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東海地方買取NO1を目指しています!!高価買取エリア(骨董品・美術品) - 新原美術 富山高岡本店

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豊根村 とよねむら[1900~1968]陶芸家。愛知の生まれ。本名、一(はじめ)。中国・朝鮮の古陶磁器の研究を重ね、色絵磁器・金襴手(きんらんで)などに独創的な作風を示した。

山田常山(3代)(1924~2005)
愛知県出身の日本の陶芸家。本名は山田稔。号は小常山のちに常山。
2代目常山の長男として生まれ、家業を継ぐべく在学中より父や祖父(初代常山)に師事する。

1947年の初代没後は父が常山を襲名、稔は父の号であった小常山を名乗る。
1958年に第5回日本伝統工芸展初入選、同年ブリュッセル万国博覧会にてグランプリ受賞。59年第7回生活工芸展第一席朝日賞などの受賞を経て62年日本工芸会正会員に就任。
また61年より父の死去に伴い3代山田常山を襲名している。
70年代には70年に大阪万博に出品、73年に第3回ビエンナーレ国際陶芸展に出品(名誉最高大賞受賞)など国際的にも評価が高まるきっかけとなった。また伝統の常滑焼を護ろうと地元の陶芸家らと常滑「手造り急須の会」を発足し
会長に就任している。

伝統に甘んじることなく古常滑の穴窯で急須に蓋をしたまま焼成しそのまま自然釉を掛けるといった独自の技法を完成させるなど日々研究続け、94年に愛知県指定無形文化財保持者の認定に続き98年に国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定された。
常滑朱泥急須=山田常山といわれるほど急須(主に煎茶用)制作の技術に優れ古典的なものから現代志向に合わせた斬新な作品まで幅広く制作し原型となるそのデザインは100種類以上あるといわれている。
また、急須作品のほかにも酒器、壺、大鉢など優作を多く残している。

山田常山(3代)年表

1924年 愛知県常滑市に生まれる。
1941年 愛知県立常滑工業学校窯業科卒業。在学中より祖父・初代山田常山に師事。
1946年 父・二大山田常山に師事。
1958年 第5回日本伝統工芸展初入選。ブリュッセル万国博覧会にてグランプリを受賞。
1961年 3代山田常山を襲名。
1963年 財団法人日本工芸会正会員となる。
1970年 日本万国博覧会に出品。
1973年 フランス第3回ビエンナーレ国際陶芸展名誉再興大賞受賞。渡欧する。
1974年 日本陶芸巨匠大展に出品。
1975年 常滑「手作り急須」の会会長。
1990年 「心と技ー伝統工芸名品展」北欧巡回展及び帰国展招待出品。
1993年 平成5年度日本陶磁協会賞受賞。
1994年 愛知県指定無形文化財保持者認定。「陶芸 ロクロによる手造り朱泥急須技法」
1996年 勲五等瑞宝章受章。
1998年 国指定重要無形文化財保持者に認定。「常滑焼(急須)」(通称「人間国宝」)。
日本工芸会参与東海テレビ文化賞受賞。
2004年 旭日小綬章受賞。
2005年 10月19日、死去。

瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。

平安時代、猿投地区(尾張東部から西三河西部)猿投古窯群と呼ばれる一大窯業生産地があった。そこで生産される灰釉が施された須恵器は灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通した。しかし、平安時代末期から製品が粗悪化し、衰退していく。
鎌倉時代、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれる。(ただし、景正の実在を疑う説もある。)この頃、日本陶器の起源となる、灰釉・鉄釉などの本格的陶器生産が始まる。器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られる。鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
室町時代末頃までは古瀬戸とよばれる。室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が美濃に移る。
桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
元和2年(1616年)に徳川家康が死去して駿府城内にあった遺品は将軍家と御三家に分配されるが、そのうち尾張徳川家が受け取った分の目録『駿府御分物之内色々御道具帳』(徳川黎明会蔵)には、すでに「瀬戸」と「古瀬戸」の語の使い分けが見える。こんにちでいう「古瀬戸」とは指し示す範囲が異なるものの小堀政一(遠州)『茶人の次第』(水戸徳川家伝来)にも「古瀬戸」の語がみえ、近世初期には「瀬戸」と「古瀬戸」の使い分けが広がっていることが確認できる。
江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった有田焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。
文化年間(1804年 – 1818年)加藤民吉親子が肥前国有田から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。以降、「染付焼」(瀬戸染付)は「新製焼」、旧来の陶器は「本業焼」と呼ばれた。

赤津焼(あかづやき)は、瀬戸焼のうち瀬戸市街の東方にある赤津地区で焼かれる焼物。

概要
瀬戸窯とともに発展した窯で平安時代の開窯とされ、当地には室町時代の窯跡である小長曽陶器窯跡が残る。戦国時代、瀬戸では「瀬戸山離散」と呼称される窯屋の急激な減少が発生し、多くの窯が美濃地方に移った。
慶長15年(1610年)になって尾張藩初代藩主・徳川義直が当時の赤津村に陶工を集めて瀬戸窯の復興を図った(窯屋呼び戻し)と言われていたが、近年では現存する資料から徳川家康が名古屋開府に合わせて窯屋を呼び戻したものとされている。
また、元和2年(1616年)には名古屋城に赤津から陶工を呼び、御深井丸に窯を築いた。これは明治4年(1871年)の廃藩置県に伴い廃止されたが「尾州御庭焼」として知られている。この御庭焼への出仕を通じてそれまでの赤津焼には無かった安南風の呉須絵の技術が陳元贇より伝えられ、現在では「御深井釉」と呼ばれている。文化4年(1807年)、加藤民吉によって瀬戸に磁器の製法が導入されたが赤津では定着せず、現在に至るまで陶器を主体としている。
現在
7種類の釉薬(灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井釉)と12種類の装飾技法が今に伝わり、1977年(昭和52年)には、国の伝統的工芸品にも指定された。2010年2月現在、赤津焼伝統工芸士14名を数える。
赤津焼会館
1980年(昭和55年)、赤津焼の研究資料・民俗資料保存を目的として建設された。
赤津町の高台にあって織部釉の陶板で建物の外壁を被う特徴的な概観をもつ建物で、館内には会合用の研修室などを備えるとともに、茶道具・花器などから普段使いの焼物まで、赤津の窯元の作品を一堂に集めて展示・販売している。

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器。日本六古窯の一つ。

歴史
中世の常滑焼
平安時代末期、猿投窯南部の灰釉陶窯の南下に伴い形成された知多半島古窯跡群を母体とするが、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。中世の常滑焼の窯跡は1,000基以上で数千基に及ぶとされるが、その実数は不明。過去の学説では最高10,000基というものがあるが、根拠は不明瞭といわねばならない。
平安時代末期の製品は素朴な中にも王朝文化の名残を感じさせる優美さを持ち、経塚などの仏教遺跡で用いられる事例が少なからずあり、さらに奥州平泉の遺跡群で大量につかわれていたことが判明している。
鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。そして、平安時代末期以来、広く太平洋沿岸を中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大・充実している。瀬戸内地方の広島県福山市に所在する草戸千軒町遺跡は、備前焼の生産地に近い立地ながら、鎌倉時代の常滑焼が数多く出土しており、そこからも、この時期の常滑焼の流通のあり方が窺われる。
その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島の丘陵部傾斜面に掘られた地下窖窯(ちかしきあながま)で、その大半は平安時代末期から南北朝期までの期間におさまっている。なお、中世常滑焼を代表する大型貯蔵具の生産は、常滑地域を中心とする半島中部の窯で行われることが多く、半島の北部や南部では、灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。
室町時代になると半島全域に広く分布していた窯は旧常滑町周辺に集まり、しかも集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになる。この段階では碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。また、室町期のある段階で半地上式の大窯に窯の構造が転換している。そして、その大窯は江戸時代の常滑焼を焼いた窯でもあり、別に鉄砲窯とも呼ばれた。古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない。
禁窯令と常滑焼
戦国時代、織田信長が瀬戸の陶器生産を保護するために天正2年「禁窯令」を出したことで常滑の陶器生産も一旦終焉を迎えたとする説がある。その初出は昭和10年代に刊行の旧『愛知県史』で、昭和49年刊の『常滑窯業誌』でも採用されている。しかし、この説に対して赤羽一郎は1983年の著書『常滑』で「禁窯令」の根拠とされる朱印状の文面は、焼き物生産すべてを禁止したのではなく瀬戸風の焼き物を他所で焼くことを禁じたと解釈すべきであること。常滑の窯の数の急減と市街地への集約は、天正期よりはるか以前に起こった現象であること、そして、天正期に生産された可能性の高い常滑焼は、中世城館跡などから少なからず出土していること、さらには瀬戸と競合関係にあるのは常滑ではなく、生産内容が類似する美濃焼であるべきで、実際15世紀から16世紀にかけて瀬戸の技術が美濃に流入している現象があるなどの理由をあげて、その「禁窯令」の常滑への影響を否定している。その後の日本各地の発掘調査によっても天正初期の極端な生産減少を認めることはできない。
近世の常滑焼
江戸時代、常滑村・瀬木村・北条村の三か村で焼かれる焼き物を常滑焼と総称した。なかでも北条村に最も窯が多く、元禄七年の窯改めで常滑・瀬木が2基ずつであるのに対し、北条は8基である。その後、北条は享保年間に10基、天明年間に8基、そして、江戸末期の天保年間に11基である。常滑村と瀬木村については、その後の記録がないが江戸末期に1から2基の増加があった程度と推測される程度である。
近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼物は甕・壺を中心とするが、江戸後期になると茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。一方、赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺、竈、火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してくる。
尾張藩侯の七・八代のころに北条村の渡辺弥平は、その命を受けて茶器・酒缶・花瓶などを作って上納したところ、いずれも賞玩され、それらが無名であることから元功斎の名を賜り、以後、作品に元功斎と記入することになったとされる。その後、常滑でも伊奈長三郎、上村白鴎、赤井陶然などの名工が出て茶器や酒器などに技を振るった。また、文政年間に稲葉高道(庄左衛門)は遠州秋葉山に参り、そこで伝来の「足利家同朋巽阿弥秘蔵 茶器三百五拾一品之内 茶瓶四拾三品」とある古写本を譲り受けて帰り、常滑で初めて急須を作ったとされる。また、杉江寿門堂(安平)は、安政元年に常滑の医者で急須の収集家でもあった平野忠司の指導を受けつつ、中国の茶壺の素材に近い朱泥を創出することに成功した。
常滑に連房式登窯が導入されるのは天保年間のこととされる。同じ天保年間に二代伊奈長三は板山土と呼ばれる白泥焼の原料を見出し、この土に乾燥させた海草を巻いて焼くことで生まれる火色焼(藻掛け技法)を生み出した。連房式登窯は真焼窯とも呼ばれ窯詰めされたものが、すべて真焼けになるのに対し、従来の大窯では燃焼室寄りに置かれたものは真焼けになるが、奥の煙道よりのものは温度が上がらず赤物になっていた。江戸末期に登り窯が導入された背景には、常滑においても各種の小細工物が量産される状況に至ったことをうかがわせる。この登り窯導入を行ったのは瀬木村の鯉江小三郎(方救)で、その息子の伊三郎(方寿)も協力したといわれる。しかし、年齢を考えると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。また、鯉江家は尾張藩の御用を勤めていたとされるが天保11年には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を伊三郎(方寿)が勤めている。そして、その「御焼物師 鯉江伊三郎」と銘を入れた壺が煙硝壺として伝存している。同形のもので、梅干壺とされるものもあり、その仕様を書いた安政七年の御掃除方役所が出した古文書もあるが、梅干壺は鯉江の窯で焼いた形跡がない。そして、梅干窯を焼いた窯として松本久右衛門の松本窯が知られている。この窯は流通業で富を得た松本家が陶器生産に参入した結果生まれたものながら、その操業にあたって従来の窯業者との間に大きな摩擦が発生したという記録がある。
近代の常滑焼
明治時代になって株仲間のような規制がなくなると新規に陶器生産に参入する家が増えていく。そして、明治の常滑では近代土管という新たな主力製品があり、その生産は従来の窯屋だけでは供給しきれないほど大量の需要があった。土管は英語のEARTHENWARE PIPEの訳語とされる。常滑では江戸末期の赤物に土樋があり、文久年間に鯉江方寿は美濃高須侯の江戸屋敷で上水道用として用いる真焼土樋を作って納めたという記録がある。しかし、近代土管の生産は土樋とは異なる規格化された製品で明治5年、横浜の新埋立地の下水工事に伴う注文が鯉江方寿のもとにもたらされたことに始まる。その設計はお雇い外国人のリチャード・ブラントンであった。はじめ瓦の材質で作られた土管は強度に難があるということで、常滑の真焼甕のように作ることを求められた。この注文は従来の常滑焼の技術だけでは充分に対応できず、鯉江家に出入りしていた大工が発案した木型を用いて作る方法でブラントンの求めた規格通りの製品を納めることができたとされる。その後、鉄道網が整備されると灌漑用水路が線路で分断されるため暗渠の水路を強固な素材で通す必要があり、分厚くて硬く焼き締まった特厚の土管が大量に求められた。また、都市での疫病が大きな問題となるに従い上下水道の分離が求められ、土管の需要湯は増大する一方であった。こうした状況に鯉江家だけでは生産が追いつかず、鯉江家はその技術を解放して常滑をあげて土管生産に対応するようになっていく。
タイルを中心とする建築陶器の生産は明治末年ころから開始されるが、大正期、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルに採用されたスクラッチタイルやテラコッタなどを常滑で生産して以降、急速にその生産量が増加していく。帝国ホテルの開館の祝いが催されていた大正12年9月1日、関東大震災が発生したのであった。それまでの近代建築が多く煉瓦積みであったのに対し、帝国ホテルはコンクリートを用いており、震災の影響が見た目にはそれほど大きくなかった。そして、その後の鉄筋コンクリート建築が普及するとともに建築陶器の需要が急速に増大していくことになる。
幕末から常滑焼業界のリーダー的位置に付いた鯉江方寿は明治期に近代土管の量産を軌道に乗せ、さらに輸出用陶磁器の生産にも取り組んだ。しかし、鯉江窯の試作品は高級品志向が強く、本格的に輸出されるようになったのは朱泥龍巻(しゅでいりゅうまき)と総称される製品群であった。明治10年代に試作され20〜30年代に本格的に輸出された朱泥龍巻は北米を主要な市場としていた。朱泥土を用い壺や投入、花瓶などを作り、その表面に石膏型で成型した龍を中心とした薄板状の文様を貼り付けてレリーフ状の装飾としたものが朱泥龍巻であるが、常滑から神戸に送られ、そこでさらに漆や金箔などを用いた加工が施されていた。明治末になると朱泥龍巻は急速に商品価値を失い、大正期には新たに素焼きの生地に漆を塗り、様々な装飾を加えた陶漆器(とうしっき)が輸出品として生産されるようになる。
鯉江方寿の業績として、明治11年に清朝末期の文人で宜興窯の茶器製法を知っていた金士恒という人物を招聘し、常滑の陶工に、その技法を伝習させたというものがある。明治期の常滑の煎茶器生産は、多くの名工によって担われていたが、産業として量産されるような段階には至っていない。それは、大正・昭和戦前期においても同様で植木鉢や火鉢の方が主要な製品であった。
近代の常滑焼は、初め連房式登窯と大窯で焼かれていたが、明治33年に結成された常滑陶器同業組合が明治34年度の事業として取り組んだ倒焔式の石炭窯の試験に成功したことで、石炭窯が急速に普及し、大正・昭和の主役となる。しかし、町中を黒煙で覆った石炭窯も昭和45年「改正大気汚染防止法」のころから重油へと燃料転換が計られ、さらにガス窯や電気窯の普及、そして、量産品はトンネル窯によって焼成されるようになり、その役割を終えていった。

犬山焼

上のような人間国宝作家の作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

赤津焼

沿革
日本六古窯の一つであり、その起源は奈良時代の須恵器にまでさかのぼります。鎌倉時代に釉薬(ゆうやく)を用いたのはこの地方のみであったといわれています。その後の安土・桃山時代には、茶道の発展の影響を受け、志野、織部など現在の赤津焼の根幹をなす技法が確立されました。

特徴
赤津焼の特徴は、織部釉(おりべゆう)、志野釉(しのゆう)、黄瀬戸釉(きぜとゆう)、古瀬戸釉(こぜとゆう)、灰釉(かいゆう)、御深井釉(おふけゆう)、鉄釉(てつゆう)の7種類の釉薬と、へら彫り、印花(いんか)、櫛目(くしめ)、三島手(みしまで)など12種類の多彩な装飾技法にあります。これらを駆使し、茶道具、華道具から家庭用品まで幅広く焼かれています。

製造工程
ろくろ成形、たたら成形、または手ひねり成形により成形し、仕上げ、乾燥の後、絵付けや施釉を行い焼成します。基本的に素焼きはしません。織部は焼成後、ドングリの傘からでるシブを使い、表面の幕を除去します(栃しぶ抜き)。

主な製品
茶器、花器、酒器、飲食器など

伝統的工芸品指定
指定年月日 第7次指定 昭和52年3月30日

尾張七宝

沿革
天保年間(1830~1844年)、尾張国の梶常吉が、オランダ船により輸入された七宝の皿を手がかりにその製法を発見し、改良を加えたのが始まりとされています。

特徴
一般に焼物といえば、陶磁器のように土を成形して焼き上げますが、七宝焼は、銅又は銀の金属素地を用い、その表面にガラス質の釉薬(ゆうやく)を施し、花鳥風月、風景などの図柄をあしらったところに特徴があります。特に図柄の輪郭となる部分に銀線を施す有線七宝は尾張七宝の代表的な技術です。

製造工程
銅(銀)板を用いて花瓶、皿などの形の金属素地を作り、その上に墨で下絵を描きます。有線七宝の場合は、下絵にそって銀のリボン線(銀線)を特殊な糊で立てながら植え付け(植線)、ガラス質の紬薬を施して焼成します。焼成は4~8回程度繰り返し行います。その後、研磨を行い、飾り付けを施して完成です。

主な製品
花瓶、額、酒器、皿、宝石箱等

伝統的工芸品指定
指定年月日 第29次指定 平成7年4月5日

瀬戸染付焼

沿革
19世紀初め、加藤民吉等が磁器の焼成(しょうせい)技術を瀬戸の地で広めたことが起源となっています。その後、絵師から絵付の指導を受け、南宋風の絵画を施す技術などが加わって急速に発展し、今日の瀬戸染付焼の基礎が確立されました。

特徴
白地(しろじ)の素地(きじ)に絵付を行い、施釉(せゆう)後焼成したものが染付です。藍色を基調とした色彩で繊細な自然画や鳥、花などを筆で描く技術と、潤いを持った仕上がりにするため、本焼成時に「ねらし(一定時間窯(かま)の温度を高温のまま維持)」を行い釉薬を熟成させるところに特徴があります。

製造工程
ろくろ成形、手ひねり成形等で成形し、表面をなめらかに仕上げ、乾燥後に素焼をした素地の表面に、直接筆で呉須絵具(ごすえのぐ)等を用いて下絵付を行います。その後紬薬を施し、本焼成して完成となります。

主な製品
茶器、花器、室内装飾品、食卓用品

伝統的工芸品指定
指定年月日 第31次指定 平成9年5月14日

紋章上絵

紋章上絵の起源は平安時代にさかのぼります。京都で修行をした小川棄拾氏が昭和19年から旧尾西市(現在の一宮市開明)に戻り、生産を始めました。
紋章上絵師の仕事は、黒紋付染の工程の中で、ゆのしを施した白生地に紋場と呼ばれる紋章を 描く部分を白く残すために、紋を彫った紋型紙を貼り付ける作業と、生地の染め上げ後、紋洗い をした真っ白な紋場に、コンパス、定規、上絵筆などを使い正確に紋を描き入れる作業に分かれ ます。何年も鍛錬された職人だけができる技術・技法です。

製造工程
黒着物(喪服)の石持(紋を入れる部分)に型(紋の形に彫った紙)を貼って、余分な部分を 染料で消します。その後、墨で線を入れます。

主な製品
呉服、紋入れ

打敷

沿革・特徴
かつて尾張地方は、刺繍の生産の盛んな土地でした。この地方では、主に呉服などを中心に刺 繍が盛んに行われていました。その後、呉服の他に仏具商の下請けとして、打敷や袈裟・山車の 幕等他を請け負うようになりました。

