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芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年(明治28年)5月13日 – 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。

人物
静岡市(現葵区)生まれで、静岡市名誉市民。文化功労者。重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。20世紀日本の代表的な工芸家として内外から高く評価されており、民芸運動の主要な参加者でもあった。
オリジナリティあふれる作品群を生み出したほか、本の装丁など商業デザインも手がけ、また、その選美眼で世界各地の民芸品を蒐集した。東北地方、ことに仙台の街や鳴子温泉を愛したことでも知られる。
息子の芹沢長介は考古学者として活躍したが、晩年は東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館の館長を務めた。
経歴
1895年 静岡市本通一丁目の呉服卸商西野屋(現在の日銀静岡支店附近)、大石角次郎の7人兄弟の次男として生まれる
旧制静岡中学卒業
1916年 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科 を卒業
1917年 静岡市安西一丁目芹沢たよと婚姻(以後15年あまり同所に居住)、大石姓から芹沢姓となる。
静岡県立工業試験場にて図案指導を担当するかたわら、商業デザインにも従事
1927年 民芸運動の柳宗悦の論文「工芸の道」に影響を受け終生交流。
1928年 御大礼記念国産振興博覧会で沖縄の紅型(びんがた)に出会う
1931年 同年創刊の民芸運動の同人雑誌「工藝」の装丁(型染布表紙)を担当、民芸運動に参加、大半の柳の著書も装丁した。
1935年 東京蒲田に工房を構える
1939年 沖縄で紅型の技法を学ぶ
多摩造形芸術専門学校(現在の多摩美術大学)教授
1949年 女子美術大学教授
1955年 有限会社芹沢染紙研究所 開設
1956年 4月に重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定
1957年 鎌倉市津村の農家の離れを仕事場(小庵)とする
1976年 フランス政府から招聘されパリで「芹沢銈介展」開催(国立グラン・パレ美術館)
1980年-83年 『芹沢銈介全集』(全31巻、中央公論社)が刊行。
1984年 逝去。享年88。
賞典
1966年 紫綬褒章を受章
1970年 勲四等瑞宝章を受章
1967年 静岡市名誉市民となる。
1983年 フランス政府より芸術文化功労賞を受賞
1984年 逝去、正四位勲二等瑞宝章を贈られる

作品
芹沢は確かなデッサン力と紅型(びんがた)、江戸小紋や伊勢和紙などの各地の伝統工芸の技法をもとに、模様、植物、動物、人物、風景をモチーフとした、オリジナリティあふれる、和風でシックな作品を次々と生み出していった。
「型絵染(かたえぞめ)」は芹沢が創始した技法で、人間国宝に認定された折にこの呼び名が案出された。一般的な「型染」が絵師・彫師・染師といった職人の分業によって制作される一方、「型絵染」は作品の全工程を芹沢ひとりで手がけていた。こうした手法が、人間国宝認定の理由にもなったとされている。
芹沢の仕事は、着物、帯、さか夜具、暖簾(のれん)、屏風(びょうぶ)、壁掛け、本の装丁、カレンダー、ガラス絵、書、建築内外の装飾設計(大原美術館工芸館)など、素材・用途ともに多岐にわたっている。
「紺地杓子菜文麻地壁掛」(蝋染め:国画会に初出品)
「いそほ物語絵巻」(新興民芸展に出品)
『絵本どんきほうて』
『法然上人絵伝』
『東北窯めぐり』『益子日帰り』
「四季曼荼羅二曲屏風」(ケネディ記念館のため)
「荘厳飾り布」(知恩院大殿内陣)

入江 長八(いりえ ちょうはち、文化12年8月5日(1815年9月7日) – 明治22年(1889年)10月8日)は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工(左官職人)、工芸家。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とした。

経歴
文化12年(1815年)伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。
天保4年(1833年)20歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名を馳せた。弘化2年(1845年)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり、鏝絵を作成している。天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。(2007年現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている。)
入江は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10年(1877年)に第1回内国勧業博覧会に出品。 晩年、明治13年(1880年)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22年(1889年)10月8日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて74歳で亡くなる。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられている。
山光荘をモデルにした、漫画家つげ義春の作品「長八の宿」によって、知名度があがった。
現存する作品
鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多い。入江の生活拠点が江戸であったため作品は東京地区に集中しており、大半が震災や戦災で焼失してしまっている。現存する約45点は、東京都港区高輪の泉岳寺、品川区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺などに残っている。
故郷の静岡県松崎町には、前述の浄感寺の「長八記念館」に約20点と、1986年に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されている。また重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市の龍沢寺など故郷周辺に点在している。

川村 驥山(かわむら きざん、1882年5月20日 – 1969年4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。
父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。

略歴
1882年、5月20日に静岡県袋井市で生まれる。
1894年、孝経全文暗書に明治天皇の天覧を受ける。
1909年-1913年、内閣賞勲局に勤務。
1913年、書道研究のため渡支。
1931年、再度渡支。
1932年、東方書道会を結成。
1941年-1944年、北京に滞在。
1948年、日展審査員となる。
1951年、日本芸術院賞受賞。
1952年、日展運営会参事就任。
1958年、日展評議員就任。
1962年、芸術院会員、日展理事に就任。驥山館開館。
1965年、勲三等瑞宝章受章。
1969年、4月6日死去。従四位を追贈される。
逸話
昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。

杭迫柏樹(くいせこ はくじゅ、本名:杭迫晴司(くいせこ せいじ)、1934年6月28日 – )は京都在住の日本の書道家。王羲之書法を基礎として、宋代(尺牘)・空海(灌頂記)の書を研鑽し、独自の世界を展開している。

