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小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11月29日 – 2003年(平成14年)10月8日)は青森県出身の洋画家。梶井基次郎の作品「檸檬」に因んで檸檬をモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれる。
経歴
青森市生まれ。旧制青森中学校(青森県立青森高等学校)在学中、南部公鎮に師事。1932年(昭和7年)に旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上卒業。同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師。
1938年(昭和13年)、第13回国画会展に初入選。1948年(昭和23年)、国画奨学賞受賞。1953年(昭和28年)、国画会会員。1975年(昭和50年)、青森県褒賞受賞。1992年(平成4年)、青森県文化賞受賞。1998年(平成10年)、国画会永年会員。2000年(平成12年)、文化庁地域文化功労者表彰受賞。
代表作に「赤衣少女」「檸檬とれもんの絵」などがある。
太宰治との関係
1928年(昭和3年)6月、同郷の作家太宰治の四姉きやうが小館の長兄貞一に嫁いだため、小館は太宰の義弟となった。(脚本家菊谷栄も姻戚にあたる。)1935年(昭和10年)の太宰の短篇「道化の華」に登場する法学生”小菅”は、小館がモデルだったという説がある。
翌1936年(昭和11年)10月、小館は自殺を図って篠原外科病院に入院した際、太宰の当時の妻小山初代からたびたび見舞いを受けた。しかしちょうど同じ時期に太宰が薬物中毒治療で自宅を空けていたため、小館と初代は若気の至りから姦通事件を起こす。この一件は初代からの厳重な口止めにより永久に闇へ葬り去られる筈だったが、1937年(昭和12年)3月初旬、太宰からの私信の一節を読み違えた小館は、姦通が露見したものと早合点し、卒業制作を携えての上京時、太宰の住む荻窪の碧雲荘を訪ね初代との関係を太宰に告白してしまった。これが原因となり、太宰夫妻は心中未遂を経て離婚に至る。
初代と結婚することを勧める者もあったが、小館にも初代にもその気はなく、二人はそのまま別れた。後年、初代は満洲に渡り、青島で暮らしていたが、1942年(昭和17年)初秋に一時帰国。浅虫の生家に帰って1ヶ月以上滞在した際、小館に逢い「早くいい人を見つけて結婚しなさい」と勧めている。この後、1943年(昭和18年)6月、小館は初代の言葉通りに木村幸枝と結婚した。
太宰の側では小館を許す気持ちが強く、1946年(昭和21年)8月、小館の妹れい子に「私は四郎君の今後の家庭生活の幸福をいつでも、ひそかに祈つてゐました。秋頃には四郎君に案内していただいて十和田湖へ行つてみたいと思つてゐます」と書き送ったが、太宰多忙のため実現はしなかった。
1998年(平成10年)、小館は太宰未亡人美知子の一周忌に、太宰夫妻の墓所である三鷹禅林寺を初墓参した。
なお、帝国美校時代からの小館の学友鰭崎潤(洋画家)はクリスチャンで、1935年8月頃から船橋の太宰家に出入りし、太宰に「聖書知識」誌を持参、太宰の聖書理解に大きく関わった人物である。
奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年(明治36年)6月15日 – 2004年(平成16年)5月5日)は、日本の洋画家。女優・奈良岡朋子の父である。
青森県中津軽郡豊田村(現弘前市)出身。社団法人日展参与、社団法人示現会会長を務めた。
初入選が40歳前と遅咲きの作家。戦時中は従軍して戦争記録画を制作したが、戦前の作品は、ほとんどが所在不明となっている。戦後は、放牧されている牛や山羊、青森のねぶた、奥入瀬などを題材に描いた。感銘、影響を受けた本として、倉田百三の「出家とその弟子」を挙げている。
略歴
1903年(明治36年) 青森県弘前市生まれ。
1925年(大正14年) 上京。
1941年(昭和16年) 白日会展入選。
1943年(昭和18年) 仁科展、独立展等に入選。
1944年(昭和19年) 文展に入選。
1946年(昭和21年) 第1回日展に初入選。
1947年(昭和22年) 「示現会」の創立会員。
1979年(昭和54年) 日展参与。
佐野 ぬい(さの ぬい、旧姓:佐々木、1932年11月16日 – )は、日本の洋画家。女子美術大学名誉教授(第16代学長)。日本美術家連盟洋画部理事、新制作協会会員。
来歴
青森県弘前市百石町出身。実家は「和菓子さゝき」(現・ラグノオささき)。
青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校)、女子美術大学芸術学部洋画科卒業。25歳で結婚。夫は元新聞記者でエッセイストの佐野寧。寧との間に2男を儲ける。
女子美術大学助手(1955年 – 1961年)/講師(1961年 – 1976年)/助教授(1976年 – 1987年)/教授(1987年 – 1994年)、1994年から1998年まで女子美術大学大学院教授(美術研究科長1997年 – 1998年)。1998年に女子美術大学名誉教授の称号を得て、1998年から2005年まで女子美術大学大学院客員教授、2007年4月から2011年5月まで第16代女子美術大学学長を歴任。
2004年から2007年まで日本美術家連盟常任理事。福沢一郎記念美術財団理事、損保ジャパン美術財団理事。
青色を基調とする作品を多く発表し「佐野ぬいブルー」「青の画家」と称される作家。
工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎすけ)、1915年7月30日 – 2011年7月29日)は、日本の画家、日本画家。創画会会員。東京芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授。
人物
青森県弘前市出身。川端画学校日本画科を卒業後、福田豊四郎に師事した。
自然の昆虫や小動物、植物の葉などを繊細な描線で描き、その周りを群青などの単色の岩絵具で色面を大きく取り、装飾的に感じるような構図が特徴とされる。
