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≪取扱い商品≫
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以下は買取エリアです、、、

あさい
浅井
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今羽坂
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くえはらやまぶん
久江原山分
くのぎ
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たかばたけ
高畠
たかばたけはらやまぶん
高畠原山分
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とくぜん
徳前
とくまる
徳丸

にし
西
にしばば
西馬場
にのみや
二宮
にのみやあおばだい
二宮あおば台
のとべかみ
能登部上
のとべしも
能登部下

はざか
羽坂
はなみづき
花見月
はらやま
原山
はるき
春木
ひがしばば
東馬場
ひづめ
廿九日
ひとと
一青
ふくだ
福田
ふじい
藤井

みじろ
水白

よしかわ
良川

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

大樋陶冶斎 おおひとうやさい
(十代 長左衛門・年朗)

文化勲章受章者
文化功労者/日本芸術院会員

1927年
九代大樋長左衞門の長男として金沢に生まれる
1949年
東京美術学校工芸科卒業(現東京藝術大学)
1987年
十代 大樋長左衛門襲名
2011年
文化勲章受章

石川県名誉県民/金沢市名誉市民
日展顧問/現代工芸美術家協会理事長
石川県美術文化協会理事長
石川県陶芸協会会長/金沢卯辰山工芸工房工房長
金沢学院大学前副学長/ロチェスター工科大学名誉博士
台湾•台南藝術大學名誉博士

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かわぎた りょうぞう
川北 良造

重要無形文化財「木工芸」保持者

1934年
石川県加賀市に生まれる
1962年
第9回日本伝統工芸展 初出品入選
1974年
現代美術展最高賞・技術賞受賞
1993年
「兼六園欅杢目沈金食籠」石川県より皇太子殿下に献上
1994年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
1999年
紫綬褒章受章
2004年
秋の叙勲 旭日中綬章受章
重要無形文化財保持者選賞 受賞2回

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まえ ふみお
前 史雄

重要無形文化財「沈金」保持者

1940年
石川県輪島市に生まれる
1963年
金沢美術工芸大学日本画科卒業後、父・大峰に師事
1973年
第20回日本伝統工芸展 文部大臣賞受賞
1992年
第39回日本伝統工芸展 日本工芸会総裁賞受賞
1997年
第44回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞
1999年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2001年
紫綬褒章受章
2010年
旭日小綬章受章

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よした みのり
吉田 美統

重要無形文化財「釉裏金彩」保持者

1932年
石川県小松市に生まれる
1992年
第39回日本伝統工芸展 髙松宮記念賞受賞
石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会技術保持者に認定される
1995年
平成6年度の日本陶磁協会賞受賞
2000年
第47回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞
2001年
紫綬褒章受章
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2007年
「わざの美」大英博物館に選抜出品
2012年
文化庁主催海外展「日本のわざと美・近代工芸の精華」展
(イタリア・フィレンツェ市)に選抜出品

香炉美統

さんだい うおずみ いらく
三代 魚住 為楽

重要無形文化財「銅鑼」保持者

1937年
石川県金沢市に生まれる
1962年
第9回日本伝統工芸展 最高賞受賞
1998年
第45回日本伝統工芸展 文部大臣賞受賞(文化庁所蔵)
2000年
紫綬褒章受章
2002年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2008年
旭日小綬章受章

なかがわ まもる
中川 衛

重要無形文化財「彫金」保持者

1947年
石川県金沢市に生まれる
2001年
第48回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞(2003年にも同賞受賞)
2002年
MOA美術館第13回岡田茂吉工芸部門大賞受賞
2004年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
伝統文化ポーラ賞優秀賞受賞
2008年
メトロポリタン美術館に作品所蔵される(ニューヨーク)
2009年
紫綬褒章受章
2010年
大英博物館に作品所蔵される(ロンドン)

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こもり くにえ
小森 邦衞

重要無形文化財「髹漆」保持者

1945年
石川県輪島市に生まれる
1986年
第33回日本伝統工芸展 NHK会長賞受賞
1989年
第36回日本伝統工芸展 NHK会長賞受賞(文化庁買上)
2002年
第49回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞(文化庁買上)
2004年
MOA岡田茂吉大賞受賞
2006年
紫綬褒章受章
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2012年
文化庁主催海外展「日本のわざと美・近代工芸の精華」展
(イタリア・フィレンツェ市)に選抜出品

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ふたつか おさお
二塚 長生

重要無形文化財「友禅」保持者

1946年
富山県高岡市に生まれる
1965年
洋画を吉田冨士夫に師事。その後日本画を斎藤清策に学び、加賀友禅を押田正義の工房で修業し、1974年独立
1991年
第28回日本伝統工芸染織展 文化庁長官賞受賞
(1995年にも同賞)
1997年
第44回日本伝統工芸展 朝日新聞社賞受賞(文化庁買上)
2000年
第47回日本伝統工芸展 文部大臣賞受賞(文化庁買上)
2005年
金沢市文化活動賞受賞
2006年
紫綬褒章受章、北國文化賞受賞
2010年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
金沢市文化賞受賞

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なかの こういち
中野 孝一

重要無形文化財「蒔絵」保持者

1947年
石川県加賀市に生まれる
1969年
人間国宝 大場松魚に師事
1971年
日本伝統工芸展初出品で日本工芸会会長賞受賞
1972年
伊勢神宮御神宝制作奉仕(1992年 同じく制作)
1986年
東大寺昭和納経経箱蒔絵制作
1989年
北國文化賞、第2回MOA美術館岡田茂吉優秀賞受賞
2005年
紫綬褒章受章
2010年
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定

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三代 徳田八十吉
日本伝統工芸展、審・監査員・特待
国指定重要無形文化財彩釉磁器保持者
日本工芸会常任理事 , 一水会陶芸部運営委員
昭和8年 石川県に生まれる
金沢美術工芸大学中退後、初代祖父・父二代に師事
昭和46年 第18回日本伝統工芸展初出品作「彩釉鉢」優秀賞 NHK会長賞受賞
昭和52年 第24回全日本伝統工芸展初出展作品「耀彩鉢」最優秀賞日本工芸会総裁賞受賞
昭和53年 日本伝統工芸展特待・鑑査員に推挙
昭和61年 エジプト・カイロにて個展、以降海外展18回
昭和63年 三代八十吉を襲名
平成2年 ’90国際陶芸展グランプリ受賞
平成3年 第11回日本陶芸展推薦出品作「創生」グランプリ秩父宮賜杯受賞 外務大臣表彰
平成5年 紫綬褒章授章
平成9年 第10回MOA岡田茂吉賞大賞受賞
重要無形文化財
採釉磁器保持者(人間国宝)に認定
小松市に於ける5人目の名誉市民に推挙
平成10年 「耀彩線文壷」メトロポリタン美術館所蔵
平成12年 ローマ・日本文化会館にて個展開催
平成14年 7回にわたる「石川・文化の翼」韓国展にて終了
平成15年 東京・小松にて古希記念耀彩展開催
平成15年 九谷満月主催「徳田八十吉古希展」開催
「徳田八十吉古希展 感謝の集い」にて記念講演
平成17年 大英博物館ジャパンギャラリー入口に「耀彩壷・恒河」が展示される
九谷焼技術保存会(県無形文化財)会長に推薦される
平成19年 文化庁主催「日本のやきもの展」
国立博物館、ソアーレス・ドス・レイス国立美術館(ポルトガル)で開催
現役作家としてただ1人選ばれる「耀彩華文鉢」が展示される
大英博物館主催 日本「わざの美展」於ロンドンにて「私の歩んだ道」と題し記念講演
平成21年 各地で喜寿記念個展開催
8月26日逝去
従五位に叙位される
※文化庁、国立近代美術館、大英博物館、スミソニアン・サックラー美術館等所蔵

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古九谷
明暦~宝暦年間(1650頃~1700頃) 後藤才次郎
明川初期の戦国世相の名残を反映し、豪快で力強い骨描きと、彩色が重厚で男性的。
明の技法が導入され、幕府から密貿易の疑惑がもたれた加賀藩では、焼窯を取壊し、その後100年程、中断された。
上絵、青黄紫を用いた大胆な図柄は、大部分が、草花山水。

木米
文化年間(1805~1817) 青木木米
徳川の成熟期に、当時、名工とされた青木木米を招き、再び窯が始められた。
素地に赤色を塗り、人物を多く描き込んだ呉須赤絵写しのものが多く、いかにも和やかな感が出ている。
木米は、仁清、乾山と並び、全国三銘陶の一人。

吉田屋
文政年間(1818~1829) 豊田伝右エ門
大聖寺藩の豪商 豊田家(屋号 吉田屋)が開いた窯。
徳川泰平の文化文政時代を反映し、柔い画風が特徴。
古九谷風を最も受け継ぐ作風と言われ、青黄紫の三角を用い、花鳥・山水・小紋・草花などが、描かれている。

飯田屋
天保年間(1830~1845) 飯田八郎右エ門
漢学の影響を受け、 「 竹林の七賢人 」 等、支那の風俗模様等が、いきいきと描き出されている。
細い赤色の線が描き出す緻密画に、随所に金彩を施し、優美さを醸し出している。

永楽

慶応年間(1865~1868) 永楽和全
京都の永楽和全の影響を受けた手法。
金の上に、赤の色を器全体に塗りこめ、その上に、金で模様を描き、絢爛豪華な雰囲気。
金襴風とも呼ばれる。花鳥獣虫を、一筆書するのが特徴。

庄三

明治初年(1860~1880) 九谷庄三
西洋文化が入り、和洋折衷となった作風。
「彩色金襴手」は、その雰囲気を映し、繊細かつ絢爛豪華な花鳥人物山水が特徴。
古九谷から再興九谷までの、全ての技法を取り入れており、明治以降に、一世を風靡した。

彩釉

赤・緑・黄・紫・紺青の五彩の釉薬を、うわぐすりのように用い、器全体を塗り埋める手法。
二種類以上の釉薬を、重ねて塗ることにより、段階的に色彩の変化を楽しむことができる。優美で鮮やかな絵柄が特徴。

釉裏金彩(ゆうりきんさい)

普通の金彩が、釉薬の上に金を貼り付けるのに対して、 金粉や金箔を貼り、その上に透明な釉薬を掛けて焼き付けた絵柄。釉薬を通して金が浮き出てくるため、絵の調子が柔らかく、しっとりとした質感と、品の良い輝きがある。
金が剥がれないことも特徴。

青粒(あおちぶ)

大正時代に広まった、彩色の技法。
青粒(あおちぶ)と称する 細かい緑色の点の盛り上げを並べる、鮫皮の ような手法。
粒の大きさ、色、間隔の均一さで、緻密な技術が要求される。青粒のほかに、白粒、金粒もある。

銀彩(ぎんさい)
銀箔を貼り付けた上に、透明釉や五彩の釉彩を塗り、焼き上げた技法。
銀箔が剥がれないうえ、錆びないのが特徴。釉裏金彩と同様、絵の調子が柔らかく、抑えた質感で、上品さが漂う

染付け(そめつけ)
白地にコバルト(呉須)で絵付けをし、透明な釉薬を掛けて還元焼成した磁器の総称。
透明釉をかけて焼成します。鮮やかな藍色の映える器です。

虚空蔵窯(こくぞうがま)
土の風合いが特徴。上絵もモダンなものが多い。
由緒ある虚空蔵山の麓に開窯、虚空(大地)のように広大無辺な智徳を持つ菩薩の名前にちなんで名づけられています。ゆったりして美しい焼き物です。

大樋焼
大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯である。
江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀百万石、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶堂として仙叟(裏千家4代千宗室)を招いた際に、楽家4代一入に師事し、最高弟であった陶工・土師長左衛門が同道した。それを契機に、稀有な茶の湯の道具として発展し、綱紀公の強い意向もあり、加賀藩から手厚い保護を受け、現在に至る。
仙叟が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現、金沢市大樋町)に居を構え、窯を建てて藩の焼物御用を務め、加賀藩より地名から大樋姓を許された。
大樋焼の制作活動は明治維新後、藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、明治期動乱の茶道の衰退と重なって苦難の時期を迎えることになるが、後継の門人達、またその門人の子孫の制作活動の結果、飴色釉の特色ある稀有な焼物として全国的に知られるようになる。
金沢市橋場町に十代大樋長左衛門窯、大樋美術館がある。

大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯である。

江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀百万石、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶堂として仙叟(裏千家4代千宗室)を招いた際に、楽家4代一入に師事し、最高弟であった陶工・土師長左衛門が同道した。それを契機に、稀有な茶の湯の道具として発展し、綱紀公の強い意向もあり、加賀藩から手厚い保護を受け、現在に至る。
仙叟が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現、金沢市大樋町)に居を構え、窯を建てて藩の焼物御用を務め、加賀藩より地名から大樋姓を許された。
大樋焼の制作活動は明治維新後、藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、明治期動乱の茶道の衰退と重なって苦難の時期を迎えることになるが、後継の門人達、またその門人の子孫の制作活動の結果、飴色釉の特色ある稀有な焼物として全国的に知られるようになる。
金沢市橋場町に十代大樋長左衛門窯、大樋美術館がある。珠洲焼

珠洲大壺
(東京国立博物館蔵、新潟県妙高市関山神社貝塚出土)
珠洲焼(すずやき)は、12世紀後半頃から15世紀末頃に石川県珠洲市付近で生産された、中世の日本を代表する陶器のひとつ。古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいた。

珠洲焼(すずやき)は、12世紀後半頃から15世紀末頃に石川県珠洲市付近で生産された、中世の日本を代表する陶器のひとつ。古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいた。

加賀友禅

加賀友禅の特徴は、「加賀五彩」といわれる燕脂、藍、黄土、草、古代紫などの色を基調にして描かれる花や植物、風景など自然をモチーフにした写実的なデザインにあり、武家風の落ち着いた気品があるといわれています。

加賀友禅(かがゆうぜん)は、国指定伝統的工芸品で、江戸時代中期に加賀藩にて栄えた加賀御国染を基に京友禅の創始者といわれる絵師宮崎友禅斎が、晩年金沢の加賀藩御用紺屋棟取であった太郎田屋に身を寄せ、加賀御国染に大胆な意匠を持ち込み、確立した染色技法と、その作品をいう。加賀五彩(藍、臙脂、草、黄土、古代紫)と呼ばれる艶麗な色彩で知られ、特に紅色、紫、緑系統の色を多用する。
柄は、図案調の京友禅に対して草、花、鳥等の絵画調の物が多く、自然描写を重んじる中から「虫喰い」等独自の装飾が生まれた。「ぼかし」も京友禅以上に多用される傾向にある。金沢市内を流れる浅野川では、工程の最後の方に、余分な糊や染料を洗い流す友禅流しが見られることがある
牛首紬 牛首紬

牛首紬(うしくびつむぎ)は、主に石川県白山市白峰地区(旧白峰村)において生産される紬織物。釘を抜けるほど丈夫なことから釘抜紬(くぎぬきつむぎ)とも称される。牛首紬の特徴は、釘に引っ掛けても反対に釘が抜けてしまうといわれるほどの丈夫さにあり、別名「釘抜紬」とも呼ばれています。2匹の蚕が入っている「玉繭」から直接糸を引き出して製糸しているため、絹糸は太くて節があり、素朴な美しさをもっています。

