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人間国宝  田村 耕一

1918年6月田村林次(雛人形師)の次男として佐野市に生れる。1986年に鉄絵の技術で、栃木県では浜田庄司以来2人目の人間国宝に認定される。
氏は1941年に東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府の私立南海商業学校デザイン教師に就任。その後兵役につき、1946年京都の松風研究所に輸出陶器のデザイナーとして入所する。この研究所の顧問で大先輩の富本憲吉から直接指導を受け、その体験は田村の創作への考えや、工芸観を新たなものにし、富本を畏敬して生涯の師と仰ぐ。
1948年に郷里の佐野に帰り、赤見窯の創業に参画し、同年栃木県芸術祭に出品して、芸術祭賞を受賞。審査員の浜田庄司に認められる。1949年に倒焔式の薪窯を築き、浜田氏の推薦で栃木県窯業指導所の技官となる。1953年に指導所を辞めて、自宅に四袋の登り窯を築き本格的な作家活動に入る。
1956年の第5回現代日本陶芸展覧会で朝日新聞社賞を受賞したことにより、陶芸作家として、存在が知られるようになり、1957年日本陶磁協会賞を受賞。以後、1961年富本賞受賞など数々の公募展での受賞が続き、華々しい活躍をしている。作家として大きく花開いた時期に制作された佐野市役所ホールの陶璧(『伸びゆく佐野』1962年制作)は、現在も市民の目を楽しませている。
田村氏の陶芸は、昭和40年代後半から、それまで扱ってきた鉄釉に加えて、辰砂釉や青磁釉を扱う割合が増えていったが、絵付け主体の構成が大きく変わるものではなく、一貫して鉄絵の変化を取り入れた絵付けが中心であり、その優れた技術手法は、高い評価を受けている。
1967年に東京芸術大学助教授に就任し、1970年には栃木県文化勲章を受賞。1977年教授に昇進。1979年紺綬褒章を受賞。1983年紫綬褒章受賞。1986年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、同年芸大名誉教授に、また佐野市名誉市民に推挙される。翌1987年に68歳で永眠。

勝城蒼鳳 かつしろ-そうほう

1934- 昭和後期-平成時代の竹工芸家。
昭和9年2月23日生まれ。昭和24年から竹製農具などの製作にたずさわり,40年から八木沢啓造に,43年から斎藤文石に師事。43年日本伝統工芸展初入選,のち58年「波千鳥編盛籠 渓流」での日本伝統工芸展東京都知事賞など受賞をかさねる。平成17年竹工芸で人間国宝。栃木県出身。本名は勝城一二(いちじ)。

藤沼昇 ふじぬま-のぼる

1945- 昭和後期-平成時代の竹工芸家。
昭和20年6月15日生まれ。昭和51年から八木沢啓造に師事。55年日本伝統工芸展初入選。59年日本工芸会正会員。60年伝統工芸木竹展初入選。網代編(あじろあみ)や束編(たばねあみ)など多彩な技法をもちいた格調高い作品で知られる。日本伝統工芸展では,61年網代盛籃(もりかご)で日本工芸会会長賞,平成4年束編花籃「気」で東京都知事賞を受賞。日本伝統工芸展鑑査委員,日本工芸会理事などをつとめる。24年人間国宝に認定される。栃木県出身。

佐川岳彦(さがわ・たけひこ)
栃木県大田原市出身。設計事務所でデザインの仕事に従事、デザインの基礎を学ぶ。見聞を広げるために、バックパッカーとして中東、欧州へ渡り、日本のものづくりの良さに気がつく。帰国後は、父であり、竹工芸家でもある佐川素峯氏の下で師事。現在「竹工房 素竹庵(そちくあん)」にて修行を積みつつ、作家としての活動も精力的に行っている。
経歴
2007年 東北芸術工科大学 建築・環境デザイン学科卒業。株式会社コンテポラリーズ入社 設計デザインの仕事に従事する
2009年 株式会社コンテポラリーズ退社後、中東・欧州110日の旅へ出発。帰国後、竹工芸家 佐川素峯氏の下で竹の仕事に従事。東北芸術工科大学 建築・環境デザイン学科特別講師となる
2011年〜13年 栃木県大田原市美術指導相談員となる
2012年 第5回おおたわら美術館 Second Nature ―勝城蒼鳳の表現― 展を担当する。二期倶楽部主催 山のシューレ。人間国宝 勝城蒼鳳 竹のオブジェ展 制作アシスタント
直近の目標

生活に豊かにする竹製品をつくりたい。 竹だけてなく、他素材と組み合わせ生活に溶け込む製品を開発したい。 竹製品を展示して、一般公開できるギャラリーを作りたい。
将来・未来の目標

日本の竹文化を守れる人間になること。また、海外の竹とは違う、日本の竹の美しさを知ってもらいたい。

刑部 人(おさかべ じん 1906年5月5日 – 1978年3月8日)は、日本の洋画家。

来歴・人物
栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。1929年に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に文展無鑑査で出品となり、1946年、1947年には出品作品が日展特選となる。
刑部は川端龍子に日本画を学び、東京美術学校の西洋画科の在学中に帝展に初入選した。画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。
作風について悩んだ果てにたどり着いたのは、時流に惑わされず本来の写実中心の自分の道に帰ることだった。先輩洋画家の金山平三との数々の写生旅行を経て、刑部は絵筆により細部を精緻に組み立てていく表現を超え、ペインティングナイフのバネの反動を利用して生乾きの絵具を重ねていくアクション・ペインティング風の独特の画風を生み出す。
刑部がアトリエを構えた下落合は当時「落合文化村」と呼ばれ、佐伯祐三ほか多くの画家や小説家が住んでいた。1941年には、刑部邸の隣の土地に林芙美子が夫の緑敏と居を構えた(現・林芙美子記念館)。画家だった緑敏は薔薇づくりを趣味としており、刑部は隣家から毎年季節になると届く薔薇を好んで描いた。梅原龍三郎、中川一政、朝井閑右衛門等も緑敏の薔薇を描いたが、画家たちが巻きのやわらかいつぼみや、虫の食った葉を好むので、緑敏はわざと自然のままに花をつくったという。

