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相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日 – 1999年2月5日)は、日本の洋画家。埼玉県川越町(現・川越市)生まれ。冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた。新制作協会会員。

概要
1918年(大正7年) 埼玉県川越市に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎[1](のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で恵まれた環境だった。
1936年(昭和11年)川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学び東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗にふれ稼業を継いだ。
1940年(昭和15年) 21歳で兵役につき、旧満州やフィリピンを転戦。
1944年(昭和19年) フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落、重傷をおって漂流していたところを救出される。
1948年(昭和23年) 仕事の関係で大国章夫に出会い、抑えていた絵画熱が再燃する。
1948年(昭和23年) 猪熊弦一郎に師事する。
1950年(昭和25年) 「白いビル」で新制作展初入選。
1961年(昭和36年) 北海道に写生旅行に出かける[2]。満州での体験を甦らせ自身の原風景を発見する。
1963年(昭和38年) 「原野」「ノサップ」で第27回新制作協会展新作家賞受賞。
1968年(昭和43年) 新制作協会会員になる。
1974年(昭和49年) 第1回東京国際具象絵画ビエンナーレ招待出品。
1987年(昭和62年) 埼玉文化賞受賞。
1996年(平成8年) 川越市名誉市民になる。

相原求一朗美術館
1996年(平成8年) 北海道河西郡中札内村の中札内美術村に相原求一朗美術館開館。
1999年(平成11年) 享年80 逝去。
2002年(平成14年)生地・川越に求一朗が自作を寄贈した川越市立美術館が開館。同館内に相原求一朗記念室が設けられるとともに、開館記念として「相原求一朗の世界展 自然の詩情」展が開催される。

淡島 椿岳(あわしま ちんがく、1823年(文政6年)7月 – 1889年(明治22年)9月21日)は、幕末から明治初期の画家。小林椿岳の名でも知られる。1824年(文政7年)2月8日生まれともいわれる。 明治時代の作家・画家・蒐集家の淡島寒月は椿岳の実子である。親子揃ってマルチな趣味人・独自の方向性を持った自由人として知られた。また、幕末の大富豪・伊藤八兵衛は椿岳の実兄である。

略歴
椿岳は、武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、富裕な農家・内田善蔵の三男として生まれた。本姓は小林、後に淡島を称す。幼名は米三郎。通称は城三。吉梵、南平堂と号す。幼少期より絵を好み、その才があった。
米三郎は長じると長兄と共に川越を発ち江戸に出て、蔵前の札差・伊勢屋長兵衛の元で奉公する。「伊勢屋」は当代きっての幕府の御用商人で、長兄は伊勢屋一族の伊藤家の娘婿となり、伊藤八兵衛と改名する。これが幕末期に江戸一の大富豪に上り詰めた伊藤八兵衛である。後に渋沢栄一は八兵衛の元で商売を学び、八兵衛の次女・兼子は渋沢栄一の妻となった。また八兵衛の娘たちは皆、伯爵夫人となる。
如才ない三男の米三郎(椿岳)は、兄・八兵衛を良く助けたが、日本橋馬喰町の有名軽焼屋・「淡島屋」を営む豪商・服部喜兵衛の元に婿入りし、淡島屋の屋号から淡島姓を名乗る。その後、生活に困らない米三郎は大枚を叩いて水戸藩の御家人株を買って小林城三と改姓した。
絵の道に憧れていた城三(椿岳)は、蔵前で画塾を開いていた大西椿年に大和絵を学び、師の一字をもらって椿岳と号する。さらに谷文晁や高久隆古に師事した。椿岳は日本画の形式に拘らず、洋画も川上冬崖、高橋由一らの交流を通して学んだ。
1859年(安政6年)に寒月が生まれるが、「妾160人」とも言われた椿岳の奔放な女道楽が続く。1870年(明治3年)、愛人とともに浅草寺境内の伝法院に住む。椿岳の奇人・変人と称された伝説的な生活が始まる。浅草寺で椿岳は見世物小屋を開く。西郷隆盛も見学しに来るほどであった。椿岳は次に浅草寺境内の淡島堂に移り、頭を丸めてデタラメなお経をあげるにわか坊主になる。ここで泥絵による洋画風の風景画や風俗画を書き、これが評判を呼んだ。浅草絵の創始である。また鳥羽僧正の鳥獣戯画の影響を受けて、独自の「椿岳漫画」を制作、漫画でも一家を成した。また、明治初期、牛込円福寺に大幅を描いている。
1884年(明治17年)、椿岳は向島の弘福寺門前に梵雲庵を建て移り住み、易者の真似事などをする。1889年(明治22年)、一ヶ月放浪して帰宅した直後に梵雲庵で死去した。墓石には「吉梵法師」と刻まれた。
時世の句
今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれは初めて

岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 – 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。

概要
1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福沢諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福沢桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。
川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。卒業後、2浪して東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学、藤島武二に師事する。卒業後、1936年(昭和11年)の文展で選奨、翌年の第1回新文展で特選となるなど画壇へ華々しいデビューを果たす。
1939年(昭和14年)、光風会会員となり、また従軍画家として中国大陸に赴き挿絵を読売新聞埼玉版などに発表した。1941年(昭和16年)、斎藤五百枝の娘・百譽と結婚。しかし懐妊していた百譽が死去、死因をめぐって五百枝と争いとなり、勝平は画壇を去った。また、父の育太郎も死去し、後妻の子であった勝平は兄弟たちに冷遇され経済的に困窮することとなる。
その後、長い放浪生活に入るが詳細は分かっていない。終戦後、川越に戻り死ぬまで絵の具も買えない貧困と孤独な生活が続いた。友人の川端康成や河北倫明の励ましだけが精神的な支えで、鉛筆による素描を続けた。このデッサンは非常な好評を博し、エドマンド・ブランデンの激賞を受けたが、勝平は健康を害し暮らしは楽にはならなかった。死期を予感し新制作展に出品するも落選、失意のうちに1964年(昭和39年)9月、肺がんで死去した。享年59。墓は、川越市の真行寺。
勝平の作品のいくつかは生地川越にあった田中屋美術館が所蔵していたが、同館の閉館後は新設された川越市立美術館に移されている。

落田 洋子(おちだ ようこ、1947年11月22日 – )は、日本の画家。

経歴・人物
埼玉県浦和市生まれ。1968年、武蔵野美術短期大学商業デザイン科卒業。
広告企画の仕事を経て、1976年から油彩画を描き始める。1978年、六本木・青画廊で初個展。1979年、銅版画を開始する。個展やグループ展示会などで作品を発表している。作品は単行本や文庫本などで多く使われている。
1982年、『紅茶と海』でライプツィヒ国際図書デザイン展銅賞を受賞。
個展活動は銀座77ギャラリーを中心に展開している。
グループ展に「ポストコレクション展」(東京セントラル美術館)、「現代形象展」(ストライプハウス美術館)、「チバ・アートナウ’98」(佐倉市美術館)などがある。

金子 國義(かねこ くによし、1936年7月23日 – 2015年3月16日)は、日本の画家。
埼玉県蕨市出身。織物業を営む裕福な家庭の四人兄弟の末っ子として生まれた。蕨第一国民学校(現・蕨市立北小学校)入学。図画工作に優れた子供だった。バレエ公演を観て憧れ、バレエを習う。ミッションスクールの聖学院高等学校を経て、1959年、日本大学藝術学部入学。歌舞伎舞台美術家の長坂元弘に師事し、舞台美術を経験する。大学卒業後、グラフィックデザイン会社に入社するも3か月で退社し、フリーとなる。1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦の依頼で同作の挿絵を手がける。翌1967年、澁澤の紹介により銀座の青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューする。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵を得意とする。活動・表現領域は幅広いが、一般には「富士見ロマン文庫」(富士見書房)、『ユリイカ』をはじめとする多くの書籍・雑誌の装幀画・挿絵を手がけたことで知られた。
コシノジュンコとは、古くからの親交があった。
L’Arc〜en〜Cielのhydeからのラヴ・コールで、彼の好きなコウモリをモチーフにした浴衣をデザインしたり、ソロ・アルバム「FAITH」のジャケットを手掛ける他、プライベートでも呑みに行くなどの交流もあった。
2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。

喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、宝暦3年(1753年)頃? – 文化3年9月20日(1806年10月31日))とは、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。

来歴
姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても研究者の間では文献から川越(野口米次郎や関根只誠が主張)と江戸市中の2説が論争されており、他にも京、大坂、栃木などの説もある。
鳥山石燕のもとで学び、根津に住む。細判の役者絵や絵本を制作する。初作は安永4年(1775年)に北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)の表紙辺りであろうといわれる。初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いていた。また天明8年(1788年)から寛政初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として当時流行していた狂歌に浮世絵を合わせた狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』、『汐干のつと』などを著した。これら狂歌絵本では植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描き、狂歌人気と相まって歌磨の出世作となった。その後は蔦屋の援助を得て抜群の才を発揮、歌麿の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。ここで歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。
歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の表情だけでなく内面や艶も詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘(三河の出のたかが有名で歌麿の死に水をとったとされる)など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。これに対して江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し美人画を書き続けた。しかし文化元年(1804年)、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受ける。これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が当代の将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったと見なされたためである。この刑の後、歌麿は非常にやつれたとされる。しかし歌麿の人気は衰えず版元からは仕事が殺到したとされ、その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士。
開国後、他の例に漏れず多くが国外に流出した。特にボストン美術館のスポルディング・コレクションは歌麿の浮世絵383点を所蔵。公開を長く禁止したため非常に保存状態が良く、すぐに退色するツユクサの紫色もよく残っている。

作品
錦絵
「婦人相学十躰」
「風流七小町」
「当時全盛美人揃 越前屋内唐土」 大判 東京国立博物館所蔵
「娘日時計 未ノ刻」大判 東京国立博物館所蔵
「相合傘」大判 東京国立博物館所蔵
「歌枕」
「針仕事」 大判3枚続の左 城西大学水田美術館所蔵
「山東京伝遊宴」 大判 錦絵3枚続 城西大学水田美術館所蔵
「音曲比翼の番組」 小むら咲権六 間判 城西大学水田美術館所蔵
「橋下の釣」 長判 城西大学水田美術館所蔵
「北国五色墨 切の娘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
「高島おひさ」 大判 大英博物館所蔵
「歌撰恋之部 稀二逢恋」 大判 大英博物館所蔵

倉田白羊(くらた はくよう、1881年(明治14年)12月25日 – 1938年(昭和13年)11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。

人物
自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。

経歴
埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田努は漢学者で、安井息軒の高弟であった。
1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
1896年(明治29年)、師・浅井が東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の教師として迎えられたため、1898年(明治31年)に倉田もこれを追うように入学し、1901年(明治34年)に首席で卒業。
1902年(明治35年)、太平洋画会に参加。作品を発表するかたわら、中央新聞社を経て時事新報社に勤務し、カットや美術展評などの仕事を行う。またこの頃から、「白羊」の雅号を用いるようになった。
1907年(明治40年)には、第一回文部省美術展覧会に『つゆはれ』で入選。この頃から倉田の活動も活発になっていく。翌年には山本鼎、石井柏亭、森田恒友による美術文芸雑誌『方寸』に参加し、同じ頃「パンの会」にも参加。 1912年(大正元年)には『川のふち』が夏目漱石の美術批評に取り上げられるなどして評判も上がっていき、1915年(大正4年)には日比谷美術館で個展も開いている。
『方寸』で知り合い親友となった小杉未醒の紹介で、押川春浪を中心としたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に入会していた倉田は、1916年(大正5年)、倶楽部の旅行で朝鮮・満州に出かける。これが倉田の転機となった。 この旅行の中で大自然の魅力に取りつかれた倉田の絵からは、以降人間の姿が少なくなっていく。 そして、1922年(大正11年)には、山本鼎に日本農民美術研究所の副所長として招かれ、長野県上田市に移住する。以後はここを終生の住処とし、作品を発表しながら農民美術運動の指導にもあたった。
1934年(昭和9年)、持病の糖尿病が悪化し右目を失明する。その後も絵は描きつづけたが、病状は悪化。1938年(昭和13年)には完全に失明し、同年11月29日に死去。墓所は多磨霊園。

栗原大輔(くりはら だいすけ 1971年6月22日-)は日本の細密画家、画文エッセイスト、広告デザイナー、声楽家、指揮者。血液型はA型。身長172.0cm。埼玉県所沢市に生まれ、隣市の狭山市で育つ。

