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音丸耕堂
彫漆家。香川県生。旧姓は木村、本名は芳雄。石井磬堂に師事し、さらに玉楮象谷に私淑して独学。帝展初入選以降、同展、新文展、戦後の日展で受賞を重ね、日本工芸会設立後は、日本伝統工芸展を中心に作品発表。紫綬褒章受章。人間国宝。平成9年(1997)歿、99才。
磯井如真 いそい-じょしん
1883-1964 明治-昭和時代の漆芸家。
明治16年3月19日生まれ。36年大阪の山中商会にはいり,漆器の製作,修理にあたる。のち母校の香川県立工芸学校や工芸研究所でおしえる。昭和28年岡山大教授。玉楮(たまかじ)象谷の蒟醤塗(きんまぬり)の技法に立体的な表現をくわえるなど,香川漆芸の伝統を継承,発展させた。日展審査員。31年蒟醤で人間国宝。昭和39年8月23日死去。81歳。香川県出身。本名は雪枝。
磯井如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月19日 – 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本の漆芸家。本名は雪衛(ゆきえ)、あらため雪枝。
経歴
香川県高松市出身。香川県立工芸学校(現、香川県立高松工芸高等学校)を卒業後、大阪山中商会で中国漆器の修理などに携わり、技術を習得した。1909年に高松に戻り、製法が絶えて久しかった香川漆器を独自研究を重ねて復興し、近代化を確立した。讃岐漆芸の中興の祖と称される。母校の工芸学校や工芸研究所で後進の育成にもあたっている。1953年には岡山大学教授に就任。香川漆器の創始者・玉楮象谷の蒟醤(きんま)の線彫りを点で彫った「点彫り蒟醤」を創案した。1956年(昭和31年)、重要無形文化財「蒟醤」の保持者(人間国宝)に認定される。1961年に紫綬褒章、1964年に勲四等旭日小綬章を受章。
弟子に三男の磯井正美、太田儔(いずれも人間国宝)などがいる。
漆芸
音丸耕堂(人間国宝:高松市)
磯井如真(人間国宝:高松市)
磯井正美(人間国宝:高松市)
太田儔(人間国宝:高松市)
山下義人(人間国宝:高松市)
合田 好道(ごうだ よしみち、1910年(明治43) – 2000年(平成12)2月6日)は、陶芸家、画家。
略歴
1910年、香川県三豊郡豊濱町(現・観音寺市)に生まれる。父は合田辧治、母はまつ。1925年、三豊中学校中退(後の第68代内閣総理大臣、大平正芳と同郷・同窓)、別府移住。兄の影響で画家を志望。1929年、上京、春陽会入選。1930年、小山富士夫、鳥海青児、料治熊太、会津八一らと知り合う。1939年、小山富士夫の紹介で浅川伯教を知る。1942年、伊東安兵衛と喫茶をかねた工芸店「門」をはじめる。富本憲吉、石黒宗麿、北大路魯山人、荒川豊蔵、濱田庄司らの作品を陳列。1946年、濱田庄司を頼り益子移住。たくみ工芸店益子出張員となる。円道寺成井窯で赤絵の仕事に就く。1949年、柳宗悦、バーナード・リーチが益子を来訪し、知り会う。1952年、大誠窯、塚本窯、成井窯などを指導。1974年、和田安雄を伴い韓国移住、金海窯築窯。1980年、韓国を去り、益子へ帰る。1981年、合田陶器研究所創設。2000年、歿、享年89。
亀井 洋一郎(かめい よういちろう、1974年 – )は、日本の陶芸家。琉球大学准教授。香川県大川郡白鳥町(現在の東かがわ市)出身。2001年に第39回朝日陶芸展でグランプリを受賞。陶磁器の量産技法である鋳込み成形に着目し、磁器の格子構造体を基本形とする作品を制作。
略歴
1974年 – 香川県大川郡白鳥町(現在の東かがわ市)に生まれる。
1999年 – 大阪芸術大学大学院芸術制作研究科修了
2006年 – 京都市立芸術大学大学院美術研究科博士(後期)課程修了、博士号(美術)取得 博士論文「光の受容器」。
2014年 – 国立大学法人琉球大学教育学部准教授に着任。
受賞歴
2001年 – 第39回朝日陶芸展グランプリ受賞
2004年 – 第1回台湾国際陶芸ビエンナーレ優秀賞受賞
2010年 – 平成21年度香川県文化芸術新人賞受賞。
2010年 – 平成21年度京都市芸術新人賞受賞
田淵太郎(高松市)
鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日 – 1983年(昭和58年)8月3日)は、沖縄の紅型・藍型等型絵染の研究者・伝承者。重要無形文化財「型絵染」保持者(人間国宝)。沖縄県の首里城再建などに尽力する。代表著書に『沖縄文化の遺宝』がある。石垣市名誉市民。三木町名誉町民。