経歴年表
1906年 5月5日、栃木県下都賀郡家中村大字家中に生まれる。
1915年 9歳頃から、川端龍子、鶴田吾郎の主幹するスケッチクラブの通信講座を受ける。
1918年 父の東京転任にともない12歳で上京。この頃から、大森・新井宿に川端龍子を訪ねるようになる。
1922年 16歳頃から、日本画家の川端玉章が設立し、藤島武二などが主任を務めた本郷の川端画学校に通う。
1924年 東京美術学校西洋画科(現在の東京藝術大学美術学部油絵科)に入学する。
1928年 第9回帝展において「友人の肖像」が初入選となる。
1931年 美校の1年後輩だった島津一郎の妹の鈴子と結婚し、
東京都豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井)にアトリエを構える。(国会議事堂などを手掛けた建築家 吉武東里設計)
1940年 芝浦の東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)助教授となる。
1943年 新文展無鑑査となる。
1946年 第1回日展(日本美術展覧会)に「冬の軽井沢」を出品し、特選となる。金山平三と山形県大石田への写生旅行に同行。
1948年 第4回日展に「渓流」を出品し、特選となる。
1951年 日本橋三越にて第1回個展を開催。以後、計27回開催。
1958年 新世紀美術協会に参加、第3回新世紀美術展に「渓流(奥入瀬)」を出品。
1967年 日展審査員に選ばれる。
1976年 70歳を記念し、日動画廊で「刑部人記念展」(銀座・名古屋)を開催。『刑部人画集』日動出版部)を刊行。
1978年 腎不全のため死去。享年71。勲4等瑞宝章を受ける。
1979年 栃木県立美術館にて回顧展「刑部人展」が開催される。全216点出品。
1987年 日動画廊にて回顧展「刑部人」(銀座・福岡)が開催される。
2004年 栃木県立美術館にて「刑部人展 昭和日本紀行」展が開催される[1]。
2007年 那須野が原博物館にて「刑部人 自然との対話・限りなき風景の体現」展が開催される(~2008/02)。
2008年 とちぎ蔵の街美術館にて「開館5周年記念展 アートリンクとちぎ2008 風景の旅人 刑部人展」が開催される。
2010年 日動画廊本店(東京・銀座)にて「刑部人展 -片雲の旅人-」開催。
日動画廊名古屋店にて「受け継がれし美-金山平三 刑部人 五月女政平」展が開催される(あいちトリエンナーレ パートナーシップ事業)。
2011年 日動画廊にて「金山平三・佐竹徳・刑部人 ~自然を謳う巨匠たち~」が開催される。
2015年 日動画廊にて「刑部人展」が開催される。

小堀 鞆音(こぼり ともと、文久4年2月19日(1864年3月26日) – 昭和6年(1931年)10月1日)は、日本画家、故実家。

略歴
下野国安蘇郡旗川村小中村(現・栃木県佐野市)で、農業を営む須藤惣兵衛の三男として生まれた。本名は桂三郎。父惣兵衛は、農業のかたわら晏齋と号し、近隣から幟の武者絵なども依頼された。長兄の勝三は長じて桂雲と号し、南画系の山水画を描いた。
15歳頃から父や兄から画事を学ぶ。初めは狩野派を学び、次いで歴史人物画から大和絵にすすむ。同時期、私塾で国学・漢学を学んだ。1884年、川崎千虎に土佐派の絵と有職故実を学ぶ。1889年、日本青年絵画協会に参加、1894年、日本絵画協会に参加する。1895年、東京美術学校助教授となるが、1896年、日本美術院創立に加わり正員となり、美校を退職。のち日本美術協会に出品、文展では第1回より審査員となる。1908年、東京美術学校に教授として復帰。1917年6月11日、帝室技芸員[1]、1919年、帝国美術院会員。1929年、国宝保存会医院となる。1930年、勲三等瑞宝章を受章。1931年、腫瘍のため死去[2]。
歴史画を得意とし、代表作に「武士」がある。この「武士」は弓を引く姿で描かれ、強弓で知られる源為朝の姿だと言われる。歴史画家折井宏光は本作の描写や表現、考証の深さが後の安田靫彦、前田青邨、松岡映丘らに決定的影響を与えたとしている。絵に格調高さを与えるため、鞆音は有職故実の研究にも情熱を注いだ。1901年、厳島神社所蔵の国宝「紺絲威鎧」「小桜韋黄返威鎧」の修理復元の際には関保之助と共に修理監督となり、更に「小桜韋黄返威鎧」の模作を3年がかりで制作している。また、勤皇家としても知られた。
弟子に、安田靫彦、小山栄達、川崎小虎、磯田長秋、伊東紅雲、棚田暁山、尾竹国観など。比較文学者の小堀桂一郎は孫、その娘で宗教学者の小堀馨子は曾孫。

代表作
大阪後之役図 (東京大学教養学部図書館) 絹本著色額装 明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会妙技三等賞・第一高等学校買上
経政詣竹生島(東京芸術大学大学美術館) 1幅 絹本着色 明治29年(1896年)日本絵画協会第1回共進会銅牌二席
武士 (東京芸術大学大学美術館) 1幅 絹本著色 明治30年(1897年) 日本絵画協会第二回共進会銅牌受賞
忠孝之図 (本間美術館) 六曲一双 紙本著色
薩摩守平忠度桜下詠歌之図 (栃木県立美術館) 絹本著食 額装(二曲一隻) 大正11年(1923年)頃
舞楽図屏風(島根県立石見美術館) 六曲一双 紙本金地著色 明治末から昭和初期
廃藩置県 (聖徳記念絵画館) 1面 絹本著色 昭和9年(1934年) 小堀鞆音は聖徳記念絵画館に最も多い3点の作品を描いているが、この作品描いた直後に亡くなったため、他の2点は残された大下絵を元に安田靫彦が後見し、鞆音の息子達の手で完成された。

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 – 1964年(昭和39年)4月16日)明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。俳優の小杉義男は甥。

略伝
栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。
1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。しかしこれに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻る。1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。
なお、1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。1905年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。また、同1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊した。
1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。1913年(大正2年)にフランスに留学するが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒。翌年の帰国後は墨絵も描き始めるようになる。同年、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。また、二科会にも同時に籍を置いていた。
その後、絵に対する考え方の違いから1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を脱退し、1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。1924年(大正13年)に号を放庵と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。なお、雅号は後に放菴と更に改めているが、その時期や理由については不明。
1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
1929年(昭和4年)に中国へ旅行。1935年(昭和10年)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。
1958年(昭和33年)、日本芸術院会員を辞任。1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。

絵画
文典に入選した初期の画は、東洋的ロマン主義の傾向を示す。未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えている。安田講堂壁画は、フランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させ、日本的な志向もあらわしている。フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。代表作は『山幸彦』(1917年)、『老子出関』(1919年)、『炎帝神農採薬図』(1924年)、『放庵画集』(1960年)など。

スポーツ、その他
テニス・野球・空手など趣味が多彩であり、「ポプラ倶楽部」という芸術家の社交団体を主催してテニスを多く行ったほか、押川春浪が中心である社交団体「天狗倶楽部」にも所属しており、ここでも野球などを多く行っている。なお、押川とは『冒険世界』など押川が主筆を務めた雑誌の表紙を小杉が描いていたことがあって関係が深かった。また、テニスプレーヤーとして、東日トーナメント(現・毎日テニス選手権)ベテラン男子の部において、針重敬喜とのダブルスで3回の優勝を記録している。
歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作がある。
1928年(昭和3年)1月28日に、富山県八尾町(現 富山市八尾町)の、初代越中八尾民謡おわら保存会(現 富山県民謡越中八尾民謡おわら保存会)初代会長川崎順二に招かれ、当時のおわら節を聴いて、「曲はいいのだが唄が下品なものも多くこのままではおわらは廃れる」と進言、そこで川崎順二が放庵に頼み作詞したのが「八尾四季」で、八尾の春夏秋冬を詠んだ4首で構成され、これ以後新しく作られたものを新作おわらとしており、現在もこの唄に合わせ舞踏家若柳吉三郎が振付けた女子の「四季踊り」と共に唄い踊り継がれている。放庵は、翌2月10日夜付けの手紙でこの八尾四季を川崎に送っており約10日の間に作っており、この手紙は現在「八尾おわら資料館」にて展示されている。また「八尾八景」8首も作詞しており、二人の交友はこの後30数年に及ぶ。
1997年10月、出身地の日光市で市立美術館が小杉放菴記念日光美術館として開館した。

