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志村 ふくみ(しむら ふくみ、1924年(大正13年)9月30日 – )は、日本の染織家、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)、随筆家。
草木染めの糸を使用した紬織の作品で知られる。

経歴
滋賀県近江八幡市生まれ。1942年(昭和17年)、文化学院卒業。文化学院の1学年上級には女優の高峰秀子がいた。
31歳のとき、若い頃に柳宗悦の民芸運動に共鳴して織物を習っていた母・小野豊の影響で、織物を始める。
1957年(昭和32年)の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選し、その後第五回で奨励賞、第六回、第八回で文化財保護委員会委員長賞、第七回で朝日新聞社賞、と4度の受賞を重ね、特待者となった。 1990年(平成2年)に農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の保持者に認定された。また随筆の名手としても知られ『一色一生』で第10回(1983年度)大佛次郎賞を受賞している。
現在は京都市右京区嵯峨野に工房を構える。
2013年(平成25年)4月に京都市左京区岡崎に芸術体験を通して学ぶ場として、娘で同じく染織作家の志村洋子とともにArs Shimura(アルスシムラ)を設立。教本として『伝書しむらのいろ』を刊行した。同5月には、GALLERY FUKUMI SHIMURAをオープンした。2015年(平成27年)4月、Ars Shimura(アルスシムラ)2校目として、嵯峨校を開校した。
門下に2010年に紋紗(もんしゃ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された土屋順紀がいる。

森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月10日 – 平成20年(2008年)2月20日)は、日本の染織家で友禅染めの重要無形文化財保持者(人間国宝)。蒔糊技法を用いた友禅染め作品で知られる。

略伝
森口華弘は、明治42年(1909年)12月10日に滋賀県野洲郡守山町字岡(現滋賀県守山市岡町)の森口周治郎・とめ夫妻の子として生まれ、平七郎と名付けられた。森口家は農業と米屋を営み、華弘は5人兄弟の3番目3男で偏食、病弱小柄で大変大人しく、誰彼構わず喧嘩をするガキ大将ですら平七郎とは一度も喧嘩をしなかったと伝えられる。12歳で小学校を卒業すると、遠縁が営む京都の薬店に奉公に出、夜は薬剤師を目指し薬学校夜学部に通ったが、制度変更から薬剤師になるためには専門学校卒業が義務付けられ、金銭的にゆとりがなく専門学校に進学できない平七郎は薬剤師になることを断念せざるを得なかった。
この頃、たまたま店頭に貼ってあった平七郎の絵に型絵友禅の図案を作る職人が興味を持ち、彼に染色をやってみないかと誘った。以前から絵を描くことが好きであった平七郎は、これを契機に一旦実家に戻り薬店を辞め、染色を行いたいことを父に申し出た。最初は反対していた父も、母の従兄坂田徳三郎の助言から漸く同意し、大正13年(1924年)10月10日数え16歳の時、坂田に連れられ京友禅師3代目中川華邨の門を叩き住み込みの弟子となった。当時16歳での弟子入りは遅かったが、「好きこそ物の上手なれ」との言葉通り平七郎は精励し、師匠である華邨の好意で疋田芳沼のもとへ週一回通い日本画を学ぶことまで許されるようになった。夜寝る時間も惜しみ師匠の図柄や手本を写すなど修行に励み、20歳の頃睡眠不足から神経衰弱となり徴兵検査で不合格となったところ、徴兵検査官から「兵隊になるばかりが男子の勤めではない、染色をやり通すことも国への立派な奉公だ」と励まされた。その頃、母の従兄から染色師としての雅号「華弘(華邨派を広めるとの意味)」が贈られ、25歳になってから使うようにと言われた。
昭和11年(1936年)1月8日妻知惠と結婚し、昭和14年(1939年)1月京都市中京区衣棚小路に工房を構え独立した。結婚後、師匠である華邨より独立は3年待てと言われ29歳と遅い独立となったが、華邨出入りの業者であった安田商店が華弘とも仕事をしたいとの申し出があり、本来師匠筋の顧客とは仕事をしないとの不文律があったが特に師匠の許しもあり、友禅扱い大手である安田商店の仕事を引き受けるようになった。弟子を持つようになり、昭和16年(1941年)安田商店が設立した友禅工芸会社の取締役技術部長を兼ね、昭和17年(1942年)第1回個展を呉服問屋として大手の市田東京店で開催した。昭和20年(1945年)終戦後、進駐軍相手にネッカチーフに手染めしたものを売り暮らしを支えた。その後、問屋から注文を請け染色を行うのではなく、独立した友禅作家として活動することを市田と相談の上決め、昭和24年(1949年)市田柳選会に参加し友禅作家として初の新作発表を行った。
華弘は昭和14年(1939年)独立した頃、東京の上野の帝室博物館で偶然衣裳の一部に蒔糊の技法を用いているのを発見し、これを砂子のように全面に施す発想を得、苦心して森口流の蒔糊技法を創案した。多彩の友禅をあえて淡色の濃淡だけで表し、また桂離宮の竹垣や修学院離宮の造作などから新しいイメージを発想して特異な模様を創造した。菊の花一輪を着物全体に描き、裾にいくほど花の形が大きくなり、しかも色調を変化させることで立体感を出す七五三技法などを編み出した。昭和30年(1955年)衣裳全体に蒔糊を施した縮緬地友禅訪問着『早春』で第2回日本伝統工芸展朝日新聞社賞を受賞した。同年日本工芸会の正会員となり、日本伝統工芸展の監査員に就任して昭和42年(1967年)重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。以降、京都友禅研究会を発足し友禅の研究と後進の指導を行い、日本工芸家染色部門の役員として染色の伝導や染色による社会的活動に奔走し、昭和46年(1971年)紫綬褒章、昭和57年(1982年)勲四等旭日小綬章を夫々受章受勲した。平成19年(2007年)には次男であり弟子である森口邦彦が重要無形文化財「友禅」の保持者に認定された。平成10年(1998年)には故郷滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受け、平成20年(2008年)2月20日98歳で死去した。

信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。
信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

湖南焼(こなんやき)は1851年(嘉永4年)-1854年(嘉永7年)の間に、滋賀県大津市長等山下、札之辻、または園城寺下鹿関町地域で作られた陶磁器である。落款印には「永樂」、「河濱支流」、「三井御濱」の押捺を持ち、永樂保全が最後に築いた窯として近世陶磁史に名を残す。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。

湖東焼(ことうやき)は、日本の陶芸の一つ、および、それによって生産される陶磁器の呼称である。「湖東」の名は琵琶湖東岸の地域名の一つである「湖東」に由来する。
江戸時代中期の彦根藩本領(現・彦根市域)で生産され始め、井伊掃部頭家の許で発展したが、幕府大老を勤めた藩主・井伊直弼が暗殺されると職人が離散して一気に衰退し、明治時代中期に途絶した。その後、1986年(昭和61年)に復興事業が立ち上げられている。

文政12年10月(新暦1829年11月)、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛(寛政3年(1791年) – 万延元年6月25日(1860年8月11日))は[2][3]、当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き[1]、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って[2]共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き、湖東焼の創始者となった。
晒山には何らかの問題があったらしく、窯の場所を佐和山山麓古沢村の餅木谷に移し、主に磁器の生産を行ったが、未経験による失敗も多く、ついには協力者であった島屋平助等が手を引き、半兵衛単独で経営にあたった。徐々に事業も軌道に乗っていったが、しばしば資金不足に陥り、彦根藩からの借銀によって事業を維持した。
有田式の丸窯を瀬戸風の古窯形式に改め、湖東焼独特の淡緑色を出す物生山石(むしやまいし、佐和山北端の物生山で採取される石)・敏満寺山(現犬上郡多賀町)の粘土を用いたことは半兵衛による成果であった。染付・錦手・金襴手などの華麗な手法を用いられた文房具・茶器・飲食器が生み出され、「沢山」「湖東」の銘を記し、近江国内・京・大阪へ売り出された。半兵衛が育てた湖東焼は、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となった。創業の功として、半兵衛は伊藤の名字の使用を許された。
湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えるが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまう。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされた。それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶した。

下田焼
八田焼

南部鉄器(なんぶてっき)は、岩手県南部鉄器協同組合連合会の加盟業者によって作られている鉄器。74の事業所に730名(推計)の従事者がおり、年間生産額は約92億円。
1975年(昭和50年)2月17日に通商産業大臣指定伝統的工芸品(現・経済産業大臣指定伝統的工芸品)に指定された。伝統工芸士は21名いる。

概要
戦後占領期に施行された中小企業等協同組合法に基いて、江戸時代には南部氏・南部藩(盛岡藩)領内だった岩手県盛岡市、花巻市石鳥谷町、および、岩手郡雫石町の鋳物業者が1949年(昭和24年)3月1日、「南部鉄瓶商工業協同組合」(現「南部鉄器協同組合」、岩手県盛岡市)を設立した。また、同法に基いて、江戸時代に伊達氏・仙台藩領内だった胆江地区の鋳物業者が1954年(昭和29年)11月、「水沢鋳物工業協同組合」(岩手県水沢市…現・岩手県奥州市水沢区)を設立した。両者により、1959年(昭和34年)に県内統一組織である「岩手県南部鉄器協同組合連合会」が設立された。
旧仙台藩にある「水沢鋳物工業協同組合」は「仙台鉄器」とは呼ばず、旧南部藩(南部地方)の「南部鉄器協同組合」の名称を用いて、両者とも「南部鉄器」と称する。つまり、盛岡市の南部鉄器は南部藩由来の南部鉄器であり、奥州市の南部鉄器は岩手県の南側にあるので南部鉄器と呼んでいるのである。
歴史
南部鉄器と総称されているが、奥州市の南部鉄器と、盛岡市の南部鉄器の歴史は異なる(明治・大正の南部鉄器以降は共通で著す)。
奥州市の南部鉄器
平安後期に、江刺郡豊田館(現在の江刺区)にいた藤原清衡が近江国(滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して羽田(現在の水沢区羽田町)に伝わったと語り継がれている。この近隣には、後背地にあたる北上山地の砂鉄、木炭および羽田の北上川旧河川跡から出る質の良い砂と粘土などの鋳型材料が容易に手に入れられることから鋳物業が栄えた。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である。需要主である清衡が平泉(平泉町)に移ると彼らも一緒に移った。実際、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土しており、中尊寺を始めとする寺院などの備品も鋳造していた。奥州藤原氏の滅亡以降は日用品を細々と鋳造した。
羽田に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家に養子に入った京都聖護院の長田正頼という鋳物師がその始めだったといわれている。後に千葉家は奥州総奉行葛西氏に召し抱えられる。以後、長田正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちが羽田に住み、定着していった。
江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年(天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している。
盛岡市の南部鉄器
盛岡の鋳物は、慶長年間(1596年-1615年)に盛岡藩主南部氏が盛岡城を築城した頃に始まったといわれている。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたため、盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。
有坂家
初代は京都の人で、7代目のとき甲州に、13代目のときに、盛岡に移住してきた。
鈴木家[編集]
甲州から1641年(寛永18年)に、藩に召し抱えられた鈴木縫殿家綱を祖とする。製造したのは梵鐘や燈籠などの大作が知られていて、幕末には大砲も製造している。1646年(正保3年)には盛岡城の時鐘も製造している。これは、後に花巻城に移されるが今も現存している。
藤田家
甲州の出で、2代目から盛岡に移住。鍋類を主に製造し、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれ、後に藩に召し抱えられた。
小泉家
藩主が茶の湯を好んだことから、1659年(万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年(延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。
また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。
明治・大正の南部鉄器
水沢、盛岡とも、仙台藩、盛岡藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声を高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の東北本線開通と相まって(水沢、盛岡とも、これに接していた)一気に販路拡大となった。
明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。
1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。
昭和・平成の南部鉄器
第二次大戦中は戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、軍需関連品以外の製造が禁止された。南部地域では150人いたといわれる職人のうち、わずか16人しか鋳物の鋳造を続けられなくなった。
終戦後は、アルミニウム製品に押されて需要は減り南部鉄器は衰退したが、近年では茶道具などの伝統工芸品のほか、実用的な調理器具としてもその良さが見直されてきている。食生活の欧米化に伴い、焼く調理などの洋風料理に使用するものも増えてきている。また海外ではその芸術性の高さから鉄瓶に人気が集まり、一部のメーカーは欧米への輸出にも力を入れている。

波多野正平とは
亀文堂は、明治から昭和時代に鉄瓶を作っていました。初代は、波多野正平で文化13年(1816)に京都に生まれ、弟の秦蔵六と共に龍文堂四方安平に師事して鋳造を学び、その後京都で独立し、文人肌で頼山陽に愛され、安政6年(1859)安政の大獄に連座、1年半ほど幽閉されました。

鉄瓶の歴史は約250年ですが、それ以前は加賀で鉄瓶が作られていました。本格的な鉄瓶の鋳造が始まったのは京都の龍文堂が始まりです。

その門人に近江の亀文堂ありました。その後、茶道の広がりとともに数々の名作が亀文堂によって作られて来ました。

上に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

あおやま

青山
あかおちょう
赤尾町
あかねちょう
あかね町
あきばだい
秋葉台
あさひ
朝日
あさひがおか
朝日が丘
あのう
穴太
あらかわ
荒川
あわづちょう
粟津町
いかだちかみざいじちょう
伊香立上在地町
いかだちかみりゅうげちょう
伊香立上龍華町
いかだちきたざいじちょう
伊香立北在地町
いかだちしもざいじちょう
伊香立下在地町
いかだちしもりゅうげちょう
伊香立下龍華町
いかだちとちゅうちょう
伊香立途中町
いかだちなまづちょう
伊香立生津町
いかだちみなみしょうちょう
伊香立南庄町
いかだちむかいざいじちょう
伊香立向在地町
いけのさと
池の里
いしずえ
石居
いしば
石場
いしやまうちはたちょう
石山内畑町
いしやませんちょう
石山千町
いしやまそとはたちょう
石山外畑町
いしやまてらべちょう
石山寺辺町
いしやまでら
石山寺
いしやまなんごうちょう
石山南郷町
いしやまひらつちょう
石山平津町
いちりやま
一里山
いなづ
稲津
いなばだい
稲葉台
いまかたた
今堅田
うちではま
打出浜
うめばやし
梅林
うめばやしちょう
梅林町
えだ

おいわけちょう
追分町
おうさか
逢坂
おうじがおか
皇子が丘
おおいしおだわら
大石小田原
おおいしおだわらちょう
大石小田原町
おおいしそつか
大石曽束
おおいしそつかちょう
大石曽束町
おおいしとみかわ
大石富川
おおいしとみかわちょう
大石富川町
おおいしなか
大石中
おおいしなかちょう
大石中町
おおいしひがし
大石東
おおいしひがしちょう
大石東町
おおいしよど
大石淀
おおいしよどちょう
大石淀町
おおいしりゅうもん
大石龍門
おおいしりゅうもんちょう
大石龍門町
おおえ
大江
おおがや
大萱
おおぎ
仰木
おおぎちょう
仰木町
おおぎのさと
仰木の里
おおぎのさとひがし
仰木の里東
おおたにちょう
大谷町
おおどりい
大鳥居
おおひら
大平
おごと
雄琴
おごときた
雄琴北
おとわだい
音羽台
おの
小野
おばながわ
尾花川
おんじょうじちょう
園城寺町

かがみがはま
鏡が浜
かすがちょう
春日町
かたた
堅田
かつらがわうめのきちょう
葛川梅ノ木町
かつらがわきどぐちちょう
葛川木戸口町
かつらがわさかしたちょう
葛川坂下町
かつらがわなかむらちょう
葛川中村町
かつらがわぬくいちょう
葛川貫井町
かつらがわほそかわちょう
葛川細川町
かつらがわぼうむらちょう
葛川坊村町
かつらがわまちいちょう
葛川町居町
かみたなかみおおどりいちょう
上田上大鳥居町
かみたなかみきりゅうちょう
上田上桐生町
かみたなかみしばはらちょう
上田上芝原町
かみたなかみしんめちょう
上田上新免町
かみたなかみどうちょう
上田上堂町
かみたなかみなかのちょう
上田上中野町
かみたなかみひらのちょう
上田上平野町
かみたなかみまきちょう
上田上牧町
かみでひらきまち
神出開町
かやのうら
萱野浦
からさき
唐崎
からはしちょう
唐橋町
かんがく
勧学
かんのんじ
観音寺
きたおおじ
北大路
きたこまつ
北小松
きたひら
北比良
きど
木戸
きぬがわ
衣川
きのしたちょう
木下町
きょうまち
京町
きりゅう
桐生
くりはら
栗原
くりばやしちょう
栗林町
くろづ
黒津
こうようちょう
向陽町
こくぶ
国分
こじょうがおか
湖城が丘
こせい
湖青
こぜきちょう
小関町
このおかちょう
木の岡町
ごてんはま
御殿浜
ごりょうちょう
御陵町

さいがわ
際川
さかえまち
栄町
さかもと
坂本
さかもとほんまち
坂本本町
さがみちょう
相模町
さくらのちょう
桜野町
さと

さんだいじ
三大寺
しがさと
滋賀里
しがさとちょうおつ
滋賀里町乙
しがさとちょうこう
滋賀里町甲
しばはら
芝原
しまのせき
島の関
しもさかもと
下阪本
しょうよう
松陽
しょうわちょう
昭和町
しんめ
新免
じんぐうちょう
神宮町
じんりょう
神領
すいめい
水明
すえひろちょう
末広町
すぎうらちょう
杉浦町
せいふうちょう
清風町
せいらん
晴嵐
せいわちょう
清和町
せきのつ
関津
せた
瀬田
せたおおえちょう
瀬田大江町
せたじんりょうちょう
瀬田神領町
せたつきのわちょう
瀬田月輪町
せたはしもとちょう
瀬田橋本町
せたみなみおおがやちょう
瀬田南大萱町
せんごくだい
千石台
せんちょう
千町
ぜぜ
膳所
ぜぜいけのうちちょう
膳所池ノ内町
ぜぜかみべっぽちょう
膳所上別保町
ぜぜひばりがおかちょう
膳所雲雀丘町
ぜぜひらおちょう
膳所平尾町
そのやま
園山

たいし
太子
たいしょうぐん
大将軍
たかさごちょう
高砂町
たつがおか
竜が丘
たなかみいしずえちょう
田上石居町
たなかみいなづちょう
田上稲津町
たなかみさとちょう
田上里町
たなかみせきのつちょう
田上関津町
たなかみはぐりちょう
田上羽栗町
たなかみもりちょう
田上森町
たなべちょう
田辺町
たまのうら
玉野浦
だいもつ
大物
だいもんどおり
大門通
ちの
千野
ちゃがさき
茶が崎
ちゃどまち
茶戸町
ちゅうおう
中央
つきのわ
月輪
つるのさと
鶴の里
とりいがわちょう
鳥居川町
どう


なかしょう
中庄
なかの
中野
ながら
長等
なんごう
南郷
なんごうかみやまちょう
南郷上山町
におのはま
におの浜
にしこおり
錦織
にしこおりちょう
錦織町
にしのしょう
西の庄
にほんまつ
二本松
のうか
苗鹿
のごうはら
野郷原

はぐり
羽栗
はすいけちょう
蓮池町
はちやど
八屋戸
はなぞのちょう
花園町
はまおおつ
浜大津
はままち
浜町
ばんば
馬場
ひえいだいら
比叡平
ひえいつじ
比叡辻
ひかりがおかちょう
光が丘町
ひよしだい
日吉台
ひらつ
平津
ひらの
平野
ふじおおくまち
藤尾奥町
ふじみだい
富士見台
ふだのつじ
札の辻
べっぽ
別保
ほたるだに
螢谷
ほんかたた
本堅田
ほんまるちょう
本丸町

まき

まつがおか
松が丘
まつばらちょう
松原町
まつもと
松本
まつもともとみやちょう
松本本宮町
まつやまちょう
松山町
まの
真野
まのいえだちょう
真野家田町
まのおおの
真野大野
まのさがわちょう
真野佐川町
まのたにぐちちょう
真野谷口町
まのふもん
真野普門
まのふもんちょう
真野普門町
まるのうちちょう
丸の内町
みいでらちょう
三井寺町
みさきちょう
美崎町
みせ
見世
みそらちょう
美空町
みどりちょう
緑町
みなみこまつ
南小松
みなみしが
南志賀
みなみしがちょう
南滋賀町
みなみひら
南比良
みなみふなじ
南船路
みゆきちょう
御幸町
もとみや
本宮
もり


やながさき
柳が崎
やながわ
柳川
やまがみちょう
山上町
やまなかちょう
山中町
やまゆりのおか
山百合の丘
やよいちょう
弥生町
ゆみはま
由美浜
ようめいちょう
陽明町
よこぎ
横木

わかばだい
若葉台
わにいまじゅく
和邇今宿
わにかすが
和邇春日
わにきたはま
和邇北浜
わにたかしろ
和邇高城
わになか
和邇中
わになかはま
和邇中浜
わにみなみはま
和邇南浜

ベルベット(英: velvet)は、平織か綾織の経糸にパイルを織り出したパイル織物の一種である。 ビロード(ポルトガル語: veludo、スペイン語: velludo)や天鵞絨(てんがじゅう)、とも呼ばれる。 柔らかで上品な手触りと深い光沢感が特長で、フォーマル・ドレスやカーテンに用いられる。レーヨンやシルクが一般的。縫いずれし易く、きれいに縫製するには高度な技術が必要である。
ベッチン(綿ビロード、ベロア)と見た目では区別がつきづらく混同され易い。どちらも製品としては同じであるが、製法に違いがある。製法の特性により、一般にベッチンはストレッチ性のあるニット素材を指す。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。

元和7年(1621年)膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う。また、膳所藩領国内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。
菅沼定芳は、膳所藩主となった後の寛永6年(1629年)、膳所相模川の左岸に御用窯を築いた。定芳は本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている。
菅沼定芳移封後、寛永11年(1634年)新たに石川忠総が膳所藩主となった。忠総の実父大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり、忠総自身も小堀遠州と親交が深かったことから遠州の指導を受け茶器焼き物に力を注いだ。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、膳所焼の隆盛は忠総治世時に留まり、慶安3年12月(1651年2月)忠総が死去し、慶安4年4月(1651年6月)後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封すると、膳所焼は徐々に衰退していった。

