工との兼業あるいは転業・独立して、個人として創作し日本伝統工芸展を始めとするコンペ・作品展への出品や教室・個展の開催等の活動を行うものである。
これらの活動は、ガラスコースを持つ美術大学・専門学校のカリキュラム内やカルチャー教室の切子講座においてカットグラスの指導を受けた者が修了後に始めるケースも見られる。職人という仕事にはせず、趣味の一環としてや作家専従のケースが多い。
江戸切子は薩摩切子と違い、現在に至るまで継続している。その歴史は震災・戦災ほか幾多の困難を経ても途絶える事が無かったこと、また文様や用途も身近な庶民の暮らしとともに発展していったこと等から「庶民の育てた文化」ともいわれている。
技の系譜と職人組合
手仕事ということもあり、加賀屋やホープトマン等からの脈々と繋がる系譜があり職人・加工場・作家の師弟関係をたどることが出来る。
職人とその加工場・工房は東京都江東区・墨田区を中心として江戸川区・葛飾区や大田区、埼玉県の一部など東京東部の周辺で江戸切子だけでなく各種カットグラス加工やその下請け生産を行なっている。
業態には、グラスや器を中心に切子の各種紋様の装飾などを施す「切子」と多面体グラスやガラスの時計枠・灰皿・トロフィー・オブジェあるいはレンズ等の平面研磨をする「平物」(ひらもの)の大きく2つがある。
現在、江戸切子職人・加工所間の同業組合として伝統工芸や地域団体商標の制度で江戸切子の認定を受けている東京カットグラス工業協同組合(江東区亀戸)があり、ショールームの開設・展示販売・催事・広報・体験等の事業を行なっている。2008年(平成20年)、江戸切子が地場産業である地元墨田区出身のTHE ALFEEの坂崎幸之助氏を親善大使に、また記念日として伝統的な模様の魚子(ななこ)にちなむ語呂合わせなどから7月5日を「江戸切子の日」と制定した。
伝統工芸等の公式認定
1985年(昭和60年) – 東京都伝統工芸品に認定。
2002年(平成14年) – 経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定(国による認定制度で、該当製品には「伝統証紙」が貼付される)。
2007年(平成19年)
9月3日 – 中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律(中小企業地域資源活用促進法)における基本構想(東京都)において、支援対象となる地域資源のひとつとして認定。
10月9日 – 地域団体商標登録。
いずれも表記は「江戸切子」であり、送り仮名「り」は含まれない。また、地域資源を除いて東京カットグラス工業協同組合に対しての認定。
三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱらはじいて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。
概説
三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。
三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。
調弦
三味線にあっては、調弦は複数のパターンがあり、曲によって、また曲の途中でも調弦を変化させる。基本の調弦は次の通りである。調弦法が多種あるのは、異なる調に対応するためと、響きによる雰囲気の違いのためである(詳しくは「地歌」を参照)。現在では三味線の調弦に対応したチューニング・メーターも販売されている。
本調子(ほんちょうし) – 一の糸に対し、二の糸を完全4度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。一の糸がCならば二の糸はF、三の糸は高いCとなる。
二上り(にあがり) – 一の糸に対し、二の糸を完全5度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。本調子の二の糸を上げるとこの調子になる事から。沖縄県では「二上げ」とも言う。C-G-Cとなる。
三下り(さんさがり) – 一の糸に対し、二の糸を完全4度高く、三の糸を短7度高く合わせる。本調子の三の糸を下げるとこの調子になる事から。沖縄県では「三下げ」とも言う。C-F-B♭となる。
すだれ(簀垂れ、簾)とは、竹やよしなどを編んで部屋の仕切りあるいは日よけのために吊り下げて用いるもの。
概要
源氏物語の中の御簾
窓の外や軒先に垂らされ、日よけ、目隠し、虫よけなどの目的で使われる。夏の風物詩でもある。『万葉集』に秋の風で簾が動く様子を詠った短歌があり、簾の歴史は少なくとも奈良時代まで遡る。
横方向に垂らすような形で用いる「掛け簾」のほか、縦方向に立て掛ける形で用いる「立て簾(たてす)」と呼ばれる種類もあり、特にヨシを素材として編まれた「葦簀(葭簀、よしず)」は夏季を中心に軒先などに立て掛けて使用されるものである。
カーテンやブラインド、スクリーン等が普及する中、使い勝手の良さや見た目の良さにより根強い人気を持ち、「洋風たてす」と呼ばれるものも販売されている。近代建築においては、エクステリアやインテリアの装飾品として使われることもある。
なお、すだれ状のものを商品等の包装用にしたものは包装用すだれと呼ばれる。
御簾
御簾(みす)とは、特に緑色の布の縁取りなどをした簾のこと。「ぎょれん」とも読む。大名や公家などが部屋の中や外を分けるのに使われていた。その歴史は長く、小倉百人一首の人物描写にも「みす」が描かれている。清少納言の「高炉峰の雪は簾を掲げて見る」の逸話における簾(すだれ)は、御簾のことである。 神社で用いる御簾は、細く削った竹を赤糸で編み、縁を四方と内に縦に三筋附ける。本殿の御簾は鉤も鉤丸も外側に附けるが、それ以外は内側に附ける。かかげ方は、内巻に巻き上げると定められている。
生産