書風
師の村上三島が温潤流麗な草書連綿体を得意としたのに対し、柏樹は洒落っ気のない朴訥な線への憧憬を持ち続けている。大学在学中と卒業後しばらくは、宋代の蘇軾や草書草創期の『平復帖』などに傾倒し、文字の新鮮な生命力、簡素な美しさに魅せられた。その時期の体験が現在に至る柏樹の書風に大きな影響を与えている。柏樹の短く鋭い線は、打楽器的な響きと間を生み出し、墨痕と余白の対比に気韻がある。
略歴
昭和9年(1934年)静岡県周智郡森町に生まれる。
森小、森中を経て
昭和28年(1953年)森高校(現:遠江総合高校)卒業、京都学芸大学(現:京都教育大学)美術科(書道専攻)入学。
昭和32年(1957年)大学卒業。以後京都に定住する。
昭和37年(1962年)村上三島に師事し、同年日展初入選。
昭和50年(1975年)日本書芸院大賞受賞。
昭和55年(1980年)京展賞受賞。
昭和57年(1983年)日展特選受賞。
昭和63年(1988年)日展特選受賞。
平成14年(2002年)「酒国長春有り(しゅこくちょうしゅんあり)」で日展会員賞受賞。
平成17年(2005年)「一葉(いちよう)」で日展内閣総理大臣賞受賞。
平成20年(2008年)「送茶(ちゃをおくる)」で日本芸術院賞を受賞。
平成21年(2009年)母校の遠江総合高校にて記念書を披露する。
平成22年(2010年)京都府文化賞・功労賞受賞。
平成24年(2012年)京都市文化功労者顕彰。
平成25年(2013年)京都新聞大賞(文化学術部門)受賞。
主な役職
書道関係
(公社)日展会員(元常務理事)
(公社)日本書芸院名誉顧問
(公社)全日本書道連盟顧問
(公財)全国書美術振興会顧問
読売書法会最高幹部会議副議長・顧問
興朋会会長代行
京都書作家協会顧問
現創会副会長
北斗会主宰
南京林業大学芸術設計学院兼職教授
巣湖学院客座教授
その他
京都市美術館評議員
(財)京都府文化財団評議員
国際京都学協会常務理事
日中文化交流協会常任委員
中日竹木文化科学研究所・博物館最高顧問
和安国際児童学校名誉校長

高塚 竹堂(たかつか ちくどう、本名・高塚 錠二(たかつか じょうじ)、1889年5月23日 – 1968年3月30日)は、日本の書家。かな書道の大家。

略歴
1889年(明治22年) – 5月23日に静岡県不二見村(現・静岡市清水区)に生まれる。
1915年(大正4年) – 文部省教員検定試験習字科に合格する。
1916年(大正5年) – 福岡県立嘉穂中学校(現・福岡県立嘉穂高等学校)の教諭となる。
1922年(大正11年) – 平和記念東京博覧会に於いて仮名部最高賞を受ける。
1925年(大正14年) – 大東文化学院(現・大東文化大学)の講師となる。
1947年(昭和22年) – GHQより米国陸軍の日本語学校教官に招聘される。12月に帰京する。
1949年(昭和24年) – 松本芳翠らと共に書道同文会を創設する。
1953年(昭和28年) – 東京学芸大学の教授となる。
1958年(昭和33年) – 日展の評議員となる。
1959年(昭和34年) – 日展の審査員となる。
1964年(昭和39年) – 書道同文会の会長(二代)となる。
1965年(昭和40年) – 鉄舟寺境内に喜寿記念胸像を建立し、台面に自作の句を刻む。
1967年(昭和42年) – 病院に入院中、勲四等旭日章を受章する。
1968年(昭和43年) – 3月30日に従五位に叙される。同日自邸にて逝去。4月5日に青山斎場にて告別式が行われる。

牧野 宗則(まきの むねのり、1940年2月11日 - )は日本の木版画作家。浮世絵木版画の高度な技術と創作木版画の精神性を融合・昇華させ、自然の生命の輝きを華麗に表現する。静岡市葵区出身。