膳所焼再興
梅林焼
天明年間(1781年-1789年)に小田原屋伊兵衛が梅林焼という窯を興した[6]が、古来膳所焼は「黒味をおびた鉄釉の美しさ」を特色としたのに対し、梅林焼は「唐三彩風の緑や黄色など鮮やかな発色の釉薬」を特色とし、江戸初期の膳所焼とは懸け離れたものであった。
雀ケ谷焼
膳所城下篠津神社前紺屋町の商人井上幾右衛門が文政年間(1818年-1830年)、膳所焼再興のため京都から住宅まで建て陶工を招き、膳所茶臼山の東南麓の雀ヶ谷に窯を築いた。そのほとんどが土瓶・皿・鉢・徳利などの実用品であった。
瀬田焼
幕末から明治初期に、池田門平という陶工が瀬田の唐橋の東に窯を築き、楽焼風の茶碗を焼き始めたのが起源とされ、三代続いたが、大正時代には廃窯となった。窝跡は未確認で実態は不詳だが、長期間継続していたため、多くの製品が現存する。
膳所焼(再興)
膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が1919年(大正8年)、友人の画家山元春挙と組んで別邸に登り窯を築き、京都の陶工二代伊東陶山が技術的な指導を行い膳所焼の復興に生涯尽力した。健蔵の後、息子の岩崎新定に継承され、新生膳所焼は今日に至っている。膳所焼美術館にて作品を閲覧することができる。

提灯(ちょうちん)は、伸縮自在な構造で細い割竹等でできた枠に紙を貼り底に蝋燭を立てて光源とするもの。ろうそくではなく電気による光源のものもある。
内部に明かりを灯し、紙などの風防を通して周囲を照らす。「提」は手にさげるという意味で、携行できる灯りを意味する。いわば昔の懐中電灯で、中に蝋燭を点して持ち歩いたが、現在では祭礼の際を除くと、日常の場でこのように使われることはほとんどない。
近年は、竹ひごや紙の代わりにプラスチックのシートを使い、蝋燭の代わりに電球を使って、主に祭りなどのイベントや看板として使用されることが多い。インテリアや土産物などとしても販売されている。

竹刀(しない)は、剣術・剣道の稽古で防具に打突するための、竹で作られた日本刀の代替品である。現代では耐久性に優れたカーボン製のものもある。
「しない」という呼び名は、「撓(しな)う」ことに由来するという説があり、撓と書いて「しない」と読む事もある。全日本剣道連盟の前身は、全日本撓競技連盟という名称であった。「竹刀」と書く場合、古くは「ちくとう」とも読み、この場合もともとは稽古槍の事を指した。
木刀(ぼくとう)は、樫などの硬い木で作られた用具を指し、竹刀は含めない。また、竹光(たけみつ)は時代劇などの小道具に用いられる木製の模擬刀であり、竹刀とは異なる。
竹刃の小刀を竹刀(ちくとう)と呼ぶこともある。

竹刀(しない)は、剣術・剣道の稽古で防具に打突するための、竹で作られた日本刀の代替品である。現代では耐久性に優れたカーボン製のものもある。
「しない」という呼び名は、「撓(しな)う」ことに由来するという説があり、撓と書いて「しない」と読む事もある。全日本剣道連盟の前身は、全日本撓競技連盟という名称であった。「竹刀」と書く場合、古くは「ちくとう」とも読み、この場合もともとは稽古槍の事を指した。
木刀(ぼくとう)は、樫などの硬い木で作られた用具を指し、竹刀は含めない。また、竹光(たけみつ)は時代劇などの小道具に用いられる木製の模擬刀であり、竹刀とは異なる。
竹刃の小刀を竹刀(ちくとう)と呼ぶこともある。

彦根仏壇(ひこねぶつだん)は滋賀県彦根市およびその周辺で製造される金仏壇の総称。 仏壇仏具業界では初めて1975年(昭和50年)に通商産業大臣によって伝統工芸品に指定される。

仏壇としての分類
彦根仏壇は漆塗り、金箔押しがされており、金仏壇に分類される。
サイズとしては幅4尺、高さ5尺8寸で、一間の仏間に納める大型の仏壇が主流。
製造システムの特徴
工部七職という各分野の職人がそれぞれ独立した工房を構え、仏壇店は工程に沿って順次発注をかけることによって仏壇製造を進めていく。これは江戸時代前期の主流だった家内制手工業のシステムである。
一方、一部の仏壇店は自社工場を建設し、主要な工程を自力で行っている。しかしながら工場内で機械化が進んでいるのは塗装工程くらいであり、殆どの工程は従業員による手仕事の域を超えていない。製造業のシステムとしては、江戸末期 – 明治期に出現した工場制手工業に近い。
工部七職の職人の中には自前の資本を失い、上記のような工場内の設備を借りて仕事を受注する形をとる人もいる。この部分は工場制手工業とその前段階の問屋制家内工業を足して2で割ったようなシステムである。
仏壇製造業では江戸時代前期から産業革命期までのシステムが混在しているといえる。
販売面での特徴
彦根産地の仏壇店は卸業者としての機能も持つため、かつては全国各地で彦根仏壇ブランドの仏壇が販売されていたが、秋田、九州、近年では中国をはじめとする海外産の仏壇との競争にさらされ、利益確保のために直売へシフトする仏壇店が増えてきている。
最初から仏壇の「販売」を主な事業として始めた仏壇店は少なく、工部七職の何れかの職人から仏壇販売に乗り出した店が多く、職人としての仕事と仏壇の販売が並存する仏壇店も多い。どの分野の職人出身かによって、仏壇店としてどの部分にこだわりを持つかの差が生まれ、それが店ごとの個性となって現れている。
滋賀県内、京阪神、北陸、東海の各地域はそれぞれ顧客の嗜好、主流になっている宗派が異なるため、どの地域を主な商圏とするかによって、各仏壇店での商品政策が異なる。

和蝋燭(わろうそく)は灯具である蝋燭の一種。

材料
櫨の実から搾り取った木蝋を加熱して熔かしたものを、和紙およびイグサの髄から作った芯(灯心)の周りに手でかけ、乾燥させてを繰り返して作る。完成した蝋燭は、断面が年輪状になる。 ハゼの蝋のみで作った蝋燭が最も高級とされる。
特徴
洋蝋燭に比べ光が強く、長時間もつと言われている。ろうそくプレイに使われるのは、基本的に和蝋燭である。また、芯の状態によって炎の揺らぎ方が異なり、その燃え方の表情の変化を好む人もいる。マイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』では、和蝋燭の芯の換気構造をファラデーが驚きを持って聴衆に語るエピソードがある。
洋蝋燭より作成に手間がかかるため高価であり、一般には仏具専門店にて販売されるが、西日本ではスーパーマーケット等でも販売されている。西日本では金箔仏壇を使用する例が多いが、和蝋燭の煙に含まれるカーボンが洋蝋燭に比べ少ないので、金箔を汚しにくいためである。
歴史
和ろうそくは、1375年頃の太平記の記述に出てくる。その頃に作り始められたと思われる。 産地としては、愛知県、京都府、滋賀県、福井県、石川県などが上げられるが、軒数が最も多いのは愛知県といわれている。
種類
近江和蝋燭(滋賀県伝統的工芸品)
越前和蝋燭(福井県指定郷土工芸品)
七尾和蝋燭
三州岡崎和蝋燭
会津絵蝋燭 (福島県伝統的工芸品)
越後和蝋燭
庄内絵蝋燭

太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。
胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。
円形の枠に1枚の膜を張るもの。うちわ太鼓など。
筒状の胴の片側に膜を張るもの。片面太鼓という。
筒状の胴の両側に膜を張るもの。両面太鼓という。
鍋状の胴に膜を張るもの。ティンパニなど。

大津絵(おおつ-え)とは、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。
大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。

歴史
東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。
松尾芭蕉の俳句「大津絵の筆のはじめは何佛」には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れている。また、江戸時代初期のキリシタン弾圧に際して「自分は仏教徒である」という隠れ蓑的役割も有していたと言われる。
江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。
特徴
神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。

梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる。別名に大鐘(おおがね)、洪鐘(おおがね、こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)などがある。

概要
「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものである。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。
仏教はインドに起源を持ち、アジア各地に広まった宗教であるが、梵鐘に関してはその祖形をインドに求めることは困難であり、中国古代の青銅器にその源流が求められる。殷・周時代から制作されている「編鐘」(へんしょう)という青銅器が梵鐘の源流と推定されているが、この「鐘」は全体に小型で、その断面形状は後世の梵鐘のような円形ではなく、杏仁形(アーモンド形)である[注釈 1]。中国製の梵鐘の古例としては、奈良国立博物館所蔵の陳の太建7年(575年)の銘をもつ作品がある。この太建7年銘鐘は、断面が円形であること、縦横の帯で鐘身を区切ること、鐘身を懸垂するフックの部分を龍身とすること、撞座を蓮華文とすることなどが後世の日本の梵鐘と共通しており、その祖形と目される。ただし、「乳」と呼ばれる突起状の装飾を付けない点は日本の梵鐘と異なっている。
梵鐘の日本への渡来については、日本書紀に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が562年、高句麗から日本に持ち帰ったとの記録が残っているが、現存遺品でこの時代にまでさかのぼるものはない。京都・妙心寺の梵鐘(国宝)は、内面に戊戌年(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々の銘があり、製作年代と制作地の明らかな日本製の梵鐘としては最古のものとされている。
高麗時代以前の朝鮮鐘は朝鮮半島のほか日本にも多数伝来し、福井県常宮神社の鐘が年代の明らかなものとしては最古(唐の大和7年・833年)とされている。日本の梵鐘は中国の様式を倣ったものが大半で、朝鮮鐘を倣ったものはごく例外的なものとされている。
梵鐘の主な役割は本来は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 – ぎょうしょう、昏鐘 – こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。
青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もある。小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる。
響きをよくするために鋳造の際、指輪(金)を入れることがあるといわれ、江戸時代には小判を鋳込んだ例もある。雅楽と鐘の関係を記す文献もある。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。
最近では特に都市部で梵鐘の音を騒音と捉えた人から寺や警察に梵鐘を撞くことをやめるよう苦情が来ることが増え、撞き手がいない寺が増えていることもあって、除夜の鐘も含めて梵鐘を撞く寺が減ってきている。
撞き手に代わる策として、奈良県の上田技研産業株式会社が開発した自動撞木を導入する寺が増えている。この装置は、撞木の中にモーターとバネが組み込まれており、鐘を撞く時間が近付くとモーターがバネを圧縮し、解放した時に発生する力を利用して、押し出す形で撞くようにできている。ただし、これだけでは撞木が揺れ動いたままなので、バネの圧縮と同時に上部に取り付けられたアームが下がり、先端のローラーで撞木を上から押さえ付けて、鐘を撞いた後の動きを抑制し、すぐにまた鐘が撞けるようにしている。もちろん、これまで通りに撞き紐で撞くことも可能である。
和鐘の形式
和鐘の場合、鐘身は上帯・中帯・下帯と称される3本の横帯で水平方向に区切られるとともに、垂直方向にも縦帯と称される帯で区切られる。縦帯は通常4本で、鐘身を縦に4分割する(近世の鐘には5本の縦帯をもつものもある)。上帯と中帯の間の空間は、上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称する。「乳の間」には「乳」と称する突起状の装飾を並べる。「池の間」は無文の場合もあるが、ここに銘文を鋳出(または刻出)したり、天人像、仏像などの具象的な図柄を表す場合もある。中帯と下帯との間のスペースは「草の間」と呼ばれる。鐘身の撞木が当たる位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が対称的位置に設けられる(まれに4箇所に撞座を設ける例もある)。撞座の装飾は蓮華文とするのが原則である。
和鐘の基本的形状は奈良時代から江戸時代まで変わりがないが、細部には時代色が表れている。梵鐘の時代を判別する大きなポイントの1つは撞座と龍頭との位置関係である。奈良時代から平安時代前期の鐘では、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として直交している。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは直交する。これに対し、平安時代後期以降の鐘においては龍頭の取り付き方が変化しており、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として同一方向である。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは一致している(若干の例外はある)。また、奈良時代から平安時代前期の鐘では撞座の位置が高く、鐘身の中央に近い位置にあるのに対し、平安時代末期以降の鐘では撞座の位置が下がる傾向がある。

日本の著名な梵鐘

国家安康の鐘とその銘文(京都・方広寺)
奈良時代の梵鐘
梵鐘研究家の坪井良平は以下の16口を奈良時代鐘としている。
千葉・成田市出土鐘(国立歴史民俗博物館蔵) 774年
福井・劔神社鐘 770年、製作年代明らかなものとしては日本で3番目に古い
岐阜・真禅院鐘
滋賀・園城寺鐘 通称・弁慶の引き摺り鐘
滋賀・竜王寺鐘
京都・妙心寺鐘 698年、製作年代明らかなものとしては日本最古
京都・東福寺鐘
奈良・東大寺鐘
奈良・興福寺鐘 727年、製作年代明らかなものとしては日本で2番目に古い
奈良・薬師寺鐘
奈良・新薬師寺鐘
奈良・法隆寺西院鐘
奈良・法隆寺東院鐘 旧・中宮寺鐘
奈良・当麻寺鐘 妙心寺鐘と並ぶ日本最古級の鐘
奈良・大峯山寺鐘
福岡・観世音寺鐘 妙心寺鐘と同じ木型から造られた古鐘
国宝の梵鐘
神奈川・円覚寺
神奈川・建長寺
福井・劔神社
滋賀・佐川美術館
京都・平等院(所在:鳳翔館、現在鐘楼に吊られている鐘は複製)
京都・妙心寺(徒然草に登場する)
京都・神護寺(非公開)
奈良・当麻寺(非公開)
奈良・東大寺
奈良・興福寺(所在:国宝館)
奈良・栄山寺
福岡・観世音寺
福岡・西光寺
その他の著名な梵鐘
東京・品川寺(鐘楼) – 四代将軍徳川家綱寄進。幕末に万博出品されるも行方不明となり、昭和5年に返還された。
東京・浅草寺(弁天山) – 「花の雲 鐘は上野か浅草か」(松尾芭蕉)の句で有名。
愛知・久国寺(天長山) – 芸術家・岡本太郎が製作。
滋賀・園城寺(三井寺)(鐘楼) – 「三井の晩鐘」の別名あり。音色の良さで知られ、三大梵鐘ともいわれる。
滋賀・園城寺(三井寺) – 通称「弁慶の引き摺り鐘」
京都・平等院-姿の良さで知られる、三大梵鐘の一つ。
京都・方広寺(鐘楼) – 銘文中の「国家安康」の句が徳川家康の豊臣への怒りを買ったとされる。
京都・知恩院(鐘楼)
兵庫・佛教之王堂[念仏宗 総本山](北鐘楼・南鐘楼) – 重さ48tの大梵鐘が2口 ㈱老子製作所 第12代老子次右衛門が製作。
熊本・蓮華院誕生寺(鐘楼) – 大きさ、重量ともに世界一[要出典]の大梵鐘がある。口径九尺五寸、高さ十五尺、重量一万貫。昭和五十二年鋳造。鋳造元は岩澤の梵鐘
和歌山県日高郡日高川町道成寺:梵鐘がないことで有名、安珍・清姫伝説に基づく。
静岡・紇哩岡寺?(袋井市) – 1983年に茶畑から出土した。平治元年の銘文があり、銘文がある梵鐘としては全国で12番目の古さ
文学の中の梵鐘

歌川国芳の「弁慶、比叡山へ引き摺り上げる図」(滋賀県大津市三井寺所蔵)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす」平家物語冒頭
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規の俳句)
「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる」(童謡『夕焼け小焼け』作詞: 中村雨紅、作曲: 草川信)

小幡人形(おばたにんぎょう)とは、滋賀県東近江市五個荘小幡町で作られている伝統的な土人形。
18世紀、小幡において京都への飛脚業を営んでいた安兵衛が、京都伏見において作られる伏見人形の製作方法を習得し持ち帰ったのが始まりとされる。鮮やかな原色、特に桃色による彩色が特徴である。
1984年(昭和59年)と1992年(平成4年)には年賀切手の図柄に採用されたことがある。

近江扇子
大津焼
網織紬
秦荘紬
綴綿
ビロード
正藍染・近江木綿
本藍染
手織真田紐
草木染手組組紐
近江刺繍
彦根繍
楽器糸
鼻緒
特殊生糸
押絵細工
近江真綿
八田焼
膳所焼
近江下田焼
提灯
竹刀
ろくろ工芸品
竹根鞭細工
木製桶樽
竹皮細工
竹製花籠
甲良臼
高島扇骨
上丹生木彫
浜仏壇
彦根仏壇
錺金具
高島虎斑石硯
雲平筆
江州燈篭
和ろうそく
太鼓
大津絵
梵鐘
小幡人形

1

近江上布

近江上布

(パンフレット 25ページ)
滋賀県麻織物工業(協)

愛荘町

国指定

2

網織紬

網織紬

(パンフレット 5ページ)

奥田武雄

長浜市

第2次

奥田重之

3

秦荘紬

秦荘紬

(パンフレット 5ページ)
川口織物(有)

愛荘町

第1次

4

綴錦

綴錦

(パンフレット 6ページ)

織匠[宗八] (株)清原織物

守山市・米原市

第1次

5

ビロード

ビロード

(パンフレット 6ページ)

長浜ビロード振興協会

長浜市

第2次

6

正藍染・近江木綿

正藍染

(パンフレット 7ページ)

植西恒夫

湖南市

第2次

7

手織真田紐

手織真田紐

(パンフレット 7ページ)

西村幸

東近江市

第2次

8

草木染手組組紐

草木染手組組紐

(パンフレット 8ページ)

(有)藤三郎紐

大津市

第2次

9

近江刺繍

近江刺繍

(パンフレット 8ページ)
近江美術刺繍工芸社

愛荘町

第2次

10

彦根繍彦根縫

(パンフレット 9ページ)

(有)青木刺繍

彦根市

第6次

11

楽器糸

楽器糸

(パンフレット 9ページ)

西山生糸組合

長浜市

第1次

木之本町邦楽器原糸製造保存会

丸三ハシモト(株)

12

鼻緒

花緒

(パンフレット 10ページ)

滋賀県花緒サンダル組合
※原田和装(株)方

長浜市

第1次

13

特殊生糸

特殊生糸

(パンフレット 10ページ)

西村英雄

長浜市

第1次

14

押絵細工

押絵細工

(パンフレット 11ページ)

東川雅彦

近江八幡市

第1次

15

近江真綿

近江真綿

(パンフレット 11ページ)

近江真綿振興会

米原市

第2次

16

輪奈ビロード

輪奈ビロード

(パンフレット 12ページ)

(株)タケツネ

長浜市

第8次

器 17
信楽焼

信楽焼

(パンフレット 24ページ)

信楽陶器工業(協)

甲賀市

国指定

18

膳所焼

膳所焼

(パンフレット 12ページ)

(有)膳所焼窯元 陽炎園

大津市

第2次

19

近江下田焼

近江下田焼

(パンフレット 13ページ)

(有)近江下田焼陶房

湖南市

第6次

20

(再興)湖東焼

湖東焼

(パンフレット 13ページ)

中川一志郎

彦根市

第8次





21

提灯

提灯

(パンフレット 14ページ)

かさぜん中川善輝

長浜市

第7次

22

ろくろ工芸品

ろくろ工芸品

(パンフレット 14ページ)

(有)松浦製作所

長浜市

第1次

片山木工所

23

竹根鞭細工

竹根鞭細工
(パンフレット 15ページ)

瀬川泰弘

草津市

第1次

24

木製桶樽

木製桶樽

(パンフレット 15ページ)

村田茂朋(問い合わせ先)

竜王町

第2次

25

高島扇骨

高島扇骨

(パンフレット 16ページ)

滋賀県扇子工業(協)

高島市

第4次

26

上丹生木彫

上丹生木彫

(パンフレット 16ページ)

上丹生木彫組合

米原市

第5次

27

八幡丸竹工芸品

八幡丸竹工芸品

(パンフレット 17ページ)

(有)竹松商店

近江八幡市

第7次

28

木珠(高級木製数珠玉)

木珠

(パンフレット 17ページ)

(株)カワサキ

近江八幡市

第9次


29

彦根仏壇

彦根仏壇

(パンフレット 26ページ)

彦根仏壇事業(協)

彦根市

国指定

30

浜仏壇

浜仏壇

(パンフレット 18ページ)

浜仏壇工芸会

長浜市

第1次

31

錺金具

錺金具

(パンフレット 18ページ)

辻清

長浜市

第4次









32

近江雁皮紙

近江雁皮紙

(パンフレット 19ページ)

(有)成子紙工房

大津市

第2次

33

雲平筆

雲平筆

(パンフレット 19ページ)

筆師第15世藤野雲平

高島市

第1次

34

和ろうそく

和ろうそく
(パンフレット 20ページ)

(有)大與

高島市

第2次

北村雅明

長浜市

第6次

35

太鼓

太鼓

(パンフレット 20ページ)

正木専治郎

愛荘町

第2次
二代目杉本才次

36

大津絵

大津絵

(パンフレット 21ページ)

高橋松山

大津市

第2次

37

梵鐘

梵鐘

(パンフレット 21ページ)

西澤吉太郎

東近江市

第5次

38

小幡人形

小幡人形

(パンフレット 22ページ)

細居源悟

東近江市

第5次

39

愛知川びん細工手まり

びんてまり

(パンフレット 22ページ)

伝承工芸愛知川びん細工手まり保存会

愛荘町

第9次

40
いぶし鬼瓦

鬼瓦

(パンフレット 23ページ)

美濃邉鬼瓦工房 大津市 第10次
41
神輿

神輿

(パンフレット 23ページ)