東京芸術大学、沖縄県立芸術大学で教鞭を執り、後進の育成にも当たっていた。
2002年には、神奈川県庁に飾られていた工藤の作品が盗難の被害に遭ったこともある。
2011年7月29日、老衰のため神奈川県平塚市で死去。95歳没。
棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 – 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
来歴
1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となる。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した(友人たちとの会話の中で「大きくなったらお前は何になりたいか」の問いに「私だったら絵描きになりたい」という趣旨であった、ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた、という説がある)[要出典]。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。
1924年(大正13年)、東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選する。1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。
1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。1936年(昭和11年)、国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。
1945年(昭和20年)、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛した。1946年(昭和21年)、富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。
1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。1969年(昭和44年)2月17日、青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。
1975年(昭和50年)9月13日、東京にて肝臓癌のため永眠。同日付で贈従三位。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある 。
作風・人物
棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」「我建超世願」「必至無上道」など仏を題材にした作品が特に有名である。「いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするとうようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします」と言っている。また大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いている。中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもある。また生前ねぶた祭りに跳人として参加している映像や写真も現存する。
今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日 – 1944年(昭和19年)9月28日)は、日本の銅版画家。銅版画の技法研究にほぼ独力で取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に関与した。
略歴
1893年(明治26年)3月 青森県(現・弘前市)代官町の生まれ。医師である父成男と母きよの3男で5人兄弟の真ん中。代々弘前藩の典医の家系。
1899年(明治32年)4月 弘前市立城西小学校(当時4年制)に入学。
1903年(明治36年)4月 弘前市立高等小学校入学。
1906年(明治39年)3月 弘前市立高等小学校を卒業。父が東京で医院を開業するため、一家で上京。
1906年(明治39年) 独乙学協会学校中学部に入学。
1909年(明治42年) 独乙学協会学校中学部を退学し、「太平洋画家会研究所」に入る。
1912年(明治45年)4月 「本郷洋画研究所」に入る。研究生第1号。
1912年(大正元年)8月 早稲田工手学校(現在の早稲田大学芸術学校)建築科(夜間)に入学。
1913年(大正2年) 第7回文展に油彩画「公園の初秋」が入選。大正博覧会美術展に油彩「花と果実」が入選。
1914年(大正3年)7月 早稲田工手学校建築科(夜間)を卒業。
1919年(大正8年) 第1回帝展に油絵「バラライカ」が入選。
1920年(大正9年) 松竹蒲田撮影所美術部に入り、背景設計などを担当。
1921年(大正10年) 資生堂意匠部主任(1923年まで)
1923年(大正12年) 関東大震災で東京の住居が倒壊したため青森市に移転。この頃から、石版画、エッチングの研究に本格的に着手。
1926年(大正15年) 印刷会社啓明社に勤務。石版、オフセットを研究。
1927年(昭和2年)4月 青森県師範学校図画科教授嘱託として、美術を教える。
1933年(昭和8年)3月 青森県師範学校を退職し、画業に専心。4月に東奥日報社編集局嘱託となる。『青森県画譜』を10月から毎月1回刊行。
1934年(昭和9年)9月 『青森県画譜』完成。
1935年(昭和10年)『エッチング奥入瀬渓流連作』及び 『エッチング 創作版画小品集』の制作に着手。
1937年(昭和12年) 西田武雄が創刊した雑誌『エッチング』の第55号から、3年間「私のエッチング技法」と題して23回にわたり連載。
1938年(昭和13年) 『松尾鉱山精錬所』制作。
1939年(昭和14年) 一家で上京。池袋でエッチング版画の制作に専念。
1940年(昭和15年) 広山謄写版インキ製造所に関野準一郎、曽我尾武治らとともに勤務。
1943年(昭和18年) 著書『版画の新技法』を出版
1944年(昭和19年)心身の酷使で発病、7月入院。