製造工程
製作し、糸と生地を染めます。糸よりをし、刺繍(駒づかい・ぬいきり・さしぬい・たけやまち・さがらぬい)をして仕立てます。

主な製品
打敷、祭物、各種刺繍品

犬山焼

沿革・特徴
江戸元禄年間、今井村(現在の犬山市今井)において、郷士奥村伝三郎が今井窯を築き、焼物を作ったのが始まりです。その後、犬山城主成瀬正寿が文化7年(1810年)丸山に開窯、文政年間(19世紀)には、犬山藩お庭焼として発展し現在に至ります。
作風は、中国明時代の呉州赤絵を手本とする呉州風赤絵・犬山城主成瀬正寿の意匠による光琳風の桜と紅葉を描いた雲錦手が特徴で、素朴で優雅な陶器として愛用されています。

製造工程
採石をして粉砕し、水簸(すいひ)から粘土を生成します。坏土、土練りをして乾燥させ、素焼きの後、下絵付をして釉薬を施します。焼成をし、上絵付・上絵窯・錦窯・金焼等を行います。

主な製品
抹茶椀、花瓶、湯呑み、酒器

指物
沿革・特徴
指物師は、江戸時代になって独立した家具職人です。指物の「指す」というのは、板で箱等を作ることをいいますが、物差し等で測ることも「指す」というので物差し等を使用して細かい物を作る人のことをいいます。一宮市で指物が作られるようになったのは、大正時代からで、キリ、ヒノキ、スギ、クワ等を使って主に茶道用に箱、棚、櫃等を作っています。

製造工程
原材を天日乾燥させ、木取りし再び天日で乾燥させます。加工細工をして屋内で自然乾燥させ、組立加工をします。その後、研き、塗装をし、蒔絵・箔押しをします。

主な製品
棚物、風炉先屏風(ふろさきびょうぶ)具、茶杓(ちゃしゃく)、茶筅(ちゃせん)

曲げ物

沿革・特徴
曲げ物とは、ひのき、すぎなどの薄い板を曲げて作った器をいいます。旧新川町(現在の清須市)では、約200年前の江戸寛政年間頃、外町綿屋三輪彦兵衛、丸の内酒屋山田市右ヱ門、外町広瀬屋、牛田善右ヱ門が曲げ物屋を創業しました。
美濃街道は、昭和30年に旧西枇杷島町(現在の清須市)の青物市場が名古屋へ移るまで、大八車が行き交って賑わっていました。これらの人を当て込み、須ヶ口周辺は曲げ物作りで栄えていました。

製造工程
木地→木地を造り、乾燥させます。木取りをし湯で煮て、ロクロで曲げサクラの皮で縫います。
毛綱→原毛を洗い、長さを区別し毛を織機にかけます。木地の底を入れて、毛綱を付け仕上げます。

主な製品
蒸籠(せいろ)、柄杓(ひしゃく)、篩(ふるい)、こし器

漆器

沿革・特徴
わが国における漆の歴史には諸説あり、中国から伝えられたとも、日本で独自に発達してきたともいわれています。
尾張地方では戦前まで、「尾張漆」として漆・漆器が盛んに生産されていました。しかし時代の移り変わりとともに、廃業や仏壇仏具などの職業に転業する人が多くなり、戦中・戦後を過ぎた今では、一部の人が製作に従事しているだけとなりました。

製造工程
素地・木地に下地を塗る。下地工程が終わった物に下塗り・中塗り・上塗りの工程で漆を塗り、乾燥させます。

主な製品
美術工芸品、食器(盆・椀等)、茶華道具

端折傘

沿革・特徴
骨の端を内側に折り曲げた長柄の傘で、その昔、公家や僧侶、馬上の貴人などに後ろからさしかけたりと、広く利用されてきました。
また、豊臣秀吉が醍醐の花見の際に用いたという記録も残っており、近年では野点(のだて)の席に使われることはもとより、パーティー、室内装飾などの分野にも広く愛用されています。
約400年、14代に渡り端折傘の製作を続ける扶桑町の尾関朱傘製作所では、今なお、伝統の技法が守り継がれています。

製造工程
竹で骨(親骨と傘の内側で親骨を支える押上骨)を作り、墨を柿渋で溶いた液を塗る。親骨と押上骨にそれぞれ轆轤(ろくろ)を作って取り付けます。紙張り、朱塗りをして乾燥させ、折り込みをします。傘の上部の轆轤(ろくろ)に化粧張りをし、飾り糸掛けをして仕上げをします。

仏具

沿革・特徴
木魚位牌等の仏具が名古屋でいつ頃から製造されるようになったかは明らかになっていませんが、おそらく仏壇と並行して発展してきたものと推測されています。
現在でも位牌等の小物から寺院門の山号額のような大きな物までが幅広く製作されています。

製造工程
製材から木取りをし、彫刻・塗装・箔押しを行います。字形を整えて仕上げます。

主な製品
位牌、寺院仏具一式

武者絵幟、鯉幟

製品
沿革・特徴
江戸時代弘化年間(19世紀中頃)に起源があるものと推測されています。明治になって岐阜方面から「春香」「藤吉」という二人の下絵師がやって来て、五月幟(武者絵幟)・野幕(野外で宴会等をするときに周囲に張る幕)等の下絵および江戸絵を書き残しました。これらの絵を原型として色分けし、呉汁、大豆の汁等を用いて雨などにも剥げない幟が染められるようになりました。

製造工程
綿布地に下絵を描き、糊付けします。染色して押さえ、糊を落として乾燥させ、上絵付けをします。

津島祭礼太鼓

沿革・特徴
津島市の太鼓づくりの起源は、約1470年前の津島神社の創建に由来するものと思われます。現存する最古の太鼓は、平安時代末期に作られており、現在唯一の太鼓づくりを行っている堀田新五郎商店も25代以上続いています。津島祭礼太鼓の特徴は、牛皮のなめし方にあります。他の多くの産地が、薬品により皮なめしを行うの対し、堀田新五郎商店では、昔ながらに、室を作り、雑菌発酵により皮なめしを行います。このため、太腹の胴に弾力性のある太鼓皮を貼ることができ、雄大でずしっと響く鳴音が得られます。神社、寺院の儀典用に、また、祭り嚇子用として、多種多様な太鼓が生産されています。

製造工程
胴作り→太鼓の大きさに応じ原木を切断し、胴の中を刳り貫きます。また外側を削ります。乾燥させ、歌口を仕上げて塗装します。
革作り→皮をなめして処理します。仮張り、本張りをして鋲を打ち、縁切りをして仕上げます。

主な製品
胴長太鼓、桶胴太鼓、祭礼用締太鼓、火焔太鼓

津島祭礼太鼓

沿革・特徴
津島市の太鼓づくりの起源は、約1470年前の津島神社の創建に由来するものと思われます。現存する最古の太鼓は、平安時代末期に作られており、現在唯一の太鼓づくりを行っている堀田新五郎商店も25代以上続いています。津島祭礼太鼓の特徴は、牛皮のなめし方にあります。他の多くの産地が、薬品により皮なめしを行うの対し、堀田新五郎商店では、昔ながらに、室を作り、雑菌発酵により皮なめしを行います。このため、太腹の胴に弾力性のある太鼓皮を貼ることができ、雄大でずしっと響く鳴音が得られます。神社、寺院の儀典用に、また、祭り嚇子用として、多種多様な太鼓が生産されています。

製造工程
胴作り→太鼓の大きさに応じ原木を切断し、胴の中を刳り貫きます。また外側を削ります。乾燥させ、歌口を仕上げて塗装します。
革作り→皮をなめして処理します。仮張り、本張りをして鋲を打ち、縁切りをして仕上げます。

主な製品
胴長太鼓、桶胴太鼓、祭礼用締太鼓、火焔太鼓

名古屋仏壇

製品
沿革
元禄8年(1695年)、高木仁右ヱ門がこの地に仏壇専門店「ひろや」を創業したのが始まりとされています。東本願寺造営に参加した優れた職人たちが、良材「木曽檜(ひのき)」を用いて仏壇工芸を発展させ、今日の基礎を形成しました。

特徴
宮殿御坊造(くうでんごぼうづく)りを代表とする豪華な構造と、台の部分が高く、「みつまくり」を備えていることが特徴とされています。水害から仏壇を守るとともに、台の中に諸仏具を配置、収納するための生活の知恵の結晶です。

製造工程
八職(はっしょく)と称する専門職(木地(きじ)師、宮殿(くうでん)師、彫刻師、錺金具(かざりかなぐ)師、塗(ぬり)師、蒔絵(まきえ)師、箔押(はくおし)師、組立師)による合作である。図で示すと次のとおりとなる。
製造工程図

主な製品
仏壇

伝統的工芸品指定
指定年月日 第6次指定 昭和51年12月15日

名古屋桐箪笥

沿革
約420年前、名古屋城の築城に携わった職人たちが城下町に定着し、箪笥や長持を製造したのが始まりといわれています。材料となる飛騨桐(岐阜県)の産地に近く、良材が容易に入手できたことも、その発展を大きく促しました。

特徴
他産地のものと比べて幅が広く、くぎはヒバ製あるいはこれと同等の材質のものを用いるところに特徴があります。湿気を防ぎ、熱を通さない、狂いが少ない高級品として有名です。

製造工程
大まかに造材、木取り、狂い直し、加工、加飾、金具付け等に分けられ、130余の工程を一人の職人で作ります。桐無垢板(きりむくいた)を使用し、各部材の接合は伝統的な組み接ぎ法を用い、仕上げにかるかやの根を束ねたうずくりを用いて磨き、やしゃぶし液に砥粉(とのこ)を混ぜた液で着色した後、ろうで磨きます。

主な製品
総桐 中開箪笥・昇箪笥・衣装箪笥・小袖箪笥・帯箪笥・総桐チェスト

伝統的工芸品指定
指定年月日 第15次指定 昭和56年6月22日

名古屋友禅

沿革
尾張藩主徳川宗春(とくがわむねはる)の頃(1730~1739年)に、京都、江戸などから友禅師が往来し、その技法が伝えられたことに始まります。しかし宗春失脚後、質素倹約が励行されるようになり、模様の配色も色数を控えたものへと移行しました。

特徴
当地方の土地柄を反映して、単彩濃淡調の色使いのなかに幽玄さを秘めた”渋(しぶ)”さを特徴としています。

製造工程
手描友禅:白生地を仮絵羽縫(かりえばぬい)し、青花液(あおばなえき)で下絵を描き、色挿しをします。挿した色を定着させるために蒸した後、模様部分に伏糊(ふせのり)をして地色を引染し、再び蒸して水洗し、最後に箔置(はくお)きなど彩色仕上(さいしきしあげ)をします。
型友禅:白生地を友禅板に張り付け、伊勢型紙などを使用して柄付けをします。柄付け後、模様部分に伏糊をし、地染を行い、蒸した後水洗して仕上げます。

主な製品
訪問着、留袖、着尺地他

伝統的工芸品指定
指定年月日 第18次指定 昭和58年4月27日

名古屋黒紋付染

沿革
慶長15年(1610年)、尾張藩士小坂井家が、藩内の旗、幟(のぼり)などの製造にあたったことが始まりといわれています。その後、現在につながる紋型紙板締めの技法が生み出されました。

特徴
染色方法には、浸染(ひたしぞめ)と引染(ひきぞめ)の二種類があります。浸染では、紋型紙を使用し、家紋の形を染め抜きます。染液の温度を高めにし、時間をかけて染めるため、堅牢度(けんろうど)の高い黒色が得られます。引染では、黒の色艶の優れた「トロ引黒染」または「三ッ引黒染」の技法を用いることに特徴があります。

製造工程
浸染では、生地に紋型紙を貼り、それを生地の両面から紋当金網(もんあてかなあみ)で押さえて締付け、下染めをした後、黒の染料液に入れて染め上げます。引染では、紋の部分に伏糊をして、「トロ引黒染」や「三ッ引黒染」技法で、刷毛(はけ)を使用して染め上げます。最後に白く残った部分に紋章を手描きで入れて完成となります。

主な製品
着尺地、羽尺地

伝統的工芸品指定
指定年月日 第18次指定 昭和58年4月27日

木桶

沿革・特徴
桶の発祥は古く、古事記に天の岩戸の前で天鋼女(あまのうずめの)命(みこと)が桶の上で舞ったと記されています。名古屋においても富岳三十六景「尾州不二見原」に描かれているように、江戸時代には、尾張藩所領の木曽椹(さわら)を用いて桶の製造が盛んにおこなわれました。旧桶屋町には、藩御用達の桶職人が多く住んでいたといわれます。
かぐわしい木の香り、木目の美しさ、感触の良さなどが木桶の持ち味です。

製造工程
木取りをして乾燥させる。外鉋・内鉋をかけ、正直突き・糊付し、仮輪をして再び内外鉋かけをし、溝掘りの後に輪入れ・底入れをして小口仕上げをします。

主な製品
寿司飯切、櫃等

木桶

沿革・特徴
桶の発祥は古く、古事記に天の岩戸の前で天鋼女(あまのうずめの)命(みこと)が桶の上で舞ったと記されています。名古屋においても富岳三十六景「尾州不二見原」に描かれているように、江戸時代には、尾張藩所領の木曽椹(さわら)を用いて桶の製造が盛んにおこなわれました。旧桶屋町には、藩御用達の桶職人が多く住んでいたといわれます。
かぐわしい木の香り、木目の美しさ、感触の良さなどが木桶の持ち味です。

製造工程
木取りをして乾燥させる。外鉋・内鉋をかけ、正直突き・糊付し、仮輪をして再び内外鉋かけをし、溝掘りの後に輪入れ・底入れをして小口仕上げをします。

主な製品
寿司飯切、櫃等

名古屋扇子

沿革・特徴
名古屋扇子は、宝暦年間(18世紀中頃)に京都から現在の西区幅下あたりに移住してきた井上勘造父子によって始められたとされています。名古屋は京都と並ぶ産地として知られ、京扇子が高級な婦人物を主としているのに対し、名古屋扇子は、白扇など実用的な男物を主体として発展してきました。

製造工程
竹→胴切りをし、割竹せん引をする。あてつけ(扇骨成型)し、白干しし、磨き・塗りをして要を打ち、末削(紙の間に入る扇骨を薄く削る)をします。
紙→紙合わせをして箔押し・上絵付けをし、折り・中差しを経て中付けをします。

主な製品
男扇、女扇、舞踊扇、飾扇

名古屋提灯

沿革・特徴
提灯の歴史は、古く室町時代にさかのぼるといわれ、江戸時代には盆供養に提灯を使う風習が生まれ、盛んに作られるようになりました。小田原提灯、岐阜提灯などが有名ですが、名古屋提灯も歴史の古い業者が多く、又、和紙を通しての柔らかな光が欧米人にも好まれました。明治初期には貴重な輸出品として全国一の生産を誇った時期もありました。現在では、盆提灯・観光土産提灯などが主に生産されています。

製造工程
提灯の木型に型油をつけて木型を組みます。木型の上、下に中輪(張り輪)をはめます。組んだ木型にヒゴ(提灯の骨)巻きをします。巻いたヒゴに糊(生麩糊)を打ちます。次に提灯用の紙(主に和紙)を貼ります。よく乾燥させてから提灯を木型から外して丁寧に畳み、検品をして各種付属品を付け、仕上げをします。

主な製品
盆提灯、装飾提灯、宣伝提灯、ランプシェード

木魚

沿革・特徴
木魚の始まりは、寺院の中で大衆を集める合図として木製の鳴り物が用いられたことです。それがやがて魚形になり、現在の木魚となりました。魚形となったのは、中国の故事に基づいています。現在、日本国内で木魚を手作りしているのは一宮市とその周辺のみで、明治時代に京都で修行をした職人が始めたものです。

製造工程
原木の丸太から木取り・孔堀りをして室内乾燥させます。彫刻・磨仕上げ・着色をして仕上げ、最後に音付けをします。

主な製品
木魚

名古屋節句人形

沿革・特徴
名古屋節句人形の歴史は古く、天明年間(18世紀)頃の「名府年中行事」によると、玉屋町(現在の名古屋市西区)と諸町に雛人形市が立っていたことが記されており、このことから江戸時代後期には相当数の業者が存在したことが推測されます。
明治に入って、東京から職人を招いたことにより、技術が向上し、全国有数の生産地へと成長しました。さらに戦後には分業制が確立しました。

製造工程
着付→藁の芯に紙を巻き、綿で肉付け胴・腕を針金で通します。着物を仕立てて着せ、手足を付け、腕を折ります。
顔 →石膏で原型を作り桐塑で色を塗り、嵌めたガラスの目を彫刻刀で掘り出し眉・口を描きます。
髪結→顔の縁に溝を彫り髪を貼り付け、束ねて結っていきます。
手足→手の平を木で作る。指を針金で作り、胡紛を塗って乾かした後に彫刻等で彫ります。

主な製品
雛人形、五月人形、市松人形、尾山人形

戸部の蛙

沿革・特徴
今から約400年前、戸部城主・戸部新左衛門という乱暴な殿様がいました。外出の折、面前を横切るものは、なんでも無礼打ちにしていました。ある日、新左衛門の面前を一匹のトノサマガエルがさっと横切りました。お供衆は息を飲んだが乱暴な新左衛門も、その蛙の飛ぶ速さに心を奪われ、蛙は命拾いしました。それから誰ともなく、“山崎(現在の名古屋市南区)越えたらとべ、とべ”と洒落るようになったとのことです。こうした言い伝えから、“命拾いをして無事にカエル”といった願いを込めて、瓦職人が粘土で蛙を作って焼き、それを笠寺観音の参道に並べて売った土産物が、戸部の蛙の始まりだとされています。

製造工程
人形の形をした原型に土を張り付け、乾燥したら二つに割って枠を作ります。枠の中に土を詰めて原型と同じかたちの人形を作ります。乾燥させて素焼きをし、塗料で色をつけて仕上げます。

和凧

沿革・特徴
凧は中国から伝えられたといわれ、承平年間(10世紀)の「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に初めて凧が紙老鵬の名で紹介されていますが、名古屋には江戸中期に参勤交代や行商人の手によって江戸から普及したと推察されています。正徳2年(1712年)柿の木金助が大凧に乗って、名古屋城の金の鯱ウロコを盗んだ有名な事件以来、名古屋城下では大凧上げが禁止され、そのせいか昭和の現代でも愛知県下では大凧が作られていません

製造工程
和紙を乾燥させ染色し、竹をはりつける。また乾燥させ、ふちどりをして糸目を付けます。

主な製品
角凧、奴凧、蝉凧、六角凧

神棚・神具

沿革・特徴
名古屋市港区は熱田神宮、伊勢神宮に近いという地理的条件に加え、古くから城下町名古屋には堀川が木曽木材の集積地であったことから、周辺には、木材問屋、桶、セイロなどの木製品製造業者が数多くあり、神棚・神具も製作されていました。内祭用(家の中)神棚の製造業者が多く、昭和30年代までは箱型、神明づくり、奥屋違い三社などの昔ながらのものに人気がありました。現在ではインテリア化したものがよく売れるとのことです。

製造工程
荒木取・木取小割をして部品を作ります。塗装、組立、金具の取り付けをします。屋根・胴・台をそれぞれ仕上げ、組み立てます。

主な製品
神棚、社殿、神具、みこし

名古屋和蝋燭

沿革・特徴
和蝋燭は、仏教の伝来とともに中国からその製法が伝えられたといわれています。名古屋へは、17世紀後半に福島県会津地方より伝授されたとされています。
和蝋燭は、櫨(ハゼ)の実を搾った木蝋と草の芯、和紙を原料としています。植物性のため、洋蝋燭と比べ油煙が極めて少ない、風が吹いても炎が消えにくいなどの特徴があります。
また、灯芯のまわりに何回も塗り重ね太くしていくため、蝋燭の断面は、ちょうど木の年輪のようになっています。

製造工程
い草の芯(灯芯)に和紙で芯巻きをし、芯に棒を差し込みます。蝋つけをして下地ぬり・上地ぬりの後、頭部切り・下部切りをして完成させます。

主な製品
白蝋燭、朱蝋燭、金蝋燭、銀蝋燭

錺工芸品

沿革・特徴
金銀細工を行う錺(かざり)職は、名古屋ではかなり古くから行われていたようです。名古屋は昔から仏壇の産地として知られてきました。仏壇づくりは仏壇八職といわれるように、木地、宮殿、彫刻、塗り、内金物、外金物、蒔絵、箔押しの八種類の部分が組み合わさって作られ、それぞれに専門の職人がいます。そのうちの内金物、外金物を総称して錺金物と呼んでいます。ただし、錺金物としては、仏壇のほかにも仏具、神具、寺物、祭の御輿や山車などの装飾用金具・金物などを作っている人もいます。