(株)さかい 野洲市 第10次

茨木 杉風(いばらぎ さんぷう、明治31年(1898年)2月8日 – 昭和51年(1976年)8月12日)は、近藤浩一路に師事した水墨画家。日本美術院院友を辞し『新興美術院』を創設した。

略歴
茨木杉風は、明治31年(1898年)2月8日に滋賀県蒲生郡八幡町(現滋賀県近江八幡市)の商家に生まれた。嫡男として家業である海産物商を継ぐところ、幼少時より絵が好きで大林千万樹に入門、後に大林より近藤浩一路を紹介され、大正9年(1920年)同人に師事した。近藤に師事すると共に太平洋洋画会研究所にも入り、洋学の勉強をした[1]。 同年院展に『八木節』を出展し初入選し昭和5年日本美術院院友となり、翌年2月師である近藤と共に渡欧し毛筆でスケッチをして回ったと伝えられる。
昭和12年(1937年)院展が文展に参加したことに反発し、院友10人と共に新しい公募団体『新興美術院』を創設した。昭和51年(1978年)に死去する迄新興美術院の役員として活動し、昭和33年(1958年)日本学士院のアカデミア賞を受賞した。杉風は故郷近江・琵琶湖の風物を愛し画題によく用いた、昭和18年(1943年)新興美術院展出展作『近江八景』(六曲四双屏風絵)は代表作の一つ。中央画壇での栄達を求めず故郷に身を置いた画家であった。

淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日(1823年1月12日) – 明治12年(1879年)6月19日)は勤王家・文人。漢詩人の江馬天江は実弟。
本姓は下坂氏。名は緝、字は敬天。号は槐堂のほか、重涂・頑山史。近江の人。

略歴
近江国坂田郡中村(現在の滋賀県長浜市)の下坂篁斎の子として生まれる。3歳のときに京都の薬種商武田家の養子となる。安政2年(1855年)に、醍醐家に仕えて功績が認められ、板倉姓を賜り、筑前守に任ぜられる。あわせて従六位を叙されている。
勤王の志に篤く、七卿落ちや天誅組・長州藩などを資金援助。坂本龍馬・中岡慎太郎にも惜しみなく支援[1]を行っている。
禁門の変(1864年)ののち幕府に捕らえられ3年間獄中の身となる。のちに赦免され、慶応4年(1868年)3月に大津裁判所参謀や宮内中録に任ぜられと、淡海(おうみ)と改姓した。しかし、新政府と意見が合わずすぐに辞任。
明治3年(1870年)には位記を返上、槐堂を号し、多くの文人と交遊して文雅三昧に暮らした。享年58。
槐堂は、梁川星巌に就いて漢詩を学び、書画・篆刻も能くした。実弟江馬天江の編集した『高古印譜』に槐堂の自刻した印影が多く掲載されている。『円山勝会図録』にも名がみえ煎茶を嗜んだ。
坂本龍馬の誕生祝いに槐堂が自作して贈ったといわれる「梅椿図」は「坂本龍馬関係資料」のうちの1点として、日本の重要文化財に指定されている(京都国立博物館所蔵)。この掛け軸には近江屋で龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたときの血痕が数カ所残されている。
槐堂は進取の気性に富み、長崎からカメラを取り寄せ自ら撮影に取り組んだ。安政6年(1859年)、槐堂が撮影した鳩居堂7代目当主熊谷直孝の肖像は京都市最古の写真とされる(京都市指定文化財)。

小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 – 2000年7月23日)は、滋賀県大津市出身の日本画家。本名、ゆき。旧姓、溝上。奈良女子高等師範学校卒。
1926年に院展に入選し、1932年に女性として初めて日本美術院の同人となった。色彩に富む人物画や静物画が特徴で、上村松園とともに日本を代表する女性画家で、作「O夫人坐像」「小女」「浴女」など。奈良女子大学の講堂の緞帳は、小倉遊亀の「爛漫」、滋賀県立大津高等学校の体育館の緞帳は「うす霜」という原画によるものであった。

経歴
1895年3月1日:大津市丸屋町に生まれる。
1913年:滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)入学。
1917年:奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)卒業[3]。女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。
1926年:「胡瓜」が院展に入選する。以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選する。
1932年:女性として初めて日本美術院同人。
1936年:山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚、以後鎌倉に住んだ。
1976年:日本芸術院会員。
1978年:文化功労者に選ばれる。
1980年:上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章する。
1990年から1996年まで日本美術院理事長を務めた。
1999年:パリで個展を開催。
2000年:105歳の長寿を全うして鎌倉で没した。戒名は「大梅院天池遊亀大姉」。
受賞歴
1954年 – 「O夫人坐像」などで第4回上村松園賞
1955年 – 「裸婦」(第39回院展出品)で芸術選奨美術部門文部大臣賞
1957年 – 「小女」(第41回院展出品)で第8回毎日美術賞
1962年 – 「母子」(第46回院展出品)で第18回日本芸術院賞
1975年 – 神奈川文化賞
1979年 – 滋賀県文化賞
主な作品[編集]
浴女(1938年、東京国立近代美術館蔵)
受洗を謳う(1936年、滋賀県立近代美術館蔵)
観世音菩薩(1941年、滋賀県立近代美術館蔵)
舞妓(1969年、京都国立近代美術館蔵)

織田 瑟瑟(おだ しつしつ、安永8年(1779年) – 天保3年7月9日(1832年8月4日)は、江戸時代後期の女流絵師。本姓は津田政江。桜を題材にした絵画を得意とした。

生涯
安永8年(1779年)、近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市)川合寺で、知行700石を領する津田内匠貞秀の長女として誕生。名は政江。
津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。信貞は関ヶ原の戦いおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。代々江戸に住んでいたが信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国川合寺に隠棲し津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。
幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている。父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。ところが夫も寛政9年に死別する。
文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男[1]・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し[1]、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、八千代も絵を良くしたという[7]。また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる。
天保3年(1832年)に54歳で死去。墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉。なお、墓は自分が写生し、寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、現在はその桜はない。
織田桜
瑟瑟が描く絵はほとんどが桜絵であったことから地元近江では「織田桜」と称され、今も数多くの作品が残る。露香門下で瑟瑟の名は類まれな彩色手法より高く評価され、瑟瑟が桜の絵を描いていると空飛ぶ鳥が実物と間違えその絵の桜に止まりに来たとの逸話も残されている。
瑟瑟の落款や画風の変遷はおよそ4期に分けられる。第一期は寛政後半から享和初年までの、結婚から死別を経て再婚するまで。款記には織田姓を記さず瑟瑟のみ記し、印には「織田氏女」「瑟瑟」の大印を用いる。画風には、師・露香の影響が残る。第二期は享和初年以降から文政4年(1821年)20代から43歳までで、貞逸が成人する頃までに当たる。落款に織田姓をほとんど書き込み「織田氏女瑟瑟」と記す。印は、第一期の大印は使用せず、「織田氏女」「瑟瑟」小印と「惜花人」印を組み合わせる。作風は師と決別し、桜そのものの描写に重きを置いていく。絵の上部は幹の上を花が覆い、絵の下方からも若枝が伸び花を咲かせるといった二層式構図が典型的に用いられる。第三期は文政4年から文政12年(1829年)51歳まで。もっぱら「貞逸母」と記す。印は第一期の大印を再び用い、「家在越渓南岸」の巨大印を併用することも多い。画風は最も特徴的で、地面は盛り上がり幹は老木となって、花はみっしり咲き誇る美しくも力強い作品が多い。第四期は文政12年から没年まで。落款は「貞逸母」から「織田氏女瑟瑟」に戻って自体は細く弱くなり、印も第二期のものに戻る。画風も優美になり、繊細かつ円熟した作品が残っている。

海北 友松(かいほう ゆうしょう、天文2年(1533年) – 慶長20年6月2日(1615年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。海北派の始祖。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」とも。「如切斎」「有景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪。
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。
その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。また、交流のあった斎藤利三(明智光秀の重臣)を謀反人でありながら手厚く葬り(磔にされていた利三の遺体を友松が槍を振って侵入して奪い取ったともいわれる)、後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。
墓所は京都府京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。

代表作
建仁寺本坊大方丈障壁画 重要文化財 京都国立博物館寄託
全50面。内訳は、依鉢の間「琴棋書画図」10面、檀那の間「山水図」8面、室中「竹林七賢図」16面、書院の間「花鳥図」10面(内2面消失)、礼の間「雲龍図」8面。慶長4年(1599年)安国寺恵瓊が、前身の安国寺方丈を本坊方丈として移建する際、障壁画は新調し、その制作を任されたのが友松であった。堂々たる大作であり、制作年がはっきりとした基準作としても貴重である。昭和9年(1934年)の第一室戸台風で大方丈が倒壊したことから、現在の大型の掛け軸に改装された。

花卉図(妙心寺)

楼閣山水図(MOA美術館)
琴棋書画図(京都・建仁寺塔頭霊洞院) 重要文化財 京都国立博物館寄託
松竹梅図(京都・建仁寺塔頭禅居庵)襖全12面 重要文化財
浜松図(宮内庁 三の丸尚蔵館)六曲一双 金地著色
網干図屏風(宮内庁 三の丸尚蔵館)六曲一双 金地著色
花卉図(京都・妙心寺)六曲一双 紙本金地着色 重要文化財 京都国立博物館寄託
琴棋書画図(京都・妙心寺)六曲一双 紙本金地着色 重要文化財 京都国立博物館寄託
三酸・寒山拾得図(京都・妙心寺)六曲一双 紙本金地着色 重要文化財
四季山水図(MOA美術館)八曲一双 重要文化財
楼閣山水図(MOA美術館)六曲一双 紙本墨画 重要文化財
飲中八仙図(京都国立博物館)六曲一隻 重要文化財 1602年
雲龍図(京都・北野天満宮)六曲一双 重要文化財
婦女琴棋書画図(東京国立博物館)六曲一双 紙本著色 重要文化財
山水図(東京国立博物館)六曲一隻 紙本墨画
放馬図屏風(松尾寺)六曲一双 紙本墨画
禅宗祖師・散聖図屏風(静岡県立美術館)六曲一双 紙本墨画
琴棋書画図(ワシントンD.C.・フリーア美術館)六曲一双 紙本墨画
月下渓流図屏風(カンザスシティ・ネルソン・アトキンズ美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩

狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) – 寛永12年8月19日(1635年9月30日)は、安土桃山時代~江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪は養子。

経歴
浅井長政の家臣・木村永光の子光頼として近江国蒲生郡に生まれる。母は伝承では益田氏。のちの林鵞峰は「佐々木氏の末裔か」と記している。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。
浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳の養子となり狩野姓を名乗る。山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。天正年間には、安土城障壁画や正親町院御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると、山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが伺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)。以後、豊臣家の関係の諸作事に関わり、大阪に留まって制作に励んだ。豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。
あまりに豊臣家と深く関わったため、大坂城落城後、豊臣方の残党として嫌疑をかけられてしまい、男山八幡宮の松花堂昭乗の元に身を隠した。その後、九条家の尽力もあり、山楽は武士ではなく一画工であるとして恩赦を受け助命される。九条家との繋がりは以後代々受け継がれ、幕末まで続くことになる。駿府の家康に拝謁、京都に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画などを制作した。長男・光教(孝)が早世したため、門人・狩野山雪を後継者とした。晩年は筆力の衰えを隠せず、弟子に代作させることもしばしばであった。
狩野探幽(永徳の孫)らが江戸に移って活動したのに対し、山楽・山雪の系統は京に留まったため、「京狩野」と称される。 永徳様式を継承した大画様式に優れた才能を魅せ、雄大な構図を持つ作品が多い。それらは永徳画に比べると装飾性豊かでゆったりとした構成を取る。こうした方向性は、後の絵師達に強い影響を与えた。
380年の間、謎とされてきた山楽の息子、伊織「狩野山益」であるが、知恩院塔頭の良正院本堂(重要文化財)襖絵を描いていた事が近年判明した。大阪芸術大学の五十嵐公一教授の調査による。福岡市美術館所蔵の源氏物語屏風に狩野伊織と署名、山益の落款。画風の一致。これにより同一人物である事が確定した。

代表作

牡丹図襖(大覚寺宸殿障壁画)

牡丹図襖(大覚寺宸殿障壁画)
重要文化財
龍虎図屏風 (京都・妙心寺) 六曲一双 紙本金地著色 京都国立博物館寄託
厳子陵・虎渓三笑図屏風 (京都・妙心寺) 二曲一双 紙本金地著色 奈良国立博物館寄託
文王呂尚・商山四皓図屏風 (京都・妙心寺) 六曲一双 紙本金地著色 東京国立博物館寄託
これら屏風は、同じく妙心寺にある海北友松の屏風と一括して、通称「妙心寺屏風」と呼ばれる。一般的な屏風絵と比べて縦に25cm弱ほど大きいのが特徴である。これらは落款がなく、寺伝では友松筆とされていたが、土居次義の研究により山楽筆だと明らかにされた。

紅梅図襖(大覚寺宸殿障壁画)
大覚寺宸殿障壁画 (京都・大覚寺)
山楽筆とされるのは、宸殿にある金碧画の紅梅図8面(紅梅の間)と牡丹図18面(牡丹の間)、正宸殿にある水墨画の山水図16面(御冠の間)と松鷹図13面(鷹の間)
正伝寺方丈障壁画 楼閣山水図(京都・正伝寺)
養源院障壁画 (京都・養源院)
聖徳太子絵伝 全17面 (大阪・四天王寺)元和9年(1623年)
鷙鳥図襖絵 (個人蔵) 六曲一双 紙本墨画
犬追物図屏風 (文化庁) 六曲一双 紙本金地著色
松図(旧天球院方丈仏壇壁貼付) (京都国立博物館) 9面 紙本金地着色 寛永8年(1631年)
車争図 (東京国立博物館) 四曲一隻 紙本著色
その他
黄石公張良・虎渓三笑図屏風] (東京国立博物館) 六曲一双 紙本金地著色
帝鑑図押絵貼屏風 (東京国立博物館) 六曲一双 紙本墨画
西湖図襖 (サントリー美術館) 8面 重要美術品 黒田侯爵家旧蔵
繋馬図絵馬 (滋賀・海津天神社) 2面 寛永2年(1625年) 京都国立博物館寄託
花鳥図屏風 (フリーア美術館) 六曲一双
牧場図屏風 (ギリシャ国立コルフ・アジア美術館) 六曲一双 元和年間
羯鼓催花図屏風 (ボストン美術館) 六曲一双 紙本金地著色
二十四孝図屏風 (ボストン美術館) 六曲一隻 紙本金地墨画

岸 竹堂(きし ちくどう、文政9年4月22日(1826年5月28日) – 明治30年(1897年)7月27日)は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。幼名は米吉、名は昌禄、字は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花など。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家である。

略歴
彦根藩(現彦根市)代官役・寺居孫二郎重信の三男として彦根城下に生まれる。天保7年(1836年)数え11歳で地元の絵師で彦根藩士中島安泰に狩野派の手ほどきを受ける。天保13年(1842年)17歳の時、京狩野9代目の狩野永岳に入門するが、粉本主義の狩野派の指導法に疑問を感じ、翌年四条派の流れを組む岸派の岸連山に師事した。安政元年(1854年)29歳で連山の娘素子と結婚し、岸家の養子となる。この前後、二条城本丸御殿や御所造営に際して障壁画を描く。安政4年(1857年)有栖川宮に出仕し、安政6年(1859年)11月には連山の子・岸九岳が未だ幼少なため岸家を継ぎ、竹堂の歩みは順風だった。画風も円山派の長沢芦雪に私淑し、その構図法を学び一段と飛躍を見せる。
幕末の混乱期には、絵師としての生活が成り立たず困窮する。師連山も亡くなり、禁門の変で家を焼かれ、書きためた写生や模写の画稿も焼失してしまう。生活のため旅亭を営んだり、蚊帳屋、蝋燭屋などを始めるも、どれもうまくいかなかった。明治6年(1873年)千總の西村總左衛門と出会い、京友禅の下絵を描いて糊口をしのいだ。竹堂の流麗な意匠により、千總の友禅は一世を風靡したという。
この成功で生活が安定した竹堂は、新たに大作にも取り組み始める。明治13年(1880年)6月、新たに設置された京都府画学校に教員に着任。明治17年(1884年)第二回内国絵画共進会に「晩桜図」を出品し3等銅賞、また同年の大阪絵画品評会に「池辺に菊図」で2等賞を受ける。翌年、高島屋常設画工室が設置されると、田中一華らとこれを担当する。明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会では「猛虎図」六曲一双で二等銀杯を受賞、各展覧会の審査員になるなど京都画壇の指導的画家として活躍した。
しかし、サーカスで見た実物の虎に衝撃を受け(それまでは実物の虎を日本で絵師が直接見ることはなかったため、日本画の虎図は大型の猫のような風貌をしていた)、画風が一変。明治25年(1892年)6月には、「虎図」に執念を燃やして打ち込むあまりに「虎が睨んでいる」と発狂し、一時永観堂の癲狂院に入院する一幕もあったが、この仔虎を抱いた母虎の虎図はシカゴ万国博覧会で銅牌を受賞した。明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員となるが、翌年慢性胃炎のため72歳で没した。墓は京都上京区の本禅寺。墓碑銘は竹堂の死を悼んだ富岡鉄斎が誌した。
西洋絵画の陰影法や遠近法を採り入れた鋭い写生技術を持ち、粉本に頼ることがなかった。動物画・風景画、特に虎と桜を得意とした。弟子に西村五雲、加藤英舟、藤島清漣、浅江柳喬、吉谷清聲、吉岡華堂など。

沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日 – 昭和57年(1982年)9月27日)は、日本画家、秋野不矩と結婚するが後に離婚。日本画団体「創造美術」設立に関与した。

略歴
沢宏靱は、明治38年(1905年)3月18日に滋賀県坂田郡長浜町神戸(現滋賀県長浜市元浜町)で、洋品雑貨商の父喜代吉と母民の次男として生まれ、日露支(ひろし)と名付けられた。大正9年(1920年)に、京都画壇の重鎮西山翠嶂の内弟子となり、東京の美術展での入選を目指し大正13年(1924年)上京し、昭和2年(1927年)に初めて帝展(現日展)に出展するが落選した。京都に戻り、西山翠嶂が主催する画塾『青甲社』に入塾し秋野不矩と出会う。
昭和6年(1931年)の帝展で「機」が初入選し以降4回連続入選を果たし、この間昭和7年(1932年)に秋野不矩と結婚し、昭和9年(1934年)師である翠嶂が校長を務めた京都絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業した。昭和15年(1940年)、大毎東日展で「斜影」が特選、昭和18年(1943年)第6回新文展(現日展)で「夕映」が特選となり、同時に野間美術奨励賞を受賞した。戦後昭和23年(1948年)、新しい日本画の創造を目指す「創造美術」(現創画会)の結成に上村松篁・山本丘人・秋野不矩等と共に創立会員として参加した。
沢は「創造美術」で意欲的に作品を発表し続け、写生を踏まえた叙情的な風景画を得意とし昭和30年代初めから海岸の岸壁・岩礁を描いた大作を出品、昭和50年代になると描く対象は岩礁から海原へと広がり晩年は伊吹山などの故郷の風景を手掛けた。この間、昭和32年(1957年)に秋野不矩との離婚が発表された。不矩との間には6人の子供がいた。昭和57年(1982年)9月27日死去した。

島﨑雲圃(しまざき うんぽ、享保16年(1731年) – 文化2年11月11日(1805年12月31日))は、江戸時代中期から後期の絵師。近江国日野の生まれ。名は輔吉、字は黄裳、通称泉治(司)、蝦蟇窟と号した。商人でありながら絵画に能力を発揮し、鮎図などを得意とした。

略伝
島﨑家は近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の出身で、島﨑七左衛門長男利兵衛が、下野国茂木(現・栃木県芳賀郡茂木町)に酒造業を興したことに始まる。その当主は代々「利兵衛」と名乗ったが、その三代目利兵衛が雲圃である。日野の高田敬輔に師事し絵画を学んだ。雲圃の作品は、茂木島﨑家を中心に、滋賀県内(日野町・野洲市)に伝えられている。絵画のほかには、刀剣を非常に好み、刀の真偽の鑑定をよくしたとも伝えられている。また天明4年(1784年)、日野町の地蔵堂近くから湧出する湧水(通称「若草清水」)の直ぐ傍に、これは蒲生氏郷が煎茶を点てるために用いた由緒ある水である旨を記した碑文を建てている。雲圃の没後に水戸にいた友人の立原翠軒は、日野の川原田墓地に「雲圃島﨑翁墓喝銘並序」と題し、雲圃の生涯を記した石碑を建てた。現在は、日野町大窪霊園の島﨑家の墓所の脇に移設されている。
雲圃の技法で特筆すべきは、没骨(もっこつ)法である。輪郭線を用いず、水墨や彩色によって制作する方法で、雲圃はこれを人物画に応用する努力を重ねた。弟子には下野で活躍した小泉斐や伸山操らがいる。小泉斐の弟子である島﨑玉淵は、七左衛門次男仙右衛門を祖とする遠縁にあたる。雲圃から数えて七代下の子孫が島﨑泉治商店を営んでいるほか、雲圃の孫に当たる代から分家した子孫が、栃木県那須烏山市で島崎酒造を営んでいる(外部リンク参照)。
代表作
「鮎魚遡漲水之図」 絹本著色、個人蔵、1789年、栃木県指定文化財。
「富嶽図」 紙本墨画淡彩、個人蔵、1790年。
「鯉図」 双幅、絹本著色、個人蔵、1801年。
「布袋図」 紙本墨画淡彩、1803年。
「高田敬輔像」 絹本著色、個人蔵。日野出身の儒者・建部箕山が安永9年(1780年)に記した高田敬輔の略伝を付している。
「唐美人図」 絹本著色、個人蔵。
参考文献
橋本慎司・國賀由美子(編)『小泉斐と高田敬輔 江戸絵画にみる画人たちのネットワーク』 栃木県立美術館、217頁、2005年2-3月。
小林聖夫 「島﨑雲圃・小泉斐 –二人の画業–」(橋本慎司・國賀由美子(編)『高田敬輔と小泉斐 近江商人が美術史に果たしたある役割』 滋賀県立近代美術館、2005年4-5月、所収)。

