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松井 康成(まつい こうせい、1927年(昭和2年)5月20日 – 2003年(平成15年)4月11日)は、日本の陶芸家。国の重要無形文化財「練上手(ねりあげで)」保持者(人間国宝)。本名、美明。 練上手という技法を集大成し、伝統技術を基盤にした現代の個性豊かな陶芸のあり方を提示した。
長野県北佐久郡本牧村(現:佐久市)生まれ。戦時中に茨城県笠間町(現:笠間市)に疎開する。旧制神奈川県立平塚工業学校、明治大学文学部文学科卒業。
略歴
1957年(昭和32年) 浄土宗月宗寺第23世住職となる。
1969年(昭和44年) 第9回伝統工芸新作展で「練上手大鉢」が奨励賞受賞。第16回伝統工芸展初入選
1973年(昭和48年) 第2回日本陶芸展で、「練上線文鉢」が最優秀作品賞の秩父宮賜杯受賞
1988年(昭和63年) 紫綬褒章受章
1990年(平成2年) 日本陶磁協会賞金賞受賞
1993年(平成5年) 4月15日重要無形文化財保持者に認定
2003年(平成15年) 茨城県笠間市にて死去
靉嘔(あい・おう、英語: Ay-O、1931年5月19日 – )は、日本の美術家。1960年代のフルクサスに、同運動の国際的な活動の初期から関わったことで知られる。本名は飯島 孝雄(いいじま たかお)。茨城県行方郡玉造町(現・行方市)出身。「虹のアーティスト」として知られている。
人物・来歴
1961年、オノ・ヨーコがジョージ・マチューナスに紹介し、1963年に正式にフルクサスに加わった。「Finger Boxe」という一連の作品とフルクサス時代の「イヴェント」で有名になった。ジョージ・マチューナス、エメット・ウィリアムス(en:Emmett Williams)、ディック・ヒギンズ(en:Dick Higgins)、ナム・ジュン・パイクと親密なかかわりのなかで仕事をした。
フルクサス以前、瑛九が創設した「デモクラート美術家協会」で、キャリアをスタートさせた。同協会は、芸術的自由と独立を美術制作の世界に推進した。このことの靉嘔への影響は、large Xを描いた彼の初期の一連の作品に見出される。なぜなら彼自身がまだまだオリジナルじゃないものだと考えている作品だからだ。
日本には、「デモクラート美術家協会」に近い別の独立的運動が存在した。蒐集家・久保貞次郞の「創造美育」(Biiku)がそれだが、美術教育における自由の育成を推進した。「創造美育」のアプローチは、ナチュラルに「素朴派」の形式を推進し、久保は、社会における美術蒐集を広げるために「小コレクターの会」(Small Collector Society)を推進している。この両運動が福井県と靉嘔を特異に結びつけた。
小川 芋銭(おがわ うせん、本名:小川茂吉、幼名:不動太郎、男性、1868年3月11日(慶応4年2月18日) – 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家である。
来歴・人物
小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。
生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。
身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。
芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。
芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた。
贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。
年表
1868年 – 江戸の牛久藩邸で生まれる。幼名、不動太郎。
1871年 – 廃藩置県により新治県城中村に移住する。
1879年 – 牛久小学校下等小学校第三級を卒業し上京、小間物屋に奉公する。
1880年 – 桜田小学校尋常科第三級後期を卒業。
1881年 – 本多錦吉郎の画塾、彰技堂に入り洋画を学ぶ。
1887年 – 尾崎行雄の推挙を得て、『朝野新聞』に客員として入社する。
1888年 – 磐梯山噴火の惨状をスケッチし新聞に掲載。
1893年 – 父親の命により牛久に戻り農業に従事する。
1896年 – 渡辺鼓堂の推奨により『茨城日報』(後の茨城新聞)に漫画が採用される。
1900年 – 句会『水月会』に入会。
1904年 – 幸徳秋水らが主催する『平民新聞』に漫画を描き始める。文芸運動の『木星会』の結成に参加。
1908年 – 初の画集『草汁漫画』を刊行。
1911年 – 俳誌「ホトトギス」の表紙画・挿絵を描く。
1911年 – 東京・大阪の三越で漫画展を開く。
1915年 – 川端龍子らと『珊瑚会』設立。
1917年 – 珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められ日本美術院同人に推挙される。
1923年 – 茨城美術展の顧問になる。
1935年 – 帝国美術院参与となる。
1938年 – 牛久の自宅で死去。
川原井 正(かわらい ただし、1906年(明治39年)2月18日 – 2008年(平成20年)11月20日)は、日本の洋画家。茨城県出身。 進藤章を会長とする「菁々会」の会員であり、発起人の一人である。
来歴
1906年(明治39年)茨城県東茨城郡鯉淵村大字五平(現・茨城県水戸市五平)で父、熊四郎と母、ちよの 四男として生まれる。
1912年(明治45年)東茨城郡鯉淵村尋常高等小学校に入学、1920年(大正9年)同校卒業。
1922年(大正11年)7月上京し、荒川区尾久町1丁目514番地に落ち着くも翌年関東大震災に遭遇する。
1924年(大正13年)川端画学校に入学しここで学ぶも、やがて1926年(大正15年)に本郷絵画研究所に移り、岡田三郎助画伯に師事。春台展にも数回出品する。
1931年(昭和6年)古典協会の会員となり約4年間青山研究所で制作を続け、新宿三越等での協会展に出品する。丁度この頃読売新聞社で油絵技法の講習会が開かれ、西洋古典のセオリーと技法をやったが、絵には時代感覚とか精神とかがなければならないので、古典そのままでいいとは思われない。所謂古典技法のマンネリ化に限界を感じた。そこで「今後の行うべき絵画に対する表現方法など型枠にはめられない個性を尊重し、自由に想いのままに描く、対象物の中に潜んだものを抉り出しこれをキャンパスに描きたい」との思いを強くした。同様の考え方を強烈に持っていた進藤章ら数名ともこれからの生き方や進むべき道などを真剣に協議した。
そこで当時の画壇から背を向けた新しい一派として、1939年(昭和14年)「菁々会」を結成した。会長は進藤章で事務所は進藤章宅(瀧野川区田端672)に置いた。そして同年11月、第1回菁々会展を銀座・三昧堂画廊で開催した。
その後場所を変えながら毎年開催したが特に第3回菁々会展は銀座・菊屋画廊での開催で、初日が1941年(昭和16年)12月9日からであり、正しく太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の翌日ということで開催が危ぶまれたが、真剣に熟慮に熟慮を重ね戦況を冷静に見極めて開催を断行したのであった。誠にも厳しい中での開催であった。その時の様子の一端を進藤章は次の様に記している。即ち「会期中今年も亦川原井氏が毎日会場の番をしてくれる。午後四時ともなれば皆の同人が申し合わせた様に集まって来る。会場の片隅に置かれた瀬戸の火鉢をかこんで其処に置かれた数個の椅子、椅子の上には夕刊と号外とがちらばっている。海、陸、空軍の大きな戦果を盛って」と。しかしこの展覧会から新たに葛西康(後・秋田大学教授、一陽会会員ともなる)も参加し新たな会員となって「菁々会」も一段と盛り上がった。しかしその後戦争も次第に苛烈となり1944年(昭和19年)第6回展を銀座・菊屋画廊で3日間のみの開催をもって菁々会展の中止のやむなきに至る。
1942年(昭和17年)5月には進藤章の紹介で、曹洞宗常堅寺の住職で教師をしていた及川英雄の長女、ちゑと見合い結婚をした。やがて住まいも荒川区尾久町から渋谷区幡ヶ谷中町(後、渋谷区笹塚に住居表示変更)に移転した。しかし戦争で総てを焼失し先ず何より家族を養い、生きて行かなければならなかった。これは単に菁々会会員だけの問題ではなく、日本国中の大問題でもあった。 そこで先ず絵筆を断ち友人から乞われるまま友人の経営するメーターなどをつくる計器製造会社に勤め、小企業であったので営業活動など不慣れな仕事なども無我夢中でこなして行った。そして63歳の時役員定年で退職した。しかし絵に対する最も大切な充実期・完成期を台無しにしてしまったが少しずつ絵筆を執るように心掛け、努力し、作画活動を開始した。
丁度その頃、生き残った同志・進藤章、疎開して秋田県秋田市に在住していた葛西康と3人で1969年(昭和44年)「菁々会」を復活させ事務所を渋谷区笹塚の自宅に置き、その年(昭和44年)の11月銀座・月光荘ギャラリーで第7回菁々会展を開催した。その後毎年場所をかえて開催をした。
しかし会長の進藤章は体調を崩し、やがて喉頭癌の手術をして声帯が摘除され完全に発声が出来なくなり総て筆談となったが、「明治魂なる強靭な精神力」で他界する寸前の第11回菁々会展まで格調高い作品の発表を続けた。
