美 

術 

新着情報

熊本県買取NO1を目指しています!!高価買取エリア(骨董品・美術品)

高価買取NO1・満足度NO1に挑戦中!!

骨董品・美術品などの買取販売は新原美術にお任せください。

どこのお店より高価買取に自信があります!!

まずはお気軽にお電話ください。  新原美術 電話0766−22−7303

熊本県 くまもとけん
熊本市 くまもとし
中央区 ちゅうおうく
東区 ひがしく
西区 にしく
南区 みなみく
北区 きたく
八代市 やつしろし
人吉市 ひとよしし
荒尾市 あらおし
水俣市 みなまたし
玉名市 たまなし
山鹿市 やまがし
菊池市 きくちし
宇土市 うとし
上天草市 かみあまくさし
宇城市 うきし
阿蘇市 あそし
天草市 あまくさし
合志市 こうしし
下益城郡 しもましきぐん
美里町 みさとまち
玉名郡 たまなぐん
玉東町 ぎょくとうまち
南関町 なんかんまち
長洲町 ながすまち
和水町 なごみまち
菊池郡 きくちぐん
大津町 おおづまち
菊陽町 きくようまち
阿蘇郡 あそぐん
南小国町 みなみおぐにまち
小国町 おぐにまち
産山村 うぶやまむら
高森町 たかもりまち
西原村 にしはらむら
南阿蘇村 みなみあそむら
上益城郡 かみましきぐん
御船町 みふねまち
嘉島町 かしままち
益城町 ましきまち
甲佐町 こうさまち
山都町 やまとちょう
八代郡 やつしろぐん
氷川町 ひかわちょう
葦北郡 あしきたぐん
芦北町 あしきたまち
津奈木町 つなぎまち
球磨郡 くまぐん
錦町 にしきまち
多良木町 たらぎまち
湯前町 ゆのまえまち
水上村 みずかみむら
相良村 さがらむら
五木村 いつきむら
山江村 やまえむら
球磨村 くまむら
あさぎり町 あさぎりちょう
天草郡 あまくさぐん
苓北町 れいほくまち

 

≪取扱い商品≫
日本画/洋画/版画/掛軸/屏風/茶道具/古陶磁器/古伊万里/鉄瓶/銀瓶/象牙/貴金属/金/プラチナ/ガラス/ランプ/古時計/根付/印籠/きせる/蒔絵物/酒器/塗物/古酒(洋酒類)/西洋陶器/高級家具/和箪笥/桐箪笥/水屋/火鉢/刀剣/鍔/小道具/仏教美術/人形/古おもちゃ/アンティーク/着物/贈答品/楽器/美術、新作工芸、美術工芸品、掛け軸、人間国宝作品、日本陶磁器、中国陶磁器、彫刻、蒔絵、屏風、古銭、版画、古書、書画/リサイクル品
即現金買取 秘密厳守 無料査定・無料見積いたします。押入れや物置に眠っている品物を高く売りたい方、お気軽にお電話ください!! どこよりも高く買い取る自信があります!!

 

熊本県全域主張買取致します。
お気軽にお電話ください。
買取販売
新原美術 店主 0766−22−7303

 

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

増村益城 ますむら-ましき

1910-1996 昭和-平成時代の漆芸家。
明治43年7月1日生まれ。赤地友哉(ゆうさい)に師事。実在工芸展,日本漆芸院展,戦後は日展,日本伝統工芸展で活躍。乾漆や髹漆(きゅうしつ)にすぐれ,昭和53年髹漆で人間国宝。平成8年4月20日死去。85歳。熊本県出身。熊本市立商工学校卒。本名は成雄(なりお)。作品に「乾漆盛器」など。

生嶋 順理(いくしま じゅんり、1961年-)は、日本の画家。熊本県出身。東京造形大学教授。東京造形大学美術学科卒業。東京藝術大学大学院修士課程修了。
出展
1987・89・96年 現代日本美術展
1986・88年 クラコウ国際版画ビエンナーレ展
1990年 インターグラフィック90
1991年 クラコウ国際版画トリエンナーレ91
1993年 マーストリヒト国際版画ビエンナーレ
1994・97年 国際版画トリエンナーレ(マケドニア)

井手 宣通(いで のぶみち、1912年(明治45年)2月1日 – 1993年(平成5年)2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。
帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。
熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
来歴
1912年(明治45年) – 熊本県上益城郡御船町に生まれる。
1924年(大正13年) – 旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)で、東京美術学校を卒業後すぐに赴任していた若き美術教師富田至誠の指導を受ける。
1930年(昭和5年) – 東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二、小絲源太郎らに学ぶ[2]。
1935年(昭和10年) – 東京美術学校西洋画科卒業、同校彫刻科に入学。
1940年(昭和15年) – 東京美術学校彫刻科卒業。在学中に帝展(現在の日展)に初入選し画壇デビュー。
1947年(昭和22年) – 朝井閑右衛門、南政善らとともに新樹会創立。
1966年(昭和41年) – 「千人行列」で日本芸術院賞受賞。
1977年(昭和52年) – 日洋展創立。
1980年(昭和55年) – 熊本県近代文化功労者として表彰される。
1982年(昭和57年) – 勲三等瑞宝章受章。
1990年(平成2年) – 文化功労者として表彰される。
1991年(平成3年) – 日展理事長就任。
1993年(平成5年) – 死去。勲二等瑞宝章受章。

牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 – 1997年9月16日)は、洋画家。熊本県熊本市二本木町生まれ。

概要
風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれる。
熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大の講師になるまで勤め人になったことが無かったという。日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いた。家族には「絵の具とカンバスと、雨風しのげて目と手があれば、絵は描けるんだよ」と言い続けたという。
世田谷区在住であったが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されている。
来歴
1900年 熊本県熊本市二本木町に生まれる。
1919年 旧制熊本中学校卒業後上京し葵橋洋画研究所に学ぶ。この頃から歌舞伎に興味をもち、片端から観てまわる。
1927年 東京美術学校西洋画科卒業。岡田三郎助に師事。同年の帝展入選。以後、秀作美術展を中心に出品を重ねる。
1936年 主戦美術協会を創立。
1946年 「炎昼」が第2回日展で特選となる。
1949年 立軌会を結成。
1954年 東京芸術大学講師となり1965年から教授。
1969年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
1971年 熊本県近代文化功労者。
1981年 日本芸術院会員。
1982年 文化功労者となる。
1983年 文化勲章受章。

浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 – 1997年11月30日)は、日本画家、日本芸術院会員。
熊本県山鹿市生まれ。松岡映丘らに師事。東京美術学校日本画科卒。1973年日展文部大臣賞受賞、1978年日本芸術院賞受賞、1988年芸術院会員。
代表作に「蔓(かずら)」、「松」など。北関東や東北の自然を描いた。

 

大塚 耕二(おおつか こうじ、1914年9月28日 – 1945年7月30日)は、洋画家。

略歴
熊本県菊池市に生まれる。中学を卒業後、坂本善三に師事する。1934年、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。1936年、藤田嗣治の案内で、詩人ジャン・コクトーが展覧会を訪れ、大塚耕二の作品を称賛した。1941年、応召、西部21部隊(熊本野砲隊)に入隊し、満州、フィリピンに派遣。1945年、フィリピン・ルソン島プログ山にて戦死。
作品は、主に熊本県立美術館に収蔵されている。日本前衛絵画の草分け的存在として評価される画家の一人である。

堅山 南風(かたやま なんぷう、本名:熊次、1887年(明治20年)9月12日 – 1980年(昭和55年)12月30日)は昭和を代表する日本画家の一人。
熊本県に生まれる。熊本市立壺川小学校出身。家業は油などの製造卸売。堅山が幼少の頃両親が相次いで亡くなり、経営が傾くも、苦学しながら絵画の勉強をする。23歳の時上京、高橋広湖の門下生になる。
1912年の文展で2等に入選、1等に該当する作品がなかったことから、事実上の最優秀賞に輝いた。この頃から横山大観に師事して日本画を学び、再興日本美術院にて次々と作品を発表する。一時的にスランプに陥り、インドに渡る。1958年、日本芸術院会員。1968年、文化勲章受章。

坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 – 1987年10月14日)は、日本の洋画家。

概要
「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。
作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。
熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。
経歴
1911年 – 熊本県阿蘇郡小国町宮原に、坂本謙吉、イカの3男として生まれる。
1929年 – 大津中学校(現・熊本県立大津高等学校)卒業。本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助に師事。
1931年 – 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科入学。第1回独立展出品。
1933年 – 東京日日新聞社において第1回個展開催。
1934年 – 帝国美術学校は、3年次終了で中退。
1935年 – 兵役に。1945年まで3度応集。
1946年 – 長い兵役の後、熊本に帰郷し、阿蘇坊中で制作。風景、静物をモチーフにした写実的な半具象の作品を描く。
1947年 – 第15回独立展、独立賞受賞。
1949年 – 独立美術協会会員となる。
1952年 – 熊本市に転居。
1957年 – ヨーロッパへ。フランス・パリを拠点に、スペイン、イギリス、ドイツ、イタリアなど各地を訪れる。
1959年 – 帰国。熊本市にて制作。作品が日本の風土や生活にねざした抽象画へと変化をはじめる。
1965年 – 第33回独立展で児島賞受賞。
1967年 – 第35回独立展でG賞受賞。
1968年 – 九州産業大学教授に就任。
1973年 – 熊本県美術家連盟会長となり、以後5期10年務める。
1978年 – 熊本県近代文化功労者として表彰される。
1985年 – 熊本県立美術館で「坂本善三展」を開催。
1986年 – FIEST展(パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞。
1987年 – 熊本市で没。76歳。

坂本 寧(さかもと やすし、さかもと ねい。1930年5月17日 – )は、日本の医師、画家、美術館館長。

略歴
1930年(昭和5年)、熊本県菊池郡大津町に生まれる。1946年(昭和21年)より、絵を描き始める。熊本大学大学院医学研究科を修了した医師であり、熊本県宇城市で開業医として医業にたずさわりつつ作家活動を続けてきた。西孝親、坂本善三、海老原喜之助らに師事する。
特に坂本善三には、自身が10代の頃より善三が亡くなるまで長く師事した。善三の死後、坂本善三美術館の立ち上げに関わり、1995年(平成7年)、坂本善三美術館館長に就任する。なお、坂本善三と姓は同じであるが、血縁関係はない。抽象画、風景画、版画など幅広い制作活動を行い、熊本、東京、パリなど各地で個展を開催する。著作に、『善三先生と私』、『清六さんと私』がある。1960年 熊本大学 医学博士論文の題は「白血病及び赤白血病の骨髓に関する研究」。
年表
1930年 – 熊本県菊池郡大津町に生まれる。
1946年 – 絵を描き始める。
1993年 – 熊本県立美術館分館にて個展。
1995年 – 坂本善三美術館館長に就任。
2005年 – ルーブル美術館で開催されたアール・パリ展に出品。
2006年 – つなぎ美術館にて企画展。
2010年 – 不知火美術館で個展。

桜田精一(さくらだ せいいち、1910年 – 1999年)は日本の洋画家。日展参与。画家・桜田久美の実父であり、小林武雄や大野みつ子など、優れた門下生を輩出した洋画壇の巨匠である。
略歴
1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる
1933年 日本美術学校洋画科を卒業
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する
1939年 帰国し上京する
1940年 日本美術学校講師に就任
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる
1949年 千葉県美術会を創設に参加
1957年 58年まで約1年間渡欧する
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任
1974年 十柯会同人
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる
1980年 日展評議員となる
1982年 野田市文化功労表彰を受ける
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する
1987年 小山敬三美術賞を受賞する
1987年 日展参与に就任
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける
1992年 勲四等瑞宝章を受章する
1994年 紺綬褒章を受章する
1999年 千葉県野田市で永眠
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催
2009年 千葉県立美術館にて「櫻田精一展 生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催