製造工程
下絵を基に銅板に墨入れをします。彫り(柄)入れをし、魚々子打ちをします。形の沿って切断し、本金・鍍金(めっき)等の処理をして仕上げます。

主な製品
神仏具、祭車・山車、建築金具などの装飾用の錺金具

常滑焼

沿革
日本六古窯の一つに数えられ、その起源は平安末期にまでさかのぼります。古来より大瓶・大壼などの日用雑 器が有名です。桃山時代には茶道具、江戸時代には、この地で産出する鉄分の多い陶土の性質を巧みに生か した朱泥焼(しゅでいやき)や白泥焼(はくでいやき)、火色焼(ほいろやき)を作り、今日の基礎が築かれました。

特徴
歴史が物語るように、豊富で良質な陶土(とうど)の性質を生かして、多種多様な製品が生産されています。なかでも、粘土に含まれている鉄分を赤く発色させることにより生まれる朱泥は、常滑焼の代表作として有名です。

製造工程
ろくろ成形、押型成形または手ひねり成形により成形した後、常滑焼独自の素地磨き削りを行い、加飾(かしょく)、施釉(せゆう)を経て焼成します。無釉製品の場合は焼成後、羽毛で磨きをかけ、艶を出して完成します。

主な製品
茶器、花器、酒器、置物、植木鉢

伝統的工芸品指定
指定年月日 第5次指定 昭和51年6月2日

知多木綿

沿革・特徴
知多木綿の歴史は江戸初期に始まったと伝えられています。初期には生白(きじろ)木綿として生産され、伊勢から江戸に送られていました。その後、江戸中期の天明年間(18世紀)に旧岡田村(現在の知多市)の中嶋七右衛門らが晒(さらし)技術を導入して以来、『知多晒』としての名声が高まりました。

製造工程
白木綿糸を草木染で染め(紺色は業者より)、手作業にてタテ糸を機にセットし、手織りで布とします。布もしくは手作りで製品を加工します。

主な製品
手織り知多木綿(手作り製品)

乙川人形

沿革・特徴
江戸・天保15年頃、飛脚屋をしていた杉浦伊佐衛門が京都伏見から、人形製作技術を学んできてこの地で始めました。材料の粘土が採出できたことや、販売路の便により盛えました。しかしながら、次第に雛人形など豪華なものが好まれるようになり、現在では土人形はほとんど製作されなくなりました。また、昭和29年頃に、元来の手作りから鋳込式へと製作方法が変化しました。

製造工程
キブシ(粘土)を鋳込み、型抜きをします。接合面の調整をして、天日で乾燥させ、釜入れをし塗装します。

主な製品
招きネコ、ダルマ、天神牛

三河仏壇

沿革
文献によると元禄17年(1704年)、矢作川(やはぎがわ)から運ばれる松、杉、檜(ひのき)などの良材と、三河北部の漆(うるし)を材料として、仏壇師庄八家(しょうはちけ)が製造したのが始まりといわれています。

特徴
三河地方では仏壇を押入れに安置する習慣だったため、押入れに合わせた高さ、奥行、幅と、その条件の下でいかに豪華に見せ、かつ拝みやすくするかに工夫が凝らされてきました。そのため台は低く、なげしは「うねり長押(なげし)」となっています。

製造工程
八職(はっしょく)と称する専門職(木地(きじ)師、宮殿(くうでん)師、彫刻師、錺金具(かざりかなぐ)師、塗(ぬり)師、蒔絵(まきえ)師、箔押(はくおし)師、組立師)による合作である。図で示すと次のとおりとなる。
製造工程図

主な製品
仏壇

伝統的工芸品指定
指定年月日 第6次指定 昭和51年12月15日

岡崎石工品

沿革
天正18年(1590年)、岡崎城主田中吉政が、城下町の整備のために河内・和泉の石工を招いたのが始まりといわれています。近くの山から良質の花崗岩がとれたこと、矢作川(やはぎがわ)を利用して重い石燈籠(いしとうろう)を江戸・大阪まで運ぶことができた、などの好条件によって繁栄しました。

特徴
神社仏閣の燈明(とうみょう)用として生まれた石燈籠が庶民の暮らしの中に取り入れられ、夜道を照らす常夜燈(じょうやとう)や庭園装飾用へと用途を広げていきました。現在、「立燈籠型」「雪見型」「鉢物」などの庭燈籠が盛んに作られています。

製造工程
代表的製品である立燈籠は、岡崎花崗岩を原料として、さしがね等を用いて墨出しをし、コヤスケ、ノミ、タタキ、ビシャン、小ベラ等の道具を使って仕上げ、下から地輪、柱、受、火袋、笠、玉と乗せ上げて据え付けます。

主な製品
燈籠、多重塔、鉢物

伝統的工芸品指定
指定年月日 第12次指定 昭和54年8月3日

草木染

沿革・特徴
日本には古来から化学(合成)染料を一切使わず 植物などの天然染料のみで染色した「草木染」がありました。岡崎市の「草木染工房 しかり」では草木染の普及活動のため、製作や市民講座に取組んできました。

製造工程
染料を煮出し、布に糊を置きます。刷毛で染液や天然発色・定着液を塗ります。その工程を染めるものに応じて何度も繰り返します。

主な製品
天然染料で染めたもの(繊維・紙・木等)

鬼瓦

沿革・特徴
高浜市・碧南市は矢作川の下流域にあり、鉄分が多く粒が粗いという瓦に適した良質な粘土が 採掘されたこと、船便による搬送ができたことから「三州瓦」の産地として発展してきました。 鬼瓦は奈良時代に建物の安穏を祈って飾られるようになったものですが、なぜ三州地域で生産さ れるようになったのか確かな記録は残っていません。また東三河地域においても古くから良質の 粘土が産出し、鬼瓦が作られています。

製造工程
型紙を粘土の上にのせ、輪郭に合わせて粘土を切り取り鬼瓦の原型を作ります。表面に側面を 張り付け、雲などの模様を付け土をします。乾燥させ、約1130度前後の高温で焼成します。

主な製品
鬼瓦

鶴城焼

沿革・特徴
地元の土をおりまぜ、あな窯で焼かれた自然釉の焼き物です。「鶴城」とも呼ばれた西尾城の名 にちなみ、鶴城焼と呼ばれています。時を経て使い込まれながら、次第に深みが増してきます。 他にも生活の場にあって食を演出し暮らしに潤いを与える斬新な器や、つや消しの皿、陶壁など、 多彩な作風があります。

製造工程
粘土を杯土し、乾燥させます。下絵付けの後、釉薬を施し焼成します。

主な製品
抹茶茶碗、花器、水差し

三河の一刀彫

沿革・特徴
三河の一刀彫は、寺院彫刻などを行っていた初代の神谷重春氏が昭和20年ごろに始め、現在は、2代目の健司氏が中心となって製作しています。
三河の一刀彫は、三河地方に伝わる文化や伝統芸能である三河万歳を題材にした物が多く、奴さん、吉良の仁吉、郷土三英傑、翁、高砂など作品は多彩です。
紅松や五葉松を用い、木の肌を最大限生かし、大胆かつ粗削りな手法で形をとらえていく鋭いノミ味が強調されています。

製造工程
製材を荒彫りし、仕上て彩色します。彩色の無い場合も有ります。

主な製品
一刀彫三河万歳など

木地製品

沿革・特徴
文徳(もんとく)天皇(827~858年)の第1皇子惟喬(これたか)親王(844~897年)が、近江国小椋庄に住んで、轆轤(ろくろ)の使用を教えたのが木地師の始まりと伝えられています。
木地師は良木を求めて諸国の山中を歩いては、木地製品の製作にあたりました。愛知県では、段戸山系に木地師が多くいましたが足助でも東部地区を中心に幾多の木地師が活躍していました。

製造工程
丸太を製材し、木地にまるめて乾燥させる。中挽きして再び乾燥させ、仕上げ挽きをします。

主な製品
盆、菓子器、なつめ、銘々皿

奥三河木地

沿革・特徴
文献では天保5年(1834年)に古橋源二郎が美濃屋木地店を創業していることが明らかとなって おり、それ以前から多くの木地師が在住していたと思われます。
カシ、トチ、桜、松等の素材を使い、伝統的な荒挽き、中挽き、仕上挽き等の技法により茶器・ 花器等を生産していましたが、大正以降は次第に衰退していきました。現在はわずかな生産者た ちが昔ながらの製法で食器・盆等を作っています。

製造工程
材料の木取りをして乾燥させ、荒掘りをして仕上げます。

主な製品
盆、菓子器等

釣竿・弓矢

沿革・特徴
釣竿は、三河地方にすぐれた竹材があったため、従来から足助では盛んに作られていました。
弓矢は、徳川家康が出身地の三河の農民に武芸奨励をしたことから弓道が盛んになったこと、また、材料の竹材もすぐれていたことから盛んに作られるようになりました。足助では、各お宮や寺に矢場がたくさんあったとのことです。
現在のいろは竹工所は、初代の鈴木庄五郎氏が明治年代に釣竿や弓矢を趣味で製作していたことが始まりで、氏が従来の長継竿から小継竿に改良しました。

製造工程
竹を火でのばし、削り、糸巻をして、うるしを塗り仕上げます。

主な製品
釣竿、矢

やはぎの矢

製品
沿革・特徴
明治3年、静岡県三ケ日にて矢師となった初代小山嘉六に始まり、伝統的な手法により代々竹矢の製造に取組んできました。70もの製造工程を持つため、完成までに2年の歳月を要すると言われています。現在は、流鏑馬神事を始めとした各神事で使用されています。

製造工程
竹を切り出し、熱して柔らかくして竹の曲がなくなるまでしごきます。小刀で削り、再び焼いて真直ぐにします。砂で擦って小刀の削りめを取り、焼き色をつけて砂と水で磨きます。仕上げ砥ぎをして、最後に銃身が揃うように鉄粉を混ぜた松脂を焼け火箸で矢竹の端に入れ込みます。

主な製品
竹矢

和紙

沿革・特徴
足助の和紙は「三河森下紙」と呼ばれる純生漉和紙です。農家の冬場の仕事として、女性ではなく男性が漉いていたのが足助の特徴と言われています。丈夫な紙で2枚漉きに特徴があり、主に障子や番傘の紙に用いられました。現在では番傘や、足助名物の行灯たんころりんにも使われています。

製造工程
コウゾの黒皮を除き、繊維をほぐす。繊維を流水で冷やしながらアク抜きをして塵やごみを取り除きます。コウゾを細かい繊維に分解し、トロロアオイを加えて漉舟に溶かし、繊維を漉きながら厚みを加えていきます。紙漉きを終えたものを圧搾工程で水分を取り除き、乾燥させます。

主な製品
和紙

一閑張

沿革・特徴
旧小原村(現豊田市)は、古くから三河漆の産地でした。三河漆は日光東照宮にも使われたといわれる良質なものでした。それに着目したのが工芸家藤井達吉で、昭和9年に名古屋の安藤政太郎とともに、小原和紙の紙漉き職人に一閑張りの技術を伝えました。その後、昭和20年から藤井氏が本格的な指導を開始し、弟子の安藤則義氏から様々な工夫が加わり今日に至ります。

製造工程
和紙を漉き紙に加工する。曲ものや木地の型を作り、紙貼りをして紙を漆器に加工します。

主な製品
茶器、重箱、皿、盆

土人形

沿革・特徴
以前、愛知県の三河地方の農家では冬の間に土人形を作って生計の足しにしていました。人形作りは江戸時代から始まり、明治時代の初めから村歌舞伎が庶民の娯楽として人気があった碧南地区では、歌舞伎人形もよく作られたといいます。その土人形はおぼこと呼ばれ、武者や飾り雛など素朴なつくりに色鮮やかな彩色を特徴とした人形が作られました。また豊橋でも、乙川土人形の杉浦家親戚にあたる杉浦幸次郎氏により赤天神などがつくられました。

製造工程
原型をつくり、土の調製をします。型ぬきをし、乾燥させます。焼成して彩色仕上げをします。

主な製品
おぼこ、赤天神

三将馬

沿革・特徴
昭和53年、安城の人形師野村嘉雄氏は、愛知県ゆかりの民芸品を作ってほしいという依頼を受けて歴史を研究し、郷土にゆかりの深い三英傑の愛馬を「三将馬」として製作しました。素材には、三英傑にゆかりの深い土地である美濃の和紙、小原村の手漉き和紙を用い、丹精込めて作り上げられています。

製造工程
生地をぬき、胡粉を塗ります。和紙を貼り、飾付をして仕上げます。

三将馬

沿革・特徴
昭和53年、安城の人形師野村嘉雄氏は、愛知県ゆかりの民芸品を作ってほしいという依頼を受けて歴史を研究し、郷土にゆかりの深い三英傑の愛馬を「三将馬」として製作しました。素材には、三英傑にゆかりの深い土地である美濃の和紙、小原村の手漉き和紙を用い、丹精込めて作り上げられています。

製造工程
生地をぬき、胡粉を塗ります。和紙を貼り、飾付をして仕上げます。

きらら鈴

沿革・特徴
西尾市内の八ツ面山では良質な雲母(うんも)が奈良時代から産出していました。明治初期、雲母発掘人夫が山で生き埋めになり、誰ともなく木の枝に鈴を下げ、その霊をなぐさめました。このことから、当時、雑器を製造していた陶芸家加藤熊蔵氏が「きらら鈴」を作りました。三河瓦土の雲母をちりばめたきめ細かい地肌の鈴で、ころころと人懐こい音色がします。

製造工程
山土から陶土を調合し、手ひねりで成型して仕上げます。乾燥させ、素焼きし絵付けをします。

五月武者絵幟

沿革・特徴
かなめ染め武者絵幟は、江戸時代中期に職人の町・三河国土呂(現在の岡崎市福岡町)の地で誕生しました。かなめ本染めは、今なお熟練の職人により全て手づくりされ、下絵も含め、変わらず受け継がれています

製造工程
綿布地に下絵を描き、糊付けします。染色して押さえ、糊を落として乾燥させ、上絵付けをします。

主な製品
鯉のぼり、武者絵幟

ちゃらぼこ太鼓

沿革・特徴
「ちゃらぼこ」とは太鼓のリズムを口で言い表したものです。ちゃらぼこ太鼓はこの地方独特の祭り囃子で演奏される太鼓です。「ちゃらぼこ」の歴史については、いろいろな説があります。蒲郡などの海沿いの地域では南の海から伝わったと言われ、安城市辺りでは東海道から京都のものが伝えられたとされています。小〆太鼓・コンコロ太鼓があり、この太鼓を作る技術があるのは地域性の強い楽器なだけに、この地方の太鼓屋にしかありません。

製造工程
胴作りをし、皮作りをして皮張りをします。

主な製品
各種和太鼓

しめ縄

沿革・特徴
しめ縄には、御霊を宿す神聖な境・領域を他と区別するために奉り、周囲の汚れを清め、災いなどの侵入を防ぐと言う意味があります。わらをなった縄に、縁起が良いとされる飾り物を付けます。岡崎におけるしめ縄の生産は、明治20年代前半、伊勢神宮へ参拝した石川米吉氏が神宮のしめ縄を参考に開発したことに始まります。生活様式の変化により、従来に比べ生産量の減少は否めませんが、一方で手づくり、本物志向が注目されています。

製造工程
稲わらを作り、縄にないます。飾り付けをして仕上げます。

主な製品
しめ縄

三州岡崎和蝋燭

沿革・特徴
天文~永禄年間(16世紀中頃)、ハゼの木の実からとれる「木ロウ」を原料として和蝋燭(木蝋燭)が製造されるようになりました。江戸時代に入り、和蝋燭の需要は急伸し、各藩において重要な産業となり、各地にロウソク問屋ができました。
岡崎においても、仏壇、石工品とともに主要な産業となっておりましたが、明治になり西洋ロウソクの普及に伴って問屋数も減少し今日に至りました。しかし現在でも、「あかり」として仏事を始め寺院・茶道・記念行事等幅広い用途に用いられ、根強い需要があります。

製造工程
灯芯に木蝋を付けて乾燥させます。削り、下掛け塗りをしてカンナで削り乾燥させます。再び上掛塗りをして、上部切り・下部切りをして完成させます。

主な製品
和蝋燭

三州灯篭

沿革・特徴
文献によれば、鎌倉時代中期・正応2年(1289年)に、河内国丹南郷から安藤三郎九郎親重が、長子国近及び従弟を率いて冗了恵上人とともに岡崎管生の郷に移住し、由緒ある鋳物師として梵鐘や仏具などを鋳造したのが始まりです。大正年代まで、安藤氏の子孫が携わっており、昭和初期には、8軒の事業者に数百名の従事者がいたとのことです。
蜜ろうを使用し、細かい彫刻が可能なことが特徴で、現代でも、昔ながらの技法で製作しています。

製造工程
原型を制作し、次に鋳物を制作します。鋳造して、表面を削って仕上げ着色します。

主な製品
灯篭、庭置物

豊橋筆

沿革
文化元年(1804年)、京都の鈴木甚左衛門が、吉田藩(豊橋)から招かれ製造したのが始まりといわれています。下級武士の副業として取り入れられたことと、穂首の原材料となる狸(たぬき)、いたちなどの獣毛が容易に入手できたことなどから、産地として発展しました。

特徴
原材料の混毛に、水を用いて交ぜあわせる「練(ね)りまぜ」の工程を用いることに、豊橋筆最大の特徴があります。この工程により生み出される、”墨含みが良く、墨はけが遅く”使いやすい筆は、高級品として有名です。

製造工程
約36の筆作りの工程は、全部手作りで行われています。工程を大別すると、選別→毛もみ→寸切り→練りまぜ→上毛(うわげ)かけ→仕上げ→刻銘(こくめい)となります。一人の職人が一日に作る筆の数は細筆で50本、太筆で30本といわれています。

主な製品

伝統的工芸品指定
指定年月日 第6次指定 昭和51年12月15日

三河木綿・三河縞

沿革・特徴
織物の歴史は古く、縄文時代には、原始的な機織りの存在が想定されています。(石錘(せきすい)等の出土)江戸時代以前の文献には、藤づるを使用した機織りの記録がありますが、木綿織りがいつごろから三河地方で行われるようになったか定かではありません。現在は蒲郡市ルネッサンス事業として「手織場(てばたば)」が立ち上げられ、三河木綿・三河縞の復元と生産を行っています。

製造工程
綿打ちをし、糸をつむぎます。白糸を染色し機械で織ります。

主な製品
木綿反物

藍染

沿革・特徴
蒲郡で藍染めが始められたのは、約1600年前とのことです。当地が三河木綿の産地であったところから、全盛期には、一村に1軒の紺屋があったと言われています。
現在では、遠山順二氏(初代)が大正14年に開業した遠山正藍染織工場一軒となっており、二代目・守氏、三代目・二一氏とともに親子3代にわたって、伝統技術を守りつつ、時代にあった新しい商品の製作に力をいれています。
藍に染められた糸は丈夫で織られた着物は変色しにくく、着こなせば着こなすほど味が出ます。

製造工程
絹糸を藍染し、製品に加工します。

主な製品
藍染(糸染・布染)加工、藍染の糸
藍染の作務衣・のれん・テーブルクロス等

曲輪せいろ

沿革・特徴
ヒノキの薄板を丸く曲げ、底を付けたものは一般に“曲げもの”と呼ばれていますが、鎌倉時代には、すでにセイロなどに使われていました。
現在の豊川市内(旧音羽町)で製作されている曲輪セイロは、昭和初期に加藤金次氏が豊橋で技術を修得し、暖簾分けにより開業したのが始まりです。

製造工程
ヒノキの薄板を熱湯で曲げ、桜皮等で縫い合わせ、丸い底板を付けます。

主な製品
蒸器、とうし(ふるい)、ウラゴシ

天神様

沿革・特徴
三河地方では昔から、男の子が生まれると、知恵が膨らみますようにと、知恵の神様である天神様の人形を飾る風習があります。天神屋人形店の初代秦玉造氏が、土や泥を使って天神様の人形を作ったのが当地の人形作りの始まりです。
その後、時代の流れに沿って人形の作り方も変わり、いろいろな種類の人形が作られるようになりました。現在は4代目の孝司氏が、藁を使った胴と西陣織りの着物を使って人形作りを行っています。

製造工程
胴柄は金襴の裏打ちをし、裁断をして着物を仕上げます。胴に手足・着物を付け、振り付けをし、最後に顔を付けます。

主な製品
羽子板、破魔弓、お雛さま、天神様

三河張子(鐘鬼の面・おころりん)

沿革・特徴
「鐘鬼の面」は、江戸・文化年間(18世紀前半)に、初代の内藤助十氏が冬の農閑期に収入を得るために作り始めたもので、「鬼より恐ろしい鐘鬼さん」と呼ばれ、魔除けや、神様に病気の平癒を願う時に使われました。
3代目の滝三郎氏が始めた「おころりん」は、高さ7cmぐらいの赤い布で子供を包んだ小さな女だるまで、子どもが誕生すると丈夫に育つようにと買われていきました。これが三河目無しだるまの元祖といわれています。

