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濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 – 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家。
経歴
神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。1916年(大正5年)同校を卒業後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの知遇を得る。
1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。1923年(大正12年)にはロンドンで個展を開催、成功する。1924年(大正13年)帰国、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。
殆ど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、1955年(昭和30年)2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定。また1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には文化勲章を受章する。
柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年(昭和36年)の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任する。また1977年(昭和52年)には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。
1978年(昭和53年)益子にて没。享年83。墓所は川崎市の宗隆寺。
矢部 良明(やべ よしあき、1943年 – )は、日本の陶磁器・茶道史研究家。
神奈川県生まれ。東北大学文学部美術史学科卒。東京国立博物館に入り、工芸課長を経て、現在、人間国宝美術館館長。
2011年に、裏千家から第9回茶道文化賞を受賞した。
著書
『中国陶磁の八千年 乱世の峻厳美・泰平の優美』 平凡社、1992年3月
『日本やきもの史入門』 新潮社、1992年9月
『日本陶磁の一万二千年 渡来の技 独創の美』 平凡社、1994年1月
『千利休の創意 冷・凍・寂・枯からの飛躍』 角川書店 1995年12月
『茶の湯とやきもの』 角川書店、1997年9月
『古田織部 桃山文化を演出する』 角川書店、1999年7月
『武野紹鷗 茶の湯と生涯』淡交社、2002年11月
『茶人豊臣秀吉』 角川書店、2002年10月
『茶の湯の祖、珠光』 角川書店、2004年4月
『武将茶人、上田宗箇: 桃山茶の湯の逸材』 角川学芸出版、2006年12月
『すぐわかる茶の湯の懐石道具』 東京美術、2009年2月
『日本のやきもの鑑定入門』 東京美術、2010年8月
『エピソードで綴る茶入物語 歴史・分類と美学』 宮帯出版社、2011年12月
『エピソードで綴る戦国武将茶の湯物語』 宮帯出版社、2014年1月
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 – 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型。 1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流(ただし合流はしていない)した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した。
経歴
少年時代
太郎は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。
父・一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。放蕩三昧の生き方をひと頃していた一平は容認せざるを得なかった。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。
家庭環境の為か、太郎は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。慶應義塾幼稚舎で太郎の理解者となる教師、位上清に出会う。クラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年太郎は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。
絵が好きで幼少よりさかんに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。
滞仏生活とピカソの衝撃[編集]
父・一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。太郎は以後約10年間をここで過ごすことになる。
フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の中学校に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学ソルボンヌ校においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。パリ滞在の後半となる1938年頃から、太郎は「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、マルセル・モースのもとで絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。
1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に太郎の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。
同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て、太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。
1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。
1932年から1940年までの住所が確認され、川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎と潜在的イメージ』展図録において佐々木秀憲によって論文「岡本太郎と潜在的イメージ」の中で発表された。1932‐33年がサン=アマン通り31番地(31 rue Saint-Amand)、1934‐35年がイボリット・マンドロン通り29番地(29 rue Hippolyte Maindron)、そして1936‐40年がエルネスト・クレッソン通り18番地(18 rue Ernest Cresson)であった。
