高価買取NO1・満足度NO1に挑戦中!!
骨董品・美術品などの買取販売は新原美術にお任せください。
どこのお店より高価買取に自信があります!!
まずはお気軽にお電話ください。 新原美術 電話0766−22−7303
鹿児島県 かごしまけん
鹿児島市 かごしまし
鹿屋市 かのやし
枕崎市 まくらざきし
阿久根市 あくねし
出水市 いずみし
指宿市 いぶすきし
西之表市 にしのおもてし
垂水市 たるみずし
薩摩川内市 さつませんだいし
日置市 ひおきし
曽於市 そおし
霧島市 きりしまし
いちき串木野市 いちきくしきのし
南さつま市 みなみさつまし
志布志市 しぶしし
奄美市 あまみし
南九州市 みなみきゅうしゅうし
伊佐市 いさし
姶良市 あいらし
鹿児島郡 かごしまぐん
三島村 みしまむら
十島村 としまむら
薩摩郡 さつまぐん
さつま町 さつまちょう
出水郡 いずみぐん
長島町 ながしまちょう
姶良郡 あいらぐん
湧水町 ゆうすいちょう
曽於郡 そおぐん
大崎町 おおさきちょう
肝属郡 きもつきぐん
東串良町 ひがしくしらちょう
錦江町 きんこうちょう
南大隅町 みなみおおすみちょう
肝付町 きもつきちょう
熊毛郡 くまげぐん
中種子町 なかたねちょう
南種子町 みなみたねちょう
屋久島町 やくしまちょう
大島郡 おおしまぐん
大和村 やまとそん
宇検村 うけんそん
瀬戸内町 せとうちちょう
龍郷町 たつごうちょう
喜界町 きかいちょう
徳之島町 とくのしまちょう
天城町 あまぎちょう
伊仙町 いせんちょう
和泊町 わどまりちょう
知名町 ちなちょう
与論町 よろんちょう
≪取扱い商品≫
日本画/洋画/版画/掛軸/屏風/茶道具/古陶磁器/古伊万里/鉄瓶/銀瓶/象牙/貴金属/金/プラチナ/ガラス/ランプ/古時計/根付/印籠/きせる/蒔絵物/酒器/塗物/古酒(洋酒類)/西洋陶器/高級家具/和箪笥/桐箪笥/水屋/火鉢/刀剣/鍔/小道具/仏教美術/人形/古おもちゃ/アンティーク/着物/贈答品/楽器/美術、新作工芸、美術工芸品、掛け軸、人間国宝作品、日本陶磁器、中国陶磁器、彫刻、蒔絵、屏風、古銭、版画、古書、書画/リサイクル品
即現金買取 秘密厳守 無料査定・無料見積いたします。押入れや物置に眠っている品物を高く売りたい方、お気軽にお電話ください!! どこよりも高く買い取る自信があります!!
鹿児島県全域主張買取致します。
お気軽にお電話ください。
買取販売
新原美術 店主 0766−22−7303
下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!
鹿児島寿蔵
紙塑人形作家・歌人。福岡県生。博多人形師有岡米次郎に師事。紙塑人形を独創し、日本紙塑芸術研究所を開き、人形美術団体甲戌会を結成。またアララギ派の歌人としても知られ、島木赤彦・土屋文明に師事、歌誌「潮汐」を創刊、歌集に『魚鱗』『故郷の灯』等。人間国宝。昭和57年(1982)歿、83才。
黒田 清輝(くろだ せいき、1866年8月9日(慶応2年6月29日) – 1924年(大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、政治家。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は子爵。通称は新太郎(しんたろう)。名の清輝は、本名は「きよてる」だが、画名は「せいき」と読む。教え子からは「メートル(先生)」(maître)とフランス語で呼ばれた。
東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した。
来歴
生い立ち
薩摩国鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)出身。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、のちに伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子となる。1872年(明治5年)に上京し、平河小学校(現麹町小学校)に入学。小学校では巌谷小波と友人であった。卒業後は漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)に通う。1878年、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。上級学校進学を意識し、当時の受験予備校であった共立学校、すぐに築地英学校に転校、その後は東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。
美術家として
1891年には『読書』、1893年には『朝妝』(ちょうしょう)がフランスの展覧会で入賞した。同年、アメリカ経由で帰朝すると、美術教育者として活躍する。1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させた。1895年にはフランスで入選した全裸で立つフランス女性を描いた『朝妝』を内国勧業博覧会に出展して論争を呼ぶ。1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。1898年、東京美術学校教授に就任。1900年10月、白馬会展に全裸の裸婦を描いた『裸体婦人像』を展示して、警察に咎められ、絵の下半分が布で覆われる「腰巻事件」が起きる。1910年10月18日には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1917年には養父の死去により子爵を襲爵する。第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選し、1920年に貴族院議員に就任している。
1924年、尿毒症のため死去。
「構想画」をめざして
裸体画の大作である『朝妝』(焼失)は、黒田がパリを去る直前の1893年に制作された。本作品はパリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得、日本では1894年の第6回明治美術会に出品された。しかし、翌1895年の第4回内国勧業博覧会(京都)ではこの作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展した。当時の日本では本作のような裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったのである。
滞欧から帰国後の黒田やその周辺の画家たちは「新派」と呼ばれ、それ以前の、明治初期以来の洋画家たちは「旧派」と呼ばれた。あるいは、前者を、陰影を黒でなく紫で描くところから「紫派」、後者を「脂(やに)派」と呼んだりもした。しかし、黒田自身はこうした「新派」「旧派」といったレッテル貼りには批判的であった。黒田は1903年に次のように述べている。
わが洋画家が近来の作品を実見しかつ其挙動を窺がうのにイヤ紫がどうだとか、或いは黒ッぽいの白ッぽいのとわけも無く騒ぎ廻って、その色の如何によつて彼は新派なり、渠(かれ)は旧派なりなどとの名称を下してゐるが、僕などは斯んな解らない馬鹿げた話は無いと思つてゐる。(中略)
畢竟新派と号づけられ、旧派と称せられるも或る物を捉へて或る物を現はさんとする其手段方法の用具に基いて命名されたもの、即ち形式上の甲乙に過ぎないのである。(中略)
外形を装飾せんが為めの色の遣ひ方のみに気を揉んで、其画の根蒂たる精神と云ふ事に就て余り深く顧る者の多からぬのは、僕等の大いに憂ひとする所である。(「日本現今の油画に就て」『美術新報』1巻23号、1903年2月20日)
黒田のいう「画の根蒂たる精神」とは、作画の根本に存在すべき思想的骨格を指す。黒田は、絵画は単なるスケッチではなく、確固たる構想を備えたコンポジション(構想画)でなければならないと考えており、こうした構想の重要性こそが、黒田が西洋絵画から学び、日本へ移植しようと努めたものだった。黒田の帰国後の作品である『昔語り』(1898年、焼失)はこうした構想画への取り組みの一つであり、『智・感・情』(1899年)は、女性裸体像を用いて抽象的な概念を表した寓意画である。しかしながら、こうした構想画は日本の土壌にはなかなか根付かなかった。美術史家の高階秀爾は、黒田自身の作品においても、『昔語り』『智・感・情』あたりを最後として、構想画への試みは挫折し、自然なスケッチ風の画風に回帰していったことを指摘している。いずれも黒田の代表作である『智・感・情』と『湖畔』はともに1897年の第2回白馬展出品作であるが、前者が無背景の地に理想化された女性像を描いた寓意画であるのに対し、後者は夫人をモデルにしたスケッチから出発した作品がそのまま完成作になっている。両作品はともに1900年のパリ万国博覧会に出品されたが(『智・感・情』は1899年に加筆)、博覧会で銀牌を得たのは構想画である『智・感・情』の方だった。次に引用する黒田自身の言葉にみられるように、画家本人は晩年に至っても「スケッチ」と「画」とを明確に区別し、「スケッチ」の域を脱して「画」を描きたいと願っていた。
私の欲を言へば、一体にも少しスケッチの域を脱して、画と云ふものになる様に進みたいと思ふ。(中略)どうしても此のスケッチ時代を脱しなければならん。今の処ではスケッチだから、心持が現はれて居るが、スケッチでない画にも、心持を充分に現し得る程度に進みたい。私自身も今迄殆どスケッチだけしか拵へていない。之から画を拵へたいと思ふ。(『美術』創刊号、1916年)
顕彰
黒田記念館
黒田の遺言には、遺産を美術の奨励に役立てるようにと記されていた。この遺志に基づき黒田記念館が建設され、館内には遺作を展示する黒田記念室が設けられるとともに、帝国美術院附属美術研究所が同館に設置された。その後、帝国美術院附属美術研究所は、東京文化財研究所に改組された。2007年より、国立文化財機構が運営する東京国立博物館によって管理されている。
出自
黒田家は本姓佐々木源氏で、福岡藩藩主家黒田家の遠縁にあたるが、清輝の先祖で薩摩藩史上で名が知られるのは黒田嘉右衛門が記録奉行や蒲生郷地頭(現在の鹿児島県姶良市)に就任したあたりからで、その弟で養子の黒田才之丞は近思録崩れの最中に山本伝蔵の後任として教授になり、兄の死後に帖佐郷地頭に任じられる。その子新之亟(嘉右衛門とも)は記録奉行を勤め、新之亟の次男が清輝の父である。
栄典
1915年(大正4年)11月29日 – 勲四等瑞宝章
1923年 – コマンドゥールレジオンドヌール勲章。
1924年 – 従三位。
1924年 – 勲二等旭日重光章。
作品[ソースを編集]
『智・感・情』(右から「智」「感」「情」)
『湖畔』(1897年)
アトリエ(1890年、鹿児島市立美術館)
読書(1892年、東京国立博物館)
舞妓(1893年、東京国立博物館、重要文化財)
朝妝(ちょうしょう)(1895年、焼失)
湖畔(1897年、黒田記念館、重要文化財) – モデルは友人の画家安藤仲太郎が紹介した芸者で、当時23歳の金子種子。のちに清輝の妻となり照子と改名した。縦69cm×横84.7cm。描かれた地点は、箱根芦ノ湖の観光船の乗り場や箱根駅伝スタート地点のすぐ近くである。
夕陽(1898年、豊橋市美術博物館)
昔語り(1898年)(完成作は消失、下絵と画稿のみ残る)
智・感・情(1899年、東京国立博物館黒田記念館、重要文化財)
花野(1907年 – 1915年、東京国立博物館黒田記念館)
野辺(1907年、ポーラ美術館)
桜島爆発図(1914年、鹿児島市立美術館) – 桜島の爆発を描いた。
梅林(1924年、東京国立博物館黒田記念館) – 絶筆。
東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 – 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。
なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている。 ダンディで社交的であったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人のひとり、作家の宇野千代の『色ざんげ』は、東郷をモデルにしている。
1897年(明治30年) – 鹿児島市に生まれる。幼少時に一家は東京に転居。余丁町小学校では林武と同級。