製造工程
木彫原型に和紙を糊付けし、天日で乾燥させて型から外します。胡紛を塗り、面書きをして仕上げます。

小坂井の風車

沿革・特徴
宝飯郡小坂井町にある菟足(うたり)神社は、風に対する民間信仰をもとにした神社として祀られています。江戸時代から伝わる風車は、神社の例祭「風祭り」に由来しています。最初は菟足神社で売られていましたが、近郊の神社の祭礼でも売られるようになり、「三河の風車」とも呼ばれるようになりました。

製造工程
経木で羽根となる板を作成し俵の形にそろえます。型に組み、羽根中心部を留め、穴をあけます。羽根を黄色に塗り俵の絵を描きます。
幣手に穴をあけ、軸受けの女竹を打ち込みます。
最後に女竹にガラガラを差し込み、組み立てます。

張り子

沿革・特徴
豊橋市の安久美神戸神明社で、毎年2月10、11日には、鬼祭り」が行われます。神明社に伝わる神事で祭では荒ぶる神が「赤鬼」となり、武神が「天狗」となります。そして荒ぶる神と武神の、闘いが鬼祭りのメインイベント、「赤鬼と天狗のからかい」になります。祭礼に因んだ「天狗」の持つ薙刀(なぎなた)と「鬼」の持つ撞木(しゅもく)は玩具として鬼の面などとともに売られています。

製造工程
糊で和紙を数枚張り合わせ、木型に貼ります。乾燥させて木型を外し、着色して仕上げます。

主な製品
黒鬼面、薙刀、撞木

宮太鼓・締太鼓・平太鼓

沿革・特徴
江戸時代、幕府の政策により、東海道の街道筋の約十里毎に太鼓店が配置されたという言い伝えがあり、東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのことです。
小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治年代に始めたもので、現在でも6代目の正孝氏が昔どおり、すべて手作業で製作しています。現在でも浜松地区の様々な祭りに使われています。

製造工程
胴→材木を粗削りし、カンナで仕上げ、つや出しをします。
革→牛皮を水に濡らします。乾燥させ、締め置きをします。胴に革を張って完成させます。

鳳来寺石硯

沿革・特徴
鳳来時の硯は、鳳来寺山開山当時の約1300年前から作られていたと伝えられています。金鳳石、煙巌石、鳳鳴石の三種類があり、金鳳石がもっとも良質なもので当時の寺林から産出したことから、別名寺林石とも呼ばれていました。石は漆黒ですが、無数の金銀星(黄銅鋼、黄鉄鋼、褐鉄鋼、白鉄鋼などの結晶体)を有するため、仕上がったとき、美しく光り輝きます。

製造工程
地元の山で原石を採石し、ノミで手彫りします。砥石でみがき、うるし系塗料でつやを出し仕上げます。

主な製品
鳳来寺硯

山田焼
山田焼(やまだやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。
渋草焼、小糸焼と共に現存する焼き物だが、前者が藩主や風流人に好まれたのに対し山田焼は農民、町人のために焼かれた生活雑器である。創始者は稲垣藤四郎といわれる。また、材料の粘土は地元の水田の土を用いていたという。
しかしながら、殖産興業のために山田焼は郡代から推奨されたため、飛騨の焼き物の中で最も長い歴史を持つことになり、現在に至るまで窯の火が絶えたことはない。また明治時代には窯業の技術を応用して土管、煉瓦、瓦などを焼き、大いに繁栄した。
2006年現在は小林陶舎の一軒のみが民芸調の陶器を焼いている。決して飾らない、素朴ながら味わいの深い意匠に人気がある。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。

小糸焼

小糸焼(こいとやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。名の由来は高山城下西方の地名、小糸坂である。茶陶で知られる。
寛永年間の開窯で、高山城主の金森重頼が京都の陶工、竹屋源十郎を招いたのが始まり。重頼の兄、金森重近(宗和)が高名な茶人でもあったため、彼の指導の下で茶器を焼かせた(第一期小糸焼)。茶陶として名を馳せたが、金森家が出羽国に転封されたために僅か20年に廃窯となった。
その後、天保8年、高山の豪商、細江嘉助ならびに平田忠右衛門により小糸坂の地に復興。しかしながら、この窯もわずか数年で廃窯する(第二期小糸焼)。
現在の小糸焼は戦後に長倉三朗とその息子、靖邦が綿密な発掘調査の下に復活させたものである。小糸焼は独特の作風で知られているが、特に、「伊羅保(イラボ)釉」を発展させた、小糸焼独自の「青伊羅保」と呼ぶ、渋く深みのあるコバルトブルーの釉薬が代表的である。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。

渋草焼

渋草焼(しぶくさやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶磁器。天保11年(1840年)に飛騨郡代豊田友直が陶磁器を自給自足すべく、官民共同の窯場を作ったのが始まり。
原料に地元の渋草陶石を用いる。そして瀬戸や九谷といった磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出した。
江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られ衰退。しかし、明治11年(1878年)に三輪源次郎ら4人の率いる芳国舎(設立当初は陶甄社という名前だった)が窯元を復活させ、有田や瀬戸に陶工を派遣して研鑽させた。芳国舎は決して軌道に乗らなかったが、三輪の作品は数々の博覧会に出展しては入賞を遂げている。
今日では芳国舎と柳造窯の2か所が煙を上げている。前者は昔ながらの手書きの絵付磁器を焼く。
平成4年(1992年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。

美濃焼

織部扇形蓋物

織部角皿(サンフランシスコ・アジア美術館)

志野水注(シカゴ美術館)

鼠志野秋草文額皿(東京国立博物館)

黄瀬戸水指(メトロポリタン美術館)
美濃焼(みのやき、Mino Yaki – Mino Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を主たる産地とする陶磁器の総称である。
1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
美濃焼が主に生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、日本の陶磁器生産量の約半分を占めている。

歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代以降、瀬戸市周辺の丘陵地帯ほどではないが古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産が開始された。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれる。16世紀に織田信長の経済政策によって瀬戸市周辺の丘陵地帯の陶工たちも美濃地方(土岐川以北)の集落に移り住んで窖窯よりも焼成効率に優れた地上式の単室窯である大窯を多数築いた。桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出された。江戸時代中期に「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 – 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。
加藤孝造名誉顧問、人間国宝に認定
「人間国宝認定」
■この記事は平成22年7月16日に掲載しました。(内容はいずれも当時)
このたび、社団法人美濃陶芸協会の加藤孝造名誉顧問が、瀬戸黒の技法により、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
これは、2010年(平成22年)7月16日に文化庁より発表されました。
瀬戸黒は、それまでの保持者であった人間国宝・荒川豊蔵氏が1985年(昭和60年)に死去したため、重要無形文化財指定が解除されていましたが、今回再指定され、加藤名誉顧問が瀬戸黒では2人目の人間国宝となりました。
加藤名誉顧問は、1963年(昭和38年)の社団法人美濃陶芸協会設立に際し理事となり、1990年(平成2年)から1997年(平成9年)まで第二代会長を務めました。その後、名誉会長を経て、2009年(平成21年)より名誉顧問。

【 瀬戸黒(せとぐろ)】 桃山時代、美濃で焼かれた、引き出しの技法による総黒のやきもの。その名を「美濃」ではなく「瀬戸」とするのは、桃山時代の畿内においては、美濃窯と瀬戸窯とを区別せず、両者併せて「瀬戸」と理解していたことによる。漆黒茶碗が茶人に好まれたため、瀬戸黒はほとんど茶碗しかない。その独特の漆黒は、焼成中に釉薬の溶け具合を見計らい、鉄製の長いはさみで引き出して常温まで急冷させることにより、釉薬中に含まれている鉄分が黒色化して生まれたもの。別名として、その技法から「引き出し黒」、天正年間(1573~1593)より焼かれたことから「天正黒」とも呼ばれる。

主な陶歴
1935 ・3月12日、岐阜県端浪市に生まれる。
1953 ・光風会展(洋画)に初入選、以後8回出品。
・岐阜県陶磁器試験場にて、場長の陶芸家・五代加藤幸兵衛に陶芸の指導を受ける。
1954 ・第10回日展(洋画)に初入選。
1955 ・岐阜県陶磁器試験場工芸科(主任技師)の頃より進路を陶芸に固める。
1957 ・皇太子殿下ご成婚を記念し、岐阜県より献上の染付「浅間山」陶板を制作。
1959 ・朝日新聞社主催 現代日本陶芸展に初入選。
・加藤孝造個展(初個展・ボニエル工芸店/ニューヨーク)。
1962 ・朝日新聞社主催 現代日本陶芸展課題作の部にて三席に入賞。
・日本伝統工芸展に「志野日帯文壷」初出品初入選(以後同展に出品)。
1963 ・社団法人美濃陶芸協会を設立。理事に就任。
・朝日陶芸展入選入賞 以後受賞を重ねる。
1965 ・岐阜県より献上の染付「鵜飼」陶板二面を制作。
・多治見市星ケ台に薪・石炭併用の倒焔式単室窯を築く。
1966 ・日本工芸会正会員に就任。
1967 ・朝日陶芸展で「鉄釉壺」が優秀賞を受賞。同展評議員となる。
1968 ・「鉄釉花器」で第15回日本伝統工芸展朝日賞を受賞。
1969 ・第1回東海伝統工芸展最高賞(第一席)を受賞。
1970 ・岐阜県陶磁器試験場工芸科を退職し、多治見市星ケ丘で制作活動に入る。
・陶房に来訪した陶芸家・荒川豊蔵の助言を得て穴窯を築く。
・多治見市星ケ丘に半地下式単室穴窯を築く。
・日本陶芸展(毎日新聞社主催)に推薦招待出品となる。(以後隔年)
・朝日陶芸展審査員となる。
1972 ・可児市久々利平柴谷に穴窯と登窯2基を築き、桃山の陶芸技術の追求に努める。
1975 ・中日国際陶芸展評議員となる。以後主として個展を作品発表の場とする。
1979 ・名古屋松坂屋本店にて「志野・瀬戸黒・黄瀬戸」による茶碗五十選展を開催。
1981 ・「日華現代陶芸展」(中華民国歴史博物館主催)に招待出品。
1982 ・「現代の茶陶百碗展」(読売新聞社主催)招待出品。
1983 ・全日本伝統工芸選抜展招待出品。
・加藤幸兵衛賞が創設され第一回「加藤幸兵衛賞」を受賞。
・東海伝統工芸展鑑査員となる。
・日本工芸会東海支部幹事となる(陶芸部会長)。
・「伝統工芸30年の歩み展」(東京国立近代美術館主催)出品。
1984 ・中日国際陶芸展審査員となる。
1985 ・日本陶磁協会賞受賞。
・岐阜日々新聞社賞「教育文化賞」を受賞。
1986 ・大阪ツイン21ビル「ナショナルタワー」と「MIDタワー」のメインロビーに志野陶壁「漠煌平」、織部陶壁「海潮音」を制作する。
・東濃信用金庫本店ロピーに志野陶壁「みのり」を制作する。
・中日国際陶芸展審査員となる。
1987 ・名古屋松坂屋本店にて 大自然の賛歌ー太陽と水と緑-陶巌壁展開催。
1990 ・大阪IMPビル・ロビーに陶壁「展」制作。
・今上天皇即位の礼を祝って、岐阜県より献上の志野扁壷を制作。
・社団法人美濃陶芸協会の第二代会長に就任。
・岐阜県文化懇話会会員就任。
1991 ・現代陶芸の美展〔セゾン美術館)招待出品。
・志野・瀬戸黒の技法で、多治見市無形文化財保持者に認定。
1992 ・岐阜市葬祭殿ロビーに陶壁「夢」を制作。
・多治見市産業文化センター5階ホールに陶壁「清輝」を制作。
1994 ・東海テレビ文化賞受賞。
・多治見市役所ロビーに陶壁「濤」を制作。
1995 ・瑞浪市立瑞浪小学校ロビーに陶壁「風魂」を制作。
・志野・瀬戸黒の技法で、岐阜県重要無形文化財保持者に認定。
1996 ・現代日本陶芸の秀作-アジア巡回展出品。
1997 ・社団法人美濃陶芸協会会長を辞し、名誉会長となる。
1998 ・中日文化賞受賞。
・岐阜県芸術文化顕彰受章。
1999 ・可児市の陶房に古民家を移築し「風塾」を創設。
2002 ・日本陶芸展〔毎日新開改組)招待(以後隔年)。
・国際陶磁器フェスティパル・美濃(陶芸部門)審査員。
・東京国立近代美術館「昭和の桃山復興展」荒川豊蔵についてギャラリートーク。
・丸沼芸術の森にて幽玄の世界「瀬戸黒孝造展」開催。
2003 ・第4回織部賞受賞。
・日本伝統工芸展50周年記念「わざの美」展出品。
・岐阜県文化財保護審議会委員。
・岐阜県現代陶芸美術館協議会会長。
2005 ・岐阜県陶磁資料館顧問。
・地域文化功労者文部科学大臣表彰。
2007 ・紺綬褒章受章。
・ロンドン大英博物館主催・日本伝統工芸展50周年記念「わざの美」展出品。
2008 ・日本橋三越本店にて作陶五十年記念「加藤孝造陶展」開催。
2009 ・社団法人美濃陶芸協会名誉顧問となる。
・平成21年度岐阜県各界功労者表彰。
2010 ・第29回「伝統文化ポーラ賞」受賞。
・瀬戸黒の技法で、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
収蔵 国立近代美術館
ニューヨーク・クラフト美術館
岐阜県美術館
宮内庁・赤坂迎賓館
岐阜県現代陶芸美術館
その他

加藤孝造(1935年~)
人間国宝指定
岐阜県陶磁器試験場に勤務しその傍らで自らの作品を制作。
展覧会に出品し入選を続け1966年に日本工芸会正会員に就任。
その後色々な章を受賞し、2010年(平22)年度に瀬戸黒にて人間国宝(国指定重要無形文化財)に指定された。
伝統的な志野、黄瀬戸、瀬戸黒などの作品をよく制作。
志野釉薬は鮮やかな紅色発色が特徴的で代表作ともいわれているが、
近年の瀬戸黒作品においても存在感があり重厚な味わいを表現している。

荒川豊蔵
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 – 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。斗出庵、無田陶人と号す。

生涯
出生から修業時代
1894年(明治27年)(0歳)3月17日 – 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる。豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む 陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれた。
1906年(明治39年)(12歳) – 多治見尋常高等小学校高等科卒業。神戸の貿易商能勢商店で働く。
1907年(明治40年)(13歳) – 多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働く。
1911年(明治44年)(17歳) – 従妹(父の弟の次女)の志づ(14歳)と結婚。
1912年(明治45年)(18歳) – 神戸の親戚のもとで陶器商を手伝う。
1913年(大正2年)(19歳) – 長男武夫生まれる。
1915年(大正4年)(21歳) – 以前多治見で小僧として働いた木塚商店が名古屋で商売を始めたことを聞き、名古屋に移り住んで働く。
宮永東山と東山窯時代[編集]
1919年(大正8年)(25歳) – 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、彼の研究による特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースする。生地は瀬戸の菱松から購入し、絵付けは名古屋出身の日本画家近藤紫雲に依頼した。このコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛に持ち込んだところ高価で買い取ってくれ、更に「この品をもっと作ってみなさい。引き受けます。」と言われたため、独立して上絵磁器製作の事業を起こすことを決意。この時錦光山の顧問をしていた宮永東山に引き合わされる。
1922年(大正11年)(28歳) – 上絵磁器の事業に失敗して、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志す。宮永東山を頼って手紙を出すと「すぐこい」との返事をもらって京都に行くと、いきなり東山窯の工場長を任される。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得る。
北大路魯山人と星岡窯時代
1925年(大正14年)(31歳) – 東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と会う。魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深める。
1926年(大正15年)(32歳) – 次男達生まれる。
1927年(昭和2年)(33歳) – 北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。(星岡窯では自分専用の轆轤を持ったが、東山窯、星岡窯時代の豊蔵は陶工というよりはプロデューサー/マネージャーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことである)
古志野との出会い
1930年(昭和5年)(36歳)4月6日~10日 – 魯山人が名古屋の松阪屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。茶わんの高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持つ。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。
大萱窯
1933年(昭和8年)(39歳) – 星岡窯をやめて多治見の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。作陶は豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行った。最初の窯は初窯で豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わる。
1934年(昭和9年)(40歳) – 最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作する。
1935年(昭和10年)(41歳) – ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。
戦中・戦後
1941年(昭和16年)(47歳) – 大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催。
1946年(昭和21年)(52歳) – 多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る。水月窯は大萱窯とは異なる連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活のため日用食器の量産を行った。
1955年(昭和30年)(61歳) – 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催。大成功に終わる。
1960年(昭和35年)(66歳) – 宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する。
1968年(昭和43年)(74歳) – 妻志づ死去。
1971年(昭和46年)(77歳) – 文化勲章受章。
1975年(昭和50年)(81歳) – 唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶・絵付け。
1976年(昭和51年)(82歳) – 萩の三輪休和窯他で作陶。
1977年(昭和52年)(83歳) – 信楽、備前、丹波の各窯で作陶。
1978年(昭和53年)(84歳) – 萩、唐津、備前の各窯で作陶。
1984年(昭和59年)(90歳) – 大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)開館。
1985年(昭和60年)(91歳) – 8月11日 死去。
幸 輔 窯
閑 山 窯
瑞 光 窯
知 山 窯
真 山 窯
荒 神 窯
隆 月 窯
雅 山 窯
不 動 窯
藤 山 窯
南   窯
五 山 窯
緑 山 窯
一 心 窯
武 山 窯
陽 山 窯

飛騨春慶(ひだしゅんけい)とは、岐阜県高山市で生産される漆器である。
1975年(昭和50年)2月17日、通商産業省の伝統的工芸品に指定されている。

特色
板を立体的に仕上げる曲げの技法が優れている。他の漆器とは違い、透明で天然の木目の美しさをそのまま活かし、色は黄色、紅が多い。また、軽くて丈夫である。板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽き物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがある。
製作過程
材料の木は、栃、檜、椹を使用する。
木目等を吟味し、その木材を木地師と呼ぶ職人が加工する。
塗師と呼ぶ職人により、目止めの後、黄色、紅色の染料が塗られる。その上に豆汁(大豆をつぶした汁)を2~3回塗り、摺り(漆を浸み込ませる事)を数度行い透け漆を塗る。
歴史
1606年(慶長11年)、大工棟梁である高橋喜左衛門が、椹の割れ目の木目の美しさを生かして盆を製作し、高山城城主金森可重の子である金森重近に献上する。御用塗師の成田三右衛門はこの木目の自然美を生かす方法を考え、透け漆 を重ね塗りで盆を仕上げる。
この盆の美しさが、陶工の加藤景正の名陶「飛春慶」の茶壷の黄釉と似ていることから、金森可重により「春慶」と名づけられる。
1692年(元禄5年)、飛騨国が天領となる。歴代の代官、郡代は春慶塗を保護奨励し、将軍家、大名、大商人などを中心に、全国に広まる。

一位一刀彫(いちいいっとうほり、Ichii itto Carvings – Yew Wood Carvings)とは、岐阜県飛騨地方で生産される木工品。主な生産地は高山市。飛騨市、下呂市でも生産されている。飛騨一位一刀彫ともいう。

特色
材料はイチイを使用する。
イチイの木目をそのまま活かし、赤太(イチイの内側、心材、赤みがかっている)と白太(イチイの外側、辺材、白みがかっている)の色合いもそのまま活かす。表面に色は塗らない。
茶道具、置物、面などがある。
仕上げは手彫りで行い、彫り跡を残す。
歴史
江戸時代(19世紀初期)、飛騨国の根付彫刻師である松田亮長が、イチイの木目を活かした根付を製作する。
江戸時代~明治時代、一位一刀彫は、茶道具、置物、面も製造される。
1975年(昭和50年)5月10日:通商産業省により、伝統的工芸品に指定される。
2006年(平成18年)10月27日:飛騨一位一刀彫として地域ブランド(地域団体商標)に指定される。

美濃焼(みのやき、Mino Yaki – Mino Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を主たる産地とする陶磁器の総称である。
1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
美濃焼が主に生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、日本の陶磁器生産量の約半分を占めている。

歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代以降、瀬戸市周辺の丘陵地帯ほどではないが古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産が開始された。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれる。16世紀に織田信長の経済政策によって瀬戸市周辺の丘陵地帯の陶工たちも美濃地方(土岐川以北)の集落に移り住んで窖窯よりも焼成効率に優れた地上式の単室窯である大窯を多数築いた。桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出された。江戸時代中期に「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 – 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。
美濃焼の代表
志野(しの)
絵志野
鼠志野
練込志野
赤志野 など
織部(おりべ)
総織部
青織部
鳴海織部
弥七田織部
黒織部
伊賀織部
唐津織部
志野織部 など
黄瀬戸(きせと、きぜと)
瀬戸黒(せとぐろ)
など

