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以下は買取エリアです、、、

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
茨城県 いばらきけん 2,917,857 6,097.06 478.57 2,969,770
水戸市 みとし 270,823 217.32 1,246.19 268,750 1889.4.1
日立市 ひたちし 185,149 225.74 820.19 193,129 1939.9.1
土浦市 つちうらし 140,948 122.89 1,146.94 143,839 1940.11.3
古河市 こがし 140,975 123.58 1,140.76 142,995 1950.8.1
石岡市 いしおかし 76,030 215.53 352.76 79,687 1954.2.11
結城市 ゆうきし 51,605 65.76 784.75 52,494 1954.3.15
龍ケ崎市 りゅうがさきし 78,368 78.55 997.68 80,334 1954.3.20
下妻市 しもつまし 43,334 80.88 535.78 44,987 1954.6.1
常総市 じょうそうし 61,460 123.64 497.09 65,320 1954.7.10
常陸太田市 ひたちおおたし 52,326 371.99 140.67 56,250 1954.7.15
高萩市 たかはぎし 29,656 193.58 153.20 31,017 1954.11.23
北茨城市 きたいばらきし 44,443 186.80 237.92 47,026 1956.3.31
笠間市 かさまし 76,766 240.40 319.33 79,409 1958.8.1
取手市 とりでし 106,564 69.94 1,523.65 109,651 1970.10.1
牛久市 うしくし 84,454 58.92 1,433.37 81,684 1986.6.1
つくば市 つくばし 227,029 283.72 800.19 214,590 1987.11.30
ひたちなか市 ひたちなかし 155,680 99.93 1,557.89 157,060 1994.11.1
鹿嶋市 かしまし 67,885 106.02 640.30 66,093 1995.9.1
潮来市 いたこし 29,105 71.40 407.63 30,534 2001.4.1
守谷市 もりやし 64,763 35.71 1,813.58 62,482 2002.2.2
常陸大宮市 ひたちおおみやし 42,587 348.45 122.22 45,178 2004.10.16
那珂市 なかし 54,270 97.82 554.79 54,240 2005.1.21
筑西市 ちくせいし 104,617 205.30 509.58 108,527 2005.3.28
坂東市 ばんどうし 54,073 123.03 439.51 56,114 2005.3.22
稲敷市 いなしきし 42,769 205.81 207.81 46,895 2005.3.22
かすみがうら市 かすみがうらし 42,143 156.60 269.11 43,553 2005.3.28
桜川市 さくらがわし 42,651 180.06 236.87 45,673 2005.10.1
神栖市 かみすし 94,582 146.94 643.68 94,795 2005.8.1
行方市 なめがたし 34,915 222.48 156.94 37,611 2005.9.2
鉾田市 ほこたし 48,156 207.61 231.95 50,156 2005.10.11
つくばみらい市 つくばみらいし 49,146 79.16 620.84 44,461 2006.3.27
小美玉市 おみたまし 50,917 144.74 351.78 52,279 2006.3.27
東茨城郡 ひがしいばらきぐん 69,625 307.12 226.70 74,332
茨城町 いばらきまち 32,930 121.58 270.85 34,513
大洗町 おおあらいまち 16,891 23.74 711.50 18,328
城里町 しろさとまち 19,804 161.80 122.40 21,491 2005.2.1
那珂郡 なかぐん 37,716 37.98 993.05 37,438
東海村 とうかいむら 37,716 37.98 993.05 37,438
久慈郡 くじぐん 18,144 325.76 55.70 20,073
大子町 だいごまち 18,144 325.76 55.70 20,073
稲敷郡 いなしきぐん 72,570 182.30 398.08 75,411
美浦村 みほむら 15,851 66.61 237.97 17,299
阿見町 あみまち 47,545 71.40 665.90 47,940
河内町 かわちまち 9,174 44.30 207.09 10,172 1996.6.1
結城郡 ゆうきぐん 22,008 58.99 373.08 23,106
八千代町 やちよまち 22,008 58.99 373.08 23,106
猿島郡 さしまぐん 33,304 69.70 477.82 35,124
五霞町 ごかまち 8,784 23.11 380.10 9,410 1996.6.1
境町 さかいまち 24,520 46.59 526.29 25,714
北相馬郡 きたそうまぐん 16,301 24.90 654.66 17,473
利根町 とねまち 16,301 24.90 654.66 17,473

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
栃木県 とちぎけん 1,974,671 6,408.09 308.15 2,007,683
宇都宮市 うつのみやし 518,761 416.85 1,244.48 511,739 1896.4.1
足利市 あしかがし 149,504 177.76 841.04 154,530 1921.1.1
栃木市 とちぎし 159,267 331.50 480.44 164,024 1937.4.1
佐野市 さのし 118,919 356.04 334.00 121,249 1943.4.1
鹿沼市 かぬまし 98,384 490.64 200.52 102,348 1948.10.10
日光市 にっこうし 83,446 1,449.83 57.56 90,066 1954.2.1
小山市 おやまし 166,795 171.76 971.09 164,454 1954.3.31
真岡市 もおかし 79,579 167.34 475.55 82,289 1954.10.1
大田原市 おおたわらし 75,480 354.36 213.00 77,729 1954.12.1
矢板市 やいたし 33,362 170.46 195.72 35,343 1958.11.1
那須塩原市 なすしおばらし 117,044 592.74 197.46 117,812 2005.1.1
さくら市 さくらし 44,916 125.63 357.53 44,768 2005.3.28
那須烏山市 なすからすやまし 27,012 174.35 154.93 29,206 2005.10.1
下野市 しもつけし 59,444 74.59 796.94 59,483 2006.1.10
河内郡 かわちぐん 31,055 54.39 570.97 31,621
上三川町 かみのかわまち 31,055 54.39 570.97 31,621
芳賀郡 はがぐん 63,412 396.50 159.93 67,490
益子町 ましこまち 23,299 89.40 260.62 24,348
茂木町 もてぎまち 13,188 172.69 76.37 15,018
市貝町 いちかいまち 11,724 64.25 182.47 12,094
芳賀町 はがまち 15,201 70.16 216.66 16,030
下都賀郡 しもつがぐん 65,254 91.32 714.56 65,325
壬生町 みぶまち 39,944 61.06 654.18 39,605
野木町 のぎまち 25,310 30.26 836.42 25,720
塩谷郡 しおやぐん 41,152 246.92 166.66 42,996
塩谷町 しおやまち 11,496 176.06 65.30 12,560
高根沢町 たかねざわまち 29,656 70.87 418.46 30,436
那須郡 なすぐん 41,885 565.12 74.12 45,211
那須町 なすまち 24,922 372.34 66.93 26,765
那珂川町 なかがわまち 16,963 192.78 87.99 18,446 2005.10.1

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
群馬県 ぐんまけん 1,973,476 6,362.28 310.18 2,008,068
前橋市 まえばしし 336,199 311.59 1,078.98 340,291 1892.4.1
高崎市 たかさきし 370,751 459.16 807.45 371,302 1900.4.1
桐生市 きりゅうし 114,760 274.45 418.15 121,704 1921.3.1
伊勢崎市 いせさきし 208,838 139.44 1,497.69 207,221 1940.9.13
太田市 おおたし 219,896 175.54 1,252.68 216,465 1948.5.3
沼田市 ぬまたし 48,697 443.46 109.81 51,265 1954.4.1
館林市 たてばやしし 76,676 60.97 1,257.60 78,608 1954.4.1
渋川市 しぶかわし 78,426 240.27 326.41 83,330 1954.4.1
藤岡市 ふじおかし 65,723 180.29 364.54 67,975 1954.4.1
富岡市 とみおかし 49,760 122.85 405.05 52,070 1954.4.1
安中市 あんなかし 58,529 276.31 211.82 61,077 1958.11.1
みどり市 みどりし 50,942 208.42 244.42 51,899 2006.3.27
北群馬郡 きたぐんまぐん 35,424 48.38 732.20 34,171
榛東村 しんとうむら 14,338 27.92 513.54 14,370
吉岡町 よしおかまち 21,086 20.46 1,030.60 19,801 1991.4.1
多野郡 たのぐん 3,184 296.44 10.74 3,658
上野村 うえのむら 1,228 181.85 6.75 1,306
神流町 かんなまち 1,956 114.60 17.07 2,352 2003.4.1
甘楽郡 かんらぐん 22,823 365.81 62.39 24,952
下仁田町 しもにたまち 7,633 188.38 40.52 8,911
南牧村 なんもくむら 1,980 118.83 16.66 2,423
甘楽町 かんらまち 13,210 58.61 225.39 13,618
吾妻郡 あがつまぐん 56,413 1,278.55 44.12 61,109
中之条町 なかのじょうまち 16,842 439.28 38.34 18,216
長野原町 ながのはらまち 5,477 133.85 40.92 6,017
嬬恋村 つまごいむら 9,787 337.58 28.99 10,183
草津町 くさつまち 6,512 49.75 130.89 7,160
高山村 たかやまむら 3,679 64.18 57.32 3,911
東吾妻町 ひがしあがつままち 14,116 253.91 55.59 15,622 2006.3.27
利根郡 とねぐん 34,749 1,322.23 26.28 37,767
片品村 かたしなむら 4,390 391.76 11.21 4,904
川場村 かわばむら 3,648 85.25 42.79 3,898
昭和村 しょうわむら 7,355 64.14 114.67 7,620
みなかみ町 みなかみまち 19,356 781.08 24.78 21,345 2005.10.1
佐波郡 さわぐん 36,653 25.78 1,421.76 37,536
玉村町 たまむらまち 36,653 25.78 1,421.76 37,536
邑楽郡 おうらぐん 105,033 132.36 793.54 105,668
板倉町 いたくらまち 15,024 41.86 358.91 15,706
明和町 めいわまち 11,042 19.64 562.22 11,209 1998.10.1
千代田町 ちよだまち 11,331 21.73 521.45 11,473
大泉町 おおいずみまち 41,213 18.03 2,285.80 40,257
邑楽町 おうらまち 26,423 31.11 849.34 27,023

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
埼玉県 さいたまけん 7,261,271 3,797.75 1,911.99 7,194,556
さいたま市 さいたまし 1,264,253 217.43 5,814.53 1,222,434 2001.5.1
西区 にしく 87,156 29.12 2,992.99 84,029 2003.4.1
北区 きたく 143,628 16.86 8,518.86 138,630 2003.4.1
大宮区 おおみやく 113,794 12.80 8,890.16 108,488 2003.4.1
見沼区 みぬまく 162,013 30.69 5,279.02 157,143 2003.4.1
中央区 ちゅうおうく 98,750 8.39 11,769.96 96,055 2003.4.1
桜区 さくらく 97,943 18.64 5,254.45 96,911 2003.4.1
浦和区 うらわく 154,393 11.51 13,413.81 144,786 2003.4.1
南区 みなみく 180,180 13.82 13,037.63 174,988 2003.4.1
緑区 みどりく 116,562 26.44 4,408.55 110,118 2003.4.1
岩槻区 いわつきく 109,834 49.17 2,233.76 111,286 2005.4.1
川越市 かわごえし 350,327 109.13 3,210.18 342,670 1922.12.1
熊谷市 くまがやし 198,639 159.82 1,242.89 203,180 1933.4.1
川口市 かわぐちし 578,245 61.95 9,334.06 561,506 1933.4.1
行田市 ぎょうだし 82,142 67.49 1,217.10 85,786 1949.5.3
秩父市 ちちぶし 63,545 577.83 109.97 66,955 1950.4.1
所沢市 ところざわし 335,875 72.11 4,657.81 341,924 1950.11.3
飯能市 はんのうし 80,735 193.05 418.21 83,549 1954.1.1
加須市 かぞし 112,302 133.30 842.48 115,002 1954.5.3
本庄市 ほんじょうし 77,885 89.69 868.38 81,889 1954.7.1
東松山市 ひがしまつやまし 91,445 65.35 1,399.31 90,099 1954.7.1
春日部市 かすかべし 232,372 66.00 3,520.79 237,171 1954.7.1
狭山市 さやまし 152,393 48.99 3,110.70 155,727 1954.7.1
羽生市 はにゅうし 54,984 58.64 937.65 56,204 1954.9.1
鴻巣市 こうのすし 118,122 67.44 1,751.51 119,639 1954.9.30
深谷市 ふかやし 143,833 138.37 1,039.48 144,618 1955.1.1
上尾市 あげおし 225,186 45.51 4,948.06 223,926 1958.7.15
草加市 そうかし 247,076 27.46 8,997.67 243,855 1958.11.1
越谷市 こしがやし 337,562 60.24 5,603.62 326,313 1958.11.3
蕨市 わらびし 72,240 5.11 14,136.99 71,502 1959.4.1
戸田市 とだし 136,083 18.19 7,481.20 123,079 1966.10.1
入間市 いるまし 148,438 44.69 3,321.50 149,872 1966.11.1
朝霞市 あさかし 136,041 18.34 7,417.72 129,691 1967.3.15
志木市 しきし 72,656 9.05 8,028.29 69,611 1970.10.26
和光市 わこうし 80,754 11.04 7,314.67 80,745 1970.10.31
新座市 にいざし 162,181 22.78 7,119.45 158,777 1970.11.1
桶川市 おけがわし 73,932 25.35 2,916.45 74,711 1970.11.3
久喜市 くきし 151,904 82.41 1,843.27 154,310 1971.10.1
北本市 きたもとし 67,414 19.82 3,401.31 68,888 1971.11.3
八潮市 やしおし 86,670 18.02 4,809.66 82,977 1972.1.15
富士見市 ふじみし 108,104 19.77 5,468.08 106,736 1972.4.10
三郷市 みさとし 136,528 30.13 4,531.30 131,415 1972.5.3
蓮田市 はすだし 62,387 27.28 2,286.91 63,309 1972.10.1
坂戸市 さかどし 101,648 41.02 2,478.01 101,700 1976.9.1
幸手市 さってし 52,535 33.93 1,548.33 54,012 1986.10.1
鶴ヶ島市 つるがしまし 70,267 17.65 3,981.13 69,990 1991.9.1
日高市 ひだかし 56,521 47.48 1,190.42 57,473 1991.10.1
吉川市 よしかわし 69,759 31.66 2,203.38 65,298 1996.4.1
ふじみ野市 ふじみのし 111,011 14.64 7,582.72 105,695 2005.10.1
白岡市 しらおかし 51,550 24.92 2,068.62 50,272 2012.10.1
北足立郡 きたあだちぐん 44,434 14.79 3,004.33 42,494
伊奈町 いなまち 44,434 14.79 3,004.33 42,494 1970.11.1
入間郡 いるまぐん 87,439 89.79 973.82 90,297
三芳町 みよしまち 38,459 15.33 2,508.74 38,706 1970.11.3
毛呂山町 もろやままち 37,289 34.07 1,094.48 39,054 1955.4.1
越生町 おごせまち 11,691 40.39 289.45 12,537 1955.2.11
比企郡 ひきぐん 133,901 281.86 475.06 140,072
滑川町 なめがわまち 18,211 29.68 613.58 17,323 1984.11.3
嵐山町 らんざんまち 18,346 29.92 613.17 18,887 1967.4.15
小川町 おがわまち 31,193 60.36 516.78 32,913 1955.2.11
川島町 かわじままち 20,669 41.63 496.49 22,147 1972.11.3
吉見町 よしみまち 19,635 38.64 508.15 21,079 1972.11.3
鳩山町 はとやままち 14,347 25.73 557.60 15,305 1982.4.1
ときがわ町 ときがわまち 11,500 55.90 205.72 12,418 2006.2.1
秩父郡 ちちぶぐん 41,020 351.84 116.59 44,619
横瀬町 よこぜまち 8,520 49.36 172.61 9,039 1984.10.1
皆野町 みなのまち 10,128 63.74 158.90 10,888 1955.3.1
長瀞町 ながとろまち 7,326 30.43 240.75 7,908 1940.2.15
小鹿野町 おがのまち 12,105 171.26 70.68 13,436 2005.10.1
東秩父村 ひがしちちぶむら 2,941 37.06 79.36 3,348 1956.8.1
児玉郡 こだまぐん 55,399 109.99 503.67 57,073
美里町 みさとまち 11,211 33.41 335.56 11,605 1984.10.1
神川町 かみかわまち 13,704 47.40 289.11 14,470 2006.1.1
上里町 かみさとまち 30,484 29.18 1,044.69 30,998 1971.11.3
大里郡 おおさとぐん 34,092 64.25 530.61 35,774
寄居町 よりいまち 34,092 64.25 530.61 35,774 1955.2.11
南埼玉郡 みなみさいたまぐん 33,859 15.95 2,122.82 33,641
宮代町 みやしろまち 33,859 15.95 2,122.82 33,641 1955.7.20
北葛飾郡 きたかつしかぐん 75,583 46.23 1,634.93 78,076
杉戸町 すぎとまち 45,521 30.03 1,515.85 46,923 1955.2.11
松伏町 まつぶしまち 30,062 16.20 1,855.68 31,153 1969.4.1

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
千葉県 ちばけん 6,224,027 5,157.65 1,206.76 6,216,289
千葉市 ちばし 972,639 271.76 3,579.04 961,749 1921.1.1
中央区 ちゅうおうく 205,187 44.69 4,591.34 199,364 1992.4.1
花見川区 はなみがわく 179,286 34.19 5,243.81 180,949 1992.4.1
稲毛区 いなげく 161,162 21.22 7,594.82 157,768 1992.4.1
若葉区 わかばく 151,306 84.21 1,796.77 151,585 1992.4.1
緑区 みどりく 126,931 66.25 1,915.94 121,921 1992.4.1
美浜区 みはまく 148,767 21.20 7,017.31 150,162 1992.4.1
銚子市 ちょうしし 64,431 84.19 765.30 70,210 1933.2.11
市川市 いちかわし 481,492 57.45 8,381.06 473,919 1934.11.3
船橋市 ふなばしし 622,823 85.62 7,274.27 609,040 1937.4.1
館山市 たてやまし 47,488 110.15 431.12 49,290 1939.11.3
木更津市 きさらづし 134,175 138.95 965.64 129,312 1942.11.3
松戸市 まつどし 483,238 61.38 7,872.89 484,457 1943.4.1
野田市 のだし 153,609 103.55 1,483.43 155,491 1950.5.3
茂原市 もばらし 89,730 99.92 898.02 93,015 1952.4.1
成田市 なりたし 131,230 213.84 613.68 128,933 1954.3.31
佐倉市 さくらし 172,789 103.69 1,666.40 172,183 1954.3.31
東金市 とうがねし 60,671 89.12 680.78 61,751 1954.4.1
旭市 あさひし 66,601 130.45 510.55 69,058 1954.7.1
習志野市 ならしのし 168,033 20.97 8,013.02 164,530 1954.8.1
柏市 かしわし 414,054 114.74 3,608.63 404,012 1954.9.1
勝浦市 かつうらし 19,258 93.96 204.96 20,788 1958.10.1
市原市 いちはらし 274,558 368.17 745.74 280,416 1963.5.1
流山市 ながれやまし 174,417 35.32 4,938.19 163,984 1967.1.1
八千代市 やちよし 193,219 51.39 3,759.86 189,781 1967.1.1
我孫子市 あびこし 131,653 43.15 3,051.05 134,017 1970.7.1
鴨川市 かもがわし 33,954 191.14 177.64 35,766 1971.3.31
鎌ケ谷市 かまがやし 108,979 21.08 5,169.78 107,853 1971.9.1
君津市 きみつし 86,055 318.81 269.93 89,168 1971.9.1
富津市 ふっつし 45,616 205.53 221.94 48,073 1971.9.1
浦安市 うらやすし 164,086 17.30 9,484.74 164,877 1981.4.1
四街道市 よつかいどうし 89,272 34.52 2,586.10 86,726 1981.4.1
袖ケ浦市 そでがうらし 60,964 94.93 642.20 60,355 1991.4.1
八街市 やちまたし 70,806 74.94 944.84 73,212 1992.4.1
印西市 いんざいし 92,684 123.79 748.72 88,176 1996.4.1
白井市 しろいし 61,729 35.48 1,739.83 60,345 2001.4.1
富里市 とみさとし 49,656 53.88 921.60 51,087 2002.4.1
南房総市 みなみぼうそうし 39,044 230.14 169.65 42,104 2006.3.20
匝瑳市 そうさし 37,273 101.52 367.15 39,814 2006.1.23
香取市 かとりし 77,526 262.35 295.51 82,866 2006.3.27
山武市 さんむし 52,231 146.77 355.87 56,089 2006.3.27
いすみ市 いすみし 38,620 157.44 245.30 40,962 2005.12.5
大網白里市 おおあみしらさとし 49,191 58.08 846.95 50,113 2013.1.1
印旛郡 いんばぐん 42,212 51.52 819.33 43,814
酒々井町 しすいまち 20,972 19.01 1,103.21 21,234 1889.4.1
栄町 さかえまち 21,240 32.51 653.34 22,580 1955.12.1
香取郡 かとりぐん 35,032 138.95 252.12 37,610
神崎町 こうざきまち 6,142 19.90 308.64 6,454 1955.4.19
多古町 たこまち 14,738 72.80 202.45 16,002 1954.3.31
東庄町 とうのしょうまち 14,152 46.25 305.99 15,154 1955.7.20
山武郡 さんぶぐん 47,728 134.70 354.33 50,599
九十九里町 くじゅうくりまち 16,521 24.45 675.71 18,004 1955.3.31
芝山町 しばやままち 7,440 43.24 172.06 7,920 1955.7.1
横芝光町 よこしばひかりまち 23,767 67.01 354.68 24,675 2006.3.27
長生郡 ちょうせいぐん 60,074 226.97 264.68 63,385
一宮町 いちのみやまち 11,770 22.97 512.41 12,034 1953.11.3
睦沢町 むつざわまち 7,228 35.59 203.09 7,340 1983.4.1
長生村 ちょうせいむら 14,372 28.29 508.02 14,752 1953.11.3
白子町 しらこまち 11,160 27.50 405.82 12,151 1955.2.11
長柄町 ながらまち 7,338 47.11 155.76 8,035 1955.4.29
長南町 ちょうなんまち 8,206 65.51 125.26 9,073 1955.2.11
夷隅郡 いすみぐん 17,163 154.73 110.92 18,409
大多喜町 おおたきまち 9,850 129.87 75.85 10,671 1954.10.5
御宿町 おんじゅくまち 7,313 24.86 294.17 7,738 1955.3.31
安房郡 あわぐん 8,024 45.19 177.56 8,950
鋸南町 きょなんまち 8,024 45.19 177.56 8,950 1959.3.30

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
東京都 とうきょうと 13,513,734 2,190.93 6,168.04 13,159,388
特別区 とくべつく 9,272,565 784.20 11,824.23 8,945,695 1947.3.15
千代田区 ちよだく 58,344 11.66 5,003.77 47,115 1947.3.15
中央区 ちゅうおうく 141,087 10.21 13,818.51 122,762 1947.3.15
港区 みなとく 243,390 20.37 11,948.45 205,131 1947.3.15
新宿区 しんじゅくく 333,363 18.22 18,296.54 326,309 1947.3.15
文京区 ぶんきょうく 219,806 11.29 19,469.09 206,626 1947.3.15
台東区 たいとうく 198,512 10.11 19,635.21 175,928 1947.3.15
墨田区 すみだく 256,416 13.77 18,621.35 247,606 1947.3.15
江東区 こうとうく 498,144 40.16 12,403.98 460,819 1947.3.15
品川区 しながわく 386,687 22.84 16,930.25 365,302 1947.3.15
目黒区 めぐろく 278,105 14.67 18,957.40 268,330 1947.3.15
大田区 おおたく 717,565 60.66 11,829.29 693,373 1947.3.15
世田谷区 せたがやく 900,391 58.05 15,510.61 877,138 1947.3.15
渋谷区 しぶやく 224,815 15.11 14,878.56 204,492 1947.3.15
中野区 なかのく 328,685 15.59 21,083.07 314,750 1947.3.15
杉並区 すぎなみく 564,846 34.06 16,583.85 549,569 1947.3.15
豊島区 としまく 291,066 13.01 22,372.48 284,678 1947.3.15
北区 きたく 341,074 20.61 16,548.96 335,544 1947.3.15
荒川区 あらかわく 211,518 10.16 20,818.70 203,296 1947.3.15
板橋区 いたばしく 561,937 32.22 17,440.63 535,824 1947.3.15
練馬区 ねりまく 722,108 48.08 15,018.89 716,124 1947.8.1
足立区 あだちく 671,108 53.25 12,602.97 683,426 1947.3.15
葛飾区 かつしかく 443,293 34.80 12,738.30 442,586 1947.3.15
江戸川区 えどがわく 680,305 49.90 13,633.37 678,967 1947.3.15
八王子市 はちおうじし 576,526 186.38 3,093.28 580,053 1917.9.1
立川市 たちかわし 175,388 24.36 7,199.84 179,668 1940.12.1
武蔵野市 むさしのし 144,683 10.98 13,176.96 138,734 1947.11.3
三鷹市 みたかし 187,133 16.42 11,396.65 186,083 1950.11.3
青梅市 おうめし 137,177 103.31 1,327.82 139,339 1951.4.1
府中市 ふちゅうし 260,132 29.43 8,839.01 255,506 1954.4.1
昭島市 あきしまし 111,511 17.34 6,430.85 112,297 1954.5.1
調布市 ちょうふし 229,644 21.58 10,641.52 223,593 1955.4.1
町田市 まちだし 432,516 71.80 6,023.90 426,987 1958.2.1
小金井市 こがねいし 121,590 11.30 10,760.18 118,852 1958.10.1
小平市 こだいらし 190,245 20.51 9,275.72 187,035 1962.10.1
日野市 ひのし 186,374 27.55 6,764.94 180,052 1963.11.3
東村山市 ひがしむらやまし 150,130 17.14 8,759.04 153,557 1964.4.1
国分寺市 こくぶんじし 122,701 11.46 10,706.89 120,650 1964.11.3
国立市 くにたちし 73,274 8.15 8,990.67 75,510 1967.1.1
福生市 ふっさし 58,432 10.16 5,751.18 59,796 1970.7.1
狛江市 こまえし 80,074 6.39 12,531.14 78,751 1970.10.1
東大和市 ひがしやまとし 85,167 13.42 6,346.27 83,068 1970.10.1
清瀬市 きよせし 74,893 10.23 7,320.92 74,104 1970.10.1
東久留米市 ひがしくるめし 116,668 12.88 9,058.07 116,546 1970.10.1
武蔵村山市 むさしむらやまし 71,268 15.32 4,651.96 70,053 1970.11.3
多摩市 たまし 146,627 21.01 6,978.91 147,648 1971.11.1
稲城市 いなぎし 87,645 17.97 4,877.30 84,835 1971.11.1
羽村市 はむらし 55,845 9.90 5,640.91 57,032 1991.11.1
あきる野市 あきるのし 80,980 73.47 1,102.22 80,868 1995.9.1
西東京市 にしとうきょうし 199,823 15.75 12,687.17 196,511 2001.1.21
西多摩郡 にしたまぐん 58,228 375.86 154.92 58,750
瑞穂町 みずほまち 33,461 16.85 1,985.82 33,497 1940.11.10
日の出町 ひのでまち 17,325 28.07 617.21 16,650 1974.6.1
檜原村 ひのはらむら 2,207 105.41 20.94 2,558 1889.4.1
奥多摩町 おくたままち 5,235 225.53 23.21 6,045 1955.4.1
大島支庁 おおしましちょう 12,862 140.99 91.23 13,574
大島町 おおしままち 7,883 90.76 86.86 8,461 1955.4.1
利島村 としまむら 338 4.12 82.04 341 1923.10.1
新島村 にいじまむら 2,750 27.54 99.85 2,883 1923.10.1
神津島村 こうづしまむら 1,891 18.58 101.78 1,889 1923.10.1
三宅支庁 みやけしちょう 2,817 75.81 37.16 3,024
三宅村 みやけむら 2,482 55.27 44.91 2,676 1956.2.1
御蔵島村 みくらじまむら 335 20.54 16.31 348 1923.10.1
八丈支庁 はちじょうしちょう 7,793 83.01 93.88 8,432
八丈町 はちじょうまち 7,615 72.23 105.43 8,231 1955.4.1
青ヶ島村 あおがしまむら 178 5.96 29.87 201 1940.4.1
小笠原支庁 おがさわらしちょう 3,023 104.35 28.97 2,785
小笠原村 おがさわらむら 3,023 104.35 28.97 2,785 1968.6.26

自治体 読み 速報人口 面積 人口密度 国勢調査人口 施行日
神奈川県 かながわけん 9,127,323 2,415.83 3,778.13 9,048,331
横浜市 よこはまし 3,726,167 437.49 8,517.15 3,688,773 1889.4.1
鶴見区 つるみく 285,404 33.23 8,588.75 272,178 1927.10.1
神奈川区 かながわく 239,109 23.73 10,076.23 233,429 1927.10.1
西区 にしく 98,554 7.03 14,019.06 94,867 1944.4.1
中区 なかく 148,356 21.20 6,997.92 146,033 1927.10.1
南区 みなみく 194,927 12.65 15,409.25 196,153 1943.12.1
保土ケ谷区 ほどがやく 205,560 21.93 9,373.46 206,634 1927.10.1
磯子区 いそごく 166,263 19.05 8,727.72 163,237 1927.10.1
金沢区 かなざわく 202,300 30.96 6,534.24 209,274 1948.5.15
港北区 こうほくく 344,261 31.40 10,963.73 329,471 1939.4.1
戸塚区 とつかく 275,349 35.79 7,693.46 274,324 1939.4.1
港南区 こうなんく 215,775 19.90 10,842.96 221,411 1969.10.1
旭区 あさひく 247,234 32.73 7,553.74 251,086 1969.10.1
緑区 みどりく 180,426 25.51 7,072.76 177,631 1969.10.1
瀬谷区 せやく 124,626 17.17 7,258.36 126,913 1969.10.1
栄区 さかえく 122,227 18.52 6,599.73 124,866 1986.11.3
泉区 いずみく 154,038 23.58 6,532.57 155,698 1986.11.3
青葉区 あおばく 309,859 35.22 8,797.81 304,297 1994.11.6
都筑区 つづきく 211,899 27.87 7,603.12 201,271 1994.11.6
川崎市 かわさきし 1,475,300 143.00 10,316.78 1,425,512 1924.7.1
川崎区 かわさきく 223,440 39.53 5,652.42 217,328 1972.4.1
幸区 さいわいく 160,864 10.01 16,070.33 154,212 1972.4.1
中原区 なかはらく 247,476 14.74 16,789.42 233,925 1972.4.1
高津区 たかつく 228,119 16.36 13,943.70 217,360 1972.4.1
多摩区 たまく 214,240 20.50 10,450.73 213,894 1972.4.1
宮前区 みやまえく 225,604 18.61 12,122.73 218,867 1982.7.1
麻生区 あさおく 175,557 23.25 7,550.84 169,926 1982.7.1
相模原市 さがみはらし 720,914 328.66 2,193.49 717,544 1954.11.20
緑区 みどりく 173,710 253.68 684.76 176,192 2010.4.1
中央区 ちゅうおうく 270,021 36.87 7,323.60 266,988 2010.4.1
南区 みなみく 277,183 38.11 7,273.24 274,364 2010.4.1
横須賀市 よこすかし 406,686 100.83 4,033.38 418,325 1907.2.15
平塚市 ひらつかし 258,246 67.82 3,807.81 260,780 1932.4.1
鎌倉市 かまくらし 172,902 39.67 4,358.51 174,314 1939.11.3
藤沢市 ふじさわし 424,103 69.57 6,096.06 409,657 1940.10.1
小田原市 おだわらし 194,174 113.81 1,706.12 198,327 1940.12.20
茅ヶ崎市 ちがさきし 239,424 35.70 6,706.55 235,081 1947.10.1
逗子市 ずしし 56,492 17.28 3,269.21 58,302 1954.4.15
三浦市 みうらし 45,302 32.05 1,413.48 48,352 1955.1.1
秦野市 はだのし 167,387 103.76 1,613.21 170,145 1955.1.1
厚木市 あつぎし 225,503 93.84 2,403.06 224,420 1955.2.1
大和市 やまとし 233,061 27.09 8,603.21 228,186 1959.2.1
伊勢原市 いせはらし 101,575 55.56 1,828.20 101,039 1971.3.1
海老名市 えびなし 130,287 26.59 4,899.85 127,707 1971.11.1
座間市 ざまし 128,651 17.57 7,322.20 129,436 1971.11.1
南足柄市 みなみあしがらし 43,328 77.12 561.83 44,020 1972.4.1
綾瀬市 あやせし 84,520 22.14 3,817.52 83,167 1978.11.1
三浦郡 みうらぐん 32,104 17.04 1,884.04 32,766
葉山町 はやままち 32,104 17.04 1,884.04 32,766 1925.1.1
高座郡 こうざぐん 47,935 13.34 3,593.33 47,672
寒川町 さむかわまち 47,935 13.34 3,593.33 47,672 1940.11.1
中郡 なかぐん 59,958 26.25 2,284.11 62,554
大磯町 おおいそまち 31,568 17.18 1,837.49 33,032 1954.12.1
二宮町 にのみやまち 28,390 9.08 3,126.65 29,522 1935.11.3
足柄上郡 あしがらかみぐん 65,625 303.28 216.38 67,791
中井町 なかいまち 9,683 19.99 484.39 10,010 1958.12.1
大井町 おおいまち 17,036 14.38 1,184.70 17,972 1956.4.1
松田町 まつだまち 11,162 37.75 295.68 11,676 1955.4.1
山北町 やまきたまち 10,723 224.61 47.74 11,764 1955.2.1
開成町 かいせいまち 17,021 6.55 2,598.63 16,369 1955.2.1
足柄下郡 あしがらしもぐん 44,107 140.87 313.10 48,913
箱根町 はこねまち 11,717 92.86 126.18 13,853 1956.9.30
真鶴町 まなづるまち 7,344 7.04 1,043.18 8,212 1956.9.30
湯河原町 ゆがわらまち 25,046 40.97 611.33 26,848 1955.4.1
愛甲郡 あいこうぐん 43,572 105.52 412.93 45,548
愛川町 あいかわまち 40,356 34.28 1,177.25 42,089 1955.1.15
清川村 きよかわむら 3,216 71.24 45.14 3,459 1956.9.30

下に書いてあるような作家や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

松井 康成(まつい こうせい、1927年(昭和2年)5月20日 – 2003年(平成15年)4月11日)は、日本の陶芸家。国の重要無形文化財「練上手(ねりあげで)」保持者(人間国宝)。本名、美明。 練上手という技法を集大成し、伝統技術を基盤にした現代の個性豊かな陶芸のあり方を提示した。
長野県北佐久郡本牧村(現:佐久市)生まれ。戦時中に茨城県笠間町(現:笠間市)に疎開する。旧制神奈川県立平塚工業学校、明治大学文学部文学科卒業。

略歴
1957年(昭和32年) 浄土宗月宗寺第23世住職となる。
1969年(昭和44年) 第9回伝統工芸新作展で「練上手大鉢」が奨励賞受賞。第16回伝統工芸展初入選
1973年(昭和48年) 第2回日本陶芸展で、「練上線文鉢」が最優秀作品賞の秩父宮賜杯受賞
1988年(昭和63年) 紫綬褒章受章
1990年(平成2年) 日本陶磁協会賞金賞受賞
1993年(平成5年) 4月15日重要無形文化財保持者に認定
2003年(平成15年) 茨城県笠間市にて死去

靉嘔(あい・おう、英語: Ay-O、1931年5月19日 – )は、日本の美術家。1960年代のフルクサスに、同運動の国際的な活動の初期から関わったことで知られる。本名は飯島 孝雄(いいじま たかお)。茨城県行方郡玉造町(現・行方市)出身。「虹のアーティスト」として知られている。

人物・来歴
1961年、オノ・ヨーコがジョージ・マチューナスに紹介し、1963年に正式にフルクサスに加わった。「Finger Boxe」という一連の作品とフルクサス時代の「イヴェント」で有名になった。ジョージ・マチューナス、エメット・ウィリアムス(en:Emmett Williams)、ディック・ヒギンズ(en:Dick Higgins)、ナム・ジュン・パイクと親密なかかわりのなかで仕事をした。
フルクサス以前、瑛九が創設した「デモクラート美術家協会」で、キャリアをスタートさせた。同協会は、芸術的自由と独立を美術制作の世界に推進した。このことの靉嘔への影響は、large Xを描いた彼の初期の一連の作品に見出される。なぜなら彼自身がまだまだオリジナルじゃないものだと考えている作品だからだ。
日本には、「デモクラート美術家協会」に近い別の独立的運動が存在した。蒐集家・久保貞次郞の「創造美育」(Biiku)がそれだが、美術教育における自由の育成を推進した。「創造美育」のアプローチは、ナチュラルに「素朴派」の形式を推進し、久保は、社会における美術蒐集を広げるために「小コレクターの会」(Small Collector Society)を推進している。この両運動が福井県と靉嘔を特異に結びつけた。

小川 芋銭(おがわ うせん、本名:小川茂吉、幼名:不動太郎、男性、1868年3月11日(慶応4年2月18日) – 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家である。

来歴・人物
小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。
生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。
身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。
芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。
芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた。
贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。

年表
1868年 – 江戸の牛久藩邸で生まれる。幼名、不動太郎。
1871年 – 廃藩置県により新治県城中村に移住する。
1879年 – 牛久小学校下等小学校第三級を卒業し上京、小間物屋に奉公する。
1880年 – 桜田小学校尋常科第三級後期を卒業。
1881年 – 本多錦吉郎の画塾、彰技堂に入り洋画を学ぶ。
1887年 – 尾崎行雄の推挙を得て、『朝野新聞』に客員として入社する。
1888年 – 磐梯山噴火の惨状をスケッチし新聞に掲載。
1893年 – 父親の命により牛久に戻り農業に従事する。
1896年 – 渡辺鼓堂の推奨により『茨城日報』(後の茨城新聞)に漫画が採用される。
1900年 – 句会『水月会』に入会。
1904年 – 幸徳秋水らが主催する『平民新聞』に漫画を描き始める。文芸運動の『木星会』の結成に参加。
1908年 – 初の画集『草汁漫画』を刊行。
1911年 – 俳誌「ホトトギス」の表紙画・挿絵を描く。
1911年 – 東京・大阪の三越で漫画展を開く。
1915年 – 川端龍子らと『珊瑚会』設立。
1917年 – 珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められ日本美術院同人に推挙される。
1923年 – 茨城美術展の顧問になる。
1935年 – 帝国美術院参与となる。
1938年 – 牛久の自宅で死去。

川原井 正(かわらい ただし、1906年(明治39年)2月18日 – 2008年(平成20年)11月20日)は、日本の洋画家。茨城県出身。 進藤章を会長とする「菁々会」の会員であり、発起人の一人である。

来歴
1906年(明治39年)茨城県東茨城郡鯉淵村大字五平(現・茨城県水戸市五平)で父、熊四郎と母、ちよの 四男として生まれる。
1912年(明治45年)東茨城郡鯉淵村尋常高等小学校に入学、1920年(大正9年)同校卒業。
1922年(大正11年)7月上京し、荒川区尾久町1丁目514番地に落ち着くも翌年関東大震災に遭遇する。
1924年(大正13年)川端画学校に入学しここで学ぶも、やがて1926年(大正15年)に本郷絵画研究所に移り、岡田三郎助画伯に師事。春台展にも数回出品する。
1931年(昭和6年)古典協会の会員となり約4年間青山研究所で制作を続け、新宿三越等での協会展に出品する。丁度この頃読売新聞社で油絵技法の講習会が開かれ、西洋古典のセオリーと技法をやったが、絵には時代感覚とか精神とかがなければならないので、古典そのままでいいとは思われない。所謂古典技法のマンネリ化に限界を感じた。そこで「今後の行うべき絵画に対する表現方法など型枠にはめられない個性を尊重し、自由に想いのままに描く、対象物の中に潜んだものを抉り出しこれをキャンパスに描きたい」との思いを強くした。同様の考え方を強烈に持っていた進藤章ら数名ともこれからの生き方や進むべき道などを真剣に協議した。
そこで当時の画壇から背を向けた新しい一派として、1939年(昭和14年)「菁々会」を結成した。会長は進藤章で事務所は進藤章宅(瀧野川区田端672)に置いた。そして同年11月、第1回菁々会展を銀座・三昧堂画廊で開催した。
その後場所を変えながら毎年開催したが特に第3回菁々会展は銀座・菊屋画廊での開催で、初日が1941年(昭和16年)12月9日からであり、正しく太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の翌日ということで開催が危ぶまれたが、真剣に熟慮に熟慮を重ね戦況を冷静に見極めて開催を断行したのであった。誠にも厳しい中での開催であった。その時の様子の一端を進藤章は次の様に記している。即ち「会期中今年も亦川原井氏が毎日会場の番をしてくれる。午後四時ともなれば皆の同人が申し合わせた様に集まって来る。会場の片隅に置かれた瀬戸の火鉢をかこんで其処に置かれた数個の椅子、椅子の上には夕刊と号外とがちらばっている。海、陸、空軍の大きな戦果を盛って」と。しかしこの展覧会から新たに葛西康(後・秋田大学教授、一陽会会員ともなる)も参加し新たな会員となって「菁々会」も一段と盛り上がった。しかしその後戦争も次第に苛烈となり1944年(昭和19年)第6回展を銀座・菊屋画廊で3日間のみの開催をもって菁々会展の中止のやむなきに至る。
1942年(昭和17年)5月には進藤章の紹介で、曹洞宗常堅寺の住職で教師をしていた及川英雄の長女、ちゑと見合い結婚をした。やがて住まいも荒川区尾久町から渋谷区幡ヶ谷中町(後、渋谷区笹塚に住居表示変更)に移転した。しかし戦争で総てを焼失し先ず何より家族を養い、生きて行かなければならなかった。これは単に菁々会会員だけの問題ではなく、日本国中の大問題でもあった。  そこで先ず絵筆を断ち友人から乞われるまま友人の経営するメーターなどをつくる計器製造会社に勤め、小企業であったので営業活動など不慣れな仕事なども無我夢中でこなして行った。そして63歳の時役員定年で退職した。しかし絵に対する最も大切な充実期・完成期を台無しにしてしまったが少しずつ絵筆を執るように心掛け、努力し、作画活動を開始した。
丁度その頃、生き残った同志・進藤章、疎開して秋田県秋田市に在住していた葛西康と3人で1969年(昭和44年)「菁々会」を復活させ事務所を渋谷区笹塚の自宅に置き、その年(昭和44年)の11月銀座・月光荘ギャラリーで第7回菁々会展を開催した。その後毎年場所をかえて開催をした。
しかし会長の進藤章は体調を崩し、やがて喉頭癌の手術をして声帯が摘除され完全に発声が出来なくなり総て筆談となったが、「明治魂なる強靭な精神力」で他界する寸前の第11回菁々会展まで格調高い作品の発表を続けた。
1976年(昭和51年)5月18日進藤章 永眠 享年76
1976年(昭和51年)10月追悼進藤章第12回菁々会展を銀座・ゑり円画廊で葛西康と二人で開催した。
1981年(昭和56年)10月には銀座・月刊美術画廊にて葛西康と油絵二人展を開催した。
1986年(昭和61年)には住まいを東京都町田市鶴川に移転し、次女の嫁いだ冨田一家と同居生活に入る。アトリエで作画活動するもやがて葛西康も病に倒れ1990年(平成2年)3月26日 永眠 満84歳だった。
たった一人きりになり、妻ちゑも2005年(平成17年)5月8日に行年94歳で他界して、完全に絵筆を断った。満93歳位までは一人で銀座の画廊まで出掛けたり、展覧会などにも行ったりしていたし、満100歳位まで散歩も日課にしていたが、やがて歩けなくなり、介護手当ての世話になり、2008年(平成20年)11月20日老衰で他界した。行年103歳の大往生であった。

河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 – 明治22年〈1889年〉4月26日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。

来歴
生い立ち

長唄の会 番組「連獅子」より

河鍋暁斎記念美術館 (埼玉県蕨市)

「閻魔と地獄太夫図」 制作時期不明 プライスコレクション 河鍋暁斎記念美術館にもほぼ同図様の作品がある
天保2年(1831年)、下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男としてに生まれる。父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家の藩士三田某の娘。天保3年(1832年)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷お茶の水の火消し屋敷(現本郷3丁目)に住み、甲斐姓を名乗る。同時に一家は揃って江戸に出ている。幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。兄に直次郎がいた。天保4年(1833年)、周三郎は母につれられ館林の親類、田口家へ赴いた。この時、初めて周三郎は蛙の写生をした。
修行時代
天保8年(1837年)、浮世絵師歌川国芳に入門。国芳は門弟に人を搏ち、組み伏せ、投げ飛ばし、また投げ飛ばされる様々な形態を注意深く観察すべきだと教えていた。若き暁斎は、この師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を片手に貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いたという。天保10年(1839年)5月、梅雨の長雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説を残す。
天保11年(1840年)、国芳の素行を心配した父により狩野派の絵師前村洞和に再入門。洞和は暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んだという。しかし翌年洞和が病に倒れたため、彼の師家にあたる駿河台狩野家当主の洞白に預けられた。弘化3年(1846年)には小石川片町からの出火で火消し屋敷も消失してしまうが、このとき火事の写生をしている。狩野派門弟時代の逸話に、鯉の写生の話がある。過労で疲れを覚えた暁斎は塾生たちと川遊びに出かけ、そこで3尺近い鯉を生け捕ることが出来た。暁斎は遊び仲間を置いて急いで画塾に戻り、この鯉のあらゆる部分を忠実に写生し、鱗の数をも正確に数え上げた。写生を終えると仲間たちは鯉を殺して食べようとしたが、暁斎は「この鯉はあらゆる部分を写生させてもらった以上我が師であり、礼を尽くして天寿を全うさせてやらねばなりません」と抗議した。暁斎の兄弟子は聞く耳持たず料理を始めようとしたが、突然鯉は激しく飛び上がり、結局暁斎の意見が通って近くの池に放たれた。後年、暁斎は自分に鯉を書く優れた技倆があるとすれば、それはこの事件によるものだとよく語ったという。
嘉永元年(1848年)に、現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)を制作している。翌嘉永2年(1849年)、洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられる。狩野派の修業は、橋本雅邦によると一般に入門から卒業まで11、2年かかると記しており、9年で卒業した暁斎は優秀といえる。さらに嘉永3年(1850年)11月には館林藩(秋元家)の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称している。
独立
嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。しかし一方で暁斎は、土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の画流も広く学んでいた。その数年後の安政2年(1855年)10月2日に起こった安政江戸地震の時に、仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に出ることとなった。この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第1号であったが、それは歌川豊国風の女性と鯰の格好をしている遊び人の組合せで、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言いがたいものであった。またこの時期、蒔絵師菱田八十八のもとで下絵を描いている。安政4年(1857年)、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継承した(甲斐家は3年後、暁斎の兄直次郎が継承)。
安政5年(1858年)、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博した。他に万延元年(1860年)頃から周麿と称して錦絵を描き始めている。ほかに酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵などの号があり、文久3年(1863年)、歌川派の絵師による合作「御上洛東海道」に参加した。明治4年(1871年)以後、号を「暁斎」と改める。明治18年(1885年)には湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった。
明治の暁斎
明治元年(1868年)、徳川家の転封とともに暁斎の母と甥(亡くなった兄・直次郎の息子)は静岡へ移る。明治3年(1870年)10月6日、上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして捕えられ未決囚の入る大番屋へ。翌年に放免、後は「暁斎」を名乗る。
幕末から絵日記をつけ始めたようで、亡くなる1か月前のものまで残っている。20年も書いたが発見されているのは合わせて4年分である。書かれた人の似顔絵が似ているばかりでなく、ありとあらゆる事を記録し、金の支払いから、画料、毎日の天候まで記し、気象庁でも毎日の天気の記録は明治14年(1881年)からであるから、彼の記録は貴重である。
明治5年(1872年)仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(第三編)、明治7年(1874年)『西洋道中膝栗毛』(第11編の一部、第12~15編)などの挿絵を描く。明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に立てられる。明治9年(1876年)、エミール・ギメらの訪問を受ける。ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競い合った。
明治13年(1880年)、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館蔵)を4時間で描く。明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓蔵)が「妙技二等賞牌」を受賞。暁斎はこの作品に百円という破格の値段をつけ、周囲から鴉一匹にその値段は高すぎると非難されると「これは鴉の値段ではなく長年の画技修行の価である」と答えたという[5]。これに心意気を感じた榮太樓本舗店主・細田安兵衛は本当に百円で購入して、暁斎は面目を保った。その後この鴉は「百円鴉」と呼ばれ暁斎は画名を高めるとともに、狩野派の正当な絵師として世間に認知されるきっかけとなった。
コンドルとの交流
同じ明治14年、お雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルが入門。コンドルは暁斎からイギリスの暁斎を意味する「暁英」の号を与えられるほど親しく、2人の交流は前述の暁斎の絵日記にも見られる[6]。この絵日記では他にも、明治3年(1870年)頃から明治22年(1889年)3月頃の暁斎の私生活の状況が、ある程度把握できる。例えば明治17年(1884年)2月26日に、「客山本、フキノトウ、大島屋、卵。笹之雪参る」とあり、大島というのは、尾形月耕に代わって月耕の弟・名鏡次郎吉の面倒を見ている親戚のことではないかと思われる。笹之雪は、台東区根岸にある暁斎馴染みの豆腐専門料理屋である(正確には「笹乃雪」、今日でも根岸名物で著名)。同年狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野宗家の狩野永悳に入門し、駿河台狩野家を継承した。
岡倉覚三(天心)、フェノロサに東京美術学校(現東京芸術大学の前身)の教授を依頼されたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のためコンドルの手を取りながら逝去。暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、戒名は本有院如空日諦居士。墓石は遺言により、暁斎が好んで描いた蛙に似た自然石が用いられている。
門人
暁斎の門人としては、二番目の妻から生まれた次男の暁雲、三番目の妻から生まれた暁斎の長女・河鍋暁翠の他、真野暁亭、暁亭の父であった暁柳、早川松山、長井一禾、土屋暁春、辻暁夢、斎藤暁文、彫金家となった海野美盛、松下久吉、林法泉、島田友春、大江学翁、昆徳爾(ジョサイア・コンドル)、鹿島暁雨(清兵衛)、尾形月耕の弟・滝村弘方らがいた。『河鍋暁斎翁伝』には暁雲の話として、前述の松山、暁柳、暁亭、暁春、暁夢、美盛、学翁、法泉、コンドル、暁雨、友春、弘方のほか、松下久吉、模様師の小島石蔵、小島豊吉、上絵師の石崎守蔵、姓不詳の久八、医師の本郷某、彫刻師の仙太郎、山本竜洞、杉本留吉、柴田某の合計22人の名前をあげている。さらに小林清親、綾部暁月、吉田暁芳、三宅花圃が暁斎の門人としてあげられる。

木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 – 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。

伝記
明治9年(1876年)、茨城県笠間市に旧笠間藩士・木村信義の長男として生まれる。本名は信太郎。父は廃藩後に帰農した後、笠間銀行(現・常陽銀行)を設立、頭取となる程の実業家で郷党の人望家だった。はやくも2歳頃から地元の南画家・桜井華陵に師事、12歳頃には「武山」の号を用いている。武山の号は、笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名という。明治23年(1890年)、地元の小学校を卒業後に上京、東京開成中学校に入学するが、翌年、東京美術学校普通科に編入する。ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け、以後画家としての人生を観山と共に歩むことになる。またこの頃、川端玉章の画塾・天真社で学ぶ。
明治29年(1896年)9月に卒業後も同校に留まり、日本画研究科へ進む。同年、日本絵画協会第一回展に「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受ける。明治31年(1898年)2月には平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。同年10月に創立された日本美術院に参加、最初は副員だったがのち正員となる。明治35年(1902年)頃から先輩の下村観山との強い絆が生まれたようで、谷中初音町の八軒家に観山や大観と共に住み、朦朧体への批判で世評が厳しくなった美術院を支える中心作家としての立場が明快になっていく。
明治39年(1906年)、観山の推挙により岡倉らの五浦移転に、一家をあげて同行する。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めた。大正3年(1914年)、大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力した。昭和12年(1937年)、脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名をとる。昭和17年(1942年)、喘息のため死去。法名は泰霊院映誉広彩武山居士。
作品初期は歴史画が多く、25歳頃から主に花鳥画を描く。大正初期は琳派の手法を用いた壮麗な作風が特徴的である。1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを切っ掛けに、後年は仏画を多く描いた。優れた色彩感覚を持ち、日本美術院きってのカラリストと評された。

小堀 進(こぼり すすむ、1904年1月22日 – 1975年3月16日)は、茨城県出身の水彩画家である。水彩連盟の設立メンバー。水彩画家として初めて日本芸術院会員となる。潮来市名誉市民。
郷里の霞ヶ浦・水郷をはじめとした国内外各地の風景を、鮮やかな色彩と単純化した大胆な構図でダイナミックに描き、水彩画界の発展に大きな影響を与えた。

略歴
1904年、茨城県行方郡大生原村(現在の潮来市)に生まれる。
1922年、佐原中学校卒業後、黒田清輝主催の白馬会葵橋洋画研究所に入所。
1932年、新興水彩運動の蒼原会に入会。『うすれ日』で第9回白日会展に初入選。
1940年、春日部たすくらと水彩連盟を結成。
1969年、日展理事となる。
1970年、改組第1回日展に出品した『初秋』により日本芸術院賞受賞[1]。名古屋芸術大学教授に就任。
1974年、日本芸術院会員となる。
1975年、東京都で死去。

雪村(せっそん、永正元年(1504年)? – 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称す。

略歴

呂洞賓図(重要文化財)大和文華館蔵
常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれる。近くの下村田には雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。本来なら長男として家を継ぐはずだが、雪村の父は他の妻の子を跡取りとしたため(『本朝画史』)、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字で、雪村も同系統の僧の下で禅僧の修行を積んだと考えられる。同寺は佐竹氏の菩提寺で絵画をはじめとした多くの寺宝を所蔵し、これらの作品は雪村の画風にも影響を与えたという。
50歳半ば頃、関東各地を放浪する。天文15年(1546年)会津で蘆名盛氏に絵画の鑑賞法を授け(『丹青若木集』)、天文19年(1550年)には小田原や鎌倉を訪れ、多くの名品に接し画僧達と交流したらしい。60歳半ば以降は奥州を中心に活動、最晩年は田村氏の庇護のもと現在の福島県の郡山にある庵に移り住み、そこで没したとされる。その生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしないが、記録によれば少なくとも82歳までは絵を描いていたことがわかっている。
名前から分かるように、雪村自身、雪舟を強く意識し尊敬していたようだが、画風に影響を受けなかった。関東の水墨画のなかでも極めて独自性が高い画風を確立した。後の尾形光琳は雪村を好んで、模写を幾つも試みており、雪村が使っていたといわれる石印をどこからか入手し、小西家伝来史料の中に現存する。更に光琳の代表作「紅白梅図屏風」に、雪村筆「あくび布袋・紅梅・白梅」(三幅対、茨城県立歴史館蔵)の影響があるとする意見もある。谷文晁派の絵師佐竹永海は、雪村の末裔と自称している。
明治時代以降は評価が低い時期もあり、作品は海外へ流出したが、1974年に東京国立博物館で展覧会が催されるなど近年は再評価の機運が高まり、様々な画集で紹介され日本美術史上での価値が確立した。その作品は150以上から200点近くが現存している。

立原 杏所(たちはら きょうしょ、天明5年12月26日(1786年1月25日) – 天保11年5月20日(1840年6月19日))は、江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。水戸藩7代藩主・徳川治紀、8代・藩主斉脩、9代藩主・斉昭の3代に仕える。本姓は平氏。諱は任。字は子遠。甚太郎のち任太郎とも。東軒、玉琤舎、香案小吏、杏所と号した。杏所の号は、生まれた横竹隅の庭内に杏樹があり、そこから取ったとも言われる。

生涯

杏所筆 葡萄図 天保6年(1835年) 紙本墨画淡彩 重文 東京国立博物館
水戸横竹隈に水戸藩の藩儒であった立原翠軒の長男として生まれた。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。祖父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓。父は水戸藩彰考館総裁・立原翠軒。長女は崋山門下十哲のひとりに数えられる南画家・立原春沙、三男に幕末の志士・立原朴二郎。子孫には大正時代の詩人で建築家の立原道造がいる。
幼い頃、林十江に画筆を学ぶ[1]。寛永8年(1796年)、父の門下で鮎画や真景図の名手であった小泉斐(壇山)などに師事[2]する。また、伊勢国寂照寺の僧・月僊にも学び、付立技法による山水画の樹木や、花鳥画の筆勢が強く爽快な表現などに影響が見られる。享和3年(1803年)に父が隠居し家督を継いで(家禄200石)先手物頭、扈随頭などの職を務めた。
文化9年(1812年)、江戸小石川藩邸勤務となってからは谷文晁に師事し、中国の元代から明、清の絵画を閲覧、場合によっては借り受けて模写をしている。とくに惲南田、沈南蘋の画風を学んだという。また宮部雲錦にも画技を習い、その人となりに影響されたという。その作品には謹厳にして高い品格を漂わせ、すっきりと垢抜けた画風が多い。渡辺崋山・椿椿山・高久靄厓とも交流があり、華山が蛮社の獄で捕縛された時には、椿山らと共に不自由な体をおして救出に助力・助言をし、藩主斉昭の斡旋を図ろうとしている。その他、業績としては日本画多数。著書に『水滸伝印譜』、『近世書画年表』、『墨談評』などがある。
長女の春沙は渡辺崋山に入門し画家として閨秀を揮った。
最晩年に脚気を患い、天保11年(1840年)、小石川の藩邸で死去。享年56(満54歳没)。墓は文京区向丘の海蔵寺と、常澄村(現在の水戸市常澄)六地蔵寺。

逸話
ある時、立原杏所が講義のため訪れた処で、馬を繋ぐことを忘れたため、辞去の際、馬の姿がなかったという。客ととも馬を探したら数町先の大洲侯の藩邸の門外にいたという。
主君・徳川斉昭が散楽を好んで天狗の面を作らせたが、鼻があまりに高すぎるため、作り直させようとしたところ、杏所は「それくらいのことなら私にもできる」といい、鋸で切り落とし、使いものにならなくなってしまった。杏所の放達ぶりを示す逸話として伝わっている。
また、杏所は斉昭から目前で書画を行うことを命じられたという。杏所は書画をよくしたが画工の様を見られるのは好まなかった。そこで、使い古しの巾を袂から出し、それを硯に浸して紙に投げつけたところ、墨が飛び散り斉昭の袴を汚したという。斉昭が「何をするのか」ととがめると、「葡萄を画いてご覧に入れます」といい、既にその書画を完成させ、一座を感嘆させたという。
杏所は巻菱湖と交誼を結んでいたが、ある時、2人で酒楼にて酒を酌み交わしていると菱湖が酔いに任せ、「あなたの名は任で私の名は大任。あなたはわたしに及ばない」とからかったという。杏所は色をなし「任の名が嘘名でないことをお目にかけようか」といって、菱湖を楼下に投げてしまい、菱湖はあやうく足を挫きそうになったという。
大橋淡雅の娘・巻子に恋焦がれるも淡雅の反対で想いは報われることはなかった。傷心を癒すためか巻子への想いを募らせて楊貴妃図を描いている。

利根山 光人(とねやま こうじん、1921年9月19日 – 1994年4月14日)は日本の美術家、画家。メキシコを題材とした情熱的な作品を数多く残し、太陽の画家と呼ばれた。茨城県結城市出身。

人物概要
6人兄弟の末子として生まれる。幼時より創作活動を行っていた。早稲田大学高等師範部国語漢文科(現在の教育学部国語国文学科)卒業後は、静岡県の農業学校、栃木県立烏山高等女学校、海城学園に国語教員として勤務した。その後、一時教員生活を去り、メキシコなどへ渡航した。シケイロス、オロスコなど壁画作家の影響を受ける。帰国後は聖徳学園高等保育学校、聖徳学園短期大学などで教えながら、創作活動を行う。
メキシコのマヤ文明をテーマにした作品(リトグラフ、油彩)を数多く残し、日本芸術大賞やメキシコにおける最高文化勲章であるアギラ・アステカ・ブラーカ賞などを受賞した。版画製作開始後は瑛九や泉茂や早川良雄らによって結成されたデモクラート美術家協会に参加。晩年は岩手県北上市展勝地近くにアトリエを構え、創作活動をした。アトリエは現在、利根山光人記念美術館として公開されている。
海城高校時代の教え子に窪島誠一郎がいる。

中村 彝(なかむら つね、1887年7月3日 – 1924年12月24日)は、大正期にかけての洋画家である。

年譜
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれる。男3人女2人の5人兄弟の末子であったが、兄2人と姉1人は彝が10代の時に相次いで亡くなる。父は彝が生まれた翌年に没しており、母も彝が11歳(満年齢、以下同)の時に没した。
1907年(明治40年)、祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、彝はこの地で水彩スケッチを始めた。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返している。
1909年(明治42年)第3回文展に初入選。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり、この作品は実業家の今村繁三が購入する。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・荻原碌山(おぎわらろくざん)や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関係が伺われる。彝は、俊子に求婚するが反対され、この失恋が元で煩悶することになる。
1916年 新宿区下落合にアトリエを構える。以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでの創作を行う。
1920年(大正9年)には前述の今村繁三邸でルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けた。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられる。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 – 1952年)はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。
1921年(大正10年)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。彝は1921年(大正10年)から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。
1924年(大正13年)、彝は37歳の若さで亡くなった。死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の彝の自画像とは別人のように頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完)。
2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。

那波多目 功一(なばため こういち、1933年11月8日 – )は、茨城県出身の日本画家。
日本芸術院会員、日本美術院同人・評議員。日本画家那波多目煌星は父。歌人花香煌星は弟。松尾敏男に師事。写生に基づく繊細で優雅な画風が特徴で、四季の花をモチーフにした作品が多い。

略歴
1933年、茨城県那珂湊市(現在のひたちなか市)に生まれる。
1950年、第35回院展に「松山」が初入選。
1951年、第7回日展に「秋影」が初入選。
1952年、茨城県立那珂湊第一高等学校を卒業。
1983年、第68回院展において「廃園」が奨励賞受賞。
1984年、第69回院展において「うすれ日」が日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待となる。
1985年、春の院展において「小春日」が外務大臣賞・奨励賞を受賞。
1986年、第71回院展において「耀」が日本美術院賞・前田青邨賞を受賞。
1990年、第75回院展において「月輪」が日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院同人となる。
1995年、第80回院展において「寂」が文部大臣賞を受賞。
1999年、第84回院展において「富貴譜」が内閣総理大臣賞を受賞
2000年、「富貴譜」が日本芸術院賞を受賞。日本美術院評議員となる。
2002年、日本芸術院会員となる。
2005年、芸術文化の振興に大きく貢献したとして茨城県から特別功績者として表彰される。
2008年、旭日中綬章受章。

服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17日 – 1995年3月20日)は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。
1968年二科展に出品した『水郷』が日本芸術院賞を受章。1987年日本芸術院会員。

山下りん(山下里舞 やました りん、安政4年5月25日(1857年6月16日) – 1939年(昭和14年)1月26日)は日本の画家である。日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。そのためしばしばイリナ山下りんとも言及される。

略歴
常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。江戸に出て浮世絵師に学び、川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。
同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都・ペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエルが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。
帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン製作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。
イリナ山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後には、肖像写真にも土産としてもらったワンピースを着ることもなく粗末な木綿の着物で写り、留学経験を誇る風もなく、機関紙である正教時報にも留学体験を書く事もなく、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに勤めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある。
ロシア革命後は正教も衰えたため1918年(大正7年)61歳で郷里の笠間に戻り、晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。1901年(明治34年)44歳で制作、個人所有のイコン、ウラジーミルの聖母は2005年に美の巨人たちでとりあげられた。

横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) – 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。

経歴
1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると、急遽結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請、見事に東京美術学校へと合格した。1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。
美術学校を卒業後、京都に移り仏画の研究を始め同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に校長・天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年日本美術院創設に参加した。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せはじめたため、大観は春草と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)にはこの年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員を務め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。
以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となり、1937年(昭和12年)にはこの年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年、帝国芸術院会員となる。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、脳は現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されている。

松本 楓湖(まつもと ふうこ、天保11年9月14日(1840年10月9日) – 大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家である。

経歴
天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村[1](のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。通称藤吉郎。父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。
楓湖は幼い頃から絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものだが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師の歌川国貞への弟子入りを頼むが、断られて帰国している。2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学ぶ。一峨は狩野派や琳派、南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだ。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描いている。
一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改める。5年後には塾頭となったが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られた。自身も剣術を修め、水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。
翌慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心する。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改める。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因む。その一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いている。明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当している。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したという。
明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。

画風

山本勘助画像(部分、「武田二十四将図」のうち)
楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われる。しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられる。また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められる。また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立つ。また、旧派の画家と見做されがちであるが、保守的な日本美術協会には反対している。
門人
明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約300人とも言われる門下生を輩出した。本人は不干渉の放任主義で投げやり教育と言っていたが、特に初心者には親切で温情に富んだ指導をしたという。また、楓湖や容斎が模写した古名画の粉本模写を奨励し、モデルを用いた人物写生も行ったという。主な門下生に村岡応東、中島光村、今村紫紅、牛田鷄村、速水御舟、島崎柳塢、鴨下晁湖、高橋広湖、前田錦楓、小茂田青樹、村上鳳湖、岩井昇山、松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖、木本大果、中島清之、高橋松亭(甥)、富取風堂、上原古年、田中以知庵、永峰秀湖、坂巻耕漁、大久保楓閣、森作湖仙[などがいる。

森田 茂(もりた しげる、1907年(明治40年)3月30日 – 2009年(平成21年)3月2日)は、茨城県出身の洋画家である。

経歴
茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に生まれ、東京都に住んでいた。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民、筑西市名誉市民。
原色を多用し、色を塗ったというより絵具を擦り付けたという様な、力強い筆致の重厚な画風が特徴である。初期の作品は、人形や人物の絵が多いが、1965年(昭和40年)の東南アジア巡遊後は風景画も多く描くようになる。1966年(昭和41年)に偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能である黒川能に強く惹かれ、この黒川能を描き続けることをライフワークにしており、このシリーズの中の一作で1970年(昭和45年)の日本芸術院賞を受賞している。その他、舞妓を描いたシリーズなどもある。

年譜
1925年(大正14年) 茨城県師範学校本科第二部(現在の茨城大学)を卒業。真壁郡大田尋常高等小学校(現在の筑西市立大田小学校)の教員となり、子供たちに絵画を教える
1926年(大正15年) 第3回白牙会展に『静物』が入選
1928年(昭和3年) 大田尋常高等小学校を退職。画家を志し上京する
1931年(昭和6年) 同じ茨城県出身の熊岡美彦が開設した熊岡洋画研究所に入所
1932年(昭和7年) 飛騨高山に写生旅行
1933年(昭和8年) 第1回東光展に『白衣』が入選
1934年(昭和9年) 第15回帝展に『神楽獅子の親子』が初入選。第2回東光展に『稽古』が入選
1935年(昭和10年) 第1回大東会絵画展に『飛騨祭』が入選
1936年(昭和11年) 文部省美術展覧会鑑査展に『飛騨広瀬の金蔵獅子』が入選
1938年(昭和13年) 東光会会員となる。第2回新文展で『金蔵獅子』が特選
1946年(昭和21年) 第2回日展に『阿波人形』が入選
1956年(昭和31年) 日展審査員、東光会委員
1962年(昭和37年) 日展評議員
1966年(昭和41年) 第9回新日展で『黒川能』が文部大臣賞受賞
1970年(昭和45年) 第1回改組日展出品作品『黒川能』が日本芸術院賞受賞[1]
1971年(昭和46年) 日展理事
1975年(昭和50年) 日展監事
1976年(昭和51年) 日本芸術院会員
1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章、日展常務理事
1980年(昭和55年) 東光会初代理事長
1982年(昭和57年) 日展顧問
1989年(平成元年)文化功労者
1992年(平成4年) 下館市名誉市民に推挙
1993年(平成5年) 文化勲章受章、茨城県名誉県民に推挙
2007年(平成19年) しもだて美術館および茨城県近代美術館において100歳記念展開催
2009年(平成21年) 肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。101歳没

浅賀 正治(あさか まさじ、本名:浅賀正二、1953年 – )は、日本の彫刻家(石彫家)、社団法人太平洋美術会会員、羽黒石材商工業協同組合会員、株式会社綜合美術工房代表取締役社長。山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)出身で、茨城県桜川市在住。

経歴
1953年、山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)に生まれる。
1975年、太平洋美術学校彫刻科に学ぶ。
1976年、彫刻家・小金丸幾久に師事する。
1985年、第7回「ブルガリア・ガブロヴォ国際ビエンナーレ」に出展し、金賞を受賞する。
1986年、東京都品川区「非核平和都市品川宣言」1周年記念モニュメント「平和の誓い」を制作する。
1987年、第8回「ブルガリア・ガブロヴォ国際ビエンナーレ」に出展し、入選する。
1992年、岩瀬石彫展覧館「ROCK MUSEUM」(県博物館協会加盟)を主宰開館する。
「市民のための石彫講座」を開始する。
1994年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感I」ジャティン・ヌリエフと2人展を開催する。
1996年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感II」シバトコ・シロマシキと2人展を開催する。
ジョラム・マリガ講演会 国際交流基金文化人招聘プログラムを開催する。
1997年、茨城県より「茨城県国際交流奨励賞」を授与される。
1998年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感III」ミラン・アンドレエフと2人展を開催する。
2000年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感IV」イワン・ルセフと2人展を開催する。
2001年、山形県鶴岡市渡前地区文教施設計画実現記念モニュメント「千年の船」を制作する。
国立オリンピック記念青少年総合センター支援事業”親子で石彫刻”講座。
「TVチャンピオン ― 千年のアート・全国石職人選手権 ―」(テレビ東京放送日:6月14日)に出場する。
同番組の決勝ラウンドにて、巨大オブジェ「新島の夏の門」を制作する。
2002年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感V」スネジャナ・シメオノヴァと2人展を開催する。
2003年、神奈川県大和市立大和小学校創立100周年記念モニュメント「きずな」を制作する。
2004年、ブルガリア共和国を初訪問し、ブルガリアの石の街・イリデンツィ石彫制作する。
ブルガリア共和国・文化大臣と「石の街に石の学校構想」について会談する。
ブルガリア共和国・文化大臣より「ブルガリア共和国名誉証」を授与される。
2005年、「アーティストインレジデンス―石彫千年の交感VI」ステファンルタコフと2人展を開催する。
大洗ライオンズクラブ創立40周年記念事業にて、モニュメント「磯遊び」を制作する。
独立行政法人国際交流基金より、第21回「国際交流基金地球市民賞」を授与される。

木内克(きのうち よし、1892年6月27日 – 1977年3月8日)は、茨城県水戸市出身の彫刻家である。
渡仏し、アントワーヌ・ブールデルの指導を受けた。二科展などに多数出品し、テラコッタの作品を多く残した。妻の木内てるも彫刻家。

略歴
1892年(明治25年)茨城県水戸市に4人兄弟の末っ子として生まれる。
1912年(明治45年)20歳で上京し、彫刻家の海野美盛のもと彫刻を学ぶ。
1914年(大正3年)朝倉文夫の彫塑塾に入門。
1921年(大正10年)渡英。半年間ロンドンに滞在し、その後パリにわたる。そこでブールデルの指導を受ける。
1927年(昭和2年)窯業家のラシュナルを訪ね、陶器を始める。
1930年(昭和5年)テラコッタ技法に習熟。
1935年(昭和10年)帰国。以後二科展などに出品。
1938年(昭和13年)「木内克作陶展」開催。
1948年(昭和23年)新樹会展に出品し始める。
1970年(昭和45年)第一回中原悌二郎賞受賞。
1972年(昭和47年)記録映画「土くれ」が完成。
1974年(昭和49年)第29回茨城国体モニュメントに「女神像」製作。
1977年(昭和52年)急性肺炎のため84歳で死去。

蛭田 二郎(ひるた じろう、1933年 – )は日本の彫刻家、教育者。 日本芸術院会員、日展常務理事、日本彫刻会理事長、岡山県美術家協会会長、岡山大学名誉教授、倉敷芸術科学大学名誉教授・元芸術学部長。
茨城県出身。彫刻家の小森邦夫に師事。
精妙で感性豊かな作風で日展を中心に多くの女性像を発表しているが、岡山県岡山市の桃太郎大通り沿いにある『ももたろう』シリーズの彫刻群や、郷里の茨城県北茨城市にある『七つの子』の像など子供の世界をあつかった作品も多い。また岡山大学、倉敷芸術科学大学などで教鞭を執り、多くの後進を育成してきた。

略歴
1933年、茨城県北茨城市に生まれる。
1958年、茨城大学教育学部を卒業する。第6回日彫展に「少女の首」で初入選する。
1962年、第10回日彫展において「ポーズ」で奨励賞を受賞する。
1963年、日彫会会員となる。
1965年、第8回新日展に「L字型のポーズ」で初入選する。
1966年、第9回新日展において「ひとり」で特選を受賞する。
1967年、第10回新日展において「おんな」で特選を受賞する。
1968年、第11回新日展に委嘱出品した「女’68」で菊華賞を受賞する。
1969年、第1回改組日展の審査員となる。
1970年、日展会員となる。
1972年、岡山大学教育学部講師となる。
1973年、岡山大学教育学部助教授となる。
1979年、岡山大学教育学部教授となる。
1984年、日本彫刻会運営委員となる。
1990年、日展評議員となる。
1995年、岡山大学名誉教授、倉敷芸術科学大学芸術学部長となる。
1996年、第28回改組日展において「告知」で文部大臣賞を受賞する。
1997年、岡山県文化賞を受賞する。
1999年、文化功労として山陽新聞賞を受賞する。
2000年、倉敷芸術科学大学院芸術研究科長となる。
2002年、日本彫刻会理事、日展理事となる。第33回改組日展に出品した「告知-2001-」で日本芸術院賞を受賞する。岡山県文化特別顕彰、第35回三木記念賞を受賞する。
2005年、日本芸術院会員となる。
2016年、茨城県北茨城市の公共の宿「マウントあかね」内に「蛭田二郎彫刻ギャラリー」開設。

市村 緑郎(いちむら ろくろう、1936年4月21日 – 2014年4月27日)は、茨城県下妻市出身の彫刻家、日本芸術院会員。

人物・来歴
茨城県立下妻第一高等学校卒業。
1961年 日展初入選。
1962年 東京教育大学芸術学科彫塑専攻卒業、同大学院に進むが6月に中退。
1977年 文部省在外研究員として渡欧
1983年 埼玉大学教授。
1986年 白日会会務委員、1987-1992年・彫刻部事務局長。
1987年 日展審査員。
2001年 日展評議員。
2002年 埼玉大学定年退官、名誉教授。崇城大学美術学科教授。
2005年 さいたま市文化賞。
2006年 日展理事、日本芸術院賞受賞。
2008年 日本芸術院会員。
2014年4月27日、間質性肺炎のため死去。78歳没。歿日付で正四位、旭日単光章。
埼玉大学内に、50周年を記念した氏がデザインした記念像が図書館前に2つある。

板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 – 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。
日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。

生涯
のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。
上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。
波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている。第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。
1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。享年92、満91歳。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。

轆轤(ろくろ)師・現田市松
波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松(前述)がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。
前述の「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。

観音像・香炉と鳩杖
波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた。。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日と1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた。。
また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82才となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80才以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80才となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた。

益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器。
毎年、ゴールデンウイークと11月3日前後に「益子大陶器市」が開催され、500を越える店舗が出て賑わっている。

歴史
江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。
量は豊富にあるものの、粗く精巧な器を作るには向かない陶土だったため、当初は水がめ・火鉢・壺などの日用品が主に製作されていたが、1927年より創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。 その後、1959年に加守田章二が開いた窯により、民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加わった。
1979年には通商産業省(現、経済産業省)より、伝統的工芸品に指定された。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。
特徴

益子焼(蕎麦猪口)
砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。
益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色を出す鉄釉である。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。
民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

著名な作家
濱田庄司
島岡達三
佐久間藤太郎
合田好道

小砂焼(こいさごやき)は栃木県那須郡那珂川町にて焼かれる陶器磁器半磁器。

沿革
水戸藩主、徳川斉昭が1830(文政13?)藩主になった翌年に、殖産興業政策として、陶土を探させる。 同年、12/10に小砂に陶土発見。(同政策より、常陸大田でも発見されている。)
1831(天保2)
通事伊藤友寿を京都に派遣、陶業の研究をさせる。甕説
1833(天保5)
瓦屋(現 茨城県水戸市瓦谷)で、築窯。
1834(天保6)
陶器出窯開始(4/26)
1838(天保9)
七面(神崎)に移動(瓦谷は廃止される)
1840(天保11)
小砂/町田/七面の体制になる。
1841
唐津より、陶工 伝五郎を招く
1851(嘉永4)
大金彦三郎により御用瀬戸試焼開始 (小砂焼の始まり)
1896(明治29)
村立大山田工業補習学校開設
1898(明治31)
小砂焼製陶講究所開設
1901(明治34)
会津本郷より岩田新吾招聘。磁器焼成開始
1907(明治40)
下野陶器株式会社設立。磁器大量生産
藩窯 ( 当時の資料では、御用瀬戸 御用陶器焼 と表現)して庇護されており。高札原稿が残されている。 。
現在も那珂川町小砂地区には数軒の窯元が存在し、閑静な焼き物の里を築き、日用雑器を焼き続けている。近郷には馬頭温泉郷があり、土産物向けの食器も多い。

特徴
小砂焼の特徴として、陶器、磁器(おもに青磁)、半磁器(国山窯のみ?)ともに作成されている。 陶器の特徴は何と言っても「金結晶」と呼ばれる黄金色の釉薬であり、素朴な意匠ながら瀟洒な上品さがある。他に桃色がかった辰砂釉も特徴的。
その他
徳川斉昭の殖産興業政策の一環として、那珂湊の反射炉を建造(1856 嘉永7)した際に、小砂の陶土を利用している。 また駅弁のお茶の容器が陶製だったころには、小砂でも量産されていた。 那須の御用邸の青磁のいくつかは、小砂焼である。
モースコレクションにも、小砂焼があるが、kosunaと表記されている。

みかも焼(三毳焼)

笠間焼(かさまやき)は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器。
春に行われる陶炎祭(ひまつり)には約50万人、秋に行われる陶器市である笠間浪漫にも多くの観光客が足を運ぶ。

概要
江戸時代中期の安永年間(1770年代)から作られ始めた。箱田村の名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている。のち笠間藩主の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治にかけては江戸に近い利点から、大量生産の機会を得て技術者や従事者も飛躍的に増えた。陶器商田中友三郎による「笠間焼」の広報・販路開拓が功を奏したという。以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。
特徴
関東ローム層から出土する笠間粘土や花崗岩の風化によってできた鉄分を多く含む蛙目(がいろめ)粘土と呼ばれる陶土によって作られる。笠間粘土は粘りが強く粒子が細かいため焼き上がりが丈夫であり、当時の日常雑器としては理想的な土だった。
「特徴がないのが特徴」と言われている。戦後、伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて各地から若い陶芸家たちが集まったためで、現在では安価で実用的な水瓶や徳利から芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれている。

著名な作家
松井康成
柴田宋休

梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる。別名に大鐘(おおがね)、洪鐘(おおがね、こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)などがある。