その生産地の石川県白山市白峰(旧白峰村)が明治初期まで牛首村と称されていたことに由来する。
絹糸の原料であるカイコの繭は、通常一頭のカイコが作るものだが、まれに二頭のカイコが入っているものがあり、これを『玉繭(たままゆ)』という。玉繭は二頭の糸が内部で複雑に絡み合っているため製糸は難しく、普通はいったん真綿にしてから糸にするが、白峰の人々は先祖伝来の技でこの繭から直接糸をつむぎよこ糸とし、通常の絹糸をたて糸として織り上げる。これが牛首紬である。
玉繭の糸は何本もの繊維がからみつくため所々に節ができてしまう。この節は織物にしても残り、牛首紬の特徴となっている。
カイコのえさとなるクワの木は、天然では高木になるが、雪深い白峰では雪に押し倒されて根元から曲がって育つため、高く育たず葉を収穫しやすかったため、白峰では古くから養蚕業が盛んであった。上等な繭は生糸や羽二重にするため出荷し、残った玉繭を利用するために織り始められたものが牛首紬の始まりである。
染色は、糸の段階で草木染めする場合と、白無地のまま出荷し染められる場合がある。加賀繍 加賀繍(ぬい)

加賀繍の特徴は、模様が生地の表裏とも同じであるため糸切れなどの補修が容易であることや、肉入れ刺繍やポカシなど立体感のある技法から生まれる豪華で繊細な表現にあります。一針一針丹精する加賀繍は、金糸・銀糸などを多用しながらも気品にあふれています。
能登上布 能登上布

崇神天皇の皇女がこの土地に上布の作り方を伝えたことが起源といわれています。織幅に十文字絣を120個から140個織り出す絣合わせの正確さに定評があり、上布の最高級品とされています。
金沢和傘 金沢和傘

金沢和傘は、傘の中心部に和紙を4重に張るとともに周辺部に糸を二重・三重に張り、破損しやすい部分を補強するなど、丈夫なことが特徴です。戦後、丈夫で安価な洋傘に押されて需要は減りましたが、丈夫な金沢和傘は今も根強い人気があります。
手捺染型彫刻 手捺染型彫刻(てなっせんかたちょうこく)

友禅や小紋の柄や紋様を染めるための型紙彫刻です。薄い楮和紙を縦横に柿渋で張り合わせた紙を切り抜いてゆくのですが、その技法は半円形の小錐を使う錐彫や、正方形や星型などの文様に合わせた道具を使う道具彫りなどがあり、精級な文様を彫り上げてゆきます。
九谷焼 九谷焼

九谷焼の特徴は、さまざまな色絵装飾(上絵付)にあります。素朴で豪快な「古九谷風」、全面に赤塗りで人物などを描く「木米風」、花鳥山水等を描いた彩色金欄手で有名な「庄三風」などがあります。
輪島塗 輪島塗

輪島塗の特徴は、輪島特産の「地の粉(珪藻土の一種)」を漆に混ぜて繰り返し塗る本堅地技法や、木地のいたみやすい上縁に生漆を塗る「地縁引き」などの丁寧な手作業から生まれる堅牢さにあります。使いこむごとに美しさを増す輪島塗は、用と美を兼ね備えた漆器です。

輪島塗(わじまぬり)とは石川県輪島市で生産される漆器である。

特色
輪島塗は厚手の木地に生漆と米糊を混ぜたもので布を貼って補強し、生漆と米糊、そして焼成珪藻土を混ぜた下地を何層にも厚く施した「丈夫さ」に重きをおいて作られている漆器である。
伝統的工芸品に指定された際の通商産業省(当時)による輪島塗の要件は次のとおり(昭和50年5月10日通商産業省告示第172号)。
伝統的な技術または技法
下地塗りは、次の技術または技法によること
木地に生漆を塗付した後「着せもの漆」を塗付した麻または寒冷紗を用いて「布着せ」をすること。
生漆に米のり及び「輪島地の粉」を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返すこと。
上塗りは、精製漆を用いて「花塗」または「ろいろ塗」をすること。
加飾をする場合は、沈金または蒔絵によること。
木地造りは、次のいずれかによること。
挽き物にあっては、ろくろ台及びろくろかんなを用いて形成すること。
板物または曲げ物にあっては、「こくそ漆」を用いて成形すること。
伝統的に使用されてきた原材料
漆は天然漆とすること。
木地は、ヒバ ケヤキ カツラ もしくはホオノキ、またはこれらと同等の材質を有する用材とすること。
これらはあくまで伝統産業の振興を目的とする法令「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づく伝統的工芸品としての輪島塗の要件である。これらを満たすことで類似品と区別するための「伝統証紙」が使用できたりするが、これら要件をすべて満たしたものだけが輪島産の漆器であるわけではない。
「布着せ」は、木地に布を貼ることで、椀の縁や高台、箱ものの角など傷つきやすい所を補強するために施すものである。漆工芸における基本的な工程であるが、現在広く流通している漆器では省略されることが多く、輪島塗や越前塗、京漆器等の一部の漆器産地でつくられるものにしか見受けられない。
また、漆にフィラーを配合して作ったペースト状の下地材を何層にもわたってヘラ木で塗装していく工程を「本堅地(ほんかたじ)」といい、これも漆工芸における基本的な工程である。輪島塗ではこのフィラーに「輪島地の粉」と呼ばれる焼成珪藻土を用いるのが特徴である。 本堅地の工程では、最初は漆に数百μmの粒径のフィラーを添加し、工程を進めるごとに何段階かにわたってフィラーのサイズを細かくしていき、最終的には数十μmの粒径のものを使って仕上げる。 表面に見える赤や黒の漆はこの後に刷毛で塗装されている。
なお、通常漆工芸では檜のヘラを使って下地作業を行うが輪島のある能登地方には桧が分布していないため、代用材として同じヒノキ科のヒバ(ヒノキアスナロ)をヘラ木として用い、特に能登地方ではヒバを「アテ」と呼称していた。 能登アテは青森ヒバから分根したものであるが、現在では材木としてブランド力のある青森ヒバにならって「能登ヒバ」として市場に出ることが多くなった。 ヒバ材は桧よりも許容応力度が劣るものの、ほぼ同様の性質を持ち輪島地の粉を使った下地作業には最適とされている。
歴史
輪島での漆器の生産は古くまで遡ると考えられる。同じ能登半島の三引遺跡(七尾市)からは6800年前の漆製品が発見されている。輪島では平安時代の遺構である屋谷B遺跡で漆製品が発掘されている。
輪島塗の特色を備えたものとしては、山地を挟んで反対側にある穴水町の西川島遺跡群御館遺跡(室町時代前期)で珪藻土を下地に用いた椀が発掘されている。現存する最古の輪島塗は、室町時代の大永4年(1524年)作と伝わる輪島市河井町にある重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)旧本殿の朱塗扉といわれている。
現在のような輪島塗の技術が確立したのは江戸時代寛文年間と伝えられている。この時期にはすでに海運の利を生かして販路を拡大していた。また陸路での行商もおこなわれており、堅牢さが評判の輪島塗は日本各地で使われていた。沈金の始まりも江戸時代享保期、蒔絵は江戸時代文政期にはいってからである。
日清日露戦争で輸出が減衰したが国外の博覧会には毎回出品し、主要生産地の漆器のなかで突出した値段で取引されていたという。
関係年表
元和2年 (1616年)加賀藩は、能登に七木保護の制を布告。自由な伐採を禁じた。
寛永年間 (1624年 – 1643年) 加賀藩は、漆の木の植林を奨励。
享保年間 (1716年 – 1735年) 塗物に彫刻を施す技巧が開発。輪島沈金の始まりとなる。
文政年間 (1818年 – 1829年) 会津塗の蒔絵師安吉から蒔絵の技法を習得。
明治25年 (1892年) 目つぶしカンナが、発明される。
明治36年 (1903年) 蒸気機関を動力とした轆轤(ろくろ)が導入される。
明治45年 (1912年) ロクロの動力が電力になる。
昭和30年 (1955年) 前大峰が重要無形文化財「沈金」の保持者(いわゆる人間国宝)に認定される。
昭和42年(1967年) 石川県立輪島漆芸技術研修所完成
昭和50年(1975年) 旧通産省指定伝統的工芸品指定を受ける。
平成3年(1991年)石川県輪島漆芸美術館開館
平成19年(2007年)3月能登半島地震 震度6強の地震により大きな被害を受ける。
平成20年(2008年)7月7日北海道洞爺湖サミットのG8社交ディナーで乾杯に使用される。山中漆器 山中漆器

山中漆器の特徴は、漉櫨を使った挽物技術にあります。木地の肌に極細の筋を入れる加飾挽きは、山中漆器が最も得意とするものです。また、豪華な高蒔絵を施した茶道具、特に、棄の制作には定評があります。

二俣和紙(ふたまたわし)とは、石川県金沢市二俣町で製造される和紙のこと。養老年間(717年 – 724年)に僧の泰澄が医王山に寺坊を建立し、この時代に紙漉きが始められたのが起源といわれ1300年の歴史を持つ。文禄年間(1592年 – 1596年)金沢二俣が献上紙漉き場として、加賀藩の庇護を受けることになり発展した。主に美術工芸紙・箔打紙・加賀奉書として使用される。

金沢漆器 金沢漆器

金沢漆器は量産よりもむしろ一品物の美術工芸品といった趣が強く、調度品や茶道具が主に作られています。堅牢な塗りと高蒔絵、肉合研出蒔絵などの高度で繊細な加飾の「加賀蒔絵」として知られています。

金沢漆器(かなざわしっき)とは、石川県金沢市で生産される漆器である。

江戸時代に加賀藩は美術工芸を振興し、前田利常の時代には細工所が設立された。藩は京都から五十嵐道甫、江戸からは清水九兵衛いった名工を招聘し、多くの職人が育成された。1899年(明治32年)には金沢漆器同業組合が設立し、中国、インド、欧州への輸出が盛んとなる[2][3]。1980年(昭和55年)には、経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。
金沢漆器は、武家好みの造形に豪華な加賀蒔絵の装飾が施されているのが特長である。

珠洲焼 珠洲(すず)焼

現在の珠洲焼は、長らく途絶えていた珠洲焼を昭和51年に復活させたもので、須恵器の系統を継ぎ、粕薬を使わずに穴窯で焼き締める技法を用いています。珠洲の土は鉄分が多く、1200度で焼くと薪の灰が溶け、それが自然の粕薬となって渋い黒灰色となります。
大樋焼
大樋(おおひ)焼

大樋焼は、茶道と深く関わりながら発展してきた焼き物で、現在では茶碗、水指、花入のほか食器なども作られています。土作りから本焼きまで一貫して手作業で行われ、特徴である飴色の紬薬には雪国にふさわしい素朴で暖かい味があります。

茶の湯釜 茶の湯釜

昔のナベや釜などをつぶした「和鉄」を熔かして、外型と中型の間に流し込んで成型した後、酸化鉄で色を付けて仕上げます。30~50もの種類がありますが、その形は時代とともに変化してきています。茶道の盛んな金沢で脈々と受け継がれてきた工芸品です。
金沢箔 金沢箔

金沢箔の特徴は、金の輝きを失わせることなく1万分の4ミリ以下の厚さ、10円硬貨大のものを墨1枚の広さにまで均一に広げる職人の技術にあります。さらに気候風土や水質が製箔に適していたことで、金沢は金箔の国内生産の98%以上を占めるといわれています。
和紙 和紙

金沢市の二俣は献上紙漉き場として加賀藩の庇護を受け、加賀奉書、杉原紙、高壇紙など高級な公用紙が漉かれていました。このほか県内には金沢市の「西ノ内紙」、川北町の「雁皮紙」、輪島市の「画仙紙」などがあります。
桐工芸 桐工芸

金沢の桐工芸の特長は、蒔絵加飾にあります。木目の美しさに華麗な蒔絵を施している工芸品は全国でも数少ないものです。耐湿、耐火性に優れている桐の特性を生かした桐火鉢や花器、灰皿、菓子器などが生産されています。
檜細工 檜細工

軽くて通気性も良く丈夫な檜細工は、山仕事や農作業用の笠として発展しました。現在は、檜笠のほか網代天井やかご、花器なども作られており、素朴な民芸品として親しまれています。
加賀象嵌 加賀象嵌(ぞうがん)

象嵌とは、鉄や銅合金などの地金の表面を彫り、色彩の異なる金や銀、四分一(銀と銅の合金)などを埋め込んでいくものです。加賀象嵌の特徴は、この埋め込んだ金属が抜け落ちないように表面より奥が台形型に広くなっている「平象嵌」という技法にあります。
金沢表具 金沢表具

金沢表具は、京表具の流れをくみ、百万石文化を反映してどっしりとした渋い仕上がりが多く、寸法は金沢の町家に合わせ、京寸法より短めです。現在は金沢市を中心に古い掛け軸などの文化財の修復にも携わるなど、高度な技術を誇っています。
竹細工 竹細工

茶道や華道の隆盛と共に発展してきました。以来、生活用品も多く作られてきましたが、工業製品の台頭でそれらは減少し、現在では、網代編を主体とした高度な模様編で茶道具や花器などが作られて
います。
鶴来打刃物 鶴来打刃物

鶴来町はその名にもあらわれているように、刃物鍛治が盛んな土地柄で、農耕用から山林用、家庭用まで、生活の中に息づく刃物を作り続けてきました。現在も注文に応じて、非常に珍しくなった「野鍛治」により、クワ、カマ、ナタなどを作っています。
金沢仏壇 金沢仏壇

金沢仏壇の特徴は、上品な蒔絵の美しさにありま丸耐久性を重視した木地、木肌を生かした彫刻、加賀彫りの金具、障子の紗生地に金糸の刺繍、蒔絵に施された象牙や青貝の象嵌、金箔を多用した加飾から「蒔絵仏壇」ともいわれています。
七尾仏壇 七尾仏壇

七尾仏壇の特徴は、堅牢な作りにあります。主に能登の農家向けに受注生産されてきたので、扉は何層式にも折られる大型のものが作られ、運搬に便利な解体できる「柄組み」という技法も開発されました。

七尾仏壇(ななおぶつだん)は、石川県七尾市で生産される仏壇。

手作りによる作業が中心で、堅牢で漆塗りや金箔加工を使用した装飾が特徴

美川仏壇 美川仏壇

美川仏壇の特徴は、漆を何層にも塗り固めたものに型を用いて立体的な紋様を施す「堆黒」の技術にあります。秋田ヒバやイチョウを使った太くて丈夫な木割や錆地による堅牢な下地塗をもとに・内扉に研出などが多用されています。
七尾和ろうそく 七尾和ろうそく

安定した美しい炎が好まれる和ろうそくは、芯作りが重要です。イグサの髄を下地の和紙に巻きつけ、特殊なのりをつけた真綿で仕上げた芯はしっかりとした太さを持ち、安定した炎を作り出します。
加賀毛針 加賀毛針

加賀毛針は、原材料に野鳥の羽毛を使い、その接合部分に漆や金箔を施すなど、美しさと気品にあふれています。また、高度な技術により丈夫で機能性にも優れ、大切に使えば100尾以上の鮎があがるといわれています。
加賀竿 加賀竿