美濃和紙(みのわし)とは岐阜県で製造される和紙である。
1985年(昭和60年)5月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。また、本美濃紙の技法は1969年(昭和44年)4月15日に国の重要無形文化財に指定された。2014年11月26日(日本時間27日)には、「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」として、「石州半紙」(島根県浜田市)「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)とともに、本美濃紙がユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産登録として認定された。なお日本工業規格における紙の規格であるJIS B列は江戸時代の公用紙だった美濃紙を元に定めた美濃判に由来している為に国際標準化機構の定めるISO B列とは異なる寸法である(2014年現在の日本ではJIS B列が標準)。

概要
寺尾(現在の岐阜県関市寺尾)で生産される和紙が特に有名で、『和漢三才図会』では障子用の書院紙、包み紙、灯籠用として使用していたと記し、『新撰紙鑑』では徳川幕府御用の製紙職人として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の名を挙げている。
また、寺尾の他にも牧谷、洞戸、岩佐、谷口で生産される物も良品である。当然ながら、産地毎に製紙に使用する水が異なるため、生産された和紙の風格もそれぞれ異なるほか、得意とする種類も産地によって異なった。
書院紙
『岐阜県史稿』によれば、二折、三折の美濃和紙があり、障子の格子幅に合わせてそれぞれ使用されていた。
絞書院紙
紋書院紙とは、透かし文様入りの書院紙であり、美濃の他、筑後柳川や肥後でも生産され、肥後産のは特に透かしが綺麗であった。
美濃の紋書院紙は、鹿子・紗綾形・菊唐草・七宝 ・亀甲などの紋様を漉き込み、障子以外にも灯籠用に使用された。
21世紀現在、岐阜市で生産される落水紙(美光紙)にも、紋書院紙風の物がある。
紋天具帖
紋天具帖とは、極薄の天具帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉などで木版摺りした物で、後に型染めで捺染するようになったが、やはり光を漉かして紋様を浮かび上がらせる物で、灯籠用として使用された。
歴史
奈良時代・平安時代
美濃国は、奈良時代から製紙が盛んで、良質の紙を生産していた。古くは702年(大宝2年)の正倉院文書に美濃の紙が記録されている。
平安時代には、朝廷から製紙用の役人が派遣されて、宣命紙等の色紙や公用紙を生産した。
鎌倉時代・室町時代[編集]
鎌倉時代初期には美濃和紙は余り使用されていなかったが、南北朝の動乱や応仁の乱によって利用者の懐事情が悪化した結果、安価な美濃和紙が使用されるようになった。
美濃国守護である土岐氏は富国強兵のため、産業開発を促進し、製紙業を後押しした。そうして大量に生産された美濃和紙は文化人の多い土岐氏を慕って来訪した公家、僧侶によって日本各地に伝播され、その後は京都宝滋院を拠点とする近江枝村の商人によって流通した。
江戸時代
江戸時代になると、専売制度の下に特産地として育成され、また、町人層の需要拡大によって大量生産され、特に障子紙として使用されるようになり、美濃判として障子の規格となるに至り、「みの」と言えば障子のことを指すようにまで普及した。因みに、すだれは伊予が、疊は近江が代名詞となった。
養女奴隷
養女奴隷とは、製紙のために少女を幼少時に養子にして、製紙作業をさせる制度である。戦前の製紙は朝の4時から夜の10時まで作業する厳しいものであり、しかも製紙業は家族だけの零細経営が多く、働き手が足りないためにこの制度が生まれたのである。なお、奴隷と言っても、実の娘と区別することはない。もちろん現在はこの制度はなく、そのために後継者難に陥っている。
紙問屋
美濃では和紙の原料を余所から輸入して生産していたため、様々な原料を使用して製紙が行われ、必然的に製紙技術が向上したが、その反面、原料を輸入し、完成した和紙を輸出する紙問屋に強く依存する生産者にとって不利益な経済体制を採らざるを得なかった。製紙業の家庭の養女は養女奴隷と呼ばれていたが、製紙業の家庭も紙問屋の奴隷であった。
現代では、製紙業は巨大な製紙メーカーとして問屋を圧倒し、力関係は逆転したが、伝統的な和紙は現在も零細経営の和紙職人の手によって生産されている。
美濃和紙と岐阜の伝統工芸
江戸時代以降、長良川を利用した運輸により長良橋たもとの地域は長良川の重要な港町となり、奥美濃から美濃和紙などの陸揚げが多く、それを扱う問屋町として栄えた。良質な和紙「美濃和紙」を得た岐阜では、岐阜の工芸品である岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜うちわが生まれた。美濃和紙は岐阜の伝統工芸には欠くことのできない物である。この問屋町は奇跡的に戦中の岐阜空襲を逃れることができたため現在川原町界隈として整備され、鵜飼観光などで訪れた人々で賑わっている。

岐阜提灯(ぎふぢょうちん、Gifu Paper Lanterns)は、岐阜県岐阜市特産の提灯。岐阜の伝統工芸の一つである。

特徴
細骨に美濃和紙等の薄紙を張り、通常は長卵形の吊提灯である。薄紙には美しい模様が施されている。
手作業が多く、技術として「張り」(細骨に薄紙を張る)、「擦り込み」(薄紙に模様を版画の要領で摺る)、「盛り上げ」(提灯の木地の部分に白胡粉で盛り上った模様を施す)がある。
盆灯籠にも使うため盆提灯とも云う。
歴史
岐阜提灯が作られ始めた時期には諸説あり、慶長年間(1596年 – 1615年)と慶安3年(1650年)の説がある。当初は尾張藩への献上品であった。
宝暦年間(1751年 – 1763年):現在の形態の岐阜提灯が登場。
文政年間(1818年 – 1829年):彩色を施した提灯が登場。
1995年(平成7年)4月5日:通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定される。
2006年(平成18年)10月:地域団体商標に登録される。

岐阜地区
岐阜渋うちわ(1992年3月30日指定)
花合羽(1998年10月30日指定)
のぼり鯉(1998年10月30日指定)
岐阜和傘(1992年3月30日指定)
岐阜長良川花火(1992年3月30日指定)
大桑竹細工(1992年3月30日指定)
本巣わら細工(1992年3月30日指定)
菊花石加工品(1992年3月30日指定)
杞柳製品(1992年3月30日指定)
西濃地区
西濃大理石(1992年3月30日指定)
大垣の桝(1992年3月30日指定)
養老ひょうたん(1992年3月30日指定)
南濃天然木工芸(2006年8月10日指定)
養老焼(1992年3月30日指定)
久瀬のまいおどり(1992年3月30日指定)
岐阜長良川花火(1992年3月30日指定)
中濃地区
関の手づくりナイフ(1992年3月30日指定)
関伝日本刀(1992年3月30日指定)
美濃和紙加工品(1992年3月30日指定)
郡上紬(1992年3月30日指定)
郡上本染(1992年3月30日指定)
古今染め(1992年3月30日指定)
ふじ細工(1998年10月30日指定)
郡上びく(1992年3月30日指定)
郡上竿(1992年3月30日指定)
ひな人形・五月人形(1992年3月30日指定)
美濃白川まゆの花(1992年3月30日指定)
東濃檜製神棚(1992年3月30日指定)
平成の円空彫り(2008年4月17日指定)
美濃筒引き本染め・手刷り捺染(2009年6月指定)
東濃地区
精せっ器(2002年11月29日指定)
イ草人形(1992年3月30日指定)
恵那ロクロ製品(1992年3月30日指定)
恵那曲物製品(1992年3月30日指定)
裏木曾夕森紬(1992年3月30日指定)
蛭川みかげ石製品(1992年3月30日指定)
東濃檜製神棚(1992年3月30日指定)

飛騨地区
飛騨さしこ(1992年3月30日指定)

山田焼(やまだやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。
渋草焼、小糸焼と共に現存する焼き物だが、前者が藩主や風流人に好まれたのに対し山田焼は農民、町人のために焼かれた生活雑器である。創始者は稲垣藤四郎といわれる。また、材料の粘土は地元の水田の土を用いていたという。
しかしながら、殖産興業のために山田焼は郡代から推奨されたため、飛騨の焼き物の中で最も長い歴史を持つことになり、現在に至るまで窯の火が絶えたことはない。また明治時代には窯業の技術を応用して土管、煉瓦、瓦などを焼き、大いに繁栄した。
2006年現在は小林陶舎の一軒のみが民芸調の陶器を焼いている。決して飾らない、素朴ながら味わいの深い意匠に人気がある。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。

渋草焼(しぶくさやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶磁器。天保11年(1840年)に飛騨郡代豊田友直が陶磁器を自給自足すべく、官民共同の窯場を作ったのが始まり。
原料に地元の渋草陶石を用いる。そして瀬戸や九谷といった磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出した。
江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られ衰退。しかし、明治11年(1878年)に三輪源次郎ら4人の率いる芳国舎(設立当初は陶甄社という名前だった)が窯元を復活させ、有田や瀬戸に陶工を派遣して研鑽させた。芳国舎は決して軌道に乗らなかったが、三輪の作品は数々の博覧会に出展しては入賞を遂げている。
今日では芳国舎と柳造窯の2か所が煙を上げている。前者は昔ながらの手書きの絵付磁器を焼く。
平成4年(1992年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。

小糸焼(こいとやき)は岐阜県高山市で焼かれる陶器である。名の由来は高山城下西方の地名、小糸坂である。茶陶で知られる。
寛永年間の開窯で、高山城主の金森重頼が京都の陶工、竹屋源十郎を招いたのが始まり。重頼の兄、金森重近(宗和)が高名な茶人でもあったため、彼の指導の下で茶器を焼かせた(第一期小糸焼)。茶陶として名を馳せたが、金森家が出羽国に転封されたために僅か20年に廃窯となった。
その後、天保8年、高山の豪商、細江嘉助ならびに平田忠右衛門により小糸坂の地に復興。しかしながら、この窯もわずか数年で廃窯する(第二期小糸焼)。
現在の小糸焼は戦後に長倉三朗とその息子、靖邦が綿密な発掘調査の下に復活させたものである。小糸焼は独特の作風で知られているが、特に、「伊羅保(イラボ)釉」を発展させた、小糸焼独自の「青伊羅保」と呼ぶ、渋く深みのあるコバルトブルーの釉薬が代表的である。
1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。
小糸焼(1992年3月30日指定)
白川郷の挽物(1992年3月30日指定)
円空彫(1992年3月30日指定)
山中和紙(1992年3月30日指定)
飛騨宮村ひのき笠・一位笠(1992年3月30日指定)
小屋名のショウケ(1992年3月30日指定)
和ろうそく(1992年3月30日指定)
飛騨高山の紙絵馬(2006年8月10日指定)
飛騨高山の有道しゃくし(2006年8月10日指定)
飛騨染(2008年10月16日指定)
飛騨のさるぼぼ(2008年10月16日指定)

安八町(あんぱちちょう)、池田町(いけだちょう)、揖斐川町(いびがわちょう)、恵那市(えなし)、大垣市(おおがきし)、大野町(おおのちょう)、海津市(かいずし)、各務原市(かがみはらし)、笠松町(かさまつちょう)、可児市(かにし)、川辺町(かわべちょう)、北方町(きたがたちょう)、岐南町(ぎなんちょう)、岐阜市(ぎふし)、郡上市(ぐじょうし)、下呂市(げろし)、神戸町(ごうどちょう)、坂祝町(さかほぎちょう)、白川村(しらかわむら)、関ケ原町(せきがはらちょう)、関氏(せきし)、高山市(たかやまし)、多治見市(たじみし)、垂井町(たるいちょう)、土岐市(ときし)、富加町(とみかちょう)、中津川市(なかつがわし)、羽島市(はしまし)、東白川村(ひがししらかわむら)、飛騨市(ひだし)、七宗町(ひちそうちょう)、瑞浪市(みずなみし)、瑞穂市(みずほし)、御嵩町(みたけちょう)、美濃加茂市(みのかもし)、美濃市(みのし)、本巣市(もとすし)、八百津町(やおつちょう)、山県市(やまがたし)、養老町(ようろうちょう)、輪之内町(わのうちちょう)

1907-1973 大正-昭和時代の型紙彫刻師。
明治40年2月15日生まれ。父と兄に伊勢型紙錐彫(きりぼり)の技術をまなぶ。昭和14年独立。鮫(さめ)小紋,通し小紋など,細密な紋様を得意とした。17年小宮康助のすすめで,さらに細密な極(ごく)鮫小紋を研究した。30年人間国宝。昭和48年4月26日死去。66歳。三重県出身。本名は紀久男。

中村勇二郎

没年月日:1985/10/20
分野:工芸, 工芸家 (工,染型)
伊勢型紙彫刻師の人間国宝中村勇二郎は、10月20日午後0時10分老衰のため、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年83。明治35(1902)年9月20日三重県に生まれる。父兼松は、型紙業を営む中村家の3代目、小学校6年頃より父の手伝いを始め、高等科卒業後、大正4年頃から他の弟子とともに父に伊勢型紙の道具彫り技術を本格的に学ぶ。伊勢型紙の起源は明確でないが、中世末には既に国内の紺屋でかなりの型紙が使用され、江戸期には型売株仲間が紀州藩の庇護を受けて隆盛した。維新後、暫時不振の状態が続いたが、紙業組合や工業徒弟学校の創立、糸入れにかわる紗張り法などの技法が創案され、再び活況を呈するようになる。型紙の文様には小紋と中形があり、また彫りの技法には突彫、錐彫、道具彫、縞彫などがある、道具彫は刃物自体の形がひとつの小さな文様単位となっているもので、小紋用に最も用いられる彫法である。昭和27年伊勢型紙は、文化財保護委員会より「江戸小紋伊勢型紙」技術保存の指定を受け、30年中村勇二郎は他の5名とともに、重要無形文化財伊勢型紙技術保持者として認定された。この間、同28年伊勢型紙彫刻組合組合長となっている。38年伊勢型紙伝承者養成事業の道具彫り講師となり、39年より60年まで人間国宝新作展に出品した。58年三重県の県民功労者として表彰を受け、59年大阪市北浜の三越アートギャラリーで個展を開催。精緻で優美な型紙を制作し、主な作品に「古代菊の図」(55年、)「瑞雲祥鶴の図」「四君子の図」「壮龍の図」などがある。

萬古焼(ばんこやき、万古焼)は、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。
三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われている。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。四日市市指定無形文化財。

桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(1830年〜1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った。
明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている。2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用された。
市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。

伊賀焼(いがやき)は三重県伊賀市(旧阿山町)にて焼かれている陶器。中世から始まったといわれる日本有数の古陶である。

始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じ古琵琶湖層由来だったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。だが桃山時代の天正年間後期に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた(筒井伊賀)。これらにはビードロ釉(ゆう)と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、質朴でありながら風流な焼き物となったのである。その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。その後は藤堂高次による「藤堂伊賀」も発生したが、これはすぐに衰退している。その後興廃を繰り返すが、江戸中期には京都や瀬戸の陶工を招き、施釉陶の技術がもたらされた。これらの時期を「再興伊賀」と呼ぶ。そして「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、土鍋や行平、土瓶などの日用食器が中心となっている。1982年11月には国から伝統的工芸品の指定を受けている。

阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。

阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。

御浜焼

上に書いてあるような人間国宝の作品や地元の焼き物などが家や蔵に眠っていて売却をお考えの方は是非ご連絡ください!!

多度の弾き猿

多度の弾き猿
多度の弾き猿(たどのはじきざる)は、三重県桑名市多度町の郷土玩具で、三重県指定伝統工芸品。
概要
明治時代中頃から、多度大社門前町の土産物として売られている。「はじきざる」の名称が「(災難を)弾き去る」という言葉と語呂が合うことから縁起物として親しまれている。

くくり猿部分の拡大画像
竹製の棒に、紅布で覆われた「くくり猿」と竹製のバネが通してあり、棒の先端には紙張りの小型の太鼓が取り付けられている。バネをはじいて猿を昇り降りさせて遊ぶ。猿が先端まで昇りきれば、太鼓と衝突して音が鳴る。太鼓を、多度大社で行われる流鏑馬の矢の的になぞらえて、中央に黒丸が墨書きされている。
2011年現在、門前町の宮川屋で製作販売されている。また、宮川屋は、小規模の「博物館」(まちかど博物館)である「はじき猿博物館」として一部、公開されており、様々な弾き猿が展示されている。

和太鼓(わだいこ)は、打楽器のひとつ。日本の太鼓の総称。大きく分けて長胴太鼓(宮太鼓)、桶胴太鼓、附締太鼓の3種類がある。祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に用いられ、木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出すものである。桴(ばち)で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ)と呼ばれる。

特徴
和太鼓は、一般的に残響が非常に良く響き、余韻が残る音を特徴とする。和太鼓の構造は、胴の中間が膨らんだ円筒形で、両面もしくは片面に皮が張られている。ドラムなどの他の打楽器と比べて強度は高い。
歴史
和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器も出土している。
中世に入ると、田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛した。戦国時代になると、戦国大名達が自軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓が興る。人間の心臓の鼓動に太鼓の鼓動が「シンクロ」することによって自らを鼓舞する性質があるという説もあり、戦における太鼓の使用はこの説に従えば有効な活用法であったと言える。近年までは、時刻を知らせる為にも太鼓が使用されていた。
今日では、盆踊りの主役として演奏されたり、神と意思を伝達する手段、呪具として神社や寺院に置かれるなどしている。太鼓という場合広狭二つの理解がある。何らかの仕方で張った皮を打って音を出すという広義の理解ではアジアの先住民に認められる団扇太鼓(例:日蓮宗の打つ太鼓)から能楽に使用する鼓類までを含んでしまう。しかし通常和太鼓と呼ばれる場合は、筒あるいは椀型のものに皮を張った狭義の理解をする。どちらも楽器としては膜鳴楽器と分類される。以下では狭義の太鼓としての和太鼓に限定して述べる。
芸能、音楽としての太鼓

文化交流の一環として、外国軍の前で和太鼓の演奏を披露する陸上自衛官

舞楽「抜頭」の演奏。左奥に楽太鼓が見られる
雅楽
雅楽では管弦に用いる楽太鼓と、舞楽で用いる大太鼓(だだいこ)とがある。舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。外側を朱色の火炎が取り巻いていることから、火焔太鼓とも呼ばれる。
宗教音楽
神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。
このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。
歌舞伎
江戸時代、歌舞伎が隆盛すると、下座音楽に使われ、効果音として取り入れられた。下座音楽における太鼓の使用方法は、打ち方によって表現する情景が高度に体系化されている。例えば細めの桴で細かく叩くと雨の音、布を巻いた桴で弱く柔らかい音を低く響かせると雪の音、それらの合間に別の桴を水平に宛て、鼓面の震えを拾ってビリビリという音をたてると雷や雪崩の音を表現するといった具合である。また幽霊の出現など、本来ありえない音響を抽象的に表現する場合にも用いられる。
組太鼓
戦後になってから、長野県の御諏訪太鼓がジャズドラムを参考にして、大小の太鼓をドラムセットのように組み合わせた「組太鼓」形式を開発した。音程がある楽器を基本的に使わない複式複打法の組太鼓が誕生した。
新しい和太鼓時代の到来(祭り太鼓から舞台演奏へ)
創作和太鼓隆盛の時代へ
詳細は「創作和太鼓」を参照
舞台興行太鼓の誕生
1950年(昭和25年)、日本で初めて舞台興行を目的とした「福井豊年太鼓みどり会」(福井県福井市勝見地区)が生まれた。和太鼓のみならず、芸能的要素を多分に兼ね備え、2009年7月現在、発足時のメンバーが福井市内に2名(斉藤茂雄、岡口一二)健在で、今も現役の太鼓奏者である。(関連人物:高山正行)
プロ和太鼓集団の誕生
諸説あるが、活動期間が9ヶ月間という短期間で解散してしまった「王将太鼓」が日本初と言われている。「王将太鼓」は、1966年(昭和41年)2月22日、大阪市浪速区の新世界で、日本初のプロ和太鼓集団として誕生した。和太鼓界で初めて大手芸能プロダクションが運営に携わった。しかし、同年11月に解散、9ヶ月間の活動という幻の太鼓チームで終わった。
1971年に「鬼太鼓座」(おんでこざ)が発足した。長距離走をトレーニングに取り入れることを特色としたこの団体は、ボストンマラソンを完走してそのまま舞台に上がり演奏するというデビューを飾り、注目を集めた。折からの日本の現代音楽における邦楽器ブーム(1960年代後半〜1970年代前半)もあり、鬼太鼓座のために書かれた石井眞木作曲の『モノクローム』『モノプリズム』を始め現代音楽と積極的に関わる。しかし座長の田耕と団員との分裂により、鬼太鼓座と袂を分けた新団体「鼓童」が1981年に発足した。両団体は2015年現在も並立して現存している。
太鼓の種類
両面を打つタイプと片面を打つタイプがある。前者は宮太鼓、桶胴太鼓などで、音量が大きく低音がよく響くのが特徴である。和太鼓としてはこの種類が大多数をしめる。後者は、団扇太鼓等が該当し、日蓮宗等で用いることがある。高音、響きは少ない。
胴材

