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小川規三郎 おがわ-きさぶろう

1936- 昭和後期-平成時代の染織家。
昭和11年11月30日生まれ。人間国宝の父小川善三郎のもとで献上博多織の制作技法をまなぶ。日本伝統工芸展,日本工芸染色展などで受賞し,昭和62年日本工芸会正会員。平成15年人間国宝。九州産業大非常勤講師。福岡県出身。

青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 – 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。
明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた一方で、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世した。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は決して多くはなく、代表作『海の幸』を含め多かれ少なかれ未完成の作品が多い。

人物・略歴
出生・少年時代
青木繁は今の福岡県久留米市に、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれた。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っている。青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、そして終生の親友であった。同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされる。絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残している。
画家時代

海の幸(1904年、重要文化財、石橋美術館蔵)
青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。
放浪生活・死

わだつみのいろこの宮(1907年、重要文化財、石橋美術館蔵)
1905年(明治38年)8月、今の茨城県筑西市に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。しかし、たねとは最後まで婚姻しなかった。1907年(明治40年)8月、父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷、程なく父は亡くなった。画家としては天才と言われた青木であったが、父亡き後の家や妻子を支えるような能はなく、家族と衝突の末、1908年(明治41年)10月に郷里を離れて天草、佐賀など九州各地を放浪する生活に入った。この間にも創作を続け、『月下滞船』(1908年(明治41年))のような佳作もあるが、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、画家としてのピークは過ぎていた。1911年(明治44年)3月、福岡市の病院で死去した。享年28。青木は死の床において、妻子や家族に向けて不孝を詫びる旨の遺言を遺している。
死後
青木の死後、坂本は遺作展の開催や画集の発行に奔走。死の翌年である1912年(明治45年)には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には『青木繁画集』が発行されている。また、1948年(昭和23年)には遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。除幕式には坂本のほか、たね(当時は野尻姓)、長男の蘭童も出席した。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われる。
ハナ肇とクレイジーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭童の息子であり、青木の孫にあたる。
代表作
黄泉比良坂 (1903年、東京藝術大学美術館蔵)
自画像(1904年、東京藝術大学美術館蔵)
天平時代(1904年、ブリヂストン美術館蔵)
海の幸(1904年、重要文化財、石橋美術館蔵)
大穴牟知命(1905年、石橋美術館蔵)
日本武尊(1906年、東京国立博物館蔵)
わだつみのいろこの宮(1907年、重要文化財、石橋美術館蔵)
朝日(1910年、佐賀県立小城高等学校黄城会蔵)

大津 英敏(おおつ えいびん、1943年 – )は、日本の洋画家。日本芸術院会員、多摩美術大学名誉教授、独立美術協会会員。
学生時代は山口薫に師事。初期の頃は師の影響下の作品や毬シリーズと呼ばれる作風だった。娘の誕生を機に彼女をモデルに描きはじめる。バルテュスの影響があるといわれている。家族を題材にした淡い色調の作品が多い。近年では風景画に取り組みはじめた。 渋谷駅構内の壁画にもなっている。
年譜
1943年 – 熊本県熊本市で生まれる。後に福岡県大牟田市に転居し、高校卒業までを過ごす。
1969年 – 東京芸術大学大学院(山口薫教授)修了
1971年 – 第39回独立展で独立賞受賞
1979年 – 家族を伴って渡仏
1981年 – 帰国
1983年 – 第26回安井賞受賞(「KAORI」)
1988年 – 大津英敏展開催
1989年 – 多摩美術大学教授就任
1993年 – 第11回宮本三郎賞受賞(「宙・そら」)
2005年 – 第28回損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞
2007年 – 日本芸術院賞
2014年 – 多摩美術大学名誉教授

織田 廣喜(おだ ひろき、1914年4月19日 – 2012年5月30日)は、日本の画家。福岡県出身。従四位。日本芸術院会員、二科会常務理事、理事長を歴任。

来歴
1914年 – 福岡県千手村(現嘉麻市)に生まれる。
1939年 – 日本美術学校西洋画科卒業。
1940年 – 二科展に初入選する。
1950年 – 二科会会員に推挙される。
1960年 – 初渡仏。
1968年 – 第53回二科展で総理大臣賞受賞。
1971年 – 第56回二科展で東郷青児賞受賞。パリで初の個展開催。
1992年 – 勲四等瑞宝章受章。
1995年 – 恩賜賞・日本芸術院賞受賞。日本芸術院会員になる。
1996年 – 碓井町立織田広喜美術館開館。
1997年 – 碓井町名誉町民の称号を受ける。
2003年 – 勲三等瑞宝章、フランス政府芸術文化勲章・シュヴァリエを受章。
2006年 – 二科会理事長。
2012年5月30日 – 心不全のため死去。98歳没。没後、従四位に追叙された。

古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 – 1933年9月10日)は大正から昭和初期に活躍した日本の男性洋画家である。日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家として知られる。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」はあくまでも通称である。

生涯
幼少期から絵を志すまで
1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。 古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった (古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。 松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。 また、小さいときから病弱で神経質な子供だったともいう。 後に妻になる岡好江が残したメモにも、古賀は生来病弱で、子供のときから外に出ることを嫌い、 毎日読書や絵を描いて暮らしたこと、規則に縛られることを嫌い、孤独を愛したことなどが記されている 。
1902年(明治35年)4月に久留米日吉尋常小学校に入学、1906年(明治39年)3月小学校を卒業し、 4月には久留米高等小学校へ入学、1910年(明治43年)同高等小学校を卒業、同年4月に中学明善校へ入学、 この頃から久留米市の洋画家松田実(諦晶)に絵を習い始めた。 1912年(明治45年)、中学3年の時に、両親の反対を押し切って退学、洋画研究のために上京し太平洋画会研究所に通った。 翌1913年(大正2年)には、日本水彩画会研究所へ入って石井柏亭に師事した。 この年、当時雑司が谷に住んでいた坂本繁二郎を訪問した。
1914年(大正3年)、同居していた友人の藤田謙一が猫いらずで自殺したことに衝撃を受けて精神が不安定になった。このため、心配した父親が古賀を帰郷させた。 帰郷中も精神不安定な状態で、家を抜け出し阿蘇山で投身自殺をおこしかけ、 地元の人に止められたと言われている。 翌1915年(大正4年)1月に長崎に遊んだ後、2月に僧籍に入り、良昌と改名、春江を呼び名とした。3月には再び長崎に戻った。 長崎滞在中に、父の従弟の娘と恋愛関係になった。 2人は熊本の山鹿温泉に逃避行したが、まだ女学生だったため追いかけられて つかまり、2人は離されてしまった。 その後、久留米に戻ってきている間に、岡好江と恋愛関係になった。 岡好江は久留米ではよく知られた文学好きの女性で、 古賀より4ヶ月ほど年上だった。 勝気で姉さん女房型の女性だったと言われている。 岡は当時、結婚に失敗して久留米に戻ってきていた。 双方の親達は結婚に反対だったが、結局、善福寺を継ぐことを条件に許された。後年好江は、古賀の女性問題や家計のやりくりで苦労させられた。 好江なくして古賀の画家としての大成はなかったと評する人もいる。
この年の冬に再度上京した。 翌年の1916年(大正5年)7月に父親を亡くし、 父の後を継ぐために宗教大学(後の大正大学)の聴講生になり、 学業の傍ら絵の制作に励んだ。同年には日本水彩画会員に推された。
画業へ専心

『埋葬』(1922年、総本山知恩院蔵)
1916年11月に岡好江と結婚し(結婚式をあげたのはもう少し先のことである)、引き続き宗教大学に通った。 翌1917年(大正6年)、太平洋画会展に「梧桐」(水彩)が入選した。 しかし、この年の9月に肋膜炎を患い神田長谷川病院に入院、11月に全快したものの、保養のために帰郷する車中でインフルエンザにかかり急性肺炎をおこし入院、一時危篤状態になった。 これが原因で大学を休学、翌1918年(大正7年)には宗教大学を退学し画業に専念する決心をした。この頃から油彩画に手を付け始めた。 一方、宗教大学に通っていた間は親からの仕送りがあったが、退学して家を継ぐことを放棄してしまったため、それも 滞りがちになった。以降、家計の問題は好江の一手にかかるようになった。
水彩画展や光風会展に出品し、1919年(大正8年)の秋、二科展に「鳥小屋」が初入選した。 翌1920年(大正9年)1月5日、古賀は岡好江と久留米で結婚式をあげたが、 9月に体を悪くし、再度帰郷した。 この後、1924年4月に上京するまではほとんど久留米と福岡にいた。 1921年(大正10年)1月、妻の好江が女の子を産んだが死産だった。 このことがきっかけとなって、「埋葬」[注 1] に着手した。 水彩画のほうの「埋葬」は1922年(大正11年)春に完成、同年5月の来目展に「観音」と共に出品された。 1922年(大正11年)油彩画の「埋葬」(油彩・キャンヴァス、総本山知恩院蔵・京都国立近代美術館寄託)と「二階より」を二科展に出品し共に入選、「埋葬」は二科賞を受賞した。 「埋葬」と「二階より」は翌1923年(大正12年)にパリのサロン・ドートンヌで開催された二科展でも、 日本部の出品作品に選ばれている。 一方、神原泰、中川紀元、矢部友衛ら二科出身の画家13人で「アクション」を結成した。(この後「アクション」は1924年(大正13年)10月3日に解散する。) 1924年8月と10月に信州に旅行した際、当地の女性と親しくなり、 この女性が上京してきたので下谷に家を借りて同棲を始めた。 しかし、1925年(大正14年)に女性が病死したことで関係は終わった。
1924年から1925年にかけての古賀は、アンドレ・ロートからの影響を受けた作品(「魚市場」「肩掛けの女」など)を描いた。 この頃、日本の一部の画家の間でロートの様式が流行し、古賀もその中の一人だった。 石井柏亭によると、
古賀はロートの構成の理論をよく呑み込んで、それを実施するに旨く日本のモチーフを利用した。 その頃実際に流行した粗い黒白のだんだらを持つ肩掛の柄は其斜線の平行によって画面に変化を与へることが出来た