1914年(大正3年) – 青山学院中等部を卒業。青児の名前の由来はここからきていると言われている。このころ日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。
1915年(大正4年) – 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作。日比谷美術館で初個展、この頃有島生馬を知り、以後師事。
1916年(大正5年) – 第3回二科展に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞。
1920年(大正9年) – 永野明代(はるよ)と結婚。
1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)までフランスに留学。リヨン美術学校に学ぶ。この頃の作品には、ピカソらの影響が見られる。長男の志馬誕生。
1928年(昭和3年) – 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。
1929年(昭和4年) – 既婚のまま2月に中村修子と結婚披露宴を挙げ、3月に愛人の西崎盈子(みつこ)とメスで頸動脈を切り、ガス自殺をはかったが、救出される。宇野千代と同棲を始める(宇野の『色ざんげ』は東郷をモデルにした主人公が自らの情死未遂事件を語るというもので、のちに東郷は「この作品は最後の一行まで僕の話したことだ」と語っている)。
1930年(昭和5年) – ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳、白水社より刊行。
1931年(昭和6年) – 二科会入会。
1933年(昭和8年) – 宇野千代と別れ、妻の明代とも離婚。情死未遂事件の相手、みつ子と翌年結婚。
1938年(昭和13年) – 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。
娘・たまみ(1954年)
1940年(昭和15年) – みつ子との間に長女、東郷たまみ(のちに水谷八重子、朝丘雪路とトリオを組んで歌手デビューし、その後画家になり、二科会会長も務める)誕生。
1957年(昭和32年) – 岡本太郎と共に日活映画『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)。日本芸術院賞受賞。
1960年(昭和35年) – 日本芸術院会員。
1961年(昭和36年) – 二科会会長に就任。
1969年(昭和44年) – フランス政府より芸術文化勲章(オフィシエ)を授与される。
1976年(昭和51年) – 勲二等旭日重光章授与。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)が開設。
1978年(昭和53年) – 4月25日、第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去。没後、文化功労者、勲二等旭日重光章、正四位追贈。
1983年(昭和58年) – 娘・たまみが艶福家であった父の性愛日記を公開[8]。同年、読売新聞の東郷番記者だった田中穣も伝記を出版し、夢二の妻たまきとの関係や二科会での帝王ぶりなどに触れた。
著書
『半未亡人』新太陽社 1948年
『ロマンス・シート』出版東京 1952年
『恋愛散歩』鱒書房 1955年
『いろざんげ』河出書房 1956年
『新男女百景』東西文明社 1958年
『私の奇妙な友人たち』山王書房 1967年
『東郷青児―他言無用』日本図書センター 1999年(73年刊「他言無用」の改題)
画集・評論等
『画集 東郷青児』 毎日新聞社、1971年
『美術特集 東郷青児』 アサヒグラフ別冊 1977春、朝日新聞社、1977年
田中穣著『心淋しき巨人 東郷青児』新潮社 1983年
『生誕100年記念 東郷青児展 図録』 産経新聞社、1998年
中島啓子編 『東郷青児作品集』 損保ジャパン東郷青児美術館、2003年
野崎泉編 『東郷青児 蒼の詩 永遠の乙女たち』 河出書房新社、2009年、ISBN 9784309727660
演じた俳優
生きて行く私(1984年4月4日 – 6月27日 毎日放送)東郷青児役:津川雅彦。
衝撃!女たちは目撃者 歴史サスペンス劇場〜誰も真似できない女のスゴイ生き方SP! (2009年8月18日 日本テレビ) 内の宇野千代編に登場。 東郷青児役:鈴木一真。宇野千代役は北川弘美。
TAROの塔(2011年3月12日 NHK土曜ドラマ)東郷青児役:中尾彬。
出典
^ テレビ東京「美の巨人たち」2004年4月10日放送
^ 野崎泉編『東郷青児 蒼の詩 永遠の乙女たち』p42、 また、「喙(くちばし)が青い」という意味も込められているという
^ a b c d e f g h i 野崎泉編 『東郷青児 蒼の詩 永遠の乙女たち』 年譜
^ 澤地久枝『完本 昭和史のおんな』文藝春秋
^ Art Access
^ 宇野千代『色ざんげ』論荒井真里亜
^ 「東郷たまみ略歴」ギャラリー夏目
^ 「父・東郷青児の性愛日記を公開(手記=東郷たまみ)」PENTHOUSE 1983.12号
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、東郷青児に関連するカテゴリがあります。
美術家
東郷たまみ- 長女
丸栄 – 本店のエレベータドア表面に描かれている絵画に採用されている。(「美の巨人たち」バックナンバーにその記述がある )
山形屋 – 本店2号館6階に東郷の絵画が描かれている。
林武- 同級生
宇野千代
藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) – 1943年(昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家である。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
略歴
薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩藩士の家に生まれた。はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。1896年(明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。本郷駒込曙町(現・本駒込1丁目)で画塾も開いていた。1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。ただし、パリからローマに移った直後の事故で、フランス時代の作品の大半を失っている。帰国後、教授に就任する。
黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。
1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。
晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年(昭和9年)12月3日帝室技芸員[2]。1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。
代表作
『天平の面影』 石橋美術館(1902年)
『池畔納涼』(1897年(明治30年)) 東京芸術大学大学美術館所蔵
『天平の面影』(1902年(明治35年)) 石橋美術館所蔵(重要文化財)
『蝶』(1904年(明治37年)) 個人蔵
『黒扇』(1908年(明治41年) – 1909年(明治42年)) ブリヂストン美術館所蔵(重要文化財)
藤島の女性像の代表作とされ、最もよく知られた作品の一つであるが、作品の評価や名声ほどには制作の状況やモデルなどの資料は残っていない。弟子の小堀四郎の述懐では、晩年病床の藤島の代わりに小堀がアトリエを片付けていると、物見台に上る階段の裏に、他の物が被さった下でピンで止められていたのを見つけ出したという。半ばこの作品を忘れていた藤島もこの再発見を喜び、早速枠張りしてニスを塗り直し、枕元に置いて楽しんだという。作品の公開も1942年9月の新制作派協会第7回展での特別出品がおそらく最初で、画面左上のサインもこの時のものである。一度は石橋正二郎に散逸するのを恐れて「黒扇」など滞欧期の作品15点をまとめて買い取ってもらったが、3日ほどであの絵がないと寂しくて寝られないから返してもらった、という逸話が残っている。その1年後、再び石橋の手に戻り、ブリヂストン美術館に収められた。
『婦人半裸像』(1926年(大正15年))
『芳蕙』(1926年)個人蔵
『大王岬に打ち寄せる怒濤』(1932年(昭和7年)。同名を2枚作成し、三重県立美術館・ひろしま美術館所蔵)
『旭日照六合』(1937年(昭和12年)) 三の丸尚蔵館所蔵
著書
西洋画實習法 (二松堂書店 1927年3月)
画集をかねた新洋画の描き方 (資文堂 1933年)
解剖応用 人物画法 (崇文堂 1941年)
藤島武二のことば (三輪鄰編 美術出版社 1951年)
芸術のエスプリ (中央公論美術出版 1982年2月)
画集
藤島による与謝野晶子『みだれ髪』の表紙装画(1901年)
藤島武二画集 (藤島武二画集編纂事務所 東邦美術学院 1934年)
藤島武二画集 (岩佐新、長谷川仁編 藤島武二画集刊行会 1943年)
藤島武二 (美術出版社 1955年)
藤島武二 (美術書院(日本百選画集) 1957年)
藤島武二 (隈元謙次郎著 日本経済新聞社 1967年)
現代日本美術全集 7 青木繁・藤島武二 (集英社 1972年)
日本の名画 31 藤島武二 (岡畏三郎編著 講談社 1973年)
日本の名画 6 藤島武二 (編集:酒井忠康 中央公論社 1976年)
藤島武二 (新潮社(新潮日本美術文庫) 1998年1月)
藤島武二画集 (日動出版部 1998年9月)
展覧会図録
藤島武二遺作展覧会目録 (岩佐新編 藤島武二遺作展覧会事務所 1943年)
藤島武二 (ブリヂストン美術館(美術家シリーズ) 1958年)
藤島武二展 生誕百年記念 (ブリヂストン美術館ほか 1967年)
藤島武二展 (日動画廊 1977年)
藤島武二展図録 (三重県立美術館、神奈川県立近代美術館編 東京新聞 1983年4月)
藤島武二展 近代洋画の巨匠 (京都市美術館 京都新聞社 1987年)
知られざる藤島武二展 大川榮二コレクションによる (神奈川県立近代美術館 1987年頃)
藤島武二展図録 (東京都庭園美術館 美術館連絡協議会 1989年頃)
藤島武二展 (石橋財団ブリヂストン美術館 2002年頃)
師・藤島武二 藤島武二の素描と彼をめぐる画家たち (大川美術館(企画展) 2008年10月)
橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)[1]12月21日 – 1921年(大正10年)2月24日)は明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「現代の歌麿」と形容された美人画を残している。
人物
「浴場の女」 木版 紙、大正4年(1915年)
かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。少年時代は狩野派の絵を学んだが、1899年(明治32年)、数え19歳の時、画家を志して兄たちを頼り上京し、橋本雅邦に学ぶ。翌1900年(明治33年)第8回絵画共進会に橋口五葉の名で日本画3点を出品(現在全て所在不明)するが、遠縁の黒田清輝の勧めで東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備課程甲種に入学、翌年本科に入学。同学年選科に和田三造、二年選科に青木繁、熊谷守一、橋本雅助、らがいた。在学中から展覧会へ出品、挿絵などで活躍しており、1905年(明治38年)に東京美術学校を首席で卒業した。
「化粧の女」 木版 紙、大正7年(1918年)