1976年(昭和51年)5月18日進藤章 永眠 享年76
1976年(昭和51年)10月追悼進藤章第12回菁々会展を銀座・ゑり円画廊で葛西康と二人で開催した。
1981年(昭和56年)10月には銀座・月刊美術画廊にて葛西康と油絵二人展を開催した。
1986年(昭和61年)には住まいを東京都町田市鶴川に移転し、次女の嫁いだ冨田一家と同居生活に入る。アトリエで作画活動するもやがて葛西康も病に倒れ1990年(平成2年)3月26日 永眠 満84歳だった。
たった一人きりになり、妻ちゑも2005年(平成17年)5月8日に行年94歳で他界して、完全に絵筆を断った。満93歳位までは一人で銀座の画廊まで出掛けたり、展覧会などにも行ったりしていたし、満100歳位まで散歩も日課にしていたが、やがて歩けなくなり、介護手当ての世話になり、2008年(平成20年)11月20日老衰で他界した。行年103歳の大往生であった。
河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 – 明治22年〈1889年〉4月26日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。
来歴
生い立ち
長唄の会 番組「連獅子」より
河鍋暁斎記念美術館 (埼玉県蕨市)
「閻魔と地獄太夫図」 制作時期不明 プライスコレクション 河鍋暁斎記念美術館にもほぼ同図様の作品がある
天保2年(1831年)、下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男としてに生まれる。父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家の藩士三田某の娘。天保3年(1832年)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷お茶の水の火消し屋敷(現本郷3丁目)に住み、甲斐姓を名乗る。同時に一家は揃って江戸に出ている。幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。兄に直次郎がいた。天保4年(1833年)、周三郎は母につれられ館林の親類、田口家へ赴いた。この時、初めて周三郎は蛙の写生をした。
修行時代
天保8年(1837年)、浮世絵師歌川国芳に入門。国芳は門弟に人を搏ち、組み伏せ、投げ飛ばし、また投げ飛ばされる様々な形態を注意深く観察すべきだと教えていた。若き暁斎は、この師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を片手に貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いたという。天保10年(1839年)5月、梅雨の長雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説を残す。
天保11年(1840年)、国芳の素行を心配した父により狩野派の絵師前村洞和に再入門。洞和は暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んだという。しかし翌年洞和が病に倒れたため、彼の師家にあたる駿河台狩野家当主の洞白に預けられた。弘化3年(1846年)には小石川片町からの出火で火消し屋敷も消失してしまうが、このとき火事の写生をしている。狩野派門弟時代の逸話に、鯉の写生の話がある。過労で疲れを覚えた暁斎は塾生たちと川遊びに出かけ、そこで3尺近い鯉を生け捕ることが出来た。暁斎は遊び仲間を置いて急いで画塾に戻り、この鯉のあらゆる部分を忠実に写生し、鱗の数をも正確に数え上げた。写生を終えると仲間たちは鯉を殺して食べようとしたが、暁斎は「この鯉はあらゆる部分を写生させてもらった以上我が師であり、礼を尽くして天寿を全うさせてやらねばなりません」と抗議した。暁斎の兄弟子は聞く耳持たず料理を始めようとしたが、突然鯉は激しく飛び上がり、結局暁斎の意見が通って近くの池に放たれた。後年、暁斎は自分に鯉を書く優れた技倆があるとすれば、それはこの事件によるものだとよく語ったという。
嘉永元年(1848年)に、現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)を制作している。翌嘉永2年(1849年)、洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられる。狩野派の修業は、橋本雅邦によると一般に入門から卒業まで11、2年かかると記しており、9年で卒業した暁斎は優秀といえる。さらに嘉永3年(1850年)11月には館林藩(秋元家)の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称している。
独立
嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。しかし一方で暁斎は、土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の画流も広く学んでいた。その数年後の安政2年(1855年)10月2日に起こった安政江戸地震の時に、仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に出ることとなった。この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第1号であったが、それは歌川豊国風の女性と鯰の格好をしている遊び人の組合せで、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言いがたいものであった。またこの時期、蒔絵師菱田八十八のもとで下絵を描いている。安政4年(1857年)、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継承した(甲斐家は3年後、暁斎の兄直次郎が継承)。
安政5年(1858年)、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博した。他に万延元年(1860年)頃から周麿と称して錦絵を描き始めている。ほかに酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵などの号があり、文久3年(1863年)、歌川派の絵師による合作「御上洛東海道」に参加した。明治4年(1871年)以後、号を「暁斎」と改める。明治18年(1885年)には湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった。
明治の暁斎
明治元年(1868年)、徳川家の転封とともに暁斎の母と甥(亡くなった兄・直次郎の息子)は静岡へ移る。明治3年(1870年)10月6日、上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして捕えられ未決囚の入る大番屋へ。翌年に放免、後は「暁斎」を名乗る。
幕末から絵日記をつけ始めたようで、亡くなる1か月前のものまで残っている。20年も書いたが発見されているのは合わせて4年分である。書かれた人の似顔絵が似ているばかりでなく、ありとあらゆる事を記録し、金の支払いから、画料、毎日の天候まで記し、気象庁でも毎日の天気の記録は明治14年(1881年)からであるから、彼の記録は貴重である。
明治5年(1872年)仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(第三編)、明治7年(1874年)『西洋道中膝栗毛』(第11編の一部、第12~15編)などの挿絵を描く。明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に立てられる。明治9年(1876年)、エミール・ギメらの訪問を受ける。ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競い合った。
明治13年(1880年)、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館蔵)を4時間で描く。明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓蔵)が「妙技二等賞牌」を受賞。暁斎はこの作品に百円という破格の値段をつけ、周囲から鴉一匹にその値段は高すぎると非難されると「これは鴉の値段ではなく長年の画技修行の価である」と答えたという[5]。これに心意気を感じた榮太樓本舗店主・細田安兵衛は本当に百円で購入して、暁斎は面目を保った。その後この鴉は「百円鴉」と呼ばれ暁斎は画名を高めるとともに、狩野派の正当な絵師として世間に認知されるきっかけとなった。
コンドルとの交流
同じ明治14年、お雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルが入門。コンドルは暁斎からイギリスの暁斎を意味する「暁英」の号を与えられるほど親しく、2人の交流は前述の暁斎の絵日記にも見られる[6]。この絵日記では他にも、明治3年(1870年)頃から明治22年(1889年)3月頃の暁斎の私生活の状況が、ある程度把握できる。例えば明治17年(1884年)2月26日に、「客山本、フキノトウ、大島屋、卵。笹之雪参る」とあり、大島というのは、尾形月耕に代わって月耕の弟・名鏡次郎吉の面倒を見ている親戚のことではないかと思われる。笹之雪は、台東区根岸にある暁斎馴染みの豆腐専門料理屋である(正確には「笹乃雪」、今日でも根岸名物で著名)。同年狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野宗家の狩野永悳に入門し、駿河台狩野家を継承した。