日本では1970年代頃までは日本国内産の比率が高かったが、河川改修などで材料となるヨシの生育地が減少したことから中華人民共和国産の比率が高まった。
茶室の代表的な関東すだれは代萩、幅広い琵琶湖すだれは地よしが多く使用される。
日本刀の研磨(にほんとうのけんま)では、独自の技術体系を有する日本刀の研磨について解説する。
概要
他の刃物研磨と相異する部分が多く、他の刃物の砥師が兼業していることは少なく、また、日本刀の砥師が他の刃物を砥ぐこともほとんどなく、独立した分野と言える。 また、他の刃物研磨が「切れ味が悪くなった物を砥ぎ直す」と言うことを一番の目的にしているのに対し、日本刀の研磨は、刃を付け斬れるようにすることを前提としつつも、さらにそこから作業を進め、刀身の地鉄、刃文の見所を良く見えるように、また、それを引き出すために砥ぐ、と言うことを主要な目的としている点が、一番の相違点と言える。
刀が実用に供されていた時代においては、切れ味だけを求めた砥ぎも存在し、今でも、一部の据え物切り愛好者は、切れ味を求めることもある。切れ味を求めるだけならば、粗い砥石だけ掛ければ十分であるし、また、刃に適度なざらつきがあったほうが滑りが少なくなり結果的に切れ味が上がるとも言われており、「寝刃(を合わせる)」という荒砥や砂で刃に粗目をつける作業も存在する。
しかし、粗い砥石を掛けた状態では、鈍刀でも名刀でも、差が解り辛い。 名刀を名刀として鑑賞するため、荒い砥石から順次、細かい砥石を使用し、また、下地研ぎの最終工程から仕上げ研ぎに掛けて、内曇砥、鳴滝砥と言う天然砥石を使用し、刀剣の持つ、美的、芸術的要素を引き出す事を、最終の目的とする所に、日本刀研磨の本質が有る。
研磨の歴史
日本刀の研磨は、上古刀期の直刀期からすでに始まっているが、世界の他の国の刀剣と違い、刀身そのものを鑑賞し、価値を見出した時より、高度な研磨が求められるようになったと思われ、また、逆に刀身が持つ地鉄、刃文の美的要素を引き出す研磨法が考案され、研究されるに従い、刀身そのものを鑑賞する習慣が生まれたと思われる。
南北朝期、足利尊氏に使えたと伝えられる、本阿彌妙本を祖とする本阿彌家が、主に時の権力者の刀剣研磨、鑑定を司り、九代、本阿彌光徳の時代に差し込み砥ぎ研磨法、刀剣鑑定法を確立した。本彌家は多くの分家を生み、その中には、本阿彌光悦もいる。 本阿彌本家は、刀剣鑑定に折り紙(優れた物を「折り紙付き」と言うのは、これを語源とする)を発行する権利を徳川幕府より保証され、絶大な権限を持ち、他の刀剣研磨を生業とする者を町砥ぎと称するのに対し、家砥ぎと称する秘伝の研磨法を維持相伝した。
幕末に至り、武士の身分が消滅するに及んで、刀匠、刀剣研磨業も、衰退したが、武用より、美術鑑賞面を強調することにより命脈を保ち、美的面を強調し、地鉄をより黒く、刃をより白く見せる研磨法が本阿彌平十郎により考案され、その養子、本阿彌淋雅によってさらに発展され、その門人、平井千葉によって技法が確立されるに及んだ。淋雅のもう一人の門人、本阿彌光遜によって、一般に刀剣鑑賞の裾野を広げる努力が行われ、秘伝とされた鑑定法、研磨法も公開されることになった。
戦後、平井千葉の実子で、本阿彌淋雅の養子になった、本阿彌日洲、本阿彌光遜の門人、小野光敬、永山光幹、また、昭和初期に鑑定家、刀剣商として知られた藤代義雄の弟、藤代松雄の4人が、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
研磨の工程
刀剣研磨には、江戸時代より行われている、差し込み砥ぎと、拭いに鉄肌拭いを用い刃文を白く強調する明治期に確立された研磨法があるが、ここでは、現在、主に行われている後者の研磨法を紹介する。
刀剣研磨には、大きく分けて、下地砥ぎと仕上げ砥ぎがある。刀身を順次、粗い砥石から細かい砥石に交換しつつ砥ぎ、最終的には砥石の目が肉眼で確認することができないぐらい細かくし、刀剣の地鉄、刃文の見所を引き出すよう心掛けるのを主目的とする。研磨に用いる水には、ソーダ(苛性ソーダは強過ぎるので、洗濯ソーダ(重曹)を入れるのが一般的)を入れ中和し、研いでいる最中に錆が生じる現象を防ぐ工夫がなされている。
下地砥ぎ
砥ぎ台に独特前屈みの構えで座り、主に刀身の整形を行う、刀身は、棟、鎬地、平地、切先に分かれるが、棟、鎬地は、真平に砥ぐようにし、平地は、刀の時代相応に丸みを帯びるように砥ぐことを心掛ける。切先は、平地と横手と称する部分で別れるが、明瞭に角を立て、正確に砥ぐのは難しく、一番高度な技術を要する部分と言える。刀剣研磨には、以前は全て天然砥石が用いられたが、現在は、天然砥石の採掘が減り、質も低下しているため、人造砥石も用いられている。しかし、下地砥ぎの最終工程や仕上げ砥ぎに用いる内曇砥石や、仕上げ砥ぎに用いる鳴滝砥石に代わる性質の人造砥石はなく、現在も天然砥石が用いられている。内曇砥、鳴滝砥の採掘量の減少は、現在において深刻な問題となっている。
刀剣研磨に用いる砥石は、各々研ぎ師の好みがあるが、概ね平らな砥石を前後に丸みを帯びさせ緩い度の半円形にし、刀身を自在に砥石の面に当てられるよう工夫されている。
金剛砥
酷い錆身や打ち下ろしの刀身を最初砥ぐ時用いる粗い目の砥石。120番、180番、220番の粒度の物が用いられる。以前、天然砥石としては、伊予砥、大村砥、笹口砥が使われていた。
備水砥
姿の狂いのある刀身に用いられる砥石で、下地砥ぎの主な最初の工程。明治より以前は、福井県産の常見寺砥と言う上質の砥石を用いたが、産出されなくなり、その後、愛媛県産の伊予砥が用いられた。戦後は、伊予砥の質も低下したため、長崎県産の天草砥、備水砥が用いられるようになった。現在は、400番程度の人造砥を使用している場合も多い。