1944年(昭和19年)9月28日 入院先の中野区江古田浄風園病院で死去(51歳)。
1944年(昭和19年)10月18日 菩提寺である弘前市西茂森の藤先寺の今氏の墓所に埋葬。法名「純正院画雲流泉居士」。
鳴海 要(なるみ かなめ、1920年 – 2004年)は、日本の陶芸家。
青森県中津軽郡岩木町(現 弘前市)出身。1996年に青森県文化賞、1999年に青森県褒賞を受賞した。2003年に鳴海要記念陶房館を開設し、この年に地域文化功労者文部大臣表彰を受けている。
略歴
1954年 – 加藤土師萌に師事
1956年 – 東京藝術大学美術学部副手
1961年 – 現代日本陶芸特選
1977年 – 岩木町褒賞受賞
1999年 – 青森県褒賞受賞
2003年 – 青森りんご勲章受章
成田 亨(なりた とおる、1929年9月3日 – 2002年2月26日)は青森県出身のデザイナー、彫刻家。
略歴
神戸市で生まれ、幼少期より父方の故郷である青森市にて育つ。漫画家の成田美名子は従兄弟の娘にあたる。
1歳になる前、青森県の自宅で、囲炉裏の火をつかもうとして左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかった。小学校ではこの事でいじめられ、右手だけ描ける絵が救いとなった。旧青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)卒業。印刷工として働き資金を貯め、1950年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。当初洋画を専攻していたが、授業に不満を感じ[要出典]、途中で彫刻学科に転科。彫金の作業中、移植した皮膚からはしばしば血が流れたという。
1954年、美術学校卒業後、友人に誘われ[要出典]、映画作品『ゴジラ』(東宝、本多猪四郎監督)にアルバイトとして参加。怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作。以後、美術スタッフとして、各映画会社の特撮作品に携わる。
1955年、彫刻作品で「第19回新制作展」に入選した。
1956年武蔵野美術学校彫刻研究科(現大学院)を修了、映画監督の下に弟子入りする。1962年第26回新制作展新作家賞を受賞。
1965年春、円谷特技プロダクションの契約社員となり、特撮テレビ映画『ウルトラQ』(1966年、TBS)の第2クールから美術監督を務める。続く『ウルトラマン』(1966年、TBS)、『ウルトラセブン』(1967年、TBS)、『マイティジャック』(1968年、フジテレビ)でも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけた。これらキャラクターデザインに関しては、後にその著作権を巡り、円谷プロと争うことになる。
1968年、円谷プロを退社。『ウルトラセブン』の美術監督を中途降板した後、青森市で初の個展を開催。
その後、大阪万博の「太陽の塔」内部の「生命の樹」のデザイン、映画の美術監督などを経て、全国各地で個展を開催する。著書・作品集多数。
2002年2月26日、多発性脳梗塞により死去。
彫刻家、画家として
一芸術家として、個展などで作品の販売も行っていた。その際、注文を受けると展示した作品個体そのものではなく、後日そっくり同じものを新たに製作し、それを客に届けるという形を採っていた(無論、全くのコピーではないため若干の個体差はあるが、作品としてのクオリティは同等まで仕上げていた)。そのため、全く同じ構図・同じ彩色の作品が複数存在しているものがあり、贋作容疑がかかることもある。
個人作品として、作品名に著作キャラクター名を冠さないでウルトラマンや怪獣を描いたこともある。その際のウルトラマンにカラータイマーは存在しない。
ウルトラマンのデザイン
成田は円谷特技プロダクションのテレビ特撮番組『ウルトラQ』に途中参加し、番組内に登場する怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけた。円谷特技プロの次回作『ウルトラマン』の企画では、主人公が正義の怪獣(宇宙人)という設定となり、当初「怪獣」のイメージから東宝特技課の美術監督渡辺明により、クチバシと翼を持つ烏天狗のような怪獣タイプのデザイン(名称ベムラー)がなされた。企画が進行し、主人公を「怪獣」から「宇宙怪人」にコンセプト変更されたのち、文芸部の金城哲夫は成田に主役ヒーローのデザインを依頼し、「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と注文をつけた。
金城の依頼を受けた成田は、「宇宙怪人」のイメージとして、角を生やし、ダイヤモンドカットの髭を生やした宇宙人デザイン(名称レッドマン)を起こしたが、さらに検討が加えられるうちに、宇宙時代のヒーローとして、身体にぴったりフィットした宇宙服と、ヘルメットをベースとしたマスクデザイン画に変化。「人の顔」から余分なものを徹底的にそぎ落とす作業を繰り返した。その作業の際に成田は以下の方針を立てている。
広隆寺の弥勒菩薩像にも通じる、アルカイックスマイルをヒントにした口元
能面のように単純化された様式でありながら、見る角度や陰影によって様々な表情を表す
宇宙ロケットから着想を得た銀色の肌
火星の模様からの発想による全身のライン
これらのデザインコンセプトを元に何枚かのスケッチを描いたのち、成田は平面画によるデザインを諦め、『ウルトラQ』で怪獣造形を担当した、武蔵野美大の後輩である造形家佐々木明とともに、粘土原型による直接の形出しに切り替えた。佐々木の造形に、単純化されたデザインが間延びしないよう、目の位置や耳の角度など、パーツデザインにこだわり苦労しながら成田が手を加え、試行錯誤が繰り返され、こうしてようやく、日本初の巨大宇宙人ヒーロー「ウルトラマン」は、1尺サイズの粘土原型の形で完成するに至った。そのため、ウルトラマンにはデザイン決定稿は存在しない。また特徴的な銀と赤の体色に関しては、体のラインには当初宇宙感を示す青を考えていたが、ホリゾント(背景)の青空に染まってしまうため断念し、現在に至る赤いライン(血脈)に落ち着いた。
「カラータイマー」と「覗き穴」
ウルトラマンの特徴の一つである「カラータイマー」は、子供にも視覚的にわかりやすくウルトラマンが弱っていることを示すためのギミックとして、円谷特技プロ文芸部の発案で追加されたが、デザイン段階では存在せず、成田もそれを大変嫌っていた。