雑誌『ホトトギス』の挿絵を描いていた事や、五葉の長兄が熊本の第五高等学校で教え子だった関係で夏目漱石と知り合い、1905年(明治38年)、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼される。以来『行人』まで漱石の著作の装幀は五葉がつとめることになる。漱石以外にも、森田草平、鈴木三重吉、森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の作品の装幀を手がける。1911年(明治44年)、籾山書店の企画した叢書のためのデザインは、大正2年まで24もの名作の表紙を飾ることになる。その蝶をモチーフにあしらったデザインのために胡蝶本と愛称された。その他イラストでも活躍し、1911年(明治44年)「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。この作品は、元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描いており、江戸回顧及びアールヌーボーの流行を反映している。
「温泉宿」木版、紙、大正9年(1920年)完成は昭和27年(1952年)。五葉の甥・橋口康雄が主版のみ完成していた本作に、多色刷りを加えて版画化した作品。そのため、五葉生前の作に比べると印象がやや異なる。
1915年(大正4年)、渡辺庄三郎を版元とする新版画の運動に参加、渡辺版画店より木版画「浴場の女(ゆあみ)」を制作版行。その後、喜多川歌麿、鈴木春信などといった浮世絵の研究に熱を入れており、春信美人画の複製、『保永堂版東海道五十三次』の復刻などを行った。その一方でモデルを雇い、裸婦素描を繰り返し描いている。後に散逸、多くは外国へ流出してしまったが、その総数は3000点にのぼるといわれる。五葉はモデルに同じポーズを取らせ繰り返し描くことで、修正と純化を進め、版画へおこすべくただ一本の墨線へ纏め上げていく。その成果が結実したのが1918年(大正7年)からの私家版木版である。代表作として、「髪梳き」、「手鏡」、「手拭いを持つ女」、「夏装の女」、「かがみの前」などがあげられ、歌麿の美人大首絵を学び背景を雲母で塗りつぶす伝統技術をよく生かして、肉体表現に新しい感覚をみせた。なかでも、1920年(大正9年)版行の「髪梳き」には、青木繁の感化からロセッティらのラファエル前派の影響がみられ、油絵を学んだことが木版の上に新ロマン派の傾向及び写実的な影を落としている。浮世絵の美に惹かれ、その研究にも打ち込みながら、同年、独立して、一連の大判美人画、風景画を制作し始めるも翌1921年、10数点の作品を残したのみで、中耳炎から脳膜炎を併発し急逝する。享年は数えで41。墓所は鹿児島市郡元町の市営露重墓地。
代表作
「浴後の女」 木版 紙、大正9年(1920年)
「孔雀と印度女」 個人蔵(鹿児島県歴史資料センター黎明館寄託) 油彩・キャンバス(二枚折衝立、1907年) 東京勧業博覧会図案部2等賞牌受賞
三越呉服店主催懸賞広告画「西洋画図案此美人」(1911年)
『三味線堀』(籾山書店、胡蝶本第1冊目)『銀鈴集』(隆文館、函の装幀としての代表作)(1911年、ともに泉鏡花著)
「黄薔薇」 個人蔵 紙本著色(1912年)无声会第12回展出品
「耶馬溪」木版画 江戸東京博物館など所蔵 1918年(大正7年)
「化粧の女」 木版画 1920年(大正9年)
「髪梳ける女」 木版画 江戸東京博物館など所蔵 1920年
「浴後の女」木版画 1920年
著作
『浮世風俗やまと錦繪』(1917年(大正6年))
『歌麿筆浮世繪』(岩波書店)(1919年(大正8年))
出典
^ 五葉の生年については、明治13年説と明治14年説がある。明治13年説は、五葉没後の一部の年譜や展覧会パンフレットに記載され、それが踏襲されたためである。しかし、五葉存命中の美術家録では全て明治14年であり、没後発行の人名録でも同様なことから、明治14年(1881年)生まれのほうが正しいと考えられる(『生誕130年 橋口五葉展』図録、2011年、184頁)。
近年の文献
『浮世絵芸術23号 橋口五葉五十年記念展』、1969年(昭和44年)(浮世絵芸術データベースで閲覧可能)
『定本橋口五葉』 ノーベル書房、1977年(昭和52年)
岩切信一郎 『橋口五葉の装釘本』 沖積舎、1980年(昭和55年)
吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年
吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年
『橋口五葉展』図録、小田急美術館、呉市立美術館、大丸ミュージアム梅田、鹿児島市立美術館、1995年(平成7年)
『よみがえる浮世絵 うるわしき大正新版画展』 東京都江戸東京博物館編、東京都江戸東京博物館 朝日新聞社、2009年
『生誕130年 橋口五葉展』図録、千葉市美術館、北九州市立美術館分館、鹿児島市立美術館、2011年(平成23年)
和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 – 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家・教育者。東京美術学校校長(1932年-1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂。
経歴
幼年期
1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった。英作は三男四女の長男である。
3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ。父親は海軍兵学校で英語の教員を務める。5歳だった1879年にはスコットランド一致長老教会のヒュー・ワデルから小児洗礼を受けた。1880年には麻布学校初等科に入学、1883年には麻布学校中等科に進学したが、1884年には東京府立芝区鞆絵小学校に転校し、1887年に鞆絵小学校高等科を卒業した。
青年期
和田が師事した黒田清輝
1887年には白金の明治学院予科に入学し、上杉熊松に洋画の基礎を学んだ。明治学院の同級には三宅克己、先輩には島崎藤村がいた。内国勧業博覧会で原田直次郎や曽山幸彦の絵を見たことで本格的に洋画を学ぶことを決め、1891年には明治学院を中退。上杉の紹介で曽山の洋画塾に入塾、同門には岡田三郎助、中沢弘光、三宅、矢崎千代二がいる。1892年には曽山が死去したため、原田直次郎の洋画塾・鍾美館に移り、1893年にはその傍らで久保田米僊に日本画を学んだ。
1894年には原田が病気療養に入ったため、同年秋には外光派の黒田清輝が開設したばかりの天真道場に移った。1894年には黒田が日清戦争に従軍しているため、実際には久米桂一郎の指導を受けている。1895年には第4回内国勧業博覧会に「海辺の早春」を出品して2等賞を得ており、この作品は久米の作風に近い印象派的な風景画の要素を持っている。1896年には白馬会の結成に参加。
卒業制作の『渡頭の夕暮』1897年, 東京藝術大学大学美術館蔵
東京美術学校(現・東京芸術大学)に西洋画科が開設されると、黒田の西洋画科教授就任にともなって、藤島武二・岡田三郎助とともに助教授に就任。これはヨーロッパ留学を見据えた一時的な人事であり、実際には生徒として黒田の指導を受けた。しかし助教授という立場で指導を受けることに気まずさを感じ、1897年2月には助教授を辞した。
岡倉天心校長の取り計らいによって、生徒として西洋画科選科第4年級に編入学。すぐに卒業制作の創作を開始し、初の大作でありその後も代表作となる『渡頭の夕暮』を書きあげた。この作品は多摩川の矢口の渡しの一場面を描いたものであり、黒田の『昔語り』やフランス人風景画家のジャン=シャルル・カザン(英語版)の影響が指摘される。翌1898年9月に自然主義作家の田山花袋が『新小説』に発表した『渡頭』は、和田の『渡頭の夕暮』から着想を得た作品である。
4年生は和田ただひとりであり、1897年7月には西洋画科初の卒業生となっている。10月には無給で西洋画科の教場助手となり、再び黒田らの指導を受けた。1896年から1897年には芝区愛宕町に住んだ。
ヨーロッパ留学
パリのアカデミー・コラロッシュ
1898年には麻布区市浜衛町に転居。絵の道に自信を失って自殺も考えたが、静岡県安倍郡清水町に赴いて写生に打ち込むうちに意欲を取り戻した。日本美術の研究のためにベルリン美術館のアドルフ・フィッシャーが訪日すると、1898年9月以降には黒田の紹介でフィッシャーに付き添い、約半年間かけて近畿・九州・北陸などを巡った。
1899年5月にはフィッシャーから日本美術の作品目録作成を依嘱され、神戸港から日本郵船の備後丸でドイツに渡り、ベルリン公使の井上勝之助の邸宅に居候した。1900年3月には文部省留学生としてパリに留学。アカデミー・コラロッシュ(英語版)ではラファエル・コランに木炭画と油絵を、ウジェーヌ・グラッセに装飾美術を学んだ。同年のパリ万国博覧会には旧作『渡頭の夕暮』と『機織』を出品し、前者で選外佳作賞を受けた。
1901年10月から1902年3月まで、約半年間パリ郊外のグレ=シュル=ロワンに暮らし、浅井忠と共同生活を行った。この時期には絵画だけでなく図案・漫画・表紙絵・俳句などの創作も行っており、黒田、岡田三郎助、浅井、竹内栖鳳らとともに同人誌『パンテオン会雑誌』の編集にも携わっている。留学時代には充実した創作活動を行い、アカデミックな洋画描法を習得した。1903年1月から2月にはルーブル美術館に足しげく通い、ジャン=フランソワ・ミレーの『落穂拾い』を模写した。1903年には1か月半かけてフランスとイタリアを巡歴し、1903年7月に日本に帰国すると、東京美術学校教授に就任した。1903年には第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品して2等賞を得ている。
日本帰国後
『おうな』1908年, 東京国立近代美術館蔵
1904年にはセントルイス万国博覧会に『風景』を出品。1907年には東京府勧業博覧会審査員、第1回文展審査員、文部省美術審査委員会委員となり、33歳だったこの年には高橋滋子と結婚した。1908年には第2回文展に『おうな』を出品。春先から準備を進めた労作だったが、「和田氏はたしかに老耄の氣味がある、然らざれば餘りに無研究な畫だと思ふ、もし是でも研究があつたとすれば、其は餘りに皮相な研究である、色に於て形に於て、殊に顔面の陰の部分の透明性な色調に於て、(一寸透明に見えると感じたまゝで塗つてある、そして其以上に何ものをも見てない)」との酷評もあった。
1910年には東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となった。1911年には日本発の純洋式劇場である帝国劇場(同年開館)にて、客席天井に天女の壁画を製作した。1912年に第6回文展に出品した『H夫人肖像』は概して高評価を得たが、夏目漱石は「和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同様甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮られた暗い室内の事だから光線が心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのではなくって、H夫人の顔が生れ付暗い様に塗ってあるから気の毒である」と評している。
和田が原画を担当したステンドグラスが印象的な慶應義塾図書館・旧館
1914年には東京大正博覧会の審査官となり、また赤坂離宮と東京駅の壁画を製作した。前年に赤坂離宮東の間の壁画制作依頼を受けていた和田は、紙巻煙草の高級産地であったエジプト・カイロ近郊の風景を題材とし、1914年7月に壁画を完成させた。この壁画は内装との調和性が傑作と称えられている。同年に開業した東京駅(中央停車場)帝室用玄関には、黒田の下絵を基にして和田が日本の産業を主題とする『海陸・殖産・興業』の大壁画を製作した。この壁画は太平洋戦争時に焼失している。慶應義塾図書館・旧館の階段正面に施されたステンドグラスは和田が原画を、小川三知が製作を担当し、1915年に完成した。慶應義塾大学図書館・旧館は太平洋戦争で焼失したが、小川の助手であった大竹龍蔵によって1974年にステンドグラスが復元された。
