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栗原 玉葉(くりはら ぎょくよう、1883年4月10日 – 1922年9月9日)は明治から大正にかけての女性日本画家。長崎県出身。本名・栗原綾子。
生涯
1883年(明治16年)4月10日、長崎県南高来郡山田村馬場(現在の雲仙市吾妻町)に生まれる。1895年(明治28年)、郷里を離れ、長崎師範学校付属高等小学校に転校、ついで1901年(明治34年)に梅香崎女学校(現在の梅光女学院)に入学、プロテスタント系のミッションスクールであった同校在学中に洗礼を受ける。
同校を卒業した後、1906年(明治39年)に上京、キリスト教の精神に基づく経営方針を掲げていた小林富次郎商店(ライオン株式会社の前身)が運営する小林夜学校の教員として勤務する一方で、画学生として女子美術学校(現在の女子美術大学)に学び、海老名弾正の本郷教会に属して伝道にも携わる。美術学校卒業後は郷里から呼び寄せた母親と同居、母校である同校の教壇にも立ち、日本画家・寺崎広業にも入門、さらに研鑽を深める。
1909年(明治42年)の第7回美術研精会展に「初夏」、1910年(明治43年)の第8回同展に「山水」を出品した後、1911年(明治44年)の第11回巽画会展で「幼き日」が三等銅賞、同年の第9回美術研精会展では「夏の夕」が四等賞状、1912年(大正元年)[元号要検証]第12回巽画会展でも「鈴蟲」が三等賞銅牌を受賞し画壇デビュー。1913年(大正2年)には日本精版印刷合資会社主催の懸賞広告図案画で島成園らとともに四等賞を得た。「夏の夕」は明治44年4月15日付の読売新聞で「鮮やかなものだ。美人画中最も傑出している」と賞賛された。
同年秋の第7回文部省美術展覧会(文展)に「さすらい」が入選となり官展デビューを果たし、翌1914年(大正3年)の東京大正博覧会美術館展では「お約束」が、同年の第8回文展に出品した「幼などち」「噂のぬし」はともに入選となり、「幼などち」は褒状も受賞した。彼女の作品には若い女性のほか、幼児の姿や行動などを画題としたものが多いが、これはすでにふれた本郷教会で、日曜学校の教師として幼児を指導していた経験に由来するものとされる。
1915年(大正4年)には彼女の創作活動を献身的に支援した母を亡くし、私生活上の危機に瀕するも、人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の登場人物である巡礼・お鶴を亡母への追慕の念を込めて描き、この年の第9回文展で入選となった。しかし翌1916年(大正5年)の第10回文展では落選となり、11月には朝鮮へ渡って同地の風俗を研究して帰国、1917年(大正6年)の第11回文展ではその成果ともいうべき双幅「身のさち 心のさち」が入選。翌1918年(大正7年)の第12回文展では双幅「春雨秋雨」と「朝妻桜」を出品、「朝妻桜」が入選となった。1920年(大正9年)3月には、故郷・長崎の県立図書館で「栗原玉葉女史近作画展覧会」が開催され、同年、東京で女性画家の創作グループ・月耀会の設立に参加。1921年(大正10年)第3回帝国美術院展覧会(帝展)で「清姫物語(想い、女、執着、眞如)」が入選、翌1922年(大正11年)5月には平和祈念東京博覧会展覧会に「葛の葉」を、第3回月耀社展に3部作「お夏」「乙女二代」「花合わせ」を出品するも、同年9月9日に40歳で病没。
長岡 秀星(ながおか しゅうせい、1936年11月26日 – 2015年6月23日)は、日本のイラストレーター・画家。宇宙やSFをイメージした作風で国際的に活躍し、レコードジャケットのアートワークを多数手掛けたことで知られる。本名は長岡 秀三(ながおか しゅうぞう)。
経歴
1936年、長崎市に生まれる。1945年、長崎市山里国民学校在学中に長崎県壱岐郡郷ノ浦町へ転校。中学・高校と原爆投下前に疎開した壱岐島で暮らす。
1955年、壱岐高校3年生の時、小学館発行『中学生の友』の挿絵に送稿し採用される。武蔵野美術学校に入学するが、入学1ヶ月後に雑誌、出版物の仕事を始める。1958年、武蔵野美術学校を退学し、コマーシャルアーティストとして独立する。1963年に結婚。1967年、 大阪万国博覧準備グループに参加する。
1969年、妻の兄嫁の母から名をもらい長岡秀星をペンネームとする。
1970年、アメリカに移住、ハリウッドにアートスタジオ「デザイン・マル」を設立する。雑誌『ウエストマガジン』の表紙を担当した後、アルバムカバーや映画広告の仕事を手がける。カーペンターズなどのレコードジャケットも担当し、1976年、『ローリングストーン』誌最優秀アルバムカバー賞を受賞する。1981年、NHK出版社より画集『長岡秀星の世界 パート1』を出版する。また、株式会社ナムコからの依頼で『ボスコニアン』のポスター等も手がける。同年11月16日、NHK特集のドキュメンタリー番組『喜多郎&秀星 砂漠幻視行』が放映される。
1985年、画集『長岡秀星の世界 パート2』を出版。つくば科学博覧会の公式ポスターと政府出展館の展示物の制作を行う。故郷の長崎県関連の観光ポスターや壱岐焼酎「壱岐っ娘」(壱岐の蔵酒造)のラベルのイラストも手がけた。また、日本人初の「宇宙特派員計画」のための作品を制作し、1991年にTBSの宇宙特派員秋山豊寛がソビエト連邦の宇宙ステーションミールに作品を持参した。
2004年までアメリカを拠点に活動し、アメリカでの顧客として、ゼネラルモーターズ、フォード、クライスラー、フォルクスワーゲン、ロッキード、リーダーズダイジェスト、NASAなど、大手有名企業の名前が挙がる。
2015年6月23日、心筋梗塞のため神奈川県小田原市の病院で死去、78歳没。
作品
リトグラフのタブローが主流だが、レコードジャケットのアートワークも多く手掛けている。
人物や物の描き方は、写実的である。多様で鮮やかな色彩は、リキテックスの透明性と筆による手書きの不透明性に、エアブラッシュの半透明の膜を重ねることで表現される。
宇宙をテーマとした神秘的な作品、サイエンス・フィクション(SF)を彷彿させる作品が多い。
1990年代頃より宇宙を題材としたSF絵物語『アナバシス』を手掛けており、晩年にはほぼ完成させていた。
主なレコードジャケット作品
アース・ウィンド・アンド・ファイアー
1975年 – 『灼熱の狂宴』 – Gratitude
1977年 – 『太陽神』 – All ‘n All
1978年 – 『ベスト・オブ・EW & F VOL.1』 – The Best of Earth, Wind & Fire, Vol. 1
1979年 – 『黙示録』 – I Am
1981年 – 『天空の女神』 – Raise!