結局作中でこれは採り入れられたが、成田は次回作『ウルトラセブン』では、「後から付けられるような事があるのであれば、最初から付けておいたほうがいい」という考えからカラータイマーを廃し、額に設定した「ビームランプ」でその役割を兼用させることとした[2]。
また、ウルトラマンの「瞳」と言われるのぞき穴は、演者である古谷敏の視界確保のため、マスコミを招いてのスチール撮影会である「第一回特写会」の際に、成田自身が開けたものである。この「特写会」では、覗き穴をどう処理するか成田も決めかねていて、結局視界をほとんど確保できないままのウルトラマンは、円谷英二社長やマスコミ関係者の見守るなか、手を引かれてよろめきながらステージに立つような状況だった。
結局成田は、この「第一回撮影会」の休憩時間に、控室にドリルを持ち込み、その場で「覗き穴」を開けている。これは成田にとっては不本意であり、古谷は「怒っているようでもあり、マスクに傷を入れるのを悲しんでいるような複雑な表情だった」と述べている。のちになって成田は古谷に、「やるせなかったが、あの場では仕方がなかった。実際の撮影では戻すつもりだったが、時間もなく面倒くさくてあのままにしてしまった。デザイナーとしては失格だったよ」と心情を吐露している。さらに特撮ステージでの初撮影でも視界は不満足で、古谷の依頼で機電担当の倉方茂雄によって、さらに穴が拡げられた[5]。
こうしたこともあり、成田によるウルトラマンの絵や彫刻には、原則としてカラータイマーも目の覗き穴も存在しない。カラータイマーが描かれている例としては、1967年に芳賀書店から発行された『決定版怪獣大行進』所載の「ウルトラマンマグネット作戦」扉絵や、1980年代に発売されたバンダイの「REAL HOBBY SERIESウルトラマン」封入解説書表紙の絵がある。ただし裏表紙のイラストには描かれていない。
バリエーション
初代ウルトラマンのマスクは、演技者である古谷敏の顔から石膏型をとり、これに粘土で肉付けする形で原型としたものである。透明な眼球は、透明アクリルを熱して、木の押し型で丸く抜いたもの。これらの作業は佐々木明が行っている。目の電飾用のスイッチは、耳に設置されていて、古谷が自分で操作していた。
ウルトラマンの内部演技者を古谷敏としたのは、成田の強い要請によるものだった。成田は『ウルトラQ』での古谷の長身に惚れ込み、「ビンさん(古谷)以外に考えられない」と古谷を口説き落として起用している[7]。古谷によれば、ウルトラマンのぬいぐるみはウェットスーツを使用しており、演技時間は15分が限界だったという。初期は国産の黒いウェットスーツ素材を塗装したが、中途からアメリカ製の軽く赤い色の素材が使われ、これに銀模様を塗って仕上げている。
初代ウルトラマンのスーツには、次に挙げられる3つのバリエーションが存在する。
「Aタイプ(1 – 13話)」
AタイプのマスクはFRPのマスクにラテックスを貼ったもので、演技者が口を開くと閉じ、閉じると開くようになっていた。NGとなった脚本では、ウルトラマンが口から火を吐いたり、「シルバーヨード」と呼ばれる液体を放つ描写が見られたが、開閉の仕組みが演技者の口の動きと逆なため、うまく開閉せず、またマスクの頬にしわが寄るなど造形上の問題も発生した。靴は地下足袋を改造し、手袋は手術用の薄いゴム製の物を使用、繋ぎ目はテープを巻き、銀色塗装して消している。ゴム製の手袋は非常に薄く、古谷はアクションの撮影で指を怪我することもあった。
「Bタイプ(14 – 29話)」
本編では口から吐く必殺技設定が無くなり、「スペシウム光線」が定着したので口を開閉する必要がなくなり、硬質樹脂(FRP)製のBタイプへと変更された。なお、AタイプとBタイプは材質が異なるだけで、古谷の顔からとった前述の型を使用して型抜きされている。靴の先が、上にカーブして尖っているのが特徴。
「Cタイプ(30 – 39話)」
このCタイプの制作については、成田はBタイプとCタイプの違いがわからず、Cタイプスーツの発注をした覚えがないと語っている[9]。佐々木によるとBタイプのスーツが痛んできた為に、代替スーツ製作にあたって、マスクも新たに必要になったので、同時に新造したとの事で、元々特別な変更の意図は無く、結果的にCタイプマスクになったとの旨のコメントをしている。但し、成田自身はCタイプマスクを否定する発言はしておらず、1996年に、本物のウルトラマンの顔として「マンのマスク(二次原型)」と題された彫刻を発表しているが、これはオリジナルの型から抜かれたCタイプマスクに改良を加えたものである。一方、佐々木も1987年にウルトラマンのマスクを新たに原型から作り起こしているが、こちらは口がBタイプ、耳がCタイプという折衷的仕上がりとなっていた。
成田による再デザイン
1989年に成田はウルトラマンのリデザインを試みている。円谷プロがオーストラリアで新しい「ウルトラマン」(後の『ウルトラマンG(グレート)』)を撮影する計画を立ち上げ、成田に新たなウルトラマンと怪獣のデザイン依頼を打診した。成田は直ちに新ウルトラマンのデザイン画を描き上げた。「ウルトラマン神変」と題されたそのウルトラマンは、金色のボディに黒いラインだった。当時成田の中には金と黒がヒーローのイメージカラーとしてあったようで、マン・セブン・ヒューマンに続く全く新しいヒーロー像として1996年の成田亨特撮美術展で発表された「ネクスト」も金と黒である。オーストラリア版「ウルトラマン」は成田がデザイン料として著作権の30%を要求したため、円谷プロと折り合いが付かず、結局成田の登板は実現しなかった。
怪獣のデザインの特徴
成田はコスモス(秩序)の象徴としてのウルトラマンに対し、怪獣はカオス(混沌)の象徴という理念でデザインした。あらゆる生物や無生物からヒントを得ながらも意外性を求め、自由な変形や組み合わせにより独創的な形の創造を目指した。演出家や監督は、ウルトラマンに対峙する怪獣は恐ろしい外見をした悪役らしいインパクトのある物にしようと考えていたが、成田は内臓が露出していたり、顔が崩れていたりする嫌悪感を示すような怪獣は子供番組に適さないと考えた。そこでウルトラ怪獣のデザインに当たり、
怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。