概要
「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものである。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。
仏教はインドに起源を持ち、アジア各地に広まった宗教であるが、梵鐘に関してはその祖形をインドに求めることは困難であり、中国古代の青銅器にその源流が求められる。殷・周時代から制作されている「編鐘」(へんしょう)という青銅器が梵鐘の源流と推定されているが、この「鐘」は全体に小型で、その断面形状は後世の梵鐘のような円形ではなく、杏仁形(アーモンド形)である[注釈 1]。中国製の梵鐘の古例としては、奈良国立博物館所蔵の陳の太建7年(575年)の銘をもつ作品がある。この太建7年銘鐘は、断面が円形であること、縦横の帯で鐘身を区切ること、鐘身を懸垂するフックの部分を龍身とすること、撞座を蓮華文とすることなどが後世の日本の梵鐘と共通しており、その祖形と目される。ただし、「乳」と呼ばれる突起状の装飾を付けない点は日本の梵鐘と異なっている。
梵鐘の日本への渡来については、日本書紀に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が562年、高句麗から日本に持ち帰ったとの記録が残っているが、現存遺品でこの時代にまでさかのぼるものはない。京都・妙心寺の梵鐘(国宝)は、内面に戊戌年(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々の銘があり、製作年代と制作地の明らかな日本製の梵鐘としては最古のものとされている。
高麗時代以前の朝鮮鐘は朝鮮半島のほか日本にも多数伝来し、福井県常宮神社の鐘が年代の明らかなものとしては最古(唐の大和7年・833年)とされている。日本の梵鐘は中国の様式を倣ったものが大半で、朝鮮鐘を倣ったものはごく例外的なものとされている。
梵鐘の主な役割は本来は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 – ぎょうしょう、昏鐘 – こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。
青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もある。小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる。
響きをよくするために鋳造の際、指輪(金)を入れることがあるといわれ、江戸時代には小判を鋳込んだ例もある。雅楽と鐘の関係を記す文献もある。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。
最近では特に都市部で梵鐘の音を騒音と捉えた人から寺や警察に梵鐘を撞くことをやめるよう苦情が来ることが増え、撞き手がいない寺が増えていることもあって、除夜の鐘も含めて梵鐘を撞く寺が減ってきている。
撞き手に代わる策として、奈良県の上田技研産業株式会社が開発した自動撞木を導入する寺が増えている。この装置は、撞木の中にモーターとバネが組み込まれており、鐘を撞く時間が近付くとモーターがバネを圧縮し、解放した時に発生する力を利用して、押し出す形で撞くようにできている。ただし、これだけでは撞木が揺れ動いたままなので、バネの圧縮と同時に上部に取り付けられたアームが下がり、先端のローラーで撞木を上から押さえ付けて、鐘を撞いた後の動きを抑制し、すぐにまた鐘が撞けるようにしている。もちろん、これまで通りに撞き紐で撞くことも可能である。

和鐘の形式
和鐘の場合、鐘身は上帯・中帯・下帯と称される3本の横帯で水平方向に区切られるとともに、垂直方向にも縦帯と称される帯で区切られる。縦帯は通常4本で、鐘身を縦に4分割する(近世の鐘には5本の縦帯をもつものもある)。上帯と中帯の間の空間は、上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称する。「乳の間」には「乳」と称する突起状の装飾を並べる。「池の間」は無文の場合もあるが、ここに銘文を鋳出(または刻出)したり、天人像、仏像などの具象的な図柄を表す場合もある。中帯と下帯との間のスペースは「草の間」と呼ばれる。鐘身の撞木が当たる位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が対称的位置に設けられる(まれに4箇所に撞座を設ける例もある)。撞座の装飾は蓮華文とするのが原則である。
和鐘の基本的形状は奈良時代から江戸時代まで変わりがないが、細部には時代色が表れている。梵鐘の時代を判別する大きなポイントの1つは撞座と龍頭[注釈 2]との位置関係である。奈良時代から平安時代前期の鐘では、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として直交している。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは直交する。これに対し、平安時代後期以降の鐘においては龍頭の取り付き方が変化しており、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として同一方向である。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは一致している(若干の例外はある)。また、奈良時代から平安時代前期の鐘では撞座の位置が高く、鐘身の中央に近い位置にあるのに対し、平安時代末期以降の鐘では撞座の位置が下がる傾向がある。

日本の著名な梵鐘

国家安康の鐘とその銘文(京都・方広寺)
奈良時代の梵鐘
梵鐘研究家の坪井良平は以下の16口を奈良時代鐘としている。
千葉・成田市出土鐘(国立歴史民俗博物館蔵) 774年
福井・劔神社鐘 770年、製作年代明らかなものとしては日本で3番目に古い
岐阜・真禅院鐘
滋賀・園城寺鐘 通称・弁慶の引き摺り鐘
滋賀・竜王寺鐘
京都・妙心寺鐘 698年、製作年代明らかなものとしては日本最古
京都・東福寺鐘
奈良・東大寺鐘
奈良・興福寺鐘 727年、製作年代明らかなものとしては日本で2番目に古い
奈良・薬師寺鐘
奈良・新薬師寺鐘
奈良・法隆寺西院鐘
奈良・法隆寺東院鐘 旧・中宮寺鐘
奈良・当麻寺鐘 妙心寺鐘と並ぶ日本最古級の鐘
奈良・大峯山寺鐘
福岡・観世音寺鐘 妙心寺鐘と同じ木型から造られた古鐘
国宝の梵鐘[編集]
神奈川・円覚寺
神奈川・建長寺
福井・劔神社
滋賀・佐川美術館
京都・平等院(所在:鳳翔館、現在鐘楼に吊られている鐘は複製)
京都・妙心寺(徒然草に登場する)
京都・神護寺(非公開)
奈良・当麻寺(非公開)
奈良・東大寺
奈良・興福寺(所在:国宝館)
奈良・栄山寺
福岡・観世音寺
福岡・西光寺
その他の著名な梵鐘
東京・品川寺(鐘楼) – 四代将軍徳川家綱寄進。幕末に万博出品されるも行方不明となり、昭和5年に返還された。
東京・浅草寺(弁天山) – 「花の雲 鐘は上野か浅草か」(松尾芭蕉)の句で有名。
愛知・久国寺(天長山) – 芸術家・岡本太郎が製作。
滋賀・園城寺(三井寺)(鐘楼) – 「三井の晩鐘」の別名あり。音色の良さで知られ、三大梵鐘ともいわれる。
滋賀・園城寺(三井寺) – 通称「弁慶の引き摺り鐘」
京都・平等院-姿の良さで知られる、三大梵鐘の一つ。
京都・方広寺(鐘楼) – 銘文中の「国家安康」の句が徳川家康の豊臣への怒りを買ったとされる。
京都・知恩院(鐘楼)
兵庫・佛教之王堂[念仏宗 総本山](北鐘楼・南鐘楼) – 重さ48t[3]の大梵鐘が2口 ㈱老子製作所 第12代老子次右衛門が製作。
熊本・蓮華院誕生寺(鐘楼) – 大きさ、重量ともに世界一[要出典]の大梵鐘がある。口径九尺五寸、高さ十五尺、重量一万貫。昭和五十二年鋳造。鋳造元は岩澤の梵鐘
和歌山県日高郡日高川町道成寺:梵鐘がないことで有名、安珍・清姫伝説に基づく。
静岡・紇哩岡寺?(袋井市) – 1983年に茶畑から出土した。平治元年の銘文があり、銘文がある梵鐘としては全国で12番目の古さ
文学の中の梵鐘

歌川国芳の「弁慶、比叡山へ引き摺り上げる図」(滋賀県大津市三井寺所蔵)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす」平家物語冒頭
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規の俳句)
「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる」(童謡『夕焼け小焼け』作詞: 中村雨紅、作曲: 草川信)

茨城県郷土工芸品
笠間焼
つくばね焼
五浦天心焼
粟野春慶塗
結城地方の桐下駄
結城桐箪笥
水戸やなかの桶
とよさとの桶・樽
涸沼竿
石岡府中杉細工
茨城籘工芸
竹矢
雪村うちわ
ひたち竹人形
総和竹絵画
古河竹工画
西ノ内紙
かな料紙
国寿石大子硯
結城紬
いしげ結城紬
水海道染色村きぬの染
常陸獅子
水府提灯
桂の雛人形
万祝・大漁旗
手描き鯉のぼり
線香
浮世絵手摺木版画
真壁石灯籠
べっ甲細工
梵鐘
米粒人形
大穂のほうき
武道具
カガミクリスタル
淡水真珠
あやめ笠
繁昌笠
結城まゆ工芸
張り子の達磨・虎・兎
霞ヶ浦帆引き船模型

笠間焼(かさまやき)は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器。
春に行われる陶炎祭(ひまつり)には約50万人 、秋に行われる陶器市である笠間浪漫にも多くの観光客が足を運ぶ。

概要
江戸時代中期の安永年間(1770年代)から作られ始めた。箱田村の名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている。のち笠間藩主の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治にかけては江戸に近い利点から、大量生産の機会を得て技術者や従事者も飛躍的に増えた。陶器商田中友三郎による「笠間焼」の広報・販路開拓が功を奏したという。以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。

特徴
関東ローム層から出土する笠間粘土や花崗岩の風化によってできた鉄分を多く含む蛙目(がいろめ)粘土と呼ばれる陶土によって作られる。笠間粘土は粘りが強く粒子が細かいため焼き上がりが丈夫であり、当時の日常雑器としては理想的な土だった。
「特徴がないのが特徴」と言われている。戦後、伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて各地から若い陶芸家たちが集まったためで、現在では安価で実用的な水瓶や徳利から芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれている。
著名な作家
松井康成
柴田宋休

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

人間国宝  田村 耕一

1918年6月田村林次(雛人形師)の次男として佐野市に生れる。1986年に鉄絵の技術で、栃木県では浜田庄司以来2人目の人間国宝に認定される。
氏は1941年に東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府の私立南海商業学校デザイン教師に就任。その後兵役につき、1946年京都の松風研究所に輸出陶器のデザイナーとして入所する。この研究所の顧問で大先輩の富本憲吉から直接指導を受け、その体験は田村の創作への考えや、工芸観を新たなものにし、富本を畏敬して生涯の師と仰ぐ。
1948年に郷里の佐野に帰り、赤見窯の創業に参画し、同年栃木県芸術祭に出品して、芸術祭賞を受賞。審査員の浜田庄司に認められる。1949年に倒焔式の薪窯を築き、浜田氏の推薦で栃木県窯業指導所の技官となる。1953年に指導所を辞めて、自宅に四袋の登り窯を築き本格的な作家活動に入る。
1956年の第5回現代日本陶芸展覧会で朝日新聞社賞を受賞したことにより、陶芸作家として、存在が知られるようになり、1957年日本陶磁協会賞を受賞。以後、1961年富本賞受賞など数々の公募展での受賞が続き、華々しい活躍をしている。作家として大きく花開いた時期に制作された佐野市役所ホールの陶璧(『伸びゆく佐野』1962年制作)は、現在も市民の目を楽しませている。
田村氏の陶芸は、昭和40年代後半から、それまで扱ってきた鉄釉に加えて、辰砂釉や青磁釉を扱う割合が増えていったが、絵付け主体の構成が大きく変わるものではなく、一貫して鉄絵の変化を取り入れた絵付けが中心であり、その優れた技術手法は、高い評価を受けている。
1967年に東京芸術大学助教授に就任し、1970年には栃木県文化勲章を受賞。1977年教授に昇進。1979年紺綬褒章を受賞。1983年紫綬褒章受賞。1986年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、同年芸大名誉教授に、また佐野市名誉市民に推挙される。翌1987年に68歳で永眠。

勝城蒼鳳 かつしろ-そうほう

1934- 昭和後期-平成時代の竹工芸家。
昭和9年2月23日生まれ。昭和24年から竹製農具などの製作にたずさわり,40年から八木沢啓造に,43年から斎藤文石に師事。43年日本伝統工芸展初入選,のち58年「波千鳥編盛籠 渓流」での日本伝統工芸展東京都知事賞など受賞をかさねる。平成17年竹工芸で人間国宝。栃木県出身。本名は勝城一二(いちじ)。

藤沼昇 ふじぬま-のぼる

1945- 昭和後期-平成時代の竹工芸家。
昭和20年6月15日生まれ。昭和51年から八木沢啓造に師事。55年日本伝統工芸展初入選。59年日本工芸会正会員。60年伝統工芸木竹展初入選。網代編(あじろあみ)や束編(たばねあみ)など多彩な技法をもちいた格調高い作品で知られる。日本伝統工芸展では,61年網代盛籃(もりかご)で日本工芸会会長賞,平成4年束編花籃「気」で東京都知事賞を受賞。日本伝統工芸展鑑査委員,日本工芸会理事などをつとめる。24年人間国宝に認定される。栃木県出身。

佐川岳彦(さがわ・たけひこ)
栃木県大田原市出身。設計事務所でデザインの仕事に従事、デザインの基礎を学ぶ。見聞を広げるために、バックパッカーとして中東、欧州へ渡り、日本のものづくりの良さに気がつく。帰国後は、父であり、竹工芸家でもある佐川素峯氏の下で師事。現在「竹工房 素竹庵(そちくあん)」にて修行を積みつつ、作家としての活動も精力的に行っている。
経歴
2007年 東北芸術工科大学 建築・環境デザイン学科卒業。株式会社コンテポラリーズ入社 設計デザインの仕事に従事する
2009年 株式会社コンテポラリーズ退社後、中東・欧州110日の旅へ出発。帰国後、竹工芸家 佐川素峯氏の下で竹の仕事に従事。東北芸術工科大学 建築・環境デザイン学科特別講師となる
2011年〜13年 栃木県大田原市美術指導相談員となる
2012年 第5回おおたわら美術館 Second Nature ―勝城蒼鳳の表現― 展を担当する。二期倶楽部主催 山のシューレ。人間国宝 勝城蒼鳳 竹のオブジェ展 制作アシスタント
直近の目標

生活に豊かにする竹製品をつくりたい。 竹だけてなく、他素材と組み合わせ生活に溶け込む製品を開発したい。 竹製品を展示して、一般公開できるギャラリーを作りたい。
将来・未来の目標

日本の竹文化を守れる人間になること。また、海外の竹とは違う、日本の竹の美しさを知ってもらいたい。

刑部 人(おさかべ じん 1906年5月5日 – 1978年3月8日)は、日本の洋画家。

来歴・人物
栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。1929年に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に文展無鑑査で出品となり、1946年、1947年には出品作品が日展特選となる。
刑部は川端龍子に日本画を学び、東京美術学校の西洋画科の在学中に帝展に初入選した。画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。
作風について悩んだ果てにたどり着いたのは、時流に惑わされず本来の写実中心の自分の道に帰ることだった。先輩洋画家の金山平三との数々の写生旅行を経て、刑部は絵筆により細部を精緻に組み立てていく表現を超え、ペインティングナイフのバネの反動を利用して生乾きの絵具を重ねていくアクション・ペインティング風の独特の画風を生み出す。
刑部がアトリエを構えた下落合は当時「落合文化村」と呼ばれ、佐伯祐三ほか多くの画家や小説家が住んでいた。1941年には、刑部邸の隣の土地に林芙美子が夫の緑敏と居を構えた(現・林芙美子記念館)。画家だった緑敏は薔薇づくりを趣味としており、刑部は隣家から毎年季節になると届く薔薇を好んで描いた。梅原龍三郎、中川一政、朝井閑右衛門等も緑敏の薔薇を描いたが、画家たちが巻きのやわらかいつぼみや、虫の食った葉を好むので、緑敏はわざと自然のままに花をつくったという。

経歴年表
1906年 5月5日、栃木県下都賀郡家中村大字家中に生まれる。
1915年 9歳頃から、川端龍子、鶴田吾郎の主幹するスケッチクラブの通信講座を受ける。
1918年 父の東京転任にともない12歳で上京。この頃から、大森・新井宿に川端龍子を訪ねるようになる。
1922年 16歳頃から、日本画家の川端玉章が設立し、藤島武二などが主任を務めた本郷の川端画学校に通う。
1924年 東京美術学校西洋画科(現在の東京藝術大学美術学部油絵科)に入学する。
1928年 第9回帝展において「友人の肖像」が初入選となる。
1931年 美校の1年後輩だった島津一郎の妹の鈴子と結婚し、
東京都豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井)にアトリエを構える。(国会議事堂などを手掛けた建築家 吉武東里設計)
1940年 芝浦の東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)助教授となる。
1943年 新文展無鑑査となる。
1946年 第1回日展(日本美術展覧会)に「冬の軽井沢」を出品し、特選となる。金山平三と山形県大石田への写生旅行に同行。
1948年 第4回日展に「渓流」を出品し、特選となる。
1951年 日本橋三越にて第1回個展を開催。以後、計27回開催。
1958年 新世紀美術協会に参加、第3回新世紀美術展に「渓流(奥入瀬)」を出品。
1967年 日展審査員に選ばれる。
1976年 70歳を記念し、日動画廊で「刑部人記念展」(銀座・名古屋)を開催。『刑部人画集』日動出版部)を刊行。
1978年 腎不全のため死去。享年71。勲4等瑞宝章を受ける。
1979年 栃木県立美術館にて回顧展「刑部人展」が開催される。全216点出品。
1987年 日動画廊にて回顧展「刑部人」(銀座・福岡)が開催される。
2004年 栃木県立美術館にて「刑部人展 昭和日本紀行」展が開催される[1]。
2007年 那須野が原博物館にて「刑部人 自然との対話・限りなき風景の体現」展が開催される(~2008/02)。
2008年 とちぎ蔵の街美術館にて「開館5周年記念展 アートリンクとちぎ2008 風景の旅人 刑部人展」が開催される。
2010年 日動画廊本店(東京・銀座)にて「刑部人展 -片雲の旅人-」開催。
日動画廊名古屋店にて「受け継がれし美-金山平三 刑部人 五月女政平」展が開催される(あいちトリエンナーレ パートナーシップ事業)。
2011年 日動画廊にて「金山平三・佐竹徳・刑部人 ~自然を謳う巨匠たち~」が開催される。
2015年 日動画廊にて「刑部人展」が開催される。

小堀 鞆音(こぼり ともと、文久4年2月19日(1864年3月26日) – 昭和6年(1931年)10月1日)は、日本画家、故実家。

略歴
下野国安蘇郡旗川村小中村(現・栃木県佐野市)で、農業を営む須藤惣兵衛の三男として生まれた。本名は桂三郎。父惣兵衛は、農業のかたわら晏齋と号し、近隣から幟の武者絵なども依頼された。長兄の勝三は長じて桂雲と号し、南画系の山水画を描いた。
15歳頃から父や兄から画事を学ぶ。初めは狩野派を学び、次いで歴史人物画から大和絵にすすむ。同時期、私塾で国学・漢学を学んだ。1884年、川崎千虎に土佐派の絵と有職故実を学ぶ。1889年、日本青年絵画協会に参加、1894年、日本絵画協会に参加する。1895年、東京美術学校助教授となるが、1896年、日本美術院創立に加わり正員となり、美校を退職。のち日本美術協会に出品、文展では第1回より審査員となる。1908年、東京美術学校に教授として復帰。1917年6月11日、帝室技芸員[1]、1919年、帝国美術院会員。1929年、国宝保存会医院となる。1930年、勲三等瑞宝章を受章。1931年、腫瘍のため死去[2]。
歴史画を得意とし、代表作に「武士」がある。この「武士」は弓を引く姿で描かれ、強弓で知られる源為朝の姿だと言われる。歴史画家折井宏光は本作の描写や表現、考証の深さが後の安田靫彦、前田青邨、松岡映丘らに決定的影響を与えたとしている。絵に格調高さを与えるため、鞆音は有職故実の研究にも情熱を注いだ。1901年、厳島神社所蔵の国宝「紺絲威鎧」「小桜韋黄返威鎧」の修理復元の際には関保之助と共に修理監督となり、更に「小桜韋黄返威鎧」の模作を3年がかりで制作している。また、勤皇家としても知られた。
弟子に、安田靫彦、小山栄達、川崎小虎、磯田長秋、伊東紅雲、棚田暁山、尾竹国観など。比較文学者の小堀桂一郎は孫、その娘で宗教学者の小堀馨子は曾孫。

代表作
大阪後之役図 (東京大学教養学部図書館) 絹本著色額装 明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会妙技三等賞・第一高等学校買上
経政詣竹生島(東京芸術大学大学美術館) 1幅 絹本着色 明治29年(1896年)日本絵画協会第1回共進会銅牌二席
武士 (東京芸術大学大学美術館) 1幅 絹本著色 明治30年(1897年) 日本絵画協会第二回共進会銅牌受賞
忠孝之図 (本間美術館) 六曲一双 紙本著色
薩摩守平忠度桜下詠歌之図 (栃木県立美術館) 絹本著食 額装(二曲一隻) 大正11年(1923年)頃
舞楽図屏風(島根県立石見美術館) 六曲一双 紙本金地著色 明治末から昭和初期
廃藩置県 (聖徳記念絵画館) 1面 絹本著色 昭和9年(1934年) 小堀鞆音は聖徳記念絵画館に最も多い3点の作品を描いているが、この作品描いた直後に亡くなったため、他の2点は残された大下絵を元に安田靫彦が後見し、鞆音の息子達の手で完成された。

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 – 1964年(昭和39年)4月16日)明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。俳優の小杉義男は甥。

略伝
栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。
1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。しかしこれに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻る。1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。
なお、1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。1905年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。また、同1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊した。
1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。1913年(大正2年)にフランスに留学するが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒。翌年の帰国後は墨絵も描き始めるようになる。同年、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。また、二科会にも同時に籍を置いていた。
その後、絵に対する考え方の違いから1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を脱退し、1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。1924年(大正13年)に号を放庵と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。なお、雅号は後に放菴と更に改めているが、その時期や理由については不明。
1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
1929年(昭和4年)に中国へ旅行。1935年(昭和10年)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。
1958年(昭和33年)、日本芸術院会員を辞任。1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。

絵画
文典に入選した初期の画は、東洋的ロマン主義の傾向を示す。未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えている。安田講堂壁画は、フランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させ、日本的な志向もあらわしている。フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。代表作は『山幸彦』(1917年)、『老子出関』(1919年)、『炎帝神農採薬図』(1924年)、『放庵画集』(1960年)など。

スポーツ、その他
テニス・野球・空手など趣味が多彩であり、「ポプラ倶楽部」という芸術家の社交団体を主催してテニスを多く行ったほか、押川春浪が中心である社交団体「天狗倶楽部」にも所属しており、ここでも野球などを多く行っている。なお、押川とは『冒険世界』など押川が主筆を務めた雑誌の表紙を小杉が描いていたことがあって関係が深かった。また、テニスプレーヤーとして、東日トーナメント(現・毎日テニス選手権)ベテラン男子の部において、針重敬喜とのダブルスで3回の優勝を記録している。
歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作がある。
1928年(昭和3年)1月28日に、富山県八尾町(現 富山市八尾町)の、初代越中八尾民謡おわら保存会(現 富山県民謡越中八尾民謡おわら保存会)初代会長川崎順二に招かれ、当時のおわら節を聴いて、「曲はいいのだが唄が下品なものも多くこのままではおわらは廃れる」と進言、そこで川崎順二が放庵に頼み作詞したのが「八尾四季」で、八尾の春夏秋冬を詠んだ4首で構成され、これ以後新しく作られたものを新作おわらとしており、現在もこの唄に合わせ舞踏家若柳吉三郎が振付けた女子の「四季踊り」と共に唄い踊り継がれている。放庵は、翌2月10日夜付けの手紙でこの八尾四季を川崎に送っており約10日の間に作っており、この手紙は現在「八尾おわら資料館」にて展示されている。また「八尾八景」8首も作詞しており、二人の交友はこの後30数年に及ぶ。
1997年10月、出身地の日光市で市立美術館が小杉放菴記念日光美術館として開館した。

清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 – 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。

来歴
栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)生まれ。弟は東亜同文書院教授・外交官清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
1917年にニューヨークへ移り、アート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンらの教えを受ける。一時結婚のため帰国した後、再渡米翌年の1921年に第34回アメリカ絵画彫刻展に「横浜夜景」が招待出品される。一旦は受賞が決まったものの、アメリカ人でなかったことを理由に受賞を取り消されてしまう。その後1924年に一家挙げてフランス・パリに移住し、三宅克己や藤田嗣治・海老原喜之助・清水多嘉示らパリ在住の画家たちと交わりながらサロン・ドートンヌで入選する栄誉に与った。
1927年に帰国してからは東京を拠点に活動し、1930年の第17回二科展で「地に憩ふ」により二科賞を受賞。その後は独立美術協会の結成に加わるが、1932年従軍画家となり戦争を題材として多くの絵を描く。最晩年は栃木の生家に疎開するも、6月に長男・育夫の戦死を知り終戦直後の12月に死去。

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) – 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。

略歴


生い立ち
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。

洋画家を目指して
ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。

田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

経歴

田中一村記念美術館(2009年7月)
1908年 – 栃木県栃木市に生まれる。
1926年 – 東京市芝区の芝中学校を卒業する。
1926年 – 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学したが、同年6月に中退。
1931年 – それまで描いていた南画と訣別。
1938年 – 千葉に暮らす
1947年 – 川端龍子主催の青龍展に入選。
1953年 – 第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選(この年12月25日奄美大島が日本に返還される)。
1954年 – 第10回日展に出品するが落選。
1955年 – 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
1957年 – 第42回院展に出品するが落選。
1958年 – 第43回院展に出品するが落選。奄美大島に渡る(50歳)。
1958年 – 生計を立てるため大島紬の染色工として働き始める。
1977年 – 9月11日没。69歳没。
2001年 – 奄美に田中一村記念美術館が開館。
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は満福寺。
没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。
鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館(館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

松本 哲男(まつもと てつお、1943年(昭和18年)7月29日 – 2012年(平成24年)11月15日)は日本画家、教育者。栃木県佐野市生まれ。日本美術院理事。
宇都宮大学教育学部美術科卒業。高等学校美術教諭を経て、今野忠一に師事。 宇都宮文星短期大学特任教授を経て、1999年(平成11年)から2002年(平成14年)まで文星芸術大学教授。後、特任教授。 1993年(平成5年)4月から東北芸術工科大学芸術学部美術科助教授、1996年(平成8年)4月から同教授。2006年(平成18年)4月から2011年(平成23年)3月まで同学長。同年4月から名誉学長となっていた。
2012年(平成24年)11月15日に呼吸不全のため死去。

涼風花(りょう ふうか、1985年10月12日 – )は日本の書道家(calligraphy)である。栃木県日光市出身。身長159cm、血液型B型。

略歴
2010年、美人すぎる書道家として、メディア・雑誌等に取り上げられる。書道家として活動する書道師範で日光観光大使でもある。
小さな頃から祖母の影響もあり日本の文化が大好きで、お囃子に参加したり、お祭りというお祭りには顔を出し浴衣や和服に馴染みがある。
その祖母に勧められて7歳で書道を始め書道展にて多くの賞を受賞した事もあり、単純なせいかやる気満々になり、中学二年生で書道師範資格を取得。
将来は書道の先生になろうと決めていたので高校に入り大人の部でも師範資格を取得、硬筆(ペン)の師範も取得。
また時代劇も多く観ていたので時代劇に出てみたいという夢もあり上京しようとするも両親が強く反対。
何かしら上京する方法を模索した結果、「資格を取って安心して貰おう♪」という思い付きから歯科衛生士の資格を取得し、その後22才で上京して歯科衛生士として働いている頃にスカウトされ、タレント事務所に所属。
事務所の意向で舞台女優としてお客様を呼べる様にとレースクイーンのオーディションを受け、レースクイーンのお仕事を始めるも、
レースクイーンの仕事をしていると水着の仕事を多く依頼されるようになり、「これはちょっと違うぞ???」と思い、その1年でレースクイーンのお仕事も事務所も辞める。
そして丁度その頃、「書道師範資格を持っているなら書道家として仕事してみたら?」という話を受け、元々書道を仕事にする気持ちもあり、2010年より書道家活動を開始。
現在プレバト!!などテレビ番組にも出演し書道家として精進し続ける。

柿沼 康二(かきぬま こうじ、1970年7月16日 – )は、日本の書家。栃木県矢板市出身。

経歴
5歳より筆を持ち、父・柿沼翠流をはじめ、手島右卿、上松一條に師事。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)卒業。2006年 – 2007年プリンストン大学特別研究員(客員書家)。
受賞歴として第4回手島右卿賞、第6回国井誠海賞、独立書展特選、独立書人団50周年記念賞、毎日書道展/毎日賞(2回)など。
NHK「トップランナー」、毎日放送「情熱大陸」、テレビ東京「たけしの誰でもピカソ」、NHK「課外授業 ようこそ先輩」などに出演。また、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」や、2008年の映画「アキレスと亀」(北野武監督)で題字等を揮毫。
超大筆などを使用した書道パフォーマンスでも有名。メトロポリタン美術館、ケネディセンター(ワシントンDC)、フィラデルフィア美術館、愛知万博、鼓童アース・セレブレーションなどでパフォーマンスを披露。
現在、(株)柿沼事務所代表取締役社長兼所属アーティスト/書家。

相田 みつを(あいだ みつを、本名:相田 光男、雅号:貪不安(ドンフアン)、1924年5月20日 – 1991年12月17日)は、日本の詩人・書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人、いのちの詩人とも称される。

生い立ち
1924年、栃木県足利市に生まれた。生家は名刹、鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しんだが、喫煙の濡れ衣をきせられ軍事教練の教官に嫌われたために進学を断念。卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。1942年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。1943年、書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積んだ。1953年3月、関東短期大学夜間部国文科卒業。

創作活動
相田は書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に1954年から7年連続入選するなど、技巧派の書家として出発した。1947年の鄭道昭の臨書・「鄭文公碑臨書」で古典書道における実力を示す一方、1950年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露。専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになり、三十歳のころ、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立した。1954年、最初の個展を足利市で開催。個展はその後も足利市などで毎年開催されるようになった。1955年ろうけつ染めを学び、書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てていたが、1974年、教えを受けていた紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、さらに1984年、詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。『にんげんだもの』はその後ミリオンセラーとなり、つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)も約25万部のベストセラー、地位を確立した。若き日には、故郷足利市の老舗菓子店「虎谷」のミートサブレ(命名者も相田で「逢」のMeetが由来で)などの、包装紙や栞のデザインも手がけた。
1991年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話になった。67歳没。
作品に対して妥協を許さず、「逢」というたった一文字を書くために何百枚何千枚と紙を使用したり、印刷のわずかなズレや墨の色の微妙な違いから印刷済みの色紙千枚がボツになったこともあったという。挫折を乗り越えてつくりあげられた作品には自らの実生活が重ね合わされているのが特徴である。

飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 – 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。

人物・来歴
栃木県足利市生まれ。旧制館林中学卒。慶應義塾大学在学中に徴兵され中国を転戦した。帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。製作者懇談会と呼ばれる美術論議のグループに所属し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。
1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、さらにヴォルスの絵画やヘンリー・ムーアの抽象彫刻に衝撃を受けてそれまで描いてきた「リアル」に対する概念をゆすぶられた彼は、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じ、ウィーンやベルリンなど主に欧州で活躍し、木彫などで各地の展覧会に出展した。同時にミニマルアートやキネティックアートなど同時期の芸術の先端に触れており、影響を受けている。やがて素材は重い情念を感じる木から、より軽やかな印象の金属へと変化した。
1960年代後半に日本に帰国し、木やブロンズ、ステンレス、さらに彩色を施したロープなどを組み合わせ抽象造形を展開し、その作品は宇部市・常盤公園での現代日本彫刻展や神戸市での須磨離宮公園現代彫刻展など、当時の日本を代表した野外彫刻展で相次ぎ受賞するなど高く評価された。特に抽象的な造形で人体を表現した「HITO」シリーズで知られている。またステンレスを使ったパブリック・アートを各地の公共建築などに設置、詩の制作や版画の制作、美術評論家としての活動などでも知られ多数の著書がある。

作品

芹ヶ谷公園の彫刻噴水・シーソー
彼の作品は日本帰国後、パブリック・アートやモニュメントの制作を開始して以後、周囲の様々な風景を映しこむ鏡面ステンレスを多用するようになった。さらにベアリングで回転するステンレス板を用いるようになり、屋外の作品は風で回転する、動きのある時間を取り入れた彫刻へと移行した。これによって作品表面がさまざまな風景を受け入れて自然の中に消えてしまう、彫刻の中の自我が自然の動きや風景に任せて解放されるような作品になった。町田市の芹ヶ谷公園にある『彫刻噴水・シーソー』はその代表的なものである。
また、室内での作品ではヨーロッパ時代の木彫による「HITO」シリーズのように、当初からムーアのような穴の開いた彫刻作品が多かったが、やがて木に彩色が施され素材も金属となり、この穴の中に棒や色とりどりの紐が通るようになった。様々な色の紐の導入は、彼のもう一つの仕事である詩や言葉とも密接なつながりを持っている。彼が1972年に詩人西脇順三郎と共作した詩画集『クロマトポイエマ(Chromatopoiema)』で、彼は英語の詩や単語を構成する26個のアルファベットを鮮やかな26色に分解し、それぞれの字を相応しいと思える色に当てはめ、詩の中の同じ文字をそれぞれの色の線でつないだシルクスクリーンを制作した。この時編み出した色彩と詩・単語・文字を結びつける論理「クロマトフィロロギア(色彩言語学的方法)」は彼の作品制作の原理となっていった。1973年以後この原理を用い、鏡面ステンレスでできた複数の柱や板を、たとえば「LOVE」「KOI」といった同義の言葉や「SEA」「LAND」など対立する言葉をもとに、アルファベットに対応した色のナイロン紐多数で相互に結びつける彫刻作品を次々に制作した。これは屋内や屋外に展開され、国内外で高い評価を得た。また同様の原理で版画やドローイングも多数制作している。
作品は箱根の彫刻の森美術館、東京国立近代美術館、神奈川県立近代美術館など各地の近現代美術館に所蔵されている。

斎藤 誠治(さいとう せいじ、1933年 – )は栃木県宇都宮市出身の彫刻家、石彫作家。

経歴
1933年に栃木県宇都宮市に生まれる。東京芸術大学彫刻科に入学し、石井鶴三教室にて素描、彫像、木彫を学ぶ。1958年東京芸術大学専攻科で昭和の名工の一人である明石亀太郎に石彫を学ぶ。1960年大晦日に貨客船でアメリカに向かう。ブルックリン美術学校(ニューヨーク)に奨学金を得て入学し、イタリアの彫刻家オデリオ・ベッジに御影石による彫刻技法を学ぶ。全米彫刻協会の特別会員(Fellow of NSS)、アートスチューデントリーグのインストラクターを務める。現在もニューヨーク、ブルックリンのスタジオにて制作を続けている。
作品の収蔵先は、栃木県立美術館、宇都宮美術館、根津美術館、アイザックデルガド美術館、ウイチタ美術館、サルサリーステイツ大学、大和証券USA、マガジンハウス、玉泉洞、ミツトヨ、ペプシコ、美ヶ原美術館、相模原中央病院、ニューヨークメソディスト病院など。ほか、個人コレクション多数。

年譜
1933年 – 栃木県宇都宮市中河原町に生まれる。幼少時代から絵を描くことに親しむ。宇都宮市立中央小学校から、県立宇都宮中学校、宇都宮高校に学び美術教諭武田久のもとで絵画に熱中しアートの世界に夢を抱く。
1954年~1960年 – 東京芸大彫刻科石井鶴三教室に入り、素描、塑像、木彫を学ぶ。専攻科で新設石彫教室の明石亀太郎講師に学ぶ。
1958年 – 栃木県芸術祭美術展において、常陸太田産のマーブルで制作した作品“母”により、最優秀賞を受賞。
1961年 – ニューヨークに渡り、ブルックリンミュージアムアートスクールに特待生として在学7年、イタリアの石彫家オデリオ・ベッジ(BEGGI Odilio)に御影石の彫刻技法を学ぶ。ブルックリンメソディスト病院の支援を受けて等身大の母子坐像を制作。
1968年 – サマンサ画廊で初の個展を開きニューヨークデビューする。
1970年 – サマンサ画廊で再度個展。ペプシコ本社に、ミューズ(等身大マーブル、ペンシーブ(等身大ブロンズ)など5点の作品が買い上げられる。ナショナルスカルプチャーソサエティショーに”エロス”(マーブル)を初応募、入選し会員に推挙される。
1973年 – ナショナルアカデミーオブデザインのアニュアルショーで“ニンフ”(マーブル)受賞。栃木県立美術館に寄贈。
1974年~1985年 – ブルックリンミュージアムアートスクールで不定期にインストラクターを勤める。
1975年 – WNBC-TVよりブルックリンミュージアムの屋外で1トン半のカナダ産の御影石を使って制作中の母子像がリポーター、ロバートポットによって紹介される。
1977年 – WNBC-TVよりベッディマッキー鋳造所での等身大の裸婦、リクライニングオンビーンバッグのブロンズ鋳造の模様が放映される。ロバートポットの解説。
1979年 – マクミラン出版社の小学6年生のアート教科書に作家と作品が紹介される。
1980年 – 第1回高村光太郎大賞国際展に“思川”(等身大、ブロンズ)を発表、箱根彫刻の森。美ヶ原美術館所蔵。
1983年 – FIDEMインターナショナルショーに(イタリア・フローレンス)アメリカ代表の一員に選ばれてブロンズメダルの胎児を出展。
1986年 – 海外の現代日本美術展、52インターナショナルギャラリー、ニューヨーク。
1989年 – 第39回ニッカーボッカーアーティスト展、ニューヨーク。
1990年 – “宇都宮 美術の現代展”、ギャラリー西武、宇都宮。“今日の造形”展、栃木県立美術館、宇都宮。
1992年- 栃木ラジオ放送の対談に出演、インタビュアー川島正子。
1993年 – 1973年の春から彫り始めたカナダ産の御影石の母子像が完成しNSSの創立百周年記念展にノミネートされて公開される。アメリカズタワー、ニューヨーク。(現在栃木県立美術館で保管)
1996年 – サルスバリーステイト大学の現代彫刻展に招待出品“ナッピング“(マーブル)同大学のコレクションとなる。
1998年 – 国吉康雄に続く2人目の、彫刻では初の日本人として、アートスチューデンツリーグオブニューヨークのインストラクターに推挙される。
1998年 – アートスチュデンツリーグのインストラクターショーに新作の発表を続ける。
1999年 – 日本人、日系人アーティスト美術展に新作の発表を続ける。日系人会主催、ニューヨーク。
2002年 – 宇都宮高校同窓の白竜会より”母子像”(ブロンズ)が母校に寄贈される。
2004年 – “ディスタンス”栃木県出身作家の現在展(フローティング、ブロンズ、宇都宮美術館所蔵)
2004年 – “スプリング”(ブロンズ)71回ナショナルスカルプチャーソサエティーショーで銅賞受賞。宇都宮美術館所蔵。
2007年 – “フローティング”(マーブル)73回ナショナルスカルプチャーソサエティーショーで銀賞受賞。

益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器。
毎年、ゴールデンウイークと11月3日前後に「益子大陶器市」が開催され、500を越える店舗が出て賑わっている。

歴史
江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。
量は豊富にあるものの、粗く精巧な器を作るには向かない陶土だったため、当初は水がめ・火鉢・壺などの日用品が主に製作されていたが、1927年より創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。 その後、1959年に加守田章二が開いた窯により、民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加わった。
1979年には通商産業省(現、経済産業省)より、伝統的工芸品に指定された。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。

特徴

益子焼(蕎麦猪口)
砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。
益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色を出す鉄釉である。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。
民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

著名な作家
濱田庄司
島岡達三
佐久間藤太郎
合田好道

小砂焼(こいさごやき)は栃木県那須郡那珂川町にて焼かれる陶器磁器半磁器。

沿革
水戸藩主、徳川斉昭が1830(文政13?)藩主になった翌年に、殖産興業政策として、陶土を探させる。 同年、12/10に小砂に陶土発見。(同政策より、常陸大田でも発見されている。)
1831(天保2)
通事伊藤友寿を京都に派遣、陶業の研究をさせる。甕説
1833(天保5)
瓦屋(現 茨城県水戸市瓦谷)で、築窯。
1834(天保6)
陶器出窯開始(4/26)
1838(天保9)
七面(神崎)に移動(瓦谷は廃止される)
1840(天保11)
小砂/町田/七面の体制になる。
1841
唐津より、陶工 伝五郎を招く
1851(嘉永4)
大金彦三郎により御用瀬戸試焼開始 (小砂焼の始まり)
1896(明治29)
村立大山田工業補習学校開設
1898(明治31)
小砂焼製陶講究所開設
1901(明治34)
会津本郷より岩田新吾招聘。磁器焼成開始
1907(明治40)
下野陶器株式会社設立。磁器大量生産
藩窯 ( 当時の資料では、御用瀬戸 御用陶器焼 と表現)して庇護されており。高札原稿が残されている。 。
現在も那珂川町小砂地区には数軒の窯元が存在し、閑静な焼き物の里を築き、日用雑器を焼き続けている。近郷には馬頭温泉郷があり、土産物向けの食器も多い。

特徴
小砂焼の特徴として、陶器、磁器(おもに青磁)、半磁器(国山窯のみ?)ともに作成されている。 陶器の特徴は何と言っても「金結晶」と呼ばれる黄金色の釉薬であり、素朴な意匠ながら瀟洒な上品さがある。他に桃色がかった辰砂釉も特徴的。
その他
徳川斉昭の殖産興業政策の一環として、那珂湊の反射炉を建造(1856 嘉永7)した際に、小砂の陶土を利用している。 また駅弁のお茶の容器が陶製だったころには、小砂でも量産されていた。 那須の御用邸の青磁のいくつかは、小砂焼である。
モースコレクションにも、小砂焼があるが、kosunaと表記されている。

みかも焼(三毳焼)

曲物(まげもの・わげもの)は、檜・杉などの薄く削り取った材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。曲物を作る職人を曲物師、特に曲げ職人を曲師という。

歴史
曲物は、古代より日用品として使用されていたといわれる。
その例として、例えば平安時代から鎌倉時代の絵画である「扇面古写経」・「鳥獣人物戯画」・「信貴山縁起絵巻」・「男衾三郎絵詞」・「北野天神縁起(弘安本)」・「東北院職人歌合絵巻」などには「桶」が描かれており、絵画の制作年代から類推して、この「桶」は鎌倉時代以降に作られた結桶ではなく曲桶であり、曲物の「桶」が遅くても平安時代以降には日用的に使用されていたとされている。
また古来、曲物はこの「桶」の他に「井筒」としても使用されたといわれる。曲物井筒と呼ばれるもので、井戸の内壁に曲物を施し、側壁が崩れないようにした。井筒は野面積みの石垣などが多く用いられるが、古代は木材を使用しており、曲物井筒もその方法の一つとして古代から用いられたとされる。例として、石川県寺家遺跡や高座遺跡の例(中世期)や秋田県洲崎遺跡(13世紀末)、岩手県落合遺跡(鎌倉時代)などがある。
古代遺跡の発掘調査の結果、曲げ物が出土した例を以下に列挙する。
島根県の出雲国国府の発掘調査:奈良時代の祭祀遺構として、井戸から曲物容器が出土。
鳥取県の青谷上寺地遺跡の発掘調査:曲物の他、幾種の木工品が出土。
青森県八戸市の是川中居遺跡の発掘調査:出土した「漆塗り樹皮製容器」について、同市教育委員会は約3,000年前の縄文時代晩期初めごろの「漆塗りふた付き曲げ物」であると評価。
奈良県奈良市の平城宮遺跡の発掘調査:井戸から曲物容器が出土。
時代の経過とともに、これらの曲物は「桶」における「結桶」や「井筒」における「石垣」などの登場によって廃れていったが、江戸時代以降も弁当箱や膳、盆、菓子器、華器、茶道用器などに利用され、現在も少なからず生産されている。

産地
種々の代替製品が存在することや、資材調達が難しい状況から、生産量は限定的である。 現在、曲物を地域の工芸品・特産品・名産品としている主な地域は以下のとおり。
青森県藤崎町のひばの曲物
秋田県大館市の大館曲げわっぱ
福島県檜枝岐村の曲げ輪っぱ
群馬県中之条町のめんぱ
新潟県燕市(旧吉田町)の曲物製品
栃木県宇都宮市の曲物
東京都中野区の曲物
長野県塩尻市の木曽奈良井の曲物
岐阜県中津川市の恵那曲物製品
静岡県静岡市の井川メンパ
三重県尾鷲市の尾鷲わっぱ
京都府京都市の京の木工芸品
大阪府大阪市の曲げ物
福岡県福岡市の博多曲物
宮崎県日之影町のめんぱ
木曽奈良井宿の曲物
木曽奈良井宿の曲物
工芸品の区分 木工品
産地 長野県塩尻市
発祥 江戸時代前期
指定 長野県知事指定伝統的工芸品
産地組合
名称 木曽漆器工業協同組合
所在地 〒399-6302
塩尻市大字木曽平沢2272-7
外部リンク
長野県塩尻市で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。
地元で産出されるヒノキやサワラの薄板を円形・楕円形に曲げ加工し、合わせ目を山桜の皮で綴じた側板に底や蓋を付けた器物で、日用品として飯器、弁当箱、茶道具、そば道具、せいろなどに用いられる。
蓋のある楕円形の弁当箱等は、深蓋と浅蓋で合わせ目の位置が異なり、深蓋の場合には合わせ目の摩擦を避けるため、蓋と本体の合わせ目の位置をずらしてある。
歴史
江戸時代前期頃に「奈良井の曲物」として紹介されている。
1982年10月21日 – 長野県知事伝統的工芸品に指定。
伝統的な技術・技法
へぎ
へぎ包丁を用いて、木理に沿って薄板にへぐ。
薄板は熱湯浸漬で柔らかくして曲げ加工を行う。

指物(さしもの)
板を差し合わせて作くられた家具や器具の総称、またはその技法。本項で詳述。
髪にさす装身具(髪飾り)の総称。簪(かんざし)・櫛(くし)を参照。
戦国時代以降の武士が、自身の存在・所属・職階などを示すために指している旗や飾り。腰に差すものを「腰指(こしざし)」と呼ぶが、一般的には、戦国時代後半に定着した背中に指すものを言う。旗指物(はたさしもの)。

日本の指物
日本でいう「指物」の名の由来については諸説あるが、ホゾや継ぎ手によって材を組むことを「指す」といい、また「物指し」を用いて細工するからともいわれる。指物の技術者を日本では指物師と呼ぶ。
日本において伝統的な指物にはいくつかの流派とも呼べるものが存在するが、特に京都の京指物、東京(旧・江戸)の江戸指物、大阪の大阪唐木指物が有名である。
京指物
平安時代の貴族文化に起源を持つ京指物は、室町時代以降、これを専門とする職人(指物師)が現れ、その後の茶道文化の確立とともに発展した。
朝廷や公家が主に用いていたことから優雅かつ精緻な細工を特徴とする。無垢板(むくいた)を用いた箪笥・飾り棚・机などといった高級和家具のほか、桐・杉・欅・桑などといった木の素材を生かした箱物・板物・挽物(ひきもの)・曲物(まげもの)など茶道具を作成する。 1976年(昭和51年)6月2日、京指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域は京都市のみである。
江戸指物
江戸時代、徳川幕府は多くの職人を全国から呼び寄せ、江戸の神田・日本橋界隈に大工町・鍛冶町・紺屋町などといった職人町を造って手工業を発達させた。江戸時代の中頃には消費生活の発達につれて大工職の仕事は楢物師(ひものし)・戸障子師・宮殿師などに細分化されてゆき、その一つとして指物師も生まれた。
江戸で発展した江戸指物は、武家や町人・商人に用いられることが多かった。その風土ゆえに華美な細工は好まれず、淡泊な木目に渋味をもつ漆塗りを施して素材の木目の美しさを活かしたものが好まれてきた。 1997年(平成9年)5月14日、江戸指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域としては、東京都の台東区・荒川区・足立区・葛飾区・江東区がある。
大阪唐木指物
奈良時代に遣唐使を通じて日本に伝えられた唐木製品を起源とする。中国より伝えられた珍しい木が使われていたため、「唐の木」を用いた品であるとして「唐木(からき)」と呼び、それが「唐木指物」の名の元となったと考えられている。 安土桃山時代の茶道や書院造りの発展と普及とともに産地形成されてゆく。江戸時代に入ると唐木材は全て長崎に運び込まれ、大坂(大阪)の薬種問屋がこれを引き受けた。
大阪唐木製品は、伝統的技法を用いつつ現在の生活様式に合うよう工夫・改良されている。拭き漆を重ねることによって仕上げられる鏡のような光沢を持った表情と、唐木の重厚な存在感が特徴である。 1977年(昭和52年)10月14日、大阪唐木指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けた。現代の主要製造地域としては、大阪府のほか、兵庫県姫路市等、奈良県奈良市等、和歌山県有田市、および、福井県越前市の旧武生市域がある。

日光彫(にっこうぼり)は、栃木県日光市特産の彫刻である。

製法
素材の木材として、トチノキ、ホオノキやカツラを乾燥させて使用する。1975年(昭和50年)までは栃木県産のトチノキを多く使用してきたが、それ以降は北海道産のカツラの使用が多い。材木は貯木場に置かれ、柾目に製材された上で自然乾燥(0.5 – 1年間)、電気乾燥(7日間)を経て日光彫に供される。
墨付けの上で切断加工され、再度電気乾燥(約0.5日)させた後、適切な形に成型される。
彫りは、ひっかき(日光三角刀)を用い、木地に模様をひっかき彫、沈み彫、浮し彫などの技法が用いられる。その模様は植物が多く、日光東照宮で多く用いられている牡丹を始め、菊、桜、梅、ニッコウキスゲなどが多い。また平面部分には漆の乗りを良くするために『星打ち』が施される。
塗りは『日光朱堆塗り』という技法が明治時代以降に定着した。この技法は、彫りが終わった素地に直接朱漆を塗り、その上に黒炭の粉を降って一度黒色とした後に磨き、その磨き具合によって下地の漆の朱色を調節しより立体的に仕上げる。現在は漆は使用せず朱色の顔料を重ね塗りすることが多いと云われる。

略史
江戸時代初期、徳川家光が日光東照宮を荘厳な建造物にしようと全国から技術者を日光に呼び集め、東照宮が完成した。その後、彫師や漆師が日光に留まって東照宮の修繕に当たる傍らで木々を彫って箪笥や盆、机などを日光土産として販売するようになった。1878年(明治11年)に日光を訪れたイザベラ・バードはその手記の中で、日光の町は商店で占められ豆腐や餅、ケーキ(饅頭)などの食べ物に交じって漆器や盆などの土産物が売られている、と記している。こうした日本国外から日光を訪れる西洋人には商人も多く、日本国外に日光彫を輸出するようになった。こうして日光彫は産業として定着し、現在も伝統工芸品として生産されている。
当初、日光堆朱塗り(にっこうついしゅぬり)や日光盆(にっこうぼん)などと呼ばれていたが、その後、『日光彫』という名称が定着した。 2014年、熊野筆とのコラボレーション作品も登場している。

竹細工(たけざいく)は、竹を加工したり、竹ひごを編み込んで細工物を作ったりすること。または、日用品・農具・漁労具などの荒物、茶道具などの工芸品、竹とんぼや水鉄砲といった玩具の中で、竹を素材とした細工物のことを指す。

編組
竹ひごの編み込み方・編組(籠目)の種類には、基本となる六つ目編み、四つ目編み、ござ目編み、網代編み、さらには、異なる太さのひごを駆使した波網代や、麻の葉編み、松葉編み、やたら編みといった装飾的な特徴を高めたものなど、用途に応じて様々なパターンがある。

素材
素材となる竹にはマダケが最も多く利用されており、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が流通する。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工する事でその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である。
マダケについでモウソウチクも多く用いられる。モウソウチクは、もっぱら青竹のままで利用される。
別府竹細工や日田の竹箸などの竹工芸の盛んな大分県は、マダケの面積、生産量とも全国一のシェアを占めるとともに、竹材業者も多いため、加工された素材も入手が容易である。

伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている竹工品には以下のものがある[1]。
江戸和竿(東京都)
駿河竹千筋細工(静岡県)
大阪金剛簾(大阪府)
高山茶筌(奈良県)
勝山竹細工(岡山県)
別府竹細工(大分県)
都城大弓(宮崎県)

和太鼓(わだいこ)は、打楽器のひとつ。日本の太鼓の総称。大きく分けて長胴太鼓(宮太鼓)、桶胴太鼓、附締太鼓の3種類がある。祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に用いられ、木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出すものである。桴(ばち)で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ)と呼ばれる。

特徴
和太鼓は、一般的に残響が非常に良く響き、余韻が残る音を特徴とする。和太鼓の構造は、胴の中間が膨らんだ円筒形で、両面もしくは片面に皮が張られている。ドラムなどの他の打楽器と比べて強度は高い。

歴史
和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器も出土している。群馬県佐波郡境町の天神山古墳から「太鼓を打つ人物埴輪」 像が出土し、 古墳時代 (3世紀末~6世紀) には日本に太鼓が存在していたことがわかっている。
中世に入ると、田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛した。戦国時代になると、戦国大名達が自軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓が興る。人間の心臓の鼓動に太鼓の鼓動が「シンクロ」することによって自らを鼓舞する性質があるという説もあり、戦における太鼓の使用はこの説に従えば有効な活用法であったと言える。近年までは、時刻を知らせる為にも太鼓が使用されていた。
明治時代に途絶えていた御諏訪太鼓が第二次大戦後に復元され、多数の太鼓だけで演奏する組太鼓スタイルが生まれ、創作和太鼓の鬼太鼓座、 鼓童などのプロの和太鼓集団の出現と流行をきっかけとして、 各地にアマチュアの和太鼓グループが無数に誕生し、町おこしや青少年の育成などに用いられる一方、和太鼓集団の海外公演を通じて欧米をはじめとする世界中に知られるに至った。
今日では、盆踊りの主役として演奏されたり、神と意思を伝達する手段、呪具として神社や寺院に置かれるなどしている。太鼓という場合広狭二つの理解がある。何らかの仕方で張った皮を打って音を出すという広義の理解ではアジアの先住民に認められる団扇太鼓(例:日蓮宗の打つ太鼓)から能楽に使用する鼓類までを含んでしまう。しかし通常和太鼓と呼ばれる場合は、筒あるいは椀型のものに皮を張った狭義の理解をする。どちらも楽器としては膜鳴楽器と分類される。以下では狭義の太鼓としての和太鼓に限定して述べる。

芸能、音楽としての太鼓

文化交流の一環として、外国軍の前で和太鼓の演奏を披露する陸上自衛官

舞楽「抜頭」の演奏。左奥に楽太鼓が見られる
雅楽
雅楽では管弦に用いる楽太鼓と、舞楽で用いる大太鼓(だだいこ)とがある[2]。舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。外側を朱色の火炎が取り巻いていることから、火焔太鼓とも呼ばれる。
宗教音楽
神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。
このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。
歌舞伎
江戸時代、歌舞伎が隆盛すると、下座音楽に使われ、効果音として取り入れられた。下座音楽における太鼓の使用方法は、打ち方によって表現する情景が高度に体系化されている。例えば細めの桴で細かく叩くと雨の音、布を巻いた桴で弱く柔らかい音を低く響かせると雪の音、それらの合間に別の桴を水平に宛て、鼓面の震えを拾ってビリビリという音をたてると雷や雪崩の音を表現するといった具合である。また幽霊の出現など、本来ありえない音響を抽象的に表現する場合にも用いられる。
組太鼓
戦後になってから、長野県の御諏訪太鼓がジャズドラムを参考にして、大小の太鼓をドラムセットのように組み合わせた「組太鼓」形式を開発した。音程がある楽器を基本的に使わない複式複打法の組太鼓が誕生した。

草木染めあるいは草木染(くさきぞめ)は、合成染料(化学染料)を用いた染色に対して、天然染料を用いた染色を区別するために生じた呼称。
昆虫から得られるコチニールのような植物由来の染料でなくとも天然染料で染めること、または染めたものを草木染めという。タマネギや落花生の皮のような家庭で生ゴミになってしまうものも染料として使用されている点で家庭的な面がある。

命名の経緯
作家の山崎斌が1930年12月に資生堂ギャラリー(銀座)で行った「草木染信濃地織復興展覧会」が創始とされる。それまで植物を使用した染色に対して特定の呼称がなかったため、展覧会に際して新たに考えるよう周囲に薦められたという。同時に山崎は登録商標を申請し、1932年に受理された。すでに商標の期限は切れているが、後継者である息子の山崎青樹(せいじゅ)は追加申請を行っていない。これは「草木染を愛する人に自由に使用してもらいたい」という願いによるものである。 その後、斌の孫であり青樹の息子である山崎和樹(かずき)へと引き継がれ、三代による「草木染」の啓蒙活動が続いている。
染色方法
主に植物の葉、茎、根、実などを煮だした液に繊維を浸し、20分程度加熱し、染まった色素を金属イオンと結合させて発色させる。金属イオンとの結合を媒染といい、アルミニウム、銅、鉄分などを溶かした液に繊維を20分程度浸す。植物抽出液と媒染を繰り返すことで色素の繊維染着を良くし、染色濃度を上げる。

合成染料(化学染料)との違い
草木染めは合成染色に比べて、
品質が一定しない。天然染料は色素の含有量が一定せず、また単一の色素のみを持つことも少ないので、同じ色を出すのはほぼ不可能と言われる。
濃く染めにくい。天然染料は色素を持っていても、合成染料のように多量に含んでいるわけではないので、濃い色に染めるのは手間が非常にかかる。
染色の時期が決まってくる。染料自体の採取時期による色の違いや、季節による染色の向き不向きがあるので、染色を行う季節は自然と固定されるものが多い。
被染色物(染められたもの)の色が光や汗、果汁などに対して弱いものもある。
こうした化学染料との違いは、工業的に量産という点では欠点があると捉えられるが、身近な材料で家庭でも手軽に染められることや、趣味や手工芸の分野では同じものができないことを魅力だと捉える人もおり、草木染めならではの面白さだとされる。
きぶな(黄鮒)とは栃木県宇都宮市の郷土玩具である。
宇都宮市には「昔天然痘が流行った時に、黄色いフナが市中心部の田川で釣れ、病人がその身を食べたところ治癒した」という伝説がある。そのフナを模した縁起物である。長さ約30センチメートルの細い竹竿に吊り下げられた張り子。頭部は赤色、ひれは黒色、胴体が黄色、尻尾が緑色と色鮮やか。きぶなを食べた人は病気にならなかったが、きぶなを釣るのは難しかったため張り子を作って正月に軒下に吊るしたり神棚に供えたりしたのが始まり。
昔は宇都宮市新町の農家の副業として多くの人が制作していたが、その後浅川仁太郎(1906年1月30日生)と次男の浅川俊夫(1945年12月25日生)の2人だけが技術を継承した。その後は小川昌信が技術を継承した。
制作の手順をおおまかに記すと、きぶなの木型に和紙を張りつけて1日半ほど乾燥させる。きぶなの腹部を切って木型を取り出して切り口に紙を張る。ニカワできぶなのひれを付け半日ほど乾燥させてからひれを整型する。胡粉をぬり半日ほど乾燥させる。赤・黄色などの絵の具で着色する。
毎年1月11日の初市に上河原の初市会場と宇都宮二荒山神社の参道で販売されてきた。宇都宮市内の物産店でも販売するようになった。小川昌信の店は「ふくべ洞」といい、宇都宮市大通り2-4-8にある。
きぶなは通常は張り子や土鈴であるがハンチング帽などの派生品もある。ご当地キティや日本酒の銘柄としても使用されている。黄鮒を模した最中もある。2015年9月30日現在、YouTubeにもきぶなの紹介動画があるので、そちらも参照されたい。

三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱらはじいて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。

概説

三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。

三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。

琴(きん、こと)とは、日本の伝統楽器。日本で「こと」と呼ばれる楽器は、(1)琴(きん)、(2)箏(そう)、(3)和琴 (わごん)、(4) 一絃琴 (須磨琴)、(5) 二絃琴 (八雲琴) がある。
(1)琴(きん)と(2)箏(そう)は混同されることがあるが、両者の違いは、(1)琴は弦を押さえる場所で音程を決める(和琴は柱を使う)。(2)箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節する。いずれも、指にはめた爪(ピック)または指(あるいは手の爪)で弦を弾いて音を出す。

一絃琴
モノコード系のシンプルな楽器であり、板琴、須磨琴などの別名がある。日本には江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧覚峰律師により世に広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流行し、土佐一絃琴と呼ばれた。
芦管(ろかん)という管をはめた左手の指で弦の勘所を抑え、右手の指にはめた爪で弾いて演奏する。初期の一絃琴は一枚板に弦を張った構造だったが、最近のものは箱状になっている。一絃琴のために作曲された曲を「本曲」といい、全体に緩やかな音楽が特徴である。
二絃琴
1820年に中山琴主が出雲大社への献納用楽器として考案したことから当初は出雲琴と呼ばれたが、代表曲「八雲曲」にちなんで八雲琴と呼称するようになった。初期は竹で作られたが、のちに杉や桐製となった。2本の弦は同律に調弦されることから、一絃琴から進化させたものと考えられる[2]。出雲、伊予、京阪地方で盛んになったが、現在は衰微している。
明治初期に二絃琴を発展改良させた東流二絃琴(あずまりゅうにげんきん)が開発され、東京で流行した端唄や俗謡の伴奏楽器として、明治中期まで盛んに用いられた[2]。
大正琴
大正時代に二絃琴をもとに開発された。
詳細は「大正琴」を参照

「こと」の由来
『古事記』などに「こと」を弾く場面がしばしば登場するように、本来「こと」は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。登呂遺跡など、各地の弥生時代の遺跡からすでに「こと」と思われる残片が見つかっており、また古墳時代の埴輪にも「こと」や「こと」を弾く人物をかたどったものがある。つまり、「こと」は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その「こと」は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に「こと」と呼ばれる箏が中国から渡来したのは、奈良時代のことである。
和琴とは別に、奈良時代に渡来した「琴」(きんのこと)は中国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器(古代日本では、人間が息を吹き込まねば演奏できない管楽器よりも高尚なものとされた。当時弦楽器はすべて「○○のこと」と呼び習わされる)の中でも重要視されていたらしい。平安時代の『うつほ物語』では琴の伝授が物語の主軸の一つであり、また『源氏物語』にも登場するが、醍醐天皇~村上天皇の治世がモデルと推測される作中世界においても「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに源氏物語に登場する奏者は、主人公で臣籍降下した皇子光源氏やその弟の蛍兵部卿宮・宇治八の宮、また源氏の妻の内親王女三宮とその子薫、常陸宮の娘末摘花、明石の御方(母が中務宮の孫)など、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
縄文琴
倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の2種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。出土例として、北海道小樽市忍路土場(おしょろどば)遺跡、滋賀県彦根市松原内湖遺跡、青森県八戸市是川遺跡などから、縄文時代後期から晩期にかけての縄文琴が出土している。ただし、弦の張り方や琴頭の形が弥生時代後期の琴と異なることから、縄文琴の伝統は途切れ、弥生時代から倭琴の新たな伝統は始まったものと考えられる。似たような楽器として、アイヌのトンコリがある。 3000年前の青森是川中居遺跡から出土した木製品は世界最古の弦楽器の可能性があり、 弥生時代の登呂遺跡などから出土した原始的な琴と似ていることから、日本の琴の原型ではないかと推測されている。
中世神話上における起源
伊勢神道の書物『御鎮座本紀』には、「アメノウズメが天香具弓(あまのかぐゆみ)を並べて叩いたのが琴の始まり」と記述されており、中世神話上では、その起源を「女神が並べた弓から始まったもの」と解釈された(神道行事の寄絃の方も参照)。

琴という言葉
このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じ、「箏」の字が常用漢字で無いことから「箏のこと」で用いる柱を琴柱(ことじ)と言ったり、箏の台のことを琴台(きんだい)と言ったり、箏曲を教える人が広告などに「琴曲教授」と書いていたり、「福山琴」の商標登録[5]に見られるように言葉の使われ方に多少の混乱がある。
例えば、『源氏物語』などの古文では、「琴」は、この項で説明している琴(きん)のほかに、箏、琵琶などすべての撥弦楽器を指している。このことは、明治時代に日本に新しい楽器が入ってきた際に、洋琴(ピアノ)、風琴(オルガン)、手風琴(アコーディオン)、自鳴琴(オルゴール)、提琴(ヴァイオリン)などと呼ばれていたことからも伺い知ることができる。
琴に関連する伝説
常陸国住人に琴御館宇志丸(ことのみたち うしまる)というものがおり、ひとりでに鳴る琴を所有しており、敵対勢力が来ると音を鳴らし、宇志丸に教えたため、事前に兵を集められ、徹底して防戦ができ、戦に負けることがなかった。このため、敵側は偽りの和睦を結び、宇志丸の娘を嫁とするが、その嫁を用いて、秘密裏に琴の弦を切らせた。これにより宇志丸は敵兵が進軍しても気づかず、琴の弦が切られたことに気づいた時には、敗戦し、常勝を重ねることはなくなり、敗戦を重ねた結果、近江国滋賀郡に流浪して着き、日吉神人(神主)の祖先となった。
この説話は『続群書類従』所収「耀天記」に記述されたもので、ベトナムに伝わる伝説と類型が指摘されているが、「霊的な琴」といったように、日本風に(神道観で)アレンジされており、日本文化における琴の信仰観(中世以降も重要だったこと)がわかる伝説である。

栃木県
益子焼
小浜焼
曲物
宇都宮の挽物
今市の挽物
塩原の挽物
指物
下野水車
鹿沼組子書院障子
日光下駄
郷土玩具日光茶道具
日光彫
家紋帳箪笥・ダルマ戸棚
栗山木杓子・木鉢
那須唐木細工
薬師寺の桶・竿
栃木の樽
栃木の桐下駄
鹿沼の総桐箪笥
竹工芸
寒竹工芸
那須の篠工芸
市貝の箕
竹製小鳥籠(尺籠)
竹釣竿
烏山竹釣竿
天明鋳物
黒磯の打刃物
茂木の打刃物
和太鼓
石橋江戸神輿・神仏具
新波の提灯
真岡木綿
正藍染
草木染
益子草木染
黒羽藍染
うくべ細工
大谷石細工
芦野石細工
黄鮒
野州てんまり
栃木鬼瓦
宇都宮の桐塑人形
佐野衣装着雛
佐野節句旬かけ軸
大畑家の武者絵のぼり
鹿沼箒
都賀の座敷箒
三味線

烏山手すき和紙
佐野土鈴・土笛
栃木の線香
野木の石仏
本場結城紬織機(地機)

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

大隅 俊平(おおすみ としひら、1932年1月23日 – 2009年10月4日)は、群馬県太田市出身の刀匠。本名は貞男(さだお)。
1952年に長野県坂城町の後の人間国宝、宮入行平のもとに入門し、1960年より独立した。1967年に新作名刀展特賞受賞(以降6年連続受賞)、1974年・1976年・1978年の3度「正宗賞」を受賞。1997年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。1999年には紫綬褒章受章。2005年にも旭日中綬章を受章している。2009年10月4日、太田市の自宅にて77歳で亡くなった。極初期を除き、生涯、直刃(真っ直ぐな刃文)の刀剣を造り続けた事でも知られる。

大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日(1871年6月2日) – 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の日本画家、南画家、壁画家、日本美術研究家。群馬県吾妻郡荻生村(現在の東吾妻町)出身。
南画の大家だった滝和亭に弟子入りし、腕を磨く。法隆寺金堂壁画の修復などを手がけ、評判となった。この名声が広がり、吉野神社、高野山などから招かれ、壁画の修復にあたった。また、細金法研究の第一人者としても知られた。

加藤アキラ(かとう あきら、1937年 – )は、芸術家。群馬県出身。1966年、第10回シェル美術賞展で佳作。1970年、京都国立近代美術館で行われた「現代美術の動向展」に出品後、不振に陥り制作活動を中止。1980年に活動を再開。1983年から3年連続で個展を開催。1998年には上毛芸術奨励賞特別賞を受賞。抽象的なフォルムのかもし出す現代的雰囲気が時代の寵児として脚光を浴びている。

小室 翠雲(こむろ すいうん、1874年8月31日 – 1945年3月30日)は、日本画家、南画家。本名は貞次郎(ていじろう)。父は日本画家・小室桂邨。文展開設にあたって正派同志会副委員長として文展新派に対抗した。文展審査員・帝展審査員をつとめた日本画の大家である。

経歴

春庭・秋圃 三の丸尚蔵館蔵 双幅 絹本着色(1919年)
1874年 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)に生まれる。(当時、邑楽郡は栃木県に属していた)
1889年 田崎草雲に師事
1899年 草雲が没したため上京し南画会に加わる
1921年 矢野橋村らと日本南画院結成に参加
1924年 帝国美術院会員
1935年 日本南画院を解散
1937年 帝国芸術院会員
1941年 大東南宗院を創設
1944年7月1日 帝室技芸員
1945年 逝去、享年70

澁澤 卿(しぶさわ けい、1949年 – 2012年4月29日)は、日本画家、日蓮宗僧侶。身延山大学客員教授を務める。東亜大学教授。繊細なタッチで日本の風景を描写し、やさしい画風が多くの絵画ファンに愛されている。また、僧侶としての独自の世界観を絵画に表現し、「描く坊主」としても有名。本名は、澁澤瑩俊(しぶさわ えいしゅん)。横浜六浦上行寺副住職も兼任している。

経歴
1949年、群馬県佐波郡境町(現伊勢崎市)出身
1974年、東京芸術大学美術学部卒業
1977年、出家得度して日蓮宗僧侶となる
1982年、東京芸術大学非常勤講師に就任
1990年、東亜大学教授に就任
1995年、人気テレビ番組「美の世界」で「僧籍を持つ日本画家・澁澤卿」が放送され大きな反響を呼んだ
1998年、大作「久遠春光」が身延山久遠寺に収蔵された
2001年、身延山大学客員教授に就任
2012年4月29日に急性心筋梗塞のため死去、63歳没。

志村立美(しむら たつみ、1907年2月17日 – 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家である。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。

来歴
群馬県高崎市生まれ、その後横浜市中区へ移住する。 神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。 当時、山川秀峰は鏑木清方同門の伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。 山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。
肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。 その後主婦の友・婦女界などの雑誌口絵などでその名を知られるようになり、林不忘原作の丹下左膳の挿絵などで岩田専太郎と並ぶ人気画家となる。
当時の大衆娯楽としての挿絵の重鎮として活動をしていくが、晩年、挿絵での活動を休止し、本来の立美の原点である日本画、美人画への回帰をしていく。 出版美術家連盟会長などをつとめ、1976年(昭和51年)作品集『美人百態』で日本作家クラブ賞を受賞する。
1980年(昭和55年)5月4日、東京都新宿区の病院で亡くなった。73歳。

高荷 義之(たかに よしゆき、1935年12月28日 – )は、日本のイラストレーター。群馬県前橋市出身。少年雑誌、架空戦記の挿絵・表紙絵、プラモデルのボックスアートなどを数多く手がけ、師匠の小松崎茂と共にメカニックイラストの専門家として知られる。

来歴
雑誌
少年時代に購入した『冒険世界』の表紙をきっかけに、小松崎茂のファンとなる。以来高荷は小松崎の元にファンレターを送り続け、群馬県立前橋高等学校卒業後の1954年、挿画家を志し小松崎に弟子入り。同年11月に独立し、1955年に『中学生の友』3月号の挿絵でデビューを飾った。月刊誌「少年」などのグラビアページに西部劇などのイラストを描く。その後、週刊少年誌が相次いで誕生し、1960年代に戦記ブームが起きると戦車・軍艦・航空機などのメカニックイラストを描き始める。「週刊少年サンデー」「週刊少年キング」などに迫力ある作品を掲載した。
スケールモデル
小松崎の成功によりプラモデルのボックスアートの需要が高まり、高荷も1963年からこの仕事も手がけるようになる。以後、タミヤの戦車、日本模型の軍艦、フジミ模型の航空機などのシリーズを中心に数多くの作品を提供し、第一次プラモデルブームに貢献した。少年誌が漫画中心となりグラビアが減少したため、1970年代以降はボックスアートが創作の中心となる。
その他の模型メーカーでは永大、オオタキ、東京マルイ、童友社、トミー、ドラゴンモデルズ、バンダイ、ピットロード、ファインモールド、マックス模型などのボックスアートを手がけている。
キャラクターモデル
今井科学の『サブマリン707』や『キャプテン・スカーレット』などのキャラクターものも描いていたが、1982年に「テレビランド」誌上で『戦闘メカ ザブングル』のイラストを発表。ミリタリーアートの大家がロボットアニメの巨大メカを描くという意外性が反響を呼び[2]、『超時空要塞マクロス』(今井科学・有井製作所・日本模型)、『機甲界ガリアン』(タカラ)などのボックスアートを担当。アニメブーム下のキャラクターモデラーにも影響を与えた。1984年には『風の谷のナウシカ』のポスター・パンフレット用イラストも描いている。
その他のアニメ作品では、『超時空世紀オーガス』(今井科学)、『超攻速ガルビオン 』(今井科学)、『超獣機神ダンクーガ』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(バンダイ)、『ファイブスター物語』(ウェーブ)、『マクロス7』(ウェーブ)、『サクラ大戦』(マーミット)などがある。2007年にはバンダイの宇宙戦艦ヤマトの大型キットのボックスアートを描いている。

画風
第二次世界大戦の様々な兵器を描いているが、創作活動初期は主に人間や動物を描いていた(インディアンに関する造詣が深い)。ミリタリーアートは当時の戦記物ブームの需要から描き始めたものだが、生来の探究心で精力的な情報収集を行った。軍事資料の乏しい当時、海外の情報を独自に入手したり、艦艇は元日本海軍造船官の福井静夫、零戦は元エースパイロットの坂井三郎といった関係者に取材を重ねることで、細部の正確な把握に務めた。「ボルト1本の位置にまでこだわる」という職人気質のため、筆が遅く少年誌の編集者を困らせたというエピソードもある。
精密さと共に、鋼鉄の質感を伝える写実的なタッチが特徴に挙げられる。また、背景をなす硝煙、波しぶき、雲海などの荒々しい筆遣いや、兵器の残骸や歩兵などのレイアウトで、戦場の臨場感を伝える手法も巧みである。なお画材は初期は水彩絵具、1980年頃以降はアクリル絵具を使用している。
しかし、1974年にアメリカとヨーロッパの消費者運動により「製品(キット)以外のものをボックスアートに描くと誇大広告とみなされる」という問題が生じる(小松崎茂の項も参照)。タミヤの自主規制により高荷は原画の修正を強いられ、改訂版パッケージでは背景の歩兵やオートバイが丸ごと削除され、事情を知らないモデラーを驚かせることになった。この修正作業では、問題となる箇所を水で濡らした筆でなぞって消したという。更に削除だけではなく初稿完成以降に集めた資料による細部の修正が無数に入っており、高荷の職人気質を感じさせる。
以降、パッケージに絵よりも写真が使われる例が増え、スケールモデル分野での需要が減ったことがロボットアニメに進出するきっかけになった。当初、アニメや巨大ロボットという非現実の題材に戸惑いがあったが、「この世界こそ、かつて自分が憧れた冒険活劇の世界ではないか!」と達観した。高荷風にアレンジされたメカニックイラストは力強い生命感を放ち、後に主流となるCG制作のボックスアートと比べても、独特のリアリティーを有している。
架空戦記、SF小説等の表紙も描いている。近年ではこれらの絵は印象画のように細部をぼかして雰囲気優先で描かれる事もある。特に横山信義と佐藤大輔、および林譲治の一部の作品で顕著であるが、作品のイメージを代表する兵器や人物をトリミングして並べるような手法ではなく、小説内の一場面を再現するようなものが多く、写実性の高さを生かして艦船や飛行機が奇抜な機動を行っている(ように見える)アングルは少ない。シリーズ物では内容に合わせたのか色合いや海、雲の具合などが調節されていることもある。

鶴岡 政男(つるおか まさお、1907年2月16日 – 1979年9月27日)は、昭和時代に活躍した日本の画家。群馬県高崎市出身。
人間の根源を極限まで追求した独自の画風を展開。「事ではなく物を描く」という主張は、画壇にセンセーショナルを巻き起こした

経歴
太平洋画会研究所で絵を学ぶ。
井上長三郎らとNOVA美術協会を結成
1943年、松本竣介・靉光らと新人画会を結成
戦後は自由美術家協会に合流
1954年、第1回現代日本美術展佳作賞
1963年、第7回日本国際美術展優秀賞

トーマス永井(とーます ながい、1886年 – 1966年)は洋画家。魔術的リアリズムの担い手として独自の作風を確立。しかし太平洋戦争の混乱によりその業績は長らく埋もれたままになっていた。忘れられた洋画家として近年評価が急速に高まってきている。本名は永井富三(ながい とみぞう)

経歴
1886年 – 群馬県吾妻郡名久田村(現中之条町)に生まれる
1904年 – 群馬県立農学校(現群馬県立中之条高等学校)を卒業
1906年 – 19歳で渡米
1924年 – アートスチユーデンツ・リーグで学び、トーマス・ハート・ペントンに師事
1929年 – 代表件「ピクニック」をアンダーソン・ギャラリーズへ出品
1934年 – インターナショナル・ウォーターカラー・ショーに出品
1966年 – フロリダで死亡
1996年 – 生誕百十年を記念して「トーマス永井の不思議世界」が東京・第一生命南ギャラリーで開催された

南城 一夫(なんじょう かずお、1900年 – 1986年)は、日本の画家。西洋的な香りのする作風で、中流階級にも親しまれた。群馬県前橋市出身。
主な作品に「鯛の静物」などがある

経歴
旧制前橋中学を卒業後、岡田三郎助主宰の本郷絵画研究所入所
1920年 東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科入学
1924年 フランス留学(1937年まで)。
1939年 春陽会に出品
1940年 春陽会会友となる
1966年 銀座・兜屋画廊で個展開催
1977年 銀座・松坂屋で回顧展開催
1981年 群馬県立近代美術館で「南城一夫展」開催

福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 – 1992年(平成4年)10月16日)は、日本の洋画家。

来歴
群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。父は後に富岡町長となった。
1915年、旧制富岡中学校を卒業。第二高等学校英法科を経て、1918年、東京帝国大学文学部入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門し、彫刻家を志す。
1922年、第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選。1924年、渡仏。ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受け、昭和初年にシュールレアリズムを日本に紹介した。1930年、独立美術協会に参加。1931年、帰国。1939年、独立美術協会を脱退し、美術文化協会を結成。戦前の前衛美術運動に大きな刺激を与える。1941年4月から10月までの間、共産主義者の嫌疑で拘禁された[1]。
多摩美術大学、女子美術大学教授をつとめた。1978年、文化功労者となる。1991年、文化勲章を受章。
代表作に『他人の恋』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『科学美を盲目にする』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『よき料理人』 (1930年 神奈川県立近代美術館蔵)などがある。

山口 薫(やまぐち かおる、1907年8月13日 – 1968年5月19日)は、昭和時代の日本の洋画家。元東京芸術大学教授。

略歴
1926年、第7回帝展に初入選
1927年、第8回帝展に入選
1929年、第4回国画会展に入選
1930年、第17回二科会展に入選。渡欧する
1934年、新時代洋画展を結成
1937年、自由美術家協会を結成
1950年、モダンアート協会を結成
1951年、武蔵野美術大学講師に就任
1960年、芸術選奨文部大臣賞受賞
1964年、東京芸術大学教授に就任
1968年、死去

湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日(1869年1月30日) – 昭和6年(1931年)6月23日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。

経歴
同志社英学校(現・同志社大学)、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。黒田清輝の天真道場に学び、大正時代の日本の洋画界の重鎮だった。1888年(明治21年)に山本芳翠の生巧館画塾に入塾して芳翠から洋画を学び、1896年(明治29年)には白馬会の結成に加わった。1906年(明治39年)にジブラルタル経由でスペインに渡り、アルヘシーラス、グラナダ、セビリアに滞在した後、マドリードのプラド美術館ではいくつかの作品を模写している[1]。特にディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』については「これを見たいためにまずスペインに行ったのであった。この部屋に入ったときは、これを見ればほかに絵を見る必要がないとまで思わせた」と語っている[1]。マドリードには約1年、スペイン全体には約1年半滞在してからフランスに渡り、1908年(明治41年)の第2回文展にはパリで制作した『イスパニア国風景』を出品した。1914年(大正3年)には二科会の結成に参加。1931年(昭和6年)死去。

大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年12月17日 – 1953年9月12日)は、昭和時代の日本の書道家。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。

略歴
1933年、書道芸術社結成に参加
1945年、富山県に疎開。表立雲を弟子にする
1946年、日本書道美術院に参加
1953年、死去

沢田 東江(さわだ とうこう、享保17年(1732年) – 寛政8年6月15日(1796年7月19日))は、江戸時代の書道家・漢学者・儒学者。洒落本の戯作者でもある。
本来は多田姓だったが沢田姓に改める。氏は源、諱を鱗、字は文龍・景瑞、通称は文治または文治郎、号は東江のほか来禽堂・萱舎・青蘿館・東郊・玉島山人。江戸の人。