締太鼓の胴
ケヤキが主であったが国産は近年不足しているためシオジ・センが主流、また海外からはカリン・ナラなどの堅い木材をくり抜いたふくらみのある円筒形の胴、もしくは板を寄せて円筒を作り桶のようにしたものを用いる。
皮面
牛の皮(メスは絹、オスまたはホルスタインは木綿に例える)を鋲や紐、ターンバックルや金具等で張りとめてつくられ、桴(ばち)と呼ばれる木の棒で皮を叩いて演奏される。皮には基本的に数回の出産を経た雌牛が最良とされるが、大きなものでは、雄牛の皮が利用されることもある。
太鼓の例
長胴太鼓(宮太鼓)
胴は一本の木をくりぬいたものが利用される。皮は胴に鋲を用いて留められている(鋲打太鼓)ことが多い。社寺、公共施設等によくあり、多くの太鼓の団体がこれを演奏する。一般的によく目にするものである。江戸を中心とした関東では、より小型なお囃子太鼓が多く用いられた[3]。
桶胴太鼓
縦に割られた板を寄せて円形にして胴をつくったもの。低音、音響も大。檜やサワラなどで胴が作られ、比較的軽いのが特徴である。紐締めのものが主流である(ページ上部の写真の奥の鼓面が見えている太鼓の右側がこれにあたる)。
附締太鼓
紐やボルトナット、ターンバックルで皮と胴を接着させ、張っているもの。締め付け具合によって音質の調節が可能である。歌舞伎、民謡、三味線等に用いられたり、リズムを取るために利用されることが多い。
団扇太鼓
円形の枠に1枚の膜を張った太鼓である。法華宗・日蓮宗で唱題するときに用いる。
平釣太鼓
主に演芸場などで下座の鳴り物として用いられてきた、全長の短い扁平な太鼓。木枠に吊って打つのが普通だが、床に置いて打つ場合もあり「座鼓」とも呼ばれる。もともとは皮面の直径が35から75センチメートル程度の大きさだったが、近年は大型に作られる傾向がある。

大太鼓(長胴太鼓)

桶胴太鼓

締太鼓

締太鼓の桴(右)と長胴太鼓の桴
下座音楽では撥と表記する。桴の材質は、硬い桴には樫や欅が使われ、柔らかい桴には檜、杉、樅が使われる。太鼓踊りのような民俗芸能では、竹や柳の長桴を使うこともある。一般に締太鼓には直径2.5-3センチメートルの桴が使われる。強打することの多い太鼓には、より太い桴を使うことが理想的とされる。 ラワン、松、白樺等、脆いもの、ささくれるもの、脂がでて皮を痛めるものは、桴には適さない。
桴は単に太鼓の皮を叩くための太鼓の付属品ではなく、太鼓の縁や桴同士を叩き合わせて音を出す、一種の打楽器である。
演奏形態
置き方による分類
据置形(すえおきがた)
地上に据え置いたまま演奏する形。単式複打法についていえば、主に北陸地方に分布。
抱持形(かかえもちがた)
体に背負ったり、手で持って演奏する形。
舁山形(かつぎやまがた)
山・御輿として担ぐ形。単式複打法についていえば、瀬戸内海沿岸地方に主に分布。
曳山形(ひきやまがた)
山車のように曳行する形。単式複打法についていえば東北地方の日本海側に主に分布。
舁山形や曳山形には太鼓台などがある。

阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。
歴史[編集]
阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。

阿漕焼(あこぎやき)は三重県津市で焼かれる陶器。名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。
歴史[編集]
阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれた。
その後中絶するが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させる。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇であった。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが共同で阿漕焼を支えていく。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまう。
それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立した。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となった。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけであった。
昭和になって津市長堀川美哉は萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図った。当初は厳しい経営が続いていたが、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く阿漕焼は再興を果たすことになる。

竹細工(たけざいく)は、竹を加工したり、竹ひごを編み込んで細工物を作ったりすること。または、日用品・農具・漁労具などの荒物、茶道具などの工芸品、竹とんぼや水鉄砲といった玩具の中で、竹を素材とした細工物のことを指す。

編組
竹ひごの編み込み方・編組(籠目)の種類には、基本となる六つ目編み、四つ目編み、ござ目編み、網代編み、さらには、異なる太さのひごを駆使した波網代や、麻の葉編み、松葉編み、やたら編みといった装飾的な特徴を高めたものなど、用途に応じて様々なパターンがある。
素材
素材となる竹にはマダケが最も多く利用されており、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が流通する。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工する事でその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である。
マダケについでモウソウチクも多く用いられる。モウソウチクは、もっぱら青竹のままで利用される。
別府竹細工や日田の竹箸などの竹工芸の盛んな大分県は、マダケの面積、生産量とも全国一のシェアを占めるとともに、竹材業者も多いため、加工された素材も入手が容易である。
伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている竹工品には以下のものがある[1]。
江戸和竿(東京都)
駿河竹千筋細工(静岡県)
大阪金剛簾(大阪府)
高山茶筌(奈良県)
勝山竹細工(岡山県)
別府竹細工(大分県)
都城大弓(宮崎県)

伊勢春慶(いせしゅんけい)は、三重県伊勢市で製造される春慶塗の漆器。現在では茶箱膳、弁当箱、切溜文箱、筆箱などが生産されている。2011年(平成23年)5月現在、伊勢春慶の塗師(ぬし)は2人である。

沿革
起源は室町時代に遡り、伊勢神宮の工匠が御造営の御残材の払い下げを受け、内職として始めたと伝えられている(『宇治山田市史』(昭和4年発行)より)。明治時代、伊勢春慶は内国勧業博覧会など日本国内外の博覧会に数多く出品され、入賞するなど知名度を上げたが、昭和時代に戦争の影響を受け、職人の徴兵や材料確保の困難などにより次第に衰え、一度断絶する。戦後復活したものの、高度経済成長期以降の生活様式の変化やプラスチック製品の登場などで衰退し、再び生産は中断に追い込まれた。
2004年(平成16年)に伊勢春慶の会が発足し、生産が再開される。復活にあたり、伊勢文化舎が雑誌『伊勢人』で取り上げるなどして貢献した。2011年(平成23年)5月現在、若者を中心とした12人が伊勢春慶の技術習得を目指して本業の傍ら修業を積んでいる。同年6月からは修業に専念できる定年退職者を対象とした体験会を実施し、塗師の早期育成を進めている。
2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、伊勢春慶の二重弁当箱が首脳陣の食事の器として使用された。
特徴
木地は檜を使用する。
木地固めの際、四隅に組子を施す。
箱物の底の隅には“こくそ”と呼ばれる 黒い目留めを施す。
食紅や弁柄などで赤く着色する。
下塗りに柿渋を多く用いる。
春慶漆または朱合漆を施して仕上げる。

伊勢和紙(いせわし)とは、三重県伊勢市で漉かれた和紙のこと。
神宮御用紙を製造し、伊勢神宮の神宮大麻用途をはじめとし、多くの寺社に和紙を提供している。1994年、三重県指定伝統工芸品に認定(伊勢紙として)。

概要
江戸時代まで伊勢市周辺では、家内工業としてわずかに紙漉きが行われている程度であったが、次第に伊勢信仰の神札や伊勢暦用として盛んに使用されるようになった。現在でもこうした伝統を重んじた清浄な和紙は、伊勢神宮をはじめとした各神社の御用紙等に用いられている。また、全国の神社で頒布されている神宮大麻は、すべてこの伊勢和紙を用いたものである。
今日では、神宮御用紙の製造は言うまでもなく、インクジェットプリンターに対応した和紙を開発・製造するなど、伝統文化を重んじながらも、近代的な文化との融和を図る新しいスタイルの取り組みが積極的になされている。

導火線(どうかせん)とは、黒色火薬を芯薬とし、紙などでひも状に被覆した線のこと。雷管などにつなげ、端に火をつけると、一定の速度で燃え進み、一定時間後に他の端から火を吹き、雷管に点火する。
芯薬にペンスリットなど爆薬を用いたものは導爆線といい、導火線とは違い、爆轟を伝達するために用いられる。

導火線(どうかせん)とは、黒色火薬を芯薬とし、紙などでひも状に被覆した線のこと。雷管などにつなげ、端に火をつけると、一定の速度で燃え進み、一定時間後に他の端から火を吹き、雷管に点火する。
芯薬にペンスリットなど爆薬を用いたものは導爆線といい、導火線とは違い、爆轟を伝達するために用いられる。

概要
黒色で硬質の粘板岩で、新第三紀中新世の熊野層群から採取される。
江戸時代には、七里御浜で採取された那智黒石が庭園用の玉石として用いられており、貞享3年(1686年)刊の井原西鶴の『好色一代女』巻五には「盆山に、那智石を蒔きて」との文が見られる。「那智黒」という呼称の初出は、天保10年(1839年)に完成した『紀伊続風土記』とされる。
用途
碁石の黒石、硯、床置石、装飾品、那智黒成型品などに加工される。
平安時代にはすでに硯の材料として使用されていたとされる。一方、黒碁石として広く用いられるようになったのは明治20年頃以降と考えられている。
那智黒成型品とは、那智黒石を粉末状にして、樹脂を混ぜ合わせ、型に流し込んで成型したものをいう。一般に、「那智黒手磨き工芸品」又は「ニュー那智黒(登録商標)」と呼ばれる。
黒色で緻密であり、金属の条痕色が判別しやすいため試金石として用いられる。
産出地
那智黒石は、名称に「那智」を含んでおり、また、主に和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の熊野那智大社周辺で販売されているが、産出地は那智勝浦町ではなく、三重県熊野市神川町周辺である。
このような名称のために産出地が混同されることが多く、熊野市による1997年頃の調査では184の辞書・辞典類のうち38に那智地方産などとする誤記があった。そこで熊野市が訂正を申し入れたところ、大半の出版社が誤りを認め、次の機会に訂正する旨を回答する等していた。
しかし、岩波書店の『広辞苑』については、1955年の初版から産出地が「和歌山県那智地方」と誤って記載されており、熊野市からの申し入れ後の第五版・第六版でもそのままになっていた、と2013年に広く報道された。これに対して、岩波書店は、1997年頃に熊野市から指摘を受けて検討した結果、『紀伊続風土記』等の江戸時代の史料に那智地方で産出する旨の記述があることから、1998年刊行の『広辞苑 第五版』で解説文を「那智地方に産した」という過去形に変更しており、現在の採石地が那智地方であるとは説明していないと主張するとともに、これらの報道は「事実経過を歪曲し、また『広辞苑』の記述を誤りと決めつけた不当な内容となってい」るとウェブサイト上で反論している。

桑名盆(かぶら盆)
桑名鋳物
桑名箪笥
桑名刃物
桑名萬古焼
多度の弾き猿
和太鼓
地張り提灯
日永うちわ
四日市の提灯
関の桶
高田仏壇
阿漕焼
伊勢木綿
深野紙
松阪の猿はじき
松阪萬古焼
松阪木綿
なすび団扇
竹細工
浅沓
伊勢一刀彫
伊勢春慶
伊勢の神殿
伊勢の提灯
伊勢玩具
伊勢の根付
伊勢紙
火縄
尾鷲わっぱ
那智黒石
市木木綿
熊野花火
伊勢神宮宝物(式年遷宮毎に製作)太刀など17種類

四日市萬古焼

四日市萬古焼伝
四日市萬古焼(よっかいちばんこやき)の紹介

18世紀の中頃、桑名の陶工によって始められました。初期には赤絵の陶器を焼いていましたが、一時中断され、その後薄手で茶褐色の陶器が作られるようになりました。現在では特に急須が有名です。花器や食器なども作られています。

主な製品名

茶器、花器、酒器、茶道具、室内置物

主な製造地

四日市市、三重郡菰野町、朝日町、川越町、 他

鈴鹿墨(すずかすみ)の紹介

延暦年間(782~805年)、鈴鹿の山々で産した松脂(松やに)を燃やして煤をとり、墨を作ったと伝えられています。現在も植物性油煙を原材料に、昔ながらの製法で作られています。墨のよい匂いは、ジャコウなどの香料によるものです。

主な製品名

和墨

主な製造地

鈴鹿市

伊賀くみひもの紹介

起源は奈良時代以前にさかのぼるといわれています。江戸時代には、伊賀はすでに有名な組紐の産地となっていました。組紐とは生糸、絹糸を主に、金銀糸を組糸に使い、伝統的な組台を使って繊細な美しさをもつ紐に編み上げられたものです。

主な製品名

帯締め、羽織ひも等

主な製造地

伊賀市、名張市

伊賀焼(いがやき)の紹介

約1200年前の天平年間、良質の陶土に恵まれた丸柱の農民が窯場をつくり、日用雑器を焼き始めたのが発祥といわれています。明治時代以降は耐火、耐熱度の高い特質を生かした土鍋などを量産するようになりました。

主な製品名

茶器、花器、食器

主な製造地

伊賀市、他

伊勢形紙(いせかたがみ)の紹介

伊勢形紙は、着物の柄や紋様の染色に用いる型紙で、起源は平安初期にさかのぼるといわれ、その精巧で緻密な技は、江戸時代に紀州藩の保護を受け、飛躍的に広まりました。和紙を柿渋によって貼り合わせ、彫刻刀で細かい紋様を切り抜いたものです。

主な製品名

染用型紙、工芸型紙

主な製造地

鈴鹿市

三重県 みえけん
津市 つし
四日市市 よっかいちし
伊勢市 いせし
松阪市 まつさかし
桑名市 くわなし
鈴鹿市 すずかし
名張市 なばりし
尾鷲市 おわせし
亀山市 かめやまし
鳥羽市 とばし
熊野市 くまのし
いなべ市 いなべし
志摩市 しまし
伊賀市 いがし
桑名郡 くわなぐん
木曽岬町 きそさきちょう
員弁郡 いなべぐん
東員町 とういんちょう
三重郡 みえぐん
菰野町 こものちょう
朝日町 あさひちょう
川越町 かわごえちょう
多気郡 たきぐん
多気町 たきちょう
明和町 めいわちょう
大台町 おおだいちょう
度会郡 わたらいぐん
玉城町 たまきちょう
度会町 わたらいちょう
大紀町 たいきちょう
南伊勢町 みなみいせちょう
北牟婁郡 きたむろぐん
紀北町 きほくちょう
南牟婁郡 みなみむろぐん
御浜町 みはまちょう
紀宝町 きほうちょう

人物
静岡市(現葵区)生まれで、静岡市名誉市民。文化功労者。重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。20世紀日本の代表的な工芸家として内外から高く評価されており、民芸運動の主要な参加者でもあった。
オリジナリティあふれる作品群を生み出したほか、本の装丁など商業デザインも手がけ、また、その選美眼で世界各地の民芸品を蒐集した。東北地方、ことに仙台の街や鳴子温泉を愛したことでも知られる。
息子の芹沢長介は考古学者として活躍したが、晩年は東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館の館長を務めた。
経歴
1895年 静岡市本通一丁目の呉服卸商西野屋(現在の日銀静岡支店附近)、大石角次郎の7人兄弟の次男として生まれる
旧制静岡中学卒業
1916年 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科 を卒業
1917年 静岡市安西一丁目芹沢たよと婚姻(以後15年あまり同所に居住)、大石姓から芹沢姓となる。
静岡県立工業試験場にて図案指導を担当するかたわら、商業デザインにも従事
1927年 民芸運動の柳宗悦の論文「工芸の道」に影響を受け終生交流。
1928年 御大礼記念国産振興博覧会で沖縄の紅型(びんがた)に出会う
1931年 同年創刊の民芸運動の同人雑誌「工藝」の装丁(型染布表紙)を担当、民芸運動に参加、大半の柳の著書も装丁した。
1935年 東京蒲田に工房を構える
1939年 沖縄で紅型の技法を学ぶ
多摩造形芸術専門学校(現在の多摩美術大学)教授
1949年 女子美術大学教授
1955年 有限会社芹沢染紙研究所 開設
1956年 4月に重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定
1957年 鎌倉市津村の農家の離れを仕事場(小庵)とする
1976年 フランス政府から招聘されパリで「芹沢銈介展」開催(国立グラン・パレ美術館)
1980年-83年 『芹沢銈介全集』(全31巻、中央公論社)が刊行。
1984年 逝去。享年88。
賞典
1966年 紫綬褒章を受章
1970年 勲四等瑞宝章を受章
1967年 静岡市名誉市民となる。
1983年 フランス政府より芸術文化功労賞を受賞
1984年 逝去、正四位勲二等瑞宝章を贈られる

作品
芹沢は確かなデッサン力と紅型(びんがた)、江戸小紋や伊勢和紙などの各地の伝統工芸の技法をもとに、模様、植物、動物、人物、風景をモチーフとした、オリジナリティあふれる、和風でシックな作品を次々と生み出していった。
「型絵染(かたえぞめ)」は芹沢が創始した技法で、人間国宝に認定された折にこの呼び名が案出された。一般的な「型染」が絵師・彫師・染師といった職人の分業によって制作される一方、「型絵染」は作品の全工程を芹沢ひとりで手がけていた。こうした手法が、人間国宝認定の理由にもなったとされている。
芹沢の仕事は、着物、帯、さか夜具、暖簾(のれん)、屏風(びょうぶ)、壁掛け、本の装丁、カレンダー、ガラス絵、書、建築内外の装飾設計(大原美術館工芸館)など、素材・用途ともに多岐にわたっている。
「紺地杓子菜文麻地壁掛」(蝋染め:国画会に初出品)
「いそほ物語絵巻」(新興民芸展に出品)
『絵本どんきほうて』
『法然上人絵伝』
『東北窯めぐり』『益子日帰り』
「四季曼荼羅二曲屏風」(ケネディ記念館のため)
「荘厳飾り布」(知恩院大殿内陣)

入江 長八(いりえ ちょうはち、文化12年8月5日(1815年9月7日) – 明治22年(1889年)10月8日)は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工(左官職人)、工芸家。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とした。

経歴
文化12年(1815年)伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。
天保4年(1833年)20歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名を馳せた。弘化2年(1845年)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり、鏝絵を作成している。天井に描いた『八方にらみの竜』は傑作とされる。(2007年現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている。)
入江は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10年(1877年)に第1回内国勧業博覧会に出品。 晩年、明治13年(1880年)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22年(1889年)10月8日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて74歳で亡くなる。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられている。
山光荘をモデルにした、漫画家つげ義春の作品「長八の宿」によって、知名度があがった。
現存する作品
鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多い。入江の生活拠点が江戸であったため作品は東京地区に集中しており、大半が震災や戦災で焼失してしまっている。現存する約45点は、東京都港区高輪の泉岳寺、品川区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺などに残っている。
故郷の静岡県松崎町には、前述の浄感寺の「長八記念館」に約20点と、1986年に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されている。また重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市の龍沢寺など故郷周辺に点在している。

川村 驥山(かわむら きざん、1882年5月20日 – 1969年4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。
父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。

略歴
1882年、5月20日に静岡県袋井市で生まれる。
1894年、孝経全文暗書に明治天皇の天覧を受ける。
1909年-1913年、内閣賞勲局に勤務。
1913年、書道研究のため渡支。
1931年、再度渡支。
1932年、東方書道会を結成。
1941年-1944年、北京に滞在。
1948年、日展審査員となる。
1951年、日本芸術院賞受賞。
1952年、日展運営会参事就任。
1958年、日展評議員就任。
1962年、芸術院会員、日展理事に就任。驥山館開館。
1965年、勲三等瑞宝章受章。
1969年、4月6日死去。従四位を追贈される。
逸話
昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。

杭迫柏樹(くいせこ はくじゅ、本名:杭迫晴司(くいせこ せいじ)、1934年6月28日 – )は京都在住の日本の書道家。王羲之書法を基礎として、宋代(尺牘)・空海(灌頂記)の書を研鑽し、独自の世界を展開している。