動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。
身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。
という三原則を打ち出した。また、侵略宇宙人のデザインについて、「地球人にとっては悪でも、彼の星では勇者であり正義なのだから、『不思議な格好よさ』がなければいけない」とも述べている[12]。
バルタン星人は今でも人気怪獣であり、成田の代表作と取られがちだが、成田自身は「セミ人間に角と大きな鋏をつけてくれという無意味な注文が嫌だった」とその造形を否定している。逆にケムール人を、自身の芸術的理想に照らして会心の宇宙人として挙げている。
成田は奇怪で複雑なデザインを嫌った。デザイナーが表現の初期衝動を大事にせず、物のかたちの根底や問題の根底を問わず、既存の怪獣デザインの枠内だけで怪獣のデザインを考える安易で狭い姿勢をとり続ける限り、既存の怪獣の単なる組み合わせや複雑化などデザインの堕落が進むと批判した。「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と彼は雑誌の取材で述べている。
ウルトラマンとウルトラセブンの銀色塗装による金属感の表現に不満だった。『突撃! ヒューマン!!』(1972年、日本テレビ)では、主役ヒーロー「ヒューマン」のマスクを、ステンレスの叩き出しによる金属成型で表現。自ら「会心の作」と述懐している。
『円盤戦争バンキッド』(1976年、日本テレビ)の宇宙人のデザイン(第6話以降)も手がけているが、これに関しては「作品内容は取るに足らないものであったが、宇宙人のデザインは気に入っている」と語っている。
メカデザインなど
『ウルトラQ』から『ウルトラセブン』における主要メカニックや小道具なども、その多くは成田によってデザインされた。しかし、オリジナルのメカ自体が少ない『ウルトラQ』はともかく、『ウルトラマン』では主役メカと言うべき「ジェットビートル」が諸事情で間に合わず、東宝映画『妖星ゴラス』(1962年、本多猪四郎監督)で用いたプロップと同じ木型から作った複製を使用せざるを得ず、自らがデザインした他のメカ・小道具等との統一性が図られなかった事を、成田は後々まで悔やんでいたらしい。自らがデザインした三角ビートルを登場させたことがせめてもの反抗だったと語る。
そのため『ウルトラセブン』ではトータルデザインを重要視し、ウルトラホークなどの主役級メカをはじめ、極東基地全体の構造図、隊員服、ビデオシーバー等の小道具、さらに基地作戦室のパーマネントセットに至るまで一貫したデザインカラーの元に企画された。作戦室の地図を当時の一般的な世界地図ではなく、少し先の未来を感じさせるバックミンスター・フラーのダイマクション地図にするなど、至るところに世界観に合わせた細かなこだわりを持たせた。またポインターを中古車から起こす際、改造現場に立会い指示を出したとも言われる。同車が銀に黒帯なのは、「中古車改造ゆえ鋭いイメージが出せず黒で締めたため」と後に述懐している。
著作権に関する問題
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類例のないユニークなウルトラマンの成功は成田デザインの功績が大きいと言えるが(もちろん、造形やストーリー・演出も重要な成功要素である)、当時、円谷プロ社員として制作スタッフに参加していたため、作品内における、すべての権利は製作会社に帰属(これは職務著作または法人著作と呼称されている)することになった。ゆえに東映作品に原作者として参加した石森章太郎や永井豪とは立場がまったく異なっている。
1986年に出版された雑誌の成田へのインタビューでは「ウルトラマンを本や雑誌に掲載する時、“デザイン・成田亨”と明示する約束でしたが、いつの間にかそれは消されており、私の知らない間にウルトラマンに髭が生えたり角が生えたりオッパイが突き出たりしました。そして、私は住居不明だったそうです。」との発言がされており、ウルトラマン・ウルトラセブンの本放送当時の書籍出版物には「デザイン・成田亨」と明記された書籍が(講談社テレビコミックス等)実在する事から、新進気鋭の彫刻家であった成田にとって、ウルトラデザイン上の雇用上もしくは雇用後の約束違反に該当してきた可能性は非常に大きい。ただし、書籍出版物での「デザイン・成田亨」の記載がなくなって以降も、ウルトラQ・ウルトラマン・ウルトラセブンのスタッフリストが掲載される時は美術・成田亨もしくは特撮美術・成田亨と一貫してクレジットされている。
後年になってウルトラマンや怪獣・メカニック等のデザインに関する権利を主張するようになり、作品そのものの著作権を持つ円谷プロに対して対立を表面化させた。そのため、朝日ソノラマから一度出版された“円谷プロ作品における成田画集”が「なぜ、俺の絵に円谷プロの許可が必要なんだ」として、成田本人の意向により絶版になるなどの事態が生じている。(この画集は作品の十数年後に成田をたずねてきた若い人達の努力によって再出版されている) その他にも成田は当時のスタッフの一部に対して不信感を抱いており、後年デザインの制作過程に無関係なスタッフが「自分たちがみんなで考えて絵描きに描かせた」などと発言したことに対しても憤慨していた。そして何度かあった新しいウルトラシリーズへの円谷プロからの参加依頼(ただし、後述する訴訟前)には、成田がこの著作権のロイヤリティーの話を持ち出したため、円谷側のスタッフが席を立ってしまったこともあった。また、カラータイマーの追加や新マン以降のバリエーションのデザインに対する嘆きともとれる発言もいくつか残している。
そして成田は後年、原告として円谷プロを相手取り著作権に関する民事訴訟をおこしたが、裁判は判決を待たずに「原告側の訴訟取り下げ」により終了している。なお、弁護士間の常識では、和解以外で訴訟を取り下げるのは「原告側が、勝訴の可能性無しと判断した」以外は考えられないとされているが、円谷英明の著書[17]によれば、「そんな単純な問題ではなく、成田氏に近い人の話では、円谷プロのある幹部が成田に接触し、訴訟を取り下げれば次回作に参加してもらうと持ちかけて訴訟を取り下げてもらったとの事」と記述にある。ただし、裁判記録や訴訟取り下げ後に出版された成田本人の著書にはそのような記述は一切無く、その後も成田は円谷プロでは仕事をしていない。