略歴
1898年(明治31年)香川県三木郡氷上村(現・木田郡三木町大字氷上)生まれ。
1921年(大正10年)東京美術学校図画師範科卒。沖縄県女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校の教職に就きながら、沖縄の美術工芸を研究した。その後東京美術学校助教授を歴任。1924年以降も沖縄で美術工芸の研究を続ける。
1944年(昭和19年)東京美術学校退官。染織家として活動を始める。
1973年(昭和48年)4月5日、重要無形文化財「型絵染」保持者(人間国宝)に認定。
著作
『沖縄文化の遺宝』(編著、本文・写真で2分冊) 岩波書店 1982年
『東洋美術史』イデア書院 1930年
『古琉球型紙』(編著、全4巻) 京都書院 1974年
『鎌倉芳太郎 型絵染』 <人間国宝シリーズ14> 講談社 1978年
『琉球の織物』 京都書院 1979年
『東洋の彫刻 復刻版』 <アジア学叢書> 大空社 2007年
猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年12月14日 – 1993年5月17日)は、昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。
「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。
丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館(設計:谷口吉生)には、猪熊の作品が常設展示されている。建築家・丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は、猪熊の作である。
略歴
1902年 – 高松市に生まれ、丸亀市に転居。小学校の時から絵がうまく、学校の美術の授業で教師の代わりをする事もあった。旧制丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)卒業。
1922年 – 東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学し、藤島武二に師事する。
1926年 – 「婦人像」で帝展初入選を果たす。その後、「座像」で特選に選ばれるなどし、帝展無鑑査となる。
1936年 – 帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和らと新制作派協会を設立する。
1938年 – フランスに移り、アンリ・マティスの指導を受ける。この時、マティスに自分の絵の批評を請うと「お前の絵はうますぎる」と言われ、これを自分の画風が出来ていないと捉えて愕然とする。以来、自らの画風を模索する歳月を過ごすが、マティスの影響からなかなか抜け出せなかった。
1940年 – 第二次世界大戦が勃発し、最後の避難船となった白山丸で帰国する。終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたる。
1950年 – 白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインを行い(このデザイン画を受け取りに赴いたのが当時三越に勤務していたやなせたかしである)、当時としては破格の報酬でも話題となった。
1951年 – 上野駅に壁画「自由」を完成。また、慶應義塾大学大学ホールの壁画「デモクラシー」と名古屋丸栄ホテルホール壁画「愛の誕生」で第2回毎日美術賞を受賞する。
1955年 – 活動の拠点をニューヨークに移す。この時期から画風は一気に抽象の世界に移っていった。また、この時期は、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めたことでも知られる。
1973年 – 脳血栓で倒れてニューヨークを離れ、1975年からは温暖なハワイで毎年冬をすごしながら創作活動を続けた。
1980年 – 勲三等瑞宝章を受章する。
1993年 – 「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日美術賞を受賞する。同年 逝去。享年90(満89歳)。
中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年(大正2年)2月16日 – 1983年(昭和58年)4月19日)は、画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。妻は宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子。長男は画家の中原洲一。姪はシャンソン歌手の中原美紗緒。孫は俳優・声優の加古臨王。
幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められ東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。
終戦後は、女性に夢と希望を与え、賢く美しい女性になってほしいとの理想に燃え、自分の雑誌『それいゆ』(1946年)『ひまわり』(1947年)『ジュニアそれいゆ』(1954年)『女の部屋』(1970年)を相続いて創刊。編集長として女性誌の基礎を作っただけでなく画家、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナー。人形作家など多彩な才能を発揮。その全ての分野において現代につながる先駆的な存在となる。昭和30年代半ば、病に倒れ、長い療養生活の後、70才にて逝去。
2000年(平成12年)に山梨県河口湖に中原淳一美術館が開館。のちに閉館。
2004年(平成16年)7月には、東京・広尾に中原淳一グッズ専門店「それいゆ」がオープン。現在、中原淳一の著作権は株式会社ひまわりやが管理し、定期的に原画展を行っている。
経歴
1913年(大正2年)
2月16日、香川県大川郡白鳥本町(現・東かがわ市)に生まれる。
1915年(大正4年)
父親の転職により一家で徳島県徳島市に転居。
1924年(大正13年)
母とともに広島県広島市に転居、広島女学院付属小学校に転入。代用教員時代の杉村春子と知り合い、生涯にわたり交遊を持った。
1925年(大正14年)
同小学校を卒業し母とともに上京。おかっぱ頭の内気な少年で、早くに父を失い、母と2人の姉に囲まれ育った。姉たちと一緒に西洋人形を作ることが大好きだった。
1928年(昭和3年)
日本美術学校入学。本格的に西洋絵画を学ぶ。
1932年(昭和7年)
3月、銀座松屋にてフランス風人形の個展を開催。
これを機に雑誌『少女の友』の専属画家として表紙、挿絵を手がけるようになる。
しかし、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれた。軍部の圧力により、淳一のイラストは1940年(昭和15年)5月号を最後に掲載されなくなった。
1940年(昭和15)
1月、千代田区麹町に自身のグッズを扱う雑貨店「ヒマワリ」を開店。
6月、『きものノ絵本』を通信販売で発行。
11月、宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子と結婚。のち二男二女に恵まれる。
1945年(昭和20年)
3月に招集、8月に復員。
1946年(昭和21年)
5月、神保町にて雑貨店「ヒマワリ」を再開。
8月、雑誌『ソレイユ』(フランス語で太陽、ひまわり。後のそれいゆ)を創刊する。国土が荒廃し物資が不足していた時代に、生活を豊かにする方法を多くの女性に授けることで爆発的な売れ行きを示した。「ヒマワリ社」(後の「ひまわり社」)を設立。
1947年(昭和22年)
雑誌『ひまわり』を創刊。
1952年(昭和27年)
『ひまわり』12月号にて廃刊。翌年、『それいゆ』臨時増刊として「ジュニア号」を発行。(のちの『ジュニアそれいゆ』の原形となる)
1954年(昭和29年)
雑誌『ジュニアそれいゆ』を創刊。
1958年(昭和33年)
7月に心筋梗塞のため入院。12月、退院。
1959年(昭和34年)
7月に脳溢血のため入院。10月、退院。
1960年(昭和35年)
心臓発作のため入院。『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』は廃刊となる。
1961年(昭和36年)
千葉県館山市にて療養生活となる。
1964年(昭和39年)
渡仏し半年後に帰国。徐々に仕事を再開する。
1970年(昭和45年)
3月、雑誌『女の部屋』創刊するも、体調悪化のため5号で廃刊となる。
1972年(昭和47年)
脳血栓で倒れ、館山市の高英男の別荘にて療養生活[2]。
1979年(昭和54年)
脳血栓と心臓発作のため入退院を繰り返す。
1983年(昭和58年)
4月19日、永眠。
エピソード
活動の範囲は多岐にわたり、ファッションデザイナー、スタイリスト、ヘアメイク、作詞家、など様々な顔を持ち、若い女性の憧れや装いを提唱し続けるすぐれたリーダーでもあった。それらは敗戦のショックに打ちのめされていた当時の少女たちに夢を与え、大いなる慰めとなった。人気が高くなると共に、雑誌掲載の小物などを求めるニーズに応え「ひまわりや」を開店し、自身の手による商品も販売した。社団法人日本デザイナークラブのファッションショーに出品している。
