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新原美術 電話0766−22−7303

≪取扱い商品≫
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新原美術 店主
以下は買取エリアです、、、

角谷莎村

角谷莎村(かくたに しゃそん、1911年(明治44)~1987年(昭和62))
大阪府出身

角谷巳之助の次男、角谷一圭(人間国宝)の弟として生まれる。
兄と共に父について釜制作、鋳造を始め日本伝統工芸店、大坂工芸展などで出品。

伝統の技法と現代茶会との調和を考えて、斬新な造形を展開するが特に老松地紋の名手として知られる。

吉向焼

上のような人間国宝作家の作品や地元の焼き物が家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

大阪欄間大阪府知事指定伝統工芸品マーク大阪欄間彫刻

大阪欄間の画像【沿革・特徴】
欄間は奈良時代から寺社建築への採光を目的に作られたものと考えられていますが、後に彫刻等の技巧を凝らした華麗なものが貴族階級の住居にも使われるようになり、江戸時代以降、一般住宅にも取り入れられるようになりました。
もともとは京都が主な産地でしたが、欄間の一般への普及や、木材取引が多く行われている大阪に伝播、定着したものと考えられます。
大阪欄間には、屋久杉の木目を生かし、近江八景等を立体的に彫り出した彫刻欄間、桐の肌と透かし模様が調和した透かし彫欄間のほか、筬欄間、組子欄間等の種類があり、換気の機能に加え、日本家屋にふさわしい落ち着いた美しさを見せています。
大阪欄間彫刻は、彫刻欄間の技術技法を使用して、額や短冊掛け、照明器具等の生活用具に活用したもので、技の冴えと手づくりの温もりが好評です。
材料は、欄間と同じく屋久杉などを用いて、木目の美しさを生かしています。

【指定年月日】
昭和50年9月4日(大阪欄間)
昭和60年7月26日(大阪欄間彫刻)
平成18年11月17日(地域団体商標)

大阪唐木指物
大阪唐木指物の画像【沿革・特徴】
唐木とは、紫檀、黒檀、花梨、鉄刀木等、東南アジアを主産地とする木材のことをいいます。
桃山時代のころから原木が盛んに輸入され、その後、茶道、華道、香道の発展とともに、その堅牢さと独特の色調から茶棚、香炉台、座敷机などの様々な道具が作られ、江戸時代に入るとしゃれた調度品や身の回りを飾る細工物として唐木は多くの人々に愛されるようになりました。
大阪では江戸時代に横堀川周辺に唐木を扱う商人や職人が集まり一大産地が形成され、現在につながる手づくりの技法が確立されたと考えられています。
釘やネジを1本も使わずに各種組手で組み立て、表面に漆をふきこんで仕上げた大阪唐木指物は伝統的な家具等の他、文箱や花台等、手軽で新たな新製品を産み、多くの人々に親しまれています。

【指定年月日】
昭和52年10月14日

大阪仏壇・大阪唐木銘木仏壇・大阪塗仏壇

経済産業大臣指定伝統的工芸品マーク大阪仏壇大阪府知事指定伝統工芸品マーク大阪唐木銘木仏壇・大阪塗仏壇

大阪仏壇・大阪唐木銘木仏壇・大阪塗仏壇の画像【沿革・特徴】
593年に聖徳太子によって大阪に四天王寺が建立されたとき、百済から技術者が呼び寄せられ、上町台地に住まわせたと伝えられており、これが起源になって大阪に仏師、仏具師、彫刻師、塗師、木地師、指物師等による産地が形成されたと考えられています。
また、1600年ごろ北御堂、南御堂の落慶により、その界隈に仏壇仏具師が多く住み、繁盛していた様子が「難波雀」などの古文書から伺えます。
大阪仏壇は、漆を盛り上げて錺金具(金色の金属板による飾り)を打ったように見せ、金具の錆による損傷を防ぐ「高蒔絵」という技法を特色としている他、西本願寺派、東本願寺派、八宗のそれぞれに応じた仏壇が作られ、宗派による違いを反映させています。
大阪唐木銘木仏壇は、紫檀、黒檀、花梨などの唐木や、桑、杉、桜などの素材を用いた仏壇のことです。
江戸時代中期に唐木指物の産地が形成され、その一製品として仏壇が作られたことが始まりと言われています。一説には漆塗り仏壇より古いとも言われています。
唐木の堅牢さと銘木の木材の美しさを生かした漆のふき仕上げが特徴です。
大阪塗仏壇は大阪仏壇の特徴である錺金具の高蒔絵仕上げが、他産地と同様の金具を用いたものです。

【指定年月日】
昭和57年11月1日(大阪仏壇)
昭和60年7月26日(大阪唐木銘木仏壇)
平成2年1月19日(大阪塗仏壇)
平成19年7月13日(地域団体商標)

大阪浪華錫器大阪府知事指定伝統工芸品マークなにわ錫器
大阪浪華錫器・なにわ錫器の画像【沿革・特徴】
錫は古くから工芸品の材料として使われてきましたが、日本に伝えられたのは7世紀から9世紀のころ、遣隋使・遣唐使が持ち帰ったと考えられます。
その後日本でも作られるようになりましたが、宮中等ごく一部で用いられるだけの極めて貴重なものでした。
錫の器が広く一般に使用されはじめたのは江戸時代であり、このころ既に大阪で錫器の製造・販売がおこなわれていました。
錫は非常に柔らかい金属で機械加工が難しく、ほとんどの工程を手作業により製作します。
鋳造を行い、それをコケシ削りのようにろくろ挽きにより研磨・成形します。
錫器は、酒をまろやかに美味しくする作用や、防湿性に優れろくろ挽きにより蓋の嵌合性の良さで茶葉を新鮮に保つ作用があるといわれ、酒器や茶器として、またその独自の風合いを生かした銘々皿、朱肉入れ、花瓶等として、大阪の老舗の飲食店でも使われている他、贈答品としても活用されています。
大阪浪華錫器は、錫が97%以上であり酒器や茶器に、なにわ錫器は錫が最も緻密な組織となる91%の錫合金で神仏具用、装飾品などに用いられています。

【指定年月日】
昭和58年4月27日(大阪浪華錫器)
昭和62年2月6日(なにわ錫器)

なにわべっ甲
なにわべっ甲の画像【沿革・特徴】
ベッ甲が日本で作られるようになったのは、江戸初期に中国の技法が長崎出島に伝来し、やがて大阪から江戸にまで伝わったといわれています。
元禄時代の町人文化の開花とともに様々な豪華な髪形が結われるようになり、これに使われる簪、櫛等をはじめ身の回り品にベッ甲細工が盛んに使用され、彫刻、蒔絵、金銀象嵌等の複雑な技法が発達しました。
現在、ベッ甲細工は大阪、東京、長崎が三大産地であり、大阪ではすかし彫り等の優れた彫刻技法により、ブローチ等のアクセサリーを中心に製作しています。

【指定年月日】
昭和61年2月5日

大阪三味線
大阪三味線の画像【沿革・特徴】
三味線は1562年(永碌5年)琉球から堺に渡来し、その頃は胴に蛇皮を張っていたといわれていますが、その後、犬・猫の皮を用い、義太夫や地唄等の日本の芸事と深く結びついた改良が施され、継承されてきました。
もともと大阪は芸事の盛んなところで、芝居や歌舞伎の他、商人の稽古事など身近なところで三味線が用いられることが多かったため、早くから分業体制が取り入れられ、産地が形成されました。
紫檀、花梨、紅木等を使用し、昔ながらの技法で手づくりされています。

【指定年月日】
昭和61年2月5日

大阪銅器
大阪銅器の画像【沿革・特徴】
16世紀のはじめ、銅から銀を絞り出す「南蛮絞り」という精錬技術の発達により、一万人以上の職人が大阪で活躍し、江戸時代には全国から採掘された銅が「大阪銅座」に集められ、銅製品生産の中心地として栄えました。
銅製品は、彫金、鋳金、鍛金の伝統的な技法により、祭祀用具から日常の雑器まで幅広く作られており、その優れた耐久性と落ちつきのある美しい質感には定評があります。

【指定年月日】
平成2年1月19日

太鼓
太鼓の画像【沿革・特徴】
その起源は、奈良時代に雅楽とともに中国から伝わったと言われています。
江戸時代には、全国各地から多くの太鼓職人が大阪に集まり、全国有数の太鼓づくりの産地として栄えました。
近年、大きな太鼓が作れる太い欅が少なくなり、大きな胴を確保することが難しい状況になっています。
製造工程は、原木の切断から、くり抜き、切削、塗り、皮を張るまでの全ての工程を手作業で行い、完成まで数年間をかけて仕上げます。

【産地組合等】
株式会社太鼓正
〒556-0024 大阪市浪速区塩草3-10-17
電話 06-6561-0021
FAX 06-6561-0025
URL http://www.taikomasa.co.jp/

【主な産地】
大阪市

【主な製品】
長胴太鼓、平太鼓、桶胴太鼓、玩具、楽太鼓、締太鼓、大鼓、小鼓、鞨鼓等

作業風景の画像【製造工程】

欅原木
切断
原木を太鼓の大きさにあわせて輪切りにする
くり抜き
太鼓の内側をくり抜き円筒状にする
乾燥
数年間乾燥させる
削り
外部、内部に
丸味をつけるために削り太鼓の形に整える
塗装
外部に漆を塗る
皮張り
ジャッキを使い
皮を均等に引っ張りながら音の調整を行う
鋲打ち
鋲を打ち、皮を固定する

菅細工
菅細工の画像【沿革・特徴】
約2000年前、深江地区(大阪市東成区)に繁茂する良質の菅を求めて大和から移住し、笠などの細工物を作ったのが始まりと言われています。
近世になって、お伊勢参りの道中安全を祈って菅笠を買い求める習慣があり、当時は相当繁栄していました。
現在は、各種の菅細工のほか、伊勢神宮式年遷宮御料の御笠を作っています。

【産地組合等】
深江菅細工保存会
〒537-0002 大阪市東成区深江南3-5-17
電話 06-6971-9964
FAX 06-6971-9964

【主な産地】
大阪市

【主な製品】
菅笠、円座、釜敷、煎茶敷、色紙掛等

曲げ物
曲げ物の画像【沿革・特徴】
曲げ物は、古代・中世を通じて庶民の日常生活用具として広く用いられていました。
芳精堂は、創業天保3年で、5代にわたり曲げ物を製造しており170年の歴史を有していると言われています。
曲げ物は、現在、日本各地で製造されており、大阪の他に、大館、京都、伊勢、博多などで製造されています。

【産地組合等】
芳精堂
〒537-0023 大阪市東成区玉津2-16-14
電話 06-6971-2761
FAX 06-6971-8353

【主な産地】
大阪市

漆刷毛
漆刷毛の画像【沿革・特徴】
12世紀ごろ、寺院の仏像、仏具等の漆塗りに使われたのが、今日の漆刷毛の始まりと考えられています。
明治18年に京都から三島郡鳥飼村に伝わりました。
刷毛の素材には人毛が用いられており、本体の全てに毛が通されており、毛先を削りながら使用するのが特徴です。
それぞれの刷毛は数十年の期間にわたり使用できます。

【指定年月日】
昭和60年7月26日

漆刷毛
漆刷毛の画像【沿革・特徴】
12世紀ごろ、寺院の仏像、仏具等の漆塗りに使われたのが、今日の漆刷毛の始まりと考えられています。
明治18年に京都から三島郡鳥飼村に伝わりました。
刷毛の素材には人毛が用いられており、本体の全てに毛が通されており、毛先を削りながら使用するのが特徴です。
それぞれの刷毛は数十年の期間にわたり使用できます。

【指定年月日】
昭和60年7月26日

大阪張り子
大阪張り子の画像【沿革・特徴】
張り子人形は、木型に濡らした和紙を貼りつけ、乾燥の後に型を取り出した空洞の紙製人形です。
既に桃山時代以前から子供の玩具として生産されていましたが、江戸時代のはじめ頃、材料となる反故紙が大量に出る京都、大阪の2地域で産地が形成されたほか、紙の生産の増大、流通の発達とともに日本の各地で生産されるようになったといわれています。
江戸期の1822年と1858年の2回、大阪でコレラが大流行したとき、大阪道修町の薬種問屋が、漢方薬の虎頭骨等を配合した「虎頭殺気雄黄円」という薬を作ったところ、大変効き目があり、この後道修町の守護神である少彦名神社の参拝者に、魔除けとして張り子の虎を配ることになりました。
このように張り子人形は虎、だるま、面などの多くの種類が作られ、病除けや置物として、今日でも多くの人に親しまれています。

【指定年月日】
平成6年4月1日

大阪張り子
大阪張り子の画像【沿革・特徴】
張り子人形は、木型に濡らした和紙を貼りつけ、乾燥の後に型を取り出した空洞の紙製人形です。
既に桃山時代以前から子供の玩具として生産されていましたが、江戸時代のはじめ頃、材料となる反故紙が大量に出る京都、大阪の2地域で産地が形成されたほか、紙の生産の増大、流通の発達とともに日本の各地で生産されるようになったといわれています。
江戸期の1822年と1858年の2回、大阪でコレラが大流行したとき、大阪道修町の薬種問屋が、漢方薬の虎頭骨等を配合した「虎頭殺気雄黄円」という薬を作ったところ、大変効き目があり、この後道修町の守護神である少彦名神社の参拝者に、魔除けとして張り子の虎を配ることになりました。
このように張り子人形は虎、だるま、面などの多くの種類が作られ、病除けや置物として、今日でも多くの人に親しまれています。

【指定年月日】
平成6年4月1日

阿波安染
阿波安染の画像【沿革・特徴】
江戸末期に徳島県鴨島の藍農家の次男に生まれた安兵衛が、中河内郡天王寺村で実家から取り寄せた良質の藍を使って紺屋を始めたのが最初です。
阿波安染の特徴は、表裏両面に糊を置き、両面から刷毛で引き染めを行います。両面から染め付けるため、深い色合いが出て、もちも良いといわれています。

堺打刃物
堺打刃物の画像【沿革・特徴】
堺打刃物の発展のルーツは、タバコの葉を切り刻むタバコ包丁が16世紀の天正年間に堺で作られるようになり、戦国時代の鉄砲鍛治の技術もあって、これがそれまで使われていた輸入品よりも品質が良かったため、江戸幕府から専売品として「堺極」の刻印を打たれ、全国各地に販売されました。
その後、17世紀末の元禄年間に出刃包丁が堺で作られはじめました。これが堺の包丁の始まりと言われています。
堺打刃物は、伝統的な火造り、刃付け、研ぎの手法を完全な分業体制によって作られており、そのすばらしい切れ味からも多くのプロの料理人の間で絶大な信頼と支持を得ています。

【指定年月日】
昭和57年3月5日
平成19年10月5日(地域団体商標)

堺打刃物
堺打刃物の画像【沿革・特徴】
堺打刃物の発展のルーツは、タバコの葉を切り刻むタバコ包丁が16世紀の天正年間に堺で作られるようになり、戦国時代の鉄砲鍛治の技術もあって、これがそれまで使われていた輸入品よりも品質が良かったため、江戸幕府から専売品として「堺極」の刻印を打たれ、全国各地に販売されました。
その後、17世紀末の元禄年間に出刃包丁が堺で作られはじめました。これが堺の包丁の始まりと言われています。
堺打刃物は、伝統的な火造り、刃付け、研ぎの手法を完全な分業体制によって作られており、そのすばらしい切れ味からも多くのプロの料理人の間で絶大な信頼と支持を得ています。

【指定年月日】
昭和57年3月5日
平成19年10月5日(地域団体商標)

堺線香
堺線香の画像【沿革・特徴】
16世紀の終わり頃に線香の製法が伝わり、わが国初めての線香が堺で作られ、江戸時代には既に産地として名をなしていました。
線香の生命である香料の調合は、室町時代に発達した香道、茶道の影響を受け、大いに進展しました。
クスノキの一種であるタブノキの粉(タブ粉)に香料を加え熱湯で練り合わせ、盆切り、整形、乾燥などの伝統技法で生産されていますが、香料の調合には現在でも研究、改善が続けられ、現代生活にマッチした新たな香りが生まれています。

【指定年月日】
昭和61年2月5日

堺手織段通
堺手織段通の画像【沿革・特徴】
原産地は中国であり、九州の鍋島藩を通じて江戸時代後期に堺に伝わり、その後堺の商人により改良され、堺手織緞通が創案されました。
一時は堺、泉州一帯の地場産業として栄え、明治中期には数多く輸出されました。
羊毛を素材とし、その手織りの技法は単純ながら技術を要し、その製品は耐久性が強く、重厚さがあります。

【指定年月日】
昭和61年2月5日

堺五月鯉幟
堺五月鯉幟の画像【沿革・特徴】
五月五日を端午の節句とし、家の前に幟を立てて男の子の立身出世を願う風習は江戸時代中期頃までにさかのぼります。
堺で、玩具・文具商をしていた高田儀三郎が、明治初期に名古屋の紙鯉をヒントに紙鯉を製造・販売したのが堺五月鯉幟のルーツであり、明治中期には現在の素材、技法が確立されました。
金太郎がまたがったデザインが特徴の堺五月鯉幟は、錦布に一筆一筆手描きされており、ぼかしや色の濃淡、毛先の繊細さ、勢いの良さで人気があります。

【指定年月日】
昭和61年2月5日

大阪金剛簾
大阪金剛簾の画像【沿革・特徴】
万葉集巻四の次に「君待つと我が恋ひ居れば我が宿のすだれ動かし秋風の吹く」という額田王の歌があり、7世紀頃から貴族の生活に簾らしきものが使われていたことが分かります。
平安時代の神殿造り、鎌倉時代の書院造り等とともに簾も多用されるようになりました。
平安時代の宮中等の間仕切りや装飾に使用された御翠簾が、現在のお座敷簾の原型と言われています。
金剛山の麓の良質の竹に恵まれた明暦年間に富田林で竹簾づくりが始まったと言われています。
天然の素材を生かした優雅で格調高い簾は、日本的な風流さを備えています。

【指定年月日】
平成8年4月8日

なにわ竹工芸品
なにわ竹工芸品の画像【沿革・特徴】
大阪では奈良時代にすでに付近に産出する良質の真竹を用いて、農作業用の篭が作られていました。
茶道、華道が盛んになるに伴い花篭、炭篭等も作りはじめられ、江戸時代中頃には産地が形成されました。
現在は、花篭、料理盛篭をはじめ様々な日用品が作られており、薄染め仕上げを特徴としています。

【指定年月日】
昭和60年7月26日

蜻蛉玉
蜻蛉玉の画像【沿革・特徴】
色模様のついたガラス玉で紐を通す穴を持つものを蜻蛉玉と呼び、紀元前18世紀頃のメソポタミアで既に作られていたという記録があります。
その後シルクロードを通じて奈良時代に日本に伝わりました。
正倉院に多数保存されており、この頃には国産化されていたという記録もあります。
その後、平安時代に断絶しましたが、江戸時代に長崎経由でオランダから再び技術が伝わり、大阪で盛んに製作され、「玉造」という地名が現在も残っています。
最近では藤村トンボ玉工房の先代・藤村英雄氏が、江戸時代からの技術を継承し、再現不可能と言われた中国戦国時代の七つの星模様や乾隆時代の小桜玉の復元に成功する等活発な活動を展開し、現在は子息の藤村真澄氏に引き継がれ、ネックレスやループタイ等が人気を呼んでいます。

【指定年月日】
昭和62年2月6日

大阪泉州桐箪笥
大阪泉州桐箪笥の画像【沿革・特徴】
桐は湿気の多いときには水分を吸い、乾燥時には水分を出す性質があり、火災の際には水を吸って燃えにくく、「身を焼いて中身を救う」という衣服の保存に最適な性質を持っています。また、伸縮や狂いが少なく、長年使用しても再生により新品同様になるなど、昔から「桐箪笥は一生もの」と言われています。
江戸時代中期には大阪で桐箪笥の製造技術が確立され、その後、堺を経て和泉に広がり、泉州地域に産地が形成されました。
木釘と組手による組み立てからみがき着色に至るまで、入念な技巧により仕上げられた高級品を中心に生産を行っています。

【指定年月日】
平成元年4月11日(大阪泉州桐箪笥)
平成19年7月13日(地域団体商標)

大阪泉州桐箪笥
大阪泉州桐箪笥の画像【沿革・特徴】
桐は湿気の多いときには水分を吸い、乾燥時には水分を出す性質があり、火災の際には水を吸って燃えにくく、「身を焼いて中身を救う」という衣服の保存に最適な性質を持っています。また、伸縮や狂いが少なく、長年使用しても再生により新品同様になるなど、昔から「桐箪笥は一生もの」と言われています。
江戸時代中期には大阪で桐箪笥の製造技術が確立され、その後、堺を経て和泉に広がり、泉州地域に産地が形成されました。
木釘と組手による組み立てからみがき着色に至るまで、入念な技巧により仕上げられた高級品を中心に生産を行っています。

【指定年月日】
平成元年4月11日(大阪泉州桐箪笥)
平成19年7月13日(地域団体商標)

和泉蜻蛉玉
和泉蜻蛉玉の画像【沿革・特徴】
「日本ガラス工業史」などの文献によると、和泉国、現在の堺市付近では、昔から硝子玉が作られ、泉州玉・さかとんぼと呼ばれ有名であった。
その由来をたずねると、奈良時代にさかのぼる。
明治初期には、和泉国(現在の和泉市)においてガラス玉の製造技術が確立していたとの記述があります。
その技術が神山喜代松らによって村民に公開され、ガラス玉の製造地として発展し、今日に至っています。
和泉市においては、山月工房の先代である小溝時春氏がその技術・技法を継承し、和泉蜻蛉玉の製造を行っていました。
現在は、長女の松田有利子氏が後継者となり和泉蜻蛉玉を製造しています。

【指定年月日】
平成14年1月8日

大阪府 おおさかふ
大阪市 おおさかし

都島区 みやこじまく
福島区 ふくしまく
此花区 このはなく
西区 にしく
港区 みなとく
大正区 たいしょうく
天王寺区 てんのうじく
浪速区 なにわく
西淀川区 にしよどがわく
東淀川区 ひがしよどがわく
東成区 ひがしなりく
生野区 いくのく
旭区 あさひく
城東区 じょうとうく
阿倍野区 あべのく
住吉区 すみよしく
東住吉区 ひがしすみよしく
西成区 にしなりく
淀川区 よどがわく
鶴見区 つるみく
住之江区 すみのえく
平野区 ひらのく
北区 きたく
中央区 ちゅうおうく
堺市 さかいし
堺区 さかいく
中区 なかく
東区 ひがしく
西区 にしく
南区 みなみく
北区 きたく
美原区 みはらく
岸和田市 きしわだし
豊中市 とよなかし
池田市 いけだし
吹田市 すいたし
泉大津市 いずみおおつし
高槻市 たかつきし
貝塚市 かいづかし
守口市 もりぐちし
枚方市 ひらかたし
茨木市 いばらきし
八尾市 やおし
泉佐野市 いずみさのし
富田林市 とんだばやしし
寝屋川市 ねやがわし
河内長野市 かわちながのし
松原市 まつばらし
大東市 だいとうし
和泉市 いずみし
箕面市 みのおし
柏原市 かしわらし
羽曳野市 はびきのし
門真市 かどまし
摂津市 せっつし
高石市 たかいしし
藤井寺市 ふじいでらし
東大阪市 ひがしおおさかし
泉南市 せんなんし
四條畷市 しじょうなわてし
交野市 かたのし
大阪狭山市 おおさかさやまし
阪南市 はんなんし
三島郡 みしまぐん
島本町 しまもとちょう
豊能郡 とよのぐん
豊能町 とよのちょう
能勢町 のせちょう
泉北郡 せんぼくぐん
忠岡町 ただおかちょう
泉南郡 せんなんぐん
熊取町 くまとりちょう
田尻町 たじりちょう
岬町 みさきちょう
南河内郡 みなみかわちぐん
太子町 たいしちょう
河南町 かなんちょう
千早赤阪村 ちはやあかさかむら

江里 佐代子(えり さよこ、1945年7月19日 – 2007年10月3日)は日本の截金師。2002年に諸工芸の截金の分野で3人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。夫は仏師の江里康慧、子は同じく截金師の左座朋子。

京都市に生まれ、大学で日本画や染色などを学ぶ。江里康慧と結婚を契機に截金師北村起祥のもとで截金の技法を習得する。
本来仏像の荘厳技法であった截金を飾筥(かざりばこ)、棗(なつめ)、香盒(こうごう)、結界(けっかい)、屏風(びょうぶ)、衝立(ついたて)、額装、壁面装飾へと応用しその可能性を広める。また日本伝統工芸展において日本工芸会総裁賞、日本経済新聞社賞や高松宮記念賞、京都工芸美術展では市長賞など受賞を重ね、夫の江里康慧との二人展「仏像と截金」なども開催し、截金の認知度を高めた。また京都造形芸術大学と龍谷大学で客員教授を、東京芸術大学大学院で非常勤講師を務めるなど截金の普及にも力を注いだ。
2002年7月8日に全国最年少で重要無形文化財保持者に認定され、翌年には江里康慧とともに京都府文化功労賞を受賞。建築や寺院の壁面、空間装飾の仕事も多く、京都迎賓館では晩餐室「藤の間」の舞台扉「響流光韻(こおるこういん)」に截金を施すなど多彩な活躍が続いていた。
後継者の育成や更なる作品の製作の道半ば、 ロンドンの大英博物館で開催中の作品展「現代日本のわざの美」で実演と講演をした後、調査のため向かったフランスのアミアンで、脳出血のため62歳で死去した。

近藤 悠三(こんどう ゆうぞう、1902年2月8日 – 1985年2月25日)は日本の陶芸家。1977年に人間国宝に認定。本名は近藤雄三。染付の悠三で知られる。
陶芸家・近藤豊(1932年 – 1983年)は長男、陶芸家・近藤濶(ひろし)は次男、陶芸家・美術家の近藤高弘は孫にあたる。俳優の近藤正臣は親戚。幕末の尊攘運動家の近藤正慎は祖父。

京都市清水寺下出身。父・正平、母・千鶴の三男として生まれる。祖父である正慎は清水寺の寺侍であった。
1914年、京都市立陶磁器試験場付属伝習所轆轤科に入所。1917年に卒業後、同試験場で助手として勤務する。当時、河井寛次郎と濱田庄司が東京高等工業を卒業して技手として陶磁を研究しており、悠三は濱田から窯業科学などを学んだ。
1921年に陶磁器試験場を辞め、イギリスから帰国して大和に窯を構えた富本憲吉の助手として師事。素地や釉薬などの技法だけでなく、制作に対する心構えについても指導を受けている。
1924年京都に戻った後、関西美術院洋画研究所でデッサンや洋画の研究をする傍ら、清水新道石段下に窯を構え制作を始める。この頃は染付の他に、釉裏紅や象嵌等の技法も用いた作品を発表していた。
1926年、24歳で中島光子と結婚。
1928年の第9回帝展で初入選を果たし、以後13回連続で入選する。他、文展などで多くの作品を発表。1950年には第6回日展で審査員を務めた。1955年に日本工芸会に所属。1956年、「山水染付壺」が第3回日本伝統工芸展で日本伝統工芸会賞を受賞。
1956年には岐阜県多治見市にて志野焼の研究をしている。以降は染付の制作に専念した。つけたてとぼかしを基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとして絵画的な表現をなした。さらに1960年以降、呉須染付に併用して赤絵や金彩の技法を用いるようになり、さらに独特の作風を確立した。
日本工芸会常任理事、陶芸部会長を歴任。1953年、京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)陶磁器科助教授、1956年、同大学教授。1965年10月には学長に就任した。
1970年に紫綬褒章、1973年には勲三等瑞宝章、京都市文化功労者章を受章。1977年4月25日、重要無形文化財「染付」の保持者(人間国宝)に認定された。1980年、紺綬褒章受章。
1985年逝去。「自分は、し残したことがあるので、生まれ変わっても、陶芸家として生まれてくる」と生前語っていた。

齋田梅亭(さいた ばいてい 1900年4月6日 – 1981年6月1日)は日本の截金師。1981年に諸工芸の截金の分野で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

京都・西本願寺御用の截金師の家に生まれ、京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業し、百貨店や呉服専門店で意匠の仕事に従事した後、25歳頃より家業である截金を継いだ。
截金を工芸作品として屏風(びょうぶ)、額(がく)、衝立(ついたて)、茶入れや飾箱に応用し、東京・赤坂の迎賓館へ四曲一双屏風「霞文(かすみもん)」を納入するなど工芸分野としての基盤を築いた。特に屏風や額などの平面な作品に截金を施す際、海の中に生息する魚や海草、薄の穂、牡丹・紫陽花・菊・椿の華を写実的に表現したという点において彼の作風が際立っている。

京焼(きょうやき)は日本の陶磁器の一種。粟田口焼、御室焼など京都で作られる作品の総称となっている。一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴。 また、乾山写し・仁清写しなど、他窯のデザインを本歌取りした写しものを得意とする。

京焼の始まり
近年の研究では、慶長年間初頭の1590年代末には京焼の生産が始まっていたと考えられている。この頃の作品については不明な点が多いが、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されていて、技法やデザインが多様なことが特徴である。
この時期以前の京都は、三条粟田口界隈に陶磁器の窯元が集中し、粟田焼が生産されていた。ただし、天正年間以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していた。緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられている。
色絵陶器の成立
17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになった。具体的には、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られている。また、この頃に黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。
京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永年間には粟田口で生産を行なっていた。ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られた。同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには存在が確認されている。これに続いて御室焼、御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、修学院焼なども作られた。
このような中、慶安3年(1650年)5月25日に金森重近(宗和)が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。
18世紀以降
野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず製陶から手を引いた。しかし仁清から直接技法を学んだ尾形乾山は優れた作品を多く残した。また、永樂了全より後の永樂家は保全、和全など優れた陶工を輩出し、千家に作品を納めて今日に至る。
技術的にも重要な存在としては奥田頴川が挙げられる。頴川は京焼として初めて磁器を製作し、この後を受けて青木木米や仁阿弥道八らも磁器の作品を多く残した。
明治維新後は体制や文化の変化に伴って茶陶の需要が激減し、廃業した者も多い。また、陶工の一部は日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えた。

清水焼(きよみずやき)は京都府で焼かれる陶磁器。清水寺への参道である五条坂界隈(大和大路以東の五条通沿い)に清水六兵衛・高橋道八を初めとする多くの窯元があったのが由来とされる。京都を代表する焼物である。
五条通の大和大路通から東大路通(東山通)に至る区間の北側に所在する若宮八幡宮社の境内には「清水焼発祥の地」との石碑が建っており、毎年8月8日から10日の「陶器祭」では清水焼で装飾された神輿が出る。

伝統的工芸品産業の振興に関する法律にもとづいて指定された「経済産業大臣指定伝統的工芸品」および、京都府伝統と文化のものづくり産業振興条例にもとづいて認証された「京都府知事指定伝統的工芸品」(京もの指定工芸品)における名称は、「京焼・清水焼」となっている。

楽焼(らくやき)は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤(けろくろ)を使用せず手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、750℃ – 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。また、楽茶碗などとも呼ばれる。 狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。
千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みのある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される

天正年間(16世紀後半)、瓦職人だった長次郎が千利休の指導により、聚楽第を建造する際に土中から掘り出された土(聚楽土)を使って焼いた「聚楽焼」(じゅらくやき)が始まりとされる。
二代目・常慶の父、田中宗慶(一説に利休の子という)が豊臣秀吉より聚楽第からとった樂の印章を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となった、との説が広く知られる。
楽家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯という。

黒楽
初期の製法としては、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから1000℃程度で焼成する。焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。これは美濃焼と共通する手法である。
天正9年(1581年) – 同14年(1586年)頃に長次郎によって黒楽茶碗が焼かれたのが始まりである。
赤楽
赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800℃程度で焼成する。樂家と関わりの深い本阿弥光悦や、樂道入の作品などが有名である。利休のエピソードに秀吉は黒楽を嫌い赤楽を好んだとある(『神屋宗湛日記』)。

朝日焼(あさひやき)は京都府宇治市で焼かれる陶器。宇治茶の栽培が盛んになるにつれ、茶の湯向けの陶器が焼かれるようになった。江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられている。
朝日焼という名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説がある。

歴史
宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていた。室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されている。
今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものである。しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになる。後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなった。同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出している。
三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようになった。それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていった。
朝日焼の特徴
朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。そして、それぞれの特徴によって呼び名が決まっている。
燔師(はんし)
分かりやすく解釈すると、師匠が焼いた物という意味である。赤い粗めの斑点がぽつぽつと表面に浮き出たような器をいう。
鹿背(かせ)
燔師とは対照的に、肌理細かな斑点が見られる器をいう。鹿の背中のような模様から名付けられた。
紅鹿背(べにかせ)
鹿背の中でも、特に鉄分が多く、よりくっきりと紅色が見えるものを指す。

上のような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却をお考えの時はご連絡ください!!

西陣織 [京都府の伝統的工芸品等]

西陣織は京都がはぐくんできた高級絹織物で、多品種少量生産方式を基盤とした、先染の紋織物です。織り上がるまでには、企画・図案から意匠紋紙、糸染、整経(セイケイ)、綜絖(ソウコウ)、金銀糸、絣加工等多くの工程があり、これらの一つひとつの工程で熟練した技術者が丹念に作業をしていきます。一口に西陣織と言っても、手の爪をノコギリの歯のようにギザギザに削って図柄を見ながら織り上げる爪掻本綴織(ツメカキホンツヅレオリ)をはじめ、経錦(タテニシキ)、緯錦(ヨコニシキ)、緞子(ドンス)、朱珍(シュチン)、紹巴(ショウハ)、風通(フウツウ)、もじり織、本しぼ織、ビロード、絣織、紬などがあり、国に指定されているだけでも12種類の品種があります。織機には、綴機、手機、力織機の3種類があります。

京都はもともと、平安時代以前にもたらされた帰化人の豪族、秦氏の織技術によって、平安時代から絹織物業が盛んであり、宮廷文化を中心に発展してきました。京都で応仁の乱(1467年~1477年)が起こり、西軍の大将、山名宗全が西に陣をはったことが、今の西陣の地名と西陣織の名称の由来となりました。明治時代に、京都府からの派遣により佐倉常七ら3名が欧州に留学し、フランスからジャカードなどの洋式技術を取り入れ、大幅な技術改良を重ねた西陣は、日本の絹織物業の近代化の魁として新しい発展を遂げることとなりました。日本の近代化とともに歩みを進めた西陣織は、能衣装、打掛、几帳、帯、きもの、金襴など伝統的で高級精緻、絢爛豪華な手織技術と意匠を極めた製品に結晶するとともに、ネクタイ、インテリア、緞帳、ショール、バッグなど新しい分野にも幅広い製品を生み出しています

京鹿の子絞 [京都府の伝統的工芸品等]

絞り染めの技術は、世界各地でみられ、その発祥は、インドとされています。7世紀頃には、絞り染めの技術が日本に伝わっており、日本書紀の記載が絞り染めの最古の記録です。万葉集にも絞り染めの衣装を詠んだ歌があります。10世紀には宮廷衣装にも用いられました。室町・桃山期から江戸前期にかけて一世を風靡した「辻が花染」は絞り染めを駆使した作品の代表的なものです。さらに江戸時代には、「かのこ」「鹿の子絞」「京鹿の子」として広がり、総絞り、刺繍入りの絞り、友禅加工した絞友禅などが生産され、17世紀末の元禄期には、全盛を迎えました。その後も括りという染まらない部分で模様を表す独特の技術は、着実に受け継がれています。

鹿の子と言われる疋田(ひった)絞りや一目(ひとめ)絞りなどその括り粒の精緻さと、あざやかな多色を出すための染め分け技法から生まれる立体感のある美しさとともに、このほかのそれぞれの括り技法の組み合わせで模様が表現されています。手仕事ならではの潤いと暖かさが京鹿の子絞りの特徴です。

その工程は、布地に図案(下絵)を描き入れ、1人1種類の括り技法を持つ技術者が、一粒ずつしけ糸(生糸)で括って、絞っていきますが、その作業はすべて手で行います。絞り染めは、糸をもって布地を強く括ることによって、染色されない部分をつくり出す、また強く括ることによって布地の絞り独特の「粒」や「しわ」をつくり立体感がつくられるもので、染色方法は浸染によります。絞り染めは、最初につくられたデザインが絞り括りをはじめとする防染技術の積み重ねによって、正確に表現されることが生命です。

京友禅・京小紋 [京都府の伝統的工芸品等]

京友禅は、多彩で絵画調の模様をきものにあらわす染めの技術です。この技術は、江戸時代までに編み出されていた染色法をもとにしたもので、元禄年間、京都・祇園あたりに住む扇絵師、宮崎友禅斎が美しく華麗な絵を描くことを加え、手描友禅として確立したと伝えられています。友禅という名称は、この友禅斎から名付けられたということです。

明治には、あざやかで色数の多い化学染料が輸入され、手描友禅の名匠であった広瀬治助によって「写し友禅」として型友禅が発明されました。手描友禅に対して、模様を切り抜いた型紙を使って大量に染めることができる型友禅の出現により、友禅が多くの人に広がっていきました。

京小紋は、武士の裃に端を発し、17世紀頃までにほぼ完成された染めの技法です。江戸時代に、小紋を染めた麻裃が武士の正装となったため、やがて町人文化の自由で粋な感覚を受け、庶民の間にもしゃれた衣装として流行しました。最初、単色が主体でしたが、その後、彩色へと変化し、友禅と影響しあいながら、京都では、京小紋として独自に発展してきました。京小紋の起源としては、基本となる型紙が作られた1200年前と伝えられています。

京小紋には、はんなりとした雅やかな雰囲気があります。色使いや柄ゆきにも優しさや気品に溢れているのがその特徴ですが、最近ではモダンな図案も出てきています。

京繍 [京都府の伝統的工芸品等]

日本での刺繍の歴史は、飛鳥時代からと推定され、この時代の特徴は、仏画を刺繍で表現した掛け物である繍仏です。これが平安建都に伴い、繍技の職人をかかえる縫部司が京都に置かれ、衣服の装飾に用いられ始めたのが、京繍の起こりです。以降、京繍は、十二単(平安時代)、武将の胴服(鎌倉時代)、能衣装(室町時代)と用いられ、華麗な文化が咲き誇った安土・桃山時代には小袖に多用され、さらに発達しました。この動きは江戸時代まで続きます。明治時代以降は、ふくさ、壁掛け、「刺繍絵画」などの作品が現われ、新しい需要が開拓されました。今では、和装品から祭礼品、額に至るまで幅広い製品をつくり出しています。

刺繍とは、一本の針と多色の糸を使って布地などに模様を縫い表す装飾技法で、染、織とともに日本の染織史上重要な位置を占めています。染めたきものや織物に刺繍が加わって、一層華やかさが増すのです。絹織物、麻織物に絹糸、金銀糸を用いて、磨き抜かれた意匠と高度な技術によって製作される京繍は、全体の構図、繍糸の配色、繍技・繍法、これらが一体となって刺繍独自の表現が可能になり、情趣あふれた作品となります。

京繍の技法は、現在、約30種類があり、伝統的工芸品として指定されているのは、繍切り、駒使い繍、まつい繍など15種類あります。

京くみひも [京都府の伝統的工芸品等]

京くみひもは、平安時代より神具・仏具、武士の鎧兜(よろいかぶと)、刀の下げ緒など装身具や調度品に広く使われてきました。現代では、主に帯締、羽織紐など和装用として用いられるほか、アクセサリーなどの新しいものもあります。

古代の縄文時代には、日常生活に簡単なくみひもが使われ、飛鳥・奈良時代に中国や朝鮮から技術がもたらされ、高度で複雑な工芸くみひもが生まれ、当時の遺品は、法隆寺や正倉院に収蔵されています。平安・鎌倉時代になると、唐風から和風へ移り変わり、意匠は優美なものになり、服飾を飾る平緒や袖括(そでくくり)の緒、冠の緒、巻物、箱類、楽器、調度などにもちいられる様々な紐がつくられ、用途範囲が極めて広くなりました。

室町時代になると、茶道の隆盛により、仕覆(しふく)の緒や掛軸の啄木など、わび・さびの思想から意匠も比較的渋くなり、桃山・江戸時代には、庶民にも広がりました。江戸時代には、組み方も多様になり、羽織紐、組帯などさまざまな技巧をこらすようになり、明治、大正、昭和と帯締、和装小物の世界に類のない美しい製品がつくられてきました。

道具は、丸台、角台、綾竹台、高台などがあり、基本的な組み方だけでも、40種類以上あるといわれ、一本一本の糸が綾をなす芸術品です。

京黒紋付染 [京都府の伝統的工芸品等]

京黒紋付染は、婚礼のときに着る黒留袖や、葬儀のときに着る喪服などを黒色に染める伝統技術をいいます。黒染技法には、引染・浸染の2種類があり、黒留袖など模様のある場合は引染で染色し、喪服など無地の場合は浸染で染めます。