こういった経緯もあり、海外におけるウルトラシリーズ使用権を争ったソムポート・セーンドゥアンチャーイと成田は意気投合し、取材に応じている。2001年11月20日、ソムポートは成田から200枚あまりの原画の使用権を得、その後ソムポートは、日本を除く世界に成田の原画を広めようと尽力した、とされている。
2002年の成田亨逝去後、成田亨が所有していた番組製作当時のデザイン画稿やウルトラにまつわる絵画の内、187点が青森県立美術館に譲渡されている。それら青森県立美術館等所有と遺族所有の作品群に関する、デザイン画・イラスト・絵画・立体物等のグッズの商品化時における著作権表記は、成田の死後は基本的に成田夫人となっている。「ウルトラにまつわる後年製作の絵画等美術品」や「当時のデザイン画稿等で成田保管物」に対する著作権は成田夫人のみに帰属していると遺族側は判断しており、それらのグッズに対して円谷プロへの使用許諾申請や著作権表記は一切していない。2015年時点で最新の回顧展の展覧会チラシにも、円谷プロの文字はない。
2014年に発売された一般書籍の「成田亨作品集」(羽鳥書店)には図版クレジット部分の著作権表記に、成田夫人、Eternal Universe/NTV、東宝と併記する形で、円谷プロの版権表記が「円谷プロ Original Design by 成田亨」と書かれている。これは成田がウルトラマン・ウルトラセブンの映像作品に対して望んでいた“出版物上での表記”であった。作品集全体の著作権はEternal Universeとなっている。
奈良 美智(なら よしとも、1959年12月5日 – )は、青森県弘前市出身の画家・彫刻家。世界的に評価されているポップアート作家で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やロサンゼルス現代美術館に作品が所蔵されるなど日本の現代美術の第二世代を代表するひとり。にらみつけるような目の女の子をモチーフにしたドローイングやアクリル絵具による絵画で知られる。
経歴
出生後、青森県立弘前高等学校卒業まで弘前市で育つ。武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了した。
河合塾千種校美術研究所教員を経て渡独、1988年ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミー(Kunstakademie Düsseldorf)に入学、A.R.ペンク(A. R. Penck)に師事し1993年にマイスターシュウラーを取得し、アカデミーを修了した。1994年から2000年まではケルン近郊のアトリエを拠点に作品を制作した。1998年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校にて非常勤客員教授を村上隆と共に3か月間務める。1995年には名古屋市芸術奨励賞を受賞した。
2000年にはドイツでの12年間の生活を終え帰国した。2001年には日本における大規模な個展「I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.」を横浜美術館で開始し、広島市現代美術館や吉井酒造煉瓦倉庫(弘前市)など開始国内の5ヶ所の美術館を巡った。2005年からは土地が安いという理由で栃木に移転している[5]。2006年度に武蔵野美術大学客員教授を務めた。2010年には米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。アジア人としてはヨー・ヨー・マに次ぐ受賞であった。2013年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 2013年以降は Blum & Poe、Pace Gallery、Johnen Galerie、Stephen Friedman Galleryで発表している。
人物
ロック、特にパンクが好きで、作品制作も音楽を流しながら行う。少年ナイフ、bloodthirsty butchers、THE STAR CLUB、マシュー・スウィート、R.E.M.のCDジャケットを手がけており、ニルヴァーナのカート・コバーンを模したと思われるキャラクターやthee michelle gun elephantのCDジャケットをパロディー化した作品を描いたりしている。60~70年代の洋楽にも詳しく、マイナーレーベルのSSWやロック、またルーツミュージック(特にトラッドなどの白人ルーツミュージック)にも造詣が深い。手作りの小屋の内側を中学、高校時代に聴いていたレコードジャケットで埋めた作品もある。ミュージシャンとの交流も多くニューヨークでの展覧会オープニングにYO LA TENGOやデボラ・ハリーなどが来ている。
常に一人で作品制作を行ってきた奈良であるが、「Yoshitomo Nara + graf A to Z」ではクリエイター集団「graf」と共同作業で展示会場作りからの創作活動の旅を行った。台湾、韓国、横浜へと移動したその展覧会の様子は、ドキュメンタリー映画 『NARA:奈良美智との旅の記録』(監督 坂部康二)として2007年に劇場公開され、後にDVDとして発売された。
カレーライスが好物で、2001年に漫画『おごってジャンケン隊』(現代洋子)にゲスト出演した際、当時のアトリエの近所にあるCoCo壱番屋をお薦めの店として挙げている。また、最近では松屋にもよく通っているとTwitterで述べている。
東北地方太平洋沖地震に関する活動の一つとして宮城県で開催されているARABAKI ROCK FEST.に2011年から連続して参加している。
トラブル
2009年2月27日午前3時すぎ、ニューヨーク市内のファースト・アベニュー駅構内で落書きをして逮捕された。市内の施設に24時間拘置された後に釈放された。拘置所にいる間の様子について自身は「(拘置されなければ)会えないような人たちに囲まれ、映画の中にいるような体験だった」と述べている。
主な展覧会
1984年 初の個展 (名古屋市)
1984年 グループ展「奈良美智、三浦孝治二人展」 SPACE DENEGA 弘前市での初の展覧会
