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下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

関谷四郎 せきや-しろう

1907-1994 昭和-平成時代の鍛金(たんきん)家。
明治40年2月11日生まれ。昭和3年から河内宗明に師事。日本鍛金協会展,日展,日本伝統工芸展で活躍し,受賞をかさねる。鉄,銅,銀などの異なる板金をろうで溶接する接合(はぎあわせ)技法によって独自の作風をきずいた。52年人間国宝。平成6年12月3日死去。87歳。秋田県出身。作品に「赤銅接合皿」など。

楢岡焼(ならおかやき)は、秋田県大仙市南外地域にて焼かれる陶器である。独特の群青色の海鼠薬(なまこゆう)が鮮やかな色合いを出すことで知られる。

歴史
楢岡焼は、1863年(文久3年)に地元旧家の小松清治が、秋田市の寺内焼の陶工(最近の調査研究により、相馬焼から来た陶工という説が浮上している)を招いて窯をつくらせたのが始まりである(他に1867年(慶応3年)説もあり)。その窯は、1908年(明治41年)に現在の大仙市南外地域高野地区に移るまでは、楢岡川を挟んで西側に位置する大杉地区にあった。大杉の窯跡は楢岡焼大杉古窯と呼ばれ、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで、秋田県大仙市教育委員会によって発掘調査が行われた。
楢岡焼大杉古窯の発掘調査が行われるまでは、各資料では、楢岡焼は寺内焼系であり、白岩焼などの影響を受けたものとされていた。それは、楢岡焼の創業する時期に、秋田県内に白岩焼や寺内焼という大きな窯業地があったことと、楢岡焼大杉古窯の実態が不詳であったためである。発掘調査の結果、不明な点が多かった創業時(江戸末期)から明治後期までの製作技法や製品の種類が新たに判明している。
創業時の製品はオリーブ色の茶器類が多く、大堀相馬焼の技術で製作され、駒の絵が描かれた小坏や「相馬焼」と墨書きされた小坏がある。その後、製品は茶器などの高級品から日用雑器へと方向を変え、2代目宇一が活躍した明治中期以降に現在まで続く海鼠釉の製品が主体となった。昭和の戦時中には食糧増産用に地下水路の土管を製造することもあったが、小松氏が5代に亘って窯を守ってきた。昭和初期に加藤唐九郎や浜田庄司らが指導し、技術改良を重ねた結果、今日に見られる美しい青味を持つ焼き物が完成した。それに伴い、甕などの大物から食器などの小物が中心となっていき、今日ではコーヒーカップや小鉢といったものが中心となっている。
なお、楢岡焼の工芸技術は、1983年(昭和58年)に旧南外村の無形文化財に指定され、現在は大仙市の無形文化財として指定されている。また、秋田新幹線に使用されるE6系のグリーン車の内装は、楢岡焼の青をイメージしたものとされている。