岡倉覚三(天心)、フェノロサに東京美術学校(現東京芸術大学の前身)の教授を依頼されたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のためコンドルの手を取りながら逝去。暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、戒名は本有院如空日諦居士。墓石は遺言により、暁斎が好んで描いた蛙に似た自然石が用いられている。
門人
暁斎の門人としては、二番目の妻から生まれた次男の暁雲、三番目の妻から生まれた暁斎の長女・河鍋暁翠の他、真野暁亭、暁亭の父であった暁柳、早川松山、長井一禾、土屋暁春、辻暁夢、斎藤暁文、彫金家となった海野美盛、松下久吉、林法泉、島田友春、大江学翁、昆徳爾(ジョサイア・コンドル)、鹿島暁雨(清兵衛)、尾形月耕の弟・滝村弘方らがいた。『河鍋暁斎翁伝』には暁雲の話として、前述の松山、暁柳、暁亭、暁春、暁夢、美盛、学翁、法泉、コンドル、暁雨、友春、弘方のほか、松下久吉、模様師の小島石蔵、小島豊吉、上絵師の石崎守蔵、姓不詳の久八、医師の本郷某、彫刻師の仙太郎、山本竜洞、杉本留吉、柴田某の合計22人の名前をあげている。さらに小林清親、綾部暁月、吉田暁芳、三宅花圃が暁斎の門人としてあげられる。
木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 – 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。
伝記
明治9年(1876年)、茨城県笠間市に旧笠間藩士・木村信義の長男として生まれる。本名は信太郎。父は廃藩後に帰農した後、笠間銀行(現・常陽銀行)を設立、頭取となる程の実業家で郷党の人望家だった。はやくも2歳頃から地元の南画家・桜井華陵に師事、12歳頃には「武山」の号を用いている。武山の号は、笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名という。明治23年(1890年)、地元の小学校を卒業後に上京、東京開成中学校に入学するが、翌年、東京美術学校普通科に編入する。ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け、以後画家としての人生を観山と共に歩むことになる。またこの頃、川端玉章の画塾・天真社で学ぶ。
明治29年(1896年)9月に卒業後も同校に留まり、日本画研究科へ進む。同年、日本絵画協会第一回展に「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受ける。明治31年(1898年)2月には平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。同年10月に創立された日本美術院に参加、最初は副員だったがのち正員となる。明治35年(1902年)頃から先輩の下村観山との強い絆が生まれたようで、谷中初音町の八軒家に観山や大観と共に住み、朦朧体への批判で世評が厳しくなった美術院を支える中心作家としての立場が明快になっていく。
明治39年(1906年)、観山の推挙により岡倉らの五浦移転に、一家をあげて同行する。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めた。大正3年(1914年)、大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力した。昭和12年(1937年)、脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名をとる。昭和17年(1942年)、喘息のため死去。法名は泰霊院映誉広彩武山居士。
作品初期は歴史画が多く、25歳頃から主に花鳥画を描く。大正初期は琳派の手法を用いた壮麗な作風が特徴的である。1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを切っ掛けに、後年は仏画を多く描いた。優れた色彩感覚を持ち、日本美術院きってのカラリストと評された。
小堀 進(こぼり すすむ、1904年1月22日 – 1975年3月16日)は、茨城県出身の水彩画家である。水彩連盟の設立メンバー。水彩画家として初めて日本芸術院会員となる。潮来市名誉市民。
郷里の霞ヶ浦・水郷をはじめとした国内外各地の風景を、鮮やかな色彩と単純化した大胆な構図でダイナミックに描き、水彩画界の発展に大きな影響を与えた。
略歴
1904年、茨城県行方郡大生原村(現在の潮来市)に生まれる。
1922年、佐原中学校卒業後、黒田清輝主催の白馬会葵橋洋画研究所に入所。
1932年、新興水彩運動の蒼原会に入会。『うすれ日』で第9回白日会展に初入選。
1940年、春日部たすくらと水彩連盟を結成。
1969年、日展理事となる。
1970年、改組第1回日展に出品した『初秋』により日本芸術院賞受賞[1]。名古屋芸術大学教授に就任。
1974年、日本芸術院会員となる。
1975年、東京都で死去。
雪村(せっそん、永正元年(1504年)? – 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称す。
略歴
呂洞賓図(重要文化財)大和文華館蔵
常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれる。近くの下村田には雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。本来なら長男として家を継ぐはずだが、雪村の父は他の妻の子を跡取りとしたため(『本朝画史』)、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字で、雪村も同系統の僧の下で禅僧の修行を積んだと考えられる。同寺は佐竹氏の菩提寺で絵画をはじめとした多くの寺宝を所蔵し、これらの作品は雪村の画風にも影響を与えたという。
50歳半ば頃、関東各地を放浪する。天文15年(1546年)会津で蘆名盛氏に絵画の鑑賞法を授け(『丹青若木集』)、天文19年(1550年)には小田原や鎌倉を訪れ、多くの名品に接し画僧達と交流したらしい。60歳半ば以降は奥州を中心に活動、最晩年は田村氏の庇護のもと現在の福島県の郡山にある庵に移り住み、そこで没したとされる。その生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしないが、記録によれば少なくとも82歳までは絵を描いていたことがわかっている。
名前から分かるように、雪村自身、雪舟を強く意識し尊敬していたようだが、画風に影響を受けなかった。関東の水墨画のなかでも極めて独自性が高い画風を確立した。後の尾形光琳は雪村を好んで、模写を幾つも試みており、雪村が使っていたといわれる石印をどこからか入手し、小西家伝来史料の中に現存する。更に光琳の代表作「紅白梅図屏風」に、雪村筆「あくび布袋・紅梅・白梅」(三幅対、茨城県立歴史館蔵)の影響があるとする意見もある。谷文晁派の絵師佐竹永海は、雪村の末裔と自称している。
明治時代以降は評価が低い時期もあり、作品は海外へ流出したが、1974年に東京国立博物館で展覧会が催されるなど近年は再評価の機運が高まり、様々な画集で紹介され日本美術史上での価値が確立した。その作品は150以上から200点近くが現存している。
立原 杏所(たちはら きょうしょ、天明5年12月26日(1786年1月25日) – 天保11年5月20日(1840年6月19日))は、江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。水戸藩7代藩主・徳川治紀、8代・藩主斉脩、9代藩主・斉昭の3代に仕える。本姓は平氏。諱は任。字は子遠。甚太郎のち任太郎とも。東軒、玉琤舎、香案小吏、杏所と号した。杏所の号は、生まれた横竹隅の庭内に杏樹があり、そこから取ったとも言われる。
生涯
杏所筆 葡萄図 天保6年(1835年) 紙本墨画淡彩 重文 東京国立博物館
水戸横竹隈に水戸藩の藩儒であった立原翠軒の長男として生まれた。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。祖父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓。父は水戸藩彰考館総裁・立原翠軒。長女は崋山門下十哲のひとりに数えられる南画家・立原春沙、三男に幕末の志士・立原朴二郎。子孫には大正時代の詩人で建築家の立原道造がいる。
幼い頃、林十江に画筆を学ぶ[1]。寛永8年(1796年)、父の門下で鮎画や真景図の名手であった小泉斐(壇山)などに師事[2]する。また、伊勢国寂照寺の僧・月僊にも学び、付立技法による山水画の樹木や、花鳥画の筆勢が強く爽快な表現などに影響が見られる。享和3年(1803年)に父が隠居し家督を継いで(家禄200石)先手物頭、扈随頭などの職を務めた。
