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大隅 俊平(おおすみ としひら、1932年1月23日 – 2009年10月4日)は、群馬県太田市出身の刀匠。本名は貞男(さだお)。
1952年に長野県坂城町の後の人間国宝、宮入行平のもとに入門し、1960年より独立した。1967年に新作名刀展特賞受賞(以降6年連続受賞)、1974年・1976年・1978年の3度「正宗賞」を受賞。1997年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。1999年には紫綬褒章受章。2005年にも旭日中綬章を受章している。2009年10月4日、太田市の自宅にて77歳で亡くなった。極初期を除き、生涯、直刃(真っ直ぐな刃文)の刀剣を造り続けた事でも知られる。
大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日(1871年6月2日) – 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の日本画家、南画家、壁画家、日本美術研究家。群馬県吾妻郡荻生村(現在の東吾妻町)出身。
南画の大家だった滝和亭に弟子入りし、腕を磨く。法隆寺金堂壁画の修復などを手がけ、評判となった。この名声が広がり、吉野神社、高野山などから招かれ、壁画の修復にあたった。また、細金法研究の第一人者としても知られた。
加藤アキラ(かとう あきら、1937年 – )は、芸術家。群馬県出身。1966年、第10回シェル美術賞展で佳作。1970年、京都国立近代美術館で行われた「現代美術の動向展」に出品後、不振に陥り制作活動を中止。1980年に活動を再開。1983年から3年連続で個展を開催。1998年には上毛芸術奨励賞特別賞を受賞。抽象的なフォルムのかもし出す現代的雰囲気が時代の寵児として脚光を浴びている。
小室 翠雲(こむろ すいうん、1874年8月31日 – 1945年3月30日)は、日本画家、南画家。本名は貞次郎(ていじろう)。父は日本画家・小室桂邨。文展開設にあたって正派同志会副委員長として文展新派に対抗した。文展審査員・帝展審査員をつとめた日本画の大家である。
経歴
春庭・秋圃 三の丸尚蔵館蔵 双幅 絹本着色(1919年)
1874年 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)に生まれる。(当時、邑楽郡は栃木県に属していた)
1889年 田崎草雲に師事
1899年 草雲が没したため上京し南画会に加わる
1921年 矢野橋村らと日本南画院結成に参加
1924年 帝国美術院会員
1935年 日本南画院を解散
1937年 帝国芸術院会員
1941年 大東南宗院を創設
1944年7月1日 帝室技芸員
1945年 逝去、享年70
澁澤 卿(しぶさわ けい、1949年 – 2012年4月29日)は、日本画家、日蓮宗僧侶。身延山大学客員教授を務める。東亜大学教授。繊細なタッチで日本の風景を描写し、やさしい画風が多くの絵画ファンに愛されている。また、僧侶としての独自の世界観を絵画に表現し、「描く坊主」としても有名。本名は、澁澤瑩俊(しぶさわ えいしゅん)。横浜六浦上行寺副住職も兼任している。
経歴
1949年、群馬県佐波郡境町(現伊勢崎市)出身
1974年、東京芸術大学美術学部卒業
1977年、出家得度して日蓮宗僧侶となる
1982年、東京芸術大学非常勤講師に就任
1990年、東亜大学教授に就任
1995年、人気テレビ番組「美の世界」で「僧籍を持つ日本画家・澁澤卿」が放送され大きな反響を呼んだ
1998年、大作「久遠春光」が身延山久遠寺に収蔵された
2001年、身延山大学客員教授に就任
2012年4月29日に急性心筋梗塞のため死去、63歳没。
志村立美(しむら たつみ、1907年2月17日 – 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家である。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。
来歴
群馬県高崎市生まれ、その後横浜市中区へ移住する。 神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。 当時、山川秀峰は鏑木清方同門の伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。 山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。
肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。 その後主婦の友・婦女界などの雑誌口絵などでその名を知られるようになり、林不忘原作の丹下左膳の挿絵などで岩田専太郎と並ぶ人気画家となる。
当時の大衆娯楽としての挿絵の重鎮として活動をしていくが、晩年、挿絵での活動を休止し、本来の立美の原点である日本画、美人画への回帰をしていく。 出版美術家連盟会長などをつとめ、1976年(昭和51年)作品集『美人百態』で日本作家クラブ賞を受賞する。
1980年(昭和55年)5月4日、東京都新宿区の病院で亡くなった。73歳。
高荷 義之(たかに よしゆき、1935年12月28日 – )は、日本のイラストレーター。群馬県前橋市出身。少年雑誌、架空戦記の挿絵・表紙絵、プラモデルのボックスアートなどを数多く手がけ、師匠の小松崎茂と共にメカニックイラストの専門家として知られる。
来歴
雑誌
少年時代に購入した『冒険世界』の表紙をきっかけに、小松崎茂のファンとなる。以来高荷は小松崎の元にファンレターを送り続け、群馬県立前橋高等学校卒業後の1954年、挿画家を志し小松崎に弟子入り。同年11月に独立し、1955年に『中学生の友』3月号の挿絵でデビューを飾った。月刊誌「少年」などのグラビアページに西部劇などのイラストを描く。その後、週刊少年誌が相次いで誕生し、1960年代に戦記ブームが起きると戦車・軍艦・航空機などのメカニックイラストを描き始める。「週刊少年サンデー」「週刊少年キング」などに迫力ある作品を掲載した。
スケールモデル
小松崎の成功によりプラモデルのボックスアートの需要が高まり、高荷も1963年からこの仕事も手がけるようになる。以後、タミヤの戦車、日本模型の軍艦、フジミ模型の航空機などのシリーズを中心に数多くの作品を提供し、第一次プラモデルブームに貢献した。少年誌が漫画中心となりグラビアが減少したため、1970年代以降はボックスアートが創作の中心となる。
その他の模型メーカーでは永大、オオタキ、東京マルイ、童友社、トミー、ドラゴンモデルズ、バンダイ、ピットロード、ファインモールド、マックス模型などのボックスアートを手がけている。
キャラクターモデル
今井科学の『サブマリン707』や『キャプテン・スカーレット』などのキャラクターものも描いていたが、1982年に「テレビランド」誌上で『戦闘メカ ザブングル』のイラストを発表。ミリタリーアートの大家がロボットアニメの巨大メカを描くという意外性が反響を呼び[2]、『超時空要塞マクロス』(今井科学・有井製作所・日本模型)、『機甲界ガリアン』(タカラ)などのボックスアートを担当。アニメブーム下のキャラクターモデラーにも影響を与えた。1984年には『風の谷のナウシカ』のポスター・パンフレット用イラストも描いている。
その他のアニメ作品では、『超時空世紀オーガス』(今井科学)、『超攻速ガルビオン 』(今井科学)、『超獣機神ダンクーガ』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(バンダイ)、『ファイブスター物語』(ウェーブ)、『マクロス7』(ウェーブ)、『サクラ大戦』(マーミット)などがある。2007年にはバンダイの宇宙戦艦ヤマトの大型キットのボックスアートを描いている。
画風
第二次世界大戦の様々な兵器を描いているが、創作活動初期は主に人間や動物を描いていた(インディアンに関する造詣が深い)。ミリタリーアートは当時の戦記物ブームの需要から描き始めたものだが、生来の探究心で精力的な情報収集を行った。軍事資料の乏しい当時、海外の情報を独自に入手したり、艦艇は元日本海軍造船官の福井静夫、零戦は元エースパイロットの坂井三郎といった関係者に取材を重ねることで、細部の正確な把握に務めた。「ボルト1本の位置にまでこだわる」という職人気質のため、筆が遅く少年誌の編集者を困らせたというエピソードもある。