1999年1月13日 – 2月14日 個展「Walking alone」 ザ・ギンザアートスペース(現 資生堂ギャラリー。東京)
2000年3月18日 – 6月25日 個展「Walk On」 シカゴ現代美術館
2000年3月24日 – 5月20日 個展「Lullaby Supermarket」 サンタモニカ美術館
個展「I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.」(2001年8月-2002年9月)
横浜美術館、2001年8月11日 – 10月14日
芦屋市美術博物館、2002年1月19日 – 3月31日
広島市現代美術館、2002年4月7日 – 6月2日
北海道立旭川美術館、2002年6月14日 – 7月28日
吉井酒造煉瓦倉庫[1](弘前市吉野町2-1)、2002年8月4日 – 9月29日
個展「Nothing Ever Happens」(2003年9月-2005年5月)
クリーブランド現代美術館、2003年9月12日 – 2004年1月4日
ペンシルベニア大学現代美術館、2004年1月24日 – 4月3日
サンノゼ美術館、2004年7月25日 – 10月31日
セントルイス現代美術館、2004年12月3日 – 2005年2月26日
ホノルル現代美術館、2005年3月25日 – 5月22日
2004年8月11日 – 10月11日 個展「From the Depth of My Drawer」 原美術館(以後、金津創作の森(福井県)、米子市美術館、吉井酒造煉瓦倉庫(下記)、ロダンギャラリー(ソウル)を巡回)
2005年4月16日 – 5月22日 個展「From the Depth of My Drawer」 吉井酒造煉瓦倉庫
2005年9月28日 – 12月18日 グループ展 奈良美智+graf「A to Z」 横浜トリエンナーレ
2005年10月8日 – 10月9日 グループ展 「とがびアートプロジェクト2005」長野県千曲市戸倉上山田中学校
2006年7月29日 – 10月22日 個展 奈良美智+graf「A to Z」 吉井酒造煉瓦倉庫
2006年9月30日 – 2007年3月21日 個展「Moonlight Serenade -月夜曲」 金沢21世紀美術館
2006年11月3日 – 2007年1月14日 グループ展「広島市現代美術館コレクションによる『この20年の、20のアート』」 札幌芸術の森美術館
2007年6月2日 – 2007年10月7日 個展 奈良美智「Yoshitomo Nara 奈良美智展」 ハーグ現代美術館
2007年9月21日 – 2008年1月6日 個展 奈良美智+graf「Torre de Malaga (Tower of Malaga)」 マラガ現代美術館
2008年6月12日 – 10月26日 個展 BALTIC現代美術センター イギリス
2012年7月14日 – 9月23日 横浜美術館 『[nara yoshitomo:a bit like you and me] 奈良美智:君や僕にちょっと似ている』
2014年10月3日 – 12月7日 「Greetings from a Place in My Heart」 Dairy Art Center ロンドン
2014年11月7日 – 11月9日 沢田マンションギャラリーroom38 『3日間の奈良美智・ドローイングショウ』
2015年3月6日 – 7月26日 「Life is Only One / 無常人生」 Asia society Hong Kong 香港
村上善男(むらかみ よしお 1933年 – 2006年5月4日)は、日本の美術家。岩手県盛岡市出身。岩手大学学芸学部卒業。弘前大学名誉教授。
人物・経歴
岡本太郎に師事。1953年に二科展に初入選。1960年、第4回シェル美術賞受賞。 東北を拠点に前衛美術家として活動した。また、詩人としての執筆活動もある。
2006年5月4日に心不全で死去。享年73。
佐藤 伝蔵(さとう でんぞう、1925年12月16日 – 1986年8月8日)は、青森ねぶたの山車制作者(ねぶた師)。第3代ねぶた名人。
昭和40年代から50年代にかけて同じくねぶた名人の称号を受けた鹿内一生とともに活躍し、ねぶたの形の発展に努めた。
来歴
筒井村八ッ橋(現在の青森市)に生まれ、小学校時代から絵画に興味を持つようになる。終戦後は東京の洋画学校に入学するも、すぐに親に連れ戻された。このとき、「牛若丸と弁慶」で初めてねぶたを制作。そのうち少年団、青年団からも制作を依頼されるようになる。
昭和30年代に入ると、初代ねぶた名人である北川金三郎(後に息子で2代名人の北川啓三)に師事。1962年(昭和37年)に一本立ちする。1968年(昭和43年)には田村麿賞(かつてのねぶたの最高賞で現在のねぶた大賞)を初受賞、1972年(昭和47年)に2度目の田村麿賞を受賞した「国引」は傑作として名高い。この「国引」は同年行なわれた沖縄返還の記念に「国を引き帰す喜びを表現して制作した。」という本人の証言が残っている。1982年(昭和57年)から1985年(昭和60年)にかけては、鹿内一生の持つ田村麿賞3年連続受賞の記録を破る田村麿賞4年連続受賞という現在まで誰1人として並ぶ者の無い偉業を達成し、ねぶた師の第一人者として活躍した。
しかしその翌年である1986年(昭和61年)7月、3台のねぶたを制作中に胃癌で倒れ、青森県立中央病院に入院[1]。制作途中のねぶた3台は運行できなくなるのではと危ぶまれたが、助手の福井祥司によって制作が引き継がれて無事完成、予定通り運行された。前述の通り第一人者としてその名を知られる存在であったために早期の復帰が待ち望まれていたが、実は既に癌は末期であり、手術をすればかえって危険という手遅れであった。この年のねぶた祭りを見届けるようにして最終日の翌日である8月8日に死去。享年60。遺作となったねぶたのうち1台がその年の制作賞を受賞した。死後にねぶた名人に選出されたが、その際に発行された名人位認定証には佐藤傳蔵と記されている。生涯に受賞した田村麿賞は8回であり、当時の最多記録であった(田村麿賞がねぶた大賞と名を改めて以降、千葉作龍と北村隆が破っている。2人はいずれも2012年に名人位を贈られている)。
手間本北栄(てまもと ほくえい、1954年3月3日 – )は、日本の彩書家。別号玲雲。
