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和歌山県 わかやまけん
和歌山市 わかやまし
海南市 かいなんし
橋本市 はしもとし
有田市 ありだし
御坊市 ごぼうし
田辺市 たなべし
新宮市 しんぐうし
紀の川市 きのかわし
岩出市 いわでし
海草郡 かいそうぐん
紀美野町 きみのちょう
伊都郡 いとぐん
かつらぎ町 かつらぎちょう
九度山町 くどやまちょう
高野町 こうやちょう
有田郡 ありだぐん
湯浅町 ゆあさちょう
広川町 ひろがわちょう
有田川町 ありだがわちょう
日高郡 ひだかぐん
美浜町 みはまちょう
日高町 ひだかちょう
由良町 ゆらちょう
印南町 いなみちょう
みなべ町 みなべちょう
日高川町 ひだかがわちょう
西牟婁郡 にしむろぐん
白浜町 しらはまちょう
上富田町 かみとんだちょう
すさみ町 すさみちょう
東牟婁郡 ひがしむろぐん
那智勝浦町 なちかつうらちょう
太地町 たいじちょう
古座川町 こざがわちょう
北山村 きたやまむら
串本町 くしもとちょう

 

≪取扱い商品≫
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石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 – 1958年1月23日)は、日本の洋画家。

経歴
1893年、和歌山県東牟婁郡太地町で船大工を生業とする石垣政治の子として生まれた。1901年、町立太地小学校に入学し、1907年に県立新宮中学校へ進学したが、1909年には1901年にアメリカへ移民していた父の呼びかけで退学して渡米した。1910年からカリフォルニア州ベーカーズフィールドでボーイなどとして働き、また日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義の本などにも親しんだ。
1914年から絵画をサンフランシスコ美術学校やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学び、1916年頃より絵画制作を始めたという。翌1917年から片山潜を中心とする社会主義の研究会(在米日本人社会主義者団)に加わる一方、マーガレット・サンガーやアグネス・スメドレーらとも交流を深める。1925年の第9回独立美術家協会展に出品した『鞭打つ』が好評を博したことでアメリカの画壇にデビューし、1936年にはアメリカ美術家会議の創立準備委員となる。1927年、田中綾子と知り合って結婚し、大日本帝国の軍国主義を夫妻で批判している。夫婦で戦争情報局で活動した。
1951年、日本に帰国して東京都三鷹市へ住んでいたが、日本では本格的な活動をできないまま1958年1月23日に東京都の自宅で脳出血により65歳で死去。故郷の太地町には、石垣の死後に妻の綾子が私財を投じて建設した太地町立石垣記念館がある。
著書
『愛についての告白 男として女として』 石垣綾子共著 平和書房 1971年
作品
文化遺産オンライン(文化庁)による(小画像が掲載されている)2011年9月25日閲覧
女立像(東京国立近代美術館所蔵)
女(東京国立近代美術館所蔵)
リンチ(1931年、東京国立近代美術館所蔵)
腕(1929年、東京国立近代美術館所蔵)
二階つきバス(1926年、東京国立近代美術館所蔵)
鞭打つ(1925年、京都国立近代美術館所蔵)
街(1925年、神奈川県立近代美術館所蔵)
街(1925年、和歌山県立近代美術館所蔵)
ボーナス・マーチ(1932年、和歌山県立近代美術館所蔵)
キューバ島の反乱(1933年、和歌山県立近代美術館所蔵)
女の顔(1916年、和歌山県立近代美術館所蔵)
自画像(1917年、和歌山県立近代美術館所蔵)
拳闘(1925年、和歌山県立近代美術館所蔵)
K.K.K.(1932年、和歌山県立近代美術館所蔵)
裸婦(1946年、和歌山県立近代美術館所蔵)

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 – 1966年(昭和41年)4月10日)は、戦前の日本画家、俳人。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も「ホトトギス」同人であった。本名は昇太郎。

