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前田 昭博(まえた あきひろ、昭和29年(1954年) – )は、鳥取県出身の陶芸家、白磁作家。日本工芸会正会員。
1954年 鳥取県八頭郡河原町本鹿(現鳥取市河原町本鹿)に生まれる。
1977年 大阪芸術大学工芸科陶芸専攻卒業。
1991年 第11回日本陶芸展「毎日新聞社賞」受賞。
1993年 第48回新匠工芸展「富本賞」受賞
1999年 「日本の工芸(今)100選」展招待出品「パリ」
1999年 鳥取市文化賞受賞
2000年 第47回日本伝統工芸展「朝日新聞社賞」受賞
2003年 20回記念田部美術館大賞「茶の湯の造形」展大賞受賞
2003年 第2回京畿道世界陶磁ピエンナーレ銅賞受賞「韓国」
2003年 第50回日本伝統工芸展「第50回展記念賞」受賞
2004年 日本陶磁協会賞受賞
2005年 第60回新匠工芸展「60回記念大賞」受賞
2007年 紫綬褒章授章
2010年 鳥取県文化功労賞受賞
2012年 鳥取県指定無形文化財(陶芸)認定
2013年 国の重要無形文化財「白磁」保持者に認定(人間国宝)
大坂 弘道(おおさか ひろみち 1937年2月20日 – )は日本の木工芸家。重要無形文化財「木工芸」の保持者(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては6番目の認定者(1997年認定)。
概要
鳥取県出身。鳥取県立倉吉東高等学校、東京学芸大学卒業後、美術教師をしながら木工製作を独学。34歳にして木工芸家本橋玉斎に師事する。木工芸に限らずほとんどの人間国宝が家業として、あるいは子供のころから修業の道に入り、遅くとも大学・学校を卒業後直ちにその道に進んでいるのに比べ、大学卒業後しばらく公立学校教師についていた異例の人間国宝である。唐木指物などの木工画法を得意とし華麗な装飾が特徴である。複雑な文様の木画にさらに象牙や水晶、金銀などの材料を象嵌した技法は高度である。古代の木工品は複雑な文様のものが多く、そのため1980年には宮内庁から依頼を受け、1986年に正倉院宝物「紫檀木画箱」の複製を完成させる。
経歴
1937年 鳥取県倉吉市生まれ
1959年 東京学芸大学美術学科卒業後美術教師になる
1971年 本橋玉斎に師事。その後、氷見晃堂、竹内碧外にも師事
1978年 第25回日本伝統工芸展文部大臣賞受賞
1979年 第26回日本伝統工芸展日本工芸会総裁賞受賞
1997年 重要無形文化財「木工芸」保持者
1998年 紫綬褒章。
関係者
本橋玉斎 (師匠)
氷見晃堂(師匠)
竹内碧外(師匠)
伊谷 賢蔵(いたに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 – 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。
略歴
伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。
大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。
大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。
昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。しかし、いわゆる戦意高揚のための戦争画ではなく、大同石仏や中国の民衆の質朴な暮らしを描いた。
昭和20年(1945年)11月、向井潤吉らの画友とともに行動美術協会を創設して画壇で活躍する一方、京都学芸大学美術家主任教授、京都精華短大教授を歴任して後進の育成に当たった。
昭和28年(1953年)、朝夕の要綱に染められた九州の山々を取材し、悠久の自然と対話するうちに、情熱と気魄に満ちた赤褐色に到達。「伊谷レッド」と呼ばれるようになった。
昭和45年(1970年)3月27日永眠。代表作は「大山」「阿蘇」「桜島噴煙」など。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年 – 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民芸運動を支えた板画家である。
略歴
1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。
そのころに吉田璋也と出会い民芸運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。全国的に活動しながらも終生倉吉を本拠にし、鳥取県の芸術の振興に寄与した。2004年(平成16年)8月19日、敗血症のため死去。
作風
作品は墨一色から裏彩色、多色摺りまで多種多様であるが、いずれも明快かつ力強い表現で、河井寛次郎と棟方志功の影響を見て取れる。
備考[編集]
三朝バイオリン美術館の長谷川富三郎展示室
「打吹童子」レリーフ(打吹公園)