高田 敬輔(たかだ けいほ、延宝2年(1674年) – 宝暦5年12月4日(1756年1月5日))は、江戸時代の絵師。本名は徳左衛門隆久で敬輔は号。敬甫と書かれることもある。別号に眉間毫翁、竹隠斎、梅桃老人。清和源氏満政流尾張源氏高田氏族。高祖母が戦国武将浅井長政の一族である木村三郎左衛門の娘であり、このことから、京狩野初代狩野山楽(本姓木村)の一族である可能性も指摘されている。なお、高田家は、織豊期には織田信長の家臣だったが、本能寺の変後は、郷士として安土城跡にほど近い清水鼻(しみずばな、現在の滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)に住み、その後日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に移った。官位は正八位上豊前大目、絵師としての位は法眼。長男の正輔(号三敬)も町絵師で法眼、華道池坊三敬風の創始者。

経歴
延宝2年(1674年)、近江日野杉野神町に生まれる。初め日野椀販売、後に製薬を家業としたが、本人は絵画を能くし、京狩野四代目狩野永敬に師事。後に、画僧・明誉古礀[めいよこかん](ヘンは石、ツクリは間の日が月になったもの)に雪舟の画法を学ぶ。狩野永敬の引き回しで仁和寺法親王の御所(御室御所)に出入りし、従八位上豊前大目の官位と藤原姓を賜る。これ以降、薬業では「高田豊前」、画業では「藤原敬輔」と称した。また仁和寺法親王から、享保20年(1735年)62歳で法橋、69歳で法眼に推免され、以後「高田法眼」と称した。晩年、一時期江戸神田に滞在し、8代将軍徳川吉宗にも拝謁して絵を献上、褒美として下賜されたと言われる享保雛が、現在も高田徳左衛門家に遺る。江戸本所羅漢寺において、見物人がひしめくなか短時間で巨大な涅槃図を描き、江戸中の評判になる。その後、故郷である近江日野に隠棲し、宝暦5年12月4日(1756年1月5日)82歳で没。亡くなる直前まで創作を続けた。
評価
京狩野派の画法に雪舟様の画法を取り入れ、仙人図、龍図、虎図、龍門鯉図、大黒天図など中国や日本の故事を画題とする水墨画、また、鮎図、富士山図、引き船図といったやや写実的な画題の水墨画または淡彩画が多く見られるが、浄土宗の仏理にも明るく「無量寿経曼陀羅図」や「選択集第十六章之図」をはじめ、阿弥陀来迎図などの仏画も多い。
弟子と目されている曽我蕭白の特徴によく似た、屈曲し擦れを伴う太く激しい筆致が特徴的で、当時から「画体いやし」とやや異端児的な評価を受けていた。その反面、絵のある部分に着目すると、細部は表情豊かで多彩な線描によって支えられ、深みのある構築的な画面を描き出している。それだけに人気も高く、日野に隠棲しなければ、狩野山楽や海北友松にも比肩する大家となっただろうとも言われていた(白井華陽「画乗要略」)という。敬輔の画風は「高田派」と呼ばれ、門人から曽我蕭白、月岡雪鼎、島崎雲圃といった著名な絵師を多く輩出した。
明治時代以降は完全に忘れられた存在であったが、1970年代に曽我蕭白が再評価されたことを契機に、その師として注目された。ボストン美術館研究員(当時)のマニー・L・ヒックマンや京都工芸繊維大学教授の土居次義が敬輔の絵の発掘と調査・研究を進め、最近では、滋賀県立近代美術館主任学芸員の國賀由美子や多摩美術大学・和光大学非常勤講師の山本ゆかりが主に研究を続けている。
過去の主な展覧会
特別展「近江路の高田敬輔と曽我蕭白」 滋賀県立琵琶湖文化館 昭和53年(1978年)7月11日~30日
特別陳列「高田敬輔とその周辺」 滋賀県立琵琶湖文化館 昭和62年(1987年)5月2日~31日
「小泉斐と高田敬輔」 栃木県立美術館 平成17年(2005年)2月20日~3月27日
「高田敬輔と小泉斐」 滋賀県立近代美術館 平成17年(2005年)4月23日~5月29日
代表作
天下和順図 (滋賀県日野町・信楽院) 絹本淡彩 三幅対 享保18年(1733年)
八相涅槃図 (滋賀県日野町・浄光寺・滋賀県指定有形文化財) 紙本著色 一幅 元文2年(1737年)
寿老人図 (兵庫県立歴史博物館) 紙本墨画淡彩 一幅 元文4年(1739年)
山水人物図 (個人蔵) 紙本墨画 六曲一双(押絵貼十二面) 元文5年(1740年)
釈迦迦葉阿難図 (滋賀県日野町・信楽院) 紙本墨画淡彩 一面 元文5年(1740年)?
龍虎図屏風 (栃木県立博物館) 紙本墨画 六曲一双 寛保元年(1741年)
群仙図 (高野山・清浄心院) 紙本墨画淡彩 二曲一隻 法橋期
山水図屏風 (滋賀県立近代美術館) 紙本墨画淡彩 六曲一隻 法橋期
信楽院本堂天井画「雲龍・八大龍王・韋駄天・飛天図」(滋賀県日野町・信楽院) 紙本墨画淡彩 寛保3年(1743年)
竹林七賢図屏風(滋賀県日野町・信楽院) 紙本墨画 六曲一双 延享元年(1744年)
富士図(個人蔵) 紙本墨画 一面 延享3年(1746年)
釈迦三尊図 (滋賀県近江八幡市・浄厳院) 紙本墨画 三幅対 寛延3年(1750年)
関羽龍虎図 (滋賀県日野町・正明寺) 紙本墨画淡彩 三幅対 宝暦4年(1754年)
維摩居士図(滋賀県日野町・信楽院) 紙本墨画 三幅対のうち中幅 宝暦5年(1755年)
選択集第十六章之図(版行)

張 月樵(ちょう げっしょう、1772年(安永元年) – 1832年7月19日(天保3年6月22日))は江戸時代後期の文人画家。諱は行貞、字を元啓、通称を晋蔵と称し、別に酔霞堂と号す。近江国彦根城下の生まれ。

生涯
月樵は1772年(安永元年)、彦根城下表具師の息子として生まれた。長じて京に上り、近江醒井(現米原市)出身の絵師市川君圭に南画を習い、次いで与謝蕪村を師とする松村月渓に師事し、月樵の号を与えられた。蕪村死去後、師である月渓が円山応挙の門に入る(応挙入門後月渓は呉春と号を改める)と、月渓の画風は蕪村風の精神性豊かな文人風の筆法と応挙の写生を追及した筆法が融合し、平明だが感情が溢れる画風を確立した。
月樵は応挙門下の長沢芦雪と特に親しく、応挙没後の1798年(寛政10年)頃、芦雪と共に美濃までの旅に出た。帰途、月樵は芦雪と別れ尾張名古屋に留まり、名古屋における南画中興の祖と言われる山田宮常の画風を追求した。名古屋菅原町(現名古屋市西区)の雲岳院に居住し、後に富士見が原(現名古屋市中区上前津)に寓居を求めた。1812年(文化9年)妻を娶り、翌年一子卯之助(後に月載、又は晋斎と号し絵師として父を継ぐ)をもうけた。
月樵は尾張徳川家の御用絵師として御用支配の役職を賜り、名字帯刀を許され、名古屋城内の杉戸・屏風・襖に覇気がある花鳥山水画を多く描いた。藩主から将軍家献上品として「孔雀と菊図」を描いたところ、江戸南画の大成者谷文晁の目にとまり、激賞を受けると共に江戸へ来るように再三手紙にて勧められたが、名古屋を離れることはなかった。1832年7月19日((旧暦)天保3年6月22日)名古屋にて没し、長栄寺(名古屋市千種区)に葬られる。
門弟
市川君泉(月樵師市川君泉の子息)
大石真虎
織田共樵
織田杏樵(織田共樵の子息)
貝谷采堂
張月斎(実子)
沼田月斎
山本梅逸
横井金谷

月岡 雪鼎(つきおか せってい、享保11年〈1726年〉 – 天明6年12月4日〈1787年1月22日)〉とは、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。

来歴
姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字を大渓といった。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪など。近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられている。一方、画号の「雪鼎」の由来は分かっていない。
父・木戸平四郎友貞は医者で、大坂に移住。雪鼎も家業の医者を継ぐも病気がちで断念する。その後、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で「月下擣衣図」(絹本着色)などのような肉筆美人画も描く。現在、確認できる最初の作品は、宝暦3年(1753年)正月刊行の『絵本龍田山』で、宝暦年間に手がけた版本は確認出来るだけで30冊に及ぶ。仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋位を得る。この頃は大坂江戸堀2丁目に住み、隣人は国学者・江田世恭、大坂の文人サロン・混沌詩社を中心とする詩人や学者と交流を持った。作品も版本は減り、代わりに肉筆画が増えていく。安永7年(1778年)3月に息子・雪斎は法橋、自身は法眼に推免された[3]。法橋位を得た年かまたは翌年から、行年書に9歳または10歳加算するようになる。以後、3幅対や屏風など大画面の作品を手掛けることが多くなり、富裕な人々からの注文が増えたと推測される。1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住。享年77。
長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰、桂宗信など。門人と推定される絵師に田中巨川斎がいる。また一説に、月岡芳年は雪鼎の長男、月岡雪斎の画系をひいているといわれる。
作風
作画期は宝暦3年頃から没年の天明6年に到っており、肉筆浮世絵の他、版本の挿絵にも筆をとった。肉筆画の多くは美人図で、賦彩の美しい画品を具えた作品が数多く見られる。雪鼎の描く女性は、色白で鼻筋の通った瓜実顔に切れ長の目が特徴で、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い。豊艶な美人の輪郭線に、薄い墨と落ち着いた朱色を併用することで、色白の肌との調和を図っている。また、春画の名手としても知られる。天明の大火の時、焼け跡の中になぜか残っていた蔵があった。訝しんだ人々がその蔵の中に入ってみると、その持ち主も見覚えのない雪鼎の春画があったという。この逸話が広まり雪鼎の春画は火除になると評判が広がり、値が十倍にもなったという。ただし、雪鼎は美人画や春画ばかり描いたわけではなく、作域も広い。水墨を基調とした人物画には狩野派風、山水画には雪舟風の描法を用いており、師・敬輔の影響が看取できる。和漢の古典や故事に取材した作品も散見し、時には雪鼎自ら漢詩や和歌を書き込んでいる。雪鼎が用いた遊印「図不食先哲糟粕」は、「先人の真似をしただけの絵は描かない」という意味を持ち、雪鼎の絵に対する考え方を表している。こうした雪鼎の絵は貴族にも愛好され、その絵の値段は三十金・五十金にもなったという。

中路 融人(なかじ ゆうじん、1933年9月20日 -)は、日本画家。京都府京都市生まれ。日展常務理事、日本藝術院会員、晨鳥社会長。

略歴
1933年(昭和8年)京都府京都市に酒の小売業を営む中路豊三・きみの子として生まれる。本名、勝博。6人兄弟の4番目であった。母は滋賀五個荘町の生まれで、幼時からしばしば滋賀を訪ねる。
1946年(昭和21年)京都市立第一商業学校(旧制、現京都市立西京高等学校)に入学。その後、学制改革に伴い、京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入することになる。
1949年(昭和24年)京都市立洛陽高等学校付設中学校卒業。京都市立美術工芸高校絵画科(同校は京都市立美術工芸学校を1948年に美術工芸高校と改称し、旧制から新学制の切り替えに合わせ、この年に閉校が決まり、9月から京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科となる。現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学。同校では勝田哲・天野大虹・川島浩・奥村厚一らが教鞭を執っており、教えを受ける。初期に人物画を描いていたのは勝田の影響も少なくなかった。
1952年(昭和27年)京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科卒業。デザイン事務所に勤務し、テキスタイルデザイナーとして働きながら、作品制作をする(以後18年間、勤務を続ける。のちに同事務所には中路を頼り竹内浩一ら後輩も入社)。このころ、《祖母の像》を描く。学校時代の模写の反故紙を用いた。
1954年(昭和29年)第10回日展に出品の《浜》が落選。3人の漁師を描き、モデルは後輩の國府克。晨鳥社に入塾し、山口華楊に師事。
1955年(昭和30年)第11回日展に出品の《牛》が落選。晨鳥社入会もあり、動物画に挑戦、2頭のホルスタイン牛を前と後ろから俯瞰するように構成的に描く。
1956年(昭和31年)第12回日展に《残照》が初入選。
1958年(昭和33年)社団法人第1回日展に《水郷》を出品、入選。
1960年(昭和35年)第3回日展に《舟》を出品、入選。
1962年(昭和37年)第15回晨鳥社展に《郷》を出品、京都府知事賞受賞。京展に《樹林》を出品、京都市長賞受賞。第5回日展で《郷》(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞受賞。
1963年(昭和38年)第6回日展に《薄暮》を出品、無鑑査。セルジュ ポリアコフの抽象の影響をもろに受け、大胆な色面構成で描いた。西内利夫と二人展を開催。
1964年(昭和39年)第7回日展に《樹響》が入選。
1965年(昭和40年)第8回日展に《外川風景》が入選。
1966年(昭和41年)第1回日春展に《郷》が入選。第9回日展に《川のある風景》が入選。
1967年(昭和42年)第2回日春展に《晨》が入選。第20回晨鳥社に《月山》を出品。第10回日展に《麓》(株式会社石長蔵)が入選。
1968年(昭和43年)第3回日春展に《待春》が入選、外務省買上となる。第11回日展に《湖北》が入選。12月、晨鳥社の若手11名でグループ濤を結成、グループあすなろは後輩たちに譲る。
1969年(昭和44年)第4回日春展に《森》が入選。第22回晨鳥社展に《湖北》を出品。改組1回日展に《咲》が入選。
1970年(昭和45年)第5回日春展に《沼》が入選。第2回日展に《映》が入選。
1971年(昭和46年)第6回日春展に《閑日》が入選。第3回日展に《湖北》が入選。
1972年(昭和47年)第7回日春展《蒼》が入選。第26回晨鳥社展に《晨》を出品。第4回日展に《白湖》が入選。
1973年(昭和48年)雅号を本名の勝博から融人と改める。第8回日春展に《水辺》が入選。第5回日展に《湖北の樹》(佐久市立近代美術館蔵)が入選。11月、改号の御披露目を兼ね、京都大丸で初めての個展「湖北を描く」を開催。《木立》《湿地》など出品。第3回京都同時代展に《水辺》出品。
1974年(昭和49年)第9回日春展に《焔樹》を出品。外務省買上。第27回晨鳥社展に《湖北》を出品。第6回日展に《午後》を出品。
1975年(昭和50年)第8回グループ濤展に《川辺》を出品。第10回日春展に《冬田》を出品、奨励賞受賞。第28回晨鳥社展に《冬野》を出品、晨鳥社賞受賞。第7回日展で《冬田》(京都市美術館蔵)が特選となる。
1976年(昭和51年)第9回グループ濤展に《野の川》を出品。第11回日春展に《川》が入選。第29回晨鳥社展に《映》を出品。第8回日展に《冬韻》を無鑑査出品。日展出品依嘱となる。
1977年(昭和52年)日春会会員となる。第12回日春展に《朝霧》を出品。第30回晨鳥社展に《湖北》を出品。第9回日展に《閑》を依嘱出品。
1978年(昭和53年)第13回日春展に《靄》を出品。第31回晨鳥社展に《野》を出品。第10回日展に《映像》を依嘱出品。
1979年(昭和54年)3月、京都高島屋、東京高島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館で個展「湖北を描く」を開催。《木立》など23点出品。雑誌『形象』68号に田中裕「作家研究 中路融人」が掲載される。第32回晨鳥社展に《初夏》を出品。日展新審査員となる。第11回日展で審査員をつとめ、《玄映》(滋賀県立近代美術館蔵)出品。日展新審査員展に《木立》を出品。
1980年(昭和55年)第15回日春展に《野の川》を出品。第33回晨鳥社展に《晨映》を出品。日展会員となる。第12回日展に《藁屋と木》を出品。
1981年(昭和56年)2月、第13回グループ濤展に《雪野》を出品。第16回日春展に《陽》を出品。第34回晨鳥社展に《閑》を出品。第13回日展に《樹想》を出品。
1982年(昭和57年)2月、第15回グループ濤展に《深緑の島》を出品。4月、明日の日本画展に《暮色》を出品。第35回晨鳥社展に《櫻》を出品。第14回日展に《伊吹山》(福井県立美術館蔵)を出品。師山口華楊と、パリでの「山口華楊展」の為に同行、パリ、トレド、シャトルなど写生。
1983年(昭和58年)京都府企画展で個展開催(3月、京都府立文化芸術会館。4月、東京銀座・松屋。4月、滋賀県立琵琶湖文化館)。《比叡雨情》《晩秋》《近江富士遠望》など23点出品。3月、師山口華楊没。第36回晨鳥社展に《湖映》を出品。第15回日展に《比叡聴雨》(京都市美術館蔵)を出品。
1984年(昭和59年)第19回日春展に《比良遠望》を出品。第37回晨鳥社展に《爽》を出品。第16回日展に《爽晨》を出品。
1985年(昭和60年)2月、第17回グループ濤展に《冬韻》を出品。3月、大矢紀、高橋常雄、室井東志生と異歩騎会結成。第1回展を東京・京都の高島屋で開催、《葦の里》《朝霧》《伊吹》など出品。第20回日春展《朝霧》を出品。晨鳥社副幹事となる。第38回晨鳥社展《爽》を出品。第17回日展《風声》(滋賀県立近代美術館蔵)を出品。
1986年(昭和61年)2月、第18回グループ濤展に《晨》を出品。’86四季の譜日本画に《野の川》を出品。3月、第4回江山会展に《朝靄》を出品。第21回日春展に《湖岸》を出品。第39回晨鳥社展に《梅津の櫻》を出品。第18回日展で審査員をつとめ《爛漫》(東京国立近代美術館蔵)を出品、文化庁買上となる。
1987年(昭和62年)3~4月、「現代日本画の俊英 中路融人展」(日本経済新聞社)が、東京・松屋銀座店、京都・大丸京都店で開催される。日春会運営委員となる。第22回日春展で審査員をつとめ《白嶺》出品。第40回晨鳥社展に《湖東》を出品。第19回日展に《白韻》を出品。
1988年(昭和63年)第23回日春展に《陽春》を出品。日展評議員となる。第41回晨鳥社展に《耀》を出品。第20回日展に《想》を出品。
1989年(平成元年)第24回日春展で審査員をつとめ《霧の日》出品。第42回晨鳥社展に《月山》を出品。第21回日展に《樹林》を出品。
1990年(平成2年)第3回異歩騎会展に《伊吹山》(東京オペラシティアートギャラリー蔵)など出品。第25回日春展に《五合目》を出品。第43回晨鳥社展に《山》を出品。第22回日展に《伊吹》を出品。
1991年(平成3年)第26回日春展で審査員をつとめ《春気》出品。第44回晨鳥社展に《湖北》を出品。第23回日展に《池映》を出品。
1992年(平成4年)『新現代日本画家素描集 中路融人―湖北賛歌』刊行(日本放送出版協会)。第45回晨鳥社展に《島(習作)》を出品。第24回日展で審査員をつとめ《気》を出品。この年、右手を骨折し、《島(習作)》《気》は左手のみで描いた。
1993年(平成5年)第28回日春展で審査員をつとめ《冬の日》出品。第46回晨鳥社展《仰》を出品。第25回日展に《雪山》を出品。第4回異歩騎会展に《富岳四題》《冬の雨》など出品。
1994年(平成6年)1月、東京東武美術館・京都大丸ミュージアムKYOTOで開催の「山口華楊と晨鳥社の人びと」に《冬田》《風声》を出品。第29回日春展に《朝靄》を出品。第47回晨鳥社展に《悠》を出品。第26回日展に《夕しじま》を出品。
1995年(平成7年)第30回日春展で審査員をつとめ《白い朝》出品。第48回晨鳥社展に《兆映》を出品。第27回日展で《輝》が文部大臣賞受賞。「文部大臣賞受賞記念 中路融人素描展」(銀座松屋、京都大丸)開催される。京都府文化功労賞受賞。
1996年(平成8年)第31回日春展に《朝靄》を出品。第49回晨鳥社展に、《映象》(京都市立西京高等学校蔵)を出品。第28回日展に《映象》(日本藝術院蔵)を出品。第5回異歩騎会展に《湖辺》《比叡》《山湖》《兆映》《朝霧》《早春伊吹》《薄日》など出品、これが同会の最終回となる。
1997年(平成9年)第32回日春展に《朝霧》を出品。前年の日展出品作《映象》が日本藝術院賞受賞。日展理事となる。晨鳥社会長に就任。第29回日展に《薄日》を出品。奈良県のため万葉歌「楽浪の比良山風の海吹けば釣する海人の袖かへる見ゆ」(巻9―1715槐本)に取材して《比良連峰》(奈良県立万葉文化館蔵)制作。
1998年(平成10年)第33回日春展で審査員をつとめ《余呉冬日》出品。京都市文化功労者として顕彰される。第51回晨鳥社展に《雪の余呉湖》を出品。第30回日展に《湖映》を出品。
1999年(平成11年)第34回日春展に《朝靄》を出品。第52回晨鳥社展に《浅間山》を出品。第31回日展で審査員をつとめ《山湖》を出品。五個荘町の名誉町民となる。
2000年(平成12年)第35回日春展に《霧の朝》を出品。第53回晨鳥社展に《櫻(習作)》を出品。第32回日展に《桜と島》を出品。
2001年(平成13年)第36回日春展で審査員をつとめ《春霞》出品。第54回晨鳥社展に《五月の頃》を出品。第33回日展に《朝霧》を出品。日本藝術院会員に任命される。
2002年(平成14年)第37回日春展に《朝霧の川》を出品。第55回晨鳥社展に《黄昏》を出品。第34回日展で審査員をつとめ《朝霧の比叡》を出品。日展常務理事となる。奈良県立万葉文化館主催の第一回奈良県万葉日本画大賞展で審査員をつとめる。
2003年(平成15年)第38回日春展に《霧の朝》を出品。第56回晨鳥社展に《望》を出品。現代作家デッサン・シリーズ「中路融人展」(銀座松屋、朝日新聞社主催)開催される。第35回日展に、《夕照》を出品。
2004年(平成16年)第57回晨鳥社展に《伊吹山》を出品。11月、個展「―近江十題―中路融人展〈日本画〉」(東京・ジェイアール名古屋・横浜・京都・大阪髙島屋、~12月)開催される。第36回日展に《望湖》を出品。
2005年(平成17年)第58回晨鳥社展に《湖映》を出品。第37回日展に《耀》を出品。
2006年(平成18年)第41回日春展に《霧の朝》を出品。第59回晨鳥社展に《緑雨》を出品。滋賀県文化賞受賞。第38回日展で審査主任をつとめ《霧の中》を出品。
2007年(平成19年)第60回晨鳥社展に《湖東の葦》を出品。10月、個展「中路融人日本画展―近江の四季燦燦と―」(日本橋・名古屋・新潟・松山・福岡三越、~2008年)。第39回日展に《冬の日》を出品。
2008年(平成20年)第61回晨鳥社展に《耀》を出品。日展審査主任を務め、第40回日展に《峠富士》出品。滋賀県文化賞受賞。8月2日~10月13日、奈良県立万葉文化館にて「山口華楊と晨鳥社の今―晨鳥社展60回・創立70年記念―」を開催。
2009年(平成21年)第44回日春展に《高原富士》を出品。第62回晨鳥社展に《桜》を出品。第41回日展に《桜みち》出品。
2010年(平成22年)1月15日~26日、東近江市立八日市文化芸術会館で「ふるさと近江の心象風景中路融人日本画展」が開催される。第63回晨鳥社展《夕しじま》を出品。10月30日~12月24日、奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」が開催される。第42回日展に《雪の朝》を出品。
2012年(平成24)、文化功労者。