1914年には勲六等瑞宝章を受章。1919年には帝国美術院の会員となった。同年には慶應義塾大学に福沢諭吉演説像を製作し、三田大講堂の中央壁面に掲げられたが、この像は太平洋戦争時に焼失している[22]。1937年には松村菊麿がこの像を模写しており、1960年に慶應義塾に寄贈されて三田演説館の演台に展示されている。和田は父親から聞いた話を基にして腕組みをした福沢の姿を表し、このポーズは今日まで福沢のイメージとして親しまれている。
1921年4月22日には日仏交換展の代表使節に命じられ、アメリカ経由でパリに渡る。勅任官としてフランス官設美術展覧会に日本美術を出品する活動を行い、1922年9月に日本に帰国した。1922年には勲四等瑞宝章を受章。1923年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受けた(1928年に受章)。同年にはフランス美術展の準備委員、第2回朝鮮美術審査委員会の委員となった。1925年には鹿児島県庁舎の落成を記念して『富士(河口湖)』を鹿児島県に寄贈している。
東京美術学校校長
『憲法発布式』1936年, 聖徳記念絵画館蔵
30年以上東京美術学校校長を務めた正木直彦が1932年に辞任すると、和田が後任の校長に就任。美術家出身の東京美術学校長は和田が最初にして最後である。東京美術学校では刑部仁や野口謙蔵などの後進を育てている。1933年には史蹟名勝天然記念物調査委員会の委員となった。1934年12月3日には帝室技芸員に命じられた。1936年には妹であるチマと青山彦太郎の息子青山新、新の妻青山茂と養子縁組を結んだ。
1936年には平生釟三郎文部大臣によって帝国美術院の再改組が行われたが、和田ら14人の連署によってこの再改組に反対し、帝国美術院会員と東京美術学校長を辞した。校長退任後には従三位に叙せられ、東京美術学校の名誉教授となっている。同年には明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に壁画『憲法発布記念式』を完成させ、さらには宮内省の命による『山本内閣親任式』を製作した。『憲法発布式』は今日の日本の歴史教科書に掲載されている。『山本内閣親任式』は1936年9月1日に昭和天皇に献上され、昭和天皇が暮らす吹上御所(吹上大宮御所)の大広間に掛けられた。
1937年に帝国美術院が廃止され、帝国芸術院が設立されるとその会員となった。同年にベルリン国立博物館のオット・キュンメル(ドイツ語版)が日本を訪れた際には、外務大臣官邸での茶会に招待された。1940年から1943年の夏季と冬季には、奈良県生駒郡法隆寺村の法隆寺金堂壁画(第5号壁画)の模写を行っており、模写用の照明として当時研究中だった蛍光灯を導入している。1943年には文化勲章を受章した。
知立疎開時代
知立疎開時代に描いた『夏雲』1950年, 佐野美術館蔵
1945年3月には麻布区笄町の自宅が強制疎開の対象となり、4月12日には愛知県碧海郡知立町(現・知立市)で駄菓子屋の離れを借りて疎開生活を始めた。知立町への疎開時代には東海道の松並木、小堤西池のカキツバタ、逢妻川などを作品に残している。知立在住時にはしばしば知立劇場で観劇し、近隣の碧海郡高岡村に住んでいた画家の岩月光金と交遊した。
疎開時代にも手紙を通じて東京の中央画壇との関係を維持し、芸術院美術部会議や日本美術展覧会(日展)の審査など必要があれば東京まで出かけて行った。1946年に新文展から名称を変更して日展が初開催されると、鑑査のために東京に赴いている。終戦直後で物資が乏しい時代ながら、疎開時代には年間約30点、計約170点の作品を残しており、風景画と静物画がほぼ同数であった。1951年には文化功労者に選ばれた。三保移住後の1952年にも知立を訪れ、未完だった『知立神社の杜』を完成させている。
三保移住後
三保移住後に書いた『三保富士』1953年, 小杉放菴記念日光美術館蔵
富士山や羽衣伝説を描きたいという思いから、1951年8月12日には静岡県清水市三保(現・静岡市)に移り住んだ。11月11日には上野養生軒で和田、中沢弘光、三宅克己の3人の喜寿祝賀会が開催され、大阪と名古屋で喜寿店が開催された。1953年には日本芸術院の第一部長に選ばれた。1955年には清水市庁舎の落成を記念して『真崎からの富士』を清水市に寄贈している。1958年には膀胱癌と診断されて東京厚生年金病院に入院。4月には退院したが、1959年1月3日に清水市三保宮方にて死去した。死後には正三位に昇叙され、勲一等瑞宝章大綬を受けた。1月10日には明治学院講堂で葬儀が行われ、3月10日には東京多摩霊園に埋葬された。
画風
19世紀末に世界的に流行した外光派の影響を受けた風景画を多く描いた。日本の近代洋画史における外光派の代表的作家である。明治美術会展、白馬会展、文展=帝展=新文展=日展などに出品した。
創作した分野は人物画、肖像画、風景画、静物画、風俗画と多岐にわたるが、一貫して外光派的写実主義を守った。もっとも得意なのは肖像画であり、もっとも多く描いたのは風景画である。静物画ではバラや洋ランなどの花を多く描いた。1951年には富士山を描くために静岡県清水市三保に転居した。後半生は「富士薔薇太郎」(またはバラ富士太郎)とも称された。
評価
和田英作君に就て、私の最も感じたことは、其技術の進歩の迅速であつたことである。私の関係した人の内では、和田君程進歩の早かつた人はない。(中略)其進歩の早いことは一種の天才だと思つた。
— 黒田清輝
和田君は形を確かに視ることゝ、佳い色を出すと云ふことが両者共に巧みである。勿論形の方と色の方とを比べれば、色の方に優れては居るが、形の方も決して拙くはない。
— 黒田清輝
近代洋画界を牽引した黒田清輝の忠実な後継者と見られることが多い。後半生においては日本洋画壇の長老的存在だった。生涯に渡って写実的で穏健な作風を守り続けたため、新しい芸術思潮を積極的に取り入れた若い作家の影響もあって、その活動後期における作品の評価は必ずしも高くない。1959年の和田の死去によって「明治の洋画は終わった」と言われ、時代の推移の象徴として扱われた。
展覧会
1961年4月には三越日本橋店にて、生前・没後を通じて初となる大規模な個展(遺作展)が開催された。1974年には和田の生誕100年と鹿児島市立美術館の創立20周年を記念して、鹿児島市立美術館で「和田英作展」が開催された。1985年には鹿児島市立美術館の新館開館を記念して、「黒田清輝・藤島武二・和田英作 日本近代洋画史における郷土作家たち」が開催された。1998年には和田が晩年を過ごした土地の静岡県立美術館と出身地の鹿児島市立美術館で「「近代洋画の巨匠 和田英作展」が開催された。2007年は戦後に7年間を過ごした知立に近い刈谷市美術館で「和田英作展 三河・知立と刈谷に残した足跡を中心に」が開催された。2016年には 「日本近代洋画の巨匠 和田英作展」が開催され、刈谷市美術館や佐野美術館などを巡回している。
個展
1929年 「個展」 三越本店
1936年 「個展」 三越本店
1938年 「個展」 三越本店
1939年 「個展」 阪急百貨店
1940年 「個展」 青樹社
1941年 「個展」 三越本店
1951年 「喜寿展」 美交社
1952年 「個展」 美交社
出品した展覧会
1892年 明治美術会展『秋ノ景色』
1893年 明治美術会展『人体習作』『景色』
1895年 第4回内国勧業博覧会『海辺の早春』
1895年 明治美術会展『新柳』『海辺早春』など
1896年 第1回白馬会展『麦の秋』『虹』『矢口のわたし』など
1897年 第2回白馬会展『快晴』『渡頭の夕暮』など
1898年 第3回白馬会展『三保の富士』『物おもひ』『機織』など
1899年 第4回白馬会展『甲板』『ミッドルス・バロオ』など
1900年 パリ万国博覧会『渡頭の夕暮』『機織』
1900年 第5回白馬会展『肖像』『風景』など
1901年 第6回白馬会展『ルュクサンブール』『池』
1902年 サロン『思郷』
1902年 第7回白馬会展『冬の池畔』『半身』『婦人読書』など
1903年 第5回内国観業博覧会『こだま』
1903年 第8回白馬会『思郷』『肖像』『夕暮の三保』『夕凪』
1904年 第9回白馬会展『有るかなきかのとげ』『箕作博士肖像』
1904年 セントルイス万国博覧会『風景』
1905年 白馬会創立十年記念展『くものおこなひ』『夕空』など
1907年 東京府勧業博覧会『斜陽』
1907年 第11回白馬会展『肖像』『風景』
1908年 第2回文展『おうな』
1909年 第3回文展『角田市区改正局長肖像』『原法学博士肖像』
1910年 第4回文展『薔薇』『まとものあかり』『肖像』
1911年 第5回文展『小金井博士肖像』『曇り日』『草花』
1912年 第6回文展『石黒男爵肖像』『H夫人肖像』
1914年 東京大正博覧会『筧の水』
1914年 第8回文展『黄昏』『赤い燐寸』
1914年 光風会展『漁村』
1915年 第9回文展『佐用姫』
1916年 第10回文展『あけちかし』
1918年 第12回文展『壁画落慶之図』
1919年 第1回帝展『読了りたる物語』
1920年 第2回帝展『渋沢子爵像』
1924年 第5回帝展『大住嘯風君肖像』『奈良人形』
1925年 第6回帝展『森律子肖像』『野遊』
1925年 光風会展『花』
1926年 第7回帝展『松林』
1926年 第1回聖徳太子奉讃展『父の肖像』
1926年 光風会展『薔薇』
1927年 明治大正名作展『こだま』『渡頭の夕暮』など
1927年 燕巣会展『黒き瓶の薔薇』
1928年 第9回帝展『肖像』
1928年 燕巣会展『冬の日』
1930年 第11回帝展『早春』
1930年 第2回聖徳太子奉讃展『花』
1930年 光風会展『初冬の湖畔』
1931年 第12回帝展『黄衣の少女』
1936年 青樹社洋画展『薔薇』
1937年 明治、大正、昭和三聖代名作展『静物』など
1938年 上弦会展『細流』『蘭花』など
1939年 法隆寺上宮王院本尊大厨子建立奉讃展『琵琶湖畔の春』
1944年 戦艦献納帝国芸術院会員展『山麓の春』
1946年 第1回日展『上の御堂にて』
1947年 第3回日展『曙』
1947年 現代美術展『凉蔭』
1950年 第6回日展『夏雲』
1958年 高島屋美術部50年記念展『三保の不士』
回顧展
1961年 「遺作展」三越日本橋店
1974年 「和田英作展」鹿児島市立美術館
1985年 「黒田清輝・藤島武二・和田英作」鹿児島市立美術館
1998年 「近代洋画の巨匠 和田英作展」静岡県立美術館、鹿児島市立美術館
2007年 「和田英作展 三河・知立と刈谷に残した足跡を中心に」刈谷市美術館
2016年 「日本近代洋画の巨匠 和田英作展」刈谷市美術館、佐野美術館、神戸市立小磯記念美術館、都城市立美術館
役職・会員・審査員
役職
1896年 東京美術学校西洋画科 助教授
1903年-1932年 東京美術学校 教授
1932年-1936年 東京美術学校 校長
1936年 東京美術学校 名誉教授
会員
1919年 帝国美術院 会員
1937年 帝国芸術院 会員
審査員など
1907年 東京府勧業博覧会 審査官
1907年-1918年 文部省美術審査委員会 委員
1910年 東京美術及美術工芸品 展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員
1910年 伊太利万国博覧会 美術品出品鑑査委員
1914年 東京大正博覧会 審査官
1923年 フランス美術展 準備委員
1923年 第2回朝鮮美術審査委員会 委員
1933年 史蹟名勝天然記念物調査委員会 委員
1934年 帝室技芸員
1935年 美術研究所 所長事務取扱
受賞・受章
受賞
1895年 第4回内国勧業博覧会 妙技二等賞『海辺の早春』
1900年 パリ万国博覧会 選外佳作賞『渡頭の夕暮』
受章
1922年 勲四等瑞宝章
1923年 フランス政府 レジオン・ドヌール勲章
1943年 文化勲章
1951年 文化功労者
1959年 勲一等瑞宝章
吉井 淳二(よしい じゅんじ、1904年(明治37年)3月6日 – 2004年(平成16年)11月23日)は、日本の洋画家。鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身。
年譜
1904年(明治37年) 鹿児島県曽於郡末吉町に生まれる
1922年(大正11年) 鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)卒業
1929年(昭和4年) 東京美術学校洋画科卒業
1940年(昭和15年) 二科会会員就任
1961年(昭和36年) 同会理事就任
