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佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年8月18日 – 1963年9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。
略伝
福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17才で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30才で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。
1935年帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員。1939年大日本護国会が紀元二千六百年記念行事の一環で計画した《和気清麻呂像》の制作では、朝山、北村西望、朝倉文夫の3人でコンペとなり、朝山の作品が選ばれた。しかしこの時、師・朝雲が「銅像のような大作は佐藤より朝倉さんや北村さんの方が良い」との言を聞いて朝山は憤慨し、朝山の号を返上し師弟の関係を絶った。これから1948年に玄々と号するまで、本名の清蔵で通した。1945年戦争によりアトリエが全焼する。1948年『老子』の一節「玄之又玄、衆妙之門」から玄々と名乗る。1949年、京都妙心寺塔頭、大心院に移住、アトリエとする。戦後は日本芸術院会員。
猪熊 克芳(いのくま かつよし、1951年 – )は、日本の画家。福島県郡山市出身。
猪熊ブルーと呼ばれる青色を用いたパステル画、アクリル画の作品が多数ある。
大山 忠作(おおやま ちゅうさく、1922年5月5日 – 2009年2月19日)は、日本画家。日展会長。福島県二本松市出身。妻和子。
長男は日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ)役員の大山昌作、娘は女優の一色彩子。
1943年、学徒出陣の為、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)を繰り上げ卒業。1946年、復員し、その年の第2回日展『O先生』が初入選。翌年、高山辰雄らの日本画研究団体「一采社」に参加。山口蓬春に師事した。人物画、宗教的作品、花鳥、風景など高範な題材を得意とする。1961年、日展会員となり、事務局長、理事長などを歴任。1973年、日本芸術院賞受賞[1]。1986年、日本芸術院会員。1999年、文化功労者。2006年、文化勲章受章。2009年2月19日、敗血症による多臓器不全のため死去。86歳。
関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 – 1919年6月16日)は、日本の洋画家である。
1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川に住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職、そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。1915年、会社を辞めた関根は知人と共に長野県へ放浪、そこで洋画家の河野通勢と出会った影響などを受け、ほぼ独学で絵画を学んでいく。同年、16歳の時に描いた「死を思う日」が第2回二科展に入選。1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」が樗牛賞に選ばれたが、関根はこの頃より心身共に衰弱し、翌年結核により20歳で夭折した。絶筆となった「慰められつゝ悩む」は後に紛失し、現在は作品を写した絵葉書のみが残されている。関根の代表作である「信仰の悲しみ」は後に日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評され、2003年に重要文化財の指定を受けている。
高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 – 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。
略歴
1886年(明治19年)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった。
1901年(明治34年)に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校3年へ編入学した。1903年(明治36年)、同校を総代として卒業して日本女子大学校へと進んだ。寮生として同校に入学した智恵子は普通予科を経て家政学部へと進んだが、在学中に油絵に興味を持つようになり、自由選択科目の洋画の授業ばかりを受けていたという。1907年(明治40年)に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選び、反対する両親を説得して東京に留まり、太平洋画会研究所で絵画を学んだ。1911年(明治44年)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなく、若き女性芸術家として人々に次第に注目されるようになっていった。また、青鞜社の田村俊子らと親睦を深めた。
智恵子と光太郎
智恵子は光太郎の評論「緑色の太陽」に共鳴していたものの面識はまだ無かったが、同年12月、柳八重の紹介で光太郎のアトリエで光太郎と出会った[1]。光太郎との出会いは智恵子の心を揺り動かして絵画の創作を増進することとなり、1912年(明治45年)4月に太平洋画会展に2点の油絵を出品し、6月には団扇絵展を開催した。1913年(大正2年)9月、上高地に行く光太郎を追いかけて一緒に絵を描いた時に結婚の意思を固めたという。1914年(大正3年)12月、駒込林町(現・東京都文京区千駄木)のアトリエで光太郎との同棲を始めた。この頃は金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも実りの有る創作活動を続けていたが、1918年(大正7年)5月の父・今朝吉の死、1929年(昭和4年)の長沼家の破産・一家離散、自身の絵画制作への閉そく感など心労が多く、また、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、1931年(昭和6年)8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中に統合失調症の最初の兆しが表れた。
ゼームス坂病院跡地の慰霊碑 『レモン哀歌の碑』