岡本と親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私に亘る相方であった報道写真家ゲルダ・タローに岡本の名前が1936年よりビジネスネームとして引用された。しかしゲルダ・タローの活動期間は、とても短く1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、この戦場の混乱で発生した自動車事故で重傷を負い、この怪我が原因で死去した。
兵役と戦後
1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。
1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役であった太郎は召集され帝国陸軍の兵士として中国戦線へ出征。アメリカやイギリスのような大国を相手にしたこの戦争は負けると信じており、上官から「日本は勝てるか?」と訊ねられると、婉曲的に「勝てません」と答えている。太郎は(20歳当時の徴兵検査時に甲種合格し現役兵として)軍隊に入営(入隊)した経験が無い未熟な補充兵(補充兵役)であり、階級は最下級の陸軍二等兵から始まっている。また兵としては高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと岡本は著書で回想している。一方、1942年、依頼に応じて師団長の肖像画をアカデミックな技法で描いているが、その制作中の写真からは、意外にも一般の兵士よりも従軍中も比較的優遇されていた様子がうかがわれる。
1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争(第二次世界大戦)は終結。太郎は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保(現ハウステンボスの場所)に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は太郎の油彩画《夜》から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、太郎が逝去するまで献身的に支え続けた。
1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったといわれている。おなじように沖縄や東北の古い文化や伝統を再発見し広く紹介した。
もっとも、岡本による「縄文土器論」は、1951年11月1日発刊・発売の『芸術新潮』に掲載されている児童文学者の北畠八穂による記事「わびしい村―亀ヶ岡族の藝術―」と論旨展開が似ており、縄文土器を芸術作品としての視点で捉えている点や縄文土器とシャーマニズムとを結び付けて考察している点など、その近似性が繰り返し指摘されている。『芸術新潮』の常連執筆者の一人でもあった岡本が、同誌同号を発刊後間もなく読み、触発されて東博を訪問し自身の「縄文土器論」を執筆した可能性が高いことも考察されなければならない。
岡本太郎の縄文土器論の着想を、ジョルジュ・バタイユが主宰した雑誌『ドキュマン』に掲載された中谷治宇二郎による縄文土器に関する紹介記事(1930年)に求めるものがあるが、岡本が初めて縄文土器論を執筆した1952年から遡ること四半世紀の時間の隔たりがあることから、岡本が縄文土器論を展開し始める直接的な動機の説明としては無理があると考えられる。そもそも、岡本が当該記事を読んだことを論証する客観的証拠はどこにも存在しない。
1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学1年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、古くさい従来の芸術観を攻撃し、ベストセラーになった。同書において、岡本は「芸術」という言葉は、明治時代になって日本にもたらされた概念であると述べているが、この部分は明らかな錯誤である。諸橋大漢和によれば、「芸術」は、すでに漢時代に存在しており、諸芸術の総称として用いられている。また日本でも「芸術」は平安時代の日記文学に頻繁に登場し、今日の「絵画」とほぼ同義であった(『辻惟雄集 第1巻』2013岩波書店による)。
太陽の塔
太陽の塔
詳細は「太陽の塔」を参照
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサーを岡本太郎に依頼した。太郎は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。そうして出来上がったのが総高70mの《太陽の塔》である。
1967年、テーマ展示プロデューサに就任後の最初の公式記者発表において岡本太郎は、高さ60mの「(仮称)生命の木」を作ることを発表しており、《太陽の塔》が樹木をモチーフとして造形されていることが判る。このことを裏付けるように、1967年10月26日撮影の原型制作中の岡本の記録写真(吉田優撮影)には、太陽の塔の原型に生命の木の枝と葉が下書きされている。そして左右に刻まれている2本の赤いジグザグは、1950年頃以降、岡本が愛読したミルチャ・エリアーデの著作に記されている「シャーマンの木」の7つないし9つの刻み目(notch)から着想を得ていることが指摘されている。また、内部を過去・現在・未来の三層構造とする着想なども、エリアーデの著作からの影響が指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会)。
日本万国博覧会は成功のもとに終了。1975年(昭和50年)、《太陽の塔》は永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。
茶の間の人気者として
岡本太郎は、テレビ放送草創期の1950年代から、当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。
1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙の立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、 「芸術は爆発だ」「何だ、これは」と叫びながら現れる演出が人気を博すと、流行語にもなった。番組内で出演した子供たちの絵を批評、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。またこの番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。
1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。
没後
南青山にある岡本太郎記念館
太郎は老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。