深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(1861年8月19日) – 昭和22年(1947年))は、明治時代の日本画家で文展(現日展)審査員を務めた。
略歴
深田直城は、文久元年7月14日(1861年8月19日)に近江国膳所藩(現滋賀県大津市)に生まれた。森川曾文に師事し四条派を学び明治15年(1882年)第1回内国絵画共進会で入選、明治17年(1884年)には受賞し、後に京都画学校教授を務め、明治40年(1907年)正派同志会展審査員、文展審査員などを歴任した。明治19年(1886年)より居所を大阪に移し、大阪画壇の中心的人物の一人となった。名は政孝、字は子簽、別号を秋月と称した。

山元 春挙(やまもと しゅんきょ、明治4年11月24日(1872年1月4日) – 昭和8年(1933年)7月12日)は、明治から昭和初期にかけ活動した円山四条派の日本画家。本名は金右衛門。幼名は寛之助。別号に円融斎、一徹居士。竹内栖鳳と共に、近代京都画壇を代表する画家である。

伝記

『奥山の春図』 足立美術館蔵、昭和8年(1933年)淡交会展出品。春挙最後の大作といえる作品。
滋賀県滋賀郡膳所町(現在の大津市中庄付近)で生まれる。祖父は、戦前の修身教科書で勤勉な商人の鏡として紹介された高田善右衛門。
打出小学校卒業後、12.3歳で遠縁にあたる京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学ぶ。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受ける。明治24年(1991年)、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となる。明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となる。明治32年(1899年)京都市立美術工芸学校の教諭となる。翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開く。明治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となる。
明治40年(1907年)文展開設にあたり、竹内栖鳳らと共に審査委員を命ぜられる。大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命される。同年、故郷の近くに別荘・蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置した。大正8年(1919年)帝国美術院会員となる。この頃、地元膳所焼の復興を目指し、初代伊東陶山・岩崎建三らと新窯を開く。大正11年(1922年)パリ日仏交換展に「義士隠栖」(三の丸尚蔵館蔵)・「秋山図」を出品し、サロン準会員となる。大正15年(1926年)フランス政府より、シュヴァリエ・ドラ・レジョン・ドヌール勲章を授与された。昭和3年(1928年)大嘗祭後の大饗の席に用いる「主基地方風俗歌屏風」を制作する。昭和8年7月12日死去。享年63。15日従四位に叙せられた。戒名は奇嶽院春挙一徹居士。墓は等持院。
画風は、四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、墨彩や色彩表現を豊麗さへと徹底的に純化した表現に特色がある。こうした画風は、千總など絵を享受する京の大店に支持された。明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったという。

春挙門下四天王
川村曼舟
小村大雲
庄田鶴友
服部春陽
その他[編集]
植中直斎
歌川豊国 (6代目)
勝田哲
川島梅関
川畑春翠
久保田竹文
小早川秋聲
小林春樵
斉内一秀
柴田晩葉
杉本哲郎
高井梅渓
高橋秋華
武田鼓葉
玉舎春輝
中島菜刀
中野早雲
西井敬岳
花岡萬舟
林文塘
広本進
古谷一晁
前田一鴬
梥本一洋
三宅鳳白
村田陶苑
山下竹斎
山元春汀(桜月)
山本倉丘
渡辺幾春

横井 金谷(よこい きんこく、宝暦11年〈1761年〉 – 天保3年1月10日〈1832年2月1日〉)は江戸時代後期の浄土宗の僧侶、絵仏師、文人画家。近江国の生まれ。僧名は泰誉妙憧、別号に蝙蝠道人など。

生涯
金谷は宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みる。
安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。
天明8年(1788年)、正月30日の天明の大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。
文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。
画業
横井金谷は紀楳亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものである。

黒田 重太郎(くろだ じゅうたろう、1887年9月20日 – 1970年6月24日)は、日本の洋画家。

経歴
滋賀県出身。鹿子木孟郎、浅井忠らに師事し、1912年文展初入選。1923年二科会会員。1924年小出楢重らと大阪に信濃橋洋画研究所を創立、洋画家を育てた。著書も多数あり、1969年日本芸術院恩賜賞受賞。画家の黒田アキは甥。
著書
セザンヌ以後 日本美術学院 1920
憧憬の地 芸術環境 日本美術学院 1920
ヴァン・ゴオグ 泰西名画家伝 日本美術学院 1921
モオリス・ドニと象徴画派 世界現代作家選 日本美術学院 1921
ゲランの印象 世界現代作家選 日本美術学院 1922
構図の研究 中央美術社 1925
グレコ アルス 1926 (アルス美術叢書)
油絵技法の変遷 上巻 中央美術社 1927
洋画メチヱー技法全科の研究 鍋井克之共著 文啓社書房 1928
素描・色彩の研究 日本美術学院 1932
洋画鑑賞十二講 立命館出版部 1933
画房襍筆 湯川弘文社 1942
近代絵画 一条書房 1944
京都洋画の黎明期 高桐書院 1947 (京都叢書)
近代フランス絵画 ダヴィッド、アングル、ドラクロア 芸艸堂 1948
モディリアニ 弘文堂 1949
小出楢重の生涯と芸術 美術出版社 1955
展覧会
黒田重太郎展 没後35年 佐倉市立美術館、滋賀県立近代美術館、京都新聞社編 京都新聞社 2005

野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1903年(明治34年)6月17日 – 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県出身。

生い立ち
略歴
1903年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。
桜川尋常小学校に入学した謙蔵は色白で病弱から学校を欠席することもあったが、成績は優等で、特に読み方とつづり方が優れていたと伝えられている。1914年(大正3年)滋賀県立彦根中学校に入学し親元を離れ下宿生活を行い、社交的でありながら成績は常に十番以内であった。1917年(大正6年)陸軍大演習が滋賀県で行われた際には、彦根中学が明治天皇行幸の大本営となり、謙蔵が描いた水彩画「彦根城山大手橋」が天皇のお持ち帰りとなった。なお彦根中学では前田夕暮の門人米田雄郎(蒲生郡桜川村石塔の極楽寺の住職)に出会い、自然を愛する米田の影響を受け謙蔵は絵画研鑽を決意した。1919年(大正8年)東京美術学校西洋画科に入学し、従姉に当たる野口小蕙(野口正章・小蘋の娘)宅から通った。美術学校では黒田清輝、後に和田英作に師事し、和田からは終生指導を受けた。1924年(大正13年)東京美術学校を卒業し、故郷の風物が自身の画風確立に適していると信じる謙蔵は迷うことなく故郷蒲生に帰郷した。
美術学校卒業後、謙蔵は毎年帝展(帝国美術院展覧会(現日本美術展覧会))を目指し大作を作成したが自身の洋画に違和感を持つに至り、平福百穂の門に入り日本画の勉強を始め、一時期は洋画を一切省みることもなかった。その様な中で自分なりの洋画へのヒントを得たのか、1928年(昭和3年)第9回帝展で「庭」が初入選を果たし、以降第10回「梅干」・第11回「蓮」が連続入選し、1931年(昭和6年)第12回帝展で「獲物」・1933年(昭和8年)第14回帝展で「閑庭」・1934年(昭和9年)第15回帝展で「霜の朝」(現在謙蔵の代表作として東京国立近代美術館に収蔵)が連続して特選を受賞した。帝展が新文展(文部省美術展覧会)に名称変更した後も出品を続けた。なお、その間東光会展・槐樹社展にも出展、1933年(昭和8年)に開催された第1回東光会展には「けし」を出品、以降東光会展・槐樹社展にも出品を続けた。なお、新文展では審査委員として運営にも係わった。
1944年(昭和19年)43歳で死去する。
作風
東御市梅野記念絵画館・ふれあい館 館長梅野隆
野口謙蔵の全ての作品は、身辺に題材を求めたものであり、特に近江の田園風景の四季と、農村風俗に対する深い愛情に溢れている。生涯、一度も洋行することなく、日本的土着のフォーヴィズムというべき色彩と筆触で高く評価されている。
絵の良し悪しは一瞥にして決まる。ということを私は頑なに信じているものであるが、この一瞥の勝負に、野口謙蔵の絵は、長谷川利行、谷中安規の絵とともに絶対といってよいほど強いのである。それは、彼の絵にこもる思いの高さの故であると思う。野口の世界は、美しさのためにのみ描かれた世界ではないような気がしてくる。技術で達し得る美しさではないような気がする。精神より湧き出た魂の声であり、魂より光り出た世界のようにも思えるのだ。数多くの画家の中で、野口のこのような境地に到達できた人はほとんどいないのではないかとさえ思える。この世界に入るために全ての画家達は、精神を使い果たし、累々たる屍をさらしているのである。
彼は日記の一節に、「簡素、浄明、気魄と指もて大空に描きにけり。手をさしあげて大空に気魄とかきたり、吾が心よ高くゆけ。」と云っているが、まさに彼の目指す芸術は、この一節に凝視されているとさえ思われる。
その思い入れの深さが、他の画家と全く次元を異にしたものであって、その描きたいものは、すでに若い頃より心の驚きであり、驚きの表現が絵であったのである。技術的表現など変わるはずがなく、彼は周囲の自然風物に托して、自己の心の歌を、みずみずしい感動で歌い続けたのである。私が野口の絵を愛するのは以上の理由による。
署名
野口謙蔵は署名するとき「近江 野謙」と書いた。謙蔵は故郷近江に腰を据えて絵を描いたことから「風土派」とも呼ばれる。謙蔵は詩においても「雪の野道の小鳥の足あと、美しいから踏まずに歩こう」と言葉で自然を描き、自身を取り巻く自然への愛おしさで溢れた作品を残している。
著書
「滋賀県歌人歌集 御大礼記念 野口謙藏P85 」(米田雄郎・森三樹雄選 佐後淳一郎編 御大礼記念歌集刊行会 1928年)
「凍雪 遺歌集」(野口謙蔵著 白日社関西支部 1948年)
係累
祖父 野口正忠(忠蔵・柿村):蒲生の酒造業、山梨県甲州街道柳町宿に同郷者11人と共に酒造屋「十一屋」を出す。漢詩家、富岡鉄斎・依田学海・杉聴雨・江馬天江・谷口藹山・瀧和亭・田能村直入・川村雨谷・村田香谷と交流。
父 野口正寛
母 野口屋恵
伯父 野口正章(1849-1922年)1876年(明治7年)日本最古のビールの一つ「野口の三ッ鱗ビール」を販売する。
伯母 野口小蘋(1847-1917年)南画家・日本画家、医師松邨春岱の長女として大坂に生まれる。
従姉 野口小蕙(1879-1945年)南画家・日本画家、小室翠雲に嫁ぐが離別。

ヒロ・ヤマガタ/HIRO YAMAGATA(1948年5月30日 – )は、画家、美術家である。滋賀県米原市出身。アメリカ在住。本名山形 博導(やまがた ひろみち)。
日本ではカラフルなシルクスクリーンアーティストというイメージが今なお強いが、世界でのヒロ・ヤマガタはむしろレーザーやホログラムを使った現代美術家として知られており、先端的なイリュージョニストとして現在も精力的に活動している。

来歴
日本居住時代(1948-72年)
1948年、材木屋の父のもと6人姉弟の3番目として産まれる。幼少の頃より画才を示す。
1955年、米原町立醒井小学校(現在の米原市立河南小学校 )に入学。放課後には毎日美術の特別授業を受け、遊び場でもあった近所の寺の住職より老子・道教・禅などの教えを授かる。
1961年、米原町立河南中学校(現在の米原市立河南中学校 )に進学。サイクリング好きが高じ、仲間と琵琶湖を周回するようになる。修学旅行では初めて東京に行き、都会の様子に衝撃を受け好奇心を刺激された。また、家業の手伝いで頻繁に入った山林では満天の星空に魅了される。アマチュア天体観測家の父に感化され、自作望遠鏡で宇宙観測に熱中するようになる。詩の世界にも傾倒する。
1964年、滋賀県立米原高等学校入学。同校美術教師の日本画家・椙村睦親(すぎむらまさちか)に師事すると同時に、椙村先生の本棚で画家アンリ・ルソーの画集に出会い大いに影響を受ける。公募で多数の受賞を果たす一方で、大阪のネオン屋へ足を運んだり、蛍光灯を使った作品を制作するなど、光に対する好奇心も加速。
1967年、高校卒業と同時に椙村睦親へ入門するが、同年単身で上京。アルバイト先の画材屋で才能を見出され、広告会社でデザインやイラストの仕事に就く。仕事の合間にサイコロや米粒に自分の作品を描いてリフレッシュしていたと言う話は有名。
1972年、五海祐治、崔洋一、篠毅らと共同で「JIM」を渋谷に設立。
ヨーロッパ居住時代(1972-78年)[ソースを編集]
1972年、恋人を追いかけミラノへ渡るが実らず、その後パリへ渡り定住。ルーヴル美術館に日参しながら、作品制作に没頭。ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルの世界に衝撃を受ける。
1973年、パリの画廊と契約。同年、ウィーンで初の個展を開催。
以後、ロサンゼルスへ移住するまでパリを拠点に様々なサロンへ出展すると同時に、ヨーロッパ各地で個展を開催。この頃の作品は大半が水彩や油彩で、後に一世を風靡するリトグラフやシルクスクリーンなどの版画はほとんど制作されていない。また、渡仏中の間章をはじめ、スティーヴ・レイシーなどの音楽家、ブライアン・ガイシンなどの詩人らの仲間と共にジャズに熱中。オーガナイザーメンバーとして公演開催のため私財を投げ打ち奔走。当時たまり場だったカフェでは詩人のアレン・ギンズバーグやグレゴリー・コルソーとも出会う。1974年には、レーザーを使ったインスタレーションをパリ市内の劇場で初めて実施している。
アメリカ居住時代(1978年-現在)
1978年、ロサンゼルスの画廊と契約してロサンゼルスに移住。版画的技法のシルクスクリーンで、100色以上もの色を散りばめた鮮やかな多色作風により、一躍その名を馳せる。以降、アメリカ各地で個展を開き、アートEXPOへも出展するようになる。彼の作品の多くは、シルクスクリーンによる鮮烈な色彩が非常に印象的である一方で、作品中の細部の人物の顔など間近で見ないとわからないところまで緻密に描写され、繊細である。
1983年、「エア・ショー」が、レーガン大統領が名誉会長であった人類飛行200周年記念財団の公式ポスター作品に選ばれる。後に「ヤマガタ・ブルー」と称される鮮やかな青色の世界を確立。
1984年、ロサンゼルス市観光誘致キャンペーン公式作品を制作。同年、ロードアイランド州が、9月21日を「ヒロ・ヤマガタの日」に定め、同州のウォリック市より名誉市民の称号が贈られる。同年、東京で初の個展が開催される。
1986年、ロサンゼルス市名誉市民に選ばれる。同年、レーガン大統領の依頼で「自由の女神100周年記念」のための公式作品を制作。同年、エドワード・ケネディ議員の呼びかけでケネディ財団主催のアートを通じた障害者支援チャリティープロジェクト「ベリー・スペシャル・アーツ」に参加。同年、東京、大阪、名古屋、横浜、福岡で巡回展を開催。
1987年、ヤマガタ財団設立。ケネディ財団と共同で身体障害者のチャリティイベントを開催。同年、「自選山形博導画集」が出版。
1988年、「オーストラリア建国記念」「エッフェル塔100周年」などの公式作品、レーガン大統領肖像画を制作。同年、ジャック・ニクラスと共同でゴルフシリーズ開始。
1989年、東京、静岡、名古屋、大阪で巡回展を開催。エリザベス・テイラーとの友情を通じてアメリカン・ファンデーション・オブ・エイズ・リサーチへの寄付を開始。サンフランシスコ地震被災者救済のために「ファイアー・ワークス」の全売上を赤十字社へ寄付。
1990年、アーノルド・シュワルツェネッガーがテキストを書いた英語版画集「YAMAGATA」が出版。「アメリカ移民200周年」、ベルリンの「フリーダム・キャンペーン」公式作品を制作。同年、メキシコシティ国立美術館で個展開催。
1991年、「コロンブス新大陸発見500年記念」、世界陸上の公式作品を制作。同年、ニューヨーク映画記録保管所への経済支援を開始。同年、エイズ・チャリティー活動の一環としてエリザベス・テイラーと共に来日。
1992年、バルセロナ・オリンピックの公式作品を制作。同年、米国ウォルト・ディズニーアートクラシックインクと契約。同年、金閣寺をモチーフに、京都「遷都1200年祭」の公式作品を制作。同年、障害を持つ人々の芸術活動の振興を行う国際組織「ベリー・スペシャル・アーツ」に600万ドルを寄付。
1993年、ジーン・ケネディ・スミスと共に「ベリー・スペシャル・アーツ」のインターナショナル・アート・フェステバル(ブリュッセル)に参加。同年、ジャック・ニクラスと共同でゴルフシ新シリーズの制作を発表。同年、エイズ・チャリティー・イベントのため来日。
1994年、アレン・ギンズバーグらとビート・ジェネレーションに関するドキュメンタリー映画制作の企画を開始。同年、美しい自然のイメージをメルセデス・ベンツのヴィンテージ・カーに描き出し「アースリーパラダイス」としてロサンゼルス市立美術館で発表。なお、「アースリーパラダイス」は美術評論家サム・ハンターによる命名である。また、同展のためにアレン・ギンズバーグが『ヒロ・ヤマガタの聖霊 20世紀の自動車』と題する文章を寄稿(「アースリーパラダイス」の制作風景の模様を、映画監督ジョナス・メカス公式HPで見ることが出来る)。同年、「ヒロ・ヤマガタ全版画集」が出版。
1995年、米国オリンピック委員会の依頼でアトランタ・オリンピック全種目の作品を制作。同年「アースリーパラダイス」展を箱根、ヴェネツィア(アレン・ギンズバーグとの合同展)、モンテカルロ、モンテカティーニ、トリノにて開催。
1996年、「アースリーパラダイス」展をシカゴで開催。同年、カール16世グスタフ スウェーデン国王に招かれ「アースリーパラダイス」展をストックホルムで開催。
1997年、「アースリーパラダイス」展をカッセル(デニス・ホッパーとの合同展)、ウィーンにて開催。同年、「エタニティー・オア・ファット」展をロサンゼルスのフレッド・ホフマン・ファイン・アート・ギャラリー、シカゴART1997で開催。バクテリアやカビが増殖する過程を顕微鏡カメラで3か月撮影。ミクロの世界で描き出される色鮮やかな自然の営みを巨大パネルにした作品。また、大気中に拡散するガスの動きも同様に巨大な写真作品として展示された。同年、レーザー光線を用いたインスタレーション展「エレメントA」をフレッド・ホフマン・ファイン・アート・ギャラリーで開催。同年、アカデミー賞授賞式にて「アースリーパラダイス」のイメージとレーザーインスタレーションのコラボレーションを発表。同年、ホワイトハウスからの依頼で、アメリカ合衆国憲法制定200周年記念の作品「ウィ・ザ・ピープル」を制作。同作品のシルクスクリーンは記念の豪華装丁本に納められ、全世界のアメリカ合衆国大使館に配布された。
1998年、「アースリーパラダイス」展をローマで開催。同年、レーザーインスタレーション「スカルプター・オブ・ライト」展をLAファーストストリート橋にて開催。同年、自身が影響を受けた老子をテーマにしたNHKの番組取材で中国を初めて訪れ作品を描く。同年、日本の心をテーマにした「日本のエッセンス」の制作を開始。同年、作画を担当した80円切手「おもちゃのチャチャチャ」が郵政省より発行。また同年7月1日にニューヨーク・フォレストヒルズスタジアムで開催された日本のアーティストTHE ALFEEのコンサートの公式ポスターを製作。
1999年、「アメリカン・リップス」展をニューヨークのマルボロギャラリーで開催。同年、ビート・ジェネレーションに関する映画『ザ・ソース』(邦題『ビートニク』)のプロデュースが完成、ニューヨークとロサンゼルスの美術館で公開。同映画製作中の97年、アレン・ギンズバーグとウィリアム・S・バロウズが次々に他界(映画監督ジョナス・メカスが撮影したギンズバーグのお通夜の映像に、ヒロ・ヤマガタの姿も見ることができる)したため、一時期完成が危ぶまれた。映画は彼らの生前のインタビューも含めたビートに関する様々なドキュメンタリー映像資料と、ジョン・タトゥーロ(ギンズバーグ役)、デニス・ホッパー(バロウズ役)、ジョニー・デップ(ジャック・ケルアック役)らによる再現ドラマシーンとで構成されている。チャック・ワークマン監督の起用はヤマガタ自身のラブコールで実現したもの。同年、レーザーインスタレーション「ローマイヤーライツ」をローマイヤー彫刻美術館(ミズーリ州セントルイス)にて開催。同年、米国ホワイトハウス設立200周年記念の公式作品を制作。同年、テレビ朝日の番組取材でチベット(ピヤトンガ遺跡)を初めて訪れる。同年、「悠久のシルクロード」シリーズを制作開始。同年、東儀秀樹が音楽を担当したPlayStation用ソフト「YAMAGATA Digital Museum」が発売。
2000年、シンシナティ現代美術センターで開催されたレーザーインスタレーショングループ展「アクティブ・ライフ」(オハイオ)に参加。 同年、レーザーインスタレーション「太陽系インスタレーション プロジェクト1」をヤマガタスタジオ(マリブ)で開催。同年、グラミー財団よりグラミー賞2000年公式アーティストに任命される。
2001年、レーザーインスタレーション「NGC6093」をニューヨークのエースギャラリーで開催。(映画監督ジョナス・メカスが撮影した「NGC6093」でのヒロ・ヤマガタインタビュー映像を、ジョナス・メカス公式HPで見ることが出来る。)レーザーインスタレーション「フォトン999」をフランク・ゲーリーがデザインしたグッゲンハイム美術館ビルバオ(スペイン)そのものをキャンバスにして開催。
2002年、レーザーインスタレーション「クウォンタン・インジェクション」をペパーダイン大学(マリブ)で開催。
2003年、レーザーインスタレーション「ART&SPACE宇宙芸術展-ヒロヤマガタとNASAの世界」を横浜国際客船ターミナル大桟橋ホールで開催。この作品はホログラムを巡らした立方体型の巨大な2つの建造物の中で、レーザーを大量に照射し、室内に吊るされた無数のキューブで反射させる屋内展示であった。入場者は偏光眼鏡でそれを観覧した。しかしこの展示は、宣伝の不備から一般的なヤマガタの版画作品を想起させてしまったため入場者数が伸び悩み、展示期間の最終日を待たずに終了。同年、レーザーインスタレーション「スーパーノヴァ3」展をCOSIコロンバス科学博物館(オハイオ州)で開催。同年、「サンクトペテルブルク市政300周年記念イベント-音と光の夜」(ロシア)にレーザーインスタレーションで参加。同年、「ヒロ・ヤマガタ原画」展を沖縄で開催。
2004年、レーザーインスタレーション「クウォンタン・フィールドX3」をグッゲンハイム美術館ビルバオ(スペイン)にて開催。美術館に隣接する丘の上に設置した円盤型のオブジェから放たれるレーザーが、屋外に設置された2つの立方体型建造物の外壁を照らし出す等、インスタレーションのスケールが横浜を基盤にさらに大きくなった。
2005年、アフガニスタンのバーミヤーン仏教遺跡にて、破壊された大石仏像を復活させる試みとして、大掛かりなレーザー光線でそのイメージを取り戻すと言う過去最大規模のレーザーインスタレーション構想を発表。太陽発電をベースに蓄えた電力で日没後インスタレーションを実施し、余った電力は地元の農村の電化事業へ還元されると言う。約60億円の予算で展開する。同年、ロサンゼルスのゲッフェン現代美術館で開催されたガラパーティーにてレーザーインスタレーションを発表。同年、レーザーインスタレーションとエレクトリカルミュージックを融合させた「メットリッピン」(東京)に参加し「セオリー・シックス」を発表。同年、「アース・ウォーター・ファイアー・エアー・フェスティバル」(南アフリカ・ケープタウン)にレーザーインスタレーションで参加。同年、フランク・ゲーリーのドキュメンタリー映画スケッチ・オブ・フランク・ゲーリーがトロント国際映画祭(カナダ)で公開。同映画はカナダを皮切りに世界各地で上映。ヤマガタはエグゼクティブ・プロデューサーとして参画した。
2006年、ペインティング作品「エアー」展をロサンゼルスのトーランス・アート・ミュージアムで開催。空間に鮮烈に描き出してきたレーザーインスタレーションのパターンが、巨大なスケールのキャンバスにペインティングとして再構築されている。同年、インスタレーション「スカルプター・オブ・ライト」をBUSCHLEN MOWATT GALLERIES(パームデザート)で開催。
2007年、ペインティング作品「トランシエント」展をロサンゼルスのゲーリー・パートナーズにて開催。巨大キャンバスに貼られた皺交じりの和紙に描き出された水墨の濃淡な世界。近づき細部を凝視すれば鉛筆で書かれた細密画の世界が視覚に飛び込んでくる。走馬灯を眺めているような感覚に迷い込む作品。
絵画商法について
共同通信の取材に対して「日本で紹介されている作品の多くは、米国の悪徳画商にだまされ、押しつけられて描いた絵だ」と答え、「商業的な絵ということで、売れるに従い美術館や一部の画廊に見放された」と自ら分析し、複製されて売られる、消費されるだけの画家として不満を知人(崔洋一)にもらしていたという。