— 石井柏亭 、「古賀春江」春鳥会刊、1934年

という。
クレーから超現実主義へ

『煙火』(1927年、川端康成記念会蔵)
1926年(大正15年・昭和元年)に入ってからは東京に定住するようになり、 二科会会友に推され、 また、クレー風の絵をかきだすようになった。 翌1927年(昭和2年)の8月に母を亡くし帰郷、9月には東京に戻ったが、 11月になって神経衰弱を患い再び帰郷した。 翌1928年(昭和3年)5月には長崎へ転地し、そこで「生花」などを制作した。 この年、中川紀元の紹介で東郷青児を知り、更に東郷を介して同年暮れか翌1929年(昭和4年)初めに 阿部金剛を知った。 この時期を代表する絵として「煙火」(1927年、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)が あげられる[注 2] [注 3]。 「素朴な月夜」(1929年、油彩・キャンヴァス、117.0×91.0cm、ブリヂストン美術館蔵)もこの時期の作である。 この頃はクレー風の絵を描いていたが、1929年になると画風が変わり、構成的なシュルレアリスムの絵が現れだす。 古賀の代表作の1枚「海」(1929年、油彩・キャンヴァス、129.0×161.0cm、二科会16会展出品、東京国立近代美術館蔵)が 描かれたのはこの年である。
1929年9月の二科展では、児島善三郎、里見勝蔵、小島善太郎、鈴木亜夫とともに鑑査に加わったが、 相当負担になったらしく、この後しばらく寝込んだ。 これ以降古賀は病気がちになった。 古賀は医者に診てもらっているが、古賀の病名に関しては、妻の好江が松田実に宛てた手紙の中で 「病名が余り香しくなかったものですから」と書いていたり、古川智次がエッセイ「古賀家の窮状」の中で同様に 「余り香しくなかった」と書いたのみで明瞭に述べていない。 実際は、古賀のかかっていた病気は梅毒である。
この頃、古賀のアトリエを訪ねた中野嘉一によると、シュルレアリスムの絵の他にも 写実的な風景画も混じっており、時々は写実的な絵も描いていたようだ、 ゴールデン・バットを1日十箱位も嗜むヘヴィー・スモーカーで、煙草をくわえながら絵を描いていた 、既に手の震えが始まっていて、シュルレアリスムの幾何学的な細い線を描く時などは 手が震えてうまくいかず困っていたことがあったという。
同年11月、一九三〇年協会に加入したが、12月には二科会会員に推挙された[注 5]ので協会を脱退した。

『窓外の化粧』(1930年、神奈川県立近代美術館蔵)
1930年(昭和5年)からは舞台装置の制作や装丁・挿絵の仕事を始めるようになった。 古賀が挿絵・装丁などの仕事を始めたのは、家計の問題からだったとみられる。 この年には「窓外の化粧」(1930年、油彩・キャンヴァス、161.0×129.0cm、神奈川県立近代美術館蔵)他4点が 二科展に出品され、短い画論「超現実主義私感」[注 6]が「アトリエ」誌1月号に掲載された。
1931年(昭和6年)、日本水彩画会委員(鑑査)になり、川端康成と知り合いになった。 また、生前唯一の画集「古賀春江画集」を第一書房から刊行した。 その他、「コドモノクニ」にイラストを発表した(12月号から翌1932年6月号まで)。 この頃、古賀は動坂に、川端は谷中桜木町にいて、電車通りを隔てて近くに住んでいた。 高田力蔵によると、川端との交遊のきっかけは互いに犬好きだったからで、 古賀にブルドックの世話をした瀬辺玄正という人物を介してかもしれない、という。
1932年(昭和7年)3月になると、強度の神経痛に冒され体が衰え出し、次第に厭人的になり代わって犬や小鳥を熱愛するようになり出した。 高田力蔵が中野嘉一に宛てた私信によれば、昭和「七年春、駿河台の某病院で脊髄液検査の結果、病巣を知った」 とあり、梅毒は1931年(昭和6年)頃から進行が 始まっていたらしい。 この頃古賀は、人嫌いになったことをうかがわせる文章を書いている。
人間に顔や肉体がなかったら、どんなに気持が晴々するだらう。私自身人々の眼の前にえたい(えたいに強調点)の 知れない顔や肉体を曝して歩いてさぞ迷惑を掛けてゐるだらうと思ふ時出来るだけ人に逢はないですむやうにしたいと願ふ。 人間の顔が恐ろしくて人に逢へなくなる時私は犬達と話をする。犬は人間よりも直接に単純に話が出来る。

— 古賀春江、「美術新論」昭和七年十月号

1933年(昭和8年)に入ると古賀の病状はかなり悪化し、 丸善で高価な洋書を大量に注文する、ラクダのシャツを3ダースも買い込む、靴下を何ダースも買うなど 奇矯な行動が目立つようになり、友人にも気付かれるようになった。 4月から二科展出品のために「文化は人間を妨害する」と「深海の情景」「サアカスの景」(絶筆)の制作を開始し、その他、同月には病床を抜け出して、日本水彩画会の仲間とともに群馬桧曾方面へ写生に出かけ、 帰京した後再度写生に出かけるなど熱心で、この時多くの水彩画を描いた。そして、これが最後の写生旅行になった。 5月には阿部金剛、東郷青児、峯岸義一らとアヴァン・ガルド研究会創設の話し合いをするなど絵画関係の活動は活発だったが、義兄が重病との知らせを受けて7月5日に久留米へ帰郷した際、 病状は既に相当ひどい状態だった。
久留米に帰郷した古賀は、毎日のように松田実、昔の友人や坂本繁二郎を訪ねていて、友人たちはその時の古賀の様子に強いショックを受けている。 古賀は軽い躁状態にあったとみられ、松田も坂本も、 古賀の精神状態が異常であることに気付いている。 松田の回想によると、この時の古賀は
だらしなく胸をはだけ、愛犬(白茶けたオークル色と黒褐色の霜降りまだら毛の中形ブルドッグ名はチェロ)を 曳連れではなく、引きずられて踉蹌(ルビ・よろ)け乍ら来る足取り。 来る度毎に何時も餡パンや果物を懐中しており、談話最中如何かしたはずみにそれが懐から転び出る、 周章狼狽懐え掻込む、『サーこれから白山町(赤線娼窟)え行くのだ』と言ってはフラフラと帰り行く有様、 焦点(ルビ・ピント)のぼやけた様な瞳差(ルビ・ざ)し。安定なく物怖する如く右顧左顧(ママ)しながら語る所作。 彼方此方と飛躍また飛躍して取止めなき話題、支離滅裂で意味をなさず判断に苦しむ言葉。 夢遊病者さながらに。

— 松田実

という状態だった。また、坂本繁二郎の回想では、
ところが古賀君は見るからに疲労し、こみ入った話をかわす気力がない様子、 長い指は白くすけて小きざみにふるえ、目の色もどんよりと光を失って、とてもこの世の人とは思へぬ姿。 白いひとえの肩が薄く、いかにも影が薄くて私には不吉な予感がしたものです。 結局とりとめのない話題だけで、真夏の白い田舎道を帰る古賀君を見送りました。

— 坂本繁二郎 、「坂本繁二郎の道」(谷口治達著・求龍堂刊)第六章筑後

と描かれている。 同月14日に帰京したがその途中で発病、絶筆の「サアカスの景」は病身をおして完成させねばならなかった。
最晩年の古賀の様子については、高田力蔵や川端康成[注 7]、阿部金剛[注 8]らがいくつかの文章を残している。 「サアカスの景」は、署名を高田力蔵に入れてもらったことが知られている。理由は、古賀が手の震えにより整ったローマ字を書けなかったためである。 高田力蔵によると、サインの代筆を頼まれた時「無銘でもいいではありませんか」と断ったが、 古賀が「サインがないと絶筆のようで嫌だ」というので仕方なく筆跡をまねて高田が入れた。
以前から妻の好江や友人たちが説得して入院させようとしたが、古賀は病気を自覚していたにもかかわらず受け入れなかった。 最終的に古賀を説得したのは川端康成で、生活に困窮していた古賀の入院費その他の面倒もみた。

『サアカスの景』(1933年、神奈川県立近代美術館蔵)
8月1日に東京帝国大学島薗内科[注 9]に入院、 マラリア熱療法を受けた。 入院当初は詩作や作画をしていたが、マラリア療法処置後高熱が下がらず、 八月末には意識朦朧とし危篤状態にあった。 ブドウ糖の注射による栄養補給も困難になってからは、友人の協力による輸血で栄養補給したが 、9月10日に亡くなった。享年39歳。 1944年5月になって善福寺境内に古賀春江の供養塔が作られた。 生地の善福寺境内には石井柏亭の碑銘による墓碑がある。 阿部金剛の述懐によると、善福寺にあった古賀の遺作は、 寺の住職が古賀家とは縁のない人に替わり古賀家と断絶したと同時に散逸してしまったようだ、という。事実、21世紀に入っても所在不明の古賀の絵は少なくない。
安井曽太郎が古賀の死後出版された「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)の中で古賀春江について次のように書いている。
古賀君と話してゐるといつもあの子供っぽい真劍さに動かされた。そしてそれと同じものを同君の繒からも、新舊作を問はず、どの繒からも受けた。古賀君の理智的で近代的な構圖や少し多彩過ぎる難はあってもその明るい色調は美しいものであったが、それ等に底力を與へるものはあの子供っぽい真劍さであった。それはひしひしと我々に迫って來た。

— 安井曽太郎、「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)

その他、東郷青児は、古賀の叙情性を強調する文章を残している。
古賀君は理智の機構を好み、冷ややかな哲学の後を追いながら、終生牧歌的な詩情を離れることが出来なかった。 そこに古賀の面白さがある。その矛盾から、死の間際に鮮か(ママ)に転換した。

また、後に「サアカスの景」を評して、
ハーゲン・ベックは、何かずばぬけた大きさが何の前ぶれもなく、生まれてきたようで不気味な感動を受けた。

— 東郷青児、 古賀春江「美術手帖」昭和二十四年九月号

と書き残している。
作風
古賀は西洋の多くの美術動向や画家の影響を受け、短期間のうちにその作風を変転させている。若い頃の古賀は竹久夢二の絵にあこがれていて、1919年に松田諦晶宛ての葉書でも竹久夢二を賞賛しており、その影響はかなり長かったと見られる。その後もセザンヌから影響を受けたり、未来派やピカソ、ローランサンにも関心を持っていたことが残されたスケッチブックの模写からうかがえる。特にパウル・クレーからの影響は大きく、1926年から1927年にかけてクレー風の作品が描かれた。その後「海」や「鳥籠」によって再び作風を転換させた。発表当時、「海」はシュルレアリスムの日本絵画への初めての表れだとみなされた。油彩・水彩画の他に、自作の絵に付けた詩も多く残している。
コラージュによる作画
古賀春江の代表的な作品である「海」は、コラージュ技法による作品であることがわかっている。コラージュ技法自体は、古賀以前の大正期の画家が既に実践しており、それ自体は何ら新しい試みではない。しかし「海」においては、絵画におけるモンタージュではなく、むしろ写真におけるモンタージュ技法に近い点が従来と異なる。
仲田定之助が「写真技術の新傾向―ホモリ・ナギーの近著から」(「アサヒカメラ」二巻、1926年10月号)という論文内でホモイ=ナジの「形成写真(Foto-plastick)」(写真によるコラージュ技法)の紹介を行っており、この頃、古賀はコラージュ技法に興味を持っていた。坂宗一(古賀と親交のあった画家)によると、
これから始まる超現実主義の仕事に、私も脇役で手伝った。と云っても、ただ子供の科学という薄っぺらな雑誌を古本屋の店先で買い集めるのだが、その仕事が彼の仕事にどう役立つかは知らなかったが、古賀さんはこの中から関連なく写真や絵図を切り取って組み合わせることで、一枚の主張を持った作品を創った。これをモンタージュというのだと後になって教えてくれた。無関連を関連して別な意味を創りだすというむずかしい話だった。