1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮するため、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には太郎の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。
1998年(平成10年)、青山の太郎の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。
1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区枡形の生田緑地内に所在)。
2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた大作《明日の神話》が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、岡本太郎再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、広く一般に公開されたパブリックアートととして新たな名所となった。
2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催された。この展覧会を区切りとして、岡本太郎研究は、堰を切ったかのように、次なる段階へと進展した。
2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の岡本太郎の創作活動に世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が多大なる影響を与えていたことが、学術的に確認された。同展では岡本太郎の創作活動をイコノロジー(図像解釈学)研究の観点から再構成する画期的内容が展開され、各方面からの注目を集めた。
2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。同展は、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成された内容であり、岡本太郎芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。従来、日本人の美術評論家等により岡本太郎は独自の創作活動を展開した孤高な作家とされてきたのに対し、同展では岡本の個人様式が西洋近現代美術の諸様式に追従するように展開していることを検証した。岡本太郎の造形作品を美術様式論として紹介した意欲的な展覧会であり、岡本太郎の創作活動を論じるには日本美術史の観点からのみでは無理があることを実証した。また、パリ時代の岡本の住所が判明し同展図録で紹介された。さらに、アヴァンギャルド芸術研究を専門とする美術史家グラディス・ファーブル(Gladys Fabre)博士によるアプストラクシオン・クレアシオン協会に関する1976年の論文が初めて翻訳され同図録に掲載された。同展以降、ヨーロッパ、とくにスイス系の芸術家(アルプ、レジェ、セリグマン、ヴュリアミ―等)と岡本との交流に関する研究が不十分であったことが認識されるようになり、現在、研究者各位によって調査が進展しつつある。
一方、岡本はスイス系の芸術家との交流があったものの、1930年代後半の作風が、アルプやセリグマンやヴュリアミ―等とも全く異なっていることから、この時期、岡本はアルプ等の作風以外の要素も模索していた可能性を考慮すべきであることも指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。すなわち、アルプ等の作風はこの時期シュルレアリスム的な傾向性を次第に強くしていくが、岡本の場合、シュルレアリスムとも抽象主義とも言い切れない作風となっていく。ゆえに、1937年のパリ万国博覧会のために、パリ市内にナショナリズム的思潮が高揚し市内の各所にネオ・クラシシスム風のモニュメントが設置されていたこと、またパリに隣接するブーローニュ=ビアンクールを拠点とする芸術家たちによってエコール・ド・パリとは異なる作風の芸術活動が行われていたこと(同地の1930年代美術館は優れた展示活動を展開している)など、1930年代後半のパリ市内における芸術思潮の変遷が岡本にも及んで独自の画風を確立しつつあったことを考慮すべきであることが指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。1937年頃以降、岡本がアルプらによる展覧会に出品した記録は管見の限り見当たらない。このことは、岡本自身が自著の中で、この時期、絵が描けなくなりパリ大学に通ってマルセル・モースの下で民族学の研究に没頭したと述べていることと符合している。よって、岡本太郎がアルプ等スイス系芸術家との交流があったからと言って、1930年代後半の岡本の作風をシュルレアリスムに帰属させることができるほど単純では無いと考えられる。
人物
芸術観
Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年2月)
芸術一家に生まれ、少年期より既存概念にとらわれる事がなく育った岡本太郎、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には、徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。
東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科の入試対策として、川端画学校に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校であるアカデミー・ランソンに午前、グランド・ショーミエールに午後通い、極めてアカデミックな絵画技法の修得に努めている。この頃のアカデミックな鍛錬が、後年の長期にわたる岡本の造形作品制作を支え続けたのである。
岡本太郎の芸術観は、パリ滞在時代に参加した美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会に所属している間に醸成されたと考えるべきである(『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年)。
著書『今日の芸術』の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いている。
岡本太郎の代表的著作の一つである『美の呪力』は、ミルチャ・エリアーデ著『イメージとシンボル』と近似する部分が多いことが指摘されている。岡本はエリアーデによる同書フランス語初版を所持しており、多数のアンダーラインが施されていることが確認されている。今後、岡本の『美の呪力』とエリアーデの『イメージとシンボル』との比較研究が、宗教学の専門家によって為されることが期待される(『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年)。