1983年 – 『創世記』 Powerlight
1988年 – 『ベスト・オブ・EW & F VOL.2』 – The Best of Earth, Wind & Fire, Vol. 2
ヴァン・ダイク・パークス
1972年 – 『ディスカヴァー・アメリカ』 – Discover America
エレクトリック・ライト・オーケストラ[10]
1977年 – 『アウト・オブ・ザ・ブルー』 – Out of the Blue
カーペンターズ
1973年 – 『ナウ・アンド・ゼン』 – Now & Then
喜多郎
1979年 – 『OASIS』 – Oasis
1980年 – 『シルクロード・絲綢之路』 – Silk Road, Volume 1
1981年 – 『敦煌』 – Tonko
1981年 – 『氣』 – Ki
ジェファーソン・スターシップ
1976年 – 『スピットファイア』 – Spitfire
ジョルジオ・モロダー
1979年 – 『E=MC²』 – E=MC²
ディープ・パープル
1978年 – 『パープル・ロール』When We Rock, We Rock, and When We Roll, We Roll
ピュア・プレイリー・リーグ
1978年 – 『キャント・ホールド・バック』 – Can’t Hold Back
ミューニック・マシーン
1977年 – 『ミューニック・マシーン』 – Munich Machine
1978年 – 『青い影』 – A Whiter Shade Of Pale
画集[編集]
『長岡秀星の世界』(日本放送出版協会、1981年1月) ISBN 978-4140090770
『長岡秀星の世界 PART2』(日本放送出版協会、1985年3月) ISBN 978-4140091036
『宇宙劇場―ベスト・コレクション』(集英社〈プレイボーイ写真文庫〉、1983年1月) ISBN 978-4086150064
『迷宮のアンドローラ』(集英社、1984年7月) ISBN 978-4087800722
『にっぽんのえ 現代トップアーティスト自選集2』(小学館、1984年12月)。加山又造とカップリング
野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10月1日 – 1976年3月23日)は、洋画家、日本芸術院会員。
来歴
東京生まれ。1920年関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年二科展で初入選。26年「一九三〇年協会」会員となる。29年フランスに渡り、サロン・ドートンヌに出品。33年帰国、独立美術協会会員となる。戦後1949年から日本大学芸術学部教授。以後独立展に出品を続け、62年国際形象展同人。64年「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、70年日大を辞める。72年紺綬褒章受章。73年芸術選奨文部大臣賞受賞。75年勲三等瑞宝章受章、日本芸術院会員。
画集
野口弥太郎画集 美術工芸会 1942
野口弥太郎滞欧作 美術出版社 1963
野口弥太郎水彩素描画集 求竜堂 1975
野口弥太郎素描集 五月書房 1978
野口弥太郎画集 日動出版部 1983
林田 重正 (はやしだ しげまさ、1918年10月1日 – 1997年1月4日)は、長崎県諌早市出身の画家。
山、川、野原、木立と言った、やさしい日本の風景を、心に映るままに描き続けた。
自由美術家連盟離脱後、特定の美術団体に属することもなく、かつ非常に寡作でありまた謙虚な性格であった為、一部の熱烈な理解者を得てはいたものの、生前に美術界で大きな評価を得ることはなかった。
経歴
底本はによった。ただし、年齢は満年齢とした。
1918年 (大正7年)10月1日、長崎県北高来郡諫早村上ノ馬場(現諫早市上野町)に生まれる。父嘉八・母津枝。家業は地主。
1937年(昭和12年)3月(18才)、県立諫早中学(現・県立諫早高等学校)を1年遅れで卒業。 小学生時代に結核を発症し中学は休みがちになるが、この間に歴史学・理科学・哲学等多数の本を独学で学び、また中学1年から油絵を図画教師石橋猛より手ほどを受けたり、レコードによりクラッシク音楽に親しんだりした。
1938年(昭和13年)10月(20才)、徴兵検査丁種に付き兵役免除。
1939年(昭和14年)3月、1937年頃より実践していた西式健康法で幾分か健康が恢復し画心抑え難い事を知った母ツエは、他の悩みを抱えていたこともあり、親類の野口彌太郎に“重正の画才の有無について”密かに相談の結果、一家を上げて東京市世田谷区世田谷に転居することを決断。
1939年(昭和14年)7月、新宿月光荘における独立美術協会夏講習会に参加し、海老原喜之助と親しくなる。
1939年(昭和14年)9月、杉並区高円寺にあった美術工藝學院純粋美術科に入学。同校において、実技を鳥海青児・福澤一郎・川口軌外・村井正誠・日高昌克に、西洋美術史を外山卯三郎に、日本美術史を田中一松に学ぶ。特に日高昌克を生涯の師として仰いだ。
1942年(昭和17年) 3月(23才)、美術工藝学院閉鎖により卒業。
1942年(昭和17年)、結核治療のため続けていた西式医学研究所の西勝造の紹介により、憲兵と特高警察監視下の石原莞爾の知遇を得、反戦運動に協力する。
1942年(昭和17年)10月(24才)、銀座紀伊国屋画廊で第1回個展開催。
1943年(昭和18年)(25才)、敗戦まで、金石舎水晶研究所にて水晶遅延線の改良研究に従。
1946年(昭和21年)(28才)、読売新聞社主催新興日本美術第1回展に出品 佳作賞受賞。
1947年(昭和22年)(28才)、戦時中一度途絶えていた、自由美術家協会復活を目指す難波田龍起等の呼びかけに応じ同会員になると同時に、森芳雄自宅を事務所にして、運営実務の協力開始する。
1948年(昭和23年)10月(30才)、第12回自由美術展に出品。
1949年(昭和24年)10月(31才)、第13回自由美術展に出品。
1949年(昭和24年)、日本美術家連盟洋画部会員になる。
1950年(昭和25年)10月(32才)、第14回自由美術展に出品。
1951年(昭和26年)12月(33才)、野口彌太郎との3人展のため滞在中の長崎から、メニューヒン演奏会[* 19]を聞くため訪れた佐世保で、遠縁の富田治子に出会い直ぐ結婚。治子は婚約時すでに重い結核に冒されており、介護のため佐世保に3年間近く滞在することになる。
若い精神の高揚[10]と、より良い治療法を東京で妻に受けさせる費用を捻出したかった為か、この年の作品展5回[* 21]・新聞取材3回・翌年も作品発表2回は、後年の「年1回程度の個展発表」やマスコミへの露出を避けた静かな発表態度とは全く異なるものに見える。
1952年(昭和27年)(33才〜34才)、妻治子の病状がますます悪化する。