1932年(昭和7年)7月15日、大量の睡眠薬アダリンを飲み自殺を図るが、未遂に終わる。1933年(昭和8年)8月23日に光太郎と入籍し、療養のため光太郎と共に東北地方の温泉を巡ったが、病状は逆に悪化してしまった。母や妹一家の住む千葉県の九十九里海岸へ住居を移したが改善は見られず、1935年(昭和10年)2月に東京南品川のゼームス坂病院に入院した。精神病には易しい手作業が有効だと聞いた光太郎は病室へ千代紙を持っていき、1937年(昭和12年)頃より智恵子は病室で紙絵の創作をするようになり、病床から千数百点の紙絵を生み出した。1938年(昭和13年)夏ごろから具合が悪化して10月5日、長らく冒されていた粟粒性肺結核のため死去した。遺骨は東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬された。光太郎は智恵子が亡くなってから3年後の1941年(昭和16年)に、生前の智恵子を偲んで詩集『智恵子抄』を発表した。智恵子の忌日の10月5日は夫光太郎が智恵子の臨終をうたった詩『レモン哀歌』にちなんで、レモン忌と呼ばれる。1995年(平成7年)には療養先のゼームス坂病院跡地に「終焉の碑」が建立されている。
吉井 忠(よしい ただし、1908年7月25日 – 1999年8月5日)は、日本の洋画家。
福島県出身。1928年帝展で「祠」が初入選。
1938年美術文化協会創立会員。1946年、日本美術会創立会員。1964年主体美術協会創立会員。
太平洋美術研究所に入り、靉光、麻生三郎、井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明、松本俊介らを知る。
熊谷守一、峯孝、寺田政明、高山良策らと池袋モンパルナスと称される美術家の地域コミュニティを形成。
戦後、「アトリエ」などを中心に美術評論分野でも活躍。児童書などに挿絵を書く。「土民派」を自認した。
福島県立美術館、宮城県美術館などに作品が所蔵されている。
娘の吉井爽子も画家(女子美術大学洋画科出身)である。
若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、1914年8月8日 – 1995年11月7日)は、日本の洋画家。コラージュの世界的第一人者である。
年譜
1914年 福島県岩城郡湯本町三函179(現 いわき市常磐湯本町三函179)に生まれる
1927年 福島県立磐城中学(現 磐城高等学校)に入学
美術クラブ「X会」に入り、近藤広記、柴田善登に学ぶ
1934年 東京美術学校(東京芸術大学)油絵科に入学
藤島武二教室に入る(同級生に杉全直・鎌田正蔵・土橋淳・鈴木新夫・1年後輩に佐藤忠良)
1937年 第2回新制作派展(現新制作協会)に入選、(人物 モデル紀志子)以後毎年出品を続ける
1938年 東京美術学校油絵科卒業
1939年 若松紀志子(旧姓樹下・じゅげ)と結婚 (池袋モンパルナス・アトリエ村に住む)
1941年 第6回新制作派展において新作家賞受賞(石の村・巌)
1944年 第9回新制作派展において岡田賞受賞。萩原高雄の絶賛を受ける(五月)
1945年 広島市にて終戦を迎える。8月6日、爆心地より5kmで原子爆弾を被爆
1946年 6月福島県平女子商業学校(現福島県立平商業高等学校)美術講師
1947年-1951年 毎日新聞美術団体連合展
1948年 福島県総合美術展運営委員になる
1949年 個展(マルトモホール、いわき市)
1951年 第5回福島県総合美術展において福島県教育委員会賞、福島民報賞受賞
1955年 第1回ユマニテ展(マルトモホール、いわき市)(ユマニテ会・1948年の「ユマニテ」結成に影響を受け1954年に結成した勉強会)
1956年 佐藤忠良、中谷泰、竹谷富士雄、鳥居敏文、吉井忠、森芳雄、朝倉摂、鈴木新夫らと
常磐炭鉱・古河/好間炭鉱(常磐炭田)をスケッチする。
第20回新制作協会展において好間炭礦(小田炭礦)で小田炭礦A・小田炭礦B・石炭を運ぶ女・で新会員に推挙される。
6月 磐城女子高校(現福島県立磐城桜が丘高等学校)美術講師
1961年 いわき市平旧城跡の城山の家(篠原一男設計)に移転(2011年2月号住宅建築掲載)
1962年 福島工業高等専門学校講師となり、1985年まで務める
1963年 個展(竹川画廊、東京銀座)-1964年
1965年 個展(資生堂画廊、東京銀座)-1966年 (北国の記念碑 い・ろ・は) ヴィンセント・プライスが9点購入
1966年 ヴィンセント・プライス・コレクションとして、アメリカ・カナダに巡回展 [3]
1967年-1969年 個展(東京麻布・ポールギャラリー) 外人コレクター・海外購入の契機になる(海外へ約100点が出ている)
1968年 個展(平市民会館、いわき市)
1970年 個展(草野ホール、いわき市)
1970-1971-1973-1976-1977-1981年 個展(東京銀座・ギャラリーオカベ)
1971年 コラージュ作品「舞」ニューヨーク近代美術館、国際協議会買い上げ 草野美術ホール”京の冬の旅”素描展
1972年 現代日本の美術選抜作家12人展(スエーデン・デンマークに巡回)
1973年 福島県文化功労賞受賞・鎌田正蔵と南ヨーロッパに旅行 岩谷徹(フランス パリ)訪問
1975年 いわき市文化センター(いわき市10周年記念に建設)緞帳に伝承(1970年製作)採用・製作:京都龍村美術織物・原画:いわき市立美術館収蔵
1976年 福島現代美術展に出品・ いわき市民ギャラリー設立、会長に就任
1977年 現代日本の抽象絵画展(岡山県総合文化センター、岡山)
1978年 いわき民報賞受賞(株式会社 いわき民報社)
1979年 鎌田正蔵と東ドイツ旅行岩谷徹(フランス パリ)訪問
1979年-1981年岩手大学教育学部/特設美術科/非常勤美術講師
1981年 ストライプハウス美術館会館(現ストライプハウスギャラリー、東京)記念 現代の美術13人展
欧州旅行-ロダン美術館佐藤忠良個展ツアーにて-岩谷徹銅版画lメゾチント作家(フランスパリ)訪問
1982年 個展(いわき市すまいギャラリー)
1983年 第1回地域文化功労者文部大臣賞受賞。個展(ストライプハウス美術館)・
すまいギャラリーにて6人展(つれだっていわきを描いた作家たち展 -1954年頃)個展(すまいギャラリー)・三越銀座ギャラリー現代抽象画展・図録 線と響
『響と彩り』若松紀志子著(随筆集いわき民報に掲載)(草野心平と佐藤忠良が寄せ書き)
福島大学教育学部美術科・岩手大学教育学部特設美術科 非常勤美術講師
1984年 現代東北美術の状況展(福島県立美術館、福島)
1985年 若松光一郎半世紀の歩み展(いわき市立美術館、いわき市)『若松光一郎』 いわき市立美術館 著 半生記の歩み
1988年『福島県洋画界と三人の画家たち』梅宮 英亮 著 歴史春秋出版
1990年 いわき市・市政功労賞受賞
1991年 線の表現一眼と手のゆくえ・展(埼玉県立近代美術館、浦和)・ロンドンのジャパン・フェスティバル‘A NEW WAVE’展
1995年 11月7日午前6時死去・享年81
1996年 若松光一郎の世界展(財団法人池田20世紀美術館、伊東)・『「鳥の歌」の響き』 安竜昌弘 著 (平成8年4月から5月までいわき民報に掲載)
2005年 9月『ELICONA 若松紀志子からのメッセージ』 日々の新聞社 編
2010年 若松光一郎展 律動する色彩(いわき市立美術館、いわき市)
2012年 エリコーナ10周年記念-若松光一郎と池袋モンパルナスの仲間たち
渡辺 あきお(わたなべ あきお、1949年 – )は日本のイラストレーター、画家、絵本作家、挿絵画家。本名は渡辺秋夫。デビュー時は渡辺安芸夫という名で活動していたが、80年代後半より渡辺あきおに変更。幼児向けの絵本ではわたなべあきおという名も使用する。動物を主人公とした絵を多く描く。日本児童出版美術家連盟会員。福島県三春町出身。