略歴
士族の子として江戸両国柳橋に生まれる。
早くから書学を好み、20代前半には明の王履吉の流れをくむ唐様の書家高頤斎に入門。宝暦4年(1754年)には兄弟子の高橋道斎に勧められて上毛多胡碑を観に赴き拓本を打ち、のちに『多胡郡碑面考証』として上梓した。
また学芸に励み、井上蘭台に入門して古註学を学ぶ。このときの同門に井上金峨がいる。この頃から山県大弐や鈴木煥卿(澶州)・高葛陂らとも交友した。
一方で遊里に溺れ放蕩を尽くし、ついに吉原中に「柳橋の美少年」と騒がれた[3]という。井上金峨の『唐詩笑』に触発され、26歳の正月に洒落本『異素六帖』を刊行する。これは漢籍『魏楚六帖』のもじりで『唐詩選』の有名句と百人一首の下の句を組み合わせて吉原の情景を織り込むという内容だった。
28歳(宝暦9年・1759年)の春、江戸幕府の要請で蔵書印の篆文の揮毫を行っている。この年の秋、蘭台の口利きで幕府学問所頭の林家に入門し林鳳谷に師事。主に朱子学を学ぶ。明和元年(1764年)春、再び幕府より下命があり、朝鮮通信使の御書法印を篆して白金を下賜される。
学問を通じて関松窓・平沢旭山・井上四明・市河寛斎・後藤芝山・入江北海・山本北山・渋井太室などと交わった。また文人画家の中山高陽と詩友となり、井上金峨とともに賛文を記している。この書画は三絶と評され江戸で人気となった。詩家の鵜殿士寧や安達文仲・横谷藍水とも交遊した。詩僧の六如慈周とは特に親しく、生涯に亘って詩交を続けた。天明2年(1782年)、公遵法親王が帰京のおりに六如とともに随行を許され、大坂の木村蒹葭堂を訪問している。六如と比肩される詩僧大典顕常が江戸に滞在した折り、自宅に招いて教えを請うている。このほかにも蘭学者(吉雄耕牛・宇田川玄随・源通魏)や俳人(谷素外・活々坊旧室)との交友が知られる。
明和4年(1767年)、山県大弐と交友があったことから明和事件に連座。取り調べを受けるも罪過は認められず、無構の申し渡しとなるがその衝撃は大きく経学による出立は諦めざるを得なくなる。以降、呼称(字・号・姓・名)を改めることを繰り返し、書をもって生業とする決意をする。
以後、書において東江流と呼ばれる一派を成し、江戸に書塾を開き多くの弟子を育てた。門弟に角田無幻・鈴木牧之・蒔田必器・韓天寿・橋本圭橘(角町菱屋)・墨河(五明楼扇屋)・三代目花扇(遊女)などがいる。
寛政8年6月(1796年)に死没。享年66。浅草東本願寺に葬られるが、のちに厳念寺(台東区寿1)に移葬される。子の東理、孫の東洋も書家となった。

東江流
書の師である高頤斎の書風は、王履吉・独立性易・高玄岱の流れを汲む唐様であった。しかし、佐々木玄竜・文山兄弟・細井広沢・松下烏石など当時一世を風靡していた明朝の書風の一端と受け取られていた。東江は『書学筌』(1757年)や『東郊先生書範』(1758年)などの書論で頤斎流の正統を謳い、玄龍・文山・広沢らを倭俗と切り捨てている。
明和6年(1769年)頤斎が没すると荻生徂徠の蘐園学派の影響を受け、書の復古主義ともいえる古法書学を唱える。同年刊行の『東江先生書話』において流行する明風の書を捨て、魏晋の書体に遡ることを主張した。そのためには古法帖を臨模して書法を会得し、古人の書論を読み気韻を知るべきとした。この主張は友人の韓天寿も感化し、後に二王(王羲之・王献之)を聖典視することに繋がっていく。
「書法を知らぬ者の作った字は読めないが、書法を知った者の字はそれが狂体であろうと張旭・懐素のように読むことがかなう」と述べている。
この古法書学はたちまち江戸を席巻し、東江流として一派をなした。

武士 桑風(たけし そうふう、男性、1913年 – 2008年12月17日)は書家。 群馬県佐波郡玉村町生。前衛書道(墨象)の分野で新境地を開拓する。 戦後いち早く毎日書道展等の設立に参加し、現代書作家協会代表、全日本書道連盟顧問などを務めた。

略歴
1913年 群馬県佐波郡玉村町飯塚に生まれる
1931年 半田神来に師事
1935年 比田井天来に師事
1937年 第1回大日本書道院展特選銀賞。2回展、3回展連続特選
1945年 日本書道美術院創立に参加。2回展審査員
1947年 毎日書道展の創設に参加。3回展審査員。30回展まで役員
1948年 書道芸術院創立。創立展から20回展まで審査員・役員
1952年 書道展として初の海外展であるニューヨーク近代美術館展
1968年 現代書作家協会創立
2008年 肺炎で死去

角田 無幻(つのだ むげん、? – 文化6年(1809年))は、江戸時代の書道家。名は光旒。勅伝大阿闇梨法印に叙せられた。書聖といわれた。

出身地
上野国勢多郡津久田村(現群馬県渋川市赤城町)
人物
修験僧だったが、書を志す
沢田東江に指導をうけ、第一人者となる
京都で晋・唐の書を研究
庚申塚や神社の鳥居、道祖神などを多く残している

星野聖山、(ほしのせいざん、1955年5月5日-)は群馬県出身、本名 明。日本の書家。

経歴
慶應義塾大学文学部を卒業。在学中から同大、高橋正彦教授に師事し古文書学、書道史を学ぶ。書を日展会員明石春浦に師事。
(一財)毎日書道会に所属し書作活動をする。また月刊書道研究誌『聖筆』を刊行し全国の書学者に向けて書道の普及を行っている。
作品は各体を能くし、古典を基盤としながらも現代感覚を融合させ品格と洗練を基調としている。

1978年書道研究聖筆会を設立
1987年毎日書道展会員
1990年能楽喜多流免許状筆者となる
1992年慶應義塾大学講師となり書道理論、書道実技を担当
1995年月刊書道研究誌『聖筆』を創刊
同誌の主な執筆者は慶應義塾大学教授高橋正彦、同じく教授石川透、新潟大学教授岡村浩
新潟大学講師計良袖石、書学書道史学会会員今成清泉等である
2004年群馬書道奨励賞受賞
2006年星野聖山書作展開催
2007年上毛(群馬)書道30人展運営委員
2008年山崎種二記念特別賞受賞
2009年(社)群馬県書道協会理事
ART singapore 2009 出品
2010年第61回 毎日書道展会員賞受賞
ART santfe 2010 出品
2011年毎日書道展審査会員となる
2012年上州観音霊場三十三ヶ所大看板謹書
2013年世界ギャラリーグランプリ美術選奨(アートジャーナル)
現代の書選抜100人新春展(毎日書道会主催)
2014年『墨』「現代墨場必携いつも心にある言葉」作品揮毫
2015年高野山開創1200年記念奉献書
現代の書選抜100人新春展(毎日書道会主催)
第66回群馬県展審査部長

水出子雲(みずいで・しゅうん)は、日本の書道家。本名は保。子雲塾主宰。

出身地
群馬県吾妻郡岩島村(現 吾妻町)

堀越呼雲
略歴
太平洋戦争末期に整備兵として陸軍に入隊。命からがら帰還する
戦後は会社勤めの傍ら書に親しむ
会社勤めを経て、書道家として独立。師から一字をもらい水出子雲と号す
月刊「書道」群馬県支部長など要職を歴任。群馬県における書道界の重鎮として君臨している

米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年 – 1994年10月22日)は、日本の書道家。元群馬大学教授。群馬県沼田市(旧利根郡白沢村)生まれ。

経歴
旧制沼田中学(現・群馬県立沼田高等学校)から東洋大学を卒業した後、旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)や旧制師範学校などの教諭を経て群馬大学教授となる
書道家としての活動にとどまらず、書道の研究・普及活動に精力的に取り組み、小学校・中学校用の教科書の執筆なども多い
1969年 群馬大学を退官
1977年 勲四等瑞宝章を受章
淡遠書道院会長・日本書道美術院理事・群馬県書道協会会長などを歴任した。
白沢村名誉村民であった。

栗原 正峰(くりはら せいほう、本名:栗原 正博、1976年 – )は、日本の書家であり教育者である。群馬県伊勢崎市出身。

経歴
栗原正峰は小学校1年より書をはじめ、群馬県を中心に活動した祖父の雅号を継ぎ、2代目栗原正峰として活動している。
小学校1年から野球をはじめ、小、中、高でピッチャー。東京農業大学第二高等学校時代には野球部に所属し、中継ぎ投手として第76回全国高等学校野球選手権大会にて群馬県代表として甲子園出場も果たしている。東京農業大学農学部造園学科卒業。大学時代は農大二高野球部のコーチ、高校教師となってからは指導者として活動した。書道界では極めて稀な野球色の濃い書家である。
書家であると同時に教育者でもある。現在は埼玉県内の高校で教鞭を執っているが、芸術関係の教科ではない。
「自由と奔放」をスローガンに掲げる現日会に同人として所属し、型にはまらない個性的な作品を世に送り出している。
2011年には過去5年以上該当者なしであった現日大賞を受賞。現在は数々の著名人が作品を所蔵しており、その活動範囲は広い(貴乃花光司、栗山英樹、EXILE宇佐美吉啓、宮本亜門、逸ノ城駿、三遊亭歌橘、片岡大晴との内容がブログにアップされている。特に湊富士孝行(現湊親方)と交流が深い)。主に甲骨・金文を中心に小字数の作品を手がけ、東京、ヨーロッパを中心に個展や展覧会に取り組んでいる。
2012年には銀座画廊art data bankにて「栗原正峰展」を実施。美術評論家小野寺啓治が監修する「書作品年鑑」にも最年少で掲載された。
2013年にはモネ、ルノワールも所属した330年以上の伝統を持つフランス屈指の公募展「ル・サロン」に入選。それよりも難しいとされる展覧会「サロン・ドトーンヌ」にも続けて入選し、書家でありながら芸術の分野でも評価は高い。

受賞歴
2005年 第12回 Gunmaペン書道展 新人賞
2006年 第13回 Gunmaペン書道展 特選
2007年 第58回 群馬県書道展 入選
2010年 第50回 現日書展 準特選
2011年 第51回 現日書展 現日大賞 受賞 / 現日会同人に推挙
2012年 第13回 日本・フランス現代美術世界展 入選
2012年 第27回 パリ国際サロン 推薦出品
2012年 第27回 パリ国際サロン ドローイング部門入選
2013年 第14回 日本・フランス現代美術世界展入選
2013年 第45回 スペイン美術賞展入選
2013年 第2回 エコールドパリ浮世・絵パリ展入選
2013年 2013 サロン・ドトーヌ入選
2013年 2013 ル・サロン入選
2014年 第46回 ポルトガル美術賞展 推薦出品
個展・展覧会
2010年 現日書展
2012年 銀座画廊「art data bank」個展
2012年 伊勢丹新宿店「たんざく展Ⅱ」
2012年 第13回 日本・フランス現代美術世界展
2012年 第27回 パリ国際サロン
2013年 第14回日本・フランス現代美術世界展
2013年 第45回スペイン美術賞展
2013年 第2回エコールドパリ浮世・絵パリ展
2013年 2013サロン・ドトーヌ
2013年 2013ル・サロン
2013年 銀座清月堂画廊「文人書家のアート展Ⅲ」
2013年 LABI1高崎「Art Gallery」個展
2013年 ベルギー「Art Gent」
2014年 スペインバルセロナ「AKASHI GALLERY」個展

桑原巨守(くわはら ひろもり、1927年 – 1993年8月26日)は、日本の彫刻家。女子美術大学名誉教授。

概要
具象彫刻の第一人者と評され、群馬県渋川市に桑原巨守彫刻美術館がある。群馬県沼田市出身。

略歴
1949年 東京美術学校彫刻科卒業
1964年 二紀展に初入選
1966年 二紀展同人賞受賞
1971年 女子美術大学教授に就任
1975年 第29回二紀展で菊華賞受賞
1979年 ブルガリア政府「花と少女」を購入
1982年 第2回高村光太郎大賞展で美ヶ原高原美術館賞受賞
1983年 第37回二紀展で文部大臣賞受賞
1989年 第43回二紀展で宮本三郎賞受賞
1993年 女子美術大学名誉教授となる

分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年1月6日 – 1995年3月1日)は、日本の彫刻家。

出身地
群馬県高崎市
学歴
群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)
東京美術学校(現東京芸術大学)木彫部卒業
略歴
1932年、第13回帝国美術院展覧会で「母と子」初入選
1937年、第1回新文展「若い男」特選受賞
1955年、第11回日展審査委員に就任
1962年、日展評議員に就任
1987年、日展理事に就任
1988年、日展参事に就任

細谷而楽(ほそやじらく、1875年(明治8)- 1940年(昭和15))は、彫刻家。本名三郎。群馬県城東町(現、前橋市一毛町)生まれ。

来歴
前橋藩士の家柄に生まれ、家業は製糸業を営む。明治30年(1897年)9月、東京美術学校予科(現東京藝術大学)に入学する。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する。同期には高村光太郎(光雲の子息)がおり、ともに学業に励む。明治41年(1908年)に光雲の推薦により、文部省古社寺保存会に勤務し奈良へと移り、仏像、古美術の修復にその天分を発揮し特に、東洋独特の乾漆彫刻の伝統技術を苦心のすえ解明し、復原することに成功する。唐招提寺の乾漆仏像を修復してからは乾漆工芸家として知られ、日本国における仏像修復の貴重な存在となる。代表作に新薬師寺の塑造十二神将のうち、江戸時代の地震で失われた1体(寺伝・波夷羅大将像)を補作(1931年)。妻フクの兄、中島秋圃は日本画家である。

エピソード
昭和9年(1934年)、法隆寺に用があり通っていた細谷而楽は、食堂(じきどう)に近世の間に合わせの修理で張りぼての菰をかぶったような仏像があるのに気がついた。土とも木とも分からない、高さ七尺程の腰以下のやたら太い不恰好この上もない作品であるが、欠けた部分を少しめくると中に別の何かがあるように見える。さては何か古像ではないかと次々と上皮を剥がすと、文字通り「化けの皮」が見事に剥がれ中から気品高い天平彫刻が出現した。一年余の修理のうえ天平塑像の傑作・吉祥天像を修復することとなる。
昭和11年(1936年)には重要文化財(当時の旧国宝)に指定。現在は法隆寺大宝蔵院に安置されている。

門下
加藤翠園
業績
文部省(当時)の古社寺保存会に入り奈良県内の仏像などの修復にあたる。

三輪途道(旧姓・上原三千代)

森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年6月12日 – 1949年7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。

経歴
生い立ちから東京美術学校卒業まで
1897年、群馬県佐波郡宮郷村上連取(「つなとり」と読む。現在の伊勢崎市連取町)の名家に生まれる。酉三の名は酉年(同年は丁酉)に生まれたことにちなむ。幼い頃からさかんに粘土細工を作るなどしていたという。1910年、前橋中学校に入学するも2年後に校長排斥運動(ストライキ)を起こして退学処分を受ける。兄らの奔走により当時県議でのちの衆議院議員・今井今助の推薦を得るなどして同県沼田中学校に再入学することができ、1917年春に同校を卒業。一年後に上京して東京美術学校工芸部鋳金科に入学、香取秀真や津田信夫に師事する。1923年3月に同校を卒業。卒業制作は『経筒中子付』(学校買い上げ)。
高崎観音山再開発と井上保三郎
「高崎白衣大観音」も参照
美術学校卒業後の森村は池袋にアトリエを構え、本格的に創作活動を始める。郷土(群馬)の偉人の胸像の制作、一方で多くは動物をモチーフにした作品で帝展に連続入選するなど少しずつ美術界での地歩を固めていた森村のもとに、1929年、高崎市に本社を置く井上工業の社長井上保三郎らが訪れる。「近代高崎建設の最大の功労者」と言われ衆議院議員や初代高崎市長も務めた政治家・矢島八郎(1850~1921)の銅像制作の依頼であった。翌年完成させた銅像は市内を見下ろす観音山の山頂に設置された(森村の制作したこの像は戦時中に供出され、現在は当時の台座の上に分部順治によって制作された矢島の像が建っている)。2年後、再び井上保三郎が訪れる。井上はパリをモデルに観音山を近代的に再開発したいと考えており。、その構想の中心的存在として前記矢島の像とともに「無名の国家功労者」への弔いの意も兼ねて、大観音像を建立してそれを据えたいと考えていた。井上はその原型制作を森村に依頼しに来たのであった。
井上は「私はセメント会社を経営していてコンクリートが豊富にある。これを何かに活かしたい。ついては私は観音様を信仰しており、あなたの手で立派な観音様をつくってもらいたい」と語りかけ、井上の熱意に打たれた森村は無料で制作することを約束したという。
こうして1934年に原型を完成させ、翌年に工事が着工、翌々年(1936年)竣工し同年10月開眼供養が行われた。当時としては世界最大の観音像であった。
その後
その後も官展に出品を続け、1942年に無鑑査になる。1944年に郷里宮郷村に疎開したのちは群馬美術協会の創設に尽力した。1949年、肝臓がんにより死去。享年52。

エピソード
酒もタバコものまず、作品づくりに精進したという。
一方いったん趣味にのめり込んでしまうと本格的で、特に登山とスキー、菊づくりには惜しげもなく時間を費やしたという。
日本画家の磯部草丘、洋画家の横堀角次郎は前橋中学時代の同級生であり、ともに前述群馬美術協会の創設に尽力した。
池袋時代江戸川乱歩とは隣同士の関係だった。乱歩の自伝的回想録(『探偵小説四十年』)にも森村夫妻が登場する。
第64・65代内閣総理大臣・田中角栄は「完成した白衣大観音の原型を(池袋の)森村のアトリエから(自転車で日本橋の)井上工業東京支店まで運んだのは自分だ」と言って憚らなかったという。真偽のほどは不明だが、大観音建立のプロジェクトが進行中の一時期、田中が井上工業(東京支店)に在籍していたことは事実である。一方森村の妻であった寿々は、森村の死後、洋画家田中佐一郎と再婚したのちも、”角福戦争”の相手、観音山の地元高崎(正確には旧金古町)出身の福田赳夫と終生交流があったという。ちなみに高崎は中曽根康弘の地元でもあり、大観音の周辺で”福中”ならぬ”角福中”が交錯していたということになる。

木暮 陶句郎(こぐれ とうくろう、1961年10月21日 -)は、日本の俳人、陶芸家。 本名は木暮宏明。

経歴
俳歴
1993年、「ホトトギス」同人の伊藤凉志に師事。1997年、「YUKI」同人。1998年、日本伝統俳句協会賞および花鳥諷詠賞を受賞。2002年、「ホトトギス」同人。現在、稲畑汀子(「ホトトギス」主宰)に師事。「ひろそ火」主宰、インターネット俳句協会副理事長、NHK学園講師。
陶歴
南雲龍および南雲陽に師事。 1975年、14歳で陶芸と出会い、以後作陶を始める。1997年、伊香保焼陶句郎窯を開く。2002年、2006年、日展入選。「ぐんまの達人(文化・芸術)」。

渋民焼
自性寺焼
月夜野焼

伊勢崎絣(いせさきかすり)とは、群馬県伊勢崎市とその周辺地域で製造されている絣。「伊勢崎銘仙」とも呼ばれている。

概要
伊勢崎絣は「太織」という残り物の繭から引き出した生糸を用いた織物で、本来は農家が自家用に生産していたものであった。江戸時代中期にその基礎が築かれ、丈夫かつお洒落な縞模様が次第に庶民の間で人気を博し、伊勢崎周辺はもとより遠くは江戸、大阪、京都へも出荷されるようになった。明治に入ると近代的な染色、織物技術が海外から導入され、絣に用いられる糸も手で紡いだ手紡ぎ糸から機械生産による撚糸へと変わり、生産性も大幅に向上した。乃木希典学習院長が伊勢崎絣を高く評価、学習院の学校着に用いられるなど、明治末から昭和初期にかけて伊勢崎絣は「銘仙」と呼ばれるまでに成長を遂げた。その後、急速な洋装化や戦後日本における繊維産業の斜陽化に伴い生産量は激減したが、1975年には国から伝統的工芸品の指定を受け、ネクタイやテーブルクロス、のれん等、反物以外の製品に製造技術を応用し、再び注目を集めることとなった。そのような試行錯誤を続け、伊勢崎絣の伝統を絶やさない努力が現在に至るまで続けられている。

桐生織(きりゅうおり)は、群馬県桐生市において特産とされる絹織物である。その起源は奈良時代まで遡る。江戸時代以降、西陣及び西洋の技術を導入し、さらには先駆けてマニュファクチュアを導入し発展。『西の西陣、東の桐生』と言われ、高級品織物を中心に、昭和初期までは日本の基幹産業として栄えてきた。
2006年4月から施行される改正商標法によって、特定の地域名を冠した「地域ブランド」(地域団体商標)も商標権の取得が可能となることを受け、産地でつくられる織物のブランド化を図る一環として「桐生織」の商標登録取得に向けた準備を進めている。2006年10月27日に特許庁が発表した第一弾の52件からは漏れている。

白滝姫伝説
桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。
この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を『仁田山紬』というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山紬」と言われていた。
姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は白滝神社の前の神体石であるという。
現在でも、桐生市川内町には白滝神社があり、白滝姫が祀られている。
仁田山
江戸期における品質の劇的改善まで、仁田山織は低品質で有名であった。現在でも偽者やまがい物のことを「仁田山」と呼ぶ語源ともなっている。
桐生織の歴史
714年に上野の国(今の群馬県)が、はじめてあしぎぬを織って朝廷にさしだした(続日本紀)。
905年の制度に上野国の税はあしぎぬと定めた。
1333年、新田義貞の鎌倉攻めにおいて、仁田山紬を旗印に用いた。
1384年 – 1392年には、仁田山絹として他国にも流通し始めた。
応仁の乱により、衰退。
安土桃山時代には、少しずつ盛り返していく。
1600年、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原へ返すとき、急使を送って旗絹を求めたが、わずか1日ほどで2千4百10疋を天神の境内に集めて納めた。このことが織物生産地としての桐生の名声を高めた。
1661年 – 1680年になると、機業を仕事とする者が多くなり、京都、大阪、江戸や他の国々との取引も盛んになったので、1738年2月には、はじめて絹市場が開かれた。
1738年織工を雇い入れて、流行を先取りする新しい織物を作り、莫大な利益をあげた。市は、言葉に言い表せないほどに賑わった。
時代の変化にしたがって技術も進み続け、年ごとにすばらしい絹が生産されたので、桐生の名は高まっていった。

桐生織の現在
現在は、和装離れから桐生織は苦境に立たされている。しかし、先端科学技術を導入した新製品や、映画・ドラマなどを中心とした衣装提供など、様々な方面へ生き残りをかけて進出している。
スティーヴン・スピルバーグ監督の、SAYURIにおいて、主演のチャン・ツィイー、コン・リーや桃井かおりが身につけた丸帯は、桐生市で生産されたものである。

ハルナグラスは、群馬県北群馬郡榛東村にあるガラス工芸の工房(工場および店舗)。もとは明治創業の老舗ガラス企業・株式会社ハルナグラスによって運営されてきたが、2015年(平成27年)に有限会社鈴京によって買収され、現在は地球屋ハルナグラスという名称で、鈴京の一店舗として営業している。

歴史
株式会社ハルナグラス
Haruna Glass Co,Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
〒370-3505
群馬県北群馬郡榛東村上野原2
設立 1950年
代表者 代表取締役社長 田島靖彦
資本金 3,200万円
従業員数 6人
主要子会社 有限会社キララ
関係する人物 田島正八(創業者)
田島一朗(設立者)
外部リンク www.harunaglass.com
特記事項:2015年、有限会社鈴京により買収
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有限会社キララ
種類 有限会社
本社所在地 株式会社ハルナグラスに同じ
設立 1990年
代表者 株式会社ハルナグラスに同じ
資本金 500万円
従業員数 17人
テンプレートを表示
高崎時代
ハルナグラスの創業は1903年(明治36年)、田島正八が興した田島硝子製造所に始まる[。創業者・田島正八は大阪でガラス作りの修行をした経験を活かし、群馬県高崎市末広町5にガラス工場を構え、当初はランプの火屋(ほや)を専門に製造していた。1917年(大正6年)、社名を田島硝子器製造所に変更。同時に高崎市内の旭町131に移転したが、その工場は1923年(大正12年)の関東地震(いわゆる関東大震災)の影響で煙突が倒壊する被害を受ける。この地震は群馬県にも被害をもたらし、全壊した住宅の数は107棟に上った。1925年(大正14年)、工場を新築。しかし、その工場も1945年(昭和20年)8月14日の空襲で全焼した(日本本土空襲、伊勢崎空襲も参照)。こうした苦難を乗り越え、1946年(昭和21年)に社名を田島硝子工場に変更、さらに1950年(昭和25年)には株式会社田島硝子工場を設立、代表取締役に田島一朗が就任した。
戦後間もなくの頃は牛乳瓶のような容器や食器、照明用のガラスを生産していた。1965年(昭和40年)にプレス成型機械を導入。1970年(昭和45年)にはクリスタル・ガラスの製造を開始し、このとき社名も田島クリスタル株式会社に変更した。当初は食器・照明用に生産していたクリスタル・ガラスであったが、1975年(昭和50年)に時計枠用にも拡大。1982年(昭和57年)には窯の燃料を重油から環境負荷の低い都市ガスに切り換え、ガラス業界初の試みとしてガス並列式ガラス溶解炉を導入した。
榛東時代
1987年(昭和62年)、工場を榛東村に移転し、社名を株式会社ハルナグラスに変更した。工場に並列式ガラス溶解炉や単独式工芸炉を新設して省エネルギー化を図るとともに、直接販売店を営業開始。1990年(平成2年)4月4日、関連会社として有限会社キララを設立。創業から100年となる2003年(平成15年)には、省エネルギー型の単独式ガラス溶解炉を2基新設した。群馬県は1998年(平成10年)にハルナグラスの製品を「群馬県ふるさと伝統工芸品」に指定(現在は指定解除)。続いて、ハルナグラスの「カラー硬質耐熱の調合・熔解と成型技術・商品群」、そしてキララの「ガラスモザイク造形物とその製造方法」を評価し、両社を2000年(平成12年)度「ぐんまの優れたものづくり企業」に認定した(かぎ括弧内は引用)。
しかし、会社の業績低迷により建物を競売に出すことを余儀なくされ、2015年(平成27年)1月、高崎市の雑貨販売業者である有限会社鈴京が落札した。鈴京が営む地球屋とハルナグラスとは道路(群馬県道153号水沢足門線)を挟んで向かいにあり、両者の相乗効果をもって観光施設事業に弾みをつける狙いである。ハルナグラスは同年5月10日付けで営業を終了。その後、「もの作り体験工房・新ハルナグラス」として同年11月1日にリニューアルオープンした。

上越クリスタル硝子株式会社(じょうえつクリスタルガラス)は、群馬県利根郡みなかみ町に本社・工場を置く企業。手作りガラス製品の製造および販売を手がけ、隣接の直営店・月夜野びーどろパークを運営する(「びーどろ」はポルトガル語でガラスの意)。ブランド名として月夜野工房およびiroを用いる。日本ガラス工芸協会 (JGAA) 賛助会員。

歴史
1905年(明治38年)2月10日、創業者・倉田昌三が現在の東京都文京区において、理化学ガラスの製造を開始したのが始まりである。当時は主に温度計や体温計を始めとするガラス器具の製造を手がけていた。現在の本社・工場所在地である後閑に移転したのは1947年(昭和22年)3月のことで、かつての松根油工場の跡地であった当地を倉田隆夫が着目。その場所は大東亜戦争末期に日本軍の要請で設置され、航空機の燃料として松根油を製造していた工場であったが、終戦により放置されていた。1955年(昭和30年)8月、社名を現在の上越クリスタル硝子株式会社とし、色彩工芸ガラスの生産を本格化。1966年(昭和41年)には通商産業省(現・経済産業省)から輸出貢献企業と認められている。1972年(昭和47年)、工場設備を改善し、公害防止を図った。群馬県は1997年(平成9年)度に上越クリスタル硝子の製品を「群馬県ふるさと伝統工芸品」に指定するとともに、2001年(平成13年)度には5、6人の職人が一組となって臨むガラス宙吹き成形技術を評価し、「ぐんまの優れたものづくり企業」に認定した。
1960年代後半あたりから工場脇に直営店を設営。水上温泉郷への観光客が立ち寄るようになり、ドライブイン的な施設へ整えられて行く。これが現在の月夜野びーどろパークの前身となった(後述)。1990年(平成2年)に美術館を建設し、1994年(平成6年)にテーマパーク化。1997年(平成9年)には月夜野クラフトビール株式会社を設立し、地ビールの醸造も手がけている。

こけしは、江戸時代末期(天保から嘉永期)頃から、東北地方の温泉地において湯治客に土産物として売られるようになった轆轤(ろくろ)挽きの木製の人形玩具。一般的には、球形の頭部と円柱の胴だけのシンプルな形態をしている。漢字表記については、名称の節参照。

概要
こけしは本来の発生時の様式に従って作られる『伝統こけし』と、これをもとに新規に発展した『新型こけし』に大きく分かれる。『伝統こけし』は産地・形式・伝承経緯などにより約10種類の系統に分類される。他方『新型こけし』には、工芸的な「創作こけし」と、東北に限らず全国の観光地で土産品として売られている「こけし人形」がある。
本来の玩具として発生したこけしは、幼児が握り易いように、胴の太さも子供の手に合わせた直径であった。したがって立たないこけしもあった。ただし、鳴子のこけしは、かなり初期の段階から、雛祭りの折に雛壇に飾るような使われ方をしたとみられ、立てて安定なように胴は太く作られていた。いずれにしても本来は湯治の土産物であり、子供の手に渡っておもちゃの人形、すなわち弄び物として使われたものであった。二つ折りの座布団にこけしを挟んで、それを背負いながらままごと遊びをする女児を良く見かけたという記録もある。江戸末期から明治の末年までが、おもちゃとしてのこけしの最盛期であった。
しかし、大正期になると、こけしは、キューピーなどの新興玩具に押されて衰退し、転業休業する工人も増えたが、一方でこのころから趣味人が好んでこけしを蒐集するようになり、子供の玩具から大人の翫賞物として継続してその命脈を保つことが出来た。東京、名古屋、大阪にこけしを集める蒐集家の集まりが出来て、一時休業した工人にも再開を促し、かなりの作者の作品が幸いにも今日まで残ることとなった。 大人の翫賞物として集められるこけしは、棚等に立てて並べられ、鑑賞される場合が多い。そのため、やや胴を太く作ったり、作並のように細い胴の場合には下部に倒れ防止用の台をつける等の工夫も行われた。伝統こけしといっても、その形態や描彩は時代の流行や、新型こけしの影響も受け、需要の要請に応じて幾分変化を遂げている。 一方で、蒐集家によっては、子供の玩具時代の古い様式を望むものもいて、その工人の師匠、先代。数代前の工人のこけしの型を、復元するよう依頼することも行われる。それらは誰それの型の復元こけしと呼ばれる。
毎年9月の第1土曜日曜には、宮城県大崎市鳴子において「全国こけし祭り」が開かれ、コンクールや工人の製作実演が行なわれる。 また5月3日から5日まで、宮城県白石市において「全日本こけしコンクール」が開催される。最も優れた作品には、最高賞として内閣総理大臣賞が授与される。10月には山形県山形市で「みちのくこけしまつり」が開催され、コンクールも行われる。この三つがこけしの三大コンクールと呼ばれる。

名称
こけしの名称は、各地によってすこしずつ異なっており、木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などがあった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子・木形子・木芥子・木削子など)があったが、昭和15年(1940年)7月27日に東京こけし会(戦前の会)が開いた「第1回現地の集り・鳴子大会」で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
一方、近年ではこけしの語源を「子消し」や「子化身」などの語呂合わせであるとし、貧困家庭が口減らし(堕胎)した子を慰霊するための品物とみる説も存在する。これは1960年代に詩人・松永伍一が創作童話の作中で初めて唱えたとされる。 しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られず、松永自身も説得力ある説明はしていないとされ疑問が持たれている。明確な出典が存在しないため民俗学的には根拠のない俗説とされる。
こけしの語源やこけしに至る信仰玩具の変遷について、加藤理が平安時代の子供を守る信仰人形や東北地方の他の信仰玩具との関係から、「『あまがつ』とその歴史的変遷の考察-宮城県の郷土玩具との関係を中心に-」(日本風俗史学会紀要『風俗』第30巻3号)で詳しく分析・考察している。

発祥の背景

こけしの頭部を塗る
こけしが生まれるには、主に次の3つの条件が必要だったと言われている。1つ目は、湯治習俗が一般農民に或る種の再生儀礼として定着したこと。2つ目は、赤物が伝えられたこと。3つ目は、木地師が山から降りて温泉地に定住し、湯治客の需要に直接触れるようになったこと。
当時農民は国民の90%を占めていたが、特に寒冷地東北の農民にとって、湯治とは、厳しい作業の疲れを癒し、村落共同体の内外を問わず人々とのコミュニケーションを楽しむ重要な年中行事であった。太陽暦でいう1月末の一番寒い時期の「寒湯治」、田植えの後の「泥落とし湯治」、8月の一番暑い時期の「土用の丑湯治」など、年に2-3回は湯治を行ってリフレッシュしていたようである。
2つ目の「赤物」とは、赤い染料を使った玩具や土産物のこと。赤は疱瘡(天然痘)から守るとされ、子供のもてあそび物としてこの赤物を喜んで買い求めた。赤物玩具を作る人のことも、赤物玩具を背負って行商に売り歩く人のことも赤物師と呼んでいた。赤物のもっとも盛んな産地は、小田原から箱根にかけての一帯であり、その手法が江戸の末期、文化文政から天保の頃に東北に伝わった。東北の農民達がさかんに伊勢詣りや金比羅詣りに行って、その途上、小田原、箱根の木地玩具(赤物)を見るようになったのがその契機といわれ、湯治場でも赤物の木地玩具を望むようになった。
3つ目の条件として、木地師が山から下りてくるようになった背景には、中世以降保証されていた木地師の特権、すなわちどこの山でも八合目以上の木は自由に伐採できるとされた特権が、江戸の末期になって各地の論山事件により失われたことにある。山から下りて湯治場に定着するようになった木地師は湯治客と接し、彼らの需要を直接知るようになる。いままでお椀、お盆、仏器、神器のように白木のまま出していた木地師が、湯治の農民達の土産物として、彩色を施した製品を作り始めるという大きな変化が起きた。 湯治場において農民が求めた赤物こけしは、心身回復と五穀豊穣のイメージが重なった山の神と繋がる縁起物であり、それを自らの村へと運ぶ象徴的な形象でもあった。それゆえこけしは単に可愛いというだけではなく、逞しい生命力を秘めており、現代においては大人の鑑賞品としても扱われるようになっている。

伝統こけしの系統

こけし十系統のうち、左より土湯系(阿部治助作)、弥治郎系(新山久治作)、遠刈田系(佐藤直助作)、蔵王高湯系(斎藤源吉作)、作並系(高橋胞吉作)。木人子室蔵。

こけし十系統のうち、左より鳴子系(佐藤乗太郎作)、肘折系(奥山喜代治作)、木地山系(小椋米吉作)、南部系(藤原政五郎作)、津軽系(三上文蔵作)。木人子室蔵。
伝統こけしは産地によって特徴に違いがあり、主な物は下記の各系統(主産地・県)に分類することが出来る。
土湯系(土湯温泉、飯坂温泉、岳温泉・福島)
頭部には蛇の目の輪を描き、前髪と、鬘の間にカセと呼ぶ赤い模様がある。胴の模様は線の組み合わせが主体。
弥治郎系(白石市弥治郎・宮城)
頭頂にベレー帽のような多色の輪を描き、胴は太いロクロ線と簡単な襟や袖の手書き模様を描く。
遠刈田系(遠刈田温泉・宮城)
頭頂に赤い放射線状の飾りを描き、さらに額から頬にかけて八の字状の赤い飾りを描く。胴は手書きの花模様で菊や梅を重ねたものが一般的、まれに木目模様などもある。
鳴子系(鳴子温泉・宮城)
首が回るのが特徴。首を回すと「キュッキュ、キュッキュ」と音がする。胴体は中ほどが細くなっていて、極端化すれば凹レンズのような胴体を持つ。胴体には菊の花を描くのが通常である。
作並系(仙台市、作並温泉、山形市、米沢市、寒河江市、天童市・宮城、山形)
山形作並系ともいう。また山形を独立系として扱う場合もある。
頭頂に輪形の赤い飾りを描き、胴は上下のロクロ線の間に菊模様が描かれる。
蔵王高湯系(蔵王温泉・山形)
頭頂に赤い放射状の手柄を描くが黒いおかっぱ頭もある。胴は菊や桜のほか、いろいろな植物を描く。
肘折系(肘折温泉・山形)
頭部は赤い放射線か黒頭で、胴模様は菊、石竹などが多い。
木地山系(木地山・秋田)
頭部には大きい前髪と鬘に、赤い放射線状の飾りを描く。胴は前垂れ模様が有名だが、菊のみを書いた古い様式もある。
南部系(盛岡、花巻温泉・岩手)
おしゃぶりとして作られた無彩のキナキナが原型。簡単な描彩を施すものも作られる。キナキナ由来で頭がぐらぐら動くのが特徴。
津軽系(温湯温泉、大鰐温泉・青森)温湯系ともいう。
単純なロクロ模様、帯、草花の他、ネブタ模様などを胴に描く。
これらの系統に含まれない伝統こけしも存在する。
こけしの工人については、工人中心の百科事典Kokeshi Wikiが詳しい。

だるま(達磨)は仏教の一派である禅宗開祖の達磨の坐禅姿を模した置物、または玩具。現在では禅宗のみならず宗教、宗派を越え縁起物として広く親しまれている。
多くは赤色の張子(はりこ)で製作され、目の部分は書き入れずに空白のままに残す。そして何らかの祈願を行い、祈願が叶うと目を書き入れるという習慣がある。

歴史

『達磨図』(月岡芳年筆、1887年)
鎌倉時代に日本に伝わった仏教禅宗では達磨大師という僧侶を重要視し、「祖師」の言葉は達磨を表すこともあるほどである。禅宗寺院では達磨大師を描いた掛け軸や札をいわゆる仏像のような役割で用いることが行われるが、この達磨大師には壁に向かって九年の座禅を行ったことによって手足が腐ってしまったという伝説がある。ここから、手足のない形状で置物が作られるようになった。
だるまとは別に、各地の郷土玩具に「起き上がり小法師」というものがある。これは底を丸くして重心が低く作られていることによって、倒しても起き上がる置物である。球体に近く腕もなく足もない形状であるため、これに顔を描いたものは次第にだるまとも混同されるようになった。江戸時代に中国から長崎の黄檗宗の寺院に持ち込まれた起き上がり小法師は、インドで僧侶の衣服の色として用いられた黄色であったと伝えられている。
日本ではだるまは赤色を基調とした塗装が行われる。火や血の色である赤は古来から魔除けの効果があると信じられていた。縄文時代には当時の魔法の器具ともいえる一大発明であった土器を作り出す火や命の糧である動物の血に力を感じていたことは想定できるし、古墳では石室に水銀朱がまかれて貴人の亡骸の腐敗を防ぐ役割を期待された。平安時代には貴人の住居や神社の鳥居も腐食を防ぐ赤である丹で塗られた。お祝い事の席には衣服にしろ食べ物にしろ赤が欠かせぬものであり、さまざまな病や災いは赤色を持って防げると考えられてきた。江戸時代以降に日本で描かれた達磨大師の絵なども赤い衣で描かれている。縁起物として、紅白となるよう白いだるまを作ることも行われてきた。 昭和以降になると、赤白色以外にも、黄色、緑色、金色等の色を基調とした色とりどりのだるまも製造されるようになった。

だるまの種類
だるまは生産される地域によって形状、彩色、材質などが異なっており、地域名を冠した名称によって区別されることが多い。以下に、有名なだるまの種類を挙げる。
松川だるま

松川だるま(蟹仙洞所蔵)
仙台市とその近郊で制作されているだるま。胴体の前半分が青で後ろが赤、眉毛に毛を使っているのが特徴。また胴体前面の宝船や福の神が立体的に掘られている。材料には地元の柳生和紙を使用している。
高崎だるま
群馬県高崎市で生産されているだるま。「上州だるま」とも呼ばれているが公式名称ではない(高崎だるまが地域団体商標に登録されている)。全国生産の80%に匹敵する年間170万個が生産されている。現代の選挙の際に立候補時に左目玉を墨で入れ、当選後に右目玉を墨で入れる「選挙だるま」のほとんどが高崎で生産されている。冬に風が強く乾燥する気候がだるま作りに適しており、農閑期の副業として盛んに行われた。
始まりは、延宝5(1667)年に東皐心越禅師が開山した禅宗の一派である黄檗宗の少林山達磨寺で、毎年正月に心越禅師の描いた一筆達磨の座禅像を配り札としていたことによる。その後、文化年間に達磨寺の近隣の上豊岡の山県朋五郎が達磨寺九代目住職の東獄和尚に木型を彫ってもらい和紙を張って作ったのが、高崎だるまの始まりとされている。
球に近い形状の赤色の胴体にくぼんだ白い顔がついており、そこに豪快な髭と眉毛が描かれている。この髭と眉毛は鶴と亀をあらわすという。衣服には金色の縦縞が描かれ、正面中央や顔の左右には文字が記入される。特注でここに祈願内容など独自の文字を入れることもでき、祈願のシンボルや祝儀の贈物として広く利用されている。
白河だるま
白河市で生産されているだるま。白河だるまは今から約300余年前、当時の白河城主丹羽長重公に初まり、後年の小峰城主でその名も有名な松平定信楽翁公が城下の繁栄を強く願い、当家先祖に楽翁公直々の名により谷文晁の図案とお墨付を路金とともに戴き、はるばる京へ「だるま」修業の命を受けて出立した。修業のあかつき眉毛は鶴、髭は亀、耳髭は松と梅、あご髭は竹を表して帰郷したと言い伝えられている。また、文政6年(1823年)も横町絵図に、旧奥州街道沿いの横町で現在もだるま製造業を営む渡邊だるま店の住居、作業所がある位置に「瓦作金七」の名が確認されていることから、この人物が白河だるまと大きく関わっている可能性が高いとされている。 白河だるまはあごひげが長いのが特徴。厄除けと家内安全の利益がある赤だるまと、開運の利益がある白だるまが作られている。年間15万個が生産されている。
越谷だるま

越谷だるま
埼玉県越谷市で生産されているだるま。「武州だるま」とも呼ばれ、江戸時代の享保年間(1716~1736年)に、間久里の「だる吉」という人形師が、従来あった「起き上がり小法師」という玩具に座禅を組んだ達磨大師を描いたのが始まりといわれている。他に比べて「色白」「鼻高」「福福しい」という特徴があり、川崎大師や柴又帝釈天など関東一円をはじめ、全国に広く出荷され「越谷だるま」の名で知られている。越谷市だるま組合の越谷市の7軒、さいたま市(岩槻区)1軒、春日部市1軒により年間約40万個のだるまが生産されているが、そのほとんどが手作業によるもの。
東京だるま・多摩だるま
明治から始まり生糸や絹の産地である武蔵国の中でも特に多摩地域のだるま市で知られる。埼玉県でも見られるもので、養蚕農家が神棚に供えた物であり、合格祈願などのだるまも作る。
詳細は「東京だるま」を参照
相州だるま
東京八王子から伝統を受け継いだもので神奈川県平塚市で生産されているだるま[1]。
鈴川だるま
静岡県富士市の岳南地域で生産されているだるま。優しく穏やかな表情が特徴。
姫だるま

大分・竹田の姫だるま
愛媛県で作られる、女性の外見をしただるま。近現代になって皇国史観が広まってから神功皇后の置物として作ったもの。
女性の外見をしただるまは、新潟県や大分県竹田市などでも生産されている。
五色願かけだるま
静岡県伊豆市の土肥達磨寺で売られているだるま。目を引いて売りやすくするために仏教というより道教で「空風火水土」を象徴する色「青、黄、赤、白、黒」で五色に塗り分けたもので時代はそうくだらない。日本の各地で養蚕が日本の一大輸出産業として盛んになった明治以降に作られ始めた繭型タイプのだるまの一つで、これの時代はもっと新しい。丸型ではなく、ひょうたんのように下部が大きい。願い事を開運札に書いてだるまに貼り、お祈りするときには、南無達磨娑婆訶(なむだもそわか)と三回唱えるとしている。
豊の姫だるま
[大分県] 大分 宗方地区で販売されているだるま。幸せを呼ぶ鈴を入れた「だるま」鄕土玩具。ピンクを基調とした装飾用の七転八起の可愛い「だるま」で、起き上がりこぶし的な小さな「だるま」。旧大分県速見郡日出町の発展に尽力をした速津媛(豊後風土記)を人形化したもので「招福の喜」「人生の幸」「代々の栄」を祈願している。
だるま市
だるまを販売する市が、だるま市として毎年各地で開催されている。少林山七草大祭と厄除元三大師大祭に、毘沙門天大祭か白河だるま市を合わせて日本三大だるま市と称される。
少林山七草大祭
高崎市内にある少林山達磨寺で毎年1月6日~7日に開催される。通称「高崎だるま市」。毎年約24万人の人出がある。
厄除元三大師大祭
東京都調布市の深大寺で毎年3月3日~4日に行われる寺最大の祭であり、東京最大のだるま市[4]の「深大寺のだるま市」として知られており、「三大だるま市」の一つ[5][6][7]。
毘沙門天大祭
静岡県富士市の毘沙門天「今井山妙法寺」で旧正月の7日から9日まで開催される。50万の人出がある。
白河だるま市
JR白河駅前の目抜き通りをメイン会場として開催される。毎年2月11日(建国記念の日)開催。15万人の人出がある。
三春だるま市
三春町 福島県三春町で1月第三週日曜日に開催。 場所:三春町内おまつり通り
川崎大師だるま市
毎年1月3日開催。
青梅だるま市
JR青梅駅前の旧青梅街道で開催される。毎年1月12日開催。
拝島大師達磨市
毎年1月2日~3日開催。
喜多院だるま市
川越大師(喜多院)にて毎年1月3日開催。
前橋市だるま市
だるまや縁起物など、600店もの露店が並ぶ「初市まつり」。毎年1月9日開催。
麻生不動(木賊不動尊)だるま市
麻生不動尊にて毎年1月28日に開催される。
だるまから派生したもの

だるま落とし
だるま落とし
弾丸の先端に形状が似ただるまの下に、薄い円柱を数段重ね、それを横から1段ずつ木槌で叩いて抜き、倒れないようにうまく一番上のだるまを落とすという玩具・遊びである。胴を素早くたたくのがコツである。
だるまさんがころんだ
遊び方の詳細については「だるまさんがころんだ」を参照
こどもの遊びの一種。鬼ごっこの変種と考えられる。鬼がその他の参加者に背中を向けて「だるまさんがころんだ」を唱える間に、他の参加者が鬼に触れ、より遠くへ逃げることを目的とする。また、鬼が呪文を唱えているとき以外は他の参加者は身動きの一切を禁じられる。
にらめっこ
遊び方の詳細については「にらめっこ」を参照
二人が顔を見合わせ、笑いを我慢する。この時、「だるまさんだるまさん、にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」とかけ声をかける。オレたちひょうきん族にもこのコーナーがあった。
だるま弁当

だるま弁当
高崎駅の有名な駅弁にだるま弁当というのがある。高崎市がだるま製造で有名なことを受けて、だるま型の容器に白ご飯を敷き、その上におかずを載せたもの。レギュラー版は「高崎だるま」に似たプラスチック容器を用いているが、古いだるま弁当を再現した「復刻だるま弁当」は瀬戸物の眼光鋭い達磨の表情を描いた容器となっており、全く別の造形である。
だるまに因む言葉

雪だるま
雪だるま – だるまを模した雪像。
ダルマ(ダルマ蔵相/ダルマ宰相) – 大正・昭和の政治家であった高橋是清の愛称。その体格に因む。
ダルマストーブ – 薪(石炭)ストーブの1つ。薪(石炭)を入れる中央部分が膨らんでおり、その形状がだるまに似ている事に因む。
だるま – サントリーのウイスキーの1つ、サントリーオールドの愛称。ボトルの形状に因む。バー等で呼称される。たぬきと呼ばれる事もある。
ダルマセリカ – 初代の2ドア車に付けられた愛称。
だるま女・中国奥地の達者(だるま) – 都市伝説の一つ。
火だるま – 焼身の様子。全体が燃え上がること。
ダルマウス – だるまにマウス機能を内蔵したマウス、本物の高崎だるまを使用している事に因む。
だるま型自転車 -オーディナリー型自転車の日本での通称 。

迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ) は、群馬県沼田市上発知町にある曹洞宗の寺院である。沼田市北部にそびえる迦葉山の中腹に鎮座する。寺号は「迦葉山 龍華院 弥勒護国禅寺(かしょうざん りゅうげいん みろくごこくぜんじ)」だが、一般には単に「迦葉山」と呼ばれることが多い。天狗の寺として知られ、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」の一つに数えられる。参拝の際には、中峯堂から天狗の面を借りて帰り、願いが成就したら、その面ともう一つ新しい天狗の面を奉納し、また別の面を借りるというならわしがある。

歴史
嘉祥元年(848年)に、葛原親王の発願により、比叡山の円仁を招いて、天台宗の寺院として創建されたと伝えられている。
康正2年(1456年)に、曹洞宗に改宗する。
境内
中峯堂
戦勝祈願・交通安全祈願として奉納された「大天狗面」・「交通安全身代わり大天狗」が安置されている。
坐禅堂
研修道場として使用されている。「諸願成就大天狗」が安置されている。諸願成就大天狗は沼田まつりの際に御輿として出御する。
天狗伝説
宝徳3(1451年)に天巽慶順とその弟子中峰が弥勒寺を訪れ、迎えた慈雲律師は法談問答した後「…今日禅師の来るは仏祖の招きならん。永く当山に常住し迦葉不滅の法燈を継ぎ、弥勒下生の暁を期し給え」と天巽に言い遺し入定した。天巽は中興の祖となり、中峰はこれを補佐するが長年童顔変わらず神童と言われるようになる。やがて中峰が「私は迦葉仏の化身なり。当世で為すべき事は終わった。今より末世の衆生を救うため昇天せん」と言い残して昇天し、姿を消した跡に天狗面が残っていたためこれを祀るようになったという。

群馬県
伊勢崎絣
桐生織
高崎手捺染
桐生引染ボカシ
桐生手描き紋章上絵
和重喜ながし
桐生手刺繍
桐生蓑虫工芸
沼田の組紐
太田の絞り
桐生横振刺繍
桐生絞
上州高崎注染手ぬぐい
上州誂え袢纏
正藍染上州小倉織
藍・草木を使った桐生絞り染め
自性寺焼
ハルナグラス
上越クリスタル
藤岡鬼瓦
沼田桑細工
沼田指物
沼田桐下駄
入山メンパ
沼田碁器
三国桐下駄
桐生桶
月夜野桐箪笥
入山こね鉢
三国指物
伊勢崎桐箱
桐生竹細工
根利のスズしょうぎ
日野竹細工
大間々籠
嬬恋寝曲がり竹細工
西上州竹皮編
川場竹細工
桐生籐工芸
伊香保つる細工
桐生打刃物
沼田鉈
万場山中打刃物
安中鍛造農具
桐生紙
秋畑和紙
ぐんまのこけし
高崎だるま
高崎縄のれん
太田太鼓
迦葉山天狗面
榛名の木目込
利根沼田の座敷箒
高崎張子獅子頭
入山菅むしろ
前橋びな
高崎まねき猫
高崎剣道具
桐生民芸畳
上州尺八

下に書いてあるような作家の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日 – 1999年2月5日)は、日本の洋画家。埼玉県川越町(現・川越市)生まれ。冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた。新制作協会会員。

概要
1918年(大正7年) 埼玉県川越市に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎[1](のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で恵まれた環境だった。
1936年(昭和11年)川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学び東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗にふれ稼業を継いだ。
1940年(昭和15年) 21歳で兵役につき、旧満州やフィリピンを転戦。
1944年(昭和19年) フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落、重傷をおって漂流していたところを救出される。
1948年(昭和23年) 仕事の関係で大国章夫に出会い、抑えていた絵画熱が再燃する。
1948年(昭和23年) 猪熊弦一郎に師事する。
1950年(昭和25年) 「白いビル」で新制作展初入選。
1961年(昭和36年) 北海道に写生旅行に出かける[2]。満州での体験を甦らせ自身の原風景を発見する。
1963年(昭和38年) 「原野」「ノサップ」で第27回新制作協会展新作家賞受賞。
1968年(昭和43年) 新制作協会会員になる。
1974年(昭和49年) 第1回東京国際具象絵画ビエンナーレ招待出品。
1987年(昭和62年) 埼玉文化賞受賞。
1996年(平成8年) 川越市名誉市民になる。

相原求一朗美術館
1996年(平成8年) 北海道河西郡中札内村の中札内美術村に相原求一朗美術館開館。
1999年(平成11年) 享年80 逝去。
2002年(平成14年)生地・川越に求一朗が自作を寄贈した川越市立美術館が開館。同館内に相原求一朗記念室が設けられるとともに、開館記念として「相原求一朗の世界展 自然の詩情」展が開催される。

淡島 椿岳(あわしま ちんがく、1823年(文政6年)7月 – 1889年(明治22年)9月21日)は、幕末から明治初期の画家。小林椿岳の名でも知られる。1824年(文政7年)2月8日生まれともいわれる。 明治時代の作家・画家・蒐集家の淡島寒月は椿岳の実子である。親子揃ってマルチな趣味人・独自の方向性を持った自由人として知られた。また、幕末の大富豪・伊藤八兵衛は椿岳の実兄である。

略歴
椿岳は、武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、富裕な農家・内田善蔵の三男として生まれた。本姓は小林、後に淡島を称す。幼名は米三郎。通称は城三。吉梵、南平堂と号す。幼少期より絵を好み、その才があった。
米三郎は長じると長兄と共に川越を発ち江戸に出て、蔵前の札差・伊勢屋長兵衛の元で奉公する。「伊勢屋」は当代きっての幕府の御用商人で、長兄は伊勢屋一族の伊藤家の娘婿となり、伊藤八兵衛と改名する。これが幕末期に江戸一の大富豪に上り詰めた伊藤八兵衛である。後に渋沢栄一は八兵衛の元で商売を学び、八兵衛の次女・兼子は渋沢栄一の妻となった。また八兵衛の娘たちは皆、伯爵夫人となる。
如才ない三男の米三郎(椿岳)は、兄・八兵衛を良く助けたが、日本橋馬喰町の有名軽焼屋・「淡島屋」を営む豪商・服部喜兵衛の元に婿入りし、淡島屋の屋号から淡島姓を名乗る。その後、生活に困らない米三郎は大枚を叩いて水戸藩の御家人株を買って小林城三と改姓した。
絵の道に憧れていた城三(椿岳)は、蔵前で画塾を開いていた大西椿年に大和絵を学び、師の一字をもらって椿岳と号する。さらに谷文晁や高久隆古に師事した。椿岳は日本画の形式に拘らず、洋画も川上冬崖、高橋由一らの交流を通して学んだ。
1859年(安政6年)に寒月が生まれるが、「妾160人」とも言われた椿岳の奔放な女道楽が続く。1870年(明治3年)、愛人とともに浅草寺境内の伝法院に住む。椿岳の奇人・変人と称された伝説的な生活が始まる。浅草寺で椿岳は見世物小屋を開く。西郷隆盛も見学しに来るほどであった。椿岳は次に浅草寺境内の淡島堂に移り、頭を丸めてデタラメなお経をあげるにわか坊主になる。ここで泥絵による洋画風の風景画や風俗画を書き、これが評判を呼んだ。浅草絵の創始である。また鳥羽僧正の鳥獣戯画の影響を受けて、独自の「椿岳漫画」を制作、漫画でも一家を成した。また、明治初期、牛込円福寺に大幅を描いている。
1884年(明治17年)、椿岳は向島の弘福寺門前に梵雲庵を建て移り住み、易者の真似事などをする。1889年(明治22年)、一ヶ月放浪して帰宅した直後に梵雲庵で死去した。墓石には「吉梵法師」と刻まれた。
時世の句
今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれは初めて

岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 – 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。

概要
1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福沢諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福沢桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。
川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。卒業後、2浪して東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学、藤島武二に師事する。卒業後、1936年(昭和11年)の文展で選奨、翌年の第1回新文展で特選となるなど画壇へ華々しいデビューを果たす。
1939年(昭和14年)、光風会会員となり、また従軍画家として中国大陸に赴き挿絵を読売新聞埼玉版などに発表した。1941年(昭和16年)、斎藤五百枝の娘・百譽と結婚。しかし懐妊していた百譽が死去、死因をめぐって五百枝と争いとなり、勝平は画壇を去った。また、父の育太郎も死去し、後妻の子であった勝平は兄弟たちに冷遇され経済的に困窮することとなる。
その後、長い放浪生活に入るが詳細は分かっていない。終戦後、川越に戻り死ぬまで絵の具も買えない貧困と孤独な生活が続いた。友人の川端康成や河北倫明の励ましだけが精神的な支えで、鉛筆による素描を続けた。このデッサンは非常な好評を博し、エドマンド・ブランデンの激賞を受けたが、勝平は健康を害し暮らしは楽にはならなかった。死期を予感し新制作展に出品するも落選、失意のうちに1964年(昭和39年)9月、肺がんで死去した。享年59。墓は、川越市の真行寺。
勝平の作品のいくつかは生地川越にあった田中屋美術館が所蔵していたが、同館の閉館後は新設された川越市立美術館に移されている。

落田 洋子(おちだ ようこ、1947年11月22日 – )は、日本の画家。

経歴・人物
埼玉県浦和市生まれ。1968年、武蔵野美術短期大学商業デザイン科卒業。
広告企画の仕事を経て、1976年から油彩画を描き始める。1978年、六本木・青画廊で初個展。1979年、銅版画を開始する。個展やグループ展示会などで作品を発表している。作品は単行本や文庫本などで多く使われている。
1982年、『紅茶と海』でライプツィヒ国際図書デザイン展銅賞を受賞。
個展活動は銀座77ギャラリーを中心に展開している。
グループ展に「ポストコレクション展」(東京セントラル美術館)、「現代形象展」(ストライプハウス美術館)、「チバ・アートナウ’98」(佐倉市美術館)などがある。

金子 國義(かねこ くによし、1936年7月23日 – 2015年3月16日)は、日本の画家。
埼玉県蕨市出身。織物業を営む裕福な家庭の四人兄弟の末っ子として生まれた。蕨第一国民学校(現・蕨市立北小学校)入学。図画工作に優れた子供だった。バレエ公演を観て憧れ、バレエを習う。ミッションスクールの聖学院高等学校を経て、1959年、日本大学藝術学部入学。歌舞伎舞台美術家の長坂元弘に師事し、舞台美術を経験する。大学卒業後、グラフィックデザイン会社に入社するも3か月で退社し、フリーとなる。1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦の依頼で同作の挿絵を手がける。翌1967年、澁澤の紹介により銀座の青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューする。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵を得意とする。活動・表現領域は幅広いが、一般には「富士見ロマン文庫」(富士見書房)、『ユリイカ』をはじめとする多くの書籍・雑誌の装幀画・挿絵を手がけたことで知られた。
コシノジュンコとは、古くからの親交があった。
L’Arc〜en〜Cielのhydeからのラヴ・コールで、彼の好きなコウモリをモチーフにした浴衣をデザインしたり、ソロ・アルバム「FAITH」のジャケットを手掛ける他、プライベートでも呑みに行くなどの交流もあった。
2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。

喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、宝暦3年(1753年)頃? – 文化3年9月20日(1806年10月31日))とは、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。

来歴
姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても研究者の間では文献から川越(野口米次郎や関根只誠が主張)と江戸市中の2説が論争されており、他にも京、大坂、栃木などの説もある。
鳥山石燕のもとで学び、根津に住む。細判の役者絵や絵本を制作する。初作は安永4年(1775年)に北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)の表紙辺りであろうといわれる。初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いていた。また天明8年(1788年)から寛政初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として当時流行していた狂歌に浮世絵を合わせた狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』、『汐干のつと』などを著した。これら狂歌絵本では植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描き、狂歌人気と相まって歌磨の出世作となった。その後は蔦屋の援助を得て抜群の才を発揮、歌麿の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。ここで歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。
歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の表情だけでなく内面や艶も詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘(三河の出のたかが有名で歌麿の死に水をとったとされる)など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。これに対して江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し美人画を書き続けた。しかし文化元年(1804年)、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受ける。これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が当代の将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったと見なされたためである。この刑の後、歌麿は非常にやつれたとされる。しかし歌麿の人気は衰えず版元からは仕事が殺到したとされ、その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士。
開国後、他の例に漏れず多くが国外に流出した。特にボストン美術館のスポルディング・コレクションは歌麿の浮世絵383点を所蔵。公開を長く禁止したため非常に保存状態が良く、すぐに退色するツユクサの紫色もよく残っている。

作品
錦絵
「婦人相学十躰」
「風流七小町」
「当時全盛美人揃 越前屋内唐土」 大判 東京国立博物館所蔵
「娘日時計 未ノ刻」大判 東京国立博物館所蔵
「相合傘」大判 東京国立博物館所蔵
「歌枕」
「針仕事」 大判3枚続の左 城西大学水田美術館所蔵
「山東京伝遊宴」 大判 錦絵3枚続 城西大学水田美術館所蔵
「音曲比翼の番組」 小むら咲権六 間判 城西大学水田美術館所蔵
「橋下の釣」 長判 城西大学水田美術館所蔵
「北国五色墨 切の娘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
「高島おひさ」 大判 大英博物館所蔵
「歌撰恋之部 稀二逢恋」 大判 大英博物館所蔵

倉田白羊(くらた はくよう、1881年(明治14年)12月25日 – 1938年(昭和13年)11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。

人物
自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。

経歴
埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田努は漢学者で、安井息軒の高弟であった。
1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
1896年(明治29年)、師・浅井が東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の教師として迎えられたため、1898年(明治31年)に倉田もこれを追うように入学し、1901年(明治34年)に首席で卒業。
1902年(明治35年)、太平洋画会に参加。作品を発表するかたわら、中央新聞社を経て時事新報社に勤務し、カットや美術展評などの仕事を行う。またこの頃から、「白羊」の雅号を用いるようになった。
1907年(明治40年)には、第一回文部省美術展覧会に『つゆはれ』で入選。この頃から倉田の活動も活発になっていく。翌年には山本鼎、石井柏亭、森田恒友による美術文芸雑誌『方寸』に参加し、同じ頃「パンの会」にも参加。 1912年(大正元年)には『川のふち』が夏目漱石の美術批評に取り上げられるなどして評判も上がっていき、1915年(大正4年)には日比谷美術館で個展も開いている。
『方寸』で知り合い親友となった小杉未醒の紹介で、押川春浪を中心としたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に入会していた倉田は、1916年(大正5年)、倶楽部の旅行で朝鮮・満州に出かける。これが倉田の転機となった。 この旅行の中で大自然の魅力に取りつかれた倉田の絵からは、以降人間の姿が少なくなっていく。 そして、1922年(大正11年)には、山本鼎に日本農民美術研究所の副所長として招かれ、長野県上田市に移住する。以後はここを終生の住処とし、作品を発表しながら農民美術運動の指導にもあたった。
1934年(昭和9年)、持病の糖尿病が悪化し右目を失明する。その後も絵は描きつづけたが、病状は悪化。1938年(昭和13年)には完全に失明し、同年11月29日に死去。墓所は多磨霊園。

栗原大輔(くりはら だいすけ 1971年6月22日-)は日本の細密画家、画文エッセイスト、広告デザイナー、声楽家、指揮者。血液型はA型。身長172.0cm。埼玉県所沢市に生まれ、隣市の狭山市で育つ。

略歴
埼玉県立狭山高等学校卒業後、観光バスの車掌になるが、21歳の時にオペラ歌手に転身。約5年間国立オペラカンパニーの専属テノール歌手となり、脇役(主に道化役)として邦人作曲家の新作オペラ、イタリア・オペラ、ミュージカルなどにソリストとして出演。25歳の時にフィレンツェ五月音楽祭歌劇場初来日公演、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲:歌劇「アイーダ」(神奈川県民ホール/NHKホール)の出演を最後にオペラ歌手を廃業。
約2年間フリーター生活を続けながら独学で絵の勉強を始め、図書館などに通って資料を集め、細密画家の修行を続けるが、自分のジャンルを「精密画」という名称にし、1998年正式に精密画家としての活動を始める。公式初の発表作品は「高松琴平電鉄850型電車」(不透明水彩画)で、2006年現在までに戦闘兵器を除く題材約300点の「乗り物精密画」を全国の博物館、企業、個人愛好家の依頼で作画発表している。
彼の作品の基本は「学術標本図」であり、背景のある美術的作品は非常に少ないが、例外として2004年2月から2006年3月まで医系奨学生向け月刊紙「トトロのふるさと」にて全31回連載された画文連載「ぼくの散歩道」においては風景画や、人物画、戦闘機などが作画されて発刊された。
当初は国鉄型機関車の精密画を中心に描いてきたが、現在は日本全国各地で活躍した旧型路線バスを題材にした作品が多い。2006年3月18日に長野県長野市にて行われた川中島バス主催「バスまつり」では同社の旧塗装2種を再現したメモリアルバス1号、2号の精密画化の依頼を受け、現在川中島バスによって販売されている。
2005年秋には江戸東京たてもの園での特別展示「栗原大輔精密画の世界展」が当初2週間の期間開催される予定であったが、2ヶ月間のロングラン展示を成し遂げた。2006年秋にも2週間の特別展示会が予定されたが、前年に引き続き1ヶ月のロングランを達成。
2006年11月より江戸東京たてもの園にて定期運行されているボンネットバスの車掌としても活躍。
精密画家以外の活動では宮城県栗原市にて初開催された町興しイベントの企画にも参画し、初のCG作品によるポスターや、2007年3月に廃止予定のくりはら田園鉄道の前身「栗原電鉄」の主力電動車M153型電車、ED20型電気機関車などの精密画化も行った。 ちなみに栗原大輔と宮城県栗原市、くりはら田園鉄道とは家系の由来はない。
2007年3月14日、東京都 台東区浅草一丁目 の浅草セントラルホテル・ロビー:歴史のりもの博物館内に栗原大輔精密画美術館が開館した。
2011年、いすみ鉄道いすみ203号気動車の絵を描くことを依頼されたのが縁で、同年12月11日付で風そよぐ谷 国吉駅の「観光駅長」に任命された。土日祝日及びイベント開催日に勤務する(2012年1月現在)。

オペラ・ミュージカル
ジンク・シュピール「魔笛」(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲 ・199?年:高僧役)
音楽劇「銀河鉄道」(神田慶一宮沢賢治原作 1994年:タイタニックの青年役)
歌劇「フィガロの結婚」(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲 ・1995年:ドン・バジリオ役)
歌劇「マクロプロス事件」(ヤナーチェク作曲 ・1995年:プルス男爵の息子ヤネク役)
歌劇「カルメン」(ビゼー作曲 ・1995年:役名不明)
歌劇「トスカ」(ジャコモ・プッチーニ作曲 ・1996年:秘密警察警部スポレッタ役)
ミュージカル「アリス!」(神田慶一ルイス・キャロル原作 ・1996年:時計ウサギ役)
歌劇「ラ・ボエーム」(ジャコモ・プッチーニ作曲 ・1997年:パルピニョール役)
歌劇「アイーダ」(ジュゼッペ・ヴェルディ作曲 ・1997年:役名不明)

小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 – 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正~昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。

生涯
明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。(明治38年に養子縁組することになる) 明治36年(1903年)、雪岱は16歳の時に画家を志して日本画家の荒木寛畝に入門した[1]。
明治37年(1904年)、東京美術学校日本画科選科入学。下村観山教室に学ぶ。古画の模写、風俗考証を学ぶ。明治40年(1907年)に福岡医科大学の久保猪之吉が上京してきて、夫人とともに駿河台の宿屋に泊まった。この時、歌川豊国の絵の模写を頼まれていた雪岱がそれを届けに宿屋へ伺うと、久保は外出しており夫人が応じた。そこへ宿屋の女中が「泉先生の奥様がお見えになりました」と告げに来たという。久保夫人と泉鏡花夫人は昵懇であったようで、「明日は鏡花本人もここにお邪魔します」という言葉を聞いて、すでに鏡花の小説を愛読していた雪岱は、再びその宿屋を訪れた。このようにして雪岱は、小柄で、ちょっと勝気な美女が男装したような感じのする鏡花と巡りあったのであった 。雪岱の雅号を与えたのが鏡花である[3]。明治41年(1908年)に東京美術学校を卒業、一時、国華社に入社している。
明治42年(1909年)、養父の安並賢輔病没。安並家を継ぐ。ただし、仕事では小村姓を名乗る。
大正3年(1914年)、泉鏡花の『日本橋』の装幀を行ない、以後鏑木清方と並び、多くの鏡花作品を装幀、木版多色摺りによる挿絵の仕事を手がけた。また、大正11年(1922年)には里見弴の『多情仏心』の挿絵も手掛けており、装幀のほか、新聞雑誌の挿絵において活躍している。雪岱の美人画は橋口五葉よりも浮世絵的な雰囲気が色濃かった。その作品は鈴木春信の影響を受けながらも、幕末の歌川国貞あたりの末期浮世絵のもつ崩れた美にも通じていた。新聞小説の挿絵などでは、殊にオーブリー・ビアズリーのような黒白のシャープで、くっきりとした版画的な絵をもって特色を際立たせた。なお、雪岱の木版画は、生前のものより、その没後に高見沢木版社などから版行されたものの方が多く、いわゆる新版画に分類される。
一方、舞台美術の分野でも異才を発揮し、大正13年(1924年)の『忠直卿行状記』から舞台装置の世界で独自の感覚を発揮、『一本刀土俵入』、『大菩薩峠』など、数多くの作品を制作し、溝口健二の映画美術の担当などをこなして、舞台装置の世界で自ら一時期を画した。
昭和8年(1933年)に、挿絵の代表作となった邦枝完二作の新聞小説『おせん』(東京朝日新聞)、翌昭和9年(1934年)の『お伝地獄』(読売新聞)など数々の作品を発表するなど、挿絵の分野においても大きな足跡をのこした。この『おせん』以降は邦枝文学とのコンビネーションも目覚ましかった。また国画会同人でもあり、情趣と端麗な画風を以て、「昭和の春信」と評された。
昭和15年(1940年)、脳溢血にて死去。享年54。墓所は世田谷区北烏山の妙高寺(烏山寺町内)。法名は園林院雪岱日閣居士。

略歴
1892年 川越小学校入学
1900年 坂戸小学校高等科卒業
1904年 東京美術学校入学
1908年 東京美術学校日本画科卒業
1908年 美術雑誌国華社入社
1910年 国華社退社
1914年 『日本橋』の装幀を行う
1918年 資生堂に入社、化粧品広告などを手がける
1919年 田村八重と結婚
1923年 資生堂を退社
1939年 田坂柏雲と「絵画と木彫美術展覧会」を開催
1940年 麹町の自宅で脳溢血により死去

小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 – 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。詩情の画家。

略歴

『朝露』1932年(足立美術館)
埼玉県川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。
17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門(御舟が午前、青樹が午後だった)。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。翌年、今村紫紅が主宰する赤曜会に参加し、青樹と号する。
1915年(大正4年)の再興院展に「小泉夜雨」が初入選。その後、肺結核となり川越の実家で静養する。1918年(大正7年)、第5回再興院展で「菜園」が入選。1921年(大正10年)、第8回再興院展に洋画的な手法と細密表現の際立つ「出雲江角港」を出品し、横山大観らに推挙され日本美術院の同人となる。1929年(昭和4年)、杉立社を組織、また帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授に就任。1931年(昭和6年)、日本画が本来もつ装飾性に眼を向けた「虫魚画巻」を第18回院展で発表。
1933年(昭和8年)、咽頭結核が悪化し神奈川県逗子市で夭折。享年41。墓は川越市の広済寺にある

後藤 純男(ごとう すみお、1930年1月21日 – )は日本画の画家。
昭和5年(1930年)、千葉県東葛飾郡関宿町(現野田市)に生まれる。昭和7年(1932年) に埼玉県北葛飾郡金杉村(現松伏町)へ転居。昭和61年(1986年)に内閣総理大臣賞を受賞、昭和63年(1988年)から平成9年(1997年)まで東京藝術大学美術学部の教授を務めた。平成18年(2006年)に旭日小綬章を受章する。平成28年(2016年)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する。歌人の米川千嘉子は姪。

略歴
1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の真言宗豊山派の住職後藤幸男の子として生まれる。
1932年 埼玉県金杉村(現・松伏町)へ転居。
1942年 金杉小学校を卒業する。同年、父後藤幸男が母校で教師を勤めていた旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)入学
1945年 郷里の旧制埼玉県立粕壁中学校(現春日部高等学校)第4学年へ転入。
1946年 粕壁中学校卒。山本丘人に師事。
1949年 田中青坪に師事。
1952年 再興第37回日本美術院展覧会(院展)に初入選。5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙。
1955年 約8年間の関西、四国における真言宗の寺を巡るスケッチ旅行を始める。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待に推挙。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。
1974年 日本美術院同人に推挙。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院名誉教授に就任。
1986年 再興第71回日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学美術学部教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家の後藤仁がいる。
1993年 真言宗豊山派の総本山長谷寺に襖絵「夏冬山水」を奉納。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2014年5月10日 大分県玖珠郡九重町田野1712-707 九州芸術の杜内に常設で後藤純男リトグラフ館を開館。(原画とリトグラフ)
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
現在 日本美術院同人理事。中国西安美術学院名誉教授。

斎藤三郎(さいとう さぶろう、1917年5月10日 – 1996年3月17日)は日本の洋画家。浦和画家。

人物
23歳で太平洋戦争に応召し、生死のはざまで和紙に3000枚のスケッチを残した。生きて帰国できれば画家になると決意し、終戦後1945年に帰国。浦和市に居住した。
年譜
1917年 – 埼玉県熊谷市に生まれる。
1930年 – 旧制浦和中学校に入学。
1937年 – 内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
1940年 – 東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数のデッサンを描く。
1945年 – 戦地から帰国。埼玉県浦和市に居住。
1946年-第31回二科展に初入選。
1948年-第33回二科展にて「敗戦の自画像」が特待賞受賞。
1949年-サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
1950年-「信仰の女」で第35回二科展二科賞受賞。
1954年-二科会会員推挙。
1961年-第46回二科展にてパリ賞を受賞。
1972年-渡欧。第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
1974年-渡欧、おもにスペインに滞在する。
1975年-渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
1996年- 埼玉県浦和市にて死去。享年78。

斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日[1]-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。

経歴
埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現・加須市)生まれ。本名は与里治。浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学び、1906年に鹿子木とともにフランスへ渡った。1908年8月に帰国した後は「白樺」誌上で、ポスト印象派やフォーヴィスムの作品を紹介した。1912年、岸田劉生らとフュウザン会を結成(翌年解散)。
1924年に槐樹社(1924-1931年)を設立し、機関誌『美術新論』の主幹として美術評論も行った。解散後、1932年に東光会(1932年-)を創設した。
この間、大阪美術学校(大阪芸術大学の前身・大阪美術学校とは別で、1944年廃校。跡地は枚方市立御殿山生涯学習美術センター)の創立に協力し、1926年に教授となった。

四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 – 1981年)は、埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。

略歴
高等小学校卒業後に上京し、神田の書店に勤める。そのかたわら川端画学校に学び、日本画家を志す。この時期、川端龍子を師と仰いだ。また、浦和市の別所沼畔に居住し須田剋太ら浦和画家と交流した。
1928年(昭和3年)に至り、龍子主宰の画塾・御形塾に進む。青次郎の雅号は、1930年(昭和5年)に第二回青龍展に龍子が出品した作品名『草炎』から与えられた。そのため、若かりし青次郎にとっては愛しい号となった。そして1931年(昭和6年)になり、第三回青龍展に出品した『花紅白』で初入選。以降、春と秋の青龍展で計7回の入選を果たし、青龍社社子に推されるまでになり、新進の日本画家として期待されるも、1938年(昭和13年)になり、青龍社を退社。何が原因であったかは知られていないが、以後、草炎は孤高の道へと入る。戦後間もなく、群馬県霧積山中にこもる。標高1100mもの山中に寝泊まりしたこの時期に、野生の猿の素描に明け暮れた。草炎の孤高の素描画のスタイルは、この時に確立された。その後、下山し、1952年(昭和27年)には岩崎巴人らと共に日本画・洋画のグループ莚上会を、1963年(昭和38年)には村田泥牛らと結成した石上グループなどのグループ展、そして個展を中心に作品を発表。昭和30年頃から作陶にも力を注ぐようになるが、青龍社時代ほど脚光を浴びることはなく、1971年(昭和46年)に作陶中、脳溢血で倒れ、闘病生活の果て、79歳で病没した。この闘病生活10年の間、草炎は、「私は一生パン画(売り絵)は書かない」、「有名になると(絵が)駄目になる」と言い続け、反骨精神と共に無名のまま逝ったのである。
草炎の没後から5年目にして、「四方田草炎全貌展」が東京六本木のストライプハウス美術館で開かれ、これをきっかけとして、新たに脚光を浴びることとなる。各地で展覧会も開かれ、ここに四方田草炎は本庄を代表する画家として認知されるに至った。

画風と評価
草炎が描いた素描は1万点を超え、画面に強く引かれた線、同じ所を何度も何度もなぞって描かれた部分は以上に黒光りし、そこには対象の本質に迫ろうとする画家の全身全霊を傾けた、真摯で一途な執念ともみえるものがあるとされる。これは山中生活から研かれたものであった。
草炎の素描を観た近代日本画の中心人物である横山大観は、「君は一体どうしてこれが描けたのか、まさしく神の手だ」と驚嘆の声をもらした。
その他
青龍社退社後から戦後に至るまでの草炎の作品は、大半が現存しない。これは戦時中に焼失などして散在してしまったためである。このことは、後々まで草炎の痛手となり、失意となった。この中には、青龍社時代からの思い出深い作品が全て含まれていたためである。
生前、草炎は、「画家は本画を見せればいい」とことごとく言っていた(これは皮肉とも受け止められている)。
NHKの『日曜美術館』において、「孤高のデッサン」と題された特集で紹介され、大きな反響を呼んだ。

須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 – 1990年7月14日 )は、日本の洋画家。埼玉県生。浦和画家。

人物
当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し、光風会に入ることを勧められ入会した。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。浦和画家のひとり、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で、別所沼のアトリエも隣り合っていた。また、四方田草炎や林倭衛とも交流していた。

略歴
1906年 – 埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。本名 勝三郎。
1927年 – 埼玉県立熊谷中学校(旧制、現・埼玉県立熊谷高等学校)卒業。その後浦和市(現:さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するもいずれも失敗。独学で絵を学ぶ。
1936年 – 文展で初入選。
1939年 – 文展で「読書する男」が特選。
1949年 – 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 – 森田子龍編集の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1955年 – 第3回日本抽象美術展に出品。
1957年 – 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1960年 – 第1回個展(大阪フォルム画廊)。
1961年 – 現代日本絵画展に出品。カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。
1962年 – 西宮市民文化賞を受賞
1971年 – 司馬遼太郎に同行しながら、「街道をゆく」の挿絵を描き始める。
1975年 – 郷里の吹上町文化賞を受賞。
1983年 – 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1989年 – 埼玉県立近代美術館にすべての抽象の油彩画、グワッシュの合計293点を寄贈。
1990年 – 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。死期を感じ取り作品を散逸させないため大量の寄贈を行ったと言われている。
1990年 – 7月14日午後5時28分、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で死去。

高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 – 1992年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家、文化功労者。瑞宝章受章者。浦和画家の代表格として知られる。