1953年(昭和28年)10月(35才)、友人からの度重なる督促にも拘らず、10月9日開催予定の第17回自由美術展にも不出品が確定したため、3年連続不出品者扱い規定により、最初の除名者となる。この為、1968年に文芸春秋画廊で個展を開くまでの間、定期的な作品発表の場を持てない苦境に陥る。この時期以降の作品発表詳細は、“個展等作品発表歴”の項に記載。
1954年(昭和29年)3月(35才)、ますます重篤に陥る妻治子を、前年に困難を押して東京に連れ帰る。ただし、感染を恐れ母津江以外の人には接触させず、重正自身が西式で治療しようと懸命の介護をするも、死去(24才)。
1954年(昭和29年)6月(35才)〜(43才)、傷心の重正を慰めるためと、生活安定を心配した親類の紹介により、三菱造船㈱社内誌「菱苑」の挿絵カット表紙等を描くことを約10年間続けることになる。ほぼ同時期に、日立製作所日立工場日立美術部の指導にあたる。
1958年(昭和33年)(40才)、日立製作所意匠研究所非常勤嘱託として主として家電デザインを約3年間行う。この年、イエナ画廊で前川直・石森美津子・川村久子と4人展を行う。
1959年(昭和34年)4月(41才)、個展等を通じてかなり以前より友人であった画家・川村久子と再婚。この年、長崎市で前川直・林田久子と3人展を行う。
1962年(昭和37年)(44才)、日立家電販売㈱“日の出会”美術部の指導にたずさわり、会員とは長い付き合いになる。
1966年(昭和41年)(48才)、外山卯三郎より後任依頼を受け、約4年間にわたり東上野坂東報恩時において妻久子と共に、児童達に最初から油絵を教えることを多いに楽しむ。2人とも大変な子供好きであった。
1967年(昭和42年)(49才)、美術評論家“菅貢 “の推薦により、文芸春秋画廊を使用出来る事になり、1953年に自由美術家連盟除名以来ようやく安定した定期発表の場を得たことになる。
文春画廊に於ける作品発表を列記すると計15回に及ぶ。
1972年(昭和47年)1月(53才)、永い確執のあった父嘉八死去(87才)。
1972年(昭和47年)4月、妻久子が重いスランプに陥るようになり、以後病状は山谷をくりかえす。良い時は、2人展も行う。
1982年(昭和53年)(59才)、久子の病状多少持ち直し、転居先を一緒にさがせるようになり、85年には2人展を行える程度には回復。
1984年3月(昭和59年)(65才)、杉並区西荻北における約1年の仮寓を経て、千葉市稲毛区宮野木町に完成したアトリエ付き住宅に転居。重正は、その形から蓑笠舎(さりゅうしゃ)と名付けた。
1987年(昭和62年)10月(69才)、愛蔵林田重正展(高山市内の愛好家が自己所有の絵を持ち寄って展示したもの)。
1989年(平成元年)7月(71才頃)、再生不良性貧血により、日本医科大学病院に1年以上入退院後退院するも、徐々に体力が衰えていく。 同時に画筆の衰えも目立つようになるが、入院中にあっても常に看護士さんや自分の手足を対象にしてまでデッサンすることを止めなかった。
1994年(平成6年)4月(75才)、病弱な重正を最後まで慈しんだ母津枝死去(96才)。
1997年(平成9年)1月4日、再生不良性貧血の症状悪化により約1年の入院期間を経て、世田谷区瀬田の日産玉川病院において、中学以来の友人の長男 中嶋昭院長・妻 久子・姪 貝田嘉子に看取られて死去。78才。
画風
描く対象として「①山・野原・雑木といった風景。 ②柿や葡萄のような果物、唐辛子・茄子・ジャガイモような野菜、干魚・干湯葉といった乾物等の室内静物。」 を主に扱っているが、木原秋好は「屋外写生より、アトリエ内での製作を好む妻久子を気遣った結果②が増えたが、本来は①を心行くまで写生したかったようだ。」と、述べている[26]。山は本当に好きで、特に急峻な山よりも穏やかな山を描くことを楽しんだ[* 28]。女性を描いた素描はあるが、油彩は全く残っていない。
画風については、谷川徹三 による「林田重正の芸術」[1]がもっとも端的に述べているので、それをそのまま借用すると、『油彩をもって、東洋の水墨の至り着いたような詩的情趣や音律の余韻を、その画中に現ずる独自な絵画世界を築こうとしているように私には思える。』『作品は、第1類「風景を描きながら、その写実を深めたもの」、第2類「実景からモチーフを得たとしても、それをどこまでも心象風景として、詩句を積み重ねたり、楽音を構成するような手法をとっているもの」に至るまで、模索的な多様な表現がある。第3類「対象は全く写実的に描きながら、そこに夢幻的な、或いは超現実的な境を現じようとしたもの」、第4類「クレー的な発想の上に一味ちがった画面を構成しているもの」がある。 このように系列化したと時、私がもっとも林田の独自性をしめすものとして重んじるのは、第1類と第2類である。この2系列は弁別のしがたいものがあって、東洋風に言えばいずれも胸中の山水としても良いであろう。』と述べている。
逸話
哲学者の谷川徹三が『段々山』と言う作品を有している事を自身の愛蔵品リストである『黄塵居清賞 私の眼とこころ』に記している。
中学生時代から9.5mm映写機で撮影を楽しんでいたが、1951年中に遣り残した最大の残念事を尋ねる新聞記事に、葛飾北斎を扱った美術映画を企画しながら製作に至らなかったことを、悔しがっている。
画風同様にのびやかな明るさに加えて、ユーモアのセンスがある人で、機会ある毎に書き残している文にもそれが見られる。
妻治子との新婚家庭に泥棒が入ったが、貧乏絵描きの家で取るものが何もなく、逆に相手の泥棒や、代わりに泥棒に入られた隣人達を気の毒がる話 「ぬすとめいわく=盗人迷惑」。
小学生時代に弥生土器を拾ったほどの歴史マニアであることを知っている市長に拉致されて、祈願文が書かれているらしい不思議な石碑を見に行く話「何の祈願かわからぬ話」。
300年以上前の諫早干拓工事で歌われた地元の民謡「新地節」の滑稽なカット。
雲仙の山々を描きたくて山上のホテルに泊まったのに、海釣りに誘われ、断るのに往生した話「雲仙の事」。
重篤な状態で入院している妻の病室に於いてさえ、全文が長崎弁だけからなる「病人」と題する詩と絵を描いて心を明るくしようと努めている。
個展等作品発表歴
経歴で見るように自由美術家協会退会後は、一切の団体に入会しようとせず、主として個展を中心とした年1回程度の発表活動に軸足を移したものとなる。そこで、作品発表歴のみを年代順に整理した(一部経歴欄と重複)。
1942年(昭和17年)10月 24才 第1回個展開催 於:銀座紀伊国屋画廊(09.30〜10.03) 出品:静物・新羅の壺他(油彩)。
1943年(昭和18年)10月 25才 第2回個展開催 於:神田 学士会館 (10.28〜10.29) 出品:静物他(油彩)。
1946年(昭和21年)10月 28才 新興日本美術第1回展 主催:読売新聞社 出品作:少女?(油彩)が佳作入賞。
1948年(昭和23年)10月 30才 第12回自由美術展(戦後復活第1回) 主催:自由美術家協会 於:東京都美術館(10.04〜10.17) 出品:秋の静物・少女・肖像(各油彩)。