生涯
和歌山県和歌山市に生まれ。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。
城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。一中分校から東京府立第三中学校が設立されたことにで三中に移籍。府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。これが本格的に画家を志すきっかけとなった。
画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。
1915年(大正4年)、平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。縦1m85㎝・幅8m38㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 – 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
1931年(昭和6年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)帝国美術院会員、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1941年(昭和16年)会員を辞任。
1937年(昭和12年)に『潮騒』を発表。幅 14 メートルの超大作。岸壁の海岸、深い海の青が浅くなるにつれ、透明度の高い緑に変化していく様子を鮮やかに描いている。この作品で龍子の筆致は大きく変わった。岩に激しくぶつかる水、そこには輪郭線がない。想像だけで描いた『鳴門』と比較すると繊細な波の動きがよりリアルに表現されていることが分かる。新たな水の表現を獲得した龍子。しかし、1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発。自由に絵を描くことが許されない中で、龍子は作品を発表し続けた。1944年(昭和19年)には『水雷神』。水にすむ神々が持ち上げているのは、魚雷である。暗く深い海の底、その水は重く濁っている。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねた。この絵を描いた頃、龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしていた。重々しい色使いは龍子の心情の表れかもしれない。
第二次大戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始める。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残した。これらは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版されている。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。没年の1966年(昭和41年)には、居宅に近い東京都大田区の池上本門寺大堂天井画として奉納すべく『龍』を描いたが未完のまま死去。後日、遺族の相談を受け龍子の遺作を実見した日本画家の奥村土牛は作品を激賞。奥村が画龍点睛して開眼の上、作品は大堂に奉納された。
龍子記念館
1963年(昭和38年)には、喜寿を記念して、長年住んだ大田区に龍子記念館を設立し、自作を展示した。館は、当初は社団法人青龍社が運営していたが、1990年(平成2年)、同法人の解散とともに土地建物と龍子の作品は大田区に寄贈され、1991年(平成3年)からは大田区立龍子記念館として運営されている。館に隣接する龍子のアトリエと旧宅庭園も公開されている。
また、龍子は自邸内に持仏堂を建てて古仏を安置していたが、これらのうち重要文化財指定の1162年(応保2年)銘・毘沙門天立像は遺族により東京国立博物館に寄贈されている。
作風
激しく流れる水の流れとほとばしる波しぶきによる龍子の描いた水は、巨大なエネルギーで観る者を圧倒した。昭和の動乱期、画壇を飛び出し、独自の芸術を切り開いた日本画家である。けたはずれの大画面、龍子は躍動する水の世界を描き続けた。その水は画家の心を写すかのように時代と共に色や形を変えていった。
代表作
『霊泉由来』 永青文庫蔵、1916年(大正5年)
『慈悲光礼讃(朝・夕)』 東京国立近代美術館蔵、1918年(大正7年)
『安息』 松岡美術館蔵、1919年(大正8年)
『土』 大田区立龍子記念館蔵、1919年(大正8年)
『芭蕉翁』 和歌山県立近代美術館蔵、1923年(大正12年)
『鳴門』 山種美術館蔵、1929年(昭和4年)
『請雨曼荼羅』 大田区立龍子記念館蔵、1929年(昭和4年)
『草炎』 東京国立近代美術館蔵、1930年(昭和5年)
『草の実』 大田区立龍子記念館蔵、1931年(昭和6年)
『山葡萄』 大田区立龍子記念館蔵、1933年(昭和8年)
『愛染』 足立美術館蔵、1934年(昭和9年)
『曲水図』 京都国立近代美術館蔵、1941年(昭和16年)
『洛陽攻略』 東京国立近代美術館蔵(無期限貸与) 1944年(昭和19年)
『爆弾散華』 大田区立龍子記念館蔵、1945年(昭和20年)
『千住大橋』 大田区立龍子記念館蔵、1955年(昭和30年)

下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日[1] – 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 – 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。
1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市に生まれる。8歳のとき東京へ移住。最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。
1906年、天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深めた。1917年6月11日、帝室技芸員となる。