巌谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日(1834年3月17日) – 明治38年(1905年)7月12日)は、滋賀県出身の政治家、書家。本名は修(幼名は辨治)、字を誠卿といい、一六は号で、別号に古梅・迂堂・金粟道人などがある。
児童文学者の巌谷小波は子。いとこの美濃部鏘次郎の曾孫に岡田卓也元イオン社長、玄孫に岡田克也外務大臣がいる。

経歴
天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。父玄通は水口藩の侍医であったが、一六が6歳の時に亡くなり、母とともに京都に赴き、書・漢籍・医術を学んだ。明治元年(1868年)、新政府の官吏となり、内閣大書記官・元老院議官などを歴任した。1890年(明治23年)10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ、1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられた。
明治38年(1905年)、腎炎のため72歳で没した。
書家として
能書家としても知られ、明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学び、明治13年(1880年)に来日した楊守敬から六朝書法を学んで独自の書風を確立した。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。
栄典
1887年(明治20年)11月25日 – 勲四等旭日小綬章
1889年(明治22年)11月25日 – 大日本帝国憲法発布記念章
1894年(明治27年)5月21日 – 正四位
1905年(明治38年)7月12日 – 従三位、勲二等瑞宝章
師弟関係
詳細は「日本の漢字書家一覧」を参照
中沢雪城
巌谷一六
辻香塢

日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) – 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。

業績
中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。
中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、現在でも彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。
鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また揮毫した碑は1000基とも言われ、全国に数多く見られる。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる。
略歴

日下部鳴鶴 写真

木村重成碑(部分) 大阪市中之島公園所在
1838年、彦根藩士・田中惣右衛門の次男として生まれる。初名は八十八、のちに東作と改める。1859年、22歳の時に同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる。しかし1860年、藩主の井伊直弼が桜田門外で暗殺されたため禄は大幅に減り生活は困窮したが上京し書道に専念する決意をしている。
維新後、新政府が成立すると徴用され太政官に勤める。内閣大書記官となるが当時仕えていた大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されたことを機に退官し書道に専念する。
特定の人物に師事してはいない。しかし20代の時には、既に亡くなっていた貫名菘翁の書に傾倒しており、40代の時には、来日していた金石学者楊守敬のもとで碑学、六朝書、篆隷の研究を行っている。
その後は中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し多くの弟子を育てる。また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。その一方で碑文の揮毫や雑誌の刊行、名跡研究などに努めた。
1922年、肺炎のため85歳でその生涯を閉じる。
評価
同時代で比較し梧竹の書風を自らの思うままといった自由な趣とするなら、鳴鶴は規範的・教条的な書風であると評されることがある。自らの書法を一つの型に集約していったとも言ってもよい。このため梧竹が孤高を持していたのに対し、鳴鶴の門下には数多くの弟子が押しかけることになった。
もっとも鶴門(鳴鶴の門流)では独特の書風で知られた渡辺沙鴎や高い見識から古法、字学を研究した論客比田井天来・川谷尚亭を輩出するなど必ずしも鳴鶴の書風が固持されていたわけではない。
主な弟子
井原雲涯(鶴門四天王)
丹羽海鶴(鶴門四天王)
岩田鶴皐(鶴門四天王)
近藤雪竹(鶴門四天王)
比田井天来
渡辺沙鴎
黒崎研堂
山本竟山
田代秋鶴
西川萱南
山口蘭渓
若林快雪
木俣曲水
赤星藍城
西脇呉石

辻 宗範(つじ そうはん、宝暦8年(1758年) – 天保11年(1840年))は、江戸時代中期の茶道家。近江国出身。

略歴
宝暦8年(1758年)、近江坂田郡国友村(現滋賀県長浜市国友町)に生まれ、幼時から漢学を学び、成人後は小室藩(現長浜市小室町)の茶頭を務めていた冨岡友喜から遠州流茶道の奥義を究めた。小室藩は田沼意次失脚に伴う田沼派大名粛清から天明8年(1788年)に改易となり、遠州流茶道も廃れかかっていた。文化6年(1809年)、宗範は後に小堀家(旗本として再興)当主となる遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授した。遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と呼び、遠州流では今なお宗範を「中興の立役者」と称えている。その後、徳川将軍家の茶道師範を務め、晩年は尾張藩から高禄での招聘を受けたが断り、国友で真宗に帰依し、天保11年(1840年)死去した。
茶道を始めとして華道・書道・礼法、和歌、俳句、南画、造園など多方面に才能を発揮し、勝元鈍穴の他多くの門人を育てた。なお、叔父(父の弟)丹治は彫金師の臨川堂充昌、国友藤兵衛一貫斎は甥(姉みわの子)に当たる。

小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。遠州流(小堀遠州流)茶道の祖。
一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。

略歴
小堀氏の本姓は藤原氏で、光道の代に近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住して村名を姓として名乗った。光道から6代の後の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は羽柴秀吉の弟秀長の家臣となった。
天正7年(1579年)、その正次の長男として生まれた。
天正13年(1585年)、秀長が郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一もともに郡山に移った。
この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休とも出会っている。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。
秀長の死後を嗣いだ秀保もまもなく死去したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになり、第一の弟子と称された。
慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。浅井郡小峰邑主。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年(1609年)、従五位下遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和3年(1617年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
元和5年9月(1619年10月)、近江小室藩に移封され、さらに元和8年8月(1622年9月)に近江国奉行に任ぜられる。
元和9年12月(1624年1月)、伏見奉行に任ぜられた。
晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。
その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、正保4年2月6日(1647年3月12日)、伏見奉行屋敷にて69歳で死去した。
なお、子孫は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢っているが、旗本として家名は存続した。
文化
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作事
政一の公儀作事に関する主な業績としては備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられる。
宮中造営の業績のほかに品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の際の休泊所である水口城(滋賀県甲賀市水口町水口)、伊庭御茶屋(滋賀県東近江市伊庭町)、大坂城内御茶屋などが知られている。また京都の寺では将軍の側近・以心崇伝の住坊である南禅寺塔頭金地院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間、茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園など準公儀の作事に参画しているが、政一の書状の文面から推察できるように、彼は江戸にある幕府からの愛顧を気にしていた関係から公儀の作事(幕府の対皇室政策)以外は公家への出入りは極力避けていた。師・古田織部のような非業の死を避けるためとも思われる。
政一が奉行として参画したと思われる遺構は建築としては妙心寺塔頭麟祥院の春日局霊屋(慶長年間、うち溜りを移建)、氷室神社拝殿(慶長年間、内裏池亭を移建)、大覚寺宸殿(慶長年間の内裏の元和期増造の際に中宮宸殿となる)、金地院東照宮、同茶室、同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺塔頭龍光院の密庵席(みったんせき、国宝)、孤篷庵表門前の石橋、同前庭、同忘筌席露地(建築は寛政年間に焼失後、旧様式を踏襲して復元された)、仙洞御所南池庭のいで島およびその東護岸の石積み部分などである。京都の金工師で加賀藩前田家の家臣の後藤覚乗の茶室擁翠亭は、「十三窓席」といわれた多窓茶室である。また加賀大聖寺藩長流亭も手がけていると言われる。
庭園の作風については政一は師である織部の作風を受け継ぎ発展させたとされるが、特徴は庭園に直線を導入したことである。屏風画に残る御所で実施した築地の庭(後には改修される)や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた所以とされるが、種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻である。また樹木を大胆に刈り込み花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなどの工夫は西洋の影響が指摘される。
茶の湯
政一の茶の湯は現在ではきれいさびと称され、遠州流(小堀遠州流)として続いている。政一は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。
また、秀吉の時代以前に名物とされた茶道具の多くが秘蔵の品として入手困難となっていたため、新たにこれはという茶道具に銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにしていった。その際、彼は和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘を用い、同じようなデザインのものを「-手」として類型化した上で特定の固体を「本歌」とし、同じ手のものには本歌にちなんだ銘を与えることで、茶道具のデザインを系統立てて把握できるような仕組みを考案した。
こうして小堀が有名にした茶道具群は、後世中興名物と呼ばれることとなった。
茶室においては織部のものより窓を増やして明るくし、13の窓を持つ「擁翠亭」がある。政一は生涯で約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及ぶと言われる。彼の門下としては松花堂昭乗、沢庵宗彭などがいる。
華道
小堀遠州がもたらした美意識は華道の世界にも反映され、それがひとつの流儀として確立、江戸時代の後期に特に栄えた。遠州の茶の流れを汲む春秋軒一葉は挿花の「天地人の三才」を確立し、茶の花から独自の花形へと展開していった。
その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によってその規矩が確立された。時代が下って、昭和の初期にかけては既成の流派から独立した家元や宗家が多く生まれ、明治の末期をピークとして遠州の名を冠した流派は大幅に増えることになった。
これらの流派は一般に、花枝に大胆で大袈裟な曲をつける手法という共通した特徴がある。華道でこうした曲生けは、技術的に習得するのが至難な技法として知られている。
七宝
小堀遠州は、茶室などの空間設計の一環に七宝細工による色彩や装飾を本格的に取り入れた(伝承上の)最初の人物である。遠州は、豊臣秀吉に仕えていた金工師の嘉長を登用し、戸袋や襖の引き手など七宝細工の製作にあたらせたと伝えられている。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいた。 桂離宮の松琴亭の二の間戸袋の巻貝形七宝引手は遠州の指導により意匠をさずけられた嘉長の作という。 京都の桂離宮、曼殊院、修学院離宮、大徳寺などの七宝引手や釘隠しは、今でも建屋の中で使われている状態を見ることができる。千利休や古田織部好みの茶室などと比較すると、七宝による装飾は遠州好みの書院風の空間によくなじむ。
なお、小堀家の家紋「花輪違紋」は「七宝花菱」とも呼ばれているが、これは、輪違い連続文様における一つの輪が四方へと無限に広がる様子、「四方」が「七宝」に転じたものという説や、「花輪違」は四個の輪からできており「四方襷(しほうたすき)」あるいは「十方」などとも呼ばれたことから、「十方」がなまって「七宝」に転じたという説がある。
ところで、七宝細工を意味する「七宝瑠璃」という語は、室町時代、足利義政が将軍の頃から使われているが、七宝瑠璃と七宝紋の関係については不明である。遠州以前の室町時代、侘び・さびを尊んだ茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に受け入れられるようになったのは、遠州や琳派の時代(桃山時代以降)を迎えてからのことであった。
その他
八条宮智仁親王、近衛応山、木下長嘯子など当代一流の文化人たちとの交際が知られる。元和7年(1621年)と寛永19年(1642年)の江戸から上洛途次の歌入日記にもその文学趣味がよく現れている。
政一が着用したと伝えられる具足が東京国立博物館に所蔵されている。
松山(高梁)に居住していた時、備中国で多く作られていた柚子を使い独自のゆべしを考案、同所の銘菓となった。現在でも高梁市の銘菓として知られ、代表的な土産物となっている。

北村 幽安(きたむら ゆうあん、慶安元年(1648年) – 享保4年(1719年))は、江戸時代の茶人。美食家としても有名。諱は政従(まさより)、通称佐太夫(さだゆう)と言う。別に道遂(どうずい)と号す。近江の生まれ。

略歴
幽安は、慶安元年(1648年) 近江滋賀郡本堅田村(現大津市)の豪農で中世以来の地侍である郷士北村家に生まれ、父は六右衛門正利と言った。妻は、北村家同様に堅田の郷士である居初正幸(いそめまさゆき)の妹であった。
幽安は、早くから千宗旦四天王の1人・藤村庸軒に茶を習った。点前に終始する作法茶人とは異なり、幽安は当時の文化人として芸道のあらゆる分野に造詣深く、特に作庭・茶室設計・茶器製作に独特の手腕を発揮した。天和元年1681年頃、幽安が師の庸軒と共に創った「天然図画亭(てんねんずえてい)」(居初氏庭園)は、入母屋造りの草庵式と書院式を融合させた茶室「図画亭」と琵琶湖と湖東連山を借景にした枯山水庭園で、大津市指定文化財・国の名勝に指定されている。江戸時代中期の国学者で歌人の伴蒿蹊は、幽安の作庭の技量に対して「彼の技術は誰も及ばない」と称した。
幽安は味覚にすぐれ、茶の湯に使う水が琵琶湖の指定した場所でくんだ良水か否かをつねに味わいわけたと言う。また懐石料理の1つで、鮒のつけ焼き(鮒をみりんと醤油に浸して焼く)の「幽安焼(幽庵焼き)」や食用菊の一種「幽案菊」は幽安の創作と言う。料理屋で幽庵焼きと書かれるのは、有安と祐庵の号が混同されたためと言われている。
享保4年(1719年)幽安は死去した。堅田において茶道文化を開花させた功績は大きい。なお、同時期堅田本福寺住職で松尾芭蕉の高弟であった三上千那との間で俳句のやり取りがあったと伝えられている。
エピソード
茶人は元来味覚が非常に鋭敏で古の茶人は名水を呑みわけて鑑定したと言われている。ある時幽庵は、「ある時下男が骨惜しみして指図通りの水を汲まず、近くの湖辺のものを持参したことを看破し、下男は恐れ入った」と言う話が伝わっている。また、魚鳥の産地も言い当てることができ、度々衆人を唖然とさせた。

久田 宗栄(ひさだ そうえい、永禄2年(1559年) – 寛永元年3月6日(1624年4月23日))は表千家久田流の初代。近江蒲生郡久田村の生まれ。諱は房政、通称は新八、別に宗玄・生々斎と号した。

略歴
永禄2年(1559年)、宗栄こと房政は南近江の佐々木家に仕える久田実房の長男として生まれた。久田家は源満季の裔で、また佐々木義実の一族であったと伝えられる。母宗円は田中了専の娘で、千利休の妹に当たる。宗円輿入れの際、利休自ら茶杓を削って是に『大振袖』と名付け、「婦人シツケ点前一巻」と共に妹に与えたという逸話が残っている。この婦人点前が、今日表千家や久田流に伝わる女点前の源流であるとされている。
房政は佐々木氏に仕えたが、後に京に隠棲し茶道を利休に学び、剃髪して宗栄と号した。後豊臣秀吉の命により茶道を以て職と為し、京都両替町に邸地を賜った。天正15年(1587年)の北野の大茶会に参加したと伝えられている。
宗栄の嫡子常房は茶道久田家二代となり千宗旦の息女暮子を妻とした。また、次男清兵衛は呉服商十二屋藤村家に養子として入ったとされ藤村庸軒と称し、茶道庸軒流の開祖となった。

建部 隆勝(たけべ たかかつ、生没年不詳)は、16世紀の香道家、留守斎と号した。織田信長の近臣、近江国の人物。

生涯
建部隆勝は、佐々木氏一族で近江建部城(現滋賀県東近江市五個荘木流町)主とも伝えられる。佐々木六角氏滅亡時に織田信長に臣従した。
生涯
聞香の開祖は三条西実隆で、その髙弟志野宗信は志野流香道を確立し子の宗温、孫の省巴へと世襲したが、省巴奥州退居による志野流断絶の危機に当たって、二代目宗温の高弟建部隆勝は門下の蜂谷宗悟に志野流継承を薦め、香道断絶の危機を回避した。隆勝は香道中興の祖と仰がれる。
織田有楽斎・天王屋宗友・千利休・古田織部・本阿弥光悦・芳長老(相国寺長老)など、当代一流の文化人が隆勝門下に名をつらねていたことが知られている。隆勝は、天正元年(1573年)『香之記録』(別名「隆勝香之記」)を記し、香の木所(香り)を7分類した日本最初の香の記録を著わし、香道家としての地位を決定的なものにした。これは、現代にも繋がる香道において最も重要な六国(伽羅・羅国・真那伽・真南蛮(インド南西部ケーララ州海岸部のマラバル地方)・寸聞多羅・佐曽羅(インドデカン高原ブーナ地方のサッソール地区)の木所(香り)分類の元となった。
後に「建部流」の祖とされた。また、米川流を開いた米川常伯(別名「小紅屋三右衛門」)は、隆勝の門弟阪内宗拾の弟子であり、米川常伯は江戸時代大名家で親しまれた安藤家流(御家流)の祖ともされる。

泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2月5日) – 大正7年(1918年)2月)は、明治から大正前期の彫刻家。