1949年(昭和24年)10月 31才 第13回自由美術展 主催:自由美術家協会 於:東京都美術館(10.09〜10.27) 出品:岸辺にて(油彩)。
1950年(昭和25年)5月 31才 第4回美術団体連合展 主催:毎日新聞社 於:東京都美術館(05.14〜06.07) 出品:静物(油彩)。
1950年(昭和25年)10月 32才 第14回自由美術展 主催:自由美術家協会 於:東京都美術館(10.10〜10.27) 出品作:四つのジャガイモ?。
1951年(昭和26年)2月 32才 長崎素描展 於:長崎市濱屋ホール(02.13〜02.14) 出品作:油彩4点・素描70点・コラージュ4点)。
1951年(昭和26年)3月 32才 林田重正長崎風景個人展 主催:長崎国際文化協会 後援:長崎日々新聞 於:長崎市濱屋ホール(03.10〜03.13) 出品作:千々石にて・貧しき部落にて 等(油彩37点他)。
1951年(昭和26年)4月 32才 林田重正諫早風景個人展 主催:諫早文化協会 後援:諫早新聞協会 於:十八銀行諫早支店(04.13〜04.15) 出品作:有明海・諫早の春・船・高城神社にて 等(油彩10点 日本画2点)。
1951年(昭和26年)8月 32才 林田重正佐世保風景個人展 主催:西日本新聞社 於:親和銀行本店別館ホール(08.27〜08.29) 出品作:七種翁肖像・濡れて歩く人たち・下弓張からの夕景・暮れの辻 等(油彩22点・水彩2点・水墨画6点・素描1点)。
1951年(昭和26年) 月 33才 野口彌太郎・松島正幸・林田重正3人展。
1952年(昭和27年)9月 33才 林田重正第2回諫早風景展覧会 主催:諫早文化協会 後援:紫水会 於:十八銀行諫早支店(09.26〜09.29) 出品作:衣笠山から諫早方面を・花・有喜の花見・早見で貝ひろい 等(油彩10点・日本画2点) 等(油彩他25点以上)。
1952年(昭和27年)12月 34才 林田重正島原風景個人展覧会 主催:島原自由美術サークル 後援:島原新聞社 於:長池屋ホール(12.05〜12.08) 出品作:梨2つ・大手広場・島原海岸 等(油彩25点) 稲刈・収穫等(水墨画 4点)。
1956年(昭和31年)2月 37才 林田重正作品展 於:渋谷風月堂ギャラリー(02.25〜03.15) 出品作:xx。
1956年12月(昭和31年) 38才 林田重正長崎風景展 於:渋谷風月堂ギャラリー(12.16〜12.31) 出品作:xx。
1956年(昭和31年) 月 38才 林田重正個人展 於:櫟画廊(mm.dd〜mm.dd) 出品作:xx[* 53]。
1957年(昭和32年)2月 39才 月間美術誌 造形に 「雲仙」と題する絵、「雲仙の事」と題した文が載る[40]。
1958年(昭和33年) 月 40才 前川直・石森美津子・川村久子・林田重正4人展 於:イエナ画廊(mm.dd〜mm.dd) 出品作:xx。
1959年(昭和34年)5月 40才 前川直・林田重正・林田久子三人展 主催:長崎芸術鑑賞会 後援:毎日新聞長崎支局 於:浜屋ホール(05.12〜05.15) 出品作:9月30日の庭・水害の街・古い街・夜の静物他(油彩を含む重正分全23点)。
1968年(昭和43年)10月 50才 林田重正個展 於:文芸春秋画廊(10.21〜10.27) 出品作:雪(M20)・みず(F4)・地の水1(F4)・地の水2(P3)・地の水3(F4)・雲1(M6)・雲2(仏F2)・雲3(仏F2)・柿3つ(F3)・柿4つ(F6)・山道(F2)・小さい山(F1)・裾野(M12)・木々(F6)・村(F12)・故園(P10) (以上油彩) (水彩)あかい風景。
1970年(昭和45年)10月 52才 林田重正個展 於:文芸春秋画廊(10.17〜10.23) 出品作:雲の朝・地・入江の花・とぶ花・子供のうた2(以上油彩)。
1971年(昭和46年)10月? 53才 林田重正・久子2人展 於:銀座アートギャラー(文芸春秋画廊改装工事中に付き代替) 出品作:雲と実(M8)・そらの花1(F4)・そらの花2(P6)・そらの花3(M10)・フラッシュバルブのある静物(F3)・野の草(F3)・しろい花(P6)・土(F3)等 (以上油彩) [* 59]。
1974年(昭和49年)3月 55才 林田重正・久子2人展[3] 於:文芸春秋画廊(03.18〜03.24) 出品作:夕やけ(M6)・子供のうた(M8)・森の音(M8)・おそい秋(F6)・夜の村(P6)・道(F3)・櫻桃と魚(F3)・魚の夢(P4)・二つのじゃがいも(F1)・一つの干魚(F2)・空にのぼるとうがらし(M4)・夜のとうがらし(M4)等(以上油彩) 空をゆく花(水彩) 小さな木々・山(以上水墨) [* 60]。
1975年(昭和50年)3月 56才 林田重正・久子2人展[3] 於:文芸春秋画廊(03.10〜03.15) 出品作:駿東の山(M10)・雨雲来る(F6)・白い山(F6)・新緑の山(F6)・干魚と桜桃(F4)・奥多摩にて(F3)・桜桃三つ(P3)・こぶしの木(M6)・夜の海と空(M4)・夜の雲(M4)等 (以上油彩)[* 61]。
1976年(昭和51年)3月 57才 林田重正・久子2人展[3] 於:文芸春秋画廊(03.15〜03.20) 出品作:わらずか(M3)・こぶしの花(夕1)(M4) ・こぶしの花(夕2)(M6)・秋の終り(M8)・小さな桜の木のある丘(F3)・あをい山(P10)・夜のこぶし(P4)・むべの実一つ(サムホール)・夜の山(F10)・親しい丘(M8)・こぶしの花(夜)(M4)・山の木々(得7号)・赤い風景(F4)・浅い春(F2)・小さな島(M10)・芽ふく山(F5)・海辺の松(P4)・或る木(F3)等 (以上油彩)[* 62]。
1977年(昭和52年)6月 58才 林田重正・久子2人展[3] 於:文芸春秋画廊(06.20〜06.25) 出品作:若いコブシ(1)(F5)・若いコブシ(2)(M3)・コブシ(木陰)(F3)・山のコブシ(F6)・夜のコブシ(P3)・雨の前のコブシ(M4)・コブシ澄(F4)・コブシ星(F4)・雨のコブシ(M8)・静物(朝)(F2)・道(夜の山)(M3)・山秋澄(F10)・小さな山(P6)・赤い崖(F4)・安曇野の櫻(F3)・赤いいも(サムホール)・案徳さんの丘(特5.5)・夜の木(M3)・蓼科にて(P3) (以上油彩)[* 63]。
1978年(昭和53年)3月 59才 林田重正個展[* 64] 於:文芸春秋画廊(03.20〜03.25) 出品作:泉(M3)・段々山(M10)・森の朝A(P6)・森の朝B(F4)・夜の山A(M8)・夜の山B(M3)・小さな山(5.5)・石が出る山(F3)・夜明けの村(M6)・黄色い山(P3)・夜明けの山(M8)・とんがり山(M10)・麓(M8)・深山の春(7)・低い山(サムホール)・ラクダ山の雲(サムホール)・丘の朝(P6)等 (以上油彩) 三陸の山・外房にて・Fさん・Aさん・枯れかかった花・大きいムベの実・錦の崖・干し柿・うづらのたまごA・うづらのたまごB・二つ・石ころ1・石ころ2・石ころ3・石ころ4・石ころ5 (以上水彩)[* 65][* 66]。