略歴
埼玉県立狭山高等学校卒業後、観光バスの車掌になるが、21歳の時にオペラ歌手に転身。約5年間国立オペラカンパニーの専属テノール歌手となり、脇役(主に道化役)として邦人作曲家の新作オペラ、イタリア・オペラ、ミュージカルなどにソリストとして出演。25歳の時にフィレンツェ五月音楽祭歌劇場初来日公演、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲:歌劇「アイーダ」(神奈川県民ホール/NHKホール)の出演を最後にオペラ歌手を廃業。
約2年間フリーター生活を続けながら独学で絵の勉強を始め、図書館などに通って資料を集め、細密画家の修行を続けるが、自分のジャンルを「精密画」という名称にし、1998年正式に精密画家としての活動を始める。公式初の発表作品は「高松琴平電鉄850型電車」(不透明水彩画)で、2006年現在までに戦闘兵器を除く題材約300点の「乗り物精密画」を全国の博物館、企業、個人愛好家の依頼で作画発表している。
彼の作品の基本は「学術標本図」であり、背景のある美術的作品は非常に少ないが、例外として2004年2月から2006年3月まで医系奨学生向け月刊紙「トトロのふるさと」にて全31回連載された画文連載「ぼくの散歩道」においては風景画や、人物画、戦闘機などが作画されて発刊された。
当初は国鉄型機関車の精密画を中心に描いてきたが、現在は日本全国各地で活躍した旧型路線バスを題材にした作品が多い。2006年3月18日に長野県長野市にて行われた川中島バス主催「バスまつり」では同社の旧塗装2種を再現したメモリアルバス1号、2号の精密画化の依頼を受け、現在川中島バスによって販売されている。
2005年秋には江戸東京たてもの園での特別展示「栗原大輔精密画の世界展」が当初2週間の期間開催される予定であったが、2ヶ月間のロングラン展示を成し遂げた。2006年秋にも2週間の特別展示会が予定されたが、前年に引き続き1ヶ月のロングランを達成。
2006年11月より江戸東京たてもの園にて定期運行されているボンネットバスの車掌としても活躍。
精密画家以外の活動では宮城県栗原市にて初開催された町興しイベントの企画にも参画し、初のCG作品によるポスターや、2007年3月に廃止予定のくりはら田園鉄道の前身「栗原電鉄」の主力電動車M153型電車、ED20型電気機関車などの精密画化も行った。 ちなみに栗原大輔と宮城県栗原市、くりはら田園鉄道とは家系の由来はない。
2007年3月14日、東京都 台東区浅草一丁目 の浅草セントラルホテル・ロビー:歴史のりもの博物館内に栗原大輔精密画美術館が開館した。
2011年、いすみ鉄道いすみ203号気動車の絵を描くことを依頼されたのが縁で、同年12月11日付で風そよぐ谷 国吉駅の「観光駅長」に任命された。土日祝日及びイベント開催日に勤務する(2012年1月現在)。

オペラ・ミュージカル
ジンク・シュピール「魔笛」(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲 ・199?年:高僧役)
音楽劇「銀河鉄道」(神田慶一宮沢賢治原作 1994年:タイタニックの青年役)
歌劇「フィガロの結婚」(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲 ・1995年:ドン・バジリオ役)
歌劇「マクロプロス事件」(ヤナーチェク作曲 ・1995年:プルス男爵の息子ヤネク役)
歌劇「カルメン」(ビゼー作曲 ・1995年:役名不明)
歌劇「トスカ」(ジャコモ・プッチーニ作曲 ・1996年:秘密警察警部スポレッタ役)
ミュージカル「アリス!」(神田慶一ルイス・キャロル原作 ・1996年:時計ウサギ役)
歌劇「ラ・ボエーム」(ジャコモ・プッチーニ作曲 ・1997年:パルピニョール役)
歌劇「アイーダ」(ジュゼッペ・ヴェルディ作曲 ・1997年:役名不明)

小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 – 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正~昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。

生涯
明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。(明治38年に養子縁組することになる) 明治36年(1903年)、雪岱は16歳の時に画家を志して日本画家の荒木寛畝に入門した[1]。
明治37年(1904年)、東京美術学校日本画科選科入学。下村観山教室に学ぶ。古画の模写、風俗考証を学ぶ。明治40年(1907年)に福岡医科大学の久保猪之吉が上京してきて、夫人とともに駿河台の宿屋に泊まった。この時、歌川豊国の絵の模写を頼まれていた雪岱がそれを届けに宿屋へ伺うと、久保は外出しており夫人が応じた。そこへ宿屋の女中が「泉先生の奥様がお見えになりました」と告げに来たという。久保夫人と泉鏡花夫人は昵懇であったようで、「明日は鏡花本人もここにお邪魔します」という言葉を聞いて、すでに鏡花の小説を愛読していた雪岱は、再びその宿屋を訪れた。このようにして雪岱は、小柄で、ちょっと勝気な美女が男装したような感じのする鏡花と巡りあったのであった 。雪岱の雅号を与えたのが鏡花である[3]。明治41年(1908年)に東京美術学校を卒業、一時、国華社に入社している。
明治42年(1909年)、養父の安並賢輔病没。安並家を継ぐ。ただし、仕事では小村姓を名乗る。
大正3年(1914年)、泉鏡花の『日本橋』の装幀を行ない、以後鏑木清方と並び、多くの鏡花作品を装幀、木版多色摺りによる挿絵の仕事を手がけた。また、大正11年(1922年)には里見弴の『多情仏心』の挿絵も手掛けており、装幀のほか、新聞雑誌の挿絵において活躍している。雪岱の美人画は橋口五葉よりも浮世絵的な雰囲気が色濃かった。その作品は鈴木春信の影響を受けながらも、幕末の歌川国貞あたりの末期浮世絵のもつ崩れた美にも通じていた。新聞小説の挿絵などでは、殊にオーブリー・ビアズリーのような黒白のシャープで、くっきりとした版画的な絵をもって特色を際立たせた。なお、雪岱の木版画は、生前のものより、その没後に高見沢木版社などから版行されたものの方が多く、いわゆる新版画に分類される。
一方、舞台美術の分野でも異才を発揮し、大正13年(1924年)の『忠直卿行状記』から舞台装置の世界で独自の感覚を発揮、『一本刀土俵入』、『大菩薩峠』など、数多くの作品を制作し、溝口健二の映画美術の担当などをこなして、舞台装置の世界で自ら一時期を画した。
昭和8年(1933年)に、挿絵の代表作となった邦枝完二作の新聞小説『おせん』(東京朝日新聞)、翌昭和9年(1934年)の『お伝地獄』(読売新聞)など数々の作品を発表するなど、挿絵の分野においても大きな足跡をのこした。この『おせん』以降は邦枝文学とのコンビネーションも目覚ましかった。また国画会同人でもあり、情趣と端麗な画風を以て、「昭和の春信」と評された。
昭和15年(1940年)、脳溢血にて死去。享年54。墓所は世田谷区北烏山の妙高寺(烏山寺町内)。法名は園林院雪岱日閣居士。

略歴
1892年 川越小学校入学
1900年 坂戸小学校高等科卒業
1904年 東京美術学校入学
1908年 東京美術学校日本画科卒業
1908年 美術雑誌国華社入社
1910年 国華社退社
1914年 『日本橋』の装幀を行う
1918年 資生堂に入社、化粧品広告などを手がける
1919年 田村八重と結婚
1923年 資生堂を退社
1939年 田坂柏雲と「絵画と木彫美術展覧会」を開催
1940年 麹町の自宅で脳溢血により死去

小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 – 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。詩情の画家。

略歴

『朝露』1932年(足立美術館)
埼玉県川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。
17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門(御舟が午前、青樹が午後だった)。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。翌年、今村紫紅が主宰する赤曜会に参加し、青樹と号する。
1915年(大正4年)の再興院展に「小泉夜雨」が初入選。その後、肺結核となり川越の実家で静養する。1918年(大正7年)、第5回再興院展で「菜園」が入選。1921年(大正10年)、第8回再興院展に洋画的な手法と細密表現の際立つ「出雲江角港」を出品し、横山大観らに推挙され日本美術院の同人となる。1929年(昭和4年)、杉立社を組織、また帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授に就任。1931年(昭和6年)、日本画が本来もつ装飾性に眼を向けた「虫魚画巻」を第18回院展で発表。
1933年(昭和8年)、咽頭結核が悪化し神奈川県逗子市で夭折。享年41。墓は川越市の広済寺にある

後藤 純男(ごとう すみお、1930年1月21日 – )は日本画の画家。
昭和5年(1930年)、千葉県東葛飾郡関宿町(現野田市)に生まれる。昭和7年(1932年) に埼玉県北葛飾郡金杉村(現松伏町)へ転居。昭和61年(1986年)に内閣総理大臣賞を受賞、昭和63年(1988年)から平成9年(1997年)まで東京藝術大学美術学部の教授を務めた。平成18年(2006年)に旭日小綬章を受章する。平成28年(2016年)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する。歌人の米川千嘉子は姪。

略歴
1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の真言宗豊山派の住職後藤幸男の子として生まれる。
1932年 埼玉県金杉村(現・松伏町)へ転居。
1942年 金杉小学校を卒業する。同年、父後藤幸男が母校で教師を勤めていた旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)入学
1945年 郷里の旧制埼玉県立粕壁中学校(現春日部高等学校)第4学年へ転入。
1946年 粕壁中学校卒。山本丘人に師事。
1949年 田中青坪に師事。
1952年 再興第37回日本美術院展覧会(院展)に初入選。5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙。
1955年 約8年間の関西、四国における真言宗の寺を巡るスケッチ旅行を始める。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待に推挙。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。
1974年 日本美術院同人に推挙。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院名誉教授に就任。
1986年 再興第71回日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学美術学部教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家の後藤仁がいる。
1993年 真言宗豊山派の総本山長谷寺に襖絵「夏冬山水」を奉納。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2014年5月10日 大分県玖珠郡九重町田野1712-707 九州芸術の杜内に常設で後藤純男リトグラフ館を開館。(原画とリトグラフ)
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
現在 日本美術院同人理事。中国西安美術学院名誉教授。

斎藤三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 – 1996年3月17日)は日本の洋画家。浦和画家。

人物
23歳で太平洋戦争に応召し、生死のはざまで和紙に3000枚のスケッチを残した。生きて帰国できれば画家になると決意し、終戦後1945年に帰国。浦和市に居住した。
年譜
1917年 – 埼玉県熊谷市に生まれる。
1930年 – 旧制浦和中学校に入学。
1937年 – 内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
1940年 – 東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数のデッサンを描く。
1945年 – 戦地から帰国。埼玉県浦和市に居住。
1946年-第31回二科展に初入選。
1948年-第33回二科展にて「敗戦の自画像」が特待賞受賞。
1949年-サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
1950年-「信仰の女」で第35回二科展二科賞受賞。
1954年-二科会会員推挙。
1961年-第46回二科展にてパリ賞を受賞。
1972年-渡欧。第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
1974年-渡欧、おもにスペインに滞在する。
1975年-渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
1996年- 埼玉県浦和市にて死去。享年78。

斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日[1]-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。

経歴
埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現・加須市)生まれ。本名は与里治。浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学び、1906年に鹿子木とともにフランスへ渡った。1908年8月に帰国した後は「白樺」誌上で、ポスト印象派やフォーヴィスムの作品を紹介した。1912年、岸田劉生らとフュウザン会を結成(翌年解散)。
1924年に槐樹社(1924-1931年)を設立し、機関誌『美術新論』の主幹として美術評論も行った。解散後、1932年に東光会(1932年-)を創設した。
この間、大阪美術学校(大阪芸術大学の前身・大阪美術学校とは別で、1944年廃校。跡地は枚方市立御殿山生涯学習美術センター)の創立に協力し、1926年に教授となった。

四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 – 1981年)は、埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。

略歴
高等小学校卒業後に上京し、神田の書店に勤める。そのかたわら川端画学校に学び、日本画家を志す。この時期、川端龍子を師と仰いだ。また、浦和市の別所沼畔に居住し須田剋太ら浦和画家と交流した。
1928年(昭和3年)に至り、龍子主宰の画塾・御形塾に進む。青次郎の雅号は、1930年(昭和5年)に第二回青龍展に龍子が出品した作品名『草炎』から与えられた。そのため、若かりし青次郎にとっては愛しい号となった。そして1931年(昭和6年)になり、第三回青龍展に出品した『花紅白』で初入選。以降、春と秋の青龍展で計7回の入選を果たし、青龍社社子に推されるまでになり、新進の日本画家として期待されるも、1938年(昭和13年)になり、青龍社を退社。何が原因であったかは知られていないが、以後、草炎は孤高の道へと入る。戦後間もなく、群馬県霧積山中にこもる。標高1100mもの山中に寝泊まりしたこの時期に、野生の猿の素描に明け暮れた。草炎の孤高の素描画のスタイルは、この時に確立された。その後、下山し、1952年(昭和27年)には岩崎巴人らと共に日本画・洋画のグループ莚上会を、1963年(昭和38年)には村田泥牛らと結成した石上グループなどのグループ展、そして個展を中心に作品を発表。昭和30年頃から作陶にも力を注ぐようになるが、青龍社時代ほど脚光を浴びることはなく、1971年(昭和46年)に作陶中、脳溢血で倒れ、闘病生活の果て、79歳で病没した。この闘病生活10年の間、草炎は、「私は一生パン画(売り絵)は書かない」、「有名になると(絵が)駄目になる」と言い続け、反骨精神と共に無名のまま逝ったのである。
草炎の没後から5年目にして、「四方田草炎全貌展」が東京六本木のストライプハウス美術館で開かれ、これをきっかけとして、新たに脚光を浴びることとなる。各地で展覧会も開かれ、ここに四方田草炎は本庄を代表する画家として認知されるに至った。