1965年(昭和40年) 日本芸術院賞受賞
1972年(昭和47年) 南日本美術展審査委員長就任
1976年(昭和51年) 日本芸術院会員就任
1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章に叙される
1979年(昭和54年) 社団法人二科会理事長就任
1985年(昭和60年) 文化功労者として顕彰される
1989年(平成元年) 文化勲章受章
2003年(平成15年) 白寿を迎える
2004年(平成16年) 3月6日、満100歳を迎える。11月23日、死去。
また、晩年の1988年には「福祉を拓き文化を創る」、通称「福祉に文化を」を理念として「絵と彫刻のある憩いの園」加世田アルテンハイムを創設した。郷里鹿児島県で社会福祉法人「野の花会」理事長を務めた。
功績
文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、社団法人二科会名誉理事、サロン・ドートンヌ名誉会員、南日本美術展顧問
代表作品[ソースを編集]
「踏切風景」(1927年)
「帽子を被る女」(1936年)
「屋久の娘」(1948年)
「浜の女たち」(1963年)
「水汲」(1964年)
「市場にて」(1977年)
「フェイラ」(1983年)
「村の休憩所」(1985年)
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日~1970年9月19日)は、日本の洋画家。鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフにした作品を数多く制作した。1970年、パリで客死。今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館を始め各地の美術館に多数作品が収蔵されている。
略歴
鹿児島県鹿児島市生まれ。県立志布志中卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら川端画学校で絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで創作活動をしていた藤田嗣治に師事。同地から出品した作品が第10回二科展に初入選し、翌年にはサロン・ドートンヌに初入選を果たす。
1927年(昭和2年)にフランスの画商、アンリ・ピエール・ロシェと契約し、『窓(カンヌ)』『姉妹ねむる』『サーカス』を制作。翌年にはニューヨークで初めての個展を開き更にサロン・ド・レスカリエにも招待されるが、この頃からフランドル絵画に影響されて青を基調とした雪景の連作を描きはじめる。1934年(昭和9年)に帰国して日本で初個展を開催し、翌年には独立美術協会会員に迎えられる。同協会の主催する独立展に出品を続ける傍ら戦争画も手がけ、1940年(昭和15年)には日本大学専門部芸術科美術科(現日本大学藝術学部)講師となる。1943年に日大講師を辞して熊本県水俣市に疎開、そこで終戦を迎えた後、洋画家の宮崎精一を頼り人吉市に移るが暫くは絵筆を折った。
1950年(昭和25年)に第1回南日本文化賞に受賞して後に熊本市へ移転、翌年には海老原美術研究所(エビ研)を創立すると同時に第3回読売アンデパンダン展に『スタート』『殉教者』を出品して画業を再開した。その後は九州を本拠に創作活動を続けるものの、1966年(昭和41年)から断続的に渡仏。1968年(昭和43年)に藤田が死去した際には彼の葬式を取り仕切り、その後はヨーロッパのロマネスク美術を訪ね歩きながら創作活動を継続。『水より上る』を制作し帰国を目前とした1970年(昭和45年)9月19日に、癌のためパリで死去。行年66歳。熊本の小峰墓地にも墓がある。
作風
海老原は画家を志したころから晩年まで、藤田嗣治を師と仰いだが、海老原の作品には藤田との直接的な類似点はみられず、むしろアンリ・ルソーなどからの影響が感じられる。
19歳のときパリへ留学したが、そのころから、海老原のトレードマークとなる青を基調とした作品を数多く描いた。この傾向は晩年に至るまで続いたが、戦後に描かれた作品では、パリ時代のものと比べてより原色に近い鮮やかな青を用いている。これは、パリ時代に描かれた雪景の青と、戦後の作品に見られる鮮やかな青を比較してみると判別できる。また、海老原は馬好きとしても知られ、最晩年まで終生馬をモチーフにした作品を描き続けた。
戦後は、1959年の『蝶』などにみられるとおり、多くの色彩をモザイク状に配置するなど、抽象的な画面構成を用いるようになり、晩年には、より単純化された空間構成と色彩の配置による表現を試みている。
受賞歴
1923年(大正12年) 第10回二科展入選。
1924年(大正13年) フランスのサロン・ドートンヌに入選。
1950年(昭和25年) 第1回南日本文化賞受賞。
1955年(昭和30年) 第3回日本国際美術展で佳作受賞。
1957年(昭和32年) 国立近代美術館賞受賞。
1959年(昭和34年) 第5回日本国際美術展で最優秀賞を受賞。
1964年(昭和39年) 芸術選奨文部大臣賞を受賞。
代表的な絵画作品
『姉妹ねむる』 (1927年) 東京国立近代美術館
『港』 (1927年) 島根県立美術館
『ゲレンデ』 (1930年) 東京国立近代美術館
『雪山と樵』 (1930年) 愛知県美術館
『曲馬』 (1935年) 熊本県立美術館
『ポアソニエール』 (1935年) 宮城県美術館
『青年』 (1941年) 北九州市立美術館
『殉教者』 (1951年) 東京国立近代美術館
『船を造る人』 (1954年) 北九州市立美術館
『靴屋』 (1955年) 北九州市立美術館
『燃える』 (1957年) 新潟県立近代美術館
『蝶』 (1959年) 知足美術館
『雨の日』 (1963年) 東京国立近代美術館
『男の顔』 (1965年) 三宅美術館
『サーカス』 (1970年) 鹿児島市立美術館
画集
(現在すべて絶版。)
『海老原喜之助画集』 美術出版社 (1965年)
『海老原喜之助 デッサン・水彩・版画集』 西日本新聞社 (1971年)
『日本の名画45 海老原喜之助』 講談社 (1974年)
『現代日本の美術9 海老原喜之助・林武』 集英社 (1976年)
『アサヒグラフ別冊 海老原喜之助』 朝日新聞社 (1986年)
床次 正精(とこなみ まさよし、画家としての読みは「とこなみ せいせい」、1842年(天保13年) – 1897年(明治30年)10月21日)は日本の検事・判事、洋画家。息子に床次竹二郎がいる。
生涯
大日本帝国憲法発布式之図 1890年(明治23年)
三田製紙所の図 紙の博物館蔵 1880年(明治13年)
1842年(天保13年)薩摩藩士児玉家の三男児玉宗次郎実富として生まれ1860年(万延元年)床次家の養子となり床次家を継ぐ。通称は正蔵。島津久光の次男島津久治の小納戸役を務める。床次家は本性は紀氏で武内宿禰の流れをくむ家系と称し源頼朝のころに大隅国に入り後、島津家の家臣になり鹿児島に移ったとされている。
床次は剣を新陰流に学び薩摩藩内では剣名は高かったと言われている。また、7歳で日本画(狩野派)の能勢一清の弟子になり日本画を学び始めている。床次は洋画家として知られるが、日本画も職業にできるほどの腕前だったと言われる。
幕末、島津久光の命で長崎に赴きイギリス軍艦の視察をする。薩摩藩は薩英戦争でイギリス艦の力を思い知ったためである。このとき乗ったイギリス軍艦で見た油絵の写実性に床次は驚き、以降独学で洋画を学ぶ(後に一時、仙台で梶原昇に油絵を習うが、梶原昇の技法も大したことはなく、事実上独学)。
明治維新後1872年(明治5年)には司法省に入り検事補、1877年(明治10年)宮城県上等裁判所検事、1878年(明治11年)東京地方裁判所検事を歴任。1877年(明治10年)西南戦争が起きた際には宮城県上等裁判所検事として仙台に赴任していたが、西郷軍に参加しようと仙台を発つ。しかし床次が東京まで来た時に西郷がすでに敗れ城山に追いつめられている状況が伝わり西郷軍に加わることは断念し仙台に戻る。1879年(明治12年)来日中のグラント将軍(前アメリカ大統領)像を画いたことが新聞に載り画家として知られる。1880年(明治13年)裁判所を辞め画業に専念する。
知られているところでは1877年(明治10年)松島の絵を2点画き、1点を宮中に献上し、1879年(明治12年)グラント将軍像、1880年(明治13年)三田製紙所の図、1881年(明治14年)伊藤博文像、1882年(明治15年)勅命で日光名勝図、1887年(明治20年)西郷南洲像、1890年(明治23年)帝国憲法発布の式場・祝宴図など8画を画く。
絵を画きながらも1882年(明治15年)官職に復帰し宮内省御用掛、1884年(明治17年)農商務省御用掛、1889年(明治22年)以降はまた司法省に戻って検事・判事を務める。
西郷隆盛肖像画
西郷は生前、自分の写真を残していないため西郷の顔は現代では正確にはわからない。西郷の肖像画で有名なものはエドアルド・キヨッソーネ作のものであるが、キヨッソーネは西郷に会ったことはなく、親族の西郷従道や大山巌の顔を参考にして想像で描いている。それに対して薩摩藩士族の床次は西郷隆盛と面識があり、西郷の死後の1887年(明治20年)、自分が西郷に会った記憶を頼りに何十枚も西郷の絵を画き、それを西郷従道や黒田清隆、三島通庸など西郷隆盛に近いところにいた人々に見せて意見を聞き修正を加え、西郷隆盛像を完成させた。西郷の顔を実際に知っている人々で作り上げた床次作西郷像は実際の西郷によく似ていると言われている。
伝記
床次正精の伝記本は出版されていないが、1906年(明治39年)、洋画家黒田清輝が美術雑誌光風に床次の伝記を書いている。黒田清輝は薩摩藩士出身で黒田の父と床次正精は知り合いで床次は黒田の父の肖像を描いている。その縁で黒田清輝も床次と面識があり、床次の死後伝記を書く。
評価
テレビ東京のテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』2009年8月23日放送回で床次正精の油絵が出品され、400万円の鑑定がついている。作品の保存状態が良かったならば500万円以上だったともしている。番組によれば床次正精は明治初期の日本の洋画黎明期の画家であるため、現代では床次の絵は20点ほどしか現存していないとのこと。
八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 – 1994年6月30日)は、日本とアメリカとで活躍した日本人画家、絵本作家である。本名 : 岩松 淳(いわまつ じゅん)。鹿児島県肝属郡小根占村出身。作家の伊佐千尋、俳優のマコ岩松は息子。
経歴
戦時情報局で八島が描いた伝単。
鹿児島県立第二鹿児島中学校から東京美術学校に進むが、軍事教練をボイコットしたため退学処分を受ける。その後、日本でイラストレーター・漫画で成功するが、日本の軍国主義に反対したため10回に渡り投獄される。友人であった作家小林多喜二が特高の拷問で死亡した際には、多喜二の死に顔をスケッチする。その後、1939年、芸術を学ぶためニューヨークに渡る。1943年、「The new sun(新しき太陽)」「ブラウン文庫 4827」を刊行したことにより、アメリカ合衆国で「野蛮なサルではない日本人もいる」という記事が載る。第二次世界大戦中は、戦時情報局(OWI)で働き、対日宣伝活動に加わる。沖縄侵攻作戦では、一人でも多くの日本人を救うため、命の重要さを説く詩を書き、戦略爆撃機から投下する沖縄の日本兵へ投降を呼びかけるビラの製作に携わった。
戦後、後に俳優として活躍する息子のマコ岩松をニューヨークに連れて行く。ニューヨーク・マンハッタンにおいて、Yashima Studioを立ち上げ、多くのアーティストたちと交流する。
1950年代初頭からは子供たちのための絵本の製作も始め、1955年に「Crow Boy(からすたろう)」、1958年に「Umbrella(あまがさ)」、1967年に「The Seashore Story(海浜物語)」でコールデコット賞次席。1972年、第23回フランスデヴィユ国際美術展でグランプリを受賞。
1994年、カリフォルニア州の自宅で85歳で死去した。
山下 三千夫(やました みちお、1948年(昭和23年)7月25日 – )は鹿児島県出身の日本の画家。
経歴
1948年 鹿児島県坊津町に生まれる.