1979年(昭和54年)3月 60才 林田重正個展[3] 於:文芸春秋画廊(03.19〜03.21) 出品作:森の中のコブシ(F8)・雨の日のコブシ(M6)・朝焼けの森のコブシ(M8)・雲とコブシ(1)(F3)・雲とコブシ(2)(M4)・コブシの木(M3)・コブシの花(F4)・谷間のコブシ(F10)・春の田園(F5)・夜が明けようとする町(P8)・晩秋(F4)・乙女桜の咲く丘(F2)・宅地造成の始まった丘(M4)・開けゆく雲(F6)・箱根逆光(M10)・崖の木(SM)・雑木の丘(SM)・走る雲(M3)・帰る雲(F2) (以上油彩) 秋の山(1)・秋の山(2)・けしの花(1)・けしの花(2)・朝漁(1)・朝漁(2)・柿の実・若い人・豆のなる木・漁村で・お嬢さん・野草の花・干魚・紅葉・魚舟・ヌード・Rさん・顔のスケッチ (以上水彩)[* 67]。
1980年(昭和55年)3月 61才 林田重正個展[3] 於:文芸春秋画廊(03.24〜03.29) 出品作:シャルトルへの途A (M8)・シャルトルへの途B(M6)・モレーの家A(P3)・モレーの家B(F4)・モレーの家C(M6)・モレーの石A(M4)・モレーの石B(M4)・石の家(P3)・乙女桜咲く(P5)・山陰のコブシ(M8)・山とコブシ(F10)・雨の日のコブシA(M3)・雨の日のコブシB(P4)・淋しい山(M10)・別れ道(F4)・モレーの窓(F2)・雑木の山(M4)・モンマルトルの窓(F5)・オーベールの石(M3)・モーの川岸(P10)・シャルトルの丘(M6)・野原(P5) (以上油彩) モー風景・御岳山・山・山陸の山・とうもろこし・二人山 (以上水彩)[* 68]。
1980年(昭和55年)9月 61才 林田重正個展[3] 於:愛宕山画廊(09.dd〜09.dd) 出品作:xx。
1981年(昭和56年)3月 62才 林田重正個展[3] 於:文芸春秋画廊(03.24〜03.29) 出品作:xx[* 69][* 70]。
1981年(昭和56年)11月 63才 林田重正個展 於:大阪/高宮画廊(11.02〜11.10) 出品作:xx[* 71]。
1982年(昭和57年)3月 63才 林田重正個展 於:文芸春秋画廊(03.22〜03.27) 出品作:黄色い山(P2)・紫の景色(F3)・春休み(M4)・秋の道(M4)・母の郷里(F6)・緑の風景(M8)・細い道(P6)・薄暮(M10)・薄暮B(M8)・春の山(M8)・高原(P6)・調練場跡(P8)・散歩道(F5)・雨の日(M4)・高原にて(P6)・木ばっかりの景色(M3)・からめ手門附近(P8)・険しい山(F6)・松茸山(F6)・雨の谷間(M5)・二軒の家(P2) (以上油彩) 避暑地・ざくろ・ざくろB・顔・少女・少女B・横顔・雲・幼い顔・Kさん・考える・沈む顔(以上水彩)[* 72]。
1983年(昭和58年)3月 64才 林田重正個展 於:文芸春秋画廊(03.21〜03.26) 出品作:xx[* 73][* 74]。
1985年(昭和60年)3月 66才 林田重正・久子2人展 於:文芸春秋画廊(03.18〜03.23) 出品作:細い道(P2)・暗い滝(F4)・晩秋(M2)・おそい秋(M2)・山の道(P2)・あかい山(M4)・散歩道(M5)・かやのき山(F3)・ふもと(F2)・しろい舟(M3)・干潟(P2)・子供たち(1)(M2)・子供たち(2)(M2)・晴れた日(P2) (以上油彩) 山・春の雲・城山・干柿・石二つ・からすうり (以上水彩) 手足の素描・素描1・素描2・肘つく人・足の素描 (以上素描)[* 75]。
1986年(昭和61年)3月 67才 林田重正・久子2人展 於:文芸春秋画廊(03.17〜03.22) 出品作:xx[* 76][* 77]。
1987年(昭和62年)10月 69才 愛蔵林田重正展 於:高山市/ シングビル3Fスペース(10.30〜11.03)[* 78][* 79]。出品作:柿の木・箱根逆光・高原・月夜の村・薄暮・明るい道・秋の道・木ばっかりの景色・調練場跡・若い芽・子供たち1・子供たち2。 (以上油彩) 群馬の山・春の日・じゃがいも二つ・考える・北山公園「檪」から・曇りの日・山・焼岳・山国・コーヒーシュガー・手と足の習作・瑞雲 (素描・色鉛筆・水彩) 他。
1987年(昭和62年)10月 69才 林田重正個展 於:高山市/ ギャラリー斐山(10.30〜11.03) 出品作:山の音・山・紫の山(1) [* 80][* 81]。
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 – 1987年(昭和62年)3月4日)は、日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。
日本を代表する美術家のひとり。代表作に大作の「長崎平和祈念像」がある。文化勲章受章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。日本彫刻会では西望の功績を称え同会展覧会における最優秀作品に「北村西望賞」(単に「西望賞」とも)の名を冠している。
略歴
1884年(明治17年) – 長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)生まれ。
1903年(明治36年) – 京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学。後に親友であり同志となる彫刻家の建畠大夢らと出会う。
1907年(明治40年) – 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。
1915年(大正4年) – 兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、初期の代表作「怒涛」制作。文展で二等賞に入賞し認められる。
1916年(大正5年) – 同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成。
1921年(大正10年) – 東京美術学校塑造部教授となる。
1931年(昭和6年) – 京都市立美術工芸学校教諭となる。
1944年(昭和19年) – 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行った。
1953年(昭和28年) – 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設。
1955年(昭和30年) – 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品。
1958年(昭和33年) – 文化勲章受章、文化功労者顕彰。