— 坂宗一、「サーカスの景」「古賀春江回顧展」福岡県文化会館、1975年、p.105

という。

『海』(1929年)東京国立近代美術館蔵
このような、科学雑誌からのコラージュによる作画法は、マックス・エルンストや、その手法を参考にして描いた一時期の福沢一郎と同様の手法である。 以下のように、1929年の「海」以降の多くの作品も「科学画報」「アサヒグラフ」「キング」といった一般雑誌に掲載されていた写真のコラージュによって構成されていたことが明らかにされている。
「海」の画面中央からやや左上に見える飛行船は、一般向け科学雑誌「科学画報」1928年12月号p.846の中の一枚の写真を参考にした可能性がある。また、飛行船のすぐ下に見える鉄塔は「科学画報」の同じページの別の写真から、画面下側に見える潜水艦は「科学画報」1928年5月号900頁掲載の挿図から採られた可能性がある。その他、画面右の女性は「原色写真新刊西洋美人スタイル第9集」(青海堂)という絵葉書セットの一枚からとられたことがわかっている。
「鳥籠」の画面左、鳥篭に閉じ込められた女性というデザインは、この絵が発表された春に公開された映画「妖花アラウネ」のスチール写真をもとにしているのではないかと指摘されている。また、画面左下の階段は、「科学画報」1928年5月号p.809に掲載された「高架式最新設備の大荷物駅竣工」に描かれた挿図からとられたものとみられる。その他、画面中央下と右上にそれぞれ見られる円盤状の物体は「科学画報」1927年1月号p.36掲載の方解石の顕微鏡写真をもとにしている。
「窓外の化粧」の画面右上の高層ビルの上で女性が踊っている部分は、「アサヒグラフ」1925年9月30日号p.6掲載の写真「エッフェル塔上ダンスの一幕」から着想された。この事実は、残っている「窓外の化粧」のためのスケッチ数枚から推定されている。絵の女性のポーズは、大衆娯楽雑誌「キング」1927年4月号の写真「世界写真画報(瑞典の巻其のニ)」から採られた。なお、速水「シュルレアリスム絵画と日本」では写真のダンサーはスウェーデン人であると書かれているが、「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」p.46ではスイス人だと書かれている。
「単純な哀話」の画面右下に見える植物は「科学画報」1928年5月号p.860に載っている挿図のコラージュである。
「黄色のレンズ」の画面左に見える抽象的なデザインは「科学画報」1928年4月号p.734に載っている挿図からのコラージュである。
「音のない昼の夢」の画面右下に置かれた花は「科学画報」1928年5月号p.861「植物の感覚」の挿図を抽象化して使ったものらしい。
「女のまはり」の画面左に見えるボールを上に投げ上げた人物は、「アサヒグラフ」1929年8月14日号の「コドモグラフ」と題した子供向けページに載っていた「まりつき」という題の写真のコラージュである。
「春来る」の画面中央のポーズをとった女性は、「アサヒグラフ」1930年5月7日号p.17の「マーガレット・モリス舞踊団の練習」と題された写真からとられたものである。
「仮説の定理」の画面左側中央の奇妙な乗り物に乗った人物は「アサヒグラフ」1927年12月14日号p.23の「帆かけ車」の写真を利用したもの、画面中央右上の犬は「アサヒグラフ」1930年11月12日号p.18.の「たかとび」と題した写真の中の犬を利用したものである。
「朧ろなる時代の直線」の画面右上の描かれた飛行機とモーターボートは、「アサヒグラフ」1930年6月4日号p.11の「モーター・ボートからの離陸」の写真を利用したものである。
「現実線を切る主智的表情」画面左の射撃手は「アサヒグラフ」1926年2月24日号pp.8-9の「湖上佳人の射撃練習」を利用したものと推測されている。また、スケッチ段階で射撃手が持っていたのはライフル銃であったのに対し、最終的な絵ではライオット・ガンに変更されている。このライオット・ガンは、「アサヒグラフ」1928年2月22日号p.11の写真「新型自動ライフル銃」を用いたものとみられる。画面右の馬と柵は「アサヒグラフ」1926年6月2日号p.14の「かろがろと飛び越えて」の馬を利用したものである。馬に乗っているロボットは、当時の日本で1931年を頂点としてロボット・ブームがあり、その影響によるものとみられる。
最晩年の作「深海の情景」の画面中央下の白い動物は、「アサヒグラフ」1931年4月15日号掲載の写真「最先端をゆく舞踏の」の中のポーズをそのまま利用している。
「サアカスの景」は、ハーゲンベック曲馬団をイメージして描かれた絶筆だが、松田諦晶の残した資料の中に「独逸ハーゲンベック動物園・世界最大の猛獣大サーカス図実景」の絵葉書10枚が含まれていて、うち6枚に絵の具がついていることから、これらの葉書の絵を利用したと見られる。

『現実線を切る主智的表情』(1931年、西日本新聞社蔵)
精神障害者の絵
ヨーロッパのシュルレアリストの1部が精神障害者の描いた絵に興味を持ったのと同じく古賀もそれらに興味を持った。例えば、1930年の二科展に出品された「涯しなき逃避」は、アウグスト・ネターの「驚異の牧人」がヒントになって生まれた。「涯しなき逃避」に描かれている人物のポーズは「驚異の牧人」と全く同じである。

『涯しなき逃避』(1930年、ブリヂストン美術館蔵)
この「驚異の牧人」は、ドイツの医師ハンス・プリンツホルンの「精神病者の造型」という本の中に収録された図の1枚で、古賀はこの本に収録された他の図版を何点も模写している[注 10]。また、この「精神病者の造型」はヨーロッパのシュルレアリストにも影響を与えていたと考える研究者が複数いる。ブルトン、エルンストなどのヨーロッパのシュルレアリストも精神障害者の絵に興味を持ちそれらをヒントにして創作したが、古賀が精神障害者の絵に興味を持ったのは彼らの著作物に影響されたのか独自のものなのかははっきりとはわからない。
古賀春江の「超現実主義」シュルレアリスム移行後の古賀の絵にはしばしば近代的な建築物やロボット、機械が描きこまれており、残されているデッサンにもしばしば登場する。また、画面は構成的であり、ヨーロッパのシュルレアリスムが科学や合理主義への懐疑・反発・否定を出発点としたのとは矛盾する態度を示した。その他、1930年1月に発表した「超現実主義私観」に見られる古賀の超現実主義の理解は、ヨーロッパのシュルレアリスムとはまったく 異なったものだった。この小論の中で古賀は以下のように書き、夢や無意識の世界を描くことを否定的に見ている。
超現実主義を以って夢に等しき無目的の意識状態であるといふ説は首肯出来ないものである。

そして、画面の構成を強調し、超現実主義とは主智主義である、と主張している。
超現実主義は純粋性へ憧憬する意識的構成である。故に超現実主義は主智主義である。

事物の純粋性が強調され、そのためには、描かれた対象から現実感を消し、更には、絵から感じられる作者の感情も消し去る必要があると主張する。
この場合の対象は何処まで精神を通して計算されるものであって現実的意味を持たなくなる。現実的形式ではなくして芸術的形式である。例へば描かれたる机は机自身の形ではない。具象的現実の机ではなくなるのである。斯く対象としての現実的表象がその意味を持たなくなった所から芸術は始まる。作者の影も同様に薄くなる。こゝに作者が居ると思はせる作品はまだ純粋ではないのである。純粋の境地―情熱もなく感傷もない。一切が無表情に居る真空の世界。発展もなければ重量もない。全然運動のない永遠の静寂の世界! 超現実主義は斯くの如き方向に向つていくものであると思ふ。