来歴
1940年 静岡市で生まれる。
1955年 大村政夫(彫刻家・日展会員)の指導を受ける。この頃から伝統浮世絵木版画に強い関心を持ち、東京・京都の木版画摺師を訪ねて、伝統木版画の制作現場に触れる。
1958年 静岡県立静岡高等学校卒業。卒業記念作品として『木版画集』を発行。家業の植物油脂卸売業を手伝いながら、創作版画の制作をする。彫り台・摺り台・刷毛・彫刻刀・鮫皮等の専門道具を揃えながら、たびたび東京・京都の摺師の仕事場を訪れ仕事を見学しながら技法を学ぶ。
1958年 木版画摺師小川文彦・松本節太郎・佐々木茂ら多くの職人から伝統木版画の技術をまなび、高度な技法を修得していく。
1968年 静岡県版画協会会員になる。
1970年 技法修得のため諸作品の復刻を行う。
1975年 木版画制作にすべてをかけ、プロの版画家として進むことを決意。
1977年 全国各地で個展開催。
1981年 福井県今立町(現・越前市)の越前和紙の紙漉師・岩野治夫との出会いがあり、自分の作品に適した手漉和紙づくりをはじめる。
1982年 和歌山県有田郡清水町(現・有田川町)に伝わる紀州和紙「保田紙」の復活に際して「保田紙」を版画用紙として改良するために協力。
1983年 静岡県美術家連盟会員になる。
1983年 ’83フィナール国際美術展に『月下岑嶺』を出品。
1983年 ’83日仏現代美術展(パリ展・グランパレ・ナショナル・ギャラリー)に『月影』を出品。
1985年 上海大学美術学院招請訪問。任意(同美術大学副院長・版画家)の案内で、上海水印木刻(中国木版画)蘇州木版画の制作現場を訪問し、日本の伝統木版画と中国木版画との関係、及び制作技法の特徴について学ぶ。
1986年 静岡県版画協会を退会する。
1986年 牧野宗則後援会発会。
1986年 ジョスリン美術館作品展(オマハ)
1986年 静岡県立美術館にて技法講座「伝統木版画の技法」を開催。
1986年 訪米(ニューヨーク・シカゴ・オマハ・ボストン・シアトル)ボストン美術館訪問。
1987年 『牧野宗則木版画集』発行(阿部出版)。
1987年 日本縦断展を開催。
1989年 日本生命創業100周年記念カレンダー「牧野宗則 日本の四季」発行
1989年 郵政省より「静岡市制100周年記念・静岡駿府博覧会記念━絵入りはがき(5枚組)」が発行される。
1989年 第一回川村賞受賞。牧野宗則の世界展(川村文化振興財団主催 日本生命協力)を開催。
1990年 裾野市にアトリエを移す。(設計・象設計集団)
1990年 ラ・ホール富士(富士市勤労者総合福祉センター)に大型陶板壁画「なでしこの花」を制作。
1991年 長崎県立美術館にて技法講座を開く。1992年にも開催。」
1992年 浮世絵太田記念美術館で現存作家で初めての個展「北斎・広重からの華麗なる展開 牧野宗則木版画展」を開催。続いて札幌・静岡・長崎・佐賀で開催。
1992年 『牧野宗則自選木版画集』発行。
1992年 伊藤忠商事(株)・(株)メイビスにより、作品『創世』の創作記念ビデオを制作。
1992年 同ビデオが第5回日本産業文化映像祭において文部大臣賞受賞。1992年教育映画・ビデオ祭において優秀作品賞受賞。
1992年 静岡新聞社創刊50周年記念・SBS静岡放送開局40周年記念として牧野宗則木版画3部作「創世」「五彩の海」「むらさきの風」を発表。
1992年 クーポール会館(静岡市)に大型陶板壁画「むらさきの風」を制作。
1993年 NHKテレビ「土曜美の朝」放映。
1993年 NHKBSテレビ生紀行「豊饒の干潟を描く」放映。
1994年 静岡県文化奨励賞受賞。
1994年 作品を再度摺り増しする気持ちはないので、資料として残したい版木以外は二度と摺れないようにするために、とりあえず約60種の作品約300枚位の版木を焼却する。
1997年 「棟方志功・牧野宗則二人展」を九州各地で開催。
1999年 浮世絵太田記念美術館で「北斎・広重からの華麗なる展開」第2回牧野宗則木版画展。
1999年 掛川二の丸美術館(静岡県掛川市)にて「海の光・山の光━生きる歓び 牧野宗則木版画展」開催
1999年 神戸阪急ミュージアムにて「牧野宗則木版画展」開催。(神戸新聞社共催)
1999年 Bunkamura Gallery(東京渋谷)で個展開催。(’02 ’04 ’06 ’08)
2000年 南アルプス市立春仙美術館にて「自然讃歌━牧野宗則展」開催。
2000年 静岡新聞社創刊60周年・SBS静岡放送開局50周年記念の作品を風鈴丸と共に制作、発表。松坂屋静岡店で「牧野宗則・風鈴丸親子展」開催。
2001年 静岡市文化功労者。
2001年 平野美術館(浜松市)にて「牧野宗則・風鈴丸木版画二人展」開催。
2002年 富士市総合センターフィランセ富士に大型陶板壁画「光明」を制作。
2003年 文化庁長官表彰受賞。
2003年 郵政公社より「新静岡市発足記念・絵入りはがき(5枚組)」発行。
2003年 「国際園芸博覧会━浜名湖花博」の公式記念メダルの原画「sweet angel」を制作。
2004年 版木の美しい部分のみを切り取り、版木そのもので作品制作することを決断。ブロックス・アートと名付け作品を発表する。
2007年 長崎大丸にて「伝統版画300年の奇蹟━牧野宗則木版画展」開催。(長崎新聞社主催)
2007年 太宰府天満宮宝物殿「平成の餘香帖」完成記念展の「春彩」を出陳・収蔵。
2007年 裾野市民文化センターにて「牧野宗則・風鈴丸木版画親子展」開催。(裾野振興公社・裾野市民文化センター主催)
2008年 富士市文化センター・ロゼシアターにて「牧野宗則・風鈴丸親子展」開催。(富士市文化振興財団主催)
2009年 浮世絵大田記念美術館にて「第3回 北斎・広重からの華麗なる展開━牧野宗則展」開催。
2009年 掛川二の丸美術館にて「伝統版画300年の奇蹟 牧野宗則展」開催。
2009年 「牧野宗則全木版画集」発行。(阿部出版・静岡新聞社)
2009年 静岡空港ターミナルビルに陶板壁画「いのちの花」制作。
2010年 ニューヨークのニッポンクラブで「牧野宗則展」開催。
その他、1980年頃より毎年数回日本各地の主要百貨店・ギャラリー等で個展開催。

秋野 不矩(あきの ふく、1908年7月25日 – 2001年10月11日)は、日本画家。静岡県磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)生まれ。
日本画の要素によく含まれる花鳥風月を嫌い、50代からインドに魅せられ、インドの材料を使った新しい境地を開拓する。
絵本画家の秋野亥左牟は次男。

略歴
1908年(明治41年) – 静岡県磐田郡二俣町に生まれる
1926年(大正15年) – 静岡県女子師範学校(後の静岡大学教育学部)卒業
1927年(昭和2年) – 千葉県の石井林響に師事
1929年(昭和4年) – 京都の西山翠嶂塾「青甲社」に入門
1948年(昭和23年) – 同志と共に、創造美術(現:創画会)を結成
1949年(昭和24年) – 京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)助教授となる
1962年(昭和37年) – インドの大学に客員教授として招かれる
1966年(昭和41年) – 京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)教授となる
1974年(昭和49年) – 京都市立芸術大学退職、名誉教授となる
1991年(平成3年) – 文化功労者顕彰
1999年(平成11年) – 文化勲章受章
2001年(平成13年) – 京都の自宅で心不全により永眠