岡本太郎が造形作品は無意味であり、作品に込められた意図や思想を解明することは無意味であるとする学識経験者もいるが、それは誤りであると考えられる。岡本は著書『私の現代芸術』(1963)において「私は絵画の訴えるのは単なる視覚、美感覚ではないと考える。(中略)ところが近代造形は意味、内容、思想を不純物のように否定してしまった。(中略)問題はそこにあると思う」(313頁)と述べている。
「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した事でも有名である。
一般的には岡本太郎はお笑いタレントにモノマネされたことなども影響してか、人物として正当に評価されてこなかった。もっとも、本人はそれを喜んでいた。岡本太郎没後、岡本敏子らの著作や岡本太郎記念館や川崎市岡本太郎美術館による啓蒙活動によって再評価されることとなり、芸術を志す者のみならず広く一般にも共感と影響を与えることになった。
自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えであった。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。渋谷駅の駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティという、渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなど設置場所としては不向きなところに展示される《明日の神話》も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになった。
恋愛観
プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌った太郎は、徹底したフェミニスト・ロマンティストである。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した。
また太郎は、生涯独身を通した。秘書であった岡本敏子を養女とする。太郎は多くの女性との恋愛を志向。これは母かの子の影響に起因するものと思われる(知ってるつもり!?の岡本太郎の回などではこのように触れている)。
スポーツ
じっとしている事が嫌いな太郎は、野球が好きで巨人の千葉茂や中西太らと野球を楽しんだ。
スキー愛好家としても知られ、親交があった三浦雄一郎から賞賛される程の腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむ程の高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。
「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」
また、太郎は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。
ピアノ
太郎は1930年代の滞欧時代からピアノに親しんでおり、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。太郎のピアノの腕前はプロ級と言われており、その演奏はほとんどが暗譜であったという。太郎がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、太郎が作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。
その他
ビフテキを調理中(1954年)
俳優の池部良は父方の従兄弟である。
身長156㎝とかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160cmであった)
それまで全く面識がなかった千葉茂に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が近鉄バファロー(後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックで、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした 。そして参加メダルの表側を手がけた(裏側のデザインは田中一光)。
1967年(昭和42年)1月、沖縄県・久高島に残る風葬を撮影した写真を発表し、タブーを犯したとして酷評される。もっとも、1966年12月のイザイホーを調査する為に久高島を訪問した多くの学識経験者は、現地の代表者に案内されて風葬の地を訪れ写真や映像を撮影している。岡本と同時に案内されたのは約10名であったという。これは、この当時すでに消滅しそうになっていた風葬の風習を記録に残してもらいたいとの現地代表者の善意から発したものであったという。この件で問題とされるのは、岡本の写真に、案内された風葬の奥の地の部分が撮影され、しかも棺桶の蓋が開いている写真があった為に、岡本が蓋を開けたのではないかと疑われたことによる。もっとも、風葬の奥の地の棺桶の蓋が開けられている写真や映像は、他の学識経験者たちも撮影している。この批判に対して岡本は、案内した現地代表者に迷惑が掛かることを気遣って沈黙を保ち続けた。近年も、風葬に関する岡本への批判を回顧する言説が、時々、述べられているが、「何が問題とされたのか」が曖昧であったり、そもそもの問題点を正確に把握していなかったりするものも少なからずあり、注意を要する。また、この件が原因となって自殺者が出たとか、精神を病んだ人がでたという噂は、全くの事実無根であることが確認されている(沖縄テレビ「岡本太郎が恋した沖縄」2012年)。
1970年(昭和45年)に開かれた大阪の万国博覧会のテーマ展示館で、太郎の代表作ともいわれる《太陽の塔》の形式は、ピカソとの関連性を主張する者もあったが、岡本太郎研究が進展した今日では、むしろジャン・アルプの系統とする見解が普通である。。《太陽の塔》の基本モチーフは樹木であることが判明している。
絵具に人工漆のカシューと和絵具の胡粉を用いた作品もある。特殊な事例ではない。
著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面の主なコーディネーターは、名編集者として知られた淡交社の臼井史朗であった。
作家の司馬遼太郎は、大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
ドイツ出身のフランスの写真家、ゲルダ・タロー(Gerda Taro)は、太郎の名の東洋的な響きに惹かれてタローを姓にした。
太郎は東京・日本堤にある老舗馬肉料理店「中江」の常連のひとりで、店主とも交友を持つほか、店主に「僕がフランスで食べた馬肉のタルタルステーキをこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられた逸話がある。