1969年(昭和44年) – 紺綬褒章受章。社団法人日展会長に就任する。
1972年(昭和47年) – 島原市名誉市民となる。市内に記念館開設。
1974年(昭和49年) – 日展名誉会長となる。
1979年(昭和54年) – 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された。
1980年(昭和55年) – 東京都名誉都民となる。
1981年(昭和56年) – 長崎県名誉県民となる。
1987年(昭和62年)3月4日 逝去。享年104(満102歳没)。
作品館、記念館など
島原城内の西望記念館(奥)と案内板(手前)
北村西望記念館 (長崎県島原市城内1-1183-1、島原城内)
西望記念館、西望公園 (南島原市南有馬町丙393-1)
井の頭自然文化園 彫刻園 (東京都武蔵野市御殿山1-17-6、井の頭自然文化園内)
玄海国定公園・恋の浦ガーデン(福岡県福津市、旧玄海彫刻の岬・恋の浦)
富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(大正2年)5月18日 – 2006年(平成18年)4月11日)は日本の彫刻家。長崎県長崎市生まれ。
プロフィール
東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同研究科卒業。1972年(昭和47年)日本芸術院賞受賞。1974年(昭和49年)日本芸術院会員に任命。1984年(昭和59年)に文化功労者、勲三等瑞宝章受章。1989年(平成元年)に文化勲章受章。1990年(平成2年)長崎名誉県民顕彰。日展理事、理事長を歴任。その後、日展顧問となる。1997年、新宿区名誉区民。
代表作品として文部大臣賞を受賞した「平和の叫び」(1968年)、「トーマス・ブレーク・グラバー之像」(1961年)などがある。また現在トッパン・フォームズ株式会社のエントランスには「青春の賛歌」が置かれている。
また、三洋電機に在籍しインダストリアルデザインの祖としても活躍し、黒電話4号機の意匠を手がけたほか、日本初のカラー電話、家具調テレビなどのデザインも行った。
流 政之(ながれ まさゆき、1923年2月14日 – )は、世界的に活躍する彫刻家、作庭家。”Samurai Artist”の異名をもつ。
人物
1923年長崎県に生まれ、幼少時代は東京で過ごす。1936年京都に移り、1942年立命館大学法文学部へ進学。その後中退し、海軍予備学生出身の零戦搭乗員として終戦を迎える。その後、世界各地を放浪、独学で彫刻を学び現在に至る。1964年にニューヨーク世界博覧会で壁画「ストーンクレージー」(日本から2500個、600tの石を運んだ。)を展示し話題を呼ぶ。1975年には、ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻『雲の砦』をつくり国際的評価を得る。また、作品『受』はニューヨーク近代美術館の永久保存作品(パーマネントコレクション)として収蔵されており、彼の国際的評価の高さを裏付けている。1967年には、TIMEが選ぶ日本を代表する文化人の一人に選ばれた。
彫刻家として活躍するかたわら、庭園の作品も残す。代表作に東京天理教館庭園、皆生温泉東光園庭園などがある。
1987年に日本経済新聞「私の履歴書」に自伝を掲載する。
最近の作品に、関西学院大学理学部(現理工学部)の兵庫県三田市への移転を記念して制作された『月わたり』(2001年、黒御影石)、立命館慶祥中学校・同高等学校に寄贈された『NANDABE』(2004年)などがある。
2005年11月8日、JapanStoneFairにおいて「こころわけ」を発表。
2013年(90歳)現在、高松市郊外の庵治半島の北端近くにアトリエを構え住む[1]。
主な受賞[編集]
日本建築学会賞 (作品)- 1962年「大分県庁舎」受賞者:建設省九州地方建設局営繕部、代表者:安田臣、協力者:流政之
日本芸術大賞 – 1974年
中原悌二郎賞 – 1978年
吉田五十八賞 – 1983年「東京YMCA野辺山青少年センター」内井昭蔵
長野野外彫刻賞 – 1994年
鳥取県景観大賞 – 1995年
主な作品
大分県庁舎本館レリーフ
鳥取県琴浦町・菊港の「波しぐれ三度笠」
「鳥追い」1960年 東京文化会館
「さび地蔵」1960年 サンディエゴ美術館
「波鏡」1960年 サンディエゴ美術館
「はためき」1961年 カーネギーインスティテュート
「のぼり 風」1961年 カーネギーインスティテュート
「恋矢車」1962年 大分県庁舎コンクリート型枠の壁画
「ストーンクレイジー」1963年 ニューヨーク世界博覧会日本館(世界博ベストワークに選定)
「波浪」1963年 ナショナルギャラリー(ワシントンD.C.)
「祭」1963年 ハーシュホーン美術館
「愛のぬけ道」1964年 ジャパンソサエティ・ニューヨーク
「波狩」1964年 サンディエゴ美術館
「祈願」1964年 プリンストン大学美術館
「結ばれた二つの行方」1965年 セントルイス美術館
「禁」1965年 ハーシュホーン美術館
「純」1965年 ミネソタ美術館
「伝心」1965年 サンフランシスコ美術館
「集」1965年 ノースウェスタンナショナル保険会社
「孤高」1965年 ノースウェスタンナショナル保険会社
「夢逢」1965年 クリーブランド美術館
「均」1965年 ロサンゼルス美術館
「太平洋の赤ん坊」1966年 バンク・オブ・アメリカ本社ビル(サンフランシスコ)
「風の姿」1966年 サンディエゴ美術館
「秋の音」1967年 カーネギー美術館
「前進」1967年 ミネソタ美術館
「勇気」1967年 ウィリアムカレッジミュージアムオブアート
「生まれかわり」1967年 ジュリアード音楽院(ニューヨーク)
「江戸っ子」1970年 東京世界貿易センター
「のぼり太鼓」1971年 東京IBMビル
「石のなぞ」1972年 プリンストン大学美術館
「タンマ」1972年 IBM東京本社
「音無」1973年 リンカーンセンターオベラハウス
「とおりゃんせ」1973年 大阪大林組本社ビル
「バチ」1973年 サンディエゴ美術館
「サムライの涙」1973年 アサヒビール大山崎山荘美術館
「時の香」1973年 神奈川県立近代美術館
「さわり大黒」1973年 三菱東京UFJ銀行(東京)
「風の石笛」 1973年 三菱東京UFJ銀行(東京)
「風の城」1974年 国立国際美術館
「玉ちゃん」1974年 新宿住友ビル
「なみかぐら」1974年 東京海上日動火災ビル(東京)
「くぐりえびす」1974年 東京海上日動火災ビル(東京)
「雲の砦」1975年 世界貿易センタービル(ニューヨーク)
「ながれの庭」1975年 大石寺
「夜の手ざわり」1975年 ミッデルハイム美術館
「日本アカデミー賞協会トロフィー」[2]1978年(日本アカデミー賞協会設立メンバーになる)
「南蛮えびす」1977年 十八銀行長崎本店(長崎県長崎市)