白岩焼(しらいわやき)は、秋田県仙北市角館町白岩で焼かれる陶器。県内最古の窯元であり、重ね掛けされた褐色の鉄釉と、青みの強い藁灰釉(海鼠釉)の対比に特徴がある。

歴史
白岩焼の陶祖は江戸時代の陸奥相馬中村藩浪人松本運七である。運七は大堀相馬焼の関係者であり、出羽秋田藩によって鉱山の陶製ルツボ製作のために招聘された技術者であった。藩の仕事のかたわら開窯を志すも、諸事情でうまくいかず適地を求めるうちに秋田藩の支藩・角館の東、白岩に良質の陶土を発見する。角館に仕える武士らの協力を得て、1771年(明和8年)秋田藩初の窯元として開窯した。運七のもとには白岩の住人である、山手儀三郎、千葉伝九郎、多郎助、菅原助左衛門の4人の弟子が集まった。白岩焼を地場産業として庇護するとともに技術の流出を防ぎたいという秋田藩の意向により、「陶技については親子のあいだでさえ他言無用」の誓約書を交わしたうえでの弟子入りであった。とくに一番弟子であった山手儀三郎はのちに京都に上り、上絵、楽焼などの技術を持ち帰り、その後の白岩焼発展の基礎を作った。
需要の増大とともに、最盛期には6つの窯に5千人の働き手を抱える一大窯業地となり、窯の集まる山の斜面地域は白岩瀬戸山と呼ばれた。白岩焼は製品の多種多様さに特徴があり、秋田藩主や角館城主の注文による献上品、庶民の生活日用品、特産品であった濁酒(どぶろく)の保存容器のスズ(長頸の壷)やカメなど、御用窯と民窯を兼ねた生産体制であった。また、白岩焼の作品には、陶工の個人名を示す刻印が刻まれたものがあり、江戸期には珍しい、個人作家として自負の萌芽が見られる。それらの陶工のなかには、藩内の他所で独立して窯をもつものが現れ、菅沢焼、寺内焼、大神成窯、栗沢焼など、その後の秋田藩の窯業に与えた影響は大きい。しかし、幕末から明治にいたる時代の動乱と廃藩置県で藩の庇護を失ったこと、藩外からのやきものの流入による競争の激化により、衰退期を迎える。廃窯する窯が続く中、1896年(明治29年)の真昼山地震によりすべての窯が壊滅状態となり、わずかに復興した窯も1900年(明治33年)、窯の火を消した。
現代の白岩焼
白岩焼の復興の機運が訪れたのは、およそ70年後の昭和時代に入ってからである。江戸期の窯元のひとり、渡邊勘左衛門の末裔であった渡邊すなお(1953年‐)は大学在学中から、白岩焼の築窯を志していた。折から角館は白岩焼とともに桜の皮を用いる木工芸・樺細工でも知られており、そのふたつの県産品を訪ねて民芸運動の提唱者・柳宗悦(1889年‐1961年)と陶芸家であり人間国宝の浜田庄司(1894年‐1978年)がたびたび同地を訪ねていた。1974年(昭和49年)当時の秋田県知事小畑勇二郎の依頼により浜田庄司が、白岩の土の陶土適正の検査を行う。陶土としての質の良さが判明し、助言を受けた渡辺すなおは翌1975年(昭和50年)白岩に和兵衛窯を築窯、白岩焼復興を果たす。その後、すなおは大学で同じ研究室に学んだ渡邊敏明(1950年‐)と結婚、1993年(平成5年)には敏明による四室の登窯が完成し、現在にいたる。
白岩焼所蔵施設
仙北市立角館樺細工伝承館(秋田県仙北市角館町表町下丁)
日本民藝館(東京都目黒区駒場)
東北陶磁文化館(宮城県加美町裏)
秋田ふるさと村(秋田県横手市赤坂)

勝平得之(かつひら とくし)

Q1 「勝平得之」について教えてください
A1 勝平得之(1904-1971)は、生涯秋田を離れることなく秋田の自然や風俗を描き続けた木版画家です。小さいころから絵を描くことが好きだった得之は、20歳のころから独学で版画を学びはじめます。その後、浮世絵版画の美しさに出会い、また、当時の美術思潮である創作版画運動(「絵を描く」、「版木を彫る」、「紙に摺る」の3つの工程を一人でおこなおう、という運動)の影響のもと、独自の色摺り技法を探り当てました。
郷土秋田の情景が描かれた勝平の版画は多くの人に親しまれ、海外でも高く評価されています。
Q2 「色摺り(いろずり)」版画とは何ですか?
A2 単色の版画ではなく数種類の色を使った版画です。各色ごとに何枚もの版木を制作し、何回かに分けて一枚の紙に摺り上げます。そのため、一枚の版木だけでは一見どのような作品になるのかは分かりません。それぞれの版木から色が集まることでひとつの版画になります。
Q3 勝平は版画を制作するにあたって、どのような下絵を描いてますか?
A3 県内各地を歩いた勝平は、スケッチブックで数十冊におよぶ詳細なスケッチを描いています。そこには、日付や取材メモ、その日の食事の内容などが詳細に記されており、各地の風土を知る上でも貴重な資料になっています。

関谷四郎(せきや しろう)