雑誌モデルの髪型や化粧は淳一本人がしていた。また、淳一自身も「汚いより綺麗な方がいい」と薄化粧していたという。
妻は宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子。雑誌『宝塚をとめ』の表紙を淳一が手掛けたことが縁で知り合う。当時彼女は戦前の宝塚レビュー黄金時代を代表する男役スターであった。この時期の画風は妻の容貌に似た挿絵も多く、淳一の葦原への思い入れがうかがえる。
『少女の友』に掲載された「夏の便り」は、木陰に腰を下ろす着物姿の少女。その顔は長い睫毛に大きな瞳。まるで西洋人形のような顔立ち。当時、少女雑誌の挿絵は浮世絵の流れを汲んだ日本画的な絵が主流だった。中原の絵は異彩を放っていた。幼い頃からひそかに育んでいた美意識がそこに投影されていた。作家の田辺聖子は当時、淳一の絵の大ファンであった。中原の作品から多大な影響を受けたという漫画家の池田理代子は瞳の魅力を「目線の特徴は焦点があっていない。微妙にずれていることによって、どこを見ているのかわからないような神秘的な魅力。瞳の下に更に白目が残っていて、これはやはり遠くを見ている目で今みたいなことを考えている。瞳が人間の心を捉えるという法則をよくご存知だったのではないか」と語る。中原の絵は少女たちの心を奪った。遠い世界に憧れ、夢見るようなその瞳。それは同時代に生きる少女の心を映し出していた。中原の許には少女たちから多くの反響が寄せられ、それは彼にとって大きな自信となった。
『それいゆ』は、戦後の荒廃から脱し、女性の「美しい暮らし」を演出するのための雑誌を目指した。キャッチフレーズは「女性のくらしを新しく美しくする」。
『ひまわり』は、『それいゆ』の目指す女性になるための少女時代にふさわしい雑誌としてつくられた。
『ジュニアそれいゆ』のキャッチフレーズは「十代のひとの美しい心と暮らしを育てる」。
戦時中から戦後すぐにかけて「ニセジュン」と呼ばれる作風を真似たイラストを用いた商品が出回った。ヒマワリ社はこれに対して注意を喚起するおしらせを掲載する事態となった。
略歴
1992年 – 世界写真見本市「フォトキナ92」日本代表作品出展
1995年 – 日本写真家協会と文化庁が選んだ「日本現代写真展」に出展(表現への試みで独自の方法論を模索し確立した写真家たちの部)、保存される。
1998年-4月東京都写真美術館「MEDIALOGUE 日本の現代写真’98」に出展。
2009年-9月「TOKYO PHOTO 2009」 GALLERY21より出展。
2010年-3月31日~5月30日大型個展、所幸則写真展「PARADOX」をGALLERY 21(ギャラリー・ヴァンテアン)にて開催。
2010年-8月、多国籍オンラインマガジン“10.(テンテン)”に特集が組まれる。
2010年-9月には日本唯一のフォトアートフェアである「東京フォト*2010」にメイン作家として出展
2010年-10月冬青社にて「写真における新しい取り組み」とギャラリーバーアムリタにて「失われていく渋谷、失われて行った渋谷」開催。
2010年-11月6日〜12月19日には上海のM50にて「上海1秒」を開催。
2011年-2月、ニューヨークのオンラインマガジン NEW YORK OPTIMISTに紹介される。
2011年-3月、フランスのアートキュレートマガジンAs de Pixelに特集。
2011年-9月、日本唯一のフォトアートフェアである「東京フォト*2011」に出展。
2011年-9月、東京写真プロジェクト『東京画』参加。
2011年-10月、『月刊CAPA』連載。
2011年-10月、上海外滩美术馆(Rockbund Art Museum)でワークショップ「上海のアート村M50の側にて」
2012年-4月、「個園 ー 中日現代美術交流展」 展覧会場: 人可艺术中心 日本側アーティスト: 草間彌生、荒木経惟、所幸則、端聡、岡部昌生
2012年-5月、東京画展「TOKYO-GA meets NYPH *2012」in NEWYORKE
2012年-6月、所幸則個展「1second─ほんとうにあったように思えてしまう事」 Niiyama’s Gallery and sales Salon
2012年-10月、渋谷芸術祭に参加。東急ヒカリエにてグループ展開催
2012年-10月26日(金)~12月9日(日)所幸則 One Second 2008-*2012 in 塩江美術館企画展示(NHKにて個展放送)