1967年 初個展
1975年 葦の画廊(東京)にて個展 フランス留学(~1976年)
1977年 山形屋画廊(鹿児島)にて個展。以降1年おきに同画廊にて開催。
1994年 神戸阪急にて個展
1996年 横浜そごう、神戸阪急にて個展
1998年 天神岩田屋(福岡)にて個展
1999年 横浜そごう、ギャラリーアクシズ(大阪)、阪急百貨店うめだ本店(大阪)にて個展
2000年 ギャラリーアクシズ(大阪)、神戸阪急にて個展
2001年 ギャラリーベルンアート(大阪)、JR大阪セルヴィスギャラリーにて個展
2002年 阪急百貨店うめだ本店(大阪)にて個展
2002年 ギャラリー東京映像にて個展
2004年 銀座で個展
2005年 近鉄百貨店阿倍野本店・京都店で個展
2006年 銀座・福岡で個展
2007年 瀧川画廊で個展
2012年 グループ展 GANKO展出展 なかお画廊
河口洋一郎(世界的CGアーティスト・東京大学大学院情報学環教授):西之表市
湊 ヒロム(みなと ヒロム、女性、1978年4月28日 – 2007年4月30日)は、日本のイラストレーター。
来歴
鹿児島県出身。水墨画を嗜んでいた祖父の影響で絵を描くことが趣味になり、雑誌『Colorful PUREGIRL』(ビブロス)で2年半にわたり毎月欠かさずイラスト投稿を行っていた。社会人になった直後に体調を崩したため、在宅で可能な仕事としてそれまで趣味で描いていたイラストを本業とするようになり、2003年にスタジオDNAの『MELTY BLOOD コミックアンソロジー』で商業デビュー。同年、大熊猫のアダルトゲーム「おしかけプリンセス」の原画(一部)でデビュー。また、個人サークル「BLUE☆WIND」で同人活動を行っていた。2004年よりBLACK PACKAGEの所属となり、雑誌『TECH GIAN』(エンターブレイン)2005年10月号掲載のインタビューでは「美人原画家」と紹介されている。
以後、BLACK PACKAGE作品の原画やライトノベルの挿画を中心に活動していたが、ゲーム会社在籍時に同僚からのセクハラやストーカー、暴行未遂の被害に遭い「絵が描けなくなった」ことを日記で告白。2006年後半頃からメンタルヘルスに支障をきたしたことが原因でイラストレーターとしての仕事を継続することが困難になったとされ[2]、同年末に一時活動休止を表明した後、2007年3月に活動再開を宣言したがその直後の5月に本人のサイト上で死去が報告された。満29歳没。
主な作品
商業活動に限定して挙げる。
挿画
SHADE Lost in N.Y.(南房秀久・著、富士見ミステリー文庫)
ソラにウサギがのぼるころ(平坂読・著、MF文庫J)
大寺聡:(イラスト・クリエーター)日置市生まれ、東京都育ち
藤浩志:鹿児島市
外原 俊(Sotohara Takashi)は油絵画家及デザイナーである。絵画は正確には幻想絵画というジャンルに属するテンペラ混合技法という古典絵画技法の一種を用いて油絵を描いている。
人物
鹿児島県に生まれる。幼少より中学卒業まで、父親の仕事の関係で、ほぼ1年ごとに日本国内の学校を転々とする。福岡の高校を卒業後に単身、東京へと上京、デザイン関係他様々な職業を経験しながら絵画技術をヴィーナマルシューレにて学び作品を発表をする。
年譜(絵画学校)
1987年 – 新宿美術研究所(麻生三郎師事)
1988年 – ヴィーナマルシューレ(イヌボウ・マリレ 師事)
年譜(グループ展示歴)
1989年 – 銀座玉屋アートギャラリー(銀座、東京)
1990年 – Gallery Loland Hof(Bon、Garmany)
2007年 – ギャラリー道玄坂(渋谷、東京)
2008年 – 同時代ギャラリー(京都)
2008年 – 世田谷美術館(東京)
高嶺 格(たかみね ただす、1968年 – )は、日本の演出家、美術家。パフォーマンス、映像、彫刻などの作品を国内外で発表している。 秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻准教授
経歴
1991年京都市立芸術大学工芸科漆工専攻卒業。1999年岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー卒業。
1993年から1997年まで、ダムタイプのパフォーマーとして参加した。
主な作品にNPO丹波マンガン記念館内坑道跡「在日の恋人」2003年、せんだいメディアテーク「[大きな休息]明日のためのガーデニング1095㎡」2008年など。
展覧会
NPO丹波マンガン記念館内坑道跡「在日の恋人」2003年
ベネチアビエンナーレ2003年
釜山ビエンナーレ2004年
せんだいメディアテーク「『大きな休息』明日のためのガーデニング1095㎡」2008年
水戸芸術館「高嶺格のクールジャパン」2013年
秋田県立美術館県民ギャラリー「てさぐる展」2014年
霧島アートの森「とおくてよくみえない」2015年
PARASOPHIA(京都国際現代芸術祭)「地球の凸凹」インスタレーション2015年
著書
『在日の恋人』河出書房新社 2008 ISBN 9784309018980
『じぶんを切りひらくアート』(共著)フィルムアート社 2010 ISBN 9784845910496
参考文献
『境界線上の開拓者たち18 高嶺格』斎藤環 美術手帖 2006年3月(Vol.58 No.877)
『ARTIST INTERVIEW 高嶺格』美術手帖 2011年4月(Vol.63 No.950)
『PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015 公式カタログ』2015年3月、京都国際現代芸術祭組織委員会
『美術家・高嶺格氏鹿児島で個展開催』読売新聞、2011年11月22日夕刊
『社会に潜む「抑圧」を表現 現代美術家・高嶺格さん、水戸で個展』朝日新聞、2013年1月11日
第十四代 沈寿官:日置市
第十五代 沈寿官:日置市
西郷 隆文(さいごう たかふみ、昭和22年(1947年) – )は、日本の陶芸家。日置南洲窯代表。鹿児島県陶業協同組合初代理事長。特定非営利活動法人西郷隆盛公奉賛会理事長。西郷庵庵主。維新の三傑の一人・西郷隆盛の曾孫にあたる。
略歴
1947年、西郷隆泰の長男として奈良市に生れ、5歳から母親の実家がある鹿児島県日置市に育つ。鹿児島県の大学を卒業後、上京してアパレルメーカーに就職するも中学時代の美術教師の有山長佑から陶芸の道への誘いを受け、25歳で辞職し、鹿児島に移住。
1973年、企業組合長太郎焼窯元に入社する。
1978年、弟の西郷等と共に旧薩摩藩主島津家菩提寺に「南洲窯」を開く。
1984年、鹿児島市新人賞を受賞する。
親族・一族
西郷家始祖:西郷九兵衛 – 本姓藤原氏、薩摩藩士。
西郷家祖:西郷吉兵衛 – 平瀬治右衛門の三男、九兵衛の養子。
六世祖父:西郷小兵衛 – のちに吉兵衛、太刀流剣術の門人。
五世祖父:西郷隆充 – 薩摩藩士。
五世祖伯父:西郷覚左衛門 – 薩摩藩士。
高祖父:西郷吉兵衛 – 薩摩藩士。
高祖母:椎原政佐 – 薩摩藩士椎原国紀の娘。
高祖叔父:西郷小兵衛(大山綱昌) – 薩摩藩士。
従高祖叔父:西郷吉左衞門 – 薩摩藩士。
曾祖父:西郷隆盛 – 薩摩藩士、大日本帝国陸軍陸軍大将。
曾祖叔父:西郷吉二郎 – 薩摩藩士。
曾祖叔父:西郷従道 – 薩摩藩士、大日本帝国海軍元帥海軍大将。
曾祖叔父:西郷小兵衛 – 薩摩藩士。
曾祖叔母:西郷琴 – 薩摩藩士・市来正之丞の妻。
曾祖叔母:西郷鷹 – 薩摩藩士・三原伝左衛門の妻。
曾祖叔母:西郷安 – 大山成美の妻。
従曾祖叔父:大山成美 – 大山綱昌の長男。
従曾祖叔父:大山巌 – 元帥陸軍大将。
従曾祖叔母:山川捨松 – 愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。
従祖叔父:西郷従徳 – 陸軍少尉、華族(侯爵)。
再従叔父:西郷従吾 – 陸軍大佐。
再従祖叔父:大山高 – 澎湖諸島沖爆沈事故で死去。
再従祖叔父:大山柏 – 陸軍少佐、文学博士、考古学者。
再従祖叔母:近衛武子 – 近衛文麿の妹。
祖父:西郷菊次郎 – 初代京都市長、外交官。
祖伯父:西郷寅太郎 – 陸軍大佐、華族(侯爵)。
祖伯母:園田信子 – 元薩摩藩士・園田実徳の長女。
従伯父:西郷隆輝 – 華族(侯爵)。
従伯父:西郷吉之助 – 華族(侯爵)。
従伯父:西郷隆明 – スターライト工業・会長。
三従叔父:大山梓 – 海軍少尉、法学博士。
三従叔父:大山桂 – 日本貝類学会副会長、理学博士。
父:西郷隆泰 – 菊次郎の4男。
伯父:西郷隆秀 – 学校法人拓殖大学理事長。
叔父:西郷準 – アマチュア野球選手。
再従兄:西郷吉太郎 – 西郷隆盛直系四代目。
再従兄:西郷隆晄 – スターライト工業・社長。
再従兄:西郷隆廣 – スターライト工業・常務。
四従兄弟:大山格 – 著作家。
弟:西郷等 – 陶芸家。
茶圓勝彦(ちゃえん かつひこ、1961年2月12日 – )は、日本の砂像彫刻家。鹿児島県南さつま市(旧加世田市)出身。武蔵野美術大学(油絵専攻)卒業。砂像彫刻家兼プロデューサーとして、国内外で幅広く活躍中。ニューズウィーク日本版2009年7月8日号「世界が尊敬する100人の日本人」にも選ばれた。
人物
1987年、地元の吹上浜で開かれた「吹上浜砂の祭典」で、砂像彫刻家の第一人者ゲリー・カークに砂像制作の才能を見出される。以来、日本でただ一人のプロの砂像彫刻家、砂像制作の第一人者として、砂のアートの企画立案、総合プロデュースでも活躍中。また、アメリカやイタリア、ドイツなど、各国で砂像彫刻の制作活動を続けている。
経歴
公開制作風景(第2期「砂の美術館」にて)
1983年 – 武蔵野美術大学を卒業。
1987年 – 鹿児島県加世田市「吹上浜砂の祭典」開催と同時に、砂像彫刻を開始。
1996年 – カナダ・ハリソンホットスプリングス砂像彫刻世界選手権参加。
1997年 – アメリカ・サンディエゴにてエキシビション「アトランティス」参加。
1998年 – カナダ・ハリソンホットスプリングス砂像彫刻世界選手権、チーム部門参加。
沖縄子供の国にてエキシビション、制作指導。