精密さと共に、鋼鉄の質感を伝える写実的なタッチが特徴に挙げられる。また、背景をなす硝煙、波しぶき、雲海などの荒々しい筆遣いや、兵器の残骸や歩兵などのレイアウトで、戦場の臨場感を伝える手法も巧みである。なお画材は初期は水彩絵具、1980年頃以降はアクリル絵具を使用している。
しかし、1974年にアメリカとヨーロッパの消費者運動により「製品(キット)以外のものをボックスアートに描くと誇大広告とみなされる」という問題が生じる(小松崎茂の項も参照)。タミヤの自主規制により高荷は原画の修正を強いられ、改訂版パッケージでは背景の歩兵やオートバイが丸ごと削除され、事情を知らないモデラーを驚かせることになった。この修正作業では、問題となる箇所を水で濡らした筆でなぞって消したという。更に削除だけではなく初稿完成以降に集めた資料による細部の修正が無数に入っており、高荷の職人気質を感じさせる。
以降、パッケージに絵よりも写真が使われる例が増え、スケールモデル分野での需要が減ったことがロボットアニメに進出するきっかけになった。当初、アニメや巨大ロボットという非現実の題材に戸惑いがあったが、「この世界こそ、かつて自分が憧れた冒険活劇の世界ではないか!」と達観した。高荷風にアレンジされたメカニックイラストは力強い生命感を放ち、後に主流となるCG制作のボックスアートと比べても、独特のリアリティーを有している。
架空戦記、SF小説等の表紙も描いている。近年ではこれらの絵は印象画のように細部をぼかして雰囲気優先で描かれる事もある。特に横山信義と佐藤大輔、および林譲治の一部の作品で顕著であるが、作品のイメージを代表する兵器や人物をトリミングして並べるような手法ではなく、小説内の一場面を再現するようなものが多く、写実性の高さを生かして艦船や飛行機が奇抜な機動を行っている(ように見える)アングルは少ない。シリーズ物では内容に合わせたのか色合いや海、雲の具合などが調節されていることもある。
鶴岡 政男(つるおか まさお、1907年2月16日 – 1979年9月27日)は、昭和時代に活躍した日本の画家。群馬県高崎市出身。
人間の根源を極限まで追求した独自の画風を展開。「事ではなく物を描く」という主張は、画壇にセンセーショナルを巻き起こした
経歴
太平洋画会研究所で絵を学ぶ。
井上長三郎らとNOVA美術協会を結成
1943年、松本竣介・靉光らと新人画会を結成
戦後は自由美術家協会に合流
1954年、第1回現代日本美術展佳作賞
1963年、第7回日本国際美術展優秀賞
トーマス永井(とーます ながい、1886年 – 1966年)は洋画家。魔術的リアリズムの担い手として独自の作風を確立。しかし太平洋戦争の混乱によりその業績は長らく埋もれたままになっていた。忘れられた洋画家として近年評価が急速に高まってきている。本名は永井富三(ながい とみぞう)
経歴
1886年 – 群馬県吾妻郡名久田村(現中之条町)に生まれる
1904年 – 群馬県立農学校(現群馬県立中之条高等学校)を卒業
1906年 – 19歳で渡米
1924年 – アートスチユーデンツ・リーグで学び、トーマス・ハート・ペントンに師事
1929年 – 代表件「ピクニック」をアンダーソン・ギャラリーズへ出品
1934年 – インターナショナル・ウォーターカラー・ショーに出品
1966年 – フロリダで死亡
1996年 – 生誕百十年を記念して「トーマス永井の不思議世界」が東京・第一生命南ギャラリーで開催された
南城 一夫(なんじょう かずお、1900年 – 1986年)は、日本の画家。西洋的な香りのする作風で、中流階級にも親しまれた。群馬県前橋市出身。
主な作品に「鯛の静物」などがある
経歴
旧制前橋中学を卒業後、岡田三郎助主宰の本郷絵画研究所入所
1920年 東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科入学
1924年 フランス留学(1937年まで)。
1939年 春陽会に出品
1940年 春陽会会友となる
1966年 銀座・兜屋画廊で個展開催
1977年 銀座・松坂屋で回顧展開催
1981年 群馬県立近代美術館で「南城一夫展」開催
福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 – 1992年(平成4年)10月16日)は、日本の洋画家。
来歴
群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。父は後に富岡町長となった。
1915年、旧制富岡中学校を卒業。第二高等学校英法科を経て、1918年、東京帝国大学文学部入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門し、彫刻家を志す。
1922年、第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選。1924年、渡仏。ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受け、昭和初年にシュールレアリズムを日本に紹介した。1930年、独立美術協会に参加。1931年、帰国。1939年、独立美術協会を脱退し、美術文化協会を結成。戦前の前衛美術運動に大きな刺激を与える。1941年4月から10月までの間、共産主義者の嫌疑で拘禁された[1]。
多摩美術大学、女子美術大学教授をつとめた。1978年、文化功労者となる。1991年、文化勲章を受章。
代表作に『他人の恋』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『科学美を盲目にする』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『よき料理人』 (1930年 神奈川県立近代美術館蔵)などがある。
山口 薫(やまぐち かおる、1907年8月13日 – 1968年5月19日)は、昭和時代の日本の洋画家。元東京芸術大学教授。
略歴
1926年、第7回帝展に初入選
1927年、第8回帝展に入選
1929年、第4回国画会展に入選
1930年、第17回二科会展に入選。渡欧する
1934年、新時代洋画展を結成
1937年、自由美術家協会を結成
1950年、モダンアート協会を結成
1951年、武蔵野美術大学講師に就任
1960年、芸術選奨文部大臣賞受賞
1964年、東京芸術大学教授に就任
1968年、死去
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日(1869年1月30日) – 昭和6年(1931年)6月23日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。
経歴
同志社英学校(現・同志社大学)、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。黒田清輝の天真道場に学び、大正時代の日本の洋画界の重鎮だった。1888年(明治21年)に山本芳翠の生巧館画塾に入塾して芳翠から洋画を学び、1896年(明治29年)には白馬会の結成に加わった。1906年(明治39年)にジブラルタル経由でスペインに渡り、アルヘシーラス、グラナダ、セビリアに滞在した後、マドリードのプラド美術館ではいくつかの作品を模写している[1]。特にディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』については「これを見たいためにまずスペインに行ったのであった。この部屋に入ったときは、これを見ればほかに絵を見る必要がないとまで思わせた」と語っている[1]。マドリードには約1年、スペイン全体には約1年半滞在してからフランスに渡り、1908年(明治41年)の第2回文展にはパリで制作した『イスパニア国風景』を出品した。1914年(大正3年)には二科会の結成に参加。1931年(昭和6年)死去。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年12月17日 – 1953年9月12日)は、昭和時代の日本の書道家。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。
略歴
1933年、書道芸術社結成に参加
1945年、富山県に疎開。表立雲を弟子にする
1946年、日本書道美術院に参加
1953年、死去
沢田 東江(さわだ とうこう、享保17年(1732年) – 寛政8年6月15日(1796年7月19日))は、江戸時代の書道家・漢学者・儒学者。洒落本の戯作者でもある。