経歴
埼玉県浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)常盤町の代々医者として知られていた旧家である高田家に生まれた。父は医師のほか民政党の県議会議員を務めた高田源八。埼玉県立男子師範学校付属小学校の5、6年生のころに初めて油絵を制作している。浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)では恩師となる福宿光雄に学び、福宿の薦めで跡見泰や相馬其一の指導を受けた。同じ美術部には増田三男がいた。浦中4年の時16歳で「浦和風景」を出品し二科展に初入選。プロの絵描きの登竜門とされた二科展で中学生の入選は珍しく、新聞に大きく報じられた。1930年に父の友人の紹介状によって、二科会の重鎮であった安井曾太郎に師事した。一水会展、新文展、日展に出品し、1955年埼玉大学教育学部美術科講師となった。1972年に日本芸術院賞を受賞、78年には日本芸術院会員に任命された。1990年には浦和市名誉市民(現在はさいたま市名誉市民に継承)となった。作品の多くは埼玉県立近代美術館に収蔵されている。

経歴
1913年9月24日 – 埼玉県浦和町(のち浦和市)常盤町に生まれる。
1924年(大正13年) – 浦和中学校に入学、福宿光雄に図画を学ぶ。
1929年(昭和4年) – 二科展に「浦和風景」を出品し初入選。
1930年(昭和5年) – 安井曾太郎に師事。
1931年(昭和6年) – 二科技塾(のち番衆技塾)に入り、安井や熊谷守一に学ぶ。「海の見える風景」を二科展に出品し、入選。
1955年(昭和30年) – 埼玉大学教育学部美術科講師。
1961年(昭和36年) – 埼玉県美術家協会会長。
1962年(昭和37年) – 日展評議員。
1968年(昭和43年) ― 「雑木林のある風景」で日展文部大臣賞受賞、埼玉県教育功労者。
1972年(昭和47年) – 日本芸術院賞[2]、
1973年(昭和48年) – 日展理事長。
1976年(昭和51年) – 安井曾太郎記念会理事・評議員。安井賞の運営に尽力。
1977年(昭和52年) – 埼玉県文化功労者。
1978年(昭和53年) – 日本芸術院会。
1984年(昭和59年) – 第一回浦和市民文化栄誉賞。勲三等瑞宝章受章。
1987年(昭和62年) – 文化功労者。個人としては初の埼玉県民栄誉賞受賞。
1990年(平成2年) – 浦和市名誉市民。
1992年10月24日 – 死去。11月24日にはさいたま市文化センターにて浦和市民葬が営まれた。

田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 – 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。

経歴
1886年旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業後、単身渡米しシアトルへ渡る。その後皿洗いやピーナッツ売りなどで生計をたてる暮しのなかで、次第に画家の道を志すようになり独学で絵画の勉強を始める。1912年頃、アカデミックな傾向のオランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入学し、素描や油彩を学ぶ。洋画家清水登之及び野村賢次郎もここで学んでいる。
1915年シアトル市公立図書館展示室で初めての個展を開く。この頃タダマの画塾で指導するかたわら、自らも画塾を開く。同年アメリカ合衆国代表としてパナマ・サンフランシスコ万国博覧会に《マドロナの影》を出品する。1917年個展で発表した裸婦を描いた作品が風紀上好ましくないという理由から撤退勧告を受けるが、抗議文を発表して信念を貫く。個展は大評判となり、一日に千人も押し寄せる。同年判事の娘であり、詩人及び美術評論家で活躍しているアメリカ人ルイーズ・カンと結婚。1919年北西画家展で出品した《秋の小川》が2等賞を獲得するなどアメリカで画家として成功する。
1920年更なる高みを求めて美術の中心地フランス・パリに約100点の作品を携えて移住する。その後、画塾を開きながら個展の開催やサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・ナショナル、サロン・デ・チュイルリーなどの展覧会に出品する。1921年《銅の花器》、1922年《夜のセーヌ》がフランス政府に買い上げられる。1924年渡仏中の東久邇宮、朝香宮及び同妃夫妻が個展の出品作品の中から8点を購入する。同年リュクサンブール美術館に《渓流にて》が買い上げられジュ・ド・ポーム(印象派美術館)に展示されるなどパリでも画家としての地位を築く。1927年サロン・ドートンヌ、1929年には、サロン・デ・ナショナルの会員となる。
1939年第二次世界大戦が勃発し、日本人のほとんどが帰国する中パリに留まり、戦火を避けながら、定期的に作品の発表を続ける。1941年ドイツ軍占領下のパリで病没する。遺髪は、夫人によって岩槻に届けられ菩提寺である芳林寺に埋葬される。1946年パリのL・マルセイユ画廊にて遺作展が開催される。
この後、田中の作品群は夫人に愛蔵され、人目に触れることもなく終生愛される。夫人の死後、その遺産が売却されることになり、改めて田中の作品が世に出る。たまたまニューヨークの画商がフランスの地方を旅行中、ある画廊で田中の作品群に眼をとめ感動し、蒐集する。田中の没後35年を経過した1976年、東京・伊勢丹で「田中保展」が開催され、夫人の遺産から蒐集した主な遺作34点が祖国日本で初公開される。
作品の大部分は埼玉県立近代美術館及びサトエ記念21世紀美術館にコレクションされている。近年他の美術館でも田中保のコレクションが徐々に増えている。

羽川 珍重(はねかわ ちんちょう、延宝7年〈1679年〉? – 宝暦4年7月22日〈1754年9月8日〉)とは、江戸時代初期の浮世絵師。

来歴
鳥居清信の門人。姓は真中、俗称は太田弁五郎。画姓を羽川といい、絵情斎、珍重、冲信、元信と号す。武蔵国川口(現・埼玉県川口市)の生まれ。後に江戸下谷に住んだ。幼い時に清信に絵を学び、遊女評判記、役者評判記、六段本、赤本を描いた他、一枚摺の墨摺絵や丹絵を10数点、また数点の肉筆浮世絵を残す。画風は鳥居派のものより幾分柔らかい。生涯妻を娶らず、武道をたしなみ、常に言行を慎み、遊山、舟遊びの際にも肩衣を脱がないといった、浮世絵師には珍しい人物であった。また絵をもって生活をしていたが、気が向かなければ描かないため、書肆も大いに持て余したといわれる。後に仏門に入り、三同宣観居士と称した。
代表作として享保7年(1722年)の役者評判記「役者芸品定」、延享2年(1745年)作画の肉筆画「風俗図」(紙本着色)があげられる。この「風俗図」は彦根屏風に描かれた二人の人物を忠実に写し取っており、珍重の画技の高さを示す優れた模写本といえる。また晩年は、自画の絵馬を川口の稲荷五社に奉納、自画像と小引(しょういん : 短い序文)一巻を子孫に残したが、他の物は火災により焼失したといわれる。下総国葛飾郡川津間の郷士、藤沼氏の家にて没した。享年76。辞世の句は、「たましいのちりぎはも今一葉かな」。墓所は江戸の下谷池之端の東園寺。
門人に羽川藤永、羽川和元がいる。

深沢 邦朗(ふかざわ くにろう、1923年5月23日 – 2009年1月8日)は、日本の童画家。埼玉県生まれ。

最も知られた少女画について
高級クッキーセット「チボリーナ」のパッケージとなっている丸い顔の少女のイラストが、最も知られた深沢の作品である。
「チボリーナ」の7種類のパッケージ画では常に少女の顔の左側が描かれているが、他の絵では正面を向いている事もある。
この少女のモチーフは深沢の作品に繰り返し表れている。その中の2作品は、1986年と1987年の共同募金のポスターの原画として描かれたものである。
特に、雑誌「一枚の繪」において発表された作品は、殆ど全てがこの少女の絵であった。
なお、深沢本人の弁によると、この少女にモデルは居ないとの事である。
童画家としての多様な活躍
なお、童画芸術協会のウェブサイトを見ると、深沢の作品は、この少女以外にも色々ある事が判る。
また、古くから絵本の挿絵画家として活躍しており、童画を中心として多様な絵を描いている。
趣味はボクシング
現在愛らしい少女の絵で知られている深沢であるが、意外にも趣味はボクシングであり、アトリエの隣の部屋にはサンドバッグがぶら下がっている。

経歴
第二次世界大戦に従軍し、戦地でも絵を描いたとの事。
1960年、小学館絵画賞を受賞する。
1975年、自ら設立した現代童画会の初代会長となる。
1979年、現代童画会を退会する。
1983年、自ら設立した童画芸術協会の会長となる。
2009年、肺炎で死去するまで童画芸術協会の会長を務めた。

宮﨑 敬介(みやざき けいすけ、1970年 – )は、日本の版画家。宮崎 敬介(みやざき けいすけ)とも表記される。

概要
1970年、アニメーターの宮﨑駿と大田朱美の二男として、埼玉県所沢市に生まれた。版画家柄澤齊の作品に感動したことをきっかけに、武蔵野美術大学造形学部在学中に独学で木口木版画を始めた。
卒業後は版画家として活動し、木口木版画の制作を続けている。普段は父親が著名なアニメーション監督である事を伏せて創作活動をしているが、一部作品を父の関わった作品に提供した事がある。

略歴
1970年 埼玉県に生れる。
1990年 武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン科入学。
1994年 同校卒業。
1995年 アニメ映画『耳をすませば』用に「牢獄でヴァイオリンを作る職人」を制作。
1996年 木口木版画展「MOONSHINE」(ピンポイントギャラリー)
1997年 ザイログラフィア木口木版画7人展(ガレリアグラフィカ)宮崎敬介木口木版画展(加藤京文堂)
2000年 木口木版画展「PLANET」(ピンポイントギャラリー)
2001年 木口木版画展「wood engraving 放浪時代」(松明堂ギャラリー)
2002年 三鷹の森ジブリ美術館展示用に木口木版画を制作。
2003年 堀田善衛『路上の人』『聖者の行進』『時代と人間』の表紙版画を制作。木口木版画展「プラネット」(ピンポイントギャラリー)
2004年 木口木版画展「calling」(松明堂ギャラリー)
2006年 木口木版画展「サイレンス」(ピンポイントギャラリー)
2007年 木口木版画・銅版画 宮崎敬介・佐藤妙子展(松明堂ギャラリー)

森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 – 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正~昭和期の洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。

経歴
埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。
小山正太郎の不同舎に学び、明治35年(1902年)東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。
大学卒業後の明治40年(1907年)、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選、また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。翌年にパンの会の同人となる。
1914年、ヨーロッパに渡り、セザンヌの影響を受ける[2]。翌年帰国して二科会会員。1916年、日本美術院洋画部の同人となったが、翌年両会とも脱会し、1922年、春陽会を設立。ヨーロッパで得たリアリズムを基本に西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自ら平野人と号し、関東平野の利根川沿いの自然を写生し、閑静な生活の中に心の澄んだ素直な作品を描いた。
南画の伝統を近代絵画に蘇らせた画家の一人。

山本 容子(やまもと ようこ、1952年4月7日 – )は、日本の銅版画家。

概要
作品は、柔らかく繊細な描線と独特の色使いが特徴で、都会的で洗練された雰囲気を持つ。
『マリ・クレール』1988年4月号~1989年3月号に連載された吉本ばななの小説『TUGUMI』の挿画を手がけ、単行本(1989年3月刊行)の表紙絵も担当。版画家としてはすでに一家をなしていたが、同書が1989年年間ベストセラーの総合1位を記録し、累計167万部ものベストセラーとなったことから山本の名前も広く知られるようになる。(なお、編集者の安原顯はこの売上げの多くは、山本の挿画の魅力によるものだと語っている。[要出典])
それ以降、多数の書籍の装丁や挿画、アクセサリー、食器、舞台衣装のデザインなどの幅広い分野の作品を発表している。
また、美術以外の分野でも、旅行、音楽などについての挿画を交えたエッセイを多数出版しているほか、1999年のネスカフェ・ゴールドブレンドを初めとするCM出演や、2005年のベストジーニスト受賞など、その活動は精力的で、多岐にわたる。
愛犬家としても知られ、2007年2月11日に開設された公式ウェブサイトは、かつての愛犬の名を取ってLUCAS MUSEUMと名付けられている。

略歴
1952年 4月、福喜鮨創業者山本喜五郎の孫として埼玉県浦和市(現・さいたま市)の浦和市立病院(現・さいたま市立病院)で生まれる。このため、公式プロフィール上浦和市出身となっている。父は武蔵高等学校尋常科から大阪府立高津中学校を経て第三高等学校受験に二度失敗し、大阪理工科大学(現在の近畿大学理工学部)卒業後、容子の出生当時は埼玉の鉄工所に勤務していたが、後に奈良県生駒市で山本旅館の経営を引き継ぎ、経営難で旅館を手放してからは自らの研究所を設立し、公害処理など化学関係の研究をおこなった。このため、容子は生後50日で山本旅館に移り住む。
1955年 8月、大阪府堺市大浜中町に転居。
1959年 4月、堺市立英彰小学校入学。
1961年 冬、父の研究所の倒産により一家が破産。東京都練馬区に夜逃げし、練馬区立田柄小学校に転校。
1963年 春、大阪府門真市に転居。門真市立大和田小学校に転校。
1964年 父が愛人を作って家から出たため、母がお好み焼き屋を始めて家計を支える。
1965年 4月、聖母女学院中学校に入学。
1966年 カトリックの洗礼を受け、洗礼名ベルナデッタを授かる。
1969年 このころ、天王寺公園で前衛劇団「日本維新派」の芝居を観劇し、強烈な印象を受ける。このとき「こういう演劇に興味があるんなら、京都芸大のアトリエ座に行けばいいよ」と聞いたことがきっかけで京都市立芸術大学を志望するに至る。
1972年 4月、関西美術院とリベラ美術研究所での1年間の浪人生活を経て京都市立芸術大学美術学部西洋画科に入学。
1974年 このころ、先輩の木村秀樹に「あなたのことが好きです」と告白して「僕も君が嫌いではない。でも、みんなで一緒にいる方が楽しいし、何より、作品を創っているのが一番楽しい」と断られる。
1975年 5月、第27回京展紫賞受賞。6月、京都のアート・コアギャラリーにて初個展を開く。
1976年 6月、第1回アート・コア賞受賞。
1977年 7月、第2回京都洋画版画美術展で新人賞受賞。10月、第2回現代版画コンクール展でコンクール賞受賞。
1978年 1月、大学院の先輩にあたる4歳上の版画家の田中孝と結婚。京都の公団南大島団地に住む。3月、京都市立芸術大学美術学部西洋画専攻科修了。田中と共に京都市立芸術大学の非常勤講師をつとめる。9月、第2回日本現代版画大賞展で西武賞受賞。このころ田中の子を妊娠したが、田中の「自分たちの面倒もみきれないほどの貧乏暮らしなのに、子供なんてとんでもない」との一言で中絶を余儀なくされる。
1980年 3月、京都市芸術新人賞受賞。10月、エイボン女性年度賞芸術賞受賞。この年、木村秀樹の紹介で大津市比叡平に転居。
1981年 このころ、容子の作品に注目して東京から訪ねて来た画廊主が田中に向かって”うちの画廊にとってあなたは取り扱い作家として興味がない”旨を宣告。このため田中との夫婦関係が冷却し、家庭内別居が始まる。
1982年 7月、田中と離婚。
1983年 第4回韓国国際版画ビエンナーレで優秀賞受賞。
1984年 7月から、妻子ある21歳上の美術評論家中原佑介と東京都渋谷区代々木のアパートで同棲。このため中原の妻が代々木のアパートに押しかけ、大声で叫びながらドアを叩く、画廊の前で待ち伏せする、牛乳入れにマッチを投げ入れる、執拗に電話をかけ続けるなどの嫌がらせをおこなう。西参道を歩いていた容子に中原夫人が駆け寄って「今からこの人に突き飛ばされた、と言ってから、車に轢かれます」と叫んだこともあった。このときは容子が交番に駆け込み、警官に状況を説明してから「わたしは決してあの人を突き飛ばしたりしないから、証言を取って置いて下さい」と言った。
1985年 5月、東京都港区南青山の秋山庄太郎の家作に転居。
1986年 8月、神奈川県鎌倉市に転居。
1992年 『Lの贈り物』で第23回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。
1996年 テレビ番組の富士通スペシャル『世界遺産──時を超える旅』の収録で知り合った2歳下のテレビディレクター氏家力(嵐山光三郎の元用心棒)と嵐山の仲人で結婚。
2004年 5月、氏家と離婚。

大山 結子(おおやま ゆうこ、5月16日 – )は、日本の現代美術家。俳優やパフォーマーとしても活動する、インターメディア・アーティスト。元水着キャンペーンガール。

人物
埼玉県春日部市出身、東京都世田谷区在住。化粧品のための動物実験の反対運動を目的とした、通称「うさぎ組」という芸術家NGOの代表(「うさぎ組」はNGOという形式の現代美術作品)を務める。ベジタリアン。

来歴
十文字中学校・高等学校に進学。在学中に希望した美大進学を両親に反対され、両親の意向で、某私立大学に世界史の一芸入試で合格、進学するも、本人の意思で家出をしつつ水着キャンペーンガールのアルバイトで貯金をし、すいどーばた美術学院デザイン科に入学(ただし、油画科進学希望だが書類上の手違いでデザイン科に在籍)。同学院では日本画家の高橋浩規などに師事し、女子美術大学デザイン科に入学。その後、本来の志望進路に進むため、貯金をして新宿美術学院油画科に特待生として入学。同学院を経た後、多摩美術大学に入学。
多摩美術大学に在学中、油画を専攻していながら、映像演劇科の研究公演『自来也』に主役の一人として抜擢され、「自来也A役」として出演。多摩美術大学発行の「平成15・16年度 多摩美術大学 造形表現学部 映像演劇学科 共同研究報告書」によれば、『自来也』総合プロデューサーで詩人・評論家の鈴木志郎康から「相手役を食ってしまった」と高い評価を受けている。
『自来也』で共演した多摩美術大学映像演劇科の学生達は卒業と同時に劇団「小指値」(こゆびち)—鈴木志郎康が命名—を立ち上げ、のちに劇団名を「快快」(ファイファイ)に改名して演劇活動を展開。大山は野田秀樹芸術監督就任記念プログラム・日比野克彦との合作、東京芸術劇場の特設野外舞台での発表作品『火の鳥 (ストラヴィンスキー)』で主演を務める。
2009年にはザルツブルク博物館「日本の芸術」展で、日本の現代美術家として紹介される。
近年は、「化粧品類のための動物実験の撲滅を目指す」という主旨の、通称「うさぎ組」と呼ばれる芸術家NGOを立ち上げ、「NGOうさぎ組」の「組長」(代表)として、「化粧品のための動物実験の反対運動」が目的の市民活動と、「現代美術」を融合させた作品を発表することが多く見られる。
「NGOうさぎ組」の主な活動は、ザルツブルク博物館館長Perter Husty のキュレーションによるパフォーマンスアート発表や、早稲田大学法学部主催、塚原史のキュレーションによるパフォーマンスアートの発表などである。
2011年、東日本大震災によって村上隆主催のGEISAI#15が中止になった折には、それを受けて同年6月に開催された「プチGEISAI決起オフ」の招待作家となり、「カイカイキキギャラリー」でパフォーマンスアートを「NGOうさぎ組」として行った。 2016年、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律が施行される時は、参議院議員会館にて開催された集会に、障害者であると同時に現代美術家として活躍する人物として紹介され、障害者であると同時に議員の斉藤里恵と共に、障害者を代表して登壇した。

諸井 春畦(もろい しゅんけい、1866年(慶応2年) – 1919年(大正8年)5月9日)は、明治期から大正期にかけての実業家、書家。諱は直行、字は習郷、通称は時三郎。春畦は号である。

生い立ち
武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)の諸井泉衛(郵便諸井)の三男として生まれる。兄諸井恒平は秩父セメント会社の創設者であり、弟諸井四郎は東亜製粉会社の創設者、その弟の六郎は陸奥条約改正に尽力した外交官。いわゆる、日本の近代化に深く貢献した東諸井家の一族である(そのため、渋沢栄一とは親類関係に当たる)。養子に柳田誠二郎(のちに日本航空の社長となる)。

略歴
上京して経済学を修め、日本初のビルブローカー業(コール取引、すなわち銀行間決済資金融資業務)を始めた。そのため、日本ビルブローカー業の創始者とされる。書の大家である西川春洞に学び、自身も書の大家となった。春畦(時三郎)の妻であるクラも西川春洞の門下生であり、号を華畦、夫婦共に書家であり、共に春洞門七福神の1人であった。1904年(明治37年)、豊道春海などと共に謙慎堂同窓会を結成。1906年(明治39年)頃、上京して来た誠二郎を養子として受け入れ、1911年(明治44年)には明治書道会を結成し、その会長となり、著書に『書法三角論』、『書家宝典』などがある。そのわずか8年後の1919年(大正8年)に、流行性感冒(スペインかぜ)のため東京日本橋濱町にて54歳で没した(兄弟の中でもかなり若い内に亡くなった)。墓所は埼玉県の安養院。安養院には、「春畦諸井先生碑」が置かれている。

書風
春畦は、楷書・隷書を得意とし、力強く潤いのある整然とした書風、と評されている。
著書の『書法三角論』(字を全体的に三角形に書く)は、欧米の学理を取り入れて独自の書風を編み出したものである。

新井 飛山(あらい ひざん、1955年1月8日 – )は、埼玉県東松山市生まれの書家。木村東道に師事。本名は一雄、飛山は号。

役職
清風会総務
新興書道展
運営委員
一部審査会員
毎日書道展会員
清風書道教室 飛山支部長
書歴
毎日書道展にて毎日賞を受賞
新興書道展にて行成賞を受賞
清風書道展にて日本書作家協会賞を受賞

里見 櫻風(さとみ おうふう、1948年5月6日 – )は、埼玉県行田市生まれの書家。木村東道に師事。本名は時子、櫻風は号。

役職
新興書道展
運営委員
一部審査会員
清風会総務
毎日書道展会員
清風書道教室 緑支部長
書歴
新興書道展
1981年 – 1982年 特選、二部審査会員となる。
1986年、1988年 一部審査員準推挙、一部審査会員となる。
清風書道展
1983年 宝紙賞を受賞
1986年 宝墨賞を受賞
1994年 書壇ニュース社賞を受賞
1997年 清風書人大賞を受賞
毎日書道展
1984年 – 1991年 入選(8年連続)
1992年 – 1993年 秀作賞を受賞
1994年 – 1995年 入選、会友となる。
1999年 秀作賞を受賞
2000年 毎日賞を受賞、会員となる。

関口研神(せきぐち けんしん、本名関口喜六=きろく、1907年 – 2006年10月28日)は埼玉県鶴ケ島市出身の書家、毎日書道会参与会員であった。

来歴・人物
1979年、『軽鬆土-歌集』を発表
1982年、『関口研神近作展 喜寿記念』を発表
2006年10月28日、老衰のため他界した。享年99

布上 清香(ぬのがみ せいこう、1942年3月8日 – )は、埼玉県北足立郡 (現在の鴻巣市)生まれの書家。木村東道に師事。本名は京子、清香は号。

役職
新興書道展
総務
一部審査会員
清風会
事務局長
総務
かとれあ書藝社総務
毎日書道展会員
清風書道教室 吹上支部長
書歴
毎日書道展にて毎日賞を受賞
清風書道展にて日本書作家協会賞を受賞

小林 斗盦(こばやし とあん、1916年2月23日 – 2007年8月13日)は、日本の書道家、篆刻家である。埼玉県生まれ。本名は庸浩(こうよう)、号は斗盦(斗庵)。全日本篆刻連盟会長。篆刻家初の文化勲章受章者。勲三等瑞宝章。
篆刻家・河井荃廬、書家・西川寧に師事。

略歴
1916年(大正5年)、埼玉県に生まれる。
1931年(昭和6年)、比田井天来(書)、石井雙石(篆刻)に師事する。
1945年(昭和20年)、西川寧(書)に師事する。
1948年(昭和23年)、加藤常賢(文字学、漢籍)に師事にする。
1950年(昭和25年)、第6回日展「耕鑿誰知帝力尚羊人在羲皇」特選「絶學無憂」
1953年(昭和28年)、太田夢庵(中国古印学)に師事する。(第9回日展「尋常之溝無呑舟之魚游」)
1959年(昭和34年)、第2回新日展「鉤有須」特選・苞竹賞受賞。
1962年(昭和37年)、第5回新日展審査員(以後 多年にわたり歴任)(第5回新日展「哲人知幾」)
1966年(昭和41年)、(社)日展評議員(第9回新日展「馮高眺遠」)
1976年(昭和51年)、第8回改組日展「大象無形」にて文部大臣賞受賞。
1984年(昭和59年)、恩賜賞・日本藝術院賞受賞[1]。(第15回改組日展「柔遠能邇」に対して)
1985年(昭和60年)、(社)日展理事(第17回改組日展「善逸身者不殖」)
1990年(平成2年)、勲三等瑞宝章受章、(平成2年)、日本篆刻会会長(平成5年 全日本篆刻連盟に改組 同会長)、(社)日展参事(第22回改組日展「亭壽」)
1993年(平成5年)、日本藝術院会員となる、(社)日展常務理事(第25回改 組日展「心齊」)、謙慎書道会董事、全日本篆刻連会長、読売書法会常任総務、全日本篆刻連盟会長となる。
1994年(平成6年)、謙慎書道会常任顧問となる。第26回改組日展「淵 黙雷撃」
1996年(平成8年)、(社)日展顧問となる。
1998年(平成10年)、文化功労者に選出される。
2004年(平成16年)、文化勲章受章。
2007年(平成19年)、肺炎により死去。

関根 伸夫(せきね のぶお、1942年9月19日 – )は埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれの現代美術家、彫刻家。多摩美術大学客員教授。現在、埼玉県と米カリフォルニア州在住。
1968年から1970年にかけて「もの派」をリードする作品を次々に発表。その後、「公共空間を活性化させるアート」に関心を移し、1973年、環境美術研究所を設立。東京都庁舎シティーホール前の《水の神殿》をはじめ、さまざまなモニュメントやプロジェクトを実現している。

来歴
1942年 埼玉県大宮市に生まれる。
1961年 埼玉県立川越高等学校卒業。
1962年 多摩美術大学油絵科に入学。
1964年 多摩美の斎藤義重教室で指導を受ける。
1968年 3月 多摩美術大学大学院油画研究科修了。
1968年 4月 「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」に《位相No.4》出品。
1968年 10月 第1回現代日本野外彫刻展に《位相-大地》を出品。その圧倒的な強度が李禹煥らに注目され、「もの派」が生まれるきっかけとなった。
1968年 11月「長岡現代美術館賞展」に《位相-スポンジ》を出品、大賞を受賞。
1969年 4月 東京画廊での初個展に《位相-油土》を出品。
1970年 ヴェネツィア・ビエンナーレに《空相》を出品。これを機に2年間ヨーロッパに滞在。
1973年 環境美術研究所設立。
1978年 ヨーロッパ3国巡回個展。
1986年 「JAPON DES AVANT-GARDES」(ポンピドゥー・センター)に参加。
1987年 「永久の環」制作(千葉工業大学芝園キャンパス)。
1987年 「位相絵画展」を日本で巡回。
1994年 「戦後日本の前衛美術」(横浜美術館、グッゲンハイム美術館、サンフランシスコ近代美術館)に参加。
2002年 釜山彫刻プロジェクト。
2003年 「〈環境美術〉なるもの-関根伸夫展-」(川越市立美術館)。
2005年 「もの派−再考」(国立国際美術館)に参加。
2012年 2月「太陽へのレクイエム:もの派の美術」(Blum & Poe、ロサンゼルス)に参加。
2012年 11月 「東京: 1955-1970 」(ニューヨーク近代美術館)に 参加。

初期の作品
1962年から1968年まで、多摩美術大学油画科に在籍し、斎藤義重と高松次郎に師事する。 高松次郎のイリュージョニスティックな絵と立体作品は当時の東京のアートシーンで中心的な存在だった。その影響を受け、関根の初期作品には視覚を惑わす傾向が見られる。1968年には、関根は東京画廊と村松画廊で開催された「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」(グループ展)に《位相No.4》という壁掛けの立体作品を出品する。これは、見る角度によって筒状の作品の全体が現れたり一部が隠れて断片的になるというトリックアート的な作品である。翌1969年の東京画廊での初個展では後述する《位相-油土》を出品している。
《位相-大地》
1968年10月に須磨琉球公園での第一回野外彫刻展に出品した《位相-大地》が、関根のターニングポイントになった。《位相-大地》は、大地に深さ2.7m、直径2.2mの円柱型の穴をうがち、掘り起こした土を穴と同じかたちに固めて隣に置いた作品である。小清水漸と吉田克朗も制作に携わった。この作品を関根は、位相空間による認識方法による「思考実験」だと考えている。関根はこう言う。
思考実験は自分たちが考えた仮説が、正しいかどうか思考推論することであり、ある場合には現実の物理的事象を無視することができる ー略ー 地球に穴をあけ、そこから営々と土を掘り出すと、いつか地球は卵の殻の状態になる、さらに掴み出すと地球は反転しネガの状態になってしまう
—関根伸夫、もの派—再考
《位相-大地》1968年
大地、セメント
円柱: 220 x 270 (直径) cm, 穴: 220 x 270 (直径) cm
Courtesy of the artist
Photo by Osamu Murai
空間が連続変形しても変化しない性質を研究する数学の一種である位相幾何学においては、形、もの、空間を伸縮変形が可能であるとみなすことができる。位相幾何学の位相という概念が当時の関根にとって、いかに重要だったかが《位相-大地》には顕われているといえる。
他の重要な作品
《位相-スポンジ》は白い円筒状のスポンジの上に鉄板を乗せた、鉄板の重さによるスポンジの変化を見せる作品である。見る者は、形状が変化しても構造は変わらないこと、鉄板を外せば元のかたちにもどることを理解する。李禹煥はこの作品について下記のように述べている。「原始人であれば、ドルメンのように岩にただ岩を積み重ねるだけでよかったのかもしれない。今日という産業社会においては、それが円筒のスポンジに鉄板ということで、より自然な様相感をおぼえる」。

《位相-スポンジ》1968年
鉄板、スポンジ
130 x 120 x 120 cm
Courtesy of the artist
Photo by Eizaburō Hara
1969年の東京画廊での初個展では、巨大な油土の塊をそのままの状態で配置した《位相-油土》を出品する。観客は油土に触れ、その形を変えることができる。彫られたものかどうかに関わらず圧倒的な物体の前で「彫刻」とは一時的な存在にすぎないことを本作品では暗示している。

《空相-油土》1969年 油土、サイズ可変
東京画廊での展示風景 (1969年4月18日 – 5月2日)
Courtesy of the artist
Photo by Nobuo Sekine
本作品についてキュレーター、サイモン・グルームはこう語っている。
「あるがままの状態で存在する巨大な土の塊は、その圧倒的な物理的存在と、触りたいという我々の欲求の、絶え間ない緊張感のなかに存在している。 なぜ触れたいかというと、精神的に油土が無数の可能性を示唆するからかもしれないし、あるいは物理的に変形する素材の触覚自身に惹かれるからかもしれない」
《空相-水》(1969年)は、水をなみなみと注いだ二つの容器から構成される作品である。容器のひとつは高さ110cmの円筒状、もう一つは高さ30cmの直方体。 容器の外側が黒く塗られているために肉眼ではわからないが、表面に触れることでさざ波が立ち、鑑賞者は中身が水であることに気づく。

《空相-水》 1969年
鉄、ラッカー、水
30 x 220 x 160cm, 120 x 120 x 120cm
第9回現代日本美術展(東京都美術館 1969年5月10日 – 30日)での展示風景
Courtesy of the artist
空相/ヴェネツィア・ビエンナーレ
1970年、荒川修作と共にヴェネツィア・ビエンナーレの代表に選ばれた関根は、ステンレスミラー製の直方体の上に大きな岩が乗った《空相》という作品を出品する。 これは、ステンレス鋼に周りの風景が映りこむことによって、まるで岩が宙に浮いているかのように見える作品である。

《空相》, 1969 / 1970年
大理石、ステンレス, 450 x 420 x 130 cm
第35回ヴェネチア・ビエンナーレ、日本館での展示風景
(1970年6月22日-10月20日)
Courtesy of the artist
Photo: Yoriko Kushigemachi.
ヴェネツィア・ビエンナーレでの成功の後、ヨーロッパで数々の個展のオファーが関根に舞い込む。そのなかには関根の代表的な彫刻作品である《空相-黒》の巡回展も含まれていた。
空相-黒
《位相-大地》《空相-スポンジ》《空相-油土》と比べ知名度が低いものの重要な作品が、FRPでできた《空相-黒》である。これは、自然と人工を対比した作品で、床に横たわるラフで塊のような形態から、トーテムポールのように佇む磨かれた幾何学的なかたちまで、およそ五十体の立体によって構成されている。この作品制作を機に、 関根の興味はありのままの「もの」と変形可能性から、固体の表面の品質へと大きく転換していく。 材料が石なのか、ガラスなのか、金属なのか、プラスチックなのかを意図的にわからないようにし、禅寺の石庭のように、美的法則にのっとって立体を配置することで「位相的な風景」を作りあげたのである。つまり、非対称に置かれた異なる要素を用いて、海や島や山といった広い景色を表現した言えるだろう。
また、2015年11月まで Palazzo Fortuny(英語版) (ベネツィア) にて開催の「PROPORTIO」展にもこれらのシリーズが出展されている。
李禹煥との意見交換[編集]
1968年11月、関根はすぐ後に「もの派」 とその理論の支柱となる韓国生まれの作家、李禹煥と知り合った。李はソウルで老荘思想を学び、1956年に日本に移ってから、日本大学で近代西洋哲学を学んだ。李が関根の前衛的思考と作品を評価した一方で、関根は李の中に自らの制作と芸術観を支持する思想家としての存在を見出した。
1969年から1970年にかけて、様々な雑誌に李の「あるがままの世界」を開く「新しい構造」の出現についてのコメントが掲載された。 李は、「存在との出会い」、真実、そして対象/非対象といった区別からの自由を生み出す「場」に置かれた「もの」や「実体」の存在を指摘した。また、関根の行為は世界を対象化するのではなく、非対象の状態へ、知覚の地平へ解き放ち、それが含まれる世界をあらわにすることであると述べた。
展覧会
関根伸夫の初個展は1969年に東京画廊で開催された。以来、関根はヴェネツィア・ビエンナーレ(1970年)を筆頭に、コペンハーゲン、ジュネーブ、ミラノ、東京、名古屋など各地で個展を行った。
1978年から1979年の間、《位相-黒》がクンストハル・デュッセンドルフ(英語版) (ドイツ)、ルイジアナ近代美術館 (デンマーク)、クレラー・ミュラー美術館 (オランダ)、ヘニーオンスタッド美術館(英語版) (ノルウェー) を巡回した。
その後も関根の作品は、国立国際美術館で行われた「もの派—再考」(2005年)、グッゲンハイム美術館、サンフランシスコ近代美術館で行われた「戦後日本の前衛美術」(1994年)、パリのポンピドゥー・センターでの「ジャポン・デ・アヴァンギャルド1910-1970」(1986年)など大規模な展覧会に出品されている。
2012年2月に米ロサンゼルスのBlum & Poeギャラリーで行われた「太陽へのレクイエム:もの派の美術」展で紹介されたことを契機に、アメリカで関根が注目を集めることになった。これは、アメリカで初めて「もの派」 を検証した展覧会である。同年に、[ニューヨーク近代美術館]]で催された「東京1955-1970」では、関根の作品が特集された。また、2014年1月には、同Blum & Poeギャラリーで、アメリカでの初個展が開催された。現在、関根伸夫はBlum & Poeギャラリー(ロサンゼルス、ニューヨーク、東京)、東京画廊+BTAP(東京、北京)に所属している。
パブリックコレクション
関根伸夫作品は箱根 彫刻の森美術館、原美術館、広島市現代美術館、ルイジアナ近代美術館(デンマーク)、国立国際美術館、世田谷美術館、ヘニーオンスタッド美術館(オスロ)、高松市美術館、豊田市美術館をはじめとする数多くの美術館のコレクションとして収蔵されている。
受賞
1967年「第十一回シェル美術賞展」佳作受賞
1968年「第八回現代日本美術展」東京都美術館 コンクール賞受賞、「神戸市須磨離宮公園現代彫刻展 夜(光)と彫刻 風と彫刻 水と彫刻」朝日新聞社賞受賞、「第五回長岡現代美術館賞展」大賞受賞
1969年「第一回現代国際彫刻展」 箱根彫刻の森美術館 コンクール賞受賞、「第六回パリビエンナーレ」 パリ市立近代美術館 留学賞受賞

長澤 英俊(ながさわ ひでとし、1940年10月30日 – )は日本の彫刻家。現在の中国黒龍江省生まれ。

経歴
父親が日本軍の軍医として勤務していた満州国牡丹江省東寧(トウネイ―現在の中国吉林省東寧・トンニン)で生まれた。1945年の敗戦時、ソ連軍が満州に侵攻してきたため、長澤と家族は、突然の引揚げを余儀なくされた。助産婦だった母親の実家のある埼玉県比企郡川島郷三保谷村(現在の川島町)に定住した長澤は、県立川越高校時代に数学と絵画に傾倒し、多摩美術大学に進学してからは1963年の卒業まで、建築とインテリア・デザインを学ぶかたわら、空手と徒歩旅行に打ち込んだ。その間、東京上野で毎年開催されていた読売アンデパンダン展などをとおして「グタイ」、「ネオダダ」など当時最先端の前衛動向に親しく接し、芸術の本質が物質・物体に記録されなくても行為と精神に宿るものであることを理解した。
1966年、半年前に結婚したばかりの長澤は、世界的視野の中で芸術家になることを決意し、500ドルと自転車のみをもって単身、ユーラシア横断の旅に出た。タイ、シンガポール、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、シリア等、アジア・中近東の諸地域でさまざまな文化遺産、習俗、宗教、生活との接触を重ねた末、トルコにたどり着き、たまたまラジオから流れるモーツァルトの音楽を耳にしたとき、自分がすでに西洋的な文物への親近感をどれほど多く身に着けていたかを実感した。それはまた、文化や宗教の多様性を尊重しつつも、相接する民族と文化の間では相違よりも類似の方が大きいとみる、のちのちまで持続する信念を彼に刻み込んだ体験でもあった。その後、ギリシャを経てブリンディジからイタリアに入った長澤は、各地の美術館や名跡をしらみつぶしに見て回り、1967年8月、ミラノにたどり着いた時点で旅の中断を余儀なくされ、またその地の世態人情に感じるところもあって、ヨーロッパの最西端まで行くはずの計画に終止符を打った。満州からの引揚げ以来、学生時代の徒歩による日本国内行脚から、ミラノまでの伝説的なユーラシア横断行へと、長澤の幼年期・青年期を彩った旅は、それ自体が時間と空間に生きる自身の存在の意味に対する彼の絶えざる問いかけの行動であったと思われるが、旅はまた、芸術することの意味を掘り下げて止まない彼の作品行為の一つ一つに刻まれて、その後の制作を色濃く性格づけることになった。
ほどなくミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニのアパートに拠点を得た長澤は、その地でエンリコ・カステッラーニ、ルチアーノ・ファブロ、マリオ・ニグロ、アントニオ・トロッタら優れた芸術家たちと知的・芸術的な交友関係を結び、日本から呼び寄せた妻公子との間に2児(竜馬、妙)をもうけた。とりわけファブロとは、評論家で美術史家のヨーレ・デ・サンナも交えて、1979年にミラノ市内に若い芸術家たちの交流・研鑽の場となる「芸術家の家」を共同で設立するなど、長澤がミラノ中心部のブラマンテ通りに居を移した後も、生涯の交わりを持った。長澤がミラノに定着した1967年からの数年間、イタリアは政治的動揺のさなかにあり、美術界ではファブロもその一員に数えられるアルテ・ポーヴェラの動向が国際的な注目を集めた時期である。しかし、長澤はその動向の至近距離に位置していながらも、いかなる党派、運動にも加担せず、単独で自身の芸術的課題を掘り下げてゆき、多くの個展・グループ展参加をイタリアとヨーロッパ各地で展開した。1990年から2002年まで、ミラノのヌオーヴァ・アッカデミア・ディ・ベッレ・アルティ(NABA)で諸外国からやってくる芸術志望の若者たちを熱心に指導した。また2004年からはミラノの国立ブレラ美術アカデミーと東京の多摩美術大学で客員教授を務めている。

作品の発表活動
招待出品した主なグループ展を地域的多様性に配慮して列挙すると、ヴェネチア・ビエンナーレ(72、76、82、88、93年)、パリ青年ビエンナーレ(73年)、「日本―伝統と現代」(74年、デュッセルドルフ)、ミデルハイム・ビエンナーレ「日本の彫刻家20人」(75年、アントワープ)、「1960-78年イタリアのアーティストの映画と実験映画」(78年、パリ)、「近代イタリア美術と日本」(79年、大阪)、「70年代イタリアの造形探求」(82年、ウィーン)、「Sonsbeek ’86」(86年、オランダ)、「Chambre d’amis」(86年、ゲント)、ミデルハイム・ビエンナーレ「現代日本彫刻」(89年、アントワープ)、「フィウマーラの芸術」(89年、メッシーナ)、「独創性」(90年、グラスゴー)、「イタリアの現代美術’70‐’80」(91年、ブダペスト)、「イタリアの抽象芸術」(91年、ストックホルム)、ドクメンタ(92年、カッセル)、ミラノ・トリエンナーレ(94年)、「日本の現代美術1885-95」(95年、東京)、カッラーラ国際彫刻ビエンナーレ(98年、カッラーラ)、クレリア・ビエンナーレSPAS(99年、スイス)、「Made in Italy? 1951-2001」(01年、ミラノ)、「愛情の場所 風景-通過」(03年、ブリュッセル)、「現代日本彫刻展」(05年、宇部)、「ジョルジョ・デ・キリコ その謎と栄光」(06年、カタンツァロ)、「20世紀・21世紀美術の代表的作家の<普遍性>」(09年、カターニア)などが挙げられるが、これら以外のグループ展でも多くの作品が発表されている。
個展は1970年以降数知れず開催しているが、80年代以降は画廊に作品を置くという通常の個展形式からしだいに自由になり、個人や共同体からの要望に応えて、既存の建物や私的・公共的な施設など多様な空間条件を生かしたサイト・スペシフィックな制作に重点を置くようになった。いきおい、作品はしばしば建築的規模を帯び、ときには庭園としての構造を具えるまでになっている。現代美術でもきわめてユニークなその活動はイタリアではほとんど全土に及んでいるが、1996年にはスペインのパルマ・デ・マヨルカにあるビラール・ジョアン・ミロ財団に招かれて3相複合体の≪庭≫を設置し、より広く注目されるところとなった。このミロ財団の≪庭≫が宇宙論的構造を孕んでいることからも明らかなように、長澤のサイト・スペシフィックな制作や庭園では、多くのパブリック・アートがしばしば共同体の要望や都市空間の条件に合わせて構想されるのと違って、彼が宇宙的意志の発露と信じているイデアの捕捉がつねに先行し、それの物質的・空間的現実化のために個々の与えられた条件が考慮され活用される仕組みとなっている。この点で、長澤の規模の大きな作品は70年代初期に始まったより凝密性の強い彫刻とは本質的に変わっておらず、事実、今日でもそのタイプの小規模な彫刻の制作は旺盛に続けられている。
回顧展的な規模の大きな個展は、1988年にミラノ現代美術展示館、1993年にボローニャ市立近代美術館(ヴィッラ・デッレ・ローゼ)、同年に水戸芸術館(「天使の影」)、96年にビラール・ジョアン・ミロ財団(パルマ・デ・マヨルカ)、2009-10年に川越市立美術館・埼玉県立近代美術館・国立国際美術館(大阪)・神奈川県立近代美術館(葉山)・長崎県美術館(巡回展「オーロラの向かう所」)で行なわれたが、それらに劣らず記憶されるのは、1995-96年の「京の町家」、および2009年の「Nagasawa in Kawajima<夢うつつの庭>」である。前者では京都下京区に残る伝統的な町家が、後者では長澤の故郷川島町にある遠山記念館の古い純日本式邸宅が、それぞれの室内・内庭ともに全面的に活用されて、複数の新作がすべてサイト・スペシフィックに制作・設置された。古い和風建築様式が現代芸術家の造形と共振した稀な例として注目された。なお、09-10年の巡回展等の活動により、長澤は2009年度の芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を受賞した。

恒久設置された作品
個展やグループ展でサイト・スペシフィックに制作設置された長澤の作品は、しばしば企画者や共同体に請われて永久保存されているが、わけても、89年にシチリアの「フィウマーラの芸術」展の際、谷川のほとりの地中に埋設した≪金の舟の部屋≫は、「目に見えなくても、地上的秩序に逆らってでも、確かに存在することを告げて止まないもの」に対する長澤の確信を驚くべき大胆な構造で具現し、永久保存されることになった。この作品は、当初、河川法違反の疑いをかけられて係争事件となった際、イタリア内外から芸術家への支持が澎湃として沸き起こったことで多くの人々の記憶に刻まれたが、10年あまりに及ぶ裁判で勝訴となり、2000年6月、最終的に作家の意図に従って土石で封鎖され、文字通り「見えない存在」としての作品が完成した。
他に恒久保存の対象となった作品としては、≪イッペルウラーニオ≫(96年、チェレ)、≪銀梅花の庭≫(97年、トルトーリ)、≪エーベの庭≫(00年、ブリジゲッラ)、≪茶室の庭≫(01年、チェルタルド)、≪平和のための庭≫(06年、カザラーノ)、≪反転の庭≫(08年、クァッラータ)等、イタリア各地に設置された独創的な庭園=彫刻のかずかずや、重力の思いがけぬ転用で重いはずの物体を軽々と吊り上げて見せる一連の≪空の井戸≫などが特記される。しかしながら、長澤自身は、多くのパブリック・アート作家たちと違って、作品が保存されることを制作の最優先条件としたことはなかった。物質・物体としての巨大作品を地上に残し、歴史に名を刻むことは、イデアという深奥の宇宙的原理の捕捉と開示をこそ望む長澤にとって二次的な関心事でしかないからである。
日本国内に恒久設置された作品には、つくばセンタービル前庭の≪樹≫(1983年)、新宿アイランドの≪プレアデス≫(1994年)、東京ビッグサイトの≪七つの泉≫(1995年)、東京・足立区役所の≪オーロラの向う所≫(1996年)、長野市南長野運動公園の≪稲妻≫(2004年)、宇部市常盤公園の≪メリッサの部屋≫(2005年、のち市内真締公園に移設)、多摩美術大学八王子キャンパスの≪ティンダリ≫(2007年)がある。

長澤芸術の特徴
長澤は自分の芸術が他の何よりもイデアに発するものであることを一貫して公言してきた。実際、作品から感じ取られる彼の制作の特徴は、人々の日常生活や自然界や宇宙の時空間に遍在し、それらすべての存在を根拠づけ、秩序づけているものでありながら、人々が容易には気付かないでやり過ごしてしまっている深奥の原理(イデア)を捕捉すること、と同時に、その宇宙的原理が的確に知覚され感受されるのに最もふさわしい物質的素材と空間的条件を吟味し、かつそれに必要不可欠な人間的(生物的)・工学的技術を活用すること、として要約できるだろう。この1点において、長澤の制作は、1960年代末のたぶんに概念的な手法を駆使したオブジェ、映像、パフォーマンスから、1971年の≪車輪≫、≪オフィールの金≫、1972年≪柱≫等に始まるさまざまな素材を駆使した彫刻的興趣と凝密度の高い諸作品、1970年代末からの紙による作品、80年代以降の現実空間や公共施設に進出して展開した驚くべき工夫のかずかず、そして前述した庭園様の作品に至るまで、変わることがなかった。素材、様式、スケール等は類のない多様性を示してきたのに、イデアに発する芸術としての根本の性格は信じがたいほどの一貫性を保ってきたのである。たとえば、1991年の≪アルキメデスのコンパス≫以降、≪電光≫、≪天空の井戸≫などで幾度となく応用されてきた重力反転の隠れたメカニズムは、最も早い時期、上記の≪車輪≫や1969年の≪ピラミッドの頂点≫の制作に彼を駆りたてた「見えない核心の原理」の捕捉ということと同じ関心の産物なのである。
ここで見落とせないのは、長澤にとってイデアとは理性の別名ではなく、理性で捕らえるべきものですらないということである。イデアを最重視するとはいえ、長澤の中でつねに考慮されているのは、イデアと物質と技術のバランスのとれた共存であり協働である。素材としての物質や、発想にいつも寄り添う色や匂いや記憶の要素に対して、長澤ほど深い理解と関心を寄せる芸術家は少ない。長澤は本質的にカントではなくゲーテの末裔なのだ。たとえば、イデアと物質が分かちがたく働き合うとき、その結合の必然性はしばしば特定の色や匂いといった感覚を呼び覚まし、逆にそれら感覚によって呼び覚まされる。そのような研ぎ澄まされた感覚の覚醒は、分析的な頭脳が働くときの理性の支配する覚醒とは違って、イデアと物質、主観と客観、現象と記憶、物と技術等がまだ分離し対立するに至る以前の時点、したがって、眠りと目覚めがまだ分離していない状態での覚醒と考えられる。長澤がイデアの訪れに最も適した条件としてしきりに言及する「ドルミヴェリア」(dormiveglia夢うつつ)とは、そのように、イデアと物質と技術とが色や匂いや響きを催して、分かちがたく、かつ明瞭に感受される事態、宇宙と自然界と生命世界を律する真理が理知的弁別に先だって直接経験(直感)される事態なのであろう。ヨーロッパの同業者や批評家たちが、長澤の作品の奥に禅的なものの素養を感じると告白するのは、その意味ではけっして的外れではない。長澤がしばしば作品に蜜蝋を用いるのは、蜜蝋がミツバチという生命体の行使する理性以前の超個体的な技術の産物だからであり、また、その独特の匂いが物質と生命体の技術との分かちがたい境を満たしていることに、深く(論理以前に)感応しているからと思われる。また、長澤がある種の花の色や香りに特別な関心を寄せるのは、その色や香りが彼の幼年期の記憶と現在の知覚とを夢うつつの中でのように結びつけているからであろう。ちょうど、トルコにたどり着いた26歳の長澤が、ラジオから流れるモーツァルトの響きを耳にしたとたん、彼の体内で東洋と西洋とが分かちがたく結びついていたことを悟ったように。イデアと物質と技術とがそのような混融状態で活性化することを大切にする長澤は、当然のことながら、それら三者が分離して重く知覚されることを避け、作品が浮遊するがごとき「軽味」を発揮することをもって芸術の醍醐味としている。実際、途方もない物量と技術的工夫を投入したはずの彼の作品を前にして、人々は少しも渋滞や鈍重の印象を受けることはなく、イデアが説明的に押しつけられるように感じることもなく、妙なる楽音のいわく言いがたい響きに満たされたような自由と必然性を感得するのである。

平井 一嘉(ひらい かずよし、1958年 – )は、埼玉県秩父市出身の彫刻家。
主に大理石や御影石による野外彫刻作品を制作している。イタリアに留学し、大理石技術の星取り等を学ぶ。日本国内のコンクールで多数受賞、作品は日本、イタリア各地に展示されている。「豆」をテーマに、生命力や自然の営々としたつながりを大切にし、普段の生活の流れの中で目に留まらないもの、見えないものを、彫刻という三次元に構成して表現するというコンセプトに沿って制作している。
代表作に、「ハッピーバード」(山口県美祢市)、「NYMPH」(東京都調布市)、「豆物語」(茨城県桜川市)などがある。
現在 東北芸術工科大学非常勤講師。アトリエは埼玉県川越市に持つ。

略歴
1958年 埼玉県秩父市に生まれる。
1982年 「第二回高村光太郎大賞展」で美ヶ原高原美術館賞受賞(神奈川県、長野県)
1983年 多摩美術大学大学院彫刻専攻修了
「神戸具象彫刻大賞展’83」で最優秀賞受賞(兵庫県)
1985年 「昭和会展」招待出品 日動画廊(東京都)
「第三回高村光太郎大賞展」で美ヶ原高原美術館賞受賞(神奈川県、長野県)
「神戸具象彫刻大賞展’85」で最優秀賞受賞(兵庫県)
1987年 イタリア政府給費留学生として渡伊
1988年 「ナントピエトラ国際彫刻シンポジュウム」で一等賞受賞(イタリア)
1989年 「ファナンノ国際彫刻シンポジュウム」で一等賞受賞(イタリア)11月帰国
1990年 第一回葛塚南線野外彫刻展(新潟県)
1992年 「第三回現代彫刻美術館野外彫刻ビエンナーレシンポジウム」に参加(群馬県)
1993年 調布市「彫刻のある街づくり」入賞(東京都)
1995年 第二回木内克大賞野外彫刻展(茨城県)
1996年 美祢国際大理石シンポジウム(山口県)
1997年 第二回雨引の里と彫刻~1998年(’99、’01、’03、’08)(茨城県)
2000~2007年 愛知県立芸術大学非常勤講師
2000年 十日町石彫シンポジウム(新潟県)
2002年 米子彫刻シンポジウム (鳥取県)
2005年 第2回現代彫刻美術館 野外彫刻選抜6人展 (東京都)
2006年 個展 日本橋三越本店(東京都)
支彫刻作品特集 日本橋三越(東京都)
2009~2010年 屋上彫刻展 PART6「遊びと造形」 玉川高島屋(東京都)
2010年 個展 石彫展 Gallery 健 (埼玉県)
彫刻体験実習棟 伊佐沼工房 オープン(埼玉県)
2011年 伊佐沼工房工房展(埼玉県)
2012年 伊佐沼工房工房展(埼玉県)
2013年 『彫刻家からの贈り物』展 Bunkamura BOX Gallery
米子彫刻シンポジウム(鳥取県)
雨引の里と彫刻2013(茨城県)
伊佐沼工房工房展(埼玉県)
ちちぶ映画祭 グランプリのトロフィー制作
2014年
【3月】伊佐沼工房特別展(埼玉県 川越市 小江戸蔵里)
【5月】伊佐沼工房展(埼玉県 川越市 伊佐沼)
【8月】十日町石彫シンポジウム歴代参加作家展(新潟県十日町市)
【9月】『ちちぶ映画祭2014~巡礼』のトロフィー制作(埼玉県 秩父市)
【12月】1.干支彫刻によるHAPPY NEW YEAR展(日本橋三越本店、本館 アートスクエア)
2.YEAR-END EXHIBITION OF MINI・SCULPTURES(銀座、ギャラリーせいほう)
2015年
【5月~6月】羽生市と姉妹都市のデュルビュイ市国際石彫シンポジュウムに招待参加  於:ベルギー
【10月~12月】雨引きの里と彫刻2015りんりんロード 桜川市茨城県

麦倉 忠彦(むぎくら ただひこ、1935年 – )は、日本の彫刻家。九州産業大学大学院芸術研究科教授。

経歴
埼玉県草加市出身。1954年埼玉県立春日部高等学校卒業。1959年東京芸術大学芸術学部彫刻科卒業。1961年東京芸術大学研究科彫刻専攻修了。同大学研究室副手。 1963年日本美術家連盟会員に推挙。アメリカ合衆国サウスダコタ州K・ジョーロコフスキー彫刻研究所に留学。1968年新制作協会会員に推挙。1997年新宿パークタワー・ギャラリー1にて東京ガス都市開発主催による記念個展を開催。1999年新制作協会委員長。2000年草加市文化会館にて草加市文化賞受賞記念展開催。その後、埼玉県美術家協会運営審査員を歴任。現在、九州産業大学大学院教授、共立女子大学講師。

片桐 仁(かたぎり じん、1973年11月27日 – )は、日本のコメディアン、俳優、彫刻家。
埼玉県南埼玉郡宮代町出身。トゥインクル・コーポレーション所属。埼玉県立春日部高等学校・多摩美術大学卒業。身長176cm。妻は元モデルでタレントの村山ゆき(現・片桐友紀)。血液型B型。

概要
多摩美術大学(補欠入学)時代に小林賢太郎と共にラーメンズを結成。エレキコミックとのコントユニット・エレ片での活動も行っている。
天然パーマのもじゃもじゃ頭(作品によっては髪を後ろでまとめている)が特徴的で、演技とも素とも取れるエキセントリックな言動を持ち味とする。その存在感を買われて、単独でのCMや舞台・ドラマへの出演の機会も得ている。また、文章や造形にもその個性と才能を発揮し、雑誌やwebでの連載を持つ。文章については敬愛する大槻ケンヂから受けた影響が大きいと語っている。
相方の小林賢太郎に対してはその才能を尊敬している。
ラーメンズとしての活動が不定期なこともあり、2000年代からは単独での俳優活動や「エレ片」としての活動の頻度が高い。
2010年6月、出身地である宮代町の「外交官」に就任。任期は1年。名刺には「俳優 片桐仁」と書かれていた。

人物
家族
妻と長男の太朗(たろう・岡本太郎から命名)、次男の春太(はるた)の4人家族。
妻が小学生時代から飼っているオカメインコ(サーちゃん)と、結婚後に飼い始めたヨウム(うろこ)の二匹の愛鳥がおり、鳥をモチーフとした造形作品にも影響を与えている。
ピタゴラスイッチの『おとうさんスイッチ』に息子と登場。その際に用いた片桐仁作の『お父さんスイッチ』は完成度の高いものだった。また、Mr.Childrenの「エソラ」PVにも親子で出演している。
義母(妻の実母、つまり村上ゆきの実母)が洋裁の達人で、粘土道の衣装等を仕立ててもらっている。
実家は公文式の教室。
趣味
粘土細工が得意で作品展を開催するほどの腕前である[2][3][4][5]。
ガンダムオタク(モデラー、ガンプラ所有数約300体)であり、模型誌「月刊ホビージャパン」でコラムの執筆も行っている。
ガンダムはもとより、ドラゴンボールをはじめとするマンガや、「DQシリーズ」・「FFシリーズ」などのゲームの話題に喰いつく。
その他
小学校では自転車クラブ、中学時代はソフトテニス部に所属。
円周率を40桁程度暗記しており、ラーメンズ公演『STUDY』、KKP公演『Sweet7』、エレ片でのコント中などで披露した。
妻、村上ゆき曰く「片桐がタイプ」。尚、その事について、片桐は未来シアターに出演した際に自身の顔が不審者顔である事を認めている。
もともと伊達眼鏡の人間は嫌っているが、相方の小林が伊達眼鏡している事を知った際に「小林は別」とおしえてなぜなら知りたがりだから内にて発言。
自身の性格について、「後悔はするが反省はしない」「他人の悪口(特にラーメンズ)で盛り上がる」「知りたがり故に相方である小林等に嫌な顔される」と発言おしえてなぜなら知りたがりだから

鈴木 長吉(すずき ちょうきち、 嘉永元年8月15日(1848年9月12日) – 大正8年(1919年)1月29日[2])は日本の金工家。号は鈴木嘉幸(かこう、よしゆき)。

武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれた。比企郡松山の岡野東流斎に蝋型鋳金を5年間学び、18歳で独立、江戸で開業した。明治7年(1874年)に殖産興業の一環として日本の工芸品を西洋へ輸出する目的に設立された「起立工商会社」の鋳造部監督、2年後には工長となり、退社する同15年(1882年)までの間、次々と大作を手掛けて内外の博覧会へ出品、高い評価を得た。工業が未熟な明治初期の日本にとっては精巧な工芸品は貴重な外貨獲得手段であり、工芸品の輸出目的で設立された数々の企業は、廃刀令や廃仏毀釈の影響で仕事を失いつつあった当時の金工家にとっては貴重な生計手段であった。
西洋事情を良く知る林忠正の監修の下で西洋人好みに制作した「十二の鷹」(東京国立近代美術館蔵)は、明治26年(1893年)に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つとなった。また同博覧会に出品された「鷲置物」(東京国立博物館蔵)は後に重要文化財に指定されている。明治29年(1896年)6月30日[4]にはその高い技量が認められ、鋳金家として帝室技芸員となった。
しかし明治後期の20世紀を迎える頃には、日本の機械工業が育ってきたために手間隙のかかる工芸品の制作は下火となった。日本の工芸品は粗製乱造や過度な西洋趣味への阿りにより評価を落としつつあり、また、極めて精緻で写実的な装飾を大量に施した鈴木の作風はアール・ヌーヴォーが隆盛しつつあった時代の潮流と合わなくなったことも重なり、鈴木は表舞台から姿を消すことになる。
晩年は養子をむかえて、金剛砥石業に転職。大正8年(1919年)1月29日午前0時10分、東京府下滝野川田端359の自宅において腎臓病にて逝去。享年72。葬儀は下谷区谷中三崎町(現:台東区谷中)の延寿寺日荷堂にて行われた。長吉の晩年については詳しいことが分かっておらず、明治工芸界の重要な人物であり帝室技芸員にまでなった人物でありながら、晩年のことが明らかになっていないという点で長吉は特異な存在であり、その後の研究が期待されている。現在も延寿寺に長吉の墓はあるが長年近親者が訪れている形跡もなく(そのため墓は延寿寺の管理となっている)、寺としては近親者からの連絡を待っている。

代表作
「銅製鋳物香炉」 スコットランド王立美術館蔵 明治9年(1877年)フィラデルフィア万国博覧会出品 高さ2m近い大作
「孔雀大香炉」 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵 ブロンズ 高さ228.6cm。明治9-10年(1876-77年) 翌年の(1878年)パリ万国博覧会金賞。
所蔵館に伝わる林忠正のメモによると、構想はフィラデルフィア万国博覧会の直後に始まり、渡辺省亭、山本光一の図案を元に若井兼三郎が構図を作り、長吉が鋳造を担当したという。なお制作当初は、香炉の上に鳩が5羽遊んでいた。大久保利通はこの作品を褒め、宮内庁のためにもう一体制作する予定で打ち合わせするはずだったが、6日後に大久保利通暗殺事件が起こったため実現せず、後に長吉は大変落胆したと語っている。のちにアール・ヌーヴォーの名付け親になるサミュエル・ビングが「アーティストの手になる最も優れたブロンズ作品」と称え、サウス・ケンジントン美術館(ヴィクトリア&アルバート博物館の前身)が莫大な予算を投じてビングから購入した。更に、長吉が帝室技芸員に任命される際の理由書にも、「最も傑作にして其技量を徴するに足る」と言及されている。
「燈籠」 靖国神社蔵 明治13年(1880年) 警視庁より奉納
「青銅鷲置物」 ジョージ・ウォルター・ヴィンセント・スミス美術館蔵 ブロンズ・台座は木 幅140cm、奥行125cm。
山本光一図案。明治18年(1885年)ニュルンベルク府バイエルン工業博物館で開催された金工万国博覧会で金賞牌を受賞し、更に博物館長がその出来栄えに驚き、会場で最も目立つ円形広間に移動させたと、博覧会報告書に記されている。
「岩上双虎ノ図置物 東京国立博物館蔵 ブロンズ 奥行70.5、間口87.0、高さ105.7cm 明治30-32年(1897-99年) 翌年 パリ万国博覧会出品
「水晶置物」 ボストン美術館蔵 銀・水晶 明治33-36年(1900-03年)台座底辺部に「大日本東京 帝室技芸員鈴木嘉幸(花押)」
水晶玉の原石は明治9年(1876年)に御嶽山で産出され、第2回内国勧業博覧会に出品されたもの。まず、明治26年(1893年)美術館が水晶玉の寄贈を受け、その後水晶に合わせたカスタムメイドの台座を山中商会に制作を依頼、明治36年1月に1500ドルが支払われている。

増田 三男(ますだ みつお、1909年(明治42年)4月24日 – 2009年(平成21年)9月7日)は、埼玉県出身の彫金家。人間国宝(重要無形文化財保持)。

人物
埼玉県北足立郡大門村(のち美園村、浦和市、現さいたま市)に生まれる。文展などへの出品のほか、埼玉県立浦和高等学校でも美術講師として勤務した。浦和高校時代は美術部に入部し、2歳下の高田誠と親交が深く、卒業後も恩師である福宿光雄を囲って「連穂会」を開いていた。

経歴
1909年(明治42年)4月24日 – 出生。
1924年(大正13年) – 埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業。
1929年(昭和4年) – 旧制浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)を卒業。
1944年(昭和19年) – 母校である浦和中学(のち浦和高校)の美術講師となり32年間勤務。
1976年(昭和51年) – 浦和高校の美術講師を定年退職。
1991年(平成3年) – 82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定。
2009年(平成21年)9月7日 – 老衰で死去。享年100歳。

鈴木文吾(鋳物師、代表作に東京オリンピック聖火台):川口市

綿貫萠春(人形作家)

飯能焼(はんのうやき)とは、もと埼玉県飯能市に産した陶器。

生産されていた時期は、1830年(天保元年) – 1887年(明治20年)とされているが、正確な時代は調査中で判明していない。1888年(明治21年)につくられた『大日本陶磁器窯元一覧』では、前頭四十四枚目に「武蔵飯能焼」が記載されている。耐火性の強い生活雑器が中心。作風は、薄手の器で、絵柄を白絵土を絞って描かれている事を特徴とする。
近年、復興が図られ幾つかの窯が設立し、作品が販売されている。
矢颪村、白子村、真能寺村(飯能市)で矢颪窯・白子窯・原窯などと呼ばれていて窯跡が存在し、原窯の開窯以前に矢颪窯が存在したが創業及び廃業時期は記録が無く不明である。
発掘資料によると矢颪のイッチン描きの模様のタッチと原窯の初期のタッチが同一人物が書いたのでないかと思われる。原窯は天保年間に双木清吉・双木八右エ門が焼き始め、その後子の双木新平、次は双木善七、そして最後の陶工双木佐七が明治20年に廃窯し1953年に没した。他に陶工は山本卯平となっているが明治になり侍を辞め飯能で焼物の商いを始めたようで(山本家による)、絵付師には腰塚小四郎などがいた。現在、虎澤英雄、岸道生が飯能焼を復活させた。
飯能市八幡町(旧真能寺村)の原窯跡で近くの双木利夫があつめた飯能焼、およびその破片は双木本家飯能焼コレクションとして文化財に指定されている。

岩槻人形(いわつきにんぎょう)は、埼玉県さいたま市岩槻区の伝統工芸品のひとつ。経済産業大臣指定伝統的工芸品、さいたま市伝統産業に指定されている。岩槻市時代から「人形のまち岩槻」として地域振興を行っており、人形の産地として全国的に知られる。

概要
岩槻城の城下町であった日光御成街道岩槻宿はもともと桐の産地であり桐細工で有名だった。そこに日光東照宮の造営、修築にあたった工匠が住みつき、岩槻の水が胡粉に適していることを発見、江戸時代初期に岩槻人形が発祥した。現在でも岩槻駅周辺には人形店が集中し、人形供養祭などの行事も開催されている。また、市は2020年を目途に岩槻人形会館を整備する計画を発表している

熊谷染(くまがやぞめ)は、埼玉県熊谷市の伝統工芸。

概要
起源は江戸時代で、型紙を使い模様を染める友禅の一種である。埼玉県伝統工芸品に指定されている。

青縞(あおじま)は、埼玉県羽生市など、埼玉県北部地域で江戸時代末期ごろから生産されている藍染物の伝統工芸品。武州織物、武州正藍染とも。

歴史
天明期に、現在の羽生や加須、行田、騎西など北埼玉で藍の栽培が開始されたことに伴い、農家の主婦が農閑期を利用して家族の衣服を作ったことが発祥とされる。 最盛期を迎えた明治40年代には、当時の羽生町を中心とする同地域の一大産業となり、藍染め職人が200軒以上の紺屋を構えた。
2008年9月19日には、羽生市・加須市・行田市で生産された正藍染を施した織物と、その織物を用いて生産された被服の一部が、特許庁の地域団体商標に登録された。 藍染めの普及などの活動を行う武州織物工業協同組合(昭和24年設立)の現在の組合員数は14軒で、うち11軒は羽生市に立地する。
特徴
藍の葉から「自然発酵建て」により採取した染料を用い、手染めで染色する。糸の段階で染める糸染めと、布にしてから染める型染めがあるが、青縞の多くは前者の手法で生産される。 色調をもとに、「武州紺織」と「武州唐桟」に大別される。
利用
武州紺織は、藍の濃淡だけの素朴でシンプルなデザインを活かし、剣道着などに使われる。全国で生産される正藍染の剣道着のうち、8割が武州紺織といわれる。

ちちぶ銘仙館(ちちぶめいせんかん)は、埼玉県秩父市にある織物に関する資料館である。旧埼玉県繊維工業試験場秩父支場本館。

概要

正面玄関(2011年5月)
アメリカ人建築家ライトが考案した大谷石積みの外装や昭和初期の特徴的な装飾との調和が建築的に非常に優れており、三角屋根の工場棟や渡り廊下も含め、2001年(平成13年)10月に国の登録有形文化財に登録された(旧埼玉県繊維工業試験場秩父支場本館、工場棟、倉庫)。
古代より秩父地方は「知々夫絹」の産地であった。堅牢なこの絹織物は武家に珍重され、庶民に愛されていた。明治時代、女性のおしゃれ着として「秩父銘仙」の名は日本全国に知られた。ちちぶ銘仙館では、秩父銘仙の染め織り体験、展示・即売、今昔を紹介している。

秩父銘仙の歴史
「秩父銘仙」は、崇神天皇の時代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源と言われている。その後、「秩父銘仙」は伝統を受け継がれつつも高品質なものへと改良を重ね、明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎える。
絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないのが特徴で、表が色あせても裏を使って仕立て直しができる利点がある。女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和初期にかけて全国的な人気を誇るようになった。特に独特のほぐし模様が人気を博したといわれている。また、当時は養蚕業などを含めると市民の約7割が織物関係の仕事にかかわっていたと言われている。
今でも、昔ながらの技は受け継がれており、和服・ざぶとん・小物などが、秩父地方のお土産品として有名である。

沿革
1930年(昭和5年)9月に秩父絹織物同業組合(現秩父織物商工組合)が秩父地方の繊維産業の向上と振興を図るため建築し、埼玉県秩父工業試験場を誘致した。
1983年(昭和58年)4月に埼玉県繊維工業試験場秩父支場に改組され、秩父地域繊維産業の発展のために大きな役割を果たしてきた。
1998年(平成10年)3月に県内工業試験場の再編・統合で廃止される。
現在では、ちちぶ銘仙館として、秩父織物・銘仙等の歴史上貴重な史料の展示や伝統的な技術を伝承するための施設として、昭和初期の面影を残した形で改修された。

小川和紙(おがわわし)は、埼玉県比企郡小川町、秩父郡東秩父村で作られる、手漉き和紙。細川紙。

概要
細川紙が伝来する以前から現在の小川町にあたるエリアは和紙の産地として知られていた。1,300年の歴史を持ち、楮だけを使った細川紙は、国の重要無形文化財の指定を受けている[1]。埼玉伝統工芸会館にはヤッパシ紙すき体験コーナーがあり、紙すきを体験することができる[2]。2014年には細川紙がユネスコの無形文化遺産に登録された。

埼玉県
岩槻人形
鴻巣雛人形
本庄絣
熊谷染(友禅、小紋)
春日部押絵羽子板
武州正藍染(武州唐棧、武州型染、武州紺織)
草加本染ゆかた(本染ゆかた、長板中型)
越谷ひな人形・越谷甲冑
飯能大島紬
手がき鯉のぼり
秩父ほぐし捺染(着尺、夜具地、座付団地)
越谷張子だるま
所沢人形(雛人形、押絵羽子板)
秩父銘仙
竹釣竿
行田足袋
小川和紙
鬼瓦・武州磨き本瓦
春日部稲荷

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

中臺瑞真(なかだい ずいしん、1912年8月8日 -2002年4月23日)は日本の木工芸家。重要無形文化財「木工芸」の保持者に認定(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては大野昭和斎とともに3番目の認定者(1984年認定)である。

概要
千葉県出身。祖父が大工だったことが木工芸に進むきっかけとなった。14歳で竹内不山に師事、茶の湯指物を修業するが、作品には刳物が多い。刳物は素材を手彫りで削って窪みを作り、主に容器などに造形する。桐材を好む。

経歴
1912年 千葉県千葉市検見川生まれ
1962年 第9回日本伝統工芸展入選
1980年 日本工芸会木竹工部会長
1983年 勲4等瑞宝章
1984年 重要無形文化財「木工芸」保持者に認定

菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉 – 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)とは、近世日本の画家。江戸初期に活動した浮世絵師の一人。生年は寛永7-8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵を確立した人物であり、すなわち最初の浮世絵師である。

来歴
浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。
それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本「私可多咄」(無款)であるとされ、翌寛文12年(1672年)、墨摺絵本「武家百人一首」(千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、天和3年(1683年)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において100種以上の絵本や50種以上の好色本に筆をとっている。
祖父は藤原七右衛門と云い、京都在住であったが、父の吉左衛門は菱川を称し、安房国平郡保田本郷(現・千葉県鋸南町)に移住、道茂入道光竹と号した。師宣はここで暮らす縫箔師[2]の家に生まれた。俗称を吉兵衛、晩年は友竹と号す。明暦の大火(明暦3年)の後、万治年間に海路によって江戸に出て狩野派、土佐派、長谷川派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、その上に市井[3]の絵師らしい時代感覚に合った独自の新様式を確立した。はじめは古版絵入り本の復刻の挿絵、名所絵などで絵師としての腕を磨いている。江戸に出て初めは縫箔を職として上絵を描いていたが、生来絵が巧みであったので遂に絵画を職としたのであった。江戸では堺町、橘町、人形町などに転住していた。また、京都へ行ったことも考えられる。
寛文後期から延宝前期には、無署名本が殆どであったが仮名草子、浄瑠璃本、吉原本、野郎評判記、俳書などの挿絵を中心に活動し、画技の研鑽に励んだ。やがて延宝中期、後期になると絵入り本、絵本で吉原もの、歌舞伎もの、名所記などや風俗画その他で個性を現し、絵本や枕絵本を刊行、師宣様式の確立という大きな転換期を迎えた。枕絵本は延宝3年(1675年)刊行の無署名『若衆遊伽羅之縁』、同3、4年頃刊行の『伽羅枕』、延宝5年(1677年)刊行の『小むらさき』などが早期の作品である。『伽羅枕』では「絵師 菱河吉兵衛」、『小むらさき』では「大和絵 菱川吉兵衛」と署名する。延宝5年にはほかにも近行遠通撰の地誌絵本『江戸雀』十二巻12冊などの挿絵を描いている。
その後延宝6年(1678年)刊行の役者絵本『古今役者物語』1冊、絵本『吉原恋の道引』や、元禄4年(1691年)刊行の絵本『月次(つきなみ)のあそび 』1冊、師宣没後の元禄8年(1695年)刊行の絵本『和国百女』三巻1冊などを著している。また天和元年(1681年)刊行の半井卜養の狂歌絵本『卜養狂歌集』二巻2冊の挿絵をしたことも知られている。これらを通して上部に文章、中・下部に絵という師宣絵本の基本形式が整ってきており、延宝8年(1680年)正月刊行の『人間不礼考』、同年5月刊行の『大和絵つくし』に至ると、上部3分の1乃至4分の1に文章、下部に絵という形式が確立される。当世絵本、風俗絵本の分野においての師宣の評価は動かし難いものとなったのであった。『大和絵つくし』は古代中世の故事、伝記、説話を大和絵で表現し、「大和絵師 菱川吉兵衛尉」と署名するなど、当世の大和絵師、菱川師宣の立脚点をも示した作品として記念碑的意味を持つものといえる。天和に入るとその活躍は一層目覚しいものとなり、悠揚迫らぬ美女群が画面一杯に闊歩する。この天和を挟んだ約10年間が師宣の最も充実した時期であった。天和2年(1682年)に大坂で井原西鶴の『好色一代男』が著されると、二年後の江戸刊行の際には師宣が挿絵を担当した。また、同じ天和2年刊行の絵本『浮世続』、天和4年(1684年)刊行の絵本『団扇絵づくし』も知られている。
貞享3、4年頃からは円熟味と引換えに様式の固定化が目立つようになった。明暦の大火直後の再建の槌音も高い江戸市民の嗜好に、師宣ののびのびとして翳りのない明快な画風もマッチしていた。『吉原恋の道引』、『岩木絵つくし』、『美人絵つくし』などを見ても線が太く若々しいものであった。その好色的な図柄も開けっ広げで、健康的なのは時代の目出度さと思える。落款に「大和画工」や「大和絵師」という肩書きをつけているのも、その自負、自覚の表れである。また、絵図師の遠近道印(おちこち どういん)と組んで制作した『東海道分間絵図』(神奈川県立歴史博物館所蔵)は江戸時代前期を代表する道中図として知られている。大衆の人気を得た師宣は好色本を主に次々と絵入り本を刊行、やがてその挿絵が観賞用として一枚絵として独立、墨一色による大量印刷により、価格も安く誰でも買えるものになった。「吉原の躰」、「江戸物参躰」、「大江山物語(酒呑童子)」や、無題の春画組物など墨一色で、稀に筆彩された独自の様式の版画芸術が誕生し、ここに浮世絵が庶民の美術となったのであった。
師宣は屏風、絵巻、掛幅と様々な肉筆浮世絵も描いており、それらは江戸の二大悪所といわれた歌舞伎と遊里、隅田川や花見の名所に遊び集う人々や遊女であった。その大らかで優美な作風は浮世絵の基本的様式となっていった。なかでも、「見返り美人図」は師宣による一人立ち美人図であるという点で珍しい作例で、歩みの途中でふと足を止めて振返った印象的な美人画様式は、まさに榎本其角の『虚栗』において「菱川やうの吾妻俤」と俳諧で謳われたそのものであるとみられる。師宣は肉筆浮世絵では「日本繪」と冠していることが多い。
元禄7年(1694年)年6月4日、師宣は江戸の村松町(現・東日本橋)の自宅で死去し、浅草において葬儀が行われた。終生故郷を愛した師宣の遺骨は房州保田の別願院に葬られた。菩提寺は府中市紅葉丘の誓願寺。法名は勝誉即友居士。
門人には、師宣の子、菱川師房、菱川師永、菱川師喜の他に古山師重、菱川友房、菱川師平、菱川師秀ら多数おり、工房を形作っていたといわれる。故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある(外部リンク先を参照のこと)。