福島県田村郡三春町に生まれる。
虫プロダクションでアニメーションの製作に携わる。
フォルム洋画研究所で絵画について学び、挿絵画家、イラストレーターとして仕事をする。
TBS系列『まんが日本昔ばなし』(MBS制作)で美術背景を担当する。
油彩の制作をしながら絵本、挿絵、装丁などで活躍。
1993年 絵本『ジャンボゴリラとこどもたち』(こやま峰子作)で1993年度横浜赤い靴文化賞特別賞を受賞。
手がけた本や絵本、紙芝居、ポストカードブックなどは2016年までに130作品以上を数える。
2000年に画集『猫のおしゃべりと海の向こうで見た風景』、2002年に第2画集『猫と出会った風景』を刊行する。
岩谷 徹(いわや とおる) (1936年-)は、日本の版画家。銅版画の一種であるメゾチント・カラーメゾチント技法作家。
福島県郡山市にて1936年に生まれる。福島県立安積高等学校を卒業し、東京水産大学(現在の東京海洋大学)に19歳のとき入学した。24歳で 郡山市へ帰省。1965年29歳で菅野慶子と結婚。1971年35歳でフランスに渡り、パリの屋根裏で28年間一度も引っ越す事なく生活し、150点のメゾチントを作成した。それらの作品のサイズは中から小作品が多く、カラー作品は主版ばかりでなく他のすべての色版もメゾチント技法を使った。35年間で大作20点を含む30数点の能面シリーズを完成させた。1999年に帰国した。
斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 – 1997年11月14日)は、木版画家。福島県河沼郡会津坂下町生まれ。
独学で独自の木版画技法を確立。浮世絵版画の技法や西洋作家の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した。安井曽太郎の木版に魅せられ、版画を研究した。版画の他に油彩や水墨画も数点残している。
略歴
1932年 白日会展に油彩画《高円寺風景》を出品、初入選。
1933年 東光会展で入選。
1935年 国画会展で初入選。
1936年 日本版画協会展に木版画《少女》を出品、初入選。
1937年 国画会展版画部門で初入選。
1944年 朝日新聞社に入社。
1948年 サロン・ド・プランタン展で1等賞。
1951年 第1回サンパウロ・ビエンナーレに《凝視(花)》を出品、在聖日本人賞受賞。
1954年 朝日新聞社を退社。
1956年 アメリカ合衆国国務省、アジア文化財団の要請でアメリカやメキシコ各地で版画の指導を行なう。
1957年 リュブリャナ国際版画ビエンナーレ、アジア・アフリカ諸国国際美術展で受賞。
1964年 ハワイ大学より招待を受ける。
1969年 カナダ・グレータービクトリア美術館、アメリカ・サンディエゴ美術館で個展開催。
1976年 福島県の県外在住者知事表彰。柳津町名誉町民となる。
1981年 勲四等瑞宝章
1995年 文化功労者。
1997年 福島県柳津町に斎藤清美術館が完成。11月14日永眠。
大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)は、福島県浜通り北部の浪江町大堀で焼かれる陶器である。略称として大堀焼(おおぼりやき)ともいう。
歴史
江戸時代の元禄年間に、中村藩士の半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのが始まり。浜通り北部は江戸時代の中村藩であり、中村藩は相馬野馬追の伝統を有する為、藩主相馬氏の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として好まれる。
中村城下(相馬市中村)の相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品として親しまれたのに対して、この大堀相馬焼は大衆向けの民窯として親しまれた。とりわけ、中村藩は陶磁器を特産物として奨励したため、江戸時代末期には100軒近い窯元が誕生し、中には農作との兼業も見受けられた。
大堀焼は戊辰戦争後にすっかり衰えたが、第二次世界大戦後に再興し、1978年には国の伝統的工芸品の指定を受けた。又、大堀焼から連想して2000年代後半に生まれた名産品が、なみえ焼きそばである。
しかし、2011年3月の福島第一原子力発電所事故により、福島第一原発から10kmに位置していた大堀は強制退去を余儀なくされ、協同組合もろとも二本松の小沢工業団地内に移転した。
釉薬の原料となる砥山石が原発事故の放射能汚染により採掘不可能となり、窯元が廃業の危機に見舞われたが、砥山石と同じ発色をする釉薬を開発し生産が再開された。
特徴
青ひび
鈍色の器面に広がる不定型なひびのことで、鉄分を含んだ釉薬を用い、還元炎焼成後に冷却するために生じる。その後、ひびに墨を塗り込むために黒く見える。
走り駒
大堀相馬焼の特徴でもある意匠。走り駒とは名の如く、疾駆する馬のこと。
二重焼
大堀相馬焼の湯呑みは冷めにくいといわれるが、その原理に相当する技術。轆轤による成形の段階で、外側と内側を作っておき、焼成前に被せることで行われる。この技術を用いた焼き物は大堀相馬焼以外ではまず見られない。
会津本郷焼(あいづほんごうやき)とは、福島県会津美里町(旧会津本郷町)周辺を産地とする陶器及び陶磁器である。会津本郷せと市が毎年8月第一日曜日に開かれている。
歴史
1593年に領主である蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりである。17世紀中頃に藩主の保科正之の求めに応じて瀬戸から陶工・水野源左衛門が呼ばれて本格的に焼き物の基礎を築いた。1800年には有田や京都で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の製法を伝え現在の会津本郷焼の原型が完成する。現在は大堀相馬焼(福島県双葉郡浪江町)についで窯元17と東北2位の規模を誇る、1993年には通商産業省から伝統的工芸品産地として指定される。
特徴
会津本郷焼で使われる釉薬に「飴釉」がある。飴釉は文字通り飴色で光沢を持っている。この飴釉を使った代表的な陶器が「鰊鉢」で古くからニシンの山椒漬けに使われてきた。 また、磁器を製作している窯元も多いが、とりわけ会津藩主保科正之が弓隊を配し開拓させた集落地である御弓新田(現在の新町)の唯一の磁器の窯元となった佐竹富太郎の次男富三郎が明治5年に分家し、富三窯を開窯し、4代目富三は、日本原産の花椿をモチーフにし、染付の技術技法とともに会津焼の伝統を現代に生かすデザインを創案した。
会津慶山焼(あいづけいざんやき)は福島県会津若松市で焼かれる陶器である。文禄元年、当時の藩主であった蒲生氏郷が、若松城の前身である黒川城に屋根瓦をふく際に、唐津から陶工を招いて焼かせたのが始まりといわれる。近代に入り、慶山焼は瓦、れんが、土管などの大がかりな資材を焼く一方で、ねり鉢や丼鉢、植木鉢、茶器、日常生活に欠かせない焼き物全般を制作していたが、戦後まもなくに途絶えてしまった。