画風と評価
草炎が描いた素描は1万点を超え、画面に強く引かれた線、同じ所を何度も何度もなぞって描かれた部分は以上に黒光りし、そこには対象の本質に迫ろうとする画家の全身全霊を傾けた、真摯で一途な執念ともみえるものがあるとされる。これは山中生活から研かれたものであった。
草炎の素描を観た近代日本画の中心人物である横山大観は、「君は一体どうしてこれが描けたのか、まさしく神の手だ」と驚嘆の声をもらした。
その他
青龍社退社後から戦後に至るまでの草炎の作品は、大半が現存しない。これは戦時中に焼失などして散在してしまったためである。このことは、後々まで草炎の痛手となり、失意となった。この中には、青龍社時代からの思い出深い作品が全て含まれていたためである。
生前、草炎は、「画家は本画を見せればいい」とことごとく言っていた(これは皮肉とも受け止められている)。
NHKの『日曜美術館』において、「孤高のデッサン」と題された特集で紹介され、大きな反響を呼んだ。

須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 – 1990年7月14日 )は、日本の洋画家。埼玉県生。浦和画家。

人物
当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し、光風会に入ることを勧められ入会した。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。浦和画家のひとり、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で、別所沼のアトリエも隣り合っていた。また、四方田草炎や林倭衛とも交流していた。

略歴
1906年 – 埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。本名 勝三郎。
1927年 – 埼玉県立熊谷中学校(旧制、現・埼玉県立熊谷高等学校)卒業。その後浦和市(現:さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するもいずれも失敗。独学で絵を学ぶ。
1936年 – 文展で初入選。
1939年 – 文展で「読書する男」が特選。
1949年 – 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 – 森田子龍編集の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1955年 – 第3回日本抽象美術展に出品。
1957年 – 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1960年 – 第1回個展(大阪フォルム画廊)。
1961年 – 現代日本絵画展に出品。カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。
1962年 – 西宮市民文化賞を受賞
1971年 – 司馬遼太郎に同行しながら、「街道をゆく」の挿絵を描き始める。
1975年 – 郷里の吹上町文化賞を受賞。
1983年 – 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1989年 – 埼玉県立近代美術館にすべての抽象の油彩画、グワッシュの合計293点を寄贈。
1990年 – 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。死期を感じ取り作品を散逸させないため大量の寄贈を行ったと言われている。
1990年 – 7月14日午後5時28分、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で死去。

高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 – 1992年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家、文化功労者。瑞宝章受章者。浦和画家の代表格として知られる。

経歴
埼玉県浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)常盤町の代々医者として知られていた旧家である高田家に生まれた。父は医師のほか民政党の県議会議員を務めた高田源八。埼玉県立男子師範学校付属小学校の5、6年生のころに初めて油絵を制作している。浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)では恩師となる福宿光雄に学び、福宿の薦めで跡見泰や相馬其一の指導を受けた。同じ美術部には増田三男がいた。浦中4年の時16歳で「浦和風景」を出品し二科展に初入選。プロの絵描きの登竜門とされた二科展で中学生の入選は珍しく、新聞に大きく報じられた。1930年に父の友人の紹介状によって、二科会の重鎮であった安井曾太郎に師事した。一水会展、新文展、日展に出品し、1955年埼玉大学教育学部美術科講師となった。1972年に日本芸術院賞を受賞、78年には日本芸術院会員に任命された。1990年には浦和市名誉市民(現在はさいたま市名誉市民に継承)となった。作品の多くは埼玉県立近代美術館に収蔵されている。

経歴
1913年9月24日 – 埼玉県浦和町(のち浦和市)常盤町に生まれる。
1924年(大正13年) – 浦和中学校に入学、福宿光雄に図画を学ぶ。
1929年(昭和4年) – 二科展に「浦和風景」を出品し初入選。
1930年(昭和5年) – 安井曾太郎に師事。
1931年(昭和6年) – 二科技塾(のち番衆技塾)に入り、安井や熊谷守一に学ぶ。「海の見える風景」を二科展に出品し、入選。
1955年(昭和30年) – 埼玉大学教育学部美術科講師。
1961年(昭和36年) – 埼玉県美術家協会会長。
1962年(昭和37年) – 日展評議員。
1968年(昭和43年) ― 「雑木林のある風景」で日展文部大臣賞受賞、埼玉県教育功労者。
1972年(昭和47年) – 日本芸術院賞[2]、
1973年(昭和48年) – 日展理事長。
1976年(昭和51年) – 安井曾太郎記念会理事・評議員。安井賞の運営に尽力。
1977年(昭和52年) – 埼玉県文化功労者。
1978年(昭和53年) – 日本芸術院会。
1984年(昭和59年) – 第一回浦和市民文化栄誉賞。勲三等瑞宝章受章。
1987年(昭和62年) – 文化功労者。個人としては初の埼玉県民栄誉賞受賞。
1990年(平成2年) – 浦和市名誉市民。
1992年10月24日 – 死去。11月24日にはさいたま市文化センターにて浦和市民葬が営まれた。

田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 – 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。

経歴
1886年旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業後、単身渡米しシアトルへ渡る。その後皿洗いやピーナッツ売りなどで生計をたてる暮しのなかで、次第に画家の道を志すようになり独学で絵画の勉強を始める。1912年頃、アカデミックな傾向のオランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入学し、素描や油彩を学ぶ。洋画家清水登之及び野村賢次郎もここで学んでいる。
1915年シアトル市公立図書館展示室で初めての個展を開く。この頃タダマの画塾で指導するかたわら、自らも画塾を開く。同年アメリカ合衆国代表としてパナマ・サンフランシスコ万国博覧会に《マドロナの影》を出品する。1917年個展で発表した裸婦を描いた作品が風紀上好ましくないという理由から撤退勧告を受けるが、抗議文を発表して信念を貫く。個展は大評判となり、一日に千人も押し寄せる。同年判事の娘であり、詩人及び美術評論家で活躍しているアメリカ人ルイーズ・カンと結婚。1919年北西画家展で出品した《秋の小川》が2等賞を獲得するなどアメリカで画家として成功する。
1920年更なる高みを求めて美術の中心地フランス・パリに約100点の作品を携えて移住する。その後、画塾を開きながら個展の開催やサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・ナショナル、サロン・デ・チュイルリーなどの展覧会に出品する。1921年《銅の花器》、1922年《夜のセーヌ》がフランス政府に買い上げられる。1924年渡仏中の東久邇宮、朝香宮及び同妃夫妻が個展の出品作品の中から8点を購入する。同年リュクサンブール美術館に《渓流にて》が買い上げられジュ・ド・ポーム(印象派美術館)に展示されるなどパリでも画家としての地位を築く。1927年サロン・ドートンヌ、1929年には、サロン・デ・ナショナルの会員となる。
1939年第二次世界大戦が勃発し、日本人のほとんどが帰国する中パリに留まり、戦火を避けながら、定期的に作品の発表を続ける。1941年ドイツ軍占領下のパリで病没する。遺髪は、夫人によって岩槻に届けられ菩提寺である芳林寺に埋葬される。1946年パリのL・マルセイユ画廊にて遺作展が開催される。
この後、田中の作品群は夫人に愛蔵され、人目に触れることもなく終生愛される。夫人の死後、その遺産が売却されることになり、改めて田中の作品が世に出る。たまたまニューヨークの画商がフランスの地方を旅行中、ある画廊で田中の作品群に眼をとめ感動し、蒐集する。田中の没後35年を経過した1976年、東京・伊勢丹で「田中保展」が開催され、夫人の遺産から蒐集した主な遺作34点が祖国日本で初公開される。
作品の大部分は埼玉県立近代美術館及びサトエ記念21世紀美術館にコレクションされている。近年他の美術館でも田中保のコレクションが徐々に増えている。

羽川 珍重(はねかわ ちんちょう、延宝7年〈1679年〉? – 宝暦4年7月22日〈1754年9月8日〉)とは、江戸時代初期の浮世絵師。

来歴
鳥居清信の門人。姓は真中、俗称は太田弁五郎。画姓を羽川といい、絵情斎、珍重、冲信、元信と号す。武蔵国川口(現・埼玉県川口市)の生まれ。後に江戸下谷に住んだ。幼い時に清信に絵を学び、遊女評判記、役者評判記、六段本、赤本を描いた他、一枚摺の墨摺絵や丹絵を10数点、また数点の肉筆浮世絵を残す。画風は鳥居派のものより幾分柔らかい。生涯妻を娶らず、武道をたしなみ、常に言行を慎み、遊山、舟遊びの際にも肩衣を脱がないといった、浮世絵師には珍しい人物であった。また絵をもって生活をしていたが、気が向かなければ描かないため、書肆も大いに持て余したといわれる。後に仏門に入り、三同宣観居士と称した。
代表作として享保7年(1722年)の役者評判記「役者芸品定」、延享2年(1745年)作画の肉筆画「風俗図」(紙本着色)があげられる。この「風俗図」は彦根屏風に描かれた二人の人物を忠実に写し取っており、珍重の画技の高さを示す優れた模写本といえる。また晩年は、自画の絵馬を川口の稲荷五社に奉納、自画像と小引(しょういん : 短い序文)一巻を子孫に残したが、他の物は火災により焼失したといわれる。下総国葛飾郡川津間の郷士、藤沼氏の家にて没した。享年76。辞世の句は、「たましいのちりぎはも今一葉かな」。墓所は江戸の下谷池之端の東園寺。
門人に羽川藤永、羽川和元がいる。

深沢 邦朗(ふかざわ くにろう、1923年5月23日 – 2009年1月8日)は、日本の童画家。埼玉県生まれ。

最も知られた少女画について
高級クッキーセット「チボリーナ」のパッケージとなっている丸い顔の少女のイラストが、最も知られた深沢の作品である。
「チボリーナ」の7種類のパッケージ画では常に少女の顔の左側が描かれているが、他の絵では正面を向いている事もある。
この少女のモチーフは深沢の作品に繰り返し表れている。その中の2作品は、1986年と1987年の共同募金のポスターの原画として描かれたものである。
特に、雑誌「一枚の繪」において発表された作品は、殆ど全てがこの少女の絵であった。
なお、深沢本人の弁によると、この少女にモデルは居ないとの事である。
童画家としての多様な活躍
なお、童画芸術協会のウェブサイトを見ると、深沢の作品は、この少女以外にも色々ある事が判る。
また、古くから絵本の挿絵画家として活躍しており、童画を中心として多様な絵を描いている。
趣味はボクシング
現在愛らしい少女の絵で知られている深沢であるが、意外にも趣味はボクシングであり、アトリエの隣の部屋にはサンドバッグがぶら下がっている。

経歴
第二次世界大戦に従軍し、戦地でも絵を描いたとの事。
1960年、小学館絵画賞を受賞する。
1975年、自ら設立した現代童画会の初代会長となる。
1979年、現代童画会を退会する。
1983年、自ら設立した童画芸術協会の会長となる。
2009年、肺炎で死去するまで童画芸術協会の会長を務めた。

宮﨑 敬介(みやざき けいすけ、1970年 – )は、日本の版画家。宮崎 敬介(みやざき けいすけ)とも表記される。

概要
1970年、アニメーターの宮﨑駿と大田朱美の二男として、埼玉県所沢市に生まれた。版画家柄澤齊の作品に感動したことをきっかけに、武蔵野美術大学造形学部在学中に独学で木口木版画を始めた。
卒業後は版画家として活動し、木口木版画の制作を続けている。普段は父親が著名なアニメーション監督である事を伏せて創作活動をしているが、一部作品を父の関わった作品に提供した事がある。