代表作品

弱法師
「光明皇后」(1897)(宮内庁三の丸尚蔵館)
「修羅道」(1900)(東京国立博物館)
「鵜鴎図」(1901)(滋賀県立近代美術館)
「ダイオゼニス」(1903)(東京国立近代美術館)
「木の間の秋」(1907)(東京国立近代美術館)
「大原御幸」(1908)(東京国立近代美術館)
「鵜図屏風」(1912)(東京国立博物館)
「白狐」(びゃっこ)(1914)(東京国立博物館)
「弱法師」(よろぼうし)(1915)(東京国立博物館)(重要文化財)
「春雨」(1916)(東京国立博物館)
「楠公」(1921)(東京国立博物館)
「景雲餘彩」(1922)(宮内庁三の丸尚蔵館)
主な文献
「観山画集 下村観山1」 大日本絵画、1981年
「下村観山伝 下村観山2」 同上  各大著
「横山大観 下村観山」 現代の水墨画2:講談社 1983年
「下村観山 菱田春草」 現代日本絵巻全集4:小学館 1982年
図録 「大観と観山展」 横浜美術館、日本経済新聞社、1990年
図録 「下村観山展―生誕120年記念」 朝日新聞社、1993年
図録 「生誕140年記念 下村観山展」 横浜美術館、2014年

清水 達三(しみず たつぞう、1936年1月9日 – )は、日本画家、日本芸術院会員。
和歌山県出身。1962年中村貞以・長谷川青澄に師事、日本美術院展に出品し、1985年より奨励賞を6回受賞、1991年日本美術院展日本美術院賞、1993年日本美術院展同人。1998年日本美術院展文部大臣賞。2001年日本美術院展内閣総理大臣賞。2004年紺綬褒章受章。2008年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、芸術院会員。

田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年) -大正4年(1915年)10月23日)は、和歌山県和歌山市出身の文人、芸術家。特に版画家としてよく知られている。

経歴
“私は日本人の手に成つたあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど真に生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことはない”
—萩原朔太郎
明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている[1]。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。
その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。しかし大正2年頃に肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。その作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。

2012年、和歌山県立近代美術館で生誕120年記念展が開催された。
大正6年(1917年)には萩原朔太郎の詩集「月に吠える」で恭吉の作品が取り上げられた。恭吉の作品や資料の多くは和歌山県立近代美術館に所蔵されている。

浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 – 2000年12月25日)は、和歌山県出身の版画家。銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。葉巻の愛好家。同じく版画家の南桂子は妻。

経歴
浜口は1909年(明治42年)、和歌山県に生まれた。浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男に当たる。また、陽三の妻である南桂子も版画家である。浜口は東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻を専攻したが、2年で退学しパリへ渡航した。パリ滞在中の1937年(昭和12年)頃からドライポイント(銅板に直接針で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への一歩を記し始めた。戦時色の濃くなる中、1939年(昭和14年)に日本に帰国。自由美術家協会に創立会員として参加するが、戦時下にはなかなか作品発表の場が無かった。1942年(昭和17年)には経済視察団の通訳として仏領インドシナ(ベトナム)に渡航し、1945年(昭和20年)帰国している。
浜口は20世紀におけるメゾチント技法の復興者として国際的に知られる。メゾチントは「マニエル・ノワール(黒の技法)」の別名でも呼ばれる銅版画の技法の1つで、銅板の表面に「ベルソー」という道具を用いて、一面に微細な点を打ち、微妙な黒の濃淡を表現するものである。こうして作った黒の地を「スクレイパー」「バニッシャー」と呼ばれる道具を用いて彫り、図柄や微妙な濃淡を表す。この技法は写真術の発達に伴って長く途絶えていたものである。浜口はこの技法を復興させると共に、色版を重ねて刷る「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで知られる。
浜口が本格的に版画の制作を始めるのは、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)前後、40歳頃のことであった。1953年(昭和28年)には再度渡仏し、以後主にフランスで制作を続けた。1957年(昭和32年)にはサンパウロ国際版画ビエンナーレの版画大賞と東京国際版画ビエンナーレにおける国立近代美術館賞をダブル受賞し、国際的評価が高まった。その後も多くの国際的な賞を受けている。
1971年から1972年にはブラジルに滞在。フランスにいったん戻った後、1981年(昭和56年)からはサンフランシスコに移住。1996年(平成8年)、日本へ戻り、2000年(平成12年)12月に没するまでの数年間を日本で過ごした。
作風
浜口は作品のモチーフとして、ブドウ、さくらんぼ、くるみなどの小さな果物や貝、蝶などの小動物を多く取り上げ、空間を広く取った画面構成で逆に小さな対象物を際立たせる手法を好んで用いた。版画作品は、通常刷り上がった順にシリアル番号を付けるが、浜口は刷り上がりの良い作品の順に番号を付けていた。