じっとしていられない性質で、TBSラジオ「久米宏の土曜ワイドラジオTOKYO」のインタビュー・コーナー「有名人のお宅訪問」に出演した際には、コマーシャルなどの待ち時間に耐えられず、いきなり、裸足で庭へ飛び出して「まだかあ」と叫んだり、2階へ駆けあがってピアノを弾いたり、かと思えばまた1階に戻ってソファに腰かけ、また庭に飛び出し、大きなオブジェをがんがん叩いたり、削ったりしていて、インタビュワーの吉川美代子はそのオーラを感じると共に、笑いを堪えるのに必死だったという。[14]
写真家の荒木経惟は、尊敬する人物に太郎の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。1999年(平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。2006年(平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
鳥取県米子市の野坂寛治元市長と親交があった。安田光昭(元米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』に、二人の交流についての記述がある。
《犬の植木鉢》は常滑の伊奈製陶で3体制作された。伊奈製陶で《犬の植木鉢》制作中の岡本太郎のスナップショットが残されており、そこに3体が写っている。3体の内、1体は岡本太郎記念館蔵、もう1体は川崎市岡本太郎美術館、そして3体目は個人蔵である。制作は、1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて行われ(スナップショット有)、1955年1月7日に焼き上がったので送る旨の連絡が伊奈製陶から岡本太郎にあった記録が確認されていることから、《犬の植木鉢》の制作年は1955年作とするのが妥当である。
近年、岡本太郎が世界的宗教学者であるミルチャ・エリアーデの著作から思想的に大きな影響を受けていることが指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号2011年冬、美学会)。
岡本太郎没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子(2005年逝去)の多大なる尽力に負うところが大きい。一方、岡本太郎に関する最善・最良・最高の語り部ではあったものの、近親者ならではの部分、そしてフランス語が得手ではなかったことによるフランス語に関わる岡本太郎情報の欠落などもあり、ポスト生誕100年の研究動向として、岡本敏子情報以外による岡本太郎像の描出が進展しつつあるのが現状である。殊に、2011年以降の研究においては、美術様式論および図像解釈学などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。
岡本太郎の文章はほとんどが岡本敏子によって口述筆記されたものであることを根拠に、岡本太郎の言説は敏子の思想によるものであるとする説があるが、岡本太郎と親交のあった作家であり政治家である石原慎太郎は、岡本敏子は優れた秘書として口述筆記および構成に尽力したのであって、その言説の思想性は岡本太郎がいて初めて成立する内容であることを証言している。
岡本太郎の造形作品の作品名は、すべて岡本敏子によって付けられたとする説もあるが、学術的に実証された事例はない。
年譜
1911年(明治44年)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
1917年(大正6年) 東京・青山の青南小学校に入学
1918年(大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
1929年(昭和4年)
慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学、半年後中退。
父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧。その後、パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ。ただし、正式な入学であったのか、聴講生であったのかは不詳。
1936年(昭和11年) 油彩《傷ましき腕》(1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》とあり、パリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語タイトルが付されていたことが判明)を制作。アンドレ・ブルトンに絶賛される。二人の交流を裏付けるものとして、戦後にブルトンから岡本に贈った献呈本も何冊か確認されている。
1940年(昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
1942年(昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
1945年(昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
1946年(昭和21年) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
1947年(昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
1948年(昭和23年) 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。
1949年(昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展ために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画《傷ましき腕》《露天》を再制作。
1950年(昭和25年) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
1951年(昭和26年) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
1952年(昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
1954年(昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
1955年(昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
1956年(昭和31年) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に《日の壁》《月の壁》など11の陶板レリーフを制作。
1957年(昭和32年) 46歳にしてスキーを始める。
1959年(昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