清水 ハルマン(しみず はるまん、Haruman Simizu, 1950年9月19日 – )は、長崎県出身で熊本県育ちの日本の洋画家。宇宙のイメージや曼荼羅をモチーフとした、「パラダイス界」と銘打たれた独特の世界を押し出した一連の作品で知られる。父はアイルランド系ドイツ人で幼児期に死別、母は日本人のハーフ。
俳優の清水章吾は夫(互いに再婚同士)。娘に女優の清水響美と画家の桑原絹が居る。
来歴・人物
1980年代初頭、現・水彩連盟理事長であり日展評議員・光風会理事である田中実に師事。師の田中をして「教える事は何もない」と言わしめた写実の技法にも長けた画家である。
1983年ケニア画廊新人作家登竜門にてプロの画家に。
以後、国際現代美術家協会代表理事審査委員 (i.m.a)、JIAS日本国際美術家協会会員、サロン・デュ・ブラン美術協会委員を経る。
現在保有の主なタイトル
ル・サロン(フランス芸術家協会)永久会員
ハプスブルク芸術友好協会宮廷芸術永久会員
フランス国立シャガール美術館協会正会員
ピカソ美術館協会正会員
国際美術審議会会員
世界創造芸術認定作家
重度の呼吸器疾患(喘息)を幼少時代から抱えていたが、犬と猫(現在自宅に12頭の犬と4匹の猫を飼っている)と暮らす様になってから、発作は全く起きなくなったという。
日本人離れした風貌のため、よくフランス系、ロシア系に間違えられるという。1996年から3年間レギュラーゲストを務めた関西テレビ制作のバラエティ「痛快!知らぬはオトコばかりなり」では「ドイツ語は全く分からないけれど、熊本弁はばんばん出る」という、外見とは違った親しみ易い素顔を時折披露していた。
「美術年鑑」(美術年鑑社)「日本紳士録」(交詢社)の自己紹介欄の趣味の項目に、「テレビゲーム」と書く程のゲーム好き。「RPG、アドベンチャーゲームをじっくり謎解きしながらやり込んでいくのが凄く楽しい」と、前述の番組内(「痛快!知らぬは〜」)やテレビ朝日系列「徹子の部屋」にて公言している。

杉谷 雪樵(すぎたに せっしょう、文政10年9月26日(1827年11月15日) – 明治28年(1895年)8月4日)は、幕末から明治時代中期の日本画家。雪舟の流れを汲む雲谷派支流で、熊本藩の御用を務める矢野派に属する、熊本藩最後の御用絵師。晩年は上京して日本美術協会などで活躍、熊本における近代日本画家の先駆と評される。
伝記
現在の熊本市坪井裏鳥町で、杉谷行直の長男として生まれる。幼名は市(一)太郎。父・行直はもともと鬢付油を扱う商家の出だったが、画業を志して、藩のお抱え絵師で当時の矢野派の中心的存在の一人・遠藤良行に入門、やがてお抱え絵師になった。父や主家筋に当たる矢野家六代目・良敬に画を学ぶ。伝記では、幼少期父が持っていた雪舟の画稿を手本に運筆を学んだとされる。しかし、現存する画稿類を見ると、名手と呼ばれた先代矢野家当主・良勝の模写が多く、また当時細川家に所蔵されていた呂紀などの中国絵画に学んでいた様子が窺える。天保12年頃から師から一字取って、敬時と名乗る。安政3年(1856年)松井家10代当主・松井章之の江戸参府に随行、後にこの体験を「道中風景図巻」で描いており、画業初期の代表作といえる。
明治維新以後は、他の御用絵師等と同様貧困に喘いだと言われるが、現存資料を見るとそうとも言い切れない。秩禄処分まではそれなりに安定した収入があり、その後も細川家や松井家からの仕事があったらしく、現在も永青文庫や松井文庫に多くの作品が残る。西南戦争で焼けたと言われる画稿類も先述の通り多く現存している。明治初期には酷評していた南画も、後には「一つ南画を書いてみようかと言って」しばしば余興で手掛けている。また、安政期の上洛の折には四条派に心を動かされ、その帰途の大坂遊び、森一鳳の作品に感銘を受け、自らの画風を四条派に近づけようとしたという。
明治20年(1887年)頃上京し、細川家に寄宿しながら画作をこなした。細川家の厚遇もあって画名は高まり、しばしば日本美術協会で褒状を受け、御用画の命を賜った。一方、松平春嶽の六女里子の絵画指導もしている。そして、明治28年東京の細川邸で、御用画揮毫中に亡くなったという。向島百花園には、今も杉谷雪樵芦雁画碑が残る。後に藤岡作太郎『近世絵画伝』では、地方における大家として足利の田崎草雲と共に高く評価している。弟子に、近藤樵仙など。

田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月13日 – 1985年(昭和60年)10月11日)は、昭和期の洋画家。現在の熊本県玉名市出身。
教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。
その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。
画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。
経歴
1900年3月13日 熊本県玉名郡築山村山田(現玉名市山田)に生まれる。
1918年 看板屋に入り独学で油絵を勉強。
1926年 玉名郡神尾小学校に図画専科正教員として勤務。
1933年 東光展初入選。
1934年 熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展(日本美術展覧会)に連続出品。これを機に太田黒幸、松岡正直、米村潤之らと具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成する。
1936年 熊本市立高等女学校(現熊本市立必由館高等学校)教諭となる。(1960年退職)
1955年 「河畔」で日展特選。
1968年 熊本女子短期大学(現尚絅大学短期大学部)教授となる。
(1975年退職)
1971年 熊本県美術家連盟が結成され初代会長となる。
1973年 熊本県教育委員会から第26回熊本県近代文化功労者として顕彰される。
1974年 地方文化功労者として叙勲(勲五等双光旭日章)。
1980年 熊本県文化懇話会から第8回芸術功労者として表彰される。
1985年 熊本県立美術館にて「田代順七展」開催。同展開催中に死去。
1996年 「熊本市所蔵品展-熊本の画家たち」(熊本県立美術館分館)。
2003年 絵画作品が20点熊本市に寄贈される。
2004年 「キュレーターズ・セレクション CAMKコレクションⅠ」(熊本市現代美術館)
主な作品
「海辺小景」1937年東光賞(熊本県立美術館)
「河畔」1955年第11回日展特選(熊本県立美術館)
「夏の天草」1958年第1回新日展(熊本県立美術館)
「川畔風景」1960年(熊本県立美術館)
「雪の阿蘇」1975年(熊本県立美術館)
「水辺」1967年(個人蔵)
「天草」1967年(熊本市現代美術館)
「球磨川にて」1968年(熊本市現代美術館)
「夏の熊本城」1979年(熊本市蔵)
「阿蘇」1985年(熊本県立美術館)

塔本 シスコ(とうもと しすこ、1913年(大正2年) – 2005年(平成17年))は、日本の素朴派の画家。熊本県出身。
48歳の時に脳溢血で倒れた後、手足のリハビリをかねて独学で絵を描く。本格的に絵を描き出すようになったのは53歳になってからである。日本では山下清や谷内六郎とともに素朴派の画家とされている。

略歴
1913年(大正2年) – 熊本県下益城郡松橋町(現・宇城市)に9人弟妹の長女として生まれる。父はサンフランシスコ行きの夢を託し「シスコ」と名付けた。
1933年(昭和8年) – 塔本末蔵と結婚。
1943年(昭和18年) – 長男 賢一誕生。46年に長女 和子誕生。
1959年(昭和34年) – 夫 末蔵事故死。体調不良が続く。
1961年(昭和36年) – 軽い脳溢血で倒れ、手足と心のリハビリをかねて石を彫る。家にある画材で絵を描き始める。
1967年(昭和41年) – 熊日総合美術展に出品。
1969年(昭和44年) – 具現美術協会でカワチ賞・奨励賞を受賞。
1970年(昭和45年) – 長男 賢一と同居のため上阪。この頃から旺盛な制作がスタート。
1994年(平成6年) – 個展「塔本シスコはキャンバスを耕す」(滋賀県立八日市文化芸術会館、ハーモ美術館/長野)
1996年(平成8年) – 「芸術と素朴」(世田谷美術館/東京)
2000年(平成12年) – 「『素朴って?ライフ&ビジョン」(愛媛県美術館)
2001年(平成13年) – 貧血で倒れ、その後認知症を発症するが、制作は意欲的に続ける。
2005年(平成17年) – 逝去。享年92。
2006年(平成18年) – 「快走老人録」(ボーダレス・アートミュージアム NO-MA/滋賀)
2008年(平成20年) – 「ピクニックあるいは回遊」(熊本市現代美術館)、「マイ・アートフル・ライフ〜描くことのよろこび〜」(川口市アートギャラリー・アトリア/埼玉)
2009年(平成21年) – 「マイ・アートフル・ライフ〜描くことのよろこび〜」(京都造形芸術大学ギャルリ・オーブ/京都)
2011年(平成23年) – 「アンリ・ルソーと素朴な画家たち」(市立小樽美術館)他
2013年(平成25年)
「塔本シスコ生誕100年記念 シスコと生きる」出版
「塔本シスコはキャンバスを耕す」(くずはアートギャラリー/大阪府)
「生誕100年塔本シスコ展 この喜びは何だろう」(不知火美術館)
「CAMKコレクション vol.4 『来た、見た、クマモト!』」(熊本市現代美術館)
「アンリ・ルソーから始まる 素朴派とアウトサイダーズの世界」(世田谷美術館)
2014年(平成26年) – 「川崎市制90周年記念事業「岡本太郎とアール・ブリュット-生の芸術の地平へ」(川崎市岡本太郎美術館)
代表作
「秋の庭」(1967年/世田谷美術館蔵)
「夢の中、自分が子供の頃の夏祭に私の手づくりの人形が箱の中からとび出して踊っている様をかきました」(1985年/世田谷美術館蔵)
「前田館長と記念写真」(1995年/世田谷美術館蔵)
「ふるさとの海」(1992年/熊本市現代美術館蔵)
「造幣局の桜」(1987年)
「ネコ岳 ミヤマキリシマ」(1989年)

富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 – 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。
旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。 昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。
井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。

来歴
1897年(明治30年)鹿本郡来民町(現山鹿市鹿本町来民)に四男として生まれる。
1910年(明治43年)来民尋常小学校を経て、県立鹿本中学校(現熊本県立鹿本高等学校)に入学、図画を武藤直に師事。
1915年(大正4年)鹿本中学校を卒業後、熊本工業専門学校(現熊本大学工学部)に入学するも翌年自主退学し上京。
1917年(大正6年)東京美術学校西洋画科を受験し合格。
1922年(大正11年)東京美術学校西洋画科卒業後、4月に開校されたばかりの熊本県立御船中学校に図画教師として赴任。まもなく富田園生と結婚、富田姓となる。
1949年(昭和24年)5月31日病没。(享年52)
主な展覧会
1991年(平成3年)「富田至誠と教え子展」開催(御船高校)
2002年(平成14年)第15回熊本県民文化祭「富田至誠と教え子展」開催(御船町スポーツセンター)
2009年(平成20年)「富田教室二十七年の軌跡展」開催(御船町カルチャーセンター)
2009年(平成20年)舞台劇「踏み石」富田至誠と教え子達のきずな…制作上演(御船町カルチャーセンター)
主な教え子
井手宣通(東京美術学校卒・日本芸術院会員・文化功労者・日展理事長・勲二等瑞宝章受章)
村上賢秀(東京高等師範学校図画手工専科、現筑波大学芸術学群卒・サロン・ドートンヌ会員・紺綬褒章受章・勲三等瑞宝章受章)
坂田憲雄(日展会員・紺綬褒章2度受章・熊本県文化功労者)
緒方たけ志(東京高等工芸学校工芸図案科、現千葉大学工学部デザイン工学科卒・日本宣伝美術協会創立メンバー)
佐久間修(東京美術学校卒・宇土中学校、現熊本県立宇土高等学校図画教諭)
浜田知明(東京美術学校卒・フィレンツェ美術アカデミー名誉会員・フランス政府芸術文化勲章受章)
高木輝郎(東京美術学校卒・熊本県立矢部高等学校美術教諭)
田中憲一(熊本薬学専門学校、現熊本大学薬学部卒・中高美術教師・くまもとミフネ美術工芸倶楽部設立)

中村 鳳龍(nakamura houryu、なかむら・ほうりゅう、1960年 – )は、日本の画家。熊本県に在住。 独学で絵画制作を始め鮮やかな色使いと力強いタッチの作風である。