文化9年(1812年)、江戸小石川藩邸勤務となってからは谷文晁に師事し、中国の元代から明、清の絵画を閲覧、場合によっては借り受けて模写をしている。とくに惲南田、沈南蘋の画風を学んだという。また宮部雲錦にも画技を習い、その人となりに影響されたという。その作品には謹厳にして高い品格を漂わせ、すっきりと垢抜けた画風が多い。渡辺崋山・椿椿山・高久靄厓とも交流があり、華山が蛮社の獄で捕縛された時には、椿山らと共に不自由な体をおして救出に助力・助言をし、藩主斉昭の斡旋を図ろうとしている。その他、業績としては日本画多数。著書に『水滸伝印譜』、『近世書画年表』、『墨談評』などがある。
長女の春沙は渡辺崋山に入門し画家として閨秀を揮った。
最晩年に脚気を患い、天保11年(1840年)、小石川の藩邸で死去。享年56(満54歳没)。墓は文京区向丘の海蔵寺と、常澄村(現在の水戸市常澄)六地蔵寺。
逸話
ある時、立原杏所が講義のため訪れた処で、馬を繋ぐことを忘れたため、辞去の際、馬の姿がなかったという。客ととも馬を探したら数町先の大洲侯の藩邸の門外にいたという。
主君・徳川斉昭が散楽を好んで天狗の面を作らせたが、鼻があまりに高すぎるため、作り直させようとしたところ、杏所は「それくらいのことなら私にもできる」といい、鋸で切り落とし、使いものにならなくなってしまった。杏所の放達ぶりを示す逸話として伝わっている。
また、杏所は斉昭から目前で書画を行うことを命じられたという。杏所は書画をよくしたが画工の様を見られるのは好まなかった。そこで、使い古しの巾を袂から出し、それを硯に浸して紙に投げつけたところ、墨が飛び散り斉昭の袴を汚したという。斉昭が「何をするのか」ととがめると、「葡萄を画いてご覧に入れます」といい、既にその書画を完成させ、一座を感嘆させたという。
杏所は巻菱湖と交誼を結んでいたが、ある時、2人で酒楼にて酒を酌み交わしていると菱湖が酔いに任せ、「あなたの名は任で私の名は大任。あなたはわたしに及ばない」とからかったという。杏所は色をなし「任の名が嘘名でないことをお目にかけようか」といって、菱湖を楼下に投げてしまい、菱湖はあやうく足を挫きそうになったという。
大橋淡雅の娘・巻子に恋焦がれるも淡雅の反対で想いは報われることはなかった。傷心を癒すためか巻子への想いを募らせて楊貴妃図を描いている。
利根山 光人(とねやま こうじん、1921年9月19日 – 1994年4月14日)は日本の美術家、画家。メキシコを題材とした情熱的な作品を数多く残し、太陽の画家と呼ばれた。茨城県結城市出身。
人物概要
6人兄弟の末子として生まれる。幼時より創作活動を行っていた。早稲田大学高等師範部国語漢文科(現在の教育学部国語国文学科)卒業後は、静岡県の農業学校、栃木県立烏山高等女学校、海城学園に国語教員として勤務した。その後、一時教員生活を去り、メキシコなどへ渡航した。シケイロス、オロスコなど壁画作家の影響を受ける。帰国後は聖徳学園高等保育学校、聖徳学園短期大学などで教えながら、創作活動を行う。
メキシコのマヤ文明をテーマにした作品(リトグラフ、油彩)を数多く残し、日本芸術大賞やメキシコにおける最高文化勲章であるアギラ・アステカ・ブラーカ賞などを受賞した。版画製作開始後は瑛九や泉茂や早川良雄らによって結成されたデモクラート美術家協会に参加。晩年は岩手県北上市展勝地近くにアトリエを構え、創作活動をした。アトリエは現在、利根山光人記念美術館として公開されている。
海城高校時代の教え子に窪島誠一郎がいる。
中村 彝(なかむら つね、1887年7月3日 – 1924年12月24日)は、大正期にかけての洋画家である。
年譜
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれる。男3人女2人の5人兄弟の末子であったが、兄2人と姉1人は彝が10代の時に相次いで亡くなる。父は彝が生まれた翌年に没しており、母も彝が11歳(満年齢、以下同)の時に没した。
1907年(明治40年)、祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、彝はこの地で水彩スケッチを始めた。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返している。
1909年(明治42年)第3回文展に初入選。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり、この作品は実業家の今村繁三が購入する。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・荻原碌山(おぎわらろくざん)や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関係が伺われる。彝は、俊子に求婚するが反対され、この失恋が元で煩悶することになる。
1916年 新宿区下落合にアトリエを構える。以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでの創作を行う。
1920年(大正9年)には前述の今村繁三邸でルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けた。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられる。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 – 1952年)はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。
1921年(大正10年)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。彝は1921年(大正10年)から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。
1924年(大正13年)、彝は37歳の若さで亡くなった。死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の彝の自画像とは別人のように頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完)。
2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
那波多目 功一(なばため こういち、1933年11月8日 – )は、茨城県出身の日本画家。
日本芸術院会員、日本美術院同人・評議員。日本画家那波多目煌星は父。歌人花香煌星は弟。松尾敏男に師事。写生に基づく繊細で優雅な画風が特徴で、四季の花をモチーフにした作品が多い。
略歴
1933年、茨城県那珂湊市(現在のひたちなか市)に生まれる。
1950年、第35回院展に「松山」が初入選。
1951年、第7回日展に「秋影」が初入選。
1952年、茨城県立那珂湊第一高等学校を卒業。
1983年、第68回院展において「廃園」が奨励賞受賞。
1984年、第69回院展において「うすれ日」が日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待となる。
1985年、春の院展において「小春日」が外務大臣賞・奨励賞を受賞。
1986年、第71回院展において「耀」が日本美術院賞・前田青邨賞を受賞。
1990年、第75回院展において「月輪」が日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院同人となる。
1995年、第80回院展において「寂」が文部大臣賞を受賞。
1999年、第84回院展において「富貴譜」が内閣総理大臣賞を受賞
2000年、「富貴譜」が日本芸術院賞を受賞。日本美術院評議員となる。
2002年、日本芸術院会員となる。
2005年、芸術文化の振興に大きく貢献したとして茨城県から特別功績者として表彰される。
2008年、旭日中綬章受章。
服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17日 – 1995年3月20日)は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。
1968年二科展に出品した『水郷』が日本芸術院賞を受章。1987年日本芸術院会員。
山下りん(山下里舞 やました りん、安政4年5月25日(1857年6月16日) – 1939年(昭和14年)1月26日)は日本の画家である。日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。そのためしばしばイリナ山下りんとも言及される。
略歴
常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。江戸に出て浮世絵師に学び、川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。
同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都・ペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエルが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。
帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン製作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。
イリナ山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後には、肖像写真にも土産としてもらったワンピースを着ることもなく粗末な木綿の着物で写り、留学経験を誇る風もなく、機関紙である正教時報にも留学体験を書く事もなく、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに勤めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある。
ロシア革命後は正教も衰えたため1918年(大正7年)61歳で郷里の笠間に戻り、晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。1901年(明治34年)44歳で制作、個人所有のイコン、ウラジーミルの聖母は2005年に美の巨人たちでとりあげられた。
横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) – 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。
経歴
1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると、急遽結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請、見事に東京美術学校へと合格した。1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。
美術学校を卒業後、京都に移り仏画の研究を始め同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に校長・天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年日本美術院創設に参加した。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せはじめたため、大観は春草と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)にはこの年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員を務め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。
以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となり、1937年(昭和12年)にはこの年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年、帝国芸術院会員となる。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、脳は現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されている。
松本 楓湖(まつもと ふうこ、天保11年9月14日(1840年10月9日) – 大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家である。
経歴
天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村[1](のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。通称藤吉郎。父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。
楓湖は幼い頃から絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものだが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師の歌川国貞への弟子入りを頼むが、断られて帰国している。2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学ぶ。一峨は狩野派や琳派、南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだ。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描いている。
一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改める。5年後には塾頭となったが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られた。自身も剣術を修め、水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。
翌慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心する。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改める。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因む。その一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いている。明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当している。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したという。
明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。
画風
山本勘助画像(部分、「武田二十四将図」のうち)
楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われる。しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられる。また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められる。また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立つ。また、旧派の画家と見做されがちであるが、保守的な日本美術協会には反対している。
門人
明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約300人とも言われる門下生を輩出した。本人は不干渉の放任主義で投げやり教育と言っていたが、特に初心者には親切で温情に富んだ指導をしたという。また、楓湖や容斎が模写した古名画の粉本模写を奨励し、モデルを用いた人物写生も行ったという。主な門下生に村岡応東、中島光村、今村紫紅、牛田鷄村、速水御舟、島崎柳塢、鴨下晁湖、高橋広湖、前田錦楓、小茂田青樹、村上鳳湖、岩井昇山、松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖、木本大果、中島清之、高橋松亭(甥)、富取風堂、上原古年、田中以知庵、永峰秀湖、坂巻耕漁、大久保楓閣、森作湖仙[などがいる。
森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日 – 2009年(平成21年)3月2日)は、茨城県出身の洋画家である。
経歴
茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に生まれ、東京都に住んでいた。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民、筑西市名誉市民。
原色を多用し、色を塗ったというより絵具を擦り付けたという様な、力強い筆致の重厚な画風が特徴である。初期の作品は、人形や人物の絵が多いが、1965年(昭和40年)の東南アジア巡遊後は風景画も多く描くようになる。1966年(昭和41年)に偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることをライフワークにしており、このシリーズの中の一作で1970年(昭和45年)の日本芸術院賞を受賞している。その他、舞妓を描いたシリーズなどもある。
年譜
1925年(大正14年) 茨城県師範学校本科第二部(現在の茨城大学)を卒業。真壁郡大田尋常高等小学校(現在の筑西市立大田小学校)の教員となり、子供たちに絵画を教える
1926年(大正15年) 第3回白牙会展に『静物』が入選
1928年(昭和3年) 大田尋常高等小学校を退職。画家を志し上京する
1931年(昭和6年) 同じ茨城県出身の熊岡美彦が開設した熊岡洋画研究所に入所
1932年(昭和7年) 飛騨高山に写生旅行
1933年(昭和8年) 第1回東光展に『白衣』が入選