作品

『拾弐図』の内「衝立の陰」 菱川師宣 画
菊の花を揺らす秋風を感じ、小川のせせらぎを聞きながら、衝立の陰で若い男女が睦み合おうとしている場面。
1670年代後期から1680年代初頭の頃(延宝年間)に描かれた春画。大判・墨摺絵筆彩(墨摺りの木版画に筆で着彩したものであり、浮世絵・草創期の古態)。春画揃物『拾弐図』の第1図。同じ揃物には他に第2図「低唱の後」などあり。春画揃物では通常、第1図・第2図での露骨な性描写は控えられる。これらの絵はそういった種類のものである。
代表作としては、世界的に有名な肉筆浮世絵である「見返り美人図」があげられる。また春画も数多く描いている。
肉筆浮世絵
「見返り美人図」(みかえりびじん ず)
代表作にして、師宣の代名詞的1図。美人画。肉筆画(絹本[5]著色[6])。東京国立博物館蔵。女性は、17世紀末期当時の流行であった女帯の結び方「吉弥結び(きちやむすび)」と、紅色の地に菊と桜の刺繍を施した着物を身に着けている。それらを美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿で描かれたものと考えられる。
同時代で年下の絵師・英一蝶は本作に刺激を受けてか、対抗するかのように、構図等に類似点の多い1図「立美人図」を描いている。
文化7年(1810年)の山東京伝による箱書があることから、おそらく幕末には好事家の間で知られていた可能性が高い。また博物館に収蔵された時期も早く、60番という若い列品番号がそれを物語っている。
現代日本では昭和23年(1948年)11月29日発行の記念切手(「切手趣味週間」額面5円)の図案に採用され、これが日本の記念切手の代表的かつ高価な一点となったことも本作が大衆に周知されるに少なからず影響した。
「歌舞伎図屏風」 (かぶきず びょうぶ)
風俗画。歌舞伎小屋の様子を描いた、六曲一双(紙本金地著色)の屏風。東京国立博物館蔵。重要文化財。無款であるが師宣の作として扱われる代表作の一つ。向かって右から、芝居小屋の表から始まり、華やかな舞台と賑やかな客席が描かれた右隻と、雑然とした楽屋と隣接する芝居茶屋での遊興の様子を描いた左隻からなる。小屋の櫓に掲げられた銀杏の紋と入り口の役者名の看板から、元禄5年(1692年)以降の中村座の様子を描いたものと判明できる。あらゆる階層・年齢の人物、総勢285名の表情や姿態を臨場感をもって巧みに描かれており、その完成度の高さから最晩年の作品と考えられる。
「北楼及び演劇図巻」 絹本着色 一巻 東京国立博物館所蔵
「浮世人物図巻」 紙本着色 絵巻 東京国立博物館所蔵
「大江山鬼退治絵巻」 紙本着色 三巻 藤田美術館所蔵
「不破名護屋敵討絵巻」 紙本着色 一巻 浮世絵太田記念美術館所蔵
「虫籠美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「見立石山寺紫式部図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「髪梳図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「秋草美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「遊楽人物図貼付屏風」 絹本着色 6曲1双 出光美術館所蔵
「遊里風俗図」 絹本着色 一巻 出光美術館所蔵 寛文12年(1672年)
「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「江戸風俗図巻」 絹本着色 二巻 出光美術館所蔵
「二美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵(伝菱川師宣)
「浄瑠璃芝居看板絵屏風」 紙本着色 6曲1双 出光美術館所蔵(伝菱川師宣)
「長者観桜酒宴の図」 紙本着色 たばこと塩の博物館所蔵
「元禄風俗図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 無款 伝菱川師宣筆
「紅葉狩図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「江戸風俗絵巻」 紙本着色 MOA美術館所蔵
「振袖美人図」 絹本着色 奈良県立美術館所蔵
「立美人図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
「桜下二美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「角田川舞台図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「上野・隅田川遊楽図屏風」 紙本着色 6曲1双 千葉市美術館所蔵 無款
「室内遊楽図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「天人採連図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「秋草美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵
「行楽美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵
「職人尽図巻」 絹本着色 大英博物館所蔵
「地蔵菩薩図」 紙本着色 大英博物館所蔵
「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本着色 6曲1隻 ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 無款
「上野花見・隅田川舟遊図屏風」 紙本着色 6曲1双 フリーア美術館所蔵
「上野花見図押絵貼屏風」 絹本着色金泥 6曲1隻 ボストン美術館所蔵
吉原・「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本金地着色 6曲1双 ボストン美術館所蔵 無款
「変化画巻」 紙本着色 1巻 ボストン美術館所蔵 貞享2年(1685年)作 菱川師宣及び菱川師房ら弟子達よる寄合書
「花鳥・物語図帖」 1帖 絹本着色 心遠館(プライス・コレクション)所蔵 無款
「吉原風俗図巻」 1巻15図 紙本着色 ジョン・C・ウェーバー・コレクション 延宝末年頃[7]
墨摺絵
「よしはらの躰」 横大判 12枚揃 東京国立博物館所蔵 延宝後期頃
「江戸物参躰」 横大判 12枚揃 延宝後期から天和頃
「衝立のかげ」 筆彩 大判 慶應義塾図書館所蔵 無款
「よしはらの躰 揚屋の遊興」 横大判 12枚組物のうち 千葉市美術館所蔵
「延宝三年市村竹之丞役者付」 大判 無款 城西大学水田美術館所蔵
「大江山物語絵図」 横大判 筆彩 12枚揃 天和から貞享頃
丹絵[
蹴鞠 大判 東京国立博物館所蔵 無款

安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年 – 1983年)は、日本の洋画家。

来歴・人物
千葉県生まれ。3歳の時、父が教員として赴任するため茨城県結城郡水海道町(現常総市)に移り住む。茨城県立水海道第一高等学校卒業後一時教職に就くが、退職して洋画を学ぶ。
生前、売り絵を描かなかったため、画商がつかなかった。生前の親交により、遺族から静岡県のK美術館に数十点の作品が寄贈されている。

年表
1897年 – 千葉県に生まれる
1929年 – 帝展初入選
1937年 – 文展特選
1939年 – 文展で無鑑査出品となる
1951年 – 日本水彩画会会員になる
1957年 – 日展審査員に就任。東京教育大学教授に就任、ろう者の美術教育に力を注ぐ
1968年 – 日展評議員に就任
1974年 – 日展参与に就任
1983年 – 死去。享年86(満85歳)

荒木 淳一(あらき じゅんいち、1955年 – )は、日本の洋画家。千葉県千葉市出身。愛知大学文学部フランス文学科卒業。

経歴
13歳で油絵を描き始めるが、中学生の頃より自己表現の手段としての文学を志し、1975年4月に愛知大学文学部フランス文学科に入学する。初めは小説家志望だったが、大学在学中に演劇に魅せられ戯曲作家志望に転向した。
1979年愛知大学卒業後ソルボンヌ大学文化学科に留学。パリではシネマテックやシネ・コンプレックスなどで映画三昧の日々を過ごした。小津安次郎、溝口健二、黒澤明、大島渚など日本の映画監督の作品の多くは当時日本映画プームだったパリで観た。また、フランス国内を始めスペイン、オランダ、ベルギー、西ドイツ、オーストリア、スイス、ギリシャなどを旅しそれらの国々の建築や美術、人々の生き方に多大のインスパイアーを受けた。
1981年帰国後本格的に油絵を描き始め、1986年より公募展に出品を始めた。1989年より成田禎介の描く風景画に惹かれ日展系の美術団体示現会展に出品、大内田茂士(1990年日本芸術院会員)の知遇を得て1991年より師事した。
1991年に示現会の会友に推挙され同人となるが、1994年師 大内田茂士の没後の第47回示現会展出品を最後に同会を退会し無所属となった。
1992年の初個展以来、馴染み深いパリ風景とポルトガルの風景が主なモチーフだったが、1996年1月の浦和伊勢丹での展覧会以降「イタリアの風と光」「イタリア 煌めく光の中で」「イタリアの空と大地」などイタリア風景を中心とした展覧会が開催されるようになった。
1995年ギャラリーGKでの展覧会で柔らかい風合いで表現したオイルオンペーパーの作品が初めて発表された。
1996年~1997年評論家種村季弘のプロデュースにより西武百貨店5会場で展覧会が開催された。
2001年「日本におけるイタリア年2001」に因んで「イタリア2001年の旅」と題された展覧会がイタリア文化会館(イタリア大使館文化部)の後援により、4月の高岡大和を皮切りに2002年7月の大宮そごうまで全国23会場で開催された。
2007年の弘前中三より「黒猫のいる風景」が発表された。その後2009年沖縄リウボウでの展覧会よりオイルオンペーパーで描かれた作品にシリアルナンバーが付された黒猫のいる風景「黒猫百景」シリーズが始まった。
2001年のアート未来展出品以降個展主義を続けていたが、2012年の第44回ローマン派美術協会展に23年振りに出品、奨励賞を受賞し会友に推挙され同人となった。
2013年第45回ローマン派美術協会展にて特選を受賞し会員に推挙されたが2014年の第46回ローマン派美術協会展出品を最後に同会を退会し再び無所属となった。
2015年第38回白亜会展に出品し同人に推挙された。

人物
フランス留学から帰国後、本格的に絵を描き始めたが、30代半ばまではシステムエンジニアの仕事をしていた。
演劇的な要素を大切にし「人がホッとするような絵を描きたい」と語る荒木氏。その作風はイタリア、フランス、ポルトガルを中心とした南欧の明るい風景画に描き出されている。
個展主義である。
ラーメンフリークである。
1960年代の東映フライヤーズ時代からの熱烈な北海道日本ハムファイターズファンである。
猫好きで黒猫、トンキニーズなどを飼っている。

人物
フランス留学から帰国後、本格的に絵を描き始めたが、30代半ばまではシステムエンジニアの仕事をしていた。
演劇的な要素を大切にし「人がホッとするような絵を描きたい」と語る荒木氏。その作風はイタリア、フランス、ポルトガルを中心とした南欧の明るい風景画に描き出されている。
個展主義である。
ラーメンフリークである。
1960年代の東映フライヤーズ時代からの熱烈な北海道日本ハムファイターズファンである。
猫好きで黒猫、トンキニーズなどを飼っている。
活動
主な出品・受賞歴[編集]
1987年 ローマン派美術協会展 出品(~’89年)・会友推挙
1988年 ローマン派美術協会展 「坂のある風景」にて地球人賞 受賞・会員推挙
1989年 示現会展 出品(~’94年)
1991年 示現会展 会友推挙
1999年 一線美術会展 出品 会友推挙
2000年 新作家美術協会展 招待出品
2001年 アート未来展 出品 会員推挙
2012年 ローマン派美術協会展 出品(~’14年) 「二人の尼僧」にて奨励賞 受賞・会友推挙
2013年 ローマン派美術協会展 「アルファマ」にて特選 受賞・会員推挙
2015年 白亜会展 出品 同人推挙
主な展覧会
個展
1992年 京橋・アートギャラリー京ばしにて個展(’93,’94年)
1994年 「碧い額縁の中の繪のように」 表参道・ギャラリー華音留にて個展
1994年 丸の内・ぎゃらりー友美堂にて個展(’95年)
1995年 大分トキハにて個展(’06年)
1995年 銀座・牧神画廊にて個展
1995年 日本橋東急にて個展(’96,’97年)
1995年 「エトランゼ」 銀座・ギャラリーGKにて個展
1995年 「海を見ていた午後」 表参道・ギャラリー華音留にて個展
1996年 銀座・画廊春秋にて個展(’97年)
1996年 浦和伊勢丹にて個展(’97,’14年)
1997年 千葉三越にて個展(’98,’99,’00,’01,’03年)
1997年 フィレンツェ・ガレリアDEAにて個展
1997年 プランタン銀座にて個展
1997年 仙台三越にて個展
1997年 藤沢さいか屋にて個展
1998年 名古屋三越にて個展(’00,’02,’04,’06,’08,’10年)
1998年 「プロヴァンスの風に吹かれて」新宿・ギャラリートーニチにて個展
1998年 香林坊大和にて個展(’00,’05年)
1998年 横浜三越にて個展(’99年)
1998年 京都近鉄百貨店にて個展(’99,’00,’01,’02,’03年)
1998年 福島中合にて個展
1998年 「荒木淳一’S GARDEN」表参道・ギャラリー華音留にて個展
1998年 松戸伊勢丹にて個展
1999年 千葉市花の美術館にて個展
1999年 小倉井筒屋にて個展(’05,’07,’09,’11,’13,’15年)
1999年 藤沢小田急百貨店にて個展(’10年)
1999年 長崎浜屋にて個展(’01,’04,’06年)
1999年 岡山天満屋にて個展
1999年 横須賀さいか屋にて個展(’00年)
1999年 上本町近鉄百貨店にて個展(’02,’10年)
2000年 豊橋丸栄にて個展(’02,’04,’06,’08,’09,’11,’13,’15年)
2000年 仙台藤崎にて個展
2000年 新宿小田急百貨店にて個展
2001年 岐阜高島屋にて個展(’03,’05,’07,’10,’12,’14年)
2001年 高岡大和にて個展(’03,’04,’07,’08,’10,’11,’15年)
2001年 熊本岩田屋にて個展(’02年)
2001年 米子高島屋にて個展(’03,’05,’07,’10,’12,’14年)
2001年 松山三越にて個展(’03,’05年)
2001年 福山天満屋にて個展(’04,’06年)
2001年 町田小田急百貨店にて個展(’03,’05年)
2001年 梅田大丸にて個展
2001年 帯広藤丸にて個展(’08年)
2001年 佐野・ギャラリーファンタジアにて個展
2002年 青山・ピガ画廊にて個展
2002年 下関大丸にて個展(’12年)
2002年 新潟大和にて個展(’04年)
2002年 富山大和にて個展(’04,’06,’08年)
2002年 鹿児島山形屋にて個展(’05,’07年)
2002年 高崎高島屋にて個展(’04,’08,’11,’13年)
2002年 鳥取大丸にて個展(’04,’06,’07,’08,’09,’11,’12,’13,’14,’15年)
2003年 函館棒二森屋にて個展 (’04,’06,’08,’13,’14,’16年)
2003年 神戸大丸にて個展 (’05,’08,’12年)
2003年 池袋三越にて個展
2003年 横浜高島屋にて個展
2003年 博多大丸にて個展(’05,’07,’09,’11,’13,’15年)
2004年 沖縄三越にて個展(’05,’06,’07,’08年)
2004年 広島三越にて個展(’06,’08,’10,’12,’14年)
2005年 大阪高島屋にて個展(’08,’10年)
2006年 松江一畑百貨店にて個展(’08,’10,’11,’13,’15年)
2006年 札幌丸井今井にて個展
2007年 松山いよてつ高島屋にて個展(’09,’10,’12,’14年)
2007年 高松天満屋にて個展
2007年 酒田マリーン5清水屋にて個展(’08,’09,’10,’12,’13年)
2009年 沖縄リウボウにて個展(’10,’12,’13,’14年)
2010年 長崎大丸にて個展(’11年)
2010年 佐賀玉屋にて個展(’11,’12,’14,’15,’16年)
2010年 京都大丸にて個展(’13年)
2010年 岡山高島屋にて個展(’12,’14年)
2011年 山形大沼にて個展(’13,’14年)
2013年 心斎橋大丸にて個展(’15年)
2013年 和歌山近鉄百貨店にて個展(’15年)
2014年 京阪百貨店にて個展(’16年)
2015年 札幌東急百貨店にて個展(’16年)
2016年 広島福屋にて個展
グループ展
1994年 「’94 さまざまなる歌」(井上公三、小浦昇、望月通陽、山中現 他)赤坂・山の上ギャラリー
1996年 「爽風会展」(蛭田均、大見伸、掛川孝夫、丸山勉、大竹山規、滝沢直次 他)丸の内・ぎゃらりー友美堂
1996年 「彩の国さいたま ゆかりの作家絵画展」(小松崎邦雄、斉藤三郎、智内兄助、石原靖夫、内田晃 他)川口そごう
1997年 「彩の国ゆかりの作家絵画展」(黒沢信男、徳田宏行、滝沢直次、島根清 他)大宮そごう
1999年 「カラリスト展」(赤穴宏、大沢昌助、織田廣喜、神戸文子、草間彌生、田村孝之介 他)京橋・金井画廊
主な作品
欧州風景
1999年 プチカナルの朝(65.2×33.4cm)
2000年 サンジョルジュの丘(F20)
2001年 二人の尼僧(M30)
2002年 ペルージャ(33.4×72.7cm)
2003年 ゴンドリエ(65.2×33.4cm)
2006年 ベネチアの運河(33.4×72.7cm)
2007年 シエナ(27.3×60.6cm)
2008年 フィレンツェ(72.7×145.5cm)
2009年 プロバンスの風に吹かれて(F20)
2010年 サンマルタン運河の朝(33.4×65.2cm)
2010年 西教会の見える風景(P10)
2010年 窓からローマが見える(27.3×60.6cm)
2011年 サンティッシマ アンヌンツィアータ広場(33.4×65.2cm)
ベネチアのサラシリーズ
ベネチアの街角を舞台に、至福の時の象徴としての少女(サラ)と旅人(作者自身)または旅人の視線(作者自身の視線)が描かれている。1997年より制作されているシリーズである。
2000年 ベネチアのサラ(72.7×33.4cm)
2001年 ベネチアのサラ(M8)
2001年 ベネチアのサラ(P12)
2013年 ベネチアのサラ(72.7×33.4cm)
誕生花
一年365日のその日ごとに定められた誕生花を描いた作品を2010年より制作している。
2010年 りんごの花(SM)
2013年 勿忘草(F3)
2014年 デンドロビウム(SM)
オイルオンペーパー
洋紙に油絵の具を用いた自由な形と浮世絵のような風合いを持つ紙油彩を1995年より制作している。
欧州風景
2000年 フィレンツェ(20×80cm)
2002年 SEASIDE WEEKEND(15×50cm)
2003年 ベネチアの夕暮(12×36cm)
2007年 リンツ郊外の雪景色(17×25cm)
2011年 モンサンミッシェルの夕暮(12×36cm)
黒猫のいる風景シリーズ
世界の街角で月「ツキ」を手招く黒猫が描かれたシリーズ。2009年に10作、以後は毎年新作が5作程度発表され2027年頃に100作「黒猫百景」が完結される予定。
作品は1作につき100点づつシリアルナンバーが付されて制作される。
2009年- 1 黒猫のいる風景・フィレンツェ(5×5cm)(8×8cm)
2009年- 2 黒猫のいる風景・大きな月を招く猫(ベネチア)(5×5cm)(8×8cm)(8×10cm)(10×15cm)
2009年- 3 黒猫のいる風景・月についている猫(5×5cm)(8×8cm)(8×10cm)(10×10cm)
2009年- 4 黒猫のいる風景・パリ(10×15cm)
2009年- 5 黒猫のいる風景・コインブラ(5×5cm)(8×8cm)
2009年- 6 黒猫のいる風景・大きな月を招く猫(ベネチア)(5×15cm)
2009年- 7 黒猫のいる風景・ベネチア(15×5cm)
2009年- 8 黒猫のいる風景・ゴンドラの上の猫(15×5cm)(17×6cm)
2009年- 9 黒猫のいる風景・サンチャゴ・デ・コンポステーラ(8×6cm)
2009年- 10黒猫のいる風景・真実の口(5×5cm)
2010年- 11黒猫のいる風景・モンマルトル(8×8cm)
2010年- 12黒猫のいる風景・リスボンの窓辺(10×15cm)
2010年- 13黒猫のいる風景・エボラ(10×10cm)
2010年- 14黒猫のいる風景・アッシジ(8×8cm)
2010年- 15黒猫のいる風景・プロバンス(5×5cm)
2011年- 16黒猫のいる風景・眼鏡橋の桜と尾曲がり猫(5×5cm)(8×8cm)
2011年- 17黒猫のいる風景・満開の桜と月を招く猫(5×5cm)(8×8cm)
2011年- 18黒猫のいる風景・溜息橋 (10×8cm)(15×10cm)
2011年- 19黒猫のいる風景・アルファマ(8×8cm)
2011年- 20黒猫のいる風景・ナザレ(8×8cm)
2012年- 21黒猫のいる風景・グラナダ(8×8cm)
2012年- 22黒猫のいる風景・サントリーニ(8×8cm)
2012年- 23黒猫のいる風景・リスボン(13×20cm)
2012年- 24黒猫のいる風景・ナザレ(8×8cm)
2013年- 25黒猫のいる風景・モンサンミッシェル(10×10cm)
2013年- 26黒猫のいる風景・ムーラン・ド・ラ・ギャレット(10×10cm)
2013年- 27黒猫のいる風景・富士山(13×20cm)
2013年- 28黒猫のいる風景・グラナダの裏通り(10×10cm)
2014年- 29黒猫のいる風景・サントリーニの風車(10×10cm)
2014年- 30黒猫のいる風景・ブルージュ(10×10cm)
2014年- 31黒猫のいる風景・草原の羊と猫(10×10cm)
2015年- 32黒猫のいる風景・ロカ岬(10×10cm)
2015年- 33黒猫のいる風景・ナポリとベスビオ(10×10cm)
2015年- 34黒猫のいる風景・ベルビル(10×10cm)
2015年- 35黒猫のいる風景・猿と猫(13×20cm)
版画
2007年 フィレンツェ(33.4×72.7cm)を200部制作。
その他
カレンダー
2000年 川口信用金庫カレンダー画担当
2001年 川口信用金庫カレンダー画担当
2002年 川口信用金庫カレンダー画担当
2002年 (株)セノンのカレンダー画担当
2003年 川口信用金庫カレンダー画担当
2004年(株)セノンのカレンダー画担当
2008年 川口信用金庫カレンダー画担当
年賀状
2010年以降2027年まで年賀状には『黒猫のいる風景』シリーズを使う予定である。
2010年 黒猫のいる風景・サンチャゴ・デ・コンポステーラ
2011年 黒猫のいる風景・エボラ
2012年 黒猫のいる風景・溜息橋
2013年 黒猫のいる風景・サントリーニ
2014年 黒猫のいる風景・富士山
2015年 黒猫のいる風景・草原の羊と猫
2016年 黒猫のいる風景・猿と猫

浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) – 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。

生涯
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
1907年12月16日、リウマチにより入院中の東京大学病院において心臓麻痺のため死去[1]。墓地は京都の金地院。

櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 – )は、日本を代表する洋画家。

経歴
1919年、印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎に生まれる。千葉県立(旧制)佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスヴィシー国際展グランプリ受賞。
1967年の第10回日展(日本美術展覧会)において特選を受賞。1969年の改組第1回日展で再び特選を受賞。その他、岡田賞、ル・サロン銅賞など受賞。国際的にも評価が高い。日展審査員、評議員を経て2001年に日展参与に就任。内閣総理大臣より紺綬褒章を受章。さらに2005年にも日本国天皇より紺綬褒章を受章。 八千代松陰学園に30周年記念のために140点以上を寄贈した。校内に展示されている。

桜田精一(さくらだ せいいち、1910年 – 1999年)は日本の洋画家。日展参与。画家・桜田久美の実父であり、小林武雄や大野みつ子など、優れた門下生を輩出した洋画壇の巨匠である。

略歴
1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる[1]
1933年 日本美術学校洋画科を卒業
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する
1939年 帰国し上京する
1940年 日本美術学校講師に就任
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる
1949年 千葉県美術会を創設に参加
1957年 58年まで約1年間渡欧する
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任
1974年 十柯会同人
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる
1980年 日展評議員となる
1982年 野田市文化功労表彰を受ける
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する
1987年 小山敬三美術賞を受賞する
1987年 日展参与に就任
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける
1992年 勲四等瑞宝章を受章する
1994年 紺綬褒章を受章する
1999年 千葉県野田市で永眠
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催
2009年 千葉県立美術館にて「櫻田精一展 生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催

略歴
1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる[1]
1933年 日本美術学校洋画科を卒業
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する
1939年 帰国し上京する
1940年 日本美術学校講師に就任
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる
1949年 千葉県美術会を創設に参加
1957年 58年まで約1年間渡欧する
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任
1974年 十柯会同人
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる
1980年 日展評議員となる
1982年 野田市文化功労表彰を受ける
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する
1987年 小山敬三美術賞を受賞する
1987年 日展参与に就任
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける
1992年 勲四等瑞宝章を受章する
1994年 紺綬褒章を受章する
1999年 千葉県野田市で永眠
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催
2009年 千葉県立美術館にて「櫻田精一展 生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催

概要
鈴木鵞湖は江戸時代末期に下総国千葉郡豊富村(現:千葉県船橋市金堀町)に生まれた。江戸に出た後は谷文晁、相沢石湖に学んだ。代表作の1つである『十六羅漢像図』は千葉県指定文化財になっている。専門家の間では「近代美術の基礎を築いた」とも評されている。また、鵞湖の後を少したどると息子の石井鼎湖、孫の石井柏亭、石井鶴三と三代にわたってその資質を継ぎ、いずれも画壇で活躍している。なお、石井姓は、鼎湖が養子にいったことによる。2005年に郷土に大きく貢献した鈴木鵞湖を研究する為の「鈴木鵞湖研究会」が金堀町に続く鈴木家を含めた有志で結成され、歴史に埋もれてしまっている郷土出身の画家の足跡を明らかにする為の活動が行われている。

吉橋 秋月(よしはし しゅうげつ、1826年 – 1903年)は、日本の芸術家である。
1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。

石井 鼎湖(いしい ていこ、嘉永元年(1848年)3月‐明治30年(1897年)11月2日)は、明治時代の日本画家、版画家。

来歴
谷文晁の門人であった鈴木鵞湖の次男。江戸の生まれ。後に石井姓を名乗る。幼名は貞次郎、名は重賢。幼時より父に絵を学ぶ。安政6年(1859年)、仙台藩士の造船家三浦乾也の養子となる。文久2年松代藩士村上英俊よりフランス語を学びはじめ、翌3年(1863年)に石井家を継いだ。
明治3年(1870年)大蔵省に出仕し、紙幣や公債証書の下絵図案を作る担当する。明治7年(1874年)に紙幣寮に入って銅版画、石版画を習得、さらに松田緑山の開業にも参加、石版画の指導にあたった。明治28年(1895年)、印刷局を辞した。明治10年(1877年)には中丸精十郎に洋画も学び、明治17年(1884年)からは自ら創立に加わった精研会の展覧会に洋画を毎海出品。明治21年(1888年)日本美術協会第一部委員となる一方、翌22年(1889年)の明治美術会創立にも参加し評議員となる。明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会において「豊太閤醍醐花見」で妙技三等賞を受ける。日本美術協会の展覧会で受賞を重ね、明治29年(1896年)には特別賞を受賞、洋画壇で一定の評価を築いた。
また、川上冬崖、国沢新九郎にも師事していた。明治30年(1897年)には日本南画会の結成にも参加するなど、日本画、洋画双方にわたる幅広い活動を行い、歴史上の人物を取り上げた作品も多く制作した。享年50。墓所は護国寺共同墓地九通。法名は重誓院釈賢道信士。長男は版画家で洋画家の石井柏亭、三男は彫刻家の石井鶴三である。

吉橋 秋月(よしはし しゅうげつ、1826年 – 1903年)は、日本の芸術家である。
1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。

吉橋 秋月(よしはし しゅうげつ、1826年 – 1903年)は、日本の芸術家である。
1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。

略歴
1881年、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、明治31年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学。学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。明治36年同科を卒業、同校研究科(現在の東京芸術大学大学院)に進むがすぐに退学し、同年に旧制福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)図画教師に赴任。翌年同校教師を免じられ、一年志願兵として軍役に服務。明治38年からは京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に標本描画嘱託として解剖教室に勤務、人体解剖図を専門に写実した。一時兵役のため休職ののち、大正2年まで勤務。ついで九州日報社(現在の西日本新聞社)社友となり昭和の初めまで画筆をとる。その後西新町の自宅で画家、俳人、表具師などの文化人グループを結成。昭和26年1月25日、没。享年71。

後藤 純男(ごとう すみお、1930年1月21日 – )は日本画の画家。
昭和5年(1930年)、千葉県東葛飾郡関宿町(現野田市)に生まれる。昭和7年(1932年) に埼玉県北葛飾郡金杉村(現松伏町)へ転居。昭和61年(1986年)に内閣総理大臣賞を受賞、昭和63年(1988年)から平成9年(1997年)まで東京藝術大学美術学部の教授を務めた。平成18年(2006年)に旭日小綬章を受章する。平成28年(2016年)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する。歌人の米川千嘉子は姪。

略歴
1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の真言宗豊山派の住職後藤幸男の子として生まれる。
1932年 埼玉県金杉村(現・松伏町)へ転居。
1942年 金杉小学校を卒業する。同年、父後藤幸男が母校で教師を勤めていた旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)入学
1945年 郷里の旧制埼玉県立粕壁中学校(現春日部高等学校)第4学年へ転入。
1946年 粕壁中学校卒。山本丘人に師事。
1949年 田中青坪に師事。
1952年 再興第37回日本美術院展覧会(院展)に初入選。5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙。
1955年 約8年間の関西、四国における真言宗の寺を巡るスケッチ旅行を始める。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待に推挙。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。
1974年 日本美術院同人に推挙。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院名誉教授に就任。
1986年 再興第71回日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学美術学部教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家の後藤仁がいる。
1993年 真言宗豊山派の総本山長谷寺に襖絵「夏冬山水」を奉納。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2014年5月10日 大分県玖珠郡九重町田野1712-707 九州芸術の杜内に常設で後藤純男リトグラフ館を開館。(原画とリトグラフ)
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
現在 日本美術院同人理事。中国西安美術学院名誉教授。

後藤 仁(ごとう じん、1968年 – )は、平成時代の日本画家・絵本画家。日本の伝統技法を活かした描法により、アジアや日本各地に取材した美人画を中心に、風景画、花鳥画等を手がける。また、日本画の技術を用いて高級壁紙の金唐革紙や、絵本の原画等の制作を行う。師系は後藤純男。日本児童出版美術家連盟会員、絵本学会会員、日本中国文化交流協会会員。

概要
兵庫県赤穂市生まれ。小学校1年生の時に大阪府堺市に移る。小中学生の頃は、水彩・アクリル絵具による空想画を多く描く。15歳の時、大阪市立工芸高等学校美術科に入学して、油彩画・彫塑・デザイン・製図・デッサン等とともに日本画を学び、高校2年生で日本画を専攻する。大阪市立工芸高等学校美術科を実技・学科ともに首席にて卒業する。同校の卒業生には、日本画家の稗田一穂らがいる。この子供時代に、岡本太郎が審査委員長をつとめる絵画コンクールで佳作受賞する等、各種絵画公募展での入選・受賞は14回に及ぶ。
高校卒業後は東京に上京し、美術予備校の立川美術学院日本画科で村上隆、菅原健彦らに、デッサン・着彩を2年間学ぶ。21歳で東京藝術大学絵画科日本画専攻に入学。当時の学長は平山郁夫である。大学では教授の加山又造、後藤純男、福井爽人らに日本画を学ぶ。大学3年生より金唐革紙(きんからかわし。手製高級壁紙のこと)の復元製作を始め、以後約12年間に「入船山記念館(呉市)」、「移情閣 ・孫文記念館(神戸市)」、「旧岩崎邸(台東区)」等の重要文化財建造物の復元事業に携わり、この技術も日本画制作に取り入れる。(現在、金唐革紙製作の完全な知識・技術を保持しているのは後藤仁のみとなり、2006年より金唐革紙保存会を主宰する[3][4][5][6]。)東京藝術大学の卒業制作は、インドネシアのボロブドゥール遺跡に取材した「昇殿」(F150号)。
大学卒業後は後藤純男に師事して、日本画家として活動をする。卒業に前後し、後藤純男に同行して沖縄本島、北海道(富良野、知床の流氷)、東北(会津若松、田沢湖、角館)等への写生旅行をする。活動初期は国内外の取材をもとに、プランバナン遺跡等の古代遺跡や阿蘇山・斜里岳等の自然をモチーフにした雄大な風景画や、野に咲く花々を多く描く。1998年頃より「アジアの美人画」をテーマに、アジアや日本の伝統文化・舞踊等に取材した人物画を中心に描く。
現在までに、「ちばぎんアートギャラリー日本橋」等の画廊で多くの日本画個展を開く他、後藤純男門下による「翔の会日本画展(銀座松坂屋)」等のグループ展を全国の美術館・画廊・百貨店で多数開催する。絵画公募展での入選・受賞は、「三渓日本画賞展2000(横浜三渓園)」入選(審査委員 中島千波、平松礼二、草薙奈津子 他)、「新生展(新生堂南青山)」入選(審査委員 千住博、中島千波、大矢英雄、籔内佐斗司 他)、「北の大地展(北海道)」佳作、「F展(大阪市立美術館)」大阪市立美術館館長奨励賞、等がある。また、「紙の博物館(東京都王子)」、「呉市立美術館(広島県呉市)」、「大英博物館(イギリス)」等の金唐革紙展の製品を製作・展示する。

日本画作品の特長としては、作家独自の鋭く繊細な鉄線描(てっせんびょう。法隆寺金堂壁画等に見られる技法)、幻想的・物語的な空間表現、中国の少数民族や各国の民族衣装の華麗な色彩表現、人物の清楚な美しさと人物の心を表出した目の描写の印象強さ等が挙げられる。また、アジア各国や日本各地での単独取材旅行を多く行う。
現在、千葉県松戸市にアトリエをかまえ、「アジアの美人画」を中心画題として描く他、風景画や花鳥画等の小品も描く。また、アジアの民話を元にした絵本の原画制作等、日本画を軸とした様々な絵画表現を探求している。金唐革紙保存会 主宰、日本児童出版美術家連盟 会員、絵本学会 会員、日本中国文化交流協会 会員、この本だいすきの会 会員。

栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 – 2003年)は、日本の水墨画家。千葉県生まれ。
内閣総理大臣賞、国際文化交流功労特別賞などを受賞。 国画水墨院名誉顧問。水墨画の世界的巨匠である。
栗原克実の次男、栗原志保見もスペインを拠点とし、絵画活動を行っている。

略歴
1922 – 千葉県生まれ
1982 – 千葉県野田市二中校長退官
1982 – 文部大臣奨励賞受賞
1985 – 日中水墨交流協会理事
1989 – 内閣総理大臣賞受賞
1995 – 国画水墨院会長
1997 – 大分県杵築市に栗原克実美術館が開館
1997 – 国画水墨院名誉顧問
1997 – 国際文化交流功労特別賞
2003 – 死去

ロッカクアヤコ Rokkaku Ayako(1982年1月24日 – )日本の現代美術家。千葉県出身、在住。A型。
筆などを一切使わず、手で直接キャンパスや段ボールに描く。その独特のスタイルで行われるライブペインティングや、色彩豊かな作品で知られる。2006年スイスでのアートバーゼル出展時に行ったライブペインティングで100枚以上を描き完売。現在、人気・評価ともに日本よりもヨーロッパで高く海外での活動が中心になっている。2007年12月に国内初となる大規模な個展が開催された。

主な展覧会
2007年
ART SINGAPORE (シンガポール・アートフェア)
GALERIE MODERNE (デンマーク・個展)
ART AMSTERDAM (アムステルダム・アートフェア)
ART COLOGNE (ケルン・アートフェア)
GALLERY DELAIVE (アムステルダム・個展)
ART AGNES (東京・アートフェア)
2006年
NADA ART FAIR (マイアミ・アートフェア)
GARELIE AAA (パリ・個展)
GEISAI #10 (東京・アートフェア)
TOKYO GG NIGHT (東京・イベント)
TOKYO GIRLS COLLECTION (東京・ファッションショー)
VOLTA show02 (バーゼル・アートフェア)
GEISAI #9 (東京・アートフェア)
受賞歴[編集]
GEISAI#4 スカウト賞
第8回エネルギー賞入選
GEISAI#9 後藤明男賞
GEISAI#10 スカウト賞

流浪馬里奥(さすらいまりお、1977年7月6日 – )は、日本の水面画家、旅人。マーブリング技法で書きあげる水面画、ライブ投影した空間美術を手がける。松戸市立松ヶ丘小学校卒業。青蘭学院女子高等学校中退(現/青稜中学校・高等学校)。趣味は旅行、キャンプ。特技は編み物、野宿。

来歴・人物
長女。小学生から書道(水墨画、マーブリング)、剣道を習っている。2012年剣道は在籍中。本名でバラエティー番組の再現VTRなどに出演、「桜木たか子」の芸名でモデル活動をしていた事もある。本人によるブログを通じてバックパッカーとしても知名度が高い。
旅観
[icon] この節の加筆が望まれています。
1996年より東北、関東、関西、沖縄を拠点にバックパック一つで予定を組まない快楽を追求した一人旅を始める。現地に住み込むなどして現地と触れ合いながらながら旅をしていた。2004年から数年間は、気の合う旅人達と日本を含むアジア大陸を車泊、野宿、ヒッチハイク、徒歩などで旅をする。野宿旅を好むため、女性に見られないように短髪で金髪にしていたことがある。旅中に感極まって泣いているが、Thailandに滞在中バックパックに荷物が収まらなくなってしまった時、節約のため現地の鞄屋で下取り交換してもらったが愛着がありすぎて手放す際に大号泣した。2006年タイのワットポー寺院にてタイ古式マッサージ、タイ式フットマッサージのライセンスを取得している。2008年香川県を最後に日本全国制覇した。行った国の現地語(文字と数字)は覚えるようにしている(文字は地図が読める様に、数字は買い物で騙されない様にとの事)東日本大震災後、物資を集め宮城県にボランティアに行っている。
美術・芸術観
[icon] この節の加筆が望まれています。
マーブリング技法を基に絵具を水の上でコントロールし、水の中で生まれた偶然と必然を抜き取った独創的世界の作品や、独自の技法で色の濃淡を創り出した水墨画の様な作品がある。白壁に映し出すマーブリング空間パフォーマンスにて舞踏家、バレエダンサー、ミュージシャンなどと舞台、公演に参加している。
2012年に奈良県で開かれた個展「水楽-Suigaku-」では着物の帯に仕立てた長さ28m40cmのマーブリング作品を展示。
紙作品だけでなく動画でも作品公開をしている。
2012年のGAO(歌手)のLIVEにて旅とアートについてインタビューを受ける。
千葉市文化祭のLIVEにて桂扇生(落語家)よりインタビューを受ける。
2015年1月3日、千葉県松戸市に流浪馬里奥のもみほぐしリラクゼーションサロンがオープンされる。

香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) – 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。

略歴
1844年、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市)に生まれる。佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で書学を学び、書風は初め成徳書院書学所の師範の平林庄右ェ門、同岡田耕鶴(長尾流)らの御家流の影響を受けた。のちに日下部鳴鶴に学ぶ。1881年に千葉師範学校習字科の教師となり、翌年、初の小学校の習字教科書『楷書千字文』を刊行。その他、文部省から依頼を受けて国定教科書の習字の手本を執筆し、800冊以上の教科書を出版、全国の書道教育の定着に貢献した。明治44年9月、66歳で没する。墓は千葉県千葉市中央区弁天4丁目の常光山本敬寺(ほんきょうじ)墓地にあり、千葉市中央区千葉寺町の千葉寺に彰徳碑がある。

波の伊八(なみのいはち、宝暦元年(1751年) – 文政7年(1824年))は、安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)生まれの宮彫師、武志伊八郎信由。

人物
江戸時代中期には、建築様式として欄間を飾る彫刻が流行していた。多くの彫刻師が競うなか、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた人物がいた。初代伊八こと、武志伊八郎信由である。
伊八は、下打墨村で代々名主を務めた武志家の5代目として生まれたといわれている。10歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を初めて彫り以来作風を確立し、同世代に活躍した葛飾北斎の「富嶽三十六景」の代表作の1つ、「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたといわれ、文政7年に没するまで意欲的に作品を造り続けた。
その作風は、五代目伊八(高石伊八朗信月:明治23年-昭和29年)まで200年に亘って続き、房総南部を中心に神社や寺院の欄間彫刻などに秀れた作品を残した。

石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5日 – 1973年(昭和48年)3月17日)は、日本の彫刻家、洋画家。

略伝
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、1910年に東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、以降、日本版画協会の会長、理事長を務めている。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られ、1944年東京美術学校教授。1950年日本芸術院会員、1961年日本美術院彫塑部を解散、1963年東京芸術大学名誉教授、1967年勲三等旭日中綬章受章、1969年相撲博物館館長。享年87。墓所は護国寺共同墓地九通の石井氏墓、法号なし。
1925年(大正14年)、平櫛田中の子供が亡くなったとき葬儀も出せずにいた時に、新聞社の挿絵代金を封を切らずに平櫛に渡した。 鶴三の芸術家の一面を示す有名な話。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三美術資料室がある。

藤野 天光(ふじの てんこう、男性、1903年9月27日 – 1974年12月30日 )は日本の彫刻家。本名は藤野隆秋。別号は舜正。
群馬県館林市生まれ。音楽家の村上正治とともに千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめる。

略歴
1903年 館林市に生まれる
1928年 東京美術学校(現東京芸術大学)彫塑部卒業、北村西望に師事
1929年 帝展初入選(以後連続入選、特選3回)
1938年 新文展特選「銃後工場の護り」
1939年 ニューヨーク万博出品
1945年 市川文化会設立。市川市美術会結成、理事長
1947年 日本彫刻家連盟設立に参加
1948年 千葉県美術会結成、常任理事
1949年 日展審査員
1952年 千葉県文化財専門委員を委嘱され議長を務める
1954年 翌年にかけて師・北村西望と共に筆頭助手として長崎の「平和祈念像」を制作
1966年 日本芸術院賞受賞。千葉県美術会理事長
1969年 日展理事
1973年 第28回若潮国体モニュメント8mの大作「輝く太陽」制作(千葉県)
1974年 各団体に呼びかけ市川市芸術文化団体協議会を設立。千葉県美術会会長理事長として千葉県立美術館を建設。12月30日逝去
1975年 1月24日県美術会葬弔演奏会(市川交響楽団、指揮村上正治、千葉県立美術館)。従五位勲三等瑞宝章受章
2003年 遺族が、346作品(ほとんど石膏作品)を館林市に寄贈

香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 – 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。
帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。

生涯
千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。1889年、佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)に学ぶ。また和歌を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書『万葉集』を写し作歌を学んだ。この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになる。そこで、秀真は、秀綱に上京したい、と願い出た。秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れた。しかも上京の資金は、代々受け継がれていた土地を売って準備してくれた。秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されている。
1891年、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に首席で合格、鋳金科へ進み1896年に卒業。卒業制作は『上古婦人立像』。その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚。翌年、長男香取正彦が生まれる。
1898年に「日本美術協会展」で『獅子置物』が褒状1等になり、1900年のパリ万国博覧会で銀賞碑を受けるなど国際的に活躍。しかし実際には作品はなかなか売れず、厳しい生活が続いていた。鋳金を行うには、模型や鋳型を作ったり、金属を溶かしたりするので、一人では出来ず、何人かの弟子とともに生活していた。秀真は妻の嫁入り道具を売り、彼らを養った、といわれている。やがて、極度の貧困生活に耐えかねた妻、たまが、故郷に帰ってしまい秀真は途方に暮れる。そんな時、印西市吉高に住む友人、富井惣之助の家を何度か訪れては、実家や養父に言えぬ心の内を明かしていたという。秀真の身の回りの世話をしていた養母の母である、金子うしの協力もあり、秀真は再起の努力を続け、1903年に再婚。1933年には東京美術学校教授となり学問として母校で「鋳金史」「彫金史」などを講義、多くの後進を育てた。秀真はこの後意欲的に作品を制作。その技術を高め、名実とともに鋳金の世界の第一人者として認められるようになる。また、金工史の研究にも取り組み『日本金工史』『金工史談』『日本鋳工史』など学術著書は40冊を超え、同時に多くの研究論文も残す。また帝国美術展覧会(現在の日展)の工芸部設置では同郷の津田信夫と共に尽力し、金工(金属工芸)を美術として社会的に認知させる努力をした。1934年12月3日帝室技芸員となる。1953年、これらの功績を認められ文化勲章を叙勲された。同年に文化功労者として顕彰。
伊藤左千夫、長塚節らと正岡子規門下の根岸短歌会のアララギ派の歌人としても活躍し1954年の宮中新年歌会始の召人として召歌を奏上することが許された。生前に『天之真榊』など数冊の歌集を出版した。小説家の芥川龍之介、高浜虚子とも親交があったとされる。
1954年に急性肺炎のため81歳で没する。墓所は豪徳寺(東京都世田谷区)。

香取 正彦(かとり まさひこ、1899年 1月15日- 1988年11月19日)は、日本の鋳金工芸作家。1977年(昭和52年)に梵鐘の分野で重要無形文化財保持者(「人間国宝」)に認定された。

来歴
1899年(明治32年)、香取秀真と母たまの長男として東京小石川に生まれる。まもなく両親の出身地、現在の千葉県佐倉市へ移り、幼少期を佐倉で過ごす。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)の鋳金科に入学し、主任教授津田信夫の指導を受ける。製作にあたっては、古典研究を基礎とした。1925年(大正14年)に東京美術学校鋳金科を卒業。同年パリ万国装飾美術工芸博覧会(「アールデコ万博」)に「苺唐草文花器」を出品し銅牌を受賞。帝国美術院展覧会の工芸部門においては1930年(昭和5年)から3年続けて特選を受賞し帝展無鑑査となる。
終戦後は戦争中に供出された仏具・仏像などの文化財修理・保護に尽力。1949年(昭和24年)から梵鐘制作を始め、比叡山延暦寺、成田山新勝寺、広島平和の鐘(1967年)を手がける。1953年(昭和28年)、芸術院賞。1954年(昭和29年)より日本伝統工芸展が開かれ,第3回展から審査委員を委嘱される。1977年(昭和52年)4月25日には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。1981年に梵鐘制作100点を達成し『百禄の鐘』を出版。1987年(昭和62年)には日本芸術院会員に推挙された。

津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 – 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。

経歴
1875年、千葉県の佐倉に佐倉藩医である津田長人の長男として生まれる。佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て1895年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学。鋳金を専攻。卒業後の2年後には東京美術学校の助教授になり、後に教授を務める。東京美術学校が公共事業として注文を受けた日比谷公園噴水やアーク燈、日本橋の装飾など公共施設の鋳造を多く手掛け近代的な都市づくりに貢献する。1923年(大正12年)には金工の研究の為にヨーロッパへ留学し、イタリア、イギリス、ギリシャ、フランス、ドイツ等で、当時ヨーロッパで流行していた装飾様式のアール・デコなどを学ぶ。1925年(大正14)のパリ万国博覧会では日本代表として審査員を務める。この博覧会で日本のデザインの停滞ぶりと各国の新潮流に衝撃を受け、当時のヨーロッパの工芸の状況を日本へ伝え、若手工芸家に大きな影響を与えた。1946年(昭和21)に72歳で没する。

濤川 惣助(なみかわ そうすけ、弘化4年(1847年) – 明治43年(1910年)2月9日)は、日本の七宝家。東京を中心にして活躍、無線七宝による絵画的表現を特色とし、京都で活躍した並河靖之と共に二人のナミカワと並び評された。

略歴
濤川惣助は1847年(弘化4年)に下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれた。その後に陶磁器等を扱う貿易商となったが、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会を観覧して七宝の魅力に目覚め、直ぐに七宝家の道に転進した。同年中に尾張七宝の職人達を擁する東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収し、2年後の1879年(明治12年)には革新的な技法となる無線七宝を発明した[要出典]。
機械工業が未熟であった当時の日本にとって伝統工芸品の輸出は貴重な外貨獲得手段(殖産興業)であり、明治政府は当時の欧米で頻繁に開催されていた万国博覧会を、伝統工芸品を輸出するための恰好のショーケースと位置づけていた。濤川はこの流れに乗って国内外の博覧会に自らの作品を出展して数々の賞を受賞した。極一部を取り上げるにとどめるが、1881年(明治14年)に開かれた第2回内国勧業博覧会では名誉金牌を、1883年(明治16年)のアムステルダム万博と1885年(明治18年)のロンドン万博では金牌を、1889年(明治22年)に開催されたパリ万博では名誉大賞を受賞している[要出典]。
1887年(明治20年)にはアーレンス商会と同じく尾張七宝の職人達を擁していた名古屋の大日本七宝製造会社の東京分工場も買収した[要出典]。
1896年(明治29年)6月30日にはその優れた創意と技術が認められ帝室技芸員に任命された。七宝の分野で帝室技芸員に任命されたのは濤川と並河靖之の2人だけである[要出典]。苗字の読みが同じ2人は国内で「東京の濤川、京都の並河」と称され、その名声は海外の美術愛好家にも知られていた[要出典]。
作品の特徴 ─無線七宝─

濤川惣助の銀製透胎七宝(1900, ウォルターズ美術館)
濤川の作品の特徴は無線七宝という革新的な技法を採用していることである。従来の有線七宝の製作においては釉薬を挿す際の色の間仕切り兼図柄の輪郭線として金線や銀線を利用していて、これが作品の図柄を引き立てる役割も担っていた。一方、無線七宝では最終的に釉薬を焼き付ける前の段階で敢えて植線を取り外している。これにより図柄の輪郭線がなくなり、それぞれの釉薬の境界で釉薬が微妙に混ざり合うことで微妙な色彩のグラデーションが生まれ、写実的で立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能になっている。また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝を使い分けることによって、遠近感や水面に映る影を表現することにも成功している[要出典]。
作品の図柄には日本画的なものが多く、柔らかな無線七宝の表現と調和するためか乳白色等の淡い色彩の地のものが多い。また宮内省から多くの作品の注文を受けており、明治天皇から外国要人へ送られた贈答品の花瓶には十六八重表菊紋がデザインされている[要出典]。
濤川が手がけた代表作には、宮内省から製作を依頼された赤坂迎賓館(当時は東宮御所)の花鳥の間の壁面を飾る『七宝花鳥図三十額』(渡辺省亭原画)がある。なお、依頼にあたっては並河靖之も候補に挙がったが、無線七宝の作品の表現が花鳥の間の雰囲気と合うという理由で濤川が選考されている。2009年には『七宝花鳥図三十額』も含めた赤坂迎賓館が国宝に指定されている。もうひとつの代表作が1893年のシカゴ万博に出展して高い評価を得た『七宝富嶽図額』(東京国立博物館蔵)で、2011年に重要文化財に指定されている。
花瓶や小箱等の濤川の七宝作品の多くは輸出用や海外要人への贈答用に作られたため国内にはあまり残っていなかったが、現在では明治期の工芸品の買い戻しと収蔵に力を入れている清水三年坂美術館等で見ることが出来る[要出典]。
万年自鳴鐘と濤川惣助

万年自鳴鐘
江戸時代の機械式の置時計の傑作として有名な、万年自鳴鐘(万年時計)の七宝台座は濤川惣助の作である[要出典]。
1851年に田中久重が、万年自鳴鐘を完成させた当時は、台座の六面はブリキ製で七宝の装飾は施されてはいなかった。初代久重の没後、1884年に二代目久重の依頼により大修理が行われ、このとき六角形の台座の側面六面に七宝の装飾が施された。修理を終えた万年自鳴鐘は、我国初めての時の記念日にあたる1920年(大正9年)6月10日に、お茶の水の東京教育博物館で開催された「時の博覧会」に出品された。
六面には、それぞれ日本画で、岩礁、波、草木などとともに、亀、鶏、太鼓、兎といった動物が描かれており、現在は東京の国立科学博物館で見ることができる。2004年には、国立科学博物館と東芝の共同で、万年時計の復元・複製プロジェクトが発足し、七宝台座などの装飾を含めた複製品を完成させている。複製品は東芝未来科学館で見ることができる[要出典]。

京友禅(きょうゆうぜん)とは、京都の伝統工芸品の1つで、元禄時代に扇絵師の宮崎友禅斎によって考案された染色。絹織物の白布に絵をかき、染め出したもので、鴨川の流れでさらし、鮮やかな色彩を出していたが、最近は郊外に移転している。
また単に「友禅染」とも呼ばれる。

技法
本格的な手描き友禅の場合、完成までに26もの工程を踏む大変手間のかかるものとなるため、現在は型染めや捺染が主流。
ツユクサの花弁から抽出した「青花」と呼ばれる色素で柄の部分に下絵を描き、輪郭を墨で描く要領で細い筒に入った防染剤を生地に載せていく。かつてはモチ米とヌカで作った糊を使っていたが現在はゴム糊なども使う、又「青花」も化学合成で作られたタイプもある。その後でフノリの煮汁等を使い防染の糊を生地になじませる地入れを行い乾燥させる。その後、引き切り・ボカシなど糊以外の部分の染色を行い、乾燥後に「蒸し」と呼ばれる高温の水蒸気で染料を布地に固着させる作業を行なう。その後、防染の糊を水で洗い流し、乾燥後、柄絵の部分に色を手書きで挿す(手書き友禅)。防染の糊そのものに染料を混ぜて布地に着色する工法もある。 下絵として描いた「青花」であるがツユクサ由来の色素は絹糸と反応せず水で防染の糊を洗い流した時に一緒に流れ落ちてしまう。化学合成の「青花」は「蒸し」の工程で高温の水蒸気と反応して色が消える。

日本刺繍(にほんししゅう)とは絹糸を両手を使って刺していく刺繍のことをいう。

概要

手作業の日本刺繍による家紋
主に着物や帯、相撲の化粧廻し、日本人形に用いられている。古くは甲冑などに施されている。
日本刺繍は生産地によって呼び名が変わり、京都では京繍、江戸(東京)では江戸刺繍、加賀(金沢)では加賀繍と呼ばれる。また、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」では経済産業省が認定する伝統工芸は国から指定によって保護や援助を受けているが、日本刺繍の中では「京繍」と「加賀繍」が指定されている。
現在、市販されている着物や帯に施されているもののほとんどは機械刺繍であり、手作業による日本刺繍はとても貴重で珍しい。

歴史
日本刺繍の原点は約西暦500年にインドから中国のシルクロードを渡って伝えられた「繍仏」にある。繍仏とは仏像を刺繍によって表現する技法である。日本で特に繍仏が広まったのは寺や仏像が盛んに作られた推古天皇の時代であり、日本でも繍仏の製作が広く行われるようになった。日本で現存している最古の繍仏としては「天寿国曼荼羅繍帳」があげられ、今でも奈良県の中宮寺に保管されている。文献上で最初に登場する繍仏は西暦605年日本書紀に「飛鳥寺に安置する銅・繍の丈六の仏像をそれぞれ造らせる」と記載がある。
平安時代には貴族の衣服の装飾や、雅楽の衣装に活用され、桃山時代には芸能装束に用いられた。江戸時代には小袖や打掛、寺社装飾の打敷に需要が多く、また刺繍の掛袱紗は嫁入り道具に欠かせず、安定した注文があった。明治から昭和初期にかけては、外国向けに非常に質が高い刺繍絵画作品数多く制作され、外貨獲得に貢献した。

用具

日本刺繍で使われる絹糸は釜糸と呼ばれる。これは4〜12本の細い絹糸の束で、撚りがかかっていない。通常は釜糸複数本に撚り(=ねじり)をかけて使うが、デザインによっては釜糸のまま用いることもある。撚りをかけることにより絹糸の本来持つ光沢を生かし、縒りの強弱によって光の反射を加減し繊細な模様を表現していく。また、複数の色を組み合わせることで微細な色合いを表現することが出来る。

糸を通す穴の部分が平たく、針先が鋭いのが特徴。近代以降は手打ちと機械打ちのものが存在している。名称は太いものから順に、大太・中太・相中・相細・天細・切付・大太である。
刺繍台
反物を張るための、専用の木製の台を用いる。左右の辺を挟んだ後、上下の辺を糸で縫い止めて、布地を固定する。近年では、小さいものであればフランス刺繍等に用いる木枠をテーブルに固定して行なうこともある。

日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。
刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣のことを指す。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。

概説
著名な日本刀には、日本国国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、豊臣秀吉の愛刀「一期一振」、「天下五剣」と称される5つの名刀(国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」、重要文化財「数珠丸」、御物「鬼丸国綱」)などがある。詳しくは日本刀一覧を参照されたい。
古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多い。しかし失われてしまった刀も多く存在する。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また武家に関するものとして挙げられることもある。 その特徴は、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることが特徴である。

「日本刀」という呼称
「日本刀」は元来、日本国外からみた場合の呼称[注 1]である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。また、木刀・竹刀・模擬刀(ステンレス製で刃落としされているもの)に対置して「真剣」と呼ばれることもある。
「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽脩の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。日本刀の美しさが、平安時代後期 – 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。
「日本刀」という名称は日本国外の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった

概説
著名な日本刀には、日本国国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、豊臣秀吉の愛刀「一期一振」、「天下五剣」と称される5つの名刀(国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」、重要文化財「数珠丸」、御物「鬼丸国綱」)などがある。詳しくは日本刀一覧を参照されたい。
古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多い。しかし失われてしまった刀も多く存在する。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また武家に関するものとして挙げられることもある。 その特徴は、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることが特徴である。
「日本刀」という呼称[編集]
「日本刀」は元来、日本国外からみた場合の呼称[注 1]である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。また、木刀・竹刀・模擬刀(ステンレス製で刃落としされているもの)に対置して「真剣」と呼ばれることもある。
「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽脩の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。日本刀の美しさが、平安時代後期 – 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。
「日本刀」という名称は日本国外の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった
歴史[編集]
日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因により、変貌を続けてきた。
上古から湾刀の出現まで[編集]

大刀(たち)を佩用する聖徳太子。黒漆塗の鞘に山形金物と長金具が付いた大刀を帯取と佩緒で下げている。
日本では独自に青銅製の刀剣類が生産されていたが、古墳時代以前にはすでに鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。例えば、古事記に登場し古代天皇の三種の神器とされ、そのなかの一つ草那芸之大刀がそれであり、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳(現古代出雲王陵の丘の一部)からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。
7 – 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていたが、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。
平安時代初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、鞍馬寺の「黒漆剣(くろうるしのつるぎ)」や清水寺 (加東市)の「騒速(そはや)」が現存している。特に清水寺の大刀は切刃造の1口の他に鋒両刃造の2口があり、いずれも鎬筋がやや中央により浅い反りがあることに特色があり、奈良時代末期から平安時代中期にかけて直刀から弯刀へと変遷する過程のものとして極めて資料的価値が高い。しかし作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていない。おそらくは奥州に住んでいた蝦夷の技術の影響を受け[1]、直刀片刃に角度をつけた蕨手刀(彎曲刀)や、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、毛抜形刀、毛抜形を経て、反りのある日本刀に変化していった[1]。反りがつくことで引き切りに適した武器となり[1]、特に騎馬戦で使いやすくなった[2]。刃金となる硬鉄を炭素含有量のことなる地金で巻き鍛造する製刀法は蕨手刀より見られるようになる。[要出典]
また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。
平安時代[編集]

稲荷山 小鍛冶。刀匠・宗近が稲荷の使いに相づちを打たせ、小狐丸という名刀を作り上げた。
平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。
平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛冶には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派の包平の大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。
鎌倉時代[編集]
鎌倉時代は武士の台頭とともに諸国で争乱が生じ、それに伴い日本刀の需要が急激に高まり[3]、後鳥羽上皇による御番鍛冶制度の創設で刀工に対して積極的に作刀を奨励したこともあり、日本刀の黄金期を迎えた[4]。

伝源頼朝像。毛抜形太刀を佩刀している。
鎌倉時代初期[編集]
鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく[5]。源頼朝の没後、源氏の三代目の源実朝でその政権が途絶え、代わりに北条氏が実権を掌握したが、この変動に乗じて後鳥羽天皇は自らの朝威を回復しようとした[5]。土御門天皇に位を譲った後鳥羽上皇は院政を行い、熱心な愛刀家であったため日本刀の鑑定にも詳しく、自らも焼刃を施したといわれる[5]。『正和銘尽』[注 2]によると後鳥羽上皇は月ごとに山城・備前・備中などから刀工を召して鍛刀させ[5][4]、番鍛冶制度の影響で日本刀を代表する名刀がこの時代に多数生まれた[4]。
鎌倉初期の日本刀は、平安後期にみられる初期日本刀の上品さを思わせる姿から、鎌倉中期に確立された豪壮な造りに移行する過渡期にあった[4][6]。反りに関しては、平安後期のような鎺金(はばきがね)のある部位から勢いがついて曲がるような形状から、鎺元の上あたりに反りの中心がくるような上品な立ち姿へと変化していった[4]。また、切先は小切先に分類されるが、この時期になると一回り大きくなり、それに伴い元身幅と先身幅の間が小さくなっていった[4]。この時期の日本刀を代表する刀工の栗田口久國の地金にみられるように、肌がよくつんで微細な地沸が良く付いたきれいな地金が造られるようになった[7]。刃文も美麗な小丁子乱がみられるようになり[7]、華麗な見栄えに加えた勇渾な作品が目立つようになってきた[6]。
同時代の著名な刀工としては、備前国の末古備前派の正恒・延房・吉包、同国の古一文字派の則宗・助宗・助則、同国の福岡一文字派の延房・宗吉・助包、山城国の粟田口派の國友・久國・國安、大和国の古千手院派の行信・重弘、陸奥国の舞草派、出羽国の月山派、伯耆国の安鋼派、備中国の古青江派の守次・恒次・康次・貞次・助次・家次・正恒、豊後国の定秀派、薩摩国の古波平派の行安などが存在する[7][8][9]。
鎌倉時代中期[編集]
鎌倉幕府は承久の乱で後鳥羽上皇と争い、「御成敗式目」の制定により武士の全国支配を確固たるものにさせ、必然的に鎌倉が武家文化の中心地となっていった[10]。こうした変化に伴い武士が用いる武器の需要がますます高まり、それに応じて山城国の栗田口国網、備前の三郎國宗や福岡一文字助眞はじめとする刀工一族が鎌倉に集まった[10]。承久の乱で敗れた際に隠岐島に流された後鳥羽上皇は、そこでも刀を制作したとされ、後世に菊御作を残した[11]。こういった事実はこの時代の世相をよく物語るものとなっている[11]。また、この時代の寺院の権力化に伴う僧侶の武装化も刀剣界に影響を与えている[11]。大和国では寺院お抱えの刀工群が生じたが、寺院が公家や武家以外の一大勢力へ変化していくのに伴い、刀工の各流派はしだいに各宗派の影響力がある地域へと移住し、そのことによって寺社と刀工流派は双方に影響を及ぼすようになった[11]。寺社権力の強大化を恐れた幕府は六波羅探題を通して、1228年に高野山の僧徒などに武装を禁止する命令を下し、また、1235年に再び禁止令を徹底しようと試みたがいずれも失敗し、この時代の流れに逆らうことはできなかった[11]。
鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる[10][12]。鎌鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている[10][12]。剛健な武家文化の特徴をよく表した強さが刀にも反映され、鎌倉初期に見られた傾向がより顕著になっていき、堅牢な武具を断ち切ることが可能なように造り込みが変化していった[10]。反りに関しては前時代のものと比べると浅くなっており、鎌倉末期から南北朝期の作品に特徴的な中間に反りがくるような姿になる過渡期にあった[10][13]。地鉄は全般的に多様化しており[10]、備前鍛冶の作にみられるように匂出来で映りが雲煙のごとくたなびくものが多くあらわれるようになった[10][13]。また、一文字派の吉用の例では、地景と映りが断続的にあらわれ、第二の刃文が確認できるように地は変化に富む[14]。この時期の刃文は歴史上、最も美しく華やかなものとされ、備前と山城の作にみられるような大房丁子乱れが多く流行した[10]。
この時期の短刀の特徴としては、反りがないか(刺刀:さすが)、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる筍造:たけのこづくり)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある[12]。この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる[15]。
同時期の著名な刀工としては、備前国の福岡一文字派の吉房・吉平・吉用・吉宗・吉家・吉包・助眞・助依・則包、同国片山一文字の則房、同国備前三郎派の國宗・國貞、同国古長船の光忠・長光、山城国の栗田口派の國綱・有國・國清・則國・國吉・吉光、同国の来派の國行・國俊、同国綾小路派の定利、大和国の千手院の力王・金王、備中国の古青江派の守次・助次・俊次・包次、周防国の仁王派の清綱・清久、薩摩国古波平派の家安などが存在する[15][9]。
鎌倉時代末期[編集]
また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近国綱、備前国から福岡一文字派の助真、国宗派の国宗、京伝、大和伝の流れを汲む新藤五国光などと言われている。特に新藤五国光は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には行光、国広がおり、行光の弟子に越中則重、岡崎五郎入道正宗が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。
山城・大和・備前・美濃・相模の5か国の作刀方式を「五箇伝」という。これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。五箇伝は桃山 – 江戸時代にかけて刀剣研磨・鑑定を生業とした本阿弥一族が整理した区分であり、大正 – 昭和初期にかけて本阿弥光遜が体系的に整理した。
鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。
古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道正宗は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、新藤五国光が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにもかかわらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。
南北朝時代[編集]
政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。
室町以降[編集]
室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。
(室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってくる。なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。)

太刀:備前長船祐定(青貝螺鈿拵)。室町時代の太刀。
平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。そして、応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、足軽など農民兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これら「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、氏貞などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われる。
南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。
江戸以降[編集]
刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。
刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。新刀の祖は埋忠明寿と言われており、その弟子に肥前国忠吉がいる。
備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。
江戸時代に入り、風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。
江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、島原の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重・上総介兼重・大和守安定・法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。
交易の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口忠綱一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。また、元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りともに優れている。
刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の反映に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。
幕末動乱期[編集]

江戸期の脇差(東京国立博物館所蔵)
黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。
新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が『新刀弁疑』という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大坂新刀の井上真改、津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛冶と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、たどり着くことはなかった。これは今日でも同様である。勤皇の志士は勤皇刀を使用した。
正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた。
正秀一派が活躍する一方で、信州に鬼才が生まれる。はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。彼こそ、江戸期を代表する刀工となった源清麿である。私生活に問題があり、長州に隠遁したり、鍛刀せずに大酒を飲み、当時の著名刀工固山宗次と飲み比べ合戦を行ったエピソードは有名である。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。
水戸勤皇派による天狗党の乱、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と尊王攘夷派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。
明治から第二次世界大戦[編集]

帝国陸軍の軍旗のもと、将校は軍刀で、下士官兵は銃剣を着剣した小銃で戦う模様を描いた錦絵(日清戦争・平壌の戦い)
明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布され大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、月山貞一、宮本包則の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。

歩兵連隊長を筆頭に、連隊長(将校)は日本刀を仕込んだ両手握りサーベル拵えの明治19年制式刀、左後方の本部附見習士官・下士官は日本刀風拵えの九五式軍刀、他の一般下士官兵は着剣した三八式歩兵銃で軍旗の敬礼を行う姿(日中戦争・南京攻略戦)
創設されてまもない日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告によって将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した(なお、同布告では野戦や常勤時に使用するこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も採用されている(のち廃止)。様式はサーベルではなくエペ)。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと満州事変や第一次上海事変における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式(三十二年式軍刀)であった下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身(九五式軍刀)が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。
日本軍において下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の建軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」であった(軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達であるため、官製のものを購入していても「私物」であった)(「軍服 (大日本帝国陸軍)」および「軍服 (大日本帝国海軍)」参照)。

九五式軍刀(官給軍刀)。鞘を除く拵え自体は日本古来の太刀をイメージしながらも実戦に特化した全金属製となる。刀身も実戦に特化した陸軍造兵廠製の日本刀
従来の日本刀は北方の極寒の中では簡単に折れるため強度に対して、また海軍からは錆に対する不満が高まっていたため満州事変以後、陸海軍の工廠、帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によってはとして従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあった。軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(試行錯誤の初期や、余裕の無くなる第二次世界大戦末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における戦場という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要がある。鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外である。これらは陸海軍の将校に、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀の刀身として支給・実戦投入され、第二次大戦終戦まで大量に使用された。
将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用された。広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する(「軍刀#刀身」参照)。
本来の「戦う日本刀」「戦いの武器としての日本刀」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は「完成された日本刀」となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く(特殊軍刀々身においても、関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた刀身も開発されている)、今日では製造方法の上からも狭義の日本刀の範疇には含まれないことにはなっている。しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっている。
第二次世界大戦後[編集]

居合道
太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀(こがたな)としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。
一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。日本刀自体には登録が義務付けられており、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要がある。所持(携帯、持ち歩き)に関しては銃刀法による制限を受けるが、所有(自宅に保管し眺めて楽しむこと)については許可などは必要なく、誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している所はある)。なお、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要である。
今日では日本刀は武器ではなく、居合道・抜刀道といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝、重要文化財、重要美術品に指定されたものもある。日本刀は独自の鍛錬による、さまざまな刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品であり、その価値を知るには、特色をよく理解しなくてならない。日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として使われず、千年以上の時を経ても健全な形で残っていることも多い。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。
日本刀の製法[編集]
「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるため、日本刀の原材料となる鋼の製法、選定、刀剣の鍛錬には、古来より多くの刀工が工夫している。今日においては、古くから伝わる卸鉄(おろしがね。鉄材を再還元して刀剣用に供する鋼を造ること)や自家製鉄した鋼を用いる刀工もおり、日本固有の伝統技術として継承されている。
なお、中世以前の日本刀の製作方法や使用原料については史料がなく不明であり、現在の伝統的な日本刀の製作方法は江戸時代以降の記録に基づくものである[16]。人間国宝(重要無形文化財保持者)の刀工であり、長年自家製鉄に取り組んでいた天田昭次は、古刀と新刀の地鉄には決定的な違いがあると言い、古刀期の作刀の原料や鍛法は判然としないとする[17]。鎌倉時代の名刀の材料や製作法については、いまだ研究途上にある[18]。江戸時代末期以来、刀工やさまざまな分野の専門家が研究を続けているが、古刀の実物から試料を取って分析することが不可能なこともあり、鎌倉期の名刀を再現するまでには至っていないといわれていた[19]。しかし2014年に河内國平が、日本美術刀剣保存協会主催の「新作名刀展」に出展した「國平河内守國助(くにひらかわちのかみくにすけ)」で、現在の原料では不可能といわれていた古刀の特徴である地紋の「乱れ映り」の再現に完全に成功し、刀剣界の最高賞と言われる「正宗賞」(太刀・刀の部門)を受賞した[20]。太刀・刀の部門は長らく「該当なし」であり、18年ぶりの受賞であった。これにより乱れ映りのメカニズムが解明されほぼ100%再現できるようになった。河内によると、受賞刀は一般的な作刀法で作られた刀と比べて地鉄が柔らかく、刃紋を美しく見せる芸術品ではなく武器としての強靭さを重視して焼入れの仕方を変えたことが成功に繋がったという[21][22][23]。
古刀期以降の刀工が主たる原材料としてきたものは、砂鉄を原料としたたたら吹きによって製造される「玉鋼」と呼ばれる鋼である。玉鋼の名称は古来のものではなく、明治時代半ば以降に命名されたもので、もとは島根県の安来製鋼所で製造し、陸軍、海軍に坩堝の材料として納入していた鋼の商品名であった[24][25]。分析から、鋼の質については鎌倉時代を頂点にそれ以降低下し始めるという現象が起こっており、一因としてどこかで鋼を作る製法に変化があった可能性について述べられることもある[26]。 上古刀に関しては、鉱石系箱形炉という鉄鉱石を原材料にした小型の炉が用いられていたことが判明している。 以下の説明は、現代刀工によって行われている一般的な製作方法である[27]。
質の高い鋼の作成[編集]
たたら吹き
日本刀の材料となる鋼を和鋼(わこう)もしくは玉鋼(たまはがね)と呼ぶ。玉鋼は日本独自の製鋼法である「たたら吹き」で造られる。諸外国の鉄鉱石を原料とする製鋼法とは異なり、原料に砂鉄を用いることで低温で高速還元を実現し、さらには近代的な製鋼法に比べて不純物の少ない砂鉄を原料として使うため、良質の鋼を得ることができる[28]。
水減し
熱した玉鋼を鎚(つち)で叩き、薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷すると、余分な炭素が入っている部分が剥落ちる。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。
積沸かし
この焼きを入れて硬くした塊はへし金(へしがね)と呼ばれ、鎚で叩いて小さな鉄片に砕く。その破片の中から炭素分の多い硬い鉄と少ない軟らかい鉄に分け、これらの鉄片を別々に「てこ」と呼ばれる鍛錬用の道具の先に積み上げて和紙でくるむ。周囲に藁灰を付けさらに粘土汁をかけて火床(ほど)に入れ表面の粘土が溶けるくらい加熱する。藁灰(プラント・オパール由来の珪酸分)と粘土の珪酸分が加熱によってガラス様に熔解して鋼の接着面の表面を覆い、鉄の酸化皮膜(酸化鉄(II)および酸化鉄(II,III))形成を阻害することで鋼の焼減りすることを防ぐ(※溶けた珪酸による酸化皮膜防止は同様の現象を利用して後述の鍛接の際に鋼の圧着にも用いられる。またいずれの鍛接の際にも融けたガラス状になった珪酸分は叩き出されて鋼の外に飛び散り、鋼間の結晶同士は圧着される)。小槌で叩いて6×9cmくらいに固める。鉄片が足りなければ、さらに積み上げ加熱して小槌で叩いて成形し所要の1.8-2.0kg程度の量にする。以上が「積沸かし」の工程である。玉鋼以外に炭素量の多い銑鉄と包丁鉄と呼ばれる純鉄も積沸かしと次の下鍛えの作業を行なう。
鍛錬(下鍛え)
赤熱したブロックを鎚(つち)で叩き伸ばしては中央に折り目を入れて折り重ねる「折り返し鍛練」を縦横方向で繰り返し行う。ちなみに刀匠(横座)と弟子(先手)が交互に刀身を鎚で叩いていく「向こう槌」が「相槌を打つ」という言葉の語源となった。この段階では5-6回程度の折り返しが行なわれる。
鋼の組合せ[編集]
積沸かし
玉鋼、銑鉄、包丁鉄の3種類の下鍛えが済めば再び小槌で叩いて鉄片にし、それぞれの鋼の配合が適切になるように選んで、1回目の積沸かしと同じく積み上げて溶かし固める。この段階で含有炭素量が異なる心金(しんがね)、棟金(むねがね)、刃金(はのかね)、側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられる。
鍛錬(上鍛え)
心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。叩き延ばした鋼を折り返しながら鍛錬を重ねることで、硫黄などの不純物や余分な炭素、非金属介在物を追い出し、数千層にも及ぶ均質で強靭な鋼へと仕上がっていく。
鍛接と沸延べ

日本刀の鋼の構成と各部名称(四方詰鍛えの断面)
造込みには他にも、本三枚鍛え、捲り鍛え、甲伏せ鍛え、無垢鍛えがある。(参考画像(英語))
下鍛えと2回目の積沸かし、上鍛えによって心金、棟金、刃金、側金の4種類の鋼が得られた後、棟金、心金、刃金の3層を鍛接して厚さ20mm、幅40mm、長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて、芯金と同じ長さの側金が2本作られる。
(四方詰鍛えの造込みでは、)側金、芯金、側金の順で重ねられ、沸かして鍛接されて、厚さ15mm、幅30mm、長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて、刀の握り部分になる「茎(なかご)」が沸かされ鍛接される。
素延べ
刀の形に打ち延ばす「素延べ(すのべ)」を行い、先端を3角に切り落とすがそのままでは刃先側に棟金や心金が現れるため、とがった先を背の側に打ち曲げて硬い刃金だけが刃の側に来るようにする[29]。ここでの姿が最終的な日本刀の完成形を決めるため、慎重に小槌で叩き形を整えていく。
火造り
刀身の棟は三角になるように叩いて、刃の側(平地)は薄くなるように叩き延ばす。茎の棟を叩いて丸みを付け、最後に「鎬地(しのぎち)」を叩いて姿を整える。刀身全体をあずき色まで低く加熱し除冷する。
空締め
冷えてから表面の黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、平地と鎬地を小槌で叩いて冷間加工を行なう。棟と刃の直線を修正して、銛(せん:銑とも)と呼ばれる鉄を削る押切りの刃のような大振りの手押しかんなで凹凸を削る。この段階で「刃渡り」と「区(まち)」が定まる。
生砥ぎ
かんなの削り跡を砥石で砥ぎ落とす「生砥ぎ(なまとぎ)」を行なう。その後、水を含む藁灰で油脂分を落とし乾燥させる。
温度管理[編集]
土置き
加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼入れ」の準備として、平地用、刃紋用(刃文用)、鎬地用の3種類の焼場土(やきばつち)を刀身に盛る「土置き」を行なう。一般的には平地に平地用の焼場土を均一に薄く塗り、刃紋に筆で刃紋用焼場土を描く。最後に刃紋から棟までを鎬地用焼場土を厚く盛る。鎬地の焼場土を厚くすることで、焼入れでの急冷時に刃側はすばやく冷やされ十分に焼きが入り、棟の側は比較的緩慢に冷えるために焼きはそれほど入らなくなる。逆に波紋の部分だけに土を置き、土を置いた部分の気泡の発生を抑えて刃先だけを急冷し、しのぎの部分は自然発生する気泡で緩慢に冷却する方法や、全く土を置かずに刃の薄くなった部分が先に冷えること利用した焼き入れの仕方なども存在する。焼きによって容積が膨張しながら硬くなり、日本刀独特の刃側が出っ張った湾曲を生む。棟の側は膨張が少なく硬度より靭性に富んだ鋼となり硬いが脆い刃側の鋼を支える機能を担う。
焼入れ
通常、刀匠は焼入れの時には作業場の照明を暗くして、鋼の温度をその光加減で判断する。土置きした刀身を火床に深く入れ、先から元まで全体をむらなく800℃程度にまで加熱する。加熱の温度は最も重要であり、細心の注意を払って最適の加熱状態を見極め、一気に刀身を水槽に沈め急冷する。刀身は前述の通り水の中で反りを生じ、十分な冷却の後に引き上げられ、荒砥石で研がれ焼刃が確認される。
焼入れにより、刀の表面にはマルテンサイトと呼ばれる非常に固い組織が現れる。マルテンサイトの入り方によって、肉眼で地鉄の表面に刃文が丸い粒子状に見えるものを錵(にえ)または沸(にえ)と呼び、1つ1つの粒子が見分けられず細かい白い線状に見えるものを匂(におい)と区別する。
ちなみに冷却水の温度は10度から30度程度、油の場合は60度から80度程度である。
他の刃物類では、水以外にも油などで焼きを入れることあり、日本刀の場合では戦中の軍刀などで行われたが、現在では油で日本刀に焼きを入れることは少ないと思われる。油で焼きを入れると急冷しないため刃切れなどの失敗は少ないが、水焼きよりも柔軟性のある鋼組織となる場合が多い。また、匂い出来となることが殆どである。ただしこれは焼き入れの技術に大きく左右される問題で、冷却剤の撹拌度合いによっては、油焼きで水焼きよりも硬く焼く事は可能である。斬れ味は別(居合道を別とすれば現代社会で刃物として使う機会は無いに等しい)としても、刃文に冴えを出せず美術工芸品を志向する現代刀には不向きだからである[30]。なお、文部科学省の定める現代日本刀の定義は水焼きであるので、油焼きは銃刀法違法となる。
合い取り
これは焼戻しの工程で、炉の火の上で時間をかけて刀身を150度程度に熱する。これにより焼入れにより組成変化した鋼を安定化させ、靭性などが強化され刃こぼれなどの防止に役立つ。 反りは横方向にも少し生じるので木の台で小槌を使い修正する。なかごも焼きなまして形を整える。
場合によってはこの後、熱した銅の塊で刀身をはさみ、棟焼きを取るなどの作業をする場合もある。
仕上げ[編集]
鍛冶押し(かじおし)
焼き入れを終了させた刀の反り具合を修正し、刀工が荒削りをする。この時に細かな疵や、肉の付き具合、地刃の姿を確かめながら最終的な調整を行う。
茎仕立て
茎(なかご)は銑ややすりで形を整え、柄(つか)をはめる時に使用する目釘穴を普通は1つ、居合用の刀の場合2つ以上開ける。この後に刀工独自の鑢目(やすりめ、滑り止め目的)を加える。
樋掻き
樋(ひ)をいれる物はここで入れる。
下地研(したじとぎ)
地金と刃紋を主に砥石で研ぐ。
銘切り
刀工は最後に鑿(たがね)を使い、自らの名前や居住地、制作年などを茎に銘を切る。一般的に表(太刀や刀を身に付けた際、外側になる面)に刀工名や居住地を切り、裏に制作年や所持者名などを切ることが多いが、裏銘や無銘など例外もある。
仕上研(しあげとぎ)
地金と刃紋を研ぎ、磨き棒で鏡面加工する。帽子を「なるめ」加工する。
刀工が行う一通りの作業が終わり、これからは研師により最終的な研ぎを行うが、室町時代以前は刀工自ら研磨も行っていたといわれる。日本刀研磨で、他の刃物砥ぎと大きく相異する点としては、刃物としての切れ味を前提としつつ、工芸品としての日本刀の美的要素を引き出すことを主眼としている点、刃部のみで無く、刀身全体に砥ぎを施すことなどがあげられる。鞘師によりその刀に見合った鞘を作成することになる。日本刀は刀工だけが造るものではなく、研師や鞘師、塗師、蒔絵師、金工師、白銀師などの職人によって初めて完成するものである[31]。それぞれの職人は、大きく以下の部分を担当する。
刀工(とうこう):刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。
研師(とぎし):刀身の研ぎを行う。
鞘師(さやし):鞘の作成を行う。
白銀師(しろがねし):はばきや鍔などの金属部分を作成する。
柄巻師(つかまきし):柄部分に紐を巻く。
塗師(ぬりし)、蒔絵師(まきえし)、金工師(きんこうし):鞘や鍔などに装飾を施す。
日本刀の研磨[編集]
日本刀の研磨に関しては、日本刀研磨 を参照。
各部名称[編集]