上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 – )は、日本の画家である。海洋船舶画家として、模型メーカー・タミヤの「ウォーターラインシリーズ」をはじめとするボックスアートで知られる。

人物
生い立ち
静岡県藤枝市鬼岩寺に生まれ、静岡市千代田で育つ。上田は子供のころから「子供の科学」「航空少年」といった少年雑誌を見ながら、船舶や飛行機の絵を盛んに模写していた。
従軍体験
1941年(昭和16年)、徴兵の為帝国陸軍の高射砲連隊(浜松市)に入営。後に船舶部隊(暁部隊)の船舶砲兵に転科、陸軍徴用船である軍隊輸送船に乗船し備砲たる高射砲の操作要員(船砲隊員)となり(船舶砲兵第1連隊)、太平洋戦争における数々の輸送任務に従軍。
初の実戦経験は1942年(昭和17年)3月1日に行われたジャワ島上陸作戦(蘭印作戦)であり、輸送船「神州丸」(同名の陸軍特種船/強襲揚陸艦「神州丸」とは異なる)に座乗していた。この他、「ぶゑのすあいれす丸」、「高島丸」、機動艇(SS艇。中型揚陸艦)等26隻の輸送船に乗船し計6回撃沈されている。上田は軍務の傍ら、乗船やすれ違う艦船などを軍事郵便ハガキにスケッチし、またジャワ島、アリューシャン列島、ラングーン湾(ビルマ)など、赴く土地の空や海の色を頭に叩き込んだ。
1944年(昭和19年)の大戦末期には優秀輸送船「金華丸」(レーダー搭載)に乗船。「金華丸」は多号作戦(フィリピン防衛戦)において兵員・物資の輸送任務に従事、護衛の駆逐艦や上空援護の四式戦「疾風」の活躍もあり、オルモック湾において11月1日より行っていた揚陸を成功させた。しかしながら、11月14日にはマニラ湾にて敵機250機からの3日間に渡る空襲を受けて「金華丸」は沈没、船砲隊員の3分の2は戦死し、船首の砲座にいた上田は海に飛び込み、3、4時間漂流の後に一命を取り留めたものの、利き腕の右手と右足を負傷して障害を残した。
終戦後
上田は従軍前、父親の営む塗装業を手伝っていたが、戦後は右手足の障害により高所作業などはかなわず、代わりに座ってでもできる看板の文字を書く仕事を始めた。仕事の終わった夜には、左手で書道を習うなどしていたが、絵を描きたいとの欲求は抑えられず、趣味として艦船などの絵を描き続けた。
船舶画家
それらの絵が次第に地元の評判となっていた1959年(昭和34年)、静岡で同じ町内に住んでいた田宮模型(現在のタミヤ)の田宮俊作から箱絵の製作を依頼された上田は即座に快諾した。巡洋艦「鳥海」「愛宕」を描いたのを手始めに3-4日で一枚を仕上げる仕事ぶりで、後の艦船プラモデルシリーズ「ウォーターライン」の箱絵の大半、2,000枚以上が上田の作となった。
上田は船舶画を描く際、何よりも正確さにこだわり、資料を徹底的に調べ、写真がないものについては図面から絵を書き起こしている。国会図書館に残る当時の軍艦の設計図から構造を知るほか、船舶装備の機能の理解、場所による海や空の色、船の速度による煙のたなびき方の違いなど、従軍による実体験による知見があるからこそ再現できるものという。
1973年(昭和48年)に初の個展を開催、以後帆船、軍艦、車、機関車、飛行機等の作品が、プラモデルのボックスアート以外に絵本やカレンダー等でも使われるようになった。2009年現在までに2万点以上の作品を手がけ、あわせて後進の指導に力を入れている。2011年(平成23年)2月には、画集『上田毅八郎の箱絵アート集-戦艦大和から零戦まで』(草思社)が出版された。

匂坂 祐子(さぎさか ゆうこ、1961年8月29日 – )は、日本の油彩・テンペラ画家。静岡県富士市出身。油彩テンペラ混合技法と黄金背景テンペラ技法を用いた板絵の古典技法で作品を制作。

経歴
静岡県富士市生まれ。東海大学短期大学部生活芸術コース卒業。1972年より日本画家村井竹山氏にデッサン・水彩・油彩・日本画を学ぶ。1991年より全卵テンペラによる油彩テンペラ混合技法の板絵・銅版画、卵黄テンペラによる黄金背景テンペラ技法・羊皮紙技法を用いて作品を制作している。1997年 イギリス・フランス研修旅行。1998年イギリス・ベルギー・ドイツ研修旅行。ヘザーレイズスクールオブファインアート(ロンドン)肖像画コース受講。日本とヨーロッパ各地で発表を続ける。2008年ローマ法王「復活Resurrection]献上東京都在住。

主な作品
Blessed WeddingI(ロミオとジュリエット) 2010
Eternal WeddingIII 天国のキス(眠りの森の美女) 2009
Eternal WeddingII 永遠の愛の誓い(白鳥の湖) 2009
Eternal WeddingI 永遠の愛を込めて(ジゼル) 2009
Arc-en-ciel de l‘amour au bonheur 幸福への愛の虹(眠りの森の美女) 2008
The Victorious re surrection 勝利の復活(海賊) 2008
Resurrection 復活(聖書) 2007
Angel 天使 1997
HAPPY CAT ハッピーキャット 1997
Fortune favors the brave 運命の女神(ギリシャ神話) 1996