青森県東通村生まれ。後に本名を亀次郎から北栄に改名する。青森県立田名部高等学校2年中退後、宮城県仙台第一高等学校卒業。1973年、19歳で書道研究「麗」を主宰し、北栄書道会も設立して書道の研究に励む。
1978年から馬の絵で世界的に有名な三上隆彦に薦められ日輝展に作品を発表する(後に理事・審査員となる)。1980年、第15次全日本教育書道代表として中華民国派遣。1986年から国際展に出品する。 1989年から墨一色の書から、一本の筆の先に3色~7色の顔料や濃淡の墨をつけ、一気に描き上げるカラーによる彩書作品を発表する。 少字数を素材に情感を盛り込む作風である。
1992年4月16日、日の出山荘にて中曽根康弘から元ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフへ、手間本の掛け軸作品「寂然不動」を進呈。1994年、パリ、サロン・デ・イベール(冬のサロン)に彩書「女」を初出品し、日本人初の銅賞に入り、無鑑査会員となる。1996年からパリ・アンデパンダン展に出品。
2005年10月1日、平成の大合併により「北栄」の名の町が鳥取県北栄町に誕生したのが縁で町の発展を願い彩書作品を寄贈して交流活動をしている。 2006年には、F10号「雲と水」・「花と蝶」・「萌生」、2007年には、F10号「暁」を寄贈している。
2007年7月1日、秋田県男鹿市に男鹿半島への観光客及び男鹿市民・若者との交流の為に男鹿温泉交流会館「五風」が完成し、手間本の彩書作品を寄贈し常設展示されている。作品は、半切掛軸「寂然不動」、F10号「暁」「朝」「眺」「舞」「天馬」「春夏秋冬」・F4号「風」「潮風」「凪」「蒼海」「夢」「波」「響」の14点である。
また、出身地の青森県東通村には、東通小学校へF10号「夢」他12点・東通村多目的集会施設にF10号「暁」他15点・東通村教育委員会に絵本・詩画集・CDを、2008年4月開校の東通中学校にF15号「天馬」・F15号「天地創造」を、むつ市役所にF10号「舞」、青森県立田名部高等学校にF10号「光」を寄贈して地域住民との交流及び社会貢献に寄与している。
2007年5月18日、指定商品第16類雑誌、新聞として「彩書」が商標登録された(登録第5048652号)。
津軽焼(つがるやき)は、青森県弘前市で焼かれる陶器。
元禄10年(1697年)、弘前藩内の陶磁器の自給自足ができないかと藩主津軽信政が江戸の平清水三右衛門を招いた。そして、津軽でも陶磁器ができるかどうか三右衛門の収集した粘土等を使って、江戸の名工とうたわれた瀬戸助に焼いてもらった結果じゅうぶんに陶磁器の生産ができるとされ、江戸より窯士久兵衛らを招聘し、寺町と清水村に窯を築いたのがはじまりである。その窯場の場所からそれぞれ、平清水焼、大沢焼、下川原焼、悪戸焼と呼ばれた。これを総称し津軽焼という。
江戸時代に藩の陶器を支えた窯場のほとんどは他県の焼物に押され大正期までに絶えた。9代藩主津軽寧親が発案し津軽地方の玩具として、鳩笛などの玩具を作り続けている下川原焼のみ存続している。また、現代の津軽焼は昭和11年になって再興され、りんご木灰利用のナマコ模様のうわぐすりが特徴となっている。
八戸焼
津軽塗
津軽塗(つがるぬり)は青森県弘前市を中心に製作販売される青森県を代表する伝統的工芸品です。
縄文遺跡からも出土する漆器に見られるように、人類が文明を築いて以来、最も長く利用してきた 植物性原料のひとつにあげられるのが「漆」です。
漆器は、日本人の暮らしに欠かすことのできない、大切な日用品であり、芸術品なのです。
現代まで伝わっているのは唐塗/七々子塗/紋紗塗/錦塗の四技法です。
津軽焼
津軽金山焼には、現代に生きる私達の心を潤す温もりがあります。金山の大溜池の底に堆積していた良質の粘土、山林には風雪に耐えてきた大量の赤松。
陶芸に最適な資源を得ることと、自然を整え生かすことを心に。
かつてこの地にあった須恵器の強い影響を受けた津軽金山焼は釉薬を一切使わずに、1300度の高温でじっくりと焼きあげて固める「焼き締め」の手法で、深みのある独特の風合いをそなえた焼き物を生んできました。
八戸焼
八戸焼とは,江戸時代末期(幕末期)まで八戸市内の蟹沢山中で焼かれていた焼き物です。その昔「八戸焼」、又は「蟹沢焼」と呼ばれ庶民の為の焼き物、いわゆる民窯(みんよう)として親しまれたそうです。しかし、時代とともにその存在も忘れられ文献も残っていない事も手伝い昭和に入ると幻の焼き物と言われていました。
下川原焼土人形
津軽野の中心都市、弘前を訪れる人に忘れがたい思い出を残す、古城と桜、岩木山、ねぷた祭り、お山参詣等史跡、伝統の芸能等と共に藩政時代に生まれ育まれ今にその形をとどめて居るものの一つに下川原の土人形がある。
かつては津軽十万石の御用窯として数々の名器をも産出したものである。
あけび蔓細工
妥協することなく頑固に、手提げバックやかごや花器など、生活の中に密着した作品を丁寧に作り続けています。
津軽竹籠
木山麓や八甲田山麓で採れる、耐久性にすぐれた根曲がり竹でつくった籠。六角目などの大まかな編み目が特徴です。
ひば曲物
ひば曲物はヒバの丸太を仕入れ、それを板状に割り、湯に通した後にゴロと呼ばれる道具でためていき、最後はヤマザクラの皮でとじて作る。
錦石
《青森県特産》の“錦石(にしきいし)”とは、珪酸分(Sio)に富み磨くと美しい光沢をあらわします。
錦石は、碧玉(へきぎょく)・玉髄(ぎょくずい)・瑪瑙(めのう)・流紋岩(りゅうもんがん)・硅化木(けいかぼく)などの総称です。
太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。
胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。
円形の枠に1枚の膜を張るもの。うちわ太鼓など。
筒状の胴の片側に膜を張るもの。片面太鼓という。
筒状の胴の両側に膜を張るもの。両面太鼓という。
鍋状の胴に膜を張るもの。ティンパニなど。
青森県伝統的工芸品の一覧
津軽塗
津軽焼
八戸焼き
下川原焼土人形
あけび蔓細工
津軽竹籠
ひば曲物
こぎん刺し
南部裂織
南部菱刺し
温湯こけし
大鰐こけし・ずぐり
弘前こけし・木地玩具
八幡馬
善知鳥彫ダルマ
津軽凧
津軽びいどろ
錦石
南部姫鞠
えんぶり烏帽子
きみがらスリッパ
目屋人形
津軽打刃物
津軽桐下駄
南部総桐箪笥
太鼓
ねぶたハネト人形
津軽裂織