各部の名称
日本刀は、まず本体である刀身とその外装品である拵え(こしらえ)に分けられ、拵えは鞘(さや)、柄(つか)、鍔(鐔、つば)の各部に分けられる。部位および形状は右図を参照。
柄頭(つかがしら)/頭(かしら)
鮫肌(さめはだ)
柄糸(つかいと)/柄巻(つかまき)
目釘(めくぎ)
茎(なかご)
柄(つか)
目貫(めぬき)
縁(ふち)
鍔(鐔、つば)
切羽(せっぱ)
ハバキ
棟(むね)/峰(みね)/背(せ)
刃紋(はもん)
樋(ひ)/棒樋(ぼうひ)
長さ(ながさ)
反り(そり)
鎬(しのぎ)
鎬地(しのぎじ)
地(じ)/平地(ひらじ)
刃(は)
横手(よこて)
切先/鋒(きっさき)
頭金(かしらがね)
巻止(まきどめ)
鯉口(こいぐち)
栗形(くりがた)
鵐目(しとどめ)
下緒(さげお)
鞘(さや)
小尻/鐺(こじり)
ものうち
刃先(はさき)
帽子(ぼうし)
刀身[編集]
日本刀の多くは片刃であり、刃のない側は棟(むね)または峰(みね)、また刃と棟の間の膨らんだ部分を鎬(しのぎ)と呼ぶ。鎬地と棟の間には樋(ひ)と呼ばれる溝が両面にそれぞれ1本または2本掘られるものがある。重量軽減しながら強度を保つ工夫であるが、実際は鎬地の傷隠しのために後世になってから彫るものが圧倒的に多い。また、鎬を高く棟を卸した作り込みが大和伝の特徴(棟を盗むという)で、これも樋と同じ目的となっている。大和伝以外では、戦国期に長船與三左衛門祐定と和泉守兼定が棟を盗む造りの名人であり、実用刀として珍重された。
刀身のうち柄(つか)に収まる部分を茎(なかご)、茎を柄に固定する棒状のものを目釘、それを通す孔を目釘孔(めくぎあな)と呼ぶ。茎には鋼の平鑢(ひらやすり)を丁寧にかけ(鑢目の種類は後述)、刃区(はまち)、棟区(むねまち)を整える。茎棟には流儀によって丸棟(まるむね)、角棟(かくむね)がある。さらに茎の尻を鑢で仕上げ、最後に目釘孔を設け銘を切る。古来、茎の鑢がけは柄から抜けにくくするためとされたが、江戸時代においては美観と贋物防止が目的となる。
一般的に日本刀を鑑賞するときには、刃文と地鉄に注目することが多い。刃文を構成する匂い口の様子や刃中の働き、鍛錬して鍛えた地鉄中の働き、鉄色の冴えを見る。さらに深く鑑賞、もしくは鑑定する場合は、茎を手に持ち垂直に立て、まず姿を見、作刀時代の検討をつける。続いて、各々の時代特色が刀身に現れているか鉄色、匂口の雰囲気、そして特に切先である帽子の出来から観察し、鑑賞する。最後に茎の具合を手のひらの感触、錆の具合、目釘孔の状態、鑢目、茎尻、茎棟の仕上げ状態、そして銘があれば銘を鏨切りの方向からも観察し、文字通り撫で回すように鑑賞する[32]。
鞘[編集]
鞘(さや)は、刀身に擦り傷が付かないように軟質な朴(ほお)の木を、加工後の反りを防ぐために10年以上寝かして使う。刀身を差し入れる方を「鯉口」(こいくち)、逆の側を「小尻」または「鐺」(こじり)と呼ぶ。鐺の端には鐺金具と呼ばれる保護具が付くことがある。腰に刀を差したとき、鞘の体に接する側を「差裏」(さしうら)、外に面した側を「差表」(さしおもて)と呼ぶ[33]。差表の腰にくるあたりには角や金属製の「栗形」(くりがた)と呼ばれる装置があり、ここに下緒(さげお)を通して帯からの脱落を防止する。また栗形の鐺よりには「返り角」(かえりづの)、「逆角」(さかづの)、「折金」(おりがね)と呼ばれる突起部品が付けられる場合もあり、刀身を抜く時に鞘ごと抜けないようにこの部分を帯に引っ掛ける。さらに「笄」(こうがい)という、整髪などに使う小さなへら状の装身具を収納するために、主に鞘の鯉口近くの指表に「笄櫃」(こうがいびつ)と呼ばれる溝が設けられることもある[31]。
鞘は塗り加工などが行なわれて完成すると、内部の汚れは容易に除けなくなる。これを避けるために鞘の内部に別の小さな鞘を入れた「入子鞘」(いりこざや)と呼ばれるものがあり、2枚に分割可能な構造をしている。
親指を鍔にかけて鞘から少し押し出す所作を「鯉口を切る」という。
柄[編集]


柄(つか)は茎(なかご)を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。多くは木製で、その上に鮫皮を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐を巻く。
柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘孔と呼ぶ。目釘には主に煤竹という燻上した肉厚の竹が用いられる。目釘には真竹が最適であり、100年以上寝かせたものが最適であると言われている。また、目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。さらに、柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。
鍔(鐔)[編集]

刀の鍔
日本刀は刀身と拵え(こしらえ=外装品)を別々に分けることができるが、ハバキや切羽(せっぱ=鍔に添える金具)などで鍔は刀身に固定されている。
日本刀の種類[編集]
時代による分類[編集]
上古刀
通常日本刀の分類に入らない、古刀以前の刀をさす。直刀が主であるが、大刀などにはそりが見られるものがある。
古刀
狭義の日本刀が制作されてから、慶長(1596-1615年)以前の日本刀をさす。室町中期以前は、太刀が主である。
末古刀
室町時代末期、応永以降の概ね戦国時代頃の古刀を、「末古刀」と呼び、区別することがある。「数打ち」の粗製濫造品が多い。
新古境
安土桃山時代 – 江戸最初期頃の、古刀から新刀への過渡期をこう呼んで区別することがある。慶長 – 元和の頭文字を取り、「慶元新刀」とも呼ばれる。
新刀
慶長以降の刀をさす。この時期の日本刀は、さらに「慶長新刀」「寛文新刀」「元禄新刀」に分類される。
新々刀
「水心子正秀が提唱した古刀の鍛錬法」を用い制作された刀などの諸説あるが、新刀の内でも明和年間(1764-1772年)以降の日本刀をさす。
幕末刀
新々刀の内でも幕末頃に作成されたもの。
復古刀
江戸時代後期に鎌倉時代などの古名刀を手本として製作されたもの[31]。
現代刀
これも諸説あるが明治9年(1876年)の廃刀令以降に作刀された刀剣をさすことが多い。
昭和刀
主に軍刀向けとして作られた刀をさす。美術刀剣としての日本刀の分類から除外されることが多いが、昭和に製作された刀の全てを指すわけではない。製法は様々であるが、本鍛錬刀でないものは原則的に教育委員会の登録審査に通らず、公安委員会の所持許可が必要となる。しかしながら、必ずしも厳密なものではなく明らかに鍛錬刀とは見られない特殊刀身であっても登録が通っているものや、特例として戦後間もなくは遺品などとして登録証の交付を受けているものも数多くある。
形状による分類[編集]

形状による分類
剣(けん、つるぎ)
外国からの影響を受けず日本古来の型もこれ。刀身に反りがなく、切っ先から刃区および棟区まで完全に両刃となっている造りのもの。実用とされていたのは古墳時代の頃までであるが、装飾用もしくは儀礼用、仏教法具としてその後の時代でも作刀されている(数は少ないが現代物も存在する)。
なお、現行の銃刀法では「剣」として登録できるものは、日本の刀剣として古来よりの伝来が確かなもの、もしくは日本で玉鋼を用いて古式に則り作刀されたものに限られており、国外で製作された剣(例えば、中世ヨーロッパ製のブロードソード)は「剣」として登録できず、それらを日本国内で個人が合法的に所持することは基本的に不可能である。
直刀(ちょくとう)
「大刀(たち)」とも呼ばれる反りのない刀身の作りで、奈良時代頃までの「刀」とはこれを指す。平造りもしくは切刃造りが一般的だが、刀身の先端もしくは刀身の半ばまで両刃となっているものも多くある。前述のように刀身には反りがつかないが僅かに内反りとなっているものも存在する。
直刀に対し平安時代より一般的となった刀身に反りのある刀を「彎刀・弯刀・湾刀(わんとう、まがりがたな)」と呼ぶ。
小烏丸太刀(こがらすまる たち)
鋒両刃造(きっさきもろはづくり、ほうりょうじんづくり)と呼ばれる刀身の造りで、皇室に伝来した際の逸話から特に「小烏丸作り」と呼ばれる。刃区から物打辺りまで鎬造り(しのぎづくり)であるが、切先から刀身の半ばほどまでが両刃となっている。反りは緩やかで浅い。直刀から湾刀への過渡期の存在と見られ、日本刀の変遷を示す例とされる。
毛抜形太刀(けぬきがた たち)
茎(なかご)が柄(つか)の役割を兼ねている太刀。柄に茎を差し込んで目釘で固定する一般的な日本刀とは違い、茎部分に装飾を施して直接「柄」として用いる。名の由来は、柄に毛抜型の透かしが施されていることによる。直刀から湾刀への過渡期に存在したもので、蝦夷の用いていた蕨手刀の影響を受けていると考えられている。
太刀(たち)
戦国時代頃までの一般的な刀。「打刀」は刃を上にし帯に差して携行するのに対し、太刀は刃を下にして吊るして携行する(これを「佩く(はく)」と呼ぶ)、それに伴い拵(外装)も異なる。また、打刀と比べると刀身の反りが深いものが多い。また、打刀はあまり刀身の幅に変化がないのに対して、太刀は鍔元は太く切先は細いという形状が多く見られる。なお、現代の分類では刃長60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「太刀」として造られたものでも「脇差」と呼ぶ。
大太刀(おおだち、おおたち)
長大な刀身を持つ刀。野太刀とも呼ばれる。現代の分類では、刃長が90cm以上のものを指す。腰に差す(佩く)には長すぎるため、背負うか担ぐかして携帯された。通常のように立ち会いで使うものではなく、合戦の際に馬上から下にいる足軽などを叩き斬るために使われ、刃の半ほどまで紐や布を巻いて薙刀のように使う例もあったと伝わる。また、神社仏閣への奉納用としても用いられた。
小太刀(こだち)
刀身の短い太刀。現代の分類では「脇差」との区別は特にされておらず、刃長30cm以上60cm未満のもので刃を下にして佩く刀剣を指すが、古来は2尺(60.06cm)前後の全長の短い太刀のことをこう呼んだ。「小太刀」という呼称、定義については諸説あり、現在でもはっきりとは定まっていない。
刺刀
鎌倉時代、徒歩の兵士たちの主要武器が薙刀であった頃に、薙刀が使えなくなった時に用いられた刀。役割的には脇差と同じであるが脇差しより反りが少ないか内反りのものである。刺突に重点をおいた小武器で、やがて長くなり打刀へと発展する。また刺殺武器としての刺刀は、反りがなく重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)鎧通しに発展した。
打刀(うちがたな、うちかたな)
室町時代頃より登場した、反りのある刀身を持ち、刃を上にし帯に差して携行する刀。江戸時代以降一般的な「刀」となる。現代の日本では、単純に「刀」や「日本刀」と言った場合、打刀を指すことが多い。現代の分類では、切っ先から棟区までの直線で測った長さ(「刃長」)が60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「脇差」と呼ぶ[34]。
脇差(わきざし)
刀身の短い打刀、または太刀。現代の分類では、脇差は刃長30cm以上60cm未満のものを指す。江戸時代には長さに応じて大脇差(1尺7寸前後)、中脇差(1尺4寸前後)、小脇差、もしくは喰出し(はみだし)(1尺2寸未満)の言葉があてられた。
短刀(たんとう)
元々は全長1尺‐1尺2寸(約30-36cm)以下の刀で、現代の分類では、刃長30cm未満のものをいう[35]。「合口」や「匕首(あいくち)」も短刀の別名である。刃長が1尺(約30cm)以上あるが、反りがほとんどなく、鎬のない平造りの刀身形状を持ものは「寸延短刀(すんのびたんとう)」と呼ばれ、現代の分類でも「短刀」に分類されることが多い。
鎧通し(よろいどおし)
身幅が狭く重ねが極端に厚く、寸の短い刃長7寸(約21cm)前後で身幅7分(約2.1cm)前後の短刀で、組討ち時にとっさに抜き鎧の隙間を狙うためのもの。合戦では右腰に指すことから「馬手指し(めてざし)」とも呼ばれる。古来より有名なのが粟田口藤四郎吉光の名物「厚(あつし)藤四郎」(東京国立博物館蔵、国宝)で、重ねは約1.1cm。尾張徳川家伝来徳川美術館収蔵の室町期の平安城長吉の作は重ねが約1.7cm。両者とも刃長は7寸前後だが、茎が長く、4寸前後あり、柄なしでも握りやすい肉置きとなっているのが特徴である。新々刀期に入ると時代情勢を反映してか重ねの厚い短刀が再出現するが、古作の如く、全体の姿が手馴れていないが、源清麿が鍛えた左文字写しの作は同時代を代表する鎧通し造りと言われている。鎧通しは広く知られている割に、重ねの定義も様々で、重ねが3分以上ある短刀ですら遺作が少ない。時代の姿およびその刀工の一般的な作風から逸脱する傾向があるため、刀工鑑定が困難である。また、入念作であるが元来無銘の鎧通しの名品もあり、基本的に一騎打ちを行う侍大将クラスの特注品だったと考えられる。
長巻(ながまき)
ほぼ刀身と同じ長さの柄を持つ大太刀。大太刀の柄を延長して取り回し易くした「中巻き」から発展したもの。長巻と中巻きの違いは、最初から茎を長く作ってあるか、通常の茎の長さの大太刀の柄を延長して長くしたものか、の違い。正倉院の収蔵品に原型らしき長柄武器が残されている。
長巻直し
長巻を基にして刀に造り変えたもの。基となったものをどう造り変えたかにより刃渡り3尺(約90cm)の「大太刀」から2尺(約60cm)以下の「脇差」まで様々なものがあるが、基となった長巻の刀身形状から、先反りから中反りで「鵜の首造り」もしくは「冠落造り」の刀身形状になっているものが多い。また、鎬造りの刀の如く、横手を引き、切先をナルメて帽子を作ってあるのが特徴である。
薙刀(なぎなた)
切ることを主たる攻撃方法とする刀に対して、薙刀は薙ぎ払うことを目的とした武器である[35]。打刀や太刀の様に湾曲した刀身を持つ、長柄の武器。「長刀(ながなた)」とも表記される。
薙刀直し
薙刀を基にして刀に造り変えたもの。薙刀の刀身形状から、先反りで「鵜の首造り」もしくは「菖蒲造り」の刀身形状になっているものが多い。薙刀は刀や太刀に比べると刃渡りが比較的短いため、茎を切り詰めて脇差や短刀に仕立てたものが多い。横手は引かず、帽子は作らない。
長巻や薙刀を造り変えて「刀」としたものではなく、作刀時から長巻直しもしくは薙刀直しであるかのような形状として造られた刀もあり、それらは「長巻直し造り(ながまきなおしつくり)」「薙刀直し造り(なぎなたなおしつくり)」と呼ばれる。これらは新々刀期に見られる。
仕込み刀(しこみがたな)
様々なものに刀身を仕込み、刀であることを偽装した隠し武器。主に杖・煙管・扇子といった日用品などに偽装したものと、他の武器に小さな刀身を仕込み二段構えの武器としたものの2種類がある。
外装を杖に模したものは特に「仕込杖」と呼ばれる。
槍(やり)
短い刃と長柄を持つ代表的な長柄武器。突きに特化するために両刃の刀身を持ち[35]、折れにくいように分厚く造られ、中には刃の断面がほぼ正三角形のものも存在する。刀と違い中世の合戦まで頻繁に使用された。刀身の形状により、剣形(両鎬(りょうしのぎ)、平三角(ひらさんかく)、笹穂(ささほ)、十文字(じゅうもんじ)、片鎌(かたかま)、短刀形の菊地槍などがあり、直槍(ちょくそう)系と十文字槍(じゅうもんじやり)系に大別される。刀身長が1尺(約30cm)を超えるものは、「大身槍(おおみやり)」と呼ばれる。本多忠勝の愛槍蜻蛉切は。姿端正な大身の笹穂槍である。また、2尺(約60cm)以上の刀身長のものも現存しており、日本号は黒田節に謳われている。
厳密には「刀」とは分類されないが、槍の茎を短く切り詰めて短刀や脇差の拵えとされたものも存在する。特に幕末の勤皇の志士は、南北朝時代の南朝の忠勤の士であった九州の菊池一族にあやかろうと、菊地槍を磨り上げ、その指料とした。
斬れ味による分類[編集]
刀剣の大業物(おおわざもの)や業物(わざもの)という表現は、切れ味による分類である。文化12年(1815年)、公儀介錯人の山田浅右衛門が多数の刀を集めて試し斬りを行い、切れ味により刀工ごとに刀を最上大業物、大業物、良業物、業物に分類し、結果を『懐宝剣尺』という書物にまとめて公表した。詳細は刀剣の業物一覧を参照。
造り込みの分類[編集]

造り込みによる分類
鎬造り(本造り)
ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られている。上記の写真もこの造り込みである。切刃造りが進化してできたと思われる。
片鎬造り
片面が鎬造り、片面が平造りでできている。南北朝期の濃州鍛冶、兼氏の重要文化財指定の刀が遺作として著名である。
平造り
短刀や小脇差によくある造り込み[36]。鎬がないもの[36]。古墳時代や奈良時代に作られた反りがない直刀は平造りになっており上古刀と呼ばれる[36]。鎌倉中期の刀工、粟田口国吉の「鳴狐」と号のある打刀が著名である。国宝に指定されている、春日大社の菱作腰刀の刀身は、焼き直しであるが、鎌倉時代をくだらない古作の打刀として知られる。平造りの打刀も室町時代中期から末期の間にごく少数見られる。
切刃造り
鎬線がより刃先の方にある造り込み[36]。上古刀期から見られる[36]。南北朝期においては、貞宗の作と伝えられている名物の「切刃貞宗」が有名で、同時代前後の刀工に見られる造り(主に短刀)である。以来、慶長年間においては新刀の祖と言われる埋忠明寿を始めとし、特に越前康継の切刃貞宗写しは多数作られている。また、幕末において、各国の刀工に写し物が見られる。
切先双刃造り・鋒両刃造り・切先両刃造り・鋒双刃造り(きっさきもろはづくり)、小烏造り(こからすづくり)
切先に近い部分のみが、剣のように両刃になっているもの[37]。特に、小烏造りは刀身の2分の1以上が両刃になった擬似刀と呼ばれる剣の造りを指す。現存する刀では小烏丸がこの造り込みでできている。新々刀期の刀工、明治期の刀工が写しを作刀している。
菖蒲造り
鎬造りに横手を取り除いた形の造り込み[37]。形状が菖蒲の葉に酷似しているのが、この名前の由来である。この造り込みは鎌倉時代中期から始まり、主に脇指や短刀に見られるが[37]、室町時代中期から末期の間に備前鍛冶や美濃鍛冶にたまに2尺を越えた打刀が見られる。
鵜の首造り
鋒から少し下だったところから途中まで、棟の側肉が落とされているもの。鵜の首のように細くなっていることが、この名前の由来である。
冠落造り
鋒に向かって棟の側肉が落とされているもの。一般的に薙刀樋を付けたものが多く、短刀によく見られる。
両刃造り(もろはづくり)
鎬を境にして双方に刃が付いており、鋒が上に向いているもの[37]。室町時代中期以後の短刀に見られる[37]。7寸前後の懐刀が多く、まれに両刃造りの長刀も存在するが、両者とも直ぐに廃れた。古刀期では末備前の勝光・宗光兄弟の作が比較的多く現存し、新々刀期においては各地で見られる。
おそらく造り
横手の位置が通常の鎬造りと違い大きく茎の方によっており、鋒が刀身の半分から3分の2を占めているもの[37]。短刀や脇差に見られる[37]。この名称の発端については諸説あり、室町末期の刀工、 島田助宗の短刀にこの造りがあり[37]、その刀身に「おそらく」(恐ろしきものという意味)と彫ってあったのでこの名がついたと言う説が主流だが[37]、「恐らく他に存在するまい」という意味である、という説もある。
鋸刃造り(のこばづくり、のこぎりばづくり)
峰の部分が鋸になっているもの。船上で刀として使う他にもやい綱などの船具を切るための道具として用いられたもので、阿波水軍で多く用いられた。阿波国の郷土刀である「海部刀」にはこの鋸刃造りの刀身を持つ脇差や短刀が多くあり、現在でも幾振りが現存している。
反りの種類[編集]
一般的に時代が降るにつれ、腰から先へ反りの中心が移動していく傾向になっている[38]。
腰反り(こしぞり)
反りの中心が鋒と棟区の中心より下の方に位置するもの[38]。焼き入れの関係上、鎬造りの刀には必ず腰反りがつく。棟側にあたかも倒れるような腰反りは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての太刀に見られる。
中反り(なかぞり)、華表反り(とりいぞり)
反りの中心が鋒と棟区のほぼ中心に位置するもので、鳥居の笠木から由来する[38]。鎌倉時代中期頃の山城伝、大和伝に見られる。
先反り(さきぞり)
物打ち付近から切先にかけて反りのついた姿を「先反りがつく」と表現する[38]。室町時代以降の片手打ちの刀[38]、また、五箇伝から外れた刀工の刀に見られる。
内反り(うちぞり)
一般的に棟に向かって反るものだが、その逆で刃に向かって反っているものをいう[38]。鎌倉時代の短刀・正倉院宝物の「刀子(とうす)」に見られる。然しながら短刀の場合、度々の日本刀研磨によって重ねの薄い切先部分のほうから研ぎ減り、内反りになることは知られており、むしろ内反りがつかない短刀程健全と言い得る。
踏ん張り(ふんばり)
厳密には反りではないが、反りを語る上で同時に用いられる表現なので記す。刃区(はまち)、棟区(むねまち)から2寸ほどの間で、刃、棟とも末広がりのような形状をしているもので(鎬地が緩やかに広くなる)、あたかも人が両足で踏ん張って立っている様子に似ていることから「踏ん張り」がある、と表現する。特に棟側の踏ん張りは重要で、研磨の際、損ないやすい。「踏ん張り」は、区送り(まちおくり)、磨上、度重なる研磨で失われるため、「踏ん張り」のある刀は見た目的にも安定感があるだけでなく保存状態が良い。生ぶ茎にのみ見られる。ハバキの収まりも良い。
鑢目の種類[編集]

鑢目と茎の形状の種類
鑢目(やすりめ)は柄から刀身を抜けにくくするために施される。 国、時代、流派により使われる鑢目が違うため、日本刀の鑑定でよく見られる。
切り(横、一文字)
勝手下り
勝手上り
左利きの刀鍛冶に特徴的な鑢目であるため、鑑定では大きなポイントになる。
筋違
大筋違
逆大筋違
鷹の羽(羊歯)
檜垣
化粧鑢
上記各鑢目に組み合わされる装飾である。新刀期の後半以降に見られるため、時代判別の際のポイントになる。
ならし(鏟)鑢
鋩子の種類[編集]

鋩子の種類
小丸(こまる)
小丸上がり
小丸下がり
一文字返り
横手上刃細し
大丸(おおまる)
焼き詰め
掃きかけ
乱れ込み
丁字乱れ込み
地蔵
火炎
一枚
沸崩れ
湾れ込み
突き上げ
切先の種類[編集]

切っ先による分類
かます切先
小切先
猪首切先
中切先
大切先
地肌による種類[編集]
杢目肌
大杢目肌
中杢目肌
小杢目肌
柾目肌
板目肌
大板目肌
小板目肌
綾杉肌(月山肌)
松皮肌
則重肌
ひじき肌
梨子地肌
小糠肌
縮緬肌
無地肌
地刃の働きの種類[編集]
日本刀の地刃の働きは主に鋼を焼き入れした時に生じるマルテンサイトによって構成される。
沸(にえ)
マルテンサイトの粒子が大きいもの
匂い(におい)
マルテンサイトの粒子が小さいもの
沸と匂いの組み合わせによって以下の様々な働きが現象する。
映り(うつり)
地景(ちけい)
金筋(きんすじ)・金線(きんせん)
砂流し(すながし)
湯走り(ゆばしり)
足(あし)
葉(よう)
日本刀の多様な側面[編集]
日本刀の性能と力学的性質[編集]
日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」の材料工学においての強度と靭性の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。
日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。有名な逸話として、榊原鍵吉の同田貫一門の刀による「天覧兜割り」がある。ただし、この切れ味も最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす場合はともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業とされる。
日本刀のうち、江戸時代の打刀は、江戸幕府の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は大小を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなり、試し斬りが多々行われた[39]。刀剣は一般通念よりも軽く作られている。
以下は各地域発祥の刀剣との比較。なお、重量は全て抜き身の状態のもの。
打刀(日本):刃渡り70-80cmの場合 850-1400g程度(柄、鍔などを含める、抜き身の状態。刃渡り100cm程のものは、2,000g前後)
サーベル(世界各地):刃渡り70-100cmの場合 600-2,400g程度
シャスク(東ヨーロッパ):刃渡り80cm 900-1,100g程度
中国剣(中国):刃渡り70-100cmの場合 900-1,000g程度 (両手用、刃渡り100cmほどのものは3,000g程度以上)
以上は近代まで使われていた物である。日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではない。しかし、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。日本刀は、「断ち切る」ことに適した刀剣である。しかし、刀自体重量が軽いので切断する際手前にスライドさせて力の向きを切断物に対し直角からそらして加える必要がある。同じ理由により、「斬る」ために刀を砥ぐ際は、包丁のように、スライドさせる方向に砥ぎをかける(剣の扱いに似ている)。
日本刀の性能に言及されている史料[編集]
支那事変(日中戦争)中、日本軍将校2人が百人斬り競争を行ったという。将校の一方は自らの関の孫六について、56人の時点で刃こぼれが1つ、86人の時点で「まだ百人や二百人斬れるぞ」と言ったという(東京日日新聞1937年11月30日・同12月4日)。これについて「名誉毀損」として訴訟が起きており、「全くの虚偽であると認めることはできない」とされた高裁判決が確定している。ただし、この裁判自体は戦時報道の虚偽性に関するものであり、日本刀の性能に関しては判断されていない。判決自体も結局のところ「総合的には真実とも虚偽ともどちらとも言えない」というような曖昧なものである。[要出典]
刀工の成瀬関次は『戦ふ日本刀』(1940)で日本刀での47人斬り他複数の逸話や伝聞の信憑性を肯定的に述べている。秦によると、鵜野晋太郎という少尉が『ペンの陰謀』に、捕虜10人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を寄稿したという[注 3]。
戦史上の日本刀[編集]
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日本刀は元来、「断ち切る」ことに適した刀剣である。起源をさかのぼれば、古墳 – 奈良時代に、儀式用と実戦用とが区別され始めた時、「圭頭大刀(けいとうたち)」や「黒作大刀(くろづくりのたち)」は「断ち切る」専用だった。平安時代に「小烏」などが「切っ先諸刃作り」を採用して「突き刺す」ことにも適性を持っていたが、その後、太刀や打刀では、切っ先諸刃作りは排され、手首を利かせて「切る」ことに適するよう、湾曲している。一部の武芸者は、切先三寸が両刃となった刀を使用したが、これは例外である。
近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争[編集]
日本刀が日本史上の戦場でそれほど活躍しなかったと主張する書籍がある[40](山本七平、鈴木眞哉)。鈴木眞哉は、日本刀が普及していた理由は、首を切り落として首級をとるために必要不可欠な道具であったからだと結論づけている。しかし、そのような用途では脇差・短刀の類で十分であり、太刀・打刀のような大型の日本刀が普及した事の説明にならない。山本七平のものは、彼自身が戦時中に軍刀で死体を切ってみた感想に基づいた意見である。
日本刀不要物論において彼らが挙げた根拠は以下のもの。
南北朝~戦国時代における合戦における負傷理由のうち、刀傷は弓矢による傷より圧倒的に割合が低い。とする[41]。
刀剣は接近戦向きで、統制の維持されている集団が広い空間で戦う場合は長柄武器(槍・薙刀など)に対して不利だったこと[注 4]。
鎧や鎖帷子を着用した部位に対する斬撃は威力を減じる。
刀身と柄が一体でなく、その接合方法上強い打撃に耐えられない構造上の問題があること。それに比べて、長柄物は柄が木製である特性上刀よりも容易に毀損する。刃の薄いものは力を加える方向によっては容易に変形や毀損を来たし、日本刀の利点である切れ味が失われる。
高品質の銘刀や大型の野太刀は拵えるのに手間が掛かるため、量産化や兵士への支給ができなかったこと。
日本刀の草創期からすでに武士の主戦術は騎射だったこと。
日本人の間で広く剣術が盛んになったのは、平和な江戸時代に竹刀稽古が隆盛してからであったこと。
これに対して、以下の根拠から反論がなされている。
戦闘が経過し隊伍の乱れた状況での闘い、および夜襲や悪天候下など、長柄武器や飛び道具が有効でない状況において特に有効な武器であり、必要不可欠であった。
数打ちと呼ばれる量産品が生産されるようになり、足軽へ支給していたこと。
足軽は手足の露出した簡素な鎧だったり雑兵などは鎧なしの者もいるなど、鎧は全身を覆っていない。また、金属部分であっても最適な条件で斬りつけた場合は鎖帷子などでは切断されるし、鎧であっても多少なり斬り込まれる。
血糊や多少の刃毀れにより切れ味が失われても、殺傷力に大きな影響は生じない。鎧は打撃に若干弱い面があり、戦国期には刀を刃物付き鈍器として扱う戦い方もあったこと(戦国期の刀には蛤刃といって刀身を分厚くこしらえたものが存在する)。
精神性を重視されるようになるのは江戸時代以降であり、当時の様々な記録に残っている通り刀は実用品であった。
美術的価値のみが重視されたのは近代以降であり、当時において美術的価値を持ったのは極限られた銘刀でしかなかった。
必ずしも相手の首を刎ねたり胴を真っ二つにする必要はないということ。両手から繰り出す斬撃や刺突は、常に十分な殺傷力を有する。これを防げる鎧というものはかなりの重さになってしまうため、全身くまなく覆うのは非現実的であり、部分的にしか日本刀の斬撃を防げなかった。
騎射を行う騎馬武者にこそ、未使用時に腰に差しておける副武装としての日本刀が重要であった。そもそも日本刀はもともと騎馬武者用の太刀として発展した。そして騎射を行わない打物武者も、槍などの主武装が失われた時に備えて副武装の刀を携帯していた。
合戦手負注文や軍忠状といった古文書では矢傷が多いが、”生存者の負傷原因”はわかっても、おおむね”戦死者の死因”が不明である。[42][43]
合戦に刀が使用された理由[編集]
騎馬武者の武器として
反りのある日本刀は下から切り上げる事の多い馬上斬撃に適していた[要検証 – ノート]。平安時代から鎌倉時代等の戦では遠距離では和弓を放ち、近距離では持ち替えて戦うことがあったとされる。
予備の武器としての価値
武器は武人の蛮用により破損してしまうことが日常的にあり、予備の武器が必要である。古今東西、人は丸腰になることを恐れる。
自衛用の武器としての価値
白兵戦を専門し、長柄武器を持つ兵は一部である。それ以外の兵も自衛用の武器が必要とされ、主に刀を身につけていた。たとえば弓・鉄砲・石つぶてといった投射兵種、荷駄や黒鍬といった支援兵種など。
長柄武器を使用しづらい状況での使用
室内や山林など、長柄の武器の取り回しが悪い環境では刀に持ち替えて戦った。
槍の補助として乱戦での使用
日本の合戦は中世の弓や近世の鉄砲などといった遠距離兵器が主体であり、統制の取れている段階で槍などで闘い、乱戦になると日本刀が使われることが多かった。
合戦で使用された刀の中には、峯などに相手の刀などによる切り込み傷のあるものが多い。たとえば、名物石田正宗には、大きな切り込み傷が多数存在し、実戦で使用されたことを窺わせている。
敵将の首級を挙げる
槍などの刀以外の武器では、戦場の真っ只中で迅速に首を切り落とすのは、非常に困難であり、合戦では自らの功績を示すものが敵将の首級であったため、重要であった。
戦場外での日本刀[編集]
戦場外でも本差と脇差は携帯され、これは比較的扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)すぐれた護身用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。特にその優れた切れ味は、戦場用よりも護身用の武器としてより役立った。切り傷を負わせる事で相手の戦意を喪失させたり、出血多量で戦闘能力を失わせる事に効果があったと考えられる。ただし江戸時代等では緊急時以外は殆ど用いられることがなくなった為、使用機会は少なくなった。また苗字帯刀が許されることは名誉なことであることとされた。またあだ討ちなどにも日本刀は使われ、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。
日本刀の文化・宗教的側面[編集]
合戦、人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況には相応の覚悟が必要となる。それに際してに日本刀や神器としての精神的的要素、宗教的価値や美術的価値がある意味現実的な力として求められたとしても不思議ではない。戦乱の時代に作られた刀に所有者が信じる神仏の名や真言が彫り付けてある遺例が数多く存在することも当時の武士達の赤裸々な心情を窺わせて興味深い。
工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどのメタ情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知を実現しているためと思われる。

桶(おけ)とは、容器の一種である。 木製の桶とプラスチック製の桶が最も一般的である。

樽と桶の区別について
日本の樽と桶は良く似た形であるが、樽は胴体の材料として板目材の板を使用する。フタ付きの物を「樽」、フタ無しの物を「桶」と呼ぶと言う説もある。例外も多いが、酒樽などは保存のためフタが閉じられた状態が常であり、風呂桶はフタが開けられた状態で使用することが普通である。
桶の歴史

桶の製造風景を捉えた浮世絵(『冨嶽三十六景 尾州不二見原』葛飾北斎)
Kusakabe Kimbei – 302 Cooper.jpg
木で作る円筒形容器の最古の形態は、木の幹をくりぬいた「刳桶」で、古くは弥生時代の遺跡からも出土する。続いて「曲桶」が発明され、平安時代には一般に広まった。これは、「曲物」(まげもの)とも呼ばれ、薄い板を円状に曲げ接着されたものであった。当初は麻糸をしまうための笥として用いられたとも言われ、「麻笥」・「麻の笥」と書く古い表記も存在する。しかしこれらは強度的に弱く、またあまり大きなものは作れなかった。
中国から輸入された桶に影響を受け誕生したものが「結桶」(ゆいおけ)と呼ばれる、現在[いつ?]の木製の桶である。直径に合わせて湾曲した刃を持つ特殊な道具で割ったヒノキ・スギなどの細長い板を円状に並べ、竹などをらせん状に束ねた「箍」(たが)で結う結物構造となっており、接着剤等は使用しない。江戸時代には各家庭に必ずあるものになった。この桶は江戸時代の食料などの保存・運搬に多大な影響を与えた。
もともと「棺桶」は、このような製法による棺(座棺)をイメージした言葉であった。
現在[いつ?]日本では運搬や保存の用途で木製の桶が用いられる機会は減り、プラスチック容器にとって代わられた。現在日常的に用いられるのは風呂桶(バスタブ)や湯桶(ゆおけ。用途によっては洗面器とも)などである。広告媒体を兼ねて銭湯に置かれるケロリン桶が有名である。
また、楽器としてもパーカションの一種として使われ、檜製の湯桶を裏底を表にして棒等の支えを裏に取り付けて、パーカッションセットに組み込んでいる。裏底をドラムの様にドラムスティックで叩いて音を出す。たま (バンド)の石川浩司が演奏していた事で知られている。

蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金(ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿(らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。
日本国内に現存する最古の蒔絵資料は正倉院宝物の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)」の鞘に施された「末金鏤作(まっきんるさく)」であり、これは2009~2010年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学的な調査研究によって、研出蒔絵であることが確認されている。

蒔絵の起源
蒔絵の起源は、常に国内最古の資料である「金銀鈿荘唐大刀」と合わせて論じられてきた。
1878年、黒川真頼は「金銀鈿荘唐大刀」は渡来のものであるが、その技法「末金鏤」は「平塵」であって蒔絵ではないとし、蒔絵の起源を平安時代の日本の資料に求めた。
1932年、六角紫水は「末金鏤」を金属粉と漆をあらかじめ練り合わせたもので絵を描いた「練描」であって蒔絵ではないとし、黒川と同じく平安時代の日本の資料にその起源を求め、吉野富雄、松田権六らもこの説を支持した。
同じく1932年、吉野富雄はこれまで一般に「末金鏤」と技法名のように称されて使われていた、正倉院の献物帳「国家珍宝帳」に記載してある「鞘上末金鏤作」の表記を紐解いて、これは完成品を観察して「末金(金粉)を以って鏤して(散りばめて)作られたもの」という意味で記載したものであって、その製作技法を規定したものではないとし、「末金鏤」という技法はそもそも存在せず、渡来した「金銀鈿荘唐大刀」の装飾を実態のまま文字に起こした記号的な意味合いのものであるとした。また、正倉院の献物帳以外には「末金鏤」という現物も他の文献記述もないことから、勝手に「末金鏤」と略さず、原文のまま「末金鏤作」と用いるが正しいとしている。
このように明治から戦後頃までの論考では、「末金鏤作」が渡来品であることを認めつつも、「末金鏤作」が「蒔絵」ではないことを論拠として蒔絵の日本起源説が唱えられてきた。
1953~1955年の正倉院事務所の調査によって、吉野らとともに「金銀鈿荘唐大刀」の実物を目にした松田権六は1964年、「末金鏤はまさしく後のいわゆる蒔絵の技法になるもの」と判定し、これまで支持してきた六角の「末金鏤=練描」説を否定した。 その一方で、交流があり松田自身「蒔絵界の先覚」と尊敬していた吉野の「末金鏤という技法名は存在せず、末金鏤作とするが正しい」という説をも否定し、「末金鏤」を初期蒔絵の技法名とした。さらに、「末金鏤と中国ふうによばれているのは奈良時代には蒔絵という言葉が、まだ、できていなかった一証拠としてよい」として、「金銀鈿荘唐大刀」が日本で作られたものであることを示唆した。 その上で「この末金鏤すなわち蒔絵の技法は中国には今までのところみられないので、わが国でこのころ創始されて発達した」とし、日本起源説を維持した。
この松田による発表は、著書「うるしの話」が漆工芸界のベストセラーであったことも相まって、その後「末金鏤という初期の技法で作られた金銀鈿荘唐大刀が蒔絵の最初のもの」という説が広く浸透していくこととなる。
2002年、田川真千子は東大寺献物帳に記載されている単語やその類例を広く比較検証し、「金銀鈿荘唐大刀」の「末金鏤作」について、「末金鏤という技法名は存在せず、現物から観察的に記述したもの」として、吉野富雄と同様の結論に達している。

主な技法
研出蒔絵(とぎだしまきえ)
金粉や銀粉を蒔いた後に、器面全体に漆を塗りかぶせ、乾燥後に木炭で漆を研磨して下の蒔絵層を出す技法。研磨した後には、器の表面は平滑になる。正倉院宝物の金銀鈿荘唐大刀に見られる「末金鏤作」も研出蒔絵である。金銀粉の精製技術が未発達で、粉の粒子が荒かった平安時代までは、この技法が蒔絵の主流であった。
平蒔絵(ひらまきえ)
漆で文様を描き、金銀粉を蒔いた後に、文様の部分だけに摺り漆をして研磨したもの。器面全体を漆で塗り込めない点が研出蒔絵と異なる。この技法は平安時代後期から現われ、桃山時代の高台寺蒔絵などは平蒔絵が主たる技法となっている。
高蒔絵(たかまきえ)
文様部分の漆を盛り上げて浮き彫り状に表現したもの。
肉合蒔絵(ししあいまきえ)
高蒔絵と研出蒔絵を合わせた技法。文様の一部を浮き彫り状に盛り上げた上で、器面全体に漆を塗りかぶせ、木炭で研ぎ出す。研出蒔絵と異なり、研磨後、器の表面は平滑にならない。
卵殻蒔絵(らんかくまきえ)
色漆の中でも白色の漆は、蒔絵 中でも研出蒔絵等で使う場合、乾燥硬度が伴う白さが出せる色漆が現在でも困難で、白色の蒔絵の表現には、代わりとして卵殻の白色を用いる。卵殻(卵のカラ)を割り螺鈿の様に漆面に貼り、金銀粉と共に蒔絵に使う。模様に主として卵殻を多く使う蒔絵を卵殻蒔絵という。卵には、薄く繊細な表現に向いているためウズラの卵の殻をよく使用する。
スクリーン蒔絵(すくりーんまきえ)
大量生産が行われるようになり、従来の手書き蒔絵にかわる近代技法として登場した。シルクスクリーン技術を用いることにより、同じ柄を大量に短時間で描くことが可能となったが、金属粉を「蒔く」工程は今でも職人の手作業で行われる。漆の代わりにウレタン塗料などが用いられることも多く、使用する金属粉も伝統蒔絵で用いられるものとは異なる場合がある。
文化
文化財
片輪車蒔絵螺鈿手箱(かたわぐるままきえらでんてばこ) - 牛車車輪の乾燥防止として水に漬けた平安時代の風習を文様化して描いたものであり、平安時代を代表する漆工芸の名作工芸品である[8]。
蓬莱山蒔絵袈裟箱(ほうらいさんまきえけさばこ) - 平安後期(12世紀)の作品で、蓬莱山を背負う大亀と波上の鶴を配し、粉の蒔き方で構図に変化をつける意匠が特徴である。
俳諧
元禄元年(1688年)、松尾芭蕉の俳諧紀行記のひとつ更科紀行の本文と俳句に、蒔絵がみえる。
「いでや、月のあるじに酒ふるまはん」といへば、杯持ち出でたり。よの常に一めぐりも大きに見えて、ふつつかなる蒔絵をしたり。都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、思ひもかけぬ興に入りて、碧碗玉卮の心地せらるも所がらなり。
あの中に蒔絵書きたし宿の月 - 松尾芭蕉
流派
幸阿弥派
五十嵐派
古満派
羊遊斎派
石切可岸派
薬研堀派
川之辺派
植松派
赤塚派

和弓(わきゅう)は、日本の弓道・弓術およびそこで使用される長弓の弓のこと。全長は七尺三寸(約221cm)が標準とされている。「和弓」とは洋弓(アーチェリー)に対する語。古来は大弓(だいきゅう、おおゆみ)と呼ばれており、全長およそ2m以上のものを大弓、それ以外に半弓(六尺三寸)半弓より短いものも存在する。なお、和弓において、弓を製作する人のことを弓師(ちなみに矢を作る人は矢師、ゆがけを作る人はかけ師)、弓を射る人のことを弓士と呼び、音(おん)が同一のためか、しばしば混同されている。

特徴

大弓ともいう世界最大の弓、和弓
洋弓が全長160cm前後、弓の中心を把持しハンドル、リム等にパーツが別れている構造なのに対し、和弓は全長が標準で七尺三寸(約221cm)、下から3分の1、弓の中心から見て下部寄りを把持し(上長下短)下から上まで全長に渡ってひと繋がりの構造となっており、全長だけ見れば和弓は世界最大の弓である。
上長下短の構造は一見バランスが悪いように見えるが、握りの位置が丁度弓の震動の節にあたり、持ち手に来る振動が少ないという利点がある。また高度な技術ではあるが、上下の長さの差から来る弓の上下の反発力の違いを利用し、矢の飛び方に変化(飛距離を出す、鋭く飛ばす等)を付けることができる。
また一説では、弦を張った状態の弓を矢を番える位置で上下に分けると長さの比率が黄金比になると言われており、そのことも美しさの所以とされている。
弓は原則として左手に持ち、矢は弓の右側に番え(洋弓は左側)、右手に弽(ゆがけ)を挿して(はめて)引く。取り掛けは右手親指根辺りで弦を保持し、筈を人差し指根で抱え込むように保持する蒙古式を取る(洋弓は人差し指〜薬指で弦を保持する地中海式)。上から大きく引き下ろし、最終的に右手が右肩辺り、弦が耳の後ろに来るまで大きく引く。
なお弓本体の右側に矢をつがえて放つと言う構造上、そのまま矢を放てば矢は弓本体に阻まれ、狙いは右に逸れてしまう。このため発射時に左手の中で弓を反時計回りに素早く回転させることでそれを防ぐ[* 1]。これを「弓返り」(ゆがえり)と言う。また弓返りを行うことで弦が矢に接触している時間が長くなり、矢はより加速されるという。

特徴

大弓ともいう世界最大の弓、和弓
洋弓が全長160cm前後、弓の中心を把持しハンドル、リム等にパーツが別れている構造なのに対し、和弓は全長が標準で七尺三寸(約221cm)、下から3分の1、弓の中心から見て下部寄りを把持し(上長下短)下から上まで全長に渡ってひと繋がりの構造となっており、全長だけ見れば和弓は世界最大の弓である。
上長下短の構造は一見バランスが悪いように見えるが、握りの位置が丁度弓の震動の節にあたり、持ち手に来る振動が少ないという利点がある。また高度な技術ではあるが、上下の長さの差から来る弓の上下の反発力の違いを利用し、矢の飛び方に変化(飛距離を出す、鋭く飛ばす等)を付けることができる。
また一説では、弦を張った状態の弓を矢を番える位置で上下に分けると長さの比率が黄金比になると言われており、そのことも美しさの所以とされている。
弓は原則として左手に持ち、矢は弓の右側に番え(洋弓は左側)、右手に弽(ゆがけ)を挿して(はめて)引く。取り掛けは右手親指根辺りで弦を保持し、筈を人差し指根で抱え込むように保持する蒙古式を取る(洋弓は人差し指〜薬指で弦を保持する地中海式)。上から大きく引き下ろし、最終的に右手が右肩辺り、弦が耳の後ろに来るまで大きく引く。
なお弓本体の右側に矢をつがえて放つと言う構造上、そのまま矢を放てば矢は弓本体に阻まれ、狙いは右に逸れてしまう。このため発射時に左手の中で弓を反時計回りに素早く回転させることでそれを防ぐ[* 1]。これを「弓返り」(ゆがえり)と言う。また弓返りを行うことで弦が矢に接触している時間が長くなり、矢はより加速されるという。

定義
弓の全長は直線距離ではなく、弓の曲線に沿った長さを測る。すなわち、素材そのものが持つ長さである。標準とされている七尺三寸は「並寸(なみすん)」と言い、七尺五寸(約227cm)を「伸び寸(のびすん)」或は「二寸伸び(にすんのび)」、七尺七寸(約233cm)を「四寸伸び(よんすんのび)」、七尺(約212cm)を「三寸詰め(さんすんづめ)」あるいは「寸詰め(すんづめ)」としている。それぞれ射手の体格や身長から来る矢束の長さに適した長さの弓を選ぶ必要があり、一般的には矢束85cm程度までは並寸、90cm程度までは伸び寸、95cm程度までは四寸伸び、80cm以下で七尺とされている。
全日本弓道連盟では、「弓の長さは221cm(7尺3寸)を基準とし、射手の身長または競技の種類により若干の長短を認められる。…握りの位置は弓の上部から約3分の2のところにあることを要す。矢摺籐の長さは6cm以上。弓には照準のための装置や目印をしたり、類似のことをしてはならない。」としている。競技性を考慮した規定をある程度定めてはいるが、同時に「弓道の用具はまだ完全に均一化されていないため…また、用具の充分な性能発揮のためにも各個の工夫、愛着も必要である。それは伝統的な弓道理解のための一助ともなる…」として、先人が培って来た一律に定義付けできない和弓の多様性を一部で認めている。
実際の所、“握りの位置は弓の上部から約3分の2”とはあるが、実際の握りの位置は厳密に3分の2の位置にはなく、おおむね5分の3あたりにある。
威力
和弓は世界的に見ても大型の弓で、矢が長くて重いぶん射程などの面では不利になるが、武器としての威力は相当ある。「ナショナルジオグラフィックチャンネル」の番組「武士道と弓矢」の中で、ドロ-・ウェイト23kgの和弓と、同23kgのイギリスの長弓(ロングボウ)の威力を科学的に比較する実験を行い、高速度カメラで撮影して検証したところ、矢の速度は両者とも秒速34mで全く同じだが、和弓のほうが矢が長くて重いこと、和弓独特の射法のおかげで和弓から放たれた矢は安定して直進すること(イギリスの長弓から発射された矢は、飛行中、わずかに斜めに曲がる)などの理由により、威力は和弓が勝る、という結果になった。具体的には、人体の密度を再現した銃弾のテスト用のジェルのブロックを的として、矢が人間の体にどの深さまで刺さるか、矢の貫通力を比較したところ、イギリスの長弓の矢が25cmの深さまで刺さったのに対して、和弓の矢は30cm刺さった。
また筑波大学教授であり日本武道学会弓道専門分科会会長他を務める森俊男が2005年頃に行った実験では、全日本弓道連盟五段の人物の放った矢は15メートル先の水の入ったブリキのバケツ、厚さ9mmの木材3枚を貫通するなどし、空中に吊した厚さ1mmの鉄板を火花を散らせつつ数センチメートル射貫き、また厚さ1.6mmのフライパンをも2cm程度射貫く威力を見せた。この文献には弓および矢の性能諸元は明記されていないが、2005年現在の平均的な射手の場合、矢の初速は毎秒60メートル(時速216キロメートル)程度であると述べられている。
構造

弓を抱える武士たち。身の丈を超える弓の長大さが分かる。

弓で鹿を仕留める源経基を描いた『貞観殿月』(月岡芳年「月百姿」)

大山祇神社所蔵の中世和弓(鎌倉 – 南北朝時代、重要文化財)右より、赤漆塗重籐弓、黒漆塗二引重籐弓(正中二十一年針書銘)、塗籠所糸巻弓(貞治二年墨書銘)、吹寄籐弓、黒漆塗二引重糸巻弓、塗籠二引樺巻弓、塗籠重糸巻弓、塗籠匂糸巻弓(2張)
反り
和弓は全体的に滑らかな曲線を描くが、その独特の曲線で構成された弓の姿を成りと言う。弓に弦を張った状態での姿を張り顔・成り、充分に引いた時の弓の姿を引き成り、弦を外した状態では裏反りと呼び、それぞれ弓の性格や手入れする際に見る重要な要素である。
和弓は基本的に5つの成り場で構成される。下から小反り、大腰、胴、鳥打ち、姫反りと呼ばれ、5カ所それぞれの反発力の強弱バランスによって張り顔は成り立ち、また弓の性能を引き出している。弓の張り顔には江戸成り、尾州成り、紀州成り、京成り、薩摩成り等と呼ばれる産地毎の特徴や、それを作る弓師によってもそれぞれ特徴がある。また射手の好みや癖、材料の個体差から来る要因から弓の成りは一定ではなく、一張り毎に少しずつ張り顔は違う。
和弓は弦を手前に弓幹を向う手に見た時に上下真っ直ぐな直線ではなく、矢を番える辺りで弦が弓幹の右端辺りに位置するよう僅かに右に反らされている。この弦が弓の右端に位置する状態を入木(いりき)と呼び、矢を真っ直ぐ飛ばすために必要な反りとなっている。逆に弦が弓の左に来るような状態は出木(でき)と呼ばれ、これは故障の部類に入り調整が必要となる。
造り
伝統的な竹弓は基本的に三層構造をしており、弦側から内竹(うちだけ:前竹〔まえだけ〕ともいう)・中打ち(なかうち)・外竹(とだけ)と呼ばれ、中打ちを芯材に、内竹、外竹で前後から挟み合わせた形となっている。中打ちはさらにヒゴと呼ばれる黒く焦がした短冊状の竹を数本横並びに重ね合わせ、さらにその両脇を木で挟み込んでいる。完成品の弓の横脇には前竹、外竹に挟まれた形で木が見える形になり、この木を側木(そばき)と呼んでいる。 竹弓を製作する際、和弓独特の反りを出すために、接着剤を塗布した内竹、中打ち、外竹をそれぞれ重ね、全体を「藤蔓」で等間隔で巻いていき、そして紐と竹の間に竹製の楔を100〜200本前後打ち込みながら材料を圧着しつつ撓らせていくことで弓の反りを付ける(このため和弓を製作することを「弓を打つ」と表現される。弓を引いて矢を射ることは「弓を引く」または「引く」と言う)。
竹弓は引くことにより、中打ちを芯として外竹が引き延ばされ、内竹が圧縮され内外竹がスプリングのような働きをすることで弓としての反発力を得ており、側木や竹の性質、中打ちのヒゴの焦がし様やヒゴの数によって弓の性格が大きく変わってくる。このことから外竹は白色のまま、内竹は白〜色が付くほど、ヒゴは黒く焦げるほどに火を入れ、それぞれの部位に合わせた素材の性質を引き出しているのが一般的な竹弓である。弓力(弓の強さ)は、弓の厚みを薄く、または厚くすることで概ね調節される。
素材
竹弓の素材には一般的に真竹、黄櫨(ハゼノキ)がよく使われる。真竹は三年竹と呼ばれる芽が出てから2年〜3年目の竹を選び、さらにその中から節間、節の高さ、直径、曲がり等条件に合うものだけが選ばれる。竹の刈取りは秋〜冬に掛けて竹が一番乾燥している時期に行われる。刈り取った竹は、1年以上寝かされた後、火に掛け油脂分を拭き取り、弓の材料となる。中には真竹以外の竹をヒゴに使用したり、前竹に煤竹を使用したもの、紋竹、胡麻竹等の紋竹を主に鑑賞目的で使用したものもある。
黄櫨は堅く弾性に優れていることから側木に適した素材とされ、古くから使用されている。黄櫨以外にも 紫檀、黒檀等唐木を使用したものも数は少ないが存在する。黄櫨には稀に木肌に杢が出ることがあり、縄目杢、縮み杢、鳥眼杢、鶉杢等、基本的に華美な装飾を嫌う和弓の中で自然が魅せる美として映り、紋竹と合わせて珍重されている。しかし近年、国産の黄櫨は減少し既に入手が困難になりつつあり、将来的な資源の枯渇が懸念されている。
竹弓の素材には竹を張り合わせる接着剤も弓の性格を決める重要なファクターである。現在の主流は合成接着剤であるが、伝統的には弓独自に使われる膠(ニカワ)と呼ばれる鹿皮原料の膠が使われており、合成接着剤を使用した弓よりも手入れは難しいが引き味が柔らかい・寿命が長い、冴えが良い等とされる。また鰾膠を使用した弓はニベ弓と呼ばれ、上級者の間で珍重されている。
由来
和弓の全長は江戸期より七尺三寸(約221cm)が標準と定められているが、これは世界の弓の中でも最長の部類である。和弓がなぜこのように長大になり、また中間より下を把持するという独特の握り方をするようになったかは未だはっきりと解っていない。 推察されている理由を以下に挙げる。
日本で手に入れやすい素材が植物性のものであったこと。木や竹は撓らせ過ぎるとやがて破綻を生じ、また撓り癖も付くが、弓の全長を長く取ることで全体的なひずみ量を少なくし、より多くの矢数に耐えられるようにした。その結果耐久性と威力を求めて、現在の形になった。
上記理由に合わせ、古来の弓は木から削り出した単一素材であり、根元が下に、梢側が上に来るように弓を持つが、木素材の弾性率が梢側より根元の方が高いため、上下の撓りのバランスを取るために中間より下側を握るようになった。
戦時、歩兵は身を屈めながら、身分ある武士は騎乗で弓を引くため、下が長いと地面、或は馬に弓が当るため邪魔になる。そのため真ん中より下部を握るようになった。
日本では古来弓は神器として考えられており、畏敬の念や信仰により長大になっていったというものである。現在でも弓を使った神事は多く見られる。
和弓は何故長大になったか、とされるが、それでも長い歴史を見れば短くなっている。古墳時代には3mを超す弓も存在し、正倉院には2.4mに及ぶ弓も保存されている。また、鎌倉時代から江戸期までは七尺五寸が標準であった。
日本には古来より大弓と呼ばれる2mを超す長尺の弓から半弓に分類される短い弓等、長さ、武芸用途、遊戯用途、植物素材、動物素材、様々な弓があった。その中で最も威力があり武士に好まれたのが大弓で、大弓を用いた射術も発展し現在に至り、弓道として残った。つまり時代毎の用途や好みによる選択的な歴史淘汰の結果である。
弓の種類
原始の弓[縄文時代初期:紀元前1万3000年頃〜 ]
弓は人類史上、石鏃が発掘されていることから石器時代から存在することがわかっているが、日本では縄文時代からである。当時の弓は主に狩猟用途で使われており、狩猟生活するには欠かせない生活道具であった。弓は木(イヌガヤ)から削り出した単一素材で、補強のために樹皮や麻を巻き締め漆で固めた弓もしばしば見られる(考古学的にはこの時代の弓も「丸木弓」と呼称している)。漆塗りの弓には装飾が施されたものもあり、祭祀目的で使われていた形跡も見られる。ただしこの頃にはまだ長くても160cm程度のものが多く、また材質が木材であることから完全な形で発掘されることは極めて難しく、当時の弓の全体像はわかっていない。
丸木弓(まるきゆみ)[弥生時代:紀元前5世紀頃〜 ]
弥生時代に入ると人々の間で貧富の差が生まれ、やがて戦いが盛んになる。弓は狩猟目的の生活道具から殺傷目的の対人武器へと用いられるようになり、弓に対してより高い威力、飛距離を求めた改良が行わる。結果として全長2m以上の長尺、上長下短、下部寄りを把持するようになったと思われる。遺跡から発掘される土器に描かれている絵からも当時の弓の形が見て取れる。また、弦を掛ける弓の両端が弦を縛り付ける形から現代に通じるシンプルな凸型形状になり、弦の掛け外しが容易になっている。
魏志倭人伝の倭人に関する記述に「兵器は……木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている。」という一節がある。
兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

— 『三國志』魏書東夷傳倭人条

平安時代までは単一素材の丸木弓のままだが、時代が下るに従い形状が現代に通じる和弓の形に近づく。また、枕詞として和歌にも詠まれた「梓弓」のように、神事や儀式の鳴弦(弓の弦を打ち鳴らして穢れを祓うまじない。ゆみづるうち、鳴弦の儀)に弓が用いられるなど、単なる武器を超える精神的な意味を持つ道具となる。
(光源氏が供人を)召せば、御答へして起きたれば、(光源氏が)「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、(供人は)「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。

— 『源氏物語』 夕顔

伏竹弓(ふせたけゆみ)[平安中期:10世紀頃〜 ]
木と竹を張り合わせた合成弓が初めて登場する。より高い威力を求めて木を主材にした弓の外側に竹を張り合わせたシンプルな型である。また「武士」の誕生もこの頃。
三枚打弓(さんまいうちゆみ)[平安後期:12世紀頃〜 ]
木芯の前後に竹を張り合わせたもの。丸木、伏竹からくる発展的な作り。源平時代前後辺りか。
四方竹弓(しほうちくゆみ)[室町中期:15世紀 – 16世紀頃〜 ]
木芯に四方を竹で囲んだ作り。時代的には戦国時代に入る前後あたりか。
弓胎弓(ひごゆみ)[戦国時代後期 ]
これまで弓胎弓の完成を江戸初期とする説が有力だったが、小田原城跡から15~16世紀の漆塗り弓胎弓が出土したことから、戦国時代後期までに完成していたことが判明した。(詳細は構造欄参照)。江戸初期は通し矢競技が盛んに行われた。藩の威信を掛けた競技のため、弓、矢、弽(ゆがけ)の改良、開発が盛んに行われた。当時培われた技術が現代の弓具制作の礎となっていると言っても過言ではない。現在使われている弽(ゆがけ)の原型の発祥もこの頃のことかと思われる。
グラス弓(通称)[昭和46年〜 ]
江戸の老舗、小山弓具が木芯材にグラスファイバーを前後に挟んだ新素材の弓を発表。グラス弓の最大の特徴は量産が可能で耐久性が高く、手入れが非常に楽なことである。以降、カーボンファイバー製、ケプラー製等現代的な素材を使用した弓が次々と開発、工業的に生産するメーカーが現れる。これらは保守的な弓道家の間へも次第に浸透し、比較的安価で手入れが容易なことから現在では学生や初心者をはじめ、広く一般に使われるようになった。弓の素材で大別する為にグラスファイバー製の弓を「グラス弓」、カーボンファイバー製の弓を「カーボン弓」、伝統的な竹製の弓を「竹弓」等と呼称するようになる。
各部名称

各部名称
弭(はず)
弓の両端にある凸形状の弦をかける部分で、上に来る方を末弭(うらはず)、下に来る方を本弭(もとはず:「元弭」とも書く)と呼ぶ。由来は弓の下を竹の根元側、上を梢側に向けるため、上が末、下が本(元)となる事から。矢の筈(はず)と区別するため、弓弭(ゆはず)とも呼ばれる。
関板(せきいた)
弓の内側の上下端に10数cm〜20数cm程度、内竹を上下から塞き止め挟む形である。末弭側を上関板(うわせきいた)或は額木(ひたいぎ)、本弭側を下関板(しもせきいた)と呼ぶ。材質は側木にも使われる黄櫨が一般的だが、弓の性能に最も影響が少ない部分であるためか木材の選択範囲は比較的広く、鑑賞や好みで唐木、鉄刀木、黒柿等稀少な銘木が一部で好まれている。
切詰(きりつめ)
関板と内竹の境目を切詰と呼ぶ。補強の為切詰の上から数センチ程、幅2〜3mm程の細い籐を巻く。この籐を「切詰籐(きりつめどう)」あるいは「鏑籐(かぶらどう)」と呼び、上関板の方を「上切詰籐(かみきりつめどう)」、下関板の方を「下切詰籐(したきりつめどう)」と呼ぶ。
矢摺籐(やずりどう)
握りのすぐ上、握り革と接する形で巻かれる籐。一文字、面取籐、平籐、奴籐、杉成り、等籐の形状から数種類ある。矢が弓を擦らないよう保護のために巻かれるが、狙いの目安を付ける部分でもある。矢摺籐の最下段、矢が接する部分を「籐頭(とがしら)」と言い、また矢摺籐を巻く際はここから巻き始める。現在、試合等では弓道連盟の規定により6cm以上の高さが必要だが、かつては流派により巻き様式があった。
握り(にぎり)
「弣*弓へんに付(ゆづか)」「弓束(ゆづか)」とも。その名の通り、弓を握る部分。矢摺籐と接する形で握り革を巻く。手の内の当る重要な部分で、柔らかく吸湿性のある鹿革を巻く。
弦(つる)
弓の間に張った丈夫な紐或は糸状のもの。伝統的な麻弦は 麻・苧麻(カラムシ)等を原料に、繊維をこより薬練(くすね:「天鼠」とも書く)を塗る、若しくは染み込ませ補強したもの。弦の両端は弓に掛けるため弦環を作るが、環は独特な縛り方をする。現在はケプラー、ザイロン、アラミド繊維等の合成繊維製の弦が主流。近年アーチェリー用のストリングを和弓用に改良した弦も現れた。

節句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(「暦」も参照)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。日本の文化・風習。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)とも。

概要
この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。
「御節供」と呼ばれた節句料理はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていたが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。そして、今日では「おせち」として、正月三が日もしくは七日にかけての松の内の期間において食べるものを指すようになっている。ただ、今日でも人日の節句の七草粥など「節句料理」として残っているものがある。
節句に飾られる人形(雛人形、五月人形など)は、節句人形(せっくにんぎょう)とも称される。

房州うちわ(ぼうしゅううちわ)は、千葉県南房総市、館山市特産のうちわ。千葉県の伝統工芸の一つ。京うちわ(京都府京都市)、丸亀うちわ(香川県丸亀市とその周辺地域)と並ぶ日本三大うちわの一つである。

特徴
地域に自生する女竹(細い篠竹)を原料に用い、細く割いた骨と一体となった丸柄を特徴[1]とする。
全ての製作行程が手作業による。行程数が21と多いため、行程ごとに分業して製作する。
千葉県指定伝統的工芸品である。
経済産業大臣指定伝統的工芸品(千葉県では唯一の指定)である。

歴史
江戸時代、関東でうちわを生産するようになる。房州はうちわの材料の女竹の産地で那古港から江戸へ向けて女竹を出荷していた。
1877年(明治10年)ごろから那古港周辺(現在の館山市那古)でうちわの骨づくりがはじまる。
1923年(大正12年) – 関東大震災で被災した東京のうちわ問屋が那古港に近い船形地区(現在の館山市船形)へ移住し、房州でのうちわ生産が本格化する。
1984年(昭和59年) – 千葉県指定伝統的工芸品に認定される。
2003年(平成15年) – 経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定される。

琴(きん、こと)とは、日本の伝統楽器。日本で「こと」と呼ばれる楽器は、(1)琴(きん)、(2)箏(そう)、(3)和琴 (わごん)、(4) 一絃琴 (須磨琴)、(5) 二絃琴 (八雲琴) がある。
(1)琴(きん)と(2)箏(そう)は混同されることがあるが、両者の違いは、(1)琴は弦を押さえる場所で音程を決める(和琴は柱を使う)。(2)箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節する。いずれも、指にはめた爪(ピック)または指(あるいは手の爪)で弦を弾いて音を出す。

種類
七絃琴(古琴)
詳細は「古琴」を参照
一絃琴
モノコード系のシンプルな楽器であり、板琴、須磨琴などの別名がある。日本には江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧覚峰律師により世に広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流行し、土佐一絃琴と呼ばれた。
芦管(ろかん)という管をはめた左手の指で弦の勘所を抑え、右手の指にはめた爪で弾いて演奏する。初期の一絃琴は一枚板に弦を張った構造だったが、最近のものは箱状になっている。一絃琴のために作曲された曲を「本曲」といい、全体に緩やかな音楽が特徴である。
二絃琴
1820年に中山琴主が出雲大社への献納用楽器として考案したことから当初は出雲琴と呼ばれたが、代表曲「八雲曲」にちなんで八雲琴と呼称するようになった。初期は竹で作られたが、のちに杉や桐製となった。2本の弦は同律に調弦されることから、一絃琴から進化させたものと考えられる[2]。出雲、伊予、京阪地方で盛んになったが、現在は衰微している。
明治初期に二絃琴を発展改良させた東流二絃琴(あずまりゅうにげんきん)が開発され、東京で流行した端唄や俗謡の伴奏楽器として、明治中期まで盛んに用いられた[2]。
大正琴
大正時代に二絃琴をもとに開発された。
詳細は「大正琴」を参照
「こと」の由来
『古事記』などに「こと」を弾く場面がしばしば登場するように、本来「こと」は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。登呂遺跡など、各地の弥生時代の遺跡からすでに「こと」と思われる残片が見つかっており、また古墳時代の埴輪にも「こと」や「こと」を弾く人物をかたどったものがある。つまり、「こと」は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その「こと」は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に「こと」と呼ばれる箏が中国から渡来したのは、奈良時代のことである。
和琴とは別に、奈良時代に渡来した「琴」(きんのこと)は中国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器(古代日本では、人間が息を吹き込まねば演奏できない管楽器よりも高尚なものとされた。当時弦楽器はすべて「○○のこと」と呼び習わされる)の中でも重要視されていたらしい。平安時代の『うつほ物語』では琴の伝授が物語の主軸の一つであり、また『源氏物語』にも登場するが、醍醐天皇~村上天皇の治世がモデルと推測される作中世界においても「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに源氏物語に登場する奏者は、主人公で臣籍降下した皇子光源氏やその弟の蛍兵部卿宮・宇治八の宮、また源氏の妻の内親王女三宮とその子薫、常陸宮の娘末摘花、明石の御方(母が中務宮の孫)など、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
縄文琴
倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の2種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。出土例として、北海道小樽市忍路土場(おしょろどば)遺跡、滋賀県彦根市松原内湖遺跡、青森県八戸市是川遺跡などから、縄文時代後期から晩期にかけての縄文琴が出土している。ただし、弦の張り方や琴頭の形が弥生時代後期の琴と異なることから、縄文琴の伝統は途切れ、弥生時代から倭琴の新たな伝統は始まったものと考えられる。似たような楽器として、アイヌのトンコリがある。 3000年前の青森是川中居遺跡から出土した木製品は世界最古の弦楽器の可能性があり、 弥生時代の登呂遺跡などから出土した原始的な琴と似ていることから、日本の琴の原型ではないかと推測されている。
中世神話上における起源[
伊勢神道の書物『御鎮座本紀』には、「アメノウズメが天香具弓(あまのかぐゆみ)を並べて叩いたのが琴の始まり」と記述されており、中世神話上では、その起源を「女神が並べた弓から始まったもの」と解釈された(神道行事の寄絃の方も参照)。
琴という言葉
このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じ、「箏」の字が常用漢字で無いことから「箏のこと」で用いる柱を琴柱(ことじ)と言ったり、箏の台のことを琴台(きんだい)と言ったり、箏曲を教える人が広告などに「琴曲教授」と書いていたり、「福山琴」の商標登録に見られるように言葉の使われ方に多少の混乱がある。
例えば、『源氏物語』などの古文では、「琴」は、この項で説明している琴(きん)のほかに、箏、琵琶などすべての撥弦楽器を指している。このことは、明治時代に日本に新しい楽器が入ってきた際に、洋琴(ピアノ)、風琴(オルガン)、手風琴(アコーディオン)、自鳴琴(オルゴール)、提琴(ヴァイオリン)などと呼ばれていたことからも伺い知ることができる。
琴に関連する伝説
常陸国住人に琴御館宇志丸(ことのみたち うしまる)というものがおり、ひとりでに鳴る琴を所有しており、敵対勢力が来ると音を鳴らし、宇志丸に教えたため、事前に兵を集められ、徹底して防戦ができ、戦に負けることがなかった。このため、敵側は偽りの和睦を結び、宇志丸の娘を嫁とするが、その嫁を用いて、秘密裏に琴の弦を切らせた。これにより宇志丸は敵兵が進軍しても気づかず、琴の弦が切られたことに気づいた時には、敗戦し、常勝を重ねることはなくなり、敗戦を重ねた結果、近江国滋賀郡に流浪して着き、日吉神人(神主)の祖先となった。
この説話は『続群書類従』所収「耀天記」に記述されたもので、ベトナムに伝わる伝説と類型が指摘されているが、「霊的な琴」といったように、日本風に(神道観で)アレンジされており、日本文化における琴の信仰観(中世以降も重要だったこと)がわかる伝説である。

三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱらはじいて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。

概説

三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。

三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。

概説

三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。

三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。

篠笛(しのぶえ)は日本の木管楽器の一つ。篠竹(雌竹)に歌口と指孔(手孔)を開け、漆ないしは合成樹脂を管の内面に塗った簡素な構造の横笛である。伝統芸能では略して「笛」や「竹笛」と呼ばれることも多い。尺八やフルートと同じく「エアリード楽器」に分類される。
なお本稿で西洋音楽での音名に言及する場合は英米式(ドイツのHをB、ドイツのBをBb)で表記する。音名・階名表記を参照のこと。

概要
「篠笛」は、竹の割れ止めに藤を巻いて漆を塗る以外ほとんど装飾することなく、竹そのものといった簡素な姿をしている。これは「篠笛」が庶民階級の間で愛好されてきたことが大きな理由であろう。貴族や武家など上流階級が用いた「龍笛」「能管」では、巻き・塗りなど手間のかかる装飾が施されていることが「篠笛」との大きな違いである。
「篠笛」は庶民の楽器であるため、外見(巻きの有無・多少・素材、塗りの程度・色)、指孔の数(「六孔」「七孔」)、長さ、調律の種類(バリエーション)が数多く、日本各地に多種多様な「笛」が存在する。
他の管楽器との比較
楽器として見た「篠笛」は横笛の一種であり、洋楽器のフルート属とよく似ている。音階や運指などに違いはあるが、原理的には「フルート」の管を竹にして「キー装置」を取り去り、音孔の数を人間の指の数に合わせ、押さえやすい長さにしたものと考えてよい。(写真2)

写真2:篠笛(中央)と、他の管楽器の比較
【写真2】上からコンサートフルート(C)、尺八(一尺八寸、D、木管7孔)、七孔・唄用篠笛(上から三本調子G、六本調子Bb、八本調子C)、六孔・囃子用篠笛(六本調子)、ソプラノリコーダー(C)、ピッコロ(D)。カッコ内は最低音または基準音。唄用篠笛の基準音は最低音(筒音)ではなく、第一孔を開けた音である。
元来、西洋のフルートも篠笛のような素朴な姿をしていたが、近代的改良を経て現在のような金属製の管にキー装置を備えたものとなっている。 篠笛は、最も素朴な原形を残している横笛の一つであり、現代の楽器としても大変興味深い。
写真のとおり、篠笛はコンサートフルートとピッコロの中間の長さであり、音域もコンサートフルートとピッコロの間に位置するものが大半である。
Cを基準音とする八本調子唄用篠笛の歌口から第一孔までの長さと、C管リコーダーの発音部エッジから管端までの長さがほぼ等しい(28-29cm)。(「共鳴管の長さ」が等しいので、同じ高さの音が鳴る。)コンサートフルート(オクターブ下のCが基本音)の歌口から脚部管先端までの長さ(60cm前後)の約半分なので、コンサートフルートの1オクターブ上の音が鳴るのである。(共鳴管の長さが半分になると、1オクターブ上の音が鳴る。)
参考までに、ピッコロ(D)の共鳴管の長さは約26.5cmであり、尺八(一尺八寸、D)の共鳴管の長さ(約54cm)の半分に近い。この関係も興味深いところである。なお、尺八は縦笛であるから、共鳴管の長さは管の上端(正確には歌口の鋭いエッジ)から下端(管尻)までと考える。

歴史
「篠笛」は日本で独自に考案されたものではなく、雅楽の横笛として中国大陸から伝わった「龍笛」が庶民の間にも広まって簡素化したものであろうと考えられている。さらに歴史をさかのぼると、世界中の横笛の元祖は古代インドであると言われている。
現在多く用いられている篠笛の指孔の数は「六孔」「七孔」の2種類で、先祖といわれる「龍笛」は「七孔」であるが、「7穴の篠笛」と「龍笛」の基本音階・内部構造は異なっており、龍笛の装飾を省いたものがそのまま七孔篠笛に変化したとは考えにくい。
歴史学資料としては奈良・正倉院に伝わっている横笛や、宮城県名取市「清水遺跡」(9世紀ごろ、平安時代)、福島県玉川村「江平遺跡」(8世紀ごろ、奈良時代)から発掘された横笛についても研究されているが、音階・構造はそれぞれ少しずつ異なっており、日本の横笛の歴史について統一した見解は得られていない。
後述する唄用篠笛は五代目及び六代目の福原百之助が大正から昭和の初期にかけて開発したもので、「篠笛」という名もその頃五代目福原百之助がつけたものである。

刷毛(はけ)とは、木やプラスチックなどでできた柄の先端に多数の毛を取り付けた道具。漢字では「刷子」とも書かれる(ただし、「刷子」は「ブラシ」とも読まれる)。毛を二枚の木片で挟んだ形状のものが多いが、筆と類似した形状のものもある。材料の毛は、豚や山羊、人の毛、アクリル樹脂などが用いられている。なお、竹製の竹刷毛もある。

概要
刷毛は主に以下のような用途で用いられる。
塗装用具 – 広範囲の塗装
清掃用具
調理器具 – タレなどを塗るための道具
その他の刷毛として、陶芸に用いられる釉はがし刷毛、表装や製本の際に糊を塗るための糊刷毛、紙製品の貼り付けの際に空気を取り除く撫で刷毛などがある。

下に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵の中に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

室瀬 和美(むろせ かずみ、1950年(昭和25年)12月26日 – )は、漆芸家。蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)。東京都出身。父は同じく漆芸家の室瀬春二。

年譜
1970年 東京藝術大学美術学部工芸科入学
1973年 安宅賞受賞
1974年 東京藝術大学美術学部工芸科卒業
1975年 「冬華文蒔絵飾箱」が第22回日本伝統工芸展にて初入選
1976年 東京藝術大学大学院美術研究科漆芸専攻修了(修了制作大学買い上げ)
1984年 池袋西武百貨店本店にて第1回個展開催
1985年 蒔絵飾箱「麦穂」が第32回日本伝統工芸展にて奨励賞受賞
1989年 日本橋三越本店にて第2回個展開催
1991年 目白漆芸文化財研究所開設
1996年 三嶋大社蔵国宝「梅蒔絵手箱」模造制作( – 1998年)
2000年
日本橋三越本店にて第3回個展開催
金刀比羅宮本殿拝殿格天井「桜樹木地蒔絵」制作( – 2004年)
蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」が第47回日本伝統工芸展にて東京都知事賞受賞
2002年 蒔絵螺鈿八稜箱「彩華」が第49回日本伝統工芸展にて奨励賞受賞
2004年 銀座和光本店にて第4回個展
2008年
重要無形文化財「蒔絵」保持者(人間国宝)認定
紫綬褒章受章

本阿弥光洲(ほんあみ こうしゅう、本名:道弘、1939年(昭和14年)4月26日 – )は、日本の刀剣研師。国宝指定刀剣の研磨を数多く手がけ、文化財の保存にも尽力している。

略歴
1939年(昭和14年) – 東京都に生まれる。
1962年(昭和37年) – 國學院大學文学部卒業。同年、父・本阿弥日洲(人間国宝)に師事し、光意系本阿弥家18代を継ぐ。
1971年(昭和46年) – 研磨技術等発表会(刀剣研磨・外装技術発表会 )無鑑査(現在に至る)。
2000年(平成12年) – 美術刀剣研磨技術保存会会長に就任。
2008年(平成20年) – 東京都指定無形文化財(工芸技術)「日本刀研磨技術」保持者に指定される。
2009年(平成21年) – 公益財団法人日本刀文化振興協会理事に就任(22年まで)。
2010年(平成22年) – 日本刀文化振興協会理事長に就任。
2014年(平成26年) – 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
2016年(平成28年) – 春の叙勲で旭日小綬章受章。

海野 清(うんの きよし、1884年11月8日 – 1956年7月10日)は、彫金家、日本芸術院会員、人間国宝。
海野勝眠の三男として東京に生まれる。1911年、東京美術学校金工科卒。父および加納夏雄に師事。1919年、母校助教授、1928年、帝展特選、1929年から帝展、新文展審査員を務める。1932年、教授、フランスへ留学し1934年、帰国。1943年、勲三等瑞宝章受章。
1947年、帝国芸術院(同年、日本芸術院)会員、1949年、東京芸術大学教授、日展運営会常任理事、1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、全日本工芸美術家協会会長、日本彫金家会会長。

AKI(あき、1987年4月1日 – )は、東京都出身の画家・デザイナー。
スペイン国立「バルセロナ海洋博物館」にて「マザーフォレスト」を発表、「金賞」「日本スペイン交流親善名誉作家」受賞、日本・ギリシャ修好110周年記念展覧会にて「歴史」を発表、「特別審査委員賞」受賞。2010年、23歳にして、知的障がい者の大学ゲスト講師として日本で初めて教壇(武蔵野美術大学)にたつ。近年では、NHKハートプロジェクト第18回ハート展作画者として選出されたほか、京都・佛光寺派大善院にて、唐紙師とのコラボレーション作品「唐紙四曲屏風・涅槃図」(京都ホテルオークラにて公開)を発表。また、ヨーロッパ、アメリカにてデザインテキスタイルの「AKI デザインファブリック」並びにそのデザインの元となる原画を発表、2014年春発売「アシストスマホ(ソフトバンク株式会社)に作品が採用。