現在の会津慶山焼は、1974年に窯元「香山」(現在は“やま陶”)が復興させたものである。復興後はもっぱら湯呑みや茶器・花器などを焼いているが、観光地でもあるために土産物も多い。昔ながらの手ひねりや灰釉などの伝統的な製法・技法は堅持しながらも、ビールジョッキ、コーヒーカップなど感覚の新しい作品も数多く作っている。また、平成9年3月31日に福島県から県の伝統的工芸品に指定されている。
相馬駒焼(そうまこまやき)とは、福島県相馬地方に産する陶器。相馬焼ともいう。茶器類が多く後に走馬を描き、駒焼き(こまやき)ともいう。
歴史
1648年(慶安元年)、京都の仁清のもとで修行した陶芸家、田代源吾右衛門(のちに清治右衛門と改名)が相馬郡中村(現相馬市)に開窯。以後、相馬藩の御用窯として手厚く保護された後、現代に至る。
二本松万古焼(にほんまつばんこやき)は、福島県二本松市で焼かれている陶磁器。
歴史
嘉永6年(1853年)二本松藩主が、京都から陶工を呼びよせ、下級武士の副業として教えたのが製作の開始と伝えられる。
現在、1軒が残るのみ。
その他
独自の製法で地元の粘土を使いつくられている。
焼き上がりの色あいと、指でつけた梅花模様に特徴がある。
田島萬古焼
会津塗 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津塗会津塗会津塗会津塗
美しい光沢…息づく伝統
発祥は室町時代と伝えられているが、会津塗が本格的につくられるようになったのは、天正十八年(一五九〇)蒲生氏郷が会津に入り、木地師や塗師を前任地の近江より招き、盛んに奨励したのが始まりである。以後、代々の藩主の手厚い保護によって技術の向上、技法の完成へと向かい、おおいに発展してきた。会津漆器は、大きく分けてお椀等の丸物とお盆、文庫等の板物とに分かれ、多種多様な技法を駆使し、優美な意匠と堅牢・品質とが相まって、一時は輸出品の主役であった。漆器としては、昭和五十年、全国で二番目に国の伝統的工芸品の指定を受けている。会津塗は、高蒔絵や平蒔絵、沈金など伝統的技法がふんだんに、丹念に塗りあげられていく。とくに目を引くのは、油を加えて光沢を出す上塗りの技法「花塗」。この工程ではわずかの塵がつくことも許されない高度な技術が要求される。それだけに塗り上がりの美しい光沢がひときわ輝く。加飾では、江戸時代に生まれた「消金蒔絵」が会津塗を代表する技法で、蒔絵はたっぷりと漆を含ませた筆で描き、乾燥の具合を見てその上に金粉の最も細かくなった消粉を真綿で蒔きつけていく。会津塗のしっとりした気品のある輝きの中には、時代に応じた商品への探求心や職人たちの妥協を許さないこだわりと互いへの信頼の絆がある。漆器は多くの職人で構成する分業制によりひとつの商品が出来上がる。木地を挽く木地師、箱を作る惣輪師、漆を塗る塗師、加飾する蒔絵師……その前に木を伐る人もいれば、漆を採集する人もいる。一個のお椀もたくさんの人と技の集大成。だからあたたかい手のぬくもりが感じられるのだろう。そこに込められた会津人ならではの熱い思いが時代を超えて伝わるのだ。生活様式が様変わりし、扱いの難しさなどもあり、漆器の需要が減少しているのが現状だが、歴史とともに培ってきた日本ならではの良さ、漆の美しさを失ってはならない。
会津塗 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津塗会津塗会津塗会津塗
美しい光沢…息づく伝統
発祥は室町時代と伝えられているが、会津塗が本格的につくられるようになったのは、天正十八年(一五九〇)蒲生氏郷が会津に入り、木地師や塗師を前任地の近江より招き、盛んに奨励したのが始まりである。以後、代々の藩主の手厚い保護によって技術の向上、技法の完成へと向かい、おおいに発展してきた。会津漆器は、大きく分けてお椀等の丸物とお盆、文庫等の板物とに分かれ、多種多様な技法を駆使し、優美な意匠と堅牢・品質とが相まって、一時は輸出品の主役であった。漆器としては、昭和五十年、全国で二番目に国の伝統的工芸品の指定を受けている。会津塗は、高蒔絵や平蒔絵、沈金など伝統的技法がふんだんに、丹念に塗りあげられていく。とくに目を引くのは、油を加えて光沢を出す上塗りの技法「花塗」。この工程ではわずかの塵がつくことも許されない高度な技術が要求される。それだけに塗り上がりの美しい光沢がひときわ輝く。加飾では、江戸時代に生まれた「消金蒔絵」が会津塗を代表する技法で、蒔絵はたっぷりと漆を含ませた筆で描き、乾燥の具合を見てその上に金粉の最も細かくなった消粉を真綿で蒔きつけていく。会津塗のしっとりした気品のある輝きの中には、時代に応じた商品への探求心や職人たちの妥協を許さないこだわりと互いへの信頼の絆がある。漆器は多くの職人で構成する分業制によりひとつの商品が出来上がる。木地を挽く木地師、箱を作る惣輪師、漆を塗る塗師、加飾する蒔絵師……その前に木を伐る人もいれば、漆を採集する人もいる。一個のお椀もたくさんの人と技の集大成。だからあたたかい手のぬくもりが感じられるのだろう。そこに込められた会津人ならではの熱い思いが時代を超えて伝わるのだ。生活様式が様変わりし、扱いの難しさなどもあり、漆器の需要が減少しているのが現状だが、歴史とともに培ってきた日本ならではの良さ、漆の美しさを失ってはならない。
奧会津編み組細工 福島県伝統的工芸品(平成15年10月1日指定)
奥会津編み組細工奥会津編み組細工奥会津編み組細工奥会津編み組細工
雪深い会津の冬の手しごと
奥会津編み組細工とは、奥会津地方の山間部で採取されるヒロロ、山ブドウの皮やマタタビの蔓などの植物を素材とする編み組細工。山間地における積雪期の手仕事として行われ、日常の生活に用いるカゴやザルなどが製造されてきた。現在の主な産地は三島町で、奥会津三島編組品振興協議会を結成して、多くの工人が編み組細工に取り組んでいる。手さげ籠・抱え籠・肩かけ籠・菓子器・炊事用具などが作られ、自然素材ならではの風合いとしっかりとした手編みのつくりが特徴である。農閑期の手仕事という生産形態は今も変わらない。多くの工人は高齢者で、夏は農業に従事しており、農業と編み組細工の兼業である。分業はされておらず、工人それぞれが材料採取から完成まで一人で取り組んでいる。
【ヒロロ細工】“ヒロロ”とはミヤマカンスゲのこと。その性質は丈夫で水に強いため、昔から蓑やスカリ(背負いかご)などの材料として重宝され、靴やカゴなども多数作られた。ヒロロを縄にない、シナノキの薄皮を編み糸にして編み上げていく。会津の長い冬の中で育まれたヒロロの編組品は、編み目が細かく、レース編みのような仕上がりが特徴で、素朴さの中にも独特の繊細さがある。人気の抱えバッグは編み込みだけで約十日かかるという。
【山ブドウ細工】昔、三島町では木を伐る道具や弁当を運ぶ入れ物を自ら山ブドウの皮を編んで木挽きたちがこしらえていたという。生活の中で必要に迫られ作られた工芸品は今では貴重なものとなっている。梅雨時に山ブドウの皮を採取し、半年ほど陰干しする。皮をなめし、湿りを含ませてから木型を使って編み上げる。扱いにくい山ブドウの皮を手で毛糸を編むように見事に編み上げていく。
【マタタビ細工】三島町では昔から、天然のマタタビを素材とした日用雑貨品がどの家庭でも作られ使われてきた。まず、自生しているマタタビを選別し、皮を剥ぐ。同じ厚さで均等に素材を作ってゆくには熟練の技が必要だ。弾力性のある素材を竹細工のように幾何学模様に縮んでいく。マタタビ細工は、水はけがとても良いので、米あげや野菜入れ等のザルとしてもってこいである。