個人美術館 – 三朝バイオリン美術館
1959年、三朝町大沼小学校長
1961年、倉吉市立西郷小学校長
1974年、第一回日本海文化賞受賞
2003年、鳥取県文化功労賞受賞
日本版画院展審査委員長
日本版画院名誉会員
前田 寛治(まえた かんじ、1896年10月1日 – 1930年4月16日)は日本の洋画家。人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝し10年に満たない短い活動期間であったが、彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。 なお、名字の読みは「まえた」である。
略歴
1896年(明治29年)10月1日、鳥取県東伯郡北条町(現北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。1914年に倉吉中学(現倉吉東高等学校)を卒業。第三高等学校(現・京都大学)の受験に失敗して画家を志し、美術教師の中井金三に1年間絵を学ぶ。さらに上京して白馬会葵橋洋画研究所で学び、1916年に東京美術学校(現東京芸大)に入学を果たす。学校では長原孝太郎と藤島武二に師事する。一方で在学中の1920年、恩師中井をリーダーとする倉吉の文化団体「砂丘社」の創立より参加し積極的に同人展に出品する。1921年東京美術学校を卒業して研究所に進級、翌1922年から1925年までフランスに滞在し、パリの美術学校アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに籍を置いてクールベの写実主義を研究する。また、このフランス滞在中には同郷のマルクス主義理論家である福本和夫と交友を持ち、影響を受けたとされる[1]。帰国後、1926年にパリ時代の友人である佐伯祐三、里見勝蔵、小島善太郎たちと「1930年協会」を結成する。1928年6月に東京杉並区天沼にアトリエ兼自邸を建てて前田写実研究所を開設し、当地で後進達の指導をしつつ自身が目指す写実画の更なる探求をはじめる。帝展での特選を重ねて1929年に帝展審査員に選ばれ務めるが病に倒れ、都内の病院に入院する。その病室で絶筆となる大作「海」を完成させる。1930年4月16日、鼻孔内腫瘍により逝去。
個人美術館
鳥取県立博物館 – 作品43点を所蔵、常設展示室に寛治コーナー設置
倉吉博物館 – トリエンナーレ形式の指名公募展「前田寛治大賞展」を主催
木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 – 1951年4月24日)は日本の洋画家、およびHenry Y. Kiyamaのペンネームで主にアメリカ合衆国で活動した漫画家。鳥取県日野郡出身。
経歴
1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。また「New York Art Students League / ニューヨーク画学生連盟」から奨学金を獲得し、サンフランシスコで何度か個展を開催した。木山はサンフランシスコの日本人街である「シャッター通り」に自分のスタジオをオープンし、日本移民排斥の風潮が激化する1937年(昭和12年)まで在住した。同年日本に帰国し、再度の渡米を期すもののほどなく第二次世界大戦が勃発、木山は故郷の日野郡・根雨の旧制中学の絵画教師となって絵を描き続け、地域の文化振興に尽力した。出身地の鳥取県米子市で木山はいまだ郷土の先達の一人として記憶され、地元の美術館では不定期に木山の展示会が開催される。1951年(昭和26年)4月24日死去。66歳没。
作品
1927年(昭和2年)、日本に一時帰国していた際に木山は彼の実体験に基づいた、当時の日本人移民の生活を描く「The Four Immigrants Manga/漫画四人書生」を出版する。同作品はのちの再渡米時にアメリカでも発売されたが、これはアメリカにおける最初期の日本漫画に属する。当時の定価は3ドルで、彼自身が主要キャラクターの一人として登場する自伝的作品だった。その後木山の作品は長らく埋もれていたが、1980年前後にカリフォルニア州バークレーの大学図書館で漫画研究家のフレデリック・ショットが偶然に彼の作品を目にして翻訳を始める。1998年10月に、木山の作品は米国の Stone Bridge Press から「The Four Immigrants Manga: A Japanese Experience in San Francisco,1904-1924」として出版された。また2008年と2012年には日本語のオリジナル版が復刻されている。
内容
明治時代末期にあたる、19世紀末のサンフランシスコ港。日本から到着した移民船から、四人の日本人青年がアメリカに上陸した。