略歴
1970年 埼玉県に生れる。
1990年 武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン科入学。
1994年 同校卒業。
1995年 アニメ映画『耳をすませば』用に「牢獄でヴァイオリンを作る職人」を制作。
1996年 木口木版画展「MOONSHINE」(ピンポイントギャラリー)
1997年 ザイログラフィア木口木版画7人展(ガレリアグラフィカ)宮崎敬介木口木版画展(加藤京文堂)
2000年 木口木版画展「PLANET」(ピンポイントギャラリー)
2001年 木口木版画展「wood engraving 放浪時代」(松明堂ギャラリー)
2002年 三鷹の森ジブリ美術館展示用に木口木版画を制作。
2003年 堀田善衛『路上の人』『聖者の行進』『時代と人間』の表紙版画を制作。木口木版画展「プラネット」(ピンポイントギャラリー)
2004年 木口木版画展「calling」(松明堂ギャラリー)
2006年 木口木版画展「サイレンス」(ピンポイントギャラリー)
2007年 木口木版画・銅版画 宮崎敬介・佐藤妙子展(松明堂ギャラリー)

森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 – 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正~昭和期の洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。

経歴
埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。
小山正太郎の不同舎に学び、明治35年(1902年)東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。
大学卒業後の明治40年(1907年)、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選、また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。翌年にパンの会の同人となる。
1914年、ヨーロッパに渡り、セザンヌの影響を受ける[2]。翌年帰国して二科会会員。1916年、日本美術院洋画部の同人となったが、翌年両会とも脱会し、1922年、春陽会を設立。ヨーロッパで得たリアリズムを基本に西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自ら平野人と号し、関東平野の利根川沿いの自然を写生し、閑静な生活の中に心の澄んだ素直な作品を描いた。
南画の伝統を近代絵画に蘇らせた画家の一人。

山本 容子(やまもと ようこ、1952年4月7日 – )は、日本の銅版画家。

概要
作品は、柔らかく繊細な描線と独特の色使いが特徴で、都会的で洗練された雰囲気を持つ。
『マリ・クレール』1988年4月号~1989年3月号に連載された吉本ばななの小説『TUGUMI』の挿画を手がけ、単行本(1989年3月刊行)の表紙絵も担当。版画家としてはすでに一家をなしていたが、同書が1989年年間ベストセラーの総合1位を記録し、累計167万部ものベストセラーとなったことから山本の名前も広く知られるようになる。(なお、編集者の安原顯はこの売上げの多くは、山本の挿画の魅力によるものだと語っている。[要出典])
それ以降、多数の書籍の装丁や挿画、アクセサリー、食器、舞台衣装のデザインなどの幅広い分野の作品を発表している。
また、美術以外の分野でも、旅行、音楽などについての挿画を交えたエッセイを多数出版しているほか、1999年のネスカフェ・ゴールドブレンドを初めとするCM出演や、2005年のベストジーニスト受賞など、その活動は精力的で、多岐にわたる。
愛犬家としても知られ、2007年2月11日に開設された公式ウェブサイトは、かつての愛犬の名を取ってLUCAS MUSEUMと名付けられている。

略歴
1952年 4月、福喜鮨創業者山本喜五郎の孫として埼玉県浦和市(現・さいたま市)の浦和市立病院(現・さいたま市立病院)で生まれる。このため、公式プロフィール上浦和市出身となっている。父は武蔵高等学校尋常科から大阪府立高津中学校を経て第三高等学校受験に二度失敗し、大阪理工科大学(現在の近畿大学理工学部)卒業後、容子の出生当時は埼玉の鉄工所に勤務していたが、後に奈良県生駒市で山本旅館の経営を引き継ぎ、経営難で旅館を手放してからは自らの研究所を設立し、公害処理など化学関係の研究をおこなった。このため、容子は生後50日で山本旅館に移り住む。
1955年 8月、大阪府堺市大浜中町に転居。
1959年 4月、堺市立英彰小学校入学。
1961年 冬、父の研究所の倒産により一家が破産。東京都練馬区に夜逃げし、練馬区立田柄小学校に転校。
1963年 春、大阪府門真市に転居。門真市立大和田小学校に転校。
1964年 父が愛人を作って家から出たため、母がお好み焼き屋を始めて家計を支える。
1965年 4月、聖母女学院中学校に入学。
1966年 カトリックの洗礼を受け、洗礼名ベルナデッタを授かる。
1969年 このころ、天王寺公園で前衛劇団「日本維新派」の芝居を観劇し、強烈な印象を受ける。このとき「こういう演劇に興味があるんなら、京都芸大のアトリエ座に行けばいいよ」と聞いたことがきっかけで京都市立芸術大学を志望するに至る。
1972年 4月、関西美術院とリベラ美術研究所での1年間の浪人生活を経て京都市立芸術大学美術学部西洋画科に入学。
1974年 このころ、先輩の木村秀樹に「あなたのことが好きです」と告白して「僕も君が嫌いではない。でも、みんなで一緒にいる方が楽しいし、何より、作品を創っているのが一番楽しい」と断られる。
1975年 5月、第27回京展紫賞受賞。6月、京都のアート・コアギャラリーにて初個展を開く。
1976年 6月、第1回アート・コア賞受賞。
1977年 7月、第2回京都洋画版画美術展で新人賞受賞。10月、第2回現代版画コンクール展でコンクール賞受賞。
1978年 1月、大学院の先輩にあたる4歳上の版画家の田中孝と結婚。京都の公団南大島団地に住む。3月、京都市立芸術大学美術学部西洋画専攻科修了。田中と共に京都市立芸術大学の非常勤講師をつとめる。9月、第2回日本現代版画大賞展で西武賞受賞。このころ田中の子を妊娠したが、田中の「自分たちの面倒もみきれないほどの貧乏暮らしなのに、子供なんてとんでもない」との一言で中絶を余儀なくされる。
1980年 3月、京都市芸術新人賞受賞。10月、エイボン女性年度賞芸術賞受賞。この年、木村秀樹の紹介で大津市比叡平に転居。
1981年 このころ、容子の作品に注目して東京から訪ねて来た画廊主が田中に向かって”うちの画廊にとってあなたは取り扱い作家として興味がない”旨を宣告。このため田中との夫婦関係が冷却し、家庭内別居が始まる。
1982年 7月、田中と離婚。
1983年 第4回韓国国際版画ビエンナーレで優秀賞受賞。
1984年 7月から、妻子ある21歳上の美術評論家中原佑介と東京都渋谷区代々木のアパートで同棲。このため中原の妻が代々木のアパートに押しかけ、大声で叫びながらドアを叩く、画廊の前で待ち伏せする、牛乳入れにマッチを投げ入れる、執拗に電話をかけ続けるなどの嫌がらせをおこなう。西参道を歩いていた容子に中原夫人が駆け寄って「今からこの人に突き飛ばされた、と言ってから、車に轢かれます」と叫んだこともあった。このときは容子が交番に駆け込み、警官に状況を説明してから「わたしは決してあの人を突き飛ばしたりしないから、証言を取って置いて下さい」と言った。
1985年 5月、東京都港区南青山の秋山庄太郎の家作に転居。
1986年 8月、神奈川県鎌倉市に転居。
1992年 『Lの贈り物』で第23回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。
1996年 テレビ番組の富士通スペシャル『世界遺産──時を超える旅』の収録で知り合った2歳下のテレビディレクター氏家力(嵐山光三郎の元用心棒)と嵐山の仲人で結婚。
2004年 5月、氏家と離婚。

大山 結子(おおやま ゆうこ、5月16日 – )は、日本の現代美術家。俳優やパフォーマーとしても活動する、インターメディア・アーティスト。元水着キャンペーンガール。

人物
埼玉県春日部市出身、東京都世田谷区在住。化粧品のための動物実験の反対運動を目的とした、通称「うさぎ組」という芸術家NGOの代表(「うさぎ組」はNGOという形式の現代美術作品)を務める。ベジタリアン。

来歴
十文字中学校・高等学校に進学。在学中に希望した美大進学を両親に反対され、両親の意向で、某私立大学に世界史の一芸入試で合格、進学するも、本人の意思で家出をしつつ水着キャンペーンガールのアルバイトで貯金をし、すいどーばた美術学院デザイン科に入学(ただし、油画科進学希望だが書類上の手違いでデザイン科に在籍)。同学院では日本画家の高橋浩規などに師事し、女子美術大学デザイン科に入学。その後、本来の志望進路に進むため、貯金をして新宿美術学院油画科に特待生として入学。同学院を経た後、多摩美術大学に入学。
多摩美術大学に在学中、油画を専攻していながら、映像演劇科の研究公演『自来也』に主役の一人として抜擢され、「自来也A役」として出演。多摩美術大学発行の「平成15・16年度 多摩美術大学 造形表現学部 映像演劇学科 共同研究報告書」によれば、『自来也』総合プロデューサーで詩人・評論家の鈴木志郎康から「相手役を食ってしまった」と高い評価を受けている。
『自来也』で共演した多摩美術大学映像演劇科の学生達は卒業と同時に劇団「小指値」(こゆびち)—鈴木志郎康が命名—を立ち上げ、のちに劇団名を「快快」(ファイファイ)に改名して演劇活動を展開。大山は野田秀樹芸術監督就任記念プログラム・日比野克彦との合作、東京芸術劇場の特設野外舞台での発表作品『火の鳥 (ストラヴィンスキー)』で主演を務める。
2009年にはザルツブルク博物館「日本の芸術」展で、日本の現代美術家として紹介される。
近年は、「化粧品類のための動物実験の撲滅を目指す」という主旨の、通称「うさぎ組」と呼ばれる芸術家NGOを立ち上げ、「NGOうさぎ組」の「組長」(代表)として、「化粧品のための動物実験の反対運動」が目的の市民活動と、「現代美術」を融合させた作品を発表することが多く見られる。
「NGOうさぎ組」の主な活動は、ザルツブルク博物館館長Perter Husty のキュレーションによるパフォーマンスアート発表や、早稲田大学法学部主催、塚原史のキュレーションによるパフォーマンスアートの発表などである。
2011年、東日本大震災によって村上隆主催のGEISAI#15が中止になった折には、それを受けて同年6月に開催された「プチGEISAI決起オフ」の招待作家となり、「カイカイキキギャラリー」でパフォーマンスアートを「NGOうさぎ組」として行った。 2016年、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律が施行される時は、参議院議員会館にて開催された集会に、障害者であると同時に現代美術家として活躍する人物として紹介され、障害者であると同時に議員の斉藤里恵と共に、障害者を代表して登壇した。

諸井 春畦(もろい しゅんけい、1866年(慶応2年) – 1919年(大正8年)5月9日)は、明治期から大正期にかけての実業家、書家。諱は直行、字は習郷、通称は時三郎。春畦は号である。

生い立ち
武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)の諸井泉衛(郵便諸井)の三男として生まれる。兄諸井恒平は秩父セメント会社の創設者であり、弟諸井四郎は東亜製粉会社の創設者、その弟の六郎は陸奥条約改正に尽力した外交官。いわゆる、日本の近代化に深く貢献した東諸井家の一族である(そのため、渋沢栄一とは親類関係に当たる)。養子に柳田誠二郎(のちに日本航空の社長となる)。

略歴
上京して経済学を修め、日本初のビルブローカー業(コール取引、すなわち銀行間決済資金融資業務)を始めた。そのため、日本ビルブローカー業の創始者とされる。書の大家である西川春洞に学び、自身も書の大家となった。春畦(時三郎)の妻であるクラも西川春洞の門下生であり、号を華畦、夫婦共に書家であり、共に春洞門七福神の1人であった。1904年(明治37年)、豊道春海などと共に謙慎堂同窓会を結成。1906年(明治39年)頃、上京して来た誠二郎を養子として受け入れ、1911年(明治44年)には明治書道会を結成し、その会長となり、著書に『書法三角論』、『書家宝典』などがある。そのわずか8年後の1919年(大正8年)に、流行性感冒(スペインかぜ)のため東京日本橋濱町にて54歳で没した(兄弟の中でもかなり若い内に亡くなった)。墓所は埼玉県の安養院。安養院には、「春畦諸井先生碑」が置かれている。

書風
春畦は、楷書・隷書を得意とし、力強く潤いのある整然とした書風、と評されている。
著書の『書法三角論』(字を全体的に三角形に書く)は、欧米の学理を取り入れて独自の書風を編み出したものである。

新井 飛山(あらい ひざん、1955年1月8日 – )は、埼玉県東松山市生まれの書家。木村東道に師事。本名は一雄、飛山は号。

役職
清風会総務
新興書道展
運営委員
一部審査会員
毎日書道展会員
清風書道教室 飛山支部長
書歴
毎日書道展にて毎日賞を受賞
新興書道展にて行成賞を受賞
清風書道展にて日本書作家協会賞を受賞