黒の技法でもっとも古いと考えられる方法は、墨を生地に付着させる墨染技法で、平安時代ごろから広く行われていた染法とされています。また、大変な労力と手間がかかっていたタンニン質と鉄の媒染による染法は、室町時代から明治時代になり合成染料が一般的に普及するまで黒染の技法として続きました。

明治維新より、国民の礼服が黒紋付羽織袴となってからは、黒紋服は冠婚葬祭の祝儀・不祝儀の儀式用として、また黒地の模様染は婚礼衣装等需要が高まりました。

京仏壇・京仏具 [京都府の伝統的工芸品等]

京都は仏教文化の都でもあり、市内の至る所に大小さまざまな各宗派の寺院が存在しています。こうした多数の寺院と各家庭の需要に応えながら京仏壇・京仏具は発展してきました。

仏具の歴史は、6世紀の仏教伝来とともに始まります。以後、仏教の普及とともに、各宗派それぞれに異なった様式で仏具も分化していき、家の中に一寺院そのまま組み込む形式をとるようになったのが、各家庭における仏壇です。

京都における仏具は、8世紀ごろその製作が始められたと推定され、11世紀初頭に仏師定朝が七条に「仏所」を設け、仏工を集めたのが本格的な仏具の歴史の始まりと考えられます。江戸時代の初めになると、宗門改め制度に伴い、各家庭に仏壇を安置するようになりましたが、これにより各家庭における仏壇の需要が増加し、生産も本格化していきました。

現在に至るまで、京都は仏壇・仏具の一大産地でありましたが、それは単に生産量の面だけではなく、優れた技術及び品質が備わっているということが大きな特徴です。宗派によって仏具の様式もさまざまなことから、大量生産が困難で、また、木工・金工・漆工などあらゆる技術を駆使した総合工芸品であることからも、その生産は、細かい分業にもとづく四十余職種もの専門的な手仕事が中心となっています。これらの条件が重なり、より品質の高いものへと発展していきました。

ところで仏具は、仏教に用いるあらゆるものを意味し、主なものをあげても、仏像、宮殿、厨子、香炉、梵鐘、燭台と何百にも及び、これらの寺院用仏具も、仏壇とともに伝統的な手づくりによって作られています。現在、京都において約70%が寺院用、約30%が家庭用として製作され、また全国の寺院用仏具の多くが京都で作られています。

京漆器 [京都府の伝統的工芸品等]

もともと中国で始まったと伝えられる漆器は、日本でも縄文時代にはすでに使われていたようで、その種類も生活用具だけでなく、仏具、武器、文房具など多岐に及んでいました。

漆地に金粉を散りばめたように見える末金楼(まっきんろ)(蒔絵)が生まれたのは奈良時代のことで、この技法は平安時代へと受け継がれ、発展して、やがて研出蒔絵(とぎだしまきえ)や平蒔絵(ひらまきえ)が完成されたのです。

さらに、鎌倉時代から室町時代になると、高蒔絵、肉合蒔絵(ししあいまきえ)が行われますが、この頃には寺院や貴族などが、特定の蒔絵師をかかえるようになります。この時代に作られた「東山時代物」と呼ばれる数々の作品は、当時の京漆器の精彩ぶりを端的に示していますが、それは「わび」「さび」の境地に徹したまことに味わい深いもので、まさに日本の漆工を代表するものといえます。

安土桃山時代の京漆器は、新しく台頭してきた武士階級の趣味や好みを色濃く反映したものとなり、その様子は大変華麗なものでした。しかし、江戸時代に入ると、こうした豪華さ華麗さの中にも繊細で緻密な趣を持つものが目立つようになります。嵯峨蒔絵や光悦などの作品からもそれがうかがい知れます。

以上のように、室町時代以降、京都は全国漆器産業の中心となり栄えますが、その原動力となったのは、数多くの名工の存在であり、さらには彼らの手と技による品質とデザインの優秀性であることはいうまでもありません。

京指物(京の木工芸) [京都府の伝統的工芸品等]

京の木工芸は、様々な特殊性のある技法や道具を用いてつくる、指物、彫物、挽物(轆轤(ろくろ)細工)、曲物、箍物(たがもの)、刳物(くりもの)を包括しています。それぞれ独自の技法を駆使し、総合的に組み合わせて、調度や茶道具、香道具類ができあがります。

古代、日本は豊かな森林資源に恵まれ、縄文・弥生時代の遺跡からは、加工された木製品が多く出土しています。また、中国や朝鮮から、石や金属の文化とともに渡来した御物や仏像の多くを、木を素材として模倣し、独自の木工芸として昇華させてきました。奈良時代には、その技術は、工芸品の粋といえる正倉院の御物に集約され、都が京に移った平安時代は、公家(作物所)や寺社に守り育てられ、技法、意匠が花開いていきます。そして、鎌倉・室町時代には武家文化、江戸時代には豊かな町人文化や簡素な美を求めた茶道文化が、京の木工芸を育てるに十分な時と場所を与えてきました。

現在でも京都では脈々と受け継がれている文化・歴史的風土、文物の蓄積を糧として、多様な技法を使って表情豊かな作品が制作されています。

京焼・清水焼 [京都府の伝統的工芸品等]

京都におけるやきものの歴史は千二百有余年前に遡ります。奈良時代に、僧行基が清閑寺(東山区清閑寺)に窯を築いて土器を製造しており、その遺跡が茶碗坂といわれています。

京焼・清水焼の歴史に欠かせぬ人物に、野々村仁清(にんせい)がいます。丹波の陶工でしたが、入洛後、茶器を作り、錦手の秘法を会得します。それは華麗で優雅な色絵陶器であり、京焼・清水焼のひとつの頂点ともいえるものでした。また、仁清から直接手ほどきを受けた尾形乾山は、装飾性に富んだ絵模様で、独自の意匠性を加えました。

江戸の末期になると、大雅(たいが)、玉堂(ぎょくどう)など、中国の文人画の流れをくむ南画家が数多く出たことが影響し、京焼・清水焼は色絵陶器と奥田頴川(えいせん)によって開発された磁器に中国風土を加味した二つの世界が生まれます。その後、青木木米(もくべい)や仁阿弥道八(どうはち)、永楽保全(えいらくほぜん)などの名工が続き、伝統的な京焼・清水焼の全盛をもたらし、そのまま今日の薫り高い作品に受け継がれています。

成形については手工法、ロクロ法、石膏型による型押し法、流し込み法など、製品によってそれぞれの技法があります。焼成は、従来、京式登り窯によっていましたが、最近では電気釜やガス釜に移行しています。現在、東山地区のみならず山科や宇治市の炭山地区にもその技術が広がり、新しい京焼・清水焼の創造に意欲を燃やしています。

京扇子・京うちわ [京都府の伝統的工芸品等]

扇子は、平安時代の初めに木簡から派生、京都において創作されたものと考えられます。平安中期には、冬扇、夏扇(桧扇(ひおうぎ)・蝙蝠(かわほり))があり、さらに藤原時代には蘇芳染(すおうぞめ)(天皇・皇太子の桧扇)、杉横目(宿徳以上の老人の桧扇)、そして女子の桧扇(泥絵の扇)も記録に残っています。

室町時代に入ると、唐扇の影響で扇骨が地紙の表と裏の間に入る紙扇が作られるようになります。また、室町時代以降、香道、茶道、舞踊などの発展に伴い、それぞれに用いられる扇子も作られるようになりました。

政治、文化の中心地であった京都では、産業として隆盛を見、江戸をはじめとする諸国へ卸されるようになる一方、海外への輸出も大変古くから行われました。

また、京うちわですが、日本のうちわには中国月扇、朝鮮団扇、南方系葉扇の3系統がある中で、京うちわは、地紙の内部に多数の竹骨を持つ朝鮮団扇の流れをくんでいると考えられます。京うちわの基本的な特徴は挿柄ですが、この挿柄のうちわは、江戸時代の宮廷御用の土佐派、狩野派の絵師による描画の施された御所うちわが始まりで、以後、一般にまで広がっていったものと考えられます。

京石工芸品 [京都府の伝統的工芸品等]

平安建都の際、大内裏の造営のため石の造作が大きく求められました。このことは軟石を主としたこの時代に、礎石などの一部に花崗石が使用され、造作されたあとがその遺構に見られることからも明らかです。

その後、仏教興隆に伴って、古代から宗教的なイメージを持つ石という素材が重用されたこと、工具の進歩、ことに工具の製作や手入れなどの鍛造技術を得たことによって石工技術が発達し、石仏、石塔、石燈籠など、京石工の手による優れた石工芸品が製作されました。

鎌倉時代、政治の中心は鎌倉に移りましたが、文化の中心はやはり京都にありました。当時の石造遺品からは、京都の高い文化と京石工の卓越した技術、技法、「美」に対する鋭い感覚を知ることができます。

また、京都石工技術の向上に大きな影響を与えたものに茶道文化があります。茶人は古くから遺る石工芸品に「わび」「静寂」をくみとり、優れた遺品を珍重しましたが、遺品は数が限られているため、本歌を写した模作を茶庭に設置しました。特に、石燈籠、水鉢、層塔などは茶道との深いつながりの中で、厳しい「美」への要求に応えるとともに技法の特殊な発達を見たのです。

そして近世、ますます増大する寺社の造営と庶民文化の台頭によって需要が増加し、京石工が確固たる地位を築いていったことが在銘遺品の数々からうかがえます。

京人形 [京都府の伝統的工芸品等]

日本は人形の宝庫といわれていますが、それはまた京都を中心として展開してきたともいえます。

平安時代、貴族の子らの間で、「ひいな人形」を使ってのままごと遊びのようなものが流行しました。これが京人形の始まりともいえるでしょう。

江戸時代になると、すべてが江戸中心、将軍中心に変わっていきますが、人形については、変わらず京都を中心に展開して、江戸時代初期には人形職人も数多く輩出され、節句前になると、これらの人形師たちの店先には、さまざまな人形が並べられました。

江戸時代末期になると、御所人形が生まれますが、これは当時の宮廷から諸大名への贈答用としても重宝されました。

京人形は、頭、髪付、手足、小道具、着付など、その製作工程が細かく分業化されており、それぞれが熟練した職人たちの手仕事によって行われています。この高度に専門化した製作システムにより、京人形ならではの特色と個性が育まれています。そして、年月を経てた京人形が独特の趣を醸し出すことができるのは、この専門家の技術の錬磨と妥協を許さない厳しい製作姿勢によるところが大きいといえます。

現在、京人形と呼ばれるものには、雛人形をはじめ、五月人形、浮世人形、風俗人形、御所人形、市松人形などがあります。

京表具 [京都府の伝統的工芸品等]

表装とも呼ばれる表具は、古くから芸術や宗教が盛んであった京都を中心として発達してきました。表装は、裂地や和紙を材料として、加湿と乾燥の繰り返しのうちに、複雑な何段階もの工程を経て完成されます。

表装の歴史は古く、仏教の伝来とともに中国より伝わり、経巻に施されたのがその始まりでした。掛軸などは、仏教の広まりとともに仏画像の礼拝用として始められたものが原型とされています。

今日、表装と呼ばれるものには、襖、壁装など日常生活に密着した実用的な分野と、掛軸、額装、屏風、画帖、巻物など美術工芸的なもの、さらには高度な技術と豊かな経験が要求される古美術の修復まで含まれます。

表装は、それ自体が独立したものではなく、常に書画を鑑賞するうえでの手だてとして成り立つもので、さらには書画を保存するという役割をも担っています。目立たず、控え目でありながら、書画と一体の品格のある調和を作り出し、なおかつ表装そのものの品位も損なわないよう工夫することが要求されるのです。

千年の都、京都の美的環境と、京都人の洗練された美意識に支えられ、また湿度の高い盆地の風土に適して発展してきた表装は、床の間の発生や、室町末期から桃山、江戸時代にかけての茶道の興隆などと深く関わりあいながら発展し、磨かれていったのです。

京房ひも・撚ひも [京都府の伝統的工芸品等]

京房ひも・撚ひもは、平安時代に貴族たちが室内調度品や身の回りの小物などに華麗な房飾りを施し、雅やかな装身具として、鎌倉時代には、武士たちの武具甲冑(ぶぐかっちゅう)や刀の下げ緒に用いられました。また、茶道具の飾りとして茶道にも取り入れられるようになりました。江戸時代には、各宗本山が集まる京都で、仏具のくみひもや飾り房の専門店が数多く誕生しました。

こうしてその技術とデザインが発展し、やがて町人文化の隆盛とともに、一般庶民たちの日用品としても愛用されるようになって、現在に至ります。現代でも神具、仏具、茶道、伝統芸能をはじめ日常生活における服飾や装飾などの際に、より華やかに、また潤いあるものにするために幅広く利用され親しまれています。

丹後藤布 [京都府の伝統的工芸品等]

藤布とは、山に自生する藤蔓の皮をはいで糸を作り織り上げた布の事を指します。藤布の歴史は長く、万葉集の中にも「大君の塩焼く海人の藤衣」と藤布が使われたことが詠まれています。また、元弘2年(1332年)幕府によって隠岐の島に流された後醍醐天皇が藤の苗木を隠岐に持参されたという逸話もあり、藤を愛された天皇が藤布を身にまとい都に思いをはせられたとも語られています。日本古代の織物である藤布は日本三景の一つとして知られる天橋立を擁する丹後でその技術を伝えています。

京陶人形 [京都府の伝統的工芸品等]

京陶人形は京都で作られている素焼人形です。素焼人形は、粘土で形をこしらえ、乾燥させ、摂氏850度くらいの低火度で焼成し、顔料で彩色して仕上げたもので、全体が土という素材でありながら、やわらかなぬくもりを感じさせる深い味わいがあります。

太古の昔から、人は木や石や土など身近な材料で自分たちの似姿を作ってきました。古墳時代には土で見事な土偶や埴輪などを生み出しています。

やがて、型を使って多量に作られる時代になると、安価で気どりのない庶民の愛玩用の人形として人々に親しまれてきました。京陶人形はこのような伝統と技術を受け継ぎながら、その時々の時代の流れ、風俗や好みを反映した形を追求して今日に至ったものです。

かつては他の素材の人形とともに、京人形という総称の中に含まれていましたが、昭和32年に「京陶人形」と命名され、以後、独自の道を歩んでいます。

多品種、少量生産が主体なので、子供たちのすこやかな成長を願う雛人形や五月の節句もの、歴史をたどる時代風俗、特に王朝文化を題材にした優雅な時代もの、御所人形をはじめ幼児の愛らしさで表現する童子もの、歳守の干支などの動物もの、素材そのものを活かした素朴なもの、抽象的でモダンなものなど、作られている形は多様です。また独自の技法で作られている土鈴は、音色・形・彩色ともに豊かで人気を集めています。

京都の金属工芸品 [京都府の伝統的工芸品等]

金属製品は、弥生時代前期にはすでに使われていました。奈良時代には、仏教の隆盛とともに寺院や仏像が相次いで造られますが、それに伴って金工技術も著しく発達、さらに平安時代になると、金工師たちも奈良から京都に移り住み、数多くの金属製品がここで作られるようになりました。次いで室町時代になると、それまでの鋳銅とは異質の色合いをもつ花瓶、香炉や燭台などが中国から伝わり、わが国の金工に影響を及ぼすこととなりました。桃山時代、京都の釜座には鋳物師数十家が軒を連ね、宮中の用度品をはじめ鍋や釜など日常用品も作っていました。また、この時代には武器や甲冑、刀剣などの装飾がめざましく発達し、その技術は江戸時代へと伝承されていきました。

ところで、金属工芸といってもその範囲はずいぶん広く種類も多いのですが、技法的には、大きく鋳金、鍛金(たんきん)、彫金(ちょうきん)、錺金、布目象嵌(ぬのめぞうがん)、七宝(しっぽう)に分けられます。

鋳金はいものともよばれ、溶解した金属を鋳型に流し込んで造形する技法で、主として仏像や梵鐘、茶道具、美術工芸品などに用いられます。うちものとも呼ばれる鍛金は、金属を自在に延ばし、しぼり、立体的に造形します。鋳金に比べて軽く仕上がり、主として器などを製作します。彫金は別名ほりものといわれ、金属板に模様を彫ったり、浮彫りしたりする技法です。布目象嵌は、鉄等の堅い金属に金や銀、赤銅などを打ち込んで模様を表現する技法です。さらに七宝は、金属の素地にガラス質の釉薬を焼きつけて装飾する技法で、釉薬の種類によりさまざまな発色をするのが特徴です。

このような金属工芸の用途は、花器、食器、装身具、家具、装飾品、建築金具、茶道具、文房具などと幅広く、また素材も、金、銀、銅、鉄、赤銅、錫などと多岐にわたっています。

京象嵌 [京都府の伝統的工芸品等]

金属の生地に色の異なった金属をはめ込み、それぞれの色彩や隆起などで模様を表現するのが象嵌です。

象嵌は世界のあちこちで古くから行われ、主として武器や宗教的なものに用いられていました。わが国には奈良時代に大陸から伝わり、正倉院にも刀身に金で象嵌したものが遺され、同じく奈良の薬師寺本尊の掌や仏足にも輪宝文などが象嵌されています。鎌倉時代には、刀の鍔(つば)などに象嵌が施されるようになりました。

江戸時代の初めには、西陣に住む埋忠(うめただ)と正阿弥(しょうあみ)の二家の仕事ぶりが目立ち、両家の弟子たちが各地の大名に仕えるようになり、それにつれて京都の技術は全国に広まっていくようになりました。

このように武士階級や貴族など、一部の階層を中心として行われてきた象嵌は、やがて江戸時代末期までには、火鉢やキセルなど一般にも広く用いられるようになりますが、明治の廃刀令で一時途絶えかけました。しかし、その発展を海外に求めた四方安之助や並河靖之らの努力が実を結び、欧米で日本の象嵌技術が高く評価され、以後輸出品として脚光を浴びるようになりました。

現在、京都で製作される象嵌製品には、ペンダント、ネクタイピンなどの装身具、額などを中心とする室内装飾品があります。

京刃物 [京都府の伝統的工芸品等]

日本に刃物らしきものが伝わったのは4世紀といわれていますが、それは刃物というよりも刀剣といった方が適しているでしょう。

やがて平安時代になると、刃物の世界においても三条宗近を筆頭に、吉家、五条兼永、国永、そして鎌倉時代には千代鶴国安など、優れた刀工が出て、その技術を全国に伝えました。

時代の推移とともに、人々の日常生活に欠くことのできない刃物類も数多く造られるようになり、やがて、刀鍛冶、農鍛冶、刃物鍛冶と大きく三分され、さらに需要に応じて細かく専門化されていきます。

京都はもともと都であったという地の利と、出雲地方の砂鉄や玉鋼、伏見稲荷周辺の土、鳴滝の砥石、丹波地方の松炭、さらには良質の水などが容易に入手できるという刃物造りに適した条件を備えていました。それゆえに、室町時代中期頃より鍛冶の町として栄え、以後明治の初め頃まで、刃物の一大産地として全国に知られました。

今日、全国の刃物産地の技術は、その大半が京都より伝わったといわれています。また、京都の伝統産業である西陣織、扇子、竹工芸、木工芸、造園、建築、料理、畳、瓦そして華道などあらゆる分野において、刃物はかげの力としてその発展を支え、今日に至っています。

現在京刃物は、包丁、鋏、鋸、ナタ、鎌、竹ノ子堀り、彫刻刀など、日常で使われるものから専門職の道具まで、多種多様に製作されており、その質の高さと使い易さには定評があります。

京の神祇装束調度品 [京都府の伝統的工芸品等]

古来より、神具は祭具や祭器具とも呼ばれ、神殿や三方などの木具類、鏡類、御簾、几帳、旗、幕、雅楽器などがあり、装束として、衣冠、狩衣、あるいは、その付属品として、冠、烏帽子などがあります。また、祭祀や祭礼に用いる祭具には、多くの種類があり、何れもが少量生産、大部分が手作りです。伊勢大神宮の御遷宮調度師として名高い坂本家が世に出るのは江戸中期のことですが、もちろんそれ以前から、京都の神具は全国に先んじて発達していました。現代においても、式年遷宮の神宝装束の多くは京都の業界で製作されています。

京都は明治維新まで皇室の所在地であり、各種の式典、行事も多く、古くから神社の神事も盛んであったために、それらの調度や衣装(装束)などを作る専門家を多数必要としました。

装束については、神職(神主)は狩衣、浄衣を通常着用しますが、祭祀や祭礼では束帯、衣冠を着けるのがならわしです。これらは、室町時代以前より西陣で織り続けられてきましたが、このうち、山科家は宮中の装束を、そして高倉家は将軍家や諸大名の装束を、それぞれ西陣の御寮織物司に命じて作らせていました。

また、これは神具においても同様で、祭礼に用いる神輿、鉾、錦旗などの飾り物は、そのほとんどが西陣の錦綾や金襴などが使われています。

京銘竹 [京都府の伝統的工芸品等]

竹は原始時代にはすでに用いられていましたが、滑沢(かったく)で強く、その上弾力性にもすぐれて、また乾湿にも歪みがこない特徴を思えば当然のことではあります。

正倉院には、竹を用いた楽器をはじめ、箱や華龍その他多数の遺品が保存されていますが、平安時代になると、建材としても随所に使われるようになります。また同時に、矢や鞭などの武器、農耕・漁猟の道具など、日常生活の細かな部分まで広がりました。

鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて、茶道具を製作するために欠かせぬ素材として、竹はますます重宝されるようになりました。

江戸時代初期には、竹細工、柄杓師が活躍し、将軍家の御用をつとめるほどになっています。中期になると、大竹を輪切りにした花器や柄杓などの道具を作る職人が京極の二条や四条周辺に多く住みました。

京都は竹の生産地としての風土条件に大変恵まれています。山に囲まれた盆地は寒暖の差が激しく、土壌も肥沃です。このような風土と文化都市としての恵まれた環境のもと、京都はまた竹の都としても知られてきました。

京都の竹工芸品の特色は、竹そのものの持ち味をそのまま生かしているところにあります。これは、それだけ京都の竹が素材としてすぐれているということでしょう。中でも、嵯峨野の竹は殊に名高いものです。

京の色紙短冊和本帖 [京都府の伝統的工芸品等]

色紙とは、もともと染紙のことを指します。この名は、屏風や障子などに詩歌その他を書き入れる場所(余地)を取ることを色紙型と呼んだことに由来します。 平安時代、歌集や詩書の中には染紙を用いて装飾性をもたせたものが数多くありました。このなかには、金銀の泥絵(かきえ)や切箔(きりはく)さらには野毛(のげ)などを蒔(ま)いた華麗なものも多くありましたが、これが現在のような色紙や短冊として完成するのは鎌倉時代からであると考えられています。それまでは懐紙が用いられていたようで、平安中期の作として有名な藤原佐理の「詩懐紙(しかいし)」はその好例です。

短冊は、短籍、短策、短尺とも書き表され、懐紙や色紙よりは小さく、略式化されたものが短冊とされていました。この短冊の寸法は頓阿や二条為世が定めたとされています。短冊の遺品が多くみられるようになるのは南北朝の頃からですが、室町時代の初期にはかなり盛んになっていたようで、それは後小松天皇御製料紙や豊公醍醐の花見の短冊などでもわかるとおり、狩野派や土佐派の流れを汲むすばらしい金銀泥絵でした。

色紙および短冊は、一般に経師により作られていましたが、それには朝廷用の一切の紙に関する仕事に携わっていたもの、もっぱら寺院を得意先にしたものなどがあり、さらには絵草紙屋でも一般向けに色紙や短冊類を販売していました。

元来、宮廷や寺院などで多用された色紙・短冊ですので、京都にその発展の中心があったのは当然といえますが、なかでも金泥(きんでい)や金銀箔により加工する職人は、ほとんどが京都から世に出ました。

和本帖は俳句や和歌、語録や大切な記録、または絵画や旅日記等を留めるために生まれたもので、その形状は糸綴り本、平紐綴り本、芳名録、折りたたみ式画帖や集印帖、折手本、巻物等に分かれています。

北山丸太[京都府の伝統的工芸品等]

一般に北山丸太といわれるものには、北山タルキ、北山磨丸太、面皮丸太、人造絞丸太、天然出絞丸太などがあり、その特色は数多く、とりわけ材質が緻密で木肌が滑らかで光沢があります。
また、木肌の色が美しく、変色もなく、亀裂が入らないとされています。
この白い木肌を作るには、伐採した後すぐに皮をはぎ、真夏の太陽に一週間ほど晒し、その後水につけ、砂で丁寧に磨きます。

また、北山丸太の高度な「枝うち」という技法により均一な太さに仕上げられています。
これは、植林後10年を経過した北山杉の枝を3~4年に一度、下の枝から順次切り落とすことにより、幹の成長を止め、切り口と末口の太さの差を少なくする技術で、一本一本心を込めて生産される北山丸太の特徴となっています。

このような優れた特色は、床柱やタルキなど、それぞれの用途に応じてさし木苗の養成時から、15~40年後の伐採に至るまで、一貫した育林技術が確立されていることによるところが大きいのです。
今日の北山林業の繁栄は、こうした先覚者のたゆまぬ情熱や品種改良への努力、また、耕地が少ないという立地条件から生まれた生活の知恵の結実です。

京版画 [京都府の伝統的工芸品等]

木版印刷は、飛鳥時代に百済(朝鮮)から仏教が伝えられた時(6世紀半ば)、一緒に伝来した経文印刷用の文字木版に端を発します。その時、添えられていた仏像の簡単な輪郭摺り用の版木がヒントになって、基礎となる木版画が生まれました。京版画は、その時代より受け継がれた、京都での木版画です。木版画には宗教・実用・美術等、様々な種類があり、多くの場所に使用されてきました。そして、後世欧米人を仰天させ、「世界芸術の殿堂」入りを果たした浮世絵木版画へと発展していきました。

出版物の中では、高名な本阿弥光悦の「嵯峨本」等が有り、デザイン本としても京版画は素晴らしい作品を残してきました。京版画の得意とする胡粉摺・雲母摺等の技術は、京版画以外の伝統工芸・芸術とともに、京都の風土に合わせ発展してきた技術です。その技術を持って最近では、岩絵具を使った木版画も作成されています。

伝統木版画では、絵師・彫師・摺師の共同作業によって制作されています。一つの道を一人が極め、三つの道が結ばれる事によって、素晴らしい作品が出来上がります。

丹後ちりめん [京都府の伝統的工芸品等]

日本三景のひとつとして知られる「天橋立」を擁する京都府の丹後半島一帯は、丹後ちりめんを中心に先染織物や丹後藤布など様々な織物の一大産地です。

丹後地方は大和文化と出雲文化の交流地点で早くから独自の文化が開けていました。約1200年前の天平年間には聖武天皇へ「あしぎぬ」という絹織物が献上され、現在も奈良正倉院に保存されています。

以来、その気候や風土が生産に適していたために、絹織物は長い歴史の中でこの地方の特産品として培われ、江戸時代中期以降の「丹後ちりめん」の開発へとつながっていくのです。

丹後ちりめんが今のように独特のシボをもち、絹の風合いと感触を最高に発揮する織物になったのは280年ほど前の享保5年(1720年)のことです。丹後峰山町に住む絹屋佐平治(後に森田治郎兵衛と改名)が京都西陣の機屋に奉公人として入り、織物技法・糸口の仕掛け・シボの出し方などを研究し、この秘法を丹後に持ち帰り、ちりめんの製織を始め、今日の丹後ちりめんのいしずえを築きました。

絹織物の産地であった丹後だけに、ちりめん技法の普及は早く、峰山藩の積極的な保護政策などもあって、多様なちりめんが丹後地方一帯で生産され、一大産地を形成し今日に至っています。

近年では、絹の風合いを損ねることなく水に濡れても縮みにくく、しかも摩擦に強い「ハイパーシルク」加工技術が開発され、洋装服地など新しい商品づくりも進められています。

また、今までは着物の素材として白生地のまま売られることの多かった丹後ちりめんですが、最近では染めたうえで、小物や、インテリア用品を作るなど、デザイン力の高まりと共に色々な完成品が作られるようになりました。

黒谷和紙 [京都府の伝統的工芸品等]

紙は仏教とともに日本に伝わり、その技術は全国に広まりました。都が奈良から京都へ移るとともに、京都には官制の紙漉き場が設けられました。

黒谷は、現在京都に残る数少ない紙郷ですが、平家の落武者が子孫へ残す仕事として細々と始めたものと伝えられています。それが江戸時代には数々の奨励策もとられて大きく発展していきました。京都の中心地が近いということもあって、京呉服に関連した値札、渋紙、襖紙などで知られるようになり、他にも傘紙や障子紙なども数多く生産していました。その後、土佐の紙漉きの技術も加え、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの大判紙や厚紙などもこなせるようになり多様化しました。

明治以後、とりわけ第二次大戦後、洋紙の影響により和紙の需要は少なくなり、さらには技術者不足もあって、各産地では手漉きから機械漉きへの転換が進みましたが、黒谷では伝統的な手漉きの技法を守り続け、今では全国でも数少ない純粋手漉き和紙産地のひとつとして、貴重な存在となっています。その用途も、産地と研究者の努力により、一段とバラエティー豊かなものとなり、さらには紙衣や紙布の伝統を生かして座布団や絨毯まで製作されています。

丹波・丹後地方は、古くから良質の楮を産することで知られましたが、それは黒谷川の清流とも相まって、紙作りには大変適していました。自然を生かし、自然のままに作られ始めた黒谷の和紙は、機械化が進む世の中で、変わらず昔の姿を残しています。

京たたみ[京都府の伝統工芸品等]

畳の歴史は古く、奈良時代の古事記にしばしば登場しており、1300年の歴史を有しています。中国から伝来した技術が多い中、畳の製造は日本固有の伝統文化であるといえます。

平安時代には貴族等が権力を象徴するものとして使用し、京都御所内の紫宸殿や清涼殿、御常御殿ではその面影が今に伝えられています。

やがて茶道の発展に伴い、幾多の変遷を経て、今日の「京たたみ」が作られ、一般の民衆にも広まっていきました。
特に政治・文化の中心地であった京都には、数多くの神社仏閣が存在していたことから、畳製作の技術・技能は古くから全国有数の技術をもっています。

現在製造されている畳は、家庭用と茶室用の「一般畳」と神社仏閣で使用される「有職畳」の2種類に大別され、高度な技術を必要とする「厚畳」、「拝敷」といった有職畳のほとんどは京都で生産されています。

全国的に機械による製造が進む中で、京都では、今も伝統的な技術が受け継がれ、手縫いによる高級畳の生産が多く行われています。

こうして、職人の手縫いにより、わらの1本1本に真心をこめて形作られた藁床は、常々十分な手入れをすれば、100年以上は持つともいわれています。

京印章[京都府の伝統的工芸品等]

中国で発達した印章がわが国に入ってきたのは聖徳太子の時代といわれています。国の制度となったのは大宝元年(701)の大宝律令制定からで、平安京が開かれて都となった京都では天皇御璽(ぎょじ)や当時の役所の官印などが作られていました。また現在も保存されている社寺印のなかにも、当時作られたものがみられます。
やがて江戸時代になると庶民にまで印章が普及し、需要が急増して印判師が誕生しました。そして、わが国最初の印判師ともいえる人物が三条室町あたりに住んでいたことから、京都は印章の中心地として発展してきました。
京都の印章の特色は、中国の漢時代の印章最盛期の漢印といわれる銅印の作風を受け継いでおり、いわゆる漢印篆(かんいんてん)を主体とした重厚で雅味豊かな印章が多く作られています。現在、宮内庁侍従職に保管され、国家の文書に使用されている天皇御璽と大日本御璽は、明治7年に京都中京区の住人、安部井櫟堂(あべいれきどう)が印司に任ぜられて、1年がかりで制作したものです。漢印篆の堂々とした文字が彫刻され、純金製で重量は4.5キログラムにも及びます。また、御璽、国璽の前の制作者も京都の中村水竹です。

印章の彫刻は現在、厚生労働省の技能検定に合格した技能士がこれにたずさわり、京都においては60余名の技能士が活躍しています。そして柘植(つげ)、水牛、象牙などを素材に伝統的な京印章を制作していますが、一方ではさらに自由な発想にたち、しかも文字の持つ意味をこわさない現代感覚の印章も数多く生み出されています。

京七宝 京七宝協同組合
京竹工芸 京都竹工芸品協同組合

丹後ちりめん工芸品[京都府の伝統的工芸品等]

京もの技術活用品である「丹後ちりめん工芸品」とは、京もの指定工芸品である「丹後ちりめん」を素材として、染色・縫製等の加工を行い、新たに生み出された製品のことです。
「丹後ちりめん工芸品」は和装用小物、洋装用小物、衣料品、寝装品、インテリア用品、生活用雑貨と多数の用途のものが制作されています。主なものとして、風呂敷、帯揚げ、スカーフなどがあります。

京都府 きょうとふ
京都市 きょうとし
北区 きたく
上京区 かみぎょうく
左京区 さきょうく
中京区 なかぎょうく
東山区 ひがしやまく
下京区 しもぎょうく
南区 みなみく
右京区 うきょうく
伏見区 ふしみく
山科区 やましなく
西京区 にしきょうく
福知山市 ふくちやまし
舞鶴市 まいづるし
綾部市 あやべし
宇治市 うじし
宮津市 みやづし
亀岡市 かめおかし
城陽市 じょうようし
向日市 むこうし
長岡京市 ながおかきょうし
八幡市 やわたし
京田辺市 きょうたなべし
京丹後市 きょうたんごし
南丹市 なんたんし
木津川市 きづがわし
乙訓郡 おとくにぐん
大山崎町 おおやまざきちょう
久世郡 くせぐん
久御山町 くみやまちょう
綴喜郡 つづきぐん
井手町 いでちょう
宇治田原町 うじたわらちょう
相楽郡 そうらくぐん
笠置町 かさぎちょう
和束町 わづかちょう
精華町 せいかちょう
南山城村 みなみやましろむら
船井郡 ふないぐん
京丹波町 きょうたんばちょう
与謝郡 よさぐん
伊根町 いねちょう
与謝野町 よさのちょう

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 – 2001年6月5日)は、昭和期の洋画家である。裸婦像の名手として知られる。
兵庫県出石郡出石町下谷(現在の豊岡市)生まれ。日展および白日会を中心に活躍した。元愛知学院大学教授。

略歴
1911年 – 兵庫県出石町下谷に生まれる
1928年 – 岡田三郎助門下生となり本郷研究所入所
1935年 – 東京美術学校油絵科卒業
1936年 – 文部省美術展で「磯人」が選奨(特選)受賞
1947年 – 日展で「I夫人像」が特選受賞
1948年 – 日展で「室内」が特選受賞
1953年 – 伊藤絵画研究所創設
1956年 – 日展審査員
1962年 – 渡欧し、フランスとオランダで制作
1977年 – 「曙光」が日本芸術院恩賜賞[1]および日展内閣総理大臣賞受賞
1984年 – 日本芸術院会員
1989年 – 兵庫県文化賞を受賞し兵庫県公館に作品が展示保存される。出石町立伊藤美術館開館
1996年 – 文化勲章受章
1997年 – 「伊藤清永賞子ども絵画展」創設
2001年 – 長野県軽井沢町の病院で死去

岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) – 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」

略歴
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。
画風
絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿や梁楷風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、しばしば浮世絵の源流といわれる。
代表作としては川越市喜多院の「三十六歌仙」の額絵、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。歌舞伎や文楽の人気演目である「傾城反魂香」の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。

興宗寺にある岩佐又兵衛の墓
墓所は福井県福井市の興宗寺。
代表作(工房作を含む)
京都在住時代[編集]
「洛中洛外図屏風」(舟木本)(重要文化財)六曲一双 紙本金地着色 東京国立博物館 1614-15年
元は滋賀の舟木家に伝来したため、他の洛中洛外図と区別する必要もあって舟木本とも呼ばれる。「又兵衛前派」の作との意見もあったが、今日では左隻は弟子が担当したと見られるものの、又兵衛自身が制作に関与したとの説が有力。
福井在住時代
「豊国祭礼図屏風」(重要文化財) 徳川美術館
豊臣秀吉の七回忌に当たる、慶長9年(1604年)8月12日から18日にかけて盛大に行われた臨時大祭の光景を描いた作品。舟木本と比べ、人体表現に不自然な写し崩れや歪みが見られる事から、舟木本の後に制作されたと考えられる。
右隻六扇目中央左、上半身裸の男が持つ朱鞘には「いきすぎたりや、廿三、八まん、ひけはとるまい」と記されている。これは慶長17年(1612年)江戸で処刑されたかぶき者の頭領大鳥逸兵衛(一兵衛)の鞘の銘「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」を模したと言われ、戦乱が終わろうとしている時代に生まれた当時の若者の気持ちを表す資料としてしばしば言及される。
この屏風の発注者は、装飾の特徴や伝来経緯から松平忠直だと想定できる。徳川一門の忠直が、豊臣氏の祭礼を描かせるのは矛盾しているように思われるが、忠直は幕府に反抗的で後に配流された人物でもある。忠義は、霊廟に祀られた秀吉に幕府の創設者徳川家康を仮託し、秀吉の遺言に背いて豊臣家を根絶やしにし豊国神社の破却を命じておきながら、自分の死後は東照大権現として祀らせるという家康が行った矛盾した二番煎じを、徹底したパロディとして表現するのが主眼だったとする意見がある。
旧金谷屏風 元和末から寛永初年頃
元々、福井の豪商金谷家に伝わっていた紙本・六曲一双の押絵貼屏風(屏風の一扇一扇に一枚ずつ絵を貼ったもの)。「官女観菊図」付属の伝来書によれば、松平直政が金谷家当主に下賜したものだという。現在は一扇ごと軸装され、諸家に分蔵されている。左右の端に龍虎、その間に源氏物語や伊勢物語や、中国の故事人物を隣合わせに描き並べた構成は他に類を見ない。手法を見ても龍虎のような水墨画と、官女観菊図のような土佐派的白描画が、同一筆者による屏風絵の中に、いずれも本格的なものとして共存しているのは異例である。また、その水墨画も、海北派や長谷川派、雲谷派の画法を取り入れたあとが見られる。下に右隻一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「虎図」 墨画 東京国立博物館
「源氏物語・花の宴(朧月夜)図」 着色 所在不明
「源氏物語・野々宮図」(重要美術品) 淡彩 出光美術館
「龐居士図」(重要美術品) 着色 福井県立美術館
「老子出関図」 淡彩 東京国立博物館
「伊勢物語・烏の子図」(重要美術品) 着色 東京国立博物館
「伊勢物語・梓弓図」(重要文化財) 着色 文化庁
「弄玉仙図」(重要文化財) 着色 摘水軒記念文化振興財団寺島文化会館蔵
「羅浮仙図」(重要美術品) 着色 個人蔵
「唐人抓耳図」 着色 所在不明
「官女観菊図」(重要文化財) 淡彩 山種美術館
「雲龍図」 墨画 東京国立博物館
池田屏風(旧樽谷屏風)
旧岡山藩池田公爵家に伝わった着色・八曲一隻の腰屏風押貼絵を分割したもの。旧称「樽谷屏風」の名前の由来は不明。大正8年の売り立てで分割された。下に一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「貴人の雪見」 所在不明
「王昭君」 サンフランシスコ・アジア美術館(ブランデージコレクション)
「寂光院」(重要文化財) MOA美術館
「伊勢物語・花の宴」 所在不明
「伊勢物語・梓弓」 所在不明
「伊勢物語・五十三段」 出光美術館
「僧をたずねる武人」 所在不明
「職人尽・傘張りと虚無僧」(重要美術品) 根津美術館
「三十六歌仙絵」 紙本著色 36面 福岡市美術館
落款・印章は無いが、極端に誇張・変形された身体表現を用いて一人一人の個性が巧みに描き分けられており、福井時代初期の又兵衛作だと推定される。図上に書かれた和歌が全て削り取られているが、その理由は不明。上野精一旧蔵品。
「人麿・貫之像」(重要文化財) MOA美術館
「和漢故事説話図」 福井県立美術館
「武者絵」 (重要美術品) 紙本着色 ニューオータニ美術館
「花見遊楽図屏風」 四曲一隻 個人蔵
古浄瑠璃絵巻群[編集]
「山中常盤物語絵巻」(重要文化財) MOA美術館 12巻
「浄瑠璃物語絵巻」(重要文化財) MOA美術館 12巻
「小栗判官絵巻」 宮内庁三の丸尚蔵館 紙本著色 15巻 総長約324メートル
「堀江物語絵巻」 MOA美術館に12巻で完結。他に香雪美術館3巻、京都国立博物館1巻、長国寺1巻、個人像1巻で、これらは元はMOA本を元に更に長大にした全24巻の絵巻の一部と見られる。
これらの絵巻には、古浄瑠璃、とりわけ室町時代の御伽草子を元とした浄瑠璃を詞書とする共通点があり、「古浄瑠璃絵巻群」と呼ばれる。優れた作品であると同時に、その詞書は物語の古様を伝えるものとして、文学上でも貴重である。特に観る者を圧倒する極彩色の画面や、群像表現に優れる。画風の特徴は一貫しているが、人物の大きさや描法に様々な違いが見られ、複数の画工が関わったことがわかる。しかし、主要な場面を中心に見受けられる巧みな構図や、卓越した画技は、又兵衛自身が指導して仕上げられたことを示している。
江戸在住時代
「三十六歌仙図額」(重要文化財) 仙波東照宮
明治19年(1886年)同社の宮司がこの扁額裏に「寛永十七年六月七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」という銘があるのを発見した。これにより「勝以」と又兵衛が同一人物であるのが確かとなり、それまで謎に包まれていた又兵衛の伝記が明らかになる切っ掛けとなった。
「三十六歌仙図額」 宮若市・若宮八幡宮所蔵 福岡市美術館寄託 紙本著色 36面 宮若市指定文化財
中古三十六歌仙を全て絵画化した珍しい作品。落ち着いて奇を衒うような表現は影を潜めていることから、60歳代の晩年の作品だと推定される。なぜ若宮八幡社宮に伝来したかは不明だが、本作制作時期に近い頃に若美八幡宮を再建する任に当たった福岡藩黒田家家老・黒田美作が関与した可能性がある。
「四季耕作図屏風」 (重要美術品) 六曲一双 紙本墨画淡彩 出光美術館
「伝岩佐又兵衛自画像」 (重要文化財) MOA美術館