エピソード
中学時代、美術の教科書で初めてゴッホの作品を見て感銘を受け、ゴッホの影響で当時の美術の授業で制作する水彩画も力強いタッチの絵を描いている。 彼が中学生時代に描いた作品は学校関係の作品展等に複数回入選し表彰を受けている。
中学2年生の時、美大を卒業したばかりの女性教員が彼の美術の副担任となり、彼の作品を見て「油絵を学び将来洋画家にならないか」と強く勧められたが、当時の本人には全くその意志がないため断っている。
しかし、2001年に6時間以上に及ぶ大手術を経験し療養中に人生観の見直しをしながら中学時代の美術教員の一言を思い出し、絵を描くことは天命と感じ2002年に絵画制作を開始する。
尚、自身の作品の真の価値を認めて頂けるのは自身の作品のファンであるとの概念より、如何なるコンクールにも参加したことがない。
年譜
2005年
熊本県宇城市、不知火美術館にて『中村鳳龍油彩画展』を開催
熊本県宇城市松合ビジターセンター、作品寄贈
ヤマハ音楽教室(株式会社有明楽器)、作品寄贈
2006年
メガネの三城熊本本店、作品寄贈
2007年
熊本県立美術館分館にて『中村鳳龍絵画展』を開催
http://www.museum-cafe.com/exhibition?event_id=12561 https://www.youtube.com/watch?v=GCpncP7u328
NHK静岡放送局、作品寄贈
熊本中央信用金庫平田支店、作品寄贈
2008年
熊本県三角西港浦島屋(小泉八雲資料館)、作品寄贈
2009年
熊本総合ペット霊園ゆうみん社、作品寄贈
メガネの三城清水バイパス店、作品寄贈
静岡空港、作品寄贈
2012年
阿蘇複合施設「はな阿蘇美」作品寄贈 http://www.hanaasobi.info/
2014年
メガネの三城清水バイパス店にて『中村鳳龍絵画展』を開催
熊本県阿蘇市「阿蘇いこいの村」作品寄贈 http://www.aso-ikoi.jp/ https://www.youtube.com/watch?v=7OX4DOagAGU
その他、現在作品は公共施設、文化施設、企業オフィス、飲食店等多数の場所に収蔵・展示されている。

野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 – 1939年1月12日)は、洋画家。アメリカ合衆国生まれの日系人。

略歴
1908年(明治41年)、カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村(Agnew, 現・サンタクララ市)で、熊本県出身の日本人移民・野田英太郎とセキの二男(第二子長男?)として生まれる。英語名はベンジャミン・ノダ。当時、アグニューや近隣のアルビソなどサンノゼ郊外は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地だった。
3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国し、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加し、同校教授アーノルド・ブランチ(英語版)や国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究した。ここで知り合ったアメリカ人のルース・ケルツと同年に結婚し、ニューヨーク16th street のアパートで、貧しいながらもウォーカー・エバンスら若いアーチストらと交流しながら暮らした。共産党系の革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」に参加し、スコッツボロ事件(1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件)を題材にした作品「スコッツボロの少年たち」で注目され、美術賞受賞や美術展出品、壁画制作などが続いた。当時アメリカでは公共事業促進局の連邦美術計画により、壁画などのパブリックアートの発注が盛んだった。
1933年(昭和8年)には、アメリカ共産党と関係をもちながら、ニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手をつとめたが、翌年には再び来日、二科展に出品した。
一時アメリカに戻った後は、新制作派協会会員として活動したが、ルースと訪ねた黒姫で制作中に目の不調を訴え、翌年帝大病院で脳腫瘍のため早逝した。ルースはすでに帰国していたが日本の親族に看取られ、宇土郡不知火村永尾二本松(現・宇城市不知火町永尾)に埋葬された。版画家野田哲也は甥にあたる。
アメリカ共産党との関係
1948年にアメリカ国務長官のアルジャー・ヒスがソビエトのスパイであることを証言した元アメリカ共産党員のウィッテカー・チェンバーズは、1952年の著書『Witness』の中で実名を挙げて共産党員の諜報活動について暴露し、その中で野田英夫についても言及した。チェンバーズの伝記によると、東京でのスパイ活動支部作りをする地下工作員ドン(本名ジョン・シャーマン)の助手を探していたチェンバーズは、ロックフェラーセンターの壁画にスターリンを描いて騒動を起こしたディエゴ・リベラの助手をしていた野田に目をつけた。若く有望な画家であり、共産党員であり、日・英語に通じ、日本とも行き来がある野田は適任だった。また、(真偽は不明だか)野田は近衞文麿の親戚とも名乗っており、日本の大物と知り合いであることも理想的と思われた。チェンバーズは大学の級友だった左派系美術史家のメイヤー・シャピロを通じて野田と知り合い、快諾を得た。野田のコードネームは「ネッド」が使われた。結果として日本での支部作りは成功せず、野田の活用の場はなかったが、のちに野田の急死を知ったチェンバーズはスターリニストのエージェントに殺されたのだろうと語ったという。カルフォルニア美術学校時代からの野田の友人であり銀座の「コットンクラブ」の壁画も一緒に手掛けた寺田竹雄は、野田が日本へ戻ったのは情報収集が目的であり、野田から「使命をおびてやってきた」と打ち明けられていたという。
主な作品
風景 1932年(昭和7年) 水彩・紙 19.5×12.6
風景 1936年(昭和11年) 油彩・ボード 30.0×45.5
人物 制作年不詳 インク・紙 16.4×20.8
人物(市場の人々) 制作年不詳 水彩・紙 27.7×23.3
学園生活(ピードモント・ハイスクール壁画)1937年 フレスコ、油彩、テンペラ 274.0×272.0[1] – 熊本県立美術館へ当壁画を売却したビートモント高校はその収益で野田基金を設立した

野田 哲也(のだ てつや、1940年(昭和15年) 3月5日 – )は、日本の版画家。日本版画界を代表する版画家の1人。東京藝術大学名誉教授 。熊本県出身。写真を使ったシルクスクリーンと木版を組み合わせて自身の日常の断片を描いた日記シリーズによる作品で知られる。洋画家の野田英夫は、伯父にあたる。

略歴
1940年: 熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)に、校長の息子として生まれる。
1959年: 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻入学
1963年: 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻卒業
1965年: 東京藝術大学大学院絵画研究科油絵専攻修了 (在学中に小野忠重から木版を学ぶ)
1968年 : 作品として日記をつけはじめる。東京国際版画ビエンナーレ 大賞受賞
1971年6月: 駐日イスラエル大使Moshe Barturの娘であるドリット・バルトゥールと結婚
1978年: 東京藝術大学美術学部版画研究室講師、81年 同助教授、91年 同教授
この間、客員芸術家としてカナダ、アルバータ大学(’84)、オーストラリア、キャンベラ美術学校(’90)、アメリカ、コロンビア大学(’98)などで教える。
また、第5回英国国際版画ビエンナーレ(’76)、第10回ソウル国際版画ビエンナーレ(’96)、第2回中国現瀾国際版画双年展(’09)などで国際審査員を勤める。
2007年3月31日: 東京藝術大学美術学部版画研究室教授を退任
2010年 – 現在: 東京藝術大学名誉教授。
2010年12月 – 2011年1月: 文化庁文化交流使としてイスラエル、イギリスに派遣されロンドンメトロポリタン大学の公開講座などで日本の木版画を教える
パブリックコレクション
東京国立近代美術館/ 京都国立近代美術館 / 国立国際美術館 / 東京都現代美術館/ 和歌山県立近代美術館 / 三重県立美術館 / ニューヨーク近代美術館 / シカゴ美術館 / ボストン美術館  / サンフランシスコ美術館 / ロスアンゼルス郡立美術館 / 大英博物館
主な展覧会と受賞歴
1968年 – 第6回 東京国際版画ビエンナーレ 大賞受賞
1971年 – サンパウロビエンナーレ
1972年 – ベニスビエンナーレ(グラフィックインターナショナル部門)
1974年 – 第5回クラコウ国際版画ビエンナーレ ウッジ美術賞 受賞(クラコウ、ポーランド)
1976年 – 荒川修作、池田満寿夫、野田哲也展(シンシナティ美術館)
1977年 – リュブリアナ国際版画ビエンナーレ 大賞を受賞
機械化されたイメージ : 20世紀版画の歴史的展望(イギリスアートカウンシル主催イギリス巡回展)
1978年 – 第4回 ノルウェー国際版画ビエンナーレ 大賞を受賞
1980年 – 「刷られた芸術 : 20年間の展望」(ニューヨーク近代美術館)
1983年 – 「1900年以後の日本の版画」(大英博物館)
1986年 – 第10回 英国国際版画ビエンナーレ ブラッドフォード美術館・博物館友好賞受賞 (ブラッドフォード、英国)
1987年 – リュブリアナ国際版画ビエンナーレ 名誉大賞を受賞
1990年 – 「20世紀日本版画の革新と伝統」(アメリカ、シンシナテイ美術館)
1993年 – 山口源記念大賞を受賞
1995年 – 「現代美術の流れ」(東京都現代美術館)
1998年 – 「フォトイメージ : 60年代から90年代の版画」(ボストン美術館)
2002年 – 「未完の世紀 : 20世紀美術がのこすもの」(東京国立近代美術館)
「紙による現代美術作品 : 近年の買い上げ作品から」(サンフランシスコ美術館)
2003年 – 「MOTアニュアル : おだやかな日々」(東京都現代美術館)
紫綬褒章を受章
2004年 – 「ある人生の日々 : 野田哲也の芸術」(サンフランシスコ アジア美術館)[21]
2005年 – 「野田哲也版画の世界」(宇城市不知火美術館、熊本)
2006年 – 「現代の版画─写真の活用とイメージの変容」(東京国立近代美術館)
「野田哲也─日記」展(現代グラフィックアートセンター、郡山)
2007年 – 「野田哲也─日記」展 (東京芸術大学大学美術館)
2008年 – 「アジアとヨーロッパの肖像」(大阪、国立国際美術館)
2009年 – 「日本当代版画展 20世紀-21世紀へ」(中国、杭州 浙江省美術館)
2010年 – 観城 2010上海国際版画展(上海虹橋当代藝術館)
2012年 – 「野田哲也」展 (和歌山県立近代美術館)
2013年 – 春の名品コレクション展「野田哲也の版画」(熊本県立美術館)
2015年 – 春の叙勲で瑞宝中綬章受章。
主な作品
「日記」シリーズ
日々の生活の記録である日記をテーマとして、1968年から今日まで40年以上にわたり作品を制作。作品モチーフとなるのは、家族や知人の姿、子どもの成長、旅先で目にした風景といった日常の断片。目にとまったものを撮影し、その写真に鉛筆や筆などで手を加えた後、謄写ファックスにかけてできる孔版と、木版とを組み合わせることなどによって制作している。
『日記』を思い立った契機について「芸大時代、課題の裸婦を一生懸命に描いたが、なにか絵空事のようで、それではいけないという気がした」という。「決定的に版画で行こうと思ったのは、学部の科目でやっていた木版に加えて謄写ファクス製版機で写真を使い始めたころ」だ。 卒業4年後の1968年、写真と伝統的木版画の背景の大胆な組み合わせは、初出品の東京国際版画ビエンナーレで国際大賞を受賞。以後、すべての野田作品は無題で、代わりに「日記」という言葉と日付が記されている。
「日本美術 大英博物館所蔵主要作品」(1990年)には仏教美術から20世紀版画が紹介されているが、野田の3歳半の娘リカをテーマとする版画「日記 : 1978年6月24日」の説明には「野田の作品はすべて題名には日記の日付しかなく、そのほとんどが作者自身が写した写真を出発点としている。この意味で極めて個人的な作品である。それにもかかわらず野田は他の日本人よりも国際的に高い評価を得ている」と記されている。
技法
野田作品の技法は、木版と謄写版によるシルクスクリーン。木版は、水性絵の具を使う日本の伝統的技法をベースにしている。浮世絵の主版 = 黒の輪郭線の版 = をガリ版で、写真を使っている点は違うが、あとは色版を重ねて行く。浮世絵の摺りと同様に木版の背景が摺られ、つぎに色版が浮世絵同様に見当をつけて一点一点バレンでインクを浸透させて埼玉県の小川町産の和紙の上に重ね合わされて行く。ダニエル・ベルは「野田は初期教育から完全に浮世絵の伝統を念頭に置いている」と指摘している。
エピソード
ドリット夫人はイスラエル人。東京国際ビエンナーレ大賞で28歳の野田が一躍有名になった家族の肖像ー「日記 1968年8月22日」が作られたのは、野田が大学で小野忠重の助手をしていたころ。夫人の妹の陶芸研究室研究生が出入りしていたが、そのうち姉の後のドリット夫人が出入りするようになったという。大賞作品について夫人は「驚きましたが、光栄、自分がモチーフになっているということよりも、純粋に美術作品としてみていた」。
評価
ダニエル・ベルは、野田版画の独創性について「3点に要約される。見事なまでに一貫した主題、画面の組み立てと構成、そして意識的に浮世絵を範としながらも自分の創意を実現するために採用した斬新な技法」だと述べている。またサンフランシスコ美術館の専任キュレイター、ロバート・フリン・ジョンソンは「この時代の最も独創的で革新的、そして興味をそそられる日本の版画家」と記している。
脚注
出典
^ a b c 芸大教員アーカイヴ(名誉教授)
^ a b c  第6回 東京国際版画ビエンナーレ展
^ a b c d  美術館・アート情報Webマガジンartscapeの現代美術用語辞典 該当項目ページ
^ Japanese Woodblock Printmaking with Professor Tetsuya Noda 在英国日本国大使館 文化庁文化交流使時の催事紹介
^ a b c d Tetsuya NodaThe Japan Times, Oct 14, 2006
^ a b c d e f g [5]三重県立美術館 所蔵品一覧 野田哲也
^ [6] 東京藝術大学 退任記念 展覧会 野田哲也展:日記 2007年1月11日〜1月28日]
^ [7]文化庁「第8回文化庁文化交流使活動報告会開催」を報じたページ
^ [8]文化庁月報 平成23年6月号(No.513)
^ a b c [9]国立美術館 4国立美術館所蔵作品検索 野田哲也を指定検索で表示
^ [10]東京都現代美術館所蔵作品一覧検索結果
^ [11]和歌山県立近代美術館所蔵作品検索 野田 哲也を指定検索の結果表示
^ [12]ニューヨーク近代美術館所蔵作品検索 Tetsuya Nodaを指定検索の結果表示
^ [13]シカゴ美術館 所蔵作品検索 Noda Tetsuya を指定検索の結果表示
^ [14] ボストン美術館 所蔵作品検索 Noda Tetsuya を指定検索の結果表示
^ [15]サンフランシスコ美術館 コレクションサーチ Tetsuya Nodaを指定検索で表示
^ [16] ロスアンゼルス郡立美術館 所蔵作品検索 Tetsuya Noda を指定検索の結果表示
^ [17] 大英博物館所蔵作品リスト
^ [18]World Cat “Ikeda Masuo, Arakawa Shusaka, Noda Tetsuya : [brochure] an invitation to Japanese prints of the twentieth century from the Howard and Caroline Porter Collection, Cincinnati Art Museum, Decemter 7, 1975-February 29, 1976.”
^ [19]東京文化財研究所『日本美術年鑑』所載美術界年史(彙報)
^ [20]Art in Print Webサイト “Mokuhanga International”ページ
^ [21]熊本県立美術館 春の名品コレクション展 (【第3室】西洋美術と現代絵画)
^ a b c [22]視る : 京都国立近代美術館ニュース 第175号 1983(昭和57)年1月1日発行 河本信治(京都国立近代美術館 主任研究官)著 在所CiNii検索結果
^ [23] 和歌山県立近代美術館 なつやすみ特集 野田哲也
^ a b c 「版画芸術」阿部出版 134号 (2006年) 中林忠良「潜ませた批判と批評」等 ISBN 978-4-87242-234-4
^ [24] The British Museum Noda Tetsuya (野田哲也) Biographical details
^ [25] 野田哲也全作品 1964-1978 CiNi図書所蔵先リスト (ISBN 019520834X Japanese Art – Masterpieces in the British Museum (OXFORD刊)にも引用掲載あり)
^ a b c 「野田哲也論」野田哲也1992-2000画集Ⅲ 収録 ダニエル・ベル (Daniel Bell)による著述 フジテレビギャラリー刊
^ 「版画芸術」阿部出版 134号 (2006年) 中林忠良「潜ませた批判と批評」ドリット夫人が語る作家・野田哲也」 ISBN 978-4-87242-234-4
^ [26]Japanese Art Society of America (ex Ukiyo-e Society of America) UKIYO-E SOCIETY BULLETIN – Winter 2001
^ [27] Days in a Life : The Art of Tetsuya Noda by Robert Flynn JOHNSON ISBN 978-0-93911-722-2