主な作品
農夫の嘆き
川沿の家(制作年不詳、鉛筆・水彩・紙、34.1×51.4×0.0cm、57.7×75.5cm、愛知県美術館蔵)
川沿の家(裏面)(制作年不詳、水彩・鉛筆・紙、34.1×51.4cm、愛知県美術館蔵)
戦死公報(大正末期)
夢二風のエハガキ(1915、水彩)
梧桐(1917、水彩、太平洋画会展出品)
桧(1917、水彩、水彩展出品)
芍薬(1918、水彩、水彩画展出品)
鉢(1919、光風会展出品)
地蔵尊(1919、水彩、水彩画展出品、石橋美術館蔵)
鳥小屋(1919、二科展出品・初入選)
無題(1921年頃、油彩、72.5cm×72.5cm、石橋美術館蔵)
埋葬(1922、油彩、水彩が各1点ずつ、油彩画は二科展出品・総本山知恩院蔵・京都国立近代美術館寄託、水彩画は福岡県立美術館蔵)
二階より(1922、二科展出品、2001年現在個人蔵)
物乞い(1922年頃、油彩・カンヴァス、71.0×90.0cm、茨城県立近代美術館蔵)
収穫(1923、第1回アクション展出品)
曲彔につく(1923、第1回アクション展出品、2001年現在個人蔵)
涅槃(1923、油彩、二科展出品、2001年現在所在不明)
海女(1923、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
海水浴の女(1923、油彩、89.7cm×115.1cm、石橋美術館蔵)
静物(1923)
公園の松(1923、水彩)
風景(1923、水彩、同名で4枚制作、うち1枚はひろしま美術館蔵)
梅(1924、水彩、水彩展出品)
編物をする女(1924、水彩、水彩展出品)
グループ(1924、アクション展出品、2001年現在所在不明)
魚市場(1924、油彩、中央美術展出品、中展賞受賞作、2001年現在所在不明)
窓際の女(1924、油彩、二科展出品)
誕生(1924、油彩、91.0cm×116.8cm、石橋美術館蔵)
生誕(1924、油彩、福岡市美術館蔵)
中洲風景(1924、油彩)
卓上静物(1924年頃、油彩・カンヴァス、72.7×60.6cm、茨城県立近代美術館蔵)
肩掛けの女(1925、二科展出品)
静物(1925年頃、水彩、石橋美術館蔵)
美しき博覧会(1926、水彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
蝦夷菊(1926、二科展出品)
月花(1926、油彩、東京国立近代美術館蔵)
遊園地(1926、水彩、ブリヂストン美術館蔵)
花(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
風景(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
無題(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
風景A(1926、中央美術展出品)
風景B(1926、中央美術展出品)
花と果実(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
海辺風景(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
花(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
肖像(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品、描かれている女性は妻の好江だと言われている。)
赤い風景(1926年、水彩)
船着場(1926、水彩、二科展出品)
煙火(1927、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)
煙火(1927、油彩・キャンヴァス、90.9×60.6cm、三重県立美術館蔵)
窓(1927、油彩、福岡県立美術館蔵)
牛を焚く(1927、水彩)
静物(1927、水彩、日本水彩画会展出品)
裸婦(1927、油彩、来目会展出品)
動物(1927、油彩、二科展出品)
窓(1927、油彩、二科展出品)
雪景(1927、油彩、来目会展出品)
林檎(1927、油彩、来目会展出品)
花(1927、油彩、来目会展出品)
渓の残雪(1927、油彩、来目会展出品)
三国峠遠望(1927、油彩、来目会展出品)
夏山(1927、油彩・カンヴァス、90.9×116.7cm、108.2×134.0cm、愛知県美術館蔵)
生花(1928、二科展出品)
蝸牛のある風景(1928)
ダリア(1928、油彩、来目会展出品)
読書(1928、油彩、来目会展出品)
汽車の通る風景(1928、水彩、来目会展出品)
山ノ手風景(1928、油彩、二科展出品)
蝸牛のゐる田舎(1928、油彩、二科展出品)
バラ(1928、油彩、来目会展出品)
コスモス(1928、油彩、来目会展出品)
樹下三人(1929、油彩、中央美術展出品)
無題(1929、油彩、中央美術展出品)
バラ(1929、油彩、来目会展出品)
題のない画(1929年、油彩・キャンバス、下関市立美術館蔵、二科展出品)
漁夫(1929、油彩、二科展出品、福岡県立美術館蔵)
海(1929、油彩、二科展出品、東京国立近代美術館蔵)
素朴な月夜(1929、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
鳥籠(1929、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
優美なる遠景(1929、水彩・鉛筆・紙、東京国立近代美術館蔵)
彎曲せる眼鏡(1929、水彩)
窓外の化粧(1930、油彩、神奈川県立近代美術館蔵)
単純な哀話(1930、油彩、116.7cm×91.4cm、石橋美術館蔵)
黄色のレンズ(二科展出品)
朗らかな春(1930年、水彩)
涯しなき逃避(1930、油彩、二科展出品、ブリヂストン美術館蔵)
女のまはり(1930、二科展出品、2009年現在所在不明)
厳しき伝統(1931、油彩、アンデパンダン展出品、石橋美術館蔵)
感傷の静脈(1931、油彩、116.9cm×91.4cm、石橋美術館蔵)
朧ろなる時代の直線(1931、油彩、二科展出品、2009年現在所在不明)
現実線を切る主知的表情(1931、油彩、二科展出品、西日本新聞社蔵)
感傷の生理に就いて(1931、油彩、二科展出品、所在不明)
春来る(1931、水彩、「東京パック」1931年3月号裏表紙原稿、東京国立近代美術館蔵)
仮説の定理(1931、油彩、二科展出品、2009年現在所在不明)
麗しき伝統(1931、油彩、石橋美術館蔵)
ロボットも微笑む(1931、「東京パック」裏表紙のための素描、石橋美術館蔵)
金魚(1931、油彩、津田清楓洋画塾展出品)
音楽(1931、油彩、古賀政男の「酒は涙か溜息か」をイメージして絵にしたもの[89]。古賀政男にプレゼントされた[89]。)
失題(1932、油彩、津田清楓洋画塾展出品)
花野原(1932、水彩、日本水彩画会展出品)
孔雀(1932、油彩、二科展出品)
少女(1932、油彩)
白い貝殻(1932、油彩、二科展出品、ポーラ美術館蔵)
音のない昼の夢(1932、油彩、二科展出品)
鳩の唄(1933、水彩)
抽象(1933、水彩)
文化は人間を妨害する(1933、油彩、二科展出品、所在不明)
深海の情景(1933、油彩、二科展出品、大原美術館蔵)
サアカスの景(1933、油彩、二科展出品、神奈川県立近代美術館蔵)

児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 – 1962年3月22日)は、日本の洋画家である。
経歴
紙問屋児島本家の第9代当主・児島善一郎、トヨの長男として、福岡市中島(現・博多区中洲中島町)に生まれる。幼名は義太郎。
1907年、福岡県立中学修猷館に入学。3年のとき、中村研一らと絵画同好会「パレット会」を創立し、油彩画を描いたり洋雑誌を購入するなどして西洋絵画を勉強する。
1912年、修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科(現・長崎大学薬学部)に入学するも同年中退し、1913年、画家を志して上京。1914年、岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヶ月程学ぶが、東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかず独学で学ぶ。1915年、帰郷したおりに結核に罹患。暫く郷里で療養生活を送るが、1920年には回復して再び上京する。この時期に福岡で結核療養中だった倉田百三と知遇になる。
板橋に居を構え制作を開始し、1921年、第8回二科展に『早春の下板橋付近』を出品し初入選。翌1922年の第9回二科展では、『裸女』、『代々木風景』が二科賞を受賞。同年、代々木初台にアトリエを竣工する。1923年、萬鉄五郎を中心とする円鳥会の結成に林武らと共に参加し、その第1回展に『若き女の首』など出品する。
1924年から1928年にかけてフランスに留学し、パリのシテ・ファルギエールにアトリエを借りる。西洋の古典絵画に親しみ、アンドレ・ドランのフォービズムによる量感あふれる裸婦の表現などから多くを学ぶ。滞仏中も二科展へ出品を続け、帰国後の1928年の第15回二科展に、古典的な趣のある『立てるソニヤ』等渡欧作22点を特別陳列する。同年、二科会会友となる。
1929年、1930年協会に参加し、1930年、二科会会員に推挙されるが、同年退会し、里見勝蔵、高畠達四郎、三岸好太郎、林武、福沢一郎らと独立美術協会を創立、日本独自の油彩画を確立することに意欲を燃やす。1931年、その第1回展に『独立美術首途(第二の誕生)』などを出品。そして、善三郎らが提唱する「日本的洋画」の主張(日本的風土に則したフランス・フォーヴィスムの受容)は広く画壇に波及するところとなる。
1936年、代々木から国分寺に転居し、ここで『箱根』、『東風』、『春遠からじ』などの作品を制作。1940年、紀元二千六百年奉祝美術展に『松桜図』を出品。1943年、第6回新文展審査員を務め、『上げ汐』を出品する。
戦後は、1946年、読売新聞社主催の新興日本美術展の審査員を務め、1950年、読売新聞社主催現代美術自選代表作十五人展に出品。1951年、第19回独立展で『アルプスへの道』を発表。荻窪にアトリエを移し、『犬吠岬』、『ミモザの花その他』、『バラ』などの作品を制作する。独自のフォーヴィズムから、日本の伝統的なフォルムと装飾的な表現の導入、写実への再確認などの展開を示しながら、「日本人の油絵」の創造を目指した。1953年、青年期に罹った結核が再発し、療養と制作の日々を送る。
1958年、週刊朝日に有馬稲子をモデルにした表紙画を描く。1959年、銀座・松屋で開催された朝日新聞社主宰の児島善三郎自選展に、初期作品から近作まで絵画、彫刻百二点を出品する。
1961年2月、千葉市の額田病院に入院。1962年3月22日、肝臓癌にて逝去。享年69。

国武 久巳(くにたけ ひさみ、1930年 – 2008年)は、日本のシルクスクリーン版画家、グラフィックデザイナー。1952年からフリーランスデザイナーとして、カレンダーなど商業美術の分野を中心に活動し、1960年に日本宣伝美術会会員となる。1979年以降、版画作品の制作に取り組む。福岡県出身。

受賞歴
1958年 – 第6回世界観光ポスター展(ベルギー)特選受賞。
1959年 – 全国カレンダー展にて日本印刷工業会会長賞受賞。
1987年 – 全国カレンダー展にて大蔵省印刷局長賞受賞。
1993年 – 全国カレンダー展にて通商産業省生活産業局長賞受賞。

坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 – 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。

来歴
1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。
坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は久留米藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。

代用教員時代(20歳)
前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。
1907年(明治40年)、『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)、第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。
1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。
1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。
1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。
第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1954年(昭和29年)、毎日美術賞、1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。1969年(昭和44年)、87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。
坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。
坂本と青木繁
青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されたり、並べて論じられることが多い。文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論をいくつも著している。
上述のように、坂本が上京を決意したのは1902年(明治35年)のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であった。幼児から「神童」と持てはやされていた坂本は、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から、上京を決意したとするのが通説である。同じ1902年(明治35年)の11月から12月にかけて、坂本、青木繁および同郷の画学生・丸野豊の3名は連れ立って群馬県妙義山・信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。青木が1911年(明治44年)、満28歳の若さで死去すると、坂本は青木の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走した。
坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであったようである。坂本の死後、遺品のなかからは青木が画学生時代に描いたスケッチ等の未発表作品60数点が発見された。坂本がこれら青木作品の存在を誰にも知らせず、数十年に亘って秘蔵していた理由は明らかでなく、さまざまな推定がなされていない。
代表作
水より上る馬(1937)(東京国立近代美術館)
放牧三馬(1932)(石橋美術館)

タイガー立石(タイガー たていし、1941年12月20日 – 1998年4月17日)は、日本の画家、漫画家、絵本作家、陶芸家。本名、立石紘一(たていし こういち)、福岡県田川市出身。

来歴・人物
筑豊の炭鉱町に出生、少年時代を戦後復興から高度成長期の時代、映画、昭和歌謡など文化の中で過ごした。武蔵野美術短期大学へ進学・上京を期に美術活動開始、最初は本名で活動し、画家中村宏と「観光芸術協会」を結成、わずか2年で解散するも中村ともどもアバンギャルドな作風・活動方針(雑踏の中で自作を掲げて歩く路上歩行展など)で一時代を築いた。
1968年にタイガー立石に改名、漫画家として活動。公私に渡り関わりが深かった赤塚不二夫に影響されたギャグタッチの作品を多く残した。ペンネーム・タイガーの由来は立石が寅年生まれだからで、生涯美術作品にも虎をモチーフにしたものが少なくなかった。
漫画家として活動が軌道に乗った矢先突然漫画家として活動を打ち切り、妻とイタリアへ移住。 「環境を変えることこそが創作意欲を刺激する。ひとところへの安住・現状への満足は拒否」というこのスタンスは立石の生涯最後まで貫かれたモットーであった。なお、立石はイタリア以外の国も含め計13年間ヨーロッパ滞在・活動継続したが、この間イタリアでは、コマ割り絵画(漫画のコマ割りだけでなくストーリー性も持ち込んだ)を発表、また美術・商業双方の建築・デザイン・イラストレーションなど仕事の実績を積んだ。なお、1971年にはオリベッティ社配下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所に在籍している。
1982年の帰国の理由は「安住への拒否」であった。帰国後は絵本を上梓。1980年代の『たくさんのふしぎ』では、森毅や野崎昭弘の文による、数理をテーマとした絵本の絵を担当した、といった作品もある。1990年、ペンネームを立石大河亞(たていし たいがあ)に改名する。1990年代には作陶を開始、1995年に養老渓谷にアトリエ兼住居を移した。立石従来の作品殆どが絵画・漫画等「平面もの」だったので、立体作品に取り組みたいという意識があったのだろう。立体作品には上・横のいずれの方向からみてもあらゆる違った趣のある作品が多く誕生、もちろん従来からの絵画も充実させ、続々新作を発表。
1998年、肺がんのため56歳で死去。

髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年〈明治23年〉8月6日 – 1975年〈昭和50年〉9月17日)は、大正 – 昭和の画家。独学で絵の道に入り、透徹した精神性でひたすら写実を追求。終生家族を持たず、画壇とも一切関わらず隠者のような孤高の人生を送った。本名彌壽(やじゅ)、字は光雄。

経歴
福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学に進む。(27期生)。長兄で詩人の宇朗は15期生、その無二の親友で画家青木繁は19期生。中学卒業後、東京美術学校進学を希望するも家業を継がず詩作と禅修行に没頭した「宇朗」に懲りて父親に許されず、野十郎は地元第五高等学校(熊本市)を敬遠、前年開校したばかりの第八高等学校(名古屋市)に進学する。初代校長はのちに文部省視学官、東京音楽学校長、女子学院院長等を歴任する大島義脩(当時38歳)であった。野十郎は第二乙類を選択、同校には動植物担当教授で“ハス博士”の大賀一郎がいた。1年のとき父善蔵病死。
卒業後は東京帝大農学部水産学科(4期生)進学が決まっていた。「傷を負った自画像」は同大時代の作品とみられる。1916年(大正5年)7月同大を首席で卒業するも、恩賜の銀時計授与を辞退、恩師からの金時計は受けたという。卒論は「魚の感覚」。2、3年大学に残り助手を務めた。翌1917年(大正6年)母カツも病死。1921年(大正10年)9月野十郎初の個展を開き、「椿」「けし」等を展示。1924年(大正13年)二度目の個展。
1929年(昭和4年)兄弟らの援助で北米経由欧州独・仏・伊へ旅立つ。ルネサンス期の独アルブレヒト・デューラーや伊レオナルド・ダ・ヴィンチ、仏ミレーなどに感銘を受けたとみられるが、本人によって語られた体験談の類は一切ない。1933年(昭和8年)帰国後久留米の実家に戻り、酒蔵をアトリエとし「椿柑竹工房」と名付け、1935年(昭和10年)に博多・中洲の生田菓子舗で滞欧作品展を開催、67点を展示。翌年上京し北青山に住む。1937年(昭和12年)、1941年(昭和16年)と個展開催。敗戦直前の1945年(昭和20年)5月、空襲により青山を焼け出され、福岡県八女郡豊岡村(現・八女市)の姉スエノを頼り、裏山の作業小屋をアトリエとする。
戦後1948年(昭和23年)再び上京、青山南町に知人の世話で住み着く。しかし昭和30年代に入り1964年東京オリンピックに伴う道路拡張計画に巻き込まれ都内のアパートを転々とし、1960年(昭和35年)千葉県柏市増尾にアトリエを設ける。古希老人の独り暮らしであった。これと前後してささやかな個展を開く一方、東北、秩父、小豆島、京都、奈良など各地を放浪、増尾のアトリエも立ち退きを余儀なくされるが、1971年(昭和46年)1月同地の知人伊藤家屋敷内のアトリエに落ち着く。傘寿を過ぎていた。
1975年(昭和50年)に入り体調を崩して病床につき、6月柏市の田中農協病院に入院。翌月退院後野田市の特別養護老人ホーム鶴寿園に入所するも、病魔に勝てず9月心不全で黄泉の国へと旅立った。享年86。野田市海福寺で葬儀。市川市立霊園に五輪塔が建立され、「不娶 寡欲 画道専一」と刻印されている。また、1988年(昭和63年)東京・目黒区美術館の野十郎展開催に合わせ、久留米市山本町耳納の曹洞宗観興寺に野十郎碑が建てられた。
野十郎は日頃ボロ着でも、町へ出るときは洗練された紳士の服装であったという。これは盃一杯の米も無駄にせず、着物は絹物は一生身につけずに木綿で通したが、最上の黄染めの反物を村一番の織り手に織らせて晴れ着とする凝った趣味の持ち主であった父善蔵の衣装哲学を受け継いだものといえよう。
仏心厚く、臨済宗から真言宗に親しみ、空海の「秘密曼陀羅十住心論」を座右の銘とした。枕元にあった遺稿「ノート」によると、「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば落とす程写実は深くなる。写実の遂及とは何もかも洗ひ落として生まれる前の裸になる事、その事である」と深い精神性を湛えた独特の写実観を示している。「花も散り世はこともなくひたすらにたゞあかあかと陽は照りてあり」と「ノート」最終頁に綴られていたという。
没後の脚光
1980年(昭和55年)福岡県立美術館で「近代洋画と福岡展」が開催、同県出身の有名画家に混じり無名の野十郎の作品1点「すいれんの池」が日本ゴム株式会社の出品によって展示された。当時新人学芸員の西本匡伸はこの絵に強烈な印象を覚え、散逸した作品76点を集めて回り、1986年(昭和61年)秋同館にて「高島野十郎展」を開催、注目を集めた。その後NHK「日曜美術館」で放映され全国的に知られるようになり、晩年を過ごした柏市(2003年)のほか、三鷹市(2006年)などでも展覧会が開かれ、同年テレビ東京、2008年(平成20年)には再度NHKでも取り上げられて俄然脚光を浴びるに至った。
和太鼓奏者・林英哲は野十郎に深い共感を抱き、2000年に彼をテーマにした組曲「光を蒔く人」を作曲している。
主な作品
「絡子をかけたる自画像」 油彩・画布 1920年 福岡県立美術館蔵
「古池」 油彩・画布 1945-47年 個人蔵
「すいれんの池」 油彩・画布 1949年 福岡県立美術館蔵 – 高島家の縁者で日本ゴム株式会社(現・アサヒコーポレーション)社長永田清の求めで制作された作品。かつては久留米の同社クラブハウスの壁を飾っていた。取材場所は新宿御苑。現在確認されている野十郎作品のなかで最も大きい(89.0×129.9cm)。
「からすうり」 油彩・画布 制作年不詳 個人蔵
「菜の花」 油彩・画布 昭和40年頃 法人蔵
「雨 法隆寺塔」 油彩・画布 昭和40年頃 個人蔵 – 盗難にあった4年後、床下に隠されていたのを発見された。表面・裏面とも図柄が解らないほどカビに覆われ、木枠は完全に性が抜け、年輪の冬材部分のみが残っている状態だった。しかし、絵の具層の固着は良好で劣化は殆ど認められなかった。汚れやカビを除去する溶剤にも、絵の具は溶けなかった。木枠が腐ったにも関わらず、キャンバスの亜麻布が丈夫だったのは、絵にワニスが分厚く塗られてからである。絵の裏にも淡緑色の塗料(油性と思われる)が丹念に塗られていた為、表面のワニスを削っただけでほぼ修復できたといわれる。その後、所有者の家で火事に遭い、画面の上半分が煤けてしまったが、被害は前回より軽くすんだ。髙島の絵に対する執念が分かる一品。
「壷とりんご」 油彩・画布 制作年不詳 個人蔵
「蝋燭」 – 画業初期から晩年まで描き続けられた連作。「気に入らなければ焚き付けに」と、髙島が菓子折り代わりに周囲に配っていたとされる。久世光彦は目黒でこの内の一点を見て「唸っている」と評した。
「月」 – 連作。深緑の夜空に、満月の光がしみ出すように溢れている。余計なもの一切をそぎ落とし、光と闇が拮抗した野十郎の最終的な到達点を示した作品。

多賀谷 伊徳(たがや いとく、1918年4月1日 – 1995年4月24日)は、日本の画家。前衛的な抽象画を多く描いた。
年譜
1918年 – 4月1日、福岡県芦屋町に生まれる。
1938年 – 第2回主線美術展に初入選する。池袋モンパルナスの一員となりシュールレアリスムの画家達と交遊を持つ。
1939年 – 第9回独立美術展に入選、同年、福沢一郎等が創立した美術文化協会に参加する。同年徴兵にて大刀位置一洗飛行隊に入隊し除隊まで戦地より美術文化展に出品を続ける。
1944年 – 第5回美術文化展で美術文化賞受賞。
1946年 – 美術文化協会会員となる。
1947年 – 前衛美術家が集まり結成された日本アヴァンギャルド美術家クラブに参加、有楽町アーニー・パイル芸術劇場内の図書館に出品して米国コレクターに注目を受ける。
1954年 – 末松正樹と共に渡欧、パリ個展開催、サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル展出品。岡本太郎の招きで二科会に参加。
1958年 – 九州有田で磁器壁画の制作に成功。
1960年 – 岡本太郎と共に二科を脱会、その後は欧州、東京年各1回の個展活動に入る。
1972年 – 年北九州市庁舎1階市民ホールの壁画完成。
1974年 – タガヤ美術館開館。
1977年 – 多賀谷伊徳作品集を刊行。
1981年 – 西日本文化大賞受賞。
1987年 – スウェーデン個展。
1988年 – 北九州市立美術館大個展後一線を退く。
1995年 – 4月24日午前10時55分、北九州市八幡西区萩原中央病院にて脳血栓で死去。享年77。

竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 – 1988年4月8日)は、福岡県生まれの挿絵画家、労働運動家、実業家。
長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。

概要
福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。1924年4月、熊本無産者同盟の設立に加わる。このほか、被差別部落出身ではないにもかかわらず熊本水平社の創立に参加したとの説もあるが、鈴木義昭はこの事実を確認できなかったとした上で、「『熊本無産者同盟』などを通して、側面から積極的に『熊本水平社』の活動に協力したものと考えられる。英太郎とともに『熊本無産者同盟』を結成した岩野猛、岩尾家貞はともに『熊本水平社』の創立メンバーでもある」と述べている。
1924年秋、革命運動には経済学の知識が必要との理由で上京。第一外国語学校英文科ならびに川端画学校に入門。学費を稼ぐ手段として挿絵や本の装丁のアルバイトを始めたことから挿絵画家となり、横溝正史が編集長をしていた当時の「新青年」にて、江戸川乱歩「陰獣」の挿絵を担当した。その後、「新青年」を中心に活躍。傑作の呼び声の高い横溝正史「鬼火」の挿絵のほか、甲賀三郎、大下宇陀児、夢野久作らの小説に作品を発表した。
1936年、二・二六事件を境に絵筆を折り、単身渡満。『月刊満洲』『コドモ満洲』の編集に従事するも、のち日本に送還され、東京品川で鉄工所を経営。
1942年、後妻つね子の郷里の甲府に疎開。1944年、山梨日日新聞社に入社し、新聞記者となる。戦後は山梨日日新聞労組委員長や日本新聞労連副委員長、地労委労働者側委員、山梨日日論説委員を歴任。県会議員補欠選挙に立候補して落選。印刷所経営の傍ら、地労委会長や家裁調停委員などを務め、中小零細企業の労使紛争解決に貢献。またテレビ山梨『日曜放談』にレギュラー出演した。
戦後は岩田専太郎や壺井繁治らによる中央画壇復帰の誘いを固辞し、もっぱら自らの楽しみとして絵筆を執っていたが、1967年には長男の労の頼みで『祇園祭』宣伝パンフレット用の作品を制作した他、1974年、労のプロモートによりマレーネ・ディートリヒが来日した際には、赤と青のディートリヒ、黒の素描、映画スチルをコラージュしたポスターを制作。ディートリヒはホテルの部屋に飾られたそれらの作品をいたく気に入り、帰国の際にポスターと黒の素描を持ち去ったという[要出典]。
晩年は長女や孫のためにサービス会社「中部文教」を設立。1988年、東京新宿の街頭で虚血性心不全の発作を起こして急死。1989年の一周忌に、東京・弥生美術館および甲府・八百竹ギャラリーにて労の監修による回顧展が開催された。