大松 伸洋(おおまつ のぶひろ、1979年 – )は、日本の芸術家(画家・現代美術家・原色アーティスト・平和活動家)。原色で抽象画を描く。一般的には「ポップ・アート」のジャンルに入る。淡路美術協会会員。大学美術教育学会会員。全国造形教育連盟加盟。現在、福岡こども短期大学専任講師。

作品は原色のみで描き、その集合体で表現される。原色の中でもカラフルな色を使いインパクトのある作品が目立つ。『芸術と平和、愛、自然、自由』をテーマに制作、研究を行い、自身の原色的表現の追求のため、60年代から現在のヒッピーの動向に注目し、ヒッピーの考えや自然主義の考えを哲学的にそれらを解釈し制作的研究を行い、それと同時に美術を通じた平和活動も行っている。横浜美術大学教育研究紀要論文編(2013年3月発行:学校法人トキワ松学園横浜美術大学)では、「現代の対抗文化の源流 -ヒッピー文化の継承」の論文を執筆し、ヒッピーの考え方やあり方を現代に問う内容になっている。ヒッピーの思想受け継いでいるためか、様々な国や地域を巡り活動している。また、国境の存在意義についても語っており、「宇宙から地球を見たら国境の線など存在しない、国境は人間が勝手に引いた線であり、国境が人間の行動の自由を奪う」と語っている。そのため本人は「私は日本人ではなく国際人であり、地球に住む人間である」と語るなど、完全な自由・平和主義者である。
来歴
日本の兵庫県の出身。1979年生まれ。姫路市の中学(安室中学校)を卒業後にイギリスに渡り美術を学ぶ。Woodhouse Grove School(GCSE)に入学。ケンブリッジにあるCambridge Centre for six-form studies卒業(高校)。イギリスではブラッドフォードに1年、ハローゲート(英語版)に2年、ケンブリッジに2年、計5年滞在している。イギリスの高校卒業後、ロンドンの美大に合格(ロンドン芸術大学)していたが、ギャップホリデーを利用しニュージーランドに渡る。ニュージーランドを半周し、地球の広さに感動し、世界各国を旅する。サンフランシスコ(アメリカ)、ニューヨーク(アメリカ)、モスクワ(ロシア)、ネルソン(ニュージーランド)と各地を転々とする。
その後日本に帰国し、嶋本昭三に師事するため、宝塚造形芸術大学大学院メディア造形研究科基礎造形に進み、修士課程修了。大学院では現代美術の制作、国境の存在意義の制作研究を行う。修士論文のテーマは「ボーダー/リジョン(国境の存在意義)(インスタレーションの考察)」であった。
大学院修了後、淡路島にアトリエを構え、移住し制作活動を行う。
2007年に東京、銀座で開催されたみずほストリートギャラリー(みずほ銀行銀座中央支店)においては、福田繁雄より選出され、ショーウインドーを使った鮮やかな球体と平面から構成されるインスタレーションの作品を発表、続いて大阪、阪急三番街の南館地下2階のウインドーギャラリーで同じくインスタレーションの作品を制作し注目を集める。
2010年から2013年2月まで横浜美術大学で専任助手として勤務。
2010年-2011年のにカナダ、モントリオールで2度、個展を開催し作品は完売。海外での活躍が目立つ。
現在は日本国内、国外を問わず作品の制作、発表を行っている。
兵庫教育大学大学院 博士後期課程研究科に通い博士号取得にむけ準備を始め、専任講師に選出されたため退学。
2013年4月より、福岡こども短期大学の専任講師に就任、幼児美術(実技)を担当しながら、制作を続けている。
2014年10月より国立 九州大学大学院 芸術工学府 博士後期課程に在籍している。
略歴[編集]

年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2016年7月)
安室中学校を卒業
15歳の時イギリスに渡る。
Woodhouse Grove SchoolでGCSEを修学。美術・数学・化学・古典英語(イギリス、ブラッドフォード)
Heritage language schoolで英語を修学。(イギリス、ハローゲート(英語版))
Cambridge Centre for Sixth-form Studiesで美術と写真、日本語でA-levelsを取得。(イギリス、ケンブリッジ)
各国を転々とする。サンフランシスコ(アメリカ)、ニューヨーク(アメリカ)、モスクワ(ロシア)、ネルソン(ニュージーランド)
宝塚造形芸術大学短期大学部(現宝塚大学)を卒業(デザインを専攻)。嶋本昭三に師事
3年次で学部を変更し現代アートを主に作品を制作する。
2008年、宝塚造形芸術大学大学院で修士号を取得。嶋本昭三に師事
兵庫教育大学大学院 博士研究科研究生 退学
大学院修了後、淡路島にアトリエを構え、移住する。
2010年〜2013年2月まで横浜美術大学の専任助手として働き、日本国内外で制作活動を行う。
2013年より、福岡こども短期大学の専任講師に就任、幼児美術を担当。
2014年10月より国立 九州大学大学院 芸術工学府 博士後期課程に在籍。

岡本帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 – 1930年12月29日)は、童画家。

来歴・人物
兵庫県洲本市に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。東京市立第一中学校卒業。白馬会洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。
その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。
1930年12月、腸チフスにより死去。
弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。

加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 – 2012年5月10日)は日本画家。兵庫県豊岡市生まれ。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。中村大三郎に師事。日展に出品を続ける現役最高齢の日本画家として有名。朴土グループメンバー。

略歴
1912年(明治45)―1月25日、兵庫県城崎郡豊岡町(現豊岡市)に生まれる。
1925年(大正13)―京都市立美術工芸学校絵画科入学。
1929年(昭和4)―京都市美術工芸学校絵画科卒業、卒業制作《たそがれ》(風景 山科の農家)学校買上げ(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)。京都市立絵画専門学校へ進む。
1930年(昭和5)―《山村の道》制作。
1931年(昭和6)―第12回帝展《山の池》初入選。
1932年(昭和7)―京都市立絵画専門学校本科卒業、卒業制作《風景》(六方川)学校買上げ(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)。同校研究科へ進む。中村大三郎に師事。野々内保太郎らほかの弟子たちと中村大三郎画塾の創立と塾展開催を相談するが、師より塾展開催には充分な準備期間をとって世に問うべしと諭され、翌年6月に創立第1回展を開催することに決まる。第13回帝展《裏山道》入選。
1933年(昭和8)―中村大三郎画塾創立第1回展《雪霽れ》《丘》。第14回帝展《秋の測候所》入選。《雪の但馬路》制作。
1934年(昭和9)―第15回帝展《鉄橋のある風景》入選。
1935年(昭和10)―第1回京都市美術展《このま》入選、緑賞受賞。
1936年(昭和11)―昭和11年文展鑑査展《高原の五月》入選。
1937年(昭和12)―中村大三郎画塾第1回試作展《構内所見》《松》《九月の霞沢岳》。京都市立絵画専門学校研究科修了。第2回京都市美術展《渓流》(豊岡市蔵)入選、京都市長賞受賞。
1938年(昭和13)―中村大三郎画塾第2回試作展《山A》《山》《道》《薄暮》《鶏頭》。中村大三郎画塾第2回展《静淵》《椿》《店頭》。中村大三郎画塾名古屋小品展《雨》《初秋》《みのり》《秋景A》《秋景B》《秋景C》《秋景D》。
1939年(昭和14)―中村大三郎画塾小品展《早春の山》《早春雨情》。中村大三郎画塾創立7周年記念展(第3回展)《曇る霞沢岳》《南天》《赤杉》《岩陰》《山》《微風》《菜園風景》《風景》《麦秋》《雨後》《早春》《麦》。第3回京都市美術展《温室》入選、受賞(以後、無鑑査となる)。第3回新文展《岩陰》入選。
1940年(昭和15)―紀元2600年奉祝 中村大三郎画塾展(第4回展)《高千穂峰》双幅《阿蘇烏帽子岳》《山二題》《桐のある風景》《秋林》《晴日の六甲山》《比叡赤映》《家》。ほかの塾員とともに各々、神武天皇聖蹟・伝説地を写生、美代三は《日向襲之高千穂峯》《天香山》の2点を描き、二千六百年奉祝会に献納。同会主催で東京 高島屋で展示される。
1941年(昭和16)―前年、奉祝会に献納した作品で描きもらした神武天皇聖蹟・伝説地を、ほかの塾員と写生、美代三は《狭野》を描き、奉祝会に追加献納。
1942年(昭和17)―第5回新文展《立山の残雪》入選(豊岡市蔵)。
1943年(昭和18)―第6回新文展《赤澤山》入選。
1945年(昭和20)―大東亜戦争必勝祈願 神宮・官弊社奉献日本画展《橿原神宮》。写生《橿原神宮》は前年の作か。
1946年(昭和21)―第1回日展《洛北の家》入選。
1947年(昭和22)―中村大三郎没。中村大三郎画塾は解散となり、翌48年2月、西山翠嶂画塾青甲社に入塾(木下青葉編『青甲社沿革史』(個人蔵)による)。
1948年(昭和23)―第4回日展《雪解頃》
1949年(昭和24)―第5回日展《残照》。以後、68年まで毎年出品。
1950年(昭和25)―第6回日展《朝霧》《山かげる》(豊岡市立病院蔵)入選。
1951年(昭和26)―第7回日展《翠巒》白寿賞受賞。
1952年(昭和27)―第8回日展《籔の池》(舞鶴市蔵)特選・朝倉賞受賞。翌年第9回日展は無鑑査出品となる。
1953年(昭和28)―第9回日展《山路》無鑑査。
1954年(昭和29)―第10回日展《岩》(豊岡市蔵)入選。
1955年(昭和30)―第1回関西展(現全関西美術展)《城門》第3席。第11回日展《戸隠山》入選。
1956年(昭和31)―第2回関西展《苔寺》第2席。日展出品依嘱となる。第12回日展《新緑の山》依嘱出品。
1957年(昭和32)―第13回日展《暮雪》依嘱出品。
1958年(昭和33)―師 西山翠嶂没、青甲社解散となる。旧青甲社の若手塾員 新井富美郎・有元一雄・大塚明・下保昭・神谷紅子・木村広吉・斉藤清策・西圭子・野々内良樹・樋口辰志・福本達雄・細木成実・松井孝二・三谷青子との15名で朴土社結成。西山英雄の指導を仰ぐ。創立の趣旨は「お互いの個性を尊重し益々自由に伸ばせる様、真剣な研究会を持ち、切磋琢磨し、又機会を得て発表し」「斯道に努力」することを目指す、とする。社団法人日展が発足、日展は社団法人日展の主催となり、第1回日展(新日展、以下同)開催。美代三は新日展でも引き続き出品依嘱となり、《立山》依嘱出品。
1959年(昭和34)―第1回朴土社展(京都府ギャラリー)《池》。第1回朴土社展(東京 銀座松屋)《磐梯高原》・《杉の道》。この第1回展は京都展・東京展は別作品。以後、第3回展から第5回展は東京 文春画廊と京都府ギャラリー、第6回展は東京 西村画廊と京都府ギャラリー、第7回展から第10回展は東京 銀座松屋と京都府ギャラリーで開催、第11回展(’69朴土グループ展)からは京都府ギャラリー(のち京都府立文化芸術会館)のみの開催となる。その間、第7回展は富山展も開催。第2回日展《磐梯高原》依嘱出品、京都府買上げ。京都 菊画廊で個展開催。
1960年(昭和35)―第2回朴土社展《杜》《静潭》。第3回日展《岳明》依嘱出品。
1961年(昭和36)―第3回朴土社展《沼》《庭》(豊岡市蔵)。第4回日展《岩岬》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1962年(昭和37)―京都 土橋画廊・東京 銀座松屋で個展開催。第4回朴土社展《池》《静潭》。第5回日展《層雲峡》依嘱出品。
1963年(昭和38)―第5回朴土社展《春》《山添》。第6回日展《礁》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1964年(昭和39)―第6回朴土社展《山湖》《曠野》(冬の高原)。第7回日展《礁》依嘱出品。
1965年(昭和40)―朴土社を朴土グループと改称、第7回朴土グループ展《林》《寒村》(豊岡市蔵)出品。第8回日展《寒村》依嘱出品。
1966年(昭和41)―京都府ギャラリー・東京 松屋で加藤美代三日本画展を開催。大阪 心斎橋小大丸で個展(スケッチ)開催。第8回朴土グループ展《木々》。第9回日展《杜》依嘱出品。
1967年(昭和42)―第9回朴土グループ展《原野》。第10回日展《丘》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1968年(昭和43)―京都 土橋画廊で個展開催。第10回朴土グループ展《溜》(豊岡市蔵)。第11回日展《望岳》(豊岡市蔵)依嘱出品。
1969年(昭和44)―’69朴土グループ展《雪稜》(豊岡市蔵)《雨余》、この回から回数で呼ぶのをやめ、西暦で呼ぶことにする。社団法人日展役員改選を機に日展が改組される。美代三は出品委嘱からはずれる。
1970年(昭和45)―’70朴土グループ展《湿》《外輪山》。第2回日展(改組日展、以下同)《杉木立》入選。
1971年(昭和46)―’71朴土グループ展《萌》《活》(豊岡市蔵)。
1972年(昭和47)―第7回日春展《石仏》入選。’72朴土グループ展《石仏群》《北山杉》。第4回日展《叢林》(豊岡市蔵)入選。京都・大阪高島屋で山崎忠明と2人展開催。京都美術懇話会25周年記念展《野の花》。
1973年(昭和48)―第8回日春展《冬湖》入選。’73朴土グループ展《雪解けA》《雪解けB》。第5回日展《入江》入選。
1974年(昭和49)―京都 土橋画廊で個展(スケッチ)開催。『形象』23号に中井慎吾「―珠玉の素描に見る―加藤美代三の心象」掲載される。’74朴土グループ展《裏磐梯スケッチ》8点。
1975年(昭和50)―’75朴土グループ展《光る海》(原題《輝A》《輝B》)。第7回日展《冬原》(豊岡市蔵)入選。京都府主催 京の百景展《北山杉の木立》依嘱出品(京都府買上げ)。
1976年(昭和51)―京都 土橋画廊で個展(スケッチ)開催。『形象』39号に「展覧会紹介―ひかる画境の円熟―加藤美代三個展」掲載される。’76朴土グループ展《滝壺》《野の花》。第8回日展《沼の秋》入選。
1977年(昭和52)―’77朴土グループ展《やどり木》《冬の木》。
1978年(昭和53)―’78朴土グループ展《水ぬるむ》《雪どけ水》。第10回日展《湿原》入選。
1979年(昭和54)―’79朴土グループ展《寒》《暖》。第11回日展《湖畔》(豊岡市蔵)入選。
1980年(昭和55)―’80朴土グループ展《待春》(早春の高原)(豊岡市蔵)《新緑》(豊岡市蔵)。第12回日展《早春》入選。京都府ギャラリーで個展(スケッチ戸隠)開催。
1981年(昭和56)―’81朴土グループ展《靄》(豊岡市蔵)《朽株》。このとし、兵庫城崎の臨済宗大徳寺派の名刹 萬年山極楽寺の西垣宗興住職から同山本堂・庫裡の四季の襖絵制作を依頼される。西山英雄の推薦によるという(『萬年山極楽禅寺 加藤美代三水墨画集』)。
1982年(昭和57)―京都府ギャラリーで個展(スケッチ妙義)開催。’82朴土グループ展《白銀》《凍》(豊岡市蔵)。第14回日展《山の春》入選。
1983年(昭和58)―’83朴土グループ展《雨の日》《火口》(豊岡市蔵)。第15回日展《雨の日》入選。このとし、妻を伴いヨーロッパ遊学。
1984年(昭和59)―’84朴土グループ展《流れる》《やしろの一隅》(豊岡市蔵)。兵庫豊岡 養源寺から依頼を受け、天井画《龍》を描く。第16回日展《雪の日》入選。
1985年(昭和60)―’85朴土グループ展《雪晨B》。第17回日展《雪晨A》入選。第1回京都画壇日本画秀作展に《雪晨B》が招待出品される。
1986年(昭和61)―’86朴土グループ展《風化仏》。京都府主催 京の四季展《嵯峨野の竹林》依嘱出品。
1987年(昭和62)―’87朴土グループ展《初冬の秋元湖畔》。第19回日展《高原の沼》(豊岡市蔵)入選。このとし、城崎 極楽寺から依頼の本堂・庫裡の水墨襖絵《春・嵯峨野の竹林》《夏・香住海岸》《秋・嵯峨野路晩秋》《冬・比良・琵琶湖》《春・天の橋立》《夏・神鍋八反の滝》《秋・朝霧の円山川》《冬・六方川雪景》、及び本堂内陣の淡彩襖絵《蓮華図》が完成し納める。あわせて制作の四曲屏風《早春の嵯峨野路》《清滝川上流》《晩秋の円山河畔》《新雪(北山)》各1双を寄贈する。京都 近鉄で個展(スケッチ)開催。
1988年(昭和63)―’88朴土グループ展《春を待つ》。第20回日展《冬林》入選。京都府ギャラリーで個展 極楽禅寺水墨四季襖画・六曲1双屏風展開催。
1989年(平成元)―’89朴土グループ展《落韻》(豊岡市蔵)。
1990年(平成2)―鳥取 美巧ギャラリーで個展開催。’90朴土グループ展《春を待つ》。第22回日展《林》入選。第5回京都画壇日本画秀作展に《冬林》(1988年日展)を招待出品。
1991年(平成3)―’91朴土グループ展《斑雪》。第23回日展《山霧》(豊岡市蔵)入選。
1992年(平成4)―’92朴土グループ展《冬林》。第24回日展《霧木立》入選。東京 銀座松屋・豊岡市・京都 高島屋で個展 戸隠早春譜開催。
1993年(平成5)―’93朴土グループ展《春光》《幽谷》。第25回日展《春を待つ》入選。
1994年(平成6)―’94朴土グループ展《池畔Ⅰ広沢》《池畔Ⅱ大沢》。第26回日展《旧家》。出雲大社京都分院客殿から依頼の水墨四季襖絵を納める。兵庫 香住町(現豊岡市香住町)主催で個展(スケッチ)開催。
1995年(平成7)―’95京都 高島屋・東京 銀座松屋・豊岡市で個展 嵯峨野を描く(スケッチ)開催。第27回日展《小径》入選。’95朴土グループ展《大沢の家》《広沢の家》。
1996年(平成8)―’96朴土グループ展《嵯峨野Ⅰ》《嵯峨野Ⅱ》。第28回日展《樹林》入選。
1997年(平成9)―’97朴土グループ展《山峡の春》。第29回日展《道ぞい》入選。
1998年(平成10)―’98朴土グループ展《北山の杉》。第30回日展《朝霧》入選。
1999年(平成11)―’99朴土グループ展《汀》《山里の春》。第31回日展《池畔》入選。
2000年(平成12)―京都 高島屋・東京 銀座松屋・豊岡市で個展 嵯峨野散策開催。豊岡市市制50周年記念として回顧展開催される。光村推古書院から『四季光彩 加藤美代三自選集[1]』刊行。第32回日展《残る秋》入選。
2001年(平成13)―’01朴土グループ展《雪林》《薮》《晴れゆく》。第33回日展《冬林》入選。
2002年(平成14)―’02朴土グループ展《秋樹》《薫風》《薮の道》。第34回日展《風薫る》入選。
2003年(平成15)―’03朴土グループ展《スケッチ北嵯峨写生行》1~7。第35回日展《樹映》入選。
2004年(平成16)―’04朴土グループ展《スケッチ嵯峨野写生行》1~10。第36回日展《森の池》入選。
2005年(平成17)―3月、京都市より京都市芸術功労賞を授与される。’05朴土グループ展《スケッチ春の嵯峨野写生行》1~10。第37回日展入選。
2006年(平成18)―’06朴土グループ展《スケッチ春秋の嵯峨野写生行》1~10。第38回日展《春待つ古木》入選。
2007年(平成19)―京都 ギャラリー佐野で長男美之助と二人展「加藤美代三+美之助 嵯峨野春秋写生展」開催。’07朴土グループ展《廣沢池畔》《山の春》《花の庭》《木かげ》《北山杉の林》《樹林》《嵯峨野の水田》。これをもって、グループでの展覧会開催を終わる。奈良県立万葉文化館で「創立50回記念朴土グループ回顧日本画展―西山英雄門下の画家たち―」開催される。第39回日展《春の大沢堤》入選。
2008年(平成20)―島根松江 一畑百貨店・浜松市美術館・京都造形芸術大学・島根 浜田市立石正美術館で石本正選抜による「米寿記念 私を感動させた日本画展」開催され、加藤美代三作品も出品される。奈良県立万葉文化館で「加藤美代三日本画展[2][3]」開催され、代表作72点が展示される。第40回日展に《花の庭》出品。
2009年(平成21年)―第41回日展に《庭の池》出品。
2010年(平成22年)―8月7日~9日、豊岡市のじばさんTAJIMAで「郷土の日本画家 加藤美代三展」が開催される。第42回日展で98才にして、約20年ぶりに落選となる。
2011年(平成23年)―10月14日~16日、豊岡市立総合体育館で「加藤美代三画伯白寿記念展~豊岡市が生んだ美の巨匠の世界~[5][6][7]」が開催される。
2012年(平成24年)5月10日‐老衰のため死去。100歳没

金山 平三(かなやま へいぞう,1883年 (明治16年) 12月18日 – 1964年 (昭和39年) 7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。

経歴
以下の記載は、『金子コレクションから見た 金山平三の世界』展図録(笠間日動美術館編集・発行、2008年) の巻末に4ページに亘り掲載されている「金山平三年譜」に基づいたものである。さらに当該「金山平三年譜」は、夫人の金山らくに関するものも含めて『金山平三画集』(日動出版部 1976年7月)所収の大塚信雄編による年譜(331 – 362ページ)を参照して作成されたものである。
1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。1905年(明治38年) 9月東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年) 3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。4月には同校西洋画科研究科に進み助手となる。しかし1911年(明治44年) 2月15日付で退学し神戸へ帰る。1912年(明治45年) 1月20日に日本郵船平野丸で神戸港を出発して、パリに3月7日に到着する。28歳から31歳までの4年近くの間は、パリを拠点にヨーロッパ各地へ写生旅行に赴く。そして1915年(大正4年) 9月27日にパリを出発して、10月3日マルセイユ港を出帆して11月に神戸港に到着、帰国して神戸市神戸花隈町(現在の中央区花隈町)の自宅(1898年に転居)に戻る。
1916年(大正5年)10月には、第10回文部省美術展覧会(文展)初出品の小豆島で描いた『夏の内海』が初入選かつ特選第二席になり、文部省買い上げとなる。翌1917年には『氷辷り』が第11回文展の特選第一席になる。同年1月上旬に長野県下諏訪で描いた作品で、以後毎年2月にかけて同地で制作するようになる。1919年(大正8年) 9月に帝国美術院が創設されて、同院主催の帝国美術展覧会(帝展)が開催されることになり、36歳にして帝展審査委員(1924年には帝展委員となり、後に審査員となる)に選ばれる。同年10月の第1回帝展には『雪』『花』を出品する。また11月には牧田らくを入籍し、東京市小石川区大塚坂下町(現在の文京区大塚6丁目)に転居する。1922年(大正11年) 10月の第4回帝展に『下諏訪のリンク』を出品する。関東大震災が起きた1923年(大正12年) 5月に初めて山形県北村山郡大石田を訪れ滞在する。1925年(大正14年) 4月東京府豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井2丁目)にアトリエが完成し転居する。1928年(昭和3年) 10月の第9回帝展には『菊』を出品する。1929年(昭和4年) 10月の第10回帝展には大石田で描いた『東北地方の春』を出品する。1933年(昭和8年) 10月の第14回帝展には房州千倉で制作した『風雨の翌日』を出品する。しかし1935年(昭和10年) 5月の帝国美術院改組を機に中央画壇から去り、翌1936年から官展不出品を1959年(昭和34年)まで24年間貫く。1944年7月1日帝室技芸員となり、1945年には、皇太子(現在の今上天皇陛下)および義宮(現在の常陸宮正仁親王殿下)に作品を献上する。
1945年(昭和20年) 3月17日の神戸大空襲で実家が罹災し、作品が焼失する。5月には最上川をはさんで大石田(現在の山形県北村山郡大石田町)の対岸に位置する北村山郡横山村に疎開する。後にしばしば写生旅行をするようになる刑部人も同宿する。また大石田で斎藤茂吉と親交を結ぶ。1946年(昭和21年) 10月には文部省より日本美術展覧会(日展)の審査員に選ばれるが辞退する。1947年(昭和22年) 2月横山村から大石田に移り、これ以降は大石田が生活の拠点となる。1953年(昭和28年) 2月、前年12月に開館した東京国立近代美術館で開催された「近代洋画の歩み-静養と日本」展に『夏の内海』と『下諏訪のリンク』が出品される。1956年(昭和31年) 5月、日本橋高島屋において金山平三画業五十年展が開催され、多数の未発表作を含む240点が出品される。1957年(昭和32年) 2月には日本藝術院会員に任命される。1959年(昭和34年) 3月には日展顧問を委嘱される。同年11月の第2回新日展には『渓流』を出品する。1961年(昭和36年) 6月には、最晩年の重要な支援者である故郷神戸の川崎重工業株式会社に自選作品100点(翌年38点追加)の永久保管を願い出て、同社によって嘱託として処遇されて、夫妻でのヨーロッパ再訪旅行(9月 – 12月)の機会を得る。1964年(昭和39年) 6月に入院し、7月15日死去(享年81歳)。遺志によって本葬儀は行われず、叙位・叙勲もすべて辞退している。神戸市営追谷墓地に埋葬されている。平三没後、川崎重工業の保管作品から夫人により130点が兵庫県に寄贈され、1970年兵庫県立近代美術館(現在の兵庫県立美術館)の開館にあたって同館所蔵品となる。また兵庫県立美術館には、開室期間が限定の金山平三記念室が設けられている。
2008年9月13日 – 11月30日、笠間日動美術館において『金子コレクションから見た金山平三の世界』展が開催された。 2012年4月7日 – 5月20日、兵庫県立美術館において『開館10周年記念 日本の印象派・金山平三展』が開催された。2012年9月15日 – 11月4日、ひろしま美術館に巡回。
夫人
夫人の金山らく(旧姓:牧田)は、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を経て東北帝国大学理科大学を卒業。女性初の帝国大学卒業生であり、東北帝国大学に在籍して数学研究を続けていた。1917年4月に平三と見合いをした。

川勝 茂弘(かわかつ しげひろ、1941年 – )は、兵庫県出身の洋画家。新槐樹社委員(兵庫県支部長)、日本美術家連盟会員。紺綬褒章受章。

略歴
1941年、兵庫県に生まれる。
1967年、新槐樹社展に初出品。
1970年、新槐樹社展にてクサカベ賞受賞、以降毎年出品している。
1971年、読売新聞社賞受賞。
1973年より大阪を中心に個展を開催している(17回)。
1984年、渡欧。以降、ヨーロッパ各地研修スケッチ旅行。
イタリアをはじめヨーロッパ各地の風景などが、細かく丁寧に描かれており、重厚で落ち着いた雰囲気の作品が多い。

川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、1894年7月9日 – 1965年2月20日) は日本の版画家、画家。本名は川西英雄。

略歴
1894年(明治27年)、兵庫県神戸市兵庫区東出町に回船・穀物問屋の七男として生まれる。1915年(大正4年)、神戸商業学校を卒業後、家業を継ぐ。1922年(大正11年)からは兵庫東出郵便局長を務めた。画家を志した時期についての資料は見つかっていないが、16歳のとき(1910年)に『セシル・アルディン作品の模写』(京都国立近代美術館蔵)を描いている。木版画は山本鼎の作品をみて志したとされ、1920年代より長らく国画会と日本版画協会を主な活動の場とした。1937年(昭和12年)に出版された『神戸百景』はエキゾチックな都市風景と風俗を描いた作品で、彼の代表作である。
版画家の川西祐三郎(1923-)は、川西英の三男である。

岸本 篤子(きしもと あつこ、1952年 – )は日本画家。兵庫県日本画家連盟会員。兵庫県生まれ。1972年、立命館大学中退。1976年、早稲田大学卒業。

主な受賞歴
日春展入選(1977年)
兵庫県展入賞(1984)
神戸市展市長賞(1989年)

小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年7月25日 – 1988年12月16日)は、日本の昭和期に活躍した洋画家である。
肖像画、特に群像を多く手がけたことで知られる。

経歴
1903年(明治36年)、旧三田九鬼藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。首席で卒業後の1928年(昭和3年)、フランスに留学。ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとする。帰国後の1936年(昭和11年)、「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わる。1938年(昭和13年)から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作した。1941年(昭和16年)に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を相次いで発表する。良平自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦後は画集に収録しなかった。戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む、と晩年に語っている。
戦後は東京藝術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献し、同大学名誉教授の号を授与された。1992年(平成4年)に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として知られている。
1933年(昭和8年)に神戸でキリスト教(組合教会系)の洗礼を受けており、1970年(昭和45年)には日本聖書協会の依頼により32点の聖書の挿絵を完成させた。
その他、1941年(昭和16年)出版の『東京八景』(太宰治)の装丁や1947年(昭和22年)に制定された「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけている。
戦争画への想い
かねてより生前に良平が戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことが心が痛むと述べていたことは知られていたが、史料としては残っていなかった。しかし2007年(平成19年)8月15日にそのことを示す文書が発見されたと神戸市立小磯記念美術館が発表した。いずれも洋画家内田巌に宛てた手紙で封書が35通、はがきが3通発見され、そのうちの1つに戦争画に対する言及がされていた。同博物館によれば良平の次女が自宅で発見し、それを同博物館へ8月8日に寄贈したものとしている。これらの手紙は同博物館において同年9月15日から11月18日までの間、開館15周年特別展「藤島武二と小磯良平展―洋画アカデミズムを担った師弟―」で公開された。
李王家コレクション
1935年(昭和10年)作の「日本髪の娘」は同年に東京で開催された展覧会に出品されて以来長い間行方不明となっていた。所有していた大韓民国の韓国国立中央博物館が2005年(平成17年)に公開したが、当時はそれが所在が不明とされていた作品であると認識されず、2008年(平成20年)11月になってようやく幻の作品が発見されたと報じられた。同月18日から2009年10月まで同館で開催される「日本近代西洋画展」にて公開される。同作品は朝鮮王朝の李王家が1937年(昭和12年)に購入していた。

後藤 仁(ごとう じん、1968年 – )は、平成時代の日本画家・絵本画家。日本の伝統技法を活かした描法により、アジアや日本各地に取材した美人画を中心に、風景画、花鳥画等を手がける。また、日本画の技術を用いて高級壁紙の金唐革紙や、絵本の原画等の制作を行う。師系は後藤純男。日本児童出版美術家連盟会員、絵本学会会員、日本中国文化交流協会会員。

概要
兵庫県赤穂市生まれ。小学校1年生の時に大阪府堺市に移る。小中学生の頃は、水彩・アクリル絵具による空想画を多く描く。15歳の時、大阪市立工芸高等学校美術科に入学して、油彩画・彫塑・デザイン・製図・デッサン等とともに日本画を学び、高校2年生で日本画を専攻する。大阪市立工芸高等学校美術科を実技・学科ともに首席にて卒業する。同校の卒業生には、日本画家の稗田一穂らがいる。この子供時代に、岡本太郎が審査委員長をつとめる絵画コンクールで佳作受賞する等、各種絵画公募展での入選・受賞は14回に及ぶ。
高校卒業後は東京に上京し、美術予備校の立川美術学院日本画科で村上隆、菅原健彦らに、デッサン・着彩を2年間学ぶ。21歳で東京藝術大学絵画科日本画専攻に入学。当時の学長は平山郁夫である。大学では教授の加山又造、後藤純男、福井爽人らに日本画を学ぶ。大学3年生より金唐革紙(きんからかわし。手製高級壁紙のこと)の復元製作を始め、以後約12年間に「入船山記念館(呉市)」、「移情閣 ・孫文記念館(神戸市)」、「旧岩崎邸(台東区)」等の重要文化財建造物の復元事業に携わり、この技術も日本画制作に取り入れる。(現在、金唐革紙製作の完全な知識・技術を保持しているのは後藤仁のみとなり、2006年より金唐革紙保存会を主宰する。)東京藝術大学の卒業制作は、インドネシアのボロブドゥール遺跡に取材した「昇殿」(F150号)。
大学卒業後は後藤純男に師事して、日本画家として活動をする。卒業に前後し、後藤純男に同行して沖縄本島、北海道(富良野、知床の流氷)、東北(会津若松、田沢湖、角館)等への写生旅行をする。活動初期は国内外の取材をもとに、プランバナン遺跡等の古代遺跡や阿蘇山・斜里岳等の自然をモチーフにした雄大な風景画や、野に咲く花々を多く描く。1998年頃より「アジアの美人画」をテーマに、アジアや日本の伝統文化・舞踊等に取材した人物画を中心に描く。
現在までに、「ちばぎんアートギャラリー日本橋」等の画廊で多くの日本画個展を開く他、後藤純男門下による「翔の会日本画展(銀座松坂屋)」等のグループ展を全国の美術館・画廊・百貨店で多数開催する。絵画公募展での入選・受賞は、「三渓日本画賞展2000(横浜三渓園)」入選(審査委員 中島千波、平松礼二、草薙奈津子 他)、「新生展(新生堂南青山)」入選(審査委員 千住博、中島千波、大矢英雄、籔内佐斗司 他)、「北の大地展(北海道)」佳作、「F展(大阪市立美術館)」大阪市立美術館館長奨励賞、等がある。また、「紙の博物館(東京都王子)」、「呉市立美術館(広島県呉市)」、「大英博物館(イギリス)」等の金唐革紙展の製品を製作・展示する。

日本画作品の特長としては、作家独自の鋭く繊細な鉄線描(てっせんびょう。法隆寺金堂壁画等に見られる技法)、幻想的・物語的な空間表現、中国の少数民族や各国の民族衣装の華麗な色彩表現、人物の清楚な美しさと人物の心を表出した目の描写の印象強さ等が挙げられる。また、アジア各国や日本各地での単独取材旅行を多く行う。
現在、千葉県松戸市にアトリエをかまえ、「アジアの美人画」を中心画題として描く他、風景画や花鳥画等の小品も描く。また、アジアの民話を元にした絵本の原画制作等、日本画を軸とした様々な絵画表現を探求している。金唐革紙保存会 主宰、日本児童出版美術家連盟 会員、絵本学会 会員、日本中国文化交流協会 会員、この本だいすきの会 会員。

日本画代表作品
「天国の扉─華洛(からく)─」(変形273×182cm)
「天国の扉─日輪─」(S50号)
「曙光さすアンコール・ワット」(P60号)
「剣の舞(朝鮮舞踊)」(変形146×71cm)
「舞姫シータ(インド舞踊)」(変形140×70cm)
「妙なる国の少女(バリ島)」(F50号)
「クマリ─The Living Goddess─(ネパール)」(F50号)
「美粧(浅草芸妓)」(F40号)
「美しき村─Beautiful village─(ベトナム・花モン族)」(F30号)
「彩帯舞(中国ミャオ族)」(F30号)
「幸福の夜明け(スコータイ)」(F25号)
「トン族琵琶歌(中国貴州省)」(P25号)
「涅槃─NEHAN─(阿蘇五岳)」(変形1092×182cm)
「淡墨の桜(岐阜県根尾谷)」(F30号) 等[14]
画歴
年譜
1968年 兵庫県赤穂市生まれ。伯父はからくり人形師の後藤大秀。祖父は指物大工。
1983年 「第1回全国都市緑化フェア図画・ポスターコンクール」大阪府知事賞(最高賞)。
1984年 「太陽の日記念絵画コンクール」(審査委員長は岡本太郎)佳作賞。「旺文社主催全国学芸科学コンクール デザイン部門」旺文社賞(銀賞)。
1986年 「児童生徒美術展」(ビクトリア国立美術館/オーストラリア)。
1988年 大阪市立工芸高等学校美術科を首席で卒業。美術予備校の立川美術学院にて村上隆に学ぶ。
1995年 国重要文化財建造物等「金唐革紙」復元製作。以降、入船山記念館(呉市)、移情閣(神戸市)、旧岩崎邸(台東区)等の復元を手がける。ジャワ島・バリ島写生旅行、中華人民共和国(北京・西安)写生旅行。
1996年 東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男に師事。後藤純男門下による「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)に参加、以後2010年まで毎年開催。
1997年 イタリア・バチカン市国写生旅行。
1998年 NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作。
2000年 千葉銀行2000年度カレンダー作品採用。「三渓日本画賞展2000」入選(横浜三渓園)。
2002年 「新生展」入選(新生堂/東京都南青山)。「北の大地展」佳作(北海道)。
2004年 個展(新樹画廊目白)にインド大使夫妻、バチカン市国大使を招待。インド(北部・東部・西部)写生旅行。
2005年 タイ王国・カンボジア写生旅行。「名士寄贈書画工芸作品展」(毎日新聞主催。心斎橋大丸、のち毎日新聞ビル)以後2011年まで毎年出品。
2006年 ちばテレビ「ニュースC-MASTER」にて個展(ギャラリーアートサロン)取材・特集放映。「金唐革紙保存会」を主宰し、金唐革紙の製作技術保存・展示に努める。
2007年 ベトナム写生旅行。NHK「にっぽん心の仏像」アトリエ取材・放映。「金唐革紙展」(大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス)。
2008年 中華人民共和国(貴州省・広西チワン族自治区)写生旅行。
2009年 ネパール・タイ王国写生旅行。「F展」大阪市立美術館館長奨励賞(大阪市立美術館)。
2010年 NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」取材協力・放映。
2011年 タイ王国・ラオス写生旅行。
2012年 中華人民共和国(チベット・四川省)写生旅行。
2013年 絵本「ながいかみのむすめ チャンファメイ」を福音館書店より出版。絵本「犬になった王子 チベットの民話」を岩波書店より出版。
2014年 ミャンマー(ビルマ)写生旅行。
2016年 挿絵本「おしゃかさま物語」を佼成出版社より出版。
展覧会
日本画個展・グループ展、絵本原画展 開催地
東京都美術館、大阪市立美術館、銀座松坂屋、上野松坂屋、池袋東武、船橋東武、沼津西武、心斎橋大丸、京都高島屋、柏そごう、町田小田急、丸広百貨店川越店、阿倍野区役所、大阪毎日新聞ビル、横浜三渓園、京葉銀行本店、ちばぎんアートギャラリー日本橋、オンワードギャラリー日本橋、同和火災ギャラリー日本橋、銀座田中貴金属ホール、ギャラリーアートサロン、ギャラリートーニチ新宿、ギャラリー銀座、新樹画廊目白、新生堂、ギャラリー昴、ざくろ坂ギャラリー一穂堂、飛騨絵本美術館ポレポレハウス、教文館ナルニア国、丸善丸の内本店、JR藤並駅ちいさな駅美術館、他 個展15回余り・グループ展100回以上開催。
金唐革紙展 開催地
大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館、紙の博物館、呉市立美術館、旧岩崎邸庭園、入船山記念館、フェルケール博物館静岡、江戸東京博物館、姫路市書写の里美術工芸館、箱根ラリック美術館、東京芸術劇場、第7回国際シンポジウムin長野(ホテル国際21)、小津和紙博物舗小津ギャラリー、OZONE新宿ショールーム、銀座一穂堂サロン、上方銀花、他多数。
各種絵画公募展の入選・受賞回数20回余り。
作品収蔵先
日本画作品収蔵先には、東京藝術大学、大阪市立工芸高等学校(大阪市帰属)、八幡山宝蔵院天井画(埼玉県)、普門院(栃木県)、他。
金唐革紙製品収蔵先には、大英博物館、紙の博物館、旧岩崎邸庭園、入船山記念館、移情閣、他。
絵本作品収蔵先には、日本全国の図書館、学校、児童施設 等。東北等の図書館、学校、児童施設等に1000冊以上の筆者サイン入り絵本寄贈[15]。
講師
NHK文化センター(柏教室)の「日本画講座」「鉛筆デッサン講座」や、読売・日本テレビ文化センター(柏・金町)の「美人画講座」「水彩画講座」や、コープカルチャー(春日部教室)の「日本画講座」等の講師を務める。
テレビ放送
日本画関係(個展・グループ展・アトリエの取材、放送)
NHK BSハイビジョン「にっぽん心の仏像」出演(2007年8月13日放送)
NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」制作実演・取材協力(2010年5月2日放送)
ちばテレビ「ニュースC-MASTER」饗宴~後藤仁美人画展特集・出演(2006年11月1日放送)
JCN千葉 個展取材(2008年3月放送)
JCNコアラ葛飾 出演(2010年1月27日放送)
J:COM東関東 出演(2008年9月放送) 他
金唐革紙関係(展覧会・建造物・アトリエの取材、放送)
NHK「首都圏ネットワーク」旧岩崎邸の金唐革紙撮影・製作実演(2003年7月1日、2005年5月26日放送)
NHK「美の壺(壁紙)」旧岩崎邸の金唐革紙撮影(2011年9月11日放送)
テレビ東京「世の中ガブッと!(建物再生)」旧岩崎邸の金唐革紙撮影・製作実演(2003年5月4日放送)
テレビ東京「美の巨人たち(旧岩崎邸庭園)」金唐革紙撮影(2009年4月25日放送)
テレビ東京「世界を変える100人の日本人」旧岩崎邸の金唐革紙撮影(2010年5月21日放送)
TOKYO MXテレビ「日本名建築めぐり(旧岩崎邸)」金唐革紙撮影(2010年4月27日他放送)
関西テレビ・ちばテレビ「走れ!ガリバーくん(呉入船山記念館)」入船山記念館の金唐革紙撮影(2005年6月16日放送) 他

酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) – 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。

伝記

月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文
生い立ち
神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)6月1日17歳で元服して1,000石を与えられるが、同年忠以に長男忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。古河藩主土井利厚などから養子に行く話も多くあったが、抱一は全て断った(理由は不明)。こうした複雑な環境が抱一を風雅な道へと進ませたと言えるかもしれないが、江戸時代に同じ環境にあった大名子弟は多くいたにもかかわらず、今日文化史に名を残した者は増山雪斎や幕臣出身の浮世絵師鳥文斎栄之、水野廬朝などごくわずかしかおらず、抱一の何かを表現したいという情熱は似た境遇の同輩とは一線を画している。
若き日の遊興
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊郭に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信に手解きを受けたようだが、酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵、豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)なども描いている。抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、知人の大田南畝が狂詩を加賛している。抱一の美人画は、初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。画号も新たに持たず、俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている。
俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。後の文化9年(1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した。狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わり、狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。
出家

書画扇面散図 谷文晁、春木南湖、亀田鵬斎、菊池五山との寄合書 ブルックリン美術館所蔵
寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、 兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。また、谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。また、市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
光琳の発見
抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、その作品が残っていたことも幸いしている。また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。
光琳百回忌
文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。
雨華庵の上人 抱一様式の確立

雪月花図 MOA美術館
文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵[5]で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。
門人に鈴木其一、池田孤邨、酒井鶯蒲、田中抱二、山本素堂、野崎抱真らがいる。

笹倉 鉄平(ささくら てっぺい、1954年11月7日 – )は、兵庫県出身の画家。
「光の情景画家」と称され、様々な表情の光があふれる画風は、写実的でありながらも想像性に富み、”心が安らぐ”絵として、老若男女幅広いファン層を持ち、多くの支持を得ている。 また、画家デビュー以来、180作品以上の版画作品をはじめ、画集、詩画集、版画集、DVD作品集等が出版され、ポスターやポストカード、ジグソーパズル、カレンダー等のアートグッズも高い人気を保持し現在に至っている。 また、デビューから27年以上に渡り毎年、全国有名百貨店での個展・展覧会を多数開催、近年では、フランス、中国、イタリア等での展覧会も成功を収め、日本の良さや日本人の優しさ・美意識等を、美しい情景画として表現し海外へ伝えている。

作風
笹倉鉄平は、欧州を中心に旅へと出かけ、日本人の目と美意識を通して得る旅先での抒情を、胸中に湧く感動や想いと共に、郷愁・憧憬を交えて描き出している。絵の鑑賞者が、行ったことも見たことも無い風景であっても、どこか懐かしく切ないような感覚を持ち、癒され、そこに希望の兆しまでも感じられるのは、笹倉の独自の目線あってのことだ。 水面に映える光のきらめき、宵の空で微笑む三日月、暮れる広場で憩う人々の笑顔、緑陰を渡る風、限りなく優しい雨や不思議と温かく感じる雪――― 笹倉鉄平の描く情景は、どこで何を描いた作品であっても、観る人の心に、甘やかな憂愁や優しく心安らぐ温もりを呼び起こす。 そこに在るのは難解な芸術性ではなく、日々の生活にあって、見過ごしてしまいがちな”小さな幸せ”の数々と物語性であり、鑑賞者と作品の間にゆったりとした対話の時間をもたらすのである。
人物
美大卒業直後から、デザイナー/イラストレーターとして10年以上活躍。そして、1987年より2年間続いた、毎日新聞カラー日曜版のドイツ・フランスの風景画の連載で人気を博したことを機に、画家へと転身。 35歳での画家への転向という大きな節目で、笹倉鉄平に大きな勇気と力をもたらしたものが、上記連載中にもらった読者からの沢山のファンレターであったと云う。 広告・出版という世界に身を置いた経歴、上記新聞連載での読者からの直接の応援の声・感想の数々・・・若い時代の、そういったマス(大衆)との関わり方や、常に”観る側へ想いを伝える”ことを意識した経験など、職業上での回り道をしたことが、笹倉鉄平の絵画への姿勢を特徴づけることとなった。その来歴こそが、気負いも気取りも無い独自の画風や、難解さの無いピュアな表現による世界観の構築に、良い形で働いているのかもしれない。 つまり、画家としての自己表現/自己実現よりも・・・絵を観る人に楽しんでもらいたい、絵の中で希望の光を感じ安らいでもらいたい、自身が感じた心温もる感動を伝えたい、といった”鑑賞者に対する想い”だけは絶対に譲れないモチベーションとして、画家の核の部分に常に存在しているらしい。 そんな絵であるからこそ、”心が安らぐ光の絵画”として、老若男女幅広いファンから長い年月に渡り支持を獲得しているのだ。 笹倉鉄平の画家としての信条は、「絵で人を楽しませ続けたい」とのこと。 その為に、どんな”光”がどう表現されてゆくのか・・・画家のチャレンジの毎日から生み出される優しい”光の情景”は、今後も観る人々の心の何処かに、温かい灯を燈し続けてゆくのだろう。
略歴
1973年 武蔵野美術大学商業デザイン科に入学。
1977年 同校卒業後、広告制作会社のグラフィック・デザイナーとなる。
1980年 フリーランスのイラストレーターとなり広告・出版物に多くのイラストを描く。また、森永製菓のパッケージイラストをおよそ10年間担当する。
1987年 毎日新聞カラー別刷り版にドイツのロマンチック街道沿いの風景を描いた「Romantic Gallery」シリーズを月一で連載。
1988年 前年シリーズの好評を以って、同紙面での連載としてフランスの街並みを描いた「ロマン色の街角」シリーズ掲載。
1990年 青山で初の個展。これより、画家としての活動に専念。
1991年 シルクスクリーンによる初の版画作品を発表(以降、現在までに180作以上がリリースされる)。
1992年 花の万博「フロリアード/1992」(オランダ開催)の記念版画が制作される。ニューヨーク・アートエキスポに出品。
1994年 神戸大丸にて個展。
1996年 小田急百貨店、新宿高島屋など各地で個展(以降、現在までに全国有名百貨店に於いて100を超える個展を開催)。
1998年 大丸ミュージアム・東京で初の美術館個展。
2000年 自身の絵画/版画作品、版権等の管理を行う、版元兼事務所(株)アートテラスを設立。
2001年 フィレンツェに架かる”ポンテ・ヴェッキオ”を描いた作品「祝福」が「イタリア.フィレンツェ.日本.文化経済交流協会」公認作品となる。
2004年 イタリア、マルケ州、レカナーティ市庁舎(他2会場)にて個展を開催。
2005年 フィレンツェ・京都姉妹都市締結40周年記念行事として、フィレンツェ市主催による個展を同市パルテ・グエルファ宮にて開催。
2006年 中国北京、国立中国美術館にて、劉長順氏との二人展を開催。
2006年 全版画作品を所蔵し、企画展形式で作品展観する「版画ミュージアム」が神奈川県大和市に開館。
2007年 ニューヨーク・アートエキスポに出品。
2007年 油彩、水彩、スケッチ等の肉筆原画を中心に企画展形式で展観する「ちいさな絵画館」が兵庫県西宮市に開館。
2008年 パリと京都にて「日仏交流150周年」および、「京都市・パリ市姉妹都市盟約締結50周年」を記念した個展が、京都市の後援のもとそれぞれ開催される。
2015年 「京都・フィレンツェ姉妹都市提携50周年記念事業」の一環として、両市後援のもと、京都、フィレンツェそれぞれにおいて個展を開催。

菅井 汲(すがい くみ、1919年3月13日 – 1996年5月14日)は、洋画家、版画家。国際的に最も高く評価されている日本人画家の一人である。男性。

生涯
1919年、神戸市東灘区に生まれる。本名は貞三。大阪美術工芸学校に学んだ後(病気の為に中退)、1937年から阪急電鉄宣伝課で商業デザインの仕事に就く。
1952年渡仏。日本画を学んだこともある菅井の作品は、東洋的なエキゾティシズムをたたえたものとして、パリの美術界で高い評価を与えられた。当初はアンフォルメルの影響を受けた、象形文字のような形態を描いていたが、1962年頃から作風は一変し、幾何学的な形態を明快な色彩で描いた「オートルート」のシリーズを制作するようになる。
菅井は無類のスピード狂であり、愛車のポルシェで高速走行している時に浮かぶビジョンが制作のモチーフになっているという。1967年にはパリ郊外で交通事故を起こし、頸部骨折の重傷を負うが、一命はとりとめた。
1970年代からは、ほとんど円と直線の組み合わせから成る、より単純化され、無駄を省いた作品を描くようになった。モチーフはほとんど機械的に組み合わされ、一つひとつのモチーフは正確に描かれる。それは、高速走行中にもドライバーによって瞬時に把握される必要のある、道路標識にどこか共通したものがある。
彼の「無駄を省く」姿勢は実生活にも及び、朝食、昼食、夕食のメニューはそれぞれ決まっていて(たとえば朝食はコーヒーとチーズ、昼食はスパゲッティ・トマトソースとソフトサラミなど)、同じメニューを1年365日、20年間食べ続けたという。
晩年には「S」字のシリーズを描き続けた、「S」は「スガイ」の「S」であるとともに、高速道路のカーブをも意味している。菅井は「なぜ同じ絵を描き続けてはいけないのか」と問い、同じパターンを描き続けること行為自体に個性があると考えた。リトグラフやシルクスクリーンの作品も多く残した。
経歴
ピッツバーグのカーネギー国際絵画・彫刻展
サロン、デ・レアリテ・ヌーヴェル
サロン・ド・メ
パリ青年ビエンナーレ展
サンパウロ・ビエンナーレ展(1965年最優秀外国作家賞)
カッセルのドクメンタ展
リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展(1959年受賞)
東京国際版画ビエンナーレ展(国立近代美術館賞)
日本国際美術展(優秀賞)
東京国際版画ビエンナーレ(国立近代美術館賞受賞)
グレンヒェン国際版画トリエンナーレ展(大賞)
ヴェネツィア・ビエンナーレ展(1962年デヴィット・ブライト基金賞)
クラコウ国際版画ビエンナーレ展(1966年大賞)
ノルウェー国際版画展(名誉賞)
東京国際美術館壁画担当
アメリカ映画「悲しみよこんにちは(1957年作品)」にスタッフとして参加(画中に作品使用)、タイトルロールにも名前が出る
ウィーン現代フランス絵画展
代表作
侍(1960年、油彩、国立国際美術館)
朝のオートルート(1964年、油彩、東京国立近代美術館)
ハイウェイの朝(1965年、油彩、兵庫県立美術館)
まるい森(1968年、油彩、滋賀県立近代美術館)
フェスティヴァル・ド・バル(1971年、アクリル、国立国際美術館)
12気筒(全体)(1972年、アクリル、京都国立近代美術館)
空間「力学」(1983年、アクリル、国立国際美術館)

高橋 玄輝(たかはし げんき、1910年12月18日 – 1978年6月25日)は、兵庫県出身の日本画家。
師である前田青邨を彷彿とさせる華麗な武者絵や、日本古代の人物たちを題材にした素朴な歴史画を中心に端正で味わいのある独自に境地を切り開き、武者絵の後世に残る画法を確立した。
青邨門下で院展系作家として、その俊才ぶりを遺憾なく発揮し、院展、京都中心の院展系作家尚院会展、現代美術京都秀作展、京都市美術展覧会等々に出品した。
昭和17年第29回院展で「義家と朗等光任」で初入選。その後昭和21年の第31回院展から、亡くなる前年の昭和52年まで32回連続入賞、奨励賞及び白寿賞2回、無審査4回、昭和39年日本美術院より「特待」に推挙、昭和40年第4回現代美術京都秀作展に於いて「四天王」が最優秀作に選ばれた。

髙橋 忠雄(たかはし ただお、男性、1932年3月11日 – 2012年5月23日)は、兵庫県加西市生まれの洋画家、彫刻家、陶芸家である。34歳の若さで二科会彫刻部会員となり、木彫をはじめ、石膏、ブロンズ、金属、陶芸等あらゆる素材を駆使した立体を得意とした作家。1981年49歳に脳梗塞で倒れ、半身不随の車椅子生活ながら絵画制作を行う。大作を続々と国内外に発表し髙橋芸術を確立。立体、平面とも日本国内外に多数作品が収蔵されている作家。

略歴
1932年 兵庫県加西市に産まれる
1960年 二科展彫刻(特選)受賞
1965年 二科展彫刻(金賞)受賞
1966年 二科会彫刻部「会員推挙」
1967年 – 1990年 二科展で審査員を勤める
1968年 米国ワシントン州立博物館に彫刻作品贈呈(地方自治体買上)
1969年 – 1981年 JR姫路駅前「しらさぎの群」他、姫路市内の彫刻モニュメント67点制作
1982年ライオンズクラブの依頼によりJR播州赤穂駅前にモニュメント”大石内蔵助像”制作
1983年 兵庫県立北条高等学校[緞帳]デザイン制作
1984年 加西市美術家協会2代目会長就任
1989年 詩集「加西石仏・石の音」発刊
1990年 二科会彫刻新会を退会、絵画に転向/芸術文化団体半どんの会「文化芸術奨励賞」受賞/大阪府立現代美術センターにて個展「水の指標」を開催/天理美術展「奨励賞」受賞/等迦展の審査委員となる
1991年 大阪府立現代美術センターで個展「幽玄の標」を開催
1992年 第14回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/現代美術白峰展で芸術選賞を受賞、審査員となる/大阪府立現代美術センターで個展を開催
1993年 ブラジルクリチバ市制300周年記念モニュメント制作/第15回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/彫刻作品”破調”が加西市の買い上げとなる/等迦展(瑛九賞)受賞。大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/ABCギャラリーで個展を開催
1994年 春日水彩画展で「大賞」を受賞、作品買上となる
1996年 大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/国際芸術交流展「96審査委員会賞」受賞/国際美術大賞展イタリー96「奨励賞」受賞/現代美術白峰展「文部大臣賞」受賞/氷上町立植野記念美術館に絵画1点が収蔵される/姫路市立美術館に作品が収蔵される
1997年 姫路市美術文化賞「芸術年度賞」受賞
1998年 阪急百貨店美術工芸サロンで個展「ー華ー高橋忠雄絵画展」を開催
1999年 氷上町立植野記念美術館主催「収蔵作家紹介シリーズ・高橋忠雄展~水と森~」が開催される
2000年 ニューアート・ZERO会結成(初代会長就任)
主な作品収蔵先
三洋電気(彫刻1点)/米国ワシントン州立博物館(彫刻2点)/ベルギー国 国王(彫刻2点)/岡山県 藤原啓美術館(彫刻2点)/姫路市(彫刻67点)/姫路市立美術館(絵画1点)/赤穂市(彫刻1点)/兵庫県(彫刻3点)/兵庫県立美術館(絵画1点)/兵庫産業(株)(絵画1点・彫刻3点)/(株)千石(彫刻2点)/芦屋市エンバ美術館(絵画2点)/加西市(絵画1点・彫刻3点)/ブラジル国クリチバ市(彫刻1点)/春日町(絵画1点)/氷上町立植野記念美術館(絵画4点)/姫路信用金庫(絵画1点)/イスラエル国テコテン市日本美術館(絵画1点)/丹波新聞社(絵画1点)/姫路赤十字病院(絵画1点)/(株)ショウワ(絵画1点)

永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 – 2008年6月24日)は、洋画家。兵庫県尼崎市出身。兵庫県三木市にて死去。

来歴・人物
本名・永田龍太郎。同月初日(1916年4月1日)に市制施行したところの同月24日に尼崎市にて生まれ、阪神間(現在の大阪市福島区や現在の西宮市、現在の宝塚市)で育つ。
中等学校在学時に田村孝之介に師事する。旧制甲陽中学校卒業後、信濃橋洋画研究所において絵画制作の研鑽に励む。
その後、日華事変、太平洋戦争の間に二回召集され中国南部、現在のベトナム、シンガポール、マレーシア、タイそしてビルマと転戦したがその際にも軍の許可を受けて制作を続け、1942年予備役のときには大阪市において開催された太平洋戦争美術展に作品を出展した。そして、1945年8月再度の召集地である和歌山県御坊市で終戦を迎えて同年9月に復員。
1946年、現在の三木市に移住する。1947年から1971年3月まで現在の三木市役所に勤務しながら、製作活動をおこなう。
定年退職後はスペインやポルトガル、イタリア各地、スイス、ロンドンそしてパリ等へデッサン旅行に出かけ、その後は台湾にも行き精力的に制作活動に励んでいたが、1992年の秋に自宅にて脳梗塞で倒れて左半身麻痺の後遺症がのこる。リハビリテーションで、歩行訓練を受けつつ利き手の右手で絵画制作に励む。
2008年6月24日(火曜日)の早朝に、運び込まれた三木市内の病院にて死去する。

西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年 – 2002年)は、昭和時代から平成時代にかけて活躍した洋画家。
神戸市に生まれる。1939年~1941年の京城での従軍中に画家になる決意を固め、帰国後1942年に小磯良平の師事を受けた後、日本大学専門部芸術科に入学する。卒業後、小磯良平に誘われて新制作派協会(後の新制作協会)に参加し、その後の主たる活動の場とした。

作風
作品の主題は一貫して建造物で、作風は初期の叙情的風景画から次第に想像上の空間を組み合わせたシュールレアリズム的風景画へと変化し、さらに1953年に発表した「洞」「空間」が高い評価を受けて以降は抽象化した建物の構造体による多次元的広がりをもつ空間の表現へと移行する。
主な作品
『気象台が見える』(1949年)
『廃墟』(1950年) – 神戸市蔵
『競技場』(1951年) – 兵庫県立美術館蔵
『段を登る人』(1951年) – 神戸市立博物館蔵
『洞』(1951年) – 神戸市立小磯記念美術館蔵
『空間』(1951年) – 神戸市立小磯記念美術館蔵
『階段』(1957年) – 頌栄保育学院蔵
『吊橋』、『造船』 – 岡山大学蔵
略歴
1917年12月25日 – 兵庫県神戸市元町通1丁目、西村蘭更堂薬局に、父・光雄、母・まさの三男として生まれる
1942年 – 小磯良平の師事を受ける。日本大学専門部芸術科に入学。川端画学校洋画科に在籍。
1944年 – 日本大学専門部芸術科卒業
1948年 – 頌栄保育専攻学校(現・頌栄短期大学)の絵画講師に就く
1953年 – 新制作展で「洞」「空間」が新作家賞受賞
1958年 – 新制作協会会員に推挙される
1971年 – 兵庫女子短期大学教授に就く
1980年 – 神戸市文化賞受賞
2002年 – 神戸市灘区の自宅で逝去

橋本 関雪(はしもと かんせつ、1883年(明治16年)11月10日 – 1945年(昭和20年)2月26日)は日本画家。本名は貫一。

生涯

『遅日』(1913年)
橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。父・海関は橋本文水(播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。
父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年(大正2年)と1914年(大正3年)の文展で二等賞。1916年(大正5年)と1917年(大正6年)の文展で特選を受賞。帝展審査員を務め1934年(昭和9年)12月3日、帝室技芸員に選ばれる[1]。1935年(昭和10年)に帝国美術院、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員となる。1940年(昭和20年)、建仁寺襖絵を製作。
1945年(昭和20年)に没し画号の由来となった逢坂の関 のあった滋賀県大津市の別邸・走井居(月心寺)の墓地に眠る。
人物
関雪の号は藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見、その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたという。果たして翌年、兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。
中国古典に精通したことでも知られ、たびたび中国へ渡った。京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。庭を営むことが多く大津に走井居、明石に蟹紅鱸白荘、宝塚に冬花庵という別邸を造営した。また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。
代表作品

『秋圃』(1939年)
琵琶行(1910年) 川村記念美術館蔵
遅日(1913年) 足立美術館蔵
南国(1914年) 姫路市立美術館蔵
猟(1915年) 白沙村荘 橋本関雪記念館蔵
寒山拾得(1917年) 林原美術館蔵
木蘭(1918年) 川村記念美術館蔵
意馬心猿(1928年)京都国立近代美術館蔵
長恨歌(1929年) 京都市美術館蔵
玄猿(1933年) 東京芸術大学大学美術館蔵
暮韻(1934年) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
唐犬図(1936年) 大阪市立美術館蔵
防空壕(1942年) 東京国立近代美術館蔵
香妃戎装(1944年) 衆議院蔵

橋本 信(はしもと まこと、1953年 – )は、日本画家。女子美術大学教授。

来歴
大阪府生まれ。1977年東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。日本画家で伯父(後の父)の橋本明治に師事。1986年に明治の養子となり、本名は信、雅号は弘安(こうあん)で作品を発表している。
1986年女子美術大学日本画専攻講師に就任。1994年日展審査員(現在は評議員)、女子美術大学助教授を経て、1997年に同教授に昇格。2004年女子美術大学日本画専攻主任教授、2007年女子美術大学大学院美術研究科長、2011年女子美術大学芸術学部長。
1990年頃の秋頃から自作天然顔料で制作している。

長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年 – 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民芸運動を支えた板画家である。

略歴
1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。
そのころに吉田璋也と出会い民芸運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。全国的に活動しながらも終生倉吉を本拠にし、鳥取県の芸術の振興に寄与した。2004年(平成16年)8月19日、敗血症のため死去。
作風
作品は墨一色から裏彩色、多色摺りまで多種多様であるが、いずれも明快かつ力強い表現で、河井寛次郎と棟方志功の影響を見て取れる。

東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日 – 1999年(平成11年)5月6日)は、日本の画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。

来歴・人物
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として横浜市に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進学。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に「山国の秋」を初出品し、初入選を果たす。美術学校を卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。1940年には日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚。1945年応召し、熊本で終戦を迎える。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に一旦落ち着く。11月に母が死去すると千葉県市川市に移り、その後1953年には大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画「黄山暁雲」は畢生の大作となった。千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出した。東山は黄山を「充実した無の世界」と表現した。混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネルギーを感じ取った。この計画を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになった。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。川端康成とも親交が深かった。
ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。また、瀬戸大橋の色を提案したことでも知られる。
生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈。長野県は長野県信濃美術館に「東山魁夷館」(谷口吉生設計)を増設し、寄贈された作品の常設展示にあてている。その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館、父方の出身地である香川県の「香川県立東山魁夷せとうち美術館」にも、版画を中心とする作品が寄贈されている。戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して市川市立「東山魁夷記念館」が開館した。また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄贈された約500点の版画を収蔵する「東山魁夷 心の旅路館」が、岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にある。

松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年7月9日 – 1938年3月2日)は、大正・昭和初期にかけ活動した日本画家。本名は輝夫。

生涯
播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3名兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5名で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。
幼少時に、長兄鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。その時分より歴史画、特に武者絵を好み、日本画家を目指した。明治28年(1895年)最初は狩野派の橋本雅邦に学んだが、鎧を描くのが大好きだった映丘には合わず半年ほどで通わなくなり、明治30年(1897年)兄の友人田山花袋の紹介で、今度は住吉派(土佐派の分派)の山名貫義に入門する。そこで本格的に大和絵の歴史や技法、有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)を研究するようになる。
明治32年(1899年)に東京美術学校日本画科に入学し、ここでは川端玉章、寺崎広業らの指導を受ける。また在学中に小堀鞆音や梶田半古、吉川霊華らの「歴史風俗画会」に参加している。明治37年(1904年)に首席で卒業し、神奈川県立高等女学校と当時併設されていた神奈川女子師範学校の教諭を務めた。明治41年(1908年)東京美術学校教授の小堀鞆音の抜擢で同校助教授に就任する。1912年の第6回文展において「宇治の宮の姫君たち」が初入選すると、以後官展を舞台に活動した。
1916年には「金鈴社」の結成に参加、更に1921年には自ら「新興大和絵会」を創立し、大正・昭和にかけて大和絵の復興運動を展開した。この会は1931年には解散したが、『絵巻物講話』(中央美術社)や、編著『図録絵巻物小釈』(森江書店、1926年)を著し、1929年には『日本絵巻物集成』(雄山閣)や『日本風俗画大成』(全10巻・中央美術社、復刻国書刊行会)の編纂を行った。
1928年秋に昭和天皇御大典を奉祝した記念絵画を納めている。1929年、第10回帝展に出品した《平治の重盛》で帝国美術院賞を受けた。1930年に帝国美術院会員に選ばれた。
1935年帝展の改組で画壇が大きく揺れ、映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成した。1937年には帝国芸術院会員となるが、1938年に死去。56歳没。墓所は多磨霊園。

山口 啓介(やまぐち けいすけ、1962年1月6日 – )は美術家。兵庫県西宮市出身。武蔵野美術大学を卒業後、大型銅版画作品で数々の賞を受賞し鮮烈なデビューを遂げる。 その作風から「方舟」や「宇宙船」のモチーフ、また宇宙的、生命的イメージが知られることとなる。 以降、立体、絵画、インスタレーションなど、さまざまなメディアによる作品を展開する。 1997年に発案した音楽用カセットケースと花や植物を使った作品「カセットプラント」が注目される。2009年-2013年武蔵野美術大学客員教授。

経歴
1962年西宮市に生まれる。祖父は兵庫の寺(浄土宗)の住職で、祖父亡きあと父が住職をつとめる。当時サラリーマンだった父の転勤で大阪府枚方市、福岡県福岡市、東京都世田谷区と転居をくりかえす。実弟はアートディレクターの山口アツシ。大学時代から東京都福生市の米軍ハウスに居住し制作。大学では油絵を描いていたが授業で銅版画を経験したことがきっかけで制作をはじめる。卒業後、同大学の研究室に入る。この頃に山口自身が恩人と語る池田満寿夫と出会い、満陽工房で銅版画制作の手伝いをしながら自身の作品をつくる機会を得る-《水船のためのsketch-満陽工房で》(1989年)。1989年からの2年間で集中的に大型銅版画にとりくむ。1990年ヒルサイドギャラリー(東京)で初個展。1992年、Asian Cultural Councilの助成によりニューヨーク滞在、同年文化庁芸術家在外研修員としてフィラデルフィア(ペンシルベニア大学)に派遣。このとき大型組み合わせ銅版画の中で最も大きい作品となる《エノラ・ゲイ》の制作にとりかかる。1994年《エノラ・ゲイ》を含む銅製の船の立体作品などと組み合わされたインスタレーション《Calder Hall Ship Project》を発表。1995年に大阪トリエンナーレ1994の関西ドイツ文化センター・デュッセルドルフ市特別賞により渡独。ドイツ、デュッセルドルフ市から提供されたアトリエで《原子力発電所》《象の檻》《世界地図》の3つのシリーズからなるドローイングを制作する。その後、引き続きアトリエ・ヒューアベックの助成を受けデュッセルドルフに滞在。1997年に帰国後、キャンバス絵画《コロニー》シリーズと、カセットプラントを発表。1998年以降、カセットプラントによるワークショップなど活動を広げる。2001年ごろ、ゲーテの原植物の概念や、三木成夫の考えに触発され、植物と人間のアナロジー的絵画作品《花の心臓》シリーズを制作、発表。2005年、イラクの劣化ウラン弾に被曝した子供を描いた《DU Child》を、初めての木版で制作。2011年3月11日以降、《震災後ノート》を付けはじめる。2013年、瀬戸内国際芸術祭2013で男木島に歩く方舟を制作。同年いわき市立美術館でhakobune プロジェクトを開催。2001年から、東京と兵庫に在住、制作。

横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 – )は、兵庫県西脇市生まれの美術家、グラフィックデザイナー。西脇市名誉市民。
幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。死の世界に憧れを抱く。神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。三島由紀夫に出会い三島の「聖俗一体」的言動に触発される。三島の死をきっかけにその後の15年間をオカルティズムや神秘主義まで包括した精神世界に傾斜してゆくが、それらが大いなる錯覚だったと気づき「私」の探求の延長線上で絵画に出会う。精神世界と絵画は全く別の存在だと考えていたが、後にこの両者が自分すら知らない深いところで結びついていると感じるに至る。向田邦子脚本によるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年・TBS)では、倉田という謎の多い人物を演じた。長女の横尾美美も美術家。

経歴

横尾が生まれ育った西脇市中心部と童子山(中央の森)の180°展望(生活文化総合センター 屋上より)

西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)

暗夜光路N市-Ⅴに描かれたY字路

横尾の作品展示と保存を目的する岡之山美術館(西脇市、1984年開館)

2013年7月開館の 豊島横尾館
1936年 – 兵庫県多可郡西脇町(現在の西脇市)に成瀬光政とツヨの次男として生まれる[2]。
1939年 – 2-3歳の頃に、呉服商であった叔父の横尾誠起と輝恵夫妻の養子に入り、かわいがられて育つ。幼いころから絵本の模写をしていた。
1941年 – 5歳にして「講談社の絵本」、石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写。画才を現す[2]。
1943年 – 西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)に入学。漫画を描くようになり『漫画少年』誌に投稿。
1945年 – 9歳。1月より神戸の空襲が開始され3月と6月の空襲は被害が甚大であった。西脇は空襲を免れたものの、西脇から神戸や明石の空が赤く染まるのが見えた。
1946年 – 母とともに大阪の鶴橋の闇市に米や織物を売りに行くが、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。
1948年 – 『漫画少年』に漫画を毎月投稿。
1949年 – 市立新制西脇中学に入学。
1950年 – 南洋一郎、鈴木御水の『バルーバの冒険』、山川惣治の『少年王者』や江戸川乱歩の少年ものなどに熱中。
1952年 – 16歳。兵庫県立西脇高等学校に入学。「郵便友の会」を作る。通信教育で挿絵を学び、油絵やポスター制作を開始する。高校学園祭のために、ポスターを初めてデザイン。エリザベス・テイラーにファンレターを送り返信があったことが地元紙で報じられる。朝鮮特需により西脇の繊維工業が活況[2]。
1954年 – 18歳。武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展などに相次ぎ入賞[2]。
1955年 – 武蔵野美術学校受験のために上京するが、前述の教師の助言もあり断念。西脇市織物祭のポスターが1等入選。郵便局員志望だったが、加古川の成文堂印刷所に入社。
1956年 – 神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社。
1957年 – 灘本唯人らのデザイングループ「NON」に参加。神戸新聞会館勤務だった谷泰江と結婚。
1958年 – 22歳。第8回宣美展で奨励賞を受賞。会員に推挙される。
1959年 – 23歳。神戸新聞社を退社。大阪のナショナル宣伝研究社に入社。
1960年 – ナショナル宣伝研究社の東京の移転とともに上京。日本デザインセンターに入社。安保反対のデモの後でタクシーのドアで指をはさみ骨折。
1961年 – 25歳。京都労音のポスターを制作する。
1962年 – 26歳。大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。
1963年 – 27歳。東京ADC賞銅賞を受賞。
1964年 – 長女誕生。ハイレッド・センターのシェルター計画に参加。宇野亜喜良、原田維夫と「スタジオ・イルフィル」結成(翌年、解散)。和田誠、篠山紀信らと東京オリンピック期間中にヨーロッパ旅行。
1965年 – 吉田画廊の個展にて三島由紀夫と出会う。後に共に仕事をする。
1967年 – 寺山修司の「天井棧敷」に参加。 ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。
1969年 – 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。
1970年 – 写真をはじめる。大阪万博でせんい館のパビリオンの建築デザインを担当。ロンドンを旅行。足の動脈血栓で入院、左足切断の危機を東洋医学で免れる。これを機に1-2年間の休業宣言。11月25日、三島由紀夫が自決。その3日前に横尾は三島に電話をしたが、その日は盾の会のメンバーと5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話では様々な話をしたが最後に三島は、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる。
1972年 – ニューヨーク近代美術館で個展を開催。
1974年 – 篠山紀信とインド旅行。この後何度もインドを訪れるようになり精神世界に興味を深める。
1981年 – 渋谷西武で大規模な個展。
1982年 – 南天子画廊でペインティングの近作をまとめた個展。横尾忠則の「画家宣言」ととらえられた。画家としての活動が活発になっていく。
1987年 – 兵庫県文化賞を受賞し、兵庫県公館に作品が展示保存される。
1995年 – 毎日芸術賞受賞。
2001年 – 紫綬褒章受章。
2002年 – これまでで最大規模の個展「横尾忠則森羅万象」開催。多摩美術大学大学院教授に就任(2004年まで)。
2004年 – 故郷のそばを走るJR加古川線電化開業、それにあわせ、ラッピング電車のデザインをし、同線で運行開始される。
2004年 – この年から、多摩美術大学大学院客員教授(博士課程)に就任。
2008年 – 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。
2010年 – 神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。
2011年 – 旭日小綬章受章。
2012年 – 常に時代と共振する斬新なグラフィックデザイン・絵画の制作により2011年度朝日賞受賞。
2012年 – 11月3日 神戸市灘区に横尾忠則現代美術館開館。
2013年 – 6月27日 西脇市名誉市民称号受章。
2013年 – 7月 豊島横尾館開館。
2014年 – 1937年(昭和12年)建造で昭和初期の面影を色濃く残し、2008年には兵庫県の景観形成重要建造物になった西脇市立西脇小学校の校舎が取り壊されるかも知れないという危機を知り、建替えに反対、保存改修による使用を強力に提案。ノスタルジーからではなく、市民の文化の高さを誇る象徴としての建造物が存在するということを自慢できる。市民一人ひとりが誇りを持っていただきたいと発言。教育の場の経済至上主義、物質主義に警鐘を鳴らした。同校舎は映画「火垂るの墓」「人間失格」のロケにも使われている。その結果、校舎3棟の保存が決まった。
2015年 – 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。6月、西脇市商業連合会が、西脇市内在住者を対象とし、市内の主要な店舗で使用できる横尾のデザインによる「西脇Y字路お買い物券」を、3億円分発行。
幼少期
2-3歳ころに、成瀬家から呉服商をしていた横尾家へ養子に行く。父(養父)は店を構えていたわけではなく、自転車の荷台に着物や反物を積み、料亭などに売り歩いていた。小学校に上がる前まで横尾は父のこの営業によく同行した。『想い出と現実の一致』は、この際の記憶を作品にしたものである。横尾が幼少期を過ごした西脇は綿織物(播州織)を特産としていたため、織物や反物は身近な存在であった。横尾のデザインや絵画の原典のひとつには、播州織の影響が指摘される。
母の背で意識した死
2歳のある日、多可郡西脇町(現・西脇市)のはずれにあった実家の近くの橋が台風による氾濫で流され仮設の橋が架けられた。小さな板が打ち付けられているばかりの浮き橋で、父が自転車を押しながら安全を確認しながら進む後を母に背負われた横尾は河原から不安な気持ちで見つめていた。母の背中の温もりを通し、両親の心がそのまま大きな愛になって伝わるのを感じる。しかし、同時に死の観念に襲われる。この親子の関係がいつまでも続くはずがないという感覚だった。横尾は両親が50代になってもらわれてきた養子であったため、横尾の眼には2人ともひどく年寄りに見えた。このため、両親と自分の関係が長く続かないのではという漠然とした恐れがあった。また、川の氾濫によって田畑が流され滅びるという自然のもたらしたカタストロフィー(この場合、大災害の意)の匂いの中で破滅的な終末の兆しを感じとった。これが記憶に残るこの世で最初に見た光景である。
3、4歳の頃、「自分はどこから来た人間なのだろう」としきりに考えるようになる。年老いた両親は果たして本当の親なのだろうか、と考えるが怖くて聞けなかった。母は、この横尾の不安に感づいたのかある日、試すような言い方で「ターちゃんは、橋の下でひろってきたんやで」と横尾の耳元でささやいた。横尾の耳の中でその言葉は何度も繰り返され、やがて棲みつくようになる。時空を超えたはるか遠い昔の出来事のように思えたが、誰かに捨てられたことに対しての悲しさはなく、甘酸っぱいロマンティックな物語の主人公になったような感覚があった。横尾には捨てられた場所は分かっていた。洪水で流され橋のずっと上流の橋の下だった。その橋は洪水で流され、原型をとどめていなくても間違いなくそこだという感覚があった。その後、横尾は両親と渡った橋と捨てられた橋の夢を何度も見るが、橋はいつも途中で途切れており、そこから先は細くて薄い板が1枚延びているだけだった。ただ、その先は別の世界につながっているという感覚だけがあった。それが後々まで映像として横尾の脳裏に残った。
死は終わりではない
自分の故郷はもう一つ別のところにあって、懐かしい故郷からやってきて今ここにいるが、いつの日にか再びその故郷に戻るのではないかという漠然とした予感を抱くようになる。物思いにふけることが好きで、外に飛び出し流れ星を待つと、いつもそれはすぐにやってきた。流れ星は懐かしい故郷の記憶を運んでくるように思え、この予感は毎日のように繰り返され、記憶の中で強まっていく。母に家の近くの坂上の地蔵堂によく連れていかれたが、母は涎掛けを縫っては地蔵に掛けるのだった。横尾の記憶の中でその地蔵は自分自身になっていた。石になって動かない僕の遺骸に母は弔いの気持ちを込めて涎掛けを賭け続けるのだ。あるいは、僕は赤子で生命力にはあふれているが無力なので、ひたすら母は愛情を授けているのかもしれない、と横尾は感じていた。地蔵は生と死を兼ね備えると同時にはるか遠くの昔の世界につながっていく。
ガタロウと白昼夢
子供の頃、大阪の河内に住んでいた父は、横尾に沼でガタロウ(河童)に引き込まれて死にそうになった話をよくした。泳ぎがさして上手でない父はその沼を犬掻きで泳いでいたところ、いきなり強烈な勢いで足を引っ張られ水中に没した。もがきながら暗い水中で目を開けると緑色のガタロウがいた。横尾はその話しを何度も思い出すのだが、その沼がなぜか横尾自身が通っていた小学校の裏にある鬱蒼たる樹木に囲まれた小さな池になってしまう。父の話を思い出しながら変だなとふと顔を起こすと、父は横尾が捨てられた橋の下のごつごつした岩の上に座り、ガタロウの話をしている。そのうちに、父がいつの間にか実父に変っており、実父が釣りをしている風景が見える。横尾は、これは白昼夢なのだと気付いた。
賽の河原と閻魔大王
子供の頃、怖かった話に賽の河原の物語と閻魔大王がある。横尾はこれらの話を聞いて死後の世界の存在を信じるようになる。閻魔大王を本気で怖れ、そのためか20歳で結婚するまで童貞であった。ただし成人後は閻魔大王と眼も合わせられないようなことを多くしたため、ある程度の覚悟をし、その時の恐れを少しでも緩和するために、ときどき人生を振り返りつつ反省することとなる。
休養宣言