本来は多田姓だったが沢田姓に改める。氏は源、諱を鱗、字は文龍・景瑞、通称は文治または文治郎、号は東江のほか来禽堂・萱舎・青蘿館・東郊・玉島山人。江戸の人。
略歴
士族の子として江戸両国柳橋に生まれる。
早くから書学を好み、20代前半には明の王履吉の流れをくむ唐様の書家高頤斎に入門。宝暦4年(1754年)には兄弟子の高橋道斎に勧められて上毛多胡碑を観に赴き拓本を打ち、のちに『多胡郡碑面考証』として上梓した。
また学芸に励み、井上蘭台に入門して古註学を学ぶ。このときの同門に井上金峨がいる。この頃から山県大弐や鈴木煥卿(澶州)・高葛陂らとも交友した。
一方で遊里に溺れ放蕩を尽くし、ついに吉原中に「柳橋の美少年」と騒がれた[3]という。井上金峨の『唐詩笑』に触発され、26歳の正月に洒落本『異素六帖』を刊行する。これは漢籍『魏楚六帖』のもじりで『唐詩選』の有名句と百人一首の下の句を組み合わせて吉原の情景を織り込むという内容だった。
28歳(宝暦9年・1759年)の春、江戸幕府の要請で蔵書印の篆文の揮毫を行っている。この年の秋、蘭台の口利きで幕府学問所頭の林家に入門し林鳳谷に師事。主に朱子学を学ぶ。明和元年(1764年)春、再び幕府より下命があり、朝鮮通信使の御書法印を篆して白金を下賜される。
学問を通じて関松窓・平沢旭山・井上四明・市河寛斎・後藤芝山・入江北海・山本北山・渋井太室などと交わった。また文人画家の中山高陽と詩友となり、井上金峨とともに賛文を記している。この書画は三絶と評され江戸で人気となった。詩家の鵜殿士寧や安達文仲・横谷藍水とも交遊した。詩僧の六如慈周とは特に親しく、生涯に亘って詩交を続けた。天明2年(1782年)、公遵法親王が帰京のおりに六如とともに随行を許され、大坂の木村蒹葭堂を訪問している。六如と比肩される詩僧大典顕常が江戸に滞在した折り、自宅に招いて教えを請うている。このほかにも蘭学者(吉雄耕牛・宇田川玄随・源通魏)や俳人(谷素外・活々坊旧室)との交友が知られる。
明和4年(1767年)、山県大弐と交友があったことから明和事件に連座。取り調べを受けるも罪過は認められず、無構の申し渡しとなるがその衝撃は大きく経学による出立は諦めざるを得なくなる。以降、呼称(字・号・姓・名)を改めることを繰り返し、書をもって生業とする決意をする。
以後、書において東江流と呼ばれる一派を成し、江戸に書塾を開き多くの弟子を育てた。門弟に角田無幻・鈴木牧之・蒔田必器・韓天寿・橋本圭橘(角町菱屋)・墨河(五明楼扇屋)・三代目花扇(遊女)などがいる。
寛政8年6月(1796年)に死没。享年66。浅草東本願寺に葬られるが、のちに厳念寺(台東区寿1)に移葬される。子の東理、孫の東洋も書家となった。
東江流
書の師である高頤斎の書風は、王履吉・独立性易・高玄岱の流れを汲む唐様であった。しかし、佐々木玄竜・文山兄弟・細井広沢・松下烏石など当時一世を風靡していた明朝の書風の一端と受け取られていた。東江は『書学筌』(1757年)や『東郊先生書範』(1758年)などの書論で頤斎流の正統を謳い、玄龍・文山・広沢らを倭俗と切り捨てている。
明和6年(1769年)頤斎が没すると荻生徂徠の蘐園学派の影響を受け、書の復古主義ともいえる古法書学を唱える。同年刊行の『東江先生書話』において流行する明風の書を捨て、魏晋の書体に遡ることを主張した。そのためには古法帖を臨模して書法を会得し、古人の書論を読み気韻を知るべきとした。この主張は友人の韓天寿も感化し、後に二王(王羲之・王献之)を聖典視することに繋がっていく。
「書法を知らぬ者の作った字は読めないが、書法を知った者の字はそれが狂体であろうと張旭・懐素のように読むことがかなう」と述べている。
この古法書学はたちまち江戸を席巻し、東江流として一派をなした。
武士 桑風(たけし そうふう、男性、1913年 – 2008年12月17日)は書家。 群馬県佐波郡玉村町生。前衛書道(墨象)の分野で新境地を開拓する。 戦後いち早く毎日書道展等の設立に参加し、現代書作家協会代表、全日本書道連盟顧問などを務めた。
略歴
1913年 群馬県佐波郡玉村町飯塚に生まれる
1931年 半田神来に師事
1935年 比田井天来に師事
1937年 第1回大日本書道院展特選銀賞。2回展、3回展連続特選
1945年 日本書道美術院創立に参加。2回展審査員
1947年 毎日書道展の創設に参加。3回展審査員。30回展まで役員
1948年 書道芸術院創立。創立展から20回展まで審査員・役員
1952年 書道展として初の海外展であるニューヨーク近代美術館展
1968年 現代書作家協会創立
2008年 肺炎で死去
角田 無幻(つのだ むげん、? – 文化6年(1809年))は、江戸時代の書道家。名は光旒。勅伝大阿闇梨法印に叙せられた。書聖といわれた。
出身地
上野国勢多郡津久田村(現群馬県渋川市赤城町)
人物
修験僧だったが、書を志す
沢田東江に指導をうけ、第一人者となる
京都で晋・唐の書を研究
庚申塚や神社の鳥居、道祖神などを多く残している
星野聖山、(ほしのせいざん、1955年5月5日-)は群馬県出身、本名 明。日本の書家。
経歴
慶應義塾大学文学部を卒業。在学中から同大、高橋正彦教授に師事し古文書学、書道史を学ぶ。書を日展会員明石春浦に師事。
(一財)毎日書道会に所属し書作活動をする。また月刊書道研究誌『聖筆』を刊行し全国の書学者に向けて書道の普及を行っている。
作品は各体を能くし、古典を基盤としながらも現代感覚を融合させ品格と洗練を基調としている。
1978年書道研究聖筆会を設立
1987年毎日書道展会員
1990年能楽喜多流免許状筆者となる
1992年慶應義塾大学講師となり書道理論、書道実技を担当
1995年月刊書道研究誌『聖筆』を創刊
同誌の主な執筆者は慶應義塾大学教授高橋正彦、同じく教授石川透、新潟大学教授岡村浩
新潟大学講師計良袖石、書学書道史学会会員今成清泉等である
2004年群馬書道奨励賞受賞
2006年星野聖山書作展開催
2007年上毛(群馬)書道30人展運営委員
2008年山崎種二記念特別賞受賞
2009年(社)群馬県書道協会理事
ART singapore 2009 出品
2010年第61回 毎日書道展会員賞受賞
ART santfe 2010 出品
2011年毎日書道展審査会員となる
2012年上州観音霊場三十三ヶ所大看板謹書
2013年世界ギャラリーグランプリ美術選奨(アートジャーナル)
現代の書選抜100人新春展(毎日書道会主催)
2014年『墨』「現代墨場必携いつも心にある言葉」作品揮毫
2015年高野山開創1200年記念奉献書
現代の書選抜100人新春展(毎日書道会主催)
第66回群馬県展審査部長
水出子雲(みずいで・しゅうん)は、日本の書道家。本名は保。子雲塾主宰。
出身地
群馬県吾妻郡岩島村(現 吾妻町)
師
堀越呼雲
略歴
太平洋戦争末期に整備兵として陸軍に入隊。命からがら帰還する
戦後は会社勤めの傍ら書に親しむ
会社勤めを経て、書道家として独立。師から一字をもらい水出子雲と号す
月刊「書道」群馬県支部長など要職を歴任。群馬県における書道界の重鎮として君臨している
米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年 – 1994年10月22日)は、日本の書道家。元群馬大学教授。群馬県沼田市(旧利根郡白沢村)生まれ。
経歴
旧制沼田中学(現・群馬県立沼田高等学校)から東洋大学を卒業した後、旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)や旧制師範学校などの教諭を経て群馬大学教授となる
書道家としての活動にとどまらず、書道の研究・普及活動に精力的に取り組み、小学校・中学校用の教科書の執筆なども多い
1969年 群馬大学を退官
1977年 勲四等瑞宝章を受章
淡遠書道院会長・日本書道美術院理事・群馬県書道協会会長などを歴任した。
白沢村名誉村民であった。
栗原 正峰(くりはら せいほう、本名:栗原 正博、1976年 – )は、日本の書家であり教育者である。群馬県伊勢崎市出身。
経歴
栗原正峰は小学校1年より書をはじめ、群馬県を中心に活動した祖父の雅号を継ぎ、2代目栗原正峰として活動している。
小学校1年から野球をはじめ、小、中、高でピッチャー。東京農業大学第二高等学校時代には野球部に所属し、中継ぎ投手として第76回全国高等学校野球選手権大会にて群馬県代表として甲子園出場も果たしている。東京農業大学農学部造園学科卒業。大学時代は農大二高野球部のコーチ、高校教師となってからは指導者として活動した。書道界では極めて稀な野球色の濃い書家である。
書家であると同時に教育者でもある。現在は埼玉県内の高校で教鞭を執っているが、芸術関係の教科ではない。