「風の城」1978年 国立国際美術館
「映画神像」1979年 日本アカデミー賞協会[2]
「風の刻印」1979年 箱根彫刻の森美術館
「郷愁」1979年 コロンブス美術館
「北の旗」 1979年 北海道庁
「風雪100年」1980年 朝日新聞本社
「風の旗」1980年 ケルン東亜美術館(ドイツ)
「おおいなる明日」1980年 警視庁
「北追岬」1981年 彫刻公園北追岬
「アシタイチバン」1982年 第一生命大井本社
「バナ」1983年 スリランカ総合病院
「どだま獅子」1988年 瀬戸大橋(橋の守護神として)
「ながれバチ」1988年 高松市立美術館
「波しぐれ三度笠」1989年 鳥取県赤碕町菊港
「浜栗林」1989年 瀬戸大橋
「叡智の微笑」1989年 特許庁
「うめちゃん」1990年 阪急三番街(大阪)
「神戸海援隊」1991年 兵庫県神戸市中央区波止場町・メリケンパーク
「BOCHI BOCHI YUKOKA」 1993年 門真ルミエールホール
「ながれもん三度笠」1993年 モービル石油本社(ヴァージニア州)
「サキモリ」1993年 ホノルルアカデミーオブアーツ
「KURASHIKIMON」 岡山県倉敷市本町・倉敷公民館
「MEDETAI」 神戸市中央区加納町4・代々木ゼミナール前
「HAPPUKU」1997年 ナゴヤドーム
「いのいち」1998年 大林組東京本社品川インターシティ
「べっちゃないロック」1999年 淡路島北淡町
「男のふしめ」1999年 函館ラ・サール高等学校
「してんまい」1999年 高松中央高等学校
「だいてんまい」2001年 JR高松駅
「月わたり」2001年 関西学院大学神戸三田キャンパス
「彫刻公園ストーンクレージーの森」2002年 駒ヶ岳(北海道)
「きのうの敵はあすの友 函館解放1868年」2003年 JR函館駅
「雲の砦 Jr.」2004年 北海道立近代美術館
「NANDABE」2004年 立命館慶祥中学校・高等学校
「サキモリ」2005年 北海道知事公館
「もどり雲」2006年 流山温泉彫刻公園ストーンクレージーの森
「MATAKITENO」2006年 サンポート高松
「バチ」2006年 セントルイス大学
「くぐりほてい」 2007年 京都府亀岡市千歳町国分・養仙寺
「ぽっぽや」 2007年 さいたま市大宮区 鉄道 博物館
「NANMOSA STOVE」1982年 ニューオータニ イン 札幌
「”PONSA”」1986年 札幌市中央区狸小路6丁目
「TERMINUS」2010年 JR札幌駅大時計の真下
「“HACCHOU DARUMA”」1989年 札幌市中央区大通西8丁目 住友商事・フカミヤ大通ビル入口
「”ICCHOMAE DABESA”」1996年 札幌市中央区北1条東1丁目 札幌イーストスクエアビル1階
「映画神像 北海道」2003年 JRタワー札幌ステラプレイス7階 札幌シネマフロンティア内
「PIRIKA」2003年 JRタワーオフィスプラザ札幌1階ロビー
「デアイバチ」2004年 札幌市北区北8条西3丁目 札幌エルプラザ南側
著作
Masayuki Nagare: The Life of a Samjurai Artist(1995年、Art Media Resources, Ltd.)
Nagare Masayuki =: [Masayuki Nagare] (1990年、Edobori Gallery)
Nagare, recent sculpture(1988年、Nichido Garo)
Nagare: [exhibition] Tokyo, 3-20 October, 1981, Galerie Tokoro … [et al.](1981年、Galerie Tokoro)
Recent sculpture of Masayuki Nagare: November 9 to December 4, 1965(1965年、J. Weatherhill)
小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) – 平成15年(2003年)3月6日)は、長崎県壱岐郡武生水村(現・壱岐市)出身の彫刻家、太平洋美術学校教授、東京大学建築学科講師。
経歴
1915年、長崎県壱岐郡武生水村(現・壱岐市)に生まれる。
1941年、文展(現・日展)に初めて入選する。
1959年、太平洋展に出品し奨励賞を受賞する。
1961年、プールブー賞を受賞する。
1964年、太平洋美術学校の教授となる。日彫展奨励賞を受賞する。
1967年、東京大学建築学科の講師となる。日彫展努力賞を受賞する。明治天皇御聖像を制作する。
1968年、創価高校に「青年と鷲」像を制作する。
1970年、太平洋会員秀作賞を受賞。第三文明展奨励賞を受賞。
1972年、第三文明展にて、第三文明賞を受賞する。
1974年、ヨーロッパ7ヶ国を外遊する。
1975年、銀座松坂屋にて第1回個展を開催する。
1977年、東京大学講師を定年退官する。
1981年、銀座七洋画廊企画にて第2回個展を開催する。
ロサンゼルスインターナショナル展にて、ゴールド賞を受賞する。
1982年、大村市森園公園に天正遣欧少年使節顕彰の像を制作する。
静岡県熱海城に「小金丸幾久作品展示室」を開設する。
1983年、東京都養育院に、「よろこび」像を制作する。長崎オランダ村母子像を制作する。
1984年、東京富士美術館蔵、「よろこび」像を制作する。
1985年、佐世保市浦頭引揚記念「平和の女神・引揚げ者家族」像を制作する。
1986年、品川区「平和の誓い」像を制作する。SGI文化賞を受賞する。
1987年、福島県磐城第一高等学校にシンボル像を制作する。
1990年、光月陶芸展にて金賞を受賞する。
1991年、光月陶芸展にて大賞を受賞する。
1993年、創価大学に「学光の塔」を制作する。
1994年、天皇・皇后に招かれて春の園遊会に出席する。
1995年、壱岐文化ホールに「翔」像を制作する。
1997年、「松永安左衛門翁」像を制作する。
1997年、芦辺港に「少弐資時公」像を制作する。
2003年、東京都品川区東五反田のアトリエにて死去する。享年87。
主な作品
「青年と鷲」(創価高等学校)
「平和の誓い」(東京都品川区)
「よろこび」(東京富士美術館蔵)
「平和の女神・引揚げ者家族」(佐世保市)
「天正遣欧少年使節」(大村市森園公園)
「学光の塔」(創価大学)
「翔」(壱岐文化ホール)
「明治天皇御聖像」(壱岐郷土美術館)
「少弐資時公像」(壱岐市芦辺港)
受賞歴
1959年、「太平洋展」奨励賞
1961年、プールブー賞
1964年、「日彫展」奨励賞
1967年、「日彫展」努力賞
1970年、「太平洋展」太平洋会員秀作賞、「第三文明展」第三文明展奨励賞
1972年、「第三文明展」第三文明賞
1972年、「ロサンゼルスインターナショナル展」ゴールド賞
1986年、SGI文化賞
1990年、「光月陶芸展」金賞
1991年、「光月陶芸展」大賞