Q1 「関谷四郎」について教えてください
A1 関谷四郎(1907-1994)は、秋田市出身の鍛金家(たんきんか)です。市内の金銀細工店で修行を積み、20歳の春に上京、鍛金家河内宗明の内弟子になりました。約10年間修行し、独立後は「接合せ(はぎあわせ)」の技法を取り入れ、精力的に活躍しました。
関谷は、1977(昭和52)年に国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に指定されました。(現在のところ、秋田県で唯一の人間国宝です。)
Q2 「鍛金」とは、どのような技法ですか?
A2 金属工芸の技法のひとつで、金槌や木槌などを使って金属を打ち延ばして成形するものです。
鍛金には次の3つの方法があります。
1. 鍛造(たんぞう) : 金属の塊を打ち延ばして薄い板金をつくる
2. 鎚起(ついき)
鎚金(ついきん) : 金属の板を表裏から打って成形する
3. 板金(ばんきん) : 金属板を曲げたり接合したりして成形する
Q3 「接合せ(はぎあわせ)」とは、どのような技法ですか?
A3 鍛金技法の内のひとつで、最も難しいとされます。異なる種類の金属を、金ろうや銀ろうと呼ばれる合金で接合し、更に、はがれないように打ち延ばして成形し槌目(つちめ)を残します。金属によって融点や膨張率などが異なるため、作業には高度な技術を要します。

大館曲げわっぱ(おおだてまげわっぱ)は、秋田県大館市の工芸品で、財団法人 伝統的工芸品産業振興協会によって経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定される曲物のことである。
江戸時代から伝わる伝統工芸品で1979年(昭和54年)に設立された大館曲げわっぱ協同組合に加盟する各社でそれぞれ製作販売されている。

特徴
天然秋田杉の香りの良さや、美しい木目と色合いが食べ物をより一掃美味しくさせ、高級感があるという利点があるが、原材料が木材(杉)のため、湿気や熱湯に弱く、割れやすい、傷みやすいなどの欠点もある。主におひつや、弁当箱・わっぱ飯などに使用される。
秋田音頭の歌詞の中で秋田の名物として大館曲げわっぱが歌われるなど、秋田県を代表する特産品のひとつで、秋田県伝統的工芸品に指定されている。
なお、従来は天然秋田杉の薄板を曲げて作られる円筒形の曲物だけだったが、昭和時代後半から、コーヒーカップやビールジョッキ、コップ、照明器具など、曲げわっぱの技術を使ってさまざまな器などを製作するようになり、曲げわっぱのイメージを刷新するようなところが評価され、木工作品コンテスト(日本木工機械協同組合主催)で林野庁長官賞を受賞した。また、同じ大館市の名物、大館駅駅弁・花善の鶏めしの器でも採用されたことがある。
歴史
江戸時代に大館城代佐竹公が領内の豊富な天然秋田杉に目を付け、武士の内職等に作ることを推奨したことから始まったといわれる。
1979年(昭和54年) – 大館曲げわっぱ協同組合設立。
1980年(昭和55年)10月16日 – 財団法人 伝統的工芸品産業振興協会が伝統工芸品に指定される。
1998年(平成10年) – 栗久の徳久利(とっくり)がグッドデザイン賞を受賞する。
2011年(平成23年)10月3日 – 大館工芸社および柴田慶信商店の計4点がグッドデザイン賞を受賞する。
2012年(平成24年) – 栗久のぐいのみ・徳久利がグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞する。
2013年(平成25年) – 九嶋曲物工芸の木の葉弁当箱、柴田慶信商店の丸三宝と臍帯箱、大館工芸社のカップ「渦」が2013年度グッドデザイン賞を受賞する。

樺細工(かばざいく)は日本の伝統的な木工工芸品。桜の樹皮を利用して作られるものであり、茶筒や小箱、煙草入れなどに利用される。樺細工という名前であるが、実際に樺類が利用されることはない。

由来
命名の由来は諸説あり、定説があるわけではない。古代にはヤマザクラを樺や樺桜と呼ばれるようなことがあったためという説や、樺の名前は家を建てるための木材である白樺からきており、樺は実際の工芸ではなく職人の種類を示すために使われていると言う説が有る。
秋田の角館の佐竹北家によって秋田県北部の阿仁地方から角館に技法が伝えられたとされ、藩政時代は下級武士の副収入源となっていた。18世紀末から始まっており伝統は200年を超えるとされる。これが、地域の職人の工房を通じて現代まで伝わっている。武士の町であった角館工芸協同組合の美術館は樺細工の工芸品を展示しており、訪問者のために常設展示している。
工法