「自由と奔放」をスローガンに掲げる現日会に同人として所属し、型にはまらない個性的な作品を世に送り出している。
2011年には過去5年以上該当者なしであった現日大賞を受賞。現在は数々の著名人が作品を所蔵しており、その活動範囲は広い(貴乃花光司、栗山英樹、EXILE宇佐美吉啓、宮本亜門、逸ノ城駿、三遊亭歌橘、片岡大晴との内容がブログにアップされている。特に湊富士孝行(現湊親方)と交流が深い)。主に甲骨・金文を中心に小字数の作品を手がけ、東京、ヨーロッパを中心に個展や展覧会に取り組んでいる。
2012年には銀座画廊art data bankにて「栗原正峰展」を実施。美術評論家小野寺啓治が監修する「書作品年鑑」にも最年少で掲載された。
2013年にはモネ、ルノワールも所属した330年以上の伝統を持つフランス屈指の公募展「ル・サロン」に入選。それよりも難しいとされる展覧会「サロン・ドトーンヌ」にも続けて入選し、書家でありながら芸術の分野でも評価は高い。
受賞歴
2005年 第12回 Gunmaペン書道展 新人賞
2006年 第13回 Gunmaペン書道展 特選
2007年 第58回 群馬県書道展 入選
2010年 第50回 現日書展 準特選
2011年 第51回 現日書展 現日大賞 受賞 / 現日会同人に推挙
2012年 第13回 日本・フランス現代美術世界展 入選
2012年 第27回 パリ国際サロン 推薦出品
2012年 第27回 パリ国際サロン ドローイング部門入選
2013年 第14回 日本・フランス現代美術世界展入選
2013年 第45回 スペイン美術賞展入選
2013年 第2回 エコールドパリ浮世・絵パリ展入選
2013年 2013 サロン・ドトーヌ入選
2013年 2013 ル・サロン入選
2014年 第46回 ポルトガル美術賞展 推薦出品
個展・展覧会
2010年 現日書展
2012年 銀座画廊「art data bank」個展
2012年 伊勢丹新宿店「たんざく展Ⅱ」
2012年 第13回 日本・フランス現代美術世界展
2012年 第27回 パリ国際サロン
2013年 第14回日本・フランス現代美術世界展
2013年 第45回スペイン美術賞展
2013年 第2回エコールドパリ浮世・絵パリ展
2013年 2013サロン・ドトーヌ
2013年 2013ル・サロン
2013年 銀座清月堂画廊「文人書家のアート展Ⅲ」
2013年 LABI1高崎「Art Gallery」個展
2013年 ベルギー「Art Gent」
2014年 スペインバルセロナ「AKASHI GALLERY」個展
桑原巨守(くわはら ひろもり、1927年 – 1993年8月26日)は、日本の彫刻家。女子美術大学名誉教授。
概要
具象彫刻の第一人者と評され、群馬県渋川市に桑原巨守彫刻美術館がある。群馬県沼田市出身。
略歴
1949年 東京美術学校彫刻科卒業
1964年 二紀展に初入選
1966年 二紀展同人賞受賞
1971年 女子美術大学教授に就任
1975年 第29回二紀展で菊華賞受賞
1979年 ブルガリア政府「花と少女」を購入
1982年 第2回高村光太郎大賞展で美ヶ原高原美術館賞受賞
1983年 第37回二紀展で文部大臣賞受賞
1989年 第43回二紀展で宮本三郎賞受賞
1993年 女子美術大学名誉教授となる
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年1月6日 – 1995年3月1日)は、日本の彫刻家。
出身地
群馬県高崎市
学歴
群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)
東京美術学校(現東京芸術大学)木彫部卒業
略歴
1932年、第13回帝国美術院展覧会で「母と子」初入選
1937年、第1回新文展「若い男」特選受賞
1955年、第11回日展審査委員に就任
1962年、日展評議員に就任
1987年、日展理事に就任
1988年、日展参事に就任
細谷而楽(ほそやじらく、1875年(明治8)- 1940年(昭和15))は、彫刻家。本名三郎。群馬県城東町(現、前橋市一毛町)生まれ。
来歴
前橋藩士の家柄に生まれ、家業は製糸業を営む。明治30年(1897年)9月、東京美術学校予科(現東京藝術大学)に入学する。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する。同期には高村光太郎(光雲の子息)がおり、ともに学業に励む。明治41年(1908年)に光雲の推薦により、文部省古社寺保存会に勤務し奈良へと移り、仏像、古美術の修復にその天分を発揮し特に、東洋独特の乾漆彫刻の伝統技術を苦心のすえ解明し、復原することに成功する。唐招提寺の乾漆仏像を修復してからは乾漆工芸家として知られ、日本国における仏像修復の貴重な存在となる。代表作に新薬師寺の塑造十二神将のうち、江戸時代の地震で失われた1体(寺伝・波夷羅大将像)を補作(1931年)。妻フクの兄、中島秋圃は日本画家である。
エピソード
昭和9年(1934年)、法隆寺に用があり通っていた細谷而楽は、食堂(じきどう)に近世の間に合わせの修理で張りぼての菰をかぶったような仏像があるのに気がついた。土とも木とも分からない、高さ七尺程の腰以下のやたら太い不恰好この上もない作品であるが、欠けた部分を少しめくると中に別の何かがあるように見える。さては何か古像ではないかと次々と上皮を剥がすと、文字通り「化けの皮」が見事に剥がれ中から気品高い天平彫刻が出現した。一年余の修理のうえ天平塑像の傑作・吉祥天像を修復することとなる。
昭和11年(1936年)には重要文化財(当時の旧国宝)に指定。現在は法隆寺大宝蔵院に安置されている。
門下
加藤翠園
業績
文部省(当時)の古社寺保存会に入り奈良県内の仏像などの修復にあたる。
三輪途道(旧姓・上原三千代)
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年6月12日 – 1949年7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。
経歴
生い立ちから東京美術学校卒業まで
1897年、群馬県佐波郡宮郷村上連取(「つなとり」と読む。現在の伊勢崎市連取町)の名家に生まれる。酉三の名は酉年(同年は丁酉)に生まれたことにちなむ。幼い頃からさかんに粘土細工を作るなどしていたという。1910年、前橋中学校に入学するも2年後に校長排斥運動(ストライキ)を起こして退学処分を受ける。兄らの奔走により当時県議でのちの衆議院議員・今井今助の推薦を得るなどして同県沼田中学校に再入学することができ、1917年春に同校を卒業。一年後に上京して東京美術学校工芸部鋳金科に入学、香取秀真や津田信夫に師事する。1923年3月に同校を卒業。卒業制作は『経筒中子付』(学校買い上げ)。
高崎観音山再開発と井上保三郎
「高崎白衣大観音」も参照
美術学校卒業後の森村は池袋にアトリエを構え、本格的に創作活動を始める。郷土(群馬)の偉人の胸像の制作、一方で多くは動物をモチーフにした作品で帝展に連続入選するなど少しずつ美術界での地歩を固めていた森村のもとに、1929年、高崎市に本社を置く井上工業の社長井上保三郎らが訪れる。「近代高崎建設の最大の功労者」と言われ衆議院議員や初代高崎市長も務めた政治家・矢島八郎(1850~1921)の銅像制作の依頼であった。翌年完成させた銅像は市内を見下ろす観音山の山頂に設置された(森村の制作したこの像は戦時中に供出され、現在は当時の台座の上に分部順治によって制作された矢島の像が建っている)。2年後、再び井上保三郎が訪れる。井上はパリをモデルに観音山を近代的に再開発したいと考えており。、その構想の中心的存在として前記矢島の像とともに「無名の国家功労者」への弔いの意も兼ねて、大観音像を建立してそれを据えたいと考えていた。井上はその原型制作を森村に依頼しに来たのであった。
井上は「私はセメント会社を経営していてコンクリートが豊富にある。これを何かに活かしたい。ついては私は観音様を信仰しており、あなたの手で立派な観音様をつくってもらいたい」と語りかけ、井上の熱意に打たれた森村は無料で制作することを約束したという。
こうして1934年に原型を完成させ、翌年に工事が着工、翌々年(1936年)竣工し同年10月開眼供養が行われた。当時としては世界最大の観音像であった。
その後
その後も官展に出品を続け、1942年に無鑑査になる。1944年に郷里宮郷村に疎開したのちは群馬美術協会の創設に尽力した。1949年、肝臓がんにより死去。享年52。
エピソード
酒もタバコものまず、作品づくりに精進したという。