1961年(昭和36年) 草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。
1964年(昭和39年) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
1965年(昭和40年) 名古屋の久国寺に梵鐘《歓喜》制作。
1967年(昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
1968年(昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
1969年(昭和43年) 1968年から制作が開始された《明日の神話》を完成させた。
1970年(昭和45年) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館《太陽の塔》完成。
1973年(昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス。
1974年(昭和49年) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》制作。
1976年(昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
1977年(昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
1978年 (昭和53年) 毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く。
1979年(昭和54年) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される。
1981年(昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。
1984年(昭和59年) フランス政府より芸術文化勲章を受ける。
1985年(昭和60年) つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
1986年(昭和61年) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
1988年(昭和63年) ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
1989年(平成元年) フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
1991年(平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
1992年(平成4年) 油彩《疾走する眼》制作。
1994年(平成6年) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント《であい》制作。
1996年(平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。
没後
1998年(平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館。
1999年(平成11年) 神奈川県川崎市多摩区の生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
2005年(平成17年) 養女・岡本敏子逝去(79歳)。
2006年(平成18年)
7月7日 大作の壁画《明日の神話》が汐留日テレプラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
11月28日 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画《電撃》と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が、11月中旬に東京都港区の岡本太郎記念館で発見されたと発表。
11月29日《電撃》を一般公開(修復に出す12月10日までの期間限定)。
2007年(平成19年)2月15日 《明日の神話》の制作初期のものとみられる最初期の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
2008年(平成20年)3月 《明日の神話》の恒久設置場所が東京都渋谷区の京王井の頭線渋谷駅連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
2011年(平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とするJリーグ所属の川崎フロンターレがユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。
主な作品
平面作品
※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵
敗惨の歎き(1924年)- 現存する太郎の最古の作品。
空間(油彩、1933年)- 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
コントルポアン(油彩、1935年、東京国立近代美術館蔵) – 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
傷ましき腕(油彩、1936年)- 戦災により焼失し、1949年に再制作された。満州鉄道のプロパガンダ雑誌である『FRANCE-JAPON』誌の1937年9・10月合併号の97頁において《傷ましき腕》がモノクロ挿絵付で作品名《La Main douloureuse》として紹介され、また1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》と記されていることから、同作品は、岡本のパリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語のタイトルが付されていたことが判明している。
露店(油彩、1937年、グッゲンハイム美術館蔵) – 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
憂愁(油彩、1947年、草月美術館蔵)
重工業(油彩、1949年)
赤い兎(油彩、1949年、富山県立近代美術館蔵)
森の掟(油彩、1950年)
燃える人(油彩、1955年、東京国立近代美術館蔵)
裂けた顔(油彩、1960年)
遊ぶ(油彩、1961年、東京国立近代美術館蔵)
装える戦士(油彩、1963年)
愛撫(油彩、1964年)
千手(油彩、1965年)
明日の神話(油彩、1968年)
哄笑(油彩、1972年)
記念撮影(油彩、1975年)
黒い太陽(リトグラフ、1979年)