1999年 – WSSA主催砂像彫刻世界選手権シンガポール大会参加、優勝。
2000年 – WSSA主催砂像彫刻世界選手権シンガポール大会、カリフォルニア大会、中国・周山大会参加。
静岡県下田市伊豆白浜にてエキシビション、制作指導。
2001年 – シンガポールにてエキシビション参加、制作指導。
2002年 – WSSA主催砂像彫刻世界選手権中国・雲南省大会参加。
イタリア・ヴェニス大会参加 3位入賞。
中国・ニンシャ回族自治区大会参加、2位入賞。
2003年 – 福井県高浜町、福岡県芦屋町、宮崎県日南市にて制作指導。
中国・海南島にて国際彫刻家としてエキシビションに参加。
2004年 – WSSA主催砂像彫刻世界選手権加世田大会の企画、運営、指導。
オランダ・デンボッシュにてエキシビションに参加。
イタリア・ヴェニスにてエキシビションに参加。
鳥取県鳥取市鳥取砂丘、福岡県芦屋町にて制作指導。
2005年 – スペイン・バリャドリド、中国・周山にて世界選手権大会参加。
イタリア・ヴェニス、ドイツ・トラベムンドにてエキシビションに参加。
三重県熊野、鳥取県鳥取市鳥取砂丘、鹿児島県大崎町にて制作指導。
中国海南島にて広さ世界一の砂像パーク企画参加。
2006年 – イタリア・トリノにてトリノオリンピックのコマーシャル彫刻制作。
鳥取「砂の美術館」企画・砂像制作・展示。
鹿児島県大崎町にて制作指導。
イタリア・ヴェニスにてエキシビションに参加。
カナダ・ケベックにて砂像彫刻世界選手権大会参加、ダブルス部門2位入賞。
2007年 – 東京のオペラの森2007に参加。上野公園にて演目「ワグナーのタンホイザー」を砂像で制作。
鹿児島県奄美大島にてエキシビション参加。
イタリア・ヴェニスにてエキシビション参加。
カナダ・ケベックにて砂像彫刻世界選手権大会参加。
2008年 – 鳥取「砂の美術館」プロデュース、砂像制作。
鳥取駅前砂像および街なか砂像にて砂像展示。
名古屋、イタリア・ヴェニス、バイアドミッツィアにてエキシビションに参加。
イタリア・マテーラにて砂像彫刻世界選手権大会参加、優勝。
「OSAKA光のルネサンス」参加、中之島にて砂像展示。
2009年 – 鳥取砂丘で行われた「世界砂像フェスティバル」プロデュース、制作。
神奈川県逗子海岸イベント、水都OSAKA(大阪)イタリア・ヴェニスおよびバイアドミッツィアにてエキシビションに参加。
ドイツ・ライプティヒにて砂像彫刻世界選手権大会参加。
鳥取「砂の美術館」プロデュース、制作。
大阪「OSAKA光のルネサンス」に参加、中之島にて砂像展示。
2010年 – 砂の美術館(鳥取)プロデュース、制作。
フロリダ・ケープカナヴェラル、イタリア・ヴェニス、オランダ・フンスブルクおよびデンハーグにてエキシビション参加。
姫路市にて姫路城砂像制作。
イタリア・マテーラにて第二回砂像彫刻選手権大会参加、優勝。
地方競馬全国協会の広告砂像4部作制作。
2011年 – 鳥取市・第31回全国豊かな海づくり大会で「天皇皇后両陛下お出迎え砂像」「ウェルカム砂像」を制作。
2015年 – 「スター・ウォーズ フォースの覚醒」映画公開記念、世界初ルーカスフィルム公認、ウォルト・ディズニーがデザイン監修の砂像を制作。
ニューズウィーク2009年7/8月号にて「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれる
他、毎年鹿児島県南さつま市「吹上浜砂の祭典」企画、制作、指導と国内数々のイベントにてワークショップを展開。
朝隈俊男(あさくま としお、1967年(昭和42年)-)は、日本の動物造形作家。
経歴
1967年に鹿児島県に生まれる。
1997年にGallery FLOOR 2 (東京・経堂)で初の個展。
1999年に第14回ユザワヤ創作大賞展 (東京・有楽町)で銀賞、第2回 ユーモア陶彫展’99 (岐阜・土岐)で入選。
2011年にThe Art of Puppets 2011 / Puppet House Gallery (東京・飯田橋)やイベント「Japan Expo」 / Parc des Expositions (パリ)、「朝隈俊男&和香」/ Galerie Choiseul (パリ)に出品[1]。尾田栄一郎×朝隈俊男コラボレーション「ONE PIECE」動物フィギュア:バンダイ「Figuarts ZERO Artist Special」を制作
帖佐 美行(ちょうさ よしゆき、1915年3月25日 – 2002年9月10日)は、彫金家、文化勲章受章者。
鹿児島県生まれ。本名・良行。1930年小林照雲に師事、1940年海野清に師事する。1942年新文展に初めて入選、戦後は日展に出品し、1954年特選、翌年も特選。57年日展審査員。1958年日本金工作家協会結成に参加、日展評議員、1962年現代工藝美術家協会結成に参加、1966年日本芸術院賞受賞、69年日展理事、1974年日本芸術院会員、1975年日展常務理事、1978年日本新工芸美術家連盟を結成、1987年文化功労者、1993年文化勲章受章。
薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、竪野系、龍門司系、苗代川系がある。主な窯場は姶良市の龍門司窯、日置市(旧東市来町)の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯など。「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれる。初期の薩摩焼においては豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に同行してきた朝鮮人が島津義弘の保護の下に発展させた。2002年(平成14年)1月に国の伝統的工芸品に指定された。
種類
白薩摩(白もん)
日置市の旧東市来町の美山にある苗代川窯で焼かれていた陶器。藩主向けの御用窯で、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手が主である。元々は苗代川焼と呼ばれ、薩摩焼とは名称を異にしていた。
黒薩摩(黒もん)
白薩摩に対して、大衆用の日用雑器として焼かれていた陶器で、鉄分含有量が多い土を用いるため、黒くなる。特に、黒ぢょかと呼ばれる素朴な土瓶は、焼酎を飲むときに用いられる。
京薩摩・横浜薩摩
幕末から明治初期に掛けての京都で、欧米への輸出用に、より伝統的な日本のデザインを意識し、絵付けされた京薩摩が作られた。横浜や東京で絵付けされ、横浜港から輸出されたものは横浜薩摩と呼ばれた。
その他
毎年2月20日頃に「窯元まつり」、11月20日頃に「薩摩焼フェスタ」が行われる。
2007年11月、万博初出展140周年を記念し、フランス国立陶磁器美術館(セーブル美術館)において「薩摩焼パリ伝統美展」が開催された。
種子島焼
香箱(こうばこ、英: Kōbako)は、香(香木、薫香料)を収納する蓋付きの箱。茶道具や香道の道具であるほか、宗教儀式において香を用いるために宗教用具としても用いられる。 ⇒ 香合も参照。
折り紙には、角香箱(つのこうばこ)、鶴香箱(つるこうばこ)という折り方がある。
派生
転じて、以下のような意味も持つ。
ネコの姿勢(習性)の一つで、腹部を地に付け、四肢を畳んだ状態を香箱座りという。この姿勢をとることを「香箱を作る」「香箱を組む」という。
機械時計のぜんまいを収納する部品。バレル (barrel) とも呼ぶ。
ヒトの女性器の隠語。上流婦人のそれに対して「御香箱」と表現された。古くは『三陰論』(文政1818-30年頃の写本)『大笑座禅問答』『末摘花』などに用いられているという。
ズワイガニの雌を「香箱ガニ」と呼ぶ。子を持っている雌という子箱からの派生、日本海の香りを秘めているという意味など、由来は諸説ある。
甲冑(かっちゅう)は、主として刀剣や弓矢を用いた戦闘の際に兵士が身につける日本の伝統的な防具である。
概要
甲冑の発祥は、唯一、常陸国風土記に記されており、日本刀の起源や剣術等の発祥も東北地方であることから推測して、東日本が発祥とされている。古事記、日本書紀にも記されているが、これに古墳から発掘された遺物、埴輪、ならびに日本の周囲の土俗品から推すと、北方系の札(さね)鎧と、南方系の板鎧が併用されたことがわかる。
弥生時代では「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認される。
現代では古美術品、工芸品的、歴史資料的性格をもっており、写真のように展示される場合も多い(旧来住家住宅)。
古代には埴輪や古墳の出土品に挂甲など大陸の影響の強い甲冑が見られるが、平安時代における武士の出現とともに大鎧(おおよろい)という独自の甲冑がみられるようになる。 平安時代は中国との交通が絶え、日本的な趣味が発揮されて、甲冑にも一大変化がもたらされた。 それまでの騎射戦がほぼ完成されたため、大鎧の出現を見た。 挂甲は儀礼的なものとして残り、綿甲はまったく廃れた。 したがって藤原時代から鎌倉時代までを大鎧時代と言うこともできるが、なお大鎧(当時は鎧もしくは着長といった)に対して略的なものとして腹巻があり、これは歩兵の着用する上腹巻(のちにいう胴丸)、鎧下もしくは衣下に着込む最も短小な下腹巻(のちにいう腹当)の2つにわけられる。源平時代に日本の甲冑は最高度に発達し、荘重優美をきわめたが、遺品は多くない。 文永弘安の役ののち、騎射戦が白兵戦にうつろうとしたため、騎射からの要求で発達した大鎧は煩重のきらいがあり、ここにおいて軽快なものがもとめられ、雑兵が着用した胴丸に兜および袖をそえて将士も着するようになり、いっぽうで、腹当が進化した一種の腹巻も見られた。 この腹巻は足利時代に最もおこなわれた。 ようするに、足利時代は胴丸腹巻併用時代と言うことができるが、槍の流行、鉄砲の伝来など足利時代末期の軍事上の変革にともなって甲冑は三たび変化を余儀なくされた。 こうして戦国時代には当世具足が一世を風靡した。 しかし元和偃武、世は太平を謳歌し、このために実用的な当世具足は虚飾をくわえられるようになり、また学問的発達が過去の形式を復活させもしたが、多くは形式に堕した。 甲冑の堕落時代であるが、文化文政以降、復活もやや成功を見て、形式もととのい、外観も鎌倉時代のそれにちかづいた。 幕末には革製の甲冑もつくられた。 日本の甲冑はその後の武器の変遷や戦闘形式の変化により常に改良が加えられながらも一定の特徴を有していたが明治維新による武士階級の消滅や軍備の近代化にともない実用に供されることはなくなった。