2012年-10月、フォトラボK開催(アートとして香川を記録し続けるプロジェクト)
2013年-2月、東京画 meets OSAKA *2013
2013年-2月、エスプリ・ド・パリ展 ロバートフランク、サラムーン、森山大道、所幸則での オムニバス展に参加
2013年-3月、TOKYO SHIBYA LOVERS PHOTOGRAPHERグループ展(渋谷ハチ公前 アオガエル電車内・目黒Galleryコスモス)
2013年 11月1日(土)、写真家 所幸則 秘密の写真展 in 高松 フェ想創
2013年 11月8日(金)〜10日(日)、Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTOGRAPHY FESTIVAL 2013 EXHIBITION in アルペンローゼ
2013年 12 月 所幸則写真展【アインシュタインロマン with10 人の新鋭作家たち】Gallery Conceal Shibuya
2014年 4月から大阪芸術大学客員教授に就任。
2014年 1月6日~16日 TOKYO-GA meets DAIKANYAMA presented by Time Out Tokyo に出展。
2014年 4月上海 M50ーoffice339 にて所幸則の【時間と空間】
2014年 9月写真集【渋谷ワンセコンドvol1】蒼穹社より発売。
同九月銀座にて、発売記念所幸則写真展【渋谷ワンセコンドと世界のワンセコンド】を開催。
2014年 9月10日より阿倍野ハルカス24階大阪芸大キャンパス内にて新教授所幸則と赤木正和2人展+ハービー山口特別出展が開催。
2014年 9月 東京渋谷ラバーズフォトグラファーズ【渋谷と渋谷から見た東京展】を主宰として企画。塩江高松市美術館
2014年 10月 所幸則個展、【世界の時間と空間展】企画中 塩江高松市美術館
Museum furkunst und Gewewbe Hamburg:1点収蔵
神戸ファッション写真美術館:18点収蔵
2015年 6月 所幸則個展、アッシュぺーフランス丸の内ウインドウズギャラリーにて【アインシュタインロマン】
2015年 7月〜9月末 までESPACE KUU 空にて所幸則個展PARADOX-TIME【アインシュタインロマンスをめぐる冒険】
2016年 2月 所幸則写真展 Gallery TANTO TEMPO アインシュタインロマンス
作品[ソースを編集]
CHIAROSCURO 天使に至る系譜(美術出版社)
眠ル繭(ゲームキャラクターデザイン+ゲームデザイン)
日本現代写真史1945-95(文化庁)
キアロスクーロ(美術出版社)
YUKINORI TOKORO(用美社)
diva(リブロポート)
Saints and sinnerS(ぶんか社)
ワクワクの木(アゴスト)
幻想の世界の住人たち(Mac版自作、Windows版NEC)
夢みる廻廊(日本経済新聞社)
1sec One second 01
ONE SECOND vol.1 SHIBUYA (蒼穹舎)
アインシュタインロマン (蒼穹舎)
中山 ダイスケ(なかやま だいすけ、本名:中山大輔、1968年1月7日 – )は、現代美術家、デザイナー、舞台美術家、アートディレクター。dnSTUDIO代表、株式会社ダイコン代表取締役社長。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科非常勤講師。東北芸術工科大学デザイン工学部グラフィック学科教授。
人物
1968年(昭和43年)、香川県丸亀市に生まれる。1988年(昭和63年)から武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に学ぶが、1990年に中退した。その後は演出家・飴屋法水に師事したのち、現代美術作家として独立した。
1990年代中期には須田悦弘、中村哲也、小金沢健人、坂東慶一らと若手美術作家のグループ『スタジオ食堂』を結成し、様々なイベントやプレゼンテーションを行った。1997年から活動拠点をアメリカ合衆国に移し、翌1998年にはニューヨーク市のギャラリー 「ダイチ・プロジェクツ」において、日本国外における初めての個展を開いた。
美術作家として個展やグループ展を行いながら、ファッショショーの演出、舞台美術、店舗や商品のコンセプトメークなどを手がけ、講演やワークショップ活動も積極的に行っている。私生活では2002年(平成14年)12月に、女優の鶴田真由と結婚しており、スポーツ全般、特にサッカーのファンでもある。