刀身に対して横向きに砥石目が付く様に研ぐ事を「キリに研ぐ」と言う。備水砥はこの研ぎ方が基本で有る。刀身の地刃の部分の僅かの丸みを帯びている形状を肉置きと称している。これは、刀剣の造られた時代に寄って変化するもので、備水砥で時代相応に肉置きを整える事も重要で有る。
改正名倉砥
備水砥の砥石目を取るために用いる。常見寺砥を使用していた時は、常見寺との砥石目が、次の工程、名倉砥で除去できたため用いられなかった。改正砥は効きがよいため、研ぎ減らしに注意が求められる。山形県で産したが、既に枯渇。現在は、800番程度の人造砥が使用されている場合が多い。
刀身に対して斜めに砥石目が付く様に研ぐ事を「筋違い(すじかい」に研ぐと言う。改正名倉砥の基本の研ぎ方で有る。
中名倉砥
愛知県新城市鳳来地区に産する。中名倉、細名倉と同じ岩盤から産出されるが、幾重にも重なった層により、石の粒子の密度が異なる。現在でも比較的多く産出されている。改正名倉砥石の目を抜き、刀身の姿を決める。現在は、1000番から1500番程度の人造砥が使用されることも多い。
刀身に対して、真っ直ぐな砥石目が付く様に研ぐ事を「タツに(を)突く」と言う。砥石目はあたかも整然と細縄を縦に並べたような状態となるのが理想である。整然と砥石目が並ぶということは、研ぎムラが生じていない証拠でもある。ハバキ、白鞘に廻す場合は中名倉の段階でそれぞれの職人へまわす。
細名倉砥
名倉砥の中で最も砥質が細かく硬い。昔から、産出量が少ない砥石だが、近年、全く産出されなくなり、在庫もほぼ枯渇しつつある。砥石目は中名倉砥と同じで、タツに突き、砥石目が素麺を整然と縦にならべたような状態になるのが理想である。人造砥の2000番程度の物が代用で使用されることも多いが、天然砥を使用した方が肌が潰れず、また内曇刃砥の効きが良い。天然の細名倉で研ぐと、内曇砥と同様、地刃が見える。
内曇砥(刃砥)
京都近辺に産する砥石で、肌が細かく柔らかく、地刃を白くする作用がある。内曇砥を用いた研ぎを「研ぐ」とは呼ばず「内曇を引く」と言う。力を込めて長く引き、地刃の細名倉の砥石目を取る。時には刀身が熱く感じる程で有る。刃中を白くし、働きを引き出す。内曇刃砥の場合においても、刀の刃との相性が重要で、合わない場合は全く効果が現れないので、硬度の違う内曇砥を数種類用意する必要が有る。
内曇砥(地砥)
刃砥より硬い砥質の物で、地部を主に砥ぎ鍛錬肌、地沸、地景等の見所を引き出すようにする。内曇砥は、砥石の質を一つ一つ異にするので、色々な硬度、質の物を多数用意する必要があり、刀に合った砥質の物を用いないと、効果が上がらないばかりか、刀の見所を引き出すことができない。
仕上げ砥ぎ
ここからは、床几に腰掛け、仕上げ砥ぎに用いる道具を入れたり、上部に刀身を置ける砥ぎ箱を用意して、主に親指で砥石を扱い、作業を行う。
下刃艶
内曇砥を水に漬け込み、柔らかくなったところを層に沿って薄く割り、大村砥、青砥でさらに薄く摺り上げ、それを吉野紙と漆で裏打ちした物を「刃艶」と称している。裏打ちの目的は薄くなった刃艶がバラバラに砕けないようにするための工夫で有る。刃艶用の内曇砥は、専用に刃艶砥と呼ばれる特に柔らかくきめ細かな内曇砥を用いる。刃艶砥は現在最も枯渇している。使用する際は、目的に応じ、更に薄くして用いる。この工程では下地研ぎの砥石目を抜く。後に行う刃取りで、刃が容易に白くならない硬い焼きの刃の場合、下刃艶段階で入念に刃を白くしておくことがある。
地艶
京都に産する鳴滝砥を用いる。砕き地艶による方法と貼り地艶を用いる2種の方法がある。砕き地艶では、鳴滝砥の欠片を鳴滝砥で磨きこみ、1ミリ以下に薄くして、爪先で1.5ミリぐらいの角型にした物を10数個、刀身に乗せ、親指で砥石が逃げないように上手く扱いながら、主に地鉄の見所を引き出すようにする。柔らかい物から始め、硬い物へ砥石を変えながら作業をする。砥石の薄さ、大きさ、水に入れるソーダの濃さ等で刀身に対する作用が違ってくるため、経験と熟練を要する作業と言える。長時間地艶を使うと、鳴滝砥は硬質のため、内曇地砥で起こした肌が潰れてしまうので短時間で仕上げる必要がある。また、砥質が刀と合わないと地の見所を引き出せなかったり、細かい傷を付けてしまい、細名倉まで戻さなくてはならなくなる。貼り地艶は刃艶と同じ方法で作成し、砕き地艶と同様、砥質を変えながら用いる。
拭い
刀剣を鍛錬する折、刃に用いる鋼を鍛錬した際に飛び散る鋼の粒を乳鉢で微細に摺る。これを鉄肌(かなはだ)と呼ぶ。鉄肌を油で溶き、吉野紙で漉しながら粗い粒が入らないように注意して刀身に乗せ、青梅綿で磨いていく。これによって、砥石目は見えなくなり、鍛え肌が立ち、地が青黒くなる。青梅綿で刀身を拭うような作業のため、材料そのものを「拭い」と呼んだり、作業を「拭い差し」と呼ぶ。「拭い」は鉄肌以外に、朱、孔雀石の粉末、金粉、酸化クロム等その他各人工夫の材料を混合して作成する。この混合配分、材料は刀の地鉄の質に応じて用いる必要がある。なお、砥石目を抜くために拭いで刀身を磨き過ぎると肌がふさり、鏡状の光沢となってしまうので、注意が必要である。
刃取り
刃取りは、拭いを行うと刃文も黒くなってしまうために、刃文を白く浮き立たせ、地刃を白黒の対照で引き立たせるために行う。刃艶を刃幅を見ながら適当なサイズに切り、親指で押えて作業する。この際、本阿彌流では棟側から刃を拾う。一方、藤代流は刃側から刃を拾う。刃取りの構成次第でゆったりと美しくもなり、こせついたものにもなるため、研ぎ師のセンスが問われる。特に相州伝のように湯走りがかり、飛び焼きもある沸出来の刃の場合、刃文そのものを創作する事となる。一方備前伝においては、乱れた丁子刃を一つ一つ拾うのではなく、二つ三つまとめて拾い、こせついた雰囲気を出さないように心がけることが肝要である。
また、羽取りでどこまで刃を白くするかは研ぎ師のセンス、時代の要求があり、現在では、うっすら羽取りの下の刃が見える程度の白さが上品と言われている。刀を見慣れない人は、この刃取りを刃文の形と誤解しがちだが、刀身を太陽や白熱灯に透かして見て、刃取りの白さの中に見える匂い口が、刀の本来の焼き刃である。