杉浦 俊香(すぎうら しゅんこう、1844年6月22日(天保15年5月7日) – 1931年(昭和6年)6月8日)は、静岡県安倍郡静岡東草深町(現在の静岡県静岡市葵区)出身、戦前の日本の美術家、日本画家、哲学者。壮年期は日光及び高野山に籠り技を研磨し、支那に遊び台湾に渡り技を磨いた。60歳にして摂津国剣尾山(けんぴさん、現在の大阪府豊能郡能勢町)の人跡絶し山頂に籠居し3年間の修養を積み、独自の日本画を創出し雅号を俊香と称す。生涯を通じての作品は一般の画家に較べ遥かに少なく、溌墨画及び雪影は独自の画風である。近代日本画壇はもとより、前後五回、欧米に渡り日本画の紹介行脚を行い海外にも日本画を紹介した。1913年(大正2年)、仏蘭西政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章、外国人に贈られる最高章を授章、同時にルーヴル美術館より遺作《遠浦帰帆》の展示を約束された。

生涯
1844年(天保15年)6月22日 – 駿河国府中の徳川家臣・今井家の第十六代今井半右衛門松宇の三男・今井高融として生まれる。
1850年(嘉永3年) – 幕臣の家に生れ、5歳の頃、筆と紙を与えれば泣き止む変わりものだった。6歳の時、父の書斎に入って遊んでいた、また悪戯かと覗くと筆を取って絵を描いていた。出来上がって見れば運筆雄渾大人の舌を巻かした。
1857年(安政4年) – 14歳の頃、時の画学者の隠士怡顔斎(松岡恕庵)から運筆の奥義を授かったのが画の道に入る始まりだった。松岡恕庵から当代の工作に学ぶことなかれ、古人の意を師とせよと戒められた。
1859年(安政6年) – 15歳の時、天台の仙僧幽深に就いて、専ら道学佛書を修め、仏学の深源と修練の正途とを伝えられ、後事を託された。
1874年(明治7年) – 諸制度改革の潮流は宗教にまで及ぼし神佛界の前途頗る怪しくなったので、俊香は宗教原則論を唱え出し各宗管長の総代となって、時の大教院に建白を差出し運動家として現れたが、その素論は行われない事から又も読書の人となって明窓浄几に古人を友とした。
1892年(明治25年) – 清国視察に向かい、その描いた絵画は清国識者の認める所となり、当時、清国には既に斯かる本義を具する画を創作する人失われたりと云うに聴いた。
1898年(明治31年) – 日本美術院の創立に際し、岡倉天心、橋本雅邦等と意見を異にし、独自の道を進み真の日本画の真髄を世界に紹介すべく、たびたび諸外国を歴訪した。
1902年(明治35年)
5月15日 – 『精神有無論』を発刊。中江兆民が生前遺著にして出版界を驚倒した『一年有半』に次ぐ『続一年有半』を評して、あわせて『一年有半と蓄式の唯物論』『無神無霊魂説の是非如何』『宇宙大観』等、中江兆民の著に関して出した数著の所説を論破したるもの当来は知らず今は『一年有半』に関したる著書の段として見るべき書なり。
6月12日 – 静岡県静岡市東草深町三丁目、戸主杉浦清養父分家し、東京市神田区三崎町三丁目に住居を移す。同年6月12日、東京市日本橋区北新堀町、滑川光亨次女よ祢と結婚する。同年10月20日長女いつ誕生する。
1903年(明治36年) – 大阪府での第五回内国勧業博覧会に《二十四孝》二点を出展(杉浦高融)した。
1904年(明治37年) – 長岡護美、子爵高島鞆之助、男爵九鬼隆一、男爵細川潤次郎、子爵福岡孝弟、高橋新吉、男爵辻新次、男爵加藤弘之等から美術学校の講師に推薦される。
1905年(明治38年)11月15日 – 二女須美誕生する。

凱旋記念五二共進会に於いて授与された深謝状
1906年(明治39年)
12月4日 – 凱旋記念五二共進会美術部第一回監査会に於いて、橋本雅邦、川端玉章等の老大家と共に優待室に《緑陰静修》《湖畔晩帰》の二大作を陳列され、特選の上審査員に推薦された。凱旋記念五二共進会総裁正二位勲一等伯爵松方正義より深謝状を授かる。俊香は未だかって作画を展覧会に出したことは無く、世間に名前さえ知られていなかった。仏教、仙術を始め一切の東洋古学に精通し、画法に熟達せるも深く自ら韜晦(とうかい)して世と隔てていた。偶然の機会より長岡護美、男爵細川潤次郎、男爵九鬼隆一、加藤弘之博士等の知る所となり、凱旋記念五二共進会の熱心な勧誘に応じ数点を同会に出品した。其の画法は極めて精確にしてあたかも相阿弥、雪村、若しくは光信の風ありと云う。
1907年(明治40年)
1月6日 – 長男晋誕生する。
春 – 京都美術展覧会の審査委員を務める。
山水画三点を栗野慎一郎大使に委託し仏蘭西巴里の中央サロンに出品、展示を許可された。同会への東洋画の出品許可は初めてだった。

仏蘭西政府から贈られたオフィシエ・ド・アカデミー賞の賞状
1908年(明治41年)〜1909年(明治42年) – 本邦絵画沿革を十四点に抄写して携帯し作品を携え、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.、フランスに渡り、日本画の紹介に努めた。フランスにおいてはフランスの画家、日佛協会、美術館長、博物館長等の展覧に供した仏蘭西政府からオフィシエ・ド・アカデミーを贈与された。ルーブル美術館東洋部長カストン・ミジョンは「吾人が氏を俟つに森厳崇高なる尊敬を以ってすることは、吾人の眼光に映ずる氏は、己に薄明に蔽はれたる崇高なる文明の、固く幻宴に封寒されたる別世界の最後の代表者である。」と評された。ルーヴル美術館に作品の展示を約束された。
1910年(明治43年)
3月22日 – 二男かく誕生する。
不臥断食の修業 – 摂州の倹尾山頂の人跡の絶えた所に庵を造って立て篭もった。この法の幽玄なる所を味わえば、古人の佛画の運筆は如何になり居るかも知りたくなり高野山の宝蔵から曼荼羅を借り受けて、彼是3ヶ年と云うものは不臥不眠の修業を積み山を下り又もや塵の世に踏み出した。