書風
師の村上三島が温潤流麗な草書連綿体を得意としたのに対し、柏樹は洒落っ気のない朴訥な線への憧憬を持ち続けている。大学在学中と卒業後しばらくは、宋代の蘇軾や草書草創期の『平復帖』などに傾倒し、文字の新鮮な生命力、簡素な美しさに魅せられた。その時期の体験が現在に至る柏樹の書風に大きな影響を与えている。柏樹の短く鋭い線は、打楽器的な響きと間を生み出し、墨痕と余白の対比に気韻がある。
略歴
昭和9年(1934年)静岡県周智郡森町に生まれる。
森小、森中を経て
昭和28年(1953年)森高校(現:遠江総合高校)卒業、京都学芸大学(現:京都教育大学)美術科(書道専攻)入学。
昭和32年(1957年)大学卒業。以後京都に定住する。
昭和37年(1962年)村上三島に師事し、同年日展初入選。
昭和50年(1975年)日本書芸院大賞受賞。
昭和55年(1980年)京展賞受賞。
昭和57年(1983年)日展特選受賞。
昭和63年(1988年)日展特選受賞。
平成14年(2002年)「酒国長春有り(しゅこくちょうしゅんあり)」で日展会員賞受賞。
平成17年(2005年)「一葉(いちよう)」で日展内閣総理大臣賞受賞。
平成20年(2008年)「送茶(ちゃをおくる)」で日本芸術院賞を受賞。
平成21年(2009年)母校の遠江総合高校にて記念書を披露する。
平成22年(2010年)京都府文化賞・功労賞受賞。
平成24年(2012年)京都市文化功労者顕彰。
平成25年(2013年)京都新聞大賞(文化学術部門)受賞。
主な役職
書道関係
(公社)日展会員(元常務理事)
(公社)日本書芸院名誉顧問
(公社)全日本書道連盟顧問
(公財)全国書美術振興会顧問
読売書法会最高幹部会議副議長・顧問
興朋会会長代行
京都書作家協会顧問
現創会副会長
北斗会主宰
南京林業大学芸術設計学院兼職教授
巣湖学院客座教授
その他
京都市美術館評議員
(財)京都府文化財団評議員
国際京都学協会常務理事
日中文化交流協会常任委員
中日竹木文化科学研究所・博物館最高顧問
和安国際児童学校名誉校長

高塚 竹堂(たかつか ちくどう、本名・高塚 錠二(たかつか じょうじ)、1889年5月23日 – 1968年3月30日)は、日本の書家。かな書道の大家。

略歴
1889年(明治22年) – 5月23日に静岡県不二見村(現・静岡市清水区)に生まれる。
1915年(大正4年) – 文部省教員検定試験習字科に合格する。
1916年(大正5年) – 福岡県立嘉穂中学校(現・福岡県立嘉穂高等学校)の教諭となる。
1922年(大正11年) – 平和記念東京博覧会に於いて仮名部最高賞を受ける。
1925年(大正14年) – 大東文化学院(現・大東文化大学)の講師となる。
1947年(昭和22年) – GHQより米国陸軍の日本語学校教官に招聘される。12月に帰京する。
1949年(昭和24年) – 松本芳翠らと共に書道同文会を創設する。
1953年(昭和28年) – 東京学芸大学の教授となる。
1958年(昭和33年) – 日展の評議員となる。
1959年(昭和34年) – 日展の審査員となる。
1964年(昭和39年) – 書道同文会の会長(二代)となる。
1965年(昭和40年) – 鉄舟寺境内に喜寿記念胸像を建立し、台面に自作の句を刻む。
1967年(昭和42年) – 病院に入院中、勲四等旭日章を受章する。
1968年(昭和43年) – 3月30日に従五位に叙される。同日自邸にて逝去。4月5日に青山斎場にて告別式が行われる。

牧野 宗則(まきの むねのり、1940年2月11日 - )は日本の木版画作家。浮世絵木版画の高度な技術と創作木版画の精神性を融合・昇華させ、自然の生命の輝きを華麗に表現する。静岡市葵区出身。

来歴
1940年 静岡市で生まれる。
1955年 大村政夫(彫刻家・日展会員)の指導を受ける。この頃から伝統浮世絵木版画に強い関心を持ち、東京・京都の木版画摺師を訪ねて、伝統木版画の制作現場に触れる。
1958年 静岡県立静岡高等学校卒業。卒業記念作品として『木版画集』を発行。家業の植物油脂卸売業を手伝いながら、創作版画の制作をする。彫り台・摺り台・刷毛・彫刻刀・鮫皮等の専門道具を揃えながら、たびたび東京・京都の摺師の仕事場を訪れ仕事を見学しながら技法を学ぶ。
1958年 木版画摺師小川文彦・松本節太郎・佐々木茂ら多くの職人から伝統木版画の技術をまなび、高度な技法を修得していく。
1968年 静岡県版画協会会員になる。
1970年 技法修得のため諸作品の復刻を行う。
1975年 木版画制作にすべてをかけ、プロの版画家として進むことを決意。
1977年 全国各地で個展開催。
1981年 福井県今立町(現・越前市)の越前和紙の紙漉師・岩野治夫との出会いがあり、自分の作品に適した手漉和紙づくりをはじめる。
1982年 和歌山県有田郡清水町(現・有田川町)に伝わる紀州和紙「保田紙」の復活に際して「保田紙」を版画用紙として改良するために協力。
1983年 静岡県美術家連盟会員になる。
1983年 ’83フィナール国際美術展に『月下岑嶺』を出品。
1983年 ’83日仏現代美術展(パリ展・グランパレ・ナショナル・ギャラリー)に『月影』を出品。
1985年 上海大学美術学院招請訪問。任意(同美術大学副院長・版画家)の案内で、上海水印木刻(中国木版画)蘇州木版画の制作現場を訪問し、日本の伝統木版画と中国木版画との関係、及び制作技法の特徴について学ぶ。
1986年 静岡県版画協会を退会する。
1986年 牧野宗則後援会発会。
1986年 ジョスリン美術館作品展(オマハ)
1986年 静岡県立美術館にて技法講座「伝統木版画の技法」を開催。
1986年 訪米(ニューヨーク・シカゴ・オマハ・ボストン・シアトル)ボストン美術館訪問。
1987年 『牧野宗則木版画集』発行(阿部出版)。
1987年 日本縦断展を開催。
1989年 日本生命創業100周年記念カレンダー「牧野宗則 日本の四季」発行
1989年 郵政省より「静岡市制100周年記念・静岡駿府博覧会記念━絵入りはがき(5枚組)」が発行される。
1989年 第一回川村賞受賞。牧野宗則の世界展(川村文化振興財団主催 日本生命協力)を開催。
1990年 裾野市にアトリエを移す。(設計・象設計集団)
1990年 ラ・ホール富士(富士市勤労者総合福祉センター)に大型陶板壁画「なでしこの花」を制作。
1991年 長崎県立美術館にて技法講座を開く。1992年にも開催。」
1992年 浮世絵太田記念美術館で現存作家で初めての個展「北斎・広重からの華麗なる展開 牧野宗則木版画展」を開催。続いて札幌・静岡・長崎・佐賀で開催。
1992年 『牧野宗則自選木版画集』発行。
1992年 伊藤忠商事(株)・(株)メイビスにより、作品『創世』の創作記念ビデオを制作。
1992年 同ビデオが第5回日本産業文化映像祭において文部大臣賞受賞。1992年教育映画・ビデオ祭において優秀作品賞受賞。
1992年 静岡新聞社創刊50周年記念・SBS静岡放送開局40周年記念として牧野宗則木版画3部作「創世」「五彩の海」「むらさきの風」を発表。
1992年 クーポール会館(静岡市)に大型陶板壁画「むらさきの風」を制作。
1993年 NHKテレビ「土曜美の朝」放映。
1993年 NHKBSテレビ生紀行「豊饒の干潟を描く」放映。
1994年 静岡県文化奨励賞受賞。
1994年 作品を再度摺り増しする気持ちはないので、資料として残したい版木以外は二度と摺れないようにするために、とりあえず約60種の作品約300枚位の版木を焼却する。
1997年 「棟方志功・牧野宗則二人展」を九州各地で開催。
1999年 浮世絵太田記念美術館で「北斎・広重からの華麗なる展開」第2回牧野宗則木版画展。
1999年 掛川二の丸美術館(静岡県掛川市)にて「海の光・山の光━生きる歓び 牧野宗則木版画展」開催
1999年 神戸阪急ミュージアムにて「牧野宗則木版画展」開催。(神戸新聞社共催)
1999年 Bunkamura Gallery(東京渋谷)で個展開催。(’02 ’04 ’06 ’08)
2000年 南アルプス市立春仙美術館にて「自然讃歌━牧野宗則展」開催。
2000年 静岡新聞社創刊60周年・SBS静岡放送開局50周年記念の作品を風鈴丸と共に制作、発表。松坂屋静岡店で「牧野宗則・風鈴丸親子展」開催。
2001年 静岡市文化功労者。
2001年 平野美術館(浜松市)にて「牧野宗則・風鈴丸木版画二人展」開催。
2002年 富士市総合センターフィランセ富士に大型陶板壁画「光明」を制作。
2003年 文化庁長官表彰受賞。
2003年 郵政公社より「新静岡市発足記念・絵入りはがき(5枚組)」発行。
2003年 「国際園芸博覧会━浜名湖花博」の公式記念メダルの原画「sweet angel」を制作。
2004年 版木の美しい部分のみを切り取り、版木そのもので作品制作することを決断。ブロックス・アートと名付け作品を発表する。
2007年 長崎大丸にて「伝統版画300年の奇蹟━牧野宗則木版画展」開催。(長崎新聞社主催)
2007年 太宰府天満宮宝物殿「平成の餘香帖」完成記念展の「春彩」を出陳・収蔵。
2007年 裾野市民文化センターにて「牧野宗則・風鈴丸木版画親子展」開催。(裾野振興公社・裾野市民文化センター主催)
2008年 富士市文化センター・ロゼシアターにて「牧野宗則・風鈴丸親子展」開催。(富士市文化振興財団主催)
2009年 浮世絵大田記念美術館にて「第3回 北斎・広重からの華麗なる展開━牧野宗則展」開催。
2009年 掛川二の丸美術館にて「伝統版画300年の奇蹟 牧野宗則展」開催。
2009年 「牧野宗則全木版画集」発行。(阿部出版・静岡新聞社)
2009年 静岡空港ターミナルビルに陶板壁画「いのちの花」制作。
2010年 ニューヨークのニッポンクラブで「牧野宗則展」開催。
その他、1980年頃より毎年数回日本各地の主要百貨店・ギャラリー等で個展開催。

秋野 不矩(あきの ふく、1908年7月25日 – 2001年10月11日)は、日本画家。静岡県磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)生まれ。
日本画の要素によく含まれる花鳥風月を嫌い、50代からインドに魅せられ、インドの材料を使った新しい境地を開拓する。
絵本画家の秋野亥左牟は次男。

略歴
1908年(明治41年) – 静岡県磐田郡二俣町に生まれる
1926年(大正15年) – 静岡県女子師範学校(後の静岡大学教育学部)卒業
1927年(昭和2年) – 千葉県の石井林響に師事
1929年(昭和4年) – 京都の西山翠嶂塾「青甲社」に入門
1948年(昭和23年) – 同志と共に、創造美術(現:創画会)を結成
1949年(昭和24年) – 京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)助教授となる
1962年(昭和37年) – インドの大学に客員教授として招かれる
1966年(昭和41年) – 京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)教授となる
1974年(昭和49年) – 京都市立芸術大学退職、名誉教授となる
1991年(平成3年) – 文化功労者顕彰
1999年(平成11年) – 文化勲章受章
2001年(平成13年) – 京都の自宅で心不全により永眠

上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 – )は、日本の画家である。海洋船舶画家として、模型メーカー・タミヤの「ウォーターラインシリーズ」をはじめとするボックスアートで知られる。

人物
生い立ち
静岡県藤枝市鬼岩寺に生まれ、静岡市千代田で育つ。上田は子供のころから「子供の科学」「航空少年」といった少年雑誌を見ながら、船舶や飛行機の絵を盛んに模写していた。
従軍体験
1941年(昭和16年)、徴兵の為帝国陸軍の高射砲連隊(浜松市)に入営。後に船舶部隊(暁部隊)の船舶砲兵に転科、陸軍徴用船である軍隊輸送船に乗船し備砲たる高射砲の操作要員(船砲隊員)となり(船舶砲兵第1連隊)、太平洋戦争における数々の輸送任務に従軍。
初の実戦経験は1942年(昭和17年)3月1日に行われたジャワ島上陸作戦(蘭印作戦)であり、輸送船「神州丸」(同名の陸軍特種船/強襲揚陸艦「神州丸」とは異なる)に座乗していた。この他、「ぶゑのすあいれす丸」、「高島丸」、機動艇(SS艇。中型揚陸艦)等26隻の輸送船に乗船し計6回撃沈されている。上田は軍務の傍ら、乗船やすれ違う艦船などを軍事郵便ハガキにスケッチし、またジャワ島、アリューシャン列島、ラングーン湾(ビルマ)など、赴く土地の空や海の色を頭に叩き込んだ。
1944年(昭和19年)の大戦末期には優秀輸送船「金華丸」(レーダー搭載)に乗船。「金華丸」は多号作戦(フィリピン防衛戦)において兵員・物資の輸送任務に従事、護衛の駆逐艦や上空援護の四式戦「疾風」の活躍もあり、オルモック湾において11月1日より行っていた揚陸を成功させた。しかしながら、11月14日にはマニラ湾にて敵機250機からの3日間に渡る空襲を受けて「金華丸」は沈没、船砲隊員の3分の2は戦死し、船首の砲座にいた上田は海に飛び込み、3、4時間漂流の後に一命を取り留めたものの、利き腕の右手と右足を負傷して障害を残した。
終戦後
上田は従軍前、父親の営む塗装業を手伝っていたが、戦後は右手足の障害により高所作業などはかなわず、代わりに座ってでもできる看板の文字を書く仕事を始めた。仕事の終わった夜には、左手で書道を習うなどしていたが、絵を描きたいとの欲求は抑えられず、趣味として艦船などの絵を描き続けた。
船舶画家
それらの絵が次第に地元の評判となっていた1959年(昭和34年)、静岡で同じ町内に住んでいた田宮模型(現在のタミヤ)の田宮俊作から箱絵の製作を依頼された上田は即座に快諾した。巡洋艦「鳥海」「愛宕」を描いたのを手始めに3-4日で一枚を仕上げる仕事ぶりで、後の艦船プラモデルシリーズ「ウォーターライン」の箱絵の大半、2,000枚以上が上田の作となった。
上田は船舶画を描く際、何よりも正確さにこだわり、資料を徹底的に調べ、写真がないものについては図面から絵を書き起こしている。国会図書館に残る当時の軍艦の設計図から構造を知るほか、船舶装備の機能の理解、場所による海や空の色、船の速度による煙のたなびき方の違いなど、従軍による実体験による知見があるからこそ再現できるものという。
1973年(昭和48年)に初の個展を開催、以後帆船、軍艦、車、機関車、飛行機等の作品が、プラモデルのボックスアート以外に絵本やカレンダー等でも使われるようになった。2009年現在までに2万点以上の作品を手がけ、あわせて後進の指導に力を入れている。2011年(平成23年)2月には、画集『上田毅八郎の箱絵アート集-戦艦大和から零戦まで』(草思社)が出版された。

匂坂 祐子(さぎさか ゆうこ、1961年8月29日 – )は、日本の油彩・テンペラ画家。静岡県富士市出身。油彩テンペラ混合技法と黄金背景テンペラ技法を用いた板絵の古典技法で作品を制作。

経歴
静岡県富士市生まれ。東海大学短期大学部生活芸術コース卒業。1972年より日本画家村井竹山氏にデッサン・水彩・油彩・日本画を学ぶ。1991年より全卵テンペラによる油彩テンペラ混合技法の板絵・銅版画、卵黄テンペラによる黄金背景テンペラ技法・羊皮紙技法を用いて作品を制作している。1997年 イギリス・フランス研修旅行。1998年イギリス・ベルギー・ドイツ研修旅行。ヘザーレイズスクールオブファインアート(ロンドン)肖像画コース受講。日本とヨーロッパ各地で発表を続ける。2008年ローマ法王「復活Resurrection]献上東京都在住。

主な作品
Blessed WeddingI(ロミオとジュリエット) 2010
Eternal WeddingIII 天国のキス(眠りの森の美女) 2009
Eternal WeddingII 永遠の愛の誓い(白鳥の湖) 2009
Eternal WeddingI 永遠の愛を込めて(ジゼル) 2009
Arc-en-ciel de l‘amour au bonheur 幸福への愛の虹(眠りの森の美女) 2008
The Victorious re surrection 勝利の復活(海賊) 2008
Resurrection 復活(聖書) 2007
Angel 天使 1997
HAPPY CAT ハッピーキャット 1997
Fortune favors the brave 運命の女神(ギリシャ神話) 1996

杉浦 俊香(すぎうら しゅんこう、1844年6月22日(天保15年5月7日) – 1931年(昭和6年)6月8日)は、静岡県安倍郡静岡東草深町(現在の静岡県静岡市葵区)出身、戦前の日本の美術家、日本画家、哲学者。壮年期は日光及び高野山に籠り技を研磨し、支那に遊び台湾に渡り技を磨いた。60歳にして摂津国剣尾山(けんぴさん、現在の大阪府豊能郡能勢町)の人跡絶し山頂に籠居し3年間の修養を積み、独自の日本画を創出し雅号を俊香と称す。生涯を通じての作品は一般の画家に較べ遥かに少なく、溌墨画及び雪影は独自の画風である。近代日本画壇はもとより、前後五回、欧米に渡り日本画の紹介行脚を行い海外にも日本画を紹介した。1913年(大正2年)、仏蘭西政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章、外国人に贈られる最高章を授章、同時にルーヴル美術館より遺作《遠浦帰帆》の展示を約束された。

生涯
1844年(天保15年)6月22日 – 駿河国府中の徳川家臣・今井家の第十六代今井半右衛門松宇の三男・今井高融として生まれる。
1850年(嘉永3年) – 幕臣の家に生れ、5歳の頃、筆と紙を与えれば泣き止む変わりものだった。6歳の時、父の書斎に入って遊んでいた、また悪戯かと覗くと筆を取って絵を描いていた。出来上がって見れば運筆雄渾大人の舌を巻かした。
1857年(安政4年) – 14歳の頃、時の画学者の隠士怡顔斎(松岡恕庵)から運筆の奥義を授かったのが画の道に入る始まりだった。松岡恕庵から当代の工作に学ぶことなかれ、古人の意を師とせよと戒められた。
1859年(安政6年) – 15歳の時、天台の仙僧幽深に就いて、専ら道学佛書を修め、仏学の深源と修練の正途とを伝えられ、後事を託された。
1874年(明治7年) – 諸制度改革の潮流は宗教にまで及ぼし神佛界の前途頗る怪しくなったので、俊香は宗教原則論を唱え出し各宗管長の総代となって、時の大教院に建白を差出し運動家として現れたが、その素論は行われない事から又も読書の人となって明窓浄几に古人を友とした。
1892年(明治25年) – 清国視察に向かい、その描いた絵画は清国識者の認める所となり、当時、清国には既に斯かる本義を具する画を創作する人失われたりと云うに聴いた。
1898年(明治31年) – 日本美術院の創立に際し、岡倉天心、橋本雅邦等と意見を異にし、独自の道を進み真の日本画の真髄を世界に紹介すべく、たびたび諸外国を歴訪した。
1902年(明治35年)
5月15日 – 『精神有無論』を発刊。中江兆民が生前遺著にして出版界を驚倒した『一年有半』に次ぐ『続一年有半』を評して、あわせて『一年有半と蓄式の唯物論』『無神無霊魂説の是非如何』『宇宙大観』等、中江兆民の著に関して出した数著の所説を論破したるもの当来は知らず今は『一年有半』に関したる著書の段として見るべき書なり。
6月12日 – 静岡県静岡市東草深町三丁目、戸主杉浦清養父分家し、東京市神田区三崎町三丁目に住居を移す。同年6月12日、東京市日本橋区北新堀町、滑川光亨次女よ祢と結婚する。同年10月20日長女いつ誕生する。
1903年(明治36年) – 大阪府での第五回内国勧業博覧会に《二十四孝》二点を出展(杉浦高融)した。
1904年(明治37年) – 長岡護美、子爵高島鞆之助、男爵九鬼隆一、男爵細川潤次郎、子爵福岡孝弟、高橋新吉、男爵辻新次、男爵加藤弘之等から美術学校の講師に推薦される。
1905年(明治38年)11月15日 – 二女須美誕生する。