一方いったん趣味にのめり込んでしまうと本格的で、特に登山とスキー、菊づくりには惜しげもなく時間を費やしたという。
日本画家の磯部草丘、洋画家の横堀角次郎は前橋中学時代の同級生であり、ともに前述群馬美術協会の創設に尽力した。
池袋時代江戸川乱歩とは隣同士の関係だった。乱歩の自伝的回想録(『探偵小説四十年』)にも森村夫妻が登場する。
第64・65代内閣総理大臣・田中角栄は「完成した白衣大観音の原型を(池袋の)森村のアトリエから(自転車で日本橋の)井上工業東京支店まで運んだのは自分だ」と言って憚らなかったという。真偽のほどは不明だが、大観音建立のプロジェクトが進行中の一時期、田中が井上工業(東京支店)に在籍していたことは事実である。一方森村の妻であった寿々は、森村の死後、洋画家田中佐一郎と再婚したのちも、”角福戦争”の相手、観音山の地元高崎(正確には旧金古町)出身の福田赳夫と終生交流があったという。ちなみに高崎は中曽根康弘の地元でもあり、大観音の周辺で”福中”ならぬ”角福中”が交錯していたということになる。
木暮 陶句郎(こぐれ とうくろう、1961年10月21日 -)は、日本の俳人、陶芸家。 本名は木暮宏明。
経歴
俳歴
1993年、「ホトトギス」同人の伊藤凉志に師事。1997年、「YUKI」同人。1998年、日本伝統俳句協会賞および花鳥諷詠賞を受賞。2002年、「ホトトギス」同人。現在、稲畑汀子(「ホトトギス」主宰)に師事。「ひろそ火」主宰、インターネット俳句協会副理事長、NHK学園講師。
陶歴
南雲龍および南雲陽に師事。 1975年、14歳で陶芸と出会い、以後作陶を始める。1997年、伊香保焼陶句郎窯を開く。2002年、2006年、日展入選。「ぐんまの達人(文化・芸術)」。
渋民焼
自性寺焼
月夜野焼
伊勢崎絣(いせさきかすり)とは、群馬県伊勢崎市とその周辺地域で製造されている絣。「伊勢崎銘仙」とも呼ばれている。
概要
伊勢崎絣は「太織」という残り物の繭から引き出した生糸を用いた織物で、本来は農家が自家用に生産していたものであった。江戸時代中期にその基礎が築かれ、丈夫かつお洒落な縞模様が次第に庶民の間で人気を博し、伊勢崎周辺はもとより遠くは江戸、大阪、京都へも出荷されるようになった。明治に入ると近代的な染色、織物技術が海外から導入され、絣に用いられる糸も手で紡いだ手紡ぎ糸から機械生産による撚糸へと変わり、生産性も大幅に向上した。乃木希典学習院長が伊勢崎絣を高く評価、学習院の学校着に用いられるなど、明治末から昭和初期にかけて伊勢崎絣は「銘仙」と呼ばれるまでに成長を遂げた。その後、急速な洋装化や戦後日本における繊維産業の斜陽化に伴い生産量は激減したが、1975年には国から伝統的工芸品の指定を受け、ネクタイやテーブルクロス、のれん等、反物以外の製品に製造技術を応用し、再び注目を集めることとなった。そのような試行錯誤を続け、伊勢崎絣の伝統を絶やさない努力が現在に至るまで続けられている。
桐生織(きりゅうおり)は、群馬県桐生市において特産とされる絹織物である。その起源は奈良時代まで遡る。江戸時代以降、西陣及び西洋の技術を導入し、さらには先駆けてマニュファクチュアを導入し発展。『西の西陣、東の桐生』と言われ、高級品織物を中心に、昭和初期までは日本の基幹産業として栄えてきた。
2006年4月から施行される改正商標法によって、特定の地域名を冠した「地域ブランド」(地域団体商標)も商標権の取得が可能となることを受け、産地でつくられる織物のブランド化を図る一環として「桐生織」の商標登録取得に向けた準備を進めている。2006年10月27日に特許庁が発表した第一弾の52件からは漏れている。
白滝姫伝説
桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。
この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を『仁田山紬』というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山紬」と言われていた。
姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は白滝神社の前の神体石であるという。
現在でも、桐生市川内町には白滝神社があり、白滝姫が祀られている。
仁田山
江戸期における品質の劇的改善まで、仁田山織は低品質で有名であった。現在でも偽者やまがい物のことを「仁田山」と呼ぶ語源ともなっている。
桐生織の歴史
714年に上野の国(今の群馬県)が、はじめてあしぎぬを織って朝廷にさしだした(続日本紀)。
905年の制度に上野国の税はあしぎぬと定めた。
1333年、新田義貞の鎌倉攻めにおいて、仁田山紬を旗印に用いた。
1384年 – 1392年には、仁田山絹として他国にも流通し始めた。
応仁の乱により、衰退。
安土桃山時代には、少しずつ盛り返していく。
1600年、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原へ返すとき、急使を送って旗絹を求めたが、わずか1日ほどで2千4百10疋を天神の境内に集めて納めた。このことが織物生産地としての桐生の名声を高めた。
1661年 – 1680年になると、機業を仕事とする者が多くなり、京都、大阪、江戸や他の国々との取引も盛んになったので、1738年2月には、はじめて絹市場が開かれた。
1738年織工を雇い入れて、流行を先取りする新しい織物を作り、莫大な利益をあげた。市は、言葉に言い表せないほどに賑わった。
時代の変化にしたがって技術も進み続け、年ごとにすばらしい絹が生産されたので、桐生の名は高まっていった。
桐生織の現在
現在は、和装離れから桐生織は苦境に立たされている。しかし、先端科学技術を導入した新製品や、映画・ドラマなどを中心とした衣装提供など、様々な方面へ生き残りをかけて進出している。
スティーヴン・スピルバーグ監督の、SAYURIにおいて、主演のチャン・ツィイー、コン・リーや桃井かおりが身につけた丸帯は、桐生市で生産されたものである。
ハルナグラスは、群馬県北群馬郡榛東村にあるガラス工芸の工房(工場および店舗)。もとは明治創業の老舗ガラス企業・株式会社ハルナグラスによって運営されてきたが、2015年(平成27年)に有限会社鈴京によって買収され、現在は地球屋ハルナグラスという名称で、鈴京の一店舗として営業している。
歴史
株式会社ハルナグラス
Haruna Glass Co,Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
〒370-3505
群馬県北群馬郡榛東村上野原2
設立 1950年
代表者 代表取締役社長 田島靖彦
資本金 3,200万円
従業員数 6人
主要子会社 有限会社キララ
関係する人物 田島正八(創業者)
田島一朗(設立者)
外部リンク www.harunaglass.com
特記事項:2015年、有限会社鈴京により買収
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有限会社キララ
種類 有限会社
本社所在地 株式会社ハルナグラスに同じ
設立 1990年
代表者 株式会社ハルナグラスに同じ
資本金 500万円
従業員数 17人
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高崎時代
ハルナグラスの創業は1903年(明治36年)、田島正八が興した田島硝子製造所に始まる[。創業者・田島正八は大阪でガラス作りの修行をした経験を活かし、群馬県高崎市末広町5にガラス工場を構え、当初はランプの火屋(ほや)を専門に製造していた。1917年(大正6年)、社名を田島硝子器製造所に変更。同時に高崎市内の旭町131に移転したが、その工場は1923年(大正12年)の関東地震(いわゆる関東大震災)の影響で煙突が倒壊する被害を受ける。この地震は群馬県にも被害をもたらし、全壊した住宅の数は107棟に上った。1925年(大正14年)、工場を新築。しかし、その工場も1945年(昭和20年)8月14日の空襲で全焼した(日本本土空襲、伊勢崎空襲も参照)。こうした苦難を乗り越え、1946年(昭和21年)に社名を田島硝子工場に変更、さらに1950年(昭和25年)には株式会社田島硝子工場を設立、代表取締役に田島一朗が就任した。