加賀竿は、全天候に対して耐久性があり、かつ軽く扱いやすくするため、若竹を高熱加工して強靭さをもたせ、さらに漆塗で補強と装飾性を加えています。このようにして長期使用にも耐えられる堅牢さをもった実用的な美術工芸品ともいえる加賀竿が出来あがります。
郷土玩具 郷土玩具

城下町金沢の郷土玩具としては、獅子舞や加賀鳶の姿の「加賀人形」、姫だるまの「加賀八幡起上り」、「米喰いねずみ」、「もちつき兎」などがあります。もともと子どもたちの玩具ですが、縁起をかついだり、誕生祝いや病気見舞いにも使われているものもあります。
琴 琴

江戸時代には武家の女性の教養の一つとして数えられていた琴は、明治以降も女性のたしなみとして城下町金沢の生活に根づいていました。金沢の琴の特徴は、蒔絵や螺鈿をふんだんに使った雅なものが多く、楽器の域を超えて芸術品や装飾品といった趣があります。
三弦 三弦

三弦は通称「三味線」と呼ばれ、邦楽や民謡、長唄には欠かせない民俗楽器として、芸能遊芸の非常に盛んな金沢にいまでも受け継がれています。今も常磐津や長唄を習う人の多い金沢では、三弦の生産が行われています。
太鼓 太鼓

石川の太鼓は音が良いことで全国に知られています。原木のケヤキやセンなどの乾燥から始める一貫作業によって作られており、特に皮は江戸時代初期から伝わる技法と霊峰白山を源とする手取川の清流によって鍛えられ、優れた耐久性と独特な音色が生み出されます。
銅鑼 銅鑼

材料は錫と銅の合金である砂張と呼ばれる合金が使われています。
鋳型に流し込んで形成し、表面をまんべんなくたたいて金属を締めた後、焼き入れ、色付けを経て完成した銅鑼は、深い余韻を残した柔らかな音色で茶事席を静めてくれます。
加賀獅子頭 加賀獅子頭

前田家藩主・利家の入城祝いの獅子舞から発展した加賀獅子頭は、八方睨みの眼光も鋭く他産地のものより大きなのが特徴で、原木には白山麓の桐が使われています。かつては、町の守護として各町内に1基、それぞれに名工の手による作品が所蔵されていました。
加賀提灯 加賀提灯

加賀提灯は、竹ヒゴを1本1本切断して骨にすることで、螺旋状に巻いたものとは異なり、伸びが多く、1本が切れても全部がはずれることがない丈夫なものになりました。現在では祭礼用や装飾用として製作されています。
加賀水引細工 加賀水引細工

水引は、元来贈り物の飾りとして主に祝事に用いられました。語源は、麻などを水に浸して皮を剥ぎ、紐としたことにあるといわれ・紙の発達と同時に美しい水引ができたものと伝えられます。松竹梅や鶴亀、宝船飾りなどに加え、近年では人形も作られています。
能登花火 能登花火

割り物と呼ばれる打ち上げ花火は、星・割薬、玉皮・導火線の4つの部分から構成されています。この中で「星」と呼ばれる火薬の塊が、光や音となって空中を飛ぶ、花火の命にあたる部分です。1つの花火にはこの星が、百個から数百個組み込まれています。

加賀七宝(かがしっぽう)

江戸時代中期、加賀藩では釘隠や引手等の金具類に盛んに七宝が施された。 その技法は、鎚起しで全体の形を作り葉脈や鳥の羽の筋を彫り窪め、そこに七宝を施すなど、 高度な金工技術を駆使した象嵌七宝が主流であった。 五代藩主前田綱紀が、将軍徳川綱吉を迎えるに当たり建立した御成御殿にて使用された釘隠し(七宝花籠釘隠、七宝鳥籠釘隠など)は、代表的な作品である。 一連の七宝作品は前田綱紀が収集分類した工芸品のコレクション百工比照の中にまとめられており、重要文化財に指定されている。 その籠に施された各種文様の毛彫り・魚子地・墨指しなどは極めて精巧なもので、 使用された釉薬は濁ったもので、透明感もほとんど無く、洗練されたものではなかったが、 全体的にはそれを補って余りある華やかな意匠を示している。 なお、天保から安政の間には、桃山時代から明治時代まで続いた平田派の七宝師春寛が加賀大聖寺に住み活躍した。

加賀人形(かがにんぎょう)とは、石川県に伝わる郷土玩具のこと。

概要
桐塑製の人形で、男児が獅子頭や纏等を持ち武芸に励む姿を模している。男児の誕生を祝い健やかな成長を願って床の間や玄関などに飾られるほか、縁起物として退職などの際の記念品とされることがある。同じ郷土玩具である加賀獅子頭、加賀八幡起き上がりなどとともに、石川県の稀少伝統的工芸品とされている。産地は、石川県金沢市である。
歴史
加賀藩の第五代藩主前田綱紀の時代に、京都から招かれた人形職人が制作した御所人形の流れを汲んでいる。加賀人形の特徴である獅子頭や纏等を持つ姿が確立されたのは大正時代という。その後、昭和に入り、大橋治三郎(初代晃山)が加賀人形を広めたとされる。初代晃山は加賀人形を工芸作品として世に広めたが、商品として本格的に販売されるようになったのは子の大橋一永(二代目晃山)の時代という。最盛期は昭和30年から40年代で、加賀人形を制作する職人は多いときには約50人いたが、2009年5月時点で6人まで減少している。
制作工程
桐の大鋸屑に麩糊を混ぜ、練って粘土を作る。粘土を木型に詰め、取り出した成型物を乾燥させる。白色の顔料である胡粉をにかわに溶かし、これを乾燥した成型物に何度も塗り重ねて素地を作る。できあがった素地を磨き、人形の表情を決める切り込みを入れ、絵の具で顔を描く。髷や頭髪を付け、加賀友禅などの着物を着せ、獅子頭や纏を持たせて仕上げる。
郵太郎
JR西日本の金沢駅のコンコースに、郵太郎と呼ばれる加賀人形の乗った郵便ポストが設置されている。獅子頭を持った男児の人形で加賀人形の特徴を持つが、陶器製である。

加賀水引
【希少伝統工芸 加賀水引細工】
加賀水引(かがみずひき)は、石川県金沢市(加賀)の希少伝統工芸。 津田水引折型が手がける立体的な折型、立体的な水引細工、美しい書など 加賀百万石らしい美しく豪華絢爛な贈答品の梱包技術を総称したものが加賀水引である。

歴史[編集]
明治時代まで結納や金封にかけられる水引結びや折型は、ほとんど平面的なものだった。 1915年(大正4年)頃、石川県金沢市の津田左右吉(加賀水引初代)が、立体的な和紙の包み方(折型)と、鶴亀や松竹梅などの立体的な水引の結び方(水引細工)を考案し、結納や金封に飾るようになった。
その後、津田左右吉の娘である津田梅(津田水引折型二代目)の代で、加賀水引として全国に知れ渡り、石川県金沢市の伝統工芸 加賀水引細工として定着した。
現在は津田左右吉の4代目である津田宏・さゆみ 5代目 津田六佑が加賀水引を継承している。

加賀水引の創生
明治後期から民間に広まり始めた小笠原流の水引折型。大正4年(1915年)頃、津田左右吉(加賀水引の創始者)はそれを勉強し、結納業を始めた。 しかし、用途別の複雑な決まり通りに折型をきっちりと端正に折り畳むのは、なかなか難しかった。 少しでも折り目が崩れたり、歪んだりすればすぐに品のないものになってしまう。 水引折型は、その清しく端正な容姿にこそ価値がある。左右吉は、熱心に折型を研究し、繰り返すうちに一つのアイディアを思いつく。
・・・平たく折り畳んでしまわず、ふっくらとしたまま折り目を付けず、それを胴のあたりでぐっと水引で引き結ぶ。 そうすることで、技術的なアラが目立たず、楽に、しかもボリュームのある華やかなフォルムが出来上がる。・・・
今でも受け継がれ使われる、いかにも加賀百万石の雰囲気を漂わせた綺麗な結納品の水引折型は、 こうした苦心の末の、いわば逆転の発想によって生まれ完成したものだった。 また、こうした立体的な折型には、必然的に、立体的な水引の結び(水引細工)の創始が伴う事となった。 今日、全国的に見る水引折型のルーツは、この時期、彼による創案の影響が色濃いのである。

金箔(きんぱく)は、金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く伸ばし、箔状態にしたもの。紀元前1200年頃にエジプトで製造が始まったと考えられている。
現在は真鍮からなる「洋金箔」も普及しており、本来の意味での金箔は「純金箔」として区別される。 以下、特に断りがない限り、純金箔について述べる。

金箔のうち、もっとも利用される四号色という規格では、金94.43%、銀4.9%、銅0.66%を、厚さ約0.0001ミリメートルに伸ばしたものである。したがって、1立方センチメートルの金から、約10平方メートルの金箔をつくることができる。こうした大きな展性により、わずかの純金を用いて広い面積にわたって上質な輝きと光沢が得られることから、表面装飾に用いられることが多く、箪笥・屏風などの家具類、襖などの建具類、漆器などの工芸品、仏像、仏壇などの美術品、金閣寺に代表される建築物の外装・内装など、多くのものに対して利用されている。また工芸技術として、金箔を漆器などに用いるための沈金・蒔絵、仏像を荘厳するための截金などが発達した。
歯学分野においては、金箔を直接歯の中に詰める直接金修復法といった治療法も存在する。
金箔製造の副産物として有名なのが、あぶらとり紙である。金地金を叩き広げる際、地金を挟むために用いられる箔打ち紙が、皮脂もよく吸収することから転用されるようになった。金箔製造に10年以上用いられた箔打紙は、「ふるや紙」とも呼ばれ、高級品としてもあつかわれる 。

九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。

歴史
古九谷

九谷焼始祖「後藤才次郎紀功碑」(左)と「古九谷窯址」(右)、加賀市山中温泉九谷町

古九谷の皿
大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている。
「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。
これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった。
東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された。
以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 – 1650年代の肥前産と考えられている。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある。
再興期
古九谷の廃窯から、約一世紀後の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。
再興期の主な窯元
括弧内は開窯時期
春日山窯(文化4年-1807年)
若杉窯(文化8年-1811年)
小野窯(文政2年-1819年)
民山窯(文政5年-1822年)
吉田屋窯(文政7年-1824年)
木崎窯(天保2年-1831年)
宮本屋窯(天保3年-1832年)
蓮代寺窯(弘化4年-1847年)
松山窯(嘉永元年-1848年)
春日山窯は京風、若杉窯は有田風、吉田屋窯は古九谷風を得意とした。春日山窯開窯以前の天明年間に、ほぼ同じ場所で越中国城端の焼物師、殿村屋和助という人物が窯を開いていた記録があるが、どのような焼物であったのかは、判っていない。
中興の祖
九谷庄三(くたにしょうざ、文化13年(1816年)-明治16年(1883年)は、寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現在の志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。
新九谷
明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子を始めとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。
また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

合鹿椀(ごうろくわん)は、石川県能登町(旧柳田村)の合鹿地方でつくられる漆器椀のこと。

特徴
床に置いた状態で、食事が出来るように、通常より高台が高い特有の形で知られる。
漆の技法は平安時代末期に出現した渋下地漆器という技法を受け継いでおり、輪島塗の特徴の一つである布着せを行っている。
歴史
成立は不明だが、文献で最も古いものは元禄7年(1694年)、現存する合鹿椀も元禄年間のものと分析されている。漆の技法は柿渋を下地として使う平安時代末期の技法を継承しているが、成立を中世までとする証拠は発見されていない。
合鹿椀は明治時代まで作られていたが、他の漆器や陶磁器に押されて、一旦は生産が途絶えていた。その後、昭和63年(1988年)より旧柳田村文化財保護審議会委員の呼び掛けによって本格的な調査が始まり、平成5年(1993年)に調査結果の報告書『合鹿椀』(発行/柳田村)がまとめられ、合鹿椀類として村の文化財に指定された。
平成21年(2009年)、珠洲市生まれの木彫作家であった大宮静時により復元された。その後、輪島塗の作家である角偉三郎も合鹿椀を創作している。

花嫁のれん(はなよめのれん)とは、日本の石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。
幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀・能登・越中の地域で行われた。平成時代に入っては石川県能登地方の観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている(第5353935号)。
これに使用されるのれんは、多くは加賀友禅で仕立てられ、上部には新婦実家の家紋が染め抜かれている。代表的な図柄に「鶴亀」が用いられる。のれんは婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り(婚家系譜に入るこを先祖へ報告)」をした後、結婚式に臨む。式から1週間、仏間の入口にそのまま掛けられ(或いは仏間内に移さたうえで衣桁に飾られ)、仏間に在するとされる婚家先祖の霊(及び現代では祝賀に訪れた近隣住民)に対し新婦実家の系譜をその家紋に依って明示し、同時に、婚家当主の立場から祖先へ婚礼事実の報告を行う。花嫁のれんは、婚礼当日(および、僅か1週間の披露期間)のためだけに個別制作すなわち新婦実家によって発注され、新婦実家から婚家へ嫁入り道具の一環として贈られる。使用期間が短いにも関わらず高価かつ非実用品であるため、現代においては(西洋のウェディングドレス同様に)母親が嫁ぐ娘へ自身の花嫁のれんを譲る例がある。

二俣和紙(ふたまたわし)とは、石川県金沢市二俣町で製造される和紙のこと。養老年間(717年 – 724年)に僧の泰澄が医王山に寺坊を建立し、この時代に紙漉きが始められたのが起源といわれ1300年の歴史を持つ。文禄年間(1592年 – 1596年)金沢二俣が献上紙漉き場として、加賀藩の庇護を受けることになり発展した。主に美術工芸紙・箔打紙・加賀奉書として使用される。

赤地友哉 あかじ-ゆうさい

1906-1984 昭和時代の漆芸家。
明治39年1月24日生まれ。生家は檜物(ひもの)師。新保幸次郎,渡辺喜三郎に髹漆(きゅうしつ)(漆塗り)をまなぶ。昭和42年「曲輪造平棗(まげわづくりひらなつめ)」で芸術選奨。49年人間国宝。昭和59年6月30日死去。78歳。石川県出身。本名は外次。代表作に「曲輪造彩漆鉢」など。

赤地友哉 あかじ-ゆうさい

1906-1984 昭和時代の漆芸家。
明治39年1月24日生まれ。生家は檜物(ひもの)師。新保幸次郎,渡辺喜三郎に髹漆(きゅうしつ)(漆塗り)をまなぶ。昭和42年「曲輪造平棗(まげわづくりひらなつめ)」で芸術選奨。49年人間国宝。昭和59年6月30日死去。78歳。石川県出身。本名は外次。代表作に「曲輪造彩漆鉢」など。

吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 – 1962年3月16日)は、彫刻家、日本芸術院会員。
石川県出身。1912年東京美術学校彫塑科卒、1918年文展特選、1919年帝展特選、1922年帝展審査員、1931年文部省の命により古代彫刻研究のため一年間仏、イタリア、北米に留学。1935年多摩美術短期大学彫刻科教授、1943年日本美術及工芸会理事、1950年日本芸術院賞受賞、日展運営会参事、1955年日本芸術院会員、1958年日展常務理事、1960年日展「辻永氏」、1961年日本彫塑家クラブ委員長。
一部の作品は故郷の石川県立美術館に所蔵、展示されている。
作品集
吉田三郎作品集 審美書院 1936
塑影 吉田三郎作品集 吉田渉 1965
吉田三郎彫刻作品集 石川県美術館 1976
彫刻家吉田三郎 石川県立美術館 2001