浜田 知明(はまだ ちめい、1917年(大正6年)12月23日- )は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田は、棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。

来歴・人物
1917年(大正6年)、熊本県御船町に生まれた。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)で東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。飛び級で、16歳の歳東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けるが、戦時色濃いこの時代にあって、浜田は1939年(昭和14年)の同校卒業と同じに日本軍(熊本歩兵連隊)に入隊し、中国山西省方面で軍務についた。1943年(昭和18年)満期除隊するが、翌1944年(昭和19年)には再び入隊し、伊豆七島の新島で軍務についた。20歳代の大半を軍隊で過ごした、典型的な戦中派であった。戦地でもスケッチなどを残しているが、作家としての本格的なデビューは第二次大戦の終戦を待たねばならなかった。
第二次大戦後、浜田は郷里熊本に帰り、県立熊本商業学校の教員をしながら作品制作をしていたが、1948年(昭和23年)に東京へ出、自由美術家協会に所属して作品発表の機会をうかがっていた。浜田が注目を集めるのは1951年(昭和26年)の自由美術家協会展に出品した銅版画『初年兵哀歌』シリーズからである。浜田の代名詞ともなっているこのシリーズは1954年にかけて計15点が制作された。中でも1954年作の『初年兵哀歌(歩哨)』は高い評価を得、1956年のルガノ国際版画ビエンナーレで受賞している。
日本国内のみならず、1979年にはオーストリアのウィーン(アルベルティーナ版画素描館)とグラーツ(グラーツ州立近代美術館)、1993年にはロンドン(大英博物館日本ギャラリー)で回顧展を開催、2008年にはイタリアのウフィツィ美術館で日本人版画家として初めて展示、収蔵され、1965年フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員、1989年にはフランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章するなど、国際的にも活躍している。
浜田は「冷たく、暗い、金属的な感じ」を求めた結果、技法的には一貫してエッチング(腐食銅版画)を主体に作成し、アクアチント(松やにを防蝕剤に使った銅版画の一種)を併用することもある。核戦争のような人間社会の不条理や人間心理の暗部といった深刻なテーマを、ブラックユーモアにくるんで表現している。浜田は発表する作品を厳しく選別しており、発表する作品は平均して年間数点に過ぎない。また、初期の作品は大部分が本人によって破棄されたといわれている。1983年(昭和58年)からはブロンズ彫刻にも取り組み、新境地を見せている。

マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14日 – 1997年(平成9年)9月22日)は、日系ブラジル人の画家。日本生まれであるが後にブラジルに移住し、同国を中心に活動した。マナブ・マベ、間部 学とも表記される。

経歴
1924年(大正13年) – 熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)の宿屋を営む父・宗一と母・ハルの間に生まれる。
1934年(昭和9年) – 10歳の時、両親と共に「ラプラタ丸」でブラジルへ移民。リンス市ビリグイのコーヒー農園で働きながら育つ。
1945年(昭和20年) – コーヒー園が霜の為全滅したこともあり、仕事の合間に油絵具を使って厚紙や板きれに絵を描き始める。
1950年(昭和25年) – サンパウロ作家協会展に入選。徐々に注目を集める。
1951年(昭和26年) – ブラジルの国展に入選。同年新潟県出身のブラジル移民よしのと結婚。
1953年(昭和28年) – 画風が変わり、静物や人物をテーマにし、その物体の形をつよい線で描く画面構成となる。
1956年(昭和31年) – この年から約7年をかけて、間部曰く『非具象構成派』とする絵を描き続ける。
1957年(昭和32年) – 自らのコーヒー園を売却しサンパウロ市に移住。専業画家となるが生活は苦しく、ネクタイの染色や看板描きでしのいだという。
1959年(昭和34年) – 4月、「レイネル賞展」においてレイネル賞受賞。同年9月、第5回サンパウロ・ビエンナーレ展で国内最高賞を受賞。その10日後には「第1回パリ青年ビエンナーレ展」受賞。この2つの受賞がアメリカ・タイム誌に『MABE黄金の年』として取り上げられ、世界的な知名度を上げた。このことがきっかけで絵も売れ始めたという。
1960年(昭和35年) – 6月、「第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ」でフィアット賞を受賞。
1961年(昭和36年) – この年から1966年にかけて、ローマ、パリ、ワシントン、ヴェネツィア、ミラノの各都市を個展巡回。同年アルゼンチン・コルドバで開催された「南米ビエンナーレ」で絵画部1位入賞。
1979年(昭和54年) – 1月、故国の日本で開催された個展を終え、100点余の作品を積んだヴァリグ・ブラジル航空機が成田国際空港を離陸後に遭難(ヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故参照)。代表作の大半を失う。間部はその後14年かけて喪失した1点1点を描き直したという。
1993年(平成5年) – 12月、日本経済新聞に『私の履歴書』を連載。
1997年(平成9年) – 6月、東京で開催された個展を最期に、9月、サンパウロ市内の病院で内臓疾患手術後の合併症のため死去。
2008年(平成20年) – 6月、ブラジル移民100周年を記念して、サンパウロ市に「マナブ間部日伯近代美術館」が開館予定。
人物
画風は初期は具象画、後期は暖かな色調・筆の抽象画へと大きな画風の変遷がある。
間部の抽象画は「ブラジルのピカソ」とも呼ばれた[1]。
作品の多くは現在、生地の熊本県宇城市「不知火美術館」に所蔵されている。
子息のユーゴ・マベ(間部有剛)も画家として活動している。
アンティークマニアであり、アメジストの原石を所有していた。過去に日本のバラエティ番組でもその生活が紹介されている。
ボサノバをよく聴いた。
画集
神奈川県立近代美術館 編 『マナブ間部展:ブラジルの巨星=その熱い抒情』 読売新聞社、1978年
マナブ間部 『コーヒー園に雨が降る – マナブ間部自伝画文集』 日本経済新聞社、1994年、ISBN 453212252X
宇城市教育委員会編纂発行 『宇城市不知火美術館収蔵 マナブ間部作品集』 2009年

宮崎 静夫(みやざき しずお、1927年 – 2015年4月12日)は、日本の洋画家、作家。シベリアに抑留された体験を元にした作品などを描く。

来歴
1927年(昭和2年)、熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。1942年(昭和17年)下城尋常高等小学校を卒業した15歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し満州に渡る。1945年(昭和20年)、シベリアに抑留され 4年間俘虜として過ごす。1949年(昭和24年)、帰国[1]。
1957年(昭和32年)、熊本市の海老原美術研究所に入所し、海老原喜之助に師事する。1961年(昭和36年)、「ドラム缶のシリーズ」で、シェル美術賞佳作、熊日賞などを受賞する。1968年(昭和43年)より約1年間渡欧し遊学。1970年(昭和45年)より、戦争体験をもとにした「死者のために」シリーズを描き始める。
1998年(平成10年)、熊本県立美術館分館と島田美術館で回顧展を開催。2008年(平成20年)、熊本県芸術功労者として顕彰。2010年(平成22年)、第69回「西日本文化賞」を受賞する。作品は、熊本県立美術館、熊本市現代美術館、島田美術館、つなぎ美術館などに収蔵されている。
2015年(平成27年)4月12日、胃がんで死去した[2]。。87歳没。
主な著書[編集]
『宮崎静夫作品集』1998年、石風社
『絵を描く俘虜』1999年、石風社
『十五歳の義勇軍―満州・シベリアの七年』2010年、石風社
『軌跡―生きて描く八十年』2013年、熊本日日新聞社

宮崎 精一(みやざき せいいち。1912年11月24日 – 1996年1月7日 )は、日本の洋画家。
1912年(大正元年)、熊本県人吉市に父宮崎儀太郎の長男として生まれる。1930年(昭和5年)、日本美術学校に入学。1945年(昭和20年)、人吉市に居住していた海老原喜之助に師事した。強い色彩、シャープなフォルムの抽象絵画などを描く。熊本県美術協会や人吉球磨総合美展の創設等に関わり、熊本県の美術界に大きな影響を与えた。独立美術協会会員、1984年(昭和59年)、熊日賞受賞。1988年(昭和63年)、熊本県近代文化功労賞。1996年(平成8年) 、人吉市の病院で没。作品は熊本県立美術館などに収蔵されている。

年表
1912年 – 熊本県人吉市に生まれる。
1930年 – 日本美術学校入学。
1937年 – 第7回独立展入賞。
1940年 – 第17回白日展特選。
1944年 – 第14回独立展独立賞受賞。須田国太郎に師事。
1945年 – 人吉市に居住した海老原喜之助に師事。
1946年 – 坂本善三らと熊本県美術協会設立。
1948年 – 独立美術協会会員となる。
1954年 – 人吉球磨総合美展を創設。
1959年 – 渡欧。1年間。
1984年 – 熊日賞受賞。
1988年 – 熊本県近代文化功労賞。
1996年 – 人吉市で没。