ピラミッドパワーを体感できる岡之山美術館・瞑想室。
1970年1月、タクシー乗車中の交通事故で生まれて初めての入院生活を経験。これを機に1-2年間の休業宣言を行う。この間も全作品展の開催やエッセイの連載、写真や小説などの新分野への進出を行っており、仕事をやめていたわけではない。横尾の休業宣言は、大阪万博のこの年、「人類の進歩と調和」のスローガンに浮かれていた世間に対する尖鋭的な表現でありえたし、1960年代以降の横尾の反体制的指向を象徴する出来事として受けとめられた。しかし9月には原因不明の足の痛みによって2度目の入院を余儀なくされ、ほとんど歩行不可となってしまう。深刻な病状に高倉健や浅丘ルリ子らも見舞いに訪れる。そんな中にあって、三島由紀夫だけが横尾に対し仕事をするように激しく叱咤激励した。三島が横尾に何としても仕上げさせたかったのが、細江英公の三島の写真集『新輯薔薇刑』の装幀(90頁)であり、篠山紀信撮影による写真集『男の死』の撮影であった。三島は自分の撮影を終えており、しきりに横尾に催促した。同年の後の三島の自決によって、横尾は大きな衝撃を受けその後も横尾の心を捉え続けることになる。三島の姿やイメージはのちの横尾の作品中にいく度となく登場する。写真集『男の死』は、その後封印されたままとなった。
画家宣言

ニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」は横尾をグラフィックデザイナーから画家へと大きく転身させる。
転身のきっかけはニューヨーク近代美術館での「ピカソ展」であった。横尾自身、旅行前までまったく考えなかったことだが、美術館の入り口をくぐる際にはグラフィックデザイナーであった横尾は2時間後の出口に立った時には、「まるで豚がハムの加工商品になって工場の出口から出てくるように僕は『画家』になっていた」(横尾自身の言葉)のである。画家宣言がいつどこで行われたかは不明だが、1981年の個展を記事にしたマスコミによって「死亡宣言」や「休業宣言」に続く事件として扱われたようだ。身動きも取れないほどの混雑したピカソ展で遅々として進みながら横尾の中では、ピカソの芸術と人生に吸収されるように意識の統合が起こり始め、自己の想いや感情に忠実に従う無垢さと正直さに自分自身の欺瞞性。あるいは心のガードの固さをいやというほど見せつけられるとともに言いようのない解放感に恍惚としたという。難波英夫は、横尾はあの日の「ピカソ展」にインスパイアされ、自分の本能に目覚めたと述べている。
作家論・業績

横尾忠則デザインの加古川線のラッピングカー

住吉屋(西脇銘菓へそ最中) – 包装紙が横尾忠則デザインによる。1999年12月6日横尾が来店し、「包装紙48年間使っていただいて感謝」の色紙を残す。その後も何度か訪問している。

横尾の個人美術館である横尾忠則現代美術館(神戸市、2012年開館)
幅広い作風でジャンルを超えて活動。油絵、オフセット印刷、テクナメーションや立体など技法は多様である。また先行する作品を引用や模写の形で作品に取り入れることも多い。絵を描くことを愛だと表現し、理論や状況分析によって制作する立場はとらない。また、興味をもった対象は膨大な量をコレクションする。それは作品のモチーフになり、時に引用される。1980年代後半から滝を描き続けたときは膨大な滝のポストカードを収集し、コレクション自体も作品化した。2000年からの「暗夜光路」シリーズでは、故郷・西脇市で幼少時によく通った模型店付近にあるY字路を集中して描いた。
何度もインドを訪れている。宇宙人や霊的な存在についての言及もあり作品の評価の際にも関連が指摘される。本人も霊感が強く、心霊と会話することが出来ると言う。きっかけは1970年代に宇宙人に、首のところへ送受信装置を埋め込まれ、それにより霊界との交信が可能になったという(『大霊界~丹波哲郎の世界』の対談より)。それらに関するいくつかの著書も出している。
メディア型美術家と評されるほど、各種メディアへの登場頻度が高い。自身の公式サイトにて発表している、ひと言風の日記「YOKOO’S VISION(横尾忠則 昨夜・今日・明日)」は更新頻度も高く、訪問数も高い。
『週刊少年マガジン』の表紙や、マイルス・デイビスのアルバム『アガルタ』、サンタナのアルバム『ロータスの伝説』『アミーゴ』などのジャケット、1979年貴乃花・1981年千代の富士貢の化粧廻し、宝塚歌劇団のポスター、マツダ・コスモスポーツの海外向けカタログなどもデザインしている。
また、多くの異なるジャンルの作家と交流を持ち、共同で仕事をしている。岡本太郎、谷内六郎、高倉健、三島由紀夫らを敬愛している。
2005年、資生堂が3月に発売した発毛促進剤「薬用アデノゲン」のテレビコマーシャルに対し、「アイデアやコンセプトが私の作品と類似している。広告の作り手の主体性とモラルを問いたい」と抗議。直後に資生堂はCMの放映をやめた。類似していると指摘した横尾自身の作品とは、鏡面床の空間に大量の滝のポストカードをビニールに差込み、壁面3面に展示するものであった。この件に関して、
アンディ・ウォーホル、荒木経惟など、数多くの芸術家が実践してきた手法であり、インスタレーションの手法としては一般的である。
1990年の「GOKAN」というエキジビションで、テレビCMを手がけたタナカノリユキは、底を鏡面にした作品をすでに発表している。
横尾は滝のポストカードだったのに対して、CMは商品対象になる人物たちのモノクロ顔写真である。
などのことから、模倣という指摘に疑問をもつ声も挙がっている。また、タナカノリユキは模倣を否定している。
三宅一生との関係
三宅一生との出会いは1975年の篠山紀信の写真展「家」の会場だった。パリ・コレクションの出品作に横尾のポスターをプリントするという着想を得た三宅が「家」のオープニング会場で横尾を待ち伏せし、使用許可を申し出、横尾はこれを受け入れた。横尾は特にイタリアのコモで行われる布帛の抜染というプリントの技法に興味を示した。後に横尾は「生地って歪むんだね」と真顔でつぶやき服飾関係者の爆笑を買う。が、後に三宅にとってこの言葉は次第に重みを増してくる。歪むことで美の可能性を美術の制度的規範で束縛された美の空間的概念とは異なる創造的ヒントを横尾は直感した。一方、三宅は横尾作品のプリント生地を制作したものの、その布地を裁断できなくなってしまう。ここから三宅は新たなるファッションのコンセプトを開拓してゆく。さらに、横尾が描いたポスターがをプリントした1枚の布を三宅が仕立てた服をモデルが着こなすという重層的な段階を経て絵(服)は一瞬たりとも同じであることはできない歪みの源泉となった。ここに歪みの美しさと創造性が新たに示されることとなる。
ラッピング電車
2004年12月から2012年11月まで、加古川から丹波市谷川に至り途中西脇を通過するJR加古川線では、横尾の絵で車体を包み込むラッピング電車が公開された。主題は5種類あり、複数のバリエーションも存在した。「ターザン」と「三島由紀夫」をモチーフにしたものもあったが、車体化は実現しなかった。
第1の主題 – 「見る見る速い」
鮮やかな色彩の正方形の組み合わせの下地に無数の眼が浮かび上がる図柄。電車の模様は見る人の目を楽しませるものだという常識に反抗し、人間が電車から見られる。妖怪「百目」や「目目蓮」にも似たものであった。
第2の主題 – 「銀河の旅」
円形に輝く多くの星の光がモチーフになっており、輝きの内部にさらに無数の輝きがあり多元的宇宙構造を描き出している。
第3の主題 – 「滝の音、電車の音」
5つの主題の中では最も自由で大胆なデザイン。横尾が偏愛する滝の風景と電車の音の照応が斬新な効果を生む。
第4の主題 – 「走れ!Y字路」
暗い色調のY字路の絵柄は、田園地帯の明るい直線の多い加古川線では激しいコントラストを生み、遠くから眺めると蒸気機関車の疾走にも見える。
第5の主題 – 「ターザン」
横尾が得意とするポップアート的作風で、咆哮する野生児的な美青年が、サイズや色を変え反復される。バリエーションに散水用のホースを咥えた『薔薇刑』の三島由紀夫の図柄もある。「ターザン」は実際に車両として走ることはなかった。

和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 – 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。

経歴
旧朽木藩の御典医であり、その後生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。兄・宗英が大牟田市の鉱山業に従事したため、1896年(明治29年)、13歳の時に一家をあげて福岡市に転居する。大名尋常小学校を経て、翌1897年(明治30年)、福岡県立尋常中学修猷館に進学するが、1899年(明治32年)、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、長尾建吉の斡旋で黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事する。
1901年(明治34年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。1902年(明治35年)、八丈島への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち伊豆大島へ漂着しており、これが後の『南風』制作の契機となった。
1904年(明治37年)、東京美術学校を卒業し、1905年(明治38年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞[1]。『南風』は、明治浪漫主義の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年(明治41年)の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。
1909年(明治42年)、文部省美術留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。その帰途、1914年(大正3年)、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年(大正4年)に帰国。1917年(大正6年)、文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年(大正9年)、染色芸術研究所、1925年(大正14年)、日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。
この頃、1923年(大正12年)からは、本格的に日本画の制作に取り組んでいる。翌1924年(大正13年)、日本と朝鮮の双方の羽衣伝説を題材とした、朝鮮総督府庁舎の大壁画『羽衣』を制作している。
1927年(昭和2年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。その後、1938年(昭和13年)には西宮にあった品川清臣による京都版画院という版元から『昭和職業絵尽』シリーズの第1作として「洋楽師」と「巡礼」という木版画を発表。この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956年(昭和31年)、続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている。
1932年(昭和7年)には東京美術学校図案科教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務めている。1945年(昭和20年)、日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し、理事長に就任。1951年(昭和26年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。なお、『地獄門』は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれている。
1967年(昭和42年)8月22日、誤嚥性肺炎のため東京逓信病院で死去。享年84。
娘は1939年6月23日に有馬大五郎と結婚した。

植松 奎二(うえまつ けいじ、1947年-)は兵庫県神戸市生まれの芸術家。
兵庫県立御影高等学校、神戸大学教育学部美術科卒業。1969年京都での最初の個展を皮切りに、日本では大阪、ドイツではデュッセルドルフに居住しながら、1988年にはベニスビエンナーレ日本代表に選出されるなど国際的な活躍を続けている。70年代の観念的な作品群から、近年とみに増えた国内外における野外彫刻の設置にいたるまで旺盛な創作活動に一貫するものは、木、石、布、金属といった素材を時として、多彩に配置し、空間の異化を生み出すことで人間の知覚の背後に潜む普遍的な力-重力や磁場-を作品を通して確認させようとする試みである。2013年、『截接―軸・経度・緯度』で第38回中原悌二郎賞受賞。

パブリックコレクション
アート・カイト・ミュージアム(ドイツ)
リューネン市裁判所(ドイツ)
ミュンヘン空港
カルティエ現代美術財団(パリ)
旭川市彫刻美術館
国際芸術センター(青森)
ファーレ立川(東京)
愛知県図書館(「浮くかたち/傾」)
兵庫県立美術館
西宮市大谷記念美術館
北九州市立美術館
霧島アートの森(鹿児島)
JR山陰本線和田山駅前(兵庫)

牛尾 啓三 (うしお けいぞう、1951年10月20日 – ) は日本の彫刻家。兵庫県神崎郡福崎町出身。兵庫県立姫路西高等学校、京都教育大学を経て、京都市立芸術大学に学ぶ。

菊川 晋久(きくかわ のぶひさ、1932年 – )は、兵庫県出身の彫刻家。女性を中心とした人物像などを発表、その多くが神戸市内に野外彫刻として設置されている。

経歴
1932年、現在の兵庫県南あわじ市に生まれる。
1955年、日彫会展に出品、会友に推挙される。
1956年、現京都教育大学特修美術科(彫塑専攻)卒業。
2001年、神戸市文化活動功労賞を受賞。

新谷 琇紀(しんたに ゆうき、1937年7月26日 – 2006年8月31日)は、日本の具象彫刻家。

人物・来歴
「愛」をテーマに精緻で柔らかな作風を持つ。女性を中心とした人物像などを発表、その多くが神戸市内に野外彫刻として設置されている。
1937年7月、新谷英夫の長男として、兵庫県神戸市に生まれる。父を師として彫刻を始めた。 兵庫県立御影高等学校、金沢美術工芸大学を卒業後、イタリアのローマへ留学し、エミリオ・グレコらに師事する。神戸女子大学で教授職の傍ら、彫刻家として作品を発表してきた。 1971年12月28日、イタリア人モナイ・パトリツィアとイタリアにて結婚。ほとんどの女性の彫刻はパトリツィアがモデルになっている。 1973年に長女、1975年二女が生まれ、二人が新谷彫刻研究所を引き継いでいる。
2006年8月31日、肝不全のため69歳で死去。

髙橋 忠雄(たかはし ただお、男性、1932年3月11日 – 2012年5月23日)は、兵庫県加西市生まれの洋画家、彫刻家、陶芸家である。34歳の若さで二科会彫刻部会員となり、木彫をはじめ、石膏、ブロンズ、金属、陶芸等あらゆる素材を駆使した立体を得意とした作家。1981年49歳に脳梗塞で倒れ、半身不随の車椅子生活ながら絵画制作を行う。大作を続々と国内外に発表し髙橋芸術を確立。立体、平面とも日本国内外に多数作品が収蔵されている作家。

略歴
1932年 兵庫県加西市に産まれる
1960年 二科展彫刻(特選)受賞
1965年 二科展彫刻(金賞)受賞
1966年 二科会彫刻部「会員推挙」
1967年 – 1990年 二科展で審査員を勤める
1968年 米国ワシントン州立博物館に彫刻作品贈呈(地方自治体買上)
1969年 – 1981年 JR姫路駅前「しらさぎの群」他、姫路市内の彫刻モニュメント67点制作
1982年ライオンズクラブの依頼によりJR播州赤穂駅前にモニュメント”大石内蔵助像”制作
1983年 兵庫県立北条高等学校[緞帳]デザイン制作
1984年 加西市美術家協会2代目会長就任
1989年 詩集「加西石仏・石の音」発刊
1990年 二科会彫刻新会を退会、絵画に転向/芸術文化団体半どんの会「文化芸術奨励賞」受賞/大阪府立現代美術センターにて個展「水の指標」を開催/天理美術展「奨励賞」受賞/等迦展の審査委員となる
1991年 大阪府立現代美術センターで個展「幽玄の標」を開催
1992年 第14回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/現代美術白峰展で芸術選賞を受賞、審査員となる/大阪府立現代美術センターで個展を開催
1993年 ブラジルクリチバ市制300周年記念モニュメント制作/第15回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/彫刻作品”破調”が加西市の買い上げとなる/等迦展(瑛九賞)受賞。大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/ABCギャラリーで個展を開催
1994年 春日水彩画展で「大賞」を受賞、作品買上となる
1996年 大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/国際芸術交流展「96審査委員会賞」受賞/国際美術大賞展イタリー96「奨励賞」受賞/現代美術白峰展「文部大臣賞」受賞/氷上町立植野記念美術館に絵画1点が収蔵される/姫路市立美術館に作品が収蔵される
1997年 姫路市美術文化賞「芸術年度賞」受賞
1998年 阪急百貨店美術工芸サロンで個展「ー華ー高橋忠雄絵画展」を開催
1999年 氷上町立植野記念美術館主催「収蔵作家紹介シリーズ・高橋忠雄展~水と森~」が開催される
2000年 ニューアート・ZERO会結成(初代会長就任)

棚田 康司(たなだ こうじ、1968年 – )は、兵庫県明石市出身の彫刻家。
東京造形大学美術学部彫刻科卒業。東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。文化庁芸術家在外研究員としてベルリンへ留学。
2001年ベルリン滞在後からは「一木造り」という日本古来の木彫技法による華奢な少年少女の像を制作する現代彫刻家である。

主な個展
ギャラリー美遊(1994年)
ゆっくりと、肯定へ ギャラリーαM(1997年)
Domination & Submission – ミヅマアートギャラリー -(1999年)
「棚田康司」展 – ミヅマアートギャラリー -(2000年、2004年、2006年、2009年)
「棚田康司」展 – void+ -(2006年)
「棚田康司」展 – ヴァンジ彫刻庭園美術館 -(2008年)

津野 充聡(つの みつとし、1952年 -)は、兵庫県神戸市出身の彫刻家。女性を中心とした人物像などを発表している。

生涯
1952年(昭和27年) – 兵庫県神戸市に生まれる
1976年(昭和51年) – 東京造形大学彫刻科を卒業
1978年(昭和53年) – 愛知県立芸術大学大学院を修了
1979年(昭和54年) – 愛知県立芸術大学大学院研修科を修了
2010~兵庫県彫刻家連盟 代表

柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 – 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家の一人である。

略歴
兵庫県神戸市生まれ。1936年東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会受賞、1937年国画会同人。1939年新制作派協会彫刻部創立に参加する。戦後、1952年から5年間ヨーロッパに滞在する。1956年高村光太郎賞、1974年中原悌二郎賞大賞など受賞、1970年日本大学芸術学部主任教授。1996年文化功労者。

淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 – 2005年2月14日)は兵庫県朝来市生まれの彫刻家、文化勲章受章者。
削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。
大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。

略歴
1911年 – 兵庫県朝来郡朝来町佐中に生まれる
1948年 – 「老人胸像」で、二科展特別賞受賞
1965年 – 東京芸術大学教授就任
1972年 – 第1回平櫛田中賞受賞
1973年 – 「砂とロバと少年」で、内閣総理大臣賞受賞
1977年 – 「ローマの公園」で、日本芸術院賞受賞
1978年 – 長野市野外彫刻賞受賞
1982年 – 日本芸術院会員
1994年 – 文化功労者。朝来町名誉町民
1998年 – 二科会理事長
1999年 – あさご芸術の森美術館に「淀井敏夫記念館」開館
2001年 – 文化勲章受章

日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 – 2006年(平成18年)2月28日)は、日本の彫刻家。1933年(昭和8年)の日展初入選を皮切りに日彫賞など数多くの賞を受賞。日本美術家連盟会員、日本彫刻倶楽部会員、日本彫刻会会員として文展4回、日展22回の入選を重ね、日展無鑑査彫刻家として多くの作品を残した。

経歴
1917年(大正6年)3月26日 – 兵庫県養父郡糸井村(現・朝来市和田山町林垣)に父・峰蔵、母・志奈の長男として生まれる。
1922年(大正11年) – 寺内小学校に入学、5年の頃から彫刻に興味を持つようになる。
1923年(大正12年)9月23日 – 母・志奈が65歳にて死去。
1931年(昭和6年) – 島根県在住の彫刻家内藤伸(日本木彫会を主宰)の門を叩く。
1933年(昭和8年) – 上京し、講義録で名を知った三国慶一(日本木彫会会員)の指導を仰ぎ内弟子となる。初入選するまで文展(文部省美術展覧会)に続けて出品をする。
1936年(昭和11年) – 三国邸を出て豊島区千早町1丁目翠松園に仮寓する。
1937年(昭和12年) – 日本彫刻倶楽部会員となる。
1938年(昭和13年)10月 – 第2回文展(文部省美術展覧会)に「みのる秋」を出品、初入選となる。初入選が地元新聞に大きく取り上げられる。
1940年(昭和15年)
4月2日 – 父・峰蔵75歳にて死去。
10月 – 増田市太郎の長女・忠枝と結婚する。
1941年(昭和16年)
9月 – 長男・哲生まれる。
10月 – 第4回文展に「夕映」を出品する。
1942年(昭和17年)10月 – 第5回文展に「五月の朝」を出品する。豊岡市正福寺に「大石理玖夫人」を制作する。
1943年(昭和18年)10月 – 第6回新文展に「清新」を出品する。この作品は麹町にて後に戦火で焼失する。
1944年(昭和19年)9月 – 戦争に召集、姫路39連隊に配属されフィリピン・ミンダナオ島各地を転戦、翌年11月復員する。
1947年(昭和22年)
– 日本彫刻会会員となる。
2月 – 次男・治生まれる。アトリエ新築する。
10月 – 第3回日展に「秋晴」を出品する。
1948年(昭和23年)
– 日彫展に「裸婦」を出品する。
10月 – 第4回日展に「野良のひととき」を出品する。
1949年(昭和24年)
– 日彫展に「裸婦」を出品する。
10月 – 第5回日展に「ざくろ」を出品する。
1950年(昭和25年)
7月 – 郷土後援会が発足する。
10月 – 第6回日展に「少女」を出品する。
12月 – 豊岡市主催「日下寛治彫刻展」が開かれ自選70点を出品する。佐藤(朝山)玄々京都妙心寺内アトリエにて三越「天女像」制作に参加する。
1951年(昭和26年)10月 – 第7回日展(文部省主催日本美術展覧会)に「庭」を出品する。
1952年(昭和27年)
6月 – 日本木彫会展に出品する。
10月 – 第8回日展に「坐女」を出品する。
1953年(昭和28年)
4月 – 日本木彫会展(高島屋)に「男」を出品する。
10月 – 第9回日展に「二人の女性」を出品する。赤穂義士没後250周年の追慕大祭を記念して著名彫刻家により四十七士の木像を制作、この内神崎与五郎を献彫する。
11月 – 高岡美術館にて開催の日本木彫会展に出品する。
1954年(昭和29年)
– この年より昭和31年春まで日本橋三越創立50周年記念事業「天女像」制作に参加する。
4月 – 日本木彫会展(高島屋)に出品する。
11月 – 第2回彫塑展に「裸婦」を出品する。
1955年(昭和30年)
3月 – 東京杉並区上高井戸に転居、アトリエを移築する。
4月 – 日本木彫会展(高島屋)に出品する。
10月 – 第11回日展に「腰掛けた女性像」を出品する。
1956年(昭和31年)
6月 – 創立二十五周年記念日本木彫会展に出品する。
10月 – 第12回日展に「裸婦」を出品する。
1957年(昭和32年)10月 – 第13回日展に「裸婦」を出品する。
1958年(昭和33年)
6月 – 第18回日本木彫会展(高島屋)に出品する。
11月 – 第1回新日展に「裸婦」を出品する。
1959年(昭和34年)
4月 – 第19回日本木彫会展に出品す。
6月 – 第7回日彫展にて日彫賞受賞する。
1960年(昭和35年)
6月 – 第8回日彫展にて奨励賞受賞する。
11月 – 第3回新日展に「裸婦」を出品する。
1961年(昭和36年)
4月 – 日本木彫会に「座婦」「裸婦」「想」「裸女」を出品する。この回を最後に日本木彫会は解散、日展作家13名によりグループ展向彫会を結成。
6月 – 第9回日彫展に「裸婦」を出品、日彫賞受賞する。
11月 – 第4回新日展に「静思」を出品する。
1962年(昭和37年)
4月 – 第1回向彫会展を高島屋にて開催、「家族」他を出品する。この会の幹事を務める。以後松坂屋、中央公論画廊等でも開催し8回まで続く。
6月 – 第10回日彫展に「「裸婦」を出品する。
11月 – 第5回新日展に「女」を出品する。
1963年(昭和38年)
4月 – 第2回向彫会彫刻展に「トルソー」を出品する。第11回日彫展審査員となる。
8月 – 秋田県能代市に「小野喬像」を制作する。
11月 – 第6回新日展に「若い女」を出品する。
1964年(昭和39年)
6月 – 第12回日彫展に「母子」「裸婦」を出品、日彫展審査員となる。向彫会展に「家族」を出品する。
11月 – 第7回新日展に「裸婦」を出品する。
1965年(昭和40年)
6月 – 向彫会展に「牛」「馬」を出品する。豊岡市塩津公園に治水砂防の権威「赤木正雄博士像」制作する。
11月 – 第8回新日展に「裸婦」を出品、無鑑査となる。
1966年(昭和41年)
6月 – 向彫会展に「鯉」を出品する。
11月 – 第9回新日展に「想」を出品する。兵庫県立但馬文教府にて「日下寛治作品展」開催、59点が出品される。
1967年(昭和42年)11月 – 第10回新日展に「歩く女」を出品する。
1968年(昭和43年)11月 – 第11回新日展に「静立」を出品する。
1969年(昭和44年)
– 向彫会解散する。
11月 – 改組第1回日本美術展に「婦女像」を出品する。
1972年(昭和47年) – 平和の塔制作。
1976年(昭和51年) – 和田山町文化功労者として顕彰される。
1991年(平成3年) – 兵庫県朝来市和田山町寺谷橋畔にモニュメント「友愛」像を制作する。7月6日除幕式。
1993年(平成5年) – この年より阿弥陀仏を数多く制作する。
1995年(平成7年)
– この年より小仏像を数多く制作する。
8月 – 日彫会を退会する。杉並区展等に出品する。
2005年(平成17年)3月 – 和田山町名誉町民並びに朝来市名誉市民となる。
2006年(平成18年)2月28日 – 肺炎にて死去する。

市野 重義(いちの しげよし、1941年 – )は、陶芸家。兵庫県篠山市今田町立杭出身。

略歴
関西大学卒
1969年 – 1973年、リーチ陶房に在籍。
フランスのビエノーで、アトリエ・デ・セップの築窯を監督、グループ展にも参加する。
1990年、兵庫工芸家展覧会で神戸新聞賞を受賞する。
1997年、JR篠山口駅前の記念碑をデザインする。

丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は兵庫県篠山市今田地区付近で焼かれる陶器、炻器。主に生活雑器を焼いてきた。丹波焼、または立杭焼ともいう。起源は平安時代にまで遡るといわれ、六古窯の一つに数えられる。
中世の丹波焼の特徴は赤っぽい土肌にかかる、焼き締めによる自然釉に特徴がある。備前焼、信楽焼に比べ、若緑色のおとなしめで爽やかな作品が多い。江戸時代以後は釉薬や技法が多様になったが、現代の丹波焼でもその風合いを引き継いだ民芸調の作品が多く見られる。

概要

丹波立杭焼の産地「上立杭」

上立杭にある登り窯
平安時代末期から鎌倉時代が発祥といわれ、登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すのが丹波立杭焼の最大の特徴である。 中世には轆轤を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られた。初期には壺や甕、すり鉢などを主に作っていた。
江戸時代に入ると登り窯が用いられるようになり、大量生産品としてのすり鉢が堅牢であったため、17世紀には、中部、関東以北に急速に普及し、堺産のすり鉢が18世紀中盤以降に普及するまでは東日本で瀬戸と二分するシェアを誇った。一方で、小堀政一(遠州)等の影響により、茶碗、茶入、水指といった茶器の分野においても数多くの銘器を生み、京都や美濃焼に影響され、釉薬を用いた陶器が誕生した。江戸時代後期には篠山藩の保護育成などもあり、直作、一房、花遊、一此、市作など世に名を轟かせる陶芸家を輩出した。
窖窯時代には小野原焼と呼ばれていたが、登り窯時代に至って、現在の呼び名である丹波焼あるいは立杭焼の呼称が確立し、1978年(昭和53年)には丹波立杭焼の名称で国の伝統的工芸品指定を受けた。現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区の窯元は約60軒あり、今田以外にも丹波立杭焼を名乗る窯元が多数ある。
陶器まつり
毎年10月の第3土曜、日曜日には「陶器まつり」が開催され、普段は人通りもまばらな窯元の立ち並ぶ小路まで多くの人々が繰り出し終日賑わう。

出石焼(いずしやき)は兵庫県豊岡市出石町一帯で焼かれる磁器。出石白磁とも。

概要
国内でも珍しい、白磁を中心とした焼き物である。透き通るように白い磁肌に、浮き彫りや透かし彫りによる精緻な紋様が際だつ。
出石藩において、江戸時代中期に大量の白磁の鉱脈が発見された。そこで白磁を特産物とするため伊万里焼の陶工を招聘し、伊万里焼に倣った染付、赤絵などの色物磁器の生産したことが始まりとされる。やがて生産が盛んになって窯元が増え、産地を形成するようになった。これは現在の出石焼に対して古出石焼と呼ばれているもので、最盛期は天保年間とされる。しかし盛衰を繰り返しつつ明治初期に完全に衰退する。その後、明治9年(1876年)に桜井勉らが設立した盈進社が伊万里焼の陶匠柴田善平や友田九渓を指導者として招き、出石焼の品質改良に成功する。この出石白磁を各地の博覧会に出品することで出石焼の名声は高まり、明治37年(1904年)開催のセントルイス万国博覧会では金賞を受賞する。
昭和55年(1980年)3月に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。
主な作家
四代目 永澤永信

明石焼(あかしやき)は、兵庫県明石市を中心に焼かれる陶磁器である。明石焼の焼造は江戸時代中頃からはじまった明石藩の民窯、三島や古清水風・京焼風の色絵陶器の影響を大きく受け色絵の皿や碗などが多く焼かれた。江戸時代後半ごろが最盛期でそのころになると古京焼風の色絵の土瓶や土鍋などの高級なものが増えていった。明石・明石浦・明浦山・明石湊などの印がある。
江戸時代初頭、明石は播磨国を支配する池田氏の所領であった。しかし元和3年(1617年)姫路藩主・池田光政が鳥取藩に転封されることとなり、播磨の所領は中小の藩に分割された。光政が転封されると、明石の地には信濃国松本藩より小笠原忠真が10万石で入封し明石藩を立藩した。忠真は明石城の建設や明石の町の整備に努め、産業の発展として陶器にも尽力した。
一説によると初め忠真は京都から京焼色絵陶器の大家野々村仁清(名は清右衛門)を招いて、御庭焼と呼ばれる陶器を焼かせたという話がある。ただ詳細は不明である。ときに「明石仁清」とよばれたりするのはこのためである。元和年間になって御用窯が築かれ、鳥羽集落・赤浦にて戸田織部之助が陶器を焼き始める。これが古明石焼である。備前写しや三島写しの茶陶が焼かれ、茶人から愛されることとなる。その後、天明の一時期明石焼の製作は中断されることとなるが、明石町奉行で群奉行の手塚孫一郎が野々村仁清の流れを受け継ぐ摂津吉向焼を迎えて山田菊太郎に焼かせた。これは朝霧焼きと呼ばれ「朝霧」と印がある。文化の頃になると三国久八が大蔵口狩口谷で陶器を生産し大阪方面に売り出していた。
このようにして約300年の間生産され続けた明石焼きだが、明治末期から大正初期にかけて欧米や東南アジアへの輸出陶器が盛んとなったのち、大正年間に至っては衰微してしまった。主に日常品が多く焼かれ他、地域向けに大量に焼かれることが少なかったため明治期には交趾風の陶器も焼かれたが以降衰退していき現存する窯は少ない。日常雑器で焼かれていたものとしては焙烙(素焼きの平たい土鍋)やすり鉢などがあり、前者は藤江、後者は西島、中尾で作られていた。また瓦は江戸時代天明の頃に始まり、大久保町の海岸地帯・西八木、東江井方面で生産されている。

赤穂雲火焼(あこううんかやき)は、大嶋黄谷(おおしまこうこく)の雲火焼を復元し、兵庫県伝統的工芸品に指定されている陶器。江戸時代後期から明治時代初期にかけて、赤穂の地において大嶋黄谷が生み出した独特の焼き物。無釉でありながら、炎と煙によって窯の中で描かれたその色彩と文様は、燃える夕焼空を連想させ、精巧な技術で磨かれた陶膚は、鈍い光沢を呈し、当時の人々に賞賛を得ていた。しかし、その陶法を伝える人もなく、文献もなく、幻の雲火焼と称せられ珍重されてきた。
雲火焼作家の桃井香子と長棟州彦の手により、1987年(昭和62年)、第1回雲火焼研究発表会において、その復元に成功。さらに1993年(平成5年)には、兵庫県伝統的工芸品に指定された。赤穂雲火焼の窯元、赤穂瀬戸内窯(あこうせとうちがま)では、歴史を踏襲しつつ、現代に生きる陶工として、新たな美的・技術的革新を重ねている。

王地山焼
八鹿焼
珉平焼

姫路白なめし革細工(ひめじしろなめしかわざいく)は、兵庫県の県指定伝統工芸品。同県姫路市で生産される植物油によるなめし革の加工品。牛皮を材料とし、なめした革は薄乳白色(薄いベージュ)を呈す。略称は「姫路革(ひめかわ)」。 非常にしばしば「姫革細工」「姫路白革」と称される製品と混同されるが、それらは化学処理により白色に加工されたものであり、別物であることに注意が必要である(2010年3月時点で、複数の販売店に問い合わせた際、白色の製品をもって県指定の伝統工芸品と称するところがほとんどだった。)。

由来
「白靼」、「越靼」、「古志靼」の異名をもって知られた。越、古志は、出雲国古志村(今の出雲市古志町)に因んだと推測されている。
『花田史志』に「神功皇后三韓征伐の際、連れ戻した者の中に熟皮術に長けるものあり。始め但馬の円山川にて試製せしも水質適さず。依って南下し播磨に入り市川にて試みたるに良好なる成績を顕したり、故に之れを師として其の技術を伝習したる高木村民にして姫路革の名を以って世に著はれたるなり」の記述がある。「市川」とは姫路市東部を流れる市川のことを指すと思われる。
これらより朝鮮半島由来の技術が姫路で発展、独自の製法と製品を確立するに至ったと推測される。
植物タンニンなめしやクロムなめしの手法がなかった江戸時代以前には、全国各地で各方面に広く使用されたが、明治以降に欧米から導入された両手法に押され、現在では土産物として姫路市内で扱われる程度となっている。その土産物も、前述のように本来の油なめし革ではなく色も異なる別物が幅をきかせている。

有馬筆(ありまふで)は、兵庫県神戸市の有馬地区で作られてきた書画用筆である。伝統的な技法により手作りされており、その製造技術は兵庫県から重要無形文化財として指定されている。また、穂先を下に向けると軸の上端から人形が飛び出してくるからくり細工が施された人形筆(有馬人形筆)が有馬筆と呼ばれる場合もある。

籠(かご)とは、短冊状ないし細いひも状の素材をくみ合わせたり編んだりして作成した運搬を目的とした容器の総称である。

解説
籠は、ざると同様液体を運ぶことを目的としないという特徴があり、材料には、軽さ、加工の容易さ、強度と耐水性を重視して竹や葦などの植物製の素材が好んで用いられる。現在では植物製素材のほかに、金属線(針金)や熱可塑性樹脂を使用する場合も多い。金属製のものは鋼線をビニールで被覆したものや真鍮製(被覆無し)から、ステンレスや銅製へ移行している。
乗り物の「かご」も同一語源で、駕籠の文字が宛てられている。

明珍火箸(みょうちんひばし)とは、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)において、19世紀頃、姫路藩主である酒井家などに仕えていた明珍家(甲冑師の一族として名高い)がその技術を活かして作り始めた火箸。兵庫県指定伝統工芸品に指定されている。
火箸の型は、20種類程あり、現在代表的なものはツクシ型、ツヅミ型、ワラビ型、カワクギ型の4種類である。火箸の需要が落ちた現在では、火箸を利用して風鈴が作られている。
火箸の音に魅了された作曲家に、冨田勲とスティーヴィー・ワンダーがいる。二人とも、この音を楽曲に取り入れようとしていたが、アナログ録音ではそれが不可能であったため、一旦は使用をあきらめていたという。その後、デジタル録音が可能になったことで、冨田はこの音を再度楽曲に取り入れることにしたということで、その結果出来上がったのがNHKスペシャル『街道をゆく』のテーマ音楽である(スタジオパークからこんにちは内での冨田のコメント)。

杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ、椙原紙)は、和紙の一種である。
杉原紙、椙原紙、のほか、歴史的には単に「杉原」とするほか、「すいば」「すいはらがみ」「すいはら」「すい」や「水原」「水原紙」の表記もみられる。
九州から東北の各地で生産され、中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。近世には庶民にまで普及したが、明治に入ると急速に需給が失われ、姿を消した。
その後「幻の紙」とされていたが、近年になって、原産地が兵庫県であると考えられるようになり、現地で和紙の生産が再開された。再興後は「杉原紙」の名称で兵庫県の伝統工芸品とされている。

丹波布(たんばふ / たんばぬの)とは、丹波国佐治村(現在の兵庫県丹波市青垣地域)で織られていた手紡ぎの絹と木綿を交織にした平織の手織り布。
本来の呼び名は縞貫(しまぬき)もしくは佐治木綿(さじもめん)だったが、柳宗悦が『日本工芸』で丹波布の名で紹介して以来、丹波布の名で通るようになった。丹波篠山に伝わる「丹波木綿」とは名前が似るが、別のもの。
ざっくりとした風合と素朴な美しさから、柳宗悦に「静かな渋い布」と称されて愛された。

概要
文政年間に播州木綿の影響を受けて、野良着などとして制作が始まったと考えられている。
幕末から明治の初めに盛んに制作され、京都周辺で布団や小袖に仕立てられて愛好されるようになる。
しかし、大正時代に入って衰退し、忘れ去られることとなった。
昭和の初めに至り、柳宗悦が京都の朝市で偶然に魅力的な縞木綿を見出し、工芸研究家の上村六郎に産地の特定を依頼した。上村は昭和6年(1931年)に、縞木綿が佐治村で織られていた佐治木綿であることを特定。
昭和28年(1954年)に上村の指導により、丹波布の再現が行われる。昭和29年(1955年)には、上村と柳の後援の下、地元保存会が発足する。
特徴
木綿平織の縞織物だが、緯糸に木綿だけでなく屑繭から紡ぎ出した「つまみ糸」を織り込むことに特徴がある。
藍と茶を基本色とし、藍と茶と黄、藍と黄を合わせた緑で縞柄や格子柄を織り上げる。
染料は村の周辺で手に入る植物に由来する。藍に加えて、茶色の染料として里山に自生する栗の皮、ヤマモモの樹皮、ハンノキの樹皮などを用いる。黄色は田畑の畔道に生えるコブナグサを中心に、キクイモ、ビワの樹皮を使う。
これら自然の染料を媒染剤を変えたり、浸染の回数を加減することで、微妙な色調を表現する。

和蝋燭(わろうそく)は灯具である蝋燭の一種。

材料
櫨の実から搾り取った木蝋を加熱して熔かしたものを、和紙およびイグサの髄から作った芯(灯心)の周りに手でかけ、乾燥させてを繰り返して作る。完成した蝋燭は、断面が年輪状になる。 ハゼの蝋のみで作った蝋燭が最も高級とされる。
特徴
洋蝋燭に比べ光が強く、長時間もつと言われている。ろうそくプレイに使われるのは、基本的に和蝋燭である。また、芯の状態によって炎の揺らぎ方が異なり、その燃え方の表情の変化を好む人もいる。マイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』では、和蝋燭の芯の換気構造をファラデーが驚きを持って聴衆に語るエピソードがある。
洋蝋燭より作成に手間がかかるため高価であり、一般には仏具専門店にて販売されるが、西日本ではスーパーマーケット等でも販売されている。西日本では金箔仏壇を使用する例が多いが、和蝋燭の煙に含まれるカーボンが洋蝋燭に比べ少ないので、金箔を汚しにくいためである。
歴史
和ろうそくは、1375年頃の太平記の記述に出てくる。その頃に作り始められたと思われる。 産地としては、愛知県、京都府、滋賀県、福井県、石川県などが上げられるが、軒数が最も多いのは愛知県といわれている。
種類
近江和蝋燭(滋賀県伝統的工芸品)
越前和蝋燭(福井県指定郷土工芸品)
七尾和蝋燭
三州岡崎和蝋燭
会津絵蝋燭 (福島県伝統的工芸品)
越後和蝋燭
庄内絵蝋燭

播州そろばん(ばんしゅうそろばん)とは、兵庫県小野市を中心に製造されている兵庫県の伝統工芸品で、1976年に通商産業省(現・経済産業省)伝統的工芸品に指定された。地域団体商標に登録している。

概要
天正年間に豊臣秀吉が三木城を攻略した際、大津地方に逃れた住民が大津そろばんの製造法を習得し、彼らが小野周辺に帰郷してそろばんの製造を始めたことが播州そろばんの起源となった。樺・柘植・黒檀などの木材が使用される。国内のそろばん市場では70 %の市場占有率を占めている。1960年代には350万丁の播州そろばんが生産されていたが、現在の生産量は15万丁程度である。
海外においてそろばん教育を取り組んでいる国の貧しい子供たちのために高品質な播州そろばんを寄付する活動が行われている。2010年9月から11月までの2か月間で約1,200丁の播州そろばんが集まり、その大半が個人からの寄付であった。この約1,200丁の播州そろばんは2010年11月中頃にトンガに送られ、今後チュニジアにも送られる予定である。

淡路瓦(あわじがわら)は、兵庫県の淡路地方(淡路島)で生産される粘土瓦。三州瓦、石州瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ。