樺細工の引き出し。
主に型ものと木地ものの2種類がある。桜の皮は剥ぎ取られた後、乾燥された後に汚れを落とされ、小型の滑らかで均一になるように処理される。型ものの場合、仕上たい型に桜皮をあわせ、膠で貼り付けて固めた後に中に入れていた型を取り外して作られる。木地ものは利用する形に切られた木に、膠を使って再度加工した桜の皮が貼り付けられる。貼り付け工程では火で熱せられた小さな金ゴテが使われる。すべての面で別々の形の樹皮が必要とされるため、非常に手間のかかる作業である。
現在では特定の用途だけではなく様々なものに対して使われており、時には大型の木工アートワークとして利用される。時計、小箱、筆、刀の鞘などが生産されている。
利用
伝統的な樺細工は一般的に小さなものが多く、印籠や胴乱といったものに使われることが多かった。現在では茶筒や煙草入れなどに使われており、樺細工にはこれらの乾燥した物の湿度を一定に保ち、外部からの変化から守る特徴がある。色は元となる樹皮や膠により、一般的に暗い赤色をしている。

白岩焼(しらいわやき)は、秋田県仙北市角館町白岩で焼かれる陶器。県内最古の窯元であり、重ね掛けされた褐色の鉄釉と、青みの強い藁灰釉(海鼠釉)の対比に特徴がある。

歴史
白岩焼の陶祖は江戸時代の陸奥相馬中村藩浪人松本運七である。運七は大堀相馬焼の関係者であり、出羽秋田藩によって鉱山の陶製ルツボ製作のために招聘された技術者であった。藩の仕事のかたわら開窯を志すも、諸事情でうまくいかず適地を求めるうちに秋田藩の支藩・角館の東、白岩に良質の陶土を発見する。角館に仕える武士らの協力を得て、1771年(明和8年)秋田藩初の窯元として開窯した。運七のもとには白岩の住人である、山手儀三郎、千葉伝九郎、多郎助、菅原助左衛門の4人の弟子が集まった。白岩焼を地場産業として庇護するとともに技術の流出を防ぎたいという秋田藩の意向により、「陶技については親子のあいだでさえ他言無用」の誓約書を交わしたうえでの弟子入りであった。とくに一番弟子であった山手儀三郎はのちに京都に上り、上絵、楽焼などの技術を持ち帰り、その後の白岩焼発展の基礎を作った。
需要の増大とともに、最盛期には6つの窯に5千人の働き手を抱える一大窯業地となり、窯の集まる山の斜面地域は白岩瀬戸山と呼ばれた。白岩焼は製品の多種多様さに特徴があり、秋田藩主や角館城主の注文による献上品、庶民の生活日用品、特産品であった濁酒(どぶろく)の保存容器のスズ(長頸の壷)やカメなど、御用窯と民窯を兼ねた生産体制であった。また、白岩焼の作品には、陶工の個人名を示す刻印が刻まれたものがあり、江戸期には珍しい、個人作家として自負の萌芽が見られる。それらの陶工のなかには、藩内の他所で独立して窯をもつものが現れ、菅沢焼、寺内焼、大神成窯、栗沢焼など、その後の秋田藩の窯業に与えた影響は大きい。しかし、幕末から明治にいたる時代の動乱と廃藩置県で藩の庇護を失ったこと、藩外からのやきものの流入による競争の激化により、衰退期を迎える。廃窯する窯が続く中、1896年(明治29年)の真昼山地震によりすべての窯が壊滅状態となり、わずかに復興した窯も1900年(明治33年)、窯の火を消した。
現代の白岩焼
白岩焼の復興の機運が訪れたのは、およそ70年後の昭和時代に入ってからである。江戸期の窯元のひとり、渡邊勘左衛門の末裔であった渡邊すなお(1953年‐)は大学在学中から、白岩焼の築窯を志していた。折から角館は白岩焼とともに桜の皮を用いる木工芸・樺細工でも知られており、そのふたつの県産品を訪ねて民芸運動の提唱者・柳宗悦(1889年‐1961年)と陶芸家であり人間国宝の浜田庄司(1894年‐1978年)がたびたび同地を訪ねていた。1974年(昭和49年)当時の秋田県知事小畑勇二郎の依頼により浜田庄司が、白岩の土の陶土適正の検査を行う。陶土としての質の良さが判明し、助言を受けた渡辺すなおは翌1975年(昭和50年)白岩に和兵衛窯を築窯、白岩焼復興を果たす。その後、すなおは大学で同じ研究室に学んだ渡邊敏明(1950年‐)と結婚、1993年(平成5年)には敏明による四室の登窯が完成し、現在にいたる。