村井 正誠(むらい まさなり、1905年3月29日 – 1999年2月5日)は、昭和 – 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。

人物
文化学院の美術科に一期生として入学。昭和9年(1934年)に長谷川三郎らと新時代美術展を結成。自由美術家協会やモダンアート協会などの創立に加わる。
昭和29年(1954年)、武蔵野美術大学教授に就任。昭和37年(1962年)現代日本美術展で「黒い線」などが最優秀賞を受賞。
抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。

建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 – 1942年3月22日)は、彫刻家、帝国芸術院会員。本名は彌一郎。

生涯
1880年2月29日、和歌山県有田郡城山村大字境川(現:有田川町境川)の豪農・建畠喜助の四男として生まれる。野上尋常高等小学校を卒業後、叔父・小林山卿が大阪府で医院を開業していたため、父の希望により大阪医学校へ入学した。
しかし、医師になることを嫌い、叔父の友人・木島櫻谷の紹介で京都市立美術工芸学校に転校、1907年には東京美術学校彫刻科へ編入学して白井雨山に師事し、1911年に同校を卒業した。在学中から文部省美術展覧会に出品し、「閑静」(1908年)や「ながれ」(1911年)で三等賞受賞。
1919年、帝国美術展覧会審査員に任命され、下村観山、川端龍子、保田龍門をはじめとする同郷の芸術家と南紀美術会を組織した。1920年には東京美術学校教授に就任し、1921年に曠原社を結成。1927年、新設された帝国美術院会員となり、1937年には依頼を受けて伊藤博文銅像を製作し国会議事堂中央広間に設置された。
1940年、自身の研究所を拡大して直土会を組織し、多くの門下生を育てたが、1942年3月22日に心臓病のため63歳で死去。長男も彫刻家の建畠覚造。孫は彫刻家、日本大学芸術学部美術学科教授の建畠朔弥、国立国際美術館長、京都市立芸術大学長の建畠晢。

三浦 啓子(みうら けいこ、1935年 – )は、和歌山県出身のガラスアーティスト。新しく開発した「ロクレール」という独自の手法で日本やその他各国にてステンドグラス等のガラスアートを手がける。
2013年5月31日 経営悪化を理由に株式会社ロクレールプロダクションを廃業するということで一部を除きスタッフを解雇。会社は廃業せず、当人も作家活動継続中。

保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月13日 – 1965年(昭和40年)2月14日)とは、日本の画家、彫刻家である。和歌山県紀の川市出身。彫刻家の保田春彦は息子。彫刻家の西村浩幸は孫。

略歴
1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。
名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。美術学校在学中に二科展に出品し入選、1917年(大正6年)の第11回文展では《母と子》で特選を受賞する。その後、日本美術院の研究所で彫刻の勉強をはじめ、以後日本美術院展覧会を発表の場とした。
1920年(大正9年)に渡米し、サンフランシスコ、ニューヨークを経て翌年にはパリに入り、オーギュスト・ロダンの助手であったアントワーヌ・ブールデルの教室で彫刻を習う。また、ヨーロッパ各地を遊学する途中、南仏のアリスティド・マイヨールのアトリエを訪ねた。ギリシアのアルカイックな彫刻に心酔して女性のおおらかな裸体像を追求したマイヨールの作風は、龍門が終生追い求めた母性愛のテーマに影響を与えた。母逝去の知らせをきいて1923年(大正12年)に帰国するが、欧米で3年余り研鑽を積んだ経験は、のちの自己の造形世界を築いていく際のたしかな礎となった。[要出典]
帰国後は、東京での制作をやめ、郷里の和歌山に西村伊作設計のアトリエを建てて活動の本拠を移し、その後大阪府堺市に転居する。戦後は、大阪市立美術研究所、和歌山大学で後進の指導にあたり、関西の美術界に大きな影響を与えた。[要出典]1965年(昭和40年)、73歳で死去。
年譜
1891年(明治24年) 和歌山県那賀郡龍門村(現:紀の川市)に生まれる[2]。
1912年(明治45年) 東京美術学校西洋画科本科入学。
1915年(大正4年) 「自画像」等、二科入選。
1917年(大正6年) 東京美術学校西洋画科本科卒業、日本美術院彫刻部に入り彫刻研究をはじめる。卒業制作の内「母と子」を第11回文展に出品、特選となる。
1918年(大正7年) 第5回院展に「石田氏の像」を出品、樗牛賞(ちょぎゅうしょう)をうける。
1920年(大正9年) 院展同人に推挙される。海外留学に横浜から出帆。
1921年(大正10年) アメリカで模写や制作に従事、4月パリ着、ブールデル・マイヨールについて彫刻に打ち込む。
1923年(大正12年) 母逝去に伴い帰国。
1924年(大正13年) 東京徳川邸で「渡欧記念展覧会」を開催、油彩59、彫刻13点等出品。
1946年(昭和21年) 大阪市立美術研究所彫刻部教授となる。
1953年(昭和28年) 紀陽銀行本店壁面レリーフ4面の製作をうける。2月、和歌山大学学芸学部(現教育学部)教授となる。
1954年(昭和29年) 紀陽銀行壁面レリーフ4部作完成。
1958年(昭和33年) 「名古屋市平和堂立像」完成。
1965年(昭和40年) 2月病没。従五位勲四等瑞宝章を授与される。「南方翁胸像」が未完成で遺された。