戦後間もなくの頃は牛乳瓶のような容器や食器、照明用のガラスを生産していた。1965年(昭和40年)にプレス成型機械を導入。1970年(昭和45年)にはクリスタル・ガラスの製造を開始し、このとき社名も田島クリスタル株式会社に変更した。当初は食器・照明用に生産していたクリスタル・ガラスであったが、1975年(昭和50年)に時計枠用にも拡大。1982年(昭和57年)には窯の燃料を重油から環境負荷の低い都市ガスに切り換え、ガラス業界初の試みとしてガス並列式ガラス溶解炉を導入した。
榛東時代
1987年(昭和62年)、工場を榛東村に移転し、社名を株式会社ハルナグラスに変更した。工場に並列式ガラス溶解炉や単独式工芸炉を新設して省エネルギー化を図るとともに、直接販売店を営業開始。1990年(平成2年)4月4日、関連会社として有限会社キララを設立。創業から100年となる2003年(平成15年)には、省エネルギー型の単独式ガラス溶解炉を2基新設した。群馬県は1998年(平成10年)にハルナグラスの製品を「群馬県ふるさと伝統工芸品」に指定(現在は指定解除)。続いて、ハルナグラスの「カラー硬質耐熱の調合・熔解と成型技術・商品群」、そしてキララの「ガラスモザイク造形物とその製造方法」を評価し、両社を2000年(平成12年)度「ぐんまの優れたものづくり企業」に認定した(かぎ括弧内は引用)。
しかし、会社の業績低迷により建物を競売に出すことを余儀なくされ、2015年(平成27年)1月、高崎市の雑貨販売業者である有限会社鈴京が落札した。鈴京が営む地球屋とハルナグラスとは道路(群馬県道153号水沢足門線)を挟んで向かいにあり、両者の相乗効果をもって観光施設事業に弾みをつける狙いである。ハルナグラスは同年5月10日付けで営業を終了。その後、「もの作り体験工房・新ハルナグラス」として同年11月1日にリニューアルオープンした。
上越クリスタル硝子株式会社(じょうえつクリスタルガラス)は、群馬県利根郡みなかみ町に本社・工場を置く企業。手作りガラス製品の製造および販売を手がけ、隣接の直営店・月夜野びーどろパークを運営する(「びーどろ」はポルトガル語でガラスの意)。ブランド名として月夜野工房およびiroを用いる。日本ガラス工芸協会 (JGAA) 賛助会員。
歴史
1905年(明治38年)2月10日、創業者・倉田昌三が現在の東京都文京区において、理化学ガラスの製造を開始したのが始まりである。当時は主に温度計や体温計を始めとするガラス器具の製造を手がけていた。現在の本社・工場所在地である後閑に移転したのは1947年(昭和22年)3月のことで、かつての松根油工場の跡地であった当地を倉田隆夫が着目。その場所は大東亜戦争末期に日本軍の要請で設置され、航空機の燃料として松根油を製造していた工場であったが、終戦により放置されていた。1955年(昭和30年)8月、社名を現在の上越クリスタル硝子株式会社とし、色彩工芸ガラスの生産を本格化。1966年(昭和41年)には通商産業省(現・経済産業省)から輸出貢献企業と認められている。1972年(昭和47年)、工場設備を改善し、公害防止を図った。群馬県は1997年(平成9年)度に上越クリスタル硝子の製品を「群馬県ふるさと伝統工芸品」に指定するとともに、2001年(平成13年)度には5、6人の職人が一組となって臨むガラス宙吹き成形技術を評価し、「ぐんまの優れたものづくり企業」に認定した。
1960年代後半あたりから工場脇に直営店を設営。水上温泉郷への観光客が立ち寄るようになり、ドライブイン的な施設へ整えられて行く。これが現在の月夜野びーどろパークの前身となった(後述)。1990年(平成2年)に美術館を建設し、1994年(平成6年)にテーマパーク化。1997年(平成9年)には月夜野クラフトビール株式会社を設立し、地ビールの醸造も手がけている。
こけしは、江戸時代末期(天保から嘉永期)頃から、東北地方の温泉地において湯治客に土産物として売られるようになった轆轤(ろくろ)挽きの木製の人形玩具。一般的には、球形の頭部と円柱の胴だけのシンプルな形態をしている。漢字表記については、名称の節参照。
概要
こけしは本来の発生時の様式に従って作られる『伝統こけし』と、これをもとに新規に発展した『新型こけし』に大きく分かれる。『伝統こけし』は産地・形式・伝承経緯などにより約10種類の系統に分類される。他方『新型こけし』には、工芸的な「創作こけし」と、東北に限らず全国の観光地で土産品として売られている「こけし人形」がある。
本来の玩具として発生したこけしは、幼児が握り易いように、胴の太さも子供の手に合わせた直径であった。したがって立たないこけしもあった。ただし、鳴子のこけしは、かなり初期の段階から、雛祭りの折に雛壇に飾るような使われ方をしたとみられ、立てて安定なように胴は太く作られていた。いずれにしても本来は湯治の土産物であり、子供の手に渡っておもちゃの人形、すなわち弄び物として使われたものであった。二つ折りの座布団にこけしを挟んで、それを背負いながらままごと遊びをする女児を良く見かけたという記録もある。江戸末期から明治の末年までが、おもちゃとしてのこけしの最盛期であった。
しかし、大正期になると、こけしは、キューピーなどの新興玩具に押されて衰退し、転業休業する工人も増えたが、一方でこのころから趣味人が好んでこけしを蒐集するようになり、子供の玩具から大人の翫賞物として継続してその命脈を保つことが出来た。東京、名古屋、大阪にこけしを集める蒐集家の集まりが出来て、一時休業した工人にも再開を促し、かなりの作者の作品が幸いにも今日まで残ることとなった。 大人の翫賞物として集められるこけしは、棚等に立てて並べられ、鑑賞される場合が多い。そのため、やや胴を太く作ったり、作並のように細い胴の場合には下部に倒れ防止用の台をつける等の工夫も行われた。伝統こけしといっても、その形態や描彩は時代の流行や、新型こけしの影響も受け、需要の要請に応じて幾分変化を遂げている。 一方で、蒐集家によっては、子供の玩具時代の古い様式を望むものもいて、その工人の師匠、先代。数代前の工人のこけしの型を、復元するよう依頼することも行われる。それらは誰それの型の復元こけしと呼ばれる。
毎年9月の第1土曜日曜には、宮城県大崎市鳴子において「全国こけし祭り」が開かれ、コンクールや工人の製作実演が行なわれる。 また5月3日から5日まで、宮城県白石市において「全日本こけしコンクール」が開催される。最も優れた作品には、最高賞として内閣総理大臣賞が授与される。10月には山形県山形市で「みちのくこけしまつり」が開催され、コンクールも行われる。この三つがこけしの三大コンクールと呼ばれる。
名称
こけしの名称は、各地によってすこしずつ異なっており、木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などがあった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子・木形子・木芥子・木削子など)があったが、昭和15年(1940年)7月27日に東京こけし会(戦前の会)が開いた「第1回現地の集り・鳴子大会」で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
一方、近年ではこけしの語源を「子消し」や「子化身」などの語呂合わせであるとし、貧困家庭が口減らし(堕胎)した子を慰霊するための品物とみる説も存在する。これは1960年代に詩人・松永伍一が創作童話の作中で初めて唱えたとされる。 しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られず、松永自身も説得力ある説明はしていないとされ疑問が持たれている。明確な出典が存在しないため民俗学的には根拠のない俗説とされる。
こけしの語源やこけしに至る信仰玩具の変遷について、加藤理が平安時代の子供を守る信仰人形や東北地方の他の信仰玩具との関係から、「『あまがつ』とその歴史的変遷の考察-宮城県の郷土玩具との関係を中心に-」(日本風俗史学会紀要『風俗』第30巻3号)で詳しく分析・考察している。
発祥の背景
こけしの頭部を塗る
こけしが生まれるには、主に次の3つの条件が必要だったと言われている。1つ目は、湯治習俗が一般農民に或る種の再生儀礼として定着したこと。2つ目は、赤物が伝えられたこと。3つ目は、木地師が山から降りて温泉地に定住し、湯治客の需要に直接触れるようになったこと。
当時農民は国民の90%を占めていたが、特に寒冷地東北の農民にとって、湯治とは、厳しい作業の疲れを癒し、村落共同体の内外を問わず人々とのコミュニケーションを楽しむ重要な年中行事であった。太陽暦でいう1月末の一番寒い時期の「寒湯治」、田植えの後の「泥落とし湯治」、8月の一番暑い時期の「土用の丑湯治」など、年に2-3回は湯治を行ってリフレッシュしていたようである。