御殿まり(ごてんまり)とは郷土玩具、民芸品の一種。
絹糸で模様をかがった手まりに吊りひも、房飾りなどをつけて飾り物に仕立てたもので主に山形県鶴岡市、秋田県由利本荘市などで作られる。 「御殿」の名称の由来は江戸時代中頃に藩邸の奥女中などの手工芸として始まったものが民間に伝わったためと言われている。 大きさは直径8cm~30cm程度まで様々。 模様は幾何学模様や、梅、菊、麻などの花や植物の文様がある。

秋田仏壇(あきたぶつだん)とは、秋田県湯沢市川連を中心として生産される仏壇の総称。あるいは川連産地で製造された小型の梨地仏壇、同じく川連産地で製作された東北一帯に販売される冠と呼ばれる笠を持つ金仏壇のこと。発祥の地にちなんで川連仏壇とも呼ばれる。

起源・歴史
秋田県稲川町に伝わる通商産業大臣指定の伝統工芸品の川連塗の椀や膳を県外に販売していた阿部雄二が、昭和30年後半に川連塗の技法を応用し仏壇製造を開始したのが始まりとされる。はじめは山形仏壇をモデルにして作られた。1963年(昭和38年)に梨地仏壇と言われるオリジナル製品が開発され、また各産地型の仏壇も製作されるようになった。
以来、消費地での品不足と価格競争力を背景に昭和50年代には全国有数の産地となった。昭和60年代には年間製造本数が約35,000本で、年出荷額は70億円にも及んだ。しかし、1998年(平成10年)以降は海外産地の台頭により製造本数は大幅にダウンした。
生産される仏壇の種類は、新潟型・金沢型・富山型・名古屋型・三河型・京型・江州型などで、石川県・富山県・新潟県、東北一円、中京一帯をはじめとして、産地メーカーは全国に販路を持つ。
特徴
川連塗の伝統を受け継ぐ指物、塗り、沈金、加飾の技法。「壁地仕上げ」や「花塗り」。

川蓮漆器(かわつらしっき)は、秋田県湯沢市に伝わる伝統工芸品である。

歴史
鎌倉時代(1193年)、源頼朝の家人で稲庭城主の小野寺重道の弟、道矩公が、家臣に鞘、弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされている。本格的に漆器産業が始まったのは17世紀中頃、元和(1615年)から元禄にかけてであり、川連村を中心におよそ26戸が椀師業を営んだという。 文化12年(1815年)、藩の許可を得て朱塗りの漆器をつくり販路を他国にひらき、江戸時代後期には藩の保護政策のもとに、椀、膳、重箱など幅広い漆器がつくられるようになり、沈金、蒔絵などの飾りが加わって、産業基盤をさらに大きく築いた。近年は新製品開発など、販路の拡大によって多種企業との連携で全国展開が見られる。
平成8年(1996年)県の伝統工芸品に選ばれた。
特徴
柿渋と生漆による渋下地をし、中塗りを5、6回繰り返す事でより丈夫にし、仕上げは花塗りの技法で上塗りする。
堅牢で実用性に優れるといわれる。
加飾は川連の特有の沈金、蒔絵を施す。

秋田県伝統工芸品
大館曲げわっぱ
樺細工
白岩焼
秋田銀線細工
川連こけし
イタヤ細工
大曲の花火
打刃物
秋田八丈
十文字和紙
秋田蕗摺
本荘ごてんまり
杢目金
秋田仏壇
中山人形
十二支土鈴
八橋人形
川連こけし
秋田杉桶樽
秋田塗
川連漆器

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新原美術 しんはらびじゅつ

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