大堀相馬焼 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
大堀相馬焼大堀相馬焼大堀相馬焼大堀相馬焼
脈々と三百年の伝統
青みがかった色、器全体に入った細かいひび、馬の絵、独特の二重構造……一度見たら忘れることのできない強い個性を持つ大堀相馬焼。素朴な味わいの中にも気品を漂わせ、また、どこか親しみのこもった楽しさが感じられる。相馬焼は暮らしに独特の存在感で彩りを添えてきた。創業は今から約三百年前、相馬藩士・半谷休閑の下僕であった左馬という人物によって創始されたのが始まりとされている。この技は次第に近隣へと広がり、やがて相馬藩の特産物として保護育成されるようになった。江戸末期になると、窯元の数は百戸を超え、北海道から関東、関西方面にまで販路を広げるようになる。しかし明治時代に入り、藩の援助がなくなってから、産地は次第に衰退し、現在窯元の数は二十七軒。昭和五十三年には国の伝統的工芸品の指定も受けている。大堀相馬焼の特徴は、「青ひび」といわれるひび割が、器全体に拡がって地模様になっていること。この青ひびは青磁釉によるもので、主原料となる砥山石は大堀焼産地ただ一カ所にのみ産出する原料である。茶器や酒器、花器など日用陶器の他、美術工芸品にいたるまでさまざまな作品が作られている。これらのほとんどが青ひびに勇壮な走り駒が描かれたものであるが、これらの他に灰釉、あめ釉、白流釉などの釉を使用した作品もある。また、珍しい特徴として「二重焼」という構造がある。入れたお湯が冷めにくく、熱いお湯を入れても持つことができる。寒い東北ならではの風土性から生まれた工夫なのだろう。現在、大堀相馬焼に新しい風が吹き込まれようとしている。相馬焼の枠にとらわれず、伝統技法を生かしながら、時代感覚を取り入れた独自のデザインで作品を作り出している若い世代が増えてきた。彼らは、「次第に衰えていく大堀を、大堀相馬焼の産地としてもう一度蘇らせたい」という想いで必死だ。次々と、新しい作品が送り出される。たえまない創造の繰り返しがやがて伝統になってゆくのかもしれない。
起上り小法師 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
起き上り小法師起き上り小法師
会津の正月の風物詩
多種多様な会津の民芸品はもともと会津藩主蒲生氏郷が、下級藩士の内職として作らせたという。正月十日、会津若松の「中心街」で開かれる十日市で人気の縁起もの、起上り小法師もそのひとつである。三センチほどの手のひらにのる大きさが特徴で、胴が赤で、頭が黒、目、眉、口が、細い線で描かれている。その姿がなんともかわいらしく、心をなごませてくれる。家族の数より一個多く買うのが習わしという。一族繁栄、家内安全を祈り、小さな体で元気に働き、転んでも起上ることを誓ったもので、七転八起の忍耐と人生の象徴として愛されている。
会津天神 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津天神会津天神
おだやかでどこか気高く
今から約四百年前、時の会津藩主蒲生氏郷がわざわざ京から職人を呼んで作らせたのが会津天神の始まりとされる。天神様はご存知の通り学問の神として信仰される菅原道真を祀った神様。それが人形となり、伝統玩具として各地に伝わっている。道真にちなんで頭がよくなるように出世するようにという子供にかける親心のあらわれだろうか。会津天神はその顔つきの温和さと品の良さで全国の天神の中でも屈指のものと人気も高い。頭は桐の木粉を固めたもので、体は張り子。昔ながらの製法で一つ一つ、ていねいに手作りされ、変わらない愛らしさを今に伝えている。
赤ベコ 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
赤ベコ赤ベコ
病気を払った会津の赤牛伝説にちなむ
ゆらゆら揺れる首に愛らしい顔立ち。赤ベコは会津の民芸玩具の代表である。これも天正年間、蒲生氏郷が殖産振興のために招いた技術者から伝わったのが始まりで、平安時代、蔓延した疫病を払った赤い牛が由来である。柳津町の圓蔵寺には赤牛伝説のモデルとなった牛の石像も残されている。また、赤い色は魔除けになるといわれ、赤ベコを持っていた子供は災難から逃れられるともいわれている。和紙で作られる張り子の牛、会津赤ベコ。今でも厄除けのお守りとして重宝されている。首がゆらゆら動くという事で外国へのおみやげとしてもよろこばれている。
風車 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
風車
商売繁盛の願いを込めて
からからと風に舞う色とりどりの風車……会津の十日市ならではの風物詩。会津風車も約四百年前から伝わる民芸品のひとつで、商売繁盛の縁起ものとして人気が高い。風車は、八本の細い竹で一センチほどのカゴを作り、その端を伸ばして紙の羽根をつける。竹を削った柄に、この羽根を豆で止める。「風車のように、くるくると一年中まめに働けますように」との祈りを込めて神棚に飾るという。会津の冬に不似合いなほどの極彩色も素朴なつくりも手作りのぬくもりがそのまま伝わってくるようで、雪国に暮らす人の春を待ちわびる心をあらわしているようだ。
会津絵蝋燭 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津絵蝋燭
実用品としても高い評価
会津の漆は天正年間、芦名盛信によって漆の木の栽培を奨励されたのが始まり。同時にその漆の実から採取される蝋を利用してろうそく作りも興った。その後、蒲生氏郷が会津にさまざまな技術者を招き、会津民芸の域にまで高めた。それが会津絵蝋燭だが、とくに武家社会で珍重されてきた。菊や牡丹・梅などの艶やかな絵柄が描かれているのが特長で、今は漆ではなくハゼの実から蝋をとり、今でも一本一本手作りされている。とりわけ品質が堅牢、火をつけても長持ちするので、実用価値も高い。主に神仏用のお灯明だが結婚式の演出に選ぶ若い人達も多い。
会津慶山焼 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津慶山焼
使うほど出てくる味わい
文禄元年(一五九二)、会津藩主・蒲生氏郷が黒川城(現在の鶴ヶ城)の屋根瓦を、肥前の唐津から陶工を呼び寄せ焼かせたのが会津慶山焼の起源とされている。その後、渡部久吉によってらい鉢、丼鉢、植木鉢などが作られ、民衆の生活に欠くことのできない日常用品の製作へと発展してきた。現在は窯元「香山」ただ一軒のみで、昔ながらのロクロ、手びねり、そして灰釉(艶や色を出す)を用いるという伝統をそのまま受け継いでいる。自然だけの素材による釉薬で仕上げられた器は素朴で土の香りがする。独特の色合いも生活にしっくりとなじんでいる。
会津唐人凧 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津唐人凧会津唐人凧
インテリアとしても人気…