日本名はアメリカ人に発音が難しいため、当時の日本人移民は現地風の通名を持つことが多かった。四人はその慣習に従い、絵描き志望の「ヘンリー」をはじめ、それぞれ「チャーリー」「フランク」「フレッド」と名乗る。希望を抱いて新大陸に渡った彼らであったが、英語力の不足や習慣の違いから、次々と失敗して就職先を解雇されるなど苦闘を重ねる。ある時は日本海海戦の日本の大勝利を伝える新聞記事を読んで感慨にふけり、また1906年のサンフランシスコ地震、市民権獲得のための第一次世界大戦志願、反日移民法の成立など、史実に関する作者の体験をもとに、四人の運命は日米関係の変化につれ変転してゆく。物語は、努力の末に農場や青果店を手に入れ、結婚して現地に基盤を築いたチャーリーとフレッド、一方で日本に帰国することにしたヘンリーとフランクが、港で別れを惜しむ場面で終わる。
史実に基づけば、チャーリーやフレッドのような日本人移民はこの後の日米開戦に伴い、現地で長年苦労して手に入れた店舗や農場など、すべての不動産や資産を没収され、強制収容所に送られることになる。しかし開戦前に作者が日本に帰国したため、本作品には日本人移民の戦中戦後史は描写されていない。
その他
1999年4月、NHKが彼を題材として製作したテレビ番組「ヘンリー木山のサンフランシスコ日記」を放送した。
2009年、米国では漫画普及草創期の彼の功績を記念し、「今年最も功績のあったアジア系アメリカ人漫画家に贈られる賞」が「Henry Y. Kiyama Award(ヘンリー木山義喬賞)」と命名された。
平成24年、鳥取県日野町は木山の作品の維持管理及び同町の文化芸術振興を目的とする「木山義喬顕彰基金」を創設している。
因久山焼(いんきゅうざんやき)は、鳥取県八頭郡八頭町(旧・郡家町)にて焼かれる陶器。
概要
歴史は非常に古く、奈良時代から窯場が開かれていたと伝えられる。名は窯元が置かれていた久能寺の山号である因久山に因み、池田藩より名を拝領した。江戸時代の明和年間に、京の陶工、六兵衛が御室焼の技術を伝えたのが草創とされる。以後は池田藩の御用窯として庇護され、発展を遂げた。寛政年間には信楽から陶工を呼び、技術を採り入れている。現在は窯元こそ一つしか残っていないが、一度も廃窯することなく、連綿と技法が受け継がれている。
因久山焼の特徴は、多彩な釉薬にある。原料の粘土は鉄分を多く含むために、素地はくすんだ赤褐色気味だが、藁灰釉、辰砂釉などを用いることにより、格調高い意匠となる。特に御室焼の流れを汲んでいるために、華道の花瓶や一輪挿しなどに名器が多い。
牛ノ戸焼(うしのとやき)は鳥取県鳥取市河原町にて焼かれる陶器。
概要
天保年間に因幡の陶工、金河藤七によって開窯。その後は小林梅五郎に継承された。以後、二代、三代と徳利や擂り鉢などの日用雑器を焼いていくが、四代目の時に継続困難になる。しかし、民芸運動を行っていた吉田璋也、柳宗悦、バーナード・リーチらの激励、指導の甲斐あって窯を絶やすことなく、後に継がれている。トレードマークの梅紋は初代から継承されている刻印である。
牛ノ戸焼は「用の美」を追求した作品であり、芸術性より実用性において評価を得ている。しかし、素朴ながら緑と黒を半々に振り分けた釉薬はどこかモダンさを感じ、センスの高さを窺わせる。他にはイッチン描き(筒描き)も見られる。島根県の布志名焼や出西窯らと同様、民芸運動家たちの影響が強い焼き物である。
浦富焼
上神焼
法勝寺焼
土鈴(どれい)は、粘土を焼成して作られた土製の鈴。
縄文時代の遺跡や古代の祭祀遺跡から発見される。土笛や石笛と同様、小林達雄の定義する機能や用途が正確に特定できない「第二の道具」に属する楽器である。
縄文時代の土鈴には穴がまったくないものがある。穴がないと焼成時に中の空気が膨張して破裂することがあるが、内部を空洞にするため相対する半球を二つ作り、土製または小石、マメ類を用いた丸玉を内部に入れて密閉したと考えられており、粒の粗い砂のまじった粘土では砂粒の間から空気が自然と抜け、実験では焼成しても破裂しないことが確認されている。
そのほかに以下のような作り方もある。
粘土で鈴の中に入れる丸玉を作る。
その丸玉を枯れ草や新聞紙などでくるむ。
その上に粘土を貼り付けていって球形にし、一部分の粘土を取り除いて小さな孔や切れ込みをつくり、そこからは草や新聞が見えるようにする。この穴と切れ込みは、中にくるんだ丸玉より大きくてはいけない。
これを焼成する。中の小さな丸玉と外側の球形だけが土器として残り、枯草や新聞紙は灰として小さな孔や切れ込みから取り除くことができる。
こうして、中空の中に小さな丸玉が入った鈴ができあがる。鈴の孔や切れ込みは、音の響きを外にきかせる機能のほかに、こうした制作上の理由もあると考えられる。
郷土玩具や縁起ものとして江戸時代以降に作られている素焼きに絵付けをした土鈴もある[1]。この場合は、量産するため、あらかじめ中空になるように考えて作った型を半分に割った2つの木型に粘土を押し付けて外身をつくり、ある程度乾燥させてから中に丸玉を入れて貼りあわせ、そして焼成して鈴の形状が作られる。
鳥取県
牛ノ戸焼
因久山焼
上神焼
黒見焼
福光焼
倉吉絣
綾綴織
染物(筒書き)
大山友禅
木彫十二支
北條土人形
桜独楽
若桜凧
はこた人形
流しびな
きりん獅子
土鈴
竹細工
鹿野菅笠
淀江傘
挽物・刳物・指物
岩井挽き物細工
桐下駄
額縁
精霊舟
欄間彫刻
鍛製品(包丁、鎌、鍬、鋤、斧)
和太鼓