高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年(明治33年)8月19日 – 1987年(昭和62年)6月17日))は、日本の彫刻家、文筆家。長くパリに住み、幅広い交友関係を持った。
娘の田村和子は詩人田村隆一の元夫人。

経歴
石川県鹿島郡矢田郷村(現七尾市岩屋町)に誕生。父安之助と母敏子の間の三男。
1903年(明治36年)、父の弁護士開業で福井市に移り、1907年、同市順化小学校入学。1910年、父没。1913年、県立福井中学(現福井県立藤島高等学校)へ進み、美術・文学・哲学に熱中した。
1918年(大正7年)(18歳)、中学を卒業して東京へ移り、年長の高村光太郎、岸田劉生、岩田豊雄、中川一政、尾崎喜八、高橋元吉、片山敏彦、岩波茂雄らをつぎつぎに知る。1919年、東京外国語学校イタリア語科に入学、1921年落第、退学。このころ、制作を絵画から彫刻に転じた。1921年、沢田庚子生と結婚。
1922年(22歳)、コンディヴィの『ミケランジェロ伝』の翻訳を、岩波書店より初出版。1925年、山羊を飼いその乳の販売で自活する共産村を、仲間と下高井戸に開き、3年後に解散した。
1928年(昭和3年)、当時非合法の共産党員をかくまい、警察に留置された。このころ、武者小路実篤、草野心平、谷川徹三、古谷綱武、中原中也、小林秀雄、大岡昇平、中野重治、梅原龍三郎らをも知る。
1931年(31歳)、妻と4人の子を残して渡仏。帰国を控えた片山敏彦に帯同され、ロダン、マイヨール、ブールデルらの作品を詳しく見た。かねてから文通したロマン・ロランに招かれ、滞在中のガンジーをスケッチした。
以降27年近く、おもにパリに暮らし、シニャック、アラン、ヴィルドラック、デュアメル、ジュール・ロマン、ルオー、ジャン・コクトーらと付き合い、その塑像を制作した。かたわら、多くの記事を日本へ送り、生活の助けにした。妻に離別された。
1937年、在欧日本人向けに、謄写版刷りの日刊『日仏通信』を始めた。1938年『パリ日本美術家協会』を設立した。ドイツに占領された1940年、毎日新聞の特派員になった。
1944年(44歳)、パリ解放の直前、駐独大使大島浩の命令で、在仏日本人とともにベルリンへ移され、1945年のドイツ降伏後ソヴィエト軍に保護された。単身パリを目指し、1年半の収容所暮らしを経て、1946年暮に戻った。
1948年から、カンヌ国際映画祭日本代表を10年続けた。1949年、読売新聞嘱託となった。1950年、故国の母、没。
1957年(昭和32年)(57歳)秋、帰国し、東京に住む。以後、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師などを勤めた。
1966年(66歳)、鎌倉市稲村ヶ崎に移った。大野常と再婚した。
1967年と1970年、パリを訪れた。
1987年(昭和62年)6月17日、満87歳を目前に没。
作品のおもな展示場
福井市美術館(彫刻約80、素描約10)
安曇野市豊科近代美術館(彫刻多数)
東武東上線高坂駅付近の野外展示(彫刻32)
みしまプラザホテル(彫刻18)

坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 – 1998年(平成10年))は日本の彫刻家。本名 青嵐(せいらん)。
経歴

「丘の上のクラーク」
1920年(大正9年)11月6日、石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれた。父は油彩画家の坂寛二、祖父は日本画家の坂靄舟という画家一家で、坦道も当初は画家を目指したが、色覚異常であったため彫刻の道に進んだ。1930年(昭和5年)小学校3年の時に父の死亡により、母とともに北海道札幌市に移住した。1938年(昭和13年)北海中学校(現在の北海高等学校)卒業。1939年(昭和14年)東京美術学校彫刻科に入学、在学中の1943年(昭和18年)、新文展(のちの日展)に初入選した。同年学徒出陣により陸軍入隊、タイバンコクで終戦を迎え、10か月の捕虜生活の後日本に帰国した。
戦後は中学校の美術教諭や百貨店勤務のかたわら彫刻制作を行ない、1964年(昭和39年)「青年像」が日展で特選を受賞、1966年(昭和41年)には日展会員となり北海道を代表する彫刻家となった。1964年(昭和39年)からは北海道女子短期大学助教授(翌年教授)となった。1982年(昭和57年)には日彫展で「酔っぱらい」が西望賞を受賞し、同年札幌市民芸術賞も受賞した。1976年(昭和51年)には代表作となる「丘の上のクラーク」を製作したが、長女の回想によればクラークばかりが有名になり「クラークだけが俺の作品じゃない」と話していたという。
作家活動の一方で、北海道女子短期大学で長く教授を務め、文部大臣より短期大学教育功労賞を受け、1995年(平成7年)には同短大の名誉教授に就任した。作風として道化師などの特徴的な人物像を得意としたが、初期には世相を色濃く反映した人物像も制作していた。
1998年(平成10年)77歳で死去。死後、遺族の所有していた作品群が能登町に寄贈され、2009年(平成21年)能登町内浦庁舎に常設の坂坦道作品展示場が設けられた。

稲野 年恒(いなの としつね、安政5年〈1858年〉 – 明治40年〈1907年〉5月27日)とは、明治時代の浮世絵師、日本画家。

来歴
月岡芳年の門人。加賀国(現石川県)金沢の出身で本姓は武部、名は孝之。後に稲野家に養子に入り、画姓として稲野を使用した。嬴斎(えいさい)、胤斎、北梅、可雅賎人、可雅仙人とも号す。東京で月岡芳年に浮世絵を学んだ後、京都の幸野楳嶺に師事した。のち大阪に住む。明治15年(1882年)頃から「東京名所両国横山町通鉄道馬車往復之図」などの大錦3枚続シリーズや、「毎日新聞」において小説の挿絵を描いた。他にも、雑誌、装丁の挿絵、口絵などに新機軸を発揮、幅広く活動した。口絵では明治19年(1886年)に刊行された坪内逍遥の『当世書生気質』合本及び『未来の夢』(ともに晩青堂版)を始めに、明治24年(1891年)刊行の末広鉄腸の『黄金の花』、翌明治25年(1892年)刊行の『南海の激浪』(ともに嵩山堂版)などが挙げられる。活躍した期間も長く、多くの作家の口絵を手がけているが、その作風は浮世絵の影響を引き継いだ感じが強く、線に依存している点が特徴であった。明治26年(1893年)のシカゴ万国博覧会に毎日新聞社から派遣された。帰国後は「大阪朝日新聞」に移り、挿絵などを描いている。享年50。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘の太平寺。法名は孝之院不睦年恒居士。
大阪で芳年門下の系統を育てており、門人に北野恒富、幡恒春、宮本恒秀、赤井恒茂、恒志、磯部恒延、槙岡恒房がいる。
作品
「兄弟死を争って危難を免る」 大錦
『葛の裏葉』 口絵 山田美妙作 明治24年 嵩山堂
『いさなとり』前後 口絵 幸田露伴作 明治24年‐明治25年 嵩山堂
『天明義民伝』 口絵 井上笠園作 明治26年 駸々堂
『明治四十年の日本』前後 口絵 末広鉄腸作 明治26年 嵩山堂
『新梅鉢』 口絵 渡辺霞亭作 明治26年 積善館
『一閃影』 口絵 中村花痩作 明治27年 駸々堂
『女刺客』 口絵 宮崎三昧作 明治27年 駸々堂
『京人形』 口絵 尾崎紅葉作 明治28年 駸々堂
『台湾陣』 口絵 加藤紫芳作 明治28年 春陽堂
『水戸黄門西国巡遊記』 口絵 笑福亭松鶴作 明治28年 駸々堂
『花盗人』 口絵 石橋思案作 明治28年 駸々堂
『破れ羽織』 口絵 堺枯川作 明治29年 駸々堂
『岡村掃部』 口絵 福地桜痴作 明治29年 一二三館
『花のかおり』 口絵 渡辺霞亭作 明治29年 積善館
『根あがり松』 口絵 半井桃水作 明治33年 駸々堂
『紙子蒲団』 口絵 渡辺霞亭作 明治34年 誠進堂
参考文献
日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年
吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年
吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年
山田奈々子 『木版口絵総覧』 文生書院、2005年

小原 古邨(おはら こそん、明治10年(1877年)2月9日-昭和20年(1945年))は、明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、版画家。

来歴
本名は小原又雄。石川県金沢市に生まれた。古邨、祥邨、豊邨と号した。祖父は木版画の摺師をしていた。明治23年(1890年)代の頃、東京へ出て、花鳥画を得意にしていた鈴木華邨に師事して日本画を習得、アーネスト・フェノロサの指導のもと、まず「古邨」と称して肉筆画の花鳥画を描き、共進会に出品もしている。明治32年(1899年)から日本絵画協会主催の展覧会、共進会展に上村松園、小林古径、竹内栖鳳などと並んで作品を出品し、第7回共進会展で「寒月」が三等褒状を、第9回共進会展で「花鳥獣(四種)」が2等褒状を、第10回共進会展で「からすうり」が2等褒状を、第11回共進会展では「嵐」が2等褒状を、第12回共進会展では「花鳥百種」が2等褒状を得るといったように輝かしい活躍をした。そのようななか、順調に日本画家としての道を歩み始めた古邨に転機が訪れる。当時、東京帝国大学・東京美術学校の教授をしており、東京帝室博物館の顧問でもあったフェノロサに勧められて、主としてヨーロッパ向けの輸出用の色摺り木版画の下絵を描き始め、明治38年(1905年)から版元の松木平吉(大黒屋)と協力して「古邨」の号で木版画による花鳥画を発表した。なお、松木平吉のほか、 秋山滑稽堂、西宮与作からも花鳥画を版行している。大正元年(1912年)に「祥邨」と改号してから昭和元年(1926年)までの間は肉筆画を描いていたといわれるが、「古邨」と款した大正から昭和初期の新版画作品「蓮」(松木平吉版)、「狐」(渡辺版)があり、大黒屋との関係が明治期のみであったのか、あるいは大正以降も「古邨」の号を併用、大正期に肉筆画のみでなく版下絵も描いたのかは検討を要す。その後、版元の渡辺版画店においても花鳥版画を制作し、古邨と彫師、摺師の卓越した職人技が生み出した見事な木版画は、優れた美術作品として評価され、『TIMES』誌に作品が掲載されるなど、その作品は欧米で人気を集めている。
明治期には「古邨」の号を使用していたが、昭和元年からは渡辺版画店から「祥邨」の号を使用して、以降は版元の川口から「豊邨」と号して花鳥画及び動物画の木版下絵を発表し続けた。また、古邨も東京美術学校の教授、東京帝室博物館の顧問を務めている。昭和7年(1932年)4月、渡辺版画店主催で開催された「第三回現代創作木版画展覧会」に「金魚」、「波に千鳥」など多くの作品を出品している。この展覧会にはほかに、伊東深水、川瀬巴水、高橋松亭、伊藤孝之、上原古年、織田一磨、名取春仙、エリザベス・キースら多くの新版画の作家による木版画が展示された。昭和8年(1933年)にはワルシャワ国際版画展覧会には長谷川清、深水、巴水らの版画とともに、木版画「柘榴におうむ」を出品している。昭和20年(1945年)に東京の自宅で死去した。祥邨としての作品には後摺のものもある。
古邨による版画は写生に基づいた写実的な作品で、海外において特に高い評価を得ており、平成13年(2001年)にはアムステルダム国立美術館において、日本人作家として初めてとなる大規模な回顧展(パート1、2001年3月31日~5月13日、パート2、5月16日~7月1日)が開催され、同館所蔵の小原古邨による日本画及び木版画180点が展覧された。古邨の作品は欧米の美術館やコレクターによって多数、所蔵されている。
作品
「雁」 滑稽堂 明治後期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
「樹上の鷺」 滑稽堂 明治後期 古邨 アーサー・M・・サックラー・ギャラリー所蔵
「雛鳥」 松木平吉 明治後期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
「蓮」 松木平吉 大正から昭和初期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
「狐」 渡辺版画店 大正から昭和初期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
「雁」 渡辺版画店 昭和元年(1926年) 古邨
「鴨九羽」 渡辺版画店 祥邨 昭和6年(1931年) 東京国立近代美術館所蔵
「波に千鳥」 渡辺版画店 祥邨
「鯉」 渡辺版画店 祥邨
「芦に鷺」 渡辺版画店 祥邨
「オカメインコ」 川口版 豊邨 昭和初期

宮本 三郎(みやもと さぶろう、1905年5月23日 – 1974年10月13日)は石川県能美郡末佐美村(現・小松市)生まれの洋画家である。

略年譜
1922年 上京し川端画学校洋画部で藤島武二に師事。
1927年 「白き壺の花」で二科展に初入選
1934年 初の個展を開く。
1936年 二科会会員に推挙される。
1938年 渡欧。
1939年 第二次世界大戦の勃発に伴い帰国。
1940年 陸軍省嘱託として小磯良平等と共に中国へ従軍。
1943年 「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞受賞[1]。「海軍落下傘部隊メナド奇襲」で朝日賞受賞。
1946年 金沢美術工芸専門学校講師に就任。
1947年 熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、正宗得三郎、横井礼市と共に第二紀会を結成。
1955年 東京教育大学非常勤講師に就任。
1966年 芸術院会員となる。
1971年 金沢美術工芸大学名誉教授に就任。
1974年 死去。
油絵の他に雑誌の挿絵、新聞小説の挿絵も多く手がけ、戦時中は「山下、パーシバル両司令官会見図」など戦争画も手がける。国立霞ヶ丘陸上競技場の壁画や切手の原画などで知られ晩年には木版画の作品も手がけている。
娘・美音子の夫は英文学者の宮本陽吉。
著書・画集
『宮本三郎南方従軍画集』陸軍美術協会出版部 1943
『少年の画室』東峰書房 1951
『日本現代画家選 第11 宮本三郎』美術出版社 1954
『デッサンの技法』小磯良平,鈴木信太郎共著 美術出版社 1955
『人物の描き方』美術出版社 1959
『画集宮本三郎 花と風景と女』毎日新聞社 1973
『宮本三郎』三彩社 1974
『宮本三郎画集』河北倫明,本間正義,山田智三郎編集 朝日新聞社 1977
『現代の美人画 7 (宮本三郎)』講談社 1978
『宮本三郎素描集』毎日新聞社 1978
『宮本三郎の世界 花と裸婦と…』毎日新聞社 1978
『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 東郷青児/宮本三郎』田中穣,桑原住雄責任編集 集英社 1986
『現代日本素描全集 10 宮本三郎』宝木範義責任編集 ぎょうせい 1992
『宮本三郎の仕事 その眼差しと時代』世田谷美術館 2014
関連書籍
黒岩太一『藤田嗣治・宮本三郎画伯のモデルになった兵隊 軍靴の響き消えて45年の記録』こだま詩社 1989

高光 一也(たかみつ かずや、1907年1月4日 – 1986年11月12日)は、日本の洋画家。石川県石川郡潟津村(現在の金沢市北間町)出身。
高光大船の長男で浄土真宗大谷派専称寺前住職。