概要
南あわじ市を中心に、美しい銀色のサエが特徴のいぶし瓦を主体に、釉薬瓦(陶器瓦)、無釉瓦、形状では和形やF形のほか多種類の形状のものが生産されている。淡路瓦の焼成温度は1000℃前後と三大瓦のなかでは最も低いが、「なめ土」と呼ばれる粒子の細かい粘土がいぶし瓦に適しており、いぶし瓦の生産量は全国一を誇る。
歴史

淡路瓦

淡路瓦が使われていることを紹介している。
日本への瓦製造技術の伝来(西暦588年)から10年程後に淡路島でも瓦が製造されたと思われる瓦窯跡が発見されている。 文献等に見られる淡路瓦の起源は、1613年(慶長18年)に池田忠雄が淡路国津名郡由良浦(現在の洲本市由良)の成ヶ島に由良成山城(ゆら、なるやまじょう)を普請した際、播磨国から播州瓦の名工清水理兵衛を招いて瓦を作らせたのが最初と言われている。その後、その弟子により、松帆・尾崎・阿万・釜口などで瓦の製造が始められ、10年程後の寛永年間に法華宗の援助で南あわじ市津井地区に伝わったと言われている。

赤穂緞通(あこうだんつう)
【赤穂緞通とは】中国緞通を参考に考案された、独自の手法で織られた手織りの綿製絨毯。
【歴史】江戸末期から、明治にかけて開発された。
【発案者】児島なか
【生産地域】兵庫県赤穂地域(赤穂市)。
【技術継承保存団体】「赤穂緞通を伝承する会」「赤穂緞通生産者の会」
【日本三大緞通】赤穂緞通。佐賀鍋島緞通。大阪堺緞通。

兵庫県
兵庫県伝統的工芸品
姫路白なめし革細工
有馬の人形筆
有馬籠
明珍火箸
杉原紙
城崎麦わら細工
丹波布
名塩紙
美吉籠
赤穂雲火焼
しらさぎ染
兵庫仏壇
姫路仏壇
和ろうそく
姫路独楽
姫路張子玩具
王地山焼
丹波木綿
三田鈴鹿竹器
播州鎌
播州そろばん
播州山崎藍染織
淡路鬼瓦
赤穂段通
稲畑人形

兵庫県 ひょうごけん
神戸市 こうべし
東灘区 ひがしなだく
灘区 なだく
兵庫区 ひょうごく
長田区 ながたく
須磨区 すまく
垂水区 たるみく
北区 きたく
中央区 ちゅうおうく
西区 にしく
姫路市 ひめじし
尼崎市 あまがさきし
明石市 あかしし
西宮市 にしのみやし
洲本市 すもとし
芦屋市 あしやし
伊丹市 いたみし
相生市 あいおいし
豊岡市 とよおかし
加古川市 かこがわし
赤穂市 あこうし
西脇市 にしわきし
宝塚市 たからづかし
三木市 みきし
高砂市 たかさごし
川西市 かわにしし
小野市 おのし
三田市 さんだし
加西市 かさいし
篠山市 ささやまし
養父市 やぶし
丹波市 たんばし
南あわじ市 みなみあわじし
朝来市 あさごし
淡路市 あわじし
宍粟市 しそうし
加東市 かとうし
たつの市 たつのし
川辺郡 かわべぐん
猪名川町 いながわちょう
多可郡 たかぐん
多可町 たかちょう
加古郡 かこぐん
稲美町 いなみちょう
播磨町 はりまちょう
神崎郡 かんざきぐん
市川町 いちかわちょう
福崎町 ふくさきちょう
神河町 かみかわちょう
揖保郡 いぼぐん
太子町 たいしちょう
赤穂郡 あこうぐん
上郡町 かみごおりちょう
佐用郡 さようぐん
佐用町 さようちょう
美方郡 みかたぐん
香美町 かみちょう
新温泉町 しんおんせんちょう

志村 ふくみ(しむら ふくみ、1924年(大正13年)9月30日 – )は、日本の染織家、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)、随筆家。
草木染めの糸を使用した紬織の作品で知られる。

経歴
滋賀県近江八幡市生まれ。1942年(昭和17年)、文化学院卒業。文化学院の1学年上級には女優の高峰秀子がいた。
31歳のとき、若い頃に柳宗悦の民芸運動に共鳴して織物を習っていた母・小野豊の影響で、織物を始める。
1957年(昭和32年)の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選し、その後第五回で奨励賞、第六回、第八回で文化財保護委員会委員長賞、第七回で朝日新聞社賞、と4度の受賞を重ね、特待者となった。 1990年(平成2年)に農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の保持者に認定された。また随筆の名手としても知られ『一色一生』で第10回(1983年度)大佛次郎賞を受賞している。
現在は京都市右京区嵯峨野に工房を構える。
2013年(平成25年)4月に京都市左京区岡崎に芸術体験を通して学ぶ場として、娘で同じく染織作家の志村洋子とともにArs Shimura(アルスシムラ)を設立。教本として『伝書しむらのいろ』を刊行した。同5月には、GALLERY FUKUMI SHIMURAをオープンした。2015年(平成27年)4月、Ars Shimura(アルスシムラ)2校目として、嵯峨校を開校した。
門下に2010年に紋紗(もんしゃ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された土屋順紀がいる。

森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月10日 – 平成20年(2008年)2月20日)は、日本の染織家で友禅染めの重要無形文化財保持者(人間国宝)。蒔糊技法を用いた友禅染め作品で知られる。

略伝
森口華弘は、明治42年(1909年)12月10日に滋賀県野洲郡守山町字岡(現滋賀県守山市岡町)の森口周治郎・とめ夫妻の子として生まれ、平七郎と名付けられた。森口家は農業と米屋を営み、華弘は5人兄弟の3番目3男で偏食、病弱小柄で大変大人しく、誰彼構わず喧嘩をするガキ大将ですら平七郎とは一度も喧嘩をしなかったと伝えられる。12歳で小学校を卒業すると、遠縁が営む京都の薬店に奉公に出、夜は薬剤師を目指し薬学校夜学部に通ったが、制度変更から薬剤師になるためには専門学校卒業が義務付けられ、金銭的にゆとりがなく専門学校に進学できない平七郎は薬剤師になることを断念せざるを得なかった。
この頃、たまたま店頭に貼ってあった平七郎の絵に型絵友禅の図案を作る職人が興味を持ち、彼に染色をやってみないかと誘った。以前から絵を描くことが好きであった平七郎は、これを契機に一旦実家に戻り薬店を辞め、染色を行いたいことを父に申し出た。最初は反対していた父も、母の従兄坂田徳三郎の助言から漸く同意し、大正13年(1924年)10月10日数え16歳の時、坂田に連れられ京友禅師3代目中川華邨の門を叩き住み込みの弟子となった。当時16歳での弟子入りは遅かったが、「好きこそ物の上手なれ」との言葉通り平七郎は精励し、師匠である華邨の好意で疋田芳沼のもとへ週一回通い日本画を学ぶことまで許されるようになった。夜寝る時間も惜しみ師匠の図柄や手本を写すなど修行に励み、20歳の頃睡眠不足から神経衰弱となり徴兵検査で不合格となったところ、徴兵検査官から「兵隊になるばかりが男子の勤めではない、染色をやり通すことも国への立派な奉公だ」と励まされた。その頃、母の従兄から染色師としての雅号「華弘(華邨派を広めるとの意味)」が贈られ、25歳になってから使うようにと言われた。
昭和11年(1936年)1月8日妻知惠と結婚し、昭和14年(1939年)1月京都市中京区衣棚小路に工房を構え独立した。結婚後、師匠である華邨より独立は3年待てと言われ29歳と遅い独立となったが、華邨出入りの業者であった安田商店が華弘とも仕事をしたいとの申し出があり、本来師匠筋の顧客とは仕事をしないとの不文律があったが特に師匠の許しもあり、友禅扱い大手である安田商店の仕事を引き受けるようになった。弟子を持つようになり、昭和16年(1941年)安田商店が設立した友禅工芸会社の取締役技術部長を兼ね、昭和17年(1942年)第1回個展を呉服問屋として大手の市田東京店で開催した。昭和20年(1945年)終戦後、進駐軍相手にネッカチーフに手染めしたものを売り暮らしを支えた。その後、問屋から注文を請け染色を行うのではなく、独立した友禅作家として活動することを市田と相談の上決め、昭和24年(1949年)市田柳選会に参加し友禅作家として初の新作発表を行った。
華弘は昭和14年(1939年)独立した頃、東京の上野の帝室博物館で偶然衣裳の一部に蒔糊の技法を用いているのを発見し、これを砂子のように全面に施す発想を得、苦心して森口流の蒔糊技法を創案した。多彩の友禅をあえて淡色の濃淡だけで表し、また桂離宮の竹垣や修学院離宮の造作などから新しいイメージを発想して特異な模様を創造した。菊の花一輪を着物全体に描き、裾にいくほど花の形が大きくなり、しかも色調を変化させることで立体感を出す七五三技法などを編み出した。昭和30年(1955年)衣裳全体に蒔糊を施した縮緬地友禅訪問着『早春』で第2回日本伝統工芸展朝日新聞社賞を受賞した。同年日本工芸会の正会員となり、日本伝統工芸展の監査員に就任して昭和42年(1967年)重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。以降、京都友禅研究会を発足し友禅の研究と後進の指導を行い、日本工芸家染色部門の役員として染色の伝導や染色による社会的活動に奔走し、昭和46年(1971年)紫綬褒章、昭和57年(1982年)勲四等旭日小綬章を夫々受章受勲した。平成19年(2007年)には次男であり弟子である森口邦彦が重要無形文化財「友禅」の保持者に認定された。平成10年(1998年)には故郷滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受け、平成20年(2008年)2月20日98歳で死去した。

信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。
信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

湖南焼(こなんやき)は1851年(嘉永4年)-1854年(嘉永7年)の間に、滋賀県大津市長等山下、札之辻、または園城寺下鹿関町地域で作られた陶磁器である。落款印には「永樂」、「河濱支流」、「三井御濱」の押捺を持ち、永樂保全が最後に築いた窯として近世陶磁史に名を残す。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。

湖東焼(ことうやき)は、日本の陶芸の一つ、および、それによって生産される陶磁器の呼称である。「湖東」の名は琵琶湖東岸の地域名の一つである「湖東」に由来する。
江戸時代中期の彦根藩本領(現・彦根市域)で生産され始め、井伊掃部頭家の許で発展したが、幕府大老を勤めた藩主・井伊直弼が暗殺されると職人が離散して一気に衰退し、明治時代中期に途絶した。その後、1986年(昭和61年)に復興事業が立ち上げられている。

文政12年10月(新暦1829年11月)、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛(寛政3年(1791年) – 万延元年6月25日(1860年8月11日))は[2][3]、当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き[1]、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って[2]共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き、湖東焼の創始者となった。
晒山には何らかの問題があったらしく、窯の場所を佐和山山麓古沢村の餅木谷に移し、主に磁器の生産を行ったが、未経験による失敗も多く、ついには協力者であった島屋平助等が手を引き、半兵衛単独で経営にあたった。徐々に事業も軌道に乗っていったが、しばしば資金不足に陥り、彦根藩からの借銀によって事業を維持した。
有田式の丸窯を瀬戸風の古窯形式に改め、湖東焼独特の淡緑色を出す物生山石(むしやまいし、佐和山北端の物生山で採取される石)・敏満寺山(現犬上郡多賀町)の粘土を用いたことは半兵衛による成果であった。染付・錦手・金襴手などの華麗な手法を用いられた文房具・茶器・飲食器が生み出され、「沢山」「湖東」の銘を記し、近江国内・京・大阪へ売り出された。半兵衛が育てた湖東焼は、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となった。創業の功として、半兵衛は伊藤の名字の使用を許された。
湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えるが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまう。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされた。それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶した。

下田焼
八田焼

南部鉄器(なんぶてっき)は、岩手県南部鉄器協同組合連合会の加盟業者によって作られている鉄器。74の事業所に730名(推計)の従事者がおり、年間生産額は約92億円。
1975年(昭和50年)2月17日に通商産業大臣指定伝統的工芸品(現・経済産業大臣指定伝統的工芸品)に指定された。伝統工芸士は21名いる。

概要
戦後占領期に施行された中小企業等協同組合法に基いて、江戸時代には南部氏・南部藩(盛岡藩)領内だった岩手県盛岡市、花巻市石鳥谷町、および、岩手郡雫石町の鋳物業者が1949年(昭和24年)3月1日、「南部鉄瓶商工業協同組合」(現「南部鉄器協同組合」、岩手県盛岡市)を設立した。また、同法に基いて、江戸時代に伊達氏・仙台藩領内だった胆江地区の鋳物業者が1954年(昭和29年)11月、「水沢鋳物工業協同組合」(岩手県水沢市…現・岩手県奥州市水沢区)を設立した。両者により、1959年(昭和34年)に県内統一組織である「岩手県南部鉄器協同組合連合会」が設立された。
旧仙台藩にある「水沢鋳物工業協同組合」は「仙台鉄器」とは呼ばず、旧南部藩(南部地方)の「南部鉄器協同組合」の名称を用いて、両者とも「南部鉄器」と称する。つまり、盛岡市の南部鉄器は南部藩由来の南部鉄器であり、奥州市の南部鉄器は岩手県の南側にあるので南部鉄器と呼んでいるのである。
歴史
南部鉄器と総称されているが、奥州市の南部鉄器と、盛岡市の南部鉄器の歴史は異なる(明治・大正の南部鉄器以降は共通で著す)。
奥州市の南部鉄器
平安後期に、江刺郡豊田館(現在の江刺区)にいた藤原清衡が近江国(滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して羽田(現在の水沢区羽田町)に伝わったと語り継がれている。この近隣には、後背地にあたる北上山地の砂鉄、木炭および羽田の北上川旧河川跡から出る質の良い砂と粘土などの鋳型材料が容易に手に入れられることから鋳物業が栄えた。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である。需要主である清衡が平泉(平泉町)に移ると彼らも一緒に移った。実際、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土しており、中尊寺を始めとする寺院などの備品も鋳造していた。奥州藤原氏の滅亡以降は日用品を細々と鋳造した。
羽田に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家に養子に入った京都聖護院の長田正頼という鋳物師がその始めだったといわれている。後に千葉家は奥州総奉行葛西氏に召し抱えられる。以後、長田正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちが羽田に住み、定着していった。
江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年(天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している。
盛岡市の南部鉄器
盛岡の鋳物は、慶長年間(1596年-1615年)に盛岡藩主南部氏が盛岡城を築城した頃に始まったといわれている。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたため、盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。
有坂家
初代は京都の人で、7代目のとき甲州に、13代目のときに、盛岡に移住してきた。
鈴木家[編集]
甲州から1641年(寛永18年)に、藩に召し抱えられた鈴木縫殿家綱を祖とする。製造したのは梵鐘や燈籠などの大作が知られていて、幕末には大砲も製造している。1646年(正保3年)には盛岡城の時鐘も製造している。これは、後に花巻城に移されるが今も現存している。
藤田家
甲州の出で、2代目から盛岡に移住。鍋類を主に製造し、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれ、後に藩に召し抱えられた。
小泉家
藩主が茶の湯を好んだことから、1659年(万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年(延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。
また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。
明治・大正の南部鉄器
水沢、盛岡とも、仙台藩、盛岡藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声を高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の東北本線開通と相まって(水沢、盛岡とも、これに接していた)一気に販路拡大となった。
明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。
1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。
昭和・平成の南部鉄器
第二次大戦中は戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、軍需関連品以外の製造が禁止された。南部地域では150人いたといわれる職人のうち、わずか16人しか鋳物の鋳造を続けられなくなった。
終戦後は、アルミニウム製品に押されて需要は減り南部鉄器は衰退したが、近年では茶道具などの伝統工芸品のほか、実用的な調理器具としてもその良さが見直されてきている。食生活の欧米化に伴い、焼く調理などの洋風料理に使用するものも増えてきている。また海外ではその芸術性の高さから鉄瓶に人気が集まり、一部のメーカーは欧米への輸出にも力を入れている。

波多野正平とは
亀文堂は、明治から昭和時代に鉄瓶を作っていました。初代は、波多野正平で文化13年(1816)に京都に生まれ、弟の秦蔵六と共に龍文堂四方安平に師事して鋳造を学び、その後京都で独立し、文人肌で頼山陽に愛され、安政6年(1859)安政の大獄に連座、1年半ほど幽閉されました。

鉄瓶の歴史は約250年ですが、それ以前は加賀で鉄瓶が作られていました。本格的な鉄瓶の鋳造が始まったのは京都の龍文堂が始まりです。

その門人に近江の亀文堂ありました。その後、茶道の広がりとともに数々の名作が亀文堂によって作られて来ました。
上に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

ベルベット(英: velvet)は、平織か綾織の経糸にパイルを織り出したパイル織物の一種である。 ビロード(ポルトガル語: veludo、スペイン語: velludo)や天鵞絨(てんがじゅう)、とも呼ばれる。 柔らかで上品な手触りと深い光沢感が特長で、フォーマル・ドレスやカーテンに用いられる。レーヨンやシルクが一般的。縫いずれし易く、きれいに縫製するには高度な技術が必要である。
ベッチン(綿ビロード、ベロア)と見た目では区別がつきづらく混同され易い。どちらも製品としては同じであるが、製法に違いがある。製法の特性により、一般にベッチンはストレッチ性のあるニット素材を指す。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。

元和7年(1621年)膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う。また、膳所藩領国内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。
菅沼定芳は、膳所藩主となった後の寛永6年(1629年)、膳所相模川の左岸に御用窯を築いた。定芳は本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている。
菅沼定芳移封後、寛永11年(1634年)新たに石川忠総が膳所藩主となった。忠総の実父大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり、忠総自身も小堀遠州と親交が深かったことから遠州の指導を受け茶器焼き物に力を注いだ。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、膳所焼の隆盛は忠総治世時に留まり、慶安3年12月(1651年2月)忠総が死去し、慶安4年4月(1651年6月)後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封すると、膳所焼は徐々に衰退していった。

膳所焼再興
梅林焼
天明年間(1781年-1789年)に小田原屋伊兵衛が梅林焼という窯を興した[6]が、古来膳所焼は「黒味をおびた鉄釉の美しさ」を特色としたのに対し、梅林焼は「唐三彩風の緑や黄色など鮮やかな発色の釉薬」を特色とし、江戸初期の膳所焼とは懸け離れたものであった。
雀ケ谷焼
膳所城下篠津神社前紺屋町の商人井上幾右衛門が文政年間(1818年-1830年)、膳所焼再興のため京都から住宅まで建て陶工を招き、膳所茶臼山の東南麓の雀ヶ谷に窯を築いた。そのほとんどが土瓶・皿・鉢・徳利などの実用品であった。
瀬田焼
幕末から明治初期に、池田門平という陶工が瀬田の唐橋の東に窯を築き、楽焼風の茶碗を焼き始めたのが起源とされ、三代続いたが、大正時代には廃窯となった。窝跡は未確認で実態は不詳だが、長期間継続していたため、多くの製品が現存する。
膳所焼(再興)
膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が1919年(大正8年)、友人の画家山元春挙と組んで別邸に登り窯を築き、京都の陶工二代伊東陶山が技術的な指導を行い膳所焼の復興に生涯尽力した。健蔵の後、息子の岩崎新定に継承され、新生膳所焼は今日に至っている。膳所焼美術館にて作品を閲覧することができる。

提灯(ちょうちん)は、伸縮自在な構造で細い割竹等でできた枠に紙を貼り底に蝋燭を立てて光源とするもの。ろうそくではなく電気による光源のものもある。
内部に明かりを灯し、紙などの風防を通して周囲を照らす。「提」は手にさげるという意味で、携行できる灯りを意味する。いわば昔の懐中電灯で、中に蝋燭を点して持ち歩いたが、現在では祭礼の際を除くと、日常の場でこのように使われることはほとんどない。
近年は、竹ひごや紙の代わりにプラスチックのシートを使い、蝋燭の代わりに電球を使って、主に祭りなどのイベントや看板として使用されることが多い。インテリアや土産物などとしても販売されている。

竹刀(しない)は、剣術・剣道の稽古で防具に打突するための、竹で作られた日本刀の代替品である。現代では耐久性に優れたカーボン製のものもある。
「しない」という呼び名は、「撓(しな)う」ことに由来するという説があり、撓と書いて「しない」と読む事もある。全日本剣道連盟の前身は、全日本撓競技連盟という名称であった。「竹刀」と書く場合、古くは「ちくとう」とも読み、この場合もともとは稽古槍の事を指した。
木刀(ぼくとう)は、樫などの硬い木で作られた用具を指し、竹刀は含めない。また、竹光(たけみつ)は時代劇などの小道具に用いられる木製の模擬刀であり、竹刀とは異なる。
竹刃の小刀を竹刀(ちくとう)と呼ぶこともある。

竹刀(しない)は、剣術・剣道の稽古で防具に打突するための、竹で作られた日本刀の代替品である。現代では耐久性に優れたカーボン製のものもある。
「しない」という呼び名は、「撓(しな)う」ことに由来するという説があり、撓と書いて「しない」と読む事もある。全日本剣道連盟の前身は、全日本撓競技連盟という名称であった。「竹刀」と書く場合、古くは「ちくとう」とも読み、この場合もともとは稽古槍の事を指した。
木刀(ぼくとう)は、樫などの硬い木で作られた用具を指し、竹刀は含めない。また、竹光(たけみつ)は時代劇などの小道具に用いられる木製の模擬刀であり、竹刀とは異なる。
竹刃の小刀を竹刀(ちくとう)と呼ぶこともある。

彦根仏壇(ひこねぶつだん)は滋賀県彦根市およびその周辺で製造される金仏壇の総称。 仏壇仏具業界では初めて1975年(昭和50年)に通商産業大臣によって伝統工芸品に指定される。

仏壇としての分類
彦根仏壇は漆塗り、金箔押しがされており、金仏壇に分類される。
サイズとしては幅4尺、高さ5尺8寸で、一間の仏間に納める大型の仏壇が主流。
製造システムの特徴
工部七職という各分野の職人がそれぞれ独立した工房を構え、仏壇店は工程に沿って順次発注をかけることによって仏壇製造を進めていく。これは江戸時代前期の主流だった家内制手工業のシステムである。
一方、一部の仏壇店は自社工場を建設し、主要な工程を自力で行っている。しかしながら工場内で機械化が進んでいるのは塗装工程くらいであり、殆どの工程は従業員による手仕事の域を超えていない。製造業のシステムとしては、江戸末期 – 明治期に出現した工場制手工業に近い。
工部七職の職人の中には自前の資本を失い、上記のような工場内の設備を借りて仕事を受注する形をとる人もいる。この部分は工場制手工業とその前段階の問屋制家内工業を足して2で割ったようなシステムである。
仏壇製造業では江戸時代前期から産業革命期までのシステムが混在しているといえる。
販売面での特徴
彦根産地の仏壇店は卸業者としての機能も持つため、かつては全国各地で彦根仏壇ブランドの仏壇が販売されていたが、秋田、九州、近年では中国をはじめとする海外産の仏壇との競争にさらされ、利益確保のために直売へシフトする仏壇店が増えてきている。
最初から仏壇の「販売」を主な事業として始めた仏壇店は少なく、工部七職の何れかの職人から仏壇販売に乗り出した店が多く、職人としての仕事と仏壇の販売が並存する仏壇店も多い。どの分野の職人出身かによって、仏壇店としてどの部分にこだわりを持つかの差が生まれ、それが店ごとの個性となって現れている。
滋賀県内、京阪神、北陸、東海の各地域はそれぞれ顧客の嗜好、主流になっている宗派が異なるため、どの地域を主な商圏とするかによって、各仏壇店での商品政策が異なる。

和蝋燭(わろうそく)は灯具である蝋燭の一種。

材料
櫨の実から搾り取った木蝋を加熱して熔かしたものを、和紙およびイグサの髄から作った芯(灯心)の周りに手でかけ、乾燥させてを繰り返して作る。完成した蝋燭は、断面が年輪状になる。 ハゼの蝋のみで作った蝋燭が最も高級とされる。
特徴
洋蝋燭に比べ光が強く、長時間もつと言われている。ろうそくプレイに使われるのは、基本的に和蝋燭である。また、芯の状態によって炎の揺らぎ方が異なり、その燃え方の表情の変化を好む人もいる。マイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』では、和蝋燭の芯の換気構造をファラデーが驚きを持って聴衆に語るエピソードがある。
洋蝋燭より作成に手間がかかるため高価であり、一般には仏具専門店にて販売されるが、西日本ではスーパーマーケット等でも販売されている。西日本では金箔仏壇を使用する例が多いが、和蝋燭の煙に含まれるカーボンが洋蝋燭に比べ少ないので、金箔を汚しにくいためである。
歴史
和ろうそくは、1375年頃の太平記の記述に出てくる。その頃に作り始められたと思われる。 産地としては、愛知県、京都府、滋賀県、福井県、石川県などが上げられるが、軒数が最も多いのは愛知県といわれている。
種類
近江和蝋燭(滋賀県伝統的工芸品)
越前和蝋燭(福井県指定郷土工芸品)
七尾和蝋燭
三州岡崎和蝋燭
会津絵蝋燭 (福島県伝統的工芸品)
越後和蝋燭
庄内絵蝋燭

太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。
胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。
円形の枠に1枚の膜を張るもの。うちわ太鼓など。
筒状の胴の片側に膜を張るもの。片面太鼓という。
筒状の胴の両側に膜を張るもの。両面太鼓という。
鍋状の胴に膜を張るもの。ティンパニなど。

大津絵(おおつ-え)とは、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。
大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。

歴史
東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。
松尾芭蕉の俳句「大津絵の筆のはじめは何佛」には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れている。また、江戸時代初期のキリシタン弾圧に際して「自分は仏教徒である」という隠れ蓑的役割も有していたと言われる。
江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。
特徴
神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。

梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる。別名に大鐘(おおがね)、洪鐘(おおがね、こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)などがある。

概要
「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものである。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。
仏教はインドに起源を持ち、アジア各地に広まった宗教であるが、梵鐘に関してはその祖形をインドに求めることは困難であり、中国古代の青銅器にその源流が求められる。殷・周時代から制作されている「編鐘」(へんしょう)という青銅器が梵鐘の源流と推定されているが、この「鐘」は全体に小型で、その断面形状は後世の梵鐘のような円形ではなく、杏仁形(アーモンド形)である[注釈 1]。中国製の梵鐘の古例としては、奈良国立博物館所蔵の陳の太建7年(575年)の銘をもつ作品がある。この太建7年銘鐘は、断面が円形であること、縦横の帯で鐘身を区切ること、鐘身を懸垂するフックの部分を龍身とすること、撞座を蓮華文とすることなどが後世の日本の梵鐘と共通しており、その祖形と目される。ただし、「乳」と呼ばれる突起状の装飾を付けない点は日本の梵鐘と異なっている。
梵鐘の日本への渡来については、日本書紀に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が562年、高句麗から日本に持ち帰ったとの記録が残っているが、現存遺品でこの時代にまでさかのぼるものはない。京都・妙心寺の梵鐘(国宝)は、内面に戊戌年(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々の銘があり、製作年代と制作地の明らかな日本製の梵鐘としては最古のものとされている。
高麗時代以前の朝鮮鐘は朝鮮半島のほか日本にも多数伝来し、福井県常宮神社の鐘が年代の明らかなものとしては最古(唐の大和7年・833年)とされている。日本の梵鐘は中国の様式を倣ったものが大半で、朝鮮鐘を倣ったものはごく例外的なものとされている。
梵鐘の主な役割は本来は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 – ぎょうしょう、昏鐘 – こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。
青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もある。小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる。
響きをよくするために鋳造の際、指輪(金)を入れることがあるといわれ、江戸時代には小判を鋳込んだ例もある。雅楽と鐘の関係を記す文献もある。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。
最近では特に都市部で梵鐘の音を騒音と捉えた人から寺や警察に梵鐘を撞くことをやめるよう苦情が来ることが増え、撞き手がいない寺が増えていることもあって、除夜の鐘も含めて梵鐘を撞く寺が減ってきている。
撞き手に代わる策として、奈良県の上田技研産業株式会社が開発した自動撞木を導入する寺が増えている。この装置は、撞木の中にモーターとバネが組み込まれており、鐘を撞く時間が近付くとモーターがバネを圧縮し、解放した時に発生する力を利用して、押し出す形で撞くようにできている。ただし、これだけでは撞木が揺れ動いたままなので、バネの圧縮と同時に上部に取り付けられたアームが下がり、先端のローラーで撞木を上から押さえ付けて、鐘を撞いた後の動きを抑制し、すぐにまた鐘が撞けるようにしている。もちろん、これまで通りに撞き紐で撞くことも可能である。
和鐘の形式
和鐘の場合、鐘身は上帯・中帯・下帯と称される3本の横帯で水平方向に区切られるとともに、垂直方向にも縦帯と称される帯で区切られる。縦帯は通常4本で、鐘身を縦に4分割する(近世の鐘には5本の縦帯をもつものもある)。上帯と中帯の間の空間は、上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称する。「乳の間」には「乳」と称する突起状の装飾を並べる。「池の間」は無文の場合もあるが、ここに銘文を鋳出(または刻出)したり、天人像、仏像などの具象的な図柄を表す場合もある。中帯と下帯との間のスペースは「草の間」と呼ばれる。鐘身の撞木が当たる位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が対称的位置に設けられる(まれに4箇所に撞座を設ける例もある)。撞座の装飾は蓮華文とするのが原則である。
和鐘の基本的形状は奈良時代から江戸時代まで変わりがないが、細部には時代色が表れている。梵鐘の時代を判別する大きなポイントの1つは撞座と龍頭との位置関係である。奈良時代から平安時代前期の鐘では、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として直交している。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは直交する。これに対し、平安時代後期以降の鐘においては龍頭の取り付き方が変化しており、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として同一方向である。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは一致している(若干の例外はある)。また、奈良時代から平安時代前期の鐘では撞座の位置が高く、鐘身の中央に近い位置にあるのに対し、平安時代末期以降の鐘では撞座の位置が下がる傾向がある。

日本の著名な梵鐘

国家安康の鐘とその銘文(京都・方広寺)
奈良時代の梵鐘
梵鐘研究家の坪井良平は以下の16口を奈良時代鐘としている。
千葉・成田市出土鐘(国立歴史民俗博物館蔵) 774年
福井・劔神社鐘 770年、製作年代明らかなものとしては日本で3番目に古い
岐阜・真禅院鐘
滋賀・園城寺鐘 通称・弁慶の引き摺り鐘
滋賀・竜王寺鐘
京都・妙心寺鐘 698年、製作年代明らかなものとしては日本最古
京都・東福寺鐘
奈良・東大寺鐘
奈良・興福寺鐘 727年、製作年代明らかなものとしては日本で2番目に古い
奈良・薬師寺鐘
奈良・新薬師寺鐘
奈良・法隆寺西院鐘
奈良・法隆寺東院鐘 旧・中宮寺鐘
奈良・当麻寺鐘 妙心寺鐘と並ぶ日本最古級の鐘
奈良・大峯山寺鐘
福岡・観世音寺鐘 妙心寺鐘と同じ木型から造られた古鐘
国宝の梵鐘
神奈川・円覚寺
神奈川・建長寺
福井・劔神社
滋賀・佐川美術館
京都・平等院(所在:鳳翔館、現在鐘楼に吊られている鐘は複製)
京都・妙心寺(徒然草に登場する)
京都・神護寺(非公開)
奈良・当麻寺(非公開)
奈良・東大寺
奈良・興福寺(所在:国宝館)
奈良・栄山寺
福岡・観世音寺
福岡・西光寺
その他の著名な梵鐘
東京・品川寺(鐘楼) – 四代将軍徳川家綱寄進。幕末に万博出品されるも行方不明となり、昭和5年に返還された。
東京・浅草寺(弁天山) – 「花の雲 鐘は上野か浅草か」(松尾芭蕉)の句で有名。
愛知・久国寺(天長山) – 芸術家・岡本太郎が製作。
滋賀・園城寺(三井寺)(鐘楼) – 「三井の晩鐘」の別名あり。音色の良さで知られ、三大梵鐘ともいわれる。
滋賀・園城寺(三井寺) – 通称「弁慶の引き摺り鐘」
京都・平等院-姿の良さで知られる、三大梵鐘の一つ。
京都・方広寺(鐘楼) – 銘文中の「国家安康」の句が徳川家康の豊臣への怒りを買ったとされる。
京都・知恩院(鐘楼)
兵庫・佛教之王堂[念仏宗 総本山](北鐘楼・南鐘楼) – 重さ48tの大梵鐘が2口 ㈱老子製作所 第12代老子次右衛門が製作。
熊本・蓮華院誕生寺(鐘楼) – 大きさ、重量ともに世界一[要出典]の大梵鐘がある。口径九尺五寸、高さ十五尺、重量一万貫。昭和五十二年鋳造。鋳造元は岩澤の梵鐘
和歌山県日高郡日高川町道成寺:梵鐘がないことで有名、安珍・清姫伝説に基づく。
静岡・紇哩岡寺?(袋井市) – 1983年に茶畑から出土した。平治元年の銘文があり、銘文がある梵鐘としては全国で12番目の古さ
文学の中の梵鐘

歌川国芳の「弁慶、比叡山へ引き摺り上げる図」(滋賀県大津市三井寺所蔵)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす」平家物語冒頭
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規の俳句)
「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる」(童謡『夕焼け小焼け』作詞: 中村雨紅、作曲: 草川信)

小幡人形(おばたにんぎょう)とは、滋賀県東近江市五個荘小幡町で作られている伝統的な土人形。
18世紀、小幡において京都への飛脚業を営んでいた安兵衛が、京都伏見において作られる伏見人形の製作方法を習得し持ち帰ったのが始まりとされる。鮮やかな原色、特に桃色による彩色が特徴である。
1984年(昭和59年)と1992年(平成4年)には年賀切手の図柄に採用されたことがある。

近江扇子
大津焼
網織紬
秦荘紬
綴綿
ビロード
正藍染・近江木綿
本藍染
手織真田紐
草木染手組組紐
近江刺繍
彦根繍
楽器糸
鼻緒
特殊生糸
押絵細工
近江真綿
八田焼
膳所焼
近江下田焼
提灯
竹刀
ろくろ工芸品
竹根鞭細工
木製桶樽
竹皮細工
竹製花籠
甲良臼
高島扇骨
上丹生木彫
浜仏壇
彦根仏壇
錺金具
高島虎斑石硯
雲平筆
江州燈篭
和ろうそく
太鼓
大津絵
梵鐘
小幡人形

1

近江上布

近江上布

(パンフレット 25ページ)
滋賀県麻織物工業(協)

愛荘町

国指定

2

網織紬

網織紬

(パンフレット 5ページ)

奥田武雄

長浜市

第2次

奥田重之

3

秦荘紬

秦荘紬

(パンフレット 5ページ)
川口織物(有)

愛荘町

第1次

4

綴錦

綴錦

(パンフレット 6ページ)

織匠[宗八] (株)清原織物

守山市・米原市

第1次

5

ビロード

ビロード

(パンフレット 6ページ)

長浜ビロード振興協会

長浜市

第2次

6

正藍染・近江木綿

正藍染

(パンフレット 7ページ)

植西恒夫

湖南市

第2次

7

手織真田紐

手織真田紐

(パンフレット 7ページ)

西村幸

東近江市

第2次

8

草木染手組組紐

草木染手組組紐

(パンフレット 8ページ)

(有)藤三郎紐

大津市

第2次

9

近江刺繍

近江刺繍

(パンフレット 8ページ)
近江美術刺繍工芸社

愛荘町

第2次

10

彦根繍彦根縫

(パンフレット 9ページ)

(有)青木刺繍

彦根市

第6次

11

楽器糸

楽器糸

(パンフレット 9ページ)

西山生糸組合

長浜市

第1次

木之本町邦楽器原糸製造保存会

丸三ハシモト(株)

12

鼻緒

花緒

(パンフレット 10ページ)

滋賀県花緒サンダル組合
※原田和装(株)方

長浜市

第1次

13

特殊生糸

特殊生糸

(パンフレット 10ページ)

西村英雄

長浜市

第1次

14

押絵細工

押絵細工

(パンフレット 11ページ)

東川雅彦

近江八幡市

第1次

15

近江真綿

近江真綿

(パンフレット 11ページ)

近江真綿振興会

米原市

第2次

16

輪奈ビロード

輪奈ビロード

(パンフレット 12ページ)

(株)タケツネ

長浜市

第8次

器 17
信楽焼

信楽焼

(パンフレット 24ページ)

信楽陶器工業(協)

甲賀市

国指定

18

膳所焼

膳所焼

(パンフレット 12ページ)

(有)膳所焼窯元 陽炎園

大津市

第2次

19

近江下田焼

近江下田焼

(パンフレット 13ページ)

(有)近江下田焼陶房

湖南市

第6次

20

(再興)湖東焼

湖東焼

(パンフレット 13ページ)

中川一志郎

彦根市

第8次





21

提灯

提灯

(パンフレット 14ページ)

かさぜん中川善輝

長浜市

第7次

22

ろくろ工芸品

ろくろ工芸品

(パンフレット 14ページ)

(有)松浦製作所

長浜市

第1次

片山木工所

23

竹根鞭細工

竹根鞭細工
(パンフレット 15ページ)

瀬川泰弘

草津市

第1次

24

木製桶樽

木製桶樽

(パンフレット 15ページ)

村田茂朋(問い合わせ先)

竜王町

第2次

25

高島扇骨

高島扇骨

(パンフレット 16ページ)

滋賀県扇子工業(協)

高島市

第4次

26

上丹生木彫

上丹生木彫

(パンフレット 16ページ)

上丹生木彫組合

米原市

第5次

27

八幡丸竹工芸品

八幡丸竹工芸品

(パンフレット 17ページ)

(有)竹松商店

近江八幡市

第7次

28

木珠(高級木製数珠玉)

木珠

(パンフレット 17ページ)

(株)カワサキ

近江八幡市

第9次


29

彦根仏壇

彦根仏壇

(パンフレット 26ページ)

彦根仏壇事業(協)

彦根市

国指定

30

浜仏壇

浜仏壇

(パンフレット 18ページ)

浜仏壇工芸会

長浜市

第1次

31

錺金具

錺金具

(パンフレット 18ページ)

辻清

長浜市

第4次









32

近江雁皮紙

近江雁皮紙

(パンフレット 19ページ)

(有)成子紙工房

大津市

第2次

33

雲平筆

雲平筆

(パンフレット 19ページ)

筆師第15世藤野雲平

高島市

第1次

34

和ろうそく

和ろうそく
(パンフレット 20ページ)

(有)大與

高島市

第2次

北村雅明

長浜市

第6次

35

太鼓

太鼓

(パンフレット 20ページ)

正木専治郎

愛荘町

第2次
二代目杉本才次

36

大津絵

大津絵

(パンフレット 21ページ)

高橋松山

大津市

第2次

37

梵鐘

梵鐘

(パンフレット 21ページ)

西澤吉太郎

東近江市

第5次

38

小幡人形

小幡人形

(パンフレット 22ページ)

細居源悟

東近江市

第5次

39

愛知川びん細工手まり

びんてまり

(パンフレット 22ページ)

伝承工芸愛知川びん細工手まり保存会

愛荘町

第9次

40
いぶし鬼瓦

鬼瓦

(パンフレット 23ページ)

美濃邉鬼瓦工房 大津市 第10次
41
神輿

神輿

(パンフレット 23ページ)

(株)さかい 野洲市 第10次

大津市(おおつし)、彦根市(ひこねし)、長浜市(ながはまし)、近江八幡市(おうみはちまんし)、草津市(くさつし)、守山市(もりやまし)、栗東市(りっとうし)、甲賀市(こうかし)、野洲市(やすし)、湖南市(こなんし)、高島市(たかしまし)、東近江市(ひがしおうみし)、米原市(まいばらし)、蒲生郡日野町(がもうぐんひのちょう)、蒲生郡竜王町(がもうぐんりゅうおうちょう)、愛知郡愛荘町(えちぐんあいしょうちょう)、犬上郡豊里町(いぬかみぐんとよさとちょう)、犬上郡甲良町(いぬかみぐんこうらちょう)犬上郡多賀町(いぬかみぐんたがちょう)

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

北村 昭斎(きたむら しょうさい、1938年1月19日 – )は、漆芸家。元奈良文化女子短期大学客員教授。螺鈿の重要無形文化財保持者(人間国宝)。

略歴
1938年、漆芸家の北村大通の長男として奈良県に生まれる。東京藝術大学美術学部工芸科卒業後、早川電機工業(現在のシャープ)工業デザイン部門を経て、父のもとで漆芸の制作と文化財修理を行う。1999年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 – 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男にあたる。