三川内焼(みかわちやき)は、平戸焼(ひらどやき)ともいう、長崎県佐世保市で生産される陶磁器である。昭和53年(1978年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品の認証を受けている(認証番号14-119)。現在14の窯元がある。針尾島の網代陶石と肥後天草陶石を用いた白磁に藍色で絵付けがされた物に代表され、デンマークの博物館長を務めたエミール・ハンノーバーは、著書『日本陶磁器考』の中で「1750年から1830年の間の日本磁器の中では白色に光り輝く最高の製品」と称賛している。
歴史
豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工が来日した。平戸藩藩主である松浦鎮信も多くの陶工を連れ帰った。慶長3年(1598年)、巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後、元和8年(1622年)に三川内へ移住した。また、巨関は1622年ごろ、中野村に陶土がなくなったために陶土を求め、息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし、寛永14年(1637年)、最後に行き着いたのが三川内である。その後、慶安3年(1650年)に中野村の陶工が、平戸藩により三川内に移された。
代表作品
唐子絵
唐の子どもたち(唐子〈からこ〉)が唐扇を持ち、松の木の下で牡丹に飛ぶ蝶と戯れている様子が描かれている。当時は、描かれた唐子の人数によって用途が異なっており、7人唐子は将軍家や朝廷への献上品で「献上唐子」とよばれ、5人唐子は公家衆と大名家、3人唐子は一般大衆用とされた。なお、三川内焼400周年の際にそれを記念して400人唐子の大皿が製作されており、三川内焼美術館で見ることができる。
透かし彫り
彫刻で、金属・木・石などの薄板を打ち抜いて模様をあらわす技法。また、その彫刻したもの。欄間の彫刻、刀剣の鍔(つば)などに見られる。その他色々な焼き物などで使われる技法として有名である。香炉や多宝塔などの作品がある。
卵殻手(薄胎)
その名が示す通り、光を通すほど薄く、網代陶石のみを使用・手作りで成型・起こし焼きで焼成したものでなければならない。 「箸より軽い茶碗を」という藩命で、相神浦(相浦)出自の池田安次郎が完成させた。輸出先のヨーロッパでも「エッグシェル」と呼ばれ人気を博す。第二次大戦後、製作が途絶えていたが、平成18年に平戸藤祥窯が復元。皇室に献上され、著名人にも贈られた。
市
三川内焼陶器市(10月)
三川内の子供たち
三川内小学校、三川内中学校では毎年焼き物(陶器)を作っている。 特に、三川内中学校には登り窯があり、焼き物には馴染み深い土地柄であることがうかがえる。
波佐見焼(はさみやき)は長崎県東彼杵郡波佐見町付近で産する陶磁器。慶長年間、藩主大村氏が朝鮮から連れ帰った陶工に始まる。丈夫な日用品が多い。
江戸時代から大衆向けの食器を巨大な連房式登窯で多量に焼いてきた。今日でも食器生産が盛ん。1990年代前半には、全国の生活雑器のシェアの1/4から1/3を占めたこともある。
歴史・特徴
大村藩主の大村喜前が文禄・慶長の役から帰国するとき、朝鮮陶工の李祐慶が同行し、彼が慶長3年(1598年)に村内に登り窯を築いたのが始まりとされる。当初は釉薬を施した陶器を焼いていたが、良質の陶土を発見したことによって磁器生産が中心となった。
当初は三股郷の陶石を原料とし、青磁が主力であった。その後、砥石として広く流通していた天草の石が白磁原料に向いていることが判明し、大量に天草砥石を購入して町内全土で磁器生産を行うようになった。
大衆向け陶磁器を志向し、大量生産に特化してきた。中尾上登窯(17世紀中葉-1929年)は全長約160mという巨大な窯であった。
一方で、隣の有田・三川内との薪炭材をめぐる諍いも激しかった。三藩が接する幕の頭(まくのとう)と呼ぶ山では、互いに領地を侵して薪を盗んでくることも日常的で、山の中で乱闘・殺し合いも起きる有様だった。結果、三藩の協議によって領地の見直し交渉が何度も実施されることになる。幕の頭山頂に立つ三角柱の「三領石(さんりょうせき)」は、薪をめぐる陶工たちの争奪戦からの産物である。
著名な商品
くらわんか碗
江戸時代に生産された、簡単な草花文などの絵付を施した磁器。それまで磁器は赤絵染付など高価なイメージが強く、庶民にとって高嶺の花であったが、このくらわんか碗は「磁器は高い」という従来の常識を覆し、庶民に普及した。名称は、淀川の京都・大坂間にある枚方宿で、商人が小舟で三十石船に近づいて「酒食らわんか餅食らわんか」と囃しながら食事などを売った「くらわんか舟」に由来する。
コンプラ瓶
1790年に初めて作られ、1820年代から盛んに生産されるようになった、酒や醤油の輸出用の瓶。当初、木の樽だと風味が保てないため、オランダ商人らは、自分たちが持ってきたワインの空き瓶を利用していたが、出荷量の増加に対応するため、簡素な染付白磁を用いた徳利型の瓶を作らせた。中身を示すためオランダ語で「JAPANSCHZOYA(日本の醤油)」または「JAPANSCHZAKY(日本の酒)」と書かれている。名称はポルトガル語で仲買人を意味する「コンプラドール(comprador)」に由来する。
給食用強化磁器食器
主に給食事業に使用される強化磁器。1987年に町内小中学校の給食用食器として開発された。当初、「割れにくい」を意味する方言「割れにくか」から「ワレニッカ」と称したが、改良を加えて「ハサミスクールウェア」に改称。2000年には「セーフティーわん」も開発された。
現川焼(うつつがわやき)は長崎県にて焼かれている陶器。長崎市(旧現川村)で1692年(元禄5年)に焼かれたのが始まりで、命名は地名に因む。
現川焼は鉄分の多い茶褐色の器肌が特徴であり、多様多彩な刷毛目と加飾が施されている。江戸時代には「西の仁清」とまで謳われたことがあったものの、藩の財政面を理由に製造は約50年しか続かず、突如として現川焼は姿を消してしまった。しかし明治時代になり十二代目横石臥牛が復活させ、佐世保市などでも製造されるようになった。
古賀人形(こがにんぎょう)は、長崎県北高来郡古賀村(現長崎市)の郷土玩具の人形である。
概要
土製で、江戸時代、文禄年間から作られた。古くはクチナシ、スオウなどの植物性染料を用いる。製作者は小川姓である。平氏の残党であるという。「馬乗猿」は中国伝来の故事にちなみ、ばくろうのお守りとされ、「あちゃさん」は中国人がにわとりを抱え、「ホーホー鳥」は疱瘡のまじないとされ、ほかに「狆」、「黒猫」などがある。
長崎県指定伝統的工芸品で、京都市の伏見人形、仙台市の堤人形と並ぶ日本三大土人形の一つである。
長崎県指定の伝統的工芸品
長崎手打刃物
若田石硯
長崎べっ甲
阿翁石工製品
五島さんご
古賀人形
佐世保独楽
長崎凧とビードロよま
五島ばらもん(凧)
壱岐鬼凧(壱州鬼凧)
対馬満山釣針