九州に多く見られる唐人凧が、なぜ会津地方に伝わったかは未だに定説はない。戊辰戦争の時、会津鶴ヶ城が官軍に包囲され戦況が不利になったとき、藩主は城内からべろくんだしの異名をとる唐人凧を揚げ、味方の軍隊の志気を高めたという。目をむいて舌を出した異様な面構えがすごい。あざやかな極彩色も独自であり、さらに、甲冑の面当や八幡座の下に描かれている鬼の図など他の凧には見られない。会津唐人凧とわざわざ区別されるオリジナリティにあふれている。その迫力ある形相が魔除けとしても珍重され、インテリアとしても人気がある。最近では、毎年秋に「會津唐人凧凧揚げ大会」が開催されている。
会津木綿 福島県伝統工芸品(平成9年3月31日指定)
会津木綿会津木綿
たて縞模様と鮮やかな色が特徴
会津木綿は、寛永四年(一六二七)、会津藩主加藤嘉明が会津に移った際、前領地の伊予松山から織師を招いて会津に伝えたのがその起源といわれている。その後、寛永二十年(一六四三)に会津藩主となった保科正之が綿花の栽培を奨励し定着させた。当時、機織りは、農民だけでなく藩士の妻女の内職としても行われ、農商工業者は主に藍草綿花の栽培と製品の販売にあたった。厚地で丈夫なことから、主に日常着として使用していた。素朴なたて縞模様がすっきりとして美しく、近年は、デザインに工夫を加え、手織りの風合いある織物として人気を呼んでいる。
会津桐下駄 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津桐下駄
軽くてさわやかな履き心地
藩の奨励により植栽が始められた会津桐。会津特有の風土と厳しい寒さが作る木目の美しさと材質の強さで評価が高い。特徴として粘りと光沢がある銀白色材、素直な柾目、大きな比重、明瞭な年輪、割れにくさなどがある。この会津桐ならではのよさが下駄づくりにそのまま活かされる。とくに柾目は光沢が美しく最高との誉れが高い。桐は軽く、しかも湿気をよく吸い取る。木目の白さも快適で、履き心地のよさはいうまでもない。夏はざっくりと浴衣がけに桐下駄。やっぱり素足に限るとファンも多い。
雄国の根まがり竹細工 福島県伝統的工芸品(平成15年10月1日指定)
雄国の根まがり竹細工
山村の暮らしを支えて…
雄国山の標高一〇〇〇メートル以上に自生している直径五~八ミリの根曲竹(高冷地の雪深いところに生育する笹の一種)。江戸初期から雄国地区の人々は、この根曲竹をナタ一丁で加工・細工して編み上げ、ザルやカゴなどの日常生活用具を作り、農閑期の収入を得ていた。独特のナタで竹を割ったり、表面の黒ずみを削る作業などには熟練を要する。戦後、竹細工はプラスチックにとってかわられ、後継者不足なども重なって、加工技術が途絶えそうになったが、現在は、「雄国竹細工保存会」が定期的に竹細工を体験できるイベントを開催するなど、その技術の伝承に取り組んでいる。
総桐箪笥 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
総桐箪笥総桐箪笥
木目の美しさは日本一
南会津地方は会津桐の産地として、三百五十年の植栽歴を持つ。厳しく長い冬と、只見川の川沿いで深い霧に包まれる風土がよい桐を生む。会津桐は、粘り、光沢があり、とくに柾目の美しさには定評がある。その会津桐を一〇〇パーセント使用しているのが会津総桐箪笥である。桐材を一本一本選び抜き、選り抜きの桐材を昔ながらの手作業で仕上げてゆく。湿気をよばず、虫もつきにくく、しかも万一の場合にも燃えにくいという特長をもつ総桐箪笥は衣類の保存には最適。柾目の美しさを生かしたシンプルなデザインは時を経ても変わらない気品があり、人気が高い。
会津郷からむし織 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
会津郷からむし織会津郷からむし織
夢を織り続ける
「からむし」は、イラクサ科の植物で別名苧麻、または青苧といい、昭和村では約六百年前から栽培されていた。純粋で高品質の原麻は越後上布の原料とされてきた。近年栽培だけでなく織りまで手がけ、会津郷からむし織のブランド化を図っている。からむし織は通気性・吸湿性・速乾性に優れ、防虫の効果もあり、高温多湿な日本の風土に最適な織物で、水を通すほどに風合いが良くなり耐久性も高い。平成六年度からはユニークな「織姫制度」で織手の養成を図るなど、確かな伝統を受け継ぐため、たゆまぬ努力を重ねている。
田島万古焼 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
田島万古焼
全国でも珍しい古来の手びねり
明治二年頃、二本松万古焼職人が田島に行き技術を伝承したのが始まりといわれている。最盛期の昭和初期には、日用雑貨のみならず、美術工芸品等も多く生産していた。第二次大戦により一時中断したが、昭和四十四年に復興し、現在に至っている。田島万古焼は、全国でも珍しい、古来の手びねり万古として指紋を生かして作られている。土の色を生かした素朴で荒削りな姿に力強さとほのぼのとしたぬくもりが感じられる。蓋や側面に蛙やさいころなどの縁起物が施されており、立体的なつくりが魅力的。使うほどにツヤが生まれ、贈答品としても人気がある。
つる細工 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
つる細工
生活用品から趣味の工芸品に
南会津郡只見町では、自生するマタタビやあけびの蔓をしっかりと編み込んだつる細工が昔から生活用品として使われ、後に民芸品へと発展してきた。町をあげてつる細工の編組技術とデザインを研鑽し、その応用技術は全国にも類を見ない。蔓の採取から仕上げまで、一人の職人の手によって一つ一つ手作りされる。素材の持つ素朴さからふるさとの野山の香りとぬくもりがそのまま伝わってくるようだ。今では、実用品としてはもちろん、民芸品や自然派志向のインテリアとして幅広く愛用されている。
金山漆ろうそく 福島県伝統的工芸品(平成17年7月31日指定)
金山漆ろうそく
蝋や漆を採ることは、芦名氏時代(1449年~)から行われていた記録がある。会津藩の財政を、長く漆蝋(うるしろう)が支え、江戸の町のろうそくの3分の2は会津の生蝋でまかなわれたと言われるほどの、会津の特産品であった。
18世紀になると西日本の櫨蝋(はぜろう)に、戦後は安価な石油系のパラフィンに押され蝋燭の需要も激減し、金山町では昭和30年に生産が途絶えた。
「和ろうそく復古会」のメンバーは道具類を収集、復元し、古老の記憶をたどり、4年間にわたる試行錯誤のすえ、伝統的技法のもとに再興に至ったものである。漆の実は、町所有の漆畑から採取、心はいぐさを使う。国内で唯一の漆蝋生産であり、現在も作り方に改良を加えている。
初音 福島県的工芸品(平成17年7月1日指定)
初音
起き上がり小坊師、風車とともに会津の縁起物の一つで、江戸時代から昭和40年頃まで、正月の縁起物として元旦の午前中のみ販売され子供たちがそれを吹いて遊んだ。小さな竹笛で、輪切りの竹に吹き口が着いているだけの簡単なものである。
その音が、うぐいすの声に似ているので、正月の縁起物として人々がこれを買い求めた。大正から昭和時代の画家、坂内宏観(1900~1963)の絵画に初音と風車を売っている人物画がある(東山温泉の芦名旅館蔵)
檜枝岐の山人工芸品 福島県伝統的工芸品(平成17年12月26日指定)
山人工芸品 杓子山人工芸品 かんじき山人工芸品 はんぞう山人工芸品 曲げ輪
檜枝岐村の山間部で採取される、ミズキ、ブナやトチなどの樹木、植物を素材とする木工芸品であって、山間地における積雪期の手仕事として、日常の生活に用いるかんじき、杓子、はんぞう(こね鉢)、ワッパ(曲げ輪)などとして伝承されてきた。