略歴
泉亮之は、天保9年1月11日(1838年2月5日)に近江坂田郡息郷村(現滋賀県米原市番場)の泉孫右衛門の長男に生まれ、幼名を豊次郎と称した。泉家は商業に従事する傍らで農業を営んでいた。元々手先が器用な子であったと伝えられ、25歳の時飛騨に商いに出た時、「亮水」と称する彫師の作品に接し深く感銘を受け自らの名を「亮之」と改め、家業を捨て彫刻に専念した。
よく蛇・蝦蟇・髑髏を得意とし、明治24年(1891年)5月10日訪日中のロシア皇太子により泉亮之作品が買い上げられ、この後明治26年(1893年)アメリカで開かれた博覧会に泉亮之の作品が出品され賞を授けられ、またシカゴで開催されたコロンブス上陸400年祭記念博覧会においても、泉亮之の作品は賞牌を得た。世界的にも高い評価を得るに至り、明治33年(1900年)皇太子ご成婚に際して作品奉納を命じられ、大隈重信は泉亮之の作品がついた杖を愛用したと伝えられる。
泉亮之は得意とする髑髏の研究のため塚より頭蓋骨を掘り出し、寝食を忘れ研究を行ったと伝えられる。なお、伊吹山頂に柏原宿の亀屋左京が寄進した石の祠があり、そこに最晩年(大正9年(1920年))の作品である木彫の日本武尊像が祀られていた(現在、日本武尊像は別に保管)。大正7年(1918年)2月死去した、なお一部資料では死亡年が大正9年(1920年)と記されているものがある。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。

歴史
元和7年(1621年)膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う。また、膳所藩領国内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。
菅沼定芳は、膳所藩主となった後の寛永6年(1629年)、膳所相模川の左岸に御用窯を築いた。定芳は本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている。
菅沼定芳移封後、寛永11年(1634年)新たに石川忠総が膳所藩主となった。忠総の実父大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり、忠総自身も小堀遠州と親交が深かったことから遠州の指導を受け茶器焼き物に力を注いだ。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、膳所焼の隆盛は忠総治世時に留まり、慶安3年12月(1651年2月)忠総が死去し、慶安4年4月(1651年6月)後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封すると、膳所焼は徐々に衰退していった。
膳所焼再興
梅林焼
天明年間(1781年-1789年)に小田原屋伊兵衛が梅林焼という窯を興したが、古来膳所焼は「黒味をおびた鉄釉の美しさ」を特色としたのに対し、梅林焼は「唐三彩風の緑や黄色など鮮やかな発色の釉薬」を特色とし、江戸初期の膳所焼とは懸け離れたものであった。
雀ケ谷焼
膳所城下篠津神社前紺屋町の商人井上幾右衛門が文政年間(1818年-1830年)、膳所焼再興のため京都から住宅まで建て陶工を招き、膳所茶臼山の東南麓の雀ヶ谷に窯を築いた。そのほとんどが土瓶・皿・鉢・徳利などの実用品であった。
瀬田焼
幕末から明治初期に、池田門平という陶工が瀬田の唐橋の東に窯を築き、楽焼風の茶碗を焼き始めたのが起源とされ、三代続いたが、大正時代には廃窯となった。窝跡は未確認で実態は不詳だが、長期間継続していたため、多くの製品が現存する。
膳所焼(再興)
膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が1919年(大正8年)、友人の画家山元春挙と組んで別邸に登り窯を築き、京都の陶工二代伊東陶山が技術的な指導を行い膳所焼の復興に生涯尽力した。健蔵の後、息子の岩崎新定に継承され、新生膳所焼は今日に至っている。膳所焼美術館にて作品を閲覧することができる。

井関 家重(いせき いえしげ、天正9年(1581年) – 明暦3年(1657年)は、江戸時代初期の能面彫刻家。近江井関4代目。河内大掾家重と称した。
生涯
井関家は正親町三条公綱が応仁の乱を逃れ近江国浅井郡丁野村に隠棲したことに始まり、公綱六代の孫が「近江井関」初代上総介親信と言われ比叡山の僧三光坊(越前国平泉寺の僧とも言われる)に能面彫刻を習った。井関家重は「近江井関」3代目井関備中守家久(または備前掾宗政)の子として、天正9年(1581年)近江国高島郡海津村(現高島市)に生まれた。
家重は幼児より父に能面打ちを教わり、その作品は遥かに父祖の作を凌ぎ、「天下一」の御朱印を受けるに至り、「天下一河内」の焼印を用いた。古今比類無い名手として徳川将軍家に召しだされ、江戸に居を移し、明暦3年(1657年)77歳で没した。法名は「青光院円誉道悟居士」、幕府より受けた砂金で建立した自身の寺「青光院」に葬られた。
作風は彩色は一見粗いが柔らかく、これを能面美術史家は「河内彩色」と呼び珍重されている。また、刷毛を用いず布に絵の具を着けて打ち付けたものもあり、これを「打彩色」と呼ばれている。創意工夫が重ねられた独特の作風は世間から激賞を受けた。
家重の長男家正も能面を打ったが、父に及ばず井関家の伝統は絶えた。しかし、家重の弟子からは大宮大和など一流の面打ち師が生まれた。

井関 次郎左衛門(いせき じろうざえもん、生没年不詳)は、室町時代後期、戦国時代の能面彫刻家。近江井関2代目。
生涯
井関家は正親町三条公綱が応仁の乱を逃れ近江国浅井郡丁野村(現長浜市小谷丁野町)に隠棲したことに始まり、公綱六代の孫が「近江井関」初代上総介親信と言われる。初代上総介は当時面工六作と言われた名人能面師の一人比叡山の僧三光坊(越前国平泉寺の僧とも言われる)に能面彫刻を習った。上総介親信の父は浅井家被官で横山城主であった三田村左衛門国定であった。近江は「近江猿楽六座」を中心に猿楽や能が古来より盛んな地であったことから、猿楽・能に必要な能面を多数必要とし「近江井関」と呼ばれる能面師が活躍した。
井関次郎左衛門は近江国坂田郡七条村(現長浜市七条町)に住した能面師「近江井関」の2代目。「近江井関」の作品は裏面に「ヰセキ」の銘があったことから「片仮名ヰセキ」とも呼ばれる。2代次郎左衛門宗信は、親信に師事し独創的な作面を行った。彩色が粗く、固く光沢は乏しく梨肌と独特の作風で評価を得た。能面師として天下一の御朱印を受けた井関家重は孫に当たる。

越前康継(えちぜんやすつぐ、初代:天文23年(1554年) – 元和7年9月9日(1621年10月23日))は江戸時代の越前国・武蔵国の刀工。下坂派の棟梁格で、名を相伝し幕末まで江戸幕府御用鍛冶を務めた家系である。

経歴
初代康継の出自は判然としないが、美濃国赤坂千手院派の後裔といわれる。近江国(滋賀県)長浜市下坂が生国で、名を下坂市左衛門といった。初期作品では「肥後大掾(大掾)下坂」の銘を刻む。
慶長年間(1596年~)の初頭に越前に移り住み、越前北ノ荘藩主結城秀康(徳川家康次男)のお抱え鍛冶となったと伝わる。この秀康の推挙により、慶長10年か11年頃(1605-6年)(あるいはもっとくだって慶長18年(1613年)頃)、家康・秀忠に召されて江戸で鍛刀を命じられる。腕を認められて五十人扶持の士分待遇にあずかり、家康より「康」の字を賜って「康継」と改銘。葵の御紋を作刀の茎に切ることを許された。ゆえに「御紋康継」、「葵下坂」と称される。越前と江戸に隔年交代の勤務を命じられている。
作風
康継本来の作風は、関鍛冶風の板目肌に湾(のた)れに互の目がまじり砂流しのかかる刃文を焼く。。『駿府記』によれば元和元年(1615年)閏6月16日、二条城にて大坂城落城の際、焼身となった名物や天下の名刀類の捜索と再刃を承っている。これを機に、それらの写し物も手掛けるようになったため、相州貞宗をはじめとする相州伝の作風を学び取った影響が出ている。なお、これら写し物の多くには本多成重の所持銘のあるものが多く、彼は康継の有力な後援者であったと考えられる。
作刀に見事な彫り物のあるのが多いが、これは越前の彫刻家である喜内(紀内)一門によるものである。重要文化財指定の作に、熱田神宮への奉納の葵紋の脇差で、竹と梅枝の彫り物がある作がある。ほか、重要美術品の刀もある。
南蛮鉄を用いた最初の刀工だといわれ、「以南蛮鉄」の添銘がみられる例が多々ある。
後代
嫡子である二代康継(正保3年2月15日年没)は名を下坂市之丞、入道して康悦といい、旗本の水野成之や阿倍正之とも交流した六方者であったらしいが、技量も確かで、将軍秀忠にその才能をめでられて江戸定住となり神田紺屋町に屋敷を褒美に与えられた。作風は初代とほぼ同様で、初二代とも後世の業物の番付けにも名を連ねる。
二代康継の没後、二代康継の嫡男右馬助(のち市之丞)が若年であったためその叔父である初代康継三男の四郎右衛門の間で跡目争いが起こり、「権現様御取立の家柄」ということで越前松平家の家老たちや阿倍正之らの仲介により、三代目は右馬助が江戸下坂家を踏襲(江戸三代)し、四郎右衛門が越前下坂家の分家を継ぐことになった(越前三代)。以降も江戸康継家は明治頃の十二代まで、越前康継家は幕末の九代まで続いているが、作風は新刀一般のものと大差なく、四代以降は両家とも作刀も少なく技量も劣る。

喜多川 宗典(きたがわ そうてん)は、作品の年紀銘より貞享・寛延年間(1684年~1750年)の江戸中期に活躍した装剣金工家。

初代宗典
生没年不明、京八幡町の出身と言われ、秀典(ひでつね)と称していたと伝えられる。彦根藩士川喜多氏に依ったことから喜多川を姓とし、宗典と名乗った。彦根城下中藪に住み、目抜き・縁頭・鍔・小刀等に花鳥・風景・合戦図などを高彫り象嵌や色絵の技法を駆使して、にぎやかに表す彦根彫りと呼ばれる技法を確立した。
二代宗典
生没年不明、喜多とも言い別に藻柄子と号す。図案はほぼ父と同じで、高彫り象嵌や色絵や肉彫り地透かしに象嵌を施した「道釈列仙遊戯図」・「軍士の交戦図」を多くの優品を残した。贋作を多く作られるほど、宗典の作品は高く評価された。

湖東焼(ことうやき)は、日本の陶芸の一つ、および、それによって生産される陶磁器の呼称である。「湖東」の名は琵琶湖東岸の地域名の一つである「湖東」に由来する。
江戸時代中期の彦根藩本領(現・彦根市域)で生産され始め、井伊掃部頭家の許で発展したが、幕府大老を勤めた藩主・井伊直弼が暗殺されると職人が離散して一気に衰退し、明治時代中期に途絶した。その後、1986年(昭和61年)に復興事業が立ち上げられている。

概要
文政12年10月(新暦1829年11月)、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛(寛政3年(1791年) – 万延元年6月25日(1860年8月11日))は、当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き、湖東焼の創始者となった。
晒山には何らかの問題があったらしく、窯の場所を佐和山山麓古沢村の餅木谷に移し、主に磁器の生産を行ったが、未経験による失敗も多く、ついには協力者であった島屋平助等が手を引き、半兵衛単独で経営にあたった。徐々に事業も軌道に乗っていったが、しばしば資金不足に陥り、彦根藩からの借銀によって事業を維持した。
有田式の丸窯を瀬戸風の古窯形式に改め、湖東焼独特の淡緑色を出す物生山石(むしやまいし、佐和山北端の物生山で採取される石)・敏満寺山(現犬上郡多賀町)の粘土を用いたことは半兵衛による成果であった。染付・錦手・金襴手などの華麗な手法を用いられた文房具・茶器・飲食器が生み出され、「沢山」「湖東」の銘を記し、近江国内・京・大阪へ売り出された。半兵衛が育てた湖東焼は、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となった。創業の功として、半兵衛は伊藤の名字の使用を許された。
湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えるが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまう。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされた。それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶した。
復興事業
湖東焼の復興を願う機運が高まりを見せたのは昭和末期のこと。これを図る人たちは滋賀県と彦根市の賛同を得て「湖東焼復興推進協議会」を発足させ、1986年(昭和61年)に窯を築いて試作を始めた。さらに2005年(平成17年)7月27日には、同協議会は滋賀県の認証を得、新たにNPO法人「湖東焼を育てる会」として発足した。

国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ) 安永7年10月3日(1778年11月21日) – 天保11年12月3日(1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。

生涯
近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。
文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。
文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。
文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832年)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。
その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。
また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。
天保11年(1840年)、国友村にて死去。享年63。
国友藤兵衛家
国友村で年寄脇(年寄の次席)を勤める御用鉄砲鍛冶の家の一つ。辻村家とも言う。
一貫斎はこの9代目にあたるが、特に著名であるため説明なく彼を指して「国友藤兵衛」と呼ぶことが多い。初代・辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身であり、永正年間に近江国国友村に移り住んだと言われている。その跡を継いだ2代目以降の当主の多くが国友藤兵衛を名乗った。他の国友鍛冶職人は重当(旧字:重當。弾が「重ねて当たる」の意)の銘を用いるのが通例だが、藤兵衛家のみ能当(旧字:能當。「能(よ)く当たる」の意)を用いる。明治時代に入り11代目当主以降は鉄砲鍛冶を廃業している。
辻村藤内
国友藤兵衛
国友藤兵衛
国友吉十郎能直
国友藤兵衛有昌
国友藤兵衛重光
国友藤内好定
国友藤兵衛重倫
国友藤兵衛重恭
国友藤兵衛元俶
国友藤平能恭

国友 善兵衛(くにとも ぜんべえ、生没年不詳)は、近江国国友村で鉄砲製作が初めて行われた際の鍛冶職人。
1544年、室町幕府将軍足利義晴が管領細川晴元に命じて鉄砲製作を依頼し、善兵衛によって2挺の鉄砲が献上された。以後国友村は鉄砲の一大産地として、生産体制を整えてゆく。
桶狭間の戦いで国友製の鉄砲が織田信長により初めて戦力として使用された。長篠の戦いでも国友の量産鉄砲が投入されている。

古筆 了佐(こひつ りょうさ、元亀3年(1572年) – 寛文2年1月28日(1662年3月18日))は、近江国生まれの古筆鑑定家。
本姓は平沢、通称は弥四郎、諱は範佐(のりすけ)といい、出家して名を了佐と改めた。その後、古筆の鑑定を専業とするため、関白・豊臣秀次の命により古筆に改姓した。

古筆

『糟色紙』藤原定信筆
『西本願寺本三十六人家集』の中、『順集』の「切」である。この断簡には、『糟色紙』と『岡寺切』(岡寺に伝わったため)があるが、料紙の装飾技巧に継紙の手法のあるものが前者で、ないものが後者である。
古筆とは、平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた和様の名筆をさしていう。時にはもっと範囲を狭くしてその名筆中でも特に「かな書」をさす。単に古代の筆跡という意味ではない。
安土桃山時代に入り、やや平和な世の中になると、知識者階級において、「美しい筆跡を手習の手本にしたい」、「鑑賞のために手に入れたい」という願望がおきてきた。さらに、天文24年(1555年)10月の茶会で、武野紹鷗が藤原定家の『小倉色紙』を茶室の床掛けとして用いて以来、古筆が茶人達にも愛好されるようになった。やがて古筆愛好の風潮は民間にも波及し、古筆は珍重されるようになった。
古筆切
古筆は主に貴族文化の中で、本来、冊子や巻物という完全な形で大切に保存、鑑賞されていた。しかし、古筆愛好熱が高まり古筆の絶対数が不足してくると切断されることになり、この切断された断簡が「切」と呼ばれるもので、ここに古筆切(こひつぎれ)、歌切(うたぎれ)が誕生する。古筆切は保存にも鑑賞にも不自由なため、これを収納、鑑賞するための帖(手鑑)が発達した。江戸時代初期、17世紀中頃には町人のあいだでも大流行したことが、当時の『仮名草子』に記されている。また、『茶会記』には、古筆切は茶席の床を飾る掛物としても用いられ始めたことが記されている。
古筆鑑定
手鑑や茶会の床の掛物として古筆切の鑑賞が盛行すると、その筆者が誰であるのかということが重要になってくる。そして鑑定を依頼するようになり、古筆の真贋を鑑定する古筆鑑定家が生まれた。大村由己、鳳林承章、烏丸光広など多くの人が鑑定に携わっていたが、古筆了佐はこの古筆の鑑定を生業とした。
古筆了佐(平沢弥四郎)
平沢弥四郎(のちの古筆了佐)は元亀3年(1572年)、佐々木源氏の末流として近江国西川に生まれた。若い頃、父・宗休(そうきゅう)と京都に出て、父とともに烏丸光広に入門し和歌を学んだ。光広は和歌にも書にも秀で、特に古筆の鑑識に長けており、自ら古筆の蒐集もしていた。その影響で、弥四郎も古筆鑑定の術を体得し、腕を上げていった。そして、光広から古筆の鑑定を専業にしてはどうかと勧められ、これをきっかけに話がまとまり、豊臣秀次より古筆の姓を名乗る命を受けた。鑑定は権威が必要と、秀次自らが発注した「琴山」という純金の鑑定印を与えられた。弥四郎はすでに出家していて了佐の法名を名乗っており、改姓して古筆家をたて、古筆了佐と称して古筆鑑定の第一人者となった。
烏丸家との交友
烏丸光広と了佐の交友がいつから始まったのか定かでないが、了佐が光広に古筆鑑定の方法を学んだことは、『御手鑑』、『古筆名葉集』、『明翰集』などから知られる。

志村 ふくみ(しむら ふくみ、1924年(大正13年)9月30日 – )は、日本の染織家、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)、随筆家。
草木染めの糸を使用した紬織の作品で知られる。

経歴
滋賀県近江八幡市生まれ。1942年(昭和17年)、文化学院卒業。文化学院の1学年上級には女優の高峰秀子がいた。
31歳のとき、若い頃に柳宗悦の民芸運動に共鳴して織物を習っていた母・小野豊の影響で、織物を始める。
1957年(昭和32年)の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選し、その後第五回で奨励賞、第六回、第八回で文化財保護委員会委員長賞、第七回で朝日新聞社賞、と4度の受賞を重ね、特待者となった。 1990年(平成2年)に農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の保持者に認定された。また随筆の名手としても知られ『一色一生』で第10回(1983年度)大佛次郎賞を受賞している。
現在は京都市右京区嵯峨野に工房を構える。
2013年(平成25年)4月に京都市左京区岡崎に芸術体験を通して学ぶ場として、娘で同じく染織作家の志村洋子とともにArs Shimura(アルスシムラ)を設立。教本として『伝書しむらのいろ』を刊行した。同5月には、GALLERY FUKUMI SHIMURAをオープンした。2015年(平成27年)4月、Ars Shimura(アルスシムラ)2校目として、嵯峨校を開校した。
門下に2010年に紋紗(もんしゃ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された土屋順紀がいる。

辻与次郎(辻與次郎、つじ よじろう、生没年不明)は、安土桃山時代から江戸時代初期(16世後半から17世紀初頭)の釜師、鋳物師。法名を一旦と号し、天下一與次郎とも呼ばれる。近江国出身。

生涯
近江栗太郡辻村(現滋賀県栗東市辻)に生まれ、諱は実久。後に京都の三条釜座に住み、京釜の創始者西村道仁に師事した。千利休の釜師となり、室町時代に盛行した芦屋釜・天命釜とは異なる利休の好みの丸釜・阿弥陀堂釜・尻張釜・雲竜釜・四方釜など、新しい形・文様・肌合の釜を創始し、鋳上がった釜を再び火中に入れて釜肌をしめる「焼抜き」という仕上法を創始し、また本来炉に掛けるための釜の羽を鋳造後故意に打落して古作の釜のような古びた味わいをだす「羽落」などの技法を用いた。当代随一の釜師として天下一の称号を名乗ることを豊臣秀吉から許された。
年記のある最古の作品として兵主大社(滋賀県)の天正18年(1590年)「銅鰐口」、豊国神社の慶長5年(1600年)「鉄灯籠」、出羽西善寺の慶長15年(1610年)「梵鐘」、焼失した宝塔寺(京都府)の慶長16年(1611年)「梵鐘」があり、初期に與二郎、晩年に與次郎と銘を記している。與次郎の銘を記した釜は現存しないが、「伝與次郎作」として安土総見寺の天正3年5月(1575年6月)の年記がある「尻張釜」、大津の聖衆来迎寺の慶長7年(1602年)「鉄茶釜」がある。これらより與次郎の活動時期がわかる。なお、豊国神社の「灯篭」は秀吉死後、その恩に報いる為與次郎が寄進したものと伝えられ、出羽西善寺の「梵鐘」には「山城愛宕郡三條釜座鋳物師天下一辻與次郎藤原實久」と記されている。
名越昌孝の『鋳家系』によれば、與次郎は名越善正の次男で慶長8年(1603年)に48歳で没したと記されているが、それ以降の作も現存しており、『鋳家系』記載は誤りとされる。

外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9月27日 – 1993年(平成5年)4月15日)は、民芸運動家、染織家。滋賀県出身。甥に歌人の塚本邦雄(1920年 – 2005年)がいる。

略歴
1898年(明治31年)9月27日、滋賀県神崎郡五個荘町川並(現東近江市五個荘川並町)生まれ、1925年(大正14年)に関西学院大学神学部を卒業した後、1932年(昭和7年)手織物の創作活動を開始した。国画会会員、日本民芸協会常任理事などを歴任し、1993年(平成5年)4月15日死去した。
1925年(大正14年) – 関西学院大学神学部を卒業。
1948年(昭和23年) – 倉敷民藝館の初代館長に就任。
1953年(昭和28年) – 倉敷本染手織研究所を設立
1965年(昭和40年) – 熊本国際民藝館を設立。館長に就任。
主な著書
民芸遍歴 – 朝日新聞社、1969年
民芸遍歴.続 – 朝日新聞社、1974年
沖縄の民芸 – 倉敷民芸館
西欧の民芸 – 東峰出版、各1962年
満州・北京民芸紀行 – 花曜社、1983年
日々美の喜び 民藝五十年 – 講談社、1980年
喜びの美・亡びの美 民藝六十年 – 講談社、1988年
少年民藝館 – 筑摩書房 復刊2011年3月