森本 木羊子(もりもと もくようし、1898年 – 1992年)は、日本の版画家、仏画家。熊本県熊本市新鳥町(現在の熊本市新町4丁目)出身。日本板画院に所属。
略歴
1919年(大正8年)、大阪貿易学校英語科卒業し、上京。
浜村蔵六、野川鼎象に篆刻を、増原宗一に日本画を学ぶ。
1924年(大正13年)、貿易商に勤務。セイロン島コロンボ勤務。
ここでインド・セイロンの仏教美術に接し研究する
1935年(昭和10年)、大阪高島屋に入社。美術部、呉服部勤務
柳宗悦、河井寛次郎、棟方志功らと知己を得て、民芸運動に傾注する。
1953年(昭和28年)、高島屋退職。木版画を始める。
その後
日本工芸館で棟方と合同版画展。
湊川神社拝殿の天上画「白馬」、「天馬」を献納。
西大寺山門扁額「勝寶山」を彫刻し、献納。
「みんげい」で河井武一と「押出版画と陶芸展」を開催。
「堂島日本工芸館」「たくみ」「中宮画廊」「りーち」で個展開催。
毎年、東大寺二月堂、修二会の紙手を寄進した。

内田 新哉(うちだ しんや、1960年 – )は日本のイラストレーター。
熊本県出身。愛知教育大学美術科卒業。1988年、「詩とメルヘン」にてイラストレーターデビュー。水彩を用いた叙情的な風景画を得意とし、詩集の装画に起用されることが多い。麦わら帽子と自転車を好んで絵のモチーフとする。旅好きで、取材のために世界各国を回っている。

著作
画集
IMAGINE(サンリオ、1990年)
グッドラック(サンリオ、1991年)
サウスウインド(サンリオ、1992年)
きまぐれ南回帰線(河出書房新社、1993年)
カントリー・ロード(サンリオ、1997年)
野にいます(サンリオ、1998年)
USA・淡いみどりの記憶(サンリオ、1999年)
澄んだ瞳のおくに(河出書房新社、2000年)
雲と羊飼い(サンリオ、2001年)
小さな幸せ―アヴォンリーの丘から(サンリオ、2002年)
絵本の村から―カリジェとハイジの旅(愛育社、2003年)
イタリアの風(河出書房新社、2005年)
風のパレット―1996‐2006 Edition Works Out Of Watercolor(愛育社、2007年)
装画
詩画集 道の途中で(詩:青木景子、サンリオ、1989年)
ジャズメンとの約束(中山康樹著、河出書房新社、2002年)
イギリス式お金をかけず楽しく生きる!(井形慶子著、講談社、2002年)
サマータイム(佐藤多佳子著、新潮社、2003年)
ショートカット 平岡あみ詩集(サンリオ、2003年)
それから光がきた 新川和江詩集(水内喜久雄編、理論社、2004年)
おなじ星を見ていた―ギアリンクスの架ける虹(詩:黒木正人、岐阜新聞社、2005年)
Happyをさがして(岡村孝子著、産経新聞出版、2005年)
あした 高丸もと子詩集(理論社、2006年)
一編の詩がぼくにくれたやさしい時間(水内喜久雄著、PHP研究所)
中高生とよみたい 日本語を楽しむ100の詩(水内喜久雄編著、たんぽぽ出版)

大塚 真一郎(おおつか しんいちろう)は、熊本県出身のイラストレーター(ドッターとも名乗っている)。代表される作品はサモンナイト クラフトソード物語のキャラクターデザイン。そのほかライトノベルの挿絵などの仕事を行っている。またライトノベルの挿絵の名義はGASHINとなっている。
元株式会社コンパイル所属のグラフィッカー。

代表作
株式会社コンパイル
ワンダーワンダー(キャラクターデザイン)
その他
ゲームキャラクターデザイン
サモンナイト クラフトソード物語シリーズ(キャラクターデザイン)
アンチェインブレイズ レクス(ヘクトール)
CONCEPTION 俺の子供を産んでくれ!(キャラクターデザイン)
CONCEPTIONII 七星の導きとマズルの悪夢(キャラクターデザイン)
放課後ガールズトライブ(キャラクターデザイン)
小説挿絵
ダーク・バイオレッツシリーズ2巻~7巻(三上延著/電撃文庫)
ポストガールシリーズ(増子二郎著/電撃文庫)
おとぎ銃士 赤ずきん(霧海正悟著/コナミノベルス)※第2巻では吉成篤に変更。
オンライン!(雨蛙ミドリ著/角川つばさ文庫)
Re:ゼロから始める異世界生活シリーズ(長月達平著/MF文庫J)

Gユウスケ(ジーゆうすけ)は、株式会社Greenwoodに所属するイラストレーター・グラフィッカー・原画家。熊本県出身。『あっちょんぷりけ』という同人サークルで活動もしている。

略歴
大学卒業後に代々木アニメーション学院福岡校のCG科卒業。卒業後の2001年~2002年頃に株式会社light(グリーンウッド)にグラフィッカーとして入社、2003年2月発売の「ドキドキしすたぁパラダイス」などでチーフグラフィッカーを務める。代表作の一つとなる2007年12月発売の「Dies irae -Also sprach Zarathustra-」で原画家デビュー。以後はlightでは「タペストリー -you will meet yourself-」を除き、主に正田崇脚本作品の原画を務めている[1]。
影響を受けたイラストレーターとして田中久仁彦の名を挙げている。
主な仕事歴
ゲーム
Dies irae -Also sprach Zarathustra- (light、原画、キャラクターデザイン)
タペストリー -you will meet yourself- (light、原画、キャラクターデザイン)
Dies irae Also sprach Zarathustra -die Wiederkunft-(light、原画、キャラクターデザイン)
Dies irae 〜Acta est Fabula〜(light、原画、キャラクターデザイン)
神咒神威神楽 (light、原画、キャラクターデザイン)
Dies irae 〜Amantes amentes〜 (PSP版)(light、原画、キャラクターデザイン)
Dies irae 〜Amantes amentes〜 (PC版)(light、原画、キャラクターデザイン)
神咒神威神楽 曙之光 (PS Vita版) (light、原画、キャラクターデザイン)
相州戦神館學園 八命陣(light、原画、キャラクターデザイン)
相州戦神館學園 八命陣 天之刻 (PS Vita版)(light、原画、キャラクターデザイン)
相州戦神館學園 万仙陣(light、原画、キャラクターデザイン)
Dies irae ~Interview with Kaziklu Bey~(light、原画、キャラクターデザイン)

真珠子(しんじゅこ、1976年 – )は、熊本県天草郡苓北町出身の画家、イラストレーター、映像作家、美術家。

来歴
1976年 – 熊本県天草郡苓北町に生まれる。
1997年~2000年 – 熊本県立苓洋高等学校の美術科講師を務める。
1997年~2000年 – こども造形教室を主催。
2000年 – 上京。
2007年 – あや野と音楽ユニット「てンぬイ」を結成。
2008年 – アーティスト・イン・レジデンス in Amakusaの招聘作家として天草で陶芸作品に取り組む。
主な作品
2003年 – 宍戸留美のCD-ROM写真集「Ruminescence ルミネッセンス」ジャケット
2004年 – Gwen Stefaniのアルバム「Love. Angel. Music. Baby.」の歌詞カードのイラスト
2005年 – 橋口いくよ著「水平線の光の中、また逢えたら another 『亡国のイージス』 ジョンヒ 静かなる姫」(幻冬舎)カバーイラスト
2005年 – 橋口いくよ著「愛の種。」(幻冬舎)カバーイラスト
2005年 – イギリスのアート雑誌「Fused」にて作品、インタビュー掲載 (インタビュアー:Paul Heaton、高橋剛生)
2005年 – 大竹佑季のデビューミニアルバム「Greensleeves」収録の「Awakening」PV製作
2006年 – 熊本日日新聞にて、絵とエッセイ「おリボン練習帳」連載
2007年 – 文芸誌ダ・ヴィンチにて連載の橋口いくよ著「原宿ガール」挿絵
2007年 – 横浜EIZONE、NHK「デジタル・スタジアム」ブースの内装担当「真珠子的吾痕破麗夢図」
2008年 – 屋根裏監修「世界のサブカルチャー」にて作品、インタビュー掲載
2008年 – 香山リカ著「ポケットは80年代がいっぱい」ドローイング担当 (ブックデザイン:祖父江慎+佐藤亜沙美)
2008年 – 関西テレビ・フジテレビ『SMAP×SMAP』の15秒ブリッジアニメーション制作
2008年 – 天草大陶磁器展にて陶磁器「海母」出品
2008年 – 女子中学生限定グラビア誌Chu→Bohでアートページ「乙女たちのめるへん学級」担当 (撮影:増田賢一)
2008年 – 橋口いくよ著「原宿ガール」カバー、表紙、本文イラスト担当 (ブックデザイン:祖父江慎+cozfish)
2008年 – 渋谷のスクランブル交差点他5機のTVモニターにてアニメーション「うず犬」1ヶ月間放映
2008年 – 女子中学生限定グラビア誌Chu→Boh 27号でアートページ7ページ担当 (家具、服、イラスト、構成) (撮影:増田賢一)
2008年 – 女子小学生オンリーグラビア誌Sho→Boh 25号にてアートページ8ページ担当 (撮影:増田賢一)
2009年 – 宍戸留美の「井の頭にて」PV製作
主な個展
2004年 – 「やんちゃなおしおき秘宝館」展 (Lapnet Club、東京)
2006年 – 「Ready for Lady」 (熊本市現代美術館ギャラリーⅢ、熊本)
2007年 – 「姫すごろく『寵姫 花形姫』~私が姫じゃない理由って?~」 (Lapnet Ship、東京)
2010年 – 「おとめだち」 (カオリ座、東京)
主なグループ展[編集]
2005年 – 「2005 Nippon Koma」 (Pequeno Auditorio、リスボン)
2005年 – 「TOY2R EXPO」 (FEWMANY、東京)
2005年 – 「デジスタカフェ」 (J-POP CAFE 渋谷、東京)
2005年 – 「ニッポンコネクション・オン・ツアー」 (Festivalzentrum、フランクフルト市/Hungarian House of Photography、ブダペスト/在ベルギー日本国大使館広報文化センタ、ブリュッセル)
2005年 – 「第2回スーパークリエイターズ アリーナ(SCA2)」 (六本木ヒルズアリーナ、東京)
2005年 – 「第22回チョイス大賞展」 (ミツムラ・アート・プラザ、東京/ペーパーボイス(平和紙業)、大阪/セントラルアートギャラリー、名古屋)
2006年 – 「眼差しと好奇心」 (ミヅマ・アクション、東京)
2006年 – 「Melbourne Art Fair」 (ロイヤル・エキシビション・ビルディング、メルボルン)
2006年 – 「デジタルアートフェスティバル2006」 (トーキョーワンダーサイト渋谷、東京)
2007年 – 「感情の強盗展」 (BankART studio NYK、横浜)
2008年 – 「眼差しと好奇心」 (Soka Art Center、台北)
2008年 – 「ピクニックあるいは回遊」 (熊本市現代美術館、熊本)
2009年 – 「Le Japon Parano 2」 (Le Monte-en-l’air 、パリ)
2009年 – 「アリス百花幻想」 (Span Arl Gallery、東京)
2010年 – 「都に雨の降るごとく」 (Galle Marie、東京)
主な受賞歴
2004年 – 雑誌「Illustration」の「ザ・チョイス」2004年度賞入賞。
2004年 – NHK「デジタル・スタジアム」第191回田中秀幸セレクション受賞。
2004年 – NHK「デジタル・スタジアム」佐藤可士和セレクション入選。
2005年 – NHK「デジタル・スタジアム」丹下紘希セレクション入選。DVD「デジタルスタジアム~デジスタ・キャラクターズ みうらじゅんセレクション」 に作品収録。

鶴田 一郎(つるた いちろう、1954年4月13日 – )は日本のグラフィックデザイナー・画家。独特のタッチで描かれた日本女性の美人画で有名であり、かつてノエビアのCMで長く起用されたことでも知られる。近年は美人画のみならず、現代の鶴田流琳派をテーマに「雪」「月」「花」「海を渡る」などの大作にも挑んでいる。