清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 – 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。

来歴
栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)生まれ。弟は東亜同文書院教授・外交官清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
1917年にニューヨークへ移り、アート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンらの教えを受ける。一時結婚のため帰国した後、再渡米翌年の1921年に第34回アメリカ絵画彫刻展に「横浜夜景」が招待出品される。一旦は受賞が決まったものの、アメリカ人でなかったことを理由に受賞を取り消されてしまう。その後1924年に一家挙げてフランス・パリに移住し、三宅克己や藤田嗣治・海老原喜之助・清水多嘉示らパリ在住の画家たちと交わりながらサロン・ドートンヌで入選する栄誉に与った。
1927年に帰国してからは東京を拠点に活動し、1930年の第17回二科展で「地に憩ふ」により二科賞を受賞。その後は独立美術協会の結成に加わるが、1932年従軍画家となり戦争を題材として多くの絵を描く。最晩年は栃木の生家に疎開するも、6月に長男・育夫の戦死を知り終戦直後の12月に死去。

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) – 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。

略歴


生い立ち
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。

洋画家を目指して
ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。

田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

経歴

田中一村記念美術館(2009年7月)
1908年 – 栃木県栃木市に生まれる。
1926年 – 東京市芝区の芝中学校を卒業する。
1926年 – 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学したが、同年6月に中退。
1931年 – それまで描いていた南画と訣別。
1938年 – 千葉に暮らす
1947年 – 川端龍子主催の青龍展に入選。
1953年 – 第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選(この年12月25日奄美大島が日本に返還される)。
1954年 – 第10回日展に出品するが落選。
1955年 – 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
1957年 – 第42回院展に出品するが落選。
1958年 – 第43回院展に出品するが落選。奄美大島に渡る(50歳)。
1958年 – 生計を立てるため大島紬の染色工として働き始める。
1977年 – 9月11日没。69歳没。
2001年 – 奄美に田中一村記念美術館が開館。
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は満福寺。
没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。
鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館(館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

松本 哲男(まつもと てつお、1943年(昭和18年)7月29日 – 2012年(平成24年)11月15日)は日本画家、教育者。栃木県佐野市生まれ。日本美術院理事。
宇都宮大学教育学部美術科卒業。高等学校美術教諭を経て、今野忠一に師事。 宇都宮文星短期大学特任教授を経て、1999年(平成11年)から2002年(平成14年)まで文星芸術大学教授。後、特任教授。 1993年(平成5年)4月から東北芸術工科大学芸術学部美術科助教授、1996年(平成8年)4月から同教授。2006年(平成18年)4月から2011年(平成23年)3月まで同学長。同年4月から名誉学長となっていた。
2012年(平成24年)11月15日に呼吸不全のため死去。

涼風花(りょう ふうか、1985年10月12日 – )は日本の書道家(calligraphy)である。栃木県日光市出身。身長159cm、血液型B型。

略歴
2010年、美人すぎる書道家として、メディア・雑誌等に取り上げられる。書道家として活動する書道師範で日光観光大使でもある。
小さな頃から祖母の影響もあり日本の文化が大好きで、お囃子に参加したり、お祭りというお祭りには顔を出し浴衣や和服に馴染みがある。
その祖母に勧められて7歳で書道を始め書道展にて多くの賞を受賞した事もあり、単純なせいかやる気満々になり、中学二年生で書道師範資格を取得。
将来は書道の先生になろうと決めていたので高校に入り大人の部でも師範資格を取得、硬筆(ペン)の師範も取得。
また時代劇も多く観ていたので時代劇に出てみたいという夢もあり上京しようとするも両親が強く反対。
何かしら上京する方法を模索した結果、「資格を取って安心して貰おう♪」という思い付きから歯科衛生士の資格を取得し、その後22才で上京して歯科衛生士として働いている頃にスカウトされ、タレント事務所に所属。
事務所の意向で舞台女優としてお客様を呼べる様にとレースクイーンのオーディションを受け、レースクイーンのお仕事を始めるも、
レースクイーンの仕事をしていると水着の仕事を多く依頼されるようになり、「これはちょっと違うぞ???」と思い、その1年でレースクイーンのお仕事も事務所も辞める。
そして丁度その頃、「書道師範資格を持っているなら書道家として仕事してみたら?」という話を受け、元々書道を仕事にする気持ちもあり、2010年より書道家活動を開始。
現在プレバト!!などテレビ番組にも出演し書道家として精進し続ける。

柿沼 康二(かきぬま こうじ、1970年7月16日 – )は、日本の書家。栃木県矢板市出身。

経歴
5歳より筆を持ち、父・柿沼翠流をはじめ、手島右卿、上松一條に師事。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)卒業。2006年 – 2007年プリンストン大学特別研究員(客員書家)。
受賞歴として第4回手島右卿賞、第6回国井誠海賞、独立書展特選、独立書人団50周年記念賞、毎日書道展/毎日賞(2回)など。
NHK「トップランナー」、毎日放送「情熱大陸」、テレビ東京「たけしの誰でもピカソ」、NHK「課外授業 ようこそ先輩」などに出演。また、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」や、2008年の映画「アキレスと亀」(北野武監督)で題字等を揮毫。
超大筆などを使用した書道パフォーマンスでも有名。メトロポリタン美術館、ケネディセンター(ワシントンDC)、フィラデルフィア美術館、愛知万博、鼓童アース・セレブレーションなどでパフォーマンスを披露。
現在、(株)柿沼事務所代表取締役社長兼所属アーティスト/書家。

相田 みつを(あいだ みつを、本名:相田 光男、雅号:貪不安(ドンフアン)、1924年5月20日 – 1991年12月17日)は、日本の詩人・書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人、いのちの詩人とも称される。

生い立ち
1924年、栃木県足利市に生まれた。生家は名刹、鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しんだが、喫煙の濡れ衣をきせられ軍事教練の教官に嫌われたために進学を断念。卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。1942年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。1943年、書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積んだ。1953年3月、関東短期大学夜間部国文科卒業。

創作活動
相田は書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に1954年から7年連続入選するなど、技巧派の書家として出発した。1947年の鄭道昭の臨書・「鄭文公碑臨書」で古典書道における実力を示す一方、1950年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露。専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになり、三十歳のころ、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立した。1954年、最初の個展を足利市で開催。個展はその後も足利市などで毎年開催されるようになった。1955年ろうけつ染めを学び、書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てていたが、1974年、教えを受けていた紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、さらに1984年、詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。『にんげんだもの』はその後ミリオンセラーとなり、つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)も約25万部のベストセラー、地位を確立した。若き日には、故郷足利市の老舗菓子店「虎谷」のミートサブレ(命名者も相田で「逢」のMeetが由来で)などの、包装紙や栞のデザインも手がけた。
1991年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話になった。67歳没。
作品に対して妥協を許さず、「逢」というたった一文字を書くために何百枚何千枚と紙を使用したり、印刷のわずかなズレや墨の色の微妙な違いから印刷済みの色紙千枚がボツになったこともあったという。挫折を乗り越えてつくりあげられた作品には自らの実生活が重ね合わされているのが特徴である。

飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 – 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。

人物・来歴
栃木県足利市生まれ。旧制館林中学卒。慶應義塾大学在学中に徴兵され中国を転戦した。帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。製作者懇談会と呼ばれる美術論議のグループに所属し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。
1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、さらにヴォルスの絵画やヘンリー・ムーアの抽象彫刻に衝撃を受けてそれまで描いてきた「リアル」に対する概念をゆすぶられた彼は、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じ、ウィーンやベルリンなど主に欧州で活躍し、木彫などで各地の展覧会に出展した。同時にミニマルアートやキネティックアートなど同時期の芸術の先端に触れており、影響を受けている。やがて素材は重い情念を感じる木から、より軽やかな印象の金属へと変化した。
1960年代後半に日本に帰国し、木やブロンズ、ステンレス、さらに彩色を施したロープなどを組み合わせ抽象造形を展開し、その作品は宇部市・常盤公園での現代日本彫刻展や神戸市での須磨離宮公園現代彫刻展など、当時の日本を代表した野外彫刻展で相次ぎ受賞するなど高く評価された。特に抽象的な造形で人体を表現した「HITO」シリーズで知られている。またステンレスを使ったパブリック・アートを各地の公共建築などに設置、詩の制作や版画の制作、美術評論家としての活動などでも知られ多数の著書がある。

作品

芹ヶ谷公園の彫刻噴水・シーソー
彼の作品は日本帰国後、パブリック・アートやモニュメントの制作を開始して以後、周囲の様々な風景を映しこむ鏡面ステンレスを多用するようになった。さらにベアリングで回転するステンレス板を用いるようになり、屋外の作品は風で回転する、動きのある時間を取り入れた彫刻へと移行した。これによって作品表面がさまざまな風景を受け入れて自然の中に消えてしまう、彫刻の中の自我が自然の動きや風景に任せて解放されるような作品になった。町田市の芹ヶ谷公園にある『彫刻噴水・シーソー』はその代表的なものである。
また、室内での作品ではヨーロッパ時代の木彫による「HITO」シリーズのように、当初からムーアのような穴の開いた彫刻作品が多かったが、やがて木に彩色が施され素材も金属となり、この穴の中に棒や色とりどりの紐が通るようになった。様々な色の紐の導入は、彼のもう一つの仕事である詩や言葉とも密接なつながりを持っている。彼が1972年に詩人西脇順三郎と共作した詩画集『クロマトポイエマ(Chromatopoiema)』で、彼は英語の詩や単語を構成する26個のアルファベットを鮮やかな26色に分解し、それぞれの字を相応しいと思える色に当てはめ、詩の中の同じ文字をそれぞれの色の線でつないだシルクスクリーンを制作した。この時編み出した色彩と詩・単語・文字を結びつける論理「クロマトフィロロギア(色彩言語学的方法)」は彼の作品制作の原理となっていった。1973年以後この原理を用い、鏡面ステンレスでできた複数の柱や板を、たとえば「LOVE」「KOI」といった同義の言葉や「SEA」「LAND」など対立する言葉をもとに、アルファベットに対応した色のナイロン紐多数で相互に結びつける彫刻作品を次々に制作した。これは屋内や屋外に展開され、国内外で高い評価を得た。また同様の原理で版画やドローイングも多数制作している。
作品は箱根の彫刻の森美術館、東京国立近代美術館、神奈川県立近代美術館など各地の近現代美術館に所蔵されている。

斎藤 誠治(さいとう せいじ、1933年 – )は栃木県宇都宮市出身の彫刻家、石彫作家。

経歴
1933年に栃木県宇都宮市に生まれる。東京芸術大学彫刻科に入学し、石井鶴三教室にて素描、彫像、木彫を学ぶ。1958年東京芸術大学専攻科で昭和の名工の一人である明石亀太郎に石彫を学ぶ。1960年大晦日に貨客船でアメリカに向かう。ブルックリン美術学校(ニューヨーク)に奨学金を得て入学し、イタリアの彫刻家オデリオ・ベッジに御影石による彫刻技法を学ぶ。全米彫刻協会の特別会員(Fellow of NSS)、アートスチューデントリーグのインストラクターを務める。現在もニューヨーク、ブルックリンのスタジオにて制作を続けている。
作品の収蔵先は、栃木県立美術館、宇都宮美術館、根津美術館、アイザックデルガド美術館、ウイチタ美術館、サルサリーステイツ大学、大和証券USA、マガジンハウス、玉泉洞、ミツトヨ、ペプシコ、美ヶ原美術館、相模原中央病院、ニューヨークメソディスト病院など。ほか、個人コレクション多数。

年譜
1933年 – 栃木県宇都宮市中河原町に生まれる。幼少時代から絵を描くことに親しむ。宇都宮市立中央小学校から、県立宇都宮中学校、宇都宮高校に学び美術教諭武田久のもとで絵画に熱中しアートの世界に夢を抱く。
1954年~1960年 – 東京芸大彫刻科石井鶴三教室に入り、素描、塑像、木彫を学ぶ。専攻科で新設石彫教室の明石亀太郎講師に学ぶ。
1958年 – 栃木県芸術祭美術展において、常陸太田産のマーブルで制作した作品“母”により、最優秀賞を受賞。
1961年 – ニューヨークに渡り、ブルックリンミュージアムアートスクールに特待生として在学7年、イタリアの石彫家オデリオ・ベッジ(BEGGI Odilio)に御影石の彫刻技法を学ぶ。ブルックリンメソディスト病院の支援を受けて等身大の母子坐像を制作。
1968年 – サマンサ画廊で初の個展を開きニューヨークデビューする。
1970年 – サマンサ画廊で再度個展。ペプシコ本社に、ミューズ(等身大マーブル、ペンシーブ(等身大ブロンズ)など5点の作品が買い上げられる。ナショナルスカルプチャーソサエティショーに”エロス”(マーブル)を初応募、入選し会員に推挙される。
1973年 – ナショナルアカデミーオブデザインのアニュアルショーで“ニンフ”(マーブル)受賞。栃木県立美術館に寄贈。
1974年~1985年 – ブルックリンミュージアムアートスクールで不定期にインストラクターを勤める。
1975年 – WNBC-TVよりブルックリンミュージアムの屋外で1トン半のカナダ産の御影石を使って制作中の母子像がリポーター、ロバートポットによって紹介される。
1977年 – WNBC-TVよりベッディマッキー鋳造所での等身大の裸婦、リクライニングオンビーンバッグのブロンズ鋳造の模様が放映される。ロバートポットの解説。
1979年 – マクミラン出版社の小学6年生のアート教科書に作家と作品が紹介される。
1980年 – 第1回高村光太郎大賞国際展に“思川”(等身大、ブロンズ)を発表、箱根彫刻の森。美ヶ原美術館所蔵。
1983年 – FIDEMインターナショナルショーに(イタリア・フローレンス)アメリカ代表の一員に選ばれてブロンズメダルの胎児を出展。
1986年 – 海外の現代日本美術展、52インターナショナルギャラリー、ニューヨーク。
1989年 – 第39回ニッカーボッカーアーティスト展、ニューヨーク。
1990年 – “宇都宮 美術の現代展”、ギャラリー西武、宇都宮。“今日の造形”展、栃木県立美術館、宇都宮。
1992年- 栃木ラジオ放送の対談に出演、インタビュアー川島正子。
1993年 – 1973年の春から彫り始めたカナダ産の御影石の母子像が完成しNSSの創立百周年記念展にノミネートされて公開される。アメリカズタワー、ニューヨーク。(現在栃木県立美術館で保管)
1996年 – サルスバリーステイト大学の現代彫刻展に招待出品“ナッピング“(マーブル)同大学のコレクションとなる。
1998年 – 国吉康雄に続く2人目の、彫刻では初の日本人として、アートスチューデンツリーグオブニューヨークのインストラクターに推挙される。
1998年 – アートスチュデンツリーグのインストラクターショーに新作の発表を続ける。
1999年 – 日本人、日系人アーティスト美術展に新作の発表を続ける。日系人会主催、ニューヨーク。
2002年 – 宇都宮高校同窓の白竜会より”母子像”(ブロンズ)が母校に寄贈される。
2004年 – “ディスタンス”栃木県出身作家の現在展(フローティング、ブロンズ、宇都宮美術館所蔵)
2004年 – “スプリング”(ブロンズ)71回ナショナルスカルプチャーソサエティーショーで銅賞受賞。宇都宮美術館所蔵。
2007年 – “フローティング”(マーブル)73回ナショナルスカルプチャーソサエティーショーで銀賞受賞。