里見 櫻風(さとみ おうふう、1948年5月6日 – )は、埼玉県行田市生まれの書家。木村東道に師事。本名は時子、櫻風は号。

役職
新興書道展
運営委員
一部審査会員
清風会総務
毎日書道展会員
清風書道教室 緑支部長
書歴
新興書道展
1981年 – 1982年 特選、二部審査会員となる。
1986年、1988年 一部審査員準推挙、一部審査会員となる。
清風書道展
1983年 宝紙賞を受賞
1986年 宝墨賞を受賞
1994年 書壇ニュース社賞を受賞
1997年 清風書人大賞を受賞
毎日書道展
1984年 – 1991年 入選(8年連続)
1992年 – 1993年 秀作賞を受賞
1994年 – 1995年 入選、会友となる。
1999年 秀作賞を受賞
2000年 毎日賞を受賞、会員となる。

関口研神(せきぐち けんしん、本名関口喜六=きろく、1907年 – 2006年10月28日)は埼玉県鶴ケ島市出身の書家、毎日書道会参与会員であった。

来歴・人物
1979年、『軽鬆土-歌集』を発表
1982年、『関口研神近作展 喜寿記念』を発表
2006年10月28日、老衰のため他界した。享年99

布上 清香(ぬのがみ せいこう、1942年3月8日 – )は、埼玉県北足立郡 (現在の鴻巣市)生まれの書家。木村東道に師事。本名は京子、清香は号。

役職
新興書道展
総務
一部審査会員
清風会
事務局長
総務
かとれあ書藝社総務
毎日書道展会員
清風書道教室 吹上支部長
書歴
毎日書道展にて毎日賞を受賞
清風書道展にて日本書作家協会賞を受賞

小林 斗盦(こばやし とあん、1916年2月23日 – 2007年8月13日)は、日本の書道家、篆刻家である。埼玉県生まれ。本名は庸浩(こうよう)、号は斗盦(斗庵)。全日本篆刻連盟会長。篆刻家初の文化勲章受章者。勲三等瑞宝章。
篆刻家・河井荃廬、書家・西川寧に師事。

略歴
1916年(大正5年)、埼玉県に生まれる。
1931年(昭和6年)、比田井天来(書)、石井雙石(篆刻)に師事する。
1945年(昭和20年)、西川寧(書)に師事する。
1948年(昭和23年)、加藤常賢(文字学、漢籍)に師事にする。
1950年(昭和25年)、第6回日展「耕鑿誰知帝力尚羊人在羲皇」特選「絶學無憂」
1953年(昭和28年)、太田夢庵(中国古印学)に師事する。(第9回日展「尋常之溝無呑舟之魚游」)
1959年(昭和34年)、第2回新日展「鉤有須」特選・苞竹賞受賞。
1962年(昭和37年)、第5回新日展審査員(以後 多年にわたり歴任)(第5回新日展「哲人知幾」)
1966年(昭和41年)、(社)日展評議員(第9回新日展「馮高眺遠」)
1976年(昭和51年)、第8回改組日展「大象無形」にて文部大臣賞受賞。
1984年(昭和59年)、恩賜賞・日本藝術院賞受賞[1]。(第15回改組日展「柔遠能邇」に対して)
1985年(昭和60年)、(社)日展理事(第17回改組日展「善逸身者不殖」)
1990年(平成2年)、勲三等瑞宝章受章、(平成2年)、日本篆刻会会長(平成5年 全日本篆刻連盟に改組 同会長)、(社)日展参事(第22回改組日展「亭壽」)
1993年(平成5年)、日本藝術院会員となる、(社)日展常務理事(第25回改 組日展「心齊」)、謙慎書道会董事、全日本篆刻連会長、読売書法会常任総務、全日本篆刻連盟会長となる。
1994年(平成6年)、謙慎書道会常任顧問となる。第26回改組日展「淵 黙雷撃」
1996年(平成8年)、(社)日展顧問となる。
1998年(平成10年)、文化功労者に選出される。
2004年(平成16年)、文化勲章受章。
2007年(平成19年)、肺炎により死去。

関根 伸夫(せきね のぶお、1942年9月19日 – )は埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれの現代美術家、彫刻家。多摩美術大学客員教授。現在、埼玉県と米カリフォルニア州在住。
1968年から1970年にかけて「もの派」をリードする作品を次々に発表。その後、「公共空間を活性化させるアート」に関心を移し、1973年、環境美術研究所を設立。東京都庁舎シティーホール前の《水の神殿》をはじめ、さまざまなモニュメントやプロジェクトを実現している。

来歴
1942年 埼玉県大宮市に生まれる。
1961年 埼玉県立川越高等学校卒業。
1962年 多摩美術大学油絵科に入学。
1964年 多摩美の斎藤義重教室で指導を受ける。
1968年 3月 多摩美術大学大学院油画研究科修了。
1968年 4月 「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」に《位相No.4》出品。
1968年 10月 第1回現代日本野外彫刻展に《位相-大地》を出品。その圧倒的な強度が李禹煥らに注目され、「もの派」が生まれるきっかけとなった。
1968年 11月「長岡現代美術館賞展」に《位相-スポンジ》を出品、大賞を受賞。
1969年 4月 東京画廊での初個展に《位相-油土》を出品。
1970年 ヴェネツィア・ビエンナーレに《空相》を出品。これを機に2年間ヨーロッパに滞在。
1973年 環境美術研究所設立。
1978年 ヨーロッパ3国巡回個展。
1986年 「JAPON DES AVANT-GARDES」(ポンピドゥー・センター)に参加。
1987年 「永久の環」制作(千葉工業大学芝園キャンパス)。
1987年 「位相絵画展」を日本で巡回。
1994年 「戦後日本の前衛美術」(横浜美術館、グッゲンハイム美術館、サンフランシスコ近代美術館)に参加。
2002年 釜山彫刻プロジェクト。
2003年 「〈環境美術〉なるもの-関根伸夫展-」(川越市立美術館)。
2005年 「もの派−再考」(国立国際美術館)に参加。
2012年 2月「太陽へのレクイエム:もの派の美術」(Blum & Poe、ロサンゼルス)に参加。
2012年 11月 「東京: 1955-1970 」(ニューヨーク近代美術館)に 参加。

初期の作品
1962年から1968年まで、多摩美術大学油画科に在籍し、斎藤義重と高松次郎に師事する。 高松次郎のイリュージョニスティックな絵と立体作品は当時の東京のアートシーンで中心的な存在だった。その影響を受け、関根の初期作品には視覚を惑わす傾向が見られる。1968年には、関根は東京画廊と村松画廊で開催された「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」(グループ展)に《位相No.4》という壁掛けの立体作品を出品する。これは、見る角度によって筒状の作品の全体が現れたり一部が隠れて断片的になるというトリックアート的な作品である。翌1969年の東京画廊での初個展では後述する《位相-油土》を出品している。
《位相-大地》
1968年10月に須磨琉球公園での第一回野外彫刻展に出品した《位相-大地》が、関根のターニングポイントになった。《位相-大地》は、大地に深さ2.7m、直径2.2mの円柱型の穴をうがち、掘り起こした土を穴と同じかたちに固めて隣に置いた作品である。小清水漸と吉田克朗も制作に携わった。この作品を関根は、位相空間による認識方法による「思考実験」だと考えている。関根はこう言う。
思考実験は自分たちが考えた仮説が、正しいかどうか思考推論することであり、ある場合には現実の物理的事象を無視することができる ー略ー 地球に穴をあけ、そこから営々と土を掘り出すと、いつか地球は卵の殻の状態になる、さらに掴み出すと地球は反転しネガの状態になってしまう
—関根伸夫、もの派—再考
《位相-大地》1968年
大地、セメント
円柱: 220 x 270 (直径) cm, 穴: 220 x 270 (直径) cm
Courtesy of the artist
Photo by Osamu Murai
空間が連続変形しても変化しない性質を研究する数学の一種である位相幾何学においては、形、もの、空間を伸縮変形が可能であるとみなすことができる。位相幾何学の位相という概念が当時の関根にとって、いかに重要だったかが《位相-大地》には顕われているといえる。
他の重要な作品
《位相-スポンジ》は白い円筒状のスポンジの上に鉄板を乗せた、鉄板の重さによるスポンジの変化を見せる作品である。見る者は、形状が変化しても構造は変わらないこと、鉄板を外せば元のかたちにもどることを理解する。李禹煥はこの作品について下記のように述べている。「原始人であれば、ドルメンのように岩にただ岩を積み重ねるだけでよかったのかもしれない。今日という産業社会においては、それが円筒のスポンジに鉄板ということで、より自然な様相感をおぼえる」。

《位相-スポンジ》1968年
鉄板、スポンジ
130 x 120 x 120 cm
Courtesy of the artist
Photo by Eizaburō Hara
1969年の東京画廊での初個展では、巨大な油土の塊をそのままの状態で配置した《位相-油土》を出品する。観客は油土に触れ、その形を変えることができる。彫られたものかどうかに関わらず圧倒的な物体の前で「彫刻」とは一時的な存在にすぎないことを本作品では暗示している。

《空相-油土》1969年 油土、サイズ可変
東京画廊での展示風景 (1969年4月18日 – 5月2日)
Courtesy of the artist
Photo by Nobuo Sekine
本作品についてキュレーター、サイモン・グルームはこう語っている。
「あるがままの状態で存在する巨大な土の塊は、その圧倒的な物理的存在と、触りたいという我々の欲求の、絶え間ない緊張感のなかに存在している。 なぜ触れたいかというと、精神的に油土が無数の可能性を示唆するからかもしれないし、あるいは物理的に変形する素材の触覚自身に惹かれるからかもしれない」
《空相-水》(1969年)は、水をなみなみと注いだ二つの容器から構成される作品である。容器のひとつは高さ110cmの円筒状、もう一つは高さ30cmの直方体。 容器の外側が黒く塗られているために肉眼ではわからないが、表面に触れることでさざ波が立ち、鑑賞者は中身が水であることに気づく。

《空相-水》 1969年
鉄、ラッカー、水
30 x 220 x 160cm, 120 x 120 x 120cm
第9回現代日本美術展(東京都美術館 1969年5月10日 – 30日)での展示風景
Courtesy of the artist
空相/ヴェネツィア・ビエンナーレ
1970年、荒川修作と共にヴェネツィア・ビエンナーレの代表に選ばれた関根は、ステンレスミラー製の直方体の上に大きな岩が乗った《空相》という作品を出品する。 これは、ステンレス鋼に周りの風景が映りこむことによって、まるで岩が宙に浮いているかのように見える作品である。