代表作品
2002年 ジャングル探検(世田谷美術館優秀賞)
2003年 アリとサンマ(毎日新聞社賞・全国図書館賞)
2008年 トラウマ(国立新美術館エイズチャリティー優秀賞)
2008年 マザーフォレスト(スペイン国立バルセロナ海洋博物館」にて「金賞」・「日本・スペイン交流親善名誉作家」受賞)
2009年 虹色の塔(国立新美術館エイズチャリティー優秀賞)
2009年 歴史(日本・ギリシャ修好110周年記念展覧会にて「特別審査委員賞」)
2010年 天空の城(国立新美術館エイズチャリティー優秀賞)
2010年 月
2010年 地球
2011年 アイス・プラネット
2011年 ひまわり 「願い」「希望」「光」「勇気」「命」「元気」
2012年 世界と空
2012年 トトアキヒコ氏とのコラボレーション「天と地」「龍宮の国」「社神皇」「雲竜」「月まつり」「花鳥園」
2013年 夜明け
2013年 動物と人間との共存
2013年 スマ―ミュージアム
2013年 「唐紙四曲屏風・涅槃図」(京都ホテルオークラ一般公開)
2013年 「二孔雀」(佛光寺派大善院 奉納)
2014年 「しあわせ」(ホテルオークラ東京一般公開)
2014年 「みなも 水園」(京都ホテルオークラ一般公開)
2014年 「ナポレオン・フィッシュ」(法然院 奉納)
2015年 「風鳥と雷鳥」(京都新聞 京都タカシマヤ一般公開)
近年の主な個展開催[6][編集]
2012年 絵画展(福岡)
2012年 絵画展 25th Anniversary(京都)
2012年 JT 画家AKI絵画展(神戸)
2012年 絵画展(東京・銀座)
2012年 絵画展(新潟)
2012年 JT 画家AKI絵画展(名古屋)
2012年 絵画展(京都)
2012年 絵画展(東京・銀座)
2013年 絵画展(東京・銀座)
2013年 絵画展 26th AKI Birthday(東京・銀座)
2013年 絵画展 26th AKI Birthday(京都・佛光寺派大善院)
2013年 絵画展(三重)
2013年 絵画展(福岡)
2013年 絵画展(東京・銀座)
2013年 絵画展(名古屋)
2013年 フランス・パリ展示会(フランス)
2013年 JT 画家AKI絵画展(神戸)
2013年 絵画展in京都・護王神社(京都)
2013年 JT 画家AKI絵画展(名古屋)
2013年 絵画展(東京・銀座)
2014年 絵画展 27th AKI Birthday(東京・銀座)
2014年 絵画展 27th AKI Birthday(京都・佛光寺派大善院)
2014年 絵画展(福岡)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展(京都・法然院)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2014年 絵画展(京都)
2014年 絵画展 (東京・銀座)
2015年 絵画展 (東京・銀座)
2015年 絵画展 (静岡)
2015年 絵画展 28th AKI Birthday(東京・銀座)
2015年 絵画展 (伊勢丹浦和店)
2015年 絵画展 28th AKI Birthday(京都)
2015年 絵画展(神奈川)
2015年 絵画展(福岡)
2015年 絵画展(東京・銀座)
2015年 絵画展(豊島 (繊維商社) 名古屋)
2015年 絵画展(オンワード樫山 ギャラリー 東京・日本橋)
2015年 絵画展(神奈川)
2015年 絵画展(静岡)
2015年 絵画展(神奈川)
2015年 絵画展(東京・京橋)

浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) – 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。

生涯
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
1907年12月16日、リウマチにより入院中の東京大学病院において心臓麻痺のため死去[1]。墓地は京都の金地院。

伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 – 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正・昭和期の浮世絵師、日本画家、版画家。本名、一(はじめ)。実娘は女優・タレント・歌手の朝丘雪路。
歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。

経歴
1898年‐東京府東京市深川区深川西森下町(現在の東京都江東区森下一丁目)に生まれる。
1905年‐深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)に入学。同級生に伊東の友人となった関根正二がいた。
1907年‐小学校3年で中退、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く。
1908年‐職工となり深川区深川東大工町(現在の江東区白河四丁目)の東京印刷株式会社の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う。
1911年‐縁あって鏑木清方へ入門。「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進する、このとき14歳。
1912年‐第12回巽画会展に『のどか』が初入選。
1913年‐巽画会1等褒状。
1914年‐再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する。
1915年‐第9回文展に『十六の女』が初入選。
1916年‐渡辺版画店から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、東京日日新聞などに挿絵を描く。
1919年‐好子と結婚し長男と次男をもうける。
1922年‐平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌。
1927年‐大井町に深水画塾を設立。
1932年‐人物画の再興を目指し「青々会」を設立。
1935年‐料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうけた。
1943年‐召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。
1945年‐長野県小諸市に疎開する。
1948年‐『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞
1949年‐鎌倉に転居
1950年‐白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる。
1958年‐日本芸術院会員に推挙
1972年‐癌により5月8日没、享年74歳。墓所は品川区上大崎の隆崇院にある。法名は画光院一誉明澄深水大居士といった。

代表的な作品

右から4人目、市村羽左衛門の後ろに居るのが伊藤(1930年)
『指』(1911年)
『対鏡』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
『遊女』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
『明石の曙』 木版(1916年) 東京国立近代美術館所蔵
『湯気』(1924年)
『羽子の音』(1927年)
『潮干狩』(6曲1隻1929年)
『秋晴れ』(1929年)
『暮方』(1932年)
『宵』(1933年)
『桜花図』(6曲1隻1939年)
『銀河祭』(1946年)
『吹雪』(1947年)
『信濃路風景』(1948年)
『髪』(2曲1隻1949年)
『聞香』 絹本着色 (1950年) 東京国立近代美術館所蔵
『清方先生像』 絹本着色 (1951年) 東京国立近代美術館所蔵
『春宵(東おどり)』(4曲1隻1954年)
『吉野太夫』(1966年)
『伊達巻の女』
『口紅』
『雪の女』
『丸髷』
『社頭の雪』
『姿見』 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
『大島婦女図』 紙本着色 熊本県立美術館所蔵
『月夜図』 紙本着色 熊本県立美術館所蔵 など

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) – 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない[1]。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。

略歴

東海道五十三次之内 日本橋
歌川豊広の門人。
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月には父も死去。幼い頃からの絵心が勝り文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1776年-1828年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用して武者絵や美人画を描いた。
それから5年後の文政6年(1823年)には、祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って、鉄蔵と改名し後見となった。家業の火消同心を辞め、絵師に専心した。
始め役者絵から出発。やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている[2]。
同年、正式に職を仲次郎に譲ってから浮世絵師として独立した。この年、公用で東海道を上り、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も多く残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん
「西方浄土の名所を見てまわりたい」と詠っている。

ヒロシゲブルー

京都名所之内 淀川

左:広重 右下:北斎 右上:モネの構図の類似例
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。
この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。ただし、その他の浮世絵でも使われるベロ藍自体はヨーロッパから輸入されたものである。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている。
東海道往復旅行

東海道五十三次之内 蒲原

東海道五十三次之内 庄野
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[3]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。(外部リンクに、これに対する否定説を述べた『司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について』あり。)
甲州日記
詳細は「甲州日記」を参照

富士三十六景之内 甲斐御坂越
江戸時代中期には生産力の向上から都市部では学問や遊芸、祭礼・年中行事など町人文化が活性化し、幕府直轄領時代の甲斐国甲府(山梨県甲府市)でも江戸後期には華麗な幕絵を飾った盛大な甲府道祖神祭礼が行われており、甲府商人の経済力を背景に江戸から広重ら著名な絵師が招かれて幕絵製作を行っている。広重は天保12年(1841年)に甲府緑町一丁目(現若松町)の町人から幕絵製作を依頼され、同年4月には江戸を立ち甲州街道を経て甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。この時の記録が『甲州日記』(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際に道中や滞在中の写生や日記を書き付けられており、現在の八王子市から見た高尾山、甲府市内から見た富士山や市内の甲斐善光寺、身延町の富士川など甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれており広重の作品研究に利用されているほか、甲府での芝居見物や接待された料理屋の記録など、近世甲府城下町の実態を知る記録資料としても重視されている。
日記によれば広重は同年4月5日に甲府へ到着し、滞在中は甲府町民から歓迎され句会や芝居見物などを行っている。日記は一時中断して11月からはじまっており、この間には幕絵は完成し、手付金は5両であったという。幕絵は東海道の名所を描いた39枚の作品で、甲府柳町に飾られたという。日記の中断期間中は幕絵制作に専念していた可能性や、制作のためにいったん江戸で戻っていた可能性などが考えられている。広重の製作した幕絵は現存しているものが少ないが、山梨県立博物館には2枚の幕絵が所蔵されており、甲府市の旧家には下絵が現存している。
また、幕絵以外にも甲府町人から依頼された屏風絵や襖絵などを手がけており、甲府商家の大木コレクション(山梨県立博物館所蔵)には作品の一部が残されている。
日記は甲府滞在記録のほか甲斐名所のスケッチも記されており、一部は『不二三十六景』において活かされている。『甲斐志料集成』などに収録され知られていたが、原本は関東大震災で焼失している。発見された写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされ、1925年にイギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。2005年にロンドンのオークションでアメリカ人が落札、栃木県那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。約80年ぶりに発見されたのである(2006年9月5日付朝日新聞)。
肉筆画

左:広重  右:ゴッホの模写

左:広重  右:ゴッホの模写
その後、嘉永(1848年)頃から単に立斎と称している。版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。 有名なのが、俗に「天童広重」とも呼ばれる200点以上の肉筆画で、天童藩から依頼されたものである。当時、藩財政が逼迫したので藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていた。1851年、その返済の代わりとして広重の絵を贈った。 なお、遠近法は印象派画家、特にゴッホ(1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては北斎や、歌川の始祖豊春(1735年-1814年)の浮絵にみられる。
江戸での住居

名所江戸百景 大はしあたけの夕立
文久年間(1861年から1863年)の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の京橋)に広重の住居があり[4]、西隣には狩野永悳の旧居が印刷されている。
その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである。
辞世の句
辞世の句は、
東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む
であるというが、「後の広重の作ではないか」とする見解もある。
明治15年(1882年)4月(広重の死後24年目)、門人たちが、墨江須崎村の秋葉神社に碑を建立したが、第二次世界大戦の東京大空襲により破壊され、現在は残っていない。
墓所

東京都足立区の東岳寺境内の初代安藤広重墓及び記念碑
流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年)9月6日61歳で没。墓所は東京の足立区にある禅宗東岳寺。

おもな作品

東海道五十三次 蒲原
錦絵
『傾城貞かがみ』(1818)、役者絵
『外と内姿八景』(1821)、美人画
『東都名所拾景』(1825〜1831ころ)、横中判で10枚揃物
『風流おさなあそび』(1830〜1834ころ)、横大判の玩具絵で、男子と女子の2バージョンがある
『魚づくし』(1830〜1843ころ)、花鳥画
『忠臣蔵』(1830〜1844ころ)、横大判で16枚揃物の役者絵、
『東都名所』川口正蔵版(1832)、横大判で10枚揃物、俗に「一幽斎がき東都名所」
『本朝名所』(1832)
『東都名所』喜鶴堂版(1832)
『月二拾八景』(1832)、花鳥画
『東海道五十三次』保永堂版(1833〜1834)、横大判で55枚揃物、53の宿場と江戸と京都を描く
『近江八景』山本屋版・保永堂版(1834)
『京都名所』(1834)、横大判で10枚揃物
『浪花名所図絵』(1834)、横大判で10枚揃物
『四季江都名所』(1834)、中短冊判で4枚揃物
『義経一代記』(1834〜1835)、歴史画
『諸国六玉河』蔦重版(1835〜1936)、横大判で6枚揃物
『木曽海道六十九次』(1835〜1842)、「宮ノ越」など、横大判で70枚揃物、渓斎英泉の後を継ぐ
『江戸高名会亭尽』(1835〜1842ころ)、横大判で30枚揃物
『金沢八景』(1836)、横大判で8枚揃物
『曽我物語図絵』(1837〜1848ころ)、竪大判で30枚揃物の物語絵、上部を雲形で仕切り絵詞を入れている
『江戸近郊八景』(1838)、横大判で8枚揃物
『東都名所』藤彦版(1838)
『江都勝景』(1838)
『東都司馬八景』(1839)、横大判で8枚揃物
『即興かげぼしづくし』(1839〜1842)、竪中判の二丁掛で玩具絵
『和漢朗詠集』(1839〜1842ころ)
『諸芸稽古図絵』(1839〜1844ころ)、横大判の四丁掛で4枚揃物の玩具絵、子供の稽古事16種を戯画風に描いた
『東海道五拾三次』佐野喜版(1840)、俗に「狂歌東海道」
『新撰江戸名所』(1840)
『東都名所坂づくし』(1840〜1842ころ)
『東都名所之内隅田川八景』(1840〜1842ころ)
『東海道五十三次』江崎版(1842)、俗に「行書東海道」
『甲陽猿橋之図』『雪中富士川之図』(1842)、竪2枚続の掛物仕立、「甲陽」版元は蔦谷吉蔵「雪中」は佐野屋喜兵衛、縦長の構図にそそり立つ渓谷の絶壁と猿橋の姿を見上げる構図で描き、遠景の集落と満月が描かれている
『東海道五十三対』(1843)、三代豊国・国芳との合作
『教訓人間一生貧福両道中の図』(1843〜1847ころ)、横3枚続の玩具絵
『娘諸芸出世双六』(1844〜1848ころ)、間判4枚貼りの双六で、ふりだしは学芸の基礎である手習いで上りは御殿の奥方になる
『小倉擬百人一首』(1846)、100枚揃物で三代豊国・国芳との合作
『春興手習出精雙六』(1846)、大判2枚貼りの双六で、寺子屋の学習内容と生活風習がテーマ
『東海道』(1847)、俗に「隷書東海道」
『東海道五十三図絵』(1847)、俗に「美人東海道」の美人画
『狂戯芸づくし』(1847〜1848ころ)、竪大判の戯画
『江戸名所五性』(1847〜1852ころ)、竪大判で5枚揃物の美人画
『本朝年歴図絵』(1848〜1854ころ)、物語絵で、日本書紀に材をとり、古代天皇の時代ごとに、説明文を上部に記し下部に絵を描く
『東海道張交図会』(1848〜1854ころ)、張交絵
『東都雪見八景』(1850ころ)、横大判で8枚揃物
『伊勢名所二見ヶ浦の図』(1850ころ)、横3枚続
『五十三次張交』(1852)、張交絵
『箱根七湯図会』(1852)
『源氏物語五十四帖』(1852)、物語絵
『五十三次』(1852)、俗に「人物東海道」
『不二三十六景』(1852)、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれている
『国尽張交図絵』(1852)、張交絵
『六十余州名所図会』(1853〜1856)、竪大判で70枚揃物
『双筆七湯廻』(1854)、団扇絵で7枚揃物、三代豊国との合作
『童戯武者尽』(1854)、戯画
『双筆五十三次』(1854〜1855)、三代豊国との合作
『五十三次名所図絵』(1855)、俗に「竪の東海道」
『名所江戸百景』(1856〜1859)、竪大判で120枚揃物
『諸国六玉川』丸久版(1857)、竪大判で6枚揃物
『武陽金澤八勝夜景』『阿波鳴門之風景』『木曽路之山川』(1857)、大判横3枚続
『山海見立相撲』(1858)、横大判で20枚揃物
『冨士三十六景』(1859)、竪大判で37枚揃物、版下絵は1858年4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏、結果的に最後の作品となった、版元は蔦谷吉蔵、富士を描いた連作で『名所江戸百景』と同様に風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図の印像
肉筆浮世絵
『琉球人来貢図巻』(1807)、紙本墨画1巻、浮世絵太田記念美術館所蔵、広重10歳の時の作品
『傾城図』(1818〜1822ころ)、紙本着色、日本浮世絵博物館所蔵
『行列図』(1832)、絹本着色、東京国立博物館所蔵
『桜と小禽図』(1835)、杉戸板地着色、泉谷寺所蔵
『煙管をもつ立美人図』、絹本着色、出光美術館所蔵
『鬼念仏と美人図』、紙本墨画淡彩、出光美術館所蔵
『玉川の富士・利根川筑波図』(1848〜1853)、絹本着色双幅、ニューオータニ美術館所蔵
『御殿山花見図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
『利根川図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
『本牧風景図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
『高尾図』、紙本淡彩、ニューオータニ美術館所蔵
『武相名所手鑑・馬入川舟渡』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
『武相名所手鑑・南郷之松原左り不二』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
『高輪の雪図・両国の月図・御殿山の花図』、絹本着色3幅対、鎌倉国宝館所蔵
『不二川の図』、絹本着色短冊、城西大学水田美術館所蔵
『鴻ノ台図屏風』(1841)、絹本着色六曲一隻、山梨県立博物館大木コレクション
『不二望岳図』、絹本着色、熊本県立美術館所蔵
『屋根船の芸妓図』、紙本淡彩、熊本県立美術館所蔵
草双紙・絵本
『狂歌紫の巻』(1818)、絵入り狂歌本
『音曲情糸道』(1820)、合巻挿絵
『寶船桂帆柱』(1827)、合巻挿絵
『狂歌山水奇鑑』(1831)、絵入り狂歌本
『俳諧三十六句撰』(1837)、絵入り俳諧本
『絵本忠臣蔵』(1845)、絵本
『菅原伝授手習鑑』(1846)、絵本
『絵本膝栗毛』(1846〜1849)、合巻挿絵で、国芳・英泉との合作
『立斎草筆画譜』(1848〜1851)、絵本
『絵本江戸土産』(1850〜1857)、全10編の絵本で、1編から7編まで担当し、あとは二代広重が描いた
『略画光琳風立斎百図』(1851)、琳派調の草花・人物・風俗等を軽妙なタッチで描いた絵手本
『岐蘇名所図会』(1851-1852)、絵入り狂歌本
『狂歌四季人物』(1855)、絵入り狂歌本
『狂歌江都名所図会』(1856)、全16編の絵入り狂歌本で、1編から14編まで担当し、あとは二代広重が描いた
『富士見百図』(1859)、富士の姿をリアルに描いた絵本で、作者の死により初編のみで未完に終わった
所蔵美術館
各所で所蔵されるが、光線による劣化があるため常時展示はしていないことが多い。日本国内では、
東京国立博物館(東京都台東区)
那珂川町馬頭広重美術館(栃木県那珂川町)
神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)
中山道広重美術館(岐阜県恵那市)
東海道広重美術館(静岡県静岡市)
広重美術館(山形県天童市)
海の見える杜美術館(広島県廿日市市)
に所蔵されている。
国外では
メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
ボストン美術館(アメリカ合衆国、ボストン)
ブルックリン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
ギメ東洋美術館(フランス共和国、パリ)
に作品がある。
広重の襲名者たち
『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。 『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。
『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。
藤懸静也によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を重宣(1826年-1869年)という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となっている。その後、しばしば横浜に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。また、「喜齋立祥」の画号を用いて制作したがその中で、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。なお、『名所江戸百景』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。
三代目は門人の重政(1842年-1894年)で俗称は後藤寅吉である。離縁後のお辰を妻とした。号は一笑齋。
四代目(菊池貴一郎)は、三代目夫人、八重子と清水晴風らが相談して、四代目広重を襲名させた。菊地家は安藤家と親しかったためである。最初は版画を制作し、武者絵などを多く書いたが、後に書家となった。貴一郎は浮世絵に関する著作を出版している。
五代目(菊池寅三)は、四代目(菊池貴一郎)の息子が継いでいる。
門人
広重の門人には二代目広重、三代目広重のほか、歌川広景、歌川重清、歌川重昌、暁斎重晴、遠浪斎重光、一昇斎重次、歌川重房、歌川重春、重美、重華、重久、重芳、重歳、紫紅、歌川芳延などがいた。重晴は清水氏で暁風とも号し、重春と同一人かともいわれる。重房は本名を吉野勝之助と云い、安政の頃に活躍した。

大竹 伸朗(おおたけ しんろう、1955年10月8日 – )は、日本の現代美術家。

経歴

「はいしゃ」(直島家プロジェクト)
東京都目黒区出身。
小学生の頃は漫画家になりたかったため、アニメのキャラクターを描き溜めては近所にあったアニメスタジオへ見せに行っていた。スタッフの人が褒めてくれ、帰りにセル画を貰えるのが嬉しかったという。中学生時代にはサッカー、ロック、絵に没頭する。兄の持っていたレコードや画集を見聞きし、もの凄く影響を受けたという。
小学校時には大田区六郷に住んでいて巨人の多摩川グラウンドによく通った。広岡達朗のファンだったという。小学校3年の時、練馬区に転居。
1974年、東京芸術大学に落ち、武蔵野美術大学油絵学科に入学するも、一週間で休学。北海道別海町の牧場で働く。翌年から北海道各地を巡り絵を描いたり写真を撮ったりして過ごす。
1977年から1978年、イギリスに留学。同地で様々な情景を撮影、またスケッチなどをし、その作品をまとめて作品集を出版する。
1980年、武蔵野美術大学油絵学科卒業。ノイズバンド「JUKE/19」結成し、自主制作でアルバム発売。
1982年から個展を開始。以後絵本、写真、立体、コラージュやパフォーマンスといった多種多彩な表現をみせる。ガラクタや巨大なゴミを媒介にしての作品を特徴とする。アメリカなどでも個展を開催している。
1988年より愛媛県宇和島市に移住。以降、活動の拠点とする。
1995年、山塚アイとパフォーマンスユニット「パズル・パンクス」を結成する。
2006年、東京都現代美術館で大回顧展「大竹伸朗 全景 1955-2006」を開いた。また、以前働いていた北海道別海町の牧場で個展を開いた。香川県直島の家プロジェクトの「はいしゃ」に作品「舌上夢/ボッコン覗」を発表。
2007年、雑誌「風の旅人」の表紙を制作。第25号から30号まで行う。
2009年、香川県直島で、銭湯「I♥湯(アイラブゆ)」をオープン。
2012年、ドイツのカッセルで5年に一度開催される第13回ドクメンタに参加。
2014年、平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣賞美術部門受賞。

葛飾 北斎(かつしか ほくさい、葛飾 北齋、宝暦10年9月23日(1760年10月31日)? – 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))とは、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。

概説
森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。
生涯年表

年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)

『冨嶽三十六景 凱風快晴』
(通称:赤富士)

『冨嶽三十六景 駿州江尻』
北斎改為一筆(葛飾北斎画)

『冨嶽三十六景 尾州不二見原』
北斎改為一筆(葛飾北斎画)

信州小布施、上町祭屋台天井絵(桐板着色肉筆画)のうち、『怒涛図』2図中の1「女浪」、その一部。「#北斎館」も参照。
宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。「#北斎通り」も参照)にて、貧しい百姓の子として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。
明和元年(1764年) 幼くして、幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。
安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。

写真提供 Teioコレクション 安永8年(1779年)の北斎デビュー作とされる。 瀬川菊之丞の図 初め勝川春章の門入で春朗と号した。
安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。
寛政6年(1794年) 勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。
寛政10年(1798年) 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。
享和2年(1802年) 狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。
文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。
文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。
文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
文化11年(1814年) 『北斎漫画』(#)の初編を発刊。
文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』(#)を手がける。
天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。
天保15年(1844年) 信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』(右の絵はその一部)などを描く(#)。
嘉永2年4月18日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった(#)。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。
改号すること30回
彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。
現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などというかたちで使われていたことによる。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説や、北斎の自己韜晦(とうかい)癖が影響しているとする説[7]もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。
転居すること93回

『富士越龍図』
肉筆画(絹本着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。死の3ヶ月ほど前、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。
北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想している。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをした。
最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。
挿絵画家の一面
浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある。
真正の画工と成るを得べし
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。
翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す
これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味である。
辞世の句は、
人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原
その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。
家族
葛飾北斎は生涯に2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女を儲けている(合わせると二男四女)。
父:鏡師中島伊勢。
母:吉良上野介の家臣小林平八郎の孫娘。
長女:お美与 – 北斎の門人の柳川重信と結婚するが離縁。
長男:富之助
次女:お辰(またはお鉄)
次男:多吉朗-崎十郎(元服後)支配勘定-加瀬氏へ養子に出る。
三女:お栄(葛飾応為) – 絵師の南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てる。
四女:お猶
孫娘:白井多知女
曾孫:白井孝義
奇行・その他
食事
料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。
ここまで乱れた生活を送りながらも彼が長命だった理由として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説がある。
斎藤月岑によれば、この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、という。
飲酒・喫煙
北斎は酒を飲まなかった。これを否定する意見として、「通常の名家、文人墨客で飲まないところはない。また大手の画家であり画工料は多い。にもかかわらず乱れた生活、不衛生な部屋、汚れた衣服を着ている、引っ越しが多いというのは往々にして酒飲みの典型である」というものがある。しかし明治に行われた周辺へのインタビューでは下戸であったというものばかりである。河鍋暁斎によれば「酒を飲まないばかりか、お茶でも上等の茶は嗜まないし、煙草も吸わない。殊に煙が嫌いで夏に蚊遣りも使わない」。別の証言では「酒は飲まないが、菓子を嗜む。訪問するとき大福餅7,8を持って行くと、大喜びし舌鼓を打った。」という。交流のあった柳亭種彦は「酒は嗜まないが茶をたしなむ。」という文を残している。
貧しい理由
北斎は金銭に無頓着であった。北斎の画工料は通常の倍(金一分)を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由する。しかし金を貯える気は見られない。画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡した。店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという形であった。このようないいかげんな金銭の扱いが貧しさの一因であろう。
挨拶
北斎は、行儀作法を好まなかった。たいへんそっけない返事をし、態度をとる人物であった。人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけこたえ、一般的な時候・健康について長話をしなかった。
外出の様子
衣服は絹類や流行の服を着たことがない。雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天。六尺の天秤棒を杖にして、わらじか麻裏の草履をはく。だれかから「いなかものだ」と言われるのを、ひそかに喜んでいた。また、歩くときに常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった。
室内の様子
ある日は、北斎が部屋の隅を筆で指し、娘を呼んで「昨日の晩までここに蜘蛛の巣があっただろう。どうして消えたんだ。お前知らないか?」としばらく気にし続けていたことがあった。
また訪問した人の証言では「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という。
晩年の北斎が弟子露木為一に語っている。「9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。布団にはしらみが大発生した。」(下図中の文章とほぼ同内容)
北斎仮宅之図(露木為一 国立国会図書館所蔵) 弟子が北斎仮宅之図に北斎の様子と、室内の状況を描いている。 晩年の北斎が、こたつの布団をかぶりながら畳の上に紙を敷いて絵を描いている。不敵な顔をした娘のお栄が、箱火鉢に添いながらその様子をながめている。 杉戸には「画帳扇面おことわり」と張り紙をしている。柱にはミカン箱を打ち付けて仏壇としている。はきちらかした草履と下駄。火鉢のうしろが炭と食品容器であったかごや竹皮のごみの山である。
火事
「火事は江戸の名物」といわれるほど江戸は火事が多かったが、北斎は何十回と引っ越しを繰り返しながら、転居56回、75歳になるまで奇跡的に火災に遭わなかった。これが自慢で鎮火の御札を描いて人に渡したりしていた。
75歳でとうとう火災に遭い、もともと乏しかった家財も失い乞食のようになってしまった。若い頃から描き貯めた資料も焼失し、大変がっかりしてもう集めなくなった。火災直後は道具が無い間、徳利を割って底を筆洗いに、破片をパレットにして画を描いていたこともあった。
この火災のとき、仕事中の北斎は筆を握ったまま飛び出し、娘阿栄も飛び出して逃げた。後から思うと家財を運び出す余裕はあったが、その時はあわてていて気が回らなかった。
外国人とのトラブル
長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった。(シーボルト事件)
オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である。
歌舞伎役者とのトラブル
幽霊役で人気だった歌舞伎役者の尾上梅幸(尾上菊五郎 (3代目))が北斎に画を依頼したことがあった。ところが招いても北斎がまったく来ないため、有名人らしく輿に乗って北斎宅に訪問した。もともと貧しい家で、掃除もしたことのない荒れ果てた室内は不潔極まりなく、おどろいて毛氈(敷物)を引かせた後入室し着座。一礼しようとすると北斎は「失礼だ」と怒り出し、机に向かって相手もしようとしなくなった。ついに梅幸も怒って帰ってしまった。
後日梅幸が非礼を詫びると二人は親しくなった。普段の北斎は横柄ということはなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物だった。
武士とのトラブル
津軽藩主が屏風絵を依頼し、使者が何度も北斎を招いたがいっこうに赴こうとしなかった。10日ほどしてついに藩士が北斎宅までやってきて、「わずかばかりではありますが」と5両を贈って藩邸への同行をうながし「屏風が殿のお気に召せば若干の褒美もありましょう」と言葉を添えたが、北斎は用事があると応えて行かなかった。数日してまた藩士が訪問し再度同行を促したが、また北斎は断った。とうとう藩士は憤慨し「この場で切り捨てて、私も自害する。」と怒り出してしまうが、集まった人々が藩士をなだめ、北斎に出向くよう勧めるなどと大騒ぎになった。それでも頑として拒否し続ける北斎は「じゃ前にもらった5両返せばいいんだろう。明日金を藩邸に送りつけてやる。」と言い出したので、藩士も人々もあきれはててしまったが、その日はなんとか収まった。
数カ月後、招かれないのに唐突に津軽藩邸に現れ、屏風一双を仕上げて帰った。常に貧しく不作法な北斎であったが、気位の高さは王侯にも負けず、富や権力でも動かないことがあった。
画法の追求
北斎は晩年になっても画法の研究を怠らず続けていた。
北斎は「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」とし、接骨家・名倉弥次兵衛のもとに弟子入りして、接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、やっと人体を描く本当の方法がわかったと語った。
弟子の露木為一の証言では、「先生に入門して長く画を書いているが、まだ自在に描けない・・・」と嘆いていると、娘阿栄が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ。」と言うと、そばで聞いていた北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。
即興制作
ある時、元勘定奉行、久須美祐明が北斎を招き席画を書かせた。最初の2、3枚はふつうの細密な絵を描いた。ちょうどその席に子供がいたので、北斎は半紙をひねって渡し「これに墨をつけて紙の上に垂らしてごらん」と言った。子供が言われたとおりにポタポタと墨を垂らすと、北斎は無作為に垂らされた黒い染みに自在なタッチで筆を加え、たちまちのうちに奇々怪々なお化けの絵に仕上げてしまった。一瞬のうちの妙技に、見物していた人々は驚きの声を上げた。
この日は夕方から深夜まで子供と遊びながら画を描いた。同行者は、先生は誰の言うことも聞かないので、どんな絵を描こうとも意のままに描いてもらうしかない。と述べたという。
11代将軍徳川家斉は北斎の画力を聞きつけ、鷹狩の帰りに滞在した浅草伝法院に北斎他を呼び画を描かせた。1人目谷文晁がまともな絵を書き、2人目に北斎が御前に進み出たが恐れる気色なく、まず普通に山水花鳥を描いた。次に長くつないだ紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠からだした鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に見立て、「竜田川でございます」と言って拝礼して退出した。一同はこの斬新な趣向に驚嘆した。
弟子が語るには、北斎自身は将軍の前に出ることを無上の栄誉に感じ大いに喜んでいたが、礼儀を正し窮屈なことには困ったという。また長屋の大家は将軍にご覧に入れるとの内命があると、トラブル・不祥事の心配な北斎の身柄を預かって拝謁の日まで外出を許さなかった。
作品
風景画や春画、奇想画にいたる多岐の浮世絵を描いている。また、晩年になると肉筆画を多く残している。
主要作品
ここに示すものは揃物(そろいもの)等まとまった作品群であるが、これらは北斎の画業のごく一部に過ぎない。1点のみで著名な作品もある。また、画業と言うことでは、現代に伝えられなかった大量の作品があり、それらは文字による記録の形で「存在した」程度のことではあるが確認できる場合がある。このため北斎が描いた作品総数は分かっていないが、永田生慈著『葛飾北斎年譜』に付けられた「版木・版画作品目録」では1385点[8]で、これは2冊本も1点と数えており、実際には更に摺物と肉筆画が加わる。数え方にもよるが、挿絵なども1図と数えれば3万点を越えるという意見もある。
北斎漫画

『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭と瞽女(ごぜ)
視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた。
詳細は「北斎漫画」を参照
全15編。図数は4,000図とされる版本(彩色摺絵本)。北斎54歳、画号・戴斗の頃(文化11年〈1814年〉)に初版あり。初めは絵手本(画学生のための絵の教本)として発表されたものであったが、評判を呼び、職人の意匠手引書などにも用いられることとなって広く普及した。さまざまな職業の人から道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれている。「#作品画像の10」も参照。
百物語
百物語を画題として妖怪を描いた化物絵。中判錦絵。全5図のうち、四谷怪談と皿屋敷を扱った2図が特に有名。落款は為一筆。天保2 – 3年(1831年 – 1832年)頃。版行当初は100に及ぶ揃物として企画されたと考えられている。しかし、今日確認されるものは以下の5図のみである。
「お岩さん」(#4) 「さらやし記」(#5) 「笑ひはんにや」 「しうねん」 「小はだ小平二」
冨嶽三十六景
詳細は「冨嶽三十六景」を参照

『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」
富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物で、主板の36図、および好評により追加された10図の、計46図。初版は文政6年(1823年)頃に制作が始まり、天保2年(1831年)頃に開版、同4年頃に完結している。落款は北斎改為一筆。版元は西村屋与八(永寿堂)。
北斎の代表作として知られ「凱風快晴」(通称:赤富士)や「神奈川沖浪裏」が特に有名。「神奈川沖浪裏」は、それを見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛したり、そこから発想を得たドビュッシーが交響詩『海』を作曲したりと、その後の西欧の芸術家に多大な影響を与えることとなった。波頭が崩れるさまは常人が見る限り抽象表現としかとれないが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写実的に優れた静止画であることが確かめられる。波の伊八が製作した彫刻との類似性も指摘されている。
千絵の海

『千絵の海』「総州銚子」
各地の漁を画題とした中判錦絵の10図揃物。変幻する水の表情と漁撈にたずさわる人が織りなす景趣が描かれている。天保4年(1833年)年頃、前北斎為一筆。
「絹川はちふせ」 「総州銚子」「宮戸川長縄」 「待チ網」 「総州利根川」 「甲州火振」 「相州浦賀」 「五島鯨突」「下総登戸」 「蚊針流」。
版行されなかった版下絵2図と、版行された絵より複雑で詳細な墨書きがなされた初稿と考えられる版下絵が3図伝わることから、本来浮世絵で通例の全12図の版行予定だったと想像される。しかしこれでは手間がかかり採算に合わないと版元に拒否され、北斎はしぶしぶ修正したが、残り2図は結局折り合いがつかないままお蔵入りとなったと考えられる。
諸国滝廻り
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた大判錦絵による名所絵揃物全8図で、版元は『富嶽三十六景』と同じ西村屋与八(永寿堂)。天保4年(1833年)頃、前北斎為一筆。
「下野黒髪山 きりふりの滝」 「相州 大山ろうべんの瀧」 「東都葵ケ岡の滝」 「東海道坂ノ下 清流くわんおん」 「美濃ノ国 養老の滝」 「木曽路ノ奥 阿彌陀ヶ瀧」(#3) 「木曾海道 小野ノ瀑布」 「和州吉野義経 馬洗滝」
諸国名橋奇覧

『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』
飛騨と越中の国境に架かる吊り橋を樵(きこり)の夫婦が渡っていく。橋には手すりとて無く、たわむ様子が緊張を誘う。雲海に沈んだ谷は底が知れない。行く手の山には2頭の鹿が草を食み、鳥は高い空を悠然と舞う。
全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵。天保4 – 5年(1833年 – 1834年)、前北斎為一筆。描かれた橋の多くは実在するが、伝説上の橋も含まれている。
「摂州安治川口天保山」 「かめゐど天神たいこばし」 「足利行道山くものかけはし」 「すほうの国きんたいはし」「山城あらし山吐月橋」 「ゑちぜんふくゐの橋」 「摂州天満橋」 「飛越の堺つりはし」「かうつけ佐野ふなはしの古づ」 「東海道岡崎矢はぎのはし」 「三河の八ツ橋の古図」
肉筆画帖

『肉筆画帖 鷹』 全10図中の第2図。(長野県小布施町、北斎館所蔵)
にくひつ がじょう。全10図一帖からなる晩年の傑作。肉筆画(紙本着色)でありながら版元の西村屋与八から売り出された。天保5 – 10年(1834年 – 1839年)、前北斎為一改画狂老人卍筆。正式な作品名称は、木版刷りの原題簽より「前北斎卍翁 肉筆画帖」。天保の大飢饉(1833年 – 1839年)の最中、版元たちとともに休業状態に追い込まれた北斎は一計を案じ、肉筆画帖をいくつも描いて店先で売らせることで餓死を免れたと伝えられる。ただし、大飢饉の前に出された肉筆画帖発売の広告も知られている。現存全図が揃った完全な状態で残っているのは3帖のみであるが、肉筆画帖は当時、もう少し多く発売されていたらしい。
「福寿草と扇面」「鷹」「はさみと雀」 「桜花と包み」 「蛇と小鳥」 「不如帰と虹」 「鰈と撫子」(#16) 「蛙とゆきのした」(#15) 「鮎と紅葉」(#14) 「塩鮭と鼠」(#13)。北斎館、香雪美術館、葛飾北斎美術館所蔵で、香雪本が最も原装に近い。3冊の収録順もそれぞれ入れ違いが見られるが、現在当初の並び順を知るのは不可能である(上記は北斎館の順番)が、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる。
富嶽百景

『富嶽百景』 二編9丁より「海上の不二」
砕け散る波頭は千鳥の群れと一体となり遠方の富士の峰へと降りかかる。
3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(北斎改為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。
しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した跋文(後書き)である。
己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
百人一首乳母が絵説
天保6年(1835年)から天保9年(1838年)、北斎卍筆。百人一首の歌意を乳母が判りやすく絵で説くとの企画のもと製作された、北斎最後の大判錦絵揃物。全100点の予定だったが、版元の西村与兵衛が版行途中で没落したため、「猿丸太夫」など27枚で中断(内1枚は校合摺のみ)。また当初の企画に反して、実際の絵ではかえって解釈し難い図も多く含まれており、当時は不評だったことも中断の理由と考えられる。北斎自身はこの企画に強い意欲があったらしく、全100図の版下絵を描いていたと見られる。現在、版行作品と校合摺、版下絵など合計91点確認されており、版下絵は遺存する数の多さや繊細な表現から晩年期における北斎肉筆画の基準作として重要。フリーア美術館や大英博物館などに分蔵。
信州小布施の肉筆画

信州小布施 東町祭屋台天井絵 『龍図』(桐板着色肉筆画)
信州小布施を生地とし造酒業を主とした豪農商にして陽明学等学問にも通じた高井鴻山(文化3年 – 明治16年〈1806年 – 1883年〉)は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、旅の道すがらとでもいった様子で齢83の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、アトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を建てて厚遇。以来、北斎の当地への訪問は4度にわたり、逗留中は鴻山の全面的援助のもとで肉筆画を手がけ、独自の画境に没入していった。このとき描かれたものが、小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、岩松院の天井絵である。
祭屋台天井絵
上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『鳳凰図』(#8)および『龍図』の2図がある。
『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものであるが、当時は禁制下にあったにもかかわらずキリシタンのものを髣髴(ほうふつ)とさせる1体の有翼天使像が含まれている。
八方睨み鳳凰図

岩松院 『八方睨み鳳凰図』下絵
はっぽうにらみ ほうおうず。長野県小布施町にある曹洞宗寺院・岩松院の本堂、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年(1848年)、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品である。肉筆画(桧板着色)。
由良哲次説によると、北斎は83歳のときを初めとして4度、小布施を訪れているが、本作は、4度目の滞在時のおよそ1年を費やして描き込まれ、渾身の一作を仕上げた翌年、江戸に戻った北斎は齢90で亡くなったと考証された。しかし現在では、本図が描かれたとされる嘉年元年6月に、北斎は江戸浅草で門人・本間北曜と面談し、北曜に「鬼図」(現佐野美術館蔵)を与えていた事実が確認され、北斎が89歳の老体をもって小布施を訪れ、直接描いたとする説には否定的な見解が強くなっている。(娘の葛飾応為が手伝って描いたものではないかと推測されている)。
21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものである。植物油性岩絵具による画法で、中国・清から輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150両と記録される。加えて金箔4,400枚を用いて表現された極彩色の瑞獣は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられている。
なお、平成2年(1990年)には、画面中央下にあって逆さまの三角形を形作る白い空間(右に示した下絵では黒い空間)が富士山の隠し絵であることが、当時の住職によって発見されている。また、製作手段については、下で描いて完成させたものを天井に吊り上げたと推定されている。[要出典]
喜能會之故眞通

『喜能會之故眞通 蛸と海女』
詳細は「喜能會之故眞通」を参照
きのえのこのまつ。春画の揃物(色摺半紙本)で、その中の1図「蛸と海女」が有名である。文政3年(1820年)頃。
肉筆浮世絵

『潮干狩図』(大阪市立美術館蔵、重要文化財)

『二美人図』(MOA美術館蔵、重要文化財)
「鐘馗図」 絹本着色 葛飾北斎美術館所蔵 「叢春朗画」の落款、花押あり
「化粧美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「鯉と亀図」 紙本着色 埼玉県立博物館所蔵
「漢武人一人立図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
「獅子図屏風」 紙本着色 2曲1双 東京国立博物館所蔵
「七面大明神応現図」 紙本着色 茨城・妙光寺所蔵 東京国立博物館寄託
「西瓜図」 絹本着色 三の丸尚蔵館所蔵 天保10年(1839年)
「月下歩行美人図」 紙本着色 出光美術館所蔵 山東京伝賛
「春秋美人図」 絹本着色 双幅 出光美術館所蔵
「風俗三美人図」 紙本着色 3幅対 浮世絵太田記念美術館所蔵
「源氏物語図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「茶摘み図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「見立三番叟図」 紙本着色 3幅対 浮世絵太田記念美術館所蔵
「雨中の虎図」 紙本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「ほととぎす虹図」 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「蚊帳美人図」 落款判読不能 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
「弁慶図」 無款 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆) 扇子に「北□」の書込みあり
「鬼は外図」 無款 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
「十六羅漢図」 無款 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
「酔余美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「若衆文案図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「雪中張飛図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「見立児島高徳図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「寿布袋図」 紙本淡彩 鎌倉国宝館所蔵
「阿耨観音図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
「三番叟図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
「桜に鷲図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「鶴図屏風」 絹本着色 2曲1雙 鎌倉国宝館所蔵
「春日山鹿図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「蛸図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
「波に燕図」 紙本着色 扇面 鎌倉国宝館所蔵
「小雀を狙う山かがし図額」 絹本着色 1面 鎌倉国宝館所蔵
「一枚物各種(いもの葉に虫図など)」 紙本着色 11枚 鎌倉国宝館所蔵
「画帖(若竹と雀図他)」 紙本着色 1冊(4枚) 鎌倉国宝館所蔵
「井手玉川図」 紙本着色 千葉市美術館所蔵
「日・龍・月図)」 紙本着色 3幅対 光記念館所蔵
「浅妻舟図」 紙本着色 光記念館所蔵
「日蓮図」 紙本着色 光記念館所蔵
「黄石公張良図」 紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「馬上農夫図」 紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「養老の孝子図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「二美人図」 絹本着色 MOA美術館所蔵 重要文化財
「汐干狩図」 絹本着色  大阪市立美術館所蔵 重要文化財
「柳下傘持美人図」 絹本着色 北斎館所蔵
「八朔太夫図」 紙本着色 北斎館所蔵
「夜鷹図」 紙本淡彩 細見美術館所蔵
「東方朔と美人図」 紙本着色 葛飾北斎美術館所蔵
「来燕帰雁図」 絹本着色 吉野石膏所蔵
「狐狸図」 紙本着色 双幅 個人所蔵
「花魁図」 紙本着色 ミネアポリス美術館所蔵
「遊女図」 紙本着色 フリーア美術館所蔵
「雷神図」 フリーア美術館所蔵
「雑画巻」 紙本着色 1巻 フリーア美術館所蔵
「五美人図」 絹本着色 シアトル美術館所蔵
「鳳凰図屏風」 紙本着色 八曲一隻 ボストン美術館所蔵
「鎮西八郎為朝図」 絹本着色 大英博物館所蔵 文化8年(1811年) 滝沢馬琴賛 『椿説弓張月』5編28巻が完結したのを記念して、版元の平林庄五郎の依頼で描かれた作品。

狩野 永悳(かのう えいとく、文化11年12月15日(1815年1月24日) – 明治24年(1891年)1月29日)は幕末から明治期の狩野派の絵師、日本画家。安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳と同じ読みであるが、無論別人である。狩野栄信の六男。兄に木挽町を継いだ長兄狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次兄朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五兄狩野董川中信がいる。

略伝
江戸木挽町に生まれる。本名は立信、幼名は熊五郎、晴雲斎とも号した。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。嘉永元年(1848年)幕府御用絵師となり、安政4年(1857年)法橋、翌年法眼に除す。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、弘化年間の江戸城本丸御殿再建における障壁画制作など、幕府御用を多く手がけた。
明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多くの作品を描く。明治11年(1878年)に来日し日本美術の研究を始めたアーネスト・フェノロサに、古画の研究と鑑定法を教授する。甥の狩野友信と連書で、フェノロサに一代狩野姓を許し「狩野永探理信」の名を与えるなど、日本における美術史学の形成にも間接的に寄与した。明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会には審査員として「虎渓三笑図」を出品、銀賞を受ける。鑑画会には古画の鑑定委員として設立当初から参加しているが、フェノロサの関心が新画工の育成に移ると次第に離れていく。明治20年(1887年)明治宮殿杉戸絵を揮毫し、同22年(1889年)臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛となる。明治23年(1890年)10月2日帝室技芸員となり、「狩野家鑑定法ニ就テ」(『国華』12号)を著したが、翌年77歳で亡くなった。戒名は永悳院殿晴雪斎立信日善大居士。墓所は池上本門寺。
弟子に、一時は養子となった武内桂舟、同じく養子となり中橋狩野家16代当主を継いだ狩野忠信、鑑画会の中心画家として活躍した小林永濯、田中(狩野)永雲。また、川辺御楯も最初永悳に学び、河鍋暁斎は晩年狩野派を継承するため、永悳に入門し直している。

狩野 養信(かのう おさのぶ、寛政8年7月26日(1796年8月18日) – 弘化3年5月19日(1846年6月12日))は、近世日本に生きた画家の一人。江戸時代後期の木挽町家狩野派9代目の絵師である。文化10年(1813年)まで、その名「養信」は「たけのぶ」と読む。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。父は狩野栄信、子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる。号は晴川院、会心斎、玉川。多作で狩野派最後の名手と言われる。

略歴

「Three Cranes Flying in a Misty Landscape」 ウォルターズ美術館蔵
伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来、松尾多宮直常の娘。15歳で初めて江戸城に出仕し、しばしば父親から観能会などの公務を押しつけられたようである。出仕する前日から、没する前日までの36年間にもわたる『公用日記』(52冊は東京国立博物館蔵、4冊は諸家分蔵)は奥絵師の日常や仕事の詳細を伝えるものとして貴重である。
もともと、彼の名「養信」の読みは「たけのぶ」であったが、文化10年(1813年)、将軍・徳川家慶に長男・竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。さらに、この竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号・玉川を音通を避けて「晴川」とした。
文政2年(1819年)に法眼になり、文政11年(1828年)には父の死を受けて家督を相続し、天保5年(1834年)、法印に叙せられた。天保9年から10年(1838年から1839年)には江戸城西の丸御殿、天保15年から弘化3年(1844年から1846年)には本丸御殿の障壁画再建の総指揮を執った。養信がその後亡くなったのは、生来病弱な上に、相次ぐ激務による疲れであったと推測されている。
なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けている。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事してもいる。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられている。他の弟子に、阿波藩御用絵師の中山養福、松代藩絵師の三村晴山、弘前藩の御用絵師の新井晴峰、糺晴岱、狩野養長、岩崎信盈、林伊教など。
昭和61年(1986年)春、東京国立博物館が、明治時代から所蔵されてはいたが殆ど調査されていなかった、264巻にも及ぶ江戸城本丸御殿障壁画の下絵を研究するプロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトは館外の研究者も参加する大規模なもので、養信の「公用日記」の重要性が改めて確認されると共に、養信の画業が見直される契機となった。この時の成果は、『江戸城障壁画の下絵』にまとめられている。

模写にかける情熱

狩野養信・狩野雅信 模写 『七十一番職人歌合』二十四番、僧形の「一服一銭(室町時代の茶屋)」が抹茶を勧めている。東京国立博物館本三巻の内、中巻(部分)。養信最晩年の弘化3年(1846年)作。息子雅信と共署名。
養信は模写に尋常ならざる情熱を注いだ。東京国立博物館にあるものだけでも、絵巻150巻、名画500点以上にも及ぶ。原本から直接写したものは非常に丁寧で、殆ど省略がなく、詞書の書風や絵具の剥落、虫損まで忠実に写し取っている。模本からの又写しは色も簡略で、詞書も省略したものが多い。また、既に模本から模写済みの作品でも、原本やより良い模本に巡り会えば再度写し直しおり、少しでも原本に近い模本を作ろうとした姿勢が窺える。関心も多岐にわたり、高野山学侶宝蔵の調度、舞楽面、装束を写した6巻や、掛け軸の表装の紙や裂まで描いてあるものもあり、養信の旺盛な学習意欲が窺われる。
150巻という数字に表れているように、特に古絵巻の模写に心血を注ぎ、多くの逸話が残る。徳川将軍家の倉からはもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家の狩野祐清邦信や住吉家の住吉弘定らを始めとする諸家から原本や模本を借りては写した。京都の寺の出開帳があれば写しに出向き、さらに公務で江戸を離れられない自分の代わりに、京都・奈良に弟子を派遣して写させた。他にも、当時まだ若年だった冷泉為恭に「年中行事絵巻」の模写を依頼している。ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるように、寺社奉行から許可まで取り付けた。その情熱は、死の12日前まで当時細川家にあった蒙古襲来絵詞を写していたほどで、生涯衰えることはなかった。最も早い時期の模写は数え年11歳の時であり、父である栄信の指導、発想があったのではと疑われる。江戸中期以降、画譜や粉本が出版され、狩野派が独占していた図様・描法・彩色などの絵画技法や方法論が外部に漏れていった。養信が模写に懸命になったのは、こうした動きに対抗し、質の高い粉本を手に入れ狩野派を守ろうとしたためであろう。
そうした模写の中には、江戸城西の丸御殿や本丸御殿の障壁画など、現存しない物や原本の所在が不明な物も含まれており、研究者にとっては貴重な資料である。狩野典信以来、木挽町家に引き継がれてきた古画の学習を、養信は一段と推し進め、大和絵を完全に自らの画風に採り入れた。これは、江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。養信の公用を離れた古絵巻の模写は、大きな楽しみだった反面、一種の逃避とも取れる[2]。
平成15年(2003年)、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出されて頭部が復元された。その面長で端整な顔立ちは、几帳面で消化器系が弱かったという養信の人物像を彷彿とさせる。この復元模型は、池上本門寺で保管されている。

狩野 栄信(かのう ながのぶ、安永4年8月30日(1775年9月24日) – 文政11年7月4日(1828年8月14日)は江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。

略伝
狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。
こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。

狩野 典信(かのう みちのぶ、享保15年11月11日(1730年12月20日) – 寛政2年8月16日(1790年9月24日))は江戸時代中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。父は狩野古信で、子に狩野惟信がいる。

伝記
幼名庄三郎、号は栄川、栄川院、白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。僅か2歳で父・古信と浜町狩野家から養子入りし養父となっていた受川玄信(はるのぶ)を相次いで亡くし、以後母に育てられる。母妙性尼は水戸藩家臣・岡部忠平以直の娘で、この母が幼少の典信の代わりに公務を勤めたようだ。寛保元年(1741年)12歳の時、同朋格奥詰の岡本善悦を介して将軍徳川吉宗にお目見えし、画巻を献上する。吉宗は「栄川幼しといえども、はや衆人を越たり」と賞した上で、自身が名手と慕う狩野探幽を超えたければ探幽が学んだ古画に学べ、と指示した。宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。
典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたという。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すれば旧来の家屋敷は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。ただその一方で、『よしの冊子』では松平定信とも「御懇意にて」と記されている。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5、60人を下らなかったという。
安永9年(1780年)に法印となり栄川院を名乗る。同年11月、翌年の日蓮五百遠忌と母への報恩のため「日蓮聖人縁起絵巻」を、木挽町狩野家の菩提寺である池上本門寺に奉納した(戦災で消失)。寛政2年(1790年)新造御所の障壁画制作を主導するさなか、賢聖障子の下絵を完成させた直後亡くなった。この賢聖障子絵は典信と住吉廣行の共同制作として記録された(『禁裏寛政御造営記』)。法名は法壽院殿典信日妙大居士。池上本門寺に残る顕彰筆塚には、寡黙、真面目、清廉な人柄だったと記されている。
門人に鈴木鄰松や、津山藩御用絵師の狩野如水由信、後に浮世絵師になった鳥文斎栄之などがいる。また、弟子に狩野白珪斎という絵師がおり、この白珪斎の弟子が渓斎英泉だったという。
狩野派の変革
18世紀半ば、南蘋派の流入が契機に本格的な民間画壇が育ち始めると、形骸化が進んでいた狩野派は飽きられ顧客が奪われ始めた。これに危機感をもった典信は、漢画の力強い描線を復活させることにより弱体化した狩野派の再建を目指した。こうした試みが将軍の好みと合致したのが、典信が寵愛を受けた理由であろう。絵画表現においてはやや戯画にはしり、典信の意図は完全に成功したとは言い難い面があるけれども、その意欲や地歩は後の木挽町家の絵師に引き継がれ、木挽町家が幕末まで奥絵師4家の中で最も繁栄することとなる。

塚本やすし(つかもと やすし、YASUSHI TSUKAMOTO、1965年 – )は、絵本作家、イラストレーター、装丁家、エッセイスト、アートディレクター、漫画家。

人物
1965年東京都墨田区東駒形出身東京都墨田区に生まれ、光の園保育学校を卒園。墨田区立横川小学校卒業。墨田区立本所中学校卒業。私立本郷高校デザイン科卒業。 幼少の頃より独学で絵を学び路上でもチラシの裏でもなんでも絵を描きまくる。コンペで長新太や吉田カツの審査で入選。 主な仕事に『小説新潮』の表紙絵。重松清『とんび』(東京新聞連載)挿絵、沢田俊子『うめぼしばあばのおべんとう』(毎日新聞連載)挿絵、河合隼雄『ココロの止まり木』(週刊朝日、連載)挿絵『くちぶえ番長』(新潮社)、『どんまい』(講談社『小説現代』連載)、オグ・マンディーノ『ジュニア版十二番目の天使』(求龍堂)赤川次郎『三毛猫ホームズシリーズ』(光文社『小説宝石』連載)、エッセイ書き下ろし「猫とスカイツリー 下町ぶらぶら散歩道』(亜紀書房)『小説宝石』(光文社)連載文藝水彩漫画・「文士文豪妄想日記」など。 装丁家、挿画家として千冊以上の本も手がける。デザイン会社・広告代理店勤務。その後、絵本作家となる。絵本「やきざかなののろい」(ポプラ社)第6回リブロ絵本大賞・大賞を受賞。絵本「戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」」(朝日新聞出版)第7回ようちえん絵本大賞・大賞を受賞。 絵本「しんでくれた」詩・谷川俊太郎(佼成出版社)第25回けんぶち絵本の里大賞びばからす賞を受賞。「戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」(2015年/朝日新聞出版 /「自由と平和のための京大有志の会」/作)第7回ようちえん絵本大賞・大賞を受賞。
「小説宝石」にて「細川貂々&塚本やすしの、あのとき私はこうだった!壮絶な日々を振り返る、ドタバタうつ病回顧録」連載中。

絵本
とうめいにんげんのしょくじ(2015年/ポプラ社)
歌(2015年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/谷川俊太郎郎]]/詩)
戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」(2015年/朝日新聞出版 /「自由と平和のための京大有志の会」/作)第7回ようちえん絵本大賞・大賞を受賞。
公園戦隊ダレダーマン(2015年/文芸社/山田はるか/作)
うんこ(2015年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/谷川俊太郎/詩)
いのりの石―ヒロシマ・平和へのいのり(2015年/フレーベル館)
いきものとこや(2014年/アリス館)
やきざかなののろい(2014年/ポプラ社)第6回リブロ絵本大賞・大賞を受賞。
まねっこたいそう うさぎちゃん(2014年/そうえん社)
しんでくれた(2014年/佼成出版社/谷川俊太郎/詩)第25回けんぶち絵本の里大賞のびばからす賞を受賞。
アイススケートペンギン(2014年/ディスカヴァー・トゥエンティワン)・町田樹選手より応援メッセージが来る。
せんそう・1945年3月10日 東京大空襲のこと(2014/年東京書籍/塚本千恵子/文)東京新聞・朝日新聞・共同通信より取材を受ける。
おでんしゃ(2013年/集英社)
むらをすくったかえる(2013年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/サトシン/作)
あいうえおのき (知育絵本「えほんのき」シリーズ) (2012年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/ことはてんこ/文)
えいごのき (知育絵本「えほんのき」シリーズ) (2012年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/ことはてんこ/文)
すうじのき (知育絵本「えほんのき」シリーズ) (2012年/ディスカヴァー・トゥエンティワン/ことはてんこ/文)
介護のえほん だいじょうぶだよ、おばあちゃん(2012年/講談社の創作絵本/福島利行/文) 訪問介護員取得。
はやくおおきくなりたいな(2012年/佼成出版社/サトシン/作)
みずぼうそうウイルスのみず丸(2012年/ポプラ社/岡田晴恵/作)
あいうえおたくはいびん(2011年/くもん出版/ことはてんこ/文)
そのこ(2011年/晶文社/谷川俊太郎/文)・青少年読書感想文全国コンクール・全国学校図書館協議会長賞。
このおっぱいだあれ(2011年/サンマーク出版)
はしれ!やきにくん(2011年/ポプラ社)
このすしなあに(2010年/ポプラ社)
ふたり★おなじ星のうえで(2007年/東京書籍/谷川俊太郎/文 谷本美加 /写真)
レタスの絵本 (そだててあそぼう)(2005年/農山漁村文化協会/つかだ もとひさ/つかもとやすし)
パクパクいろいろごはん (おくむらあやお ふるさとの伝承料理)(2006年/農山漁村文化協会/奥村 彪生)
エッセイ
プチタンファン(子育てエッセイ漫画連載)
東京人(都市出版(株) 東京人編集室)
猫とスカイツリー 下町ぶらぶら散歩道(2012年/亜紀書房)・東京新聞より取材を受ける
小説宝石 (光文社)にて「細川貂々&塚本やすしの、あのとき私はこうだった!壮絶な日々を振り返る、ドタバタうつ病回顧録」連載中。

鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 – 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治~昭和期の浮世絵師、日本画家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。
近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。

経歴

(1951年)
清方は1878年、東京・神田に生まれた。本名は健一。父は条野採菊といい、山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。14歳の1891年(明治24年)、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した。翌年には日本中学をやめ、画業に専心している。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も21歳、明治31年(1898年)の第5回日本絵画協会展に初めて大作を出品した。以降、美人、風俗画家として活動を始めるが、青年期に泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。
1901年(明治34年)には仲間の画家らと烏合会(うごうかい)を結成。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となる。初期の代表作として『一葉女史の墓』(1902年)がある。少年期から樋口一葉を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残している。その後1916年(大正5年)には吉川霊華(きっかわれいか)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)らと金鈴会を結成するが、清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ。1927年(昭和2年)、第2回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続け、泉鏡花の作品の挿絵も描いている。清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残している。
第二次大戦の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後の晩年は鎌倉に住んだ。関東大震災と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続けた。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員となる。1954年(昭和29年)、文化勲章を受章。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は1972年(昭和47年)、93歳で没した。晩年を過ごした鎌倉市雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられている。墓所は台東区の谷中墓地にある。
挿絵画家出身で、浮世絵の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、代表作の一つに数えられている。清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に、林緑水、石井滴水、西田青坡、松田青風、伊東深水、山川秀峰、寺島紫明、笠松紫浪、柿内青葉、大久保青園、川瀬巴水、小早川清、鳥居言人、古屋台軒、北川一雄、桜井霞洞、大林千萬樹、増原宗一、山田喜作、天沼青蒲、千島華洋、林杏華、津村青芽、野口青華、岡本更園らがいた。また、1899年(明治32年)頃、尾上多賀之丞 (3代目) も清方に入門していた。

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 – 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。

来歴・人物
1891年(明治24年)、明治の先覚者、岸田吟香の四男として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選している。
1911年(明治44年)『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになった。劉生自身生前は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)、『演劇美論』(刀江書院)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年~1980年)にまとめられた。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる。(なお、ヒュウザン会展は2回で終了し、1913年(大正2年)の第2回展ではフュウザン会と改称していた)。劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。
1915年(大正4年)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢らであった。草土社は1922年(大正11年)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。大正4年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。
1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる。庭に土俵を設け、来客と相撲に興じた)。1918年(大正7年)頃から娘の岸田麗子(1914年~1962年)の肖像を描くようになる。
1920年(大正9年)、30歳になったことを期に日記をつけはじめ、『全集』の一部や『劉生日記』(全5巻、岩波書店、1984年)にまとめられている。没するまでの幅広い交友関係が窺われる。劉生を慕って草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり、中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた。1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散の形になったが、劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。
1929年(昭和4年)、南満州鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。帰国直後、滞在先の山口県徳山(現・周南市)で胃潰瘍と尿毒症のため死去する。38歳の若さであった。墓所は多磨霊園にある。
当時から潔癖症で知られており、汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたことがある。病的な神経質でもあり、くしゃみをすればアスピリンを服用し、寒い時には布団を五・六枚掛けたり、トイレでは紙を一丈使っていたという。また、癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らすなど、社交的とはいい難い人物であった。
晩年までパリに行くことが願望であったが、「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語していた。
代表作

道路と土手と塀(切通之写生)

童女図/麗子立像(1923年,神奈川県立近代美術館)
「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年、東京国立近代美術館)(重要文化財)
「壺の上に林檎が載って在る」(1916年、東京国立近代美術館)
「麗子肖像(麗子五歳之像)」(1918年、東京国立近代美術館)
「麗子微笑」(1921年、東京国立博物館)(重要文化財)

木村 荘八(きむら しょうはち、1893年(明治26年)8月21日[1] – 1958年(昭和33年)11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。

生涯

牛肉店帳場
木村の生家を基に描かれた。奥の帳場に座っているのは木村自身である。

新宿駅
牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年(明治43年)に同校を卒業した。
旧制中学卒業後の翌1911年(明治44年)、長兄の許可を得て白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差すこととなる。翌1912年(明治45年)、岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会の結成に参加した。1913年(昭和2年)にいろは牛肉店から独立し、美術に関する著作・翻訳を行う傍ら洋画を描き注目された。1915年(大正4年)、劉生たちと共に草土社を結成、1922年(大正11年)まで毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね、1918年(大正7年)に院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞した。
1922年、春陽会創設に客員として参加し、1924年(大正13年)に同正会員となりそこで作品の発表を続けた。1928年(昭和3年)に油絵『パンの会』を発表する。1936年(昭和11年)からは春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わった。
1924年以降は挿絵の仕事が増し、1937年(昭和12年)には永井荷風の代表作『濹東綺譚』(朝日新聞連載)においても挿絵を担当し大衆から人気を博した。他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』に加え、『激流 渋沢栄一の若き日』、『鞍馬天狗敗れず』がある。
新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた。また、1945年(昭和20年)頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している。
晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作(『東京の風俗』、『現代風俗帖』など)を多数出版、数度再刊された。多忙のため病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し1958年11月18日に東大病院において病没した。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞した。
異母姉・木村曙や同母兄・木村荘太、異母弟・木村荘十はいずれも作家となった。異母弟・木村荘十二は映画監督である。

酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) – 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。

伝記

月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文
生い立ち
神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)6月1日17歳で元服して1,000石を与えられるが、同年忠以に長男忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。古河藩主土井利厚などから養子に行く話も多くあったが、抱一は全て断った(理由は不明)。こうした複雑な環境が抱一を風雅な道へと進ませたと言えるかもしれないが、江戸時代に同じ環境にあった大名子弟は多くいたにもかかわらず、今日文化史に名を残した者は増山雪斎や幕臣出身の浮世絵師鳥文斎栄之、水野廬朝などごくわずかしかおらず、抱一の何かを表現したいという情熱は似た境遇の同輩とは一線を画している。
若き日の遊興
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊郭に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信に手解きを受けたようだが、酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵、豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)なども描いている。抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、知人の大田南畝が狂詩を加賛している。抱一の美人画は、初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。画号も新たに持たず、俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている。
俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。後の文化9年(1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した。狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わり、狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。
出家

書画扇面散図 谷文晁、春木南湖、亀田鵬斎、菊池五山との寄合書 ブルックリン美術館所蔵
寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、 兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。また、谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。また、市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
光琳の発見
抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、その作品が残っていたことも幸いしている。また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。
光琳百回忌
文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。
雨華庵の上人 抱一様式の確立

雪月花図 MOA美術館
文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵[5]で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。
門人に鈴木其一、池田孤邨、酒井鶯蒲、田中抱二、山本素堂、野崎抱真らがいる。

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) – 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。

略歴


生い立ち
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。
洋画家を目指して
ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。

谷文晁(たに ぶんちょう、宝暦13年9月9日(1763年10月15日) – 天保11年12月14日(1841年1月6日))は、江戸時代後期の日本の画家。
名は正安。はじめ号は文朝・師陵、後に文晁とし字も兼ねた。通称は文五郎または直右衛門。別号には写山楼・画学斎・無二・一恕。薙髪して法眼位に叙されてからは文阿弥と号した。江戸下谷根岸の生まれ。

生涯
出自
石山寺縁起絵巻 第6巻(部分)
石山寺縁起絵巻 第6巻(部分)
石山寺縁起絵巻 第7巻(部分)
石山寺縁起絵巻 第7巻(部分)
祖父の本教ははじめ下役人であったが経済的手腕に優れていたため立身し民政家として聞こえ、田安家に抜擢され治績を残した。父麓谷も田安家家臣となり漢詩人として名を知られた。このような文雅の家系に育った文晁は文才を持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などもよくした。菊池五山の『五山堂詩話』巻3に文晁の漢詩が掲載されている。
画業

木村蒹葭堂像
12歳の頃 父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃 中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事した。20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌 につき北宋画を修めた。鈴木芙蓉にも学んだとされるが確かではない。その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学んだ。26歳の時長崎旅行を企て、 大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉より正式な南画の指南を受けた。木村蒹葭堂の死後、その死を悼み遺族に肖像画を贈っている。長崎に着いてからは張秋谷に画法を習い一月余り滞在した。 古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指した。その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び画様の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に 関東南画壇の泰斗となった。
仕官
26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき 田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った。また「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。 小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。
旅と山
文晁は自他共に認める旅好きで30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は四、五か国に過ぎなかったという。旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図譜』として刊行した。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。
画塾写山楼
画塾写山楼には多くの弟子が入門。渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。なお、この写山楼は二階建て・二十畳であった。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われた。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だった。弟子思いの師として有名であるが、権威主義的であるとの批判も残される。
定信の隠居後、文晁は長年の功績により恩給を受け格式は奥詰のまま写山楼にて画業に専念。妻の谷幹々(林氏)、妹 秋香、紅藍らも女流画家として知られる。実弟の島田元旦も画を得意としており、養子谷文一、実子谷文二も画技に優れ、谷一門は隆盛した。しかし、後継者と目された文一、文二がともに夭折したため写山楼はその後、零落した。
晩年
亀田鵬斎、酒井抱一とは「下谷の三幅対」と評され、享楽に耽り遊びに興じたが最期まで矍鑠として筆をふるった。文政12年(1829年)この年定信が歿し、67歳になった文晁は御絵師の待遇を得て剃髪した。75歳の時に法眼位に叙され文阿弥と号する。
天保11年(1841年)歿。享年79。墓所は浅草源空寺、法名「本立院生誉一如法眼文阿文晁居士」。
辞世の句 ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月
作品

(左)寛政文晁 落款
(中)烏文晁 落款
(右)公余探勝図 下田
熊野舟行図 上巻(部分)
熊野舟行図 上巻(部分)
熊野舟行図 下巻(部分)
熊野舟行図 下巻(部分)
作風
寛政文晁 寛政年間(1789年 -1801年 27歳-38歳)の作品。特に評価が高い。
烏文晁(落款が烏の足跡に似ていることから。蝶々文晁ともいう) 文化中期 – 天保期(1811年 – 1840年)の作品。濫作期ともいわれるが優品も多い。
代表作
公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館
青山園荘図稿 寛政9年(1797年)重要文化財・出光美術館
戸山山荘図稿 寛政10年(1798年)重要文化財・出光美術館
木村蒹葭堂像 享和2年(1802年)重要文化財・大阪府教育委員会蔵(大阪市立美術館保管)
八仙人図  享和2年(1802年)静嘉堂文庫美術館
彦山真景図 文化12年(1815年)東京国立博物館
鑑定
文晁は鷹揚な性格であり、弟子などに求められると自分の作品でなくとも落款を認めた。また画塾 写山楼では講義中、本物の文晁印を誰もが利用できる状況にあり、自作を文晁作品だと偽って売り、糊口をしのぐ弟子が相当数いた。購入した者から苦情を受けても「自分の落款があるのだから本物でしょう」と、意に介さなかったという。これらのことから当時から夥しい数の偽物が市中に出回っていたと推察できる。従って鑑定に当たっては落款・印章の真偽だけでは充分ではない。
刊行物
『日本名山図譜』
『歴代名公画譜』 明代の『顧氏画譜』の模写
『本朝画纂』
『画学大全』
『写山楼画本』
『文晁画談』
『近世名家肖像図巻』監修
『漂客奇賞図』翻刻
『歴朝名公款譜』鑑定

交友
(左)八仙人図              (右)青緑山水図
松平楽翁
木村蒹葭堂
亀田鵬斎
酒井抱一
市河寛斎
市河米庵
菅茶山
立原翠軒
古賀精里
香川景樹
加藤千蔭
梁川星巌
賀茂季鷹
一柳千古
広瀬蒙斎
太田錦城
山東京伝
曲亭馬琴
十返舎一九
狂歌堂真顔
大田南畝
林述斎
柴野栗山
尾藤二洲
頼春水
頼山陽
頼杏坪
屋代弘賢
熊阪台州
熊阪盤谷
川村寿庵
鷹見泉石
蹄斎北馬
土方稲嶺
沖一峨
池田定常
葛飾北斎
広瀬台山
浜田杏堂

門弟
文晁門四哲
渡辺崋山
立原杏所
椿椿山
高久靄厓
谷家一門
島田元旦
谷文一
谷文二
谷幹々
谷秋香
谷紅藍
田崎草雲
金子金陵
鈴木鵞湖
亜欧堂田善
春木南湖
林十江
大岡雲峰
星野文良
岡本茲奘
蒲生羅漢
遠坂文雍
高川文筌
大西椿年
大西圭斎
目賀田介庵
依田竹谷
岡田閑林
喜多武清
金井烏洲
鍬形蕙斎
枚田水石
雲室
白雲
菅井梅関
松本交山
佐竹永海
根本愚洲
江川坦庵
鏑木雲潭
大野文泉
浅野西湖
村松以弘
滝沢琴嶺
稲田文笠
平井顕斎
遠藤田一
安田田騏
歌川芳輝
感和亭鬼武
谷口藹山
増田九木
清水曲河
森東溟
横田汝圭
佐藤正持
金井毛山
加藤文琢
山形素真
川地柯亭
石丸石泉
野村文紹
大原文林
船津文淵
村松弘道
渡辺雲岳
後藤文林
赤萩丹崖
竹山南圭
相沢石湖
飯塚竹斎
田能村竹田

月岡 芳年(つきおか よしとし、1839年4月30日(天保10年3月17日) – 1892年(明治25年)6月9日)は、日本の画家。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師である。姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英、そして最後に大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた。
河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている(後述)。

概説
歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師である。多数の作品があるなかで決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。
生涯
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。同年4月(4月)は旧暦4月(新暦4月)、同年4月(4月か5月)は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。

『奥州安達がはらひとつ家の図』
黒塚の鬼婆伝説を題材にした一図。気狂いして食人鬼と化した老女が今宵もまた捕らえてきた身重の女を吊るして今まさに解体しようとしている場面である。1885年(明治18年)に刊行されたが、明治政府は風紀を乱すとしてこれを発禁処分にした。

『月百姿』の内「達磨図」
1887年(明治20年)刊。

『英名二十八衆句』の内「稲田九蔵新助」図
無惨絵、いわゆる「血まみれ芳年」の一点

天保10年3月17日(1839年4月30日)、江戸新橋南大阪町(武蔵国豊島郡新橋南大阪町[現・東京都港区新橋地区内]。他説では、武蔵国豊島郡大久保[現・東京都新宿区大久保])の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎の養子となる(自称の説有り、他に父の従兄弟であった薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四条派の絵師についていたが、これでは売れないと見限って歌川国芳に入門したという話もある)。
嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)。武者絵や役者絵などを手掛ける。
嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』を一魁斎芳年の号で発表。
慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。
慶応2年(1866年)12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。明治元年(1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。続いて、明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。
明治3年(1870年)頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
1872年(明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。翌1873年(明治6年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努めた。
1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
1878年(明治11年)には天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
1879年(明治12年)に宮永町へ転居しているが、この時期、手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。
1882年(明治15年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、1884年(明治17年)に自由燈に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また、読売新聞にも挿絵を描く。
1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが、別れ、翌1884年(明治17年)、坂巻泰と正式に結婚する。
1885年(明治18年)、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』(当時の東京府における人気番付)明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾・小林永濯・豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。
晩年にあたる1891年(明治24年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
1892年(明治25年)、新富座の絵看板を右田年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。6月9日、東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)の仮寓(仮の住まい)で脳充血のために死亡した(享年54、満53歳没)。しかし、やまと新聞では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。
芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑が建てられた。
画風・画題

『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」
源義経(奥)とその家来である武蔵坊弁慶(手前)。1885年(明治18年)刊。

『大日本名将鑑』の内「神武天皇」
『日本書紀』における神武東征の一場面。神武天皇が携える弓の先にまばゆく輝く金鵄が留まり、それを目の当たりにした敵兵ども(右下)は怖れおののいている。1876- 1882年(明治9- 15年)間に刊行。
江戸川乱歩や三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。
もともと四条派の画家に弟子入りしたためか、本人の曰く「四条派の影響を強く受けた」肉筆画も手がけている。彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。
芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし、師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、昭和期以降に発展してきた漫画や劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。
歴史絵・武者絵
『大日本史略図会』中の日本武尊や、1883年(明治16年)の『藤原保昌月下弄笛図』など、芳年には歴史絵の傑作がある。明治という時代のせいか、彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせるものとなっている。
美人画・風俗画
美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性たちを描いた。
無惨絵
初期の作品『英名二十八衆句』(落合芳幾との競作)では、血を表現するにあたって、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は歌川国芳(一勇斎国芳)の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。当時はこのような見世物が流行っていた。
芳年は写生を大切にしており、幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年(1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、想像力を駆使して描くこともあり、1885年(明治18年)に刊行された代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』など、その一例と言える。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨は、この絵を見た後、芳年が多くの作品で実践するのと同じく実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験したという。そうして撮った写真を分析したところ、おかしな点があったため、モデルを仕立てての写生ではなく想像によって描かれたという結論に達した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は「師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろう」と答えたという。
その他の画題
月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで月の出てくる作品が多く、『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。幽霊画も『幽霊之図』『宿場女郎図』などを描いており、芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。

鳥居 清長(とりい きよなが、 宝暦2年〈1752年〉 – 文化12年5月21日〈1815年6月28日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。鳥居派四代目当主。鳥居派の代表的な絵師。
鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍し、それらや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人。特に堂々たる八頭身の美人画で、今日世界的に高く評価されている。

来歴

「美南見十二候 六月 品川の夏(座敷の遊興)」 天明4年(1784年頃)
鳥居清満の門人。江戸本材木町(現在の日本橋)の書肆白子屋関口市兵衛の子。関氏。俗称は市兵衛(一説に新助)。屋号は白子屋。住んでいた場所から「新場の清長」とも呼ばれた。
明和4年(1767年)に細判紅摺絵でデビュー。19歳より清長を名乗り(初めの号は長兵衛とされる)、安永(1772年‐1781年)年間に110点程の細判役者絵を残している。安永7‐8年(1778年‐1779年)頃から次第に鳥居派風を脱し、当時流行していた勝川春章らの似顔絵的な役者絵の影響を受けて紅摺絵から細判の錦絵に変わるが、役者絵の制作はすくない。代わって中判の美人画と黄表紙挿絵の制作が増えてくる。黄表紙は安永4年(1775年)から描き始め、天明2年(1782年)まで120点余りの作に挿絵しており。この時期の作画の中心であった。
「江戸のヴィーナス」
鳥居派は役者絵を専門とする画派だが、むしろ清長の本領は一世を風靡した「美南見十二候」、「風俗東之錦」、「当世遊里美人合」などの美人画にある。初期は初め細身で繊細な鈴木春信や北尾重政・礒田湖龍斎の作風を学んでいるが、天明(1781年‐1789年)期になると次第に諸家の影響を離れ、堅実な素描をもとに八頭身でどっしりとした体つきの健康的な美人画様式を創り上げた。大判二枚続、三枚続の大画面を使いこなし、現実的な背景に美人を群像的に配する清長の作風は美人風俗画と称され、後の大判続物発展の基礎を築いた。続物でありながら単体でも、全体を繋げて鑑賞しても破綻なくまとめられており、清長の高い手腕が窺える。また美人画の背景に、実際の江戸風景を写実的に描いたのは清長が最初であるとされる。
その他天明期の画業に、所作事の場面の背景に必ず長唄や常磐津連中などを書き込んだ「出語り図」を30点以上残し、舞台面をそのまま取入れた大判役者絵も描くなど、一段とリアルな作品を残した。また肉筆浮世絵も数は多くないが悉く優品で、彼の資質、力量を伝えている。特に「真崎の月見図」は代表作として知られている。隅田川の上流の真崎の渡し辺りの茶店で床机に腰を掛け、満月の清光を浴びる女性たちを描いており、月の光は水に良くたとえられるが、その光が水量豊かな川面に広がっている背景の爽やかさが印象的な作品である。
天明5年(1785年)、師である清満が没すると孫の庄之助が成長するまでの中継ぎとして、二年後の天明7年(1787年)鳥居家四代目を襲名する。その後は美人画からは遠ざり、鳥居派の家業である看板絵や番付などの仕事に専念し、晩年になると黄表紙、芝居本、絵本などに力を注いだ。享年64。墓所は墨田区両国の回向院。法名は長林英樹居士。墓石は地震や戦災など度重なる災禍で失われ、長らく過去帳のみ残っている状態だったが、平成25年(2013年)4月回向院境内にその画業を顕彰するため「清長碑」が建立された。
清長の門人として、鳥居清峰、鳥居清政、鳥居清元 (2代目) がいる。
代表作

「濱屋 川岸の涼み」 平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO蔵

「女湯」 ボストン美術館蔵(エドガー・ドガ旧蔵)川崎・砂子の里資料館蔵品と比べると、右から2番めの女性の陰部を赤い腰巻きで隠しており、これは日本からの輸出時に上手く修正したものと想定される。
錦絵
「大川端の夕涼」 大判3枚続 太田記念美術館所蔵、シカゴ美術館蔵 平木浮世絵美術館蔵品は重要文化財
「当世遊里美人合 たち花」 大判 東京国立博物館蔵など
「当世遊里美人合 辰巳艶」 大判 江戸東京博物館蔵
「当世遊里美人合 橘妓」 大判 ボストン美術館蔵
「当世遊里美人合 芸妓と若衆」 大判 山種美術館所蔵
「風俗東之錦 町家の袴着」 大判 江戸東京博物館蔵
「風俗東之錦 髪置」 大判 ボストン美術館蔵
「風俗東之錦 凧の糸」 大判 城西大学水田美術館蔵
「風俗東之錦 若君と侍女三人」 大判 山種美術館所蔵
「風流三ツの駒」 城西大学水田美術館蔵
「駿河町越後屋前」 三越資料館蔵
「美南見十二候 三月 御殿山の花見」 シカゴ美術館蔵
「美南見十二候 七月 夜の送り」 ホノルル美術館・ボストン美術館蔵
「美南見十二候 九月 漁火(いざよう月)」 千葉市美術館など蔵
「飛鳥山の花見」 東京国立博物館蔵
「亀戸の藤見」 シカゴ美術館蔵
「洗濯と張り物」 シカゴ美術館蔵
「隅田川船遊び」 メトロポリタン美術館
「吾妻橋下の涼船」 ホノルル美術館蔵
「地紙売」
「座敷八景 塗桶暮雪」 江戸東京博物館蔵
「中村里好の丹波屋おつまと三代目市川八百蔵の古手屋八郎兵衛」 千葉市美術館蔵
「女湯図」 大判二枚続 天明後期 ボストン美術館と川崎・砂子の里資料館の2点しか確認されていない貴重な作品。幕末期には数点の「女湯図」が知られるが、銭湯をこれだけ詳細に描いた浮世絵としては最も早い時期の作例であり、風俗資料としても貴重。
「出語り図 三代目瀬川菊之丞と四代目岩井半四郎」 大判
肉筆浮世絵
「真崎の月見図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
「詠歌弾琴図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「駿河町越後屋正月風景図」 絹本着色 三井記念美術館蔵、東洋文庫蔵
「待乳山納涼図」 絹本着色 フリーア美術館所蔵
「柳下美人図」 絹本着色 ボストン美術館所蔵
「女三人上戸図」 紙本着色 ホノルル美術館所蔵
「曽我の対面図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
「暫図」 紙本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵 5世市川団十郎賛
「潤色八百屋お七図」(無款) 紙本四曲一双 早稲田大学演劇博物館所蔵 寛政5年
「五郎と朝比奈図」 紙本扇面 東京国立博物館所蔵
「草摺引図」 紙本扇面 東京国立博物館所蔵
「夜討曽我図」 紙本扇面 浮世絵太田記念美術館所蔵
「桜下の太夫と禿図」 紙本扇面 浮世絵太田記念美術館所蔵
「矢の根五郎図」 板地着色 額絵馬 目黒区・成就院所蔵 文化7年(1810年) 重要美術品
「草摺曳朝比奈と曾我五郎」 板地着色 額絵馬 悳俊彦コレクション 文化8年(1811年)
「双蝶々曲輪日記図」 板地着色 額絵馬 練馬区・長命寺所蔵 文化11年(1814年) 東京都指定有形文化財
春画
「袖の巻」 十二枚組 天明5年(1785年)
清長の春画作品の中で最も知られた作。序文末尾に「自惚」という珍しい印が押されていることから、清長自身も本作に自信を持っていたことが窺える。縦12cm、横約67cm(最大73cm)という非常に横長の珍しい形式で描かれているが、トリミングの妙で窮屈さや違和感のない画面に仕上げている。大首絵を思わせる豊かな表情と抑えた色使いで、性の悦びと充足感を描ききった春画史上に残る名品。
「色道十二番」(しきどうじゅうにつがい) 大判錦絵折本十二枚組 天明5年(1785年)
「時籹十二鑑」(いまようじゅうにかがみ) 中判十二枚組
黄表紙
『名代干菓子山殿』画