遭遇(油彩、1981年)
森の家族(油彩、1983年)
疾走する眼(油彩、1992年、岡本太郎記念館蔵)
立体作品[編集]
顔(陶、1952年)- 全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。
日の壁・月の壁(陶、1956年)- 旧東京都庁陶板レリーフ[15]
坐る事を拒否する椅子(陶器、1963年)
梵鐘・歓喜(ブロンズ、1965年)
若い時計台(コンクリート、アルミニウム、1966年)- 銀座数寄屋橋公園内に設置。
午後の日(ブロンズ、1967年)- 東京都立多磨霊園にある岡本太郎の墓碑にもなっている。
生誕 – 黒川紀章が設計し1967年竣工した山形県寒河江市役所のシャンデリアとして寄贈した。市役所5階部吹き抜け天井から鎖で吊るされ2階ホールに常設。
マミフラワー会館(鉄筋コンクリート建築、1968年)- フラワーデザイナー・マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存していない。
若い太陽の塔(1969年)- 愛知県犬山市の日本モンキーパーク内に現存する。
緑の太陽(1969年)- 大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。現存し、JR別府駅ホームからも見ることができる。
太陽の塔(鉄筋コンクリート、1970年)
ノン(FRP、1970年)
オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)光るレリーフ大壁画(1971年)- 三越改称時に撤去されたため現存していない。
樹人(FRP、1971年)- パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、箱根彫刻の森美術館、山梨県立美術館に常設されている。
躍進(陶、1972年)- 山陽新幹線岡山駅内の陶板壁画。
千手(アルミニウム、1975年)
足あと広場(造園、1978年)- 広島県福山市松永町日本はきもの博物館中庭に造成。
河童像(FRP、1981年)
縄文人(ブロンズ、1982年)
神話(1982年) – 島根県松江市松江総合運動公園モニュメント。
未来を視る(FRP、1985年)- つくば科学万博のシンボルモニュメント。2005年につくばエクスプレス万博記念公園駅前に移設。
こどもの樹(FRP、1985年)- こどもの城のシンボルモニュメント
太陽(1985年)- 9月にそごう横浜店のオープンに合わせて屋上に建立された、万博の太陽の塔とは直接関係のないオリジナルのモニュメント。
平和を呼ぶ像(1988年)- 10月に船橋市の平和都市宣言記念シンボル像として建立。
未来を拓く塔(1988年)- ぎふ中部未来博のシンボルとして建立。跡地に作られた岐阜メモリアルセンター内に現存。
母の塔(原作)
歓び – 川崎市内の小学校にある作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたこともある。
河神 (アルミ合金、1995年)- 青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻。
花炎 (陶、1995年)- 1996年7月、佐賀県有田町において開催されたジャパン・エキスポ「世界炎の博覧会」の記念モニュメントとして制作された噴水の作品。会期終了後、跡地は「歴史と文化の森公園」となり現在に至る。太郎存命中の最後の作品とされているが、本人がどこまで関与できたかは不詳(岡本太郎は1996年1月7日没)。
インダストリアル・デザイン
宇宙人東京に現わる(映画、1956年)- 宇宙人のデザインを担当。
近畿日本鉄道ラビットカー(近鉄6800系電車など)シンボルマーク(1957年)- 日本で初めての高加減速車両のマーク。当時は鉄道関連のマークに著名画家を採用する例は極めて少なかった。
近鉄バファロー球団シンボルマーク(1959年)- 近鉄物流のマークとしても使われた。
映画タイトルロゴ「母」(1963年)- 新藤兼人監督作品。東宝配給。
映画タイトルロゴ「鬼婆」(1964年)- 新藤兼人監督作品。東宝配給。
東京オリンピック参加メダル (1964年)
卓上ライター《火の接吻》(1969年)
オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)光るレリーフ大壁画のデザインを用いた包装紙(1971年)
札幌オリンピック記念メダル(ブロンズ、1972年)
TAROきもの(和服デザイン、1975年)- 京都じゅらくより発売。
ウィスキー・グラス《顔》(1976年)- キリンシーグラムよりノベルティとして3月と9月に2種類頒布。
ピッチャー《水差し男爵》(ガラス、1977年)- キリンシーグラムのノベルティ。
ティーセット《夢の鳥》(磁器、1977年)- 三郷陶器より発売。
トランプ(1977年)- 講談社より発売。
第23回 国際眼科学会シンボルマーク(1978年)- 同学会の記念切手のデザインも手がける。
アイスペール《まつげ》(ガラス、1978年)- キリンシーグラムのノヴェルティ。付属のトングのデザインも手がける。
ペーパーナイフ《いのち》(ステンレス、1979年)- 慶應義塾大学の第121回卒業記念品(非売品)。製造は株式会社青芳製作所。
《お好み手皿》(ガラス、1979年) – キリンシーグラムのノベルティ。
《TARO鯉》(鯉のぼり、1981年)- 「東レ」と、こいのぼりの老舗「太郎鯉」との共同企画。
ネクタイ(1982年)-「菱屋」から発売。
電電公社テレホンカード(1982年12月)-テレホンカード第1号をデザイン。
《人間ボトル》(陶、1985年)- キリンシーグラム製ブランデー『シャトラン』と、モルトウィスキー『エンブレム』の2種類の洋酒ボトル・デザイン。つくば万博記念発売。
レコードジャケット・デザイン(1985年)- 8月6日の広島平和コンサート開催記念頒布盤(非売品)
腕時計デザイン(EXCEED、1986年)- シチズンホールディングスの製品。岡本は同社のCMにも出演。
JR発足記念メダル《出発》(1987年)- 銀製、銅製の2種類。
映画タイトルロゴ「神々の履歴書」(1988年)- 前田憲二監督作品。「神々の履歴書製作委員会」配給。
西日本鉄道 夜行高速バス車両 ・車体デザイン。 (「どんたく号」・「はかた号」等、1989年)
川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月10日 – 昭和47年(1972年)9月1日)は、日本の版画家。神奈川県出身。
青山学院在学中に、木口木版の合田清と知り合っている。川上澄生の木版画には、大正末期から昭和の頃に盛んとなったオランダ文化研究の影響がみられる。かつての横浜絵や長崎絵のような発想・主題からやがて明治の文明開化期の詩的表現へと向かっている。特に長崎南蛮風俗、明治開化風俗に惹かれ、それらは素朴な彫り味と、懐古的な詩情に満ちており、独自なプリミティブな作品を生み出すこととなった。彼の版画は、すべての工程を一人で行う創作版画であり、自作の版画による絵本も愛好すべきものとなっている。また、ガラス絵、肉筆画も残しており、国画会の会員となっている。