《空相》, 1969 / 1970年
大理石、ステンレス, 450 x 420 x 130 cm
第35回ヴェネチア・ビエンナーレ、日本館での展示風景
(1970年6月22日-10月20日)
Courtesy of the artist
Photo: Yoriko Kushigemachi.
ヴェネツィア・ビエンナーレでの成功の後、ヨーロッパで数々の個展のオファーが関根に舞い込む。そのなかには関根の代表的な彫刻作品である《空相-黒》の巡回展も含まれていた。
空相-黒
《位相-大地》《空相-スポンジ》《空相-油土》と比べ知名度が低いものの重要な作品が、FRPでできた《空相-黒》である。これは、自然と人工を対比した作品で、床に横たわるラフで塊のような形態から、トーテムポールのように佇む磨かれた幾何学的なかたちまで、およそ五十体の立体によって構成されている。この作品制作を機に、 関根の興味はありのままの「もの」と変形可能性から、固体の表面の品質へと大きく転換していく。 材料が石なのか、ガラスなのか、金属なのか、プラスチックなのかを意図的にわからないようにし、禅寺の石庭のように、美的法則にのっとって立体を配置することで「位相的な風景」を作りあげたのである。つまり、非対称に置かれた異なる要素を用いて、海や島や山といった広い景色を表現した言えるだろう。
また、2015年11月まで Palazzo Fortuny(英語版) (ベネツィア) にて開催の「PROPORTIO」展にもこれらのシリーズが出展されている。
李禹煥との意見交換[編集]
1968年11月、関根はすぐ後に「もの派」 とその理論の支柱となる韓国生まれの作家、李禹煥と知り合った。李はソウルで老荘思想を学び、1956年に日本に移ってから、日本大学で近代西洋哲学を学んだ。李が関根の前衛的思考と作品を評価した一方で、関根は李の中に自らの制作と芸術観を支持する思想家としての存在を見出した。
1969年から1970年にかけて、様々な雑誌に李の「あるがままの世界」を開く「新しい構造」の出現についてのコメントが掲載された。 李は、「存在との出会い」、真実、そして対象/非対象といった区別からの自由を生み出す「場」に置かれた「もの」や「実体」の存在を指摘した。また、関根の行為は世界を対象化するのではなく、非対象の状態へ、知覚の地平へ解き放ち、それが含まれる世界をあらわにすることであると述べた。
展覧会
関根伸夫の初個展は1969年に東京画廊で開催された。以来、関根はヴェネツィア・ビエンナーレ(1970年)を筆頭に、コペンハーゲン、ジュネーブ、ミラノ、東京、名古屋など各地で個展を行った。
1978年から1979年の間、《位相-黒》がクンストハル・デュッセンドルフ(英語版) (ドイツ)、ルイジアナ近代美術館 (デンマーク)、クレラー・ミュラー美術館 (オランダ)、ヘニーオンスタッド美術館(英語版) (ノルウェー) を巡回した。
その後も関根の作品は、国立国際美術館で行われた「もの派—再考」(2005年)、グッゲンハイム美術館、サンフランシスコ近代美術館で行われた「戦後日本の前衛美術」(1994年)、パリのポンピドゥー・センターでの「ジャポン・デ・アヴァンギャルド1910-1970」(1986年)など大規模な展覧会に出品されている。
2012年2月に米ロサンゼルスのBlum & Poeギャラリーで行われた「太陽へのレクイエム:もの派の美術」展で紹介されたことを契機に、アメリカで関根が注目を集めることになった。これは、アメリカで初めて「もの派」 を検証した展覧会である。同年に、[ニューヨーク近代美術館]]で催された「東京1955-1970」では、関根の作品が特集された。また、2014年1月には、同Blum & Poeギャラリーで、アメリカでの初個展が開催された。現在、関根伸夫はBlum & Poeギャラリー(ロサンゼルス、ニューヨーク、東京)、東京画廊+BTAP(東京、北京)に所属している。
パブリックコレクション
関根伸夫作品は箱根 彫刻の森美術館、原美術館、広島市現代美術館、ルイジアナ近代美術館(デンマーク)、国立国際美術館、世田谷美術館、ヘニーオンスタッド美術館(オスロ)、高松市美術館、豊田市美術館をはじめとする数多くの美術館のコレクションとして収蔵されている。
受賞
1967年「第十一回シェル美術賞展」佳作受賞
1968年「第八回現代日本美術展」東京都美術館 コンクール賞受賞、「神戸市須磨離宮公園現代彫刻展 夜(光)と彫刻 風と彫刻 水と彫刻」朝日新聞社賞受賞、「第五回長岡現代美術館賞展」大賞受賞
1969年「第一回現代国際彫刻展」 箱根彫刻の森美術館 コンクール賞受賞、「第六回パリビエンナーレ」 パリ市立近代美術館 留学賞受賞

長澤 英俊(ながさわ ひでとし、1940年10月30日 – )は日本の彫刻家。現在の中国黒龍江省生まれ。

経歴
父親が日本軍の軍医として勤務していた満州国牡丹江省東寧(トウネイ―現在の中国吉林省東寧・トンニン)で生まれた。1945年の敗戦時、ソ連軍が満州に侵攻してきたため、長澤と家族は、突然の引揚げを余儀なくされた。助産婦だった母親の実家のある埼玉県比企郡川島郷三保谷村(現在の川島町)に定住した長澤は、県立川越高校時代に数学と絵画に傾倒し、多摩美術大学に進学してからは1963年の卒業まで、建築とインテリア・デザインを学ぶかたわら、空手と徒歩旅行に打ち込んだ。その間、東京上野で毎年開催されていた読売アンデパンダン展などをとおして「グタイ」、「ネオダダ」など当時最先端の前衛動向に親しく接し、芸術の本質が物質・物体に記録されなくても行為と精神に宿るものであることを理解した。
1966年、半年前に結婚したばかりの長澤は、世界的視野の中で芸術家になることを決意し、500ドルと自転車のみをもって単身、ユーラシア横断の旅に出た。タイ、シンガポール、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、シリア等、アジア・中近東の諸地域でさまざまな文化遺産、習俗、宗教、生活との接触を重ねた末、トルコにたどり着き、たまたまラジオから流れるモーツァルトの音楽を耳にしたとき、自分がすでに西洋的な文物への親近感をどれほど多く身に着けていたかを実感した。それはまた、文化や宗教の多様性を尊重しつつも、相接する民族と文化の間では相違よりも類似の方が大きいとみる、のちのちまで持続する信念を彼に刻み込んだ体験でもあった。その後、ギリシャを経てブリンディジからイタリアに入った長澤は、各地の美術館や名跡をしらみつぶしに見て回り、1967年8月、ミラノにたどり着いた時点で旅の中断を余儀なくされ、またその地の世態人情に感じるところもあって、ヨーロッパの最西端まで行くはずの計画に終止符を打った。満州からの引揚げ以来、学生時代の徒歩による日本国内行脚から、ミラノまでの伝説的なユーラシア横断行へと、長澤の幼年期・青年期を彩った旅は、それ自体が時間と空間に生きる自身の存在の意味に対する彼の絶えざる問いかけの行動であったと思われるが、旅はまた、芸術することの意味を掘り下げて止まない彼の作品行為の一つ一つに刻まれて、その後の制作を色濃く性格づけることになった。
ほどなくミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニのアパートに拠点を得た長澤は、その地でエンリコ・カステッラーニ、ルチアーノ・ファブロ、マリオ・ニグロ、アントニオ・トロッタら優れた芸術家たちと知的・芸術的な交友関係を結び、日本から呼び寄せた妻公子との間に2児(竜馬、妙)をもうけた。とりわけファブロとは、評論家で美術史家のヨーレ・デ・サンナも交えて、1979年にミラノ市内に若い芸術家たちの交流・研鑽の場となる「芸術家の家」を共同で設立するなど、長澤がミラノ中心部のブラマンテ通りに居を移した後も、生涯の交わりを持った。長澤がミラノに定着した1967年からの数年間、イタリアは政治的動揺のさなかにあり、美術界ではファブロもその一員に数えられるアルテ・ポーヴェラの動向が国際的な注目を集めた時期である。しかし、長澤はその動向の至近距離に位置していながらも、いかなる党派、運動にも加担せず、単独で自身の芸術的課題を掘り下げてゆき、多くの個展・グループ展参加をイタリアとヨーロッパ各地で展開した。1990年から2002年まで、ミラノのヌオーヴァ・アッカデミア・ディ・ベッレ・アルティ(NABA)で諸外国からやってくる芸術志望の若者たちを熱心に指導した。また2004年からはミラノの国立ブレラ美術アカデミーと東京の多摩美術大学で客員教授を務めている。

作品の発表活動
招待出品した主なグループ展を地域的多様性に配慮して列挙すると、ヴェネチア・ビエンナーレ(72、76、82、88、93年)、パリ青年ビエンナーレ(73年)、「日本―伝統と現代」(74年、デュッセルドルフ)、ミデルハイム・ビエンナーレ「日本の彫刻家20人」(75年、アントワープ)、「1960-78年イタリアのアーティストの映画と実験映画」(78年、パリ)、「近代イタリア美術と日本」(79年、大阪)、「70年代イタリアの造形探求」(82年、ウィーン)、「Sonsbeek ’86」(86年、オランダ)、「Chambre d’amis」(86年、ゲント)、ミデルハイム・ビエンナーレ「現代日本彫刻」(89年、アントワープ)、「フィウマーラの芸術」(89年、メッシーナ)、「独創性」(90年、グラスゴー)、「イタリアの現代美術’70‐’80」(91年、ブダペスト)、「イタリアの抽象芸術」(91年、ストックホルム)、ドクメンタ(92年、カッセル)、ミラノ・トリエンナーレ(94年)、「日本の現代美術1885-95」(95年、東京)、カッラーラ国際彫刻ビエンナーレ(98年、カッラーラ)、クレリア・ビエンナーレSPAS(99年、スイス)、「Made in Italy? 1951-2001」(01年、ミラノ)、「愛情の場所 風景-通過」(03年、ブリュッセル)、「現代日本彫刻展」(05年、宇部)、「ジョルジョ・デ・キリコ その謎と栄光」(06年、カタンツァロ)、「20世紀・21世紀美術の代表的作家の<普遍性>」(09年、カターニア)などが挙げられるが、これら以外のグループ展でも多くの作品が発表されている。
個展は1970年以降数知れず開催しているが、80年代以降は画廊に作品を置くという通常の個展形式からしだいに自由になり、個人や共同体からの要望に応えて、既存の建物や私的・公共的な施設など多様な空間条件を生かしたサイト・スペシフィックな制作に重点を置くようになった。いきおい、作品はしばしば建築的規模を帯び、ときには庭園としての構造を具えるまでになっている。現代美術でもきわめてユニークなその活動はイタリアではほとんど全土に及んでいるが、1996年にはスペインのパルマ・デ・マヨルカにあるビラール・ジョアン・ミロ財団に招かれて3相複合体の≪庭≫を設置し、より広く注目されるところとなった。このミロ財団の≪庭≫が宇宙論的構造を孕んでいることからも明らかなように、長澤のサイト・スペシフィックな制作や庭園では、多くのパブリック・アートがしばしば共同体の要望や都市空間の条件に合わせて構想されるのと違って、彼が宇宙的意志の発露と信じているイデアの捕捉がつねに先行し、それの物質的・空間的現実化のために個々の与えられた条件が考慮され活用される仕組みとなっている。この点で、長澤の規模の大きな作品は70年代初期に始まったより凝密性の強い彫刻とは本質的に変わっておらず、事実、今日でもそのタイプの小規模な彫刻の制作は旺盛に続けられている。
回顧展的な規模の大きな個展は、1988年にミラノ現代美術展示館、1993年にボローニャ市立近代美術館(ヴィッラ・デッレ・ローゼ)、同年に水戸芸術館(「天使の影」)、96年にビラール・ジョアン・ミロ財団(パルマ・デ・マヨルカ)、2009-10年に川越市立美術館・埼玉県立近代美術館・国立国際美術館(大阪)・神奈川県立近代美術館(葉山)・長崎県美術館(巡回展「オーロラの向かう所」)で行なわれたが、それらに劣らず記憶されるのは、1995-96年の「京の町家」、および2009年の「Nagasawa in Kawajima<夢うつつの庭>」である。前者では京都下京区に残る伝統的な町家が、後者では長澤の故郷川島町にある遠山記念館の古い純日本式邸宅が、それぞれの室内・内庭ともに全面的に活用されて、複数の新作がすべてサイト・スペシフィックに制作・設置された。古い和風建築様式が現代芸術家の造形と共振した稀な例として注目された。なお、09-10年の巡回展等の活動により、長澤は2009年度の芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を受賞した。

恒久設置された作品
個展やグループ展でサイト・スペシフィックに制作設置された長澤の作品は、しばしば企画者や共同体に請われて永久保存されているが、わけても、89年にシチリアの「フィウマーラの芸術」展の際、谷川のほとりの地中に埋設した≪金の舟の部屋≫は、「目に見えなくても、地上的秩序に逆らってでも、確かに存在することを告げて止まないもの」に対する長澤の確信を驚くべき大胆な構造で具現し、永久保存されることになった。この作品は、当初、河川法違反の疑いをかけられて係争事件となった際、イタリア内外から芸術家への支持が澎湃として沸き起こったことで多くの人々の記憶に刻まれたが、10年あまりに及ぶ裁判で勝訴となり、2000年6月、最終的に作家の意図に従って土石で封鎖され、文字通り「見えない存在」としての作品が完成した。
他に恒久保存の対象となった作品としては、≪イッペルウラーニオ≫(96年、チェレ)、≪銀梅花の庭≫(97年、トルトーリ)、≪エーベの庭≫(00年、ブリジゲッラ)、≪茶室の庭≫(01年、チェルタルド)、≪平和のための庭≫(06年、カザラーノ)、≪反転の庭≫(08年、クァッラータ)等、イタリア各地に設置された独創的な庭園=彫刻のかずかずや、重力の思いがけぬ転用で重いはずの物体を軽々と吊り上げて見せる一連の≪空の井戸≫などが特記される。しかしながら、長澤自身は、多くのパブリック・アート作家たちと違って、作品が保存されることを制作の最優先条件としたことはなかった。物質・物体としての巨大作品を地上に残し、歴史に名を刻むことは、イデアという深奥の宇宙的原理の捕捉と開示をこそ望む長澤にとって二次的な関心事でしかないからである。
日本国内に恒久設置された作品には、つくばセンタービル前庭の≪樹≫(1983年)、新宿アイランドの≪プレアデス≫(1994年)、東京ビッグサイトの≪七つの泉≫(1995年)、東京・足立区役所の≪オーロラの向う所≫(1996年)、長野市南長野運動公園の≪稲妻≫(2004年)、宇部市常盤公園の≪メリッサの部屋≫(2005年、のち市内真締公園に移設)、多摩美術大学八王子キャンパスの≪ティンダリ≫(2007年)がある。