略歴
1954年(昭和29年)4月13日 – 熊本県本渡市(現・天草市)本渡町広瀬で生まれる。
1972年(昭和47年) – 熊本県立天草高等学校卒業。
1976年(昭和51年) – 多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。
1984年(昭和59年) – アメリカで作品がアートポスターになる。
1985年(昭和60年) – 東京にて個展。
1987年(昭和62年) – ノエビア化粧品の広告に使用される。
1989年(平成元年) – 画集「テンプテーション」を出版。
1991年(平成3年) – 東芝「ジャズを聞きたくて」シリーズのCD ジャケットに使用される。
1993年(平成5年) – 画集「ICHIRO TSURUTA WORKS」を出版。
1995年(平成7年) – 大津・大津市歴史資料館にて原画展。
1996年(平成8年) – ハクビ総合学園の広告に使用される。
1997年(平成9年) – 版画作品集「鶴田一郎の世界」を出版。
1998年(平成10年) – 淡路島・ミュージアムパーク・アルファビアにて原画展。
1999年(平成11年) – TBS ドラマ「週末婚」のタイトルバックに使用される。
2000年(平成12年) – 版画作品集「鶴田一郎の世界Vo.2」を出版。
2001年(平成13年) – パリにて個展。
2002年(平成14年) – 東京・日本橋三越にて展示会。以降2006 年まで毎年開催される。
2003年(平成15年) – 福岡・アクロス福岡にて原画展。
2005年(平成17年) – ニューヨーク・アートエキスポに出展。以降2007年まで。
2006年(平成18年) – 上海アートフェアに出展。
2007年(平成19年) – 福岡三越ギャラリーにて「画業30年展」開催。
2007年(平成19年) – 久留米工業大学客員教授就任。
2008年(平成20年) – 熊本・天草ギャラリーつる田 新作原画展。
2008年(平成20年) – 京都・ギャラリーニュートロン 新「琳派」作品&新旧美人画の系譜展。
2008年(平成20年) – 広島・筆の里工房 新作原画展。
2009年(平成21年) – 京都・ジェイスピリット・ギャラリー 「花と美人画展」。
2010年(平成22年) – 京都駅ビル「The CUBE」広告に舞妓作品が使用される。以後2012年まで継続。
2010年(平成22年) – 京都・ちおん舎 「鶴田一郎展 -Breeze of Elegance-」。
2010年(平成22年) – 東京・銀座ギャラリーハウス「鶴田一郎展 -My Muse Forever-」。
2010年(平成22年) – 岡山・山陽新聞さん太ギャラリー「鶴田一郎 -花と美人画展-」。
2011年(平成23年) – 東京・青山アートフォーラム「鶴田一郎展 -My Muse Forever II-」。
2012年(平成24年) – 神戸・Gallery北野坂「鶴田一郎・美人画展」。
2012年(平成24年) – 熊本市現代美術館主催「アートパレード」審査員。
2012年(平成24年) – 博多阪急イベントホールにて「美人画30年の軌跡展」開催。
作品
天草四郎(天草切支丹館に展示)
ポスター
山鹿灯籠まつり(1989年から毎年使用)
天草ほんど夏まつり(1993年から毎年使用)
京都駅ビル「The CUBE」(2010年から2012年)
人吉お城まつり(2012年)
ラベル
遠野三山 女神の酒(2010年)

岩井 希久子(いわい きくこ、旧姓:高浜、1955年〈昭和30年〉 – )は、日本の絵画修復家、(有)IWAI ART保存修復研究所 代表取締役。

略歴
1955年(昭和30年) – 熊本県熊本市に生まれる。
熊本県立美術館建設準備室で父親が働いていた関係で、絵画修復家という職業を知る。
1974年(昭和49年) – 熊本県立第一高等学校 卒業
画家になる事を目指して東京芸術大学を受験するが2度失敗し短期大学を卒業する。
出版会社に就職したが絵画関係の仕事に就く事を志す。
22才の時、大学在学中から付き合っていた画家の岩井壽照と結婚する。
東京芸術大学 保存科学コースを聴講。
絵画保存研究所 勤務
1980年(昭和55年) – 夫と共にイギリスに渡り、以後4年半在住し絵画修復家になる事を決める。
ナショナル・ギャラリー (ロンドン)、大英博物館、ナショナルマリタイムミュージアムなどで修復技術を学ぶ。
日本帰国後にフリーランスの修復家となる。
1987年(昭和62年) – 有限会社岩井絵画修復(現・有限会社IWAI ART保存修復研究所)を設立する。
1993年(平成5年) – 小山敬三美術振興財団海外研修を受賞しアメリカ合衆国に渡る。
38才の時、双子を妊娠したが、そのうちの一人を流産する。
メトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリー (ワシントン)、ハーバード大学付属フォッグ美術館で研修を行う。
2002年(平成14年) – 山下清生誕80周年・修復プロジェクトで、清の8作品の修復を行う。
2006年(平成18年) – 東京芸術大学美術学部美術研究科にて講演 『モネ‐地中美術館に設置された『睡蓮』を巡って』
2008年(平成20年)11月1日 – 佐倉市立美術館にて講演 『甦る絵画-修復による未来への継承』
2009年(平成21年)1月25日 – 伊丹市立美術館にて講演 『絵に隠された秘密』
10月12日 – 熊本市現代美術館にて講演 『絵画修復、そして修復家とは?』
2010年(平成22年) – 長崎県美術館、山形美術館などで講演 『修復家が見た天才・山下清~絵に隠された秘密』
著書
モネ、ゴッホ、ピカソも治療した絵のお医者さん – 修復家・岩井希久子の仕事 (2013年6月、美術出版社)

黒木拝石(くろき はいせき、1886年10月‐1950年9月14日)は熊本県出身の書家。拝石は号で、本名は一二。
略歴
1886年、熊本県球磨郡水上村に生まれる。21歳で文官試験に合格し、以降8年間在官したが、1916年に官職を退き、大阪商船会社に入社した。
書は王羲之、虞世南などの南派の法帖を研究し、書風は「穏健にして漢字に宜しく假名に宜しく、二者の調和亦頗る妙を得てゐる」と評された。また墨池会を興し、雑誌「書学」、「国民習字講座」を発行するとともに、東方書道会審査員などにも就任、書道の普及、後進の育成に努め、門流からは小坂奇石、木村知石が出た(木村知石とは1924年に大阪商船で出会った)。
1950年、63歳で没した。

清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 – 2001年11月26日)は、日本の書道家。熊本で活躍した。「日本の書道会」を発足させ、会長を務めた。本名、清水 正隆。

年譜

1914年9月24日に熊本県飽託郡飽田村土河原(現:熊本市南区土河原町)に生まれた。
1934年 熊本師範(現熊本大学教育学部)卒業。
1940年 文部省教育検定試験合格。
1943年 熊本市の済々黌中学校 (現熊本県立済々黌高等学校)に奉職する。その後30年以上同校に在職した。
1944年 召集令状にて鹿児島の連隊に入隊した。
1945年 天草にて終戦を迎えた。
1950年 書家手島右卿に師事する。
1951年 熊本県書道教育会結成。第1回七夕展開催(現:日本の七夕展)11月全日本書道展開催。(現:日本の書道展)
1952年 独立書展の設立に参加。月刊書道紙(熊本県書道新聞)(現:日本の書道)発行。
1954年 独立書道会(現:独立書人団)の会員の推され、その後審査員となる。
1955年 熊本で大講習会を開催し、本件の書道教育の発展に努める。講師として手島右卿・豊道春海・上條信山・桑原喬林子らを招聘。
1958年 熊本県初の日本美術展入選。1963年まで、6回入選。
1959年 第1回書道愛好者展結成。(現在に至る)独立書展 頼山陽「天草洋に泊す」発表。
1963年 独立書道会(現:独立書人団)参事となる。教育功労賞を受ける。
1964年 検察審査会員。
1965年 高野山創設1150年を記念して「遊筆一生」を高野山に献納。
1970年 独立書人団 常議員となる。熊本県高等学校教育研究会書道部会理事長。熊本県高等学校芸術科振興会書道代表。
1971年 教科書検査調査委員。
1972年 熊本県書道教育会発足20周年記念選抜展 「神」を発表。
1973年 毎日書道展委嘱推挙を受ける。芸術教育振興法制推進協議会 熊本県代表。
1974年 独立書展審査員。
1978年 第1回中国訪問(書人団交流)。
1979年 第4回読売書展 「仙鶴一聲」発表。
1981年 独立書人団常務理事。第30回独立書展審査員。
1982年 読売書展審査員。第7回読売書展「鳳」を発表。
1983年 独立熊本書人大作展開催。読売新聞社の依頼で熊本を代表する分野の「手」を人物毎に25名読売新聞に発表。
1984年 毎日書道展審査会員。独立熊本書人大作展。
1985年 独立熊本書人大作展。 第1回天遊書道会選抜展。
1986年 第10回毎日女流書展記念韓国訪問。団長。第11回毎日女流書展運営委員、審査委員。毎日書道展審査任命。第1回個展「天山書作展」。
1987年 第1回毎日書道西部七人展。於北九州。第39回毎日書道展九州展実行委員長。
1988年 第2回中国訪問。(毎日書道展40周年記念日本現代処方芸術北京展。第2回毎日書道西部七人展。
1989年 第3回毎日書道西部七人展。於熊本。「日本の書道会」を発足する。
1990年 第4回毎日書道西部七人展。於長崎。
1991年 第15回記念毎日女流書展台湾書交流。団長。第5回毎日書道西部七人展。於福岡。
1992年 第6回毎日書道西部七人展。於大分。
1993年 第7回毎日書道西部七人展。於熊本。
1994年 第8回毎日書道西部七人展。於小倉。
1998年 毎日書道展九州展功労者表彰。
2001年11月26日 熊本市で没す。
天山の書について
清水天山の五男で手島右卿より直接指導を受けた清水隆治は清水天山の書を4期に分けている。第1期はしっかりとした土台を作った時期で、臨書修練の中心は草書十七帖(じゅうしちじょう)であった。この時期の基礎力養成が書家として大きな土台をつくった。第2期は、手島右卿に師事し、当時としては極めて難関の日本美術展に連続入選を果たしている。古典を土台としながら、多字数作を試行した時代で、男性的力強さで一貫している濃墨作がある。第3期は手島右卿が傑作を発表した時期に、その理念に共感して、一字作品を世に問うた。その後、毎日書道展との関わりがあり、2-3字、それに多字数作を発表している。長年の臨書体験と一字作を通しての空間性把握も手伝って見事なスケールと調和を生み出している。この時期が第4期である。

田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18日-2000年(平成12年)7月8日)は日本の書家。全日本書芸文化院名誉代表。本名は田上重利。

略歴
1908年(明治41年)4月18日、熊本県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業する。1933年(昭和8年)に田代秋鶴に師事し、書を始める。教職の傍ら、書学に励み、1938年(昭和13年)に文部省検定(文検習字科)に合格する。
共立女子専門学校、白百合女子大学で書道の指導にあたり、1950年(昭和25年)に日本書道美術院審査員、1951年(昭和26年)に全日本書芸文化院副会長、1965年(昭和40年)に日本書道美術院理事、1971年(昭和46年)に全日本書芸文化院代表を歴任する。 1940年(昭和15年)に興亜書道展文部大臣賞を受賞する。
著書
『書体字典-和漢名筆』(大同出版社、1951)
『思ふことが自由に組み立てられるペン習字兼用女子手紙の書き方』(大同出版社、1951)
『三体ペン字と応用手紙文』(大同出版社、1953)

武田 双葉(たけだ そうよう、本名:武田 万里子)、は熊本県熊本市出身の書道家。TV等でパフォーマンス書道を行っていることで広く知られている。武田双雲・双鳳・双龍兄弟の母で、かつ師である。

書歴
18歳から本格的な書活動を開始。大字パフォーマンスでテレビなどに取り上げられ、現在に至る。
家族・親族
夫は競輪専門紙記者で小倉競輪場のキャスター武田圭二
長男は書道家の武田双雲
二男は書道家の武田双鳳
三男は書道家の武田双龍