略歴
石川県立工業学校図案絵画科卒。中村研一に師事。帝展、新文展に出品。戦後は日展に出品、1955年金沢美術工芸大学教授。人物画、特に華やかな女性像を得意として、多くの作品を描いた。63年「収穫」で日展文部大臣賞受賞。71年日本芸術院賞受賞[2]、79年日本芸術院会員。1986年文化功労者。仏教に関する著作もある。
著作など
生活の微笑 教育新潮社 1962 (昭和仏教全集 第7)
高光一也自選画集 六芸書房 1970
近作画集と歎異鈔ノート 六芸書房 1974
これでよかった 私の歎異抄ノートより 法蔵館 1984
高光一也展 石川県立美術館 1984
高光一也画集 六芸書房 1984
高光一也展 女性像に美の極致を求めて 高岡市立美術館 北日本新聞社 1993
高光一也展 没後10年 石川県立美術館 1996
高光一也の画業 モダンの煌めき 生誕100年 石川県立美術館 2007

鴨居 玲(かもい れい、男性、1928年2月3日 – 1985年9月7日)は、石川県金沢市生まれの洋画家である。社会や人間の闇を描いた画家であった。下着デザイナーの鴨居羊子は姉。

略歴
1946年 金沢市立金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)に入学。宮本三郎に師事する。
1950年 二紀会同人に推挙される。
1952年 芦屋・田中千代服装学園の講師となる。
1959年 渡仏(1958年という説もある)。
1961年 帰国。二紀会を退会する。
1964年 創作に行き詰まり、南米、パリ、ローマを渡り歩く。
1965年 帰国。
1967年 二紀会同人に推挙される。
1968年 初の個展。この時、下着デザイナーの姉・鴨居羊子を通じて知り合った小説家・司馬遼太郎と親交をもつ。
1969年 昭和会賞と安井賞を受賞。
1971年 スペイン・ラ・マンチャ地方のバルデペーニャスにアトリエを構え、制作に没頭(~74年)。
1984年 金沢美術工芸大学の非常勤講師として講義。
1985年 神戸市の自宅で排ガスにより自殺。心臓の病気と、創作に行き詰まり(この時期は自画像をひたすら描いている)、たびたび自殺未遂を繰り返した末の死であった。享年57。
画中のサインは初期にはRei Kamoiであったが、1971年頃から、Rey Camoyに改めている。
出生の謎
現代人では有るが、生年月日と生地に異説があり、生年月日には1927年10月3日説が、生地には大阪府高槻市説がある。
出生届が出されていなかったため、二つ存在する戸籍謄本には「出生を認む」と書かれてあった。鴨居が病床の母・茂代(モヨ)に尋ねると、「たしか焼きいもの甘かった時バイ…」との答えが帰って来たが、どちらも焼きいもの甘い季節なので本当の生年月日は分からずじまいである。
過去には長崎県平戸市出身と書かれているものもあるが、それは後に本人が「嘘である」と訂正している。しかし両親は長崎県の人間であり、鴨居自身の本籍も長崎県である。

塗師 祥一郎(ぬし しょういちろう、1932年4月24日 – )は、日本の洋画家(浦和画家)。2010年から日洋会理事長。石川県小松市生まれ。
1953年-金沢美術工芸大学油彩専攻卒業。小絲源太郎に師事。1952年に日展初入選、翌年には光風会初入選も果たし、同会員となる。
1953年-光風会退会の後に日洋展に参加。
1971年-日展にて「村」が特選。
1976年-日展会員となる。
2003年-日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員となる。
2008年-旭日中綬章受章。
2015年 – 埼玉県立近代美術館のリニューアルオープンを記念して4月から7月まで展覧会「未来に遺したい埼玉の風景-塗師祥一郎展」が埼玉新聞社主催で開催された。

寺本 央輔(てらもと おうすけ、1976年(昭和51年)8月7日 – )は石川県金沢市出身の日本の詩人。画家(主に、油絵 アクリル 油性ペン)。詩人会「独評」同人 在籍。

略歴
1976年石川県金沢市出身。
両親の影響で中学より詩集を始める。父は2005年 散文「卯辰」で母は1992年 詩集「枇杷の葉の下」で泉鏡花金沢市民文学賞を受賞している。
1999年の絵画個展をきっかけに本格的に絵画活動を開始。絵画のみならず彫刻 貼り絵 デザイン 石膏なども手がける
個性的な個展スタイルを確立し、屋外で個展を行う「sorat」空アート お寺や寺院で行う「terat」寺アート 暗闇で個展を行い
視覚以外の感覚で個展を感じる「sense art」センスアートなどがある。また画鋲で作品を作り上げる「ピンアート」や釘、針金などを
使用した作品を得意としている。
なかでも絵画作品「サンクトペテルブルグ教会」や「シャネルを着る女」「宝石の街]などがよく知られている。
詩集
平成15年2月 「隣人は河童」
平成22年7月 「笑葉」わば

北方 心泉(きたがた しんせん、嘉永3年4月28日(1850年6月8日) – 明治38年(1905年)7月29日)は真宗大谷派の僧侶。書家としても知られる。心泉は号、俗名は蒙(きざし)。
人物
嘉永3年(1850年)4月28日、加賀国の金沢(現・石川県金沢市)の常福寺の住職の子として生まれる。明治元年(1868年)、常福寺14世住職となる。
明治10年(1877年)、東本願寺支那布教事務掛となり、留学生を引率して清の上海に赴く。清に滞在中に胡鉄梅ら清の文人と交流し、また金石文などの古代の文字を見ることで、書に影響を受ける。書の門弟に篆刻家の桑名鉄城が育った。
明治32年(1899年)、再度渡清し、南京に金陵東文学堂を設立するが、義和団の乱により帰国。延べ15年を大陸で過ごした。その後、法句寺を建立する。
明治35年(1902年)、東本願寺の改革運動に加わったことにより、住職を罷免され僧籍からも除名される(のちに除名処分は取り消される)。

松本 筑峯(まつもと ちくほう、大正7年(1918年)9月25日-平成21年(2009年)12月22日は日本の書家、現代破体書道の第一人者。石川県羽咋市に生まれ、茨城県下妻市で育つ。本名は磐祐。東洋書道芸術学会会長。松本書道会名誉会長。月刊書道誌『方円』・季刊書道誌『破体』発行。『破体書道史(中国編・日本編)』他著書多数。
世界各地で個展や破体展を開催。海外でも究極の書芸術「破体」に対しての評価は非常に高く、精力的に破体書道の普及に取り組んだ。大韓民国社会教育文化大賞・中国鎮江市文化交流貢献賞等を受賞している。

学歴
茨城県立下妻中学校(現茨城県立下妻第一高等学校)卒業
東京美術学校(現東京芸術大学)師範科卒業
来歴
美術学校在学中、書道漢字は石橋犀水、仮名は比田井小琴に師事。
一紙面上で、2つ以上の書体を組み合わせて表現するきわめて芸術性の高い書法「破体」の徹底的な研究を行なう。方勢(隷書)と円勢(金文・草書)を組み合わせて表現する書法を確立した。恩師・石橋犀水のもとを離れ、破体書の創作・普及活動を展開した。
東京都美術館において年一回東洋書芸展(公募)を開催、また中国、韓国、マカオ、パリ、ハワイ、ウィーン、アテネ、ロンドン、ブラチスラバなどで海外展を開催し、世界各国で破体書に関心をよせるまでになった。
身近な作品
映画 『千利休 本覺坊遺文』ポスター題字 東宝映画
(1989年ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞受賞作品)
映画 『人間の約束』 タイトル・邸宅内全作品 西友映画
(1986年度日本唯一カンヌ映画祭公式参加作品)
ドラマ 『横溝正史傑作サスペンス・犬神家の一族』題字 テレビ朝日・にっかつ(1990年)
碑文 茨城県下妻市多賀谷城址公園内『征きて還らざる人々』揮毫
碑文 茨城県下妻市多賀谷城址公園内『戦後50周年記念碑』揮毫
碑文 茨城県下妻市高道祖に『県営排水対策特別圃場設備事業竣工記念碑』揮毫
碑文 石川県白山市一里野 開成社『松本源祐能美郡長遺徳記』と歌碑、揮毫
建碑 中国 南京市顔真卿碑林に『飛々凌太清』
建碑 中国 鎮江市焦山に破体碑亭『仙人如愛我挙手来相招』
所蔵作品 盛岡橋本美術館内 破体3点
所蔵作品 茨城県立下妻第一高等学校為桜学習館 破体2点
所蔵作品 茨城県下妻市博物館 破体5点
所蔵作品 中国 鎮江博物館『旭日蒼松』
収蔵作品 ポーランド・トルン地域博物館「晧月千里」(2010年)
関連項目
石橋犀水- 師事(書道漢字)
比田井小琴- 師事(仮名)
小林万吾- 師事(油絵)
伊原宇三郎- 師事(油絵)
矢沢弦月- 師事(日本画)
松本子游- 弟子
河野重陽- 弟子