長澤芸術の特徴
長澤は自分の芸術が他の何よりもイデアに発するものであることを一貫して公言してきた。実際、作品から感じ取られる彼の制作の特徴は、人々の日常生活や自然界や宇宙の時空間に遍在し、それらすべての存在を根拠づけ、秩序づけているものでありながら、人々が容易には気付かないでやり過ごしてしまっている深奥の原理(イデア)を捕捉すること、と同時に、その宇宙的原理が的確に知覚され感受されるのに最もふさわしい物質的素材と空間的条件を吟味し、かつそれに必要不可欠な人間的(生物的)・工学的技術を活用すること、として要約できるだろう。この1点において、長澤の制作は、1960年代末のたぶんに概念的な手法を駆使したオブジェ、映像、パフォーマンスから、1971年の≪車輪≫、≪オフィールの金≫、1972年≪柱≫等に始まるさまざまな素材を駆使した彫刻的興趣と凝密度の高い諸作品、1970年代末からの紙による作品、80年代以降の現実空間や公共施設に進出して展開した驚くべき工夫のかずかず、そして前述した庭園様の作品に至るまで、変わることがなかった。素材、様式、スケール等は類のない多様性を示してきたのに、イデアに発する芸術としての根本の性格は信じがたいほどの一貫性を保ってきたのである。たとえば、1991年の≪アルキメデスのコンパス≫以降、≪電光≫、≪天空の井戸≫などで幾度となく応用されてきた重力反転の隠れたメカニズムは、最も早い時期、上記の≪車輪≫や1969年の≪ピラミッドの頂点≫の制作に彼を駆りたてた「見えない核心の原理」の捕捉ということと同じ関心の産物なのである。
ここで見落とせないのは、長澤にとってイデアとは理性の別名ではなく、理性で捕らえるべきものですらないということである。イデアを最重視するとはいえ、長澤の中でつねに考慮されているのは、イデアと物質と技術のバランスのとれた共存であり協働である。素材としての物質や、発想にいつも寄り添う色や匂いや記憶の要素に対して、長澤ほど深い理解と関心を寄せる芸術家は少ない。長澤は本質的にカントではなくゲーテの末裔なのだ。たとえば、イデアと物質が分かちがたく働き合うとき、その結合の必然性はしばしば特定の色や匂いといった感覚を呼び覚まし、逆にそれら感覚によって呼び覚まされる。そのような研ぎ澄まされた感覚の覚醒は、分析的な頭脳が働くときの理性の支配する覚醒とは違って、イデアと物質、主観と客観、現象と記憶、物と技術等がまだ分離し対立するに至る以前の時点、したがって、眠りと目覚めがまだ分離していない状態での覚醒と考えられる。長澤がイデアの訪れに最も適した条件としてしきりに言及する「ドルミヴェリア」(dormiveglia夢うつつ)とは、そのように、イデアと物質と技術とが色や匂いや響きを催して、分かちがたく、かつ明瞭に感受される事態、宇宙と自然界と生命世界を律する真理が理知的弁別に先だって直接経験(直感)される事態なのであろう。ヨーロッパの同業者や批評家たちが、長澤の作品の奥に禅的なものの素養を感じると告白するのは、その意味ではけっして的外れではない。長澤がしばしば作品に蜜蝋を用いるのは、蜜蝋がミツバチという生命体の行使する理性以前の超個体的な技術の産物だからであり、また、その独特の匂いが物質と生命体の技術との分かちがたい境を満たしていることに、深く(論理以前に)感応しているからと思われる。また、長澤がある種の花の色や香りに特別な関心を寄せるのは、その色や香りが彼の幼年期の記憶と現在の知覚とを夢うつつの中でのように結びつけているからであろう。ちょうど、トルコにたどり着いた26歳の長澤が、ラジオから流れるモーツァルトの響きを耳にしたとたん、彼の体内で東洋と西洋とが分かちがたく結びついていたことを悟ったように。イデアと物質と技術とがそのような混融状態で活性化することを大切にする長澤は、当然のことながら、それら三者が分離して重く知覚されることを避け、作品が浮遊するがごとき「軽味」を発揮することをもって芸術の醍醐味としている。実際、途方もない物量と技術的工夫を投入したはずの彼の作品を前にして、人々は少しも渋滞や鈍重の印象を受けることはなく、イデアが説明的に押しつけられるように感じることもなく、妙なる楽音のいわく言いがたい響きに満たされたような自由と必然性を感得するのである。

平井 一嘉(ひらい かずよし、1958年 – )は、埼玉県秩父市出身の彫刻家。
主に大理石や御影石による野外彫刻作品を制作している。イタリアに留学し、大理石技術の星取り等を学ぶ。日本国内のコンクールで多数受賞、作品は日本、イタリア各地に展示されている。「豆」をテーマに、生命力や自然の営々としたつながりを大切にし、普段の生活の流れの中で目に留まらないもの、見えないものを、彫刻という三次元に構成して表現するというコンセプトに沿って制作している。
代表作に、「ハッピーバード」(山口県美祢市)、「NYMPH」(東京都調布市)、「豆物語」(茨城県桜川市)などがある。
現在 東北芸術工科大学非常勤講師。アトリエは埼玉県川越市に持つ。

略歴
1958年 埼玉県秩父市に生まれる。
1982年 「第二回高村光太郎大賞展」で美ヶ原高原美術館賞受賞(神奈川県、長野県)
1983年 多摩美術大学大学院彫刻専攻修了
「神戸具象彫刻大賞展’83」で最優秀賞受賞(兵庫県)
1985年 「昭和会展」招待出品 日動画廊(東京都)
「第三回高村光太郎大賞展」で美ヶ原高原美術館賞受賞(神奈川県、長野県)
「神戸具象彫刻大賞展’85」で最優秀賞受賞(兵庫県)
1987年 イタリア政府給費留学生として渡伊
1988年 「ナントピエトラ国際彫刻シンポジュウム」で一等賞受賞(イタリア)
1989年 「ファナンノ国際彫刻シンポジュウム」で一等賞受賞(イタリア)11月帰国
1990年 第一回葛塚南線野外彫刻展(新潟県)
1992年 「第三回現代彫刻美術館野外彫刻ビエンナーレシンポジウム」に参加(群馬県)
1993年 調布市「彫刻のある街づくり」入賞(東京都)
1995年 第二回木内克大賞野外彫刻展(茨城県)
1996年 美祢国際大理石シンポジウム(山口県)
1997年 第二回雨引の里と彫刻~1998年(’99、’01、’03、’08)(茨城県)
2000~2007年 愛知県立芸術大学非常勤講師
2000年 十日町石彫シンポジウム(新潟県)
2002年 米子彫刻シンポジウム (鳥取県)
2005年 第2回現代彫刻美術館 野外彫刻選抜6人展 (東京都)
2006年 個展 日本橋三越本店(東京都)
支彫刻作品特集 日本橋三越(東京都)
2009~2010年 屋上彫刻展 PART6「遊びと造形」 玉川高島屋(東京都)
2010年 個展 石彫展 Gallery 健 (埼玉県)
彫刻体験実習棟 伊佐沼工房 オープン(埼玉県)
2011年 伊佐沼工房工房展(埼玉県)
2012年 伊佐沼工房工房展(埼玉県)
2013年 『彫刻家からの贈り物』展 Bunkamura BOX Gallery
米子彫刻シンポジウム(鳥取県)
雨引の里と彫刻2013(茨城県)
伊佐沼工房工房展(埼玉県)
ちちぶ映画祭 グランプリのトロフィー制作
2014年
【3月】伊佐沼工房特別展(埼玉県 川越市 小江戸蔵里)
【5月】伊佐沼工房展(埼玉県 川越市 伊佐沼)
【8月】十日町石彫シンポジウム歴代参加作家展(新潟県十日町市)
【9月】『ちちぶ映画祭2014~巡礼』のトロフィー制作(埼玉県 秩父市)
【12月】1.干支彫刻によるHAPPY NEW YEAR展(日本橋三越本店、本館 アートスクエア)
2.YEAR-END EXHIBITION OF MINI・SCULPTURES(銀座、ギャラリーせいほう)
2015年
【5月~6月】羽生市と姉妹都市のデュルビュイ市国際石彫シンポジュウムに招待参加  於:ベルギー
【10月~12月】雨引きの里と彫刻2015りんりんロード 桜川市茨城県

麦倉 忠彦(むぎくら ただひこ、1935年 – )は、日本の彫刻家。九州産業大学大学院芸術研究科教授。

経歴
埼玉県草加市出身。1954年埼玉県立春日部高等学校卒業。1959年東京芸術大学芸術学部彫刻科卒業。1961年東京芸術大学研究科彫刻専攻修了。同大学研究室副手。 1963年日本美術家連盟会員に推挙。アメリカ合衆国サウスダコタ州K・ジョーロコフスキー彫刻研究所に留学。1968年新制作協会会員に推挙。1997年新宿パークタワー・ギャラリー1にて東京ガス都市開発主催による記念個展を開催。1999年新制作協会委員長。2000年草加市文化会館にて草加市文化賞受賞記念展開催。その後、埼玉県美術家協会運営審査員を歴任。現在、九州産業大学大学院教授、共立女子大学講師。

片桐 仁(かたぎり じん、1973年11月27日 – )は、日本のコメディアン、俳優、彫刻家。
埼玉県南埼玉郡宮代町出身。トゥインクル・コーポレーション所属。埼玉県立春日部高等学校・多摩美術大学卒業。身長176cm。妻は元モデルでタレントの村山ゆき(現・片桐友紀)。血液型B型。

概要
多摩美術大学(補欠入学)時代に小林賢太郎と共にラーメンズを結成。エレキコミックとのコントユニット・エレ片での活動も行っている。
天然パーマのもじゃもじゃ頭(作品によっては髪を後ろでまとめている)が特徴的で、演技とも素とも取れるエキセントリックな言動を持ち味とする。その存在感を買われて、単独でのCMや舞台・ドラマへの出演の機会も得ている。また、文章や造形にもその個性と才能を発揮し、雑誌やwebでの連載を持つ。文章については敬愛する大槻ケンヂから受けた影響が大きいと語っている。
相方の小林賢太郎に対してはその才能を尊敬している。
ラーメンズとしての活動が不定期なこともあり、2000年代からは単独での俳優活動や「エレ片」としての活動の頻度が高い。
2010年6月、出身地である宮代町の「外交官」に就任。任期は1年。名刺には「俳優 片桐仁」と書かれていた。

人物
家族
妻と長男の太朗(たろう・岡本太郎から命名)、次男の春太(はるた)の4人家族。
妻が小学生時代から飼っているオカメインコ(サーちゃん)と、結婚後に飼い始めたヨウム(うろこ)の二匹の愛鳥がおり、鳥をモチーフとした造形作品にも影響を与えている。
ピタゴラスイッチの『おとうさんスイッチ』に息子と登場。その際に用いた片桐仁作の『お父さんスイッチ』は完成度の高いものだった。また、Mr.Childrenの「エソラ」PVにも親子で出演している。
義母(妻の実母、つまり村上ゆきの実母)が洋裁の達人で、粘土道の衣装等を仕立ててもらっている。
実家は公文式の教室。
趣味
粘土細工が得意で作品展を開催するほどの腕前である[2][3][4][5]。
ガンダムオタク(モデラー、ガンプラ所有数約300体)であり、模型誌「月刊ホビージャパン」でコラムの執筆も行っている。
ガンダムはもとより、ドラゴンボールをはじめとするマンガや、「DQシリーズ」・「FFシリーズ」などのゲームの話題に喰いつく。
その他
小学校では自転車クラブ、中学時代はソフトテニス部に所属。
円周率を40桁程度暗記しており、ラーメンズ公演『STUDY』、KKP公演『Sweet7』、エレ片でのコント中などで披露した。
妻、村上ゆき曰く「片桐がタイプ」。尚、その事について、片桐は未来シアターに出演した際に自身の顔が不審者顔である事を認めている。
もともと伊達眼鏡の人間は嫌っているが、相方の小林が伊達眼鏡している事を知った際に「小林は別」とおしえてなぜなら知りたがりだから内にて発言。
自身の性格について、「後悔はするが反省はしない」「他人の悪口(特にラーメンズ)で盛り上がる」「知りたがり故に相方である小林等に嫌な顔される」と発言おしえてなぜなら知りたがりだから

鈴木 長吉(すずき ちょうきち、 嘉永元年8月15日(1848年9月12日) – 大正8年(1919年)1月29日[2])は日本の金工家。号は鈴木嘉幸(かこう、よしゆき)。