経歴
奈良県生駒郡安堵村(現・安堵町)出身。大地主の家に生まれ、幼少より絵を学ぶ。東京美術学校に入学して建築、室内装飾を専攻。在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に影響され1908年(明治41年)、卒業前にロンドンへ私費留学(留学中に卒業)。ヴィクトリア&アルバート美術館に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品にふれる。ロンドンで建築家・新家孝正と出会い、写真助手としてインドを巡る。実家から帰国命令が届いたため1910年(明治43年)帰国。清水組(現・清水建設)に入社するが、ほどなく退社。1912年(明治45年)『美術新報』に「ウイリアム・モリスの話」を発表。
その後来日していたバーナード・リーチと出会い、交友を深めてゆく。リーチは陶芸に熱中しており、陶芸家の六代目尾形乾山に学んでいた。富本も影響を受けて興味を持つようになり、1913年(大正2年)に故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始める。1914年(大正3年)]]『青鞜』の同人で「新しい女」として評判だった尾竹紅吉(尾竹一枝)と結婚する。
1915年(大正4年)、故郷奈良に本格的な窯を築きいっそう創作に励む。独学で多くの技術を身に付けたという。陶磁器の研究のため信楽、瀬戸など各地の窯場や朝鮮半島にも足を運ぶ。また、奈良の陶芸家今西洋が波佐見・中尾山で収集した「くらわんか茶碗」の破片などを今西洋の仕事場で「肥前中尾山 茶碗集」としてスケッチし、雑誌『工藝』に寄稿する。李朝に影響された物や民芸調の作品を制作する中で、白磁の焼成に成功する。この奈良にいたのは主に大正年間だったため、この時期を富本の「大和時代」ともいう。
1926年(大正15年)、奈良から世田谷に住まいを移し窯を築く。以後を「東京時代」ともいう)。主に白磁、染付の作品を制作。この時点ではまだ世に知られる存在ではなかったが、1927年(昭和2年)の特別展で評判を得た。昭和10年代は本格的に色絵磁器の制作に励んでいる。このころは柳宗悦の民芸運動にも共感を寄せているが、のちに訣別する。
長く在野だったが、1935年(昭和10年)帝国芸術院の前身である帝国美術院会員。1944年(昭和19年)には東京美術学校教授になっている。戦時中は疎開のため生徒とともに一時高山に移っている。終戦後の1946年(昭和21年)には美術学校および芸術院会員を辞し、家族とも別れ京都へ移る。以後を「京都時代」ともいう)。色絵に加えて金銀を同時に焼き付けるという技法・金銀彩を完成させ、羊歯文様などによる独自の作陶様式を確立した。
1949年(昭和28年)京都市立美術大学教授。1955年(昭和30年)2月15日には重要無形文化財「色絵磁器」保持者として人間国宝に認定、前年の文化財保護法改正によって新設された重要無形文化財の保持者認定制度発足後に最初に認定された人間国宝の一人となった。晩年の1961年(昭和36年)には文化勲章を受章している。その2年後満77歳で死去した。
吉田文之 よしだ-ふみゆき

1915-2004 昭和-平成時代の象牙工芸家。
大正4年4月23日生まれ。父立斎(りっさい)に象牙の表面を染め,撥(は)ね彫りで文様をほる撥鏤(ばちる)の技法をまなぶ。昭和9年商工省工芸展で受賞し,戦後は日本伝統工芸展などで活躍。正倉院宝物(紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく))の復元につくし,染色でもぼかしなどの技法を開発した。60年撥鏤で人間国宝。平成16年12月19日死去。89歳。奈良県出身。

絹谷 幸二(きぬたに こうじ、1943年1月24日 – )は、日本の洋画家。日本芸術院会員、独立美術協会会員、東京芸術大学名誉教授、大阪芸術大学教授、日本美術家連盟理事。
純然とした空の青を背景に、限定された形の中に明るく躍動的な色彩で描かれた人物などが特徴とされる。アフレスコという壁画技法の国内第一人者でもある。交友関係も幅広く、保守政治家との交友もある。

経歴
奈良県奈良市に生まれる。奈良県立奈良高等学校、東京芸術大学美術学部油絵専攻卒(1966年小磯良平教室)。卒業制作で大橋賞受賞。
小学校一年生の頃から油絵を習い始める。芸大卒業後、1971年にイタリアへ留学、ヴェネツィアでアフレスコ古典画(フレスコ画のことで、本人は必ずアフレスコと〝ア〟をつける)の技法を研究する。1974年安井賞展安井賞受賞、若手洋画家として期待される。その後メキシコ留学などを経て、1993年東京芸術大学教授に就任、後進を育てる。また、NHKの日曜美術館によく出演する。アフレスコ絵画技法の地方公演なども行っている。2000年に芸術院会員となる。新作個展は様々な全国有名百貨店にて開催されている。
2008年に35歳以下の若手芸術家を顕彰する絹谷幸二賞を毎日新聞社主催にて創設。2010年に東京芸術大学名誉教授に就任。
人物
保守派の画家としても知られている。2015年7月15日に、東京・赤坂のそば店「三平」において、内閣総理大臣、安倍晋三、老川祥一読売新聞グループ本社取締役最高顧問と会食した。この会食は、翌日の各新聞社、通信社の首相動静欄において、広く報道された。なお、7月15日は衆議院特別委員会において、安全保障法制が強行採決された日である。

受賞歴 等
1966年(23):東京芸術大学美術学部油画科卒業制作展≪蒼の間隙≫で大橋賞を受賞。
1966年(23):独立美術協会第34回展で独立賞受賞。
1967年(24):独立美術協会第35回展で独立賞受賞。
1970年(28):新鋭選抜展に≪記憶の跡≫を選抜出品、優秀賞受賞。
1970年(28):ベヴィラックア・ラ・マーサ財団主催の展覧会でラ・マーサ賞受賞。
1974年(31):第17回安井賞展にて≪アンセルモ氏の肖像≫で安井賞受賞。
1977年(34):≪アンジェラと蒼い空II≫が昭和51年度文化庁買い上げ優秀美術作品に選ばれる。
1978年(35):イタリア・マニフェスト展にてマニフェスト賞受賞。
1983年(40):第2回美術文化振興協会賞を受賞。
1985年(42):第2回日本青年画家展に≪光ふる時≫を出品、優秀賞受賞。
1987年(44):第4回日本青年画家展に≪時の天使≫を出品、優秀賞受賞、東京芸術大学講師。
1987年(44):第19回日本芸術大賞受賞。
1988年(45):第5回日本青年画家展に≪涙するカトリーヌ≫を出品、優秀賞受賞。
1989年(46):第30回毎日芸術賞受賞、東京芸大助教授。
1993年(50):東京芸大美術学部教授。
2001年(58):≪蒼穹夢譚≫ にて第57回日本芸術院賞受賞、芸術院会員となる。
2009年(66):絹谷幸二賞が毎日新聞主催で創設される。
2010年(67):東京芸術大学名誉教授を授与。大阪芸術大学教授に就任。
2014年(71):文化功労者

山本 集(やまもと あつむ、1940年7月15日- 2011年12月16日)は、奈良県五條市出身の画家。板前→高校野球の監督→ヤクザという異色の経歴を持つ。

来歴・人物
浪華商業高校では野球部に在籍。チームメイトに張本勲がいた。
卒業後はいくつもの職を経て板前に転身。僅か1週間の修行期間ながら店長を任された。1965年、智辯学園高校の野球部の初代監督に就任。しごきで選手を鍛えわずか1年で強豪チームを作り上げるが、行き過ぎた暴力指導が問題になり1年半で監督の職を追われる。山本が退任した年の2年後に、智辯学園は甲子園に初出場する。
1967年、関西のヤクザ組織諏訪一家系淡路会に入り頭角を表し、1970年30歳の時に山本組を旗揚げ、組長を襲名。のちに諏訪一家の若頭補佐に昇格、 関西の武闘派として名を馳せた。しかし、企業化してゆくヤクザの組織に身の置き所を失い、50歳直前にして、浪商野球部で同期である実業家の谷本勲から諭され、1989年に山本組を解散しヤクザの世界から足を洗い、大好きだった富士山等を題材とした絵を多く描く。
代表作『雄渾』は関西国際空港の正面玄関に展示されている。
2003年から映画の賞『DVシネマ大賞』(DVはデジタルビデオの略)をプロデュースしている。同年の第1回DVシネマ大賞を田代まさし監督、大学中庸脚本の『実録やくざ抗争史 LB熊本刑務所 vol.4 刑務所前バス停』が受賞した。
2007年、毎日新聞の元記者が国民新党の糸川正晃衆議院議員とのやりとりを糸川に無断でICレコーダーで録音し、第三者に受け渡していた問題で、その録音テープを渡した人物として毎日新聞に実名で報道された。
2011年12月16日、膀胱癌により死去。71歳歿。

井上 武吉(いのうえ ぶきち、1930年12月8日 – 1997年)は、奈良県宇陀郡室生村(現・宇陀市)出身の彫刻家。

経歴
1930年、奈良県宇陀郡室生村(現・宇陀市)に生まれ、1951年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻科に入学、同年には第15回自由美術家協会展で初入選した。1953年にも第17回自由美術家協会展で入選し、1955年に武蔵野美術学校彫刻科を卒業した。
1962年 – 第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞、更に7、8、9回でも優秀賞。翌年には第7回日本国際美術展で優秀賞受賞、次回展でも同賞を受賞する。
1965年 – 現代日本彫刻展に第1回から参加。
1967年 – 靖国神社無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」を制作。
1968年 – 第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で大原美術館賞を受賞。同展第2、第3回展でも神戸市教育委員会賞を受賞。
1969年 – 箱根 彫刻の森美術館の設計を担当する。
1975年 – 池田20世紀美術館の設計を担当する。
1977年 – 海外のベルリン美術アカデミーなどで個展を開催。
1978年 – 国立ベルリン美術学校客員教授就任。
1979年 – 第1回ヘンリー・ムーア大賞展・優秀賞受賞。
1981年 – ドイツのノイエギャラリーにて個展、その後デンマークで巡回個展。
1986年 – 紫綬褒章 受勲。

平和モニュメント
1991年 – 伊丹市地下空間「my sky hole 91-4 ITAMI」と平和モニュメント(荒牧バラ公園)設置、 第22回中原悌二郎賞受賞。
1992年 – 第17回吉田五十八賞を受賞した。
1995年 – 第45回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1997年 – 逝去。享年67
1997年9月26日、急性心筋梗塞によって横浜市内の病院で死去した。67歳だった。

東樋口徹(とうひぐち とおる、1975年 – )は日本の画家。奈良県生駒郡平群町出身、京都府京都市育ち、東京都在住。

概要
両親の故郷である奈良県で生まれ、京都市で育つ。父は京都大学工学部の助手(当時)、母は元高校教師であり画家である。いわゆる芸術一家であり、幼い頃から美術に興味を持つ。2000年に東京藝術大学に入学し、絵画を学ぶ。2004年に大学卒業後、同大学大学院修士課程に進み、版画を学ぶ。博士課程にも進んだが中退し、画家として活動している。 現在、東京藝術大学の講師として活躍する傍ら、日本国内外で展覧会を開くなど、活動の範囲は広い。
なお、東樋口の実家は現在でも烏丸に在る。東樋口が生まれた当時、助手だった父親は数年後準教授になり、2001年までは京大の教員として建築を教えていた。現在は鳥取県鳥取市の大学教授であり、京都を拠点にして田中勝や三野徹らと共に環境学者としても活躍している。また、一卵性双生児であり、兄は九州大学工学部に進学した。大学院修士課程時代には久永真悟と共に福岡市で学術発表を行った。

脇田 宗孝(わきた むねたか、1942年 – )は、日本の陶芸家。奈良教育大学名誉教授。放送大学客員教授。
奈良県立畝傍高等学校を経て、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を1965年に卒業し、父祖の地・明日香で開窯、創作活動に入る。教育者、古代陶器研究家、陶芸作家の顔を併せ持つ。飛鳥・奈良時代の土器・須恵器・三彩など古代の陶芸技法の研究・復元における第一人者。ライフワークとして「陶芸における古代の造形美を探求し、その美と情感を多元的に具現すること」と、「陶芸の各種技法を習得し、土から生まれる創造的表現の喜びを体感させることにより、文化財の意味と価値を会得すること」を掲げている。

略歴
1965.4~’70.3 伊奈製陶株式会社(現イナックス)タイル・デザイナーとして就職
1970.4~現在 奈良県明日香村にて陶房設立・開窯し、陶芸作家として活動
1972.4~’75.11 奈良芸術短期大学助教授
1975.12~’82.3 奈良教育大学教育学部助手
1982.4~’90.3 奈良教育大学教育学部助教授(構成・工芸) 大学院教育学研究科担当(工芸)
1989.7~’90.4 文部省(現:文部科学省)長期在外研究員 ドイツ・ヘッセン州立教員教育中央研究所にて陶芸研究・指導
1990.4~’08.3奈良教育大学教育学部教授(工芸・文化財教育) 大学院教育学研究科担当(工芸技法研究・工芸演習)
1996.4~’03.3 桜井女子短期大学(現畿央大学)非常勤講師
2002.4~’03.3 京都市立芸術大学非常勤講師
2006.4~現在 放送大学客員教授

今井 凌雪(いまい りょうせつ、本名:今井 潤一(いまい じゅんいち)、1922年12月9日 – 2011年7月26日)は、日本の書家。筑波大学名誉教授。書法研究雪心会会長。「読売書法会」常任総務。社団法人「日展」参事。社団法人「日本書芸院」名誉顧問。「國際書道連盟」顧問。

経歴
奈良県奈良市生まれ。郡山中学(現奈良県立郡山高等学校)、天理語学専門学校(現天理大学外国語学部)卒業後、駸々堂入社。1949年立命館大学法文学部経済学科卒業。中谷釜雙、辻本史邑に師事。
東京教育大学、筑波大学、大東文化大学で教授、大東文化大学書道文化センター所長を歴任、1988年、大東文化大学書道研究所初代所長(1991年まで)に就任した。中国では西冷印社名誉社員、浙江中国美術学院客員教授、上海復旦大学兼職教授を歴任し高い評価を得る。
テレビにおいては、NHK教育テレビ「婦人百科」「NHK趣味講座 書道に親しむ」(1983年4月 – 9月)「NHK趣味講座 書道に親しむ-行書 草書-」(1985年10月 – 1986年3月)の講師を務める。朝日新聞社主催「現代書道二十人展」のメンバーでもあった。
黒沢明監督作品「乱」(1985年)「夢」(1990年)「まあだだよ」(1993年)の題字を担当したことでも知られ、2002年には映画「阿弥陀堂だより」の題字も担当した。岩波書店の新日本古典文学大系の題字も担当した。
2011年7月26日、すい臓がんのため奈良市の病院で死去。88歳没。

杉岡 華邨(すぎおか かそん(本名:杉岡 正美(まさみ))、1913年3月6日 – 2012年3月3日)は、書家、文化勲章受章者。

経歴
奈良県吉野郡下北山村生まれ。奈良師範学校を卒業後、辻本史邑、尾上柴舟、日比野五鳳に師事。奈良県立高等女学校教諭ののち大阪教育大学で書を教える傍ら京都大学で文学、美学を聴講、久松真一から禅美術の思想的背景を学ぶ。日展、朝日現代書道二十人展、毎日書道展、読売書法展に作品を発表、かな書の第一人者となる。奈良県文化賞、日展文部大臣賞、日本芸術院賞受賞(1983年)、1989年日本芸術院会員、95年文化功労者、2000年文化勲章受章。杉岡華邨書道美術財団がある。
2012年3月3日午前1時16分、心不全のため奈良市内の病院で死去した。98歳没。没日付をもって日本政府から従三位に叙された。

山村 龍和(やまむら りょうわ、1984年(昭和59年)8月19日- )別名 宇陀炎人は、日本の書家・書道家。
奈良県出身。その他の号は宇陀炎人(うだえんじん・うだのかぎろひびと)。
7歳から書を始める。
2008年、書家として独立。2010年5月、ニューヨークに訪れる。
滞在期間中、ヘイデン・パネッティーア、山本紅浦などとも交流。
書芸術・書アートを世界に向けて積極的に発信している。
2011年9月22日~27日、書をはじめて20年となる個展「龍和展」を開催。
会期中、将棋棋士羽生善治と対談。2011年12月11日、朝日放送の「新婚さんいらっしゃい!」に出演した。同日の出演はハイキングウォーキングの鈴木Q太郎夫妻。 2012年2月8日、TBSの「ひるおび!」に出演。

略歴
1984年 – 奈良県生駒市で生まれる。
1991年 – 書を始める。数々の賞を受賞。
2000年 – 奈良県立桜井高等学校普通科書芸コース入学。書を専門的に学び、数々の賞を受賞。
2003年 – 三重大学教育学部人間発達科学課程入学。
2008年 – 書家として独立。活動を開始。
2010年 – ニューヨークに訪れ、さまざまなアーティストと交流。
2011年 – 龍和展開催。会期中、羽生善治と対談

赤膚焼(あかはだやき)は奈良県奈良市、大和郡山市に窯場が点在する陶器である。

概要
草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。
江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。小堀政一(遠州)が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。
文政年間には五条山に三窯あり「東の窯」「中の窯」「西の窯」と呼ばれていた。1884年(明治17年)に出版された『大和国名流誌』には、赤膚焼の陶工として山口甚次郎、古瀬治平、井上忠次郎の3人の名前が記されている。「西の窯」は明治12年に三代惣兵衛が没し、後を継いだ忠次郎のころ明治14年の末に他家へ同居した記録が残っているがしばらくして廃窯されたようである。「東の窯」は明治23年石川寅吉が継ぐ記録が残っているが、寅吉没後「東の窯」は廃窯されたようである。第一次世界大戦後の不況の余波を受け昭和初期には古瀬家の「中の窯」を残すのみとなった。昭和16年7月、銀座松屋にて「赤膚山元窯作品展示会」が開かれているが、当時の説明でも『「中の窯」只一つしか残存して居ない。』と書かれている。 現在、残された「中の窯」の大型登り窯は、登録有形文化財として古瀬堯三(ふるせぎょうぞう)窯で見学することができる。
赤膚焼と称されるものは数多くあるが、「東の窯」「西の窯」は現存していない。そのように称しているものは、ほぼ現代陶芸作家による詐称であるので購入する際には注意したい。
赤膚焼は名の如く、器肌に赤みを帯びている。名の由来はその器肌という説と地元の地名から来たという二説がある。その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出している。 赤膚焼には裏に「赤膚山」という刻印がつけられている。江戸時代から続く窯元である古瀬堯三窯のものには「赤膚山」の刻印のみ見られる。その他の窯のものには「赤膚山」または「赤ハタ」の刻印以外に作家印や窯印がつけられている。
現在、奈良県の伝統工芸として六つの窯がある。
大塩昭山(奈良市)
大塩玉泉(奈良市)
大塩正人(奈良市)
古瀬堯三(奈良市)
小川二楽(大和郡山市)
尾西楽斎(大和郡山市)
大塩姓が三軒あるが、それらはすべて親戚関係にある。昭和になって開かれた窯であることが名前の由来となった大塩昭山、その後独立した大塩玉泉、大塩正人が続く。

茶筅(ちゃせん)または茶筌とは、茶道において抹茶を点てるのに使用する茶道具のひとつで、湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。抹茶といえばこんもりと泡を立てた姿が有名であるために、泡だて器の一種と考えられることも多いが、泡を立てるための道具ではない。竹製のものがほとんどで、現代ではアウトドア用の金属製・プラスチック製のものもある。

茶筅(ちゃせん)または茶筌とは、茶道において抹茶を点てるのに使用する茶道具のひとつで、湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。抹茶といえばこんもりと泡を立てた姿が有名であるために、泡だて器の一種と考えられることも多いが、泡を立てるための道具ではない。竹製のものがほとんどで、現代ではアウトドア用の金属製・プラスチック製のものもある。

概要
軸(柄)の部分(筆管)を手に持ち、毛の部分(穂)に墨や顔料をつけ、紙などの書く対象にその毛をなすり付けることによって、字を書いたり絵を描いたりすることができる。
穂の長さにより長鋒・中鋒・短鋒に分けられる。材料の毛には通常、獣毛が利用される(まれに化学繊維が使われることもある)。剛毛には馬・鼬・狸などの毛が用いられ、柔毛には羊・猫・栗鼠などの毛が利用される。また「特殊筆」として、鶏・孔雀・マングース・鼯鼠の毛を用いたものや、獣毛以外にも藁や竹を使用したものも生産されている。最近は、胎毛筆と言って赤ちゃんの成長を願って、赤ちゃんの髪の毛でも記念に筆を作ることもある。剛毛と柔毛の数種類の毛をまぜて、筆に弾力をもたせて適度に書きやすくしたものを兼毫(けんごう、兼毛とも)と言う。
日本に現存する最古の筆は「天平筆(雀頭筆)」であるとされており、正倉院に残されている。
書の筆
通常、大筆(太筆)は穂を全ておろす(ノリを落とす)が(根元に短い毛を意図的に残し、筆の弾力を高めているものに関しては根元を固めたままにすることが多い)、小筆(細筆)は穂先だけをおろすのが良い。ただし、仮名用の筆に於いて、やや大きめの面相筆は根本までおろすことが多い。[要出典]
小筆の穂先は特に繊細なため、陸(墨を磨る部分)で穂先をまとめるために強くこすりつけることは極力避ける。墨などで固まった穂先を陸にこすりつけて、柔らかくしようとすることは絶対にしてはならない。硯は固形墨を磨(す)るためのヤスリであり、墨液が潤滑の働きをするとは言え、そのヤスリにこすりつけることは穂先を硯で磨ることと同じであり、穂先をひどく傷めてしまうからである。大筆も硯の陸の部分で毛をこすりつけないこと。大作を作る時などは、墨磨り機などで磨った墨をプラスチックや陶器の容器に移し替えて使うことが多い。
仕組み
毛は顕微鏡で見るとウロコ状の表皮に包まれた物体であることがわかる。ウロコ状の部分をcuticle(キューティクル:表皮構成物質)と呼ぶ。人毛の場合、このキューティクルの隙間は0.1ミクロンであり、水などがこの隙間から進入すると毛全体が膨らみ反る。そのため、作られてすぐの筆は膨らんだり毛が反るので、毛や筆の性能を活かしきることができない。ススは、元素的にはカーボン(炭素)である。このスス成分が筆のキューティクルの隙間に沈着すると、水分が入れない状態になり、膨らんだり反ったりしなくなる。また筆のコシが出て、墨の含みも良くなり、最も良い状態で筆の性能を活かすことができる。羊毛の筆は最初、透通るような白い色をしているが、使い込むに従って銀色に、さらに長年を経ると黄金色に輝き、使用者自身の書きぶりが毛の癖となって表れ、その人の体の一部の如く使いこなしやすくなる。しかしその状態になるには、墨液よりも、摩った固形墨の方が良いと言える。
製造の途中で不揃いな毛などをすいており、書字中に抜けてくるのは抜き出し損ねた残りであって少量であれば問題ない。切れや抜けが多いと毛が減り、筆が割れを起こしたり、毛先が効かなくなって使えなくなる。
毛とニカワの関係について
前項のように、筆は使うほどに本来の筆の持つ能力が引き出されてくるが、それには墨の選び方や洗い方も大事になってくる。
墨の成分は、主にススと膠(ニカワ:コラーゲン・ゼラチン成分)から作られている。品質の劣悪なものは、ニカワに安価な海外の魚のコラーゲンを使うなどするため、ニカワの成分が毛に対してストレスを与え、キューティクルを傷める。人によってはリンスやコンディショナーなどを塗布してキューティクルを守ろうとすることがあるが、前述の通り筆の毛はキューティクルの隙間にススを入れることが大事であって、リンスやコンディショナーなどは隙間に入り込んでススを入れなくしてしまうので、筆の毛にコシを与えず逆に寿命を縮めることになる。
洗うことについて
穂先に墨が残らないようによく水洗いする。ただし、作られてすぐの筆を水に長時間浸しておくと、毛に水が入り込み膨らんでキューティクルの隙間が大きく開き、毛が切れやすくなる。同じ理由で、筆の穂先を固めるためのノリ成分を、水に長時間さらして落とすのは適当でない。
小筆を洗う場合は、筆の穂先を擦り切らせないよう気をつける。
筆の根元については、よくすすぎ、根元にニカワ分が残らないようにする。ニカワ分が溜まると、膨張するなどして筆管が割れるので注意が必要である。ニカワは、ぬるめの湯に一番溶けやすいので、湯で洗うのが毛に最も良い。
毛の根元の墨を口で吸ったりして吸い出すことがよく行われているが、品質の良い固形墨・墨液では構わないが、品質について信用できない墨汁などを口に入れることは体に悪い可能性があるので注意する。前述のように海外の魚や動物の骨や皮から抽出したコラーゲンを使ったり、化学的に合成した接着剤成分などをニカワの代わりに用い、腐らせないように防腐剤が入り、工業製の香料を使っている可能性が高いため、口に入れることは不衛生であり健康被害・アレルギーなどに注意する。また磨った墨などを作り置きして使う場合は防腐剤が入っていないため大変腐りやすいので口に入れないこと。
スス成分が溜まると筆は逆に長持ちするので、ニカワの成分だけをよく落とすのが大事である。 黒い墨の色が薄く沈着するのは筆の性能が引き出されていることを示していると言って良いので、洗いすぎて筆を傷めないよう注意する必要がある。
産地

巨大熊野筆
筆の産地としては、京都市、東京都、奈良県(奈良筆)、広島県の熊野町(熊野筆)、呉市(川尻筆)、奈良県(奈良筆)、愛知県の豊橋市(豊橋筆)、宮城県の仙台市(仙台御筆)、などが有名。いずれも職人仕事なので、特定の町内に職人の職住一致の仕事場が点在している。
特に伝統工芸品として経済産業省に認定されているのは、
豊橋筆 愛知県豊橋市
奈良筆 奈良県奈良市、大和郡山市
熊野筆 広島県熊野町
川尻筆 広島県呉市川尻町(旧豊田郡川尻町)
である。
中国においては、浙江省呉興県善璉鎮の「湖筆」が最も名高い。

指物(さしもの)
板を差し合わせて作くられた家具や器具の総称、またはその技法。本項で詳述。
髪にさす装身具(髪飾り)の総称。簪(かんざし)・櫛(くし)を参照。
戦国時代以降の武士が、自身の存在・所属・職階などを示すために指している旗や飾り。腰に差すものを「腰指(こしざし)」と呼ぶが、一般的には、戦国時代後半に定着した背中に指すものを言う。旗指物(はたさしもの)。

概要
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指物(さしもの、 英語: woodworking joints)とは、釘などの接合道具を使わずに、木と木を組み合わせて作られた家具・建具・調度品などの総称であり、また、その技法をも指す。
日本語による狭義では、日本の伝統工芸品の指物およびその技法のみを指す。
日本の指物
日本でいう「指物」の名の由来については諸説あるが、ホゾや継ぎ手によって材を組むことを「指す」といい、また「物指し」を用いて細工するからともいわれる。指物の技術者を日本では指物師と呼ぶ。
日本において伝統的な指物にはいくつかの流派とも呼べるものが存在するが、特に京都の京指物、東京(旧・江戸)の江戸指物、大阪の大阪唐木指物が有名である。
京指物
平安時代の貴族文化に起源を持つ京指物は、室町時代以降、これを専門とする職人(指物師)が現れ、その後の茶道文化の確立とともに発展した。
朝廷や公家が主に用いていたことから優雅かつ精緻な細工を特徴とする。無垢板(むくいた)を用いた箪笥・飾り棚・机などといった高級和家具のほか、桐・杉・欅・桑などといった木の素材を生かした箱物・板物・挽物(ひきもの)・曲物(まげもの)など茶道具を作成する。 1976年(昭和51年)6月2日、京指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域は京都市のみである。
江戸指物
江戸時代、徳川幕府は多くの職人を全国から呼び寄せ、江戸の神田・日本橋界隈に大工町・鍛冶町・紺屋町などといった職人町を造って手工業を発達させた。江戸時代の中頃には消費生活の発達につれて大工職の仕事は楢物師(ひものし)・戸障子師・宮殿師などに細分化されてゆき、その一つとして指物師も生まれた。
江戸で発展した江戸指物は、武家や町人・商人に用いられることが多かった。その風土ゆえに華美な細工は好まれず、淡泊な木目に渋味をもつ漆塗りを施して素材の木目の美しさを活かしたものが好まれてきた。 1997年(平成9年)5月14日、江戸指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域としては、東京都の台東区・荒川区・足立区・葛飾区・江東区がある。
大阪唐木指物
奈良時代に遣唐使を通じて日本に伝えられた唐木製品を起源とする。中国より伝えられた珍しい木が使われていたため、「唐の木」を用いた品であるとして「唐木(からき)」と呼び、それが「唐木指物」の名の元となったと考えられている。 安土桃山時代の茶道や書院造りの発展と普及とともに産地形成されてゆく。江戸時代に入ると唐木材は全て長崎に運び込まれ、大坂(大阪)の薬種問屋がこれを引き受けた。
大阪唐木製品は、伝統的技法を用いつつ現在の生活様式に合うよう工夫・改良されている。拭き漆を重ねることによって仕上げられる鏡のような光沢を持った表情と、唐木の重厚な存在感が特徴である。 1977年(昭和52年)10月14日、大阪唐木指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域としては、大阪府のほか、兵庫県姫路市等、奈良県奈良市等、和歌山県有田市、および、福井県越前市の旧武生市域がある。

神具(しんぐ)とは、神道の祭祀に用いられる道具、または器具をいう。

素材
神具として作られる素材としては、木製のものは白木(しらき)で作られることが多く、そのほか金属製(真鍮)、白い陶器も使われることが多い。
主な神具
神棚

注連縄の飾られた神棚
神棚とは、主に壁の上方に天井から吊るしたり、鴨居を利用したりして作られ、東向きまたは南向きに作られることが多い。なお、神棚が作れない場合は、箪笥などの上を利用して作られることもある。
宮形(みやがた)
神社の社殿建築(本殿)を模して作られたもので、通常は白木で造られる。一社造り、三社造り、七社造りなどがあるほか、神明造りや箱に入ったような箱宮などもある。通常の家庭では、一社造りまたは三社造りの宮形が使用されることが多い。神札(大麻)の祀り方としては、一社造りでは伊勢神宮(天照皇大神宮)の神札(大麻という)を一番前にして氏神神社の神札、日常信仰する神社の神札の順で祀る。三社造りでは中央に伊勢神宮の神札(大麻)を祀り、向かって右に氏神神社の神札、左に日常信仰する神社の神札を祀る。
詳細は「神棚」を参照

注連縄

木に取り付けられた注連縄
注連縄(しめなわ)とは、稲藁で作られた縄に四本の紙垂(しで)を垂らしたもので、聖域を分かつために用いられる。
詳細は「注連縄」を参照

神鏡

太宰府天満宮の神鏡
神鏡(しんきょう)とは、神社や神棚などに納められる、円形の薄い鏡である。通常鏡を支える台とともに用いられる。
詳細は「神鏡」を参照

三方

三方に載せられた神饌
三方(さんぼう、さんぽう)とは、神饌や神酒・水を供えるために用いられる白木造りの台である。
詳細は「三方」を参照

土器

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土器(かわらけ)とは、神に供える水や塩・神酒を入れるための器で、素焼きの土器(どき)である。
灯明
三本の棒を組み合わせ、脚をつけた灯明皿または燭台が用いられる。
詳細は「灯明」を参照

榊立て
Sakaki branch.jpg
榊立て(さかきたて)とは、榊を供えるための陶器製の花立である。白木または陶器製の井桁と組み合わせて用いられることが多い。
御幣

三方とその後方にある御幣
御幣(ごへい)とは、紙や布などを用いた依代である。古くは紙や布は貴重であり、感謝のために木に挟み奉げた儀式が転じ、依代と認識されるようになったと考えられている。
詳細は「御幣」を参照

大麻

春日大社の本殿前に置いてある大麻
大幣(おおぬさ)とは、身を清める修祓(しゅうばつ)のために用いる道具である。
詳細は「大麻 (神道)」を参照

祖霊舎
(御霊屋・神徒檀) 神棚が神を祭るものに対し、各家庭の先祖代々の霊を祀るためのものである。
詳細は「祖霊舎」を参照

霊璽

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霊璽(れいじ)とは御霊代(みたましろ)とも呼ばれ、仏教における位牌に相当する、故人の霊の依り代となるものである。通常白木で造られる。位牌と同じく故人一人ひとりに作られるものと、繰り出し位牌のように数人の故人をまてめた霊璽もある。なお、霊璽には位牌と異なり霊璽を覆うカバーのようなものがある。

玉串の載せられた案
案(あん)とは、神社の社殿または主に神道における行事(結婚式や地鎮祭・葬儀などの神事)で使用されるもので、主に白木で作られた机または台である。通常片方に四本ずつ脚をもち、左右で八本の足があることから八足案とも呼ばれる。玉串や神饌などを置く台として使用され、用途によって玉串案・神饌案などと称されることもある。 春日大社などの社では黒木から作られた案が春日祭などで用いられている。
高坏

左後方に一対の高坏がみえる
高坏(たかつき)とは、神饌などを奉げる際に御物を載せる台である。
折敷

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折敷(おしき)とは、神饌を奉げる際に土器などを載せる台である。
唐櫃

辛櫃を用いて運搬する様子
唐櫃(からひつ)とは、折敷などを運搬する祭に用いる脚のついた箱である。
人形・形代
Hitogata.jpg
人形(ひとがた)・形代(かたしろ)とは、呪いや厄災を人に代わって引き受けると考えられている、神事に用いられる紙で作られた道具である。
詳細は「人形」を参照

神楽鈴

鈴を用いた神楽の様子
神楽鈴(かぐらすず)・鈴とは、神迎えを行う際に用いる道具である。
詳細は「鈴」を参照

鳥居

秩父市三峯神社の三ツ鳥居
鳥居(とりい)とは、天門とも神門とも呼ばれ、神域を表す門のようなものである。
詳細は「鳥居」を参照

神輿

日吉大社の神輿
神輿(しんよ)とは、神輿渡御を行う際の神霊の一時的依代となるものである。神輿(みこし)とも言われる。
詳細は「神輿」を参照

祝詞幣
祝詞幣(のりとへい)は、出雲大社などの神事用いる神道用具。祝詞奏上後に「左右左」と振り、祈念する。
用い方の例(出雲大社での大祀)-斎主、祝詞を奏上し、祝詞幣を執って深揖、「左右左」と静かに振る事を三度繰り返し各祈念、深揖、祝詞幣を納め玉串を捧げ神語、拝礼(八開手)を行う。次に斎主、祝詞幣を持って「きよめ」を行う。

神棚(かみだな)は家や事務所などにおいて主に神道の神をまつるための棚である。なお、神仏習合となっている神棚もある。

構造
種類
箱組神棚
桧皮葺神棚
茅葺神棚
板葺神棚
一社造りと三社造り
神棚は一般には扉が一枚の“一社造り”と三枚の“三社造り”とが普及している。
一社造り
一番手前に“伊勢神宮”のお札(天照大神)を祀り、その後ろに“氏神様”(厳密に言えば在住所を管轄する鎮守神を差す)と“その他の神様(崇敬神社)”のお札を納める。
三社造り
中央(最上位)に“伊勢神宮”、向かって右に“氏神様”、左に“その他の神様”をお祀りする形式。つまり、一社造りで後ろにあった氏神様とその他の神様が左右に来た造り。
主に、お札の枚数が一枚の時には一社造りで、2~3枚の時には三社造りと言う風に使い分けられる。
設置場所[編集]
神棚は、できるだけ明るく清浄な場所の、最上階(または上に上階の床のない箇所)の天井近くに南向きまたは東向きに設置するのが良いとされる。最上階への設置が困難な場合があるため「雲板」や「雲文字」が用いられる。「雲板」は神棚を設置する神棚板の上部に取り付けられている雲形に彫刻されている部材である。また、「雲文字」は「雲」、「天」、「空」の木製の抜き文字あるいは紙製の書き文字を天井部分に取り付けるものである (注:下記も参照のこと)。設置場所がなくやむを得ずタンスの上にまつる場合は白い布か白い紙を敷いて神札を置くのが望ましいが、トイレと背中合わせになる場所や、人の出入りが激しい扉の上などは避けなければいけないと言われている。それ以外にも同じ部屋で神棚と仏壇の向かい合わせの設置は好ましくないとされている。
神具

神具としてだるまが飾られることも多い.
神棚の正面には神鏡、左右に榊を立てた榊立て、灯明を配し、神棚の前方に注連縄をかける[5]。このほか真榊(まさかき、ミニチュア)、雄蝶・雌蝶といった御酒口(ミキグチ)をあつらえた飾り徳利(多くは九谷焼風)、御幣(金幣)などが神具セットに含まれている場合があり、ほかにも各家庭でさまざまな縁起物(破魔矢、熊手など)が飾られている例が珍しくない。
なお、神鏡を置く理由は諸説あり、神は鏡のようにあるがままを見通すものであるとか、あるいは鏡のように見る人によって違って見えるものであるから、そのつもりで神の前に立てという意味であるという説や、自らの中にある神性と向き合えという意味であるとする説、あるいは鏡は太陽の光を反射するように、神の光を映すものであるとする説、などがある。
神饌(お供え)
神饌(お供え)としては、洗米(またはご飯)、塩、水、酒が基本であるがそのほか、青果物、生魚、干物、菓子類などが供えられる。米、塩、水は毎朝、酒及び榊は月に2度(通常は1日と15日、ほかに祀っている神札の祭神にゆかりの日)新しいものと取り換えるのがよいとされている。ほかに、合格通知や祝物の熨斗紙などが捧げられる場合もある。
神饌の置き方は、米・塩・水の場合、向かって左から水・米・塩、向かって左から水・塩、2列目に米とする。米・塩・水・酒の場合、向かって左から水・酒・米・塩、もしくは向かって左から水・塩、2列目に酒・米、向かって左から水・塩、2列目に酒・酒、3列目に米とする。
また、本来神道に魚や鳥以外に四足の獣を備えてはいけないという決まりは無い。その証拠に君津市の諏訪神社では「猪鹿切り祭」で獣肉を備える神事がある。
神へ供えた食べ物は後で「お下がり」としていただくようにする。
拝礼
神饌を供えたら家族そろって日ごろの神の加護を感謝し、これからの安全と幸福を祈るのが望ましいが、これができない場合は各自外出前に祈ってもよい。神社本庁が推奨する神棚への拝礼方法は神社と同様「二礼二拍手一礼」であるが、「二礼四拍手一礼」などさまざまな流儀がある。また、「神棚拝詞」という祝詞を唱えるのも良いとされている。神職でなくとも良い(神職を呼ぶ際は宅神祭と呼ばれる)。

三方(さんぼう、さんぽう)とは、神道の神事において使われる、神饌を載せるための台である。古代には、高貴な人物に物を献上する際にも使用された。寺院でも同様のものが使われる。三宝(仏・法・僧)にかけて三宝(さんぽう)と書かれることもある。

構造
通常は檜などの素木(しらき)による木製で、折敷(おしき)と呼ばれる盆の下に直方体状の台(胴)がついた形をしている。台の三方向に穴があいていることから、「三方」と呼ばれる。
元々は折敷と台は分離していて使用するときに台の上に折敷を載せており、台に載せずに折敷だけで使用することもあった。今日では折敷と台が完全に結合したものが使用されており、折敷だけで使用するものは三方とは別に用意するようになっている。
台の穴の意匠に決まりはないが、宝珠の形がよく用いられる。
折敷には縁の板を留めるための綴り目があるが、これは穴のない側の反対側になるように作られている。神前に供える際は、穴のない側(綴り目の反対側)が神前に向くようにする。神饌が載った三方を持つときは、親指を左右の縁に、その他の指を折敷と台に当て、目の高さに持つ。 しかし、宮中作法では、指を折敷の中に指をかける伝統がある。
なお、特殊な形状の三方として板足三方や丸三方などがある。
また、四方に穴のあるタイプもあり、それを「四方」(しほう)と呼ぶ。

日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。
刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣のことを指す。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。

墨(すみ)とは、菜種油やゴマ油の油煙や松煙から採取した煤を香料と膠で練り固めた物(固形墨)、またこれを硯で水とともに磨りおろしてつくった黒色の液体をいい、書画に用いる。
また墨を液状にしたものを墨汁(ぼくじゅう)または墨液と呼ぶ。 墨汁の原材料には化学的な合成物が使われている場合もある。化学的には墨汁の状態はアモルファス炭素の分散したコロイド溶液である。