田崎 広助(たさき ひろすけ、1898年9月1日 – 1984年1月28日)は、洋画家。福岡県八女郡北山村(現・八女市立花町)生まれ。本名・田﨑廣次。
1917年福岡県師範学校(現福岡教育大学)第二部卒業、坂本繁二郎に師事。二科展出品後の1932年から1935年渡仏。帰国後1939年一水会の創立に参加。1949年より日展審査員、58年日展評議員、67年理事、78年顧問。61年日本芸術院賞受賞、67年日本芸術院会員、68年勲三等瑞宝章受章、74年ブラジル政府コメンダドール章オフィシエ章受章、1975年文化勲章受章、文化功労者。

幼少期
明治31年9月1日、父・田﨑作太郎と母・モトの長男として、福岡県八女郡北山村(現立花町)に生まれる。絵心が芽生えたきっかけは、3歳の頃に母・モトが嫁入りの時に持ってきた高価な銅の桐たんすに、金火箸で模様を刻み込んだのがはじまりだとされている。これは、当時幼かった広助が、母を喜ばせてやりたいという一心の下での行動であったが、作品を見たとたんに凍りついた母の表情に事の重大さに気付き、後の祭りだと悟る。なお、広助はこの時の作品を人生初の「処女作」であり、後に彼自身のライフワークとして、画家の道を歩み始めた衝動の芽生えであったと、自らの伝記「東洋の心」(1979年・西日本新聞社出版)の中で物語っている。また、画の本能は、母・モトから受け継いだものと述懐しており、幼年期は、主に故郷の恵まれた山河等の大自然を駆け巡り、雄大な自然を相手に無心に絵を描いていったという。
雅号・広助の由来
広助という雅号の由来については、本人曰く、出展は母方の姓に由来するという。母・モトの実家は立花藩漢学者の家柄で、助広と名乗っていた。その助広をひっくり返して広助にしたのが、雅号の由来とされている。また、中学時代にすでに田崎草雲という雅号を名乗り、得意げになっていたが、ほどなくして、父や親族らの話から、すでに幕末から明治初年にかけ、江戸在住の足利藩士で、南画の達筆な同姓同名の人物が存在していたことが判明し、一度は意気消沈したものの、反面、草雲が没した年と広助の出生が同じだったことから、親族間では「草雲の生まれ変わりに違いない」などと囁かれたと伝えられている。その後、作家である長男の調査により、この草雲という人物は、広助の人相、骨柄が非常によく酷似していたとされている。
八女中学時代
明治38年4月、北山村立北山尋常小学校から福岡県立八女中学校へ進学。自宅から町の中学まで、実に約二里(8キロ)ほどの距離があったため、当初は寄宿舎へ入れられたが、中学3年の時より寄宿舎を出て、自宅から通学しはじめる。特に雨が振り、地がぬかるむ日は、一張羅の長靴をぶら下げ、裸足で急いで学校まで走ったという。そして、後にこの時の経験が、彼の強靭な健脚を鍛え上げ、後年、画家になり、「山岳画家」と呼ばれる礎になったとされている。ゆえに老年、病気にならずに済んだのは、この時の経験の賜物であったと述懐している。また、この時、田崎の絵の才能を見込んだ恩師の強い期待と推薦により、美術学校を志願するが、父・作太郎の反対に遭い、くしくも断念することを余儀なくされたという。
福岡師範時代
大正5年、八女中学を卒業後、福岡師範学校第二部へ進学。父・作太郎の長男であるがゆえに強い期待をかけられ、教師の資格を取るべく、嫌々ながらも師範学校に入学する。ここで、恩師・東本貞二(とうもとていじ)と出会い、師範学校を終えた後、大正6年20歳の春、福岡県八女郡上妻村の上妻高等小学校に奉職。この時に独学で絵画修業をするようになる。なお、この時に仲間の画学生らが催した洋画展に出品作を出し、田崎の作品だけ売れ、当時の価格にして、十二円(当時の教師の月給が十九円ほど)で絵が売れたという。買い手は、久留米市の大きな呉服屋の旦那で、最初に売れた作品は、「祈祷院の雪景色」という12号ほどの油絵だった。これを契機に名が売れ始め、以後活躍の幅が広くなったとされている。
上京と勘当
大正9年の春、県立高等女学校の教師ポストに空き席が入り、恩師・東本貞二の推薦もあり、図画の教諭として採用される予定であった。知らせを知った父・作太郎も喜びに沸く中、反面、田崎自身はこの時、新任地へ向かうべき切符は購入せず、恩師と父への申し訳ない想いを残しつつも、反対に東京行きの切符を購入し、ほどなくこれを知った厳格な父は、彼を勘当したという。なお、田崎はこの時の彼自身の心境を「偶発的ではあったが、久しく鳴動を続けながら耐えた火山が、必然的に一気に噴火した瞬間でもあった」と回顧している。
関東大震災に遭い被災する
大正12年9月1日、本郷の駒本小学校にて図画の教鞭をとりつつ、絵の勉強に明け暮れていた中、絵仲間達を連れ立って、上野の森に出かけ、下宿先へ戻り間もなく、関東大震災に遭い被災する。駆けつけてきた弟の貞吉とともに最寄の学校にて、救援活動をするが、震災から一か月半ほどした後、東京を去り、京都へ移り住む。
作風
風景画、特に日本の山を多く描き、その中でも阿蘇山を題材にしたものが多い。代表作は「初夏の阿蘇山」。

寺田 健一郎(てらだ けんいちろう、1931年 – 1985年)は、芸術家。福岡県福岡市出身。西南学院大学卒業。明るい原色がうねる生命力あふれる抽象画を描いた。
昭和26年二科展初入選。1934年二科特選。その後会友となるが、1952年退会。
一時期、西南学院中学校の美術担当講師をつとめ、1950年代谷川雁らの文学運動“サークル村”に参加。「午前」同人。食通で、西日本新聞に「昭和一ケタのくいしんぼ日記」「エカキの小休止」を連載するなど、随筆やテレビで幅広く活動。またがん手術の体験記「直腸切断」を出版。優しくシャイでいて強じんな博多町人の代表のような人だった。

絵画作品
太郎のトランプ
ドン・キホーテ
貝の花
花の宴
艶容
作品赤
タブー
陽気な人
アルル(絶筆)
などがある

冨田 溪仙(とみた けいせん、1879年12月9日 – 1936年7月6日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。

略歴

1921年のポール・クローデルと冨田
福岡県博多に生まれる。本名は鎮五郎(しげごろう)。字は隆鎮。別号に雪仙、渓山人など。冨田家はかつて福岡藩の御用を務め、渓仙が生まれた頃は麹屋町(現在の博多区川端)で素麺製造業を営んでいた。福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事。のち仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。各地を旅し幅広い研鑽を積む。横山大観にみとめられ,大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員となる。京都で死去。駐日フランス大使であった詩人のポール・クローデルや俳人河東碧梧桐との交遊も知られている。
主な作品

渓仙筆 享保雛 1932年

渓仙筆 前赤壁図 1921年
「雲龍図」 聖福寺 紙本墨画 1幅 款記「渓仙画」「燕巣樓」印 同寺山門階上の天井画[1]
「鵜船」 京都国立近代美術館 紙本著色 明治45年(1912年)第6回文展
「宇治川の巻」 絹本著色 大正4年(1915年)再興第2階院展
元は全4巻。現在「宇治橋」「伏見」の巻は京都市美術館蔵、「木幡」の巻は滋賀県立近代美術館蔵[1]、「天之瀬(?)」の巻は所在不明。
「風神雷神」 高島屋史料館 絹本著色 四曲一双 大正6年(1917年)再興第4階院展
「麒麟鳳凰」 櫛田神社 絹本著色 六曲一双 大正13年(1924年)
「御室の桜」 福岡市美術館 絹本着色 二曲二双 昭和8年(1933年)第20回院展
「伝書鳩」 京都市美術館 絹本着色 二曲一双 昭和9年(1934年)第21回院展
「万葉春秋」 京都国立近代美術館 絹本著色 二曲二双 昭和11年(1936年)改組第1回帝展

中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 – 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。

経歴
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。洋画家の中村琢二は実弟にあたる。1909年、福岡県立中学修猷館に入学。修猷館在学中に、生涯の友となる三輪寿壮、日高信六郎らと出会い、児島善三郎、中村琢二らと、絵画同好会「パレット会」を創立し、西洋絵画を勉強する。また、福岡に滞在中であった青山熊治に指導を受けた。
1914年、修猷館を卒業し、美校受験を志すが許されず、第三高等学校の受験準備の名目で京都に出て、鹿子木孟郎の内弟子となる。1915年、画家志望に反対する父を鹿子木に説得してもらい、美校受験が許可され、上京し本郷絵画研究所に入所。同年4月、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学ぶ。1919年、第8回光風会展に、『お茶の水風景』を出品し初入選する。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞。1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学する。ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞。1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞する[1]。1931年、36歳にして帝展の審査委員となり、その後も文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)などと改名した官展の審査員を歴任。1937年、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する軍艦足柄に乗艦して渡英している。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作することとなり、1942年、シンガポールからインドシナへの旅行中に、コタ・バルに15日間滞在し、『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、野間美術奨励賞を受賞。作戦記録画『コタ・バル』(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が第1回大東亜戦争美術展に展示され、朝日文化賞(後の朝日賞)を受賞。中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている。
1945年5月、東京大空襲により代々木の住居とアトリエを焼失。戦後は、小金井市中町に転居し永住。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙された。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。妻をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターにおいて死去。享年72。
1989年、中村の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと、「中村研一記念美術館」を独力で開館しており、後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、2006年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」として開館した。