現在では、檜枝岐村を主な産地とし、自然素材を用いた素朴な手作りの良さが特徴である
土湯伝統こけし 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
土湯伝統こけし土湯伝統こけし
素朴さの中に風格が…
土湯温泉は日本でも有数のこけしの里。約三百年前、土湯温泉とその周囲の温泉の木地師の余地から生まれた土湯系こけしは、現在でも県内にはその流れをくむ多数の工人がいる。工人達によって一片の木の魂が、削られ、磨かれ、少しずつ生命を吹き込まれながら、美しくやさしいこけしの表情が生まれていく。その特徴は、頭が比較的小さく、頭頂は墨の蛇の目模様を描き、前髪の両側には紅のカセ(紙飾り)が大きく描かれている。胴模様はロクロ線を主とした簡素な物が基本で、クジラ目にたれ鼻、おちょぼ口と表情が明るいのが特徴。頭を胴にはめる「はめ込み式」で、首を回すとキイキイと音を立てるのが愛らしい。地味な中にもあたたかみがあり、多くの人に愛好されている。
福島だるま 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
福島だるま福島だるま
最初から目が入っている
福島だるまは、江戸時代後期から約百五十年にわたり製作されてきた。木型は当時からのものを使い、阿武隈川と共に栄えた信夫野の昔を彷彿させる。やや長身で顔の彫りが深く、眉が鶴、髭が亀を表し、顔の両脇に火防を意味する唐草模様が描かれていて、どことなく華やかさがある。また、にらみつけ悪魔を退治し福を呼ぶという縁起物として、睨みを効かせるために最初から目が入っているのが特徴。これは、家に入り込もうとする悪い病気や災害などのもろもろの不幸を神棚からカッと睨んで追っ払う役目も担っている。
上川崎和紙 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
上川崎和紙
いかにもみちのくの質朴さ
その起源は千年以上も前という上川崎和紙。平安時代には「みちのくの紙」として貴族社会で珍重され、公の儀式や贈答の包み紙として用いられたほど由緒があるという。現在は安達町のはずれ、阿武隈川沿いに数軒の和紙漉きが残るのみ。楮の刈り取りから、天日干しまで一枚一枚手作業で行われている。小雪まじりの木枯らしが吹きすさぶ冬が紙漉きの季節。身を切るような冷たい水作業。そこから上川崎和紙独特の風合いが生まれるのだ。何より堅牢丈夫、揉んでもめったに破れることはない。質朴な味が好まれ、書画や民芸品の材料として人気が高い。最近は、草木で染め付けたものや紅葉を漉き込んだものなど、新たな技法も開発されている。
二本松伝統家具 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
二本松伝統家具二本松伝統家具
一品一品、注文で制作
約三百年の歴史をもつ二本松家具は、奥州二本松藩初代藩主丹羽光重が、城の大改築を行った際、建具や調度品を作らせたことに始まる。今も、一品一品手作りで丹念に仕上げられ、注文で大きさや色合いは自由に変えられる。あくまでも使い心地にこだわり、表面は耐久性のある年代物の天然欅材、内部の引き出しと側板には吸湿性などに優れた会津桐をふんだんに使用して、柄組と呼ばれる工法で作られている。頑丈な作り、あきのこないデザインは県内外から高い評価を得ている。また、伝統家具に現代感覚を取り入れた「城家箪笥」も注目されている。
二本松万古焼 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
二本松万古焼
独自の手びねり型くずし製法
嘉永六年(一六二六)、山下春吉によって開窯されたと伝えられる二本松万古焼。その後、二本松藩主丹羽氏が京都から陶工を呼びよせて、下級武士へ教え産業奨励をしたという。初期にはタタミ型手びねり成形で四角や五角の急須を作っていたが、やがて茶人好みの丸型手びねり急須へと移った。現在は井上窯一軒が残るのみ。地元産の粘土を使い、独自の「手びねり型くずし製法」で製作する。焼き上がりの渋いあの色あいは、手間ひまを存分にかけた流れの中からしか生まれないぬくもりがある。指で形をつけた指紋や梅花模様が特徴で、使うほどに味わいがでる。
伝統岳こけし 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
伝統岳こけし伝統岳こけし
太い眉とダンゴ鼻に独自性
安達太良山麓にひろがる岳温泉は、湯治場というより、爽やかな高原リゾートのイメージが強い。しかし、黙々と作られてきた岳こけしが十文字岳以来の温泉の歴史を伝えているようだ。伝統岳こけしは、“土湯系”で、その特徴としては、胴模様がロクロ線を基調に描かれていること、頭に黒い蛇の目のロクロ線があること、頭と胴は、はめ込み式で、回すとキュッキュッと音が出ること、などがあげられる。伝統岳こけしは、太い眉にだんごっぱな、胴模様は若竹色と赤色の大胆なロクロ線に彩られており、土湯系本来の素朴な優しさをいまに残している。岳こけしを作りつづけている工人は今やひとりとなってしまったが、その細やかな特徴は脈々と息づいている。
獅子頭 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
獅子頭
くりぬきの技をしっかりと受け継ぐ
全国各地で行われる獅子踊り。主役は勇壮な形相が印象深い獅子頭だ。二本松に代々伝わる獅子頭の大きな特徴は、一本の木を彫って作られる「くりぬき製法」。丈夫で長持ちすることでも知られている。素材の木は桐。工程の中で最も難しいとされる荒彫りはのちの仕上がりの要となる。荒彫りが丁寧なほど仕上がりは美しく、漆を塗ったあとでも違いが分かる。左右対称の均一のとれた獅子の顔を作るには熟練の技が必要とされる。百種類以上のノミを自由自在に操る職人の目はあたたかく真剣だ。ここで生まれた獅子達が各地のお祭りで堂々の舞を舞う。昨年、後継者が修業先から戻り、伝統の技をしっかりと受け継いでいる。
仏壇 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
仏壇
たった一人で全工程をこなす
二本松で仏壇が作り始められたのは約百年前。家具の発展とともに浸透してきた。時代が変化し、黒檀や紫檀などの唐木仏壇が主流だが、二本松では現在も昔ながらの手法で塗り仏壇といわれる金仏壇を作り続けている。金箔を施すことによって豪華さが表現されている。仏壇作りの全工程に携わるのはたった一人。木地師、木彫師、塗師、箔押師、一人四役をこなしている。どれをとってもまさに職人芸の結晶そのもの。最後に飾り金具を取り付け、二百個近い部品を組み立てて完成する。一つ仕上げるのに三ヵ月ほどかかる。心と技が作り上げた伝統的工芸品である。
三春駒 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
三春駒
征夷大将軍ゆかりの木馬
遠く坂上田村麻呂の蝦夷遠征に由来し田村近在の人々に「子育木馬」として親しまれてきた三春駒。白駒と黒駒があり、彩色は赤、黒、金色と鞍の紺。馬産地として知られた三春ならではのたくましい馬体が特徴で、馬への深い愛情が感じられる。最近はホウの木が用いられる。鋸で切り目を入れて頭合わせの二個組みを作り、次に後頭部に当たる中心にノミを入れて割り、仕上げている。様々な飾りをつけた若駒を一刀彫りの直線により力強く表現した特徴ある形が現在の姿。白馬と漆黒の馬が対で並んでいると、飾り気のない風情が実に愛らしい。