凱旋記念五二共進会に於いて授与された深謝状
1906年(明治39年)
12月4日 – 凱旋記念五二共進会美術部第一回監査会に於いて、橋本雅邦、川端玉章等の老大家と共に優待室に《緑陰静修》《湖畔晩帰》の二大作を陳列され、特選の上審査員に推薦された。凱旋記念五二共進会総裁正二位勲一等伯爵松方正義より深謝状を授かる。俊香は未だかって作画を展覧会に出したことは無く、世間に名前さえ知られていなかった。仏教、仙術を始め一切の東洋古学に精通し、画法に熟達せるも深く自ら韜晦(とうかい)して世と隔てていた。偶然の機会より長岡護美、男爵細川潤次郎、男爵九鬼隆一、加藤弘之博士等の知る所となり、凱旋記念五二共進会の熱心な勧誘に応じ数点を同会に出品した。其の画法は極めて精確にしてあたかも相阿弥、雪村、若しくは光信の風ありと云う。
1907年(明治40年)
1月6日 – 長男晋誕生する。
春 – 京都美術展覧会の審査委員を務める。
山水画三点を栗野慎一郎大使に委託し仏蘭西巴里の中央サロンに出品、展示を許可された。同会への東洋画の出品許可は初めてだった。

仏蘭西政府から贈られたオフィシエ・ド・アカデミー賞の賞状
1908年(明治41年)〜1909年(明治42年) – 本邦絵画沿革を十四点に抄写して携帯し作品を携え、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.、フランスに渡り、日本画の紹介に努めた。フランスにおいてはフランスの画家、日佛協会、美術館長、博物館長等の展覧に供した仏蘭西政府からオフィシエ・ド・アカデミーを贈与された。ルーブル美術館東洋部長カストン・ミジョンは「吾人が氏を俟つに森厳崇高なる尊敬を以ってすることは、吾人の眼光に映ずる氏は、己に薄明に蔽はれたる崇高なる文明の、固く幻宴に封寒されたる別世界の最後の代表者である。」と評された。ルーヴル美術館に作品の展示を約束された。
1910年(明治43年)
3月22日 – 二男かく誕生する。
不臥断食の修業 – 摂州の倹尾山頂の人跡の絶えた所に庵を造って立て篭もった。この法の幽玄なる所を味わえば、古人の佛画の運筆は如何になり居るかも知りたくなり高野山の宝蔵から曼荼羅を借り受けて、彼是3ヶ年と云うものは不臥不眠の修業を積み山を下り又もや塵の世に踏み出した。

仏蘭西政府より贈与されたオフィシエ・ド・アカデミー記章の大日本帝國外國記章佩用免許証
1913年(大正2年)
10月22日 – 賞勲局総裁従二位勲三等伯爵正親町実正より大日本帝國外國記章佩用免許證(第3494号)を受ける。10月30日の官報にてフランス共和政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章(現芸術文化勲章)を贈られ、佩用を允可された事を発表した。
12月4日 – フランスからオフィシエ・ド・アカデミーを贈られた祝賀会に兼ねて画品鑑賞会が発起人今泉雄作、前田健次郎、廬野楠山、古筆了信等に依って催された。賛助員には、公爵蜂須賀茂韶、男爵細川潤次郎、子爵金子堅太郎、男爵加藤弘之、子爵高島鞆之助、男爵九鬼隆一、松室致、子爵青木周蔵、子爵清浦奎吾、伯爵土方久元の人々に招待状が送られた。
1915年(大正4年)6月2日~5日 – 銀座美術館にて絵画復興参照作品展覧会を開く。
1916年(大正5年)
10月21日~23日 – 華族会館にて催主・伯爵柳沢保恵による杉浦俊香翁作品観覧会を開く。
11月20日 – 『絵画と国家の盛衰[3]』を発刊する。絵画と国家の盛衰には、松方海東、土方泰山、細川十洲の題字があり、絵画源流参照として二十一葉の写真が載せてある。
1919年(大正8年)
時の有識者、伊東巳代治、石川成秀、犬養毅、早川千吉郎、花井卓蔵、細川潤次郎、徳富猪一郎、床次竹二郎、大木遠吉、金子堅太郎、高橋是清、高木兼寛、棚橋一郎、九鬼隆一、柳田國男、柳沢保恵、松室致、益田孝、福原鐐二郎、藤澤南岳、古賀廉造、佐分利一嗣、清浦奎吾、島田三郎、柴田家門、平山成信、鈴木宗言らにより正画復興会が起こされた。これは、杉浦俊香を支援し、日本美術思想の復興を図り、正画の藍奥を明らかにしようとするものであった。
欧米を作品を携えて巡遊し展覧する。
1920年(大正9年)
5月15・16日 – 丸の内生命保険協会にて第一回個人展覧会を催す。
10月23・24日 – 丸の内生命保険協会にて展覧会を開く。
1921年(大正10年)1月~1922年(大正11年) – 作品を携えアメリカよりスイス・チューリッヒ、ドイツ・ドレスデン、イギリス・ロンドン、フランス・パリを歴遊し東洋絵画の古精神を鼓吹した。アメリカに於いて二十世紀倶楽部やボストン倶楽部で会員に展覧した。スター新聞の美術欄は「秀でた日本美術家杉浦俊香氏の古典派の様式に依って描いた日本画の著しい蒐集が国民美術陳列館の監督の下に、国民博物館に於いて展覧されている。蒐集は掛物、懸額等40点である。此れ等は東洋美術の最も善い伝統と一致し、支那及び日本の巨匠の作品と比較すべきものである」。
1922年(大正11年)
10月26日 – 『画界の維新』を発刊する。
エコール・ド・パリが杉浦俊香の日本画を評論、「此の度、アカデミー諸氏と共に日本画家杉浦俊香翁の作品を一見するに至りて、その趣きの近来の日本画に於いて未だ観取せざる点を発見したり。翁の作品の特徴は画題の選択高尚至純にして気品を具へ細より密に入り眞に逼りて精神躍如たり、之れ翁が徒らに彩筆の画家にあらずして眞に美術の眞締を解するの士と謂うべし。翁は当年80歳の高齢者にして日本人に見る稀れなる巨大なる体駆を有し身心共に益々強健なり、今日迄欧洲を巡遊する2回更に一両年後に渡航するとのことなれば吾等は翁の健康を祈り其の来遊を待つのである。」
1923年(大正12年)
2月26日 – 内務大臣官舎に於いて、美術問題に就き杉浦俊香の美術問題に就いての講話が開かれた。後援したのは法律或いは教育の方面に特別の造詣と経験を有する、枢密院副議長男爵平沼騏一郎と貴族院議員嘉納治五郎だった。
5月 – 男爵平沼騏一郎、嘉納治五郎、鵜沢総明等により、神田錦町三丁目の学士会館において杉浦俊香の講演会が行われた。
1924年(大正13年)6月下旬 – 上海に渡航した。7月1日に芸術学校長、中華美術学校長等に会見し東洋絵画の問題に就いて談話を交換した。美術学校には日本語の話せる者が居て好都合であったとのことである。校長は俊香の意見に同意した。俊香はそれから7月18日の廬山の仏教大会に行き絵画幾点かを携帯して展覧に供した。日本仏教会の代表者水野梅暁にも会見することが出来、水野の勧告もあって絵画を持って廬山に行くことができた。
1925年(大正14年)3月30日 – 住まいを東京市神田区三崎町三丁目より東京市麻布区広尾町に移す。
1926年(大正15年)
1月 – 大東文化協会の有志が来遊中のドイツ・シュトゥットガルト博物館長フイツシエルを小石川の偕楽園に招いて一夕の美術談を交換した。参加者は井上哲次郎を始めとして木下成太郎、大村西崖、辜鴻銘、北昤吉、原田尾山等であった。俊香は館長の参考のために画三四点を携えて参会した。
5月31日~11月30日 – アメリカ独立150年記念フィラデルフィア万国博覧会に出展、絵画部門でゴールドメダルを授与された。
1927年(昭和2年)
2月2日~6日 – 東京、三越呉服店に於いて「杉浦俊香氏新作絵画展覧会」を開催。
5月20日~22日 – 東京丸之内、日本工業倶楽部に於いて「杉浦俊香翁東西洋に微証せし作画被目録」を開催。
1928年(昭和3年)11月10日 – 昭和天皇即位に当たり、水墨山水《晴雪浩観》、金碧山水《夏渓静修》の二幅を献上、宮内大臣一木喜徳郎より嘉納状を受ける。
1931年(昭和6年)6月8日 – 肺炎のため東京市麻布区広尾町の自宅で死去。86歳没。フランス・ルーヴル美術館へ約束の一幅を送る。
墓所は東京都港区南青山の東京都青山霊園にある。

ツバキアンナ(1970年2月27日 – )は、日本の漫画家、浮世絵師である。東京都を拠点に活動している。

経歴
雑誌『別冊マーガレット』で少女漫画家としてデビューしたのち、浮世絵師に転身。劇団☆新感線のポスターやオニツカタイガーの広告などを手がけた。2009年、ナンバーガールのライヴDVD『Live at Factory』のジャケットのイラストを手がける。2014年、ホノルル美術館開催の『Modern Love: 20th-Century Japanese Erotic Art』展に作品が出品される。同年、樽酒専門店しずく屋の「デザイナーズ樽酒」第1弾のイラストを描き下ろした。
著書
歌は世につれキミにつれ(1996年、集英社)
サイケな夏を横浜で(1997年、集英社)
ウワサになりたい!(1998年、集英社)
とかく浮世はラブ&ロック(1998年、集英社)
ツバキアンナ絵巻 江戸当世若衆百景(2001年、アスペクト)
Tsubaki Anna FACTORY(2007年、扶桑社)
ツバキアンナ絵巻 江戸当世若衆百景 R(2008年、アスペクト)

中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 – 1969年11月20日)は、日本画家。静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。

経歴
1890年(明治23年)3月10日、静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー、翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。しかし同年御楯は死去、その後は師の高弟の下で玄関番として修行するも長くは続かず、再び姉の嫁ぎ先に身を寄せる。
1908年(明治41年)に東京美術学校日本画科・選科に入学、寺崎広業、結城素明に学び、横山大観の知遇を得る。この一方で紅児会に入会したが、このことが、それまでもっぱら土佐派の画風を踏襲した武者絵を描いていた岳陵を西欧絵画に触れされることとなり、イギリスの画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの影響が濃厚な「水神」が生み出された。 また他方巽画会にも出品、1911年(明治44年)の同会展では「空海」が一等褒状を得た。
1912年(大正元年)[元号要検証]、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科を首席卒業。同年の第6回文部省美術展覧会(文展)で「乳糜供養」が官展初入選を果たすと、1914年(大正3年)の再興日本美術院第1回展に「緑蔭の饗莚」、翌1915年(大正4年)の同・第2回展へは「薄暮」を出品、同年に同院の同人となる。院展へはその後も、平家物語を題材とした「輪廻物語」、源氏物語に取材した「浮舟」、同名の物語に拠った「竹取物語」、白居易の詩に取材した「貴妃賜浴」など、古典的題材に取材した作品を出品した。この一方では1914年に今村紫紅らと赤耀会を設立、翌年の第2回展から同会の会展にも出品した。1926年(昭和元年)[元号要検証]日本美術学校教授、1930年(昭和5年)に日本画家福田平八郎、山口蓬春、洋画家中川紀元、牧野虎雄らと六潮会を設立するが、これ以降の院展への出品作は1931年(昭和6年)の第18回展への「婉膩水韻」、1933年(昭和8年)の第20回展へ「都会女性職譜」、1934年(昭和9年)の第21回展への「砂丘」、1939年(昭和14年)の第26回展への「流紋」、1942年(昭和17年)の第29回展への「緑影」など、都会的風俗に因んだものやモダニズム的傾向の濃厚なものが目立っている。特に「婉膩水韻」はレースの下着を脱ぎ捨てた全裸の女性が水中を泳ぐというその画題が物議をかもし、連作である「都会女性職譜」に当初含まれていた「女給」には風紀上の問題があるとされ、岳陵自らが開会後一日で撤去する、など話題を生んだ。1937年、文展審査員。1940年、法隆寺金堂壁画模写主任。1947年、帝国芸術院会員(同年末日本芸術院)、1949年、日展運営会理事、1950年、日本美術院脱退、1958年、日展常務理事。1959年、大阪四天王寺金堂壁画を製作する。1961年、朝日文化賞、毎日芸術賞受賞。1962年、文化勲章受章、文化功労者。
日本画に油絵の表現を取り入れた作品を制作し、代表作に「輪廻物語」「気球揚る」等。
日本画家中村宗弘は孫にあたる。東京国立近代美術館蔵の中村岳陵の代表作「孫」(1951年)のモデルは中村宗弘である。

松井 冬子(まつい ふゆこ、1974年1月20日 – )は、静岡県周智郡森町出身の日本画家。

来歴
1994年、女子美術大学短期大学部造形学科油彩画専攻卒業。
就職、4年を経て、6度目の受験で東京藝術大学美術学部入学。2002年に東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。2007年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域修了。博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を東京芸術大学へ提出し博士 (美術)の学位を取得。
女性、雌に焦点を当て、幽霊画、九相図、内臓、脳、筋肉、人体、動物を題材に採った作品を発表している。絹本に岩絵具を用いて描く。
略歴
2002年、学部の卒業制作で「世界中の子と友達になれる」(横浜美術館所蔵)を発表。
2004年、銀座スルガ台画廊で、L’espoir 2004 松井冬子展。
2008年、4月20日、NHK教育テレビジョン「ETV特集」で「痛みが美に変わる時〜画家・松井冬子の世界〜」が放送される。
2008年、「松井冬子展」が静岡県の平野美術館で開催。
2010年、フランス・パリのGalerie DA-ENDにて「松井冬子展」。
2011年、第62回NHK紅白歌合戦にゲスト審査員として出演。
2011年、12月17日から横浜美術館で「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」が開かれる( – 2012年3月18日)
2015年、東京2020エンブレム委員会の委員に就任。
人物
女子美では油絵を学んでいたが、東京芸術大学では日本画を学んだ。
東京芸術大学日本画専攻の女学生としては初の博士号取得者となった。(同年女性を含む他5名が取得)
既婚。料理は一切しない。

志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれる陶器。
歴史は古く室町時代に遡り、美濃の陶工が焼き始めたのが最初とされ、一帯は古くから良質の陶土産地として知られていた。そのため、江戸初期には瀬戸の絵師が最適な陶土を探究する際、この志戸呂に目を付けたという。天正16年には徳川家康から朱印状が授けられ、特産品として奨励されるなど、着実に成長していった。
中でも志戸呂焼の名が世に轟くようになったのは、時の茶人、小堀政一(遠州)が目を付け、遠州七窯の一つに数えられるようになってからである。現在も茶壺が中心で、赤みがかった器に黄色釉と黒釉を掛け、独特の侘びた味わいがある。また、非常に堅牢で湿気を寄せ付けないのも、茶器に好まれる理由である。名器と呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある。

森山焼(もりやまやき)は、志戸呂焼の流れを汲む、静岡県周智郡森町にて焼かれる陶器。
明治42年の開窯で、瀬戸焼を再興した加藤藤四郎(民吉)の話に感化された中村秀吉が志戸呂の陶工・鈴木静邨を招き、主に日用食器、茶器、酒器、花器などを焼いた。大正4年には天皇即位の際に、花瓶と置物を献上したことにより知名度が向上、名を高めることになった。
現在は、中村陶房、静邨陶房、晴山陶房、田米陶房の4軒の窯元があり、それぞれ個性的な意匠を見せる。中でも静邨陶房(鈴木龍)で焼かれる真っ赤な釉薬を使った赤焼がよく知られる。また、晴山陶房(松井晴山)は、森山焼独特の虎布(とらふ)釉を継承している。

賤機焼(しずはたやき)は、静岡県静岡市で焼かれる陶器。江戸初期に太田太郎衛門によって開陶、徳川家康より徳川家の御用窯として繁栄した。しかし、文政の末期、安倍川の洪水によって窯場が流失、以後は衰退の一途を辿った。明治に入って、太田萬二郎の手によって再興が試みられるが、往年の勢いは戻らなかった。しかし、県が郷土の地場産業再興に乗り出し、青島庄助が再興させる。二代目五郎が常滑の技術を、三代目秋果が南蛮手という焼締めの技術を採り入れるなど尽力し、民窯として復活、大戦中の中断を挟んで現在に至っている。
なお、古い賤機焼には「鬼福」と呼ばれる意匠が残されている。これは徳川家康が三方ヶ原の戦いので武田軍を駆逐した際に「鬼は外、福は内」と叫びを上げながら戦ったという逸話に因んでいる。
賤機焼の特徴
賤機焼は原料の赤土に鉄分を多く含むために素地は赤茶色である。そしてその赤を更に引き立てるために、辰砂や釉裏紅といった技術を用いて、鮮やかな色彩を出す。また、釉薬を一切使わず、焼き締めによる窯変を意匠とした南蛮手も独自の技術であり、表面がゴツゴツしていて、肌合いはかなり荒い。

竹細工(たけざいく)は、竹を加工したり、竹ひごを編み込んで細工物を作ったりすること。または、日用品・農具・漁労具などの荒物、茶道具などの工芸品、竹とんぼや水鉄砲といった玩具の中で、竹を素材とした細工物のことを指す。

編組
竹ひごの編み込み方・編組(籠目)の種類には、基本となる六つ目編み、四つ目編み、ござ目編み、網代編み、さらには、異なる太さのひごを駆使した波網代や、麻の葉編み、松葉編み、やたら編みといった装飾的な特徴を高めたものなど、用途に応じて様々なパターンがある。
素材
素材となる竹にはマダケが最も多く利用されており、伐採したままの青竹、火であぶったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後数ヶ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が流通する。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工する事でその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である。
マダケについでモウソウチクも多く用いられる。モウソウチクは、もっぱら青竹のままで利用される。
別府竹細工や日田の竹箸などの竹工芸の盛んな大分県は、マダケの面積、生産量とも全国一のシェアを占めるとともに、竹材業者も多いため、加工された素材も入手が容易である。
伝統的工芸品
経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている竹工品には以下のものがある[1]。
江戸和竿(東京都)
駿河竹千筋細工(静岡県)
大阪金剛簾(大阪府)
高山茶筌(奈良県)
勝山竹細工(岡山県)
別府竹細工(大分県)
都城大弓(宮崎県)

静岡県
駿河漆器
駿河蒔絵
駿河塗下駄
下田脂松細工
井川メンパ
熱海楠細工
駿河指物
浜松木櫛
静岡挽物
木工製品
賤機焼
森山焼
志戸呂焼
深良窯
駿河和染
ざざんざ織
掛川手織葛布
藤枝桐タンス
焼津弓道具
遠州鬼瓦
竹細工
木製家具
木製玩具
藤枝だるま
相良凧
和紙人形
竹細工
浜北の風ぐるま
羊毛手織製品
志太”長楽寺天神

静岡県 しずおかけん
静岡市 しずおかし
葵区 あおいく
駿河区 するがく
清水区 しみずく
浜松市 はままつし
中区 なかく
東区 ひがしく
西区 にしく
南区 みなみく
北区 きたく
浜北区 はまきたく
天竜区 てんりゅうく
沼津市 ぬまづし
熱海市 あたみし
三島市 みしまし
富士宮市 ふじのみやし
伊東市 いとうし
島田市 しまだし
富士市 ふじし
磐田市 いわたし
焼津市 やいづし
掛川市 かけがわし
藤枝市 ふじえだし
御殿場市 ごてんばし
袋井市 ふくろいし
下田市 しもだし
裾野市 すそのし
湖西市 こさいし
伊豆市 いずし
御前崎市 おまえざきし
菊川市 きくがわし
伊豆の国市 いずのくにし
牧之原市 まきのはらし
賀茂郡 かもぐん
東伊豆町 ひがしいずちょう
河津町 かわづちょう
南伊豆町 みなみいずちょう
松崎町 まつざきちょう
西伊豆町 にしいずちょう
田方郡 たがたぐん
函南町 かんなみちょう
駿東郡 すんとうぐん
清水町 しみずちょう
長泉町 ながいずみちょう
小山町 おやまちょう
榛原郡 はいばらぐん
吉田町 よしだちょう
川根本町 かわねほんちょう
周智郡 しゅうちぐん
森町 もりまち

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新原美術 しんはらびじゅつ

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〒933-0932 富山県高岡市鴨島町40番地1
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営業時間 12:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 0766-73-2171

新原美術 東京店

2022年1月にopen致しました。

都内では珍しい大聖寺伊万里を中心に北陸の器を取り揃えています。

東京都台東区台東3-33-5 宝誠ビル1階

営業時間 10:00〜18:00

定休日 不定休

電話番号 03-6284-4649