中村 錦平(なかむら きんぺい 1935年 – )日本の陶芸家、現代美術家、戦後を代表する革新的陶芸家。石川県金沢市出身。

人物像
東京焼 窯元、多摩美術大学名誉教授、(財)クラフト・センター・ジャパン元常務理事、国際陶芸アカデミー会員(~2001)。
1993年、個展「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」で44回芸術選奨文部大臣賞、2006年、顕著な文化活動に文化庁長官表彰。
「陶や土を核とするものの『文明/社会/時代とのやりとりに表現を与える』といったアートをめざす。この半世紀、文明が手工業 → 工業化/高度工業化 → 情報化へと著しく展開するのを見た。初期文明における手工業や陶芸も美しい。だが文明の展開とやりとりできない存在は中身を欠き形骸となる。自らの表現を元気にするのは、時代と切り結ぶことだ、と考えるに至った。」
1935年、金沢の窯元の三代目として生まれる。金沢美術工芸大学彫塑科中退。「割烹 中嶋」で魯山人の器と料理を実学の後やきものを始める。1945年(小4/10歳)の敗戦で心身ともに揺さぶられ、理想主義と批判と革新の意識をもつ。しかし世襲によって、保守的な陶芸界が展開する生地金沢の状況にぶつかる。その状況が反面教師として機能し、アプレゲール(戦後派)なやきものを生む。
1966年、銀座ソニービルとモントリオール万博日本館の「陶の壁」制作 + 個展「せめぎあう戒め度し難し」への評価で、1969年 J. D. ROCKEFFELLERⅢ FUND(現 ASIAN CULTURAL COUNCIL)の日米文化交流フェローに。帰国後、東京・青山にも窯をもつ。「伝統を拠り所とする日本陶芸 vs. 現代文明とのやりとりで成る米国の陶芸」の比較研究を基に、1973年 多摩美術大学で「現代陶芸」を開講。「80年代には多摩美術大学を卒業した人達が登場、現代陶芸の新段階に入る」。
大学教育においても学生達に同時代的手本を示したく実績を積む。「彼は、現代の社会に対して積極的に語りかける。戦後民主主義と文化国家建設の理念の、強烈な時代の申し子的世代の彼としては当然のことだが、戦後30数年を経過した現在では、まことにめずらしい貴重な存在といえる。」「彼の解答である造形は、文学性に富み、詩情に溢れている。従って、一見難解さに満ちているようだが、彼の作家としての義務感、責任感の良心的発露は時として戦闘的、ポレミークにみえるが、それこそが彼の造形の真の魅力でもある。」
個展
1969 「せめぎあう戒め 度し難し」壱番館画廊 (東京)
1976 「土⇋⇋水」インスタレーション アートコア (京都)
1981 「デコレーション・物質感希薄な空間のために」グリーン・ギャラリー (東京)
1984 「陶祠」インスタレーション ギャラリー白 (大阪)
1988 「日本趣味解題」フジヰ画廊モダーン (東京)
1993 「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」インスタレーション 石川県立美術館
1994 「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」 スパイラルガーデン(東京)・芦屋市立美術博物館 (兵庫)
2000 「東京焼・Anti-Virtual-Reality《触》と《飾》」インスタレーション ギャラリーなつか (東京)
2003 「東京焼VS.MESH WORK 中村一家 錦洋組展 -触×飾×透-」インスタレーション ギャラリーなつか (東京)
2014 「OPAM VS.東京焼」インスタレーション 竣工記念 大分県立美術館
展覧会参加[ソースを編集]
1970 「現代の陶芸 ヨーロッパと日本」京都国立近代美術館/東京国立近代美術館
1972 「現代の陶芸 アメリカと日本」京都国立近代美術館/東京国立近代美術館
1973 「現代工芸の鳥瞰展」京都国立近代美術館/東京国立近代美術館
1973 「THINKING TOUCHING DRINKING CUP 国際展」金沢・東京・大阪・札幌
1976 「現代日本陶芸展」文化庁 (豪)
1976 「日本陶磁名品展」日経・文化庁 (東独)
1978 「JAPAN TODEY」(米)
1980 「CLAY WORK」西武ホール
1982 「現代陶芸-伝統と前衛-」サントリー美術館
1982 「現代日本陶芸展」国際交流基金/イタリア巡回 (伊)
1983 「現代日本陶芸展」国際交流基金/カナダ巡回 (加)
1983 「現代日本陶芸展」スミソニアン美術館/アメリカ (米)
1984 「現代日本陶芸展」ヴィクトリア・アルバート博物館 (英)
1984 「日本デザイン展」ソ連邦文化省/モスクワ (ソ連)
1985 「現代日本陶芸展」シャトルー (仏)
1985 「PACIFIC CONNECTION」アメリカ巡回 (米)
1986 「土・イメージと形体」西武美術館
1987 「1960年代の工芸」東京国立近代美術館
1988 「手で見る美術展」西武美術館
1988 「サントリー美術館大賞展」サントリー美術館
1989 「ユーロパリア日本陶芸展」 (ベルギー)
1992 「日本の陶芸《今》100選」パリ/東京 NHK
1993 「現代の陶芸1950~1990」愛知県美術館
1994 「かたちのクロスロード」広島アジア競技大会
1995 「JAPANESE STUDIO CRAFT」VICTORIA and ALBERT MUSEUM (英)
1997 「ソウル国際陶芸ビエンナーレ97」ソウル市立美術館 (韓)
1999 「日本現代陶芸展」 MUSEUM VAN BOMMEL VAN DAM VENL (オランダ)
2001 「WORLD CERAMIC EXPOSITION KOREA」 (韓)
2003 「JAPAN KERAMIK and FOTOGRAFIE」DEICHTORHALLEN HAMBURG (独)
2004 「A SECRET HISTORY OF CLAY,GAUGUIN TO GORMLEY.」TATE GALLERY/リバプール (英)
2004 「アルス・ノーヴァー現代美術と工芸のはざまに」東京都現代美術館
2005 「TRANSFORMATION:THE LANGUAGE OF CRAFT」NATIONAL GALLERY OF AUSTRALIA (豪)
建築に関わる仕事
1966 ソニービル銀座 8Fホール「陶の壁Ⅰ」
1967 モントリオール万博 日本館「陶の壁Ⅱ」 (カナダ)
1968 北陸放送会館 ロビーおよびレストラン 「ひるや ひるるる」(金沢)
1972 金沢ニューグランドホテル ロビー「白の壁」
1974 ホテルニューオータニ タワー 6F「青の壁」
1978 東京相互銀行本店 ロビー 指名コンペ「白の壁」
1979 フコク生命本社 プラザ 滝「風袴Ⅱ」
1982 光陵女子短大 学生ホール 「光、風装ウヲミタ」(名古屋)
1984 金沢信用金庫本店「WELCOME ARCH」
1984 東芝本社ビル エントランス 滝「水のピラミッド」
1987 多摩文化複合施設ホール(パルテノン多摩)「青の壁」
1991 北國新聞会館 ロビー「皮相体皺面文装置 おいであそばせ」 (金沢)
1991 INAX本社ビル 滝「傾斜する渚」 (常滑)
1994 金沢アートホール「ひらり ひるるりや」
1995 三鷹市芸術文化センター インタースペース「漂ウ共同幻視体 三鷹二」
1996 千葉県南総文化ホール 外壁 「白く、強く、太陽、を」(館山)
1997 大阪府桃の木台公園 噴水モニュメント 指名コンペ「白く、強く、太陽、と」
1998 ボストンガーデン美川 噴水モニュメント 「おかえり、太陽、おかえり、水、ら」(石川)
2005 多摩美術大学「一年生の前期課題/出題者による展開例」(東京)
作家/作品紹介と書/展評[ソースを編集]
1967 「陶物とモダンアート」神代雄一郎 『三彩』
1968 『DECORATIVE ART YEAR BOOK』(英)
1969 「THRILLING EVENT」展評 J.BYRD 『ART INTERNATIONAL』 11月号 (米)
1969 『芸術新潮』 9月号 個展「せめぎあう戒め 度し難し」
1969 「万能性と未知数にとりかこまれ、壱番館の展示場は息せききっていた」展評 佐藤潤四郎 『窯業協会誌』 9月号
1970 『CRAFT HORIZON』 5月号 (米) 個展「せめぎあう戒め 度し難し」
1971 『DECORATIVE ART YEAR BOOK』 (英)
1973 「中村錦平の造形」『SD』 2月号
1973 特集「中村錦平の世界」聞き手 乾由明 『みずゑ』
1974 『NEW CERAMICS』STUDIO VISTA社 (英)
1977 『現代の陶芸』 第16巻(この作家ほど陶芸を現実の社会と個人のイマジネーションとのかかわりのなかで、幅広く、柔軟に考えている芸術家は、そんなに多くはないだろう。つねに文明の文脈においてとらえようとしている)乾由明 講談社
1979 「陶土 – 中村錦平 このデカダンの情念」海上雅臣 『銀花』 秋号
1979 『現代日本の美術』 第16巻 小学館
1981 全集 『日本の庭園 第7巻 講談社
1981 『CERIGRAFIA CERAMICA』 (伊)
1982 「美の世界」日本テレビ 30分
1982 特集「現代陶芸 ベスト10」(評論家10名に現代陶芸を担う10名の作家を求めた – 但し欠かせない戦後活躍の物故者も諾。鈴木治、加茂田章二、八木一夫、三輪龍作、中村錦平、石黒宗磨、岡部領男、能倉順吉、鯉江良二、富本憲吉、藤本能道、山田光)『芸術新潮』 5月号
1983 特集「やきものの美を拡げる 中村錦平の陶芸」『炎芸術』3
Ⅰ「中村錦平の創作 現代陶芸への新たな示唆」乾由明、
Ⅱ「今日の環境に挑む 中村錦平」小川正隆
Ⅲ「状況の変革、それを制作の姿勢に」中村錦平
1984 『現代日本の陶芸』 第14巻 福永繁樹 講談社
1984 「招待されて棄てられて」『芸術新潮』 6月号(第二回全日本伝統工芸選抜作家展(毎日新聞社主催)に選抜されながら伝統的でないと展示を拒否された。拒否された中村氏と審査委員長の松田権六氏との応酬と編集者の論評。)以後同展は中止となった。
1988 「伝統への愛憎の”はざま”に立つ 個展日本趣味解題」展評 虻川宏倫 『朝日新聞』 10月13日
1989 「茶碗考」(硬化し概念と化したうつわ達。腰抜け茶碗、腑抜け茶碗。現状に満足のしたり顔)と評した後、(しかし中村錦平氏のは毒でも塗りたくったような、危険を犯して飲まねばならなぬような、使いこなすにはすさまじい気迫が必要 -略-)橋本真之 『かたち』 No.11
1990 新人国記 安江良介・中村錦平 『朝日新聞』 9月11日
1991 「東京焼の回路」(東京焼は、従来の西洋近代の美術・工芸観では割り切れない日本のものづくり論として、増殖をつづけている。)金子賢治 『なごみ』 1,2月号
1991 『昭和の美術』 第16巻 金子賢治・畠山耕造(中村は金沢人としての自らの伝統性とアメリカ陶芸によって見開かれた現代への関心を、自らの生活観を凝視しつつ連結しようとしてきた。日本趣味解題はその大きな成果であり、日本人にまつわる装飾性、趣味性、そしてやきものの意味とそれを構成する自己の素材の関係が、くまなく語られている。だからそれは自己の作品でもあり他者の「解題」であるという複雑な様相を呈している。)金子賢治 毎日新聞社
1991 『昭和の文化遺産 工芸(特)』畠山耕造 ぎょうせい
1991 工房探房「東京焼を創る」NHKテレビ 30分
1992 新・美をつくる「現代を焼く 東京焼」テレビ東京 30分
1993 『INTERNATIONAL CRAFTS』「K. NAKAMURA IS ONE OF JAPAN’S MOST INFLUENTIAL CERAMIC ARTIST」 M. MARGETTS/THAMES and HUDSON (英)
1994 「挑発する混沌の『廃墟』 個展東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」展評(作者はごった煮で、生命感あふれながら解体し廃墟化する東京=日本の予兆を定着。東京・青山の地下室の電気窯で焼く。だから東京焼だが、東京を焼いているともいえる。その東京焼展を昨十一月に出身地金沢で開いた。伝統偏重の地方には、現代の混沌状況をぶつけ、東京には廃墟化警報を鳴らす。二重、三重の挑発者だ。)(三)『朝日新聞』 1月11日
1994 「メタセラミックスの解題」(僕だけではないが、あのエネルギーと表出力の強さを今展でまざまざと思い知らされた。)建畠晢 x 中村錦平 『炎芸術』 38
1994 「パワフルな前衛精神 東京焼・中村錦平展」展評 宝玉正彦 『日本経済新聞』 1月14日
1994 「東京焼 中村錦平展 芦屋市立美術博物館」(異風、異装で京のちまたをかっぽしたかぶき者の精神で陶芸に新しい生命を吹き込もうとする試み。)田原由紀雄 『毎日新聞』 2月17日
1994 「エネルギッシュな地方発信ですね 94年度芸術選奨文部大臣賞」ひと欄 田島和生 『朝日新聞』 3月15日
1994 「前衛的な陶芸で伝統に一石・殻破れぬ故郷に愛憎相半ば 芸術選奨文部大臣賞」交差点欄(ほ)『日本経済新聞』 3月27日
1995 『日本の陶磁 現代編』 第7巻(この作家が問い続けているのは、「現代において陶芸とは何か」というただ一つの問題だ。)乾由明 中央公論社
1997 『JAPANESE STUDIO CRAFTS』「THE FINAL WORK TO BE DISCUSSED IN THIS CHAPTER A SCULPTURE BY NAKAMURA KINPEI」R. FAULKNER -TRADITION and THE AVANT GARDE/LAURENCE KING (英)
1997 土曜美の朝「東京焼で現代を焼く」NHKテレビ 30分
2000 「東京焼 Anti-Virtual-Reality 蝕と飾」展評(水と粘土の、エロティックな息づかい。/気宇壮大な意気込みが、地声で伝え合ってくる。/中村の手になると、あらゆる生き物や事物が、焼き物のなかでせめぎあい、ひしめき合う。)新見隆『美術手帖』 10月号
2003 「対論 現代と伝統工芸」徳田正彦 x 中村錦平 『朝日新聞』 10月7・9日
2005 「不穏な贈りもの」書評 「東京焼 自作自論」(メッセージは多岐にわたるが、それらはすべて鋭い批判精神から発せられている。ことごとく陶による制作の実践に裏付けられている。)(生きられたメッセージを思想と呼ぶならば、彼を陶の思想家と呼んでも過言ではない。)北澤憲昭 『美術手帖』 11月
2006 「中村錦平・攻めるやきもの」アート探求 宝玉正彦 『日本経済新聞』 7月8日
2010 「現代の陶工 東京発 中村錦平さんに聞く ネット文明の工芸追求」宝玉正彦 『日本経済新聞』 11月13日
( )内は本文からの引用。1984「招待されてー」の項のみ本文の要約。
意見発表[ソースを編集]
1967 「九谷に反逆する」『芸術新潮』 3月号
1969 「やきもの その閉鎖性」『デザイン』4月号
1970 「何かがいいたくて」『芸術新潮』 5月号
1970 「VITALITY & TRADITION」『CRAFT HORIZON』 5月号 (米)
1972 「変身と不惑」東京国立近代美術館 『現代の眼』 1月号
1974 『NEW CERAMICS』 STUDIO VISTA社 共著 (英)
1982 『やきもの 火と土の造形』美術出版社 共著
1988 「いま、魯山人をどう切るか」京都国立近代美術館 『視る』 4月号
1988 「伝統拘泥事情」INAX 『燎』 10月号
1989 「桃山に敗北? – サントリー美術館大賞展批評」など7編 『朝日新聞』仕事の周辺 1月17~26日
1994 「東京焼はメタセラミックスで現在をさぐる」『国立国際美術館月報』 6月号
1995 「現代陶芸のあけぼの十選」(ルーチョ・フォンタナ、イサム・ノグチ、ロバート・アーネソン、ニーノ・カルーソ、ピーター・ヴォーカス、バイオラ・フライ、ケネス・プライス、河井寛次郎、八木一夫、熊倉順吉)『日本経済新聞』 5月8~22日
1997 「現代はクラフトを潰す」『現代デザイン辞典』 平凡社
1998 「桃山、前衛ヲ喫ス」『なごみ』 4月号
1999 「東京焼」国際陶芸ミレニアム大会 7月 (オランダ)
2000 「東京焼」日仏円卓会議(仏国立高等研究院) 10月
2001 「戦後日本の彫刻と陶造形」国際陶芸シンポジウム (韓)
2002 「東京焼」佛山陶瓷博覧会 (中国)
2003 「観念と素材」OSLO INTERNATIONAL SYMPOSIUM (ノルウェー)
2004 「モダニズムは《模様》を絶やす」『多摩美術大学文様研究室・論文集』
2004 「金沢21世紀美術館への期待、発信型文化へ転換と模索を」『北国新聞』 12月22・29日
2007 「何故に、東京焼」国際日本文化研究センター 共同研究員研究発表[6]
2007 「攻めと守りの両論があってこそ、金沢の文化は活力を生む」『ららら金沢』テレビ金沢 夏号
2011 「20世紀後半 現代陶芸の50年 ‐ ナラティブ/自分史/回顧/展望」『多摩美術大学研究紀要』
2012 「工芸は物から事へ」(工芸未来派展・金沢21世紀美術館 批評)『北国新聞』 8月16・21日
2012 「私の仕事/物的世界像から事的世界観」台湾国際陶芸ビエンナーレ (台湾)
2012 「極東の島/陶芸文化の展開」モンゴル文化芸術大学(モンゴル)
2014 「OPAM誕生祭に寄せて/時代や社会、文明とやりとり」『大分合同新聞』 11月24日
展覧会企画
1973 THINKING TOUCHING DRINKING CUP 国際展(11ヶ国130名)北海道立近代美術館収蔵
1982 ART AND/OR CRAFT:U.S.A. & JAPAN 飾るの現在(日米50名)
2011 中村錦平プロデュース ねんど/やきもの劇場 5人のホープといしかわの子どもたち(6回、387名)
ARTIST IN RESIDENCEと国際審査員
1975 THE FIRST BRITISH CERAMIC SYMPOSIUM (英)
1985 ATELIER EXPERIMENTAL DE RECHERCH ET DE CREATION AT MANUFACTURE NATIONAL DE SEVRES (仏)
1991 EUROPEAN CERAMIC WORK CENTER (オランダ)
2001 THE FIRST WORLD CERAMIC EXPOSITION KOREA (韓)
2012 2012 TAIWAN CERAMICS BIENNALE (台湾)

キヌコヤマベ・クラフト(Kinuko Y. Craft、1940年 – )は日本生まれのイラストレーター、現代美術家。石川県出身。
レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエル前派などに影響を受けた幻想的な作風のイラストレーションで、主にアメリカにて活躍。世界的な影響力を持つ数少ない日本人女性イラストレーターの一人。

経歴
1962年、金沢美術工芸大学を卒業。1964年、渡米しシカゴ美術館附属美術大学で学ぶ。以降現在に至るまで制作拠点をアメリカに置いている。
1970年代、パトリシア・A・マキリップやタニス・リーらによるファンタジー小説や絵本の表紙を数多く手がけ注目を集める。
その後さらに活動の幅を広げ、TIME・ニューズウィーク・ナショナルジオグラフィックなどメジャー雑誌の表紙を担当して人気を博した。
1990年代中頃以降、絵本やファンタジー小説の表紙、ポスターデザインを専門的に手がける。
主な展覧会
2006年4月4日〜5月14日 幻想画の世界“春の夜の夢”展 金沢21世紀美術館
2008年5月24日〜10月26日 The Power of Place コーニッシュ・コロニー美術館

十代 大樋 長左衛門(じゅうだい おおひ ちょうざえもん、1927年(昭和2年)10月28日 – )は、金沢市出身の陶芸家で、大樋焼の本家十代当主。日展・日本現代工芸美術展・その他の個展などで大樋焼にとらわれない自由なかたちでの発表を行う際には大樋 年朗(おおひ としろう)を名乗る。2016年(平成28年)には「長左衛門」の名跡を長男・大樋年雄に譲って、以後は大樋 陶冶斎(おおひ とうやさい)を名乗る。本名は奈良 年郞(なら としろう)。文化勲章受章者。