益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器。
毎年、ゴールデンウイークと11月3日前後に「益子大陶器市」が開催され、500を越える店舗が出て賑わっている。

歴史
江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。
量は豊富にあるものの、粗く精巧な器を作るには向かない陶土だったため、当初は水がめ・火鉢・壺などの日用品が主に製作されていたが、1927年より創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。 その後、1959年に加守田章二が開いた窯により、民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加わった。
1979年には通商産業省(現、経済産業省)より、伝統的工芸品に指定された。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。

特徴

益子焼(蕎麦猪口)
砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。
益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色を出す鉄釉である。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。
民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

著名な作家
濱田庄司
島岡達三
佐久間藤太郎
合田好道

小砂焼(こいさごやき)は栃木県那須郡那珂川町にて焼かれる陶器磁器半磁器。

沿革
水戸藩主、徳川斉昭が1830(文政13?)藩主になった翌年に、殖産興業政策として、陶土を探させる。 同年、12/10に小砂に陶土発見。(同政策より、常陸大田でも発見されている。)
1831(天保2)
通事伊藤友寿を京都に派遣、陶業の研究をさせる。甕説
1833(天保5)
瓦屋(現 茨城県水戸市瓦谷)で、築窯。
1834(天保6)
陶器出窯開始(4/26)
1838(天保9)
七面(神崎)に移動(瓦谷は廃止される)
1840(天保11)
小砂/町田/七面の体制になる。
1841
唐津より、陶工 伝五郎を招く
1851(嘉永4)
大金彦三郎により御用瀬戸試焼開始 (小砂焼の始まり)
1896(明治29)
村立大山田工業補習学校開設
1898(明治31)
小砂焼製陶講究所開設
1901(明治34)
会津本郷より岩田新吾招聘。磁器焼成開始
1907(明治40)
下野陶器株式会社設立。磁器大量生産
藩窯 ( 当時の資料では、御用瀬戸 御用陶器焼 と表現)して庇護されており。高札原稿が残されている。 。
現在も那珂川町小砂地区には数軒の窯元が存在し、閑静な焼き物の里を築き、日用雑器を焼き続けている。近郷には馬頭温泉郷があり、土産物向けの食器も多い。

特徴
小砂焼の特徴として、陶器、磁器(おもに青磁)、半磁器(国山窯のみ?)ともに作成されている。 陶器の特徴は何と言っても「金結晶」と呼ばれる黄金色の釉薬であり、素朴な意匠ながら瀟洒な上品さがある。他に桃色がかった辰砂釉も特徴的。
その他
徳川斉昭の殖産興業政策の一環として、那珂湊の反射炉を建造(1856 嘉永7)した際に、小砂の陶土を利用している。 また駅弁のお茶の容器が陶製だったころには、小砂でも量産されていた。 那須の御用邸の青磁のいくつかは、小砂焼である。
モースコレクションにも、小砂焼があるが、kosunaと表記されている。

みかも焼(三毳焼)

曲物(まげもの・わげもの)は、檜・杉などの薄く削り取った材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。曲物を作る職人を曲物師、特に曲げ職人を曲師という。

歴史
曲物は、古代より日用品として使用されていたといわれる。
その例として、例えば平安時代から鎌倉時代の絵画である「扇面古写経」・「鳥獣人物戯画」・「信貴山縁起絵巻」・「男衾三郎絵詞」・「北野天神縁起(弘安本)」・「東北院職人歌合絵巻」などには「桶」が描かれており、絵画の制作年代から類推して、この「桶」は鎌倉時代以降に作られた結桶ではなく曲桶であり、曲物の「桶」が遅くても平安時代以降には日用的に使用されていたとされている。
また古来、曲物はこの「桶」の他に「井筒」としても使用されたといわれる。曲物井筒と呼ばれるもので、井戸の内壁に曲物を施し、側壁が崩れないようにした。井筒は野面積みの石垣などが多く用いられるが、古代は木材を使用しており、曲物井筒もその方法の一つとして古代から用いられたとされる。例として、石川県寺家遺跡や高座遺跡の例(中世期)や秋田県洲崎遺跡(13世紀末)、岩手県落合遺跡(鎌倉時代)などがある。
古代遺跡の発掘調査の結果、曲げ物が出土した例を以下に列挙する。
島根県の出雲国国府の発掘調査:奈良時代の祭祀遺構として、井戸から曲物容器が出土。
鳥取県の青谷上寺地遺跡の発掘調査:曲物の他、幾種の木工品が出土。
青森県八戸市の是川中居遺跡の発掘調査:出土した「漆塗り樹皮製容器」について、同市教育委員会は約3,000年前の縄文時代晩期初めごろの「漆塗りふた付き曲げ物」であると評価。
奈良県奈良市の平城宮遺跡の発掘調査:井戸から曲物容器が出土。
時代の経過とともに、これらの曲物は「桶」における「結桶」や「井筒」における「石垣」などの登場によって廃れていったが、江戸時代以降も弁当箱や膳、盆、菓子器、華器、茶道用器などに利用され、現在も少なからず生産されている。