現代では古美術品、工芸品的、歴史資料的性格をもっている。日本の甲冑は、世界の防具と比較しても彩りが豊かで美しいが、中世、近世において武士が常に権力の中枢にあったことや、特に戦乱の無い江戸時代において一部の上級武士が象徴的に珍重したためであって、その時代の鍛鉄・皮革・漆工芸・金工・組紐など様々な分野の技術を駆使して製作されているためである。その取り扱いにあたっては、素材が多種多様にわたる保管や、兜・胴を中心に各部分をつないで組み立てる構造上の理解とが必須である。
その他
本来は、甲は身を護る「よろい」、冑は頭にかぶる「かぶと」であるが、甲を「かぶと」、冑を「よろい」と読む例もある。一般的には「鎧」、「兜」の字を使用することが多い。
『元史』成宗本紀(フビライ・ハーンの孫の年代記)に「倭商有慶なる者が、貿易のため、慶元府に来て、金鎧を献上した」と記述があり、この頃には日本製の甲冑も輸出がなされていたとみられる。中世では、大陸に限らず、日本製甲冑は、琉球・北海道アイヌ・台湾といった周囲の諸島にも伝わっている(これらの国々の鎧は日本製と比較して軽装である)。
甲冑の分類
主要部分の物質による おおむね5種。鉄が金銅通常であり、革、布帛および張貫は特殊である
重量による
構成による 解体の可能・不可能による
沿革による 旧式のものと新型のものとによる。旧式は「昔」を、新型は「当世」をそれぞれ冠する場合がある。
新旧による 製作完了日から現存使用時までの時間の長短による
式法による 型式・様式の精粗にもとづく。
外観による 外観とくに色彩による
着用者による 身体の大小、身分・職分による、老幼・性による
使用による 使用目的(儀礼の甲冑、着初の甲冑など)、使用法(忍の甲冑、著替の具足など)
薩摩切子(さつまきりこ)は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。現在は復刻生産されている。
歴史
長崎等から伝来した外国のガラス製造書物を元に江戸のガラス職人を招くなどして第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代藩主島津斉彬が集成館事業の一環とした。安政5年(1858年)、オランダの医師ポンペ・フォン・メールデルフォールトが鹿児島を訪れてガラス工場を見学したが、100人以上がそこで働いていたと記している。
大変に先進的な品で斉彬もこれを愛好し、大名への贈り物に用いられたり篤姫の嫁入りの品ともなったが、斉彬の死後は集成館事業の縮小や薩英戦争時にイギリス艦艇による集成館砲撃で被害を受け、幕末維新から西南戦争へ至る動乱もあってその技術は明治初頭で途絶えている。その職人や技術は、東京のガラス(江戸切子等)や大阪へと渡っている。一方、万延元年(1860年)以降、薩摩と交流のあった硝子師が萩で制作した可能性のあるものや、明治5年(1872年)から明治10年(1877年)にかけて市来四郎の開物社で制作されたと類推される作品もあり、これらも薩摩切子と称される事が多い。ただし、「薩摩切子」単に薩摩国で作られた切子というより、薩摩藩によって作られた格別の切子という意味合いが強く、開物社製のものは「薩摩系切子」として区別すべきだとする意見もある。
当時の薩摩切子は現存するものは大変に少なく、現存数は200点程度と言われる。そのため貴重で、骨董として高価で取引されている。現在のものでも、高いもので300万円を超えることがある。まとまったコレクションとしては、サントリー美術館に彫刻家・朝倉文夫旧蔵品を中心に40点以上所蔵されている。
特徴・江戸切子との違い
同時期の江戸切子との違いは、江戸切子が透明・無色な硝子(透きガラス)に細工を施したものなのに対し、薩摩切子はより細かい細工(籠目紋内に魚子紋等)や色被せと呼ばれる表面に着色ガラス層をつけた生地を用いたものが多く、またホイールを用いた加工の有無が挙げられる。薩摩切子はヨーロッパのカットガラスに範を取り、色被せの技法はボヘミアガラスや乾隆ガラスから学んだもののようであるが、現在に伝わる当時の品には日本的な繊細さが見られる。
近年の研究によって無色の薩摩切子(透きガラス)という区分が整理され、新たな品も発見されている。
色被せの薩摩切子の特徴として特にその色の層の厚さがあり、これに大胆な切子を施す事によって切子面に色のグラデーションが生まれる。これが色被せ薩摩の特徴で「ぼかし」と呼ばれるものである。
復刻と現在
1985年(昭和60年)代以後に薩摩切子の復刻が試みられ、各地のガラス工場・職人・研究家等の協力もあって成功した。
1989年(平成元年)、島津家の島津興業 監修・直営の薩摩ガラス工芸に対して鹿児島県伝統的工芸品認定がなされた。(技術が継続しておらず復刻生産の為、国の伝統的工芸品には認定されない。)
現在は現存する古い薩摩切子を忠実に再現した復元・復刻物や、その特徴を踏まえた新たなデザインや色の製品や創作品も生産・販売されている。
後進の育成や展示会・デザインコンペ等への出品も行われており、また助成金による支援(薩摩ビードロ工芸)や、NHK大河ドラマ「篤姫」のオープニングにも用いられる(薩摩ガラス工芸)など、その認知を広めている。
産地
生産地は鹿児島県。素材となる色ガラス層の厚い被せガラス生地の生産や切子加工等までの製作・復刻が、前述の薩摩ガラス工芸(島津家。鹿児島市吉野町(仙巌園・尚古集成館に隣接)のほか、薩摩ビードロ工芸(後発企業。薩摩郡さつま町・霧島市牧園町)等で行われている。
切子の加工は、色ガラス層がグラインダーを目視しにくくするため高度な技能を要する。一部は江戸切子職人に外注もされている。
参考事例
ここでは、薩摩切子と呼称されている関係品を参考事例として取り上げる。 この事例は、”鹿児島(薩摩)で生産”される切子という歴史や地域性、また地域ブランドとしての「薩摩切子」やその復刻品ではない。
かつて大阪府に存在した硝子食器問屋カメイガラスが1980年代に大阪の切子加工職人らとともに薩摩切子の復刻商品化を試み、生産・販売を行った。同社は1990年代半ばに廃業。
現在はカメイガラスの倒産時の在庫や流通品、また販売・制作に関わった問屋・下請けの切子職人が「薩摩切子」として、あるいは薩摩切子の復刻に関わった経歴を踏まえた商品販売や作家活動・教室を行っている。
薩摩琵琶(さつまびわ)は、盲僧琵琶の系譜をひく語りもの音楽の一ジャンル。
概要
日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から「薩摩琵琶」という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行する。
薩摩琵琶は、晴眼者の琵琶楽としては最古の段階に属し、また、プロフェッショナルによる音楽ではなくアマチュアの音楽としても年代的に古い。道徳歌曲というべき特色を有し、平曲とは異なり、道徳性が文学性に優先する。
歴史
薩摩琵琶は16世紀に活躍した薩摩の盲僧、淵脇了公がときの領主、島津忠良(日新公)の命を受けて、武士の士気向上のため、新たに教育的な歌詞の琵琶歌を作曲し、楽器を改良したのが始まりと言われる。それまで盲僧琵琶に用いられた琵琶を改造し、武士の倫理や戦記・合戦物を歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造にしたものである。盲僧琵琶では柔らかな材を使うことが多かった胴部を硬い桑製に戻し、撥で叩き付ける打楽器的奏法を可能にした。撥は大型化し、杓文字型から扇子型へと形状も変化させた。これにより、楽器を立てて抱え、横に払う形で撥を扱うことができるようになった。江戸時代には『木崎ヶ原合戦』など合戦を語った曲が作られて流行し、やがて武士だけでなく町民にも広まった。こうして剛健な「士風琵琶」と優美な「町人琵琶」の2つの流れが成立する。江戸時代末期には池田甚兵衛が両派の美点を融合させて一流を成し、以降、これが薩摩琵琶として現在まで続いている。
薩摩藩出身者が力を持っていた明治時代には東京に進出し、富国強兵政策とも相まって各地に広まり、吉村岳城、辻靖剛、西幸吉、吉水錦翁などの名手が輩出した。また明治天皇が終生愛好し、1881年(明治14年)5月には、元薩摩藩主・島津忠義邸にて西幸吉が御前演奏をしたことから、社会的な評価がさらにあがり、のちには「筑前琵琶」とともに「宗家の琵琶節」は皇室向けにしか演奏しない「御止め芸」となった。
勇壮な楽曲と豪快な演奏で知られた薩摩琵琶も、東京で流行するなかでしだいに洗練されて都会化し、優美でデリケートな芸風をもつものも現れた。そうしたなか、永田錦心が現れて、歌い方の改革がなされ、都会的で艶麗な曲風を特徴とする錦心流を打ち立てた。また、錦心は謡曲の歌詞や曲節も取り込んだため、これが評判となりさらに全国に普及した。
昭和に入ると、錦心流から現れた水藤錦穣が筑前琵琶の音楽要素や三味線音楽の曲風を取り入れた「錦琵琶」を創始した。楽器も筑前琵琶を取り入れて五弦五柱を持つよう改良された。その後、錦心流から出た鶴田錦史が五弦五柱をさらに改良するとともに、音楽的にも新しい分野へ飛躍させた。それまで語りの伴奏として用いられてきた琵琶に器楽的要素を大きく取り入れ、語りを伴わない琵琶演奏、西洋楽器やこれまで協奏することのなかった他の和楽器との合奏、また錦心流を基礎とした琵琶歌の改良など斬新なアプローチを行ったのである。鶴田錦史の流れを汲むこの一派を「鶴田流」あるいは「鶴田派」と呼称し、近年、注目を浴びている。
加世田鎌・加世田包丁
香箱
垂水人形
知覧傘提
初鼓
薩摩深水刃物
蒲生和紙
鶴田和紙
屋久杉製無垢物家具
種子鋏
薩摩弓
五月幟
阿多張りキセル
種子包丁
サンシン
伊集院の太鼓
竹製品【編組物】
宮之城花器
帖佐人形
薩摩錫器
竹製垣根
甑島芙蓉布
甲冑
屋久杉製挽物
つづら工芸
薩摩切子
薩摩つげ櫛
屋久杉小工芸品
薩摩糸びな
薩摩琵琶
鯛車
太鼓(チヂン)
薩摩焼