経歴
1927年 – 九代大樋長左衛門の長男として生まれる
1949年 – 旧制東京美術学校(現東京藝術大学)工芸科卒業
1950年 -「日展」初入選
1956年 -「日展」北斗賞
1957年 -「日展」特選・北斗賞
1958年 – 日本陶磁協会賞
1961年 -「日展」特選・北斗賞
1961年 -「ベルリン日本工芸展」招待
1967年 – 史上最年少の39歳で「日展」審査員を務める(以後1972、1976、1988、1997、2001、2004の各年にも再任)
1968年 – 北国文化賞
1973年 -「中日国際陶芸展」評議員
1976年 – 金沢市文化賞
1978年 – 金沢市工芸協会会長
1980年 – 現代工芸美術家協会理事
1982年 – 第14回「日展」文部大臣賞(「歩いた道」花器、東京国立近代美術館収蔵)
1984年 – ボストン大学で基調講演
1985年 – 日本芸術院賞[1](「峙つ」花三島飾壺、日本芸術院会館収蔵)
1986年 – 中日文化賞
1987年 – 十代大樋長左衛門を襲名
1988年 – 石川県陶磁協会会長、金沢大学教授
1989年 – 金沢卯辰山工芸工房工房長
1991年 -「大樋長左衛門・加山又造・勅使河原宏 三人展」
1992年 -「日本の陶芸『今』100選展」(NHK・フランス政府共催)
1992年 – 第7回「国民文化祭石川92 土と炎の芸術祭陶芸展」審査員
1995年 – 日本陶磁協会理事
1995年 -「現代日本陶磁の秀作アジア巡回展」招待出品(中国・タイ・マレーシア・インドネシア)
1997年 – ロチェスター工科大学より名誉博士号
1997年 – 石川県美術文化協会理事長
1997年 – 現代工芸美術家協会理事長
1997年 -「世界工芸都市会議 金沢97」開催委員会会長
1999年 – 日本芸術院会員
2000年 – 金沢学院大学美術文化学部学部長・教授
2001年 – 第40回記念「現代工芸美術展」審査主任
2001年 – 日展常務理事審査員
2001年 – 第16回「日本陶芸展」招待出品
2001年 -「中華民国国際陶芸展」招待出品(台湾)
2001年 -「RAKU国際会議」記念基調講演(韓国)
2003年 – 第1回茶道文化振興賞
2004年 – 日本陶磁協会特別記念功労賞
2004年 – 第36回「日展」審査主任
2004年 – 文化功労者
2005年 – 金沢市名誉市民
2006年 – 金沢学院大学副学長
2008年 -「日展」顧問
2009年 -「陶冶斎拝命記念個展」(全国巡回)
2010年 -「金沢世界工芸トリエンナーレ」実行委員長
2011年 – 第50回記念「日本現代工芸美術展」審査主任
2011年 – 東日本大震災復興チャリティー展「Craft for the people-工芸はひとびとのために」実行委員長
2011年 -「作陶六十年記念個展」(全国巡回)
2011年 – 文化勲章
2012年 – 石川県名誉県民
2012年 – 台湾国立台南芸術大学より名誉博士号
2012年 – 天皇皇后両陛下より誕生日宴会の儀に招待
2013年 – 第2回「金沢世界工芸トリエンナーレ」招待出品
2015年 – 北陸新幹線金沢駅舎に「日月の煌き」を製作
2016年 – 大樋陶冶斎を襲名
主な作品所蔵先[編集]
宮内庁
総理大臣官邸
日本芸術院会館
東京国立近代美術館
京都国立近代美術館
東京都美術館
東京藝術大学美術館
東京都庁
大阪市役所
石川県庁
石川県立美術館
金沢市役所
金沢21世紀美術館
金沢大学
金沢美術工芸大学
金沢学院大学
大樋美術館
メトロポリタンミュージアム(米国)
ルーブル美術館(フランス)
カウンティーミュージアム(米国)
ハーバード大学フォグミュージアム(米国)
メモリアルアートギャラリー(米国)
ゲント市立美術館(ベルギー)
ボストン大学(米国)
ロチェスター工科大学(米国)
ナンシー市(米国)
著書
1977年 -『楽焼きの技法』(雄山閣)
1981年 -『茶のやきもの~中国朝鮮~』(淡交社)
1982年 -『百陶対話』(北國出版社)
1986年 -『大樋年朗作品集』(講談社)
1987年 -『茶陶 大樋』(淡交社)
1990年 -『百椀百趣』(主婦の友社 )
2001年 -『大樋長左衛門の陶芸』(淡交社]])
2009年 -『陶道無今昔』(北國新聞社)

浅蔵 五十吉(あさくら いそきち、1913年2月26日 – 1998年4月9日)は石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれの陶芸家である。本名は与作(よさく)。
初代徳田八十吉、北出塔次郎等に師事。
1981年、日本芸術院賞受賞。1984年に日本芸術院会員、1992年に文化功労者、1996年に九谷焼作家として初めてとなる文化勲章を受章した。 娘は、同じ九谷焼作家である浅蔵 一華。
1993年、故郷の寺井町に「浅蔵五十吉美術館」が開館した。設計は池原義郎。

徳田 八十吉(とくだ やそきち)は九谷焼の陶工の名前である。

初代
初代徳田八十吉(1873年11月20日 – 1956年2月20日)は、吉田屋窯風の作風を得意とした。号は鬼仏。指導者として浅蔵五十吉、二代目、三代目徳田八十吉等を育てる。
二代目
二代目徳田八十吉(1907年11月1日 – 1997年9月8日)は、1923年に初代の養子となり師事する。1956年、二代目徳田八十吉を襲名。九谷焼の近代化を推進した[1]。1988年、八十吉の名を長男に譲り百々吉を名乗る。初期の号は魁星。
三代目
三代目徳田八十吉(1933年9月14日 – 2009年8月26日)は、金沢美術工芸大学短期大学工芸科陶磁専攻中退。初代、二代目等に師事。1988年に三代目を襲名。1991年には第11回日本陶芸展で、大賞・秩父宮賜杯を受賞した。1997年6月6日、重要無形文化財「彩釉磁器」の保持者(人間国宝)に認定される。釉薬で色彩を調整した鮮やかな群青色に強い個性がある。海外にも多くの作品を発表して高い評価を得た。また、古九谷の学術研究にも尽力した。初名は正彦。

四代目徳田八十吉(1961年 – )は青山学院女子短期大学卒業。三代目徳田八十吉の長女。三代目の死去を受けて翌2010年襲名。初名は順子。

吉田 美統(よした みのり 1932年7月7日 – )は日本の陶芸家。2001年に人間国宝に認定された。本名は吉田 稔。
略歴
石川県小松市出身。生家も作陶を生業としており、九谷焼独特の赤絵金襴手(きんらんで)を継承していた。美統も高校在学中から陶芸技法を学び始め、卒業後1951年に家業である錦山窯の三代目となり、九谷の伝統的な絵付け等の技法を習得。1962年には武蔵野美術短期大学の特修生として工芸デザインを学んでいる。釉裏金彩技法を用いた加藤土師萌の作品に出会ったことをきっかけに、自らの作陶にもその技術を取り入れる事を決意する。
九谷伝統の色絵具をかけた素地を本焼きして地色とし、その上に二種類の金箔を文様に切り取ったものを載せて焼き付け、更に仕上げとして全面に透明な釉薬をかけて焼き仕上げる。その1つ1つの行程に於いて独自の研究を為し技術の洗練度を高めた。
1970年、日本万国博覧会に石川県の代表として「百人一首大花瓶」を出品。1974年に日本伝統工芸展に入選後、同展では高松宮記念賞(1992年)、日本陶磁協会賞(1995年)、日本工芸会保持者賞(2000年)を受賞。1979年には釉裏金彩鉢が外務省買上作品に選ばれるなど評価が高まってゆく。釉裏金彩の第一人者として2001年7月12日に重要無形文化財保持者に認定され、同年紫綬褒章を受章した。
2006年現在、財団法人石川県美術文化協会理事を務めている。

大樋 年雄(十一代 大樋長左衛門)(おおひ としお、1958年(昭和33年)6月8日 – )は、石川県出身の大樋焼の陶芸家、デザイナー。
十代大樋長左衛門の長男。2016年1月、十一代 大樋長左衛門を襲名。

役職
ロチェスター工科大学客員教授、台湾国立台南芸術大学客員教授、金沢大学客員教授
東京藝術大学非常勤講師、金沢美術工芸大学非常勤講師
国際陶芸アカデミー(IAC)会員
日展会員/審査員、日本現代工芸美術家協会理事/審査員
経済産業省産地プロデューサー、エンジン01文化戦略会議会員、日本文化デザインフォーラム会員
石川県美術文化協会 審査員/常任評議員、金沢市工芸協会 副理事長/審査員、金沢卯辰山工芸工房講師
北陸放送番組審議員、茶道裏千家淡交会巡回講師
北京Season Pierギャラリー美術顧問、北京XYZギャラリー美術顧問
石川県観光特使
経歴
1958年 十代大樋長左衛門の長男として金沢市に生まれる。
1984年 ボストン大学大学院修士課程修了
2016年 十一代大樋長左衛門 襲名
受賞
1995年 北の菓子器展(六花亭・北海道新聞社主催)「大賞」受賞
1997年 第53回現代美術展「美術文化大賞」受賞
1997年 金沢店づくり大賞 受賞(大樋美術館広坂ギャラリー)
1999年 第46回日本伝統工芸展入選(過去9回)
2000年 第39回日本現代工芸美術展「現代工芸大賞」受賞(2002年 再受賞)
2002年 石川県インテリアデザイン賞受賞(箔巧館ギャラリー)
2002年 第34回日展特選受賞(2005年 第37回日展 再受賞)
2002年 金沢市文化活動賞受賞
2003年 第27回全国伝統的工芸品公募展「中小企業庁長官賞」受賞
2004年 第43回日本現代工芸美術展「本会員賞」受賞
2004年 グッドデザイン賞受賞
2008年 第47回日本現代工芸美術展「東京都知事賞」受賞
2009年 第41回日展「会員賞」受賞
2011年 第1回景徳鎮世界陶磁器公募展覧会 入賞
2013年 第7回国際陶芸ビエンナーレ招待作家(韓国利川陶芸美術館)
2015年 第54回日本現代工芸美術展「内閣総理大臣賞」受賞
主な 陶壁/デザイン/空間プロデュース
1987年 Y邸(羽咋市)
1988年 カーニープレイス金沢第二ビル
1991年 読売新聞会館
1993年 T邸(世田谷区)
1994年 ホテル百万石(加賀市)
1995年 金沢市立泉野図書館
1999年 トヨタレンタリース石川本社ロビー
2001年 自邸「土夢居」
2001年 加賀屋銀座店
2002年 箔巧館
2003年 ブンゴヤビル(大分市)
2004年 アイウェア「TOSHIO OHI」(グッドデザイン賞受賞)
2006年 瑠璃光(加賀市)
2007年 ネッツトヨタ石川 杜の里
2008年 家具「GARDE」(ミラノサローネ招待出品)
2009年 日本政府主催 アジア太平洋環境開発フォーラム晩餐会
2010年 I邸(名古屋市)
2011年 ネッツトヨタ石川
2011年 石川トヨタ金沢東
2011年 石川トヨタ野々市
2011年 「四季芳土」磁器デザイン(中国)
2013年 ネッツトヨタ松任
2013年 石川トヨタ小松
2015年 石川トヨタ金沢西
2015年 石川トヨタ七尾
主なコレクション
カウンティー美術館/エバソン美術館/ブラクトン美術館/ホノルルアカデミーオブアート(以上 アメリカ)
セーブル美術館(フランス)
アリアーナ美術館(スイス)
ゲントデザイン美術館(ベルギー)
台北市立美術館(台湾)
ロックフェラーオフィス、モンデールオフィス(アメリカ)
ブラジル日本文化協会/ブラジル日本文化福祉協会(ブラジル)
ボストン大学/MIT/ロチェスター工科大学/ボストン市長室/ポーツマス市長室(以上 アメリカ)
ナンシー市(フランス)
ペニンシュラホテル(香港)
ビジュアルアートセンター/ソウル大学(韓国)
景徳鎮陶磁館(中国)
国際交流基金
裏千家茶道資料館/伊勢神宮内宮 神楽殿/参天製薬/玉川大学/石川県/金沢市/金沢市立中村記念美術館/北國新聞社/北陸放送/金沢大学/金沢学院大学/金沢東警察署/金沢日航ホテル/北國銀行/清水建設/金沢21世紀美術館

松田 権六(まつだ ごんろく、1896年(明治29年)4月20日 – 1986年(昭和61年)6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。

概要
石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科を経て1943年(昭和17年) 東京美術学校教授に就任、以後36年間そこで教鞭を取る。1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。漆工芸史に名を残す名匠として、「漆聖」とも称えられた。
経歴
1896年(明治29年)現・石川県金沢市大桑町の農家に生まれる。
1903年(明治36年)(7歳)兄孝作(仏壇職人)について蒔絵漆芸の習得をはじめる。
1914年(大正3年)(18歳)3月、石川県立工業学校卒業。4月、東京美術学校漆工科入学。
1919年(大正8年)(23歳)3月、東京美術学校漆工科卒業。卒業後、帝国陸軍第九師団歩兵第七連隊第十二中隊へ入隊。
1921年(大正10年)(25歳)3月、陸軍を除隊。4月上旬より東洋文庫において朝鮮楽浪遺跡の出土漆遺品の修理を始める。
1925年(大正14年)(29歳)この年、六角紫水教授らの推薦で株式会社並木製作所に入社。万年筆や喫煙具関係などの漆工加飾品を手がける。
1926年(大正15年)(30歳)12月、金沢で沢田文子と結婚。
1927年(昭和2年)(31歳)9月、並木製作所を退職、顧問となる。東京美術学校助教授就任。
1931年(昭和6年)(35歳)1月、帝国議会議事堂御便殿(現、御休所)漆工事を依嘱された東京美術学校の命で監督となる。御便殿のほか、皇族室、議長室の漆芸装飾を行う。
1943年(昭和18年)(47歳)5月、東京美術学校教授就任。
1944年(昭和19年)(48歳)8月、「蓬莱之棚」完成。
1945年(昭和20年)(49歳)6月、帝国陸軍近衛第二師団第三連隊へ入隊するが、終戦により9月に除隊。
1947年(昭和22年)(51歳)4月、帝国美術院(8月に日本芸術院と改称)会員となる。
1955年(昭和30年)(59歳)2月、文化財保護委員会より重要無形文化財「蒔絵」保持者(人間国宝)の認定を受ける。6月、社団法人日本工芸会設立許可、理事となる(8月に発会式)。
1958年(昭和33年)(62歳)4月、日展退会。
1962年(昭和37年)(66歳)6月、日本工芸会理事長となる。
1963年(昭和38年)(67歳)11月、文化功労者顕彰。
1964年(昭和39年)(68歳)11月、著書「うるしの話」(岩波新書)刊行。
1966年(昭和41年)(70歳)5月、日本工芸会理事長を辞し、理事となる。9月、毎日新聞のコラム「漆芸十話」の連載を開始。
1967年(昭和42年)(71歳)4月、設立に尽力した輪島市漆芸技術研修所(現、石川県立輪島漆芸技術研修所)が開講、その講師となる。勲三等旭日中綬章受章。
1974年(昭和49年)(78歳)4月、勲二等瑞宝章受章。
1976年(昭和51年)(80歳)11月、文化勲章受章。
1978年(昭和53年)(83歳)10月、金沢市名誉市民となる。
1983年(昭和58年)(86歳)輪島市名誉市民となる。
1986年(昭和61年)(90歳)6月15日、心不全のため死去。葬儀は19日、日本工芸会葬(委員長・細川護貞)として東京・吉祥寺で行われた。
著書ほか
『時代椀大観』 羽野禎三 共編、寳雲舎、1939年、複製版、文化出版局、1972年
『うるしの話』 岩波新書、1964年、文庫版、岩波文庫、大場松魚 解説、2001年
『蒔繪 松田権六』 毎日新聞社、1973年
『図案日誌』 綜合工房、1977年
『松田権六作品集』 朝日新聞社、1979年
『うるしのつや』 日本経済新聞社、1981年
関連項目
五十嵐派
尾形光琳
六角紫水
大場松魚
金沢ふるさと偉人館 – 金沢市が設置する文化施設。金沢ゆかりの偉人として紹介されている。