鳥山 石燕(とりやま せきえん、正徳2年(1712年) – 天明8年8月23日(1788年9月22日))は、江戸時代後期の画家、浮世絵師。妖怪画を多く描いた。

生涯
正徳2年(1712年)頃に誕生。姓は佐野(さの)、諱は豊房(とよふさ)。字は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
狩野派門人として狩野周信(かのう ちかのぶ。cf.)及び玉燕に付いて絵を学び、また、俳諧師・東流斎燕志に師事した。
安永5年(1776年)に著した『画図百鬼夜行』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵や、『石燕画譜』のような版本が著名であるが、錦絵や一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。また、弟子も多く喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜といった絵師や黄表紙作者を育てた。
天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
石燕の描く妖怪画は、恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家水木しげるの画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。

中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年(明治26年)2月14日 – 1991年(平成3年)2月5日)は、東京府生まれの洋画家、美術家、歌人、随筆家である。

経歴
1893年 東京市本郷に生まれる。
1914年 巽画会展に出品した作品が岸田劉生に見出されて画家を志す。
1915年 草土社を結成。
1920年 初の個展(油彩)を開く。
1922年 小杉放庵らと「春陽会(しゅんようかい)」設立に参加。
1931年 水墨画の個展を開く。
1949年 神奈川県真鶴町にアトリエを構える。
1975年 文化勲章を受章。文化功労者表彰。
1986年 母の故郷である石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現 白山市立松任中川一政記念美術館)が開館。
1989年3月 真鶴町に真鶴町立中川一政美術館(設計 柳澤孝彦/第15回吉田五十八賞受賞、第33回BCS賞受賞)が開館した。
作品
洋画、水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。全てが独学であり自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
絵画作品 「漁村凱風」「薔薇」「箱根駒ケ岳」等。
和歌 1961年に歌会始の召人となり詠進した。
挿絵 都新聞に連載された尾崎士郎「人生劇場」
随筆 文集全5巻、全文集全10巻がある。
評伝・その他
97歳と長命であったが、晩年まで創作活動を続けた。視力が衰えたため、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたという。絶筆はかねてから好んで描いていたバラであった。バラを題材にした作品は判明しているだけで800点を超える。
遺した美術品コレクションが競売にかけられた際、それまで判明していなかったがゴッホの油彩画であることが判明した絵画があった。当初は落札予想価格が1万円とされていたものが、6600万円でウッドワン美術館に落札された。中川一政自身がゴッホ作であったことを知っていたかどうかは不明。
戦時中、伊豆に疎開し、その途中、真鶴に魅了された。

中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) – 1943年(昭和18年)6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家である。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られている。

経歴

不折の書

『裸体』(明治36年-明治38年)

『海岸の三人娘』(昭和14年)東京国立近代美術館
父・源蔵、母・りゅうの子供として江戸の京橋八丁堀(現中央区湊)に生まれ幼名を鈼太郎といった。1870年には明治維新の混乱を避け、一家をあげ父の郷里の長野県高遠に帰る。幼少より絵を好み、物の形を写すことを楽しみとした。19歳の時、北原安定に漢籍、真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。西高遠学校授業生(代用教員)となる。21歳の時、西伊那部学校の助教となる。22歳の時、飯田小学校で図画・数学の教師となる。夏期休暇を利用して河野次郎に洋画の初歩を学ぶ。
1887年4月に上京し、高橋是清の館に住み込みながら,画塾『不同舎』に入門。小山正太郎に師事し絵を学んだ。25歳の時、第2回明治美術会展覧会に水彩画3点を出品。1891年油彩画を始め、現存する最初の作例「自画像」を制作。28歳の時、第5回明治美術展覧会に「憐れむべし自宅の写生」ほかを出品した。
1894年には正岡子規に出会い、新聞「日本」の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。新聞『小日本』126号に俳句が掲載され、初めて「不折」の名を使用。30歳の時正岡子規とともに日清戦争に従軍し中国に渡り書に興味を持った。31歳の時、堀場イトと結婚。「日本新聞社」に入社、引き続き挿絵を担当。32歳と33歳の時に島崎藤村『若菜集』『一葉舟』刊行。その挿絵を担当。34歳の時、第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」出品。「紅葉村」は翌年にパリ万国博で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室新築し転居した。
1901年6月には渡仏して、ラファエル・コランに師事。島崎藤村『落梅集』刊行。その挿絵を担当。37歳の時にアカデミー・ジュリアンに転じジャン=ポール・ローランスらから絵の指導を受け39歳でジュリアン画塾のコンクールに入賞。また、沼田一雅、岡精一と共にムードンにオーギュスト・ロダンを訪問、署名入りのデッサンを貰う。同郷の荻原碌山がパリに留学するとその面倒を見た。
1905年の帰国後は明治美術会の後身である「太平洋画会」に所属し主に歴史画の分野で活躍した。また森鷗外や夏目漱石等の作家とも親しく、『吾輩は猫である』『若菜集』『野菊の墓』などの挿絵や題字を書いた[註 1]。日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時、『龍眠帖』刊行。前田黙鳳らと健筆会を結成。47歳の時、河東碧梧桐らと『龍眠会』を結成。『蘭亭序』刊行。49歳、東京大正博覧会に「廓然無聖」他出品。、「永寿二年三月瓶」入手。50歳の時、下谷区上根岸125番地(現・根岸2丁目)に転居。『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。51歳、『不折山人丙辰潑墨』第1集・第2集刊行。第10回文展に「黎明」「たそがれ」出品。55歳の時、森鴎外没。遺言により不折が墓碑銘を書く。64歳の時、太平洋美術学校が開校その初代校長に就任。67歳の時、書道博物館の建設に着手。翌年完成。70歳の時、帝国美術院改組、帝国美術院会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳、11月3日、書道博物館開館式。72歳帝国芸術院入会。1943年(昭和18)6月6日夕刻、脳溢血の為急死。6月10日中根岸永称寺にて告別式。多磨霊園に埋葬。
中国の書の収集家としても知られ顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「自書告身帖」などを収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現在は区立)を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、宮坂醸造の清酒「真澄」や新宿中村屋の商品表記に用いられている。
不折と歴史画
フランス留学から帰国した不折は東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。この時期の作品である「建国剏業」(1907年)は東京府主催の勧業博覧会に出品され第1等を獲得したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちをすべて裸で描いたため、当時の文部大臣・九鬼隆一は「不敬である」と激怒。なおこの作品は関東大震災で焼失してしまった。

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日) – 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。

生涯
雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。
慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。この時同日に狩野芳崖も入門しており、7歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。
安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。

白雲紅樹(1890年)
転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、『琴棋書画図』(MOA美術館蔵)が銀印主席を取り、同じく出品した『竹に鳩』(三の丸尚蔵館蔵)が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった。
明治19年(1886年)には海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになった。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年(1889年)に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。このため明治23年(1890年)の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると10月2日に第一次のメンバーに選ばれ[2]、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では下村観山や横山大観、菱田春草、西郷孤月、川合玉堂、寺崎広業、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。しかし明治31年(1898年)には天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
以後、雅邦は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。
明治41年(1908年)に胃癌のため死去した。法名は謙徳院勝園雅邦操居士。墓所は江東区平野にある、元浄心寺の塔頭・玉泉院(江東区登録文化財)。
画業
雅邦は同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家で、芳崖と共に狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。雅邦の代表作の一つである『白雲紅樹』では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。

長谷川 雪旦(はせがわ せったん、安永7年(1778年) – 天保14年1月28日(1843年2月26日))は江戸時代後期の絵師。姓は金沢、名は宗秀。通称は茂右衛門、または長之助とも称した。別号に一陽庵、嚴岳斎、岩岳斎、岳斎。息子の長谷川雪堤も絵師。江戸名所図会の挿絵画家、或いは唐津藩・尾張藩の御用絵師として知られる。

略歴
江戸出身。唐津藩士の子。住居は下谷三枚橋(現在の台東区)。国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」という大量の下絵や模写が一括して保存されており、それらの研究により、雪舟13代を名乗る絵師長谷川雪嶺を師としたことが確認されている。その模写には師雪嶺や雪舟の作品が複数存在しているが、それに留まらず琳派風・円山四条派風の図や、伝統的な仏画等も含まれており、雪旦が早い段階から様々な流派の絵をこだわりなく学んでいたことがわかる。中年には英派の高嵩谷に師事し、狩野派も学んだという。『増補浮世絵類考』の記述を元にはじめ彫物大工で後藤茂右衛門と名乗った言われるが、数え15歳にして既に画技はかなりの習熟を見せ彫物大工の片手間にできる業ではなく、その可能性は低い。
現在確認できる雪旦最初の仕事は、寛政10年(1798年)出版の『三陀羅かすみ』(墨田区蔵、ピーター・モースコレクション)で、北尾重政や葛飾北斎と分担し漢画を担当している。以後も、特定の流派に属することなく、漢画系の町絵師として狂歌本の挿絵や肖像画を描いて生計を立てる。また、俳諧を好み、五楽という俳号を名乗って文人たちと盛んに交流した。
転機が訪れたのは40代に入った頃である。文政元年(1818年)唐津藩主小笠原長昌に従い唐津に赴いていることから、この少し前に唐津藩の御用絵師になったものと推測され、今も唐津には雪旦の作品が相当数残っている。この他にも雪旦はしばしば各地を旅し、その土地の名所や風俗のスケッチを多く残しており、こうした態度が『江戸名所図会』を生み出す土壌になったと言える。天保5年から7年に刊行された『江戸名所図会』では、650景にも及ぶ挿絵を描き名声を得る。その甲斐あってか、文政12年(1831年)に法橋、天保11年(1839年)頃には法眼に叙せられる。
天保14年(1843年)66歳で没す。浅草の幸龍寺(関東大震災後に世田谷区北烏山に移転)に葬られる。弟子に息子の長谷川雪堤、朝岡且嶠(たんきょう)など。

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日 – 1935年(昭和10年)3月20日)は、大正期~昭和初期の日本画家である。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち、後に速水に改姓)。
1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝した。40歳没。

生涯
1894年(明治27年)、蒔田良三郎の次男として東京府東京市浅草区浅草茅町二丁目16番地(現在の東京都台東区浅草橋一丁目)に生まれる。
1905年(明治35年)、東京市立育英小学校高等科へ入学。少年期から画に興味を持ち、1908年(明治41年)に卒業すると、筋向かいに住んでいた容斎派の画家松本楓湖の安雅堂画塾に入門した。画塾に入った理由は御舟が自宅の襖に描いた群鶏を楓湖の執事・神谷穀が見て感心し、画家にしたらどうかと入塾を勧めたからである。 宋元古画、大和絵、俵屋宗達、尾形光琳などの粉本を模写する一方、同門の仲間で団栗会を結成。近郊を写生散歩して回った。
1909年(明治42年)、師の楓湖から禾湖(かこ)の号を授かる。楓湖は自称“なげやり教育”というユニークな教育方法で数百人と言われる門人を輩出した卓越した教育者だったが、御舟の才をいち早く見抜き、門人に写させる粉本も御舟には特別に良いものを与えるよう指示していたという。同年、母方の祖母である速水キクの養子となる。1910年(明治43年)、巽画会展に「小春」、烏合会展に「楽人」を蒔田禾湖の名で出品。これが初めての展覧会出品となる。
1911年(明治44年)、巽画会展に「室寿の讌」(むろほぎのえん)を出品。一等褒状となり宮内省買い上げの栄誉を受ける。同年、同門の今村紫紅に従い紅児会に入会。その後、御舟は紫紅から多大な影響を受けた。
1912年(明治45年)、号を自ら浩然(こうねん)と改める。この頃より、実業家で、美術家のパトロンとしても知られる原富太郎(三渓)の援助を受ける。
1913年(大正2年)、紅児会が解散する。その後、再興日本美術院展(院展)に活躍の場を移す。
1914年(大正3年)、号を御舟と改め、この頃から養子先の姓である速水姓を名乗る。同年、今村紫紅を中心とした美術団体・赤曜会を結成。その後、1916年(大正5年)に今村が死去するまで活動を続ける。1917年(大正6年)第4回院展に「洛外六題」を出品。横山大観、下村観山らに激賞され、川端龍子と共に日本美術院の同人に推挙された。
1919年(大正8年)、浅草駒形で市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われる。しかし御舟の画に対する熱意には全く影響せず、その後も精力的に活動を続けた。
1921年(大正10年)、年長の友人で援助者でもあった吉田幸三郎の妹と結婚する。この頃、洋画家の岸田劉生の影響を受け、写実的な様式の静物画を描いた。陶磁器や果物などを材質感を備えた迫真の写実で描いた作品は、従来の日本画にはみられないものであった。
1925年(大正14年)、軽井沢に滞在中、代表作の1つである「炎舞」を完成させる。
1929年(昭和4年)、第16回院展に「名樹散椿」を出品。翌年にはイタリア政府主催・大倉喜七郎男爵後援のローマ日本美術展覧会の美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に渡欧。ヨーロッパ各地及びエジプトを巡る。渡欧中、ジョットやエル・グレコに魅せられた。
日本に帰国後も日本画の新しい表現方法を模索し続け、数々の名作を発表する。御舟の画業は、初期には「新南画」と言われた今村紫紅の影響を受け、琳派の装飾的画面構成や西洋画の写実技法を取り入れつつも、1つの様式にとどまることなく、生涯を通じて画風を変え、写実に装飾性と象徴性を加味した独自の画境を切り拓いた。そのため多くの美術家から日本画の将来の担い手として嘱望されたが1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスで急逝した。40歳没。
補足
号の由来
「御舟」の号の由来は俵屋宗達の「源氏物語澪標関屋図屏風」(六曲一双、国宝)の見事さに感心し、その屏風に描かれた金銀の波上に浮かぶ「御舟」(貴人の乗る舟)からとったもの。また、速い水に舟を御すともとれる。
その他
1918年(大正7年)頃の作品には、青を基調とした作品が多い。御舟はこの頃の自分を「群青中毒にかかった」という言葉で表現している。
関東大震災では多くの美術品も犠牲になったが、御舟の作品も例外ではない。横山大観らに激賞された「洛外六題」をはじめ、初期の傑作の多くが地震によって遺失した。
御舟の早世は多くの美術家に惜しまれ、横山大観は「速水君の死は、日本の為に大きな損失である」と述べている。
御舟は画商から金を積まれても自分にモチベーションが出ない限り、絵を描かなかった。そんな御舟に画商は「蟻一匹でもいいから描いてくれ」と必死に頼み込み、やむなく御舟は大きなキャンバスに小さい蟻の絵を描いた。
御舟の落款は中国北宋の皇帝徽宗の痩金体に倣ったとされる。北大路魯山人は御舟に「君は絵はうまいが字は下手だ」と言った。
代表作

『名樹散椿図』
御舟は40歳の若さで没したことに加え、もともと寡作な作家であった。さらに関東大震災で多くの作品が焼失したこと、御舟が自分の気に入らない画稿や下絵を焼き捨てたことなどにより、現存作品は600点ほどといわれる。うち約120点を山種美術館が所蔵する。同美術館の御舟作品の大半は旧安宅コレクションに由来するものである。
「京の舞妓」(1920年(大正9年)、東京国立博物館蔵)
絹本著色、軸装、152.3×101.8センチ。第7回院展に出品。舞妓の衣装の細かい文様から畳の目の一つひとつまで克明に描写した写実性が特色の作品である。発表時はその細密すぎる描写が話題となり賛否両論を招いた。横山大観はこの作品を日本画の伝統からはずれた「悪写実」と酷評し、御舟を院展から除名すべしとまで主張した。そのためか御舟はこの作品以降、人物画から長年にわたり遠ざかる。
「炎舞」(1925年(大正14年)、山種美術館蔵、重要文化財)
絹本著色、額装(もと軸装)、120.4×53.7センチ。蛾が炎に魅せられているかのように舞う、緻密な写実と幻想が融合した作品。背景の闇は黒に朱を混ぜ、礬水(どうさ)を引かずに絵具が絹面ににじむようにして描いたもので、単なる黒ではない深い闇を表現している。御舟はこの背景について「もう一度描けと言われても二度とは出せない色」だと、義兄の吉田幸三郎に語った。描かれている蛾は滞在先の軽井沢で写生したもので、いずれの蛾も真正面向きに描かれているにもかかわらず、生きて飛んでいる感じを表現している。炎の描写には、日本の伝統的な絵巻物や仏画の炎の描写の影響が指摘されている。生物に造詣の深い昭和天皇は、この画を見て「蛾の眼が生きているね」と言ったという。他に御舟が蛾を描いた作品として、「粧蛾舞戯」という作品がある(「昆虫二題」と題する双幅の作品の左幅。右幅は「葉蔭魔手」という題の蜘蛛を描いた作品)。三島由紀夫の小説『金閣寺』の新潮文庫版のカバーのデザインに起用されている。
「翠苔緑芝」(1928年(昭和3年)、山種美術館蔵)
紙本金地著色、四曲屏風一双、各172.6×362.4センチ。左隻はアジサイと白兎、右隻は琵琶と青桐に黒猫を描く。装飾的構成と単純化されたモチーフの形態には琳派や西洋画の影響が指摘される。
「名樹散椿」(1929年(昭和4年)、山種美術館蔵、重要文化財)
紙本金地著色、二曲屏風一双、各167.9×169.6センチ。京都市北区にある地蔵院の椿の老木を描いた作品。日本画の写実的な部分に、大胆にもキュビズムにも似た表現を取り入れた意欲作。背景の金地は金箔でも金泥でもなく、「撒きつぶし」という技法によるもので、金砂子(金の細粉)を一面に撒き散らしたものである。これによって光沢を抑えたフラットな金地が実現している[10]。1977年(昭和52年)に「炎舞」と共に重要文化財に指定され、昭和の美術作品として初めての指定となった。
切手
速水御舟に関連した記念切手として発行された。
1979年(昭和54年)「近代美術シリーズ」:「炎舞」(額面50)
1994年(平成6年)「文化人切手」:「速水御舟」(額面80)
がある。

藤城 清治(ふじしろ せいじ、1924年4月17日 – )は日本の影絵作家。キャラクター「ケロヨン」の原作者としても知られる。東京府(東京都)出身・目黒区在住。ホリプロ(同社も目黒区に所在)とマネジメント契約を結んでいる。

年譜
1924年(大正13年)、東京に生まれる。幼少時より、画才を認められる。
1936年(昭和11年)、12歳で慶應普通部入学。仙波均平に水彩画、エッチング、油絵の指導を受ける。この頃、先輩の縁で、猪熊弦一郎のアトリエに出入りし、モダニズム絵画に影響を受ける。また、慶應の児童文化研究会にて人形劇と出会う。
1944年(昭和19年)、海軍予備学生となり、翌年に20歳で少尉任官、九十九里浜沿岸防備に就くも、赴任地で指人形を使い少年兵らと共に慰問演芸会を行う。
1946年(昭和21年)、慶應復学(大学2年)。講師の小澤愛圀(よしくに)により、人形劇・影絵を知る。人形劇と影絵の劇場「ジュヌ・パントル」を結成(「ジュヌ・パントル」は後年、「木馬座」と名称変更)。
1947年(昭和22年)、慶應義塾大学経済学部卒業。東京興行(現:東京テアトル)入社、宣伝部勤務。テアトル銀座、銀座全線座のパンフレットを編集、淀川長治、双葉十三郎の影響を受ける。
1948年(昭和23年)、花森安治の雑誌「暮しの手帖」にて、影絵連載開始(影絵の連載は1996年(平成8年)まで続いた)。慶應三田演説館にて影絵劇上演。
1950年(昭和25年)、初の影絵絵本『ぶどう酒びんのふしぎな旅』出版(暮しの手帖社)。滝山千代と結婚、1女を儲ける。
1951年(昭和26年)、芥川也寸志音楽による人形音楽劇『雪の女王』制作(銀座交詢社ホール、生演奏による上演)。テアトル東京を辞職、フリーとなる。
1952年(昭和27年)、アサヒビール系ビヤホールに影絵ガラス壁画を制作(銀座ピルゼン他)。NHK、テレビの試験放送開始。NHKの専属となる。
1953年(昭和28年)、朝日新聞日曜版紙面にて、影絵連載。伊福部昭音楽による影絵劇『せむしの子馬』を制作(銀座交詢社ホールにて伊福部指揮の生演奏による上演)。
1954年(昭和29年)、児童文化誌「絵本木馬」を創刊(14号まで発行)。影絵劇『泣いた赤鬼』にて東京都児童演劇コンクール奨励賞。
1956年(昭和31年)、影絵劇『銀河鉄道の夜」にて、1956年度国際演劇参加読売児童演劇祭奨励賞、日本ユネスコ協会連盟賞受賞。
1958年(昭和33年)、「中央公論」連載の『西遊記』(邱永漢作)の挿絵を担当(1962年まで)。
1960年(昭和35年)、影絵劇『海に落ちたピアノ』初演(大阪毎日ホール)。影絵画集「影絵」出版(東京創元社)。
1961年(昭和36年)、木馬座による等身大ぬいぐるみ人形劇を創案。
1962年(昭和37年)、木馬座と共同でみんなのうたで、雪とこどものアニメーションを制作。
1966年(昭和41年)、『木馬座アワー』のキャラクターとして、「ケロヨン」を創作。日本テレビ『木馬座アワー』を自主提供。12月、日本武道館にて、第1回ケロヨンショーを開催[3]。
1971年(昭和46年)、東京12チャンネルにて『ベーバック』放映。この年の木馬座武道館公演が混乱し、問題となる。
1972年(昭和47年)、公演の混乱等の諸問題によって「木馬座」を離れる。影絵・人形劇公演自体は「ジュヌ・パントル」として、活動を継続。
1974年(昭和49年)、「暮しの手帖」にカラー影絵の連載開始。1996年まで継続。
1977年(昭和52年)、『藤城清治影絵画集』出版(講談社)。
1978年(昭和53年)、花森安治死去。後を継ぎ「暮しの手帖」の表紙を描く。
1980年(昭和55年)、影絵劇『シャクンタラー姫』が厚生省児童福祉文化奨励賞受賞。
1981年(昭和56年)、影絵画集『イエス』出版(日本基督教団出版局、制作期間3年)。
1982年(昭和57年)、国際交流基金の派遣による文化親善使節に任命され、パキスタン、ヨルダン、エジプト、アラブ首長国連邦等で影絵劇上演。影絵劇『銀河鉄道の夜』が第37回文化庁芸術祭で優秀賞受賞。
1983年(昭和58年)、絵本『銀河鉄道の夜』がチェコスロバキアのブラチスラヴァ国際絵本原画展で金のリンゴ賞受賞。『藤城清治影絵の世界・シルエットアートその作品と技法』出版(東京書籍)。
1986年(昭和61年)、『藤城清治影絵劇の世界・シルエットプレイその歴史と創造」出版(東京書籍)。
1989年(平成元年)春、紫綬褒章受章。「鐘崎笹かまメルヘン館大壁画」制作(仙台市)。
1990年(平成2年)、影絵劇『幻想列車』制作上演(長崎「旅・博覧会」)。
1991年(平成3年)、影絵画集『天地創造』出版(日本基督教団出版局、制作期間11年)。影絵劇『森のメヌエット』制作上演(北九州博覧会)。
1992年(平成4年)、「藤城清治影絵美術館」開設(山梨県昇仙峡)。
1993年(平成5年)、影絵劇『夢ふたたび月へ』制作上演(信州博覧会)。このライブ上演にて、’93エキスポ大賞受賞。
1995年(平成7年)春、勲四等旭日小綬章受章。
1996年(平成8年)、「藤城清治影絵美術館」開設(長野県白樺湖湖畔)。
1997年(平成9年)、影絵画集『ウィー・アー・ザ・ワールド/歌が世界を動かした』出版(星の環会)。影絵劇『夢きらめく海へ』制作上演(鳥取夢みなと博覧会)。また’97エキスポ地球振興賞受賞。
1998年(平成10年)、「コロボックル影絵美術館」開設(北海道遠軽町生田原、木のおもちゃワールド館ちゃちゃワールド内)。
1999年(平成11年)、日本児童文芸家協会より児童文化特別功労賞受賞。
2001年(平成13年)、北九州博覧祭2001にて4ヶ月ライブ上演。ジャパンエキスポ大賞受賞。
2006年(平成18年)、妻千代死去。享年82歳。
2008年(平成20年)、画業60周年記念として、影絵・ぬいぐるみ人形劇等映像作品のDVD発売。
2011年(平成23年)、太田光(爆笑問題)原作の絵本「マボロシの鳥」を制作(講談社)。自宅スタジオ展開催。
2013年(平成25年)、栃木県那須町に「藤城清治美術館」が開館。

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。

生涯
家柄
1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親(当時父が中村の部下であった))が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。
パリに至るまで
藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごし(小学校は熊本大学教育学部附属小学校)、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。
森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
1911(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描いた(現存)。
なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
パリでの出会い

藤田の肖像(イスマエル・ネリ、1930年代)
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。
第一次世界大戦
1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。
パリの寵児
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
日本への帰国

陸軍美術協会理事長時代の藤田

南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、宮本三郎、小磯良平(1942年)。藤田は黒いシャツを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年 – 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年に戦争協力に対する批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。
晩年
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死亡した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人は、没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館に向け尽力、晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開された。藤田自身から40年余りを経て2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂(フランス語版)に埋葬された。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収蔵されている。
2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。
戦争画
戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。
占領下に、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ばスケープゴートに近いかたちで戦争協力の罪を非難され藤田は、渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残しパリへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」、と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったがゆえに、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。
パリでの成功後も戦後も、存命中には日本社会から認められることはついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになった。
乳白色の肌の秘密
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表された。タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上する。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助が以前から報告している[9][10]。
作品
藤田の作品は東京のブリヂストン美術館、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、赤坂迎賓館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。
関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵…」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。
晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。
藤田は挿絵作家としても独自の地位を得ている。ピエール・ロティ、ラビンドラナート・タゴール、ギヨーム・アポリネール、ポール・クローデル、ピエール・ルイス、ジャン・ジロドゥ、キク・ヤマタ、ジャン・コクトー等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せている。なかでも、フォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。
また藤田は多くのエッセイを書き残し没後出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに、「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」がある。

村上 隆(むらかみ たかし、1962年(昭和37年)2月1日 – )は、日本の現代美術家、ポップアーティスト、映画監督。有限会社カイカイキキ代表取締役、元カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授。学位は博士(美術)(東京芸術大学) 1993年(平成5年)。

人物
1962年(昭和37年)生まれ。東京都板橋区出身。本郷高等学校経て、2浪ののち、1986年(昭和61年)東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年(昭和63年)同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)、1993年(平成5年)同博士後期課程修了、博士 (美術)。日本美術院同人で日本画家の村上裕二は弟。
自らの作品制作を行うかたわら、芸術イベント『GEISAI』プロジェクトのチェアマンを務め、アーティスト集団『カイカイ・キキ(Kaikai Kiki)』を主宰し、若手アーティストのプロデュースを行うなど、活発な活動を展開している。同集団は、アメリカのニューヨークにも版権を管理するエージェントオフィスをもつ。
日本アニメポップ的な作風の裏には、日本画の浮世絵や琳派の構成に影響されている部分も強く、日本画のフラット感、オタクの文脈とのリンクなど現代文化のキーワードが含まれている。中でもアニメ、フィギュアなどいわゆるサブカルチャーであるオタク系の題材を用いた作品が有名。アニメ風の美少女キャラクターをモチーフとした作品は中原浩大の「ナディア」に影響を受けたと本人も認めている。アニメーター・金田伊功の影響を強く受けており、自分の作品は金田の功績を作例として表現しているだけと話したこともある[要出典]。
漫画原作者である大塚英志は、教授として就任した大学のトークショーにおいて「現代美術のパチモノの村上隆は尊敬はしないし、潰していく。我々の言うむらかみたかしは4コマまんがの村上たかしのことだ」と強く非難し、また、現代美術家がサブカルを安易に取り上げることや、後述のリトルボーイ展の戦後日本人のメンタリティを無視した展示内容に強い不快感を示している[要出典]。

一方、精神科医の斎藤環は、批判者の言説は「村上隆は日本のオタク文化のいいとこどりをしただけ」との単純な論理に依ると捉え、そのような論理は根本的に誤解であり不当な批判を行っているとして、厳しく非難している。また、村上の作品はオタク文化から影響を受けているだけでなく、それを昇華させてオタク文化に影響を与えてもいると述べている。
村上曰く、「マティスのような天才にはなれないがピカソやウォーホール程度の芸術家の見た風景ならわかる。彼らの行ったマネージメントやイメージ作りなどを研究し自分のイメージ作りにも参考にしている」。
自身に批判的なツイートを公式リツイートすることで、炎上商法・炎上マーケティングを行っていると、ツイッター上で公言している。
2013年11月18日に、自身のサイトできゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」(2011)のプロモーションビデオに登場する目玉と村上隆作品には一切関係ないことを公表した。
経歴
生来のアニメ好きが高じて、高校卒業後にはアニメーターを志した。尊敬しているアニメ監督は宮崎駿で、『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』を観て、アニメーションの仕事に就きたいと思っていた。しかしながら挫折し、同じく以前から興味のあった日本画を習い、2浪の後に東京芸術大学に入学した。同大学では美術学部日本画科に学び、1986年(昭和61年)の卒業時には『横を向いた自画像』(東京芸大美術館所蔵)を製作・提出。
1988年(昭和63年)に東京芸術大学大学院修士課程の修了制作が、首席とならず次席であったために、日本画家への道を断念する。
1991年(平成3年)には、個展 『TAKASHI, TAMIYA』を開催、現代美術家としてデビューした。同年、ワシントン条約で取引規制された動物の皮革で作ったランドセルを展示する「ランドセル・プロジェクト」を展開する。
1993年(平成5年)、東京芸術大学大学院の美術研究科博士後期課程を修了。「美術における『意味の無意味の意味』をめぐって」と題した博士論文をもって、同大学日本画科で初めての博士号取得者となった。
1994年(平成6年)にはロックフェラー財団のACCグラントを得て、「PS1.ART PROJECT」の招待を受けニューヨークに滞在した。
1998年(平成10年)にカリフォルニア大学ロサンゼルス校美術建築学部客員教授。2001年(平成13年)にアメリカロサンゼルスで、展覧会『SUPER FLAT』展が開催され全米で話題となる。2005年(平成17年)4月、ニューヨークで個展 『リトルボーイ展』を開催。自身の作品の他、ジャパニーズ・オタクカルチャーや日本人アーティストの作品が展示され、またリトルボーイ展では「父親たる戦勝国アメリカに去勢され温室でぬくぬくと肥えつづけた怠慢な子供としての日本と、そうした環境ゆえに派生した奇形文化としてのオタク・カルチャー」、「それがゆえにオタク・カルチャーのきっかけはアメリカにもあるのだ」との考えが提示された。翌年2006年(平成18年)にリトルボーイ展はキュレーターに送られる世界で唯一の賞であるニューヨークの美術館開催の最優秀テーマ展覧会賞を受賞した。
2005年(平成17年)1月末よりPHS会社・ウィルコムのCMに出演。近年は六本木ヒルズのトータルプロデュースの一員やイメージキャラクター『ロクロク星人』のデザイン、フロアガイド冊子のデザインを手がけている。また『ルイ・ヴィトン ミーツ ネオ・ジャポニズム』と題し、高級ファッションブランド、ルイ・ヴィトンをクライアントとするコラボレーション製品などを発表。
2006年(平成18年)に「リトルボーイ展」の成果として芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。
2008年(平成20年)、米Time誌の”The World’s Most Influential People – The 2008 TIME 100″(世界で最も影響力のある100人-2008年度版)に選ばれた。
2008年(平成20年)、GQ MEN OF THE YEAR 2008を受賞。
2010年(平成22年)に開催されたシンポジウム『クール・ジャパノロジーの可能性』では、「アート界における”クール・ジャパン”の戦略的プロデュース法――Mr.の場合」と題した講演を行った。講演では、日本のマンガやアニメ、および、それらを生み出した日本自体を肯定的に解釈し、それらの前提のもと、今日ではクール・ジャパンと呼ばれている観点を日本人作家作品によっていかに西洋アート界に体現させていけるか、とのテーマについて初期から漸進的に取り組んできた軌跡を発表した。
2010年(平成22年)10月に雑誌『SUPERFLAT』を創刊し、創刊号ではジェフ・クーンズとの特別対談や、村上隆、東浩紀、椹木野衣、黒瀬陽平、梅沢和木、藤城嘘、福嶋亮大、濱野智史らの記事が掲載される予定であった(未刊行)。
2016年(平成28年)3月に「村上隆の五百羅漢図展」の成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。
発表作品に係わるエピソード
デビュー作にて、タミヤ社長の弟にタミヤマークを使用した作品制作の許可は得ていたが、「TAMIYA」の表記を無断で「TAKASHI」に変更し、注意を受けている。
1993年(平成5年)以前の活動としては『加瀬大周宇Zプロジェクト』では芸能界の騒動に乗じた悪乗りとの不評を買い、当時進行していた複数の展覧会の企画が流れてしまった。古賀学のフリーペーパー『ペッパー・ショップ(Pepper Shop)』で『マンガ道場』を連載。白人の『ダッコちゃん』でタカラより非難される[要出典]。
1994年(平成6年)、大学院卒業後の作品である『HIROPON』の評価を岡田斗司夫に尋ねると「発想が古臭い、とにかく顔がブサイクすぎる」と酷評される[要出典]。その後、ニューヨークにロックフェラー財団の奨学金で留学。制作活動に専念。ニューヨークで現地フリーペーパーの表紙で作品を次々と発表。
2003年(平成15年)2月25日、村上がルイ・ヴィトンの依頼でデザインした鞄が3月1日に発売されるのに合わせて東映アニメーションが制作したアニメ『SUPERFLAT MONOGRAM』が公開される。同年12月8日、海洋堂とのコラボレーションにより、自らのフィギュア作品をわずか350円の小さなフィギュアにしてナンバリングされた証明書を添付したアート食玩『村上隆のSUPER FLAT MUSEUM~コンビニ エディション~』を発売したことで話題を呼ぶ。食玩は本来菓子が商品でありフィギュアは「おまけ」であることから、村上は「5,800万円の作品が無料で大量に複製生産されることの面白さ」がこの商品の意義であると述べている[要出典]。
『My Lonesome CowBoy』を製作した理由は、『HIROPON』が女性だったので、次は男性を作ろうと思っただけだと話す。男女を作ることで、フェミニズム的な違反を避ける意図もある。男性をモチーフにすることには関心が持てないので、逆に一度はやってみたかったとも語る。
2003年(平成15年)春、ニューヨークのオークション会社・サザビーズにて等身大フィギュア『Miss Ko2』が50万ドル(約5,800万円)で落札、話題となった。これは当時の日本現代美術作品の最高額である。本人は自らの作品がこのような高額で買い取られた理由について「女性の美意識に革命をもたらしたからだ」と分析する一方、「単に金持ちが作品の性的な要素に惹かれて落札しただけなのでは」と話している。落札したのは、会社を売って隠居したアメリカの80歳近い老夫婦である。
2004年(平成16年)7月、ナルミヤ・インターナショナルによるキャラクター、『マウスくん』が、村上のキャラクター、『DOB君』に酷似しているとして、同社を著作権侵害で提訴。2006年(平成18年)4月に和解が成立し、4,000万円の和解金を受け取る(これについてはそもそもDOB君がミッキーマウスをモチーフとしている(近似している)のに何故著作権を侵害されているなどと言えるのかといった東浩紀[16]、町山智浩[17]等からの批判がある)。本人は、元々『DB君』は自分の作品の世界観を再構築して作ったもので、『マウスくん』がその世界観そのものを盗用しているように感じ、企業との幾度かの話し合いの末、示談になったと話している[18]。現在のマウスくんは村上の著作権を侵害していないとされる。
アメリカの歌手カニエ・ウェストの2007年(平成19年)9月11日発売の『グラジュエイション』のジャケットのデザインを担当。同年10月以降、アメリカ・ロサンゼルス現代美術館(MOCA)で大規模な展覧会「村上隆回顧展(C)MURAKAMI」が催し、自身の作品を巨額の資金が動くビジネスへと牽引する貪欲さを見せている。
2010年(平成22年)9月14日にフランス・ベルサイユ宮殿で村上の作品展『Murakami Versailles』が開催されたが、宮殿に彼の作品は合わないとして、フランス国内の団体が抗議デモをおこなった[19][20]。10月22日には、フランス王ルイ14世の子孫の1人シクスト・アンリ・ド・ブルボン=パルムが、「世界遺産にポルノ作品を飾っており、祖先に対する冒涜に当たる」として作品展の中止を要求し、主催者である宮殿当局に対する法的措置を取ることを表明した。
若手アーティストへの教育・支援
GEISAI
詳細は「GEISAI」を参照
GEISAI(ゲイサイ)とは、村上隆主催の若手アーティスト向けのアートイベント。2002年(平成14年)より継続的に開催している。これまでにAKB48[22]、ももいろクローバー、平野綾ら、アイドルや声優がパフォーマンスで出演した。
KaikaiKiki
有限会社カイカイキキとは、2001年(平成13年)に設立された村上隆が代表取締役を務める企業。1996年(平成8年)に設立されたヒロポンファクトリーが前身である。アーティストやサポートスタッフを、正社員やアルバイトとして雇用し、カイカイキキ三芳スタジオ(三芳工場)などにて創作活動に従事させている。
若手アーティストの育成スタジオ「ちゃんば」では、「密教的」と村上が語る程に危険な修行が行われている。具体的には、アーティスト自身の内面の深部を掘り下げる目的の村上との問答が、安全面に関する一定の配慮を払いつつ毎日繰り返されている。一方、アーティストに一般社会における礼儀作法も求めており、村上は、日本のアーティストは礼儀作法が分かっていない結果、すぐに恨んだり、切れたりすると批判している。また、東日本大震災発生後に村上は毎日、カイカイキキスタッフに対して、労働基準法を盾にして主張する若者とは芸術の意念闘争を闘えないとの趣旨で「通常モードの会社員として雇用されたい人は辞めてほしい」と発破をかけた。
また、村上が監督を務める映画『めめめのくらげ』の制作や、カイカイキキ札幌 STUDIO PONCOTANにてアニメ作品『シックスハートプリンセス』をアニメーターを雇用して制作している。
他にも、GEISAI審査員を務めた黒瀬陽平の後述の「カオス*ラウンジ」への加入や、カオス*ラウンジ参加作家(JNTHED、ob、(現在はアーティストとして今後一切の活動を行わない事を宣言している)森次慶子)のカイカイキキアーティストとしての採用、カオス*ラウンジ参加作家のカイカイキキ開催の展示会(「HERBEST展」、「アートどすえ 京都芸術物産展」、「HEISEIBU祭」)への出展など、外部団体との人材交流も生じている。
ちなみに、カイカイキキは2015年(平成27年)9月30日現在、まんだらけの発行済株式総数の1.69%を保有する、第9位の大株主である。
カオス*ラウンジへの支援
「カオス*ラウンジ」は元々、イラスト投稿サイトpixivのユーザーによる、オフ会としてのグループ展「ポストポッパーズ」が前身であったが、「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」より「GEISAI CRITICAL MEDIA」審査員であった黒瀬陽平が「カオス*ラウンジ」に加入し現代アートとしての理論補強が行われた結果、従来「カオス*ラウンジ」が持っていたpixivユーザーオフ会の性質が発展的に解体され、現代アートの文脈に接続されることとなった。
「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷では、村上隆自身の作品も展示され、また、美術専門誌『美術手帖』2010年5月号への綴じ込み付録のカオス*ラウンジ特集広告の出稿、カイカイキキが運営しているギャラリーにおける「CHAOS*LOUNGE フェス」や、「pixiv画面端フェスタ」の開催、「カオス*ラウンジ2010 in 台湾」のプロデュース、展示作品「破滅*ラウンジ」の購入などの支援が行われている。
ギャラリー
有限会社カイカイキキが運営しているギャラリー
日本国内
Kaikai Kiki Gallery、GEISAI Galleryを除き、いずれのギャラリーも中野ブロードウェイ内に所在している
Kaikai Kiki Gallery
Hidari Zingaro(左 甚蛾狼――ヒダリ ジンガロ)
pixiv Zingaro[出典無効] – イラスト投稿サイトpixivとのコラボレーション。pixiv#村上隆・カイカイキキとの企画も参照。
Oz Zingaro
Kaikai Zingaro
GEISAI Gallery
日本国外
Kaikai Kiki Gallery Taipei
Hidari Zingaro Taipei
Hidari Zingaro Berlin

主な展覧会
『スーパーフラット展』、渋谷パルコギャラリー、村上隆キュレーション、2000年4月28日-5月29日
『Superflat』ロサンゼルス現代美術館(MOCA)、村上隆キュレーション、2001年1月14日-5月27日
『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』、東京都現代美術館、2001年8月25日-11月4日
『ぬりえ展』、パリ、カルティエ現代美術財団、2002年6月27日-10月27日
『逆転二重螺旋』、ニューヨーク、ロックフェラー・センター、2003年9月9日-10月12日
『リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー・アート展』、ニューヨーク、ジャパン・ソサエティー・ギャラリー他、村上隆キュレーション、2005年4月8日-7月24日
『村上隆回顧展(C)MURAKAMI』
カリフォルニア、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)、2007年10月29日-2008年2月11日
ニューヨーク、ブルックリン美術館、2008年4月5日-7月13日
フランクフルト、フランクフルト近代美術館、2008年9月27日-2009年1月4日
ビルバオ、ビルバオ・グッゲンハイム美術館、2009年2月17日-5月31日
『Murakami Versailles』、フランス・ヴェルサイユ宮殿、2010年9月14日-12月12日。
『Murakami Ego』、Al-Riwaq Doha exhibition space、カタール・ドーハ、2012年2月8日-6月24日
『村上隆の五百羅漢図展』、 森美術館、2015年10月31日-2016年3月6日
『村上隆のスーパーフラットコレクション-蕭白、魯山人からキーファーまで-』、横浜美術館、2016年1月30日-4月3日
代表作[編集]
『Miss Ko2(KoKo)』
ウェイトレスの格好の等身大サイズの美少女フィギュア。海洋堂や美術業者との共同制作オークション会社のサザビーズにて約5,800万円で落札。佐藤江梨子をモデルとした「サトエリMiss Ko2ちゃん」、西E田(キャラクターデザイナー)によるナースバージョンなども存在する。
『HIROPON』
自分の母乳で縄跳びをしている等身大の美少女フィギュア。オークション会社のクリスティーズにて約4,890万円で落札。その際、フィギュア原型師を紹介してくれた岡田斗司夫に感謝状をしたためている。

『My Lonesome CowBoy』
白い液体を放出する裸の青年の等身大のフィギュア。競売会社サザビーズがニューヨークで行ったオークションにて、1516万ドル(約16億円)で落札された。
『Mr.DOB』
代表的キャラクター。「DOB君」ともいう。ネズミのぬいぐるみのような形をした生物。様々な派生作品が生み出されており、その場の空間にあわせ奇妙な形態をする。変化する村上の自画像とも言われている。岡田斗司夫の処女作『ぼくたちの洗脳社会』の表紙にも登場している。
『お花』
代表的キャラクター。花の中央にスマイルのついた大小の異なる花。ルイ・ヴィトンとのコラボレーション作品に取り入れられている。歌手・ゆずのアルバムジャケットなどにも使用されている。
『ゆめらいおん』
TOKYO MXのシンボルキャラクター。
『シックスハートプリンセス』
ベルサイユ宮殿の個展にて初公開されたアニメーション作品。従来のアート系アニメ作品とは趣を異にする作風であり、女児をメインターゲットとした商業アニメ作品(プリキュア)のフォーマットを踏襲した作りとなっている。監修した佐藤順一は、まさにその日曜朝アニメ枠を務めた、れっきとしたアニメ監督である。
『五百羅漢図』
全長100メートルの狩野一信の作品のリメイク作品。東日本大震災への芸術家としての解答と表現している(ただし、製作開始時は震災は発生していない)。
『めめめのくらげ』
村上隆が監督を担当した映画作品。一般の商業映画作品として2013年4月26日に公開。カイカイキキ製作、ギャガ配給。
出版・DVD
出版
『ふしぎの森のDOB君 村上隆1st作品集』美術出版社、1999年。ISBN 4568103258
『Summon Monsters? Open The Door? Heal? Or Die? – 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』カイカイキキ、2001年。ISBN 4939148033
『ツーアート』ぴあ、2003年。ビートたけしと共著。
『The★ Geisai―アートを発見する場所』カイカイキキ、2005年。ISBN 4939148173
『SUPER FLAT』マドラ出版、2005年。ISBN 4944079346
『リトルボーイ―爆発する日本のサブカルチャー・アート』ジャパン・ソサエティー/イェール大学出版、2005年。ISBN 493914819X
『芸術起業論』 幻冬舎、2006年。ISBN 978-4344011786
『芸術闘争論』 幻冬舎、2010年。ISBN 9784344019126
『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012』美術出版社、2012年。ISBN 978-4568104509
『創造力なき日本――アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』角川書店、2012年。ISBN 978-4-04-110330-2
『熱闘! 日本美術史』新潮社、2014年。辻惟雄と共著。

DVD
『NHK新日曜美術館奈良美智×村上隆ニューポップ宣言』(2001年放送『新日曜美術館』編集DVD)、NHKエンタープライズ、2006年。
メディア出演[編集]
テレビ番組
たけしの誰でもピカソ(テレビ東京) – オープニングタイトル・キャラクターを担当。アートバトル審査員も務めた
ラジオ番組
村上隆のエフエム芸術道場(TOKYO FM 毎週土曜27:00-28:00)

渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) – 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。

生涯
誕生と苦難の幼少時代
江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。のちに谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んでいる。

池ノ原公園崋山幽居跡。1955年に復元したもの。詳しくは池ノ原公園を参照(2004年9月19日撮影)
田原藩士として
藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となる。
ところが、翌10年に藩主康明が28歳の若さで病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。
天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった。
こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な気候の渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。
天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。また、崋山は藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用した。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑で、崋山自身は開国論を持っており鎖国・海防に反対だった。
「蘭学にて大施主」
また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問会は天保8年(1837年)のモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての呼び名である。
これに対して田中弘之は、幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加しておらず、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけだったと指摘している。崋山や長英・三英は内心では鎖国の撤廃を望んでいたが、崋山は幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていた。江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていた。開国を望む崋山と頑迷な海防論者の江川は同床異夢の関係であったとする説を提示している。
蛮社の獄とその最期

愛知県田原市城宝寺の墓所
翌天保9年(1838年)にモリソン号事件を知った崋山や長英は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する『慎機論』を書いた。しかしこの書は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、『戊戌夢物語』を書いた長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。
かつて、蛮社の獄は、幕府の保守派、目付鳥居耀蔵が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の藤田茂吉がこれを自由民権運動との連想で書いたためである。だが実際には、鳥居と江川英龍との確執が原因であり、天保10年(1839年)5月、鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。
以上の通説に対して田中弘之は、江戸湾巡視の際に鳥居と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと鳥居と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、鳥居が失脚する弘化元年(1844年)まで続いていることを指摘している。鳥居は江戸湾巡視や蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めており、蛮社の獄の原因を鳥居と江川の確執に求めるのは誤りで、蛮社の獄は鳥居が『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるという説を提示している。
天保12年(1841年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。
著書に『初稿西洋事情書』『再稿西洋事情書』『外国事情書』『鴃舌或問』『鴃舌小記』など。
崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年3月15日(1868年4月7日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。
画家・文人としての崋山

月下鳴機図 天保12年(1841年)の作。静嘉堂文庫美術館蔵、重要美術品

鷹見泉石像 天保8年(1837年)の作。東京国立博物館蔵。国宝

佐藤一斎像 文政4年(1821年)の作。東京国立博物館蔵、重要文化財
華山は年少の頃より生計を支えるために画業を志した。最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事したが付届けができないことを理由に破門された。これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って金子金陵に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた(文化6年=崋山17歳)。金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中の素描などに大きく役立ったであろうことがうかがえる。
さらに、金陵の師である谷文晁にも教えを受けた。文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず文人画家としての手本となった。師の文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。文人画は清の惲寿平(惲南田)に強く影響されている。また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られる。

滝沢琴嶺像 天保6年(1835年)の作。個人蔵、天理大学付属天理図書館寄託

市河米庵像(部分) 天保8年(1837年)の作。京都国立博物館蔵、重要文化財

五言絶句 東京国立博物館蔵(倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満沅湘)
こうした崋山の写実性へのこだわりを示す逸話がある。1835年(天保6年)、画家友達であった滝沢琴嶺が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴にその肖像画の作成を依頼された。当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れたという(馬琴『後の為の記』)。これらは当時の価値観や風習から大きく外れた行動であった。
元々崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするために得がたいものとなった。代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるとともに、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。
弟子に椿椿山・福田半香などが育った。末弟の如山を椿山の画塾に入門させ将来を嘱望される画家としたが、僅か22歳で夭折した。
弟子の一覧
崋山十哲
椿椿山
福田半香
平井顕斎
永村茜山
井上竹逸
山本栞谷
小田甫川
立原春沙 立原杏所の長女
斎藤香玉
岡本秋暉 師友

金子豊水
鈴木三岳
高木悟庵
桜間青涯

高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日(嘉永5年2月18日) – 1934年(昭和9年)10月10日)は、日本の仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎、高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。

経歴
江戸下谷(現・台東区)に町人・兼吉の子として生まれる。1863年(文久3年)から仏師の高村東雲の元に徒弟となる。後に東雲の姉・エツの養子となり、高村姓となる。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
1889年(明治22年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、同年10月2日、帝室技芸員に任ぜられる。1893年(明治26年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。1900年(明治33年)には『山霊訶護』をパリ万博に出品。1926年(大正15年)に東京美術学校を退職し、名誉教授。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいた。
栄典
1903年(明治36年)12月11日 – 従五位
代表作
老猿(東京国立博物館蔵) – 1893年(明治26年)シカゴ万博出品作。木彫。国の重要文化財に指定。
西郷隆盛像(上野恩賜公園)
1897年(明治30年)に完成し、翌年除幕式が行われた。傍らの犬は後藤貞行の作。
楠公像(皇居前広場)
住友家が別子銅山(愛媛県)の開坑200年を記念して東京美術学校に製作を依頼し、宮内省に献納したもの。光雲が製作主任となり、主に楠公(楠木正成)の頭部を担当。体部は山田鬼斎と石川光明、馬は後藤貞行、鋳造は岡崎雪聲が担当した。銅像の台座の銘板には「明治30年」とあるが、原型(木造)は1893年(明治26年)に完成している。
山霊訶護(宮内庁蔵) – パリ万博出品作。
家系
祖先は鳥取藩士、中島重左衛門とされる。重左衛門の孫の富五郎が生まれる前に江戸で町人になっていたという。富五郎の息子が光雲の父・兼吉。

高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日)は、日本の詩人・彫刻家。東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。
日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もある。能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周。甥は写真家の高村規で、父である高村光雲等の作品鑑定も多くしている。

生涯
1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。
1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年(明治35年)に彫刻科を卒業し、研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。1906年(明治39年)より留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年(明治42年)に帰国。旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。
1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年(大正3年)に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年(大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「鯰(なまず)」制作。1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後、1941年(昭和16年)に詩集『智恵子抄』を出版した。
智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」[1]など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞[2]。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。
1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。
1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。
著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に、人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。

今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼の陶磁器。
日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。

浮世絵
江戸時代、今戸焼きが製造されている風景は何人かの画家の手によって浮世絵にも描かれている。歌川広重が『名所江戸百景』(画像参照)において今戸焼を製造している窯(かま)の様子を画面に描き込んでいるほか、歌川国芳も『東都名所』に「浅草今戸」と題した一枚で同様の風景を題材としてとっている。

刺繡(ししゅう、英: Embroidery)とは、布地あるいはその他の素材に針とより糸で装飾を施す技術、もしくは手芸のことである。刺繍には金属片や真珠、ビーズ、羽柄、スパンコールなどが用いられる場合もある。
刺繍の特徴は、チェーン・ステッチ(en)、ボタンホール・ステッチ(en)、ランニング・ステッチ(en)、サテン・ステッチ(en)、クロス・ステッチ(en)など、ステッチ(en)の最古の技法に基づいていることで、それらは現代の刺繍の基本的な技術として残っている。
機械刺繍(en)は産業革命の初期に登場し、手刺繍、とりわけチェーン・ステッチを模倣するために使われた。しかし機械によるサテン・ステッチやヘム・ステッチは、複数の糸によって施されるため、見た目は手刺繍と似ているが構造は異なる。

概要
大まかにわけて、人の手で行う手刺繍(てししゅう)と、機械を使用する機械刺繍、剣山状の針を使って布に糸を埋め込むパンチニードルとがある。
刺繍には、さまざまな色に染められた六本取りロウ引きなしの専用の糸(刺繍糸)と針穴を大きく取った専用の針(刺繍針)が使われる。材料が糸であるという性質上、使っている糸の色や材質を刺繍の最中に変更したり出来ないので、使用する色や材質の数だけ糸を用意する必要がある。そのため、文化刺繍など数十色の色を使用する刺繍を行う場合は、専用の針山が使われる。
歴史
中国の刺繍は3000年近い歴史を持つと見られ、周の『礼記』に養蚕や刺繍に関する記載があり、毛織物に簡単な刺繍を施したものも出土している。湖北省からは戦国時代中期の、湖南省からは前漢の細かな刺繍を施した布の実物が多数出土しており、現在の湘繍のルーツと見られる。宋の都であった汴州(べんしゅう)では刺繍が盛んに行われるようになり、現在まで1700年の歴史がある。
日本では、縫い目に呪力が宿るとされていた。そのため、大人の着物に比べ、縫い目の少ない子供の着物には悪いモノが寄り付きやすいと考えられ、子供を守るために着物の背中に「背守り」と呼ばれる刺繍を施す風習があった。
中世ヨーロッパでは刺繍は上流階級の女性の教養として広まった。
種類
フランス刺繍 – フランス刺繍独特の技巧をこらしたステッチが多種ある。一般的な「刺繍」
リボン刺繍 – リボン状のヤーン(糸)を刺す。刺繍糸よりも立体感をだす事ができる。

祭礼の山車の幕に施された刺繍
中国刺繍 – 中国には、少数民族のものと漢族のものがある。漢族の四大刺繍と呼ばれるものに江蘇省蘇州の蘇繍(そしゅう)、湖南省の湘繍(しょうしゅう)、四川省の蜀繍(しょくしゅう)、広東省の粤繍(えつしゅう)がある。この他、河南省開封の汴繍(べんしゅう)、北京の京繍(きょうしゅう)、江蘇省南通の沈繍(しんしゅう)、上海の顧繍(こしゅう)、浙江省温州の甌繍(おうしゅう)などが有名である。各地で糸の種類や技法などに特徴があるが、蘇州のシルクを用いた両面刺繍が特に名高い。少数民族では、ミャオ族の苗繍(びょうしゅう)が最も有名であるが、ヤオ族、チワン族、リー族、ペー族、ウイグル族など、各民族が独特の図案や風合いの刺繍を行っている。
スーザニ刺繍 – ウズベキスタンを中心にタジキスタン、カザフスタンなど中央アジア諸国で制作されている。
日本刺繍 – 京都で作られる日本刺繍を京繍、江戸(東京)で作られる日本刺繍を江戸刺繍、金沢で作られる日本刺繍を加賀刺繍と言い、その中で京繍は日本伝統工芸として認定されている。
絽刺し – 専用に作られた「絽」地の布の織り目の孔に一針ずつ糸を縫い込んでいくもの。図案には伝統的幾何学文様のものと絵画的なものとがある。まるでアップリケのように図案の部分の布地を全て繍糸で埋めてしまうのが特徴。天平時代には中国より伝来していたと見られる。主に皇室、公家、将軍家、大名家の女性達によって受け継がれてきたが、現在その技術を持つ者は少数である。
東京文化刺繍 – 表面一方からのみ針を刺し、糸を表にたわます手法。ジャガード織の風合いに仕上がる。
刺し子 – 木綿地の補強を目的としたステッチ。機能以上に伝統的な美しさもある。
キルティング
クロスステッチ
プチポワン
ミシン刺繍 – 機械刺繍の一種。

表具(ひょうぐ)とは、布や紙などを張ることによって仕立てられた巻物、掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖など。または、それらを仕立てること。仕立てることを表装(ひょうそう)とも称する。
表装を職業としている人を、表具師(ひょうぐし)または経師(きょうじ)という。表具師の主な仕事内容には、掛軸、屏風、衝立、額、画帖、巻物などの修理をはじめ、襖の新調、張替、障子貼りなども含まれる。古くは表補絵師(ひょうほうえし)と呼ばれた。

略歴・概要
平安時代ごろ、遅くとも鎌倉時代に中国から伝来した技術と伝えられる。経巻、仏画などを保護・装飾することから始まったのが表具の歴史である。当時は経巻制作の実作業者のことを「装潢手」(そうこうしゅ)と称しており、「経師」は写経生を指す語であった。
室町時代、1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、はり殿(張殿)とともに「へうほうゑ師」(表補絵師)として紹介され、1500年(明応9年)に成立したとされる『七十一番職人歌合』の二十六番には、仏師と共に「経師」として紹介されている。後者での経師は僧侶の姿をしている。後に「ひょうほうえ師」と呼ばれる専門職として独立するようになったと考えられている。「ひょうほうえ師」は、表補絵師、裱褙絵師(衤に表、衤に背)、あるいは表補衣師といった表記がなされた。
室町時代には寺院の床の間を民間がまねて設けるようになり、桃山時代に鑑賞用の表具がめざましい発展を遂げる。また茶の湯の流行も表具の発展に影響している。茶の湯の世界で珍重された牧谿ら中国画人の作品であっても、表装が貧弱では売れず(『蔭凉軒日録』)、高価な絵ほどそれに見合った表装が必要という意識が読み取れる。
第二次世界大戦以降では、1946年(昭和21年)5月1日、「東京表具組合」(のちの東京表具経師文化協会、現在の東京表具経師内装文化協会)が発足、表具・経師・内装インテリアの3部門をもつ組織として活動している。全国組織は、全国表具経師内装組合連合会である。
三大表具
京表具
江戸表具
金沢表具

漆工(しっこう)は、ウルシの樹液から精製される漆(うるし)を器物の表面に塗り重ね、様々な加飾を施す、東洋独特の伝統的技法。漆工芸(うるしこうげい)ともいう。日本、中国、朝鮮半島で盛行し、東南アジアなどでも用いられた。器物に漆を塗る髹漆(きゅうしつ)が基本に挙げられる。これに加え、最近ではスクリーン印刷なども用いられる。

素地による分類
木胎(もくたい)
木材。
乾漆(かんしつ)
木や粘土などで原型を作り、麻布などを漆で固め、後で原型を取り去ったもの。
乾漆は脱活乾漆と木心乾漆に分かれる。原型を土で作ったものは脱活乾漆(脱乾漆)と呼ばれ、原型を木で作ったものは木心乾漆と呼ばれる。
「乾漆造」も参照
籃胎(らんたい)
竹を編んだもの。
漆皮(しっぴ)
動物(牛や鹿等)の皮を叩き締めて整形したもの。
紙胎(したい)
和紙、近代では新聞紙も使われた。
貼り抜きとも言う。和紙肌を見せている場合は一閑張りまたは、一閑塗りと呼ばれる場合もある。
金胎(きんたい)
鉄の鋳物等。
著名な金胎漆器の例では、金胎蒔絵唐花文鉢(東京国立近代美術館蔵)などが存在する。
陶胎(とうたい)
焼き物。
NHK・連続テレビ小説「まれ」において、陶胎漆器が登場するエピソードがある。
巻胎(けんたい)
細く薄い木を巻いて使う。
加飾による分類
蒔絵(まきえ)
漆で文様を描き、金粉などを降り掛け、文様部分に固着させる技法。
彫漆(ちょうしつ)
厚く塗り重ねた漆に文様を彫る技法。表面の色の違いにより堆朱、(ついしゅ)堆黒(ついこく)がある。中国の漆工、紅花緑葉は応用した技法である。
蒟醤(きんま)
塗り重ねた漆に文様を彫り、色漆を塗り込んでから研ぎ、平面的な文様を描き出す技法。東南アジアで盛んに用いられている。
沈金(ちんきん)
漆を塗った器物の表面に文様を彫り、金箔や金粉を塗りこむ技法。中国の技法、戧金(そうきん)に同じ。
螺鈿(らでん)
文様の形に切った夜光貝等の貝殻を貼り付け、さらに漆を塗り研ぎ出す技法。
平文(ひょうもん)
金属(金、銀、錫等)の薄い板を文様の形に切って貼り付け、さらに漆を塗り平坦に研ぎ出す技法。金貝(かながい)ともいう。漆と金属の高低差があると平脱(へいだつ)となる。ただし近年は平文、平脱は同じ意味で取られている。
堆錦(ついきん)
琉球漆器を代表する漆工。漆に多量の顔料を添加し堆錦餅を作り、それを加工し用いる。
スクリーン印刷
シルクスクリーン、単にスクリーンともいう。孔版画の技法(版画#孔版画、参照)を応用した現代の技法。
銀器(ぎんき)は、銀でできた器などの製品である。
食器がより多く見かける製品であるが、装飾品、神具、記念品なども銀器に含まれている。銀器は他の材料でできた製品よりも突出して高価である。
1970年から1980年にかけてハント兄弟が銀を買い占めた事により銀相場が高騰した際には(銀の木曜日(英語版))銀器が大量に鋳つぶされ、市場に放出された。
銀器の手入れ方法
銀食器は空気中の硫黄分によって黒く変色する。それらは磨き粉などで磨くと除去できるが、その際、減量してしまう。そこで、金属以外の容器にアルミ箔を入れてその上に銀食器を置いて熱湯と塩または重曹を入れてしばらく放置するともとの輝きを取り戻す事が出来る。

和裁(わさい)は、和服を制作することやその技術のこと。和裁は和服裁縫の略語。大正時代の頃までは、裁縫といえば和裁のことであったが、洋裁と区別するために、和服の裁縫のことを和服裁縫、または和裁と呼ぶようになった。現在「裁縫」という言葉は和裁・洋裁のどちらも含む総称である。裁縫のことを「仕立て」ともいう。

和裁の特徴
洋服の場合は、既製品であっても、着る人のそれぞれの体型に合わせてサイズの異なる服が作られる。一方、和服の既製品の場合は、袴と足袋を除けば、子供用・大人の男性用・大人の女性用の3つの標準寸法があるだけである。ただし、袴と足袋の既製品は種々のサイズが作られる。特別な体型で標準寸法の和服では合わない場合は、採寸して作られる。しかし袴・足袋を除けば、和服を個人の体型に合わせるのは着付けの段階である。女性用の和服では、裾の長さは腰の位置で折り畳むことにより調節される。このように折り畳んだ部分をおはしょりと呼ぶ。男性用の和服の着付けではおはしょりは作らない。洋服にはないこの和服の特徴により、和服を新たに取得するときに、洋服よりもサイズを確かめる必要性が低い。また、親と子の体型がよほど大きく違わないかぎり、娘の結婚式などで母の高価な和服を娘が着るようなことが可能となる。ただし、女性用の和服であっても、欧米の白人女性が着る場合、彼女たちは一般的に日本人女性と比べて背が高く、サイズが合わないことがある。男性用・女性用を問わず、正装の和服は格調高く作られ、非常に高価であり、伝統工芸品・芸術作品としての価値が生まれることもある。普段着の和服は、工場で大量生産されることがある。
長さの単位として、メートル法ではなく尺貫法の丈・尺・寸が使われることがある。鯨尺(1尺≒37.9cm)が用いられるのが普通だが、東北地方の山形県・秋田県などでは曲尺(1尺≒30.3cm)が用いられることがある。1丈=10尺、1尺=10寸は鯨尺も曲尺も共通である。
反物
反物とは、和服の材料となる織物の総称である。幅が36cmから72cm、長さが4mから26mある、細くて長い布である。大人の女性用の長着によく使われるのは、幅が36cmの並巾と呼ばれる反物で、女性用の長着を一つ作るには、体の大きさにもよるが、おおむね12mほどの長さの並巾が必要とされる。
和裁道具

和裁の針には、「紬えりしめ」「絹えりしめ」「木綿えりしめ」「大ちゃぼ」「中ちゃぼ」「小ちゃぼ」「絹くけ」「大くけ」「小くけ」「木綿縫い」「三の三」「四の三」「四の四」などで使われる。

和裁の糸には、絹手縫い糸、躾(しつけ)糸などが使われる。
はさみ
はさみには、裁ちばさみと糸きりばさみが使われる。
ものさし
尺で計測できるものさしや、鯨尺で計測できるものさしがある。
その他
指貫
へら
チャコ
霧吹き
袖丸型
くけ台
針箱
衣紋掛け
こて

洗張、または洗い張り(あらいはり)は、和服(呉服)専門の洗濯方法の一つである。着物等、縫い合わせて衣服の形状をなしているものから抜糸をして、解き離しての洗浄を行う。この手法から、解洗・解洗い(ときあらい)ともいい、対義語は丸洗(まるあらい)。
「解洗」を行った後、「張」(はり)の作業で仕上げ・乾燥を行うが、この作業およびこの手法で乾燥させる布地を張物、または張り物(はりもの)という。板張りに使用する板を張板(はりいた)、張物板(はりものいた)といい、この作業を生業とする者を張物屋(はりものや)、張屋(はりや)、張物師(はりものし)、あるいは張殿(はりどの)という。
「洗張」を行う手工業者・職人を洗張屋(あらいはりや)と呼ぶ。現在では染物屋、とくに関西では悉皆屋(しっかいや)に発注する。

略歴・概要

岩瀬京伝(山東京伝)『洗張浮世模様』(1786年)のとあるページ。
「洗張」がいつごろ始められたかはわからないが、10世紀末の970年ころに成立したとされる『宇津保物語』には、「張物」を行う人物がすでに登場している。
「洗張」は、室町時代(14世紀 – 16世紀)にはすでに存在し、染物屋が兼業で手がけていたとされる。「解洗」のうち、「張物」の工程を専門に行う職人「張殿」(はりどの)が、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』に紹介されており、遅くともこの時期には「張物」の専門職が存在していたといえる。同歌合には「いやしき身なる者」として、「へうほうゑ師」(表補絵師)とともに対になっており、小袖を着た女性が無数の籡(しんし)で布を張っている姿が描かれている。この歌合に載せられた歌は、
きぬ共を 春の日しめし おきもあへず 花見の出立 急がるるころ
雨の日を もらすは惜しき 商ひに うちばり広き 殿作りせん
というもので、「張殿」の仕事が春になると花見を目前に繁忙期になること、野外で行う作業であるため雨天は休まざるをえず、室内で「張物」ができるような豪邸をつくりたいものだという歌に「張殿」の職能の特徴を描いている。
近世の17世紀末、1690年(元禄3年)に刊行された風俗事典『人倫訓蒙図彙』には、
練物・張物師 – 絹を練る家、張物をなす。一切の染物又は洗沢物これをはるなり。
と紹介されている。洗沢物とは洗濯物の意で、生絹の膠質を除去する「練物」の作業をする家では、「張物」を行うのだということである。江戸時代(17世紀 – 19世紀)には、「洗張」を専業で行う「洗張屋」が登場した。この時代になると、大坂(現在の大阪府大阪市)に「悉皆屋」が登場し、大坂で衣服の染め・洗張の注文を受け、京都の専門店に出す、という仲介業で、のちには染め・洗張を行う業者・職人を指すようになり、現在に至る。1786年(天明3年)、岩瀬京伝(のちの山東京伝)が上梓した『洗張浮世模様』は、「洗張」の姿の華やかさになぞらえて、当時流行した模様を紹介したイラスト集である。
近代以降、家庭で「洗張」をすることができたが、第二次世界大戦(1940年代)以降、染物屋・悉皆屋に外注するケースが増えている。1949年(昭和24年)に設定された日本標準産業分類では、細分類「洗張・染物業」(8291)として「洗張業」は「染物業」とともに1カテゴリを形成していたが、2007年(平成19年)の改正で「その他の洗濯・理容・浴場業」と統合され、小分類「その他の洗濯・理容・美容・浴場業」を形成した。
現在の日本での費用相場は、「洗張」が12,000円、ガード加工に12,000円、さらに仕立てる必要があるので、仕立て代が38,000円といったところだという。

江戸切子(えどきりこ)とは江戸末期に江戸(現在の東京)で始まったカットグラス工法のガラス工芸・ガラス細工である。伝統工芸に認定されているガラス工芸品・地域ブランドの一つ。

江戸切子の特徴
江戸末期に生産された江戸切子は透明な鉛ガラス(透きガラス)に鑢や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による手摺り工程による細工によって制作されたものと考えられている。
当時の薩摩切子が厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラスも用いていたこと、ホイールを用いた深いカットと大胆な形であることとは大きな違いがある。
明治期以後は薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や海外からの技術導入により、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになる。色ガラスの層は薄く鮮やかなのが特徴。加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行していく。
江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴である。
現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス等の透きガラスよりも色被せガラスを素材に用いたものが切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されている。
歴史
1834年(天保5年)に江戸大伝馬町のビードロ屋、加賀屋久兵衛(通称:加賀久)が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で模様を施したのが始まりと言われる。加賀久は日本橋通油町の硝子・眼鏡問屋・加賀屋(通称:加賀吉)から暖簾分けし、切子も始めたとされる。
1873年(明治6年)、明治政府の殖産興業政策の一環として品川興業社硝子製造所が開設され日本での近代的な硝子生産の試みが始まった。
1881年(明治14年)には当時最先端の技術を持ったイギリスから御雇い外国人としてカットグラス技師・エマヌエル・ホープトマンを招聘し技術導入が行われ数名の日本人が師事、近代的な技法が確立され以後発展した。
このように江戸切子のルーツは長崎を窓口として広まった蘭学による江戸の硝子技術・職人、また薩摩切子廃絶に伴う技術の移転そしてイギリス・アイルランドのカットグラス技術等が融合していったのと考えられる。
大正期から昭和初期(開戦前)にかけての大正文化・モダニズムの時代にカットグラスは人気となり、食器からランプにいたる多様な形で普及する(現在、和ガラスと言われるもの等)。第一次世界大戦に伴う産業構造の変化や素材の研究(安価なソーダガラスの素材等)やクリスタルガラスの研磨の技法の開発もあって、高級品の代名詞的存在となった。
当時のメーカーには佐々木硝子(後の佐々木クリスタル。現在の東洋佐々木ガラス)、岩城硝子、岡本硝子などがありドイツ留学から帰国した各務鑛三の各務クリスタル硝子製作所(現・カガミクリスタル)の創業も昭和初期。その他多くの問屋が存在した。
太平洋戦争中は平和産業のため制限下に置かれ、多くの職人も出征。残った職人たちは転業や疎開、またその加工技術から戦闘機向けガラス加工など軍需生産にも動員された。
戦後、主な生産地であった江東一体の下町は灰燼に帰し戦中の制限もあって業界は壊滅的打撃を受けていた。その荒廃の中から各メーカーや問屋に加え、新たに旧軍向け光学レンズからガラス食器に参入・技術転用し後に世界的なクリスタルガラスブランドへと発展した保谷硝子(現・HOYAクリスタル)などのカットグラス生産に切子職人たちが関わり復興していく。
その背景にはGHQの進駐によるガラス食器の発注や海外向け高級シャンデリア等の輸出など「外貨獲得の戦士」と称された時代、さらに高度経済成長期など生活の洋風化に伴うグラス・花器・洋食器の普及・需要増があった。
復興・成長期を経た後は発達してきたロボット・マシンメイドによるカットグラス加工の機械化・量産化がメーカーで進むほか、格安な輸入品の増加によって職人の下請け加工は仕事量と質が大きな影響を受け始める。
昭和50年代に入り行政の伝統工芸や地場産業振興の政策をうけ、組合が江戸切子として東京都伝統工芸品指定を受ける等、伝統工芸の看板として掲げた活動も進みはじめる。しかし円高不況による輸出の減少やバブル崩壊からの長期不況を受けメーカー・問屋・吹きガラス工場の廃業・撤退等も見られるようになり、クリスタルガラス素材を始めとする素材入手困難化や取引先・販路の縮小・変化が顕在化する。仕事量の減少は職人育成の余裕も減らす事となり、後継者の不足と高齢化の課題を抱えるなど複合的要因から廃業も多くなっている。
現在
多くの課題に対して、様々な試みをとりながら和の特色と個性を反映した日本のカットグラス・ガラス工芸として普及・生き残りを図っている。
組合(東京カットグラス工業協同組合)では伝統工芸江戸切子や地域ブランドの認定を受け活動。
個々の職人や加工場では職人仕事・下請け加工からの転換・多角化としてイベント会社の行うデパート催事への参加、自社製品の卸販売化や店舗・ホームページを構えての直販、異業種・デザイナーとのコラボレーション、また若手の育成も試みられている。
また、切子作家・カットグラス作家という活動も見られる。これは職人やその師弟が、下請け加工との兼業あるいは転業・独立して、個人として創作し日本伝統工芸展を始めとするコンペ・作品展への出品や教室・個展の開催等の活動を行うものである。
これらの活動は、ガラスコースを持つ美術大学・専門学校のカリキュラム内やカルチャー教室の切子講座においてカットグラスの指導を受けた者が修了後に始めるケースも見られる。職人という仕事にはせず、趣味の一環としてや作家専従のケースが多い。
江戸切子は薩摩切子と違い、現在に至るまで継続している。その歴史は震災・戦災ほか幾多の困難を経ても途絶える事が無かったこと、また文様や用途も身近な庶民の暮らしとともに発展していったこと等から「庶民の育てた文化」ともいわれている。
技の系譜と職人組合
手仕事ということもあり、加賀屋やホープトマン等からの脈々と繋がる系譜があり職人・加工場・作家の師弟関係をたどることが出来る。
職人とその加工場・工房は東京都江東区・墨田区を中心として江戸川区・葛飾区や大田区、埼玉県の一部など東京東部の周辺で江戸切子だけでなく各種カットグラス加工やその下請け生産を行なっている。
業態には、グラスや器を中心に切子の各種紋様の装飾などを施す「切子」と多面体グラスやガラスの時計枠・灰皿・トロフィー・オブジェあるいはレンズ等の平面研磨をする「平物」(ひらもの)の大きく2つがある。
現在、江戸切子職人・加工所間の同業組合として伝統工芸や地域団体商標の制度で江戸切子の認定を受けている東京カットグラス工業協同組合(江東区亀戸)があり、ショールームの開設・展示販売・催事・広報・体験等の事業を行なっている。2008年(平成20年)、江戸切子が地場産業である地元墨田区出身のTHE ALFEEの坂崎幸之助氏を親善大使に、また記念日として伝統的な模様の魚子(ななこ)にちなむ語呂合わせなどから7月5日を「江戸切子の日」と制定した。
伝統工芸等の公式認定
1985年(昭和60年) – 東京都伝統工芸品に認定。
2002年(平成14年) – 経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定(国による認定制度で、該当製品には「伝統証紙」が貼付される)。
2007年(平成19年)
9月3日 – 中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律(中小企業地域資源活用促進法)における基本構想(東京都)において、支援対象となる地域資源のひとつとして認定。
10月9日 – 地域団体商標登録。
いずれも表記は「江戸切子」であり、送り仮名「り」は含まれない。また、地域資源を除いて東京カットグラス工業協同組合に対しての認定。

三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱらはじいて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面にネコやイヌの皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。

概説

三味線
成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。近世邦楽の世界、特に地歌・箏曲の世界(三曲)等では「三弦(さんげん)」、または「三絃」と呼称し、表記する事も多い。雅語として「みつのお(三つの緒)」と呼ばれることもある。沖縄県や鹿児島県奄美群島では三線(さんしん)とも呼ぶ。
楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」という。これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためであるが、分割されていないものもあり「延棹(のべざお)」と称する。逆に5つ以上に分割できるものもある。
素材には高級品では紅木(こうき)材(インド産)を用いるが、紫檀(したん)、花林(かりん)材(タイ・ミャンマー・ラオスなどの東南アジア産)の棹もある。以前は樫、桑製も多かった。最近一部ではスネークウッドを使うこともある。特殊なものとして白檀(びゃくだん)や鉄刀木(たがやさん)を使うこともある。固く緻密で比重の高い木が良いとされる。胴は全て花林製だが昔は桑、ケヤキのものもあった。上級品では、内側の面に鑿(のみ)で細かな模様を一面に彫り込む。これを「綾杉」といい、響きを良くするといわれている。

三味線の稽古をする猫(歌川国芳「猫のけいこ」 天保12年(1841年))
革は一般に猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により現在は稽古用など全体の7割程度が犬の革を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。雌猫は交尾の際、雄猫に皮を引っ掛かれてしまうため雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われているが、実際には交尾前の若猫の皮は薄い為、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多い。合成製品を使用する場合もあるが、音質が劣るため好まれない。三味線がよい音を出すためには、胴の大きさの範囲内で厚みのある皮を使うことが必須となる。このため牛皮では大きすぎる。小動物で入手が容易な理由で、琉球時代の三線からネコやイヌが使用され、試行錯誤の末に江戸時代に現在の形が完成された。現在は、ネコやイヌの皮はほとんどが輸入品である。また、皮以外の棹の材料の紅木をはじめ胴と棹の材料である花林、糸巻きに使用される象牙や黒檀、撥に使うべっ甲なども同様である[1]。
糸(弦)は三本で、絹製。津軽三味線に関しては、ナイロン・テトロン製の糸を用いる事もある。太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼ぶ。それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なる。
通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり(英語版)」と呼ばれるシタールの「ジュワリ(英語版)」と同種のしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。「東さわり」と呼ばれる棹に埋め込んだ、螺旋式のさわりもある。
調弦
三味線にあっては、調弦は複数のパターンがあり、曲によって、また曲の途中でも調弦を変化させる。基本の調弦は次の通りである。調弦法が多種あるのは、異なる調に対応するためと、響きによる雰囲気の違いのためである(詳しくは「地歌」を参照)。現在では三味線の調弦に対応したチューニング・メーターも販売されている。
本調子(ほんちょうし) – 一の糸に対し、二の糸を完全4度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。一の糸がCならば二の糸はF、三の糸は高いCとなる。
二上り(にあがり) – 一の糸に対し、二の糸を完全5度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。本調子の二の糸を上げるとこの調子になる事から。沖縄県では「二上げ」とも言う。C-G-Cとなる。
三下り(さんさがり) – 一の糸に対し、二の糸を完全4度高く、三の糸を短7度高く合わせる。本調子の三の糸