磨き
刀身の鎬地、棟を鋼鉄等(主に超硬合金)の磨き棒を使って、磨き潰し、鏡面的な光沢を持たせ、鎬の線を際立たせ、刃の白さ、地の青黒さ、鎬地の漆黒の鏡面を持って、刀身を三段階の階調にする作業である。磨きをする際には、イボタ蝋(カイガラムシの一種)を絹で包んだ物を、打ち粉の要領で打ち付け、微粉末が刀身に付く様にして、滑り易くして行なう。
ナルメ
ナルメは切先の部分を刃艶で白くする作業である。最初に横手部分に内曇砥で筋を引き、地部と切先を明確に分けてから、ナルメ台と言う物を下地砥ぎと同じ構えで固定して作業をする。一枚の曇りガラスのように、粗い目が全く見えないように白く成っているのが良いとされている。
流し
流しとは、研ぎ師のサインである。帽子の裏棟、ハバキ元に入れる。まず、流しを入れる部分を内曇砥で白くする。帽子の場合、切先にむけて棟地に左右に3本ずつ、磨き棒の先端を用いて一息に入れる。ハバキ元の場合、ハバキ鎬地に7、9、11、13といった奇数の本数を磨き棒で入れる。失敗すると細名倉まで戻さなくては磨き棒の跡が取れないため、研磨最後の緊張の瞬間である。研ぎ師によってそれぞれ手癖があり、流しの様子を見て誰が研いだか分かることもある。
後、細かい作業などもあるが、流しを入れて刀剣研磨の工程は終了する。作業には、備水砥から始めて、10日から2週間程度掛かる。錆が酷かったり、打ち下ろしの刀の場合は、更に掛かる場合もあり得る。
研磨は、工程が進むにつれ、微細な傷でも取れなくなり、工程を前の工程へ返したり無駄が多くなるので、作業場を清潔に保つのは基本的な心構えである。 特に、備水等、荒い砥石で研ぐ場合、必要以上に研ぎ落とすと元に戻らないため、十分気を付けなくてはならない。
近年は、鑑定書取得等を目的とした刀剣研磨が頻繁に行われており、研磨の頻度は実用された戦国期を除いて、歴史上で最も高いと言えるが、文化財である美術刀剣を保存する意味において、朽ち込み錆を落とすといった刀剣保護の目的以外で研ぎに出すのは、刀身を無意味に減らすことにもなる。
尺八(しゃくはち)は日本の木管楽器の一種である。リードのないエアリード楽器に分類される。中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、鎌倉時代~江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。
名称は、標準の管長が一尺八寸(約54.5cm)であることに由来する。語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、7世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘(日本の十二律では壱越:西洋音階のD)の音を出すものが一尺八寸であったためと伝えられている。演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。英語ではshakuhachiあるいは、Bamboo Fluteとも呼ばれる。
真竹の根元を使い、7個の竹の節を含むようにして作るものが一般的である。上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。
尺八に似た楽器として、西洋のフルートや南米のケーナがある。これらは、フィップル(ブロック)を持たないエアリード楽器である。
歴史
尺八根本道場、京都明暗寺
起源と雅楽尺八
尺八の起源として有力な説は、前述した『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、唐初期の貞観年間(627年 – 649年)に呂才(600年 – 665年)が考案したというものである。
日本には雅楽楽器として、7世紀末から8世紀はじめに伝来した。東大寺の正倉院には六孔三節の尺八が八管収められている。
その後中国では、歌口の傾斜が管の外側にあるタイプの縦笛は断絶し[1]、日本でも雅楽の楽器としての尺八は使われなくなった。
一節切と薦僧の時代
歴史上の空白期間ののち、鎌倉時代になると一節切と呼ばれる縦笛があらわれた。これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものである。また、この一節切は武士の嗜みの一つとして大いに武家社会で流行し、北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っている。田楽法師などの遊芸人の中にこれを吹いて物乞いをする集団が現れた。薦僧と呼ばれる集団がそれで、後に普化宗と結びつき虚無僧となっていく。
一節切は、室町時代に中国から日本に渡った禅僧・蘆安がもたらしたもので、名手といわれた大森宗勲(1570年 – 1625年)が出たのち、急速に広まった[9]。一節切は17世紀後半に全盛を迎えたが、その後急速に衰退した。
普化尺八
[icon] この節の加筆が望まれています。
江戸時代には、尺八は法器(楽器というよりも法具の意味合い)として普化宗に属する虚無僧のみが演奏するものとされ、それを幕府の法度によって保障されていた。建前上は一般の者は吹いてはならなかったが、実際には尺八をたしなむ者はいた。明治時代以降には、普化宗が廃止されたことにより虚無僧以外の者も演奏するようになった。
普化宗の廃止から新日本音楽まで
[icon] この節の加筆が望まれています。
現代音楽と尺八
[icon] この節の加筆が望まれています。
音程の範囲と基本的な音階
基本的には2オクターブ強である。用いられる頻度は少ないが、倍音を用いてその上の約1オクターブの音を出すことができる。
シンプルな運指においては、陽音階や律音階となる。基本的な運指において、西洋の12音音階すべての演奏が可能である。