仏蘭西政府より贈与されたオフィシエ・ド・アカデミー記章の大日本帝國外國記章佩用免許証
1913年(大正2年)
10月22日 – 賞勲局総裁従二位勲三等伯爵正親町実正より大日本帝國外國記章佩用免許證(第3494号)を受ける。10月30日の官報にてフランス共和政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章(現芸術文化勲章)を贈られ、佩用を允可された事を発表した。
12月4日 – フランスからオフィシエ・ド・アカデミーを贈られた祝賀会に兼ねて画品鑑賞会が発起人今泉雄作、前田健次郎、廬野楠山、古筆了信等に依って催された。賛助員には、公爵蜂須賀茂韶、男爵細川潤次郎、子爵金子堅太郎、男爵加藤弘之、子爵高島鞆之助、男爵九鬼隆一、松室致、子爵青木周蔵、子爵清浦奎吾、伯爵土方久元の人々に招待状が送られた。
1915年(大正4年)6月2日~5日 – 銀座美術館にて絵画復興参照作品展覧会を開く。
1916年(大正5年)
10月21日~23日 – 華族会館にて催主・伯爵柳沢保恵による杉浦俊香翁作品観覧会を開く。
11月20日 – 『絵画と国家の盛衰[3]』を発刊する。絵画と国家の盛衰には、松方海東、土方泰山、細川十洲の題字があり、絵画源流参照として二十一葉の写真が載せてある。
1919年(大正8年)
時の有識者、伊東巳代治、石川成秀、犬養毅、早川千吉郎、花井卓蔵、細川潤次郎、徳富猪一郎、床次竹二郎、大木遠吉、金子堅太郎、高橋是清、高木兼寛、棚橋一郎、九鬼隆一、柳田國男、柳沢保恵、松室致、益田孝、福原鐐二郎、藤澤南岳、古賀廉造、佐分利一嗣、清浦奎吾、島田三郎、柴田家門、平山成信、鈴木宗言らにより正画復興会が起こされた。これは、杉浦俊香を支援し、日本美術思想の復興を図り、正画の藍奥を明らかにしようとするものであった。
欧米を作品を携えて巡遊し展覧する。
1920年(大正9年)
5月15・16日 – 丸の内生命保険協会にて第一回個人展覧会を催す。
10月23・24日 – 丸の内生命保険協会にて展覧会を開く。
1921年(大正10年)1月~1922年(大正11年) – 作品を携えアメリカよりスイス・チューリッヒ、ドイツ・ドレスデン、イギリス・ロンドン、フランス・パリを歴遊し東洋絵画の古精神を鼓吹した。アメリカに於いて二十世紀倶楽部やボストン倶楽部で会員に展覧した。スター新聞の美術欄は「秀でた日本美術家杉浦俊香氏の古典派の様式に依って描いた日本画の著しい蒐集が国民美術陳列館の監督の下に、国民博物館に於いて展覧されている。蒐集は掛物、懸額等40点である。此れ等は東洋美術の最も善い伝統と一致し、支那及び日本の巨匠の作品と比較すべきものである」。
1922年(大正11年)
10月26日 – 『画界の維新』を発刊する。
エコール・ド・パリが杉浦俊香の日本画を評論、「此の度、アカデミー諸氏と共に日本画家杉浦俊香翁の作品を一見するに至りて、その趣きの近来の日本画に於いて未だ観取せざる点を発見したり。翁の作品の特徴は画題の選択高尚至純にして気品を具へ細より密に入り眞に逼りて精神躍如たり、之れ翁が徒らに彩筆の画家にあらずして眞に美術の眞締を解するの士と謂うべし。翁は当年80歳の高齢者にして日本人に見る稀れなる巨大なる体駆を有し身心共に益々強健なり、今日迄欧洲を巡遊する2回更に一両年後に渡航するとのことなれば吾等は翁の健康を祈り其の来遊を待つのである。」
1923年(大正12年)
2月26日 – 内務大臣官舎に於いて、美術問題に就き杉浦俊香の美術問題に就いての講話が開かれた。後援したのは法律或いは教育の方面に特別の造詣と経験を有する、枢密院副議長男爵平沼騏一郎と貴族院議員嘉納治五郎だった。
5月 – 男爵平沼騏一郎、嘉納治五郎、鵜沢総明等により、神田錦町三丁目の学士会館において杉浦俊香の講演会が行われた。
1924年(大正13年)6月下旬 – 上海に渡航した。7月1日に芸術学校長、中華美術学校長等に会見し東洋絵画の問題に就いて談話を交換した。美術学校には日本語の話せる者が居て好都合であったとのことである。校長は俊香の意見に同意した。俊香はそれから7月18日の廬山の仏教大会に行き絵画幾点かを携帯して展覧に供した。日本仏教会の代表者水野梅暁にも会見することが出来、水野の勧告もあって絵画を持って廬山に行くことができた。
1925年(大正14年)3月30日 – 住まいを東京市神田区三崎町三丁目より東京市麻布区広尾町に移す。
1926年(大正15年)
1月 – 大東文化協会の有志が来遊中のドイツ・シュトゥットガルト博物館長フイツシエルを小石川の偕楽園に招いて一夕の美術談を交換した。参加者は井上哲次郎を始めとして木下成太郎、大村西崖、辜鴻銘、北昤吉、原田尾山等であった。俊香は館長の参考のために画三四点を携えて参会した。
5月31日~11月30日 – アメリカ独立150年記念フィラデルフィア万国博覧会に出展、絵画部門でゴールドメダルを授与された。
1927年(昭和2年)
2月2日~6日 – 東京、三越呉服店に於いて「杉浦俊香氏新作絵画展覧会」を開催。
5月20日~22日 – 東京丸之内、日本工業倶楽部に於いて「杉浦俊香翁東西洋に微証せし作画被目録」を開催。
1928年(昭和3年)11月10日 – 昭和天皇即位に当たり、水墨山水《晴雪浩観》、金碧山水《夏渓静修》の二幅を献上、宮内大臣一木喜徳郎より嘉納状を受ける。
1931年(昭和6年)6月8日 – 肺炎のため東京市麻布区広尾町の自宅で死去。86歳没。フランス・ルーヴル美術館へ約束の一幅を送る。
墓所は東京都港区南青山の東京都青山霊園にある。