武田 双雲(たけだ そううん、本名:武田 大智(たけだ だいち)、1975年6月9日 – )は、日本の書道家。熊本県熊本市出身。身長185cm。

経歴
熊本マリスト学園高等学校、東京理科大学理工学部情報科学科卒業。
東日本電信電話株式会社(NTT東日本)に営業マンとして2年半勤務。
書歴
元々書道の世界に行くことは全く考えていなかったためNTT東日本の営業部に就職。部内では字が上手いと評判だったが、ある女性社員の名前を代筆したところ、その筆跡を見た女性から「今までは自分の名前が嫌いだったけど、初めて自分の名前が好きになれた」と涙を流して感動され、それを機に翌日辞表を出して会社を退職、母・武田双葉の書道教室で1年間書を学び、その後ストリート書家としてスタート。路傍で道行く人の希望で即興で書くスタイルを披露、その後、墨を使った大字パフォーマンスでテレビなどに取り上げられ、NHKの大河ドラマのタイトル字などデザイン書の分野で注目される。
元来は左利きであり、書のときのみ右を使う。ただし左で書くことも可能。
家族・親族
父は小倉競輪場の予想屋武田圭二。
母は熊本の書道教室講師の武田双葉。
弟の武田双鳳、武田双龍も書道教室を開いている。
提供
NHK大河ドラマ「天地人」の題字
スーパーコンピューター「京」のロゴ
クリネックスティシュー至高シリーズ「羽衣」の羽衣の字
『劇場版 HUNTER×HUNTER -The LAST MISSION-』の手ぬぐいの題字
冨樫義博作品を『幽☆遊☆白書』時代から読んでおり、その縁で『劇場版 HUNTER×HUNTER -The LAST MISSION-』製作スタッフがコラボレージョン企画を持ちかけ、来場者先着50万名へ提供される手ぬぐいの題字を手がけた。
セガ(後のセガ・インタラクティブ)「戦国大戦」のロゴ及び武将カードの名前の字
JRA「第56回宝塚記念」ファン投票の題字

武田 双龍(たけだ そうりゅう、1984年 – )は熊本県熊本市出身の書道家。

経歴
3歳で書道を母に習い始め、9歳で全国書道展最高賞を受賞。
熊本マリスト学園高等学校、熊本県立大学卒業
人物
本人の弁によると子供の頃は母より厳しく教えられていたこともあり、書道はあまり好きではなかったという。中学・高校の頃もほとんど筆を持ったことはなかったが、将来の道を模索していた時に母の書道教室で生徒が楽しく筆を動かしているのを見ていたのがきっかけで書道家を目指す。それからは書道が楽しくなったと本人は語る。
書道をやっていてよかったと思う瞬間は、自分の書をプレゼントするときだという。結婚や出産、慶弔時にお祝いや励ましの書を送った相手が喜んでもらえることで自分の心が伝わったときが一番うれしいとのことである。
家族・親族
父は競輪専門紙記者で小倉競輪場のキャスター・武田圭二
母は書道家の武田双葉
兄は書道家の武田双雲、武田双鳳

清水 真理(しみず まり)は、日本の人形作家である。主に球体関節人形を制作する。映像制作も行っている。主な作品集に『Miracle~奇跡~』など。

略歴
熊本県天草出身。幼少のころからヨーロッパのアンティークドールに興味を示す。高校生のときにアンドレイ・タルコフスキーの作品を見て映像制作の道に進むことを決意する。多摩美術大学美術学部二部芸術学科映像コース卒業。在学中より人形アニメーションのための人形制作を独学で行う。人形作家として認知される前は映像作家として知られており、ドイツのオーバーハウゼン国際短編映画祭などでの上映経験をもつ。映像作家としての作品に『空境線にて』『レーベンスボルン Rebensborn』(12min.)、『月世界旅行』(1995年、2min.)、『Inter-pheromone』(1996年、14min.)、『マリーゴールド』(12min.)、『Who doesn’t know what my name』(4min.)などがある。映像作家としての活動のかたわら人形制作を続け、2000年にバンド“MUCC”のCDジャケットに人形写真が使用される。2001年に人形教室「アトリエ果樹園」を練馬区大泉学園に設立。以降、個展やグループ展、イベントなどへの作品出展を重ね、人形作品の発表を続ける。2010年、松岡正剛プロデュースの書店「松丸本舗」(丸善 丸の内店 4階)に人形を提供。店頭のディスプレイを飾る。2011年より、北イタリア・ブレシアで毎春開催される親日イベント「Il Giappone nel chiostro」に参加。人形制作を開始してから20年の節目にあたる2013年、東京・ギャラリー新宿座で20周年記念展を開催。過去作品や作品のエスキース、写真資料を展示した。2013年冬、ファッションブランド「ペイ* デ* フェ」とのコラボレーションワンピースを発表。現在も個展、グループ展を主として人形作品を発表している。2015年ロス、ハイブラリーで3/15~4/3まで個展「滅び行くものの美学」を開催。
主な展覧会
2002年
12月 個展「クリスマス・ゴシック」(ARTBOXギャラリー、銀座)
2003年
5月 個展「清水真理 小個展」(新宿ライカエジソン、新宿)
2005年
11月 個展「Melancholia」(Platform Studio、銀座)
9月 個展「清水真理 exhibition」(Luft schloss、新宿)
2006年
11月 個展「Fairy Tail」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
2008年
7月 個展「ノスタルジア」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
9月 個展「聖書と木馬」(青木画廊3階Luft、銀座)
2009年
1月 個展「Victorian Nightmare Garden ~もう一つのアリス~」(parabolica-bis、浅草橋)
7月 個展「Blue Monday」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
2010年
2月 個展「片足のマリア~Strange Angels Garden~」(parabolica-bis、浅草橋)
7月 個展「Secret Garden 」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
2011年
3月 個展「奇妙な動物園」(ペイ*デ*フェ、中野)
7月 個展「NIRVANA~涅槃~」(parabolica-bis、浅草橋)
7月 個展「花物語」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
2012年
6月 個展「Metamorphose-変容- ~傷みが悦びに変わるとき~」(ヴァニラ画廊、銀座)
10月 個展「Primavera〜プリマヴェーラ〜」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
11月 個展「Epiphany~礼賛~」(乙画廊、大阪)
12月 個展「えすぺらんさ~希望~」(MeiPAM、小豆島)
2013年
3月 清水真理20周年記念個展1993~2013「St.Freaks ~聖なる異形~」(新宿・新宿座)
9月 個展「Memories~思い出の少女たち~」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
11月 個展「Labyrinthos~迷宮~」((乙画廊、大阪)
2014年
1月 個展「ポップ・シュルレアリスム宣言」(ヴァニラ画廊、銀座)
4月 清水真理×向川貴晃 二人展「吸血鬼幻想」(銀座・スパンアートギャラリー)
6月 個展「驚異の小宇宙 vol.1 ルドルフの本棚」(JUDITH ARTS & ANTIQUES、代官山)
9月 個展「INNOCENT」(銀座人形館Angel Dolls、銀座)
9月 清水真理×泥方陽菜×林美登利 三人展「エレゲイア」(銀座・ヴァニラ画廊)
主な出版物[編集]
Wonder Doll(ART BOX、2002年)
双子の国のアリス(新風舎文庫、2003年)
Alice(新風舎文庫、2004年)
Miracle~奇跡~(アトリエサード、2012年6月)
作品の使用されたメディア
テレビ
2011年6月24日『新日本風土記』人形特集(NHK BSプレミアム)
2012年『赤い糸の女』(東海テレビ)-人形使用。
2013年『カラマーゾフの兄弟』(フジテレビ)-人形使用。
雑誌掲載
2002年『ゴシック&ロリータバイブルvol.4』(インデックスコミュニケーションズ)
2004年『yaso夜想#ドール』(ステュディオ・パラボリカ)
2009年『yaso夜想#モンスター&フリークス』(ステュディオ・パラボリカ)
2006年『TH No.27 奴隷の詩学~マゾヒズムからメイド喫茶まで』(アトリエサード)
2008年『TH No.35 変性男子~HENSEI☆DANSHI』(アトリエサード)
2010年『TH No.41 トラウマティック・エロティクス』(アトリエサード)
2011年『TH No.47 人間モドキ~半分人間の解剖学』(アトリエサード)
2012年『TH No.50 オブジェとしてのカラダ~トルソと手と脚と頭と…』(アトリエサード)
2012年『TH No.51 魔術的イマジネーション~超自然への幻想』(アトリエサード)
2012年『TH No.52 コドモのココロ~危ういイノセンス』(アトリエサード)
2013年『TH No.53 理想郷と地獄の空想学~涅槃幻想の彼方へ』(アトリエサード)
2008年『瞳 17号 球体関節人形の群像2 ~ かたるまなざし ~』(マリア書房)
2009年『Alamode Magazine Vol.03』(アーティズム出版)
2009年『Japanese Goth』(Universe)
映画
2006年「ホッテントットエプロン・スケッチ」(監督/七里圭)-人形使用。
2009年「アリスが落ちた穴の中」(監督/寺嶋真里)-人形使用。
2015年「アリス・イン・ドリームランド」(監督/蜂須賀健太郎)
舞台
2007年 虚飾集団廻天百眼 公演「赤闇少女 ~私と私の人形劇~」-人形使用。
2009年 虚飾集団廻天百眼 公演「鬼姫」-人形使用。
2011年 虚飾集団廻天百眼 公演「少女椿」-人形使用。
書籍表紙
2010年青柳いづみこ著『水のまなざし』文藝春秋
CDジャケット
1999年 ムック「アンティーク」、
2000年 ムック「娼婦/廃」
2001年 ムック「痛絶」
その他
2004年 ザ・13ドアーズ夏季限定イベント「呪いの人形」-人形制作
2010年 丸善丸の内本店「松丸本舗」-店
2014年 東高円寺の「ブルーキャスケット」に新作を展示中」
参考文献
樋口ヒロユキ(2007年)『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』冬弓舎
2008年『TH No.35 変性男子~HENSEI☆DANSHI』(アトリエサード)
2009年『yaso夜想#モンスター&フリークス』(ステュディオ・パラボリカ)
“人形作家 清水真理 公式サイト”. 2014年9月24日閲覧。

播正 ますみ(ばんしょう ますみ 1958年10月2日 – )は、熊本県天草市出身の人形作家。繊細かつ優雅な紙粘土人形を中心に、創作人形からアンティーク人形まで幅広く展開。アンティーク人形の本場、ヨーロッパのドールコンテストで、最優秀賞を獲得するなど数々の輝かしい経歴を持つ。

経歴
1958年 熊本県天草市生まれ
1988年 粘土工芸を始める
1989年 フラワーアレンジメントを始める
1993年 NHK熊本文化スクール講師(粘土工芸)
1994年 ブリティッシュポーセレンアーティスト免許取得
1996年 香港(中国・シンセン)でシルクフラワーデザイナーとしてアーティフィシャルフラワー製作指導
1997年 ワインアドバイザー取得、紅茶アドバイザー取得、MASUMI.art免許制度確立、天草国際ホテルでMASUMI.artフラワーデザインデモンストレーションショー開催
1998年 オランダフローレンスカレッジC・E・F免許取得、オランダ100年花を見直す世界花博覧会参加、オールスメール市場において日本代表としてデモンストレーションに参加、ベアトリクス女王に花束贈呈、「ジャパンカップフラワーデザイン」入選
1999年 『CLAY in MY Life』出版、日本貴金属粘土協会インストラクター・三菱マテリアル海外委員長としてイギリスにて指導
2001年 MASUMI.artオリジナル商品開発(粘土・ビスクドール・ドレスデンドレープレースドール)、『森の仲間たちNo.1,2,3』出版、『クリスマスの仲間たちNo.1,2』出版
2002年 西原村冬明かり製作指導、チャイナペイント シティ&ギルド取得、熊本日日新聞カルチャースクール講師・熊本文化和洋学院講師、『野菜の仲間たち』出版
2003年 益城町『働く婦人の家』カルチャー講師、熊本鶴屋百貨店にて『女の匠展』出展、『海の仲間たちNo.1,2』出版
2004年 『昆虫の仲間たち』出版、『うさぎのウエディング』出版
2005年 イギリスヘンリーで『世界人形コンクールプロ部門グランプリ』受賞、『動物の仲間たち』出版、『箱根園の仲間たち』出版、『CLAY in My Life VOL.2』出版
2006年 ドイツにて国際人形コンクール『フレンチ部門 ブルーリボン賞』受賞、『オリジナル部門 銀賞』受賞
2007年 イギリス インターナショナルドールフェスティバル『最優秀エミー賞』受賞、アメリカ(Nドールフェスティバル)『カテゴリー優勝』『特別賞』受賞
2008年 鶴屋百貨店にて播正ますみの世界個展開催、『熊本県文化懇話会新人賞』受賞、東京人形フェスティバル『カテゴリー優勝』
2009年 銀座にて「ますみアート教室展」開催
2011年 スペイン世界観光博「FITUR」日本ブースデモンストレーションに参加、イギリス インターナショナルドールフェスティバル『ブルーリボン賞』『特別賞』受賞、オーストラリア インターナショナルドールフェスティバル『ブルーリボン賞』『特別賞』受賞