中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 – 1988年1月31日)は、日本の洋画家である。日本芸術院会員。
経歴
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。
1928年、フランス留学から帰国した兄・研一の勧めで画家を志し、1930年、『材木座風景』で第17回二科会展に初入選。同年から、兄の紹介で安井曽太郎に師事する。1937年、一水会が創立されるとこれに参加し、1938年、第2回一水会展に『母と子』などを出品して岩倉具方賞を受賞。1939年、第3回一水会展に『ボレロの女』などを出品して一水会賞を受賞。1941年、第4回文部省美術展覧会(新文展)で『女集まる』が特選を受賞する。
1942年、一水会会員となり、1946年、同委員となる。1953年、第15回一水会展出品作『扇を持つ女』で、芸能選奨文部大臣賞を受賞。1962年、第5回日本美術展覧会(日展)で『画室の女』が文部大臣賞を受賞し、1963年、同作品、及び第24回一水会展出品作『男の像』により、日本芸術院賞を受賞する。
1965年、紺綬褒章を受章。その後、1973年、日展参与、1980年、日展参事、1981年、日本芸術院会員、1982年、日展顧問を歴任した。
風景画、肖像画を主に描き、中間色を用いた穏やかな作風、明快な構図、軽妙な筆触を示した。
1988年1月31日、急性心筋梗塞のため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去。享年90。

中山 忠彦(なかやま ただひこ、1935年3月20日 – )は、日本の洋画家、日本芸術院会員。日展元理事長(現在は理事)。白日会会長。福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。

経歴

9歳で大分県に疎開。1950年に15歳で県展に入選。
中津西高校(現大分県立中津南高等学校)卒業後上京して伊藤清永に入門。アルバイトのかたわら三輪孝主宰の阿佐ヶ谷洋画研究所に学ぶ。
1954年日展に入選。
1958年白日会会員に推挙される。
1965年の結婚以来、良江夫人をモデルにした美人画を描き続け、1996年日本芸術院賞受賞、1998年芸術院会員となる。
2002年伊藤清永の後任として白日会会長に就任。
2009年日展理事長に就任(2013年に退任)。
2015年日展理事を退任し、新顧問に就任。
『中山忠彦画集』(ビジョン企画出版社、2006)がある。

野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年12月17日 – )は、日本の洋画家。文化勲章受章者。

来歴
福岡県生まれ。1943年東京美術学校洋画科卒、直ちに応召、満州で発病し入院。
1946年第2回西部美術展覧会で福岡県知事賞、1952年滞仏、1956年サロン・ドートンヌ会員、1958年安井賞受賞、1964年帰国、1968年東京芸術大学助教授、のち教授、1978年『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞、1981年芸大辞職、1992年芸術選奨文部大臣賞、1994年福岡県文化賞、1996年毎日芸術賞受賞、2000年文化功労者に選ばれる。2014年、文化勲章受章。
画業以外では「信濃デッサン館」の館主窪島誠一郎と協力し、戦没画学生(とくに母校・東京美術学校から召集された者達)の遺作の収集・保存に奔走、それが「無言館」設立(1997年)へ直結した実績をもつ。
親族
私生活では二度結婚もいずれも先立たれた経験をもつ。
最初の妻、陽子はフランスに呼び寄せてわずか1年でガンを発症。闘病の末に早世した。
後妻に福岡で有名なクラブを経営していた武富京子を迎え、別居結婚の形をとるもたびたび九州へ足を運んでいた。九州滞在時は20代から癌などの病歴があった後妻を健康面・店の経営面両面から支えつづけた。後妻は後年までクラブを切り盛りするも、2001年、体力の限界などからクラブを完全閉店し、まもなく死亡。
野見山の実妹は田中小実昌の妻。田中の死去まで実の兄弟のような交流があった。姪(田中の次女)は小説家田中りえ。

藤田吉香(ふじた よしか、1929年(昭和4年2月16日)- 1999年(平成11年5月25日))は、福岡県久留米市櫛原町生まれの洋画家。
九州大学工学部造船科(専門部)卒 (1948年)
松田塾にて松田実に洋画の指導を受ける(1949年)
東京芸術大学美術学部芸術学科卒(1955年)
スペインの王立サン・フェルナンド美術アカデミーヘ留学(1962年-1966年)
国画会会員。京都造形芸術大学名誉教授。
群を抜く描写力と清澄な色彩で「静」でありながら、圧倒する存在感をもつ静物画が多数。
また、中央にモチーフを配し単色の背景というシンプルな画面構成であり、
抽象画的な感覚も持ちあわせながらも、古典的な技法にもすぐれ各所でその力量を窺うことができる。
昭和の一時代を築いた画家である。
受賞歴等
1959年(昭和34年)第33回国展(国画賞) 「すわる」「ほおむる」
1967年(昭和42年)第41回国展(国画会サントリー賞) 「空」
1968年(昭和43年)昭和会展(優秀賞) 「連雲」
1970年(昭和45年)第13回安井賞展(安井賞) 「春木萬華」
1981年(昭和56年)第1回宮本三郎記念賞 「牡丹」
1984年(昭和59年)久留米市文化章

村石 米齋(むらいし べいさい、1949年10月13日 – )は、日本の水墨画家、書道家である。
福岡県柳川市に、書道教諭の子として生まれる。福岡教育大学特設書道科を卒業後、九州大学文学部美学美術史研究室の研究生を経て、県立高等学校で書道教諭を勤めた。
学生時代より国宝等の模写などにより水墨画を独学で学び、数回の個展を経て、大徳寺興臨院に襖絵を納めた。
フィラデルフィア美術館に数点の書が収蔵されている。
主な活動
1993 パリと東京にて個展
1994 大徳寺興臨院襖絵の制作を開始
2001 ロンドンにて開催されたJAPAN FESTA 2001に出展
2006 NHKハイビジョン特集『天才画家の肖像「雪舟 画聖と呼ばれた男」』に出演、「秋冬山水図(冬景図)」の実物大模写を行った
2008 大徳寺興臨院襖絵の完成
2008 NHK教育テレビジョン『新日曜美術館 王羲之「蘭亭序」なぜ書の最高峰といわれるのか』に出演、同書の臨書を行った

矢野 眞(やの まこと 1932年 – 2012年11月3日)は福岡県出身の画家。
福岡市博多生まれ。旧制中学校1年次在学時、1945年6月3日、神戸市で空襲に遭い、多数の焼死体を目の当たりにする。この時の体験がきっかけとなり、戦争犠牲者たちへの鎮魂の絵を描き始めた。
福岡県立修猷館高等学校在学中はトロンボーンを演奏。高校卒業後、上京して東京藝術大学を受験するも失敗。行きつけの酒場のマダムに紹介されて会社に就職し、商業デザイナーとして活躍。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のバックなどを描いている。今日では、仏画家として国際的に評価が高い。代表作に「千手観音と二十八部衆」「薬師如来と十二神将」など。
妻の渋沢道子(澤道子)は詩人,作家で、澁澤龍彦の実妹。「絵で拝む日蓮聖人大曼荼羅」「千手観音と二十八部衆」など、妻との共作による著書もある。

山本作兵衛(やまもと さくべい、さくべえ、1892年5月17日 – 1984年12月19日)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。
日本で初めてユネスコ記憶遺産(世界の記憶)の登録を受けた炭鉱画で知られる。

人物
1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)生まれ。7歳から父について兄とともに炭鉱に入り、立岩尋常小学校を卒業後、1906年(明治39年)に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となった。以後、採炭員や鍛冶工員として、筑豊各地で働きながら、日記や手帳に炭鉱の記録を残した。福岡県田川市にある炭鉱事務所の宿直警備員として働き始めた60代半ばに、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と絵筆を取るようになり、自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱の様子を墨や水彩で描いた。余白に説明を書き加える手法で1000点以上の作品を残した。主要作は画文集『炭鉱に生きる』(1967年)。「ヤマの絵師」として知られた。1984年(昭和59年)、老衰のため死去、92歳没。
国内初のユネスコ記憶遺産
田川市は当初、市内に残る旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓など炭鉱遺産について「九州・山口の近代化産業遺産群」の一環として世界遺産登録を目指していた。2009年10月に選考から漏れたが、関連資料として紹介した作兵衛作品の記録画は、現地調査した海外の専門家らから高く評価された。このため、作兵衛作品を保管する田川市と福岡県立大学は、ユネスコ記憶遺産登録を目指すこととし、田川市が所蔵する福岡県指定有形民俗文化財584点を含む絵画585点と関連資料(日記6点、雑記帳や原稿など36点)と、山本家が所有し同大学が保管する絵画4点と関連資料(日記59点、原稿など7点)を合わせた計697点について、市と大学共同で2010年3月、ユネスコ本部(パリ)に推薦書を送付した。2011年5月25日に国内初の登録を受けることが決まった。

笠 青峰(りゅう せいほう、1937年 – )は日本画家。福岡県北九州市出身。福岡市在住。藤田隆治に師事。
1967年、サンフランシスコ「動」画廊で初個展
1996年、アトリエを湯布院に移す。
「桜」、「富士」等「日本」に根ざした豊かな自然を題材に、四季の季節感を生かした作品を描く。「桜」は沖縄から北海道まで「桜」を描き続けているシリーズである。
日本表現派委員。

 

 

外尾 悦郎(そとお えつろう、1953年 – )は福岡県福岡市出身の彫刻家。スペイン、バルセロナのサグラダ・ファミリア主任彫刻家。京都嵯峨芸術大学客員教授。

経歴
福岡県立福岡高等学校、京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業。非常勤講師を経て、1978年バルセロナに渡りアントニ・ガウディの建築、サグラダ・ファミリアの彫刻に携わり、2013年現在は専任彫刻家。ネスレ日本のネスカフェゴールドブレンドのCMで一躍活動が日本中に知れ渡る。
2000年に完成させた「生誕の門」が、2005年、アントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録される。
リヤドロ・アートスピリッツ賞、福岡県文化賞(2002年、交流部門)受賞。
日本とスペインとの文化交流の促進の功績により、2008年度外務大臣表彰受賞。
2012年、国際社会で顕著な活動を行い世界で『日本』の発信に貢献したとして、内閣府から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選ばれた。
妻はピアニストの比石妃佐子(ひせき ひさこ)。

山崎 朝雲(やまざき ちょううん、1867年3月22日(慶応3年2月17日) – 1954年(昭和29年)6月4日)は、彫刻家。筑前国博多櫛田前町(現・福岡県福岡市博多区冷泉町)生まれ。本名は春吉。別号は羯摩。代表作に「大葉子」。
経歴
1884年(明治17年) – 仏師・高田又四郎に師事。
1894年(明治27年) – 第4回内国勧業博覧会に出品、宮内省買い上げ。
1895年(明治28年) – 上京。高村光雲に師事する。
1900年(明治33年) – 日本美術協会幹事。
1907年(明治40年) – 同門の平櫛田中・米原雲海らとともに日本彫刻会を結成。
1927年(昭和2年) – 帝国美術院会員。
1934年(昭和9年)12月3日 – 帝室技芸員
1937年(昭和12年) – 帝国芸術院会員。木彫による写実的表現に新生面を開く。
1952年(昭和27年) – 文化功労者。