楽器の構造
物理的構造
歌口部分・外側に向かって傾斜があり、固い素材が埋め込まれている
現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものである。
古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流である。これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からだが、結果として持ち運びにも便利になった。
材質は真竹であるが、木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されている。
尺八の音色と材質は科学的には無関係とされているが、関係があるとする論争もあった。
尺八の歌口は、外側に向かって傾斜がついている。現行の尺八には、歌口に、水牛の角・象牙・エボナイトなどの素材を埋め込んである。
明治時代以降の西洋音楽の影響により、七孔、九孔の尺八が開発された。このうち、七孔のものは、五孔の尺八に比べれば主流ではないものの使用されている。既存の五孔の尺八に孔を開けることでの改造が可能である。
現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整する。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られる。
これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古いタイプの尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗らない。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要がある。古典的な本曲の吹奏では、このひとつひとつの尺八のもつ個性もその魅力となっている。
筒音
尺八の手孔をすべて塞いだときの音を筒音と呼ぶ。これはその尺八で出すことのできる最低音である。標準の尺八は、日本の十二律で壱越(D4)の筒音を持つ一尺八寸管である。次いで、春の海などで使用される一尺六寸管(筒音: E4)や、二尺四寸管(筒音: A3)などが使用される。長さのバリエーションは、半音ぶんずつ寸刻みで一尺一寸管から二尺四寸管も存在するが、標準的なものにくらべ使用頻度ははるかにすくない。
奏法
尺八を吹く虚無僧(大国寺 (篠山市))
尺八はフルートと同じく、 奏者が自らの口形(アンブシュア)によって吹き込む空気の束を調整しなければならない。リコーダー(いわゆる「縦笛」)は歌口の構造(フィップル、ブロック)によって初心者でも簡単に音が出せるが、尺八・フルートで音を出すには熟練が必要である。尺八は手孔(指孔)が5個しか存在しないため、都節音階、7音音階や12半音を出すために手孔(指孔)を半開したり、メリ、カリと呼ばれる技法を多用する。唇と歌口の鋭角部(エッジ)との距離を変化させることで、音高(音程)を変化させる。音高を下げることをメリ、上げることをカリと呼ぶ。メリ、カリの範囲は開放管(指で手孔を押さえない)の状態に近いほど広くなり、メリでは最大で半音4個ぶん以上になる。通常の演奏に用いる範囲はメリで2半音、カリで1半音程度)。奏者の動作としては楽器と下顎(下唇よりやや下)との接点を支点にして顎を引く(沈める)と「メリ」になり、顎を浮かせると「カリ」になる。
メリ、カリ、つまり顎の上下動(縦ユリ)、あるいは首を横に振る動作(横ユリ)によって、一種のビブラートをかけることができる。この動作をユリ(ユリ、あごユリ)と呼ぶ。フルートなどの息の流量変化によるビブラートとは異なり、独特の艶を持つ奏法である。 フルートと同じく息の流量変化によるビブラートも使用される。息ユリと呼ぶ。
手孔を、閉 – 半開 – 開 動作を滑らかに行い、さらに、メリ、カリを併用することにより、滑らかなポルタメントが可能である。これをスリアゲ、スリサゲと呼ぶ。音高の上下を細かく繰り返すコロコロというものもある。
口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができる。
尺八の流派と吹奏人口
尺八の吹奏人口についての本格的な調査はされておらず、正確な人口は不明である。推定では3万人程度といわれている。
明暗諸流派
琴古流
琴古流は、江戸時代に初代黒沢琴古(1710年 – 1771年)によって創始された。初代は俗名を幸八といい黒田藩の藩士であったが浪人となり、江戸へ出て一月寺、鈴法寺の吹合指南役となった。尺八曲の整理を行い、全36曲の琴古流本曲を制定した。黒沢琴古の名は3代で途絶えたが、琴古流はその後、吉田一調、荒木古童らにより隆盛を築いていく。
琴古流は大小いくつもの組織の総体であり琴古流として統一した組織をもつものではない。
都山流
都山流は明治期に初代中尾都山が創始した流派であり、普化宗とは直接のつながりを持たない。宮城道雄と提携し、宮城作曲の尺八譜の公刊を独占したこと、評議員制の導入など中央集権的な組織作りを行ったことなど都山流は尺八界最大の組織となった。
上田流
上田流は、都山流を除名された上田芳憧が1917年に創始した流派である。上田は、五線譜。7孔尺八などを導入し、尺八の近代化につとめた。また、長唄に多く手付けを行った。五線譜の採用は途中で断念したものの、7孔尺八に関しては上田創案のものが現在でも使用されている。
現在は上田流尺八道と称している。
竹保流
竹保流は、酒井竹保が1817年に創始した流派である。宗悦流の流れを汲み、譜にロツレチではなく、フホウエヤイを用いるフホウ譜を用いている。
その他の古典系流派
廃絶した流派
民謡系尺八
楽曲