松本 喜三郎(まつもと きさぶろう、1825年(文政8年) – 1891年(明治24年)4月30日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した日本の人形師。作品は生人形と称された。

経歴
肥後国(現・熊本県)の商家に生まれる。早くから様々な職人技を覚え、日用雑貨を用いて人物などを仕立てる「造りもの」を手がけた。20歳の頃生きた人と見まごう等身大の人形を作ったので「生人形」と呼ばれた。そのまるで生きてるようなリアリズムは、幼き日の高村光雲にも強い感動を与えた。
やがて数十体の人形にテーマ性を持たせて製作し展示するようになった。
作品
幕末の1854年(嘉永7年)以降、大坂(現在の大阪)難波新地に於いて「鎮西八郎島廻り」、江戸(現在の東京)にて「浮世見立四十八癖」他を見世物にし興行した。
維新後の1871年(明治4年)-1875年(明治8年)、「西国三十三所観音霊験記」を浅草の奥山で興行を行った。
この作品は西日本の各地を巡回し、後にお里沢市で有名な人形浄瑠璃「三拾三所花野山」(「壺坂」)の祖形となった。
このほか桐生八木節まつりの山車に用いられた「桐生祇園祭「四丁目鉾」生人形素盞嗚尊」(桐生市本町四丁目自治会蔵)、絶作の「本朝孝子伝」などがある。

安本 亀八(やすもと かめはち、文政9年(1826年) – 明治33年(1900年)12月8日)は、江戸時代末から明治にかけて活躍した日本の人形師。初代の安本亀八である。

略歴
熊本迎宝町、現在の熊本県熊本市出身。仏師の家系に生まれ、その道を志すが明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、人形細工師として身をたてる。その後、兄と共に上方へ出て初興行を行う。最大の出し物は、生身の人間の姿をそのままに造った、「生人形」であった。人形の造形は精緻で、まるで血が通い、生きているかのようなリアリティは多くの観客を呼び集め評判になった。江戸で興行した『忠臣蔵』などの演目は庶民に大人気を博した。
明治8年(1875年)には上海で興行を行い、海外へ進出。国内では、明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に等身大の美貌の生人形を出展、世間を驚かせ人気を集める。当時の日本では生人形師として松本喜三郎とはその技量と人気で双璧を争ったという。明治13年(1880年)、内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加。審査員をつとめる。明治31年(1898年)、初代・亀八改め亀翁に改名。長男の亀二郎が二世・亀八を襲名(長男は翌明治32年(1899年)に鹿児島で客死、三男が三世を急遽襲名)。明治33年(1900年)、初代の亀八は75歳で死去。文化人としての評価も高かった。墓は世田谷区烏山の高龍寺にある。
代表作
「相撲生人形」 熊本市現代美術館蔵 1890年(明治23年) 『日本書紀』にある野見宿禰と当麻蹴速の力比べに題材を取る。宿禰は7パーツ、蹴速は6パーツで構成され、立体パズルのように組み合わされている。重さは47kg。同年の第三回内国勧業博覧会に出品するつもりで制作したが期日に間に合わず、完成後に浅草寺の境内に飾った。これを見たアメリカの収集家・フレデリック・スターンが購入し、2年後デトロイト美術館に寄贈・収蔵されていたが、2005年(平成17年)熊本市が購入し、現在の収蔵先となった。

小代焼(しょうだいやき)は熊本県荒尾市、南関町、熊本市など県北部で焼かれる陶器。小岱焼とも表記し、いずれも正しい。寛永9年に豊前から転封された細川忠利が陶工の牝小路家初代源七、葛城家初代八左衛門を従え、藩主の命によって焼き物を焼かせたのが始まり。粗めの陶土に、茶褐色の鉄釉で覆い、その上に藁や笹の灰から採った白釉や黄色釉を、スポイトや柄杓を使って流し掛けする、大胆かつ奔放な風合いの食器で知られる。
明治維新後は有田や瀬戸といった磁器産地に押され廃窯となってしまったが、昭和になって近重治太郎、城島平次郎らの努力によって復興を遂げ、戦後は小岱山麓にいくつもの窯が築かれるようになる。2003年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定された。
様々な呼び名
小代焼は小岱焼とも呼ばれる。歴史的な呼び名は前者であるが、中興の祖の一人でもある城島氏が、荒尾の象徴でもある小岱山の「岱」の字を「代」から置き換えたため、今日では二通りの表記が通用する。
また、小代焼は五徳焼とも言われる。これは小代焼は腐らない、臭いが移らない、湿気を防ぐ、毒消しの効果がある、延命長寿につながると五つの利点が見られたことに因み、装飾性と実用性を兼ね揃えた生活什器であったことを窺わせる。

高田焼(こうだやき)は熊本県八代市で焼かれる陶器で、八代焼(やつしろやき)ともいう。焼き物には珍しい象嵌を施すところが特徴。

概要
文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い豊前小倉藩主・細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた。
寛永10年(1633年)、忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された。明治25年(1892年)、窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移した。
初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。
高田焼の特色
白土象嵌
高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる。

天草陶磁器(あまくさとうじき)は熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類の総称で、国の伝統的工芸品に指定された際に、新たに名付けられることになった呼び名である。内田皿山焼(うちださらやま)、高浜焼、水の平焼(みずのだいら-)、丸尾焼の四つが主な産地であり、良質の陶石が採れたことから焼き物作りが盛んになった。
産地の紹介
内田皿山焼
九州最古の磁器産地で、17世紀まで遡るといわれる。周辺には窯跡が多く、無数の陶器片が出土。その後は廃絶するが、昭和45年に復興。昭和56年には熊本県の伝統工芸品となった。青磁や白磁、染付などを焼く。
高浜焼
1762年の開窯で、地元高浜の庄屋、上田伝右衛門が肥前国から陶工を招いて、磁器を焼かせたのが始まり。質が良かったため、長崎奉行に目を留められ、オランダ向けの輸出品を中心に焼いた。その頃の代表作が絢爛な染錦手である。明治中期に廃窯、昭和27年に陶石販売を行っていた上田陶石合資会社が復興に漕ぎ着けた。白い器肌に呉須で彩られた意匠が特徴。キリシタン文化を意識したハイカラなデザインで知られる。
丸尾焼
江戸末期の開窯。生活にとけ込んだ民芸品を焼いた。今日では形に囚われない様々な陶器を焼いている。
水の平焼
明和2年の開窯。青黒い器肌が特色の海鼠釉を用いる陶器産地で、その元祖ともいわれる古窯。赤海鼠は代表的な釉薬である。

球磨陶器五窯江戸~明治初期
傳八顕元焼=瀬越焼<右田傳八、別名「一勝地焼」>
肥後国平山窯・肥前国大村領三俣皿山・肥前国唐津・薩摩国高崎加治 木竜門司窯・川原十左衛門種甫(陶号は芳工)などと関係あり  安永五年、右田傳八顕元が開窯
城下焼<右田傳八顕元のち榎本永助、別名「城本焼」>
寛政初、榎本永助は城本風呂坂上に窯築替
壺屋焼<鶴田氏、別名「上村焼」>
承応二年四月八日、(つぼや)金左衛門   宝永六年五月二十八日、つほや藤八  明和四年四月、壺屋儀右エ門  寛政三年断絶、四年に最所利助が相続(利助母は、右田傳八顕元の妹)
神瀬焼<不明、一説に秋山八郎、別名「高沢焼」>
田上焼<椎葉郡七、別名「湯前焼」>
天保四年三月、湯前椎葉郡七     明治初期~大正期
願成寺馬場壺屋<井上次六>
宇土陶磁器
網田焼

刃物(はもの、英語:bladed object)とは、刃という構造を持ち対象を切る(切断する、切削する)ための道具。または武器、刀など。物を加工したり、生き物を殺傷したりするための基礎的な道具。刃に安全に手に持つための取っ手をつけたものである。
現代的な刃物は、鉄やステンレス(鋼)などの金属(一部セラミック製のものもある)で作られているが、過去には青銅(青銅器時代)あるいは、石製の刃物が主に用いられていたこともある(石器時代)。
生産地としては、日本では岐阜県関市や福井県越前市、大阪府堺市、兵庫県三木市、高知県香美市、海外ではドイツのゾーリンゲンやイギリスのシェフィールドが有名である。刃物鋼の原産地は島根県安来市とスウェーデンが世界的に有名である。

道具としての刃物
包丁
ナイフ(カッターナイフ、サバイバルナイフ、ダイビングナイフなど)
小刀(こがたな、肥後守)
剃刀(かみそり)
はさみ(鋏)
メス
鉈(なた)


斧、手斧、鉞(まさかり)
彫刻刀
武器としての刃物


薙刀

匕首

戦斧
軍刀
銃剣

刀剣(とうけん)とは、握りと同じ位かそれより長い刃もしくは剣身を備えている武器の総称。一般的には剣は両刃のものを指し刀は片刃のものを指すが、これに限らないものも存在する。 詳細はそれぞれの項目を参照。

一般的な定義と日本の刀剣での差異
短刀などに存在する両刃造りは両方に刃が付いているが、左右対称ではなく鋒の部分で上に反っている形になっている。また小烏丸の鋒両刃造りも物打ほどまで両方に刃が付いているが、それ以降片刃になっている。このような場合、一般的な定義だと剣に属してしまうが、双方ともに刀として造られたものであり、上記の定義には合わないが刀として分類されている。
主な刀剣の種類
ナイフ:短剣・短刀
剣:主に両刃のものを示す
刀:主に片刃のものを示し、日本で作られた刀を特に日本刀と呼ぶ
銃剣(バヨネット)

鋸(のこぎり、のこ)とは、一枚の鋼板の側面に多くの刃(歯・目)をつけた工具である。

指物(さしもの)
板を差し合わせて作くられた家具や器具の総称、またはその技法。本項で詳述。
髪にさす装身具(髪飾り)の総称。簪(かんざし)・櫛(くし)を参照。
戦国時代以降の武士が、自身の存在・所属・職階などを示すために指している旗や飾り。腰に差すものを「腰指(こしざし)」と呼ぶが、一般的には、戦国時代後半に定着した背中に指すものを言う。旗指物(はたさしもの)。

肥後象眼
刃物
刀剣

肥後鐔
馬蹄鉄
人吉・球磨家具

挽物
指物
ひのかわ民芸家具
木の根工芸
欄間彫刻
曲物
竹篭
肥後三郎弓
尺八
鳥かご
小代焼
高田焼
水の平焼
丸尾焼
一勝地焼
高浜焼
広山焼
内田皿山焼
松橋焼
五月節句のぼり
組紐
宮地手漉和紙
山鹿灯籠
来民うちわ
きじ馬・花手箱・羽子板
肥後てまり
何番てまり
さくらてまり
肥後まり
肥後こま
彦一こま
おばけの金太
天草バラモン凧
木葉猿
とうきび人形
張子細工
くまもと一刀彫
お金女人形・板角力人形
獅子頭
うそ
花ござ
手織り花ござ
出田みの
かずら・ヘゴ細工
三弦の駒・撥
太鼓
杏浮木
鮫皮漆塗細工
屋根飾瓦細工
屏風・表具・扁額

新着記事

店舗案内

新原美術 しんはらびじゅつ

OPEN/CLOSE 9:00~18:00(年中無休)
TEL 0766-22-7303 / FAX 0766-30-8048
〒933-0932 富山県高岡市鴨島町40番地1
富山県公安委員会 501230008404号

──

──

富山・石川・福井全域で無料鑑定を承ります。

画像による簡易鑑定で、

すぐにおおよその額を知っていただくことも可能です。

出張鑑定、持ち込み鑑定、宅配鑑定をご利用の際は、

事前にお問い合わせフォームまたは、お電話より

鑑定予約のお申し込みを行って下さい。

販売店舗紹介

新原美術 富山高岡本店

大正12年創業
安心と信頼の実績 買取と販売 両方に力を入れています。

富山県高岡市鴨島町40−1

営業時間 9:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-22-7303

新原美術 展示場(antique shop 樹)

新原美術本店近くにあった旧松本建具の物件を買取改装して2019年にopen致しました。

伊万里焼や大聖寺伊万里を中心に1000点以上を展示しています。

買取も行なっています。

富山県高岡市鴨島町52

営業時間 12:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-73-2171

新原美術 東京店

2022年1月にopen致しました。

都内では珍しい大聖寺伊万里を中心に北陸の器を取り揃えています。

東京都台東区台東3-33-5 宝誠ビル1階

営業時間 10:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 03-6284-4649