寺井 直次(てらい なおじ、1912年(大正元年)12月1日 – 1998年(平成10年)3月21日)は、蒔絵で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)。石川県金沢市出身。
業績
卵殻の並べ方でぼかし、量感や遠近感などの複雑な表現を可能にしたほか、付着させる漆に工夫を凝らした。また、アルミニウムを電解処理し素地を作る金胎漆器の新方式も開拓した。この手法により強靭さが増し、応用範囲を格段に広げるなど、漆の技法を開拓した。
略歴
1912年(大正元年) – 金物屋も営む鍛冶職の家に生まれる。
小学校6年生の時に漆芸に興味を抱き、石川県立工業学校(現:石川県立工業高等学校)漆工科描金部を経て、東京美術学校工芸科漆工部で、六角紫水、松田権六、山崎覚太郎、等に師事。
1935年(昭和10年) – 卒業後、理化学研究所でアルミニウムを用いた金胎漆器を研究。
1937年(昭和12年) – 理化学研究所静岡工場へ工芸部長として赴任する。
1945年(昭和20年) – 静岡で空襲に逢い、焼け出されて郷里金沢へ帰る。臨時召集を受けて入隊する。終戦後退職し、金沢で作家活動を開始。
1948年(昭和23年) – 第4回『日展』で「鷺小屏風」が特選となる。
1950年(昭和25年) – 母校:石川県立工業高等学校漆工科主任教諭となる。
1955年(昭和30年) – 第11回日展で「雷鳥の図箱」が北斗賞受賞。同年、第2回日本伝統工芸展初入選(以後1997年(平成9年)の第44回展まで連続入選)。
1956年(昭和31年) – 第12回日展で「極光二曲屏風」が特選となる。
1957年(昭和32年) – 日展会員となる。
1960年(昭和35年) – 日本工芸会理事となる。
1968年(昭和43年) – 石川県立工業高等学校教頭となる。同年、北国文化賞を受賞する。
1970年(昭和45年) – 金沢市文化賞を受賞する。
1972年(昭和47年) – 石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長。
1973年(昭和48年) – 病気のため、石川県立輪島漆芸技術研修所所長を辞任する。
1975年(昭和50年) – 初めて金胎を用いた作品を第22回日本伝統工芸展に出品する(金胎蒔絵水指「梅」)。
1977年(昭和52年) – 加賀蒔絵で石川県指定無形文化財保持者に認定される。
1980年(昭和55年)
日本工芸会常任理事となる( – 1989年(平成元年))。
日本工芸会石川支部幹事長となる( – 1990年(平成2年))。
1983年(昭和58年) – 勲四等瑞宝章受章。
1985年(昭和60年) – 4月13日、重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定。
1987年(昭和62年) – 東京・日本橋三越本店で「人間国宝 寺井直次漆芸展」を開催。
1988年(昭和63年) – 文化庁の技術記録映画「蒔絵 寺井直次の卵殻のわざ」を撮影。制作工程を収録した「金胎蒔絵漆箱「飛翔」」は文化庁と石川県立美術館に納められる。
1989年(平成元年) – 第42回『中日文化賞』受賞[1]。
1991年(平成3年) – 東京・日本橋三越本店で「傘寿記念人間国宝 寺井直次漆芸展」を開催。
1992年(平成4年) – 成田空港の貴賓室(VIP第一室)に納める「漆額 極光」を制作。同年、皇后美智子が使用する「松喰鶴蒔絵御壊紙箱」を制作。
1993年(平成5年) – 能登印刷出版部より「寺井直次作品集」刊行。
1994年(平成6年) – 石川県立美術館で回顧展「蒔絵 人間国宝 寺井直次の世界」開催。
1998年(平成10年) – 3月21日死去。
3月23日、金沢市より「景仰の証」が贈られる。
4月17日、従五位に叙せられる。
2012年(平成24年) – 石川県立美術館で「生誕100年記念 寺井直次の漆の美」開催。

大場 松魚(おおば しょうぎょ、1916年(大正5年)3月15日 – 2012年(平成24年)6月21日)は、漆芸家。蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)。金沢美術工芸大学教授、輪島漆芸技術研修所名誉所長。石川県金沢市出身。本名、勝雄。
略歴
石川県立工業学校卒。父、大場宗秀に学んだ後、昭和18年上京。松田権六の内弟子となり2年間師事。伊勢神宮式年遷宮御神宝「御鏡箱・御太刀鞘」(昭和27年及び47年)、中尊寺金色堂の保存修理(昭和39年)に従事したことがきっかけとなり、本格的な平文の技法に取り組んだ。1982年(昭和57年)4月20日に人間国宝に認定される。
2012年6月21日、老衰のため石川県津幡町の病院で死去。96歳没。
関連項目
寺井直次
田口善国

三谷吾一(みたに ごいち、1919年2月13日 – )は、輪島塗の工芸家。日本藝術院会員。
本名・伍市。1933年、14歳で沈金師・蕨舞洲に師事、1938年前大峰に師事、1941年沈金職人として独立、1942年新文展出品の「沈金漆筥」が初入選、1965年日本現代工芸美術展出品の「飛翔」が現代工芸大賞読売新聞社賞受賞、1966年日展出品の「集」が特選北斗賞受賞、1970年改組日展出品の「翼」が特選北斗賞受賞、1977年輪島塗技術保存会会員となる。1978年日展出品の「星月夜」が日展会員賞受賞、1984年北國文化賞受賞、1988年日本芸術院賞受賞、石川テレビ賞受賞、1989年日展理事、1991年現代工芸美術家協会常務理事、石川県文化功労賞受賞、1993年勲四等旭日章、1994年輪島塗技術保存会副会長、中日文化賞受賞、2002年芸術院会員。 2015年文化功労者。

前 史雄(まえ ふみお、1940年(昭和15)8月15日-)は、漆芸家。石川県輪島市出身。沈金の重要無形文化財保持者(人間国宝)。
独自に沈金刀を研究し、多様な彫刻技法で知られる。石川県立輪島漆芸技術研修所所長。
略歴
金沢美術工芸大学で、日本画を専攻。
1964年(昭和39)以降、養父である前大峰に師事し沈金技術を習得。
1999年(平成11)6月21日、重要無形文化財「沈金」保持者認定。
石川県立輪島漆芸技術研修所で後進を指導。
2002年(平成14)、紫綬褒章。

小森 邦衞(こもり くにえ、1945年(昭和20年) – ) は、日本の漆芸家である。本名、邦博。髹漆(きゅうしつ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)。石川県輪島市出身。
作風
素材と技法を効果的に利用する独自の作風を確立した。
略歴
輪島市立(現、石川県立)輪島漆芸技術研修所などで、漆芸を習得した。

氷見晃堂(ひみ こうどう 1906年10月30日 – 1975年2月28日)は木工芸家。重要無形文化財「木工芸」保持者(人間国宝)。木工芸の人間国宝としては2番目の認定者(1970年)である。

概要
石川県金沢市出身。商家の子であるが指物師に弟子入りしたのをきっかけに木工家池田作美に師事し木工芸の道に進む。若いころから砂磨き法を研究し復活させる(砂磨き法とは、江戸時代までよく行われていた木材の加工法で、木材を砂で磨き、柔らかい部分をすり減らし、硬い年輪の部分を浮き上がらせる技法。しばらくは絶えていた技法である)第二次大戦後松田権六の指導により金銀線縮れ象嵌を考案する。初期の作品には精緻な工作で華麗なものが多いが、次第に木材の自然な美しさに重点をうつす。しかし、晩年はまた華麗な象嵌を用いていた。作品は箱の他、机、棚、風呂先など大物作品が多く、桑材をよく使う。。
経歴
小学校卒業後指物師北島伊三郎に師事
1924年 池田作美に師事
1926年 石川県工芸奨励賞美術工芸展覧会入選
1943年 この年から氷見晃堂を名乗る
1957年 金銀線縮れ象嵌法を考案
1970年 重要無形文化財「木工芸」保持者に認定
1974年 日本工芸会木竹部会長
1975年 勲四等旭日小綬章。

川北 良造(かわきた りょうぞう、1934年9月1日 – )は日本の木工芸家。重要無形文化財「木工芸」の保持者(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては5番目の認定者(1994年認定)。

概要
石川県出身。木の挽物の産地である山中町(現加賀市)に生まれ、木工芸家である父川北浩一に師事。のちに氷見晃堂に師事。挽物の技術に秀で、伝統的で高度な技術を持つ。川北作品は挽物が中心なので作品は一枚の板からロクロで削りだした皿や椀など丸い形のもの、あるいは丸く作って辺を切るものなどシンプルなものが多く、回転ではできない指物によるような四角い箱型の物は少ない。材は欅を中心に桑・楓・黒柿・栃なども使う。近年では象嵌の技法も取り入れる。拭漆の技法を高め、深みのある作品を作る。正倉院宝物の復元にも力をそそぐ
経歴
1934年 石川県江沼郡山中町(現・加賀市)生まれ
1962年 第9回日本伝統工芸展入賞
1966年 第13回日本伝統工芸展日本工芸会長賞
1968年 第15回日本伝統工芸展日本工芸会長賞
1994年 重要無形文化財「木工芸」保持者
1999年 紫綬褒章。
2004年 旭日中綬章
関係者
氷見晃堂(師匠)

中川 衛(なかがわ まもる、1947年 – )は、工芸家。彫金の重要無形文化財保持者(人間国宝)。

概要
大学ではデザインを学び、デザイナーとして世に出るも、数年後に金沢へ帰郷。27歳の時に加賀象嵌の魅力に触れ、それまで全く経験のなかった金工の道へと進むという異色の経歴の持ち主。
現在は出身校である金沢美術工芸大学工芸科教授として後進の指導にも力を注いでいる。
略歴
1947年 – 石川県金沢市生まれ。
1971年 – 金沢美術工芸大学産業美術学科卒業、同年松下電工入社。
1974年 – 松下電工を退社し、高橋介州に師事。デザイナーから工芸家へと転身。
1979年 – 日本伝統工芸展初入選。
1996年 – 金沢美術工芸大学教授に就任。
2004年 – 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
2006年 – 中日文化賞受賞。

蓮田 修吾郎(はすだ しゅうごろう、1915年8月2日 – 2010年1月6日)は、鋳金家。文化勲章受章、日本芸術院会員。

人物
石川県金沢市生まれ。石川県立工業学校図案絵画科卒、東京美術学校卒。
高村豊周に師事、1959年に「野牛とニンフ」で日展文部大臣賞、1962年に「森の鳴動」で日本芸術院賞をそれぞれ受賞。
1975年東京芸術大学教授に就任。日本藝術院会員。
1987年に文化功労者に選出され、1991年に文化勲章を受章した。また、1996年に日展顧問を委嘱された。
2010年1月6日、敗血症の為に死亡。94歳没。
著書・作品集
黄銅への道 金属造型作家のあゆみ 日貿出版社, 1979
蓮田修吾郎金属造型 京都書院, 1981
公共の空間へ 金属造型作家の活動 日貿出版社, 1982
環境造型への対話 日貿出版社, 1986

隅谷 正峯(すみたに まさみね、1921年(大正10年)1月24日 – 1998年(平成10年)12月12日)は石川県松任市(現在の白山市)出身の日本刀匠。全日本刀匠会元理事長。日本美術刀剣保存協会元理事。本名は隅谷 與一郎(すみたに よいちろう)。
経歴
1938年(昭和13年)金沢第一中学(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業。1941年(昭和16年)立命館大学理工学部機械工学科卒業と同時に刀匠・桜井正幸に入門。独立後は興国日本刀鍛錬所(広島県尾道市)へ。その後、日本刀鍛錬所傘笠亭(さんりゅうてい)を松任市に開いて多くの作品を手掛けた。昭和40年代には新作刀に与えられる最高賞である「正宗賞」を3度受賞。1989年(平成元年)には伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀(ごしんぽうたち)を制作した。
地鉄(じがね)の研究にも熱心で知られた。昭和50年ごろから正倉院蔵刀子や四天王寺蔵刀剣類を参考に小刀や刀子を研究、制作を続ける。 鎌倉時代の備前刀を得意とし、隅谷丁子(すみたに・ちょうじ)と呼ばれる独自の華麗な丁子刃文(ちょうじはもん)を完成した。
1981年(昭和56年)4月20日に「人間国宝」に認定された。
皇室関連の作刀を行っていることでも知られる。1991年(平成3年)には眞子内親王、1993年(平成5年)には皇太子徳仁親王妃雅子、1994年(平成6年)には佳子内親王の賜剣の儀で、隅谷の製作した守り刀が天皇から授けられている。

西出大三(にしで だいぞう 1913年6月7日 – 1995年7月8日)は日本の截金師。1985年に諸工芸の截金の分野で2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

略歴
石川県に生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)で彫刻を学ぶ。在学中に彫刻家の高村光雲が、京都の浄瑠璃寺の秘仏「木造吉祥天立像」の模刻を製作する際、台座に施された截金の文様が復元不可能であり金泥で代用したことを聞き、截金の研究に取り組むようになる。それ以後、数多くの藤原・鎌倉期の仏像・仏画の截金作品を見て回り、製作技法や道具を研究して、独力での復元に成功した。
西出は元来彫刻家であったため、その造型技術を活かし、馬・牛・犬・雀・鶏などの動物や鳥類を彫刻し、これらに截金を施す作風を得意とした。さらに岩絵具による彩色や砂子(すなご)・野毛(のげ)といった金箔の装飾技法を併用して、より繊細で華やかな作品を生み出している。
年譜
1913年 石川県江沼郡橋立村(現・加賀市)に生まれる
1937年 東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科・木彫部を卒業
1955年 国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に截金が選択され、保持者として認定される
1957年 第4回日本伝統工芸展にて「木彫截金彩色・瑞鳥 大小一対」を出品し入選
1958年 第5回日本伝統工芸展にて「截金彩色飾合子 富士」が技術賞を受賞
1959年 日本工芸会正会員に認定
1964年 金沢文庫にて「仏教美術に於ける截金文様」の特別講演を行う
1970年 日本工芸会理事、第六部会(人形)部会長に就任
1974年 日本工芸会第七部会(諸工芸)部会長に就任
1978年 紫綬褒章を受章
1984年 勲四等瑞宝章を受章
1985年 重要無形文化財保持者に認定される
1987年 銀座ミキモトホールにて「西出大三 截金の美展」が開催される
1990年 小樽市博物館にて「截金 その美と歴史 人間国宝 西出大三の世界」が開催される
1993年 加賀市名誉市民となる/加賀市美術館にて「人間国宝 西出大三展」が開催される
1995年 7月8日死去(享年82)

和紙
美川仏壇
桐工芸
檜細工
珠洲焼
加賀毛針
大樋焼
加賀竿
加賀獅子頭
加賀象嵌
加賀提灯
加賀水引細工
金沢表具
金沢和傘
郷土玩具

三弦
太鼓
]
竹細工
茶の湯釜
鶴来打刃物
手捺染型彫刻
銅鑼
七尾和ろうそく
能登上布
能登花火

上に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

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店舗案内

新原美術 しんはらびじゅつ

OPEN/CLOSE 9:00~18:00(年中無休)
TEL 0766-22-7303 / FAX 0766-30-8048
〒933-0932 富山県高岡市鴨島町40番地1
富山県公安委員会 501230008404号

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富山・石川・福井全域で無料鑑定を承ります。

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新原美術 富山高岡本店

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