尺八で演奏される楽曲は多岐にわたっている。尺八の楽曲分類で大きなウエイトを占めるのは、本曲と外曲という対概念である 。本曲は、「その楽器のみによる楽器本来の楽曲」を意味し、外曲は、「他種目の旋律をその楽器用に編曲した楽曲」を意味する。
本曲
もともとの本曲は、普化宗で吹禅に使われた曲を指していたが、1871年の普化宗廃止後は宗教音楽とは無縁な尺八のみの独奏曲や重奏曲も本曲と呼ばれるようになった。これらの比較的新しい本曲と普化宗で吹奏された狭義の本曲を区別するため、後者を特に古典本曲と呼ぶことがある。
普化宗の本曲
江戸時代に虚無僧が吹いた本曲は、琴古流本曲をふくめ、150曲あまりが伝承されている。これらは宗教音楽として成立し、作者、作曲年代ともに基本的に不詳である。弘前の根笹派錦風流、浜松の普大寺の流れをくむ名古屋の西園流、京都の明暗寺の明暗真法流と明暗対山流、博多一朝軒、越後明暗寺、東北地方の布袋軒、松巖軒などの伝承である。
これらの本曲は、托鉢のため諸国を往来した虚無僧により伝播された。全国の寺院で伝承される本曲には同名異曲が多くある。『鈴慕』『三谷』『鶴の巣籠』などは本曲の代表的な曲名であるが、曲によっては10種類以上の旋律の異なるものが伝承されている。
宗教音楽としての本曲は、各地の本曲を収集した黒沢琴古の琴古流本曲、西園流を学び明治期に明暗対山流を興し、明暗教会の再興に尽力した樋口対山(1856年 – 1915年)の系統をはじめ、各地において明治維新後も伝承されたものが現代においても血脈を保っている。
琴古流本曲
琴古流本曲は、琴古流の始祖である初代黒沢琴古が日本各地の虚無僧寺に伝わる楽曲をまとめ、本曲として制定した36曲である。吹合所の指南役であった初代琴古は、これらの曲の譜字のや習曲順の整理を行い、宗教音楽をはなれた琴古流の基礎を築いた。
代表的な楽曲には「一二三鉢返調(ひふみはちがえしのしらべ)」、「鹿の遠音(とおね)」、「巣鶴鈴慕(そうかくれいぼ)」(鶴の巣籠りともいう)などがある。山口五郎によって演奏された本曲「巣鶴鈴慕」は日本の楽曲としては唯一ボイジャーのゴールデンレコードに収録され、ボイジャー探査機に搭載されている。
都山流本曲
中尾都山らが作曲した現代曲、尺八独奏曲または尺八二重奏曲をさす。
上田流本曲
[icon] この節の加筆が望まれています。
竹保流本
[icon] この節の加筆が望まれています。
三曲合奏
江戸時代の地歌では三絃(三味線)・箏・胡弓の合奏が行われた。これが三曲合奏である。明治維新以降、胡弓の代わりに尺八が加わることが多くなり、現在では尺八入り三曲合奏の方が一般的に普通に行われる。一部の著述では胡弓入り三曲合奏が無くなったような記述も見られるが、それは全く根拠のない発言であり、現在でも胡弓入り三曲合奏は少なからず行われている。江戸時代にも尺八と箏や三味線の合奏は行われていたと考えられるが、尺八が普化宗の手から離れ合奏が解禁となったのは普化宗廃止後のことである。現在では通常は三曲合奏といえば尺八が入るものを指す。古典的な三曲合奏では、尺八の手付けは三絃の手をベタ付けで尺八向けに編曲したものであった。
こうした三曲の一員としての尺八は、西洋音楽の影響を受けた明治新曲や、春の海で知られる宮城道雄などの新日本音楽を経て、現代邦楽と呼ばれるジャンルを形成するに至った。
三曲系の演奏者のあいだでは、古典的な地歌箏曲を古曲、宮城道雄などの明治期から戦前までの楽曲曲を新曲、それ以降の楽曲を現代曲と呼ぶこともある。
民謡尺八
多くの民謡の伴奏に尺八が使用される。特に追分、馬子唄の伴奏には尺八が多用される。江差追分では、尺八の伴奏が必須となっている。
現代音楽と尺八
1960年代から尺八はクラシック音楽の現代音楽で使用されるようになった。 1964年にニューヨーク・フィルハーモニックと尺八の横山勝也、薩摩琵琶の流れをくむ鶴田流の琵琶奏者鶴田錦史のために作曲された武満徹のノヴェンバー・ステップスは反響を呼んだ。
現代邦楽
[icon] この節の加筆が望まれています。
1963年村岡実、横山勝也、宮田耕八朗によって作られた、東京尺八三重奏団の第2回演奏会で演奏された三木稔作曲「くるだんど」-奄美の旋律によるカンタータ―を契機として東京尺八三重奏団を発展的に解消し「日本音楽集団」が結成された。創立メンバー、三木稔、長澤勝俊、(作曲)田村拓男(指揮、打楽器)、村岡実、横山勝也、宮田耕八朗(尺八)坂井敏子、宮本幸子(箏)杉浦弘和(三味線)など14名である。1964年に結成された。その後、野坂恵子が入団し三木稔とそれまでの13弦箏を発展させた20弦箏(その後21弦となる)を作り現代邦楽の可能性を広げていった。またこの頃より楽器改良が進み、宮田耕八朗を中心に多孔式尺八(主として7孔)が作られ普及していった。
1964年には山本邦山、横山勝也、青木鈴慕らによって尺八三本会が結成され、「鼎」、「風動」、「尺八三重奏曲」など、多くの尺八合奏曲が委嘱作曲された。
ポピュラー音楽と尺八
[icon] この節の加筆が望まれています。
尺八の大衆化を目指し邦楽の世界を離れて歌謡界に進出した村岡実が先駆け、美空ひばりの「柔」、北島三郎の「与作」などの歌謡曲のヒットで尺八が脚光を浴びることになった。
尺八奏者の山本邦山はジャズなど別ジャンルとのセッションも数多く試みた。
現在では、藤原道山、ZAN、中村仁樹、遠TONE音、神永大輔、大山貴善などのアーティストが活躍している。
製管
尺八を製作することを製管といい。尺八の製作者のことを一般的に製管師とよぶ。昔は、尺八は吹くこと・作ることが出来て初めて一人前とされ免状が手渡されていたが、明治頃より次第に専業の尺八製管師が現れだした。専業の製管師のほかにも、尺八奏者がみずから尺八を製作し、本人や弟子が吹く吹料にする場合もある。製管師のなかには、出身流派や師匠と結びついている者もあり、その流派専属の製管師もいる。尺八奏者のなかには、この製管を趣味とするものもいる。
尺八の割れや虫害