井上 伝(いのうえ でん、天明8年12月29日(1789年1月24日) – 明治2年4月26日(1869年6月6日))は、久留米絣の創始者。

生涯
天明8年(1788年)に橋口屋という米穀商を営む平山源蔵・美津の娘として筑後国久留米の通町で出生。7歳の頃から織機を習い始め、13歳の頃に藍染めの布地に白い斑点ができたことから独自の絣の図案を考案した。
21歳のときに原古賀町の井上八次に嫁ぎ二男一女を儲けるが、伝が28歳のとき八次は病死。嫁いでからは試行錯誤しながら久留米絣を「阿伝加寿利」として売り出した。3人の子をかかえながら井上の織物の美しさは評判になり、最初は二十人前後だった弟子が井上が40歳のころには3400人を超えた。そのうち400人は各地に散ばり久留米絣は久留米藩の特産品となる。
晩年は実家近くに工場を設けたり、久留米絣の出張教授をしたりした。明治2年(1869年)に82歳で死去。墓所は久留米市寺町の徳雲寺。
久留米絣は昭和51年(1976年)に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定された。
家系図
伝が出生したときには祖父は既に死去していた。長男の兵太郎は稲益屋という店の娘「ミサキ」と恋仲になり伝を渋々了承させ稲益家の婿養子となり、長男の半吾と3人の娘をもうけた。次男の浅吉は幼くして死去。長女の糸は伝の知り合いの店で働いていた儀助という男と結婚し一男二女の子宝に恵まれる。

小川 規三郎(おがわ きさぶろう、1936年11月30日 – )は博多織職人。重要無形文化財「献上博多織」の保持者に認定されている(いわゆる人間国宝)。
1936年、福岡県福岡市博多区に生まれ、1951年より父であり後の人間国宝・小川善三郎に師事する。2003年重要無形文化財献上博多織技術保持者に認定。
博多織の機械化、分業化が進む中で、今なお製作過程の全てに関わり、手織りで仕上げる。

経歴
1936年 福岡県福岡市に生まれる。
1986年 日本伝統工芸展に初入選。
1994年 日本伝統工芸染織展での「縞献上浮織帯」で、日本経済新聞社賞受賞。
1995年 博多織献上研究会による「五色献上帯」復元に参加。
2003年 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
2006年 博多織デベロップメントカレッジ学長に就任。

小島 与一(こじま よいち、明治19年(1886年)8月18日 – 昭和45年(1970年)6月6日)は博多人形師。
福岡県福岡市中市小路生まれ。市小路小学校(現・福岡市立博多小学校)卒後、日本画家・上田鉄耕に師事した。そのあと、博多人形師白水六三郎に入門。
名人しての評価を受け、多くの弟子を育成した。
火野葦平の小説「馬賊芸者」のモデルともいわれている。歌人吉井勇の歌に「人形師与一の髪のいや白し 艶話の主のいまや老いさぶ」と歌われた。

村石 米齋(むらいし べいさい、1949年10月13日 – )は、日本の水墨画家、書道家である。
福岡県柳川市に、書道教諭の子として生まれる。福岡教育大学特設書道科を卒業後、九州大学文学部美学美術史研究室の研究生を経て、県立高等学校で書道教諭を勤めた。
学生時代より国宝等の模写などにより水墨画を独学で学び、数回の個展を経て、大徳寺興臨院に襖絵を納めた。
フィラデルフィア美術館に数点の書が収蔵されている。
主な活動
1993 パリと東京にて個展
1994 大徳寺興臨院襖絵の制作を開始
2001 ロンドンにて開催されたJAPAN FESTA 2001に出展
2006 NHKハイビジョン特集『天才画家の肖像「雪舟 画聖と呼ばれた男」』に出演、「秋冬山水図(冬景図)」の実物大模写を行った
2008 大徳寺興臨院襖絵の完成
2008 NHK教育テレビジョン『新日曜美術館 王羲之「蘭亭序」なぜ書の最高峰といわれるのか』に出演、同書の臨書を行った

龍源齋 大峰(りゅうげんさいたいほう、1940年5月18日 – )は、福岡県八女市出身の書道家(書家)。

経歴
1940年(昭和15年)5月18日 – 紙卸商を営む両親のもとに生れる
1943年(昭和18年) – この頃より、習字を習い始める。(中村飛泉、倉富康堂、馬場孤山、藤田一禅に師事)
(途中略)
1982年 – 全日本教育書道連盟会長就任
1987年(昭和62年)12月20日 – 大韓民国社会教育文化賞 受賞
1988年(昭和63年)11月 – ナショナルボザール協会会長賞 受賞(フランス芸術展最高賞)
2003年(平成15年) – 全日本書道連合会会長就任
2003年(平成15年)12月3日 – 文化庁長官表彰 受賞
2004年(平成16年)2月16日 – 福岡県教育文化功労者表彰 受賞
2006年(平成18年)現在 – 産経国際書会 副理事長、公募展団体・全日展書法会(全日展)会長[2]、書道団体・全日本教育書道連盟 会長、全日書道連合会会長、全日書道検定士会会長、全日書写書芸協会会長を務める。
2014年(平成26年)2月17日 – 全日展会長を引責辞任
ねつ造事件
自らが会長を務めていた「全日展」において、優秀賞の一つ「都道府県知事賞」のうち、2013年度開催分で16県において、架空人名義の人物がそれを受賞していた問題が発生した。この問題が発覚したとき、龍源齋は会長を辞し、2014年2月28日、文化庁を訪れて、「架空人名義の作品はすべて自分が書いた」と、作品のねつ造を認めた。
龍源齋は「その都道府県からの応募がないと、次年度から後援が受けられなくなり、知事賞の表彰もなくなってしまうので書いた。書道振興のためにやった」とねつ造について述べた。

小石原焼(こいしわらやき)は福岡県朝倉郡東峰村にて焼かれる陶器。主に生活雑器が焼かれる。
1682年に、福岡藩3代藩主黒田光之が伊万里から陶工を招いて窯場を開いたのが始まりで、筑豊地方で最初の焼き物産地となった。高取焼の開祖、八山の孫、八郎も当地に移り住んで開窯した。刷毛目、飛び鉋、櫛描き、指描き、流し掛け、打ち掛けなどによって表現される独特の幾何学的な文様が特色で、素焼きを行わず、釉薬を流し掛ける。後にその技法は大分県日田市の小鹿田焼に伝わっており、小鹿田焼とは姉妹関係にある。日本の陶芸界に大きく影響を与えたバーナード・リーチによって、「用の美の極致である」と大きく称賛された。小石原には窯元が56軒ある。

上野焼(あがのやき)は福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる陶器。
江戸前期に高名な茶人でもあった大名、細川忠興が小倉藩主となった際、朝鮮人陶工、尊楷(上野喜蔵)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まり。江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられるほど、茶人に好まれた。明治期には衰退の様相を見せたが、1902年に復興、1983年には通産省(現在の経産省)指定伝統的工芸品の指定を受けた。
上野焼の特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であることである。また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変(窯の中で釉薬が溶け、千変万化の模様を作り出すこと)を生み出すのが特徴で、絵付けはまず用いていない。

高取焼(たかとりやき)は、福岡県直方市、福岡市早良区などで継承されている陶器で、400年ほどの歴史を持つ県下有数の古窯。
歴史
高取焼は元々、福岡県直方市にある鷹取山の麓にて焼かれており、朝鮮出兵の際に黒田長政が陶工、八山(日本名・八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。開窯は1600年と言われている。窯場には永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯があり、これらを「古高取」と呼んでいる。
江戸時代には黒田藩の御用窯として繁栄、元和年間には唐津からの陶工を招き、技術を向上させている。そして寛永年間に入ると、2代藩主黒田忠之は小堀政一(遠州)と交流を深め、遠州好みの茶器を多く焼かせた。それが縁で、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶産地として名を高めることとなった。この頃の中心は白旗山窯で、遠州好みの瀟洒な茶器は「遠州高取」と呼ばれた。
その後、八山の孫の八郎が高取焼第5窯として小石原で小石原焼きを始め(小石原高取)、より繊細な作品が多く焼かれた。以後は、福岡の大鋸谷に移転(御庭高取)、18世紀には「東皿山」と「西皿山」に分けられ、細分化されていった。今日では数カ所の窯元が至る所に残っており、廃窯した窯場にも再び火が灯ったりと、再興している。
特徴
高取焼は時代によって、全く毛色が違っている。高取焼草創期の「古高取」の中でも、特に「内ケ磯窯」は豪放かつ大胆な織部好みの意匠で、ロクロによって成形された真円にヘラで歪みを加えており、今日の視点から見れば芸術性豊かで興趣をそそる志向があるが、その奥に隠された思想により御用窯廃絶の憂き目に遭遇する事になった。後の「遠州高取」になると器は端正になり、古高取とは対照的に瀟洒、風流人好みの作品が焼かれるようになった。「小石原高取」の頃になると技術は爛熟し、「遠州高取」より更に繊細な作風となっている。なお、小石原高取は民窯の小石原焼に多少の影響を与えている。今日の作風は小石原高取以後の技法で、使用する釉薬は多い。個性的な釉薬が多く、高取黄釉、春慶釉、高宮釉、道化釉、ふらし釉、真黒釉などがある。

蒲池焼(かまちやき)は福岡県柳川市及び瀬高町で焼かれる焼き物。分類すると、「土器」に含まれる。
歴史
天正20年に肥前国の名護屋にて土器を焼いていた彦三郎方親の作品が、名護屋城在陣中の豊臣秀吉に目を留められ激賞、御朱印を与えられたのが始まり。彼は家長の姓を賜り、彼の土器は年の春、秋二回、伏見城の秀吉に献されたといわれる。この家長氏が蒲池焼の生みの親であるが、彼は元々美濃国の陶工であり、佐賀の鍋島直茂に従っていたため出征し、朝鮮で土器の技法を習ってきていた。
秀吉の歿後は柳川藩主立花氏の目に留まり、筑後国土器司役の役職を授かり、当時の三潴郡蒲池村(現柳川市西蒲池)で、藩の御用窯として土器を焼くことになり、幕府にもその作品が献上されていた。
明治になると藩の保護を失い、あっけなく廃窯。その後、1973年(昭和48年)に伊藤征隆が再興に成功し、現在は数件の窯元が伝統的な技法を用いた器を焼いている。

特徴
この蒲池焼は「土器」に分類される珍しい焼き物である。また、非常に器の質が脆いために破損しやすい。それ故、400年余りの歴史を持ちながら古い時代の現存品は極めて稀である。意匠は素焼きの器に煙で燻して、黒い斑紋を付けるのが特徴。火に強いため、土風炉、焙烙などの茶道具が多く作られた。

二川窯(ふたがわかま)は、筑後国(現、福岡県)三池郡二川で焼かれた陶磁器。
歴史
江戸時代末期頃に陶土の原料が発見され、弓野焼の職人を招いて製作された。
特徴
刷毛目地に、鉄、銅で松などの絵付けをしたものが多い。

一の瀬焼
星野焼

博多絞
博多曲物
博多鋏
津屋崎人形
木うそ
博多張子
福岡積層工芸ガラス
博多独楽
八朔の馬
手吹きガラス
孫次凧
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筑前ブンブン凧
直方だるま
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