1934年(昭和9年) 第15回帝展に『神楽獅子の親子』が初入選。第2回東光展に『稽古』が入選
1935年(昭和10年) 第1回大東会絵画展に『飛騨祭』が入選
1936年(昭和11年) 文部省美術展覧会鑑査展に『飛騨広瀬の金蔵獅子』が入選
1938年(昭和13年) 東光会会員となる。第2回新文展で『金蔵獅子』が特選
1946年(昭和21年) 第2回日展に『阿波人形』が入選
1956年(昭和31年) 日展審査員、東光会委員
1962年(昭和37年) 日展評議員
1966年(昭和41年) 第9回新日展で『黒川能』が文部大臣賞受賞
1970年(昭和45年) 第1回改組日展出品作品『黒川能』が日本芸術院賞受賞[1]
1971年(昭和46年) 日展理事
1975年(昭和50年) 日展監事
1976年(昭和51年) 日本芸術院会員
1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章、日展常務理事
1980年(昭和55年) 東光会初代理事長
1982年(昭和57年) 日展顧問
1989年(平成元年)文化功労者
1992年(平成4年) 下館市名誉市民に推挙
1993年(平成5年) 文化勲章受章、茨城県名誉県民に推挙
2007年(平成19年) しもだて美術館および茨城県近代美術館において100歳記念展開催
2009年(平成21年) 肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。101歳没
浅賀 正治(あさか まさじ、本名:浅賀正二、1953年 – )は、日本の彫刻家(石彫家)、社団法人太平洋美術会会員、羽黒石材商工業協同組合会員、株式会社綜合美術工房代表取締役社長。山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)出身で、茨城県桜川市在住。
経歴
1953年、山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)に生まれる。
1975年、太平洋美術学校彫刻科に学ぶ。
1976年、彫刻家・小金丸幾久に師事する。
1985年、第7回「ブルガリア・ガブロヴォ国際ビエンナーレ」に出展し、金賞を受賞する。
1986年、東京都品川区「非核平和都市品川宣言」1周年記念モニュメント「平和の誓い」を制作する。
1987年、第8回「ブルガリア・ガブロヴォ国際ビエンナーレ」に出展し、入選する。
1992年、岩瀬石彫展覧館「ROCK MUSEUM」(県博物館協会加盟)を主宰開館する。
「市民のための石彫講座」を開始する。
1994年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感I」ジャティン・ヌリエフと2人展を開催する。
1996年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感II」シバトコ・シロマシキと2人展を開催する。
ジョラム・マリガ講演会 国際交流基金文化人招聘プログラムを開催する。
1997年、茨城県より「茨城県国際交流奨励賞」を授与される。
1998年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感III」ミラン・アンドレエフと2人展を開催する。
2000年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感IV」イワン・ルセフと2人展を開催する。
2001年、山形県鶴岡市渡前地区文教施設計画実現記念モニュメント「千年の船」を制作する。
国立オリンピック記念青少年総合センター支援事業”親子で石彫刻”講座。
「TVチャンピオン ― 千年のアート・全国石職人選手権 ―」(テレビ東京放送日:6月14日)に出場する。
同番組の決勝ラウンドにて、巨大オブジェ「新島の夏の門」を制作する。
2002年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感V」スネジャナ・シメオノヴァと2人展を開催する。
2003年、神奈川県大和市立大和小学校創立100周年記念モニュメント「きずな」を制作する。
2004年、ブルガリア共和国を初訪問し、ブルガリアの石の街・イリデンツィ石彫制作する。
ブルガリア共和国・文化大臣と「石の街に石の学校構想」について会談する。
ブルガリア共和国・文化大臣より「ブルガリア共和国名誉証」を授与される。
2005年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感VI」ステファンルタコフと2人展を開催する。
大洗ライオンズクラブ創立40周年記念事業にて、モニュメント「磯遊び」を制作する。
独立行政法人国際交流基金より、第21回「国際交流基金地球市民賞」を授与される。
木内克(きのうち よし、1892年6月27日 – 1977年3月8日)は、茨城県水戸市出身の彫刻家である。
渡仏し、アントワーヌ・ブールデルの指導を受けた。二科展などに多数出品し、テラコッタの作品を多く残した。妻の木内てるも彫刻家。
略歴
1892年(明治25年)茨城県水戸市に4人兄弟の末っ子として生まれる。
1912年(明治45年)20歳で上京し、彫刻家の海野美盛のもと彫刻を学ぶ。
1914年(大正3年)朝倉文夫の彫塑塾に入門。
1921年(大正10年)渡英。半年間ロンドンに滞在し、その後パリにわたる。そこでブールデルの指導を受ける。
1927年(昭和2年)窯業家のラシュナルを訪ね、陶器を始める。
1930年(昭和5年)テラコッタ技法に習熟。
1935年(昭和10年)帰国。以後二科展などに出品。
1938年(昭和13年)「木内克作陶展」開催。
1948年(昭和23年)新樹会展に出品し始める。
1970年(昭和45年)第一回中原悌二郎賞受賞。
1972年(昭和47年)記録映画「土くれ」が完成。
1974年(昭和49年)第29回茨城国体モニュメントに「女神像」製作。
1977年(昭和52年)急性肺炎のため84歳で死去。
蛭田 二郎(ひるた じろう、1933年 – )は日本の彫刻家、教育者。 日本芸術院会員、日展常務理事、日本彫刻会理事長、岡山県美術家協会会長、岡山大学名誉教授、倉敷芸術科学大学名誉教授・元芸術学部長。
茨城県出身。彫刻家の小森邦夫に師事。
精妙で感性豊かな作風で日展を中心に多くの女性像を発表しているが、岡山県岡山市の桃太郎大通り沿いにある『ももたろう』シリーズの彫刻群や、郷里の茨城県北茨城市にある『七つの子』の像など子供の世界をあつかった作品も多い。また岡山大学、倉敷芸術科学大学などで教鞭を執り、多くの後進を育成してきた。
略歴
1933年、茨城県北茨城市に生まれる。
1958年、茨城大学教育学部を卒業する。第6回日彫展に「少女の首」で初入選する。
1962年、第10回日彫展において「ポーズ」で奨励賞を受賞する。
1963年、日彫会会員となる。
1965年、第8回新日展に「L字型のポーズ」で初入選する。
1966年、第9回新日展において「ひとり」で特選を受賞する。
1967年、第10回新日展において「おんな」で特選を受賞する。
1968年、第11回新日展に委嘱出品した「女’68」で菊華賞を受賞する。
1969年、第1回改組日展の審査員となる。
1970年、日展会員となる。
1972年、岡山大学教育学部講師となる。
1973年、岡山大学教育学部助教授となる。
1979年、岡山大学教育学部教授となる。
1984年、日本彫刻会運営委員となる。
1990年、日展評議員となる。
1995年、岡山大学名誉教授、倉敷芸術科学大学芸術学部長となる。
1996年、第28回改組日展において「告知」で文部大臣賞を受賞する。
1997年、岡山県文化賞を受賞する。
1999年、文化功労として山陽新聞賞を受賞する。
2000年、倉敷芸術科学大学院芸術研究科長となる。
2002年、日本彫刻会理事、日展理事となる。第33回改組日展に出品した「告知-2001-」で日本芸術院賞を受賞する。岡山県文化特別顕彰、第35回三木記念賞を受賞する。
2005年、日本芸術院会員となる。
2016年、茨城県北茨城市の公共の宿「マウントあかね」内に「蛭田二郎彫刻ギャラリー」開設。
市村 緑郎(いちむら ろくろう、1936年4月21日 – 2014年4月27日)は、茨城県下妻市出身の彫刻家、日本芸術院会員。
人物・来歴
茨城県立下妻第一高等学校卒業。
1961年 日展初入選。
1962年 東京教育大学芸術学科彫塑専攻卒業、同大学院に進むが6月に中退。
1977年 文部省在外研究員として渡欧
1983年 埼玉大学教授。
1986年 白日会会務委員、1987-1992年・彫刻部事務局長。
1987年 日展審査員。
2001年 日展評議員。
2002年 埼玉大学定年退官、名誉教授。崇城大学美術学科教授。
2005年 さいたま市文化賞。
2006年 日展理事、日本芸術院賞受賞。
2008年 日本芸術院会員。
2014年4月27日、間質性肺炎のため死去。78歳没。歿日付で正四位、旭日単光章。
埼玉大学内に、50周年を記念した氏がデザインした記念像が図書館前に2つある。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 – 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。
日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