産地
種々の代替製品が存在することや、資材調達が難しい状況から、生産量は限定的である。 現在、曲物を地域の工芸品・特産品・名産品としている主な地域は以下のとおり。
青森県藤崎町のひばの曲物
秋田県大館市の大館曲げわっぱ
福島県檜枝岐村の曲げ輪っぱ
群馬県中之条町のめんぱ
新潟県燕市(旧吉田町)の曲物製品
栃木県宇都宮市の曲物
東京都中野区の曲物
長野県塩尻市の木曽奈良井の曲物
岐阜県中津川市の恵那曲物製品
静岡県静岡市の井川メンパ
三重県尾鷲市の尾鷲わっぱ
京都府京都市の京の木工芸品
大阪府大阪市の曲げ物
福岡県福岡市の博多曲物
宮崎県日之影町のめんぱ
木曽奈良井宿の曲物
木曽奈良井宿の曲物
工芸品の区分 木工品
産地 長野県塩尻市
発祥 江戸時代前期
指定 長野県知事指定伝統的工芸品
産地組合
名称 木曽漆器工業協同組合
所在地 〒399-6302
塩尻市大字木曽平沢2272-7
外部リンク
長野県塩尻市で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。
地元で産出されるヒノキやサワラの薄板を円形・楕円形に曲げ加工し、合わせ目を山桜の皮で綴じた側板に底や蓋を付けた器物で、日用品として飯器、弁当箱、茶道具、そば道具、せいろなどに用いられる。
蓋のある楕円形の弁当箱等は、深蓋と浅蓋で合わせ目の位置が異なり、深蓋の場合には合わせ目の摩擦を避けるため、蓋と本体の合わせ目の位置をずらしてある。
歴史
江戸時代前期頃に「奈良井の曲物」として紹介されている。
1982年10月21日 – 長野県知事伝統的工芸品に指定。
伝統的な技術・技法
へぎ
へぎ包丁を用いて、木理に沿って薄板にへぐ。
薄板は熱湯浸漬で柔らかくして曲げ加工を行う。

指物(さしもの)
板を差し合わせて作くられた家具や器具の総称、またはその技法。本項で詳述。
髪にさす装身具(髪飾り)の総称。簪(かんざし)・櫛(くし)を参照。
戦国時代以降の武士が、自身の存在・所属・職階などを示すために指している旗や飾り。腰に差すものを「腰指(こしざし)」と呼ぶが、一般的には、戦国時代後半に定着した背中に指すものを言う。旗指物(はたさしもの)。

日本の指物
日本でいう「指物」の名の由来については諸説あるが、ホゾや継ぎ手によって材を組むことを「指す」といい、また「物指し」を用いて細工するからともいわれる。指物の技術者を日本では指物師と呼ぶ。
日本において伝統的な指物にはいくつかの流派とも呼べるものが存在するが、特に京都の京指物、東京(旧・江戸)の江戸指物、大阪の大阪唐木指物が有名である。
京指物
平安時代の貴族文化に起源を持つ京指物は、室町時代以降、これを専門とする職人(指物師)が現れ、その後の茶道文化の確立とともに発展した。
朝廷や公家が主に用いていたことから優雅かつ精緻な細工を特徴とする。無垢板(むくいた)を用いた箪笥・飾り棚・机などといった高級和家具のほか、桐・杉・欅・桑などといった木の素材を生かした箱物・板物・挽物(ひきもの)・曲物(まげもの)など茶道具を作成する。 1976年(昭和51年)6月2日、京指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域は京都市のみである。
江戸指物
江戸時代、徳川幕府は多くの職人を全国から呼び寄せ、江戸の神田・日本橋界隈に大工町・鍛冶町・紺屋町などといった職人町を造って手工業を発達させた。江戸時代の中頃には消費生活の発達につれて大工職の仕事は楢物師(ひものし)・戸障子師・宮殿師などに細分化されてゆき、その一つとして指物師も生まれた。
江戸で発展した江戸指物は、武家や町人・商人に用いられることが多かった。その風土ゆえに華美な細工は好まれず、淡泊な木目に渋味をもつ漆塗りを施して素材の木目の美しさを活かしたものが好まれてきた。 1997年(平成9年)5月14日、江戸指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域としては、東京都の台東区・荒川区・足立区・葛飾区・江東区がある。
大阪唐木指物
奈良時代に遣唐使を通じて日本に伝えられた唐木製品を起源とする。中国より伝えられた珍しい木が使われていたため、「唐の木」を用いた品であるとして「唐木(からき)」と呼び、それが「唐木指物」の名の元となったと考えられている。 安土桃山時代の茶道や書院造りの発展と普及とともに産地形成されてゆく。江戸時代に入ると唐木材は全て長崎に運び込まれ、大坂(大阪)の薬種問屋がこれを引き受けた。
大阪唐木製品は、伝統的技法を用いつつ現在の生活様式に合うよう工夫・改良されている。拭き漆を重ねることによって仕上げられる鏡のような光沢を持った表情と、唐木の重厚な存在感が特徴である。 1977年(昭和52年)10月14日、大阪唐木指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域としては、大阪府のほか、兵庫県姫路市等、奈良県奈良市等、和歌山県有田市、および、福井県越前市の旧武生市域がある。

日光彫(にっこうぼり)は、栃木県日光市特産の彫刻である。

製法
素材の木材として、トチノキ、ホオノキやカツラを乾燥させて使用する。1975年(昭和50年)までは栃木県産のトチノキを多く使用してきたが、それ以降は北海道産のカツラの使用が多い。材木は貯木場に置かれ、柾目に製材された上で自然乾燥(0.5 – 1年間)、電気乾燥(7日間)を経て日光彫に供される。
墨付けの上で切断加工され、再度電気乾燥(約0.5日)させた後、適切な形に成型される。
彫りは、ひっかき(日光三角刀)を用い、木地に模様をひっかき彫、沈み彫、浮し彫などの技法が用いられる。その模様は植物が多く、日光東照宮で多く用いられている牡丹を始め、菊、桜、梅、ニッコウキスゲなどが多い。また平面部分には漆の乗りを良くするために『星打ち』が施される。
塗りは『日光朱堆塗り』という技法が明治時代以降に定着した。この技法は、彫りが終わった素地に直接朱漆を塗り、その上に黒炭の粉を降って一度黒色とした後に磨き、その磨き具合によって下地の漆の朱色を調節しより立体的に仕上げる。現在は漆は使用せず朱色の顔料を重ね塗りすることが多いと云われる。

略史
江戸時代初期、徳川家光が日光東照宮を荘厳な建造物にしようと全国から技術者を日光に呼び集め、東照宮が完成した。その後、彫師や漆師が日光に留まって東照宮の修繕に当たる傍らで木々を彫って箪笥や盆、机などを日光土産として販売するようになった。1878年(明治11年)に日光を訪れたイザベラ・バードはその手記の中で、日光の町は商店で占められ豆腐や餅、ケーキ(饅頭)などの食べ物に交じって漆器や盆などの土産物が売られている、と記している。こうした日本国外から日光を訪れる西洋人には商人も多く、日本国外に日光彫を輸出するようになった。こうして日光彫は産業として定着し、現在も伝統工芸品として生産されている。
当初、日光堆朱塗り(にっこうついしゅぬり)や日光盆(にっこうぼん)などと呼ばれていたが、その後、『日光彫』という名称が定着した。 2014年、熊野筆とのコラボレーション作品も登場している。

竹細工(たけざいく)は、竹を加工したり、竹ひごを編み込んで細工物を作ったりすること。または、日用品・農具・漁労具などの荒物、茶道具などの工芸品、竹とんぼや水鉄砲といった玩具の中で、竹を素材とした細工物のことを指す。

編組
竹ひごの編み込み方・編組(籠目)の種類には、基本となる六つ目編み、四つ目編み、ござ目編み、網代編み、さらには、異なる太さのひごを駆使した波網代や、麻の葉編み、松葉編み、やたら編みといった装飾的な特徴を高めたものなど、用途に応じて様々なパターンがある。