略歴
1895年(明治28年)、父英一郎、母小繁の長男として横浜市に生まれる。
1898年(明治31年)、東京の青山に転居する。
1912年(大正元年)、最初の木版画を制作。
1915年(大正4年)、母小繁が亡くなる。
1917年(大正6年)、父の勧めにより、横浜港からカナダビクトリアへ渡航(4ヶ月滞在)、その後、米国アラスカで缶詰工場の人夫として働く。
1918年(大正7年)、弟の和三郎が危篤との報を受け日本へ帰国。
1921年(大正10年)、栃木県の宇都宮に赴き宇都宮中学(現・宇都宮高校))英語教師となる。この時、同校野球部の指導にもあたる。本格的な木版画制作を開始。この頃の生徒たちから呼ばれた愛称は「ハリさん」という。この頃、地元版画誌「村の版画」と「刀」を監修、自らも作品を投稿する。
1926年(大正15年)、国画会に木版画作品「初夏の風」を出品、川上澄生の代表作となる。棟方志功はこれに触発され版画家への転向を決意したという。
1927年(昭和2年)、処女詩画集「青髯」頒布。
1935年(昭和10年)、版画本「ゑげれすいろは人物」刊行。『へっぽこ先生』を名乗る。
1938年(昭和13年)、結婚。
1939年(昭和14年)、長男が誕生。
1945年(昭和20年)、宇都宮中学を退職し、妻の故郷である北海道苫小牧に疎開する。苫小牧中学(現・苫小牧東高校)で教壇に立ちながら版画制作を行う。
1949年(昭和24年)、宇都宮に戻り宇都宮女子高校講師となる。第1回栃木県文化奨励賞受賞。
1958年(昭和33年)、退職、版画制作に専念。
1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章。
1972年(昭和47年)、妻の後を追うように急逝。享年77。墓所は宇都宮市の北山霊園。法名は美達院光誉彩澄居士。
命日(洋燈忌)には現在も宇都宮市の延命院で法要が営まれる。
1991年(平成3年)、川上澄生美術館(鹿沼市)開館。
駒形 九磨(こまがた くま 1944年(昭和19年)2月4日 – )は、日本の陶芸家。神奈川県川崎市生まれ。
略歴
昭和19年(1944年) 神奈川県川崎市に生まれる。
昭和42年(1967年) 中央大学法学部を中退し、陶芸の道に入る。同年備前を皮切りに全国の窯業地を修業して廻る。
昭和49年(1974年) 沖縄壺屋を最後に再び備前に戻る。
昭和53年(1978年) 岡山県邑久郡長船町西須恵(現・岡山県瀬戸内市)の地で独立。
昭和59年(1984年) 直焔式窖窯に改良。
昭和62年(1959年) 一水会展入選。
平成3年(1991年) 岡山県美術展入賞。
平成3年(1991年) 草月流花の器展入選。
平成3年(1991年) 備前焼締陶展入選。
平成6年(1994年) 備前焼締展入選。
最上 壽之(もがみ ひさゆき、1936年 – )は彫刻家。神奈川県横須賀市に生まれる。東京芸術大学彫刻科卒。1992年に横須賀市平和都市モニュメントを制作。元武蔵野美術大学教授(2005年退任)。
木を媒介とした抽象的な作風が特徴とされる。
受賞
1968年第4長岡現代美術館賞展
1973年第1回~第3回まで連続して箱根 彫刻の森美術館大賞受賞
1974年第7回現代日本彫刻展毎日新聞社賞
1975年第4回平櫛田中賞、第8回現代日本彫刻展東京都美術館賞
1976年第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展兵庫県立近代美術館賞
1977年第10回現代日本彫刻展土方定一記念特別賞(第12回、15回でも同賞受賞)
1978年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展朝日新聞社賞
1980年第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展優秀賞、埼玉県立近代美術館賞受賞
1981年第12回中原悌二郎賞優秀賞
1984年第12回長野市野外彫刻賞
1986年みなとみらい21彫刻展優秀賞
芝山漆器(しばやましっき)は、横浜市で製作されている漆器である。かながわの名産100選に選ばれている。
歴史
1775年頃、上総芝山村の大野木専蔵の手による芝山象嵌を発祥とする。その後、大野木は芝山と称して江戸に出て芝山象嵌を広げ、江戸を中心に発展する。幕府直参の武士であった村田鋼平は、横浜の特産品として芝山象嵌を発展させた。横浜開港とともに外国人貿易商から高い評価を受け、横浜に職人が移住して輸出向けの生産が本格的に始まる。 1893年のシカゴ万博において入賞した真珠貝花紋小箱を契機に、横浜の職人は芝山象嵌とはことなる独自の芝山漆器を作り始めるようになる。 明治時代は海外貿易用を中心に盛んに生産が行われ、芝山師と呼ばれる職人も100人程度存在した。しかし、関東大震災と第二次世界大戦の影響などにより職人は減少の一途をたどり、2012年の段階では芝山師は二人を数えるのみとなっている。
特徴
芝山漆器は漆器に白蝶貝、夜光貝などの貝類や象牙、鼈甲などを象嵌したものをはめ込むことにより、細工が立体的に浮かび上がることが特徴。象嵌以外にも蒔絵も用いた絢爛な仕上げである。製作される品物は文箱、小箱、帯留め、ブローチなど多岐にわたる。 本来は塗り師、蒔絵師、象嵌師など分業で行う作業であるが、職人の減少に伴いすべての作業を一人で行うことが通常になっており、一つの作品を仕上げるのに長い時間がかかるようになっている。
小田原提灯(おだわらちょうちん)は、提灯の一種。童謡「おさるのかごや」に登場する。
東海道の宿場町であった小田原では、旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。このような小田原発祥の提灯であるが、2015年5月時点で小田原市内には提灯屋自体が山崎提灯店と飯沼提灯店(飯沼商店)の2店舗しかなく、外的に小田原提灯の作製をうたっているのは前者のみである。収入を得られるほどの十分な需要がないので後継者は難しいことを職人が語っており、前途が危ぶまれている。
以下の特徴ゆえに、江戸時代に大人気商品となった。
同じ直径のリング状中骨による蛇腹形状を持ち、折りたたんでの携帯がしやすかった。
通常の提灯と異なり中骨が平たく、紙との糊代面積が大きいために剥がれにくく、雨や霧に強い。
作業工程が簡単なため、安価であった。
大雄山最乗寺の神木を一部材料に使い、狐狸妖怪に対して魔除けになると宣伝した。
神奈川県
芝山漆器
横浜クラシック家具
伊勢原の弓矢
小田原工芸鋳物
三崎の大漁旗
箱根細工
大山こま
小田原提灯
秦野達磨凧
江の島の貝細工
横浜の袢天
横浜スカーフ
横浜のファッションエプロン
津久井のくみひも
半原のネクタイ
小田原の小木工品
秦野の竹製品
小田原の長さ計
中津の座敷ほうき
半原のぬい糸
ハマ焼
横浜の鯉のぼり 真
鶴の小松石
鎌倉彫り