尺八は竹でできている為、気候や室内の乾燥によって割れることがある。また、竹材の採集時期が悪かったもの、油抜きの未熟なもの、天日干しが不十分なもの、保管が劣悪であるものなどは、チビタケナガシンクイムシやカミキリムシなどの虫被害に見舞われることがある。
木版画(もくはんが)とは、木製の原版によって制作される凸版画のこと。原版は、版木(はんぎ)、板木(はんぎ)、彫板(えりいた)、形木(かたぎ)、摺り形木(すりかたぎ)などと呼び、主に彫刻刀で溝を彫り、凹凸をつけることによって作られる。印刷物であり、なかでも優れたものは美術作品である。英語では ウッドカット(woodcut)もしくは、シログラフ(xylograph) と言う。
世界の木版画
[icon] この節の加筆が望まれています。
世界最古の木版による印刷物としては、奈良時代に称徳天皇の発願によって作られ、法隆寺に保存されている「百万塔陀羅尼文」が知られている。これは天平宝字8年(764年)、延命や除災のために書かれた4種類の経典をそれぞれ木版で印刷し、高さ14cmほどの小さな塔に納めたもので、仏教の流布の目的で制作された。しかし、文字のみを印刷しており、絵画作品ではなかった。木版画の誕生は、江戸時代、慶長期に京都において角倉素庵により、嵯峨本に初めて挿絵が入れられたことからであり、『伊勢物語』などに稚拙な絵が添えられていた。この嵯峨本を契機として、井原西鶴などの仮名草子の挿絵に木版技術が使用される様になっていった。その後、万治、寛文の頃になると、出版文化の中心が京から江戸に移り行き、金平本や各種評判記が出版され活況を呈した。そして、延宝期になって初めて浮世絵師、菱川師宣の名を記した冊子の挿絵が現れ、ここから独立して鑑賞用の木版画による一枚絵が版行されるようになったのであった。版木には日本独自の良質の桜材が使用されており、また、良質の和紙にも恵まれ、これらを生かす道具が唯一の馬連であったため、この馬連が独自に発達したのも自然な現象であった。
現在知られている最古の木版画は、中国の敦煌の金剛般若経の扉絵で、唐の時代、咸通9年(866年)に製作されたものであろうといわれる。ただし、これは精緻な出来栄えであるので、実際の木版画の誕生は更に数百年も遡るものと考えられる。その後、中国、日本ともにそれぞれ製紙の発達をみ、木版技術も進歩したが、その大半は信仰に関係していた。中国では、主に版木に梨や棗が使用されていた。
一方、ヨーロッパにおける古い木版画は、現存するものでは14世紀末にまで遡る。ヨーロッパにおいては、版木に梨、胡桃、あるいは柘植が使用され、東洋における桜、梨、棗とは異なっていた。彫刻刀は東洋のものと似たようなものが使われ、紙をのせ、刷毛またはタンポのようなもの(ぼろや毛を皮で包んだ用具)で擦ったようである。あとから着色するようになったのも、日本の初期版画と似ていた。しかし、グーテンベルクにより、1434年から1444年頃、印刷機が発明されると版木が金属活字と一緒に油性インクで摺られるようになり、刷毛で擦るのではなく、プレスという方法に変わる。そして、版木も銅板に置き換えられることにより、銅版画への道がひらけていった。この点は、東洋の場合とはっきり異なっていた。
日本の木版画
伝統木版画
東洲斎写楽など江戸時代、日本を代表する版画の大半は木版画であった。複数の版木を用い、多色刷り印刷を行うことができたが、刷るにつれて版木が磨耗するなど安定した画像を維持するため、印刷数に制限が出る。このため、現代の木版画にはシリアル番号などが割り振られ、版数管理を行っていることが多い。
現在このような古い版画技法を使った木版画は伝統木版画と呼ばれ、他の木版画と区別している。版木には昔と同じように桜の無垢板が使用され、版木の厚さは版の大きさにもよるが、染料を溶いた水を表面に多量に使うため、反りを考慮して中判程度のものでも2- 3cmほどもある。東京の目白にあるアダチ伝統木版画保存財団や京都の竹中木版竹笹堂が浮世絵の復刻版を制作しているが、喜多川歌麿や葛飾北斎などの原盤から新しい版木に版下を彫り師が彫り、摺り師が色摺りをし、多くの作品を復刻し、仕上げている。新しい試みとしては現代の洋画家にオリジナルの版下を依頼し、それを復刻版同様に江戸時代からの技術で世に送り出している。それらの中で赤木範陸は作品『花一輪』で色の線の重なりだけで色面を表すという伝統木版画には無かった方法(理論的には印象派の点描技法に似た手法)で、網膜上での色彩混合を利用し、多色木版の伝統技法とうまく合わせている。
学校教育での扱い
日本では、『小学校学習指導要領図画工作編』において、彫刻刀の指導は小学校中学年からと規定されている。そのため、木版画の指導は児童の安全に考慮して小学4年生で初めて行われるのが普通である。版木は安価なベニヤ板を使うことが多く、児童が彫った場所を確認しやすいよう色を塗った物も市販されているが、後述の『彫り進み木版画』では何度もインクを洗ううちに表材が剥がれるという欠点がある。
木版画は、彫刻刀の彫り跡を生かしモノクロながら立体的な世界を描き出すのが、本来の持ち味である。実際優れた指導者のいる学校や地域では、児童生徒による優れた木版画が数々生み出されている。 しかし、現行の学習指導要領では図工にかけられる時間が少ない(4年生は年間60時間、5・6年生は同50時間)こともあり、かつてのように彫刻刀の細かい技法までは取り扱えなくなってきたのが実情である。そんな実態をカバーし、さらに児童に版画の楽しみを手軽に味わわせるために現在取り上げられているのが、『一版多色刷り木版画』や『彫り進み木版画』である。
一版多色刷り木版画
版木に下書きをし、輪郭線のみを彫刻刀で彫り、彫り残した部分に求める色の水彩絵具を載せて刷り上げる手法である。水彩絵具は乾きやすいので少しずつ刷っていく必要があり、絵柄がズレるのを防ぐためにセロテープで版木と紙を固定して行う。