素材
素材となる竹にはマダケが最も多く利用されており、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が流通する。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工する事でその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である。
マダケについでモウソウチクも多く用いられる。モウソウチクは、もっぱら青竹のままで利用される。
別府竹細工や日田の竹箸などの竹工芸の盛んな大分県は、マダケの面積、生産量とも全国一のシェアを占めるとともに、竹材業者も多いため、加工された素材も入手が容易である。

伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている竹工品には以下のものがある[1]。
江戸和竿(東京都)
駿河竹千筋細工(静岡県)
大阪金剛簾(大阪府)
高山茶筌(奈良県)
勝山竹細工(岡山県)
別府竹細工(大分県)
都城大弓(宮崎県)

和太鼓(わだいこ)は、打楽器のひとつ。日本の太鼓の総称。大きく分けて長胴太鼓(宮太鼓)、桶胴太鼓、附締太鼓の3種類がある。祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に用いられ、木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出すものである。桴(ばち)で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ)と呼ばれる。

特徴
和太鼓は、一般的に残響が非常に良く響き、余韻が残る音を特徴とする。和太鼓の構造は、胴の中間が膨らんだ円筒形で、両面もしくは片面に皮が張られている。ドラムなどの他の打楽器と比べて強度は高い。

歴史
和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器も出土している。群馬県佐波郡境町の天神山古墳から「太鼓を打つ人物埴輪」 像が出土し、 古墳時代 (3世紀末~6世紀) には日本に太鼓が存在していたことがわかっている。
中世に入ると、田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛した。戦国時代になると、戦国大名達が自軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓が興る。人間の心臓の鼓動に太鼓の鼓動が「シンクロ」することによって自らを鼓舞する性質があるという説もあり、戦における太鼓の使用はこの説に従えば有効な活用法であったと言える。近年までは、時刻を知らせる為にも太鼓が使用されていた。
明治時代に途絶えていた御諏訪太鼓が第二次大戦後に復元され、多数の太鼓だけで演奏する組太鼓スタイルが生まれ、創作和太鼓の鬼太鼓座、 鼓童などのプロの和太鼓集団の出現と流行をきっかけとして、 各地にアマチュアの和太鼓グループが無数に誕生し、町おこしや青少年の育成などに用いられる一方、和太鼓集団の海外公演を通じて欧米をはじめとする世界中に知られるに至った。
今日では、盆踊りの主役として演奏されたり、神と意思を伝達する手段、呪具として神社や寺院に置かれるなどしている。太鼓という場合広狭二つの理解がある。何らかの仕方で張った皮を打って音を出すという広義の理解ではアジアの先住民に認められる団扇太鼓(例:日蓮宗の打つ太鼓)から能楽に使用する鼓類までを含んでしまう。しかし通常和太鼓と呼ばれる場合は、筒あるいは椀型のものに皮を張った狭義の理解をする。どちらも楽器としては膜鳴楽器と分類される。以下では狭義の太鼓としての和太鼓に限定して述べる。

芸能、音楽としての太鼓

文化交流の一環として、外国軍の前で和太鼓の演奏を披露する陸上自衛官

舞楽「抜頭」の演奏。左奥に楽太鼓が見られる
雅楽
雅楽では管弦に用いる楽太鼓と、舞楽で用いる大太鼓(だだいこ)とがある[2]。舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。外側を朱色の火炎が取り巻いていることから、火焔太鼓とも呼ばれる。
宗教音楽
神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。
このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。
歌舞伎
江戸時代、歌舞伎が隆盛すると、下座音楽に使われ、効果音として取り入れられた。下座音楽における太鼓の使用方法は、打ち方によって表現する情景が高度に体系化されている。例えば細めの桴で細かく叩くと雨の音、布を巻いた桴で弱く柔らかい音を低く響かせると雪の音、それらの合間に別の桴を水平に宛て、鼓面の震えを拾ってビリビリという音をたてると雷や雪崩の音を表現するといった具合である。また幽霊の出現など、本来ありえない音響を抽象的に表現する場合にも用いられる。
組太鼓
戦後になってから、長野県の御諏訪太鼓がジャズドラムを参考にして、大小の太鼓をドラムセットのように組み合わせた「組太鼓」形式を開発した。音程がある楽器を基本的に使わない複式複打法の組太鼓が誕生した。

草木染めあるいは草木染(くさきぞめ)は、合成染料(化学染料)を用いた染色に対して、天然染料を用いた染色を区別するために生じた呼称。
昆虫から得られるコチニールのような植物由来の染料でなくとも天然染料で染めること、または染めたものを草木染めという。タマネギや落花生の皮のような家庭で生ゴミになってしまうものも染料として使用されている点で家庭的な面がある。

命名の経緯
作家の山崎斌が1930年12月に資生堂ギャラリー(銀座)で行った「草木染信濃地織復興展覧会」が創始とされる。それまで植物を使用した染色に対して特定の呼称がなかったため、展覧会に際して新たに考えるよう周囲に薦められたという。同時に山崎は登録商標を申請し、1932年に受理された。すでに商標の期限は切れているが、後継者である息子の山崎青樹(せいじゅ)は追加申請を行っていない。これは「草木染を愛する人に自由に使用してもらいたい」という願いによるものである。 その後、斌の孫であり青樹の息子である山崎和樹(かずき)へと引き継がれ、三代による「草木染」の啓蒙活動が続いている。
染色方法
主に植物の葉、茎、根、実などを煮だした液に繊維を浸し、20分程度加熱し、染まった色素を金属イオンと結合させて発色させる。金属イオンとの結合を媒染といい、アルミニウム、銅、鉄分などを溶かした液に繊維を20分程度浸す。植物抽出液と媒染を繰り返すことで色素の繊維染着を良くし、染色濃度を上げる。

合成染料(化学染料)との違い
草木染めは合成染色に比べて、
品質が一定しない。天然染料は色素の含有量が一定せず、また単一の色素のみを持つことも少ないので、同じ色を出すのはほぼ不可能と言われる。
濃く染めにくい。天然染料は色素を持っていても、合成染料のように多量に含んでいるわけではないので、濃い色に染めるのは手間が非常にかかる。
染色の時期が決まってくる。染料自体の採取時期による色の違いや、季節による染色の向き不向きがあるので、染色を行う季節は自然と固定されるものが多い。
被染色物(染められたもの)の色が光や汗、果汁などに対して弱いものもある。
こうした化学染料との違いは、工業的に量産という点では欠点があると捉えられるが、身近な材料で家庭でも手軽に染められることや、趣味や手工芸の分野では同じものができないことを魅力だと捉える人もおり、草木染めならではの面白さだとされる。
きぶな(黄鮒)とは栃木県宇都宮市の郷土玩具である。
宇都宮市には「昔天然痘が流行った時に、黄色いフナが市中心部の田川で釣れ、病人がその身を食べたところ治癒した」という伝説がある。そのフナを模した縁起物である。長さ約30センチメートルの細い竹竿に吊り下げられた張り子。頭部は赤色、ひれは黒色、胴体が黄色、尻尾が緑色と色鮮やか。きぶなを食べた人は病気にならなかったが、きぶなを釣るのは難しかったため張り子を作って正月に軒下に吊るしたり神棚に供えたりしたのが始まり。
昔は宇都宮市新町の農家の副業として多くの人が制作していたが、その後浅川仁太郎(1906年1月30日生)と次男の浅川俊夫(1945年12月25日生)の2人だけが技術を継承した。その後は小川昌信が技術を継承した。
制作の手順をおおまかに記すと、きぶなの木型に和紙を張りつけて1日半ほど乾燥させる。きぶなの腹部を切って木型を取り出して切り口に紙を張る。ニカワできぶなのひれを付け半日ほど乾燥させてからひれを整型する。胡粉をぬり半日ほど乾燥させる。赤・黄色などの絵の具で着色する。
毎年1月11日の初市に上河原の初市会場と宇都宮二荒山神社の参道で販売されてきた。宇都宮市内の物産店でも販売するようになった。小川昌信の店は「ふくべ洞」といい、宇都宮市大通り2-4-8にある。
きぶなは通常は張り子や土鈴であるがハンチング帽などの派生品もある。ご当地キティや日本酒の銘柄としても使用されている。黄鮒を模した最中もある。2015年9月30日現在、YouTubeにもきぶなの紹介動画があるので、そちらも参照されたい。