概要
虎徹の作刀は地鉄が緻密で明るく冴え、鑑賞面にも優れ、切れ味鋭い名刀として名高い。別名、興里、長曽禰興里、長曽禰虎徹、乕徹ともいう。通常虎徹といえば、この興里を指す。なお、興里は甲冑師であったため刀剣の他にも籠手、兜、鍔などの遺作もある。50歳を超えてから刀工に成った。
虎徹の作刀には国の重要文化財をはじめ、文化財に指定されているものが多い。また、土佐山内氏、尾張徳川家、奥平氏伝来の品、江戸幕府の大老・井伊直弼の差料であった脇差など、大名などの上流階級が所蔵する品であり人気が高く、江戸後期には大名道具、大名差しといわれる代物となっていた。その人気のため、虎徹は贋作が非常に多いことでしられ、在銘品(虎徹と銘のある品)の大半が偽物だと言われる。
「虎徹」の表記について
「虎徹」とは甲冑師・長曽禰興里(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名のひとつである。「虎徹」の方が「興里」に比べて定着しているが、厳密には入道名を呼び名とするのは正しくない。刀工名としては興里、あるいは長曽禰興里と表記することが望ましく、刀剣の専門書などでは興里と表記することが多い。
本工の銘字は「虎」の異体字である「乕」を用いて「乕徹」とも書き、「虎徹」に比べ「乕徹」と名乗った期間が長いこと、「乕徹」銘の方が後期作であること、刀剣書などでは「乕徹」と表記されることも多いことを考えると、「虎徹」よりは「乕徹」とするほうが妥当だが、本項では銘字の引用部分を除いては常用漢字を用いて「虎徹」と記す。
「ながそね」は長曽根、長曾根、長曽禰、長曾禰などと表記されることも多く、虎徹も他の長曽禰一族も「長曽祢」と銘しているため「長曽祢」が正しいが、本項では銘字の引用部分を除いては印刷標準字体を用いて「長曽禰」と表記する。なお、長曽弥、長曾弥と表記される場合もあるが「禰(祢)」と「弥」は別字であり、これは完全な誤りである。「虎鉄」と表記されることも少なくないが、「虎鉄」という架空の刀剣類、刀工等を指し示す場合を除けば誤りである。
長曽禰一族
長曽禰の一族は近江にルーツを持つ、主に甲冑などを作る鍛冶集団であった。室町時代から記録が散見されるが、江戸中期以降は優れた者がいなかったためか、長曽禰の名を冠する者はいないと言う。日光東照宮に長曽禰一族が作った金具があることから、東照宮建立当時はそれなりの知名度があったとされる。一門には、長曽禰才一、長曽禰興寛、長曽禰三右衛門利光、長曽禰播一山、長曽禰助七などがおり、興里もその一人である。また一説には、門人の興正は興里の甲冑師時代からの助手であったと言う。
甲冑師であった長曽禰興里が江戸に移住後刀鍛冶に転職し一門を旗揚げする。開祖長曽禰興里をはじめ、二代目長曽禰興正、興久、興直。また、大坂に長曽禰長広なる刀鍛冶がおり、銘振り、作風の点から言って直接的な関係は見いだせないが、血統的な繋がりは否定出来ない。
虎徹の生い立ち
虎徹は石田三成の佐和山城下(滋賀県彦根市)生まれ。幼少期に関ヶ原の戦いがあり、佐和山城が落城したため福井から金沢に逃れた。金沢では甲冑の名工として知られた。太平の世となって甲冑の需要が減ったためと思われ、江戸に移って刀鍛冶に商売替えしたのは50歳を超えてからである。兜や古釘など、古い鉄を溶かして刀を作り、その古鉄の処理に関する自信からかはじめは古鉄入道と名乗っていたが、その後中国の故事により、虎徹と改める。虎徹は歳とともに急激な成長を遂げ、寛文の終わり頃から延宝の始めが絶頂期であった。作刀上の師は諸説あるが和泉守兼重とされる。没年については定かではないが、「乕徹の研究」では延宝6年(1678年)6月24日に没したとされる。
作刀期間
虎徹の作刀期間は、年紀から考えて明暦2年(1656年)に始まり延宝5年(1677年)に終わったものと思われ、およそ20年にわたり刀剣を製作している。名甲図鑑続輯(めいこうずかんぞくしゅう)には、「明暦元年乙未八月長曽祢奥里於武州江戸作之」と銘のある兜が掲載されている。翌2年3月の脇差が最初の年紀であるため、その間に刀鍛冶として独立したと思われる。ただし、刀鍛冶になるには数年の修業が必要なため、作刀の修行をしながら兜などを作って生活を立てていたと考えるのが妥当だと考えられている。
作刀場所:一説に近江で刀工になり後江戸に移るとされるが、上記のような「於武州江戸」などと銘のある兜があること、師匠とされる和泉守兼重が江戸にいることなどを考えると、近江での作刀は現存しないと思われる。江戸での作刀場所は初め本所割下水、晩年になり「住東叡山忍岡辺」とある刀剣が存在することから、上野東叡山寛永寺付近とされている。
虎徹の作風
反り極めて浅く、武骨な寛文新刀姿の作が多い。太平の世であったため槍や薙刀等の需要に迫られず、ほぼ刀と脇差の製作に専念しており、短刀は極めて少ない。
造り込み
大刀と脇差が多く稀に短刀を見る。初期には典型的な寛文新刀姿となり、反り極めて浅く切先小さく詰まり心となる。延宝頃の作刀は、姿優しくなり、反りが増し、切先伸び心となる。特別注文打ちと思われる脇差の中には、特に身幅が広く大切先になったもの(尾張徳川美術館蔵、尾張家特別注文)、冠落造りとなったものが見受けられる。脇差、短刀の中には刀身彫りが施されているものもある。
地鉄
地鉄は鍛えが強く細かく、明るく冴え、地沸良くつく。相州伝、美濃伝を狙った作の中には、荒沸のつくものもある。指表のハバキ元に鍛えの流れた弱い肌がまま見受けられる。これは「虎徹のテコ鉄」と呼ぶ虎徹の特徴である。
刃文
初期は瓢箪刃、後期は数珠刃と呼ばれる刃文を焼くことが多い。匂い口深く、明るく冴える(この二つの刃文を組み合わせたようなものもある)。また初期は美濃風、後期は南北朝時代の刀工郷義弘を狙ったような広直刃調の作風も多い。作刀の多くに、ハバキ元を短い直刃で焼き出す、「江戸焼き出し」を見る。横手下で湾れ、帽子(切先部分の刃文)は、ふくらにそって小丸に返るのを典型とする。火炎状に掃き掛けるものも見受けられる。横手付近で湾れ、くびれた様を「虎の顎」、或は「虎徹帽子」とも呼称される。
彫り
刀身彫りの名手で、冠落造りの脇差のハバキ元に大黒天等を彫る。下記「虎徹の彫刻」を参照。

虎徹の銘は、ほっそりとして活字体のように整っており、偽銘が切りやすいとされる。
銘の変遷
虎徹の銘は幾度となく切り方が変わっており、20年という短い作刀期間に数種類の銘がある。その理由のひとつには生前から贋作が出回ったことがあると言われている。甲冑師時代、刀工時代のごく初期は「興」という字を略し「奥」のような字になっており、これを「略おき」などと呼ぶ。またそのまま字を崩さずに切る「興」の字を「いおき」と呼ぶ。「興」の最後の画が平仮名の「い」のように見えることに由来する。また「興」の字の最後の画が片仮名の「ハ」、になるもの(寛文8年、同11年、12年、晩年に間々見る)を「ハおき」と呼ぶ。(「略おき」の場合も最後の画は「ハ」になる。」「虎」という字も、初期の「虎」は虎の尻尾が撥ねたようになることから「ハネとら」、後期の「虎」の俗字を用いた「乕」を「ハコとら」という。寛文11年、延宝2、3年には、初期の「ハネとら」銘とも違う「虎」の字で、「虎入道」という銘を切っており、これを「とら入道」と言って、「ハネとら」と区別する。一般的に「ハコとら」時代の刀剣のほうが出来が良いとされ、今日重要文化財に指定されているものは全て後期の作である。
主な銘一覧
長曽祢奥里古鐵入道、長曽祢奥里作、長曽祢奥里虎徹入道、長曽祢虎徹入道興里、乕徹入道興里、長曽祢興里入道乕徹、長曽祢虎入道など。ただし、虎徹の銘はこの限りではない。また晩年には「住東叡山忍岡邊」と添銘するものもある(「略おき」の部分は便宜上「奥」と表記した)。
虎徹の斬れ味
虎徹は斬れ味が良いことで有名である。師匠と目されている和泉守兼重と同様、試刀家の山野加右衛門、勘十郎親子が試し切りを行ったものが多く、人間の胴体を2つ重ねて斬った(貳ツ胴)、3つ重ねて切った(三ツ胴)などと金象嵌銘に記されている物が多々あり、4つ胴を切った刀(四ツ胴)も一振り現存(旧御物、現東京国立博物館蔵)する。懐宝剣尺、古今鍛冶備考などの刀剣書には、最上大業物に列せられている。また、石灯籠を切った、兜を割ったとされる虎徹も残されており、斬れ味が良い上に強度もあった。
虎徹の彫刻
虎徹は元来甲冑師であるため、刀身彫刻の名手でもあり、同作彫りには「同作彫之」「彫物同作」などとあり、虎徹の中でも非常に高価である。虎徹は大黒天を好んで彫っており、大黒天を彫った刀剣が数点現存する。この大黒天は戦神でもあるが、むしろ福神として彫ったものだと言われている。
虎徹の評価と時代の流れによる評価の変遷
今日虎徹の姿は反りが浅く一般的に見栄えが良いとは言われていない。しかし鉄が明るく冴えたものが多い点が評価されている。その作刀技術は高く美術工芸品として第一級の評価がなされている。また重要美術品に認定されている大黒天の彫りのある小脇差を見ても分かるように、豪商などからも需要があり、また大名などの上流階級からも需要があった。明暦の大火で多くの刀剣が消失したことによって江戸での刀剣の需要が増したことも、虎徹の人気を押し上げた要因のひとつである。その人気のため供給が追いつかなくなり、偽物が生前から出回った。そして、延宝6年に虎徹が死去するとますます贋作が横行し、虎徹の死後100年経った時代の刀剣書には「虎徹は偽物だらけ」と書かれている。
江戸後期になると関西出身者で刀剣の目利きであった鎌田魚妙が、津田助広などを絶賛したため、番付では津田助広、井上真改、堀川国広などが上位にきて、虎徹は8位であった。しかし、虎徹について「東国鍛冶数百家に並ぶべき者なき上工也」と記し、東国鍛冶の中では一番高く評価している。その後、水心子正秀により復古鍛錬法が提唱されてからは実用的な刀剣がもてはやされ、虎徹の刀は再び評価される様になる。 虎徹はその人気のために、現存する刀の大半が偽銘の偽物であり、幕末の刀工で刀剣愛好家、贋作家の細田直光(後述の近藤勇の偽虎徹の銘を切った人物とされる)は、自分が今まで作った虎徹の偽銘を『虎徹押し型』という一冊の本にして出版したほどである。
戦前には犬養木堂も虎徹の刀を愛蔵しており、現在における虎徹の評価も幕末からの延長線上にある。
虎徹の偽物
上述のように虎徹の贋作は極めて多い。虎徹は偽物であることが前提条件といっても良く、江戸時代の刀剣書にすら偽物が多いと書かれている。乕徹大鑑、長曽祢乕徹新考などでは偽物の研究もされている。
虎徹の偽銘
贋作が多い長曽禰虎徹は、銘が長く作刀のほとんどに9字という比較的長い銘を切っているため、いずれかの文字に不具合が出やすい。
鑑定書付きのもの
鑑定書付きの物でも注意が必要である。明治時代には、鑑定家が適当に鑑定書を書いた。また現在の日本美術刀剣保存協会等発行の認定書、鑑定書も偽造されているものがある。また、本物に付けられていた鑑定書を偽物に付けて、本物の虎徹として売る場合もある。
近藤勇の虎徹
新選組局長・近藤勇は虎徹の持ち主として一般に有名であり、講談などでの近藤の決め台詞として「今宵の虎徹は血に餓えている」が広く知られている。どのようにして手に入れたかについては諸説ある。
実際には近藤の虎徹は、当時名工として名を馳せていた源清麿の打った刀に偽銘を施したものとする説もある。近藤自身は所有の刀を虎徹と信じており、池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある。
他に将軍家から拝領した長曾祢虎徹興正の作であったとする説や、虎徹の養子である二代目虎徹の刀であった説などがあり、子母沢寛の『新撰組始末記』では「江戸で買い求めた」「鴻池善右衛門に貰った」「斎藤一が掘り出した」の三説を挙げている。
指定文化財
国の重要文化財に指定されている現存刀は以下のとおり。
刀 銘住東叡山忍岡邊長曽祢虎入道 寛文拾一年二月吉祥日(森記念秋水美術館蔵)
刀 銘長曽祢興里入道虎徹(和歌山・紀州東照宮)
刀 銘長曽祢興里入道乕徹(個人蔵)1949年指定
刀 銘長曽祢興里入道乕徹(個人蔵)1952年指定
刀 銘長曽祢興里乕徹(個人蔵)1959年指定

長曽祢興正(ながそねおきまさ)は、江戸時代の刀工。新刀最上作にして最上大業物。 長曽祢虎徹興里の実子とも、門人で後に養子となるともいう。通称は庄兵衛と伝えられる。虎徹の名を継いで二代目となる。ただし、銘に虎徹を冠した作が少ないためか、一般に二代目虎徹と呼ばれることはあまりない。
一説に興里(虎徹)の甲冑師時代からの助手とされる。興里に比して作例が少ないのは師興里の作刀の助手をすることが多かったためといわれる。寛文の終わりごろから興正の作を見るが、作刀期間は主に師興里の没後、延宝6年以降であり、年紀のあるものは寛文13年の作にはじまり、元禄3年の年紀がある作が最も遅い。「東叡山忍岡辺長曽祢興正作之」銘の作があり、当初は興里と同所に居住していたとみられているが、元禄10年刊行の『国花万葉記』には「神田 小鉄」の記事があり、このころには神田に移住していたとみられる。江戸時代の刀剣書『新刃銘尽』には、当時本郷湯島に虎徹庄右衛門なる興正の子がいたが、鍛冶は継がなかったことが記されている。なお、『新刀弁疑』には興正の子長曽祢左市が元禄のころ処刑されて断絶したと記されているが、これは金具師であった長曽祢才市との混同による誤記と考えられる。

作例は刀や脇差、槍などがある。作柄は養父興里に似て反りの浅い姿で地鉄は板目肌となり、刃文は数珠刃風互の目乱れ、広直刃などを焼き、砂流しがかかる。作風が近似することから師興里の偽物に転じたものが多いともいわれるが、興正自体も偽物が多い。
銘は太鏨で「長曽祢興正」、「長曽祢虎徹興正」、「長曽祢虎徹二代目興正」などに切り、「乕徹」銘のものはない。興里の銘に比して稚拙さがある。銘字の書風が一定していないため、鑑定の際は注意が必要である。

藤岡 和泉 (初代)(ふじおか いずみ、、元和3年8月1日(1617年8月31日) – 宝永2年9月15日(1705年11月1日))は、江戸前期に活躍した彫刻師。和泉甚兵衛と通称され、和泉壇・浜壇(長浜仏壇)の創作者。近江国の人物。

生涯
元和3年、近江浅井郡内保村(後の東浅井郡湯田村、現滋賀県長浜市内保)に生まれ、幼名を一松、長じて甚兵衛と称した。井関家重(近江井関)について彫刻を習い、修行の後に伊部(現長浜市湖北町)に居を構え彫刻師として活躍した。小谷村上山田の和泉神社造営に際し甚兵衛が行った社殿彫刻は、その妙技に対し大いに評判を得た結果、神社名から和泉甚兵衛と呼ばれるに至った。
蓮・雲の彫刻を得意とし、中でも近くの寺(神照寺)の蓮池を熱心に観察を続け技を磨いた蓮の彫刻は天下無敵と賞された。仏壇作りにおいては、京仏壇や彦根仏壇と異なり、金箔等は少なめに素材を大事にした。木地に檜を用い、大型で簡素、蒔絵を多くして狭間の彫刻には欅の素朴を用いることを特色にした。和泉甚兵衛の仏壇は和泉壇・浜壇と呼ばれた。
この後、子孫も代々藤岡和泉を名乗り、毎年4月に行われる長浜祭り曳山の細工のほとんどを代々で手掛けた。

古谷 道生(ふるたに みちお、1946年(昭和21)2月16日 – 2000年(平成12年)7月19日)は信楽焼の陶芸家。滋賀県出身。内田邦夫に師事。信楽と伊賀に生涯30基以上の窯を築き、窯の改造など焼き物作りを探求、初めての築窯は、滋賀・三重県境にある「五位の木」古窯を参考にした。

略歴
年譜
1946年(昭和21年) – 滋賀県甲賀郡信楽町神山(現甲賀市信楽町)の半農半陶の家に生まれる。
1964年(昭和39年) – 滋賀県立甲南高等学校窯業科を卒業し、京都府陶工訓練所に入所。内田邦夫が開く、内田クラフト研究所に入所。
1968年(昭和43年) – 日本一周陶業地研修の旅(轆轤賃引きのアルバイトをしつつ全国陶業地を廻る)に出る(1年9ヵ月)。
1970年(昭和45年) – 穴窯を信楽町神山に築窯し独立する。
1971年(昭和46年) – 中国国際陶芸展入選、日本陶芸展(毎日新聞社主催)入選。
1982年(昭和57年) – 信楽陶芸展最優秀賞受賞。
1985年(昭和60年) – 西武陶芸展大賞受賞。
1996年(平成 8年) – 日本工芸会近畿賞受賞、滋賀県文化奨励賞受賞。
2000年(平成12年) – 7月19日没・享年54。
日本伝統工芸展・日本陶芸展・中日国際陶芸展 等多数入選。秀明文化財団より秀明文化基金賞受賞。

山本 恪二(やまもと かくじ、大正4年(1915年)2月18日 – 平成12年(2000年)3月5日)は、昭和から平成期前半の彫刻家。京都市立美術大学名誉教授。
略歴
山本恪二は、大正4年(1915年)2月18日滋賀県に生まれ、旧制中学2年の時にギリシャ彫刻の写真を見て、彫刻家になることを志したと言われる[1]。昭和8年(1933年)東京美術学校彫刻科彫塑部に入学した。
昭和15年(1940年)第5回新制作派展に初入選するが、戦争に徴用される。戦後実家に戻り昭和22年(1947年)から同24年(1949年)まで京都美術専門学校(京都市立美術大学前身)、昭和25年(1950年)から昭和55年(1980年)まで京都市立美術大学、その後大手前大学・神戸山手女子短期大学芸術科で彫刻の指導を行った。なお、この間昭和33年(1958年)から同35年(1960年)までパリに留学(パリ・エコール・デ・ボザール)しマルセル・ジモンとユーベル・ヤンセンに就いて学んだ[1]。広く学生に慕われ門下生だけで200人以上に及ぶと言われ、昭和41年(1966年)から亡くなるまで280点の作品が確認されている。平成12年(2000年)3月5日クモ膜下出血により急逝したが、その直前まで彫刻の制作と指導に当たっていた。
昭和55年(1980年)4月京都市立美術大学を定年退職後、同大学より名誉教授号を授与された(京都市立美術大学ホームページ 京都市立美術大学以後名誉教授授与一覧より)。生前山本は彫刻について「私にとって彫刻とは生きたモデルから何か未知の自然の構造の神秘を探り出す事であり、その時の愕きが私の生き甲斐なのである。此の発見の蓄積は外国語を学ぶのに似て、その効果は直ちには目立たないが長年月の間に別人の様な能力が身に付いて来るものだ。だから此の先どんなに老い込んでもモデルに就くことは止められないだろう。」と彫刻の魅力を語っていた。

山田 良定(やまだ りょうじょう、1931年(昭和6年)10月5日 – 平成14年(2002年)1月30日)は、彫刻家日展理事。浄土宗専念寺住職・滋賀大学名誉教授。滋賀県出身。

略歴
昭和6年(1931年)10月5日、滋賀県神崎郡五個荘町奥(現東近江市)に生まれる。滋賀大学卒業後富永直樹に師事し、昭和50年(1975年)・51年(1976年)日展で連続特選を受賞した。平成2年(1990年)には文部大臣賞、平成11年(1999年)「開幕の刻」で芸術院賞を受賞した。この間県立石山高校教諭や母校滋賀大の教授(退官後名誉教授)を務め、大津市公民館児童美術教室で子供達への指導を行った。平成14年(2002年)1月30日、栗東市の病院で肺炎により死去。
年譜
1931年(昭和6年) – 生まれる。
1954年(昭和29年) – 滋賀大学教育学部卒業。
1962年(昭和37年) – 日本芸術院会員富永直樹に師事する。
1963年(昭和38年) – 日展初入選、以後毎年出品する。
1975年(昭和50年) – 第7回日展で「潮風」が特選となる。
1976年(昭和51年) – 第8回日展で「草原」が無鑑査・連続特選を受ける。
1981年(昭和56年) – 日展審査員を務める。
1990年(平成2年) – 第26回日展で「秋・ふたり」が文部大臣賞を受賞する。
1995年(平成7年) – 浄土宗芸術賞を受賞する。
1999年(平成11年) – 「開幕の刻」で芸術院賞を受賞する。
2002年(平成14年) – 1月30日死去
主な役職
日展理事・日本彫刻会理事・浄土宗芸術家協会理事
滋賀県近江八幡市白王町「専念寺」住職

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