黒い紙を使えばステンドグラスのような仕上がりに出来、”輪郭線のみ彫ればいい”手軽さもあいまって、4年生の初歩段階で多く行われる手法である。
参考文献およびウェブサイト
編集委員会編 『ものづくりハンドブック』第1巻、仮説社、1988年6月。ISBN 978-4-7735-0080-6。編集委員会編 『ものづくりハンドブック』第3巻、仮説社、1994年8月。ISBN 978-4-7735-0111-7。“仮説社”. (公式ウェブサイト). 仮説社. 2010年4月11日閲覧。
彫り進み木版画
『彫り進み版画』とも言う。1枚の版木を少しずつ彫っては異なる色のインクを載せて刷っていくことにより、多色刷りにしていく手法である。『版木に下書きをする』までは普通の一版多色刷りと同じであるが、後行程は下記のように異なる。
まず、紙の色(普通は白)を残したい所を彫る。
1色めの色インクをローラーで版木に載せ、刷る。
版木についたインクを洗って落とし、水分を取る。
1色めの色を残したい所を彫る。
2色めの色インクを版木に載せ、2で刷った紙を載せ、刷る。
以後同様に「前の色を残したい所を彫り」「新しい色を載せて刷る」工程を繰り返し、作品を完成させる。刷るときは絵柄がずれないように、用紙を机に置き、インクを載せた版木を上から伏せ(普通の版画では版木の上に紙を伏せる)、軽くなじませてから裏返し、ばれんでこすって刷り取る。どれほど注意深く作業しても多少は絵柄がずれるのであるが、それによってできる陰影がかえって作品の味わいを深めてくれる。
日本の教育現場では、彫刻刀で広い面を彫っていかなければならないこと、計画的に作業を進めていかねばならないことなどから、小学5年生の授業用に薦められている手法である。
七宝(しちほう、しっぽう、簡体字: 七宝; 繁体字: 七寶、朝鮮語: 칠보、サンスクリット語: सप्तरत्न, Saptaratna、サプタラットナ、パーリ語: सत्तरतन, Sattaratana、サッタラタナ)は、仏教において、貴重とされる七種の宝のこと。七種(ななくさ)の宝、七珍ともいう。七宝焼(七寶瑠璃)の語源になったという説もある。
仏典における記述
無量寿経においては、「金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)」とされ、法華経においては、「金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰(まいかい)」とされる。
瑠璃は、サンスクリット語ではvaiḍūrya(バイドゥーリヤ、漢音写:吠瑠璃)、青色の宝玉で、アフガニスタン産ラピスラズリと推定されている。後に、青色系のガラスもさすようになった。
玻璃は、サンスクリット語ではsphaṭika(漢意訳:水精)、無色(白色)の水晶、後に、無色のガラスを指す。
硨磲は、シャコガイの殻、又は白色系のサンゴ。
玫瑰は、詳細は不明であるが、赤色系の宝玉とされる。
七宝に由来する事物など
七宝焼(しっぽうやき) – 工芸美術、工芸技法のひとつ(「七宝焼き」も参照のこと)
七宝流し(しっぽうながし) – 金工の技法のひとつ(現在の象嵌七宝。「嘉長」も参照のこと)
七宝瑠璃(しっぽうるり) – 七つの宝ではない七宝器を意味する七宝の語の初例(「蔭涼軒日録」寛正三年(1462年)三月十四日の松泉軒御成の条より)
七宝(しっぽう) – 西洋の七宝焼にあたるエマイユ、ペイント・エナメル、クロワゾネ・エナメル(cloisonne enamel)などの和訳(「描画七宝」など)
七宝繋ぎ(しっぽうつなぎ) – 日本の伝統文様、有職文様の一つ。円形を4分の1ずつ交差させ、網状に連ねた文様の総称(「花輪違」も参照のこと)。工芸品や服飾に用いられるが、刺し子の図案として用いられるのが最も一般的)
七宝 (紋)(しっぽう) – 日本の家紋の一つ。「七宝紋」の一種。「七宝花菱」(別名「花輪違」)は小堀家の家紋でもある
七宝印伝(しっぽういんでん) – 印伝に文柄を彩色したもの。
七宝枕(しっぽうちん) – 牽牛(けんぎゅう)と織姫(おりひめ)の2星が相逢う夜に用いるといわれる枕。
七宝荘厳(しっぽうしょうごん) – 仏典に書かれた七つの宝(七宝)を用いて飾ること。また七宝で飾られたもの。
株式会社七宝 – 香川県三豊市に本社を置く、タマネギの育種、種子生産、販売を行う会社
地名
東海地方
尾張国海部郡(海東郡)七宝村、のちの七宝町(しっぽうちょう) – 愛知県あま市にある七宝の産地
七宝駅(しっぽうえき) – 愛知県あま市にある名鉄津島線の駅
中国地方
安芸国豊田郡七宝村、のちの沼田東村七宝(「沼田国造」も参照のこと)
広島県三原市沼田東町七宝(しっぽう)
中華人民共和国
中華人民共和国上海市閔行区七宝鎮(中国語版)漕宝路(中国語版)七莘路(中国語: 七宝镇 漕宝路 七莘路 (七寶鎮漕寶路七莘路))
七宝駅 (上海市)
七宝山(韓国語版)(朝鮮語: 칠보산, 七寶山)
人名
七宝(しちほう)は日本の地名姓。
架空の人物
七宝(しっぽう) – 高橋留美子原作の漫画『犬夜叉』の登場人物
東京都
品川区
浮世絵摺り
紋章上絵
刺繍
木工挽物
理美容鋏
表具
桐箪笥
漆工芸
銀器
和裁
骨董修理
看板彫刻
江戸箒・簾
洗い張り
和竿
仏像彫刻
江戸切子
染め物
草木染め手織物
三味線
提灯文字
江戸川区
江戸切子
和傘作り
江戸風鈴
ざる作り
江戸扇子
ゆかた染め
染色型紙
竹芸
よしず
熊手・江戸凧
投縄
練馬区
刀剣研磨
尺八
江戸刺繍
和裁
江戸筆
木版画
螺鈿蒔絵
東京額縁
江戸表具
籐工芸
江戸からかみ
組紐
文京区
江戸筆
江戸提灯
染織(草木染)
七宝
木版画(摺師)
和楽器(三味線)
風呂桶
江戸甲冑
結納品(水引)
江東区
人形頭製作
金工(鍛金)
象牙細工(三味線駒)
その他
江戸切子
かねこ琴三弦楽器
桐たんす