2つ目の「赤物」とは、赤い染料を使った玩具や土産物のこと。赤は疱瘡(天然痘)から守るとされ、子供のもてあそび物としてこの赤物を喜んで買い求めた。赤物玩具を作る人のことも、赤物玩具を背負って行商に売り歩く人のことも赤物師と呼んでいた。赤物のもっとも盛んな産地は、小田原から箱根にかけての一帯であり、その手法が江戸の末期、文化文政から天保の頃に東北に伝わった。東北の農民達がさかんに伊勢詣りや金比羅詣りに行って、その途上、小田原、箱根の木地玩具(赤物)を見るようになったのがその契機といわれ、湯治場でも赤物の木地玩具を望むようになった。
3つ目の条件として、木地師が山から下りてくるようになった背景には、中世以降保証されていた木地師の特権、すなわちどこの山でも八合目以上の木は自由に伐採できるとされた特権が、江戸の末期になって各地の論山事件により失われたことにある。山から下りて湯治場に定着するようになった木地師は湯治客と接し、彼らの需要を直接知るようになる。いままでお椀、お盆、仏器、神器のように白木のまま出していた木地師が、湯治の農民達の土産物として、彩色を施した製品を作り始めるという大きな変化が起きた。 湯治場において農民が求めた赤物こけしは、心身回復と五穀豊穣のイメージが重なった山の神と繋がる縁起物であり、それを自らの村へと運ぶ象徴的な形象でもあった。それゆえこけしは単に可愛いというだけではなく、逞しい生命力を秘めており、現代においては大人の鑑賞品としても扱われるようになっている。
伝統こけしの系統
こけし十系統のうち、左より土湯系(阿部治助作)、弥治郎系(新山久治作)、遠刈田系(佐藤直助作)、蔵王高湯系(斎藤源吉作)、作並系(高橋胞吉作)。木人子室蔵。
こけし十系統のうち、左より鳴子系(佐藤乗太郎作)、肘折系(奥山喜代治作)、木地山系(小椋米吉作)、南部系(藤原政五郎作)、津軽系(三上文蔵作)。木人子室蔵。
伝統こけしは産地によって特徴に違いがあり、主な物は下記の各系統(主産地・県)に分類することが出来る。
土湯系(土湯温泉、飯坂温泉、岳温泉・福島)
頭部には蛇の目の輪を描き、前髪と、鬘の間にカセと呼ぶ赤い模様がある。胴の模様は線の組み合わせが主体。
弥治郎系(白石市弥治郎・宮城)
頭頂にベレー帽のような多色の輪を描き、胴は太いロクロ線と簡単な襟や袖の手書き模様を描く。
遠刈田系(遠刈田温泉・宮城)
頭頂に赤い放射線状の飾りを描き、さらに額から頬にかけて八の字状の赤い飾りを描く。胴は手書きの花模様で菊や梅を重ねたものが一般的、まれに木目模様などもある。
鳴子系(鳴子温泉・宮城)
首が回るのが特徴。首を回すと「キュッキュ、キュッキュ」と音がする。胴体は中ほどが細くなっていて、極端化すれば凹レンズのような胴体を持つ。胴体には菊の花を描くのが通常である。
作並系(仙台市、作並温泉、山形市、米沢市、寒河江市、天童市・宮城、山形)
山形作並系ともいう。また山形を独立系として扱う場合もある。
頭頂に輪形の赤い飾りを描き、胴は上下のロクロ線の間に菊模様が描かれる。
蔵王高湯系(蔵王温泉・山形)
頭頂に赤い放射状の手柄を描くが黒いおかっぱ頭もある。胴は菊や桜のほか、いろいろな植物を描く。
肘折系(肘折温泉・山形)
頭部は赤い放射線か黒頭で、胴模様は菊、石竹などが多い。
木地山系(木地山・秋田)
頭部には大きい前髪と鬘に、赤い放射線状の飾りを描く。胴は前垂れ模様が有名だが、菊のみを書いた古い様式もある。
南部系(盛岡、花巻温泉・岩手)
おしゃぶりとして作られた無彩のキナキナが原型。簡単な描彩を施すものも作られる。キナキナ由来で頭がぐらぐら動くのが特徴。
津軽系(温湯温泉、大鰐温泉・青森)温湯系ともいう。
単純なロクロ模様、帯、草花の他、ネブタ模様などを胴に描く。
これらの系統に含まれない伝統こけしも存在する。
こけしの工人については、工人中心の百科事典Kokeshi Wikiが詳しい。
だるま(達磨)は仏教の一派である禅宗開祖の達磨の坐禅姿を模した置物、または玩具。現在では禅宗のみならず宗教、宗派を越え縁起物として広く親しまれている。
多くは赤色の張子(はりこ)で製作され、目の部分は書き入れずに空白のままに残す。そして何らかの祈願を行い、祈願が叶うと目を書き入れるという習慣がある。
歴史
『達磨図』(月岡芳年筆、1887年)
鎌倉時代に日本に伝わった仏教禅宗では達磨大師という僧侶を重要視し、「祖師」の言葉は達磨を表すこともあるほどである。禅宗寺院では達磨大師を描いた掛け軸や札をいわゆる仏像のような役割で用いることが行われるが、この達磨大師には壁に向かって九年の座禅を行ったことによって手足が腐ってしまったという伝説がある。ここから、手足のない形状で置物が作られるようになった。
だるまとは別に、各地の郷土玩具に「起き上がり小法師」というものがある。これは底を丸くして重心が低く作られていることによって、倒しても起き上がる置物である。球体に近く腕もなく足もない形状であるため、これに顔を描いたものは次第にだるまとも混同されるようになった。江戸時代に中国から長崎の黄檗宗の寺院に持ち込まれた起き上がり小法師は、インドで僧侶の衣服の色として用いられた黄色であったと伝えられている。
日本ではだるまは赤色を基調とした塗装が行われる。火や血の色である赤は古来から魔除けの効果があると信じられていた。縄文時代には当時の魔法の器具ともいえる一大発明であった土器を作り出す火や命の糧である動物の血に力を感じていたことは想定できるし、古墳では石室に水銀朱がまかれて貴人の亡骸の腐敗を防ぐ役割を期待された。平安時代には貴人の住居や神社の鳥居も腐食を防ぐ赤である丹で塗られた。お祝い事の席には衣服にしろ食べ物にしろ赤が欠かせぬものであり、さまざまな病や災いは赤色を持って防げると考えられてきた。江戸時代以降に日本で描かれた達磨大師の絵なども赤い衣で描かれている。縁起物として、紅白となるよう白いだるまを作ることも行われてきた。 昭和以降になると、赤白色以外にも、黄色、緑色、金色等の色を基調とした色とりどりのだるまも製造されるようになった。
だるまの種類
だるまは生産される地域によって形状、彩色、材質などが異なっており、地域名を冠した名称によって区別されることが多い。以下に、有名なだるまの種類を挙げる。
松川だるま
松川だるま(蟹仙洞所蔵)
仙台市とその近郊で制作されているだるま。胴体の前半分が青で後ろが赤、眉毛に毛を使っているのが特徴。また胴体前面の宝船や福の神が立体的に掘られている。材料には地元の柳生和紙を使用している。
高崎だるま
群馬県高崎市で生産されているだるま。「上州だるま」とも呼ばれているが公式名称ではない(高崎だるまが地域団体商標に登録されている)。全国生産の80%に匹敵する年間170万個が生産されている。現代の選挙の際に立候補時に左目玉を墨で入れ、当選後に右目玉を墨で入れる「選挙だるま」のほとんどが高崎で生産されている。冬に風が強く乾燥する気候がだるま作りに適しており、農閑期の副業として盛んに行われた。
始まりは、延宝5(1667)年に東皐心越禅師が開山した禅宗の一派である黄檗宗の少林山達磨寺で、毎年正月に心越禅師の描いた一筆達磨の座禅像を配り札としていたことによる。その後、文化年間に達磨寺の近隣の上豊岡の山県朋五郎が達磨寺九代目住職の東獄和尚に木型を彫ってもらい和紙を張って作ったのが、高崎だるまの始まりとされている。
球に近い形状の赤色の胴体にくぼんだ白い顔がついており、そこに豪快な髭と眉毛が描かれている。この髭と眉毛は鶴と亀をあらわすという。衣服には金色の縦縞が描かれ、正面中央や顔の左右には文字が記入される。特注でここに祈願内容など独自の文字を入れることもでき、祈願のシンボルや祝儀の贈物として広く利用されている。
白河だるま
白河市で生産されているだるま。白河だるまは今から約300余年前、当時の白河城主丹羽長重公に初まり、後年の小峰城主でその名も有名な松平定信楽翁公が城下の繁栄を強く願い、当家先祖に楽翁公直々の名により谷文晁の図案とお墨付を路金とともに戴き、はるばる京へ「だるま」修業の命を受けて出立した。修業のあかつき眉毛は鶴、髭は亀、耳髭は松と梅、あご髭は竹を表して帰郷したと言い伝えられている。また、文政6年(1823年)も横町絵図に、旧奥州街道沿いの横町で現在もだるま製造業を営む渡邊だるま店の住居、作業所がある位置に「瓦作金七」の名が確認されていることから、この人物が白河だるまと大きく関わっている可能性が高いとされている。 白河だるまはあごひげが長いのが特徴。厄除けと家内安全の利益がある赤だるまと、開運の利益がある白だるまが作られている。年間15万個が生産されている。
越谷だるま
越谷だるま