武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれた。比企郡松山の岡野東流斎に蝋型鋳金を5年間学び、18歳で独立、江戸で開業した。明治7年(1874年)に殖産興業の一環として日本の工芸品を西洋へ輸出する目的に設立された「起立工商会社」の鋳造部監督、2年後には工長となり、退社する同15年(1882年)までの間、次々と大作を手掛けて内外の博覧会へ出品、高い評価を得た。工業が未熟な明治初期の日本にとっては精巧な工芸品は貴重な外貨獲得手段であり、工芸品の輸出目的で設立された数々の企業は、廃刀令や廃仏毀釈の影響で仕事を失いつつあった当時の金工家にとっては貴重な生計手段であった。
西洋事情を良く知る林忠正の監修の下で西洋人好みに制作した「十二の鷹」(東京国立近代美術館蔵)は、明治26年(1893年)に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つとなった。また同博覧会に出品された「鷲置物」(東京国立博物館蔵)は後に重要文化財に指定されている。明治29年(1896年)6月30日[4]にはその高い技量が認められ、鋳金家として帝室技芸員となった。
しかし明治後期の20世紀を迎える頃には、日本の機械工業が育ってきたために手間隙のかかる工芸品の制作は下火となった。日本の工芸品は粗製乱造や過度な西洋趣味への阿りにより評価を落としつつあり、また、極めて精緻で写実的な装飾を大量に施した鈴木の作風はアール・ヌーヴォーが隆盛しつつあった時代の潮流と合わなくなったことも重なり、鈴木は表舞台から姿を消すことになる。
晩年は養子をむかえて、金剛砥石業に転職。大正8年(1919年)1月29日午前0時10分、東京府下滝野川田端359の自宅において腎臓病にて逝去。享年72。葬儀は下谷区谷中三崎町(現:台東区谷中)の延寿寺日荷堂にて行われた。長吉の晩年については詳しいことが分かっておらず、明治工芸界の重要な人物であり帝室技芸員にまでなった人物でありながら、晩年のことが明らかになっていないという点で長吉は特異な存在であり、その後の研究が期待されている。現在も延寿寺に長吉の墓はあるが長年近親者が訪れている形跡もなく(そのため墓は延寿寺の管理となっている)、寺としては近親者からの連絡を待っている。

代表作
「銅製鋳物香炉」 スコットランド王立美術館蔵 明治9年(1877年)フィラデルフィア万国博覧会出品 高さ2m近い大作
「孔雀大香炉」 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵 ブロンズ 高さ228.6cm。明治9-10年(1876-77年) 翌年の(1878年)パリ万国博覧会金賞。
所蔵館に伝わる林忠正のメモによると、構想はフィラデルフィア万国博覧会の直後に始まり、渡辺省亭、山本光一の図案を元に若井兼三郎が構図を作り、長吉が鋳造を担当したという。なお制作当初は、香炉の上に鳩が5羽遊んでいた。大久保利通はこの作品を褒め、宮内庁のためにもう一体制作する予定で打ち合わせするはずだったが、6日後に大久保利通暗殺事件が起こったため実現せず、後に長吉は大変落胆したと語っている。のちにアール・ヌーヴォーの名付け親になるサミュエル・ビングが「アーティストの手になる最も優れたブロンズ作品」と称え、サウス・ケンジントン美術館(ヴィクトリア&アルバート博物館の前身)が莫大な予算を投じてビングから購入した。更に、長吉が帝室技芸員に任命される際の理由書にも、「最も傑作にして其技量を徴するに足る」と言及されている。
「燈籠」 靖国神社蔵 明治13年(1880年) 警視庁より奉納
「青銅鷲置物」 ジョージ・ウォルター・ヴィンセント・スミス美術館蔵 ブロンズ・台座は木 幅140cm、奥行125cm。
山本光一図案。明治18年(1885年)ニュルンベルク府バイエルン工業博物館で開催された金工万国博覧会で金賞牌を受賞し、更に博物館長がその出来栄えに驚き、会場で最も目立つ円形広間に移動させたと、博覧会報告書に記されている。
「岩上双虎ノ図置物 東京国立博物館蔵 ブロンズ 奥行70.5、間口87.0、高さ105.7cm 明治30-32年(1897-99年) 翌年 パリ万国博覧会出品
「水晶置物」 ボストン美術館蔵 銀・水晶 明治33-36年(1900-03年)台座底辺部に「大日本東京 帝室技芸員鈴木嘉幸(花押)」
水晶玉の原石は明治9年(1876年)に御嶽山で産出され、第2回内国勧業博覧会に出品されたもの。まず、明治26年(1893年)美術館が水晶玉の寄贈を受け、その後水晶に合わせたカスタムメイドの台座を山中商会に制作を依頼、明治36年1月に1500ドルが支払われている。

増田 三男(ますだ みつお、1909年(明治42年)4月24日 – 2009年(平成21年)9月7日)は、埼玉県出身の彫金家。人間国宝(重要無形文化財保持)。

人物
埼玉県北足立郡大門村(のち美園村、浦和市、現さいたま市)に生まれる。文展などへの出品のほか、埼玉県立浦和高等学校でも美術講師として勤務した。浦和高校時代は美術部に入部し、2歳下の高田誠と親交が深く、卒業後も恩師である福宿光雄を囲って「連穂会」を開いていた。

経歴
1909年(明治42年)4月24日 – 出生。
1924年(大正13年) – 埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業。
1929年(昭和4年) – 旧制浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)を卒業。
1944年(昭和19年) – 母校である浦和中学(のち浦和高校)の美術講師となり32年間勤務。
1976年(昭和51年) – 浦和高校の美術講師を定年退職。
1991年(平成3年) – 82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定。
2009年(平成21年)9月7日 – 老衰で死去。享年100歳。

鈴木文吾(鋳物師、代表作に東京オリンピック聖火台):川口市

綿貫萠春(人形作家)

飯能焼(はんのうやき)とは、もと埼玉県飯能市に産した陶器。

生産されていた時期は、1830年(天保元年) – 1887年(明治20年)とされているが、正確な時代は調査中で判明していない。1888年(明治21年)につくられた『大日本陶磁器窯元一覧』では、前頭四十四枚目に「武蔵飯能焼」が記載されている。耐火性の強い生活雑器が中心。作風は、薄手の器で、絵柄を白絵土を絞って描かれている事を特徴とする。
近年、復興が図られ幾つかの窯が設立し、作品が販売されている。
矢颪村、白子村、真能寺村(飯能市)で矢颪窯・白子窯・原窯などと呼ばれていて窯跡が存在し、原窯の開窯以前に矢颪窯が存在したが創業及び廃業時期は記録が無く不明である。
発掘資料によると矢颪のイッチン描きの模様のタッチと原窯の初期のタッチが同一人物が書いたのでないかと思われる。原窯は天保年間に双木清吉・双木八右エ門が焼き始め、その後子の双木新平、次は双木善七、そして最後の陶工双木佐七が明治20年に廃窯し1953年に没した。他に陶工は山本卯平となっているが明治になり侍を辞め飯能で焼物の商いを始めたようで(山本家による)、絵付師には腰塚小四郎などがいた。現在、虎澤英雄、岸道生が飯能焼を復活させた。
飯能市八幡町(旧真能寺村)の原窯跡で近くの双木利夫があつめた飯能焼、およびその破片は双木本家飯能焼コレクションとして文化財に指定されている。

岩槻人形(いわつきにんぎょう)は、埼玉県さいたま市岩槻区の伝統工芸品のひとつ。経済産業大臣指定伝統的工芸品、さいたま市伝統産業に指定されている。岩槻市時代から「人形のまち岩槻」として地域振興を行っており、人形の産地として全国的に知られる。

概要
岩槻城の城下町であった日光御成街道岩槻宿はもともと桐の産地であり桐細工で有名だった。そこに日光東照宮の造営、修築にあたった工匠が住みつき、岩槻の水が胡粉に適していることを発見、江戸時代初期に岩槻人形が発祥した。現在でも岩槻駅周辺には人形店が集中し、人形供養祭などの行事も開催されている。また、市は2020年を目途に岩槻人形会館を整備する計画を発表している

熊谷染(くまがやぞめ)は、埼玉県熊谷市の伝統工芸。

概要
起源は江戸時代で、型紙を使い模様を染める友禅の一種である。埼玉県伝統工芸品に指定されている。

青縞(あおじま)は、埼玉県羽生市など、埼玉県北部地域で江戸時代末期ごろから生産されている藍染物の伝統工芸品。武州織物、武州正藍染とも。

歴史
天明期に、現在の羽生や加須、行田、騎西など北埼玉で藍の栽培が開始されたことに伴い、農家の主婦が農閑期を利用して家族の衣服を作ったことが発祥とされる。 最盛期を迎えた明治40年代には、当時の羽生町を中心とする同地域の一大産業となり、藍染め職人が200軒以上の紺屋を構えた。
2008年9月19日には、羽生市・加須市・行田市で生産された正藍染を施した織物と、その織物を用いて生産された被服の一部が、特許庁の地域団体商標に登録された。 藍染めの普及などの活動を行う武州織物工業協同組合(昭和24年設立)の現在の組合員数は14軒で、うち11軒は羽生市に立地する。
特徴
藍の葉から「自然発酵建て」により採取した染料を用い、手染めで染色する。糸の段階で染める糸染めと、布にしてから染める型染めがあるが、青縞の多くは前者の手法で生産される。 色調をもとに、「武州紺織」と「武州唐桟」に大別される。
利用
武州紺織は、藍の濃淡だけの素朴でシンプルなデザインを活かし、剣道着などに使われる。全国で生産される正藍染の剣道着のうち、8割が武州紺織といわれる。

ちちぶ銘仙館(ちちぶめいせんかん)は、埼玉県秩父市にある織物に関する資料館である。旧埼玉県繊維工業試験場秩父支場本館。

概要

正面玄関(2011年5月)
アメリカ人建築家ライトが考案した大谷石積みの外装や昭和初期の特徴的な装飾との調和が建築的に非常に優れており、三角屋根の工場棟や渡り廊下も含め、2001年(平成13年)10月に国の登録有形文化財に登録された(旧埼玉県繊維工業試験場秩父支場本館、工場棟、倉庫)。
古代より秩父地方は「知々夫絹」の産地であった。堅牢なこの絹織物は武家に珍重され、庶民に愛されていた。明治時代、女性のおしゃれ着として「秩父銘仙」の名は日本全国に知られた。ちちぶ銘仙館では、秩父銘仙の染め織り体験、展示・即売、今昔を紹介している。

秩父銘仙の歴史
「秩父銘仙」は、崇神天皇の時代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源と言われている。その後、「秩父銘仙」は伝統を受け継がれつつも高品質なものへと改良を重ね、明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎える。
絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないのが特徴で、表が色あせても裏を使って仕立て直しができる利点がある。女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和初期にかけて全国的な人気を誇るようになった。特に独特のほぐし模様が人気を博したといわれている。また、当時は養蚕業などを含めると市民の約7割が織物関係の仕事にかかわっていたと言われている。
今でも、昔ながらの技は受け継がれており、和服・ざぶとん・小物などが、秩父地方のお土産品として有名である。

沿革
1930年(昭和5年)9月に秩父絹織物同業組合(現秩父織物商工組合)が秩父地方の繊維産業の向上と振興を図るため建築し、埼玉県秩父工業試験場を誘致した。
1983年(昭和58年)4月に埼玉県繊維工業試験場秩父支場に改組され、秩父地域繊維産業の発展のために大きな役割を果たしてきた。
1998年(平成10年)3月に県内工業試験場の再編・統合で廃止される。
現在では、ちちぶ銘仙館として、秩父織物・銘仙等の歴史上貴重な史料の展示や伝統的な技術を伝承するための施設として、昭和初期の面影を残した形で改修された。

小川和紙(おがわわし)は、埼玉県比企郡小川町、秩父郡東秩父村で作られる、手漉き和紙。細川紙。

概要
細川紙が伝来する以前から現在の小川町にあたるエリアは和紙の産地として知られていた。1,300年の歴史を持ち、楮だけを使った細川紙は、国の重要無形文化財の指定を受けている[1]。埼玉伝統工芸会館にはヤッパシ紙すき体験コーナーがあり、紙すきを体験することができる[2]。2014年には細川紙がユネスコの無形文化遺産に登録された。

埼玉県
岩槻人形
鴻巣雛人形
本庄絣
熊谷染(友禅、小紋)
春日部押絵羽子板
武州正藍染(武州唐棧、武州型染、武州紺織)
草加本染ゆかた(本染ゆかた、長板中型)
越谷ひな人形・越谷甲冑
飯能大島紬
手がき鯉のぼり
秩父ほぐし捺染(着尺、夜具地、座付団地)
越谷張子だるま
所沢人形(雛人形、押絵羽子板)
秩父銘仙
竹釣竿
行田足袋
小川和紙
鬼瓦・武州磨き本瓦
春日部稲荷

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