ツバキアンナ(1970年2月27日 – )は、日本の漫画家、浮世絵師である。東京都を拠点に活動している。

経歴
雑誌『別冊マーガレット』で少女漫画家としてデビューしたのち、浮世絵師に転身。劇団☆新感線のポスターやオニツカタイガーの広告などを手がけた。2009年、ナンバーガールのライヴDVD『Live at Factory』のジャケットのイラストを手がける。2014年、ホノルル美術館開催の『Modern Love: 20th-Century Japanese Erotic Art』展に作品が出品される。同年、樽酒専門店しずく屋の「デザイナーズ樽酒」第1弾のイラストを描き下ろした。
著書
歌は世につれキミにつれ(1996年、集英社)
サイケな夏を横浜で(1997年、集英社)
ウワサになりたい!(1998年、集英社)
とかく浮世はラブ&ロック(1998年、集英社)
ツバキアンナ絵巻 江戸当世若衆百景(2001年、アスペクト)
Tsubaki Anna FACTORY(2007年、扶桑社)
ツバキアンナ絵巻 江戸当世若衆百景 R(2008年、アスペクト)

中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 – 1969年11月20日)は、日本画家。静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。

経歴
1890年(明治23年)3月10日、静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー、翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。しかし同年御楯は死去、その後は師の高弟の下で玄関番として修行するも長くは続かず、再び姉の嫁ぎ先に身を寄せる。
1908年(明治41年)に東京美術学校日本画科・選科に入学、寺崎広業、結城素明に学び、横山大観の知遇を得る。この一方で紅児会に入会したが、このことが、それまでもっぱら土佐派の画風を踏襲した武者絵を描いていた岳陵を西欧絵画に触れされることとなり、イギリスの画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの影響が濃厚な「水神」が生み出された。 また他方巽画会にも出品、1911年(明治44年)の同会展では「空海」が一等褒状を得た。
1912年(大正元年)[元号要検証]、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科を首席卒業。同年の第6回文部省美術展覧会(文展)で「乳糜供養」が官展初入選を果たすと、1914年(大正3年)の再興日本美術院第1回展に「緑蔭の饗莚」、翌1915年(大正4年)の同・第2回展へは「薄暮」を出品、同年に同院の同人となる。院展へはその後も、平家物語を題材とした「輪廻物語」、源氏物語に取材した「浮舟」、同名の物語に拠った「竹取物語」、白居易の詩に取材した「貴妃賜浴」など、古典的題材に取材した作品を出品した。この一方では1914年に今村紫紅らと赤耀会を設立、翌年の第2回展から同会の会展にも出品した。1926年(昭和元年)[元号要検証]日本美術学校教授、1930年(昭和5年)に日本画家福田平八郎、山口蓬春、洋画家中川紀元、牧野虎雄らと六潮会を設立するが、これ以降の院展への出品作は1931年(昭和6年)の第18回展への「婉膩水韻」、1933年(昭和8年)の第20回展へ「都会女性職譜」、1934年(昭和9年)の第21回展への「砂丘」、1939年(昭和14年)の第26回展への「流紋」、1942年(昭和17年)の第29回展への「緑影」など、都会的風俗に因んだものやモダニズム的傾向の濃厚なものが目立っている。特に「婉膩水韻」はレースの下着を脱ぎ捨てた全裸の女性が水中を泳ぐというその画題が物議をかもし、連作である「都会女性職譜」に当初含まれていた「女給」には風紀上の問題があるとされ、岳陵自らが開会後一日で撤去する、など話題を生んだ。1937年、文展審査員。1940年、法隆寺金堂壁画模写主任。1947年、帝国芸術院会員(同年末日本芸術院)、1949年、日展運営会理事、1950年、日本美術院脱退、1958年、日展常務理事。1959年、大阪四天王寺金堂壁画を製作する。1961年、朝日文化賞、毎日芸術賞受賞。1962年、文化勲章受章、文化功労者。
日本画に油絵の表現を取り入れた作品を制作し、代表作に「輪廻物語」「気球揚る」等。
日本画家中村宗弘は孫にあたる。東京国立近代美術館蔵の中村岳陵の代表作「孫」(1951年)のモデルは中村宗弘である。

松井 冬子(まつい ふゆこ、1974年1月20日 – )は、静岡県周智郡森町出身の日本画家。

来歴
1994年、女子美術大学短期大学部造形学科油彩画専攻卒業。
就職、4年を経て、6度目の受験で東京藝術大学美術学部入学。2002年に東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。2007年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域修了。博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を東京芸術大学へ提出し博士 (美術)の学位を取得。
女性、雌に焦点を当て、幽霊画、九相図、内臓、脳、筋肉、人体、動物を題材に採った作品を発表している。絹本に岩絵具を用いて描く。
略歴
2002年、学部の卒業制作で「世界中の子と友達になれる」(横浜美術館所蔵)を発表。
2004年、銀座スルガ台画廊で、L’espoir 2004 松井冬子展。
2008年、4月20日、NHK教育テレビジョン「ETV特集」で「痛みが美に変わる時〜画家・松井冬子の世界〜」が放送される。
2008年、「松井冬子展」が静岡県の平野美術館で開催。
2010年、フランス・パリのGalerie DA-ENDにて「松井冬子展」。
2011年、第62回NHK紅白歌合戦にゲスト審査員として出演。
2011年、12月17日から横浜美術館で「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」が開かれる( – 2012年3月18日)
2015年、東京2020エンブレム委員会の委員に就任。
人物
女子美では油絵を学んでいたが、東京芸術大学では日本画を学んだ。
東京芸術大学日本画専攻の女学生としては初の博士号取得者となった。(同年女性を含む他5名が取得)
既婚。料理は一切しない。