受賞歴等
1997年 – ブランシェット・ロックフェラー・スカラシップ
1998年 – 第1回岡本太郎記念現代芸術大賞 準大賞受賞
2004年 – 「VOCA展2004」 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち 佳作賞受賞
主な個展
1998年 「Under the Table」ダイチ・プロジェクツ(ニューヨーク)
1999年 「FULL CONTACT」アイゲン・アート(ベルリン)
2000年 「FULL CONTACT」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川)
2004年 「Doze」児玉画廊(東京)
2005年 「Smells Like Rainbow」 ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡)
主なグループ展
1996年 「Discord sabotage of realities 」クンストハウス(ハンブルク)
1999年 「Pop Surrealism」オルドリッチ美術館( コネチカット、リッジフィールド)
2000年 リヨン・ビエンナーレ2000「exoticism」(フランス)
2002年 「現代美術への視点-連続と侵犯」東京国立近代美術館(東京)、国立国際美術館(大阪)
2004年 「DIVINE HEROES」 マイノリテン ギャラリー、 グラーツ(オーストリア)
2007年 「等身大の約束」MOTアニュアル 東京都現代美術館(東京)
速水 史郎(はやみ しろう、1927年 – )は日本の彫刻家。
香川県仲多度郡多度津町生まれ。徳島工業専門学校機械科(現・徳島大学工学部機械工学科)卒業。和瓦の技法を用いた黒陶と石彫の作家である。特に石彫は、モニュメンタルな作品やパブリックアートが多く、東京都庁や国立科学博物館などをはじめ全国100ヶ所を超えるパブリックスペース等に作品が設置されている。
また1996年に紫綬褒章、2005年度秋の叙勲において旭日小綬章を受章している。
理平焼(りへいやき)は香川県高松市で焼かれる陶器。高松焼ともいう。初代高松藩主、松平頼重が京都の陶工、森島作兵衛を招き焼かせた御庭焼がルーツとなっている。作兵衛が高松に在住した際に理兵衛と改名したため、理兵衛焼と呼ばれるようになった。
森島作兵衛の父は、森島重芳と言い、豊臣秀頼に千三百石で仕えていた武士であった。大阪の役で逃れて信楽に到り、その地で陶工を営む中国人の雲林院何某に会い、陶工を生業とするようになった。この子の作兵衛は京都の粟田口に移住し、在住の際、かの野々村仁清から陶器の技法を学んだ。そのため、高松仁清とも呼ばれるようになった。松平頼重は、若い頃、京都嵯峨に住んでいた。その時に、森島作兵衛を招いて器を作らせていた。頼重が高松藩主になった時、作兵衛を高松に招き、紀太理兵衞という名を藩主より賜った。
現在、理平焼と呼ばれるのは明治に入ってからで、栗林公園の北門前へ窯場を移転してからである。窯創設以来、一度も廃窯することなく、脈々と受け継がれ、現在は14代目である。
理平焼の特徴は土の性質によって生じる、藤色の器肌にある。また、京焼の流れを汲む蒔絵の技法を用いた作品も試みられている。
神懸焼
岡本焼
桐箱(きりばこ)とは、桐で出来た箱のこと。主に掛軸、骨董品、風鎮、数珠などを保管するのに使用される。
通常は箱と蓋とに分かれており、蓋はかぶせた時の箱との摩擦によってある程度固定され、更にその上から紐を掛けたり風呂敷で包んだりすることが多い。掛軸用の桐箱は中に軸受けを設けているものが大半で、骨董品の場合は桐箱に入れる前に袱紗(ふくさ)や黄袋などで包むこともある。また、軽くて湿気を通さないため、乾燥や湿気に弱い物品を保存するのに向いている。
茶道具の世界では桐箱に箱書きをすることによってそのものの価値が高まる場合がある。墨がにじまないという桐の特徴から、家元の書付、作家の箱書きにも多く用いられる。
特に有名な高級箱については京都が主産地である。
最近では高級なマスクメロンの梱包にも使われている。
讃岐桶樽
欄間彫刻
組手障子
志度桐下駄
肥松木工品
讃岐一刀彫
長火鉢
桐箱
讃岐提灯
高松和傘
一閑張・一貫張
香川竹細工
古式畳
御厩焼
神懸焼
岡本焼
讃岐装飾瓦
豊島石灯籠
庵治産地石製品
鷲ノ山石工品
打出し銅器
左官鏝
焼印
讃岐鍛冶製品
讃岐鋳造品
保多織
讃岐のり染
讃岐獅子頭
手描き鯉のぼり
金糸銀糸装飾刺繍
節句人形
高松張子
手描き讃岐絵凧
高松嫁入人形
張子虎
讃岐かがり手まり