歴史
古代中国の甲骨文に墨書や朱墨の跡が発見されており、殷の時代に発達した甲骨文字とときを同じくして使用されたと考えられる。文字以外には文身にも使用され、これはのちに罪人の刑罰の一方法となった。墨は漢代には丸めた形状に作られ墨丸と呼ばれた。
現存する日本最古の墨書は三重県嬉野町(現在は松阪市)貝蔵遺跡で出土した2世紀末の土器に記されていた「田」という文字であるとされている。
日本では『日本書紀』に中国の墨について記されているのが初出である。はじめて国内で墨が作られたのは奈良和束の松煙墨とされる。この松煙墨は「南都油煙墨」と呼ばれ、遣唐使として唐へ行った空海が筆とともにその製法を大同元年(806年)に日本へ持ち帰り、奈良の興福寺二諦坊で造ったのが始まりといわれる。この油煙墨の製造が盛んになったのは鎌倉時代である。江戸時代に入ると各地でも製造されるようになったが、古くから技術の高い奈良に多くの職人が集まり、その結果各地の墨の生産は衰えた。奈良では日本の伝統産業として今日まで受け継がれている。現在の墨の主要産地は奈良県産が9割のシェアを占めるが、三重県産も知られる。
墨の特質
製造後間もない新品の固形墨は水分の含有量が多く、膠の成分が強く出るために粘度が強く紙に書いた場合、芯(筆で書かれた部分)と滲みの区別がわかりにくい。年月が経って乾燥した墨は、膠の分解もすすむためにのびが良く、墨色に立体感が出て、筆の運びにしたがって芯や滲みなど墨色の変化が美しく出るとされる。こうした経年をした墨は「古墨」と呼んで、珍重される。墨が緻密に作られていれば、それだけ乾燥するまで長い年月がかかる。
墨の種類
固形墨は主な原料である煤の違いによって、松煙墨と油煙墨に分かれる。朱墨、青墨、紫墨、茶墨などの表現があるが、朱墨以外は基本的に黒色で、色調の傾向を示す言葉である。朱墨の原料は、鉱産物として天然に採掘される辰砂である。
松煙墨(青墨)
松煙は燃焼温度にむらがあり、粒子の大きさが均一でないことから、重厚な黒味から青灰色に至るまで墨色に幅がある。青みがかった色のものは青墨(せいぼく)と呼ばれる。製法は、松の木片を燃焼させて煤を採取する。青墨には、煤自体が青く発色するもの以外に、藍などで着色するものもある。雨風に弱い。
油煙墨
油煙は、煤の粒子が細かく均一で、黒色に光沢と深味がある。製法は土器に、油を入れ灯芯をともし、土器の蓋についた煤を集めて作る。油は、植物性油は菜種が最適とされるが、他にゴマ油や大豆油、ツバキ、キリなどがある。鉱物性油は重油や軽油、灯油である。雨風に強い。

墨の製造で使われる膠は、動物の骨や皮、腱などから抽出した膠状物質。高級なものでは鹿、通常は牛や豚、羊、ウサギなど。安価なものでは魚などが使われ、魚の膠を使ったものは独特な臭気を持つ。それを補う目的で、化学的に合成された樹脂(接着剤と同様な成分)が代用されることもある。
固形墨においても墨液においても、年月が経てば膠の成分が変質し弱くなる。これを「膠が枯れる」という。作った当初は膠が強くて粘りがあり、紙に書いた場合、芯(筆で書かれた部分)と滲みの差が小さいが、年月を経ると膠が枯れ、滲みも増えて墨色の表現の自由度が広がる。水分が多いと書いた線の部分から滲みが大きく広がる。この状態を「墨が散る」という。長い年月を経て膠の枯れた固形墨を「古墨」といい、伸びやかな線質や立体感、無限な色の表現が可能になるため、特に淡墨の作品では不可欠であり価値がある為、高値で取引される。
膠は動物性蛋白質であるため極端な低温下では粘性が増しゲル化・ゼリー状になり、書作に適さない。そのため墨は一定以上の気温下で使用する。
工芸品としての墨
墨を練る技術以外に、高級品では墨の形も美術工芸的に重要となる。墨型彫刻師が木型を製作し、多様な形態が珍重される。日本で墨型彫刻を専業で行なう工房は、2014年時点で奈良の中村雅峯(「型集」7代目)ただ一人。
墨汁のなりたち
明治20年代、小学校教員をしていた田口精爾が冬場に冷たい水で墨をする生徒達を見て液体の墨を作る事を発起。東京職工学校(現・東京工業大学)で応用化学を学び、その後、墨汁を発明。1898年(明治31年)に「開明墨汁」と名付け商品化し販売。田口商会(現在の開明株式会社)を牛込区築土八幡(現在の新宿区)に創業した。
墨汁には天然由来の煤ではなく工業的に作られたカーボン(炭素)を使っているものがある(このカーボンは、コピー機などで使われるトナーとほとんど同じ成分である場合もある)。また膠の代わりに化学的に合成された接着系の樹脂を使っているものがある。
膠を用いた墨液の場合、表装・裏打ちをする際には長時間乾かす必要があり、乾燥時間が短いと墨が溶ける。高濃度の墨液や膠が枯れた墨液はにじみが激しいため、にじみ防止スプレーも市販されている。自分で裏打ちする際には注意が必要である。
防腐剤について
墨の製造で使われる膠は動物性のタンパク質であり、細菌が繁殖し腐敗する。それを防ぐために市販の墨液には防腐剤を添加する。
固形墨には防腐剤の成分に樟脳や香料が含まれる。ただし、磨った墨の液は保存がきかないので直ぐに使い切る必要がある。墨液など液体墨の防腐剤は時間がたてば弱くなるので製造後およそ2年程で腐るといわれている。腐った墨液は動物系の腐敗臭を放ち筆を傷めるので使うのは避ける。
防腐剤の多い製品は筆を傷める可能性があるため、高級な筆を使う場合は粗悪な墨液を使うことは避ける。また、容器内の墨液の腐敗防止のため一度容器から出した墨液は細菌に汚染されている為、戻さない。
日本製の墨液には粗悪な成分を含むことはほとんどないが、安物や輸入品には注意が必要である。品質の良い墨液は固形墨を磨ったものにも比較的近く、書家らにも愛好者が増えている。
備考
硯で墨を磨った液に技法的にアレンジを加える消費者もいる。指の腹などで墨液をこする「磨墨」(まぼく)作業などで粒子の細かい墨色を試してみたり水の量や硬水・軟水の水の硬度、紙との相性、気温や湿度で墨色や墨の広がりなどが変わる。特に淡墨では差が出やすいので、ヘビーユーザーは好みの墨(磨墨液)を作るために各々研究する。その点は絵具のそれと大差ないといえる。
墨をたくさん使用する消費者には墨磨機という固形墨を磨る機械も市販されており、重宝される。

能面(のうめん)は、能楽や一部の神楽で用いられる仮面である。伎楽面や舞楽の仮面などの影響を受けている。

概要
翁(おきな)、尉(じょう)、鬼神、男、女の5種類に大別される。女面、少年面、青年面は一部を除いて何れも白塗りの厚化粧、引眉で、お歯黒を付けており、これらは何れも、能が成立した時代の習慣を残したものである。
なお、「翁」の面は特徴的で、他の能面と異なり、
眼が(黒目の部分のみならず)全てくり抜いてある
ぼうぼう眉(綿や毛が植えてある)
面の口から下の部分を切り離して、紐で結んである(切顎)
古式でおおらかな面である。
能面は木(檜が多い)を彫り、彩色して製作するが、この工程を「面を打つ」という。また、顔に付けることを「面を掛ける」という。この場合「面(おもて)」と読み、「能」がつくと「能面(のうめん)」と読む。近年は和紙製の張子面も登場している。
能楽に面を使用した記録に残る最も古い例としては、弘安6年(1283)の春日神社での猿楽に三番、延命冠者、父尉などの面が使われたことが知られている。一般的に、能面が本格的に作られ始めたのは14世紀中頃に活躍した赤鶴吉成を初めとすると言われる。当時の代表的な面打師とその系譜は江戸時代中期に喜多方能が著した『仮面譜』によって、十作・六作・三光坊などに分類された。
古来傑出した能面作者を「十作」と称し、日光、弥勒、夜叉、文蔵、小牛、赤鶴(しゃくづる)、龍右衛門、日氷(ひみ)、越智(えち)、三光坊の10名とされている。室町時代に今日の能面の基本形を創作した人々とされるが、実在が不確かな人物も含まれている。また、「春日」という作者は「神作」として十作の上に置かれ、神聖視されている。三光坊は十作の中の一人だが、後の面打三家と呼ばれる越前出目家、近江井関家、大野出目家の始祖とされる人物である。六作には千種、福来など、能楽発達後から安土桃山時代にかけて活躍した人々が挙げられている。
なお現在能(亡霊ではなく現在進行形として演じられる形式の能)の成年男性役には能面を用いないで演じられる。しかし役者が顔の表情を作って表現することは禁じられている。この能役者の素顔を「直面(ひためん)」と呼び、その名のとおり自分の素顔を能面と見立てて演ずる。 能のワキはすべて現在成年男性であるために直面で演じられている。

包丁(ほうちょう、庖丁とも)とは、食材を切断または加工するための刃物で、調理器具の一種である。

語源
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
莊子/養生主
「庖」は調理場を意味する。「丁」は「園丁」や「馬丁」のように、そこで働く男、つまり庖丁の原義は「料理人」のことである。『荘子』の「養生主篇」に、魏の恵王の御前で、ある庖丁(ホウテイ)が見事な刀捌きで牛一頭を素早く解体して見せ、王を感銘させる記事がある。 彼の使用した料理刀を後に庖丁と称し、これが日本語読みで「ほうちょう」となった。
奈良、平安時代に日本の料理に用いられる刃物は、刀子と書いて「かたな」と呼ばれていた。鎌倉、室町時代には先述の故事から厨房で働く専門家を庖丁者(ほうちょうじゃ)と呼び、その道具は庖丁刀と呼ばれるようになった。『和漢三才図会』で「割刀」の俗称を「庖丁」と記述しているように、江戸時代中頃には食材を切り刻むための刃物を庖丁と呼ぶようになった。
包丁の種類
和包丁(わぼうちょう)と洋包丁(ようぼうちょう)に大別できるほか、特殊用途の包丁が数多くある。洋包丁は多く両刃(刃の断面が左右対称のV字型)で、和包丁には片刃(断面が「レ」のように、裏が平面で、表側のみ斜めの砥ぎ面(切れ刃という)の非対称)のものと、両刃のものがある。片刃のものは右利き用・左利き用の区別がある
和包丁

出刃包丁 右から大出刃、中出刃、小出刃
出刃包丁(でばぼうちょう)(英語:Deba knife)
魚や鳥・スッポン等を解体するときに使い、使用中に力を入れても刃先が撓ったり曲がらずに使えるように刃が厚く重い包丁で、形状は三角形。江戸時代に大阪府堺市の出っ歯の鍛冶が開発したことから、出刃包丁という名前がついたという説がある。大きさにより、大出刃、中出刃、小出刃と呼び分けることがある。一般的な出刃包丁は大出刃であり、本出刃包丁ともいう。中出刃は相出刃包丁と呼ばれることの方が多い。刃渡りは大出刃と同じ程度で、厚みが薄い。小出刃は大出刃を小型にしたもの。小出刃の薄いものは鯵切(あじきり)ともいう。
薄刃包丁(うすばぼうちょう)(英語:Usuba knife)
主に野菜全般を切るための包丁。関東型(東型)は刃の形状が横から見るとほぼ長方形になっている。関西型は先端みね側が丸くなっており、鎌型とも呼ぶ。日本料理ではかつら剥きや野菜の曲切りなど非常に用途が広い。片刃である。小型の薄刃包丁を特に皮むき包丁と呼ぶこともある。
菜切り包丁(なきりぼうちょう、なっきりぼうちょう)(英語:Nakiri knife)
菜刀(ながたん)とも言う。薄刃包丁と形状が似ているが、菜切り包丁は両刃で切っ先は丸く、家庭向けになっている。本職向けの薄刃とは機能が異なり、桂剥きや細工切りなどの機能は考慮されていない。かつて一般家庭用として広く普及した。
刺身包丁(さしみぼうちょう)(英語:Sashimi knife)
刺身を引くための包丁。刺身を切る際に刃を往復すると素材の切断面が傷み、光沢がなくなることから一方向にのみ引き切ることができるように刃渡りが長い。関西型は先が尖り、その形状から柳刃(やなぎば)と呼ぶ。「柳葉」の字をあてることもあり、また、菖蒲の葉にも似ていることから「菖蒲」「正夫」と呼ぶこともある。関東型は蛸引(たこひき)と呼ぶが、刃が直線的で先端を平らに切落としたような形状になっており、柳刃よりもやや薄い。丸まった蛸の足を切るのに適したものなので蛸引と呼ぶとする説がある。先端が尖っていないのは喧嘩っ早い江戸っ子が喧嘩に使いにくいようにしたためだともいう。先端で細工切りがしやすいなどの理由で、近時は柳刃が関東も含め全国的に主流となっている。刃裏には裏すき、若しくは决り(しゃくり)と呼ばれる凹みがある。フグ刺し用には専用の特に薄くて鋭利なふぐ引きがある。てっぽう(関西方面でのフグの通称)用という意味でてっさ包丁とも呼ぶ。
三徳包丁(さんとくぼうちょう)(英語:Santoku knife)
近年、日本の家庭で一般的に使われている万能包丁。 刃は薄く、野菜・肉・魚を一本で処理できることから「三徳」という。文化包丁(ぶんかぼうちょう)ともよばれる。
身卸包丁(みおろしほうちょう)
出刃包丁の一種であるが、刃をやや細く長くして捌きから刺身を引くまで一本で間に合わせようとする亜種。
舟行包丁(ふなゆきほうちょう)
身卸包丁と形は似ているが刃が薄く、魚から野菜の処理までこなす万能包丁。多くの料理道具を携帯できない釣り船などに持ち込む包丁の意。

鮪包丁によるマグロ解体
鮪包丁(まぐろぼうちょう)(英語:Tuna knife)
魚市場などでマグロを解体する際のみ使う特殊包丁。マグロ切り、マグロ切り包丁ともいい、刃が非常に長く、日本刀に近似しているが、若干しなるように作られている。マグロの解体は二人がかりで、一人はタオルを巻いた刃先を握るため非常に危険で扱いには熟練を要する。
鰻裂き(うなぎさき)(英語:Eel knife)
鰻を捌く際に用いる。地方により形状が異なる。
穴子包丁
アナゴを捌く際に用いる。鰻裂きとほぼ同じ形状のものである。
鱧切り(はもきり)
ハモの骨切り専用の特殊包丁。
附庖丁(つけぼうちょう)
かまぼこを成型する特殊包丁。魚のすり身を板に盛るへらと包丁を兼ねる特殊な形状をしている。近年のかまぼこは手作業から機械成型に主流が移り、使用する職人も減り衰退している。
フグ引き
フグの刺身用の特殊包丁。
鰹包丁
鰹を切るための特殊包丁。刃先が三角にとがった諸刃になっており鰹を容易にさばくことが出来る。
麺切包丁(めんきりぼうちょう)(英語:Noodle knife)

麺切包丁
麺を切るための包丁。うどん切、そば切とも。麺切包丁を用いるときには、麺の太さを一定にするために小間板(駒板)が用いられることが多い。
寿司切り
巻寿司を切るための特殊包丁。刃の部分が円く曲線状に張り出している。
餅切り
餅を切るための特殊包丁。両手型のものもある。刃の部分が若干円く張り出している。
豆腐切り
豆腐を切るための特殊包丁。形状は麺切包丁に似ている。
寒天切り
寒天を切るための特殊包丁。刃の部分が横方向に波状になっている。
西瓜切り
スイカを切るための特殊包丁。大型のスイカでも最後まで割らずに切ることができる。
菓子切り
羊羹を切るための特殊包丁。
蒲鉾包丁
蒲鉾を作る際、材料である魚のすり身を板に載せ、成形するための包丁。他の包丁と異なり刀身に刃がつけられていないのが特徴。
洋包丁[編集]
牛刀(ぎゅうとう)(英語:Chef’s knife)
本来は食肉(枝肉)の仕分け用の、薄く、刃渡りが長く大きい肉切り包丁。サイズの幅が広く、家庭用として野菜やパン切りなど様々な用途にも使いやすい6寸(18cm)や7寸から、精肉の仕分け用の40cm近い大包丁まで市販されている。
筋引(すじびき)
枝肉の解体で、いわゆる「ヒレ肉」(fillet meat) は、周囲を「スジ」と呼ばれる不要部分が覆っている。これを切り離す、「すじ引き」と呼ばれる作業のための、長く細身の包丁。海外の「フィレ・ナイフ」に相当する。
カービングナイフ(英語:Carving knife)
主にカービングフォークと一緒にローストビーフなどの肉の塊を切り分けるのに使われるナイフ。
スライサー(英語:SlicerまたはSlicing knife)
主に薄切り肉や刺身、ハムなどスライスする時に用い、刃先には丸みがあり牛刀を細身にしたような形状をしている。スライスイングナイフとも呼ばれる。
クレーバー(英語:Cleaver)
動物を解体するとき肢の関節を叩き切るなど鉈のように使う。叩きつけても刃先がまくれたり、曲がらずに使えるように刃が厚く重く、形状は四角形。
骨スキ(ほねすき)
骨から肉を切り剥がすために用い、東型と西型がある。海外のボーニングナイフ(Boning knife)に相当する包丁だが、Boning knife は刃が柔らかくしなるように作られており日本独特の包丁である。サバキとも呼ばれる。
ガラスキ
鶏など丸鳥の解体に用いる。軟骨や関節を切断するため、骨スキと同型だが刃が厚くまた長くなっている。
フィレナイフ(英語:Fillet knife)
ボーニングナイフと形は似ているが、刃がやや細く長く、ヒレ肉から魚類の処理までこなす万能包丁。刃は弾力性が高く、ほんの少し背のほうへ反っている。特に生の魚類を捌きやすく作られた洋包丁。
洋出刃(ようでば)
横から見た形状は牛刀と似ているが、スープ用の牛骨を刃の背で砕いたりするため刃が厚く頑丈で、牛刀とは用途が異なる。
ペティナイフ(英語:Paring knife)
和製英語。野菜・果物の皮むき、カクテルやケーキ用フルーツの飾り切りなど用途の広い小型の万能ナイフ。
パン切り包丁(英語:Bread knife)
多孔質の柔らかいパンを切りやすいように、波形の刃になっているものがあり、切断面近くの組織をつぶさないように、刃厚が薄く幅が狭い。ブレッドナイフ、パンスライサーなどの名称で販売されている場合もある。食パンなどを均等な厚さにスライスする場合には専用のガイドを用いる。
その他の包丁[編集]
中華包丁(ちゅうかぼうちょう)(英語:Chinese chef’s knife Chinese cleaver)
中華料理に用いられる身幅の大きい万能包丁。刃は四角いものが主流だが、魚料理の多い上海型は魚おろし用の切っ先を持つ三角形である。骨付き肉など硬い材料用の厚刃、野菜の刻みなどに用いられる薄刃、また、その両方を兼用する中間的なものがある。中華料理ではほとんどの食材を中華包丁のみで処理する。菜刀。方頭刀。
冷凍切り包丁
冷凍した食材をスライスする際に用い、刃先がギザギザの波刃になっている。刃の部分の厚みは2mm程度。冷凍ナイフとも呼ばれる。なお、業務用の製品の中には両手の部分に柄がある両手式のものもある。
上にあげたものの他にも、ケーキ用のケーキナイフ、チーズ用のチーズナイフ、貝をむく貝むき(シェルナイフ)など、特定用途に特化した包丁は枚挙にいとまがない。
なお、調理用途以外の刃物にも、表装などで紙や布の裁断に用いる丸包丁(本惣・相惣ともいう)、漆芸で用いられる塗師屋包丁、畳の製作に使う畳屋包丁、刻みタバコを刻む煙草包丁、各種野菜の収穫用に特化した包丁など「包丁」と呼ばれるものがあり、また、調理用であっても蒲鉾の成形に用いる手付包丁(附庖丁)のように刃物ではない(刃が無い)が包丁と呼ばれるものもある。

撥鏤(ばちる)は、象牙の彫り細工の一つ。撥ね彫りとも呼ばれる。

概要
象牙の表面を緑色と紅色などに染めて彫り、象牙の地色を文様として浮き上がらせる。中国で唐時代に盛行し、日本に、奈良時代頃に伝えられたと考えられている。

奈良県
国指定伝統的工芸品
高山茶筅
奈良筆
大阪唐木指物

奈良県伝統的工芸品
赤膚焼
奈良晒
神酒口
木製灯籠
東吉野杉・檜木工品
高山茶道具
吉野手漉き和紙
鹿角細工
吉野杉桶・樽
大和指物
大和出雲人形
神具・神棚
奈良団扇
三方・三宝
大塔坪杓子・栗木細工
くろたき水組木工品
笠間藍染
奈良表具

その他
日本刀
奈良一刀彫
象牙撥鏤
大和式銅あんこう
三味線皮
貝ボタン
奈良包丁
奈良漆器
奈良釜
磨き丸太
奈良草履
革ボタン
奈良墨
面(能)
大和瓦
割り箸
灯心

奈良市 ならし
大和高田市 やまとたかだし

大和郡山市 やまとこおりやまし
天理市 てんりし
橿原市 かしはらし
桜井市 さくらいし
五条市 ごじょうし
御所市 ごせし
生駒市 いこまし
香芝市 かしばし
葛城市 かつらぎし
宇陀市 うだし
山添村 やまぞえむら
平群町 へぐりちょう
三郷町 さんごうちょう
斑鳩町 いかるがちょう
安堵町 あんどちょう
川西町 かわにしちょう
三宅町 みやけちょう
田原本町 みやけちょう
曽爾村 そにむら
御杖村 みつえむら
高取町 たかとりちょう
明日香村 あすかむら
上牧町 かんまきちょう
王寺町 おうじちょう
広陵町 こうりょうちょう
河合町 かわいちょう
吉野町 よしのちょう
大淀町 おおよどちょう
下市町 しもいちちょう
黒滝村 くろたきむら
天川村 くろたきむら
野迫川村 とつかわむら
十津川村 とつかわむら
下北山村 しもきたやまむら
上北山村 かみきたやまむら
川上村 かわかみむら
東吉野村 ひがしよしのむら

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 – 1958年1月23日)は、日本の洋画家。

経歴
1893年、和歌山県東牟婁郡太地町で船大工を生業とする石垣政治の子として生まれた。1901年、町立太地小学校に入学し、1907年に県立新宮中学校へ進学したが、1909年には1901年にアメリカへ移民していた父の呼びかけで退学して渡米した。1910年からカリフォルニア州ベーカーズフィールドでボーイなどとして働き、また日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義の本などにも親しんだ。
1914年から絵画をサンフランシスコ美術学校やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学び、1916年頃より絵画制作を始めたという。翌1917年から片山潜を中心とする社会主義の研究会(在米日本人社会主義者団)に加わる一方、マーガレット・サンガーやアグネス・スメドレーらとも交流を深める。1925年の第9回独立美術家協会展に出品した『鞭打つ』が好評を博したことでアメリカの画壇にデビューし、1936年にはアメリカ美術家会議の創立準備委員となる。1927年、田中綾子と知り合って結婚し、大日本帝国の軍国主義を夫妻で批判している。夫婦で戦争情報局で活動した。
1951年、日本に帰国して東京都三鷹市へ住んでいたが、日本では本格的な活動をできないまま1958年1月23日に東京都の自宅で脳出血により65歳で死去。故郷の太地町には、石垣の死後に妻の綾子が私財を投じて建設した太地町立石垣記念館がある。
著書
『愛についての告白 男として女として』 石垣綾子共著 平和書房 1971年
作品
文化遺産オンライン(文化庁)による(小画像が掲載されている)2011年9月25日閲覧
女立像(東京国立近代美術館所蔵)
女(東京国立近代美術館所蔵)
リンチ(1931年、東京国立近代美術館所蔵)
腕(1929年、東京国立近代美術館所蔵)
二階つきバス(1926年、東京国立近代美術館所蔵)
鞭打つ(1925年、京都国立近代美術館所蔵)
街(1925年、神奈川県立近代美術館所蔵)
街(1925年、和歌山県立近代美術館所蔵)
ボーナス・マーチ(1932年、和歌山県立近代美術館所蔵)
キューバ島の反乱(1933年、和歌山県立近代美術館所蔵)
女の顔(1916年、和歌山県立近代美術館所蔵)
自画像(1917年、和歌山県立近代美術館所蔵)
拳闘(1925年、和歌山県立近代美術館所蔵)
K.K.K.(1932年、和歌山県立近代美術館所蔵)
裸婦(1946年、和歌山県立近代美術館所蔵)

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 – 1966年(昭和41年)4月10日)は、戦前の日本画家、俳人。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も「ホトトギス」同人であった。本名は昇太郎。

生涯
和歌山県和歌山市に生まれ。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。
城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。一中分校から東京府立第三中学校が設立されたことにで三中に移籍。府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。これが本格的に画家を志すきっかけとなった。
画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。
1915年(大正4年)、平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。縦1m85㎝・幅8m38㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 – 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
1931年(昭和6年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)帝国美術院会員、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1941年(昭和16年)会員を辞任。
1937年(昭和12年)に『潮騒』を発表。幅 14 メートルの超大作。岸壁の海岸、深い海の青が浅くなるにつれ、透明度の高い緑に変化していく様子を鮮やかに描いている。この作品で龍子の筆致は大きく変わった。岩に激しくぶつかる水、そこには輪郭線がない。想像だけで描いた『鳴門』と比較すると繊細な波の動きがよりリアルに表現されていることが分かる。新たな水の表現を獲得した龍子。しかし、1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発。自由に絵を描くことが許されない中で、龍子は作品を発表し続けた。1944年(昭和19年)には『水雷神』。水にすむ神々が持ち上げているのは、魚雷である。暗く深い海の底、その水は重く濁っている。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねた。この絵を描いた頃、龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしていた。重々しい色使いは龍子の心情の表れかもしれない。
第二次大戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始める。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残した。これらは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版されている。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。没年の1966年(昭和41年)には、居宅に近い東京都大田区の池上本門寺大堂天井画として奉納すべく『龍』を描いたが未完のまま死去。後日、遺族の相談を受け龍子の遺作を実見した日本画家の奥村土牛は作品を激賞。奥村が画龍点睛して開眼の上、作品は大堂に奉納された。
龍子記念館
1963年(昭和38年)には、喜寿を記念して、長年住んだ大田区に龍子記念館を設立し、自作を展示した。館は、当初は社団法人青龍社が運営していたが、1990年(平成2年)、同法人の解散とともに土地建物と龍子の作品は大田区に寄贈され、1991年(平成3年)からは大田区立龍子記念館として運営されている。館に隣接する龍子のアトリエと旧宅庭園も公開されている。
また、龍子は自邸内に持仏堂を建てて古仏を安置していたが、これらのうち重要文化財指定の1162年(応保2年)銘・毘沙門天立像は遺族により東京国立博物館に寄贈されている。
作風
激しく流れる水の流れとほとばしる波しぶきによる龍子の描いた水は、巨大なエネルギーで観る者を圧倒した。昭和の動乱期、画壇を飛び出し、独自の芸術を切り開いた日本画家である。けたはずれの大画面、龍子は躍動する水の世界を描き続けた。その水は画家の心を写すかのように時代と共に色や形を変えていった。
代表作
『霊泉由来』 永青文庫蔵、1916年(大正5年)
『慈悲光礼讃(朝・夕)』 東京国立近代美術館蔵、1918年(大正7年)
『安息』 松岡美術館蔵、1919年(大正8年)
『土』 大田区立龍子記念館蔵、1919年(大正8年)
『芭蕉翁』 和歌山県立近代美術館蔵、1923年(大正12年)
『鳴門』 山種美術館蔵、1929年(昭和4年)
『請雨曼荼羅』 大田区立龍子記念館蔵、1929年(昭和4年)
『草炎』 東京国立近代美術館蔵、1930年(昭和5年)
『草の実』 大田区立龍子記念館蔵、1931年(昭和6年)
『山葡萄』 大田区立龍子記念館蔵、1933年(昭和8年)
『愛染』 足立美術館蔵、1934年(昭和9年)
『曲水図』 京都国立近代美術館蔵、1941年(昭和16年)
『洛陽攻略』 東京国立近代美術館蔵(無期限貸与) 1944年(昭和19年)
『爆弾散華』 大田区立龍子記念館蔵、1945年(昭和20年)
『千住大橋』 大田区立龍子記念館蔵、1955年(昭和30年)

下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日[1] – 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 – 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。
1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市に生まれる。8歳のとき東京へ移住。最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。
1906年、天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深めた。1917年6月11日、帝室技芸員となる。

代表作品

弱法師
「光明皇后」(1897)(宮内庁三の丸尚蔵館)
「修羅道」(1900)(東京国立博物館)
「鵜鴎図」(1901)(滋賀県立近代美術館)
「ダイオゼニス」(1903)(東京国立近代美術館)
「木の間の秋」(1907)(東京国立近代美術館)
「大原御幸」(1908)(東京国立近代美術館)
「鵜図屏風」(1912)(東京国立博物館)
「白狐」(びゃっこ)(1914)(東京国立博物館)
「弱法師」(よろぼうし)(1915)(東京国立博物館)(重要文化財)
「春雨」(1916)(東京国立博物館)
「楠公」(1921)(東京国立博物館)
「景雲餘彩」(1922)(宮内庁三の丸尚蔵館)
主な文献
「観山画集 下村観山1」 大日本絵画、1981年
「下村観山伝 下村観山2」 同上  各大著
「横山大観 下村観山」 現代の水墨画2:講談社 1983年
「下村観山 菱田春草」 現代日本絵巻全集4:小学館 1982年
図録 「大観と観山展」 横浜美術館、日本経済新聞社、1990年
図録 「下村観山展―生誕120年記念」 朝日新聞社、1993年
図録 「生誕140年記念 下村観山展」 横浜美術館、2014年

清水 達三(しみず たつぞう、1936年1月9日 – )は、日本画家、日本芸術院会員。
和歌山県出身。1962年中村貞以・長谷川青澄に師事、日本美術院展に出品し、1985年より奨励賞を6回受賞、1991年日本美術院展日本美術院賞、1993年日本美術院展同人。1998年日本美術院展文部大臣賞。2001年日本美術院展内閣総理大臣賞。2004年紺綬褒章受章。2008年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、芸術院会員。

田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年) -大正4年(1915年)10月23日)は、和歌山県和歌山市出身の文人、芸術家。特に版画家としてよく知られている。

経歴
“私は日本人の手に成つたあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど真に生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことはない”
—萩原朔太郎
明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている[1]。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。
その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。しかし大正2年頃に肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。その作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。

2012年、和歌山県立近代美術館で生誕120年記念展が開催された。
大正6年(1917年)には萩原朔太郎の詩集「月に吠える」で恭吉の作品が取り上げられた。恭吉の作品や資料の多くは和歌山県立近代美術館に所蔵されている。

浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 – 2000年12月25日)は、和歌山県出身の版画家。銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。葉巻の愛好家。同じく版画家の南桂子は妻。

経歴
浜口は1909年(明治42年)、和歌山県に生まれた。浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男に当たる。また、陽三の妻である南桂子も版画家である。浜口は東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻を専攻したが、2年で退学しパリへ渡航した。パリ滞在中の1937年(昭和12年)頃からドライポイント(銅板に直接針で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への一歩を記し始めた。戦時色の濃くなる中、1939年(昭和14年)に日本に帰国。自由美術家協会に創立会員として参加するが、戦時下にはなかなか作品発表の場が無かった。1942年(昭和17年)には経済視察団の通訳として仏領インドシナ(ベトナム)に渡航し、1945年(昭和20年)帰国している。
浜口は20世紀におけるメゾチント技法の復興者として国際的に知られる。メゾチントは「マニエル・ノワール(黒の技法)」の別名でも呼ばれる銅版画の技法の1つで、銅板の表面に「ベルソー」という道具を用いて、一面に微細な点を打ち、微妙な黒の濃淡を表現するものである。こうして作った黒の地を「スクレイパー」「バニッシャー」と呼ばれる道具を用いて彫り、図柄や微妙な濃淡を表す。この技法は写真術の発達に伴って長く途絶えていたものである。浜口はこの技法を復興させると共に、色版を重ねて刷る「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで知られる。
浜口が本格的に版画の制作を始めるのは、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)前後、40歳頃のことであった。1953年(昭和28年)には再度渡仏し、以後主にフランスで制作を続けた。1957年(昭和32年)にはサンパウロ国際版画ビエンナーレの版画大賞と東京国際版画ビエンナーレにおける国立近代美術館賞をダブル受賞し、国際的評価が高まった。その後も多くの国際的な賞を受けている。
1971年から1972年にはブラジルに滞在。フランスにいったん戻った後、1981年(昭和56年)からはサンフランシスコに移住。1996年(平成8年)、日本へ戻り、2000年(平成12年)12月に没するまでの数年間を日本で過ごした。
作風
浜口は作品のモチーフとして、ブドウ、さくらんぼ、くるみなどの小さな果物や貝、蝶などの小動物を多く取り上げ、空間を広く取った画面構成で逆に小さな対象物を際立たせる手法を好んで用いた。版画作品は、通常刷り上がった順にシリアル番号を付けるが、浜口は刷り上がりの良い作品の順に番号を付けていた。

村井 正誠(むらい まさなり、1905年3月29日 – 1999年2月5日)は、昭和 – 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。

人物
文化学院の美術科に一期生として入学。昭和9年(1934年)に長谷川三郎らと新時代美術展を結成。自由美術家協会やモダンアート協会などの創立に加わる。
昭和29年(1954年)、武蔵野美術大学教授に就任。昭和37年(1962年)現代日本美術展で「黒い線」などが最優秀賞を受賞。
抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。

建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 – 1942年3月22日)は、彫刻家、帝国芸術院会員。本名は彌一郎。

生涯
1880年2月29日、和歌山県有田郡城山村大字境川(現:有田川町境川)の豪農・建畠喜助の四男として生まれる。野上尋常高等小学校を卒業後、叔父・小林山卿が大阪府で医院を開業していたため、父の希望により大阪医学校へ入学した。
しかし、医師になることを嫌い、叔父の友人・木島櫻谷の紹介で京都市立美術工芸学校に転校、1907年には東京美術学校彫刻科へ編入学して白井雨山に師事し、1911年に同校を卒業した。在学中から文部省美術展覧会に出品し、「閑静」(1908年)や「ながれ」(1911年)で三等賞受賞。
1919年、帝国美術展覧会審査員に任命され、下村観山、川端龍子、保田龍門をはじめとする同郷の芸術家と南紀美術会を組織した。1920年には東京美術学校教授に就任し、1921年に曠原社を結成。1927年、新設された帝国美術院会員となり、1937年には依頼を受けて伊藤博文銅像を製作し国会議事堂中央広間に設置された。
1940年、自身の研究所を拡大して直土会を組織し、多くの門下生を育てたが、1942年3月22日に心臓病のため63歳で死去。長男も彫刻家の建畠覚造。孫は彫刻家、日本大学芸術学部美術学科教授の建畠朔弥、国立国際美術館長、京都市立芸術大学長の建畠晢。

三浦 啓子(みうら けいこ、1935年 – )は、和歌山県出身のガラスアーティスト。新しく開発した「ロクレール」という独自の手法で日本やその他各国にてステンドグラス等のガラスアートを手がける。
2013年5月31日 経営悪化を理由に株式会社ロクレールプロダクションを廃業するということで一部を除きスタッフを解雇。会社は廃業せず、当人も作家活動継続中。

保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月13日 – 1965年(昭和40年)2月14日)とは、日本の画家、彫刻家である。和歌山県紀の川市出身。彫刻家の保田春彦は息子。彫刻家の西村浩幸は孫。

略歴
1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。
名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。美術学校在学中に二科展に出品し入選、1917年(大正6年)の第11回文展では《母と子》で特選を受賞する。その後、日本美術院の研究所で彫刻の勉強をはじめ、以後日本美術院展覧会を発表の場とした。
1920年(大正9年)に渡米し、サンフランシスコ、ニューヨークを経て翌年にはパリに入り、オーギュスト・ロダンの助手であったアントワーヌ・ブールデルの教室で彫刻を習う。また、ヨーロッパ各地を遊学する途中、南仏のアリスティド・マイヨールのアトリエを訪ねた。ギリシアのアルカイックな彫刻に心酔して女性のおおらかな裸体像を追求したマイヨールの作風は、龍門が終生追い求めた母性愛のテーマに影響を与えた。母逝去の知らせをきいて1923年(大正12年)に帰国するが、欧米で3年余り研鑽を積んだ経験は、のちの自己の造形世界を築いていく際のたしかな礎となった。[要出典]
帰国後は、東京での制作をやめ、郷里の和歌山に西村伊作設計のアトリエを建てて活動の本拠を移し、その後大阪府堺市に転居する。戦後は、大阪市立美術研究所、和歌山大学で後進の指導にあたり、関西の美術界に大きな影響を与えた。[要出典]1965年(昭和40年)、73歳で死去。
年譜
1891年(明治24年) 和歌山県那賀郡龍門村(現:紀の川市)に生まれる[2]。
1912年(明治45年) 東京美術学校西洋画科本科入学。
1915年(大正4年) 「自画像」等、二科入選。
1917年(大正6年) 東京美術学校西洋画科本科卒業、日本美術院彫刻部に入り彫刻研究をはじめる。卒業制作の内「母と子」を第11回文展に出品、特選となる。
1918年(大正7年) 第5回院展に「石田氏の像」を出品、樗牛賞(ちょぎゅうしょう)をうける。
1920年(大正9年) 院展同人に推挙される。海外留学に横浜から出帆。
1921年(大正10年) アメリカで模写や制作に従事、4月パリ着、ブールデル・マイヨールについて彫刻に打ち込む。
1923年(大正12年) 母逝去に伴い帰国。
1924年(大正13年) 東京徳川邸で「渡欧記念展覧会」を開催、油彩59、彫刻13点等出品。
1946年(昭和21年) 大阪市立美術研究所彫刻部教授となる。
1953年(昭和28年) 紀陽銀行本店壁面レリーフ4面の製作をうける。2月、和歌山大学学芸学部(現教育学部)教授となる。
1954年(昭和29年) 紀陽銀行壁面レリーフ4部作完成。
1958年(昭和33年) 「名古屋市平和堂立像」完成。
1965年(昭和40年) 2月病没。従五位勲四等瑞宝章を授与される。「南方翁胸像」が未完成で遺された。

瑞芝焼(ずいしやき)は和歌山県和歌山市で焼かれる陶器である。鈴丸焼・滅法谷(めっぽうたに)焼ともよばれる。「瑞(みずみずしい)芝」という銘が表すとおり、透明感のある青緑色が特色。中国龍泉窯の流れを汲む。
寛政8年(1796年)に岡崎屋阪上重次郎が紀州藩の官許を受けて和歌山市畑屋敷新道町(旧鈴丸町)藻屑川のほとりで開窯、享和元年(1801年)滅法谷に窯を移して滅法谷焼とも呼ばれた。
享和元年(1801年)には紀州徳川家十代藩主徳川治寶に芝の緑色を表現した青磁を焼くように命じられ、京都の名工、青木目米(あおきもくべえ)の指導を受けながら大成した。「瑞芝」の銘は、緑の発色に満足した治寶が名づけたという。以後は藩の御用窯となり、男山焼や偕楽園焼と共に藩を代表する窯として発展を遂げた。窯場には黒の総漆に金の御紋が付いた藩主専用の御成門があったという。
明治維新により藩の庇護(ひご)を失うと衰退し、1874年(明治7年)に三代目阪上重次郎の代に廃窯。だが五代目が美濃焼の梅平窯で修行し、地元に帰り1973年市内善明寺にて築窯、徳川時代の作品や北宋、南宋の釉薬を研究、研鑽し、復興に有り付け、現在に至る。

和歌山県知事指定工芸品
紀州へら竿
保田紙
御坊人形
皆地笠
那智黒硯
野鍛冶刃物
紀州雛
棕櫚箒

和歌山県 わかやまけん
和歌山市 わかやまし
海南市 かいなんし
橋本市 はしもとし
有田市 ありだし
御坊市 ごぼうし
田辺市 たなべし
新宮市 しんぐうし
紀の川市 きのかわし
岩出市 いわでし
海草郡 かいそうぐん
紀美野町 きみのちょう
伊都郡 いとぐん
かつらぎ町 かつらぎちょう
九度山町 くどやまちょう
高野町 こうやちょう
有田郡 ありだぐん
湯浅町 ゆあさちょう
広川町 ひろがわちょう
有田川町 ありだがわちょう
日高郡 ひだかぐん
美浜町 みはまちょう
日高町 ひだかちょう
由良町 ゆらちょう
印南町 いなみちょう
みなべ町 みなべちょう
日高川町 ひだかがわちょう
西牟婁郡 にしむろぐん
白浜町 しらはまちょう
上富田町 かみとんだちょう
すさみ町 すさみちょう
東牟婁郡 ひがしむろぐん
那智勝浦町 なちかつうらちょう
太地町 たいじちょう
古座川町 こざがわちょう
北山村 きたやまむら
串本町 くしもとちょう

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