三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱらはじいて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。

概説

三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。

三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。

琴(きん、こと)とは、日本の伝統楽器。日本で「こと」と呼ばれる楽器は、(1)琴(きん)、(2)箏(そう)、(3)和琴 (わごん)、(4) 一絃琴 (須磨琴)、(5) 二絃琴 (八雲琴) がある。
(1)琴(きん)と(2)箏(そう)は混同されることがあるが、両者の違いは、(1)琴は弦を押さえる場所で音程を決める(和琴は柱を使う)。(2)箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節する。いずれも、指にはめた爪(ピック)または指(あるいは手の爪)で弦を弾いて音を出す。

一絃琴
モノコード系のシンプルな楽器であり、板琴、須磨琴などの別名がある。日本には江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧覚峰律師により世に広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流行し、土佐一絃琴と呼ばれた。
芦管(ろかん)という管をはめた左手の指で弦の勘所を抑え、右手の指にはめた爪で弾いて演奏する。初期の一絃琴は一枚板に弦を張った構造だったが、最近のものは箱状になっている。一絃琴のために作曲された曲を「本曲」といい、全体に緩やかな音楽が特徴である。
二絃琴
1820年に中山琴主が出雲大社への献納用楽器として考案したことから当初は出雲琴と呼ばれたが、代表曲「八雲曲」にちなんで八雲琴と呼称するようになった。初期は竹で作られたが、のちに杉や桐製となった。2本の弦は同律に調弦されることから、一絃琴から進化させたものと考えられる[2]。出雲、伊予、京阪地方で盛んになったが、現在は衰微している。
明治初期に二絃琴を発展改良させた東流二絃琴(あずまりゅうにげんきん)が開発され、東京で流行した端唄や俗謡の伴奏楽器として、明治中期まで盛んに用いられた[2]。
大正琴
大正時代に二絃琴をもとに開発された。
詳細は「大正琴」を参照

「こと」の由来
『古事記』などに「こと」を弾く場面がしばしば登場するように、本来「こと」は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。登呂遺跡など、各地の弥生時代の遺跡からすでに「こと」と思われる残片が見つかっており、また古墳時代の埴輪にも「こと」や「こと」を弾く人物をかたどったものがある。つまり、「こと」は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その「こと」は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に「こと」と呼ばれる箏が中国から渡来したのは、奈良時代のことである。
和琴とは別に、奈良時代に渡来した「琴」(きんのこと)は中国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器(古代日本では、人間が息を吹き込まねば演奏できない管楽器よりも高尚なものとされた。当時弦楽器はすべて「○○のこと」と呼び習わされる)の中でも重要視されていたらしい。平安時代の『うつほ物語』では琴の伝授が物語の主軸の一つであり、また『源氏物語』にも登場するが、醍醐天皇~村上天皇の治世がモデルと推測される作中世界においても「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに源氏物語に登場する奏者は、主人公で臣籍降下した皇子光源氏やその弟の蛍兵部卿宮・宇治八の宮、また源氏の妻の内親王女三宮とその子薫、常陸宮の娘末摘花、明石の御方(母が中務宮の孫)など、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
縄文琴
倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の2種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。出土例として、北海道小樽市忍路土場(おしょろどば)遺跡、滋賀県彦根市松原内湖遺跡、青森県八戸市是川遺跡などから、縄文時代後期から晩期にかけての縄文琴が出土している。ただし、弦の張り方や琴頭の形が弥生時代後期の琴と異なることから、縄文琴の伝統は途切れ、弥生時代から倭琴の新たな伝統は始まったものと考えられる。似たような楽器として、アイヌのトンコリがある。 3000年前の青森是川中居遺跡から出土した木製品は世界最古の弦楽器の可能性があり、 弥生時代の登呂遺跡などから出土した原始的な琴と似ていることから、日本の琴の原型ではないかと推測されている。
中世神話上における起源
伊勢神道の書物『御鎮座本紀』には、「アメノウズメが天香具弓(あまのかぐゆみ)を並べて叩いたのが琴の始まり」と記述されており、中世神話上では、その起源を「女神が並べた弓から始まったもの」と解釈された(神道行事の寄絃の方も参照)。

琴という言葉
このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じ、「箏」の字が常用漢字で無いことから「箏のこと」で用いる柱を琴柱(ことじ)と言ったり、箏の台のことを琴台(きんだい)と言ったり、箏曲を教える人が広告などに「琴曲教授」と書いていたり、「福山琴」の商標登録[5]に見られるように言葉の使われ方に多少の混乱がある。
例えば、『源氏物語』などの古文では、「琴」は、この項で説明している琴(きん)のほかに、箏、琵琶などすべての撥弦楽器を指している。このことは、明治時代に日本に新しい楽器が入ってきた際に、洋琴(ピアノ)、風琴(オルガン)、手風琴(アコーディオン)、自鳴琴(オルゴール)、提琴(ヴァイオリン)などと呼ばれていたことからも伺い知ることができる。
琴に関連する伝説
常陸国住人に琴御館宇志丸(ことのみたち うしまる)というものがおり、ひとりでに鳴る琴を所有しており、敵対勢力が来ると音を鳴らし、宇志丸に教えたため、事前に兵を集められ、徹底して防戦ができ、戦に負けることがなかった。このため、敵側は偽りの和睦を結び、宇志丸の娘を嫁とするが、その嫁を用いて、秘密裏に琴の弦を切らせた。これにより宇志丸は敵兵が進軍しても気づかず、琴の弦が切られたことに気づいた時には、敗戦し、常勝を重ねることはなくなり、敗戦を重ねた結果、近江国滋賀郡に流浪して着き、日吉神人(神主)の祖先となった。
この説話は『続群書類従』所収「耀天記」に記述されたもので、ベトナムに伝わる伝説と類型が指摘されているが、「霊的な琴」といったように、日本風に(神道観で)アレンジされており、日本文化における琴の信仰観(中世以降も重要だったこと)がわかる伝説である。

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