志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれる陶器。
歴史は古く室町時代に遡り、美濃の陶工が焼き始めたのが最初とされ、一帯は古くから良質の陶土産地として知られていた。そのため、江戸初期には瀬戸の絵師が最適な陶土を探究する際、この志戸呂に目を付けたという。天正16年には徳川家康から朱印状が授けられ、特産品として奨励されるなど、着実に成長していった。
中でも志戸呂焼の名が世に轟くようになったのは、時の茶人、小堀政一(遠州)が目を付け、遠州七窯の一つに数えられるようになってからである。現在も茶壺が中心で、赤みがかった器に黄色釉と黒釉を掛け、独特の侘びた味わいがある。また、非常に堅牢で湿気を寄せ付けないのも、茶器に好まれる理由である。名器と呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある。

森山焼(もりやまやき)は、志戸呂焼の流れを汲む、静岡県周智郡森町にて焼かれる陶器。
明治42年の開窯で、瀬戸焼を再興した加藤藤四郎(民吉)の話に感化された中村秀吉が志戸呂の陶工・鈴木静邨を招き、主に日用食器、茶器、酒器、花器などを焼いた。大正4年には天皇即位の際に、花瓶と置物を献上したことにより知名度が向上、名を高めることになった。
現在は、中村陶房、静邨陶房、晴山陶房、田米陶房の4軒の窯元があり、それぞれ個性的な意匠を見せる。中でも静邨陶房(鈴木龍)で焼かれる真っ赤な釉薬を使った赤焼がよく知られる。また、晴山陶房(松井晴山)は、森山焼独特の虎布(とらふ)釉を継承している。

賤機焼(しずはたやき)は、静岡県静岡市で焼かれる陶器。江戸初期に太田太郎衛門によって開陶、徳川家康より徳川家の御用窯として繁栄した。しかし、文政の末期、安倍川の洪水によって窯場が流失、以後は衰退の一途を辿った。明治に入って、太田萬二郎の手によって再興が試みられるが、往年の勢いは戻らなかった。しかし、県が郷土の地場産業再興に乗り出し、青島庄助が再興させる。二代目五郎が常滑の技術を、三代目秋果が南蛮手という焼締めの技術を採り入れるなど尽力し、民窯として復活、大戦中の中断を挟んで現在に至っている。
なお、古い賤機焼には「鬼福」と呼ばれる意匠が残されている。これは徳川家康が三方ヶ原の戦いので武田軍を駆逐した際に「鬼は外、福は内」と叫びを上げながら戦ったという逸話に因んでいる。
賤機焼の特徴
賤機焼は原料の赤土に鉄分を多く含むために素地は赤茶色である。そしてその赤を更に引き立てるために、辰砂や釉裏紅といった技術を用いて、鮮やかな色彩を出す。また、釉薬を一切使わず、焼き締めによる窯変を意匠とした南蛮手も独自の技術であり、表面がゴツゴツしていて、肌合いはかなり荒い。

竹細工(たけざいく)は、竹を加工したり、竹ひごを編み込んで細工物を作ったりすること。または、日用品・農具・漁労具などの荒物、茶道具などの工芸品、竹とんぼや水鉄砲といった玩具の中で、竹を素材とした細工物のことを指す。

編組
竹ひごの編み込み方・編組(籠目)の種類には、基本となる六つ目編み、四つ目編み、ござ目編み、網代編み、さらには、異なる太さのひごを駆使した波網代や、麻の葉編み、松葉編み、やたら編みといった装飾的な特徴を高めたものなど、用途に応じて様々なパターンがある。
素材
素材となる竹にはマダケが最も多く利用されており、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が流通する。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工する事でその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である。
マダケについでモウソウチクも多く用いられる。モウソウチクは、もっぱら青竹のままで利用される。
別府竹細工や日田の竹箸などの竹工芸の盛んな大分県は、マダケの面積、生産量とも全国一のシェアを占めるとともに、竹材業者も多いため、加工された素材も入手が容易である。
伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている竹工品には以下のものがある[1]。
江戸和竿(東京都)
駿河竹千筋細工(静岡県)
大阪金剛簾(大阪府)
高山茶筌(奈良県)
勝山竹細工(岡山県)
別府竹細工(大分県)
都城大弓(宮崎県)

静岡県
駿河漆器
駿河蒔絵
駿河塗下駄
下田脂松細工
井川メンパ
熱海楠細工
駿河指物
浜松木櫛
静岡挽物
木工製品
賤機焼
森山焼
志戸呂焼
深良窯
駿河和染
ざざんざ織
掛川手織葛布
藤枝桐タンス
焼津弓道具
遠州鬼瓦
竹細工
木製家具
木製玩具
藤枝だるま
相良凧
和紙人形
竹細工
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新原美術 富山高岡本店

大正12年創業
安心と信頼の実績 買取と販売 両方に力を入れています。

富山県高岡市鴨島町40−1

営業時間 9:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-22-7303

新原美術 展示場(antique shop 樹)

新原美術本店近くにあった旧松本建具の物件を買取改装して2019年にopen致しました。

伊万里焼や大聖寺伊万里を中心に1000点以上を展示しています。

買取も行なっています。

富山県高岡市鴨島町52

営業時間 12:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-73-2171

新原美術 東京店

2022年1月にopen致しました。

都内では珍しい大聖寺伊万里を中心に北陸の器を取り揃えています。

東京都台東区台東3-33-5 宝誠ビル1階

営業時間 10:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 03-6284-4649