生涯
のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。
上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。
波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている。第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。
1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。享年92、満91歳。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。
轆轤(ろくろ)師・現田市松
波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松(前述)がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。
前述の「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。
観音像・香炉と鳩杖
波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた。。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日と1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた。。
また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82才となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80才以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80才となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた。
益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器。
毎年、ゴールデンウイークと11月3日前後に「益子大陶器市」が開催され、500を越える店舗が出て賑わっている。
歴史
江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。
量は豊富にあるものの、粗く精巧な器を作るには向かない陶土だったため、当初は水がめ・火鉢・壺などの日用品が主に製作されていたが、1927年より創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。 その後、1959年に加守田章二が開いた窯により、民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加わった。
1979年には通商産業省(現、経済産業省)より、伝統的工芸品に指定された。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。
特徴
益子焼(蕎麦猪口)
砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。
益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色を出す鉄釉である。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。
民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。
著名な作家
濱田庄司
島岡達三
佐久間藤太郎
合田好道
小砂焼(こいさごやき)は栃木県那須郡那珂川町にて焼かれる陶器磁器半磁器。
沿革
水戸藩主、徳川斉昭が1830(文政13?)藩主になった翌年に、殖産興業政策として、陶土を探させる。 同年、12/10に小砂に陶土発見。(同政策より、常陸大田でも発見されている。)
1831(天保2)
通事伊藤友寿を京都に派遣、陶業の研究をさせる。甕説
1833(天保5)
瓦屋(現 茨城県水戸市瓦谷)で、築窯。
1834(天保6)
陶器出窯開始(4/26)
1838(天保9)
七面(神崎)に移動(瓦谷は廃止される)
1840(天保11)
小砂/町田/七面の体制になる。
1841
唐津より、陶工 伝五郎を招く
1851(嘉永4)
大金彦三郎により御用瀬戸試焼開始 (小砂焼の始まり)
1896(明治29)
村立大山田工業補習学校開設
1898(明治31)
小砂焼製陶講究所開設
1901(明治34)
会津本郷より岩田新吾招聘。磁器焼成開始
1907(明治40)
下野陶器株式会社設立。磁器大量生産
藩窯 ( 当時の資料では、御用瀬戸 御用陶器焼 と表現)して庇護されており。高札原稿が残されている。 。
現在も那珂川町小砂地区には数軒の窯元が存在し、閑静な焼き物の里を築き、日用雑器を焼き続けている。近郷には馬頭温泉郷があり、土産物向けの食器も多い。
特徴
小砂焼の特徴として、陶器、磁器(おもに青磁)、半磁器(国山窯のみ?)ともに作成されている。 陶器の特徴は何と言っても「金結晶」と呼ばれる黄金色の釉薬であり、素朴な意匠ながら瀟洒な上品さがある。他に桃色がかった辰砂釉も特徴的。
その他
徳川斉昭の殖産興業政策の一環として、那珂湊の反射炉を建造(1856 嘉永7)した際に、小砂の陶土を利用している。 また駅弁のお茶の容器が陶製だったころには、小砂でも量産されていた。 那須の御用邸の青磁のいくつかは、小砂焼である。
モースコレクションにも、小砂焼があるが、kosunaと表記されている。
みかも焼(三毳焼)
笠間焼(かさまやき)は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器。
春に行われる陶炎祭(ひまつり)には約50万人、秋に行われる陶器市である笠間浪漫にも多くの観光客が足を運ぶ。
概要
江戸時代中期の安永年間(1770年代)から作られ始めた。箱田村の名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている。のち笠間藩主の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治にかけては江戸に近い利点から、大量生産の機会を得て技術者や従事者も飛躍的に増えた。陶器商田中友三郎による「笠間焼」の広報・販路開拓が功を奏したという。以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。
特徴
関東ローム層から出土する笠間粘土や花崗岩の風化によってできた鉄分を多く含む蛙目(がいろめ)粘土と呼ばれる陶土によって作られる。笠間粘土は粘りが強く粒子が細かいため焼き上がりが丈夫であり、当時の日常雑器としては理想的な土だった。
「特徴がないのが特徴」と言われている。戦後、伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて各地から若い陶芸家たちが集まったためで、現在では安価で実用的な水瓶や徳利から芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれている。
著名な作家
松井康成
柴田宋休
梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる。別名に大鐘(おおがね)、洪鐘(おおがね、こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)などがある。
概要
「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものである。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。
仏教はインドに起源を持ち、アジア各地に広まった宗教であるが、梵鐘に関してはその祖形をインドに求めることは困難であり、中国古代の青銅器にその源流が求められる。殷・周時代から制作されている「編鐘」(へんしょう)という青銅器が梵鐘の源流と推定されているが、この「鐘」は全体に小型で、その断面形状は後世の梵鐘のような円形ではなく、杏仁形(アーモンド形)である[注釈 1]。中国製の梵鐘の古例としては、奈良国立博物館所蔵の陳の太建7年(575年)の銘をもつ作品がある。この太建7年銘鐘は、断面が円形であること、縦横の帯で鐘身を区切ること、鐘身を懸垂するフックの部分を龍身とすること、撞座を蓮華文とすることなどが後世の日本の梵鐘と共通しており、その祖形と目される。ただし、「乳」と呼ばれる突起状の装飾を付けない点は日本の梵鐘と異なっている。
梵鐘の日本への渡来については、日本書紀に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が562年、高句麗から日本に持ち帰ったとの記録が残っているが、現存遺品でこの時代にまでさかのぼるものはない。京都・妙心寺の梵鐘(国宝)は、内面に戊戌年(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々の銘があり、製作年代と制作地の明らかな日本製の梵鐘としては最古のものとされている。