埼玉県越谷市で生産されているだるま。「武州だるま」とも呼ばれ、江戸時代の享保年間(1716~1736年)に、間久里の「だる吉」という人形師が、従来あった「起き上がり小法師」という玩具に座禅を組んだ達磨大師を描いたのが始まりといわれている。他に比べて「色白」「鼻高」「福福しい」という特徴があり、川崎大師や柴又帝釈天など関東一円をはじめ、全国に広く出荷され「越谷だるま」の名で知られている。越谷市だるま組合の越谷市の7軒、さいたま市(岩槻区)1軒、春日部市1軒により年間約40万個のだるまが生産されているが、そのほとんどが手作業によるもの。
東京だるま・多摩だるま
明治から始まり生糸や絹の産地である武蔵国の中でも特に多摩地域のだるま市で知られる。埼玉県でも見られるもので、養蚕農家が神棚に供えた物であり、合格祈願などのだるまも作る。
詳細は「東京だるま」を参照
相州だるま
東京八王子から伝統を受け継いだもので神奈川県平塚市で生産されているだるま[1]。
鈴川だるま
静岡県富士市の岳南地域で生産されているだるま。優しく穏やかな表情が特徴。
姫だるま
大分・竹田の姫だるま
愛媛県で作られる、女性の外見をしただるま。近現代になって皇国史観が広まってから神功皇后の置物として作ったもの。
女性の外見をしただるまは、新潟県や大分県竹田市などでも生産されている。
五色願かけだるま
静岡県伊豆市の土肥達磨寺で売られているだるま。目を引いて売りやすくするために仏教というより道教で「空風火水土」を象徴する色「青、黄、赤、白、黒」で五色に塗り分けたもので時代はそうくだらない。日本の各地で養蚕が日本の一大輸出産業として盛んになった明治以降に作られ始めた繭型タイプのだるまの一つで、これの時代はもっと新しい。丸型ではなく、ひょうたんのように下部が大きい。願い事を開運札に書いてだるまに貼り、お祈りするときには、南無達磨娑婆訶(なむだもそわか)と三回唱えるとしている。
豊の姫だるま
[大分県] 大分 宗方地区で販売されているだるま。幸せを呼ぶ鈴を入れた「だるま」鄕土玩具。ピンクを基調とした装飾用の七転八起の可愛い「だるま」で、起き上がりこぶし的な小さな「だるま」。旧大分県速見郡日出町の発展に尽力をした速津媛(豊後風土記)を人形化したもので「招福の喜」「人生の幸」「代々の栄」を祈願している。
だるま市
だるまを販売する市が、だるま市として毎年各地で開催されている。少林山七草大祭と厄除元三大師大祭に、毘沙門天大祭か白河だるま市を合わせて日本三大だるま市と称される。
少林山七草大祭
高崎市内にある少林山達磨寺で毎年1月6日~7日に開催される。通称「高崎だるま市」。毎年約24万人の人出がある。
厄除元三大師大祭
東京都調布市の深大寺で毎年3月3日~4日に行われる寺最大の祭であり、東京最大のだるま市[4]の「深大寺のだるま市」として知られており、「三大だるま市」の一つ[5][6][7]。
毘沙門天大祭
静岡県富士市の毘沙門天「今井山妙法寺」で旧正月の7日から9日まで開催される。50万の人出がある。
白河だるま市
JR白河駅前の目抜き通りをメイン会場として開催される。毎年2月11日(建国記念の日)開催。15万人の人出がある。
三春だるま市
三春町 福島県三春町で1月第三週日曜日に開催。 場所:三春町内おまつり通り
川崎大師だるま市
毎年1月3日開催。
青梅だるま市
JR青梅駅前の旧青梅街道で開催される。毎年1月12日開催。
拝島大師達磨市
毎年1月2日~3日開催。
喜多院だるま市
川越大師(喜多院)にて毎年1月3日開催。
前橋市だるま市
だるまや縁起物など、600店もの露店が並ぶ「初市まつり」。毎年1月9日開催。
麻生不動(木賊不動尊)だるま市
麻生不動尊にて毎年1月28日に開催される。
だるまから派生したもの
だるま落とし
だるま落とし
弾丸の先端に形状が似ただるまの下に、薄い円柱を数段重ね、それを横から1段ずつ木槌で叩いて抜き、倒れないようにうまく一番上のだるまを落とすという玩具・遊びである。胴を素早くたたくのがコツである。
だるまさんがころんだ
遊び方の詳細については「だるまさんがころんだ」を参照
こどもの遊びの一種。鬼ごっこの変種と考えられる。鬼がその他の参加者に背中を向けて「だるまさんがころんだ」を唱える間に、他の参加者が鬼に触れ、より遠くへ逃げることを目的とする。また、鬼が呪文を唱えているとき以外は他の参加者は身動きの一切を禁じられる。
にらめっこ
遊び方の詳細については「にらめっこ」を参照
二人が顔を見合わせ、笑いを我慢する。この時、「だるまさんだるまさん、にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」とかけ声をかける。オレたちひょうきん族にもこのコーナーがあった。
だるま弁当
だるま弁当
高崎駅の有名な駅弁にだるま弁当というのがある。高崎市がだるま製造で有名なことを受けて、だるま型の容器に白ご飯を敷き、その上におかずを載せたもの。レギュラー版は「高崎だるま」に似たプラスチック容器を用いているが、古いだるま弁当を再現した「復刻だるま弁当」は瀬戸物の眼光鋭い達磨の表情を描いた容器となっており、全く別の造形である。
だるまに因む言葉
雪だるま
雪だるま – だるまを模した雪像。
ダルマ(ダルマ蔵相/ダルマ宰相) – 大正・昭和の政治家であった高橋是清の愛称。その体格に因む。
ダルマストーブ – 薪(石炭)ストーブの1つ。薪(石炭)を入れる中央部分が膨らんでおり、その形状がだるまに似ている事に因む。
だるま – サントリーのウイスキーの1つ、サントリーオールドの愛称。ボトルの形状に因む。バー等で呼称される。たぬきと呼ばれる事もある。
ダルマセリカ – 初代の2ドア車に付けられた愛称。
だるま女・中国奥地の達者(だるま) – 都市伝説の一つ。
火だるま – 焼身の様子。全体が燃え上がること。
ダルマウス – だるまにマウス機能を内蔵したマウス、本物の高崎だるまを使用している事に因む。
だるま型自転車 -オーディナリー型自転車の日本での通称 。
迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ) は、群馬県沼田市上発知町にある曹洞宗の寺院である。沼田市北部にそびえる迦葉山の中腹に鎮座する。寺号は「迦葉山 龍華院 弥勒護国禅寺(かしょうざん りゅうげいん みろくごこくぜんじ)」だが、一般には単に「迦葉山」と呼ばれることが多い。天狗の寺として知られ、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」の一つに数えられる。参拝の際には、中峯堂から天狗の面を借りて帰り、願いが成就したら、その面ともう一つ新しい天狗の面を奉納し、また別の面を借りるというならわしがある。
歴史
嘉祥元年(848年)に、葛原親王の発願により、比叡山の円仁を招いて、天台宗の寺院として創建されたと伝えられている。
康正2年(1456年)に、曹洞宗に改宗する。
境内
中峯堂
戦勝祈願・交通安全祈願として奉納された「大天狗面」・「交通安全身代わり大天狗」が安置されている。
坐禅堂
研修道場として使用されている。「諸願成就大天狗」が安置されている。諸願成就大天狗は沼田まつりの際に御輿として出御する。
天狗伝説
宝徳3(1451年)に天巽慶順とその弟子中峰が弥勒寺を訪れ、迎えた慈雲律師は法談問答した後「…今日禅師の来るは仏祖の招きならん。永く当山に常住し迦葉不滅の法燈を継ぎ、弥勒下生の暁を期し給え」と天巽に言い遺し入定した。天巽は中興の祖となり、中峰はこれを補佐するが長年童顔変わらず神童と言われるようになる。やがて中峰が「私は迦葉仏の化身なり。当世で為すべき事は終わった。今より末世の衆生を救うため昇天せん」と言い残して昇天し、姿を消した跡に天狗面が残っていたためこれを祀るようになったという。
群馬県
伊勢崎絣
桐生織
高崎手捺染
桐生引染ボカシ
桐生手描き紋章上絵
和重喜ながし
桐生手刺繍
桐生蓑虫工芸
沼田の組紐
太田の絞り
桐生横振刺繍
桐生絞
上州高崎注染手ぬぐい
上州誂え袢纏
正藍染上州小倉織
藍・草木を使った桐生絞り染め
自性寺焼
ハルナグラス
上越クリスタル
藤岡鬼瓦
沼田桑細工
沼田指物
沼田桐下駄
入山メンパ
沼田碁器
三国桐下駄
桐生桶
月夜野桐箪笥
入山こね鉢
三国指物
伊勢崎桐箱
桐生竹細工
根利のスズしょうぎ
日野竹細工
大間々籠
嬬恋寝曲がり竹細工
西上州竹皮編
川場竹細工
桐生籐工芸
伊香保つる細工
桐生打刃物
沼田鉈
万場山中打刃物
安中鍛造農具
桐生紙
秋畑和紙
ぐんまのこけし
高崎だるま
高崎縄のれん
太田太鼓
迦葉山天狗面
榛名の木目込
利根沼田の座敷箒
高崎張子獅子頭
入山菅むしろ
前橋びな
高崎まねき猫
高崎剣道具
桐生民芸畳
上州尺八