瑞芝焼(ずいしやき)は和歌山県和歌山市で焼かれる陶器である。鈴丸焼・滅法谷(めっぽうたに)焼ともよばれる。「瑞(みずみずしい)芝」という銘が表すとおり、透明感のある青緑色が特色。中国龍泉窯の流れを汲む。
寛政8年(1796年)に岡崎屋阪上重次郎が紀州藩の官許を受けて和歌山市畑屋敷新道町(旧鈴丸町)藻屑川のほとりで開窯、享和元年(1801年)滅法谷に窯を移して滅法谷焼とも呼ばれた。
享和元年(1801年)には紀州徳川家十代藩主徳川治寶に芝の緑色を表現した青磁を焼くように命じられ、京都の名工、青木目米(あおきもくべえ)の指導を受けながら大成した。「瑞芝」の銘は、緑の発色に満足した治寶が名づけたという。以後は藩の御用窯となり、男山焼や偕楽園焼と共に藩を代表する窯として発展を遂げた。窯場には黒の総漆に金の御紋が付いた藩主専用の御成門があったという。
明治維新により藩の庇護(ひご)を失うと衰退し、1874年(明治7年)に三代目阪上重次郎の代に廃窯。だが五代目が美濃焼の梅平窯で修行し、地元に帰り1973年市内善明寺にて築窯、徳川時代の作品や北宋、南宋の釉薬を研究、研鑽し、復興に有り付け、現在に至る。

和歌山県知事指定工芸品
紀州へら竿
保田紙
御坊人形
皆地笠
那智黒硯
野鍛冶刃物
紀州雛
棕櫚箒

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店舗案内

新原美術 しんはらびじゅつ

OPEN/CLOSE 9:00~18:00(年中無休)
TEL 0766-22-7303 / FAX 0766-30-8048
〒933-0932 富山県高岡市鴨島町40番地1
富山県公安委員会 501230008404号

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富山・石川・福井全域で無料鑑定を承ります。

画像による簡易鑑定で、

すぐにおおよその額を知っていただくことも可能です。

出張鑑定、持ち込み鑑定、宅配鑑定をご利用の際は、

事前にお問い合わせフォームまたは、お電話より

鑑定予約のお申し込みを行って下さい。

販売店舗紹介

新原美術 富山高岡本店

大正12年創業
安心と信頼の実績 買取と販売 両方に力を入れています。

富山県高岡市鴨島町40−1

営業時間 9:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-22-7303

新原美術 展示場(antique shop 樹)

新原美術本店近くにあった旧松本建具の物件を買取改装して2019年にopen致しました。

伊万里焼や大聖寺伊万里を中心に1000点以上を展示しています。

買取も行なっています。

富山県高岡市鴨島町52

営業時間 12:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-73-2171

新原美術 東京店

2022年1月にopen致しました。

都内では珍しい大聖寺伊万里を中心に北陸の器を取り揃えています。

東京都台東区台東3-33-5 宝誠ビル1階

営業時間 10:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 03-6284-4649