三春張子 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
三春張子
土くささが大きな魅力
素朴さの中にも独特の色合いの華麗さがあり、日本の郷土玩具として人気を集めている三春張子。起源の一説に元禄年間の頃、三春藩士の一人が帰農し土を原料に作られる仙台の堤人形の技法を取り入れ、和紙で張子の面や人形の製作を始めたとある。その後独自の製法に磨きをかけ、現在も郡山市西田町の高柴デコ屋敷と三春町で数人の人形師によって製作されている。天狗、恵比須、大黒、お多福、ダルマ、舞人形……代々受け継がれた木型に和紙を濡らして張り、自然乾燥して、彩色する。あでやかな色合いには、土の匂いを感じる力強さと幸せを願う夢がこめられている。
海老根伝統手漉和紙 福島県伝統的工芸品(平成15年10月1日指定)
海老根伝統手漉和紙海老根伝統手漉和紙
途絶えていた伝統を今ふたたび…
中田町海老根地区の和紙漉きの始まりは、明暦四年(一六五八)と伝えられている。和紙の原料となる楮が阿武隈山系に豊富にあったことやきれいな涌き水があったことが農家の冬の副業としての和紙づくりを盛んにした。海老根和紙は、紙色が日が経つほどに白みを帯びるのが特徴。江戸時代末期から明治時代にかけての最盛期には、地区の全戸数の八〇戸で紙漉きが行われたという。昭和に入ってからも障子紙や唐傘紙用として紙漉きは続けられた。昭和六十三年に一旦途絶えたが、平成十年に「海老根伝統手漉和紙保存会」が結成され、海老根和紙を復活させた。
須賀川絵幟 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
須賀川絵幟
美しく勇壮な鍾馗の絵柄
今から約二百三十年前、銅版画家、亜欧堂田善が故郷である須賀川で、和紙や布地に鍾馗を描き、端午の節句に男子の成長を祝って、庭先に立てた風習が須賀川絵幟の始まりと言われている。吉野屋初代大野松岳(善吉)が田善の門弟から継承し、須賀川名物の地場産品として発展させたが、現在ではこの吉野屋一軒を残すのみとなっている。須賀川絵幟は手描きによる独特な力強い線の動き、そして風雨にさらされても華やかな色彩が変色しないという特徴がある。六代目・青峰氏は伝統絵柄のほかに新しく近代感覚を取り入れ、中でも室内用の絵幟は注目を集めている。
江戸小紋 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
江戸小紋江戸小紋江戸小紋
町人文化のまち須賀川の粋
江戸小紋といっても江戸で作られたというわけではなく、江戸期に完成された小紋を染める手法のことをいう。江戸時代、裃の定め文様をきものに写したことに始まる。江戸の豊饒な町文化にあって、小紋はその粋ぶりで人気が高く、時代と共にさらに美しく洗練されてきた。江戸小紋が須賀川で作り始められたのは、今から約百年前。昔ながらの「型」を使った型彫りと型付けで職人の手で鮮やかに染め上げられる。独自の繊細さとおしゃれな雰囲気を併せ持つ。現代生活にも調和する多彩なデザインが着物通からも評判である。
牡丹こけし 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
牡丹こけし
創作ならではの伸びやかさ
須賀川といえば、咲き競う五千本の美しい牡丹が全国的にも有名。その牡丹の花を描いた牡丹こけしが作り始められたのは、今から約百年前という。当初は、須賀川牡丹園のおみやげ品として作られた。牡丹こけしの素材は、みずきと桜の木が使われている。創作こけしで、型が決まっていないぶん、自由で動きがある。色鮮やかに描かれた満開の牡丹の花が大きな特徴で、こけしは上品な黒牡丹と愛嬌のある赤牡丹の二種類。表情豊かな目がかわいらしい。花を愛する人々の想いがこめられていると人気が高まっている。
白河だるま 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
白河だるま白河だるま
鶴亀松竹梅の福相が変わらぬ人気
白河だるまは、今から約三百年前、藩主松平定信が当地の南画家、谷文晁にダルマの原画を描かせ、それを元に職人を京都へ修行させたのが始まりという。「白河鶴亀松竹梅だるま」と呼ばれるその顔が他にはない特徴。眉は鶴、口髭は亀、鬢は松と梅、顎髭は竹を表しており、見るからに福々しくおめでたい。京のあでやかさがあるのもみちのく民芸には珍しく、白河だるまは身近な縁起物、大願成就だるまとしても広く親しまれている。商売繁盛・家内円満・合格祈願などの願いをだるまに託し片方の目を入れ、願いがかなった時にまた片方に目を入れる風習が残る。毎年二月十一日に「白河だるま市」が行われ、一五万人の人出で賑わう。
日本甲冑 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
日本甲冑日本甲冑
これぞ野馬追いの里の工芸品
年に一度、相馬・双葉地方の甲冑が一堂に参集し、「野馬追い」の戦いで現役として栄光を取り戻す。橘 斌 さんはその勇姿をまるでわが子を見守るように見つめている。全国的にも数少ない甲冑づくりの一人である。現在、甲冑づくりの仕事は分業ではなく、鍛冶からすべて出来上がるまで橘さん一人の手で行われている。金・銀・銅・鉄などを原材料にした一領分の部品数はゆうに一万個を超え、頑丈さを美しさで包み込む。実践派の精巧な甲冑は全国的にも珍しい。新作の場合は一領の完成に三年はかかるという。まさに入魂の技と根気の結晶である。
いわき絵のぼり 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
いわき絵のぼり いわき絵のぼり いわ
たくましくて育ての親心
端午の節句や男の子の成長を祝う縁起物として江戸時代から伝えられてきたいわき絵のぼり。豆汁で溶いた一五種類の顔料を使って木綿地に鮮やかに描かれる。疫病を払う神である鍾馗、勇者のしるし・八幡太郎義家や源義経、武田信玄・上杉謙信の川中島の決戦などの武者絵をはじめ、高砂、神功皇后、大黒など迫力ある絵柄も一五種類、丹念な手描きである。あふれんばかりの力強さを漂わせている絵のぼりには、子供たちの健やかな成長を願う親心が込められており、贈り物としても人気が高く、民芸愛好家の間でも高い評価を受けている。
いわき和紙 福島県伝統的工芸品(平成9年3月31日指定)
いわき和紙いわき和紙
伝統の紙漉きに創意と工夫
いわき和紙の起源は、遠く永禄年間といわれている。江戸時代には棚倉藩の保護奨励を受け、明治には約六百戸からの和紙作り農家があったという。現在では一軒のみ。いわき市上遠野の山間の集落で瀬谷安雄さんがたった一人で和紙作りに精魂をこめている。近くの山野で採れるクワ科の楮を原料に使い、冬の厳しい寒さの中で一枚一枚丁寧に漉いていく。瀬谷さんは、伝統の技術だけであきたらず、押し花を利用したり草木染めをしたり、様々な工夫をこらした和紙作りを試み、伝統に新風を吹き込み、多方面の工芸関係者からも注目されている。
相馬駒焼 福島県伝統的工芸品(平成20年3月28日指定)