高麗時代以前の朝鮮鐘は朝鮮半島のほか日本にも多数伝来し、福井県常宮神社の鐘が年代の明らかなものとしては最古(唐の大和7年・833年)とされている。日本の梵鐘は中国の様式を倣ったものが大半で、朝鮮鐘を倣ったものはごく例外的なものとされている。
梵鐘の主な役割は本来は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 – ぎょうしょう、昏鐘 – こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。
青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もある。小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる。
響きをよくするために鋳造の際、指輪(金)を入れることがあるといわれ、江戸時代には小判を鋳込んだ例もある。雅楽と鐘の関係を記す文献もある。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。
最近では特に都市部で梵鐘の音を騒音と捉えた人から寺や警察に梵鐘を撞くことをやめるよう苦情が来ることが増え、撞き手がいない寺が増えていることもあって、除夜の鐘も含めて梵鐘を撞く寺が減ってきている。
撞き手に代わる策として、奈良県の上田技研産業株式会社が開発した自動撞木を導入する寺が増えている。この装置は、撞木の中にモーターとバネが組み込まれており、鐘を撞く時間が近付くとモーターがバネを圧縮し、解放した時に発生する力を利用して、押し出す形で撞くようにできている。ただし、これだけでは撞木が揺れ動いたままなので、バネの圧縮と同時に上部に取り付けられたアームが下がり、先端のローラーで撞木を上から押さえ付けて、鐘を撞いた後の動きを抑制し、すぐにまた鐘が撞けるようにしている。もちろん、これまで通りに撞き紐で撞くことも可能である。
和鐘の形式
和鐘の場合、鐘身は上帯・中帯・下帯と称される3本の横帯で水平方向に区切られるとともに、垂直方向にも縦帯と称される帯で区切られる。縦帯は通常4本で、鐘身を縦に4分割する(近世の鐘には5本の縦帯をもつものもある)。上帯と中帯の間の空間は、上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称する。「乳の間」には「乳」と称する突起状の装飾を並べる。「池の間」は無文の場合もあるが、ここに銘文を鋳出(または刻出)したり、天人像、仏像などの具象的な図柄を表す場合もある。中帯と下帯との間のスペースは「草の間」と呼ばれる。鐘身の撞木が当たる位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が対称的位置に設けられる(まれに4箇所に撞座を設ける例もある)。撞座の装飾は蓮華文とするのが原則である。
和鐘の基本的形状は奈良時代から江戸時代まで変わりがないが、細部には時代色が表れている。梵鐘の時代を判別する大きなポイントの1つは撞座と龍頭[注釈 2]との位置関係である。奈良時代から平安時代前期の鐘では、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として直交している。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは直交する。これに対し、平安時代後期以降の鐘においては龍頭の取り付き方が変化しており、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として同一方向である。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは一致している(若干の例外はある)。また、奈良時代から平安時代前期の鐘では撞座の位置が高く、鐘身の中央に近い位置にあるのに対し、平安時代末期以降の鐘では撞座の位置が下がる傾向がある。
日本の著名な梵鐘
国家安康の鐘とその銘文(京都・方広寺)
奈良時代の梵鐘
梵鐘研究家の坪井良平は以下の16口を奈良時代鐘としている。
千葉・成田市出土鐘(国立歴史民俗博物館蔵) 774年
福井・劔神社鐘 770年、製作年代明らかなものとしては日本で3番目に古い
岐阜・真禅院鐘
滋賀・園城寺鐘 通称・弁慶の引き摺り鐘
滋賀・竜王寺鐘
京都・妙心寺鐘 698年、製作年代明らかなものとしては日本最古
京都・東福寺鐘
奈良・東大寺鐘
奈良・興福寺鐘 727年、製作年代明らかなものとしては日本で2番目に古い
奈良・薬師寺鐘
奈良・新薬師寺鐘
奈良・法隆寺西院鐘
奈良・法隆寺東院鐘 旧・中宮寺鐘
奈良・当麻寺鐘 妙心寺鐘と並ぶ日本最古級の鐘
奈良・大峯山寺鐘
福岡・観世音寺鐘 妙心寺鐘と同じ木型から造られた古鐘
国宝の梵鐘[編集]
神奈川・円覚寺
神奈川・建長寺
福井・劔神社
滋賀・佐川美術館
京都・平等院(所在:鳳翔館、現在鐘楼に吊られている鐘は複製)
京都・妙心寺(徒然草に登場する)
京都・神護寺(非公開)
奈良・当麻寺(非公開)
奈良・東大寺
奈良・興福寺(所在:国宝館)
奈良・栄山寺
福岡・観世音寺
福岡・西光寺
その他の著名な梵鐘
東京・品川寺(鐘楼) – 四代将軍徳川家綱寄進。幕末に万博出品されるも行方不明となり、昭和5年に返還された。
東京・浅草寺(弁天山) – 「花の雲 鐘は上野か浅草か」(松尾芭蕉)の句で有名。
愛知・久国寺(天長山) – 芸術家・岡本太郎が製作。
滋賀・園城寺(三井寺)(鐘楼) – 「三井の晩鐘」の別名あり。音色の良さで知られ、三大梵鐘ともいわれる。
滋賀・園城寺(三井寺) – 通称「弁慶の引き摺り鐘」
京都・平等院-姿の良さで知られる、三大梵鐘の一つ。
京都・方広寺(鐘楼) – 銘文中の「国家安康」の句が徳川家康の豊臣への怒りを買ったとされる。
京都・知恩院(鐘楼)
兵庫・佛教之王堂[念仏宗 総本山](北鐘楼・南鐘楼) – 重さ48t[3]の大梵鐘が2口 ㈱老子製作所 第12代老子次右衛門が製作。
熊本・蓮華院誕生寺(鐘楼) – 大きさ、重量ともに世界一[要出典]の大梵鐘がある。口径九尺五寸、高さ十五尺、重量一万貫。昭和五十二年鋳造。鋳造元は岩澤の梵鐘
和歌山県日高郡日高川町道成寺:梵鐘がないことで有名、安珍・清姫伝説に基づく。
静岡・紇哩岡寺?(袋井市) – 1983年に茶畑から出土した。平治元年の銘文があり、銘文がある梵鐘としては全国で12番目の古さ
文学の中の梵鐘
歌川国芳の「弁慶、比叡山へ引き摺り上げる図」(滋賀県大津市三井寺所蔵)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす」平家物語冒頭
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規の俳句)
「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる」(童謡『夕焼け小焼け』作詞: 中村雨紅、作曲: 草川信)
茨城県郷土工芸品
笠間焼
つくばね焼
五浦天心焼
粟野春慶塗
結城地方の桐下駄
結城桐箪笥
水戸やなかの桶
とよさとの桶・樽
涸沼竿
石岡府中杉細工
茨城籘工芸
竹矢
雪村うちわ
ひたち竹人形
総和竹絵画
古河竹工画
西ノ内紙
かな料紙
国寿石大子硯
結城紬
いしげ結城紬
水海道染色村きぬの染
常陸獅子
水府提灯
桂の雛人形
万祝・大漁旗
手描き鯉のぼり
線香
浮世絵手摺木版画
真壁石灯籠
べっ甲細工
梵鐘
米粒人形
大穂のほうき
武道具
カガミクリスタル
淡水真珠
あやめ笠
繁昌笠
結城まゆ工芸
張り子の達磨・虎・兎
霞ヶ浦帆引き船模型
笠間焼(かさまやき)は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器。
春に行われる陶炎祭(ひまつり)には約50万人 、秋に行われる陶器市である笠間浪漫にも多くの観光客が足を運ぶ。
概要
江戸時代中期の安永年間(1770年代)から作られ始めた。箱田村の名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている。のち笠間藩主の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治にかけては江戸に近い利点から、大量生産の機会を得て技術者や従事者も飛躍的に増えた。陶器商田中友三郎による「笠間焼」の広報・販路開拓が功を奏したという。以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。
特徴
関東ローム層から出土する笠間粘土や花崗岩の風化によってできた鉄分を多く含む蛙目(がいろめ)粘土と呼ばれる陶土によって作られる。笠間粘土は粘りが強く粒子が細かいため焼き上がりが丈夫であり、当時の日常雑器としては理想的な土だった。
「特徴がないのが特徴」と言われている。戦後、伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて各地から若い陶芸家たちが集まったためで、現在では安価で実用的な水瓶や徳利から芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